2014/10/28 第 6 回ミクロゼミ ハンナ・アレント『人間の条件』⑥「第 6 章

2014/10/28 第 6 回ミクロゼミ
ハンナ・アレント『人間の条件』⑥「第 6 章」
担当班:門、杉本、浅田
問 1 p.420「 い い か え る と 、ガ リ レ オ の 発 見 に よ っ て 、人 間 の 感 覚 、す な わ ち 、リ ア
リティを受けとめる人間の器官そのものが人間を裏切るのではないかという古代の
ちょうつがい
恐 れ と 、世 界 の 蝶 番 を は ず す た め に 地 球 の 外 部 に 支 点 を 求 め た ア ル キ メ デ ス の 願 い
が 、 共 に 同 時 に 現 実 の も の に な っ た か の よ う で あ る 。」 と あ る 。
ガリレオによって証明されたアルキメデスの点は、人間の感覚に対する考え方と宇
宙の認識にどのような変化をもたらしたのか述べよ。
【引用】
p.404f なるほど、この道具は、それまで考案されたもののうちで最初の純粋に科学的な器
具ではあったが、星を眺める以外は役に立たないものであった。しかし、かりに、自然過
程を測定するように、歴史の惰力を測定することができるとしたらどうだろう。たしかに、
この宇宙を発見しようとする人間の実験的第一歩は、最初は、ほとんど目につかないほど
の衝撃しか与えなかった。しかし、それは絶えず、はずみと速度を増していって、ついに
は、地球の表面全体を覆うに至った。その最終的限界は、ただ地球そのものの限界だけで
ある。
p.415 キリストの生誕は、古代の終りをもたらしたのではなく、なにか新しい始まりを告
げたのである。この新しい始まりは、予想も予言もできなかったことなので、それにたい
して期待も恐れも先立たなかった。望遠鏡の発明もこれと同じであった。この器具を使っ
てはじめて実験的に宇宙を覗いて見たとき、その光景は、なるほどすぐに人間の感覚に調
整されたが、やがてこの実験は、人間の感覚を超えて必ず永遠に存在するにちがいないも
のを暴露することになる。このように望遠鏡を使って宇宙を覗き見たことは、まったく新
しい世界を切り開く段階を画し、その他の出来事の進路をも決定した。
p.416 …同じ種類の外部的な力が、地上における落下にも、天体の運動にも、同じように
現われるという仮定だったからである。
p.417 むしろ必要だったのは、たとえすべての感覚的経験を否定する結果になるとしても、
古代と中世の純朴な自然原理に従う思弁上の勇気と、地球から自分を持ち上げて自分が実
際に太陽の住人であるかのように地球を見おろすことができたコペルニクスの想像力の偉
大な大胆さであった。
p.418 結局、ガリレオが行ない、それ以前のだれもが行ないえなかったことは、望遠鏡を
使って、宇宙の秘密が「感覚的知覚の確実さをもって」人間に認識されるようにしたこと
であった。つまり、彼は、以前には永遠に人間のとどかぬ、せいぜい不確かな思弁や想像
力にゆだねられていたものを、地上の被造物である人間が把握でき、人間の肉体的感覚が
つかまえられる範囲の中に置いたのであった。
p.421 …要するに、私たちは常に地球の外部にある宇宙の一点から自然を操作しているの
である。もちろん、私たちは、アルキメデスが立ちたいと願った地点に実際に立っている
わけではないし、依然として人間の条件によって地球に拘束されている。しかし、私たち
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は、地球の上に立ち、地球の自然の内部にいながら、地球を地球の外のアルキメデスの点
から自由に扱う方法を発見したのである。そしてあえて自然の生命過程を危険に陥れてま
で、地球を自然界とは無縁な宇宙の力に曝しているのである。
p.424 そして、このコペルニクスのイメージは、実際、地上に留まりながら宇宙の観点か
ら考えることのできる驚くべき人間能力の印であり、宇宙の法則を地上の活動の指導原理
として用いることができるという、おそらくそれ以上に驚くべき人間能力の印であること
が判った。
p.426 実験のおかげで、人間は、地球拘束的な経験の鎖から解放され、新たな自由を実現
