現代自由論―公的自由の回復をめざして

関西学院大学総合政策学部
卒業論文
研究指導者: 鎌田康男 教授
『現代自由論―公的自由の回復をめざして―』
2005年3月卒業
1065
亀井 郷子
