石見銀山遺跡調査ノート1 - 石見銀山世界遺産センター

石見銀山遺跡調査ノート1
.
Iwami-Ginzan Silver Mine Site Reserch Note Mar. 2
0
0
2 No1
表紙デザインは「御取納丁銀」(島根県)と「石見銀山絵巻」(中村俊郎氏)を図案化したものです。
口絵1 竹田地区出土の坩堝片と科学調査
るつぼ片1 出土地:竹田地区
時 期:1
6世紀末
るつぼ片2
出土地:
竹田地区
時 期
:1
7世紀前半
写真2−1 るつぼ片1(内面)
写真2−4 るつぼ片2(内面)
写真2−2 X 線ラジオグラフィー
写真2−5 X 線ラジオグラフィー
写真2−3 縁部分の拡大
図2−1 非破壊蛍光 X 線分析の結果
(奈良文化財研究所で実施)
図2−2 非破壊蛍光 X 線分析の結果
(奈良文化財研究所で実施)
コメント:「るつぼ片」を X 線ラジオグラフィーで観察すると、残留した金属の場所を特定でき
る。この残留金属をスポット的に蛍光 X 線分析すると、このるつぼで溶解した金属を推
定することが可能となる。このるつぼからは、主に銅と銀が検出された。これらの調査手
法は、金属生産遺跡からの遺物調査として重要である。るつぼは、奈良文化財研究所で調
査された。結果に対する考察の詳細は、本文を参照のこと。
『石見銀山遺跡科学調査報告書−平成1
0∼1
2年度−』
(2
0
0
2.
3)より
口絵2 竹田地区 区 NW 区の遺構検出状況
口絵3 竹田地区 区 NW 区第3遺構面で確認した方形炉跡(SX1
3)
口絵4 竹田地区出土の石製品
口絵5 宮ノ前地区の遺構検出状況
口絵6 柑子谷地区の石垣残存状況
口絵7 石見銀山福石鉱床分布地域で想定される製錬工程フローチャート(第一版)
製錬
SMELTING
選鉱
DRESSING
(smelting1)
添加物
(smelting2)
(smelting3)
造滓剤(マンガン)
鉛(方鉛鉱?)
(ズリ) (ゆりかす)
細粒
塊状
福石鉱石
ゆりかす
[cupelling:灰吹]
銀合金
(灰吹銀)
鉛−銀合金
(貴鉛)
微細鉱石
福石鉱床鉱石
排出物
精錬
REFINING
(カラミ )(カラミ
塊状
発泡質
)(カラミ)(カラミ)
板状
カラミ
カラミ
酸化鉛
碗形
塊状
カラミ
選鉱(dressing):採掘した鉱石を破砕し、目的とする有用鉱物の品位を高める工程。鉱石を加熱する前の段階。
製錬(smelting):選鉱した鉱石を熔融するまで加熱し、目的とする金属を濃集させ中間成品(製錬した金属)を得る工程。
(smelting1):原料をある程度熔融するまで加熱して、熔融しない不純物を除去する工程。
(smelting2):原料の大半が熔融するまで加熱し、金属成分と脈石成分の分離を助けるために造滓剤を添加する工程。
(smelting3):原料中に含まれる銀を濃集させるために鉛を添加する工程。
精錬(refining):中間成品を熔融して不純物を除去し、目的とする金属の純度を高める工程。
(cupelling:灰吹):鉛−銀合金から銀を分離・回収する工程。
造滓剤:製錬時の融点の低下と流動性の改善のために加えられる添加物。
『石見銀山遺跡科学調査報告書−平成1
0∼1
2年度−』
(2
0
0
2.
3)より
口絵8 石見銀山永久鉱床分布地域で想定される製錬工程フローチャート(第一版)
選鉱
DRESSING
精錬
REFINING
製錬
SMELTING
[cupelling:灰吹]
(smelting5)
(smelting4)
造滓剤(マンガン・カルシウム?)
鉛(方鉛鉱?)
添加物
鉛−銀合金
鉱石片
永久鉱床鉱石
硫化銅・酸化鉄
混合物(マット)
排出物
永久鉱石
(ズリ)
塊状
(カラミ B)
板状
(カラミ A)
塊状
ズリ堆積
カラミ
A
精製銅
銀合金
(灰吹銀)
酸化鉛
碗形
カラミ
B
灰吹銀
選鉱(dressing):採掘した鉱石を破砕し、目的とする有用鉱物の品位を高める工程。鉱石を加熱する前の段階。
製錬(smelting):選鉱した鉱石を熔融するまで加熱し、目的とする金属を濃集させ中間成品を得る工程。
(smelting4):原料に造滓剤と鉛を添加し、カラミ・マット・鉛−銀合金の三つに分離させる工程。
(smelting5):マットを加熱し、カラミと銅を分離する工程。
精錬(refining):中間成品を熔融して不純物を除去し、目的とする金属の純度を高める工程。
(cupelling):鉛−銀合金から銀を分離・回収する工程。
造滓剤:製錬時の融点の低下と流動性の改善のために加えられる添加物。
マット:硫化鉱の製錬で生成するもの。酸化物主体のカラミ層と分離する。硫化銅と硫化鉄を主体とする混合物。
『石見銀山遺跡科学調査報告書−平成1
0∼1
2年度−』
(2
0
0
2.
3)より
口絵9 ﹁石見守大久保公碑﹂拓本︵1/6、大安寺跡︶
■凡例
1.本書は島根県・大田市・温泉津町・仁摩町の各教育委員会が実施する石見銀山遺跡の諸調査に
関わる事業の概要を中心にまとめたものである。
2.内容は平成1
3年(2
0
0
1)度に行った調査事業の概要を記した年次報告と、調査に携わった関係
者の小レポート・資料紹介である調査ノートの2部構成になり、併せて関連する情報を加えた。
3.詳しい調査の内容は、各調査ごとに刊行する報告書を参考するなり、調査主体者に問い合わせ
いただきたい。なお、口絵カラーのうち1・7・8は「石見銀山遺跡科学調査報告書−平成1
0
∼1
2年度−」から転載したものである。
4.本書の編集は、島根県教育庁文化財課世界遺産登録推進室で行った。これら諸調査に際して御
協力いただいた関係各位にお礼申し上げるとともに、本書が今後の石見銀山の調査研究をはじ
め、基礎的な情報として活用いただければ幸いである。
■目次
石見銀山遺跡総合調査の概要…………………………………………………………………………1
1.発掘調査の概要………………………………………………………………………………………1
2.歴史文献調査の動向…………………………………………………………………………………2
3.石造物調査及び関連事業の動向……………………………………………………………………4
4.科学調査及び関連事業の動向………………………………………………………………………5
5.柑子谷地区遺跡詳細分布調査………………………………………………………………………7
6.間歩調査の概要………………………………………………………………………………………8
石見銀山遺跡関連事業の概要…………………………………………………………………………8
1.宮ノ前地区発掘調査(受託調査)…………………………………………………………………8
2.町並み保存地区における調査………………………………………………………………………9
3.広域行政組合情報発信事業…………………………………………………………………………1
5
小報告・研究ノート・資料紹介
1.石見銀山の鉱山社会と法的規制について
松岡美幸…………………………………1
6
2.長安寺と豊栄神社
遠藤浩巳…………………………………2
1
3.豊栄神社の石造物
石造物部会………………………………2
7
4.大森地区の一石五輪塔・組合せ宝篋印塔の一例
鳥谷芳雄…………………………………3
7
5.於紅ケ谷地区出土の鉄砲関係品について
今岡司郎…………………………………4
3
6.宮ノ前地区出土の須恵器
中田健一…………………………………4
4
報告書・出版物情報(2
0
0
1.
4∼2
0
0
2.
3)……………………………………………………………4
5
平成1
3年度石見銀山遺跡調査関係者…………………………………………………………………4
9
石見銀山調査箇所位置図………………………………………………………………………………5
4
■解説
口絵1 竹田地区出土の坩堝片と科学調査
左は 区 NW 区第3遺構面出土、1
6世紀末。器壁は厚く、口径に対し器高が低い皿状を呈する。
検出後、水洗いせずに X 線写真を撮影すると、金属分の残留が確認された。周辺には火箸と考え
られる鉄製品や方形炉跡(SX1
3)が存在し、この辺で製錬作業を行われていたと考えられる。右
は 区 NW 区第2遺構面出土、1
7世紀前半。口径8.
8cm を測り、口縁部は内側に厚く、内面は黒
色を呈する。同様に金属分の残留が確認された。周辺からは炉跡や金属分が付着した石、酸化マン
ガン鉱石など製錬に関係する遺構遺物が検出されている。
口絵2 竹田地区 区 NW 区の遺構検出状況
右上は第4遺構面で確認した方形炉で、科学調査により灰吹炉の可能性が高い。1
6世紀後半。左
端の方形炉は第3遺構面で確認し、周囲には炭化物が広がり、火箸状の鉄製品や坩堝片が出土した。
1
6世紀末。
口絵3 竹田地区 NW 区第3遺構面で確認した方形炉跡(SX1
3)
一辺4
3 ×3
5 (確認長)
、深さ1
5 。黄色い粘土で方形に炉を構築し、炉の中央部からは白い
塊が検出された。
口絵4 竹田地区出土の石製品
要石、擦石、石鉢、石臼など、選鉱から製錬に使用される石見銀山遺跡特有の石製品が出土する。
口絵5 宮ノ前地区の遺構検出状況
1
7世紀前半の遺構。 敷の道路沿いに建物が並ぶ。北側(右)の建物は掘立柱建物で柱穴はいず
れも礎盤をもつ。南側(左)は炉跡などの精練遺構をもつ建物で、金属の加工工房と考えられる。
1
6世紀末以降の国内外産の陶磁器が大量に出土しており、その中でタイ産四耳壺が初めて出土し注
目される。
口絵6 柑子谷地区の石垣残存状況
大正1
2年に閉山されるまで、藤田組の大森鉱山永久部の施設が集中していた牛の首谷の工夫長屋
跡付近の石垣。側溝を備えた石垣を伴う道が、5∼6段の平坦面の中央を通る。
口絵7 石見銀山福石鉱床分布地域で想定される製錬過程フローチャート
口絵8 石見銀山永久鉱床分布地域で想定される製錬過程フローチャート
口絵9 「石見守大久保長安公碑」拓本(1/6、大安寺跡)
福光石製で、全高1
8
7cm、幅9
0.
5cm を測る。大久保長安の逆修塔である五輪塔(全高1
9
7cm)の
北側に位置し、寛政6(1
7
9
4)年、大森代官菅谷長昌(在任期間1
7
9
0∼1
7
9
3年)が撰し、佐和華谷
(1
7
5
9∼1
8
3
1、大森在住の漢学者)が筆した。
.石見銀山遺跡総合調査の概要
1.発掘調査の概要
お べに が たに
・於紅ケ谷地区の発掘調査
仙ノ山山頂付近に展開する平坦地群のうち、南東側に位置している谷部を「於紅ヶ谷地区」と称
して調査対象とした。
発掘調査は平成1
0年度から開始され、これまでに約4
0
0 について発掘調査を行っている。主た
る遺構は礎石建物跡と、周囲に点在する間歩である。
平成1
3年度の調査目的は、前年に課題となった 4
9間歩前のトレンチ(1−2トレンチ)の掘り
下げを行うと同時に、間歩から建物跡にいたる部分に調査範囲を拡大し、採掘と建物跡の関連を検
討することであった。また、石垣の北東部分にトレンチを設定するとともに、石集中部分の精査、
掘り下げを行い、平坦面の性格をより具体的にすることを目的とした。
調査の結果、以下のことが解明された。
一つに、1−2トレンチでは、溝状に岩盤を穿った跡が検出され、露頭掘と判断された。この露
頭掘に対して、幾度かの土砂の堆積が明瞭に確認された。
建物跡と採掘の関連については、以下のように捉えられた。平坦面西側が埋められていて、建物
跡に建て替えによる新旧の時期差があること、建物の南側斜面と西側斜面には立石の土留めが施さ
れていること、土留めの石を埋めるようにして、1−2トレンチからつながる溝状遺構が新しい建
物跡に付随していること、が判明した。
石集中部分の精査では、掘り下げたトレンチ内部から岩盤を穿ち、木を立てた遺構が検出された。
石垣北東部分のトレンチでは石組みの溝を検出し、平坦面の区画の一端をうかがうことができた。
たけ だ
・竹田地区の発掘調査
竹田地区は石銀藤田地区と尾根続きの大規模な平坦地群で、付近に露頭掘り跡が集中することや
墓の形態が古いことなどから銀山開発初期段階の遺構が存在すると予測された。さらに、尾根を削
平して平坦地が形成されており、石銀地区とは違った平坦地利用が考えられることから調査地と
なった。調査は平成1
1年度から開始され、本年で第3年次である。
調査区は平坦地群のまとまりに即して、五つのグルーピングを行い、平坦地毎に区で呼称するこ
ととした。今年度までにトレンチを中心として ∼ 区まで調査を継続して行っている。
今年度の調査概要は以下のとおりである。
区は下層確認トレンチで確認した方形炉跡の周辺を、区 NW 区として掘り下げを行い、遺
構面を4面確認した。遺構面毎にユリカス堆積土坑や炉跡などを検出した。また、今年度は多くの
製錬関係遺物が出土した。酸化マンガン鉱石や鉛片の他に、土砂をふるいにより選別した結果、微
小なカラミ等も回収した。これらの遺物や新たに確認した方形炉については、科学的調査を実施し
た。第4面にある方形炉周辺は完全に掘り終えていない。
新たな平坦地に 区として、トレンチを設定した。トレンチ内からはカラミや羽口の他に被熱土
壌や炭化物の分布する場所を確認し、 区においても製錬関連作業を行っていることが判明した。
−1−
時期は 区第1面同様、1
7世紀中頃である。
だしつちだに
・出土谷地区の発掘調査
出土谷地区は、石見銀山遺跡山内のうち、山吹城が築かれる要害山と、採掘の中心地である仙ノ
山との間の谷部に位置している。
仙ノ山山麓側に属し、調査区の標高は概ね2
4
0m である。発掘調査は平成9年度から行い、これ
まで江戸時代後半期の建物跡を検出している。
階段状に平坦地がまとまりを示すことから、調査地区の名称として、現在 区 区の二つの区域
に分けて調査を実施している。
今年度調査を行った箇所は、上記の内、 区の調査区である。調査前現況は北側に4m×8m で
間歩の開口する狭い平坦地、南側にいわゆるズリが堆積した1
5m×2
0m の平坦地が確認されていた。
調査目的は、この二つの平坦地の間にある水路と道から、間歩に至るトレンチを設定し掘り下げ、
間歩と建物跡の時期等を確認することであった。
調査の結果、水路が幾度も修復をされて使用されていたこと、建物跡とほぼ同じ年代を示す陶磁
器が間歩前から検出されたことにより、この二つの平坦地が機能的な関連を持つことが推定された。
ほんだに
・本谷地区の確認調査
本谷地区は仙ノ山の南麓、本谷に設置した調査地区である。調査は本谷に位置する現在の道の下
層、
及び周辺の地下遺構の確認を行うことを目的に、
5ヶ所のトレンチを設定し、
掘り下げを行った。
第1トレンチは、本谷口番所跡推定地と仙ノ山山頂石銀を結ぶ現道を直交するように設定した。
調査の結果、現存する道の礫が混入する硬化した面を検出し、その下層は古い時期の道跡はなく、
建物の敷地の一部と推定される土間面と石列を検出した。出土した遺物は陶磁器が大半で、年代は
江戸時代後半から近代のものである。
第2・3・4トレンチは道よりも5m 前後低い位置にある旧水田と伝えられる谷部分に設定し
たトレンチである。第2・3トレンチでは旧耕作土の下層は砂礫層や粘土層となり、川の氾濫など
による水性堆積を示していた。第4トレンチは耕作土の下層は、近くの下金生坑から排出されたと
考えられるズリが、厚く堆積する状況が確認されている。第5トレンチは現在の道の東側の石垣と、
旧水田の西側の石垣に挟まれた幅1m 前後の帯状の平坦地に設定した。表土の下層はやや固く締
まる整地面があり、旧道の可能性がある。今後の調査を待ちたい。
・「石見銀山 石見銀山遺跡発掘調査概要1
2 於紅ケ谷・竹田地区」の刊行(2
0
0
2.
3)
2.歴史文献調査の動向
(1)石見銀山歴史文献調査団の動向
・石見銀山歴史文献調査団全体会議(於島根県立女性総合センター 20
0
1.
5.
1
0)
・堀家文書調査(於島根県鹿足郡津和野町堀家 2
0
0
1.
6.
8)
−2−
笹ケ谷鉱山の銅山師・堀家文書の調査。目録の作成とマイクロカメラによる写真撮影。
・編年史料綱目編集会議(於京都市コープイン京都 2
0
0
1.
7.
1
9,
2
1,
2
2)
今年度刊行の『石見銀山関係編年史料綱目』の各担当者による編集会議。
・多田家文書調査(於温泉津町コミュニティーセンター 2
0
0
1.
8.
2
6∼2
9)
温泉津町の回船問屋・多田家文書の調査。古文書の一部の目録作成。
・熊谷家文書調査(於大田市立図書館2F 会議室 2
0
0
1.
8.
2
7∼2
9)
前年度から引き続き、目録の作成。
・上野利治家近代文書調査(於石見銀山資料館 2
0
0
1.
9.
1
5)
3
5mm カメラによる写真撮影、目録作成。
・堀家文書調査(於堀家 2
0
0
1.
9.
2
2∼2
4)
6月に引き続き目録作成、写真撮影。
・編年史料綱目欧文史料編集会議(於本能寺文化会館 2
0
0
1.
1
0.
8)
・豊栄神社文書調査(於大田市町並み交流センター 2
0
0
1.
1
0.
3
1)
マイクロカメラによる写真撮影。
・今田正光氏聞き取り調査(於大代町公民館 2
0
0
1.