した。つまり、人間は、与えられたままの自然現象を観察する代わりに、自然を自分の精
神の条件のもとに置いた。いいかえれば、自然の外部にある宇宙的・天文物理的観点から
獲得された条件のもとに、自然を置いたのである。
【解答】
はじめにアルキメデスの点は、ガリレオによってどのように証明されたのかを述べる。
次にガリレオの発明によって人間の感覚に対する考え方がどのように変化したのかを述べ
る。最後に、ガリレオによって証明されたアルキメデスの点は、宇宙の認識にどのような
変化をもたらしたのかを述べる。
アルキメデスの点は、ガリレオの望遠鏡の発明によって証明された。何故なら、望遠鏡
を用いることで人間の感覚知覚に左右されることなく宇宙の姿を観察することに成功した
からである。望遠鏡は、当時の人びとからすれば微々たる発明であった。しかし、歴史の
中では、人間と宇宙の関係に契機をもたらす革命的な出来事であった。アルキメデスの点
は、机上の空論に過ぎない理論ではあったが、ガリレオの望遠鏡の発明によって天体を観
測することができ、宇宙の姿を明らかにしたのである。
ガリレオの望遠鏡の発明以前の宇宙は、人間にとって未知なる領域であったため想像す
るしかなかった。だからこそ、目に見えないもの(神や森羅万象)に対する想像力が働き
畏怖を抱いた。しかし、ガリレオの望遠鏡の発明によって目に見えない宇宙を観測するこ
とができ、目に見える「確かさ」を与えた。目に見える「確かさ」は、観察能力によって
万人に共通の視覚的な所有物になり、人間の認識によって概念を定義づけ、全体の関係性
の中で位置づけられる。以上が人間の感覚に対する考え方の変化である。
宇宙の観測は、万人に共通の「確かさ」を与えると同時に宇宙(普遍的)の法則の発見
を意味した。しかし、宇宙の法則の発見は、万人に共通していた目に見えないものに対す
る想像力の「正しさ」は、虚偽であることを意味した。くわえて、「…同じ種類の外部的な
力が、地上における落下にも、天体の運動にも、同じように現われるという仮定だったか
らである。」(p.416 引用)とあるように、望遠鏡の発明によって自然の法則は、宇宙の法
則に従っていたという事実が証明される切り口になった。そして、アルキメデスの点は、
自然を支配している宇宙の存在を掴み地球上にいながら自然を操作することができるよう
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になったのである。宇宙の法則の発見は、普遍的な感覚の正しさの虚偽を証明し、個人に
よって多種多様な解釈があることを知らしめた。
ガリレオの望遠鏡の発明によって近代哲学者達は、神や物事の真理を疑い、「不確かさ」
に着目する。またデカルトは、アルキメデスの点を人間の精神の内部へと向けた。そして、
普遍的懐疑の「過程」にいる自分自身の存在こそ唯一「確かさ」をもっていると考えた。
ガリレオの望遠鏡の発明は、太陽を中心に地球が回っているという地動説を確証づけ、
地球を中心に太陽が回っているという従来の天動説を覆した。アリストテレスから続く天
動説は、ガリレオの望遠鏡の発明によって崩壊の兆しが見え始めた。つまり、宇宙の認識
を大きく変えることに成功したのである。
以上、ガリレオによって証明されたアルキメデスの点は、宇宙の認識に大きな変化をも
たらした。以下において、人間の感覚に対する考え方の変化と宇宙の認識に大きな変化を
もたらした事柄を結論づける。
人間の感覚に対する考え方の変化は、哲学の思想に及び「終り」と「始まり」をもたら
した。万人に共通する普遍的真理である哲学の思想に終止符を打ち、人間の想像力を奪っ
たことによる「終り」と人間の精神の内部と認識に目を向ける哲学の科学革命の「始まり」
を意味したのである。
宇宙の認識に大きな変化をもたらしたガリレオの望遠鏡の発明は、二千年以上続いた理
論を破壊し、天動説を覆し地動説を大きく飛躍させた。このように、ガリレオによって証
明されたアルキメデスの点は、人間と宇宙にとって大きな転換期となったのである。
問 2 p.448「 こ の デ カ ル ト 的 理 性 の 最 高 の 理 想 は 、近 代 が 理 解 し て い る よ う な 数 学
