「平和行事」参加の旅 感想文集

平和行事参加の旅
40代
女性
69回目の平和祈念式は、そぼ降る雨の中しめやかにとり行われました。もし
も原爆が投下されたあの日もこんな天気であったなら、広島は今も古い町並みを
残す城下町だったかもしれません。尊い命が失われることも、まぬがれたかもし
れません。
そもそもなぜ原爆が広島に投下されたのか。
「日本に降伏させるため、無益な戦
争をおわらせるために原爆が使われた」と教えられてきました。
しかし、日本に原爆が投下され、そして広島が選ばれた本当の理由を、平和記
念資料館で初めて知りました。それは、私たちにも、ましてや犠牲者にも到底承
服できない、大国の政治の論理です。
資料館には、写真絵本『さがしています』
(アーサー・ビナード著)でとりあげ
られた原爆犠牲者の靴や、服、真っ黒になったお弁当箱などの実物が展示されて
いて、たくさんの中学生や小学1、2年生の子どもたちが犠牲になったことを物
語っています。
中でも印象に残ったのは、原爆によって一家全滅になった家族の企画展示でし
た。溶けた茶碗や、幼い兄妹を撮った写真、それぞれの家族の生きた証が紹介さ
れていました。
子どもたちがエビを釣っている写真には、
「私も子どもの頃同じ遊びをした。今
は二代目がやっている。三代目もやるだろう」という父親のコメントが添えられ
ていました。それを読んだ息子が「三代目はいないのに……」とつぶやいたのが
忘れられません。
戦争で犠牲になるのは、いつも一般市民と小さな子どもたちなのだとつくづく
感じました。広島を訪れたのは今回が初めてでしたが、日本人なら一度は広島に
来て平和について、政治について、考えるべきではないでしょうか。自分の為に、
子どもたちの為に、広島で考える時間は決して無駄ではないはずです。
平和への道~広島のピカドン~
小学4年生
男児
ぼくは、広島に行って、戦争のひさんさ、こわさがよく分かりました。そして、
もう1つ、昭和20年8月6日8時15分、この一しゅんで、広島の町は、火の
海になった事、そのひげきの中、力強く立ち上がった広島の人々、広島の町の事
が分かりました。
まず、平和記ねん公園、平和しりょうかんです。平和記ねん公園は、元安川と
本川にはさまれた所にあり、原ばく投下の前は、とても大きなはんかがいだった
ようです。ぼくはなぜ、平和記ねん公園、平和しりょうかんを作ったのかと思い
ました。それは次の世代につたえていくためだと分かりました。ここでは、広場
のれきし、ひばく前とひばく後の町のミニチュアもけい、原ばくドームのドーム
部分のしゅくしょうもけいなどをてんじしていました。ぼくは、かねにきざまれ
た、湯川ひできの言葉が心にのこりました。平和式典も同じ所でおこなわれまし
た。当日は、雨もふり、あいにくの天気だったけれど、式は進み、無事終わりま
した。次に、なぜ広島と長崎に投下されたのかをぼくは考えました。投下以前に、
米軍は投下する都市を決め、広島、小倉、長崎としぼったのです。8月6日8時
15分天気は晴れ。広島の運命は決まりました。当時、ひばくした人々は、
「あの
日は、空も青くすみ渡っていたのに目の前が、パッと暗くなった。」と言ったそう
です。いっぽう小倉、長崎は、初めに行ったのは小倉でした。でも雲が開かなか
ったために、長崎にしたということです。おわりにぼくは、げん地かいさんだっ
たので、7日もたいざいしました。その中で、ふくろ町小学校、旧日本銀行広島
し店の、のこった部分をちょっと見たのですが、ふくろ町小学校の一部が、資料
館になっているので、中に入って見ると、すすにチョークで書かれた伝言、千羽
づるなどがありました。当時、げた箱のあった地下にいて、助かった子ども3人
が外に出ると、だれもいなかったと言う。学校は朝礼中で、ばく風により、3人
をのぞく、子供が全員ふきとばされたとのこと。学校の校しゃは、そのあと、病
院になったそうです。
このように、広島が、どれだけひさんなめにあったのか、戦争がどれだけこわ
いのか考える事が出来ました。二度と戦争をやってはいけないと思いました。
共に語ろう
あすのために!