1
1.
7)
・石見銀山歴史文献調査団全体会議(於島根県立女性総合センター 2
0
0
1.
1
1.
8)
・編年史料綱目欧文史料編集会議(於京都大学 2
0
0
1.
1
1.
2
4)
・熊谷家文書調査(於大田市立図書館2F 会議室 2
0
0
1.
1
2.
1
7∼2
0)
前回に引き続き、目録作成。
・今田正光氏聞き取り調査(於石見銀山資料館 2
0
0
1.
1
2.
8)
・上野利治家近代文書調査(於石見銀山資料館 2
0
0
1.
1
2.
9)
前回に引き続き目録作成、写真撮影。
・熊谷家文書調査(於大田市大森町 2
0
0
1.
2.
1
6)
蔵の壁紙となっていた文書をはがして収集。
−3−
・熊谷家文書調査(於大田市立図書館2F 会議室 2
0
0
1.
3.
2
0∼2
2)
前回に引き続き目録作成。
(2)
「石見国銀山旧記」の解題
「解題石見国銀山旧記」の執筆と関連資料調査
3.石造物調査及び関連事業の動向
・分布調査(2
0
0
1.
4.
1
6∼4.
2
6)
調査対象地 大谷、昆布山谷、出土谷、栃畑谷地区
調査内容
石造物の所在および数量の確認
調査成果の概要
・約3
2カ所で2,
7
0
0基近くの石造物を確認した。
・古い銘文としては元極楽寺
(1
5
9
3)
、長楽寺跡
(1
5
9
0)
、妙本寺上墓地
(1
5
7
6)
、徳善寺跡
(1
5
8
2)
などを確認した。
・第1
2回石見銀山遺跡発掘調査委員会(於島根県立女性総合センター 2
0
0
1.
5.
9)
石造物調査部門・龍昌寺の調査結果報告
・石造物調査打合会(於石見銀山遺跡発掘調査事務所 2
0
0
1.
5.
1
0)
平成1
3年度の調査計画(悉皆調査の計画、報告書作成)および分布調査の結果報告
・悉皆調査(2
0
0
1.
8.
1
9∼9.
1)
各宗派の石造物の内容を確認するため、今年度は臨済宗大龍寺跡、浄土真宗安養寺を調査した。
また、確実に年代や階層が分かる奉行・代官墓所を調査するため大安寺跡、妙蓮寺、勝源寺の各
墓所を調べた。旧熊谷家住宅の公開活用するための資料を得る目的で熊谷家墓地を調査した。
対象地 安養寺、大安寺跡、大龍寺跡、妙蓮寺、勝源寺、熊谷家墓地
内容 実測、採拓、写真撮影
8.
2
0 打合会
8.
3
1 調査成果報告会
調査成果の概要 合計6
5
4基の石造物を調査した。
・大森町内で現在確認できる代官墓の調査が終了した。風化が進んでいることも判明した。
・大龍寺跡:近世墓標はほとんどなく、組合せ宝篋印塔が多い。墓域が移動している可能性が
ある。近世墓標が少なく、妙正寺跡や龍昌寺跡と比較するするだけの資料はなかった。
・組合せ宝篋印塔を内蔵したと考えられる組合せの石殿の全体像を確認した。石殿は、妙本寺
上墓地や龍昌寺でも存在したが、1つの墓地で数個体しかなく、その使用・形態等は今後の
課題である。
・安養寺:古いものとしては元和4年(1
6
1
8)
、元和5年(1
6
1
9)の組合せ宝篋印塔が確認で
−4−
きた。
・近世墓標の形態は長さが短く、他の宗派と比べ、ずんぐりとした印象を受ける。妙正寺跡や
龍昌寺跡と同じように1
8世紀後半から1
9世紀前半に造墓のピークがあった。
・大安寺跡:大久保長安墓所の五輪塔は高さ1
9
7cm、幅4
5cm を測り、地輪のみ花崗岩である。
・五輪塔に隣接する大久保長安公碑は高さ1
8
7cm、幅9
0.
5cm を測る。
・五輪塔がある基壇の北側から2m を越す大型の組合せ宝篋印塔を確認した。
・勝源寺:鈴木八右衛門、竹村丹後守、森八左衛門、前澤藤十郎、関忠大夫の奉行・代官の墓
所・供養塔を確認した。
・代官の家族と思われる墓標や寄進灯籠も実測調査した。
・妙蓮寺:阿久沢修理墓所は高さ9
7cm、幅3
7cm を測る。
・第1
3回石見銀山遺跡発掘調査委員会(於島根県立女性総合センター 2
0
0
1.
1
1.
8)
今年度の悉皆調査及び分布調査の概要報告
・石造物調査打合会(於島根県立女性総合センター 2
0
0
1.
1
1.
8)
豊栄神社の調査について
・悉皆調査(2
0
0
1.
1
1.
1
9∼1
2.
7)
石造物調査において石工の調査も必要であり、銘文がある可能性が高い神社の寄進灯籠を調査
した。
対象地 豊栄神社、勝源寺(会田伊右衛門墓所)
調査の概要 寄進灯籠を中心に約2
9点の実測調査や銘文解読を行った。第二次長州征伐におけ
る長州軍による大森進駐時に寄進された石造物であった。
・龍昌寺(斎藤道親住職)聞き取り調査(於久利町龍昌寺 2
0
0
2.
1.
2
8)
・石造物関連調査(2
0
0
2.
3.
1
2∼1
4)
赤来町下赤名・大光寺跡の石見銀山遺跡類似の石造物調査
・石見銀山遺跡石造物調査報告書2「龍昌寺跡」の刊行(2
0
0
2.
3)
4.科学調査および関連事業の動向
・科学調査第1回打合会(於石見銀山遺跡発掘調査事務所 2
0
0
1.
4.
2
0)
1
2年度科学調査の成果および1
3年度科学調査の計画についての検討、現地視察
・科学調査第2回打合会(於石見銀山遺跡発掘調査事務所 2
0
0
1.
5.
1
1)
−5−
・第1
8回日本文化財科学会(於奈良大学 2
0
0
1.
6.
2
3∼2
4)
「島根県石見銀山遺跡から出土した「ゆりかす」の材質分析からみる選鉱技術」
(発表者)鳥越俊行、村上隆、高田潤
・於紅ケ谷地区三次元計測打ち合わせ(2
0
0
1.
7.
1
3)
・石見銀山遺跡検討会(於大森町交流センター 2
0
0
1.
8.
2)
(発表1)中田健一「石見銀山遺跡の発掘調査と遺構の評価」
(発表2)仲野義文「文献史料からみた銀山の技術について∼特に経営と技術の関係から∼」
(発表3)鳥越俊行「石見銀山遺跡における自然科学の調査とその成果」
・於紅ケ谷地区第1回三次元計測の実施(2
0
0
1.
8.
2)
・第2回科学調査研究会(於新潟県相川町大佐渡開発センター 2
0
0
1.
9.
6・7)
(発表1)遠藤浩巳「石見銀山遺跡発掘調査と科学調査」
(発表2)中田健一「石見銀山遺跡の製錬遺構」
(発表3)村上隆、鳥越俊行「科学調査の成果」
(発表4)斉藤本恭(相川町教育委員会)
「佐渡奉行所跡の発掘調査」
(現地視察) 佐渡奉行所跡、佐渡奉行所(復元整備)
、道遊の割戸、相川金銀山遺跡、相川町
教育委員会金山遺跡整備調査室、西三川砂金山、鶴子銀山、新穂銀山、佐渡博物
館、相川郷土館、ゴールデン佐渡
・竹田地区発掘調査・無文銭の取り上げ(2
0
0
1.
1
0.
2
4)
・竹田地区発掘調査・炉跡取り上げ(2
0
0
1.
1
1.
1
2)
・科学調査第3回打合会(於石見銀山遺跡発掘調査事務所 2
0
0
1.
1
1.
8∼.
9)
1
3年度科学分析資料の検討、科学調査報告書作成の検討、現地視察
・MRS 科学調査共同発表(於ボストン 2
0
0
1.
1
1.
2
6∼3
0)
ポスターセッション「石見銀山遺跡における銀鉱石に対する選鉱技術」
(発表者)村上隆、高田潤、鳥越俊行、松本岩雄、鳥谷芳雄、守岡正司、大国晴雄、遠藤浩巳、
中田健一
・於紅ケ谷地区第2回三次元計測(2
0
0
1.
1
2.
1
2)
・発掘科学両調査打合会(於石見銀山遺跡発掘調査事務所 2
0
0
1.
1
2.
2
5)
1
3年度科学分析資料の検討および現地視察
・「文化庁・米国スミソニアン研究機構国際共同研究」に基づく学術シンポジウム参加
−6−
(於奈良文化財研究所平城宮跡資料館 2
0
0
2.
1.
2
2)
「東アジアにおける陶磁器の流通に関する科学的研究」
村上隆「新しい調査法による日本産陶磁器の材料科学的研究」ほかの研究報告・討議
・科学調査報告書編集会議(於大森町交流センター 2
0
0
2.
2.
4∼6)
・於紅ケ谷地区第3回三次元計測(2
0
0
2.
3.
1
3)
・『石見銀山遺跡科学調査報告書−平成1
0∼1
2年度−』刊行(2
0
0
2.
3)
・資料の科学的分析(非破壊)
竹田地区出土の坩堝片・酸化マンガン鉱石(三石錬)・滴下金属・分銅・天秤竿状製品・ガラス
製品、および於紅ケ谷地区出土のガラス製品・鉄砲金具(用心金)の非破壊分析
分析先 奈良文化財研究所(村上隆・肥塚隆保)
・資料の科学的分析委託
(1)竹田地区および出土谷地区出土の土資料5点、鉱滓資料3
1点、計3
6点の定性・定量分析等の
委託、委託先 (株)コベルコ科研
(2)竹田地区出土の土および粘土資料2
3点、ゆりかす資料6点、ズリ資料2点、計3
1点の定性・
定量分析の委託、委託先 (株)大館分析技術センター
・遺跡出土遺物保存処理
平成1
1年度電線地中下工事に伴う城上神社前地区発掘調査出土の木製品(下駄・漆塗椀・箸・曲
物ほか1
9点)の保存処理(高級アルコール法)
事業主体 大田市教委(国補助事業)
、委託先 (株)吉田生物研究所
5.柑子谷地区遺跡詳細分布調査
調査主体
仁摩町教育委員会(国補事業)
調査箇所
邇摩郡大字大国町柑子谷
調査期間
2
0
0
2.
2.
4∼2.
2
8
調査内容
詳細な分布状況を把握するため5
0
0分の1の地形図を作成し、平成1
3年度は北部
の地図2枚分の現地踏査を実施した。
調査の対象地は、永久鉱山の施設が集中する牛の首谷と呼ばれる小さな谷から永
久鉱口付近までで、明治から大正期にかけて建てられたと思われる建物跡
(石垣)
が何段にも確認された。
−7−
6.間歩調査の概要
島根県教育委員会が同和工営株式会社に委託して実施した。平成9∼1
1年度調査につづくもので、
今回新たに間歩2
4ヵ所(No.
5
6
0∼5
8
3)
、露頭掘2ヵ所(No.
5
0∼5
1)を確認した。
.石見銀山遺跡関連事業の概要
1.宮ノ前地区発掘調査(受託調査)
・調査のいきさつと経過
大田市大森町宮ノ前地内で進められている主要地方道仁摩瑞穂線改良工事に伴い、島根県大田土
木建築事務所から委託を受け、大田市教育委員会が主体となって工事予定地内の埋蔵文化財調査を
実施した。平成1
1年度からの継続調査で、平成1
3年度は調査地区のうち、0区(4
8 )・7区(2
7
0
)・8区(80)を対象とした。7区を平成13年5月4日に、0区を8月5日に、8区を11月29
日にそれぞれ開始し、1
2月2
6日に現地調査を終了した。また併せて出土遺物の整理作業を行い、陶
磁器を中心に図化作業を行った。
・調査の概要
調査地区は近世に成立する「大森町」の北端に位置し、武家住宅が建ち並んだ地域と伝えられる。
現在は銀山川と市道が南に隣接し、現況はそのほとんどが畑地となっている。1
2年度までの調査で
1
7世紀初頭頃に大規模な造成工事により、宅地や道路が整備され、一画には金属を加工したと推定
される工房群が建ち並ぶ様子が、遺構・遺物から明らかにされたことが大きな成果といえる。また
その後の建物や宅地の変遷などが生活の道具を伴なって確認された。1
3年度の調査概要は下記のと
おりである。
0区 1区の東に隣接する調査区で、調査の結果1∼3区と同様に、1
7世紀初頭を最下面として近
代まで4面の遺構面を検出した。このうち3面と最下面で検出した遺構には、石積の井戸跡1、製
錬関連遺構3、土坑4、溝状遺構2、ピット群がある。この遺構面で出土した遺物には、中国産や
国内では肥前・瀬戸美濃産などの陶磁器や寛永通宝・洪武通宝などの銭貨、金属製品ではキセル・
小柄などがある。
7区 0∼3区の北側にある、石垣を築いて造成された平坦地上の調査区である。検出した遺構に
溝状遺構1と礎石が数点ある。溝状遺構は断面が V 字状を呈し、溝幅は上端で1.
5m 前後、下端で
0.
5m 前後、深さ1.
2m 前後を測る。この溝状遺構の内部の埋土からは1
7世紀前半代の年代観をも
つ陶磁器類が出土しており、概ねこの時期を下らない時期に埋まったものと推測される。この遺構
面の整地層を掘り下げると数度の整地が南側の石垣構築を伴いながら行われている状況が確認され
ている。出土した遺物は陶磁器を中心に近世の年代観を持つものがほとんどであるが、整地層から
は中世後期の宝篋印塔の相輪(宝珠・請花・九輪)と古代の須恵器甕片が出土している。
−8−
8区 6区の北側に隣接する調査区で、検出した遺構に土坑3、溝状遺構2などがある。遺構の年
代については、出土した陶磁器から江戸時代後期1
8世紀から1
9世紀代と考えられる。出土遺物の主
なものは国内産の陶磁器、銭貨などである。
整理作業 発掘調査と併行して出土陶磁器の実測図作成を中心とした整理作業を行った。図化し得
た点数は約4
0
0点である。その中で石見銀山遺跡出土陶磁器の中でタイ産の陶器が初めて確認され
ている。出土地点は2区第4遺構面の整地層で、平成1
2年度調査で出土したものである。陶器片は
四耳壷の口縁部分で、内外面とも施釉で、内面は暗茶褐色で外面は茶褐色を呈している。年代は共
伴する他の陶磁器から1
6世紀末から1
7世紀初頭のものと推定される。
なお、タイ製四耳壷は1
6世紀後半頃、東南アジア産の硝石を入れ日本に輸入され、その後貯蔵具
として転用されたものと考えられている。
2.町並み保存地区における調査
(1)重文旧熊谷家住宅保存活用事業
・保存活用検討委員会
第1回:1
0月2
4日(水)
渡辺常弘(委員長、大田市伝統的建造物群保存地区保存審議会会長)
福田実(副委員長、大田市議会議員)
小泉和子(生活史、京都女子大学教授)
小林准士(文献、島根大学助教授)
龍 文子(大森町)
蓮花正晴(大田市助役)
松本陽三(大田市教育長)
検討の進め方を検討した結果、平成1
3年度は意見聴取をおこない、平成1
4年度に活用方針をま
とめることとした。
・家財調査記録
1.現地指導会
第1回:平成1
3年5月2
2日(火)
指導者:小泉和子(京都女子大学教授)
高部淑子(知多半島総合研究所研究員)
曲田浩和(日本福祉大学講師)
家財の状況を見分し、搬出作業上の手順、注意点の指導を受けた。
第2回:平成1
3年1
0月2
4日
指導者:小泉和子(京都女子大学教授)
家財の活用を考慮した調査方法と調査体制について指導を受けた。
2.家財搬出
−9−
第1回:平成1
3年6月2
2日(金)∼6月2
6日(火)
主屋、米蔵・雑蔵、納屋(搬出作業:延べ7
2人)
第2回:平成1
3年7月2
3日(月)∼7月2
6日(木)
北道具蔵、衣装蔵、東道具蔵(搬出作業:延べ6
9人)
第3回:平成1
3年1
0月2
9日(月)
小蔵(祈祷札・文書関係)
第4回:平成1
4年1月3
1日(木)
小蔵、仏間
(2)伝建地区保存事業の概要(国庫補助事業等)
監修:渡部孝幸(都市計画課課長補佐)
凡例・・
物件および修理(●印)と修景(○印)の別
所在地番:大森町○○○番地
所有者
保存台帳上の「図面番号」と「番号」
事業費 (補助対象額 / 補助額)
着手日−完成日
請負業者
建築年代、建築様式、建物の歴史など
●安養寺本堂修理
ホ2
2
6
宗)安養寺
GiE4
0(社寺1
8)
2
6,
3
3
4,
0
0
0(2
4,
9
7
9,
5
0
0 / 5,
0
0
0,
0
0
0)
H1
3.
4.
2
8−H1
4.
3.