的知識でなければならない。つまり、精神の外部に与えられる理想形式ではなく、
精神が生みだす形式にかんする知識でなければならない。…ホワイトヘッドがこの
理 論 を 「 後 退 す る 共 通 感 覚 の 結 果 」 と 呼 ん で い る の も 、 も っ と も で あ る 。」 と あ る 。
デカルト的懐疑について言及しつつ、近代における共通感覚のあり方を述べよ。
【引用】
p.411 近代哲学は、魂や人格や人間一般には関心を示さず、もっぱら、自我にたいして関
心を注ぎ、世界や他人との経験をすべて人間の内部における経験に還元しようと試みてき
た。これは、デカルト以来、近代哲学の最も一貫した傾向の一つであり、おそらく哲学に
たいする近代の最も独創的な貢献でもある。
p.436 近代哲学は、デカルトの「すべて疑うべし」、すなわち懐疑で始まった。
p.439 デカルト的懐疑の顕著な特徴は、その普遍的性格にあり、思考も経験も、一切のも
のがこの懐疑を免れえないという点にある。
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p.443 普遍的懐疑のデカルト的解決とはどのようなものか。また、すべては夢であり、リ
アリティはないという悪夢と、神ではなく悪霊が世界を支配し、人間を欺いているという
悪夢、この互いに結びついている二つの悪魔からのデカルト的救済とはどのようなものか。
それは、その方法と内容を見ると、真理から誠実さへ、リアリティから確かさへの転換に
似ていた。
p.444 もしすべてのものが疑わしいものとなるならば、そのときには、少なくとも疑って
いることは確かであり、現実的である。
同上 いいかえると、デカルトは、なにかを疑っている私は、その疑っているという過程
に私の意識の中で気がついているという単なる論理的確実性から、次のような結論を下し
たのであった。人間自身の精神の中で進行しているこの過程は、それ自身の確かさをもっ
ており、内省における調査の対象になりうると。
コモン・センス
p.449 共通感覚 というのは、ちょうど視覚が人間を目に見える世界に適合させたように、
かつては、まったく私的な感覚作用をもつにすぎない他のすべての感覚を共通世界に適合
させていた感覚である。ところが、この共通感覚は、今や、世界となんの関係もない内部
的能力になったのである。この感覚が共通と呼ばれたのは、単にそれがたまたま万人に共
通であるからにすぎなかった。…推理能力はだれでも同じだというのは、ただ偶然そうな
っているにすぎないからである。ともあれ、以後は、二足す二は幾つかという問題を与え
コ モ ン ・ セ ン ス
られたとき、私たちはみな四という同じ答えをだすだろうという事実が、常識的推理 にほ
かならぬモデルとなる。
同上 ホッブズと同じようにデカルトにおいても、理性は「結果を計算に入れるもの」と
なり、演繹し、推論する能力、つまり人間が常に自分自身の内部で解き放つことのできる
過程の能力となる。
p.450 まず、アルキメデスの点を人間自身の内部に移し、最終的な引証点として人間精神
そのもののパターンを選ぶ。それによって人間精神に、精神自身の産物である数学的定式
の枠内でリアリティと確かさを保証する。ここで周知の「科学を数学に還元すること」に
よって、感覚的に与えられるものは、数学的方程式の体系に置き代えられ、全ての現実的
関係は、人工的なシンボル間の論理的関係に解体される。
【解答】
近代哲学は、個人の内面である自我を考察対象として、一切の事象を人間精神の内部の
経験に還元しようとした。つまり、自分が見聞きするものすべてが自分の精神が生み出し
た認識の産物であると考えたのである。近代哲学の父と呼ばれるデカルト以来、この自己
の精神を起点とする近代的な思考形式が確立していった。デカルトは、それまで自明のも
のとして考えられた真理でさえも疑う余地があると考え、人間の感覚も理性も信仰も一切
のものが懐疑の対象となった。彼は、すべてを疑う普遍的懐疑によって真理の存在を考察
しようとしたのである。デカルトの普遍的懐疑によって、人間がかつて信頼できたものの