70代
男性
◇「人間の条件」を揺さぶる戦争
ひとの記憶は、自分に都合の良い方に霞んでいく。嫌なことや恥部を忘れたい
という防衛本能のためか、歳月とともに潤色され、おぼろになる。国家や軍隊、
企業のような巨大組織も、「不都合な史実」を忘却の彼方に葬る傾向がつよい。
戦争は容赦なく、
「人間の条件」を揺さぶる。渦中にあった当事者でさえ、記憶
にゆがみが生まれやすい。広島平和記念資料館は、実証性に富む客観的な資料が
多い。「事実と真実」をすりあわせて、実想に迫り得る意義深い存在である。(た
だ、日本の旧陸軍・海軍が原子爆弾の研究開発に着手していた歴史的事実がどこ
にも展示、解説されていなかったのが惜しまれる)。
このたび、小金井市の「平和行事参加の旅」に加えていただき、平和祈念式参
列にあわせ資料館を見学した理由のひとつは、戦争に翼賛する空気が忍び寄って
いないか―歴史への回帰を通じ、検証したいと考えたからである。
◇何世代にも及ぶ放射線の遺伝子破壊とフクシマ
戦争は国家の総戦力になる。誰かが企み仕掛けても、陰に陽に支持・協力する
人びとの熱狂が要る。先行して、幼子たちの教育からナショナリズムを駆り立て、
巧妙な情報操作で危機を煽る。
“平和のための聖戦”に見せかけた謀略が、ここ百
年の日本史・世界史に多様な彩をもって刻印されている。
ヒロシマ・ナガサキにつづく敗戦、その混沌の中で、
「一億総懺悔」が流行語に
仕立てられたのを忘れてはならない。これを流布した為政者、マスメディアには、
己の戦争責任(騙された側の責任も含めて)を回避する意図が色濃く滲む。しか
しヒロシマでの爆風、熱線による「凄惨を極めた地獄」や被爆者の人生、特に何
世代にも及ぶ放射線の遺伝子破壊という「絶対悪」が隠蔽されている。
“ピカ、ド
ン”さえ、愚者の鉄面皮を壊滅し得なかったのか。後に核の平和利用に絡めとら
れ、原発大国への道を駆け上る起点になった。その延長線に今日のフクシマがあ
る。
◇たくさんの違う考えが平和への大きな力
太平洋戦争末期の 1945(昭和 20)年 8 月 6 日午前 8 時 15 分、一発の原子爆弾
が上空 600 メートルで炸裂し、
「焦土と化した広島」だが、あの日のような「灼け
つく日差し」はなかった。台風 11 号の余波で雨が降りつづくなか、爆心地に近い
平和記念公園で 6 日 8 時から、
「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式典」が
粛々と挙行された。テントのない式典会場のパイプ椅子に傘をさして座り、小金
井の仲間 13 人とともに耳を澄ます。
松井一實・広島市長の「平和宣言」や内閣総理大臣のあいさつが激しい雨音で
聞きづらかったが、こども代表の「平和への誓い」には、立ち上がり耳たぶに手
のひらをあてて、聴く。
平和について、これからについて
共に語り合い、話し合いましょう。
たくさんの違う考えが平和への大きな力となることを信じて。
こう結びの言葉を述べた若人(小学校 6 年生:田村玲子・牟田悠一郎)に頷く。
違いを超えたコミュニケーションで相互理解を深めていく。それこそが平和の礎
である。前日 5 日に見学した広島平和記念資料館には、英語、アラビア語、ドイ
ツ語など 16 ヶ国語で音声ガイドが貸し出され、たくさんの外国人が館内にあふれ
ていた。信じるに足る未来をひらくために、非核平和都市・小金井市の「平和行
事参加の旅」が続くことを願ってやまない。
『平和行事の旅』に参加して
50代
男性
今年参加した震災復興ボランティアでうかがった被災者の「世間では震災の記
憶がたった 3 年で風化したように思える」との声がずっと心に引っかかっていた
私は、今回旅の告知を見た時原爆の記憶が自分の中で形骸化していないだろうか、
それを被爆地広島で直接確かめたい、と思い、旅の参加を希望した。
広島は今回で 3 回目、過去 2 回記念館等を見学したが他の観光がメインになっ
てしまったためかあまり印象に残っていない。しかし今回は明確な目的を持って
参加したのでしっかりとそして自然に心に焼き付けることができ、また自分の中
での原爆の記憶が形骸化されていないことも実感することができた。
見学した場所、うかがった話、そして参加させて頂いた祈念式典、そのどれも
が貴重な体験で優劣をつけることは出来ない。そんな中で全体を通して感じた事
をひとつあげるとすれば、この場・時が特定の人・団体・国に対する政治的意図