1
小笠原弘幸(小笠原建築)
寛政7∼9(1
7
9
5∼1
7
9
7)年頃(推定)
。
安養寺は、浄土真宗本願寺派。休谷と清水谷の交差する旧の銀山町に位置する。大永3年
(1
5
2
3)
創建という。もと天台宗寺院であったが、本願寺九世実如の時、真宗に改宗し、仙ノ山にあったと
伝えられていたことから山号を仙頂山と称す(*2)
。
現在地に建立された年代は、寛政元年の書き込みがある「石見国銀山麁絵図」
(*1)
には現在地
あたりに寺の記載があり、また、明治1
4年2月の寶物古器物目録(*2)には「棟札一枚 奉再建
本堂一宇天明八年(1
7
8
8)十月杣入 寛政七年(1
7
9
5)三月遷佛」とあり、また、須弥壇後ろの大
主柱背面に「寛政九(1
7
9
7)丁乙中春 寄進施主赤波行名平六同孫多助」と彫り込まれていたこと
から、寛政7年から9年にかけて(1
7
9
5∼1
7
9
7)の建立と推定できる。
−1
0−
本堂は入母屋形式。向かって左手に片流れ屋根の客殿が取り付いている。間取りは向拝から回廊、
外陣、内陣そして本尊へ至り、縦軸に対しシンメトリーな平面構成である。半解体時の調査からは
創建時の構えがほぼ残されていると考えてよい。その中で大きな特徴は、現況が壁である部分にも
建具の痕跡が認められ、元来は主要な軸組み四面すべてが建具により開放されていたことがあげら
れる。
修理の過程で部材に記された主な痕跡は次のとおり。
・「寛政元(1
7
8
9)丁酉八月十一日建之 山陰道高善山邊□ 棟梁浅利村行年廾五才福本廣助信忠
行年廾七才嶋田佐右衛門常春」∼ 須弥壇後ろの杉板(内壁)に墨書。
・「弘化三(1
8
4
6) 丙午年 五月四日 塗師 浅利村 岡本氏 民右衛門」 ∼ 内陣と外陣境の
欄間上部の杉板にベンガラか漆を用いた筆書き。
*1 高橋伊武氏所蔵
*2 寺院明細帳 (自明治1
2年 大森町役場)
●安井家主屋修理
イ7
9
2−1、イ7
9
2−2
安井富美子
RaN8(2
1
6)
7,
0
1
0,
0
0
0(6,
2
6
6,
8
9
2 / 5,
0
0
0,
0
0
0)
H1
3.
6.
4−H1
3.
8.
2
1
渡辺眞工務店
明治2
3年以前「登記簿の記載のとおり」
。
板図が小屋束に打ち付けてあったが建築年代を特定する棟札はなかった。現建物の右側、1間幅
の部分は板図には記載されていなかったため、主屋建築以降の増築部分であると考えられる。板図
から求積した面積と登記簿面積が合致することから、建築年は明治2
3年以前とする。
平入り切妻造り本2階建て。創建時は、正面の真ん中に通り土間を設け、右手は手前から奥に小
部屋、台所があり、左手は、通り土間に並行して階段、板間が続き、板間の前は半間幅の土間が通
り土間から回って鉤の手になっていた。板間から奥へは帳場のある6帖の座敷が連なり、その背後
の便所や風呂に繋がっていた。
後述する料亭の客は主に通り土間境の階段を使用し2階の席に案内され、左手妻壁に沿った階段
は風呂・便所への通路や家人の上り下りに使用されていたと聞きとりできた。
駒の足から尾道街道への起点に位置し、羅漢寺所有地に立地している。
所有者の聞き取り調査からは、建物の歴史として次のことが明らかになった。
明治中期の建築であり、鉱山関連の職員や役人がよく使っていた「大盛館」
という名の料亭であっ
た。当時、上客のもてなしは、主屋2階に席を設け主屋裏の土塀付きの門から出入りしていたよう
−1
1−
である。その後、鉱山の撤退や、昭和2
3年前後に多くの官公署が移転されたことに伴い料亭は衰退
し、幾度か所有者や用途の変更もあったようである。
昭和4
3年、現所有者の亡夫(安井時男氏)が住み始めた頃は、既に専用住宅となっており、往時
の面影は、門付き土塀や女中部屋といわれていた一角、そして、かつて宴席として使用された2階
からの眺望のために向かいの山に植えられた、梅や桜の老木にとどめているのみである。
●○新井家(旧松場家)主屋・物置修理、主屋修景(増築部分)
ハ1
7
2
新井謙太郎
KoW1
3(1
4
0,
1
4
1,
−)
1
8,
2
8
5,
7
5
0(1
0,
3
9
6,
0
5
0 / 8,
0
6
8,
0
0
0)
H1
3.
1
1.
8−H1
4.
2.
2
8
鬼村良昭(鬼村工務店)
主屋:大正∼昭和初期、土蔵:明治初期(いずれも推定)
。
主屋は、平入り、入母屋造りに片面が切り妻の総2階建て。もともと町屋であった建物の材料を
店舗付き住宅に移築・転用したものである。移築されたのは大正から昭和にかけての時期であると
考えられる。
向かって左手に通り土間を持ち、右手に座敷が位置し奥に向かっての下屋部分にもう一部屋設け
ている。その部屋に接する形で妻入りの土蔵が建つ。この土蔵は主屋より古く、明治初期まで遡れ
る可能性がある。また、土蔵の前には別棟の風呂・便所・物置が建っていた。
建築当初は「平田屋」という屋号の酒小売店であり、その後、幾人かの手によりよろず屋が営ま
れていた。
向かって右隣の駐車場側から建物全体をみると、2階階段室や手摺、入母屋屋根、出張った物見
台などが、複雑かつ賑やかな立面を演出して崩れかけた土蔵と繋がっている。所有者から専用住居
として活用したい希望があり、主屋(下屋含む)と土蔵を修理し、風呂・便所などの一角は解体し
て総2階建ての風呂・便所を含む建物を新築、修景された。
●川上家(旧安田家・旧勝部家)主屋修理
ハ1
4
9、ハ1
5
2
川上孝太郎
KoW3(1
3
4)
、KoW4(1
3
5)
0,
0
0
0,
0
0
0)
2
7,
4
0
5,
0
0
0(1
4,
0
1
6,
4
5
0/1
H1
3.
1
1.
1−H1
4.
3.
2
8
渡辺眞工務店
明治初期(推定)
。
−1
2−
向かって左手の旧安田家と右手の旧勝部家(元は安田家)の似通った2棟が並び建ち、いずれも
切り妻屋根で平入り本2階建ての標準的な町屋形式である。
旧安田家は、通り土間を左側に持つ奥行き二間取りの比較的小規模の町屋様式をとり、旧勝部家
でも同様に通り土間に座敷二間という町屋の間取りを呈していた。
しかし、旧勝部家の修理中の調査では、土間・縁側・和室一間という仕切りは後補のものである
ことが認められ、2階の梁組みなどからもこれらが一つ部屋として機能していたと推定できる。ま
た、天井が低いことから、通り土間と座敷の機能区分のない作業場か店のように、1階部分を広く
使う用途であったと考えられ、建築当初の建物の使い方は、旧安田家は専用住居、旧勝部家は店も
しくは作業場というように機能分担がなされていた建物と考えられる。
また、旧安田家の正面には1間幅の広縁が配されており、これは大森の町屋としては稀である。
所在地は銀山附地役人吉岡家の屋敷があったと伝えられている一画に位置するが、安田氏が当地
に居所を定めた年代の特定はできない。
安田家には真言宗長楽寺(銀山町昆布山にあったが明治元年1
0月震災により滅失(*1)
)の出
納に関する帳簿が保管されていた(*2)ことがわかっている。
今回、土蔵は傷みがひどく修理不能のため解体に至ったが、その建物内部でこの長楽寺ゆかりと
推定される掛軸を納めた箱の蓋が見つかった。
箱は8
4.
8×2
7.
1(内法8
3.
0×2
5.
3)×0.
9 の檜材で、外側は黒漆塗り仕上げ。その内面に縦3
段書の墨書があり、上・中の2段は軸物の名称と幅数、下段は総数、記載年月日および記載者の花
押がある。書き換えや抹消の痕跡があるが、天文2
2年癸丑(1
5
5
3)と永禄5年壬戌(1
5
6
2)の紀年
が確認でき、花押も異なる。なお、この紀年銘は現段階で石見銀山遺跡における最古の金石文資料
である。
(*3)
また、安田氏は屋号を「兵後屋」と言い、古老からの聞き取りによれば、大正期頃までは庄屋で、
その地所は道路向かいの木原アキヨ氏宅裏まで及び、銀山川には個人所有の木橋を設けていたよう
である。
*1 『石見銀山百ヶ寺』 三瓶古文書を読もう会 1
9
9
5年
*2 土蔵の押入れなどにあった古文書1
0
4点は、平成1
1年に現所有者の川上氏より長楽寺文書と
して石見銀山資料館へ寄託されている。また、今回の調査で、主屋の襖や壁の下張りには主として
江戸末期の長楽寺関連の古文書が使用されていたこともわかった。
*3 県文化財課鳥谷芳雄の調査による。
●○吉岡家(旧胡谷家)主屋修理、主屋増築修景
イ7
0
5−1
吉岡寛
KeE1
3(1
9
2)
0
0
0,
0
0
0)
1
5,
8
1
9,
3
0
0(1
1,
9
0
0,
7
0
0 / 6,
H1
4.
1.
1
9−H1
4.
3.
2
7
−1
3−
鬼村良昭(鬼村工務店)
明治中期∼大正初期(推定)
。
平入り切妻造り総2階建て。敷地形状の影響を受け、土間が奥へ行くほど狭くなっている。1階
に田の字に4部屋、2階にも4部屋。それに台所と便所・風呂が附設されていた。
所有者の話では、平屋であったものを2階建てに直したと伝え聞いている。改造の痕跡も認めら
れるが、むしろ転用材を用いてほとんど建て替えに近いものであったようである。4寸5分の通し
柱を多用したり、材の寸法が不揃いであったこと、また2階への箱階段の位置も2階の床板を撤去
して取り付けたもので、当初の位置がわからないことなども大がかりな改造を物語るものであろう。
両方の妻側に出張った床の間、押入れなども後から付け足したような造作が認められる。
県道仁摩瑞穂線沿い、新町の銀山川の山向かいに位置する。現在の銀山川は、県道をはさみ当家
の前を流れているが、昭和1
8年9月の大水害以前には県道向かいにもうひと並びの長屋を介して川
に至っていた。
●福田家納屋修理
イ4
6
5−3
福田武夫
SyE1(2
9)
5,
6
5
4,
2
5
0(5,
4
3
3,
7
5
0 / 4,
3
4
7,
0
0
0)
H1
3.
1
1.
1
2−H1
4.
1.
1
3
鬼村良昭(鬼村工務店)
明治初期(推定)
。
この納屋は、1
9世紀には町役人(年寄職)をつとめた旧熊谷家(重要文化財)の一部であった。
熊谷家は江戸末期から昭和4
0年頃まで酒造業を営み、この一画地には酒蔵や加工場、納屋が建ち並
んでいた。その建物の一部はおおもり会館(宮の前)に再用されている。
修理した納屋は、米搗きが行われた建物と伝えられ、建物内には酒造りに使用した樽などが残さ
れていた。現況は桁行き5間に物置が取り付いているが、当初は桁行き8間の長さがあった。福田
氏の所有になった昭和4
0年代に傷みのひどい3間分を解体し、その一部の材料を再用し小さな物置
を増築し、現在に至っている。
梁間は3間だが、当初は1間半の梁間で中2階を持つ切り妻形式を取っており、後に庭側へ軒を
一間分伸ばしている。
土地の地番は、ハ番地の区割りの中にあってイ番地の飛び地のひとつであり、またその字は銀山
附地役人宗岡氏を連想する「宗岡ヤシキ後新田」が振られている。
○山根家主屋修景
ハ2−1
−1
4−
山根治
MiW1
4(−)
8,
3
3
9,
1
0
0(7,
1
1
1,
6
5
0 / 1,
0
0
0,
0
0
0)
H1
3.
8.
2
0−H1
3.
9.
2
8
鬼村良昭(鬼村工務店)
昭和4
3年に仁摩町大国から農家住宅を移築した建物といわれているが、完成しないまま専用住宅
として使われてきた。平入り切り妻造り平屋建て。右手に1間の通り土間をもつ、四間取り形式の
農家住宅である。昨夏の豪雨の影響で屋根が一部落ちたため、半解体修理し併せて修景を行った。
近くを通る仁摩町大国町と大森町宮の前を結ぶ新県道(平成1
5年秋開通予定)から建物背面もよ
く見えるため、正面だけでなく4面の修景を行った。
○石垣新設修景
イ1,
3
8
2
宗)天理教大茂里分教会
KeW1
9(−)
0
0,
0
0
0)
1,
1
8
3,
1
4
0(1,
1
8
3,
1
4
0/3
H1
3.
5.
2
1−H1
3.
6.
2
0
大鵬建設
県道に接する境内地の法止め工事に際して、既存石垣の上部を雑割石を用い練石積で施工した。
3.広域行政組合情報発信事業
・リーフレット「石見銀山遺跡ノート」の発行 (2
0
0
2.
3.
2
9)
発行部数 5,
0
0
0部。大田市外2町広域行政組合発行。仲野義文氏監修。
内容:歴史の概要や鉱山技術の説明など石見銀山遺跡全体をやや詳しく解説。
・石見銀山入門講座の開催 (4回)
内容:石見銀山遺跡の調査に携わった方々による、石見銀山遺跡の講座の開催。歴史や発掘調査
の概要などをわかりやすく説明。参加者総数 2
1
5名。
・広報誌「銀山街道」の発行 (4回)
発行部数 1
7,
0
0
0部。大田市外2町広域行政組合発行。
内容:大田市・温泉津町・仁摩町の情報や石見銀山遺跡の紹介。1市2町の全世帯へ配布。
・「銀の道ウォーク」の開催 (2
0
0
1.
1
0.
2
1)
内容:大森町から降路坂を越え温泉津町西田まで、当時の銀山街道を歩きながら遺跡の魅力を体
験。参加者 2
0
0名。
−1
5−
−1
石見銀山の鉱山社会と法的規制について
松岡
美幸
鉱山法として最も知られているのは徳川家康が天正元年(1
5
7
3)に発布したとされる「山例五十
三ヶ条」であろう。これが偽文書であることは森嘉兵衛「近世鉱山法の研究」(1)などこれまでの研
究で指摘されている通りで、後世に山師などの側から身分的保証の根拠とするために作られたもの
と言われている。しかしながら、鉱山でのみ摘要される法的秩序は各地の鉱山で存在した。その背
景には金属(貨幣)の生産地であるという幕府・藩にとっての重要性、人口の流動性の大きさ、人
口集中の為に起こる社会問題など鉱山の特殊性がある。したがって、鉱山法は鉱山社会の成立や特
質に伴う問題でもある。
『梅津政景日記』など比較的史料の豊富な秋田藩の例
荻慎一郎『近世鉱山社会史の研究』(2)は、
を揚げ、鉱山社会の中での鉱山法について述べ、この中で鉱山に出された法を分類している。分か
り安く図式化されているので、以下本文そのまま引用したい。
A 公儀の法(幕府・藩が全国・領内一般に発布)
B 鉱山を対象とした法
個別鉱山に出される基本法∼制札
個別鉱山に出される個別法
山内一統に出された法
部署別(役職・職種)に出された法
C 鉱山に蓄積された慣例、領主の鉱山支配に規程されて追加された法のうち、処分規程をも
つ鉱山固有の法で成文化されたもの
D 鉱山社会の中で慣習として守られたシキタリ類で成文化されていないもの
秋田藩院内銀山は石見銀山に並ぶ大規模鉱山で、鉱山支配は山奉行が交代で行っており、法令も
重層的で複雑なものになっている。石見銀山の場合、江戸時代を通じて幕府の直轄支配下にあり、
代官所で分担されていた「地方」と「銀山方」のうち、後者の支配下に置かれていた。したがって、
石見銀山における法的規範は銀山方から出されていた。
本稿では石見銀山における法について考えてみたいが、法的なものと考え得る主な史料としては、
承応3年(1
6
5
4)2月7日付 採掘の権利に関する山法
元禄6年(1693)「石州銀山諸間歩御法度之旨山主請負証文」(『石陽銀山記』所収)
延宝3年(1675)正月付「柘植伝兵衛覚」(『石陽銀山記』所収)
文化4年(1807)「石見国邇摩郡銀山町五人組改帳」
(3)
(4)
が揚げられるだろう。荻氏の分類で言えば ∼ は C に、 は A に当てはまるだろう。
紙面の都合上全文を載せることは出来ないが、以下、各史料について検討してみたい。
採掘の権利に関する山法
(5)
この史料についてこれまで確認できたものでは、元禄6年(1
6
9
3)
「石雲隠覚集」
、正徳4年
−1
6−
(6)
(7)
(1
7
1
4)
「覚」
、宝暦4∼正徳3年(1
7
0
7∼1
7
1
3)年「銀山故事覚書」
、寛延2年∼宝暦4年(1
7
4
9
∼1
7
5
4)
「石陽銀山記」といった、地役人の作成による鉱山支配の解説本の中で、「作法」または「御
山作法之事」として記載されているものである。また大森町の個人宅にも写がある。したがってこ
の法は承応3年(1
6
5
4)に作成され、後まで通用し効力を持った基本的山法であると思われる。内
容は採掘で起こり得る山主間での紛争などに関する規定で、石見銀山附地役人8名及び承応3年に
代官であった杉田又兵衛が差し出し人となっている。なお、石見銀山附地役人とは代官所の「銀山
方」に勤め、鉱山経営に関しては専門的な役人である。
内容は、まず 間歩の境目立様之事(境界の設置、互いの間歩(坑道)に掘り抜いてしまった時
の取り決め) 煙穴の事(灯明の油を燃やすと煙が多量に発生するので、煙を抜くための穴を掘る。
この時鉱脈に当たった場合の取り決め) 水抜の事
(湧水に際して他の間歩の山主間での取り決め)
がある。続いて、互いの間歩に抜け合った時には相手の山主に報告すること、山使(山役人)の見
分が終わるまでは立ち入り禁止であること、他人の間歩へ石を落としたり水を仕掛けたりしてはな
らないこと、間歩を譲渡する時、他の間歩より1
3間(2
3.