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一切が疑わしいものへと変化した。その結果人間は、人間存在のリアリティも世界のリア
リティも確証できないという悪夢と、世界は神でなく悪霊によって支配され、人間を欺い
ているという悪夢から一生抜け出すことができなくなったのである。
普遍的懐疑による上記の二つ悪夢に対し、デカルトは世界において唯一確かだといえる
ものを明らかにすることで孤立する人間を救済した。デカルト的救済は自分自身の精神の
中で進行する、疑っているという過程そのものによって可能となる。人間は、何かを疑う
時、その疑っているという過程を自分自身の意識の中で気がつく。もし一切が疑わしいも
のであるのなら、すべての存在は疑われることを前提としている。すべてが疑わしいもの
であるためには、疑っていること自体が現実的でなければならない。以上の理論から個人
の感覚の作用と真理を導こうとする懐疑、つまり人間の内部で進行する過程のみがリアリ
ティを獲得したのである。
この過程のリアリティは、人間の共通感覚を人間の精神の数学的な枠組みへと変えた。
近代以前にあった共通感覚は、理性の働きによって、まったく私的な感覚作用である個別
的な五感の作用を、他者と共有できる感覚として適合する共通感覚があるからこそ、人々
は相手を思いやることから社会的な規範や習慣を守ることまで共有し、世界に内在し他者
と関係を構築していた。人々は、他者と同じ世界を共有していることを確信していたので
ある。しかし、自分たちの精神の構造に関心をもち、過程だけが信用できると考えられる
ようになると、人々のコモンセンスは、共通感覚から常識的推理へと変化を遂げた。人間
の理性は、自己の内部で演繹し、推理する能力となり、人間が受け取る感覚を人間精神の
数学的方程式の体系に置きかえることで、すべての現実的関係を人工的なシンボルの論理
的関係へとつくりかえた。人間内部の純粋な形式である数学は、すべての人間に常識的な
ものとしてそなわっており、すべての人間の数学的推論の過程は万人に共通するものであ
る。確かに、デカルト的懐疑を用いれば、「2+2=4」という等価の数式もその解を疑うこ
とができる。しかし、それを証明する際、誰もが頭の中で「二と二を合わせれば四になる」
と考えるだろう。解が違うかもしれない疑いをもたれるとしても、その解をみちびく過程
である数値の推移は共通した事実になるのである。近代人は、対象を前提とする実在性か
ら個人の精神の働きへと認識の構造を転換し、感性によって受ける感覚的なものが共通の
ものとして信用できなくなったため、精神の中で進行する数学的推論、一つの真理を探究
する常識的推理の過程だけを信用するようになったのである。
問 3 p.464「 <活 動 的 生 活 >の 内 部 の 活 動 力 の う ち で 、以 前 観 照 が 占 め て い た 地 位 に
ま ず 最 初 引 き 上 げ ら れ た の は 、<工 作 人 >の 特 権 で あ る 製 作 の 活 動 力 で あ っ た 。」と あ
るが、製作の活動力が観照の地位に引き上げられたのはなぜか説明せよ。
【キーワード:実験、自然、過程】
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【引用】
p.385 このような活動に固有の能力、すなわち、破滅を妨げ、新しいことを始める能力が
なかったとしたら、死に向かって走る人間の寿命は、必ず、一切の人間的なものを滅亡に
持ち込むだろう。
p.456f なるほど、人間は、これまで労働を楽にし、同時に人工物の世界を打ち立てるとい
う二重の目的のために、常に道具を考察してきた。…むしろその起源は、もっぱら無用の
知識を求めるという完全に非実践的な探究にあるのである。
p.457 しかし、それはともかく、観照と活動の転倒の背後にある基本的経験は、たしかに、
人間の知識欲は、彼が自分の手の独創性を信じた後にのみ満たされるということであった。
…真理や知識をもたらすのは観照ではなく、ただ「活動」だけであるということであった。
、
、
、
、
p.458 確信をもつためには確実にしなければならず、知るためには行なわなければならな
