繁殖雌牛増頭と 和牛肉輸出への期待

巻頭言
繁殖雌牛増頭と
和牛肉輸出への期待
学校法人 二本松学院
学院長 農用牛から肉用牛へ
昭和12年10月生まれで、生命の発生から丑年、
宮 崎 昭
付された肉用牛放牧研究班の一員として各地を歩
いた。自分自身、放牧への関心は強くなったが、全
丸々の牛と言われ続けた。ことわざに「丑年生ま
国的には放牧は過去の慣行となっていった。やが
れの庶子は総領に祟る」とある。本家の跡継ぎを
て、畜産コンサルタント団員などとしても多くの
角で突き出す相があり、僧にする習慣が江戸時代
肉用牛経営を訪ねることになった。40年前を思い
からあったという。人一倍粘り強いと褒められる
出すとそのころ生産技術・経営手法ともに実にい
かと思うと、言うことをきかぬ特牛(コトイウ
い加減で計画性がなかった。血統の良いもと牛を
シ:重荷を負う牡牛。広辞苑)と叱られた。妙な
買って、長期間肥育しても、どんな肉質になるのか
年に生まれてしまったと子供心に思ったが、長じ
皆目わからない。何頭かのうちたまに1頭が飛び
て牛の仕事についたのは因果であった。古稀を迎
きりの高値になるのが楽しみのギャンブルのよう
え振り返ると、牛の世界でもいろいろなことがあ
に経営が行われていた。「行政と反対のことをす
りながら進んでいくのだと感じる。
れば儲かる」と言い切る人もいた。一体全体、いつに
学生時代の昭和30年代中頃は耕うん機の普及で
なれば科学的合理性が経営に入るのかと憂えた。
農用牛が野上がりとなった。それが牛肉となり、京
そこで自分なりの考えを全国肉用牛協会の機関
都では週末はすき焼が家庭の定番であった。牛が農
誌「日本の肉牛」に発表しはじめた。しかし、時
耕に使われた西日本ではそれが地場消費された。
には「過激だから押さえろ」と大先輩が苦言を呈
そのころ、京大ではこれからの和牛は肉用牛に
されたと後で聞いた。しかし編集者は「若いんだ
なると研究を始めていた。若齢肥育牛を出荷する
からどんどん思うことを書きなさい」と言われた。
と、こんな淡い肉色では駄目だと難癖を付けられ
たが、やがてそれが主流になった。もっとも1頭
国際化時代の到来
当たりの肉量を多くすることと肉質の向上のため
昭和50年代に入ると牛肉輸入自由化を巡る百家
肥育期間が次第に伸びていくが、基本となる飼養
争鳴が起きた。それに参入して農政調査委員会の
管理技術は乳用種雄子牛の肥育も含めて、この過
「食の科学」(昭和52年10月)に提言を発表した。
程で開発された。
するとディレクターが興味を持ってくださり、
和牛が肉用牛と認められるにつれて、放牧で生
NHKで討論することになった。まもなく「文藝
産された子牛は肥りにくいと不評になった。子牛
春秋」(53年9月号)が意見開陳に15ページにわ
市場では月齢の割に体重の大きいものが喜ばれ
たり誌面を下さった。そこで、「繁殖雌牛100万頭
た。その結果、放牧は衰退し、国土資源の活用に
の増頭とその延長に牛肉輸出が可能」と論じた。
牛が生かされる程度が顕著に低下した。
それを当時法政大学教授(政治学)の松下圭一
合理性を欠く生産現場
昭和40年代に入ると、文部省の科学研究費を交
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氏が朝日新聞の論壇時評で「繁殖牛を山に戻せ」
のタイトルで、「国土規模のリサイクル・システ
ムで牧畜の基盤をつくろうという大胆な提案で、
出来事がふたつあった。そのひとつは農林水産省
現在待たれている発想の1つの型を示すもの」と
が平成27年度までに繁殖雌牛の11万頭増頭を決め
論評された。
たことであった。その手法の中には放牧の見直し
思いがけず、大学時代の果樹園芸学の先生が、
が含まれている。かつて若気の至りで唱えた頭数