4m)以上離れた場所を渡すこと、山主は
必ず「公儀御帳」に登録され、内緒で間歩を稼ぐことがあってはならないことなど、採掘に関わる
主な取り決めが記載されている。そして末尾に、この法は今までの「銀山御法度」を調査し作成し
た規則であり、違反した者はその軽重を問わず籠舎または死罪とする、と処罰についても触れてい
る。この山法を監督するのは石見銀山附地役人であった。
元禄6年(1693)「石州銀山諸間歩御法度之旨山主請負証文」(石陽銀山記)
これは領主側から出された法ではなく、山主側が提出した間歩経営に関する請状で、差出人は山
主の連名である。末尾に「この条目は前々から定められている法度であり、この度改めて厳しく仰
せつけられたものである」とあり、以前から出されてる法令を基本として書かれた誓約文であるこ
とが分かる。
衛が差出人であり、内容は前半までがと同じで、後半は吹屋に関する条目その他について書かれ
同じく石陽銀山記に記載されている 延宝3年(1
6
7
5)正月付「柘植伝兵衛覚」は代官柘植伝兵
ている。内容については後述するが、請負証文の基本となった法度とはこのようなものを指すので
あろう。
また、前出の正徳4年(1
7
1
4)
「覚」にも「正徳四年午四月銀山間歩改帳写」として、請負証文
とほぼ同じ内容のものが記載されている。両者の表題から察するに、間歩改(間歩の数や稼業状況
の調査)や、山主が間歩の稼業を請け負う際に提出したものであると思われる。
ちなみに、山主が間歩の採掘を希望する際には、はじめに吟味の上「稼山帳」
( でいうところ
の「公儀御帳」と同じか)に登録され運上を納めず稼業するが、鉱脈にあたった時には改めて入札
し、落札されれば「請山」となり、その請人は決められた銀の枚数を運上として納めなければなら
ない。さらに請山において鉱石の量が増長すれば、再度入札して運上額高値の者が落札する。稼山
として登録される時、また請山となった時とも山主は請状を提出しなければならないが、その文言
は鉱脈に当たった時や採掘量が増えた時には、必ず報告する旨を誓約する内容となっている(8)。山
主請負証文ではそうした内容も盛り込まれている。内容は次のように書かれている。
(なお、以下
に掲載する史料は筆者の解釈により現代語訳をした。
)
−1
7−
一、前々から定められた法度に違背しないこと。
一、昼夜を問わず、精を入れ稼ぐこと。自ら間歩内に立ち入り稼ぎの状態を把握し、状況が良くな
れば必ず報告すること。
一、稼山・請山ともに鏈が途切れた時も、また鏈に当たった時も、必ず報告すること。
一、山稼ぎに手を抜いている山主がいれば、聞きつけ次第山を取り上げられること。
一、一札山(稼山)として稼ぐ時、鏈を柄山(金属分の入っていない石)に紛らせて抜け荷をしな
いこと。鉱脈に当たったときは必ず報告すること。
一、請山となった時、山主は請人と馴れ合い(談合)をしないこと。稼ぎの状況が良くなった時は
必ず申告する事。
一、山稼に入用の銀米を私的に流用しないこと。
一、お直山及び請山で堀り上げた鏈を仲買人に売却する時、鏈数を調べ書付を取り交わし、鏈を隠
匿しないこと。
一、鏈の入札の際、規程の吹屋でためし吹きを行うこと。鏈の隠匿をしてはならないこと。
延宝3年(1675)正月付「柘植伝兵衛覚」
前出とは途中(山稼入用について条目)まで内容を同じくする。それ以降は吹屋に関する条目
その他である。吹屋に関する条目以下については以下のようなものである。
一、銀吹ならびに仲買とも、証拠のない鏈は買わないこと。もし不審な鏈を売る者があれば訴え出
ること。
付、鏈を買うときは間歩の名称・鏈の量を書き留めておくこと。買った鏈は夜中に宿所へ持ち
込まないこと。
一、銀吹き同士で談合し、鏈を安く買わないこと。銀吹中間で申し合わせ下値で買った場合には、
詮議の上処罰する。
(秤カ)
一、銀吹、仲買とも鏈売買の際は規程の□を用いること。
(虫 損)
付、銀吹の者は吹炭を買い[
]いたし翌年に用いないこと。
(虫 損)
一、当銀山で吹いた灰吹銀を、他所へ[
(虫 損)
付、
[
]してはならない。
(虫 損)
]の者は、鏈を一切[
]してはならない。
一、私用の材木を切り張り□の番所にて運上を納めず取り越してはならない。
一、銀山において、身上のよろしき者は、銀山を立ち退いてはならない。
一、米穀その他銀山へ入る諸色(商品)を扱う商人は、口屋以外より忍び入ってはならない。
一、年々宗旨改が停滞しているので、以後は他所から引越して来る者については支配の者へ届け、
宗旨を書き載せること。
一、諸法度に違背する者があればその者を訴え出すこと、その場合は詮議の上褒美を与える。
掘り出された鏈は試し吹きで銀の含有量を割り出し、仲買人または銀吹が入札で買うのだが、こ
の法令の前半は鏈の抜け荷や不正入札を防止するための規則となっている。後半は銀山町に関する
諸法度で、銀山へ出入る者の管理について触れている。宗旨改については、幕府によって法制的に
−1
8−
整備されたのが寛文1
1年(1
6
7
1)であるので(9)、この時にはまだ確実に実施されずにいたのだろう。
また役銀を徴収するため、口屋以外からの出入りを禁止している。
文化4年(1807)「石見国邇摩郡銀山町五人組改帳」
五人組は周知の通り、5戸前後を一組として農民に相互監視させ連帯責任を負わせるための制度
である。組合員の氏名と捺印を載せた五人組帳が年に一度領主へ提出されるが、その前書部分には
農民の生活全般に関わる最も基本的な諸規定、例えば父母孝行、キリシタンの摘発、徒党逃散の禁
止、年貢の納入、農業の奨励などが箇条書きされている。
石見銀山御料の場合、五人組帳は代官所へ提出されるのだが、銀山支配の拠点である大森町も含
めた一般農村の五人組帳が「地方」
(農政担当)へ提出されるのに対し、鉱山のある銀山町のみは
「銀山方」
(鉱山担当)へ提出することになっている。内容は農業に関する部分が鉱山稼業に関する
規定に置き替えられており、これまで揚げた ∼ とも重複する内容となっている。銀山町住民の
労働および生活全般が一般農村と区別された支配対象であり、また銀山町が鉱山関係者で占められ
ているので、鉱山稼業に関して相互監視が成り立つということを前提として作成されたものと考え
られる。これより古いものが現存しないので、いつ頃からこのような前書が用いられたのか分から
ないが、おそらく ∼ のような法令が整備された内容であると考えてもよいのだろう。
鉱山に関する諸規定について抜粋すると、以下のようなものがある。
一、常々油断無く山稼ぎに精を入れ、町人に似合わない遊事はしないこと。もし家業不精の者があ
れば訴え出ること。
一、請山・稼山とも精を入れ、
「銀山掟」については前々から決められている事柄を遵守すること。
山主は節々間歩内を見回り、状況が少しでも良くなれば稼業を止め報告し、山役人の見分を待
つこと。
一、御直稼山(公費投入の間歩)は山組頭その他の者へ稼ぎの様子を逐一報告し、鏈売買の際も相
場を書き付け、隠匿のないように申し出ること。
付、稼山および自分山(私費経営の間歩)についても、稼ぎ不精の者は山を取り上げる。また、
入用銀米を私用に使わないこと。
一、請山の入札の際、請人・山主が談合した場合は双方とも詮議の上処罰する。
付、請山入札の時は証人を立て、落札した者は遅滞なく運上を納めること。違背すれば処罰す
る。
一、銀山諸運上を遅滞なく上納すること。
一、稼業中は他所より堀子や商人が入り込み逗留するので、在所を確認し、身元が確かで証人があ
れば、宗門を改め寺請状を取り置くこと。もし身元不確かな者を差し置き、問題が発生した時
は町役人の責任である。
一、灰吹銀は品位良く入念に吹くこと。吹き立て次第極印を押すこと、極印のない灰吹銀は取引し
ないこと。また灰吹銀を他所へ持ち出さないこと。
一、諸商売物について、番所を通過せず脇道を隠れ通る者がいれば、見つけ次第訴え出ること。
一、新規に金・銀・銅・鉄・鉛山が出れば、直ちに報告すること。
−1
9−
一、偽金銀・私鋳銭を他所より持ち込む者がいれば訴え出ること。
一、山師町人の屋作については、身分不相応な普請をしないこと。衣類については、町役人は妻子
ともに縮紬布木綿を着用、山師町人は布木綿のほか着用してはならないが、有徳なる者は許可
を得れば着用しても良い。
一、町役人が非分を申し掛け、山師町人をだますなどした時には訴え出ること。山師町人の我が侭
により町役人の申し付けを承引しなければ、詮議すること。
銀山町の宗門帳ではこの外に嘉永4年(1
8
5
1)のものが現存し、内容・文章とも全く同じである
ので、このまま幕末まで踏襲されていたものと思われる。
以上見てきたように、鉱山稼業に関しては、 ∼ でほぼ同じ内容の規定を繰り返している。つ
まり、鉱山稼業の奨励、諸法度の遵守、稼山において鉱脈に当たった時または請山で採掘量の増加
があった時の申告義務、間歩の採掘・鉱石の売買における不正入札の禁止、抜け荷の禁止で、これ
が基本的に遵守すべき規定である。また銀山町の支配については ・ で盛り込まれ、銀山町住人
の質素倹約の奨励、銀山への流入者は身元の確かな者しか認めず、身元確かな者の流出を認めない
という町民の徹底管理、諸商売に対する確実な運上徴収のため脇道通行の禁止が基本的な規定であ
る。さらに は採掘に関して摘要される個別具体的な法であり、これもまた山法の基本法として用
いられた法であったと考えられる。
地役人阿部氏の天保3年(1
8
3
2)の日記(10)には、鏈の不正売買によって処罰された者についての
記述がある。都合1
3
0人もの人が処罰の対象になっており、具体的にどのような不正であったのか
は記されていないが、出所の不確かな鏈の売買、及び銀吹手当の二重取りの不正であったようだ。
正月2
8日代官所御白州にて裁判があり、銀吹師4名および山役人2名が「役儀取放押込」
、銀吹職
4名が「過料銭五貫文」
、山稼人8名が「山稼差留永久稼所水取人足」
、その他1
1
2人が「手鎖」で
あった。永久坑道は御直山で、処罰として坑内の水取人足を命じられるのは興味深いが、それが坑
道内の作業としては最も重労働であったからであろう。翌日には手鎖の者1
1
2人は手鎖を免除され
ている。
このように、法令が作成され成文化されるのは、これら法令と逆の行為が横行していたからであ
り、鉱山社会の特色を反映しているといえる。鉱山の盛行の為には人口の流入は歓迎すべきである
反面、不審者の流入も多かったであろうし、運上を引き上げるためには自由な入札でなければなら
ないが、その反面不正も起きやすいのが実態であった。こうした自由と相反する社会問題が発生し
やすいのが鉱山社会の特色であると言えるだろう。
(島根県教育庁文化財課嘱託職員)
注
(1)『法学史林』42巻10∼12号
(7)山中家文書
(2)思文閣1996年
(8)元禄4年(1691)「万覚書」(阿部家文書)
(3)尊経閣文庫
(9)藤井学「江戸幕府の宗教統制」
(『岩波講座日本
(4)上野家文書
(5)阿部家文書
歴史』11近世3
岩波書店1963)
(10)阿部家文書
(6)野沢家文書(島根県立図書館騰写本)
付記 本稿の執筆にあたって、仲野義文氏のご教示を頂いた。記して謝意を表する。
−2
0−
−2
長安寺と豊栄神社
遠藤
浩巳
はじめに
大田市大森町下河原にある豊栄神社は、幕末の慶応2年(1
8
6
6)に長州軍によって寄進された燈
籠や用水溜などの石造物群が境内に存在することで知られる神社である。この豊栄神社の前身は曹
洞宗の洞春山長安寺といい、石見銀山に戦国時代に創建された寺院で、その後明治3年(1
8
7
0)に
豊栄神社となっている。
長安寺と豊栄神社に関連する史料としては戦国期以降の古文書が残されており、これらの史料と
周辺史料から長安寺から豊栄神社への歴史的変遷を中心にここで概観してみたい。
1
長安寺の創建と元就木像
寺伝によれば、永禄4(1
5
6
1)に毛利元就が山吹城内に自作の木像を安置し、元亀2年(1
5
7
1)
に輝元が洞春山長安寺を建立し木像を安置したといわれる。佐比売山神社の社家であった本城氏の
(1)
所蔵とされる『銀山旧記』に収められた「雑記」
には、毛利氏と長安寺、そして元就の木像につ
いて次のようにある。輝元が山吹城在陣の時に「元就公御自作の像吉田より引き取り、同所長安寺
に安置し給ふて、度々御参詣あり、寺領廿石御寄付有之」とあり、元就自作の木像は吉田から引き
取ったものである、とする以外は寺伝と同様の内容となっている。このように銀山に残された寺伝
や史料などから、長安寺に安置された木像は「元就公御自作」として永く銀山で伝えられていたと
推察される。
しかし新たな事実が近年明らかにされている。現在毛利家で保存されている木像の胎内の墨書銘
によれば、天正1
3年(1
5
8
5)に銀山奉行であった林就長が寄進したと記されているのである(2)。
今
後の検討が必要とされる点である。
さらに寺伝によれば、寺は大谷に建立され初代住職は防州吉敷郡鳴瀧泰雲寺より入山した成庵宝
淳大和和尚と伝えている。このうち寺は大谷に建立されたとあるが、長安寺の存在を示す現存する
絵図史料である「銀山町絵図」
(年未詳:野沢家蔵)と「石見国銀山麁絵図」
(寛政元年:高橋家蔵)
(3)
からは、いずれも現在地と同じく西本坊(西本寺)に隣接した西側の銀山下河原に描かれている。
この点について史料では、長安寺は元禄元年(1
6
8
8)に大破し、元禄1
4年頃には再建され、再び元
文年中(1
7
3
6∼4
0)に類火により本堂が焼失している。そしてこの時までは銀山大谷にあり、寛延
2年(1
7
4
9)に現在地の銀山下川原に移っていることがわかる。
建立された大谷の中の具体的な位置や、なぜ下河原に移転したのかといった詳細な経緯について
史料上見えないが、現時点で推測できることは、山吹城と大手に位置する休役所を中心とした要害
山山麓に毛利氏に縁の深い寺社が配置されており、長安寺についても例外ではなかったということ
であろう。
次に、長安寺の寺領についてである。戦国期の史料である文禄3年(1
5
9
4)の3通から、毛利氏
の家臣によって鬼村(現大田市大屋町)桂久寺と刺賀(現大田市久手町)圓光寺の寺領が併せて長
安寺に安堵されているが、この時は寺領1
5石となっている。慶長8年(1
6
0
3)の「刺賀村之内長安
寺領水帳」と慶長1
2年(1
6
0
7)の「鬼村之内長安寺領之事」は初代奉行大久保石見守治世下で行わ
−2
1−
れた検地である。近世を通じて無壇寺であり寺領も裕福でなかったことで寺の維持について困窮し、
再建などの普請の際には毛利家・長州藩から寄付を受けていることが史料から窺うことができる。
2
長安寺から豊栄神社へ
その後、元就の木像は元禄の再建の頃に萩城に移されることになった。その辺りの事情について
は史料からも断片的に窺えるが、
『銀山旧記』の「雑記」には次のように記されている。
「有る年長
安寺住僧長門へ趣き、本堂建立致度由ニて、御家中奉加の願ひ致され候処に、殿より被仰出ハ、其
元の寺にハ祖父元就自作の尊像を輝元より預け置れし由、何卒自分拝礼致度存候、取寄せ玉ハり候
へかしと被仰候、逗留之内役人衆之咄しに尊像を殿様御拝し被成候而、一家中ハ申に不及、両国の
人民ニも拝礼致させ候ハゝ、奉加より抜群の御為可成と咄されけるにぞ、和尚御尤ニ被存候而帰国
し、早速尊像を持参被致」とある。つまり毛利家と萩藩からの要望により、木像を移すことになっ
たのである。長安寺から発信された元禄1
4年の「覚」によれば、この時木像は長州に預けられてお
り、その替りに絵像が長安寺にあり、新木像を送るので絵像を返すようにと申し入れがあったこと
がわかる。新像は京都で作成され、元禄4年(1
6
9
1)に長安寺に安置されることになった。
幕末の長州軍の寄進、霊社の造営に関連する史料については、慶應3年(1
8
6
7)の「御造営御棟
揚ケ諸式覚」などから詳細を知ることができる。慶應2年7月、長州軍の大村益二郎総督下の第三
大隊が大森に進駐し、この時藩祖を祀る寺の荒模様を見て、藩の許可を得て霊社を造営することに
なったといわれている。
慶應3年2月に棟上式が4月には遷宮式が行われ、8月には完成しているが、この時の本殿・拝
殿再建の棟札には「大願主毛利慶親 代官高須正吉 普請方荒瀬弥次兵衛 別当長安東流」とあ
8
6
9)2月に豊栄神
る(4)。また同年4月からは庫裏建築が同時に行われている。そして明治3年(1
社の神号が下り、同年浜田県の誕生とともに豊栄神社と称するようになった。
現在の境内には本殿、拝殿、随神門の建造物と燈籠1
7、用水溜2、手水鉢1、狛犬2が現存して
いる。昭和1
8年に山陰地方を襲った大水害により豊栄神社境内も被害を受け、いくつかの石造物が
崩壊したようである。大正1
4年の「神社財産登録申請書」(5)によれば、水害以前には境内に下記の
建造物・石造物が存在している。
・本殿(住吉造、檜材、瓦葺)
・拝殿(明神造、松材、瓦葺)
・通殿(流レ造、松材、瓦葺)
・楼門(随神門、欅材、瓦葺)
・手水鉢2(角形、福光石材、高さ2尺)
(朝顔、福光石材、高さ3尺1寸)
・鳥居2(明神形、福光石材、高さ8尺横5尺)
(明神形、福光石材、高さ1丈1尺2寸)
・玉垣(角大格子、福光石材、高さ2尺6寸、延長2
8間)
・獅子2(四重台、福光石材、高さ2尺4寸)
(四重台、福光石材、高さ2尺4寸)
・燈籠2
2(住吉形2−四重台、福光石材、高さ6尺5寸)
(明神形3−三重台、福光石材、高さ7
尺)
(住吉形1
7−三重台、福光石材、高さ4尺5寸)
・用水桶2(桶形、三重台、福光石材、高さ2尺3寸、直径2尺9
5寸)
・土塀2(瓦葺、高さ4尺、延長2
6間)
−2
2−
・石段3(福光石材)
・石垣3(真造2、荒造1)
・制札(松材、高さ5尺)
この記録から、手水鉢や鳥居、燈籠などが水害時に崩壊したことがわかる。
おわりに
「銀山百ケ寺」
といわれた多くの寺院の中の一つである長安寺は、戦国期の毛利氏による建立、そ
して再び幕末に毛利氏(長州軍・萩藩)による豊栄神社としての再建という運命的な歴史を辿って
きた。その歴史は銀山支配の転機に深く関わった歴史であるともいえる。ひとつの寺院史、神社史
という別の視点から石見銀山史を捉えることも今後の課題であろう。
(大田市教育委員会文化振興室)
【付記】
この報告を行うにあたり、豊栄神社宮司長安憲道氏からは所蔵史料閲覧に便宜を図って頂いた。
また石見銀山遺跡総合調査・文献調査団の成果を参考すると共に、松岡美幸氏から目録作成にあた
りご教示頂いた。記して謝意を表したい。
注
(1)『新修島根県史史料篇2』、1966年。
(2)『毛利元就展』図録解説、NHK・NHK プロモーション、1997年
(3)『石見銀山』遺跡の概要、島根県教育委員会ほか、1998年
(4)『神社明細帳』、大森町役場、大田市役所所蔵、1879年
(5)注4に同じ。
−2
3−
豊栄神社(長安寺)の歴史
西暦
年・月
1557
弘治3.