かった。…第一に、知識は人間が自身で行なったことにのみかかわるということ。したが
ってその理想は数学である。…第二に、知識は行為によってのみ実証できるような性格の
ものであること。
p.460 そこで、近代の転倒は、人間がなしうる最高の状態として、行為を観照の地位にま
で引き上げた点にあるのではなかった。つまり、ちょうどそのときまで、<活動的生活>の
すべての活動力が<観照的生活>を可能にさせる限りで判断され正当化されていたように、
それ以降は、今度は逆に、行為が究極的意味をもち、観照は行為のためにあるというよう
にしたのではなかった。転倒は思考にのみかかわっていたのである。
p.465 そもそも実験そのものに製作の要素が現われているということである。実験とは、
観察さるべき現象を作り出すことであり、したがって、そもそもの最初から人間の生産的
能力に依存している。知識を得るために実験を用いるということは、すでに、人間は自分
自身が作るものだけを知ることができると信じていればこそである。この確信は、人間が
作らなかった物についても、それらの物が生じてきた過程を突き止め、模倣すれば、それ
らの物について知ることができるということを意味していたのである。
p.468 この点で忘れてはならないことであるが、人間は真実を発見する能力をもっている
かどうかという特殊に近代的な懐疑、与えられたものに対する不信、そして、人間の意識
の中には知ることと生産することが合致する領域があるという希望に支えられた、製作と
内省にたいする新しい信頼―このようなものは、地球の外部の宇宙にアルキメデスの点を
発見したことから生じたのではない。
p.470 すでに見てきたように、自然科学は、自然物が生じてくる「製作」の過程を人工的
条件のもとで模倣しようとする試み、つまり実験を通して、過程の概念を取り入れた。
p.471 …物のあるべき観念、モデル、形ではなく、過程が、近代における<工作人>の製作
の活動力の導きとなる。
p.476 このように、観照と<観照的生活>の概念と実践を作り出したのは、必ずしも一義的
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に哲学者と哲学的な無言の驚きではなく、むしろ、姿をかえた<工作人>であった。
【解答】
活動的生活において、活動とは国家の維持や政治など、共同体や他人の中の自分として
物事を考え、人と人との間に生きることを示す。その共同体などを維持する活動力をさら
に上回り、次の世代のことも考慮し生活することが観照的生活である。元々は、活動の内
部において活動的生活における活動が上位であった。しかし、工作人による仕事の効率化
によって、工作人が物を作ることが重要視され、活動的生活における仕事が観照的生活を
超え、上位になったのである。
近代科学の発達によって、人々は様々な事実を証明してきた。例えば問一で挙げたよう
に、ガリレオが発明した望遠鏡である。昔の人々は、地球と宇宙の関係が証明できるもの
を持っていなかった。しかし、工作人によって望遠鏡が製作され、今まで人間が見ること
のできなかった世界を証明することが可能になった。このようにして、「自然科学は、自然
物が生じてくる「製作」の過程を人工的条件のもとで模倣しようとする試み、つまり実験
を通して、過程の概念を取り入れた。」
(p.470 引用)換言すれば、自然から作られた物を製
作の過程、つまり自然物を人工的に作ることができるようになるため、人間がその自然物
を人工的に製作する「方法」を取り入れたのである。例えば自然の中で育った植物を人工
的に育てようとした時、実際に種を蒔いて植物に花が咲き、実がなるということを証明す
るのが実験である。そしてなぜそのように花が咲き、実が成るのかといった疑問に対する
答え、つまり植物が水分を吸って太陽の光によって光合成したというのが過程である。こ
の過程があったからこそ自然物を人工的に製作する実験が可能であったと考えられる。人
間には決して作り出すことのできない自然を実証するには実験が必要である。その実験の
対象物を製作するのが工作人の仕事であり、工作人が製作した物によって実験する過程が