かつて恩師から、「・・・書物を著すのなら、40
の1割とはいえ、増頭が国の方針に乗ったのはと
代に限る。50代になるともはや老婆心が強くなり、
ても心強い。筆者は今、酪農経営の一部に肉用牛
あれもこれもと内容を盛るので百科事典式になっ
が入るかたちが増頭に大いに役立つと見て調査を
て鋭さと斬新さに欠ける」と忠告された、と励ま
続けている。
して下さった。しかし肝腎の畜産学の世界では当
もうひとつは和牛肉輸出の動きである。平成元
時社会的発言は老大家のみに許されるのが常識
年に牛肉輸出に向けた海外市場調査委員会がつく
で、若造が「文藝春秋」で提言したとあって「や
られた。日本食肉消費総合センターの太田康二理
り過ぎ」と四面楚歌になった。男に嫉妬心が強い
事長らは、牛肉輸出を口にしていた筆者をそこに
のに気づいたのはそのころだ。しばらく孤軍奮闘
加えてくださった。それ以降20年近く細々と輸出
が続き、以来性格が悪くなった。
への取り組みがあったが、昨年、牛肉輸出に向け
て和牛統一マークとキャッチコピーが公募によっ
畜産関係者に育てられ
て決定されることになった。その検討委員会でと
畜産振興事業団の森整治理事長らの助け舟に乗
ても優れたマークと「にっぽんの味 おいしい和
ったのはそのころである。増頭を口にする若者に
牛=A taste of Japan−Let’s eat delicious
実力を付けさせようと、昭和56年の夏に1カ月に
Wagyu!」のキャッチコピーが決定した。
わたり米国牛肉生産調査の機会が与えられたのは
幸いであった。その調査で、米国で繁殖牛経営は
またまた大風呂敷
「未利用資源を有効活用する産業」と呼ばれ、ほ
いよいよ和牛肉輸出に弾みがつくことであろ
かに使い途のない国土資源を牛で利用させるのが
う。折しも中国産食品の農薬・殺虫剤成分汚染が
常識と知り、日本でも規模がどうであれ、増頭が
深刻な社会的問題となり、この不安感は当分拭い
可能との意を強くした。しかし国内では相変わら
きれまい。そうならこの夏の北京五輪の日本選手
ず耳を貸してくださる向きは少なかった。
村に多量の和牛肉を持ち込んで、日本選手団を安
その後は全国肉用牛協会の経済肥育事業を手伝
心させるとともに、他国の役員・選手らを招き、
ったり、中央畜産会の肉用牛先進的経営者協議会
世界に向けても大いに宣伝してみてはどうか。千
や総括畜産コンサルタント資格試験に長期間関わ
載一遇のチャンス到来である。ぜひ英知を傾けて
ってきた。農畜産業振興機構の「畜産の情報」には
欲しい。
創刊号以来ほぼ毎年、専門調査・報告を出させてい
ただいた。
お蔭で少しずつ力がついたように思えた。
今日、肉用牛経営を見てまわると、科学的合理
性を身につけた優れた経営者も多くなり、それを
行政や団体、さらに総括畜産コンサルタントなど
農水省が動いた∼増頭と輸出∼
農林水産省には農政審議会専門委員として通っ
が立派に支援しておられるのをみて、時代は変わ
ったと実感し、とてもうれしい。
たほか最近でも毎年何かの仕事をさせてもらって
いる。なかでも乳用種牛肉を「食卓の定番 国産
若牛」として、生産から消費までを通して普及促
進する事業は今も進行中で、多くの仲間とともに
是非日の目を見させたいと願っている。
(みやざき あきら)
プロフィール
昭和36年京都大学農学部卒業、40年京都大学助手、49
年同助教授、平成元年同教授、6年文部省農学視学委
員、8年京都大学学生部長、10年京都大学大学院農学
いろいろな行政的施策が確実に肉用牛生産の実
研究科長・農学部長、11年京都大学副学長、13年放送
力を高めてきたように思う。特に最近、うれしい
大学京都学習センター所長を経て、20年4月より現職
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