毛利元就、石見銀山山吹城の小笠原氏を攻める。
1560
永禄3.
正親町天皇即位費用として石見銀48貫を献上する。
1561
4.5 山吹城内に元就の像を安置する。
1562
5
毛利元就、銀山を掌握する。
1563
6
石見銀山天皇家の御料地となる。
1571
広亀2.6 洞春山長安寺を建立し木造を安置する。寺料2
0石が与えられる。
7
年未詳
7月16日毛利元就死去。
初代住職成庵宝淳大和和尚、防州吉敷郡鳴瀧泰雲寺より入山。
1573年(天正元年)7月11日死去。
1682
天和2
智向和尚、長安寺修理願いのため山口萩藩へ行く。藩主吉就公に元就公の木像拝礼を望
み萩城に預け、代わりに画像を大森に持ち帰る。
(雲谷等恕筆∼山口洞春寺6代澄長和
尚讃)
1688
元禄元
1698
11
長安寺大破。
代官井口次右衛門寺領検見の際、木像の代わりに画像を預けたという毛利家の書付けが
なければ寺領を認めないという。
1701
14
この年の2月1
2日長安寺修理完了迄の条件で、木像にかえ元禄4年(1691)京都で造ら
れた新像を画像と引き換えに長安寺に納める。
(使者は宍戸八郎衛門、井原彦右衛門と
いう。この頃寺領13石2合)
1736
元文年中
∼40
類火により本堂焼失。本尊・木像・位牌は無事。
――以上が銀山上までの事蹟――
1749
寛延2.
1
1 銀山下河原蔵の段(現在地)に移す。
1763
宝暦13
8月24日第14世死去。
1778
安永7
3月8日第1
2世死去。
1781
天明年間
代官川崎平右衛門安定、寺領減方針から諸山検見を実施。天明6年(1787)長安寺末寺、
88
大田円応寺より書面5部提出により現状維持となる。
1790
寛政2
第1
5世大嶺和尚長州へ行き白銀3枚、10月には白銀30枚を受領する。
1799
寛政11
2月15日第15世大嶺和尚死去。
1808
文化5.8 第1
8世大亀和尚托鉢し、石碑・門標を立てる。
1819
文政2
印墓を再建する。
1820
文政3
代官阿久沢修理義守のとき、元就公2
50年忌につき助情を代官所に申し出、銀3枚を受
く。
1825
文政8
11月7日第18世大亀和尚死去。
1849
嘉永2
長安寺火災。
1864
元治元
第2
2世東流和尚、久手刺賀円光寺より入山。(初代神職光忠)
1865
慶応元
3月1
5日長州軍干城隊の福原総督下の鐘秀と精鋭の2隊が大森方面に進駐。
1866
慶応2
7月1
2日最後の代官鍋田三郎右衛門以下備後国上下へ遁走する。
7月24日村田総督(大村益次郎)下の第3大隊が大森に入る。
1867
慶応3
8月9日長安寺に藩祖元就公の木像が安置してあることを知り、霊社を造営する。
1869
明治2
2月2日、豊栄神社の神号が下る。
1870
明治3.
5 浜田県の誕生とともに、豊栄神社と称す。
1943
昭和1
8
山陰水害により被害を受ける。
(※本年表は豊栄神社宮司長安家作成のものを転載した)
−2
4−
豊栄神社文書目録
番号
年 月 日
文
書
名 (表 題)
発 信 者
受 信 者
内
容
等
1
文禄3(1
5
9
4)
.
1
2.
1
南湘院・高須市介連署打渡状写
南湘院・高須市介
長安寺
長安寺領安堵(桂久寺領・圓光寺領)
2
文禄3(1
5
9
4)
.
1
2.
9
佐与三郎・林志郎連署書状
佐与三郎・林志郎
長安寺
十五石を寺領として安堵
3
文禄3(1
5
9
4)
.
1
2.
1
0 南湘院打渡状写
南湘院
長安寺
南湘院より長安寺領が安堵される
4
年未詳
坪付注文断簡
南湘院
長安寺
長安寺領(鬼村)
5
慶長8(1
6
0
3)
.
8.
1
3
(刺賀村之内長安寺領水帳)
川井小右衛門
長安寺
慶長8年の検地帳
刺賀村
石場宮内助
6
年未詳 9.
8
川井小右衛門打渡状
川井小右衛門
長安寺
鬼村之内長安寺領
7
元禄1
4
(1
7
0
1)
.
2.
1
2
宍戸八郎左衛門・井原彦右衛門
宍戸八郎左衛門
長安寺智向和尚
元就木像・旦那相對のことについて
連署書状写
井原彦右衛門
(長安寺田地替地証文)
龍昌寺・役局
長安寺・圓通寺・
下川原にある畑7ケ所を長安寺に寄附
8
寛延2(1
7
4
9)
.
1
1
浄土寺
9
宝暦6(1
7
5
6)1
1
刺賀村長安寺領年貢勘定目録
刺賀村寺領百姓岡
長安寺
長安寺領刺賀村年貢の内訳
静間村圓通寺
銀山長安寺領田畑御役目差上
大膳太夫
長安寺の無住の件につき、付録3枚の
御役人中
こと
郎・平三郎・
傅五郎
1
0
天明元(1
7
8
1)
.
1
2
刺賀村圓通寺領年貢勘定目録
刺賀村寺領百姓茂
助・藤助
1
1
寛政2(1
7
9
0)
.
1
0
(乍恐以書付奉願上候口上覚)
銀山長安寺
1
2
寛政2(1
7
9
0)
某書状
長州藩役人
長安寺
寺院再建等のため銀子3
0枚を寄付
1
3
寛政2(1
7
9
0)
.
1
1
銀子受取証文
長安寺
鬼武十蔵
銀子3
0枚受け取り
長安信左衛門
竹内初兵衛
1
4
文化8(1
8
1
1)
.
1
2
刺賀村長安寺領年貢勘定目録
刺賀村寺領百姓
長安寺
長安寺領刺賀村年貢の内訳
大膳太夫
元就木像のこと
勝蔵、清兵衛
1
5
文政3(1
8
2
0)
.
2
(乍恐以書付奉願上候)
長安寺
御役人中
1
6
文政3(1
8
2
0)
某書状(後欠)
長州藩
長安寺
銀3枚送る
1
7
文政3(1
8
2
0)
(以書付御願奉申上候)
長安寺
御役所
御添書の願
1
8
文政1
1
(1
8
2
8)
.
1
1
刺賀村長安寺領年貢勘定目録
刺賀村圓光寺
長安寺
刺賀村長安寺領段迫谷の田
同受相人与一郎
1
9
慶応2(1
8
6
6)
.
8
(慶応二年寅八月・古書類写書上控・
長安寺
文禄3年からの文書写
長安寺
長安寺境内の御社の棟上式
長安寺
慶應3年豊栄神社造営の棟上ケ諸式長
石州銀山洞春山長安寺)
2
0
慶応3(1
8
6
7)
.
2
覚
2
1
慶応3(1
8
6
7)
.
2
(慶応三年・御造 営 御 棟 揚
ケ諸式
覚・卯二月世話方)
2
2
慶応3(1
8
6
7)
.
3
乍恐以書付奉願上候
安寺文書写し、
長安寺・圓光寺
大森御本陣所
長安寺庫裏建立
長安寺・町組頭松
大森
庫裏普請のために金百両受け取り
本・世話方年寄
御本陣所
松本・上野・高橋
2
3
慶応3(1
8
6
7)
.
4
金子受取証文
上野・高橋
−2
5−
番号
年 月 日
2
4
慶応3(1
8
6
7)
.
4.
4.
文
書
名 (表 題)
大森町大工請負証文
発 信 者
大森町大工
受 信 者
内
容
等
長安寺
長安寺庫裏普請一式、請負金4
5両
長安寺
請負金4
5両のうち1
8両の受け取り
助一郎・勝平
受相人大工
2
5
慶応3(1
8
6
7)
.
4
金子受取証文
忠平
大森町大工
助一郎・勝平
受相人大工
忠平
2
6
慶応3(1
8
6
7)
.
7
(奉申上候口上覚)
長安寺
藤山小源太
寺格願
2
7
慶応3(1
8
6
7)
.
4
替地証文
長安寺
安立寺
長安寺下河原下組の畑と安立寺の畑の
立入証銀山町
替地
角平・松本市之丞
2
8
慶応3(1
8
6
7)
.
4
替地証文
安立寺檀象惣代立
長安寺
替地証文
長安寺
御初穂寄高調
入人
2
9
慶応3(1
8
6
7)
.
4.
2
5
(慶応三年
長安寺・御初穂寄高調控
帳・卯四月廿五日より
世話方)
丸屋又蔵
水田梅次郎
長谷民三郎
和田善三郎
3
0
年未詳
借用証文断簡
3
1
年未詳
某書状断簡
銀山町長安寺
3
2
年未詳
3
3
明治元(1
8
6
8)
.
6.
2
3
(廻章)
3
4
慶応3(1
8
6
7)
.
3
(豊栄神社慶応三年三月
長安寺
神廟玉垣
寄付名寄名録(写)・干城鐘秀隊)
3
5
慶応3(1
8
6
7)
.
3
(豊栄神社宝物名写控)
3
6
慶応3(1
8
6
7)
.
3
(寄付物品性名記簿
本帳写し・豊栄
神社宝物)
3
7
明治3(1
8
7
0)
.
7
(御除地書類書上帳)
3
8
明治4(1
8
7
1)
.
2
(神社取調書上帳)
3
9
明治4(1
8
7
1)
.
1
0
(豊栄神社除地現収納書上)
4
0
不詳
(覚)
4
1
書類写し(なし)
4
2
年未詳
(官用記)
4
3
慶応3(1
8
6
7)
.
(寄付面面名録帳)
4
4
慶応3(1
8
6
7)
.
3
(寄付物品姓名記簿)
4
5
4
6
(神廟玉垣寄附名録
慶応3(1
8
6
7)
.
4.
2
4
干城鐘秀隊)
(御遷宮御初穂受納帳)
−2
6−
金1
5両受け取り
村々御役人中
−3
1
豊栄神社の石造物
石造物調査部会
調査に至る経緯
石造物調査は平成1
1年度から立正大学文学部考古学研究室(池上悟教授)の協力を得て、分布調
査、悉皆調査、関連調査を行なっている。悉皆調査に伴い銘文を解読していくと、石工の名前が彫
られている石造物が存在した。平成1
3年5月に開催した石造物部会の打ち合わせの折りに、石工に
関する問題が指摘された。この問題を検討するため石工に関する銘文が多い神社の石造物について
調査する必要性が唱えられた。
石造物を継続して調査する調査員の確保が難しいため、銘文の調査は発掘調査や石造物調査の合
間を見つけ実施し、実測調査は2週間の限定で、宮本徳昭氏に依頼することとした。銘文の調査は
城上神社、佐毘売山神社、高砂神社、豊栄神社が終了した。石材については今後の課題である。
2
調査体制
事務局
島根県教育庁文化財課
調査参加者 大田市教育委員会 遠藤浩巳、中田健一、坂根健悦、今岡司郎
島根県教育委員会 鳥谷芳雄、守岡正司
宮本徳昭
整理作業
太田洋子、坂根ミユキ、高村玲子、中川英子、涌井葉子、原美樹、石橋直子
協力者
豊栄神社、長安憲道宮司、松岡美幸、間野大丞
3
石見銀山遺跡の石造物調査略史
石見銀山遺跡の石造物調査は、実測図を作成するなどの考古学的型式学的研究以外にも、金石学
的・石造美術的調査研究が以前から行われている。これらは石造美術などの視点が中心であったが、
寺院の記録などを含めかなり詳しく紹介されている。
一方、石造物石材の多くは軟質で加工しやすい凝灰岩(福光石)が使用され、長年の風雨等によ
り表面が風化し、剥離が進んでいる。銘文については現在では解読できないものも多い。
これまでの調査研究では判読された銘文が紹介されており、その蓄積は石見銀山史を考える上で
も貴重な資料となりつつある。
以下、石造物を対象にした調査研究について、主なものを年代順に紹介する。これ以外にも文章
中で石造物の存在や銘文が紹介されているものがある(1)。
伊藤菊之輔『石見の石造美術』1
9
6
8年
羅漢寺五百羅漢、清水寺不動尊像・毘沙門天像、龍昌寺道場の碑・千手観音座像・五輪塔群、大
安寺大久保石見守の墓碑、豊栄神社用水槽・石灯籠、勝源寺竹村丹後守の宝篋印塔・切支丹地蔵・
切支丹灯籠、佐和華谷の碑、国指定史跡天正在銘宝篋印塔の基礎を紹介する。豊栄神社の石灯籠は
萩型と指摘している。さらに、福光石の石工について、福光石工の誕生や繁栄状況、規律、坪内家
の系図など記述している。
三谷晃「大森五百羅漢像の銘文について」
『季刊文化財第8号』1
9
6
9年
−2
7−
羅漢寺五百羅漢の銘文をすべて調査し、銘文の所在箇所や銘文の様式、寄進者の所在地で分類し
て検討している。
渡吉正「奉行・代官とその遺跡」山根俊久編『石見銀山叢話』1
9
7
2年
大久保長安・竹村丹後・山高孫兵衛・鈴木八右衛門・関忠大夫・浅岡彦四郎・川崎平右衛門定
孝・川崎市之進・会田伊右衛門・川崎平右衛門定安・前沢藤十郎・阿久沢修理・森八左衛門の墓
所・供養塔の存在を紹介し、銘文を載せている。
三谷晃「大森五百羅漢」山根俊久編『石見銀山叢話』1
9
7
2年
羅漢寺五百羅漢について文献「五百羅漢寺記」及び「石州銀府石室山羅漢寺無量寿院記」の読み
下し分を全文載せ、由緒を紹介している。また、石仏の銘文を調査し、寄進者像や造像契機・石工
など幅広く検討している。石工については坪内家の系図も掲載している。
伊藤菊之輔『島根の石造美術』1
9
7
3年
多くは上記の『石見の石造美術』から引用である。
(羅漢寺の五百羅漢は抄録である)国指定史
跡天正在銘宝篋印塔の基礎、勝源寺にある竹村丹後守宝篋印塔・切支丹地蔵、羅漢寺五百羅漢を紹
介する。羅漢寺五百羅漢と大久保石見守の銘文を紹介する。
三谷晃『大田市碑石散歩』 1
9
7
7年
大田市内の碑を多く紹介している。所在地別にまとめ、大きさや建造年、銘文などわかりやすく
配置されてる。大森町内では、井戸公碑、大久保石見守碑、華谷先生碑、龍昌寺道場の碑、羅漢寺
概梗概碑が紹介されている。羅漢寺 概碑の銘文、龍昌寺の道場の碑、大安寺大久保石見守の銘文
を紹介している。大久保石見守碑については、碑文をすべて載せ読み下し文をつけている。
石村禎久『石見銀山異記下』1
9
8
2年
「奉行と代官の点描」で、各奉行代官の生い立ちや業績などを紹介している。その中で、竹村丹
後守、山高孫兵衛・鈴木八右衛門・関忠大夫・浅岡彦四郎・川崎平右衛門定孝・会田伊右衛門・前
沢藤十郎・阿久沢修理・森八左衛門の墓所・供養塔を紹介し、石造物の銘文も詳しく解説している。
「大久保石見守の逆修塚と紀功碑」で、大安寺にある逆修墓や紀功碑の銘文を紹介している。さら
に、温泉津町恵 寺・愛宕山の2カ所にある逆修墓も紹介している。
「宗岡佐渡と吉岡出雲の墓」
で、各人物や墓の紹介を行っている。豊栄神社についても詳しく述べられ、
「大森進駐の長州軍」
の中で神社境内に残る隊士名が列記されている。
原 宏一 「野の石―山陰の石仏―」1
9
8
4年
豊栄神社石製用水槽、極楽寺十王堂にある閻魔大王像、羅漢寺五百羅漢像、清水寺毘沙門天像・
蔵王権現像を紹介し、極楽寺十王像には一番から番号がつけられ、文化十四年・十五年銘があるこ
とを紹介する。
石工については上記した伊藤菊之輔『石見の石造美術』1
9
6
8年や三谷晃「大森五百羅漢」山根俊
久編『石見銀山叢話』1
9
7
2年の他に温泉津町誌編さん委員会編『温泉津町誌上巻』