や怨念を持った場・時では無く、鎮魂の場・時であると同時に平和の尊さを全世
界に発信する場・時である、と思えた点である。その象徴として、中・高校生ピ
ースクラブのポスター展で主宰者の若者が、海外の方に一生懸命身振り手振りで
ポスターの内容を説明し、また海外の方は何とかそれを理解しようと聞いてくれ
ていた姿や、教え教えられながら一緒に鶴を折っていた光景を思い出す。
世界には原爆投下を肯定する意見や核兵器を抑止力として必要だとする意見も
あるが、この場・時には、誰もが原爆投下は大きな誤りであり核兵器は絶対悪で
ある、との考えに一瞬にして変えるだけの力がある。そして平和は無条件に享受
できる権利であり何人も侵してはならないものであることに気付かせてくれる
場・時でもある。また唯一の被爆国でありその悲惨さを実体験した日本は、あら
ゆる主義・主張を超えた次元で平和の尊さを訴え続ける責務がある、とも思った。
60代
女性
今回、小金井市の非核平和事業の一環として広島原爆死没者慰霊式並びに平和
祈念式典に参加できたことは、私の生涯にとって大変意義のあることでした。か
つて、学校、テレビ番組、ニュースなどで広島、長崎の原爆投下の事は繰り返し
習い、見聞きして、充分理解していたつもりでした。しかし、この度実際に広島
に行き、式典に参加し、また広島平和記念資料館などを見学いたしますと、今ま
で私は何処か他人事と思っていた事を知らされました。
原爆はなぜ投下されたのか、なぜ、広島だったのか。展示物を見、資料を読み
説明を聞き、ようやくこれが現実に起きたことだったことが身に染みてまいりま
した。目を閉じ、何十秒後かに気付いて目を開けた時にはそこが地獄になってい
た。何が悪くてそこまでの犠牲を払わなくてはならなかったのか。それでも、広
島の人々は今怒りも恨みも昇華させ世界の平和を祈っています。そのことにも、
涙を禁じ得ません。
平和記念資料館の展示は驚くほど中立な立場で、決して一国を糾弾するような
ものでないよう配慮され、外国の方々の見学も多く、中にはアメリカ人と思われ
るしかも親子連れも見受けました。そのことにも感激いたしました。
被爆者の方々もご高齢で、今その証言を後世に残していく作業が進んでいると
のこと。唯一の被爆国である日本の為すべきことが何なのか、世界情勢の中で問
われていると思います。一市民として、ヒロシマの思いを伝えて行く事の誓いを
新たに致しました。
60代
女性
原爆とは何ぞやが
戦争とは何ぞや
人を殺すとは何ぞや
建物を破壊するとは何ぞや
こんな年をして誰が得をするのか
悲しむ人々が多いと言うのに
本当に世界中でこんな酷い事は
絶対にあってはならない
どこかの国で今でも戦争をしている国があるが
平和がどれほど
すばらしい事なのに!!
なんで止められないのだろう。
平和行事参加の旅
40代
女性
小金井市に住んで40年近く、初めて小金井市に「非核平和事業」がある事を
知りました。「平和とは」をあらためて考える夏となりました。
広島に着き「平和記念公園」へ。通常はまず「原爆ドーム」となりますが、ツ
アーの行程で「爆心地」を最初に見学。
爆心地が予定の標的よりずれていた事も説明で聞き驚きでした。ここの上空で
核爆発がと思うと何とも言えない気持ちです。
その後、原爆ドーム、相生橋、平和の鐘、原爆の子の像を見学。平和の灯を見
ながら慰霊碑へ。本当に厳粛な気持ちになります。
「資料館」での戦争、原爆、後遺症と広島で起こった事実を知り、パネルを読
むたびに涙があふれそうになりました。平和な時代に生きている私達、戦争を知
らない私達、広島での惨劇は忘れてはいけないと切に願います。
8月6日「平和祈念式典」に参加です。
雨が降りしきる中、平和記念公園へ向い小金井市が用意してくれていた席に・・・
式典が始まるギリギリでした。
本当に大勢の人が慰霊碑を中心に集まっていました。世界各国、日本各地、子
供から大人まで。席がない人も公園の周りに集まり式典を見守っていました。
広島市長、知事、総理大臣と大勢がお話しされましたが、心に響いたのは広島
の小学生2人の「平和の誓い」。聞いていて涙が止まりませんでした。「平和」に
ついて話し合い語り合わなければ、私達レベルから国を動かす総理大臣まで。
今回の「平和行事参加の旅」に参加させていただき本当に感謝しております。
自分の子供に伝え忘れてはいけない事実にしなくてはと切に願います。