物事を証明する際に必要であった。そして労働の生産性を上げるために製作された道具や
器具によって仕事の地位が上がったのである。工作人の地位が引き上げられた理由として、
工作人が製作という活動力を持ちえている存在だからである。実験をする、ということは
自然に道具や器具が必要になる。つまり実験をする人間は工作人の生産力に依存し、まず
工作人の製作がなければ何も始めらないのである。このことから、何よりも実験に必要で
ある生産物を製作する工作人の地位が上がり、仕事と言う活動的生活が上位に引き上げら
れたのだと考える。
活動的生活における仕事に対して観照は考察の対象ではなく、この実験に対して何の役
にも立たない。つまり観照は、人間が活動的生活をする上で大切であるが、それを上回っ
て必要不可欠なものが仕事であり、この工作人の製作による仕事は目に見えて成果の分か
るものであると言える。物を製作する過程が分かるから物が作られるのである。実験にお
いて物を作るのが工作人である。つまり実験とは、自然が作りあげた産物を人工的に製作
する過程を知った上で、実験に必要な物を製作する工作人によって作られる。このため、
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観照的生活では実現できなかったこの「必要な物を製作する」ことが工作人には可能なの
である。
自然を理解することにおいて、観照と活動的生活における仕事の違いは以下である。先
ほど述べた望遠鏡の例から、人間が肉眼で確認することのできない空の上の空間を、近代
の人間が見えることができたのは、観照よりも活動的生活における仕事の地位をあげたこ
とによって望遠鏡が製作されたからである。望遠鏡が発明される前、地球に生まれた人間
にとって宇宙とは、想像上のものであり、想像上の世界は当時の人間にとって自然や宇宙
の存在は神によってしか成し得ないものだと思っていた。これは観照的生活における営み
である。つまり、観照的生活というのは、神を理解することである。しかし活動的生活に
おける仕事では、自然の仕組みや神の存在を理解するよりも、実験によって自然や宇宙の
存在を証明することがより有効的であると考えた。したがって近代以前の観照的生活から
近代以降の活動的生活における仕事へと転倒していったのである。
問 4 p.500「 し か し 、も う 一 つ 、も っ と 重 大 で 危 険 な 兆 候 が あ る 。そ れ は 、人 間 が
ダーウィン以来、自分たちの祖先だと想像しているような動物種に自ら進んで退化
し よ う と し 、 そ し て 実 際 に そ う な り か か っ て い る と い う こ と で あ る 。」 と あ る 。
本著においてアレントが危険視する人間の退化の問題を述べた上で、それに対する
あなたの考えを述べよ。
【引用】
ビヘイヴイア
p.64 活動の可能性を排除している代わり、社会は、それぞれの成員にある種の 行 動 を期
待し、無数の多様な規則を押し付ける。そしてこれらの規則はすべてその成員を「正常化」
し、彼らを行動させ、自発的な活動や優れた成果を排除する傾向をもつ。
p.141 この生産性は労働の生産物にあるのではなく、実に人間の「力」の中にある。
p.145 近代的条件のもとでは、あらゆる職業が一般の社会にとって「有用であること」を
証明しなければならなかった。
p.235 近代社会では、人間は、自分たちの作った機械の召使いとなっていて、人間の欲求
や欲望を満たす器具として機械を使う代わりに、人間の方が、逆に機械の要求に「合わせ
て」いるというのである。
p.494 ともあれ、近代は、世界ではなく生命こそ、人間の最高善であるという仮定のもと
で生き続けた。たしかに、近代は伝統的な信仰と概念をもっとも根本的に修正し、批判し
た。…生命は一切のものに優越するというこの観念は、すでに彼らにとって「自明の真理」
の地位にあった。
p.498 すでに見てきたように、社会の勃興の中で自己主張したのは究極的には種の生命で
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あった。近代初期には、個体の「エゴイスティックな」生命が主張され、近代後期になる