「第4章温泉津
町の産業」1
9
9
4年や『同誌中巻』
「第5章むらの生業とくらし」1
9
9
5年において、温泉津町の産業
として福光石加工の項目をたて、石工組織などについて検討されている。
4
豊栄神社の石造物
豊栄神社は、元洞春山長安寺と言い(2)、毛利元就を祀っていた。幕末に長州軍によって寄進され
−2
8−
た灯籠などが多く存在することが知られている(3)。詳しい沿革については遠藤氏の報告を参照して
いただきたい。
今回、豊栄神社の石造物について概略を紹介する。
(1)石造物の配置(第1図)
現在、神社には灯籠2
1基、狛犬2基、防火槽2基、御手洗1基、石鳥居などがある(4)。
市道から神社にはいると参道両側に灯籠
(2
4,
2
5)
があり、木製の鳥居をくぐると、防火槽
(1
6,
1
7)
が残存する。門をくぐると左手に御手洗
(2
6)
があり、右手に灯籠が片付けられている。石鳥居
(2
9)
の跡を過ぎると拝殿前両側に狛犬(2
7,
2
8)がある。拝殿や本殿の右手に多くの灯籠が存在する。本
殿左手には標柱(1
9)が立てかけられている。
(2)石造物の説明(第2,
3図)
防火槽(1
6,
1
7)は径9
2cm の円形で、2条の突帯が巡り、3つの半円形の足を持つ。基礎が3段
である。石鳥居(1
8)は笠木と鳥木が一石で、厚さ3
0cm、残存長9
6cm を測る。全体に上方に反り、
鳥木には深さ5cm、6cm 四方のほぞが開く。標柱(1
9)は頂部が丸みをもつ円頂方形型である。
御手洗(2
6)は下方に抉りを持ち、下方が細くなる。狛犬(2
7,
2
8)は(2
7)は口を閉じ、
(2
8)は
玉を銜える。表面には毛が表現される。階段の前の(2
9)は鳥居の基部と思われ、断面は径2
2cm
の円形で、上部は折れる。
第1図 豊栄神社石造物配置図 (番号は挿図番号と同じ)
−2
9−
灯籠は大きく分けて3種類あり、基礎は確認できるものはすべて中空である。 円形の長い竿の
中間に節を持ち、八角形の火袋には二方に窓を持つ。蕨手を持つ笠に宝珠を乗せるもの。最下段の
基礎は1
8×7
9cm の石を使用する。1個体のみ確認できる(2
3)
。 3段の基礎の上に足をのせ、横
長の火袋、その上に切妻家型の笠がのるもの(2
0,
2
1,
2
2)
。最下段の基礎は幅2
1cm、長さ9
3cm の
4石を使用する。県内では類例を知らない。 数段の基礎の上に方形のスマートな竿がのり、立方
体の火袋に反りのある笠を置くもの。
0)
第2図 豊栄神社石造物実測図(1)(S=1/3
−3
0−
第3図 豊栄神社石造物実測図(2)(S=1/3
0)
−3
1−
の笠は4方向に大垂木が表現され、竿により2つに分けられる。(20)の棟は欠損し、竿は獣
足型をする。
(2
1)は棟長5
4cm、火袋の窓には割付線と考えられる陰刻線が残る。
は規模や笠の形状から数種類に分けられる。規模は2種類あり、(24、25)は大きく、笠幅96cm、
竿長7
2cm を測る。他の個体はこれより小さく、
(8)で全長1
9
8cm、笠幅5
5cm、竿長5
6cm を測る。
笠の形態には2種類ある。1つは単純な笠で火袋に接する方は平らで、外面が反るもの(6など)
。
他方は火袋に接する面は平坦であるが、唐風の軒で、上方に径6cm の円形文が削り出されている
(1,
2など)
。
(3)石造物の片付け(第1図)
昭和1
8年の大水害は豊栄神社の石造物に大きな影響を与えた。神社の北側にある谷で鉄砲水が発
生し、これにより幾つかの石造物は破損した。現在、参道北側(1
5、1
8など)、門や狛犬の裏側
(9、
1
0など)の2箇所に片付けられている。石鳥居もこの時倒れたと思われる。片付けられている石材
の量から判断すると本来灯籠は左右対称にあったと思われる。
5
まとめと課題
今回の直接の目的であった石工に関する情報は、慶応期に造られた(2
0)の石造物に「福光石工
棟梁甚四郎」の記載が存在した。昭和1
8年の大水害で石造物に多大な被害があったことは明かであ
り、当初は石工名が記載された石造物はさらにあったと思われる。また、
「寄付物品性名記簿本帳
写」
(豊栄神社文書3
6)には現在確認していない石造物の記載があり、その中に石工の名前がある。
今回は現地に残る石造物の実測・銘文調査の報告であったが、今後、文書に残る石工の情報収集
も行い、石工の問題についての資料を提示する必要がある。
また、風化している石造物が多く、今後に残す方法を検討する必要があることも判明した。
(文責 宮本徳昭・島根県文化財保護指導委員、守岡正司・島根県教育庁文化財課)
注
(1)例えばシンポジウム内で大森町栄泉寺の裏山に天正20年銘の石塔があることが指摘されている。田中圭
一「石見銀山の開発と集落の形成」
『シンポジウム日本鉱山史からみた石見銀山報告書』大田市教育委
員会 1992年
(2)坪井良平『日本古鐘銘集成』1
972年
角川書店によると応永17年銘花尾八幡宮鐘には山口市小鯖泰雲寺
(旧闢雲寺)へ移されたときの以下の追銘があるという。
「今月光山闢雲寺常住也
石州銀山長安寺大翁代改之
時文禄二年癸巳林鐘初一日淳虎謹敬白」
(3)石村禎久『石見銀山異記下』1982年
(4)現在、片付けられている灯籠もあるが、実測可能なものは図上で復元した。
銘文表:現地で確認できない銘文でも「寄付物品性名記簿本帳写」
(豊栄神社文書)で確認できたものについ
てはゴシックで記入した。
−3
2−
番号
1
2
3
4
5
6
−3
3−
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
器種
規模
銘文
(幅×高)
灯籠
76×(200) (正面)奉献 高瀬源盛質
灯籠
73×(200) (正面)奉献
(左側)津田方義
(裏側)歳丁卯春二月
灯籠
75×(175) (正面)奉献
(左側)平岡兵部通義
(裏側)丁卯三月
灯籠
76×209
(正面)奉献
(左側)梨羽景直
(裏側)慶應丁卯孟秋
灯籠
72×182
(正面)奉献
(右側)中村権兵衛淳義
(裏側)丁卯六月日
灯籠
72×196
(正面)奉献
(右側)藤山小源太直足
(左側)維歳丁卯秋七月日
灯籠
73×(138) (正面)奉献
(右側)永安雅平方幹 國司又三郎政明
(左側)歳在丁卯屯日二月
灯籠 54×(126)
(正面)奉献
(左側)梨羽景直
(裏側)慶應丁卯孟秋
灯籠
笠のみ
灯籠
笠のみ
灯籠
竿のみ
灯籠
11×(96) (正面)奉献
(右側)北第一大隊
(裏側)丁卯三月
灯籠
70×(96) (正面)奉献
(左側)北第一大隊
灯籠
(正面)奉獻
(左側)津田方義
(右側)歳丁卯春二月
灯籠
(正面)
奉獻
(左側)荒瀬彌次兵衛尚勝
(右側)歳在丁卯屯日二月
防火槽 1
30×(150)(上段正面)用水
(下段正面)勇力隊中
17
19
20
21
22
23
24
防火槽 130×(155)(上段正面)用水
(下段正面)勇力隊中
標柱
35×85
(正面)洞春山
毛利元就公菅提所御木像安置
長安寺
(裏面)文化五戊辰八月吉日當寺十八世大亀
灯籠
114×(245)(上段)奉献
(下段正面)装條銃隊第貮大隊三番中隊
(下段裏面)慶應三丁卯十二月吉日
灯籠
114×(240)(上段)奉献
(下段正面)装條銃隊第一大隊一番中隊
(下段裏面)慶應三丁卯十二月吉日
灯籠
115×(255)(上段)奉献
(下段正面)装條銃隊第一大隊□番中隊
(下段裏面)慶應三丁卯十二月吉日
灯籠
96×(288) (正面)奉献 世臣精鋭隊 百五十有名
(裏面)維時丁卯六月日
灯籠
113×272 (上段)奉献第三大隊
(中段)貳番中隊
(下段正面)銃手
貞光九郎唯方
吉武新太郎義政
浅海彌三郎道信
福田公郎道英
飯田信吉正常
石井鷹治郎為朝
山根久之助信光
小林助藏直明
笹井来藏秀之
水田善作長光
小林庄三郎正信
岡本直助直方
石田権之助信道
伊藤平治実利
作田義熊貴継
荒瀬巳之助勝之
岡本常一郎直光
山根八郎幸秀
山根甚平秀行
(下段裏面)森岡正藏信一
北村源吉長光
浅海正吉道胤
浅海東馬秀信
田中正七郎時忠
宗内亀三郎秀之
浅海四郎道秀
吉村三郎直光
高村清十郎春久
松村助四郎長久
宗内七郎直光
木村清助勝久
木下重三郎一義
石井宗太郎通良
高村治人知忠
河内山清一安茂
清水孝太長秀
神代久五郎秀勝
小野村久太郎忠鑑
高村房吉泰忠
(下段右側)中村五郎正義
田中宗四郎忠勝
石井銀助忠儀
小林為蔵直忠
野村直平頼種
磯部常蔵正道
田中忠助義光
森國誠太郎純一
山根栄太郎繁昌
米藏耕吉正勝
田中良作英正
吉村弥右衛門忠道
湯浅武兵衛信道
山根多治平忠光
岡本豊助成知
中村忠左衛門忠吉
小林亀治郎直則
三戸為八久勝
加藤直左衛門清忠
浅海定右衛門直美
神代安之助光直
25
灯籠
113×272
−3
4−
(上段)奉献 第三大隊
(中段)貳番中隊
(下段正面)中隊司令士
栗屋半蔵則俊
小隊司令士
小川與之助藤原正永
半隊司令士
太田久太郎源胤直
木屋雅雄藤原安行
先小隊司令士
内藤駒之烝藤原幸恒
嚮導兼書記
伊藤新九郎利直
奥田潤八義則
谷川源吾保基
吉武瀧左右衛門乗道
會計
河村彦之進直昭
児山伊平幸重
小斥候
村尾右内芳英
上田太郎正武
皷手
藤井勘四郎延清
吉村誠之助直忠
伍長
石崎市之進長義
藤井三四郎惟孝
岡村房太郎為減
貞光芳輔保唯
吉武又八重□
青木信之進正賢
中村宗輔義賢
吉武治郎道春
伍尾
長宗虎十郎智明
石井十郎朗知
篠原司馬之助資忠
尾崎與八郎忠明
浅海次郎兵衛光信
26
27
御手洗 92×64
菅寛之助高清
河内山右仲景福
金子善九郎珍寛
器械方
松村文右衛門善次
中村要造忠一
□村貫一忠治
林甚藏正道
益本甚七宗勝
谷川清四郎忠道
(正面)奉献
□□□□□子
□□□□□為質
白□□□助忠義
□下源次郎守常
伊藤次郎□義□
南野左門次憲□
塩見忠之助養直
児玉卯之助莚義
□□□郎太正則
□□□□□市□
□□□□□宗久
(上段正面)奉献
(中段正面)第一大隊四番中隊
中隊司令 有地藤原信政
小隊司令 天野藤原信□
半隊司令 □藤□□□□
奇数小隊 嚮導
入江長右衛門信之
□□□□□
(右側)銃手
井尻又作顕
児玉作平友信
堀傳八保房
内山久之進弘範
野村善之助通義
山本城助信清
村井弥八吉紀
原傳人清則
大庭佳造義利
28
狛犬
前田半造正信
(裏面)三戸利三良政春
松井又左衛門宣義
三戸猪之助豊信
上野慎八勝成
渡邊恒分正武
揚井安左衛門信正
渡邊七良満□□
玉木藤三良精一
揚井忠次光明
光藤権七正友
神保太一良眞義
櫻井政克憲
前田虎一英利
(左側)宮川留之助通品
櫻井半三良正之
小林留二良忠義
佐部与一高重
玉井安□眞忠
平川栄三良信豊
前田信兵利幸
徳田良質武俊
高豊蔵好信
児玉弥之助清信
全川新次良忠正
107×(157)
(上段正面)奉献
(中段正面)第一大隊貮番中隊
中隊指令
祖式信頼
小隊指令
鳥屋原源孝範
半隊指令
村田源徳之
奇数小隊 嚮導 片山正作孝治
百村発蔵義郷
銃手 片山多三郎護公
(右側)草川千代熊正光
伊達百輔政一
船越助七貞起
柿並清作利春
三輔仁三郎義則
高林和兵二正倫
片山文七宜行
−3
5−
井上市郎右衛門秀一
阪垣蓑作重心
中村太郎勝宗
永富久次保之
中村作二郎重軋
(裏面)松田英顕
伊藤正之進基通
河野勘蔵武好
金子孫之允正信
木村庄之進友貞
草川栄之助高行
厚東官之助利頼
有田吾八郎正包
河野栄二應清
兼安作二郎清勝
田中甚吉利一
林栄太郎盛章
大中次郎勝義
(左側)南野勝熊忠光
片山直七義勝
藤卯元二郎重信
竹重卯衛兵重春
浅野茂平次重忠
今井健作幸高
中村現三郎忠明
池田惟市正方
(下段正面)偶数小隊
嚮導 内田鴨助一心
牛田勘二兵衛清則
銃手 河村源之烝方武
野村亀太郎高上
長谷川平八信幸
長田唯造正義
山縣万騎八道一
山田勝太直梢
徳富恒祐直数
槇村恒七定義
西八郎次幸信
中島弥市信定
中島栄助祐宗
29
鳥居
42×(61)
(下段右側)金子弥四郎義一
守永英作信春
桑原興八作尚武
河村百合蔵知良
伊藤志郎恒春
藤山小七郎宗治
村田興三次数禎
佐田光蔵盛昌
松原栄吉昌訓
土井政助利知
戸川恒□□
世良俊蔵陳喜
(下段裏面)松井久之進朝義
守永九助政勝
山田卯三太忠義
高椙平太郎宣喜
平野栄次郎頼忠
安達章造正之
伊藤辰之進重勝
茂岡重之進正信
一本木寛太郎清安
阿山宗太郎直壱
福光石工
棟梁 甚四郎
(正面)□□輔為質□
諏訪賢熊左衛門
藤井牧太郎信秀
岡田又重郎長明
梅田太門治實直
飯田兵五信為
田原平四郎秀家
河野孫四郎貞知
長宗百合熊直光
飯田八十八明常
松本直衛房儀
武嶋清一良清房
飯田光五郎儀行
4
5
6
7
8
1
7
1
9
2
0
2
1
2
3
2
6
2
8
−3
6−
−4
大森地区の一石五輪塔・組合せ宝篋印塔の一例
鳥谷
芳雄
はじめに
ここに紹介する石造物は、石見銀山遺跡のある大田市大森町に所在する一石五輪塔と組合せ宝篋
印塔の各1基である。石見銀山遺跡は銀山(山内)地区と大森地区とに二分されるが、本資料は後
者に位置している。
両塔は紀年銘を有していないものの、その形態的特徴から遺跡内の一石五輪塔・組合せ宝篋印塔
にあってはいまのところ最も古い様相を示すものであり、ともに石見銀山における石塔の変遷を知
る上で貴重な資料と考える。
1
両塔の位置と概要
両塔は大森町上佐摩地区から桜橋を抜けて石見銀山遺跡に入って間もなく、国指定史跡大森代官
所跡に至るまでの県道脇の山裾に遺存する。周辺には代官所跡をはじめ、向陣屋跡、御銀藏跡、城
上神社、勝源寺、宮ノ前地区遺跡などがあり、また、背後の丘陵頂部には城上神社の元宮があった
とされている。発見の経緯は一昨年筆者が県道を通過中、偶然山裾に確認したものである。両塔は
寄り添うように存在し、県道が設けられた際に移動した可能性がないわけではないが、場所はそれ
ほど大きく変わっていないと思われる。
五輪塔(1)は空輪、風輪、火輪、水輪、地輪を一石から作り出す、いわゆる一石五輪塔である。
最大高6
2.
4 、最大幅2
5.
0 、最大奥行き1
9.