平和行事参加の旅に参加して
70代
女性
かねてより広島平和行事参加の旅に行ってみたいと思い続けて、やっと今年諸
条件が整い行くことが出来た。何を見、何を感じ、何を思えばいいのか。
まず最初に出会ったのは、原爆ドームだった。何回もテレビ等で見ている風景
に「ああこれが原爆ドームか」と思いあまり感慨もなく皆で写真を撮って通過し
た。平和記念公園に入り中をもう少し歩いてみたかったが、雨が降り出したのと
人の多さで自由に動きが取れないまま広島平和記念資料館へ入った。
3時間余りかけてまのあたりにしたのは、8時15分で止まった時計をはじめ、
熱で変形した瓶、折れ曲がった鉄骨、一面焼野原の市内、白壁に残った黒い雨の
跡等々あまりにも悲惨な場面を表わす資料や遺品に胸が押し潰される思いだった。
放射線の被害で 10 年後白血病を発症し闘病むなしく亡くなった少女の年表は涙
なくしては読めません。
こんな焼野原でどうやって生活を再建したのか。避難所や仮設住宅など敗戦間
近な日本である訳もなく、瓦礫の中から木片等でバラックを建てたとありました。
そのバラックも台風で全滅しやっと市営の住宅が建ちはじめたとか。翌日の平和
祈念式は大雨で来賓の挨拶も上の空、式も無事終り献花になった。
日本全国、世界各国からの参加者で献花をするのに 1 時間近くかかった。ご冥
福を祈る。
こんなにも悲惨な戦争がまだ世界各地で続いている。69 年間日本が平和であっ
たことに幸せを感じる。核兵器を根絶し世界の恒久的平和を願わずにはいられな
い。
「平和行事参加の旅」に参加して
60代
女性
今年の式典は、四十数年振りの雨の中で行なわれました。雨のため、式典で配
布された資料が開けなかったのは残念でしたが、式典に参加でき、平和宣言・こ
ども代表の平和への誓いを直接聞くことができ、有意義な時間を過ごすことがで
きました。式典の準備、当日のボランティアの皆さんのご苦労には頭の下がる思
いでした。
雨への準備が不充分で、レインコートのない学生が雨の中タオルをかぶって式
典に参加していたのが印象的でした。
(傘を持っていたのにまわりの人への気配り
でか、さしていませんでした。)
多くの参加者がいたにもかかわらず、献花も整然と行なわれ、あらためて、争
いのない平和な世界の大切さを子どもたちに伝えていきたいと思いました。
小学5年生
男児
ぼくはこの旅に参加するにあたって、色々なことを学びました。
この旅の第一印象は戦争はぜったいにやってはならないと言う、ヒロシマの人
の願いが感じられました。
1日目はいろいろな所を回りました。たとえば、ばくしん地、原ばくドーム、
しりょう館など回りました。中でも原ばくドームは、ほしゅうされていました。
それは前に下調べでほしゅうが何回かされ、そのほとんどが寄付金でまかなわれ
たということに心がじーんときました。ヒロシマのことは、日本じゅう、いや世
界じゅうの人々がかんしんを持っているということです。
しりょう館ではしょうげき的な写真やしりょうがありびっくりしました。
夕ごはんはすごくごうかで、ふぐのおさしみやらなんやらで、みんなばくばく
食べていたけど、ぼくのすきな味ではありませんでした。
二日目は式典に参列し多勢の人がいて、けん花は出来て良かったです。
その後ダッシュで宮島へ行き、いつくしま神社がきれいでちょうど干ちょうで
大鳥いまで行けました。楽しかったです。ありがとうごいざいました。
「平和行事参加の旅」
70代
女性
8月5日早朝久しぶりの旅、楽しみに、のぞみに乗り込みました。車窓から見
る景色は台風が近づいていたので曇り空、富士山は残念ながら見えませんでした。
4時間余りの電車の旅。到着後は爆心地、原爆ドームを見学しました。たたずむ
原爆ドームは一生懸命平和を訴えているかのように見えました。慰霊碑を参拝し
平和記念資料館を見学しました。写真、遺品などを見ながら、原爆で突然断ち切
られた命の連鎖を思うとき、どんなにか無念だったことか。これだけでは言い尽
くせるものではありませんが外に言葉が見つかりません。翌日平和記念式典に参
列して、黙とう、平和の鐘、平和宣言、平和への誓い、放鳩等ほんとうにしみじ
み平和を願うばかりです。式典の間台風の雨に見まわれましたが、あまり気にな
らず、世界平和への尊さに聞き入っていました。これからもずっと、平和で有り
続きますように祈ります。
このたびの平和行事に参加して、いろいろと身をもって感じることができてよ
かったと思います。