と、「社会的」生命や「社会化された人間」(マルクス)が強調された。…社会化された人
類というのは、ただひとつの利害だけが支配するような社会状態のことであり、この利害
の主体は階級かヒトであって、一人の人間でもなければ多数の人びとでもない。肝心な点
は、今や人びとが行っていた活動の最後の痕跡、つまり自己利益に含まれていた動機さえ
消滅したということである。
p.501 …現代のモータリゼーションは、人間の肉体が徐々に鋼鉄製の甲羅で覆われはじめ
るというような生物学的突然変異の過程のように見えるだろう。
【解答】
アレントが危険視した人間の退化の問題は、社会という一つの大きな生命過程を維持す
る社会的動物となった人間をあらわしている。この問題は、近代後期にはじまる社会的領
域の勃興によって引き起こされ、労働が社会の中心的役割を果たしている現代でさらに拡
大している。モータリゼーションや IT の発達など、人間の技術は常に進歩しており、同時
に経済は発展しグローバル化していった。一方で技術の発達は人間を自然から遠ざけたが、
他方人間自身は、種の生命を維持することが最も善いことと考えるほど、自然法則に則る
生き方を選ぶようになっている。
これまで見てきたとおり、〈活動的生活〉内における三つの人間の条件(労働、仕事、活
動)のうち、近代以前(特に古代)では活動が、近代初期では仕事が最も重要視されてい
た。仕事と活動は人間特有の営みであり、個々の人間の独自性を示すものであった。しか
し、工作人の仕事の結果である製作物が使用価値と交換価値に換算されるようになると、
仕事の目的は労働を支える手段となり、活動は価値が測れないために無用なものとなった。
本来言論と活動によって維持された公的領域が、交換市場へと変化しくことで私的領域の
特徴である労働が公的な場へと進出し、人間の労働力が経済を維持するために最も有用な
ものとして賛美されるようになった。社会は、すべての活動を貨幣価値に換算することで
その成員たちに一定の規則のもと行動することを強要する。これらの規則によってその成
員たちは社会的に有用でその社会からみて正常な人材となり、生産と消費を繰り返す社会
的動物という平等の権利を獲得した。人々は平等の権利を得た代わりに、近代初期のよう
な個人の創造への意欲、社会を動かす動機(たとえそれが自己利益の拡大でも)さえも失
い、社会の一部として機能を残しながら動物種へと退化しているのである。
現代ほど物が豊かでその確かさを実感できる時代はこれまでなかったであろう。機械が
発達することによって人々は時間を節約し、ある程度の距離ならすぐに移動できるように
なった。便利になった世の中でただ生きようとするならば、その人は特別な知識を得る必
要はなくなった。なぜなら機械の仕組みがわからずとも操作して一定の満足感を得ること
ができれば十分だからである。その満足感の獲得は何かものを消費することによっても可
能である。しかし、一歩引いてみると人がどれほど着飾り、またどれほど機械に囲まれよ
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うとも、宇宙から見てみれば進化の過程の中でただ人間の肉体を甲羅のように覆う生物学
的突然変異かもしれない。自分が自由であると考えていることが、実は社会の操作された
思考であり、自分が社会を維持するため部品となっていることが本当の事実なのかもしれ
ないと考えることができる。
周りに合わせ、社会の流れに身を任せるのは楽であり、また一体感を得て居心地が良い。
しかし、私たちは、ゼミを通じて過去の思想を学ぶ機会を得た。また、過去の思想を学ぶ
ことで、今の現代社会の価値観が、違う時代や異なる文化では全く通じないことを知るこ
とができた。私たちは社会の潤滑油として機能し、より円滑な生活を送るのか、それとも
流れの中で立ち止まり、批判的な目をもって生きるのかの選択肢を得たのである。(どちら
が正しいかは別として)現代で重要なのは、その選択肢に気づくことであり、いつかその
選択に迫られた時のために準備することである。
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