6 を測る。ただし、正面観と側面観は一致せず、正
面からみると各部位における縦横の比率は横に長い。一方、側面からみると、横長とはいえ正面ほ
どの幅はない。また、背面は各部位の区分は明瞭であるものの、正面ほどに凹凸が彫出されず、側
面からみると地輪から空輪まで、背面側の側線がほぼ一直線上に並ぶ。
細部においては、空輪は頂部が僅かに尖る。空輪と風輪は界線によって区分され、空輪下部の絞
りはほとんどない。正面からみると、石材に制約されたのか、製作途中で欠けてしまったのか、はっ
きりしないが、向かって左側は膨らみに
欠ける。火輪は各面に棟線と直立する軒
口が表現される。軒口は下端がほぼ水平
であるのに対し、上端には反りがある。
水輪の正面は球体に近く彫出され、その
重心もほぼ中央に位置する。背面は平面
的で球体はほとんど表現されない。地輪
の底面中央には円形の浅くてやや粗い彫
り込みが認められる。
この五輪塔はおそらく前述の法量をそ
れほどうわまらない竿状の石材から成形
されたと考えられる。全体のバランスを
みると、空・風輪、火輪、水輪、地輪は
−3
7−
縦方向にほぼ四等分されていることが分かる。また、すでに触れたように各部位が横長に成形され、
特に正面観において安定感がある。石材は凝灰岩である。
組合せ宝篋印塔は、相輪部の先端と下半の2点
(2・3)
、笠1点
(4)
、塔身1点
(5)
、基礎1点
(6)
、合わせて5点が確認できる。相輪の先端は丸みのある宝珠で、重心がほぼ中央に位置する。
下半部は素面の九輪部と、同じく素面の請花部からなり、下端にほぞを作り出す。
笠は上位に4段(最上段は低い)
、下位に1段の段級を彫出し、四隅に隅飾り突起を置く。隅飾
りは少し外傾し、輪郭線は途中で内側に向かって一端小さく巻き上がる。下位の段級側面には各面
とも9本の縦連子が刻まれる。上部中央に相輪を差し込むためのほぞ穴が空く。塔身は縦・横・高
さが同寸の立方体である。四面にアク・ウーン・タラーク・キリークと金剛界四仏の種子を刻む。
上下両面には一辺1
0 で深さ8 ほどの浅い彫り込みが認められる。
基礎も縦・横・高さが同寸で、四面に側縁が直立する格狭間を彫り込み、上部に反花座と段級を
彫出する。段級には側面に縦連子を刻み(2面が9本、残る2面が1
0本)
、反花座は中央に複弁、四
隅に単弁をおき、その間に間弁を入れる。底面には深さ6 で断面台形の比較的丁寧な内刳りを施
す。紀年銘などは認められない。
石材はいずれも凝灰岩で福光石製と考えられる。ただ、相輪部の2点は先端部がやや硬質、下半
部がやや軟質で軽い印象があり、これに限っては別個体のものである可能性がある。
3
石見銀山における一石五輪塔と組合せ宝篋印塔
石見銀山遺跡における石塔の考古学的な調査は、1
9
8
7年蓮岡法 氏によって紹介された「紀年銘
のある石塔」が早い例であり(1)、その後は9
6年から9
8年にかけて実施された石造物調査報告(2)、そ
してさらにその延長上で調査された2
0
0
1年の「妙正寺跡」や2
0
0
2年の「龍昌寺跡」調査報告(3)など
がある。これらの成果を踏まえると、石見銀山遺跡では五輪塔・宝篋印塔などの石塔が極めて特徴
的な在り方をすることがうかがえる。
0)
第2図 大森地区の一石五輪塔と組合せ宝篋印塔実測図(S=1/1
−3
8−
一石五輪塔については、1
6世紀の後葉、天正・慶長期からの造立が確認され、新しくは1
8世紀前
半まで継続して存在することが明らかにされている。一石五輪塔は、一般には江戸時代に入ると急
減するとされるが、石見銀山ではかなり長期に及び独自の発展を遂げていることがうかがえる。ま
た、形態的にこの間の一石五輪塔は、火輪が笠の軒口を表さず、しかも棟線は反りを持たないとい
う大きな特徴がある。そして、変遷についてはとりわけ地輪にもっともよくその変化が現れており、
やや横長、もしくは正方形のものから縦長のものに変化する傾向が認められる。
組合せ宝篋印塔は1
6世紀後半、いまのところ元亀3(1
5
7
2)在銘のものを最古とし、およそ天正・
慶長年間のものが多く存在し、新しくは1
7世紀半ばまで存続することが確認されている。この組合
せ宝篋印塔にやや後出し、1
8世紀前半までみられる一石宝篋印塔とも合わせ考えれば、これも石見
銀山においてはかなりの期間多用された石塔型式とみることができる。そして、その形状も特徴的
であり、基礎の直線的で形骸化した格狭間、厚みはあるが線刻による形骸化した反花座、上位段級
および笠下段の縦連子などは、銀山特有のものとみてよいであろう。また、その型式的な変化にお
いては、基礎の場合についてみると、およそ底面の内刳りが無いものからあるものへ、格狭間表現
があるものから無いものへと変化する傾向が認められる。
このように石見銀山遺跡にあっては、一石五輪塔は特に火輪に軒口幅と反りがないのを特徴とし、
組合せ宝篋印塔では基礎において形骸化した格狭間と反花座、および縦連子を伴う段級表現を特徴
としており、しかもこの両型式が1
6世紀後半にほぼ定型化し、江戸時代前期を通してかなりの期間
通用していたことがうかがえる。
4
両塔の特徴と年代的位置づけ
一般的に五輪塔を一石で造る様式は、室町時代に入り、6
0 前後と小型化・簡略化したものが多
出するとされており(4)、本例もその種の一例と考えられる。さらに限定して言えば、いま直ちに比
較できる資料には恵まれないものの、銀山遺跡においては徳善寺跡の天正1
0年(1
5
8
2)在銘石塔(5)
が参考になると思われる。まず、火輪においては大森の例が軒口を表すのに対し、徳善寺跡の例は
銀山通有の軒口を表さないものであることから、前者が後者より先行するタイプであるとみて差し
支えないであろう。そして、その上で注目したいのは比較的横長の地輪および水輪とやや高さのあ
る火輪とのバランス関係であり、両者は似通った構成をなしている。この点を踏まえると、両者は
直接的な系譜関係にない可能性があるものの、極端に時期幅はないように考えられる。
組合せ宝篋印塔は、従来知られている資料に相似するものであり、時間的にも極めて近い関係に
あると考えられる。しかし、細部の点では格狭間のかたちと表出数、段級の縦連子の本数などに違
いが認められ、前後関係を表すものとみられる。すなわち、格狭間は同じ直線的表現であるが、従
来のものが逆台形状に表現されるのに対して大森の例は側縁が直立する。また、格狭間は前者が1
面のみ表現されるのに対し、後者は4面とも表出されている。そしてまた、段級の縦連子は前者よ
り後者が本数が少なく表現されている。こうした要素の違いは、後者、すなわち大森の例が従来の
例に先行する型式であることを示していると考えられる(6)。
因みに、本例の基礎に類似した資料が石見銀山資料館に保管されている(7)(第3図)
。縦・横・
高さが同寸の立方体を加工したもので、縦連子のある段級、反花座、格狭間からなる。底面に内刳
りはなく、銘文も認められない。成形・調整ともに丁寧で、白灰色を呈する福光石である。特徴と
−3
9−
第3図 石見銀山遺跡における慶長以前の一石五輪塔と組合せ宝篋印塔の変遷
(S=1/1
0、大森両塔および資料館保管の基礎以外の実測図は、1
9
8
7年の報
告書より転載。なお、龍昌寺跡・慶長1
2年は一石宝篋印塔の基礎である。
)
−4
0−
して段級の縦連子は1面が8本、残り3面が9本刻まれる。また、格狭間は本例と同じ側縁が直立
するタイプである。ただし、格狭間を一面のみ彫り込む点が異なる。特にこの点は、大森の例と従
来知られている例との中間的な形態であることをうかがわせるものである。
石見銀山遺跡において今日知られている組合せ宝篋印塔のうち最も古い資料は、既述したように
龍昌寺跡で確認された元亀3年(1
5
7
2)在銘のものである。大森の例の諸要素は従来のそれより古
いものとみたが、となれば年代的にはこの元亀3年よりも少し古く位置づけるのが妥当ではないか
と考える。現時点で両資料に実年代を与えるのは難しいが、以上の考察からは一応、一石五輪塔が
およそ1
6世紀前半代、組合せ宝篋印塔が1
6世紀中頃のものと考えておきたい。
終わりに
小稿で紹介した二つの石塔は、実年代で言えば、おおむね1
6世紀前半から中頃までのものとみて
はどうかとした。これが正しければ、今のところ銀山遺跡で知られるものとしては最も古い一石五
輪塔なり組合せ宝篋印塔である。そして、重要なのは形態的にみた場合、一石五輪塔は石見銀山に
おいてそれが定型化する以前のもの、また、組合せ宝篋印塔は同じく石見銀山で定型化したその初
期型式のものではないかと考えられる点である。
なおこの両塔について付言すれば、ともに石見銀山遺跡のなかの大森地区で確認されたことも重
要かと考える。なぜなら、石見銀山遺跡にあっては、調査研究の関心がこれまで鉱山部分である山
内に集中していたきらいがあり、大森地区がその前史も含め、山内との関わりのなかで歴史的にど
のように形成・発展したのか、必ずしも十分に解明されているとは言い難いからである。その意味
で両塔の紹介が、近年当地区で進められた発掘調査の成果(8)とともに、当地区を見直す契機になれ
ばと思う。
注
(島根県教育庁文化財課)
「紀年銘のある石塔」『石見銀山遺跡総合整備計画策定報告書』(島根県教育委員会、1987.3)
(1)蓮岡法
(2)田中義昭ほか『石見銀山遺跡総合調査報告書第3冊(城跡調査・石造物調査・間歩調査編)
』(島根県教
育委員会、1999.
3)
(3)池上悟ほか『石見銀山遺跡石造物調査報告書1ー妙正寺跡ー』
(島根県・大田市教育委員会、2
001.
3)、
池上悟ほか『石見銀山遺跡石造物調査報告書2ー龍昌寺跡ー』(同上教委、2002.
3)
(4)庚申懇話会『日本石仏事典(第二版)』(雄山閣出版、1980)
(5)前注(3)に同じ。
(6)この格狭間や縦連子表現などの変遷については、詳しくは別稿で述べたいと考えている。
(7)石見銀山資料館所蔵。解説には仙ノ山の真光院から発見されたものとあるが、真光院は現在確認できな
い。この資料の実測に当たって、同館学芸員仲野義文氏に御協力いただいた。注ながら記して謝意を表
したい。
(8)先年調査された代官所跡前では戦国期に遡る遺構・遺物が確認され(未報告、遠藤浩巳氏の教示によ
る)、また、最近調査された宮ノ前地区でも近世初頭の遺構・遺物が発見され注目されている(同じく
遠藤氏の教示による)。
−4
1−
大森地区の一石五輪塔・組合せ宝篋印塔
−4
2−
−5
於紅ヶ谷地区出土の鉄砲関係品について
今岡
司郎
はじめに
石見銀山遺跡では、工具や生活道具の他に鉄砲関係品も出土している。本稿では於紅ヶ谷地区か
ら出土した鉄砲部品について紹介する。
1
鉄砲部品「用心金」
用心金は引き金を覆い保護する金属製の枠であり、ハートを縦に割った様な形状で鉄砲の暴発や
誤発を防ぐために必要な部品である。
一般に江戸前期以前では具足を身に着けた状態での射撃を前提としていた(1)。このため銃床が切
り詰められて短いチークストック形式の鉄砲が多く、国友籐兵衛能当が製作した気砲(空気銃)等
の例(2)を除いてショルダーストック形式の鉄砲は、具足を身に着けない洋式操練が主流となる幕末
期まで普及しなかった。
チークストック形式の鉄砲は銃床を肩に依たくするのではなく、頬に密着させた姿勢で射撃する
ため、伏せた姿勢での射撃は困難であり立姿か片膝等の中間姿勢での射撃が主体となる。また照準
した状態で引き金を引く右手を離すことは大変困難である。操作性の面から大振りな用心金は不適
当である。これに対し、ショルダーストック形式の軍用小銃の多くのものは、銃剣を装着し銃槍と
して使用することを前提として製作されたため用心金は比較的幅広である。
2
於紅ヶ谷出土品の用心金
於紅ヶ谷出土の用心金は、出土の状況から江戸前期以前の遺物と考えられ、象眼彫刻等の装飾は
観察されない。遺物の状況から素材は銅の合金と考えられる。全長9.
5cm、幅0.
9cm、厚さ0.
5
5cm
で、釘穴は径0.
2
5cm で両端にもうけられ2つの釘穴の距離は8.
5cm であり細身の把手金具様の形
状をしている。しかしながら、仔細に観察すると、釘穴を結ぶ線とそれぞれの取り付け面の延長線
は同一線上にはなく、底辺8.
5cm 高さ0.
7cm の三角形を構成する。これは金具を取り付けた対象が
屈曲している可能性を示すものである。
報告書(3)では把手金具として報告されているが、上述の特徴的な形状から日本国内で生産された
火縄銃に多くみられるチークストック形式の鉄砲部品の用心金と考えるのが適当であろう。
(大田市教育委員会調査補助員)
注 (1)須川薫雄「日本の火縄銃」1989年4月10日、光芸出版
(2)所荘吉「火縄銃」1969年11月20日、雄山閣
(3)島根県教育委員会/島根県大田市教育委員会「石見銀山遺跡発掘調査概要1
1 於紅ヶ谷地区」2
001
年3月。2001年5月奈良文化財研究所の村上隆主任研究官から用心金ではないかとの指摘を頂いた
ことを契機にこの遺物についての再検討を行った。
−4
3−
−6
宮ノ前地区出土の須恵器
中田
健一
今回紹介する資料は、石見銀山遺跡宮ノ前地区から出土した須恵器である。宮ノ前地区の発掘調
査は、平成1
1年3月から行われ、平成1
3年1
2月に概ね終了している。調査の主体は大田市教育委員
会で、現在遺物の整理、報告書作成作業中である。
したがって、現段階では速報的になるが、近年石見銀山遺跡の周辺で出土例が増加している歴史
時代の須恵器にもふれながら、資料として紹介し、今後の展望を待ちたい。
さて、図に示した須恵器が宮ノ前地区1区出土の須恵器である。口径は1
5.
8 、底径、6.
5 を
測り、底部切り離しは、糸切りによる。色調は外面が淡灰褐色、内面が灰褐色を呈する。糸切り痕
は、大田市白坏遺跡の糸切り痕に比べて粗雑である。切り離し後の板状工具による擦痕が認められ
る。
出土した遺構面は、上面から数えて第3面からの出土であるが、遺構に伴うものではない。
宮ノ前地区1区の時期は、第1面は幕末から明治以降、第2面では、近世初頭の遺物相を示し、
遺跡の中心となる層位である。須恵器出土の第3面は、近世初頭から下る時期を主体とするが、周
辺の地形改変のため、それ以前の遺物も混入したとみられる。須恵器は、そのような二次的堆積の
層位に混在していたものであるとされている。
宮ノ前地区では、この1区の出土須恵器の他に、調査前から表面採集資料として、須恵器の散布
が認められていたが、調査によっても6区としてある調査区では、最下遺構面の基盤層にて柱穴が
検出され、それに伴う段状遺構が検出されている。この6区は、上面の遺構は削平されていたもの
の、後世の盛り土が多くあって、基盤層の遺構が残存したと考えられた。
次に須恵器の製作年代について検討しておきたい。大田市白坏遺跡調査によって、付近での窯跡
の存在が指摘され、類例の増加と子細な検討が課題とされてきた。
また、白坏遺跡例は「延喜9(9
0
7)年」の木簡を共伴した資料として注目されており、現段階
では基準的な資料と捉えられている。
今回紹介した資料と比較してみると、口径に対して器高の低いものが割合的に多く、また、広い
底径に直線的に立ち上がる体部のものが主体となるなど、相違点が見られる。
白坏遺跡例以前と位置づけられる資料にも類例が無いことから、より後出の須恵器と考えて大過
ないであろう。
このことから須恵器の還元焔焼成による技術的な継承のもとに製作された可能性を考えあわせる
ことが必要と思われる。
ゆえに、今回紹介資料の製作年代は、古代末から中世初
めごろと捉えておきたい。
大田市に隣接する仁摩町の白石上屋敷遺跡では緑釉陶器
が出土し、大田市八石遺跡では円面硯が出土するなど、近
年資料の増加を見ており、今後、石見銀山周辺の歴史時代
須恵器について総括的な把握を試みていく必要があろう。
(大田市教育委員会文化振興室主任)
−4
4−
須恵器実測図(S=1/3)
報告書・出版物情報 (2
0
0
1.
4∼2
0
0
2.
3)
1.調査報告書・記録集
・「世界遺産候補石見銀山遺跡シンポジウム報告書」
(島根県教育委員会、2
0
0
2.
3)
・「石見銀山関係編年史料綱目」
(島根県教育委員会、2
0
0
2.
3)
・「石見銀山関係歴史年表(改訂版)
」
(石見銀山文献調査団編、島根県教育委員会発行、2
0
0
2.
3)
・「石見銀山 石見銀山遺跡発掘調査概要1
2 於紅ケ谷・竹田地区」
(島根県・大田市両教育委員
会、2
0
0
2.
3)
・「石見銀山 石見銀山遺跡石造物調査報告書2 龍昌寺跡」
(島根県・大田市両教育委員会、
2
0
0
2.
3)
・「石見銀山 石見銀山遺跡科学調査報告書 平成1
0∼1
2年度」
(島根県・大田市両教育委員会、
2
0
0
2.
3)
・「石見銀山関係論文集」
(石見銀山文献調査団編、島根県教育委員会発行、2
0
0
2.
3)
脇田晴子「序説石見銀山と大航海時代」
新平「1
6・1
7世紀における広東・日本間の密貿易と銀交易」
大西信行「1
6世紀朝鮮半島における倭銀の流通とその条件」
佐伯徳哉「石見銀の東アジア流出と戦国期西国地域権力・社会」
岡美穂子「近世初期の投資貿易に関する一考察−二代目末次平蔵の投資・融資法−」
岩屋さおり「近代の石見銀山について」
鳥谷芳雄「国絵図の中の石見銀山・山内表現」
遠藤浩巳「近世石見銀山の鉱山技術−文献史料の分析を中心に−」
松岡美幸「1
6世紀末期における毛利氏の石見銀山支配と鉱山社会」
仲野義文「江戸中期における石見銀山の経営」
中田健一「石見銀山遺跡における製錬遺構」
目次謙一「石見銀山遺跡の出土無文銭について」
田中圭一・原田洋一郎「石見銀山をめぐる人々」
大国晴雄「石見銀山「柵内」の復元」
エンゲルベルト・ヨリッセン「1
5・1
6世紀におけるポルトガル人によるアジアへのアプローチ」
・「石見銀山遺跡調査ノート」vol.
1(島根県・大田市・温泉津町・仁摩町教育委員会、2
0
0
2.
3)
平成1
3年度石見銀山遺跡調査の各動向
松岡美幸「石見銀山の鉱山社会と法的規制について」
−4
5−
遠藤浩巳「長安寺と豊栄神社」
石造物部会「豊栄神社の石造物」
鳥谷芳雄「大森地区の一石五輪塔と組合せ宝篋印塔の一例」
中田健一「宮ノ前地区出土の須恵器」
今岡司郎「於紅ケ谷地区出土の鉄砲関係品について」
・「石見銀山遺跡総合調査概報」2(島根県・大田市・温泉津町・仁摩町教育委員会、2
0
0
2.
3)
・「石見銀山遺跡ニュース」
(島根県・大田市・温泉津町・仁摩町教育委員会)
第1号(2
0
0
1.
7.
2)
ごあいさつ 島根県知事澄田信義・大田市長熊谷国彦
発刊にあたって 世界遺産登録推進室長 山根正巳
平成1
3年度石見銀山遺跡関連事業の概要
平成1
2年度調査活動日誌抄、第1
2回石見銀山遺跡発掘調査委員会、開催される
町並みを歩く(1)∼修理・修景をすすめる∼
遺跡分布調査から∼銀山柵内に新たな山城跡発見∼
発掘調査の記録(1)∼昭和5
8年度調査「代官所跡地区」∼
資料紹介(1)石銀藤田地区出土の陶器片について
資料紹介(2)大社町神光寺旧跡出土の一石篋印塔
第2号(2
0
0
1.
1
1.
1)
発信・石見銀山から、石見銀山へ 世界遺産と石見銀山遺跡 田中琢
ごあいさつ 温泉津町長 安田増憲・仁摩町長 池亀貴
世界遺産候補、石見銀山遺跡シンポジウム開催される
発掘調査トピックス∼火縄銃金具と分銅製品∼
小特集∼旧熊谷家住宅保存修理と熊谷家調査∼
石見銀山を科学する(1)∼捨てられたものから探る銀山の技術∼
科学調査から∼科学調査研究会と佐渡との交流∼
石造物調査から∼石造物の悉皆調査すすむ∼
町並みを歩く(2)∼歩いてみましょう、ゆっくりと∼
発掘調査の記録(2)∼昭和5
8年度調査「蔵泉寺口番所跡」∼
平成1
3年度調査活動日誌抄(上半期)
平成1
3年度石見銀山関連事業の概要(大田市・湯泉津町・仁摩町 ほか)
資料紹介(3)豊栄神社文書
2.個別論文・研究ノート・関連報告
・脇田晴子「石見銀山と大航海時代」
『季刊文化遺産』秋冬号 vol.
1
2(
(財)島根県並河万里写真
−4
6−
財団発行、2
0
0
1.
1
0)
・仲野義文「江戸幕府の貨幣政策と鉱山経営の動向について∼灰吹銀引替制を問題として∼」
『島
根史学会会報』
(第3
8号、2
0
0
1.
1
0.
3
0)
・目次謙一「石見銀山遺跡の出土銭貨について」
『出土銭貨』第1
5号(出土銭貨研究会、2
0
0
1.
5)
・谷口哲一「萩城跡(外堀地区)出土の豆板銀−平成1
2年度の調査から−」
『出土銭貨』第1
5号(出
土銭貨研究会、2
0
0
1.
5)
・神崎 勝「中世のおける銅生産の展開」
『鉄と銅の生産の歴史』
(雄山閣、2
0
0
2.
2
0)
・松岡美幸「石見銀山附地役人・阿部光格の日記 その2」
『古代文化研究第1
0号』
(島根県古代文
化研究センター、2
0
0
2.
3)
・『近代遺跡調査報告書―鉱山―』
(文化庁文化財部記念物課、2
0
0
2.
1)
広江耕史「永久鉱山(仁摩町)
」・「馬谷城山鉱山(益田市)
」
・松井和幸・村上隆ほか『広島県埋蔵文化財調査センター調査報告書第1
9
8集−寺尾遺跡−』
(財団
法人広島県埋蔵文化財調査センター、2
0
0
2.
3)
近世初期の非鉄金属(銅)の生産遺跡の発掘調査報告。炉跡3
0基などを検出、焙焼炉(焼釜)
と製錬炉を確認。
・『島根県近代化遺産調査報告書』
(島根県教育委員会、2
0
0
2.
3)
勝部昭「羅漢町橋」大田市大森町
大国晴雄・勝部昌正「清水谷製錬所跡(藤田組)
」大田市大森町清水谷
大国晴雄・勝部昌正「大森鉱山トロッコ道の跡」大田市大森町清水谷
仲野義文「藤田組三木工場跡」大田市大森町栃畑谷
仲野義文「大森鉱山坑道」大田市大森町地内
仲野義文「大森鉱山永久部(選鉱場跡)
」仁摩町大国町柑子谷
仲野義文「溶解場煙道」
(大森鉱山永久部)仁摩町大国町柑子谷
仲野義文「石見銀山資料館(旧邇摩郡郡役所)
」大田市大森町
小原拓生「町並交流センター(旧大森区裁判所)
」大田市大森町
小原拓生「前田アパート(旧郵便局局舎)
」温泉津町温泉津稲荷町
小原拓生「長命館(旅館)
」温泉津町温泉津湯町
小原拓生「温泉津温泉藤乃湯旧館(共同浴場)
」温泉津町温泉津湯町
百合本修司「畑迫病院」津和野町大字邑輝
−4
7−
・『季刊文化財』第9
9号(島根県文化財愛護協会、2
0
0
2.
3)
特集 石見銀山遺跡総合調査
福代光秀「海外調査報告∼インド・インドネシア∼」
勝部 昭「佐渡金銀山の調査記」
鳥谷芳雄「絵地図のなかの石見銀山二題」
松岡美幸「古文書が語る石見銀山」
世界遺産登録推進室「石見銀山遺跡シンポジウムを開催」
・『季刊文化財』第1
0
1号(島根県文化財愛護協会、2
0
0
2.
3)
守岡正司「石見銀山遺跡の発掘と出土陶磁器」
・引野道生「石見銀山遺跡の輝き∼ユネスコ世界遺産暫定リスト登載記念企画」
『季刊文化遺産』
春・夏号 vol.
1
1(
(財)島根県並河万里写真財団発行、2
0
0
1.
4)
3.その他・雑誌等
・石見銀山遺跡(
「石見銀山世界遺産を目指す会」の発足紹介)
『ユネスコ世界遺産年報2
0
0
2』 7
(社団法人日本ユネスコ協会連盟編、2
0
0
2.
2.
2
0)
・「発掘銀山」
(石見銀山発掘調査だより)の発行(石見銀山遺跡発掘調査事務所発行)
第1
1号(2
0
0
1.
5)
、第1
2号(2
0
0
1.
8)
、第1
3号(2
0
0
1.
1
1)
・「銀山街道」
(広報誌)の発行(大田市外2町広域行政組合発行)
第1号(2
0
0
1.
4)
、第2号(2
0
0
1.
8)
、第3号(2
0
0
1.
1
2)
、第4号(2
0
0
2.
3)
・「銀の風」
(広報誌)の発行(大田市大森町並み交流センター発行)
第2
1号(2
0
0
1.
1
0)
、第2
2号(2
0
0
2.
2)
・「世界に輝け石見銀山 第3部」
(読売新聞石見・出雲版、2
0
0
2.
2.
6より毎週水曜日連載中)
−4
8−
平成1
3年度・石見銀山遺跡調査関係者
石見銀山遺跡発掘調査委員会
委員長 田中 琢(元奈良国立文化財研究所所長)
委員
田中圭一(元筑波大学教授)
委員
田中義昭(元島根大学法文学部教授)
委員
脇田晴子(滋賀県立大学教授)
委員
藤岡大拙(島根県立島根女子短期大学長)
委員
渡辺哲雄(同和鉱業(株)執行役員、コーポレートスタッフ総務部門・法務部門部長)
委員
熊谷國彦(島根県大田市長)
委員
安田増憲(島根県温泉津町長)
委員
池亀 貴(島根県仁摩町長)
委員
井上勝博(島根県教育委員会教育次長)
歴史文献調査関係(石見銀山歴史文献調査団)
団 長 脇田晴子(滋賀県立大学教授)
副団長 田中圭一(元筑波大学教授)
事務局 岩屋さおり(大阪大学大学院、城西国際大学非常勤講師)
・調査全体の監修・統括
脇田晴子
・島根県内調査
松岡美幸(島根県教育庁文化財課嘱託)
仲野義文(石見銀山資料館学芸員)
佐伯徳哉(島根県古代文化センター主任研究員)
岡 宏三(島根県古代文化センター主任研究員)
・国内鉱山関係調査
田中圭一
原田洋一郎(東京都立航空工業高等専門学校助教授)
[協力者]
田中達也(大東文化大学講師)
舩杉力修(島根大学講師)
・海外関係調査
ポルトガル関係史料
エンゲルベルト・ヨリッセン(京都大学大学院助教授)
林田雅至(大阪外国語大学助教授)
岡美穂子(京都大学大学院)
−4
9−
[協力者]
石川博樹(東京大学大学院)
スペイン関係史料
エンゲルベルト・ヨリッセン
岡美穂子
中国関係史料
新平(神戸大学非常勤講師)
朝鮮半島関係史料
大西信行(中央大学杉並高等学校教諭)
岩屋さおり
[協力者]
田中俊明(滋賀県立大学教授)
安田純也(滋賀県立大学大学院)
西村幸信(広陵町教育委員会事務局社会教育課町史編集室)
オランダ関係史料
藤田加代子(日本学術振興会特別研究員)
日本語による海外関係史料
岩屋さおり
[協力者]
阿部 環(滋賀県立大学卒業生)
島根県内古文書調査
小林准士(島根大学助教授)
岩城卓二(大阪教育大学助教授)
松岡美幸
仲野義文
[協力者]
山崎美和(石見銀山資料館職員)
、小杉紗友美(島根大学大学院)
、板垣貴志(愛媛大学卒業
生)
、石浪直子、磯部泰智、江角知紀、大津和史、尾郷友香、金折 瞳、熊崎里子、角ちひ
ろ、瀧本裕氏、沼本 龍、別宮博明、細田綾乃、松原祥子、山本 泉、吉岡 悠、吉田和生
(以上、島根大学学生)
島根県近代文書調査
岩屋さおり
松岡美幸
仲野義文
・『石見銀山関係編年史料綱目』校閲
藤岡大拙(島根県立島根女子短期大学学長)
陳 暉(城西国際大学客員教授)
・石見銀山歴史資料検索システム構築
−5
0−
岩屋さおり
松岡美幸
・校正専任者
岡村美智代
発掘調査関係
田中義昭(元島根大学教授、総括)
小池伸彦(独立行政法人奈良文化財研究所研究員、発掘調査指導)
加藤真二(文化庁文化財部記念物課主任調査官、発掘調査委員会指導助言)
大国晴雄、遠藤浩巳、中田健一、坂根健悦、今岡司郎、鳥谷芳雄、守岡正司
科学調査関係
村上 隆(独立行政法人奈良文化財研究所主任研究員、総括)
高田 潤(岡山大学工学部教授)
鳥越俊行(岡山大学工学部大学院生)
肥塚隆保(独立行政法人奈良文化財研究所主任研究員、ガラス製品分析)
松井 章(独立行政法人奈良文化財研究所主任研究員、動物遺存体分析)
斉藤 努(国立千葉歴史民俗博物館教授、鉛同位対比測定)
遠藤浩巳、中田健一、坂根健悦、今岡司郎、松本岩雄、鳥谷芳雄、守岡正司
石造物調査関係
田中義昭(元島根大学法文学部教授、総括)
池上 悟(立正大学教授)
宮本徳昭(島根県文化財保護指導委員)
大国晴雄、遠藤浩巳、中田健一、坂根健悦、今岡司郎、鳥谷芳雄、守岡正司
辻本彩、一瀬一浩、紺野英二、阿部有花、中道誠、菊池康一郎、幾島審、宮崎友宣、高橋陽一、
内田勇樹、大和田瞳、斉藤啓太、山賀和也、中尾竜也、石井智子、清水慎也、山田隆博、小板橋
崇、近能のぞみ(以上、立正大学大学院生・学部生)
、湯川 登、岩谷和樹(以上、調査補助)
間歩調査関係
同和工営株式会社(業務委託)
街道・民俗調査関係
多田房明(温泉津町立温泉津小学校教諭)
重要伝建地区事業関係
小泉和子(京都女子大学教授、熊谷家保存活用委員)
小林准士(島根大学助教授、熊谷家保存活用委員)
−5
1−
高部淑子(日本福祉大学知多半島総合研究所歴史・民俗部研究員、熊谷家家財調査指導)
曲田浩和(日本福祉大学経済学部経営開発学科講師、熊谷家家財調査指導)
大国晴雄、西村崇司、林泰洲、三谷岳史
大田市伝統的建造物群保存地区保存審議会委員 (事務局・大田市石見銀山課)
渡部常弘(学識経験者)
吉岡 寛(大森町文化財保存会会長)
恒松志良(学識経験者)
白石昭臣(大田市文化財審議会委員)
河村政経(大森町観光開発協会会長)
細見啓三(学識経験者、元奈良国立文化財研究所)
勝部 昭(島根県教育委員会文化財課長)
原 敏夫(大田市議会議員)
史跡石見銀山遺跡保存管理計画策定委員会 (事務局・大田市石見銀山課)
藤岡大拙(島根女子短期大学学長、石見銀山遺跡発掘調査委員会委員)
牛川喜幸(橘女子大学教授、元奈良国立文化財研究所室長)
片桐 敦(同和鉱業本社)
山根正巳(島根県教育庁文化財課世界遺産登録推進室長)
大谷正行(大田市建設部長)
山崎良美(島根県大田土木建築事務所所長)
原 敏夫(大田市議会代表)
吉岡 寛(大森町文化財保存会・町並み対策協議会会長)
西本俊司(大森町自治会協議会長、銀山自治会長)
高橋美也子(大田市文化財審議会委員、サンレディ大田館長)
島根県教育委員会
勝部 昭(文化財課参事)
、藤原 弘(総括課長補佐)
、山根正巳(世界遺産登録推進室室長)
、
鳥谷芳雄(同主幹)
、福代光秀(同主幹)
、守岡正司(同文化財保護主事)
、松岡美幸(同嘱託)
、
足立克己(埋蔵文化財係長)
、宍道正年(同埋蔵文化財調査センター所長)
、松本岩雄(同調査第
1課長)
大田市役所総務部・同市教育委員会
大国晴雄(市総務部石見銀山課長)、西村崇司(同主任)、林泰州(同主任)、三谷岳史(同主事)
和田章一郎(市教委文化振興室長)、遠藤浩巳(同係長)、中田健一(同主任技師)、坂根建悦(同
臨時職員)
、今岡司郎(同臨時職員)
−5
2−
温泉津町教育委員会
石田 智(教育長)、中村悦郎(教育次長)、友村光男(次長補佐兼社会教育係長)、重田 聡(主
事)
仁摩町教育委員会
尾川綽一(教育長)、弓場広明(教育次長)、吉岡英明(社会教育係長)、長嶺康典(同主任主事)、
新林尚美(臨時職員)
大田市外2町広域行政組合
川崎健司(企画担当、地域振興係長(兼)大田市総務部石見銀山課世界遺産係長)
大門克典(企画担当、地域振興係)
、中尾裕之(企画担当、地域振興係)
関係機関連絡先
島根県教育庁文化財課世界遺産登録推進室(〒6
9
0−8
5
0
2 松江市殿町1番地)
TEL.
0
8
5
2−2
2−5
6
4
9、FAX.
0
8
5
2−2
2−5
7
9
4
pref.shimane.jp/ginzan/、E-mail : [email protected]
http://www2.
大田市総務部石見銀山課(〒6
9
4−0
0
6
4 大田市大田町大田ロ1
1
1
1)
TEL.
0
8
5
4−8
2−1
6
0
0(内線3
3
8)
、FAX.
0
8
5
4−8
4−9
1
5
6
http://ohda.iwamigin.or.jp/、E-mail : [email protected]
大田市教育委員会文化振興室
TEL.
0
8
5
4−8
2−1
6
0
0(内線3
2
6)
、FAX.
0
8
5
4−8
2−5
3
9
5、E-mail : [email protected]
石見銀山遺跡発掘調査事務所(〒6
9
4−0
3
0
5 大田市大森町イ8
2
6)
TEL.
0
8
5
4−8
9−0
8
9
9、FAX.
0
8
5
4−8
9−0
9
0
2
仁摩町教育委員会社会教育係(〒6
9
9−2
3
0
1 邇摩郡仁摩町大字仁万町5
3
7−1)
TEL.
0
8
5
4−8
8−2
1
1
3、FAX.
0
8
5
4−8
8−4
2
7
6、E-mail : [email protected]
温泉津町教育委員会社会教育係(〒6
9
9−2
5
9
8 邇摩郡温泉津町温泉津大字小浜イ4
8
6)
TEL.
0
8
5
5−6
5−2
1
7
7、FAX.
0
8
5
5−6
5−1
0
7
3
石見銀山資料館(〒6
9
4−0
3
0
5 大田市大森町ハ5
1−1)
TEL.
0
8
5
4−8
9−0
8
4
6、FAX.
0
8
5
4−8
9−0
1
5
9
http://www.joho-shimane.or.jp/cc/silver/、E-mail : [email protected]
−5
3−
−5
4−
−5
5−
平成1
4年(2
0
0
2)
3月発行
石 見 銀 山 遺 跡 調 査 ノ ー ト1
Iwami-Ginzan Silver Mine Site Reserch Note Mar. 2
0
0
2 No.1
発
行
島根県教育委員会
大田市教育委員会
温泉津町教育委員会
仁摩町教育委員会
印
刷
株式会社報光社
〒691−0001
島根県平田市平田町993
phone 0853−63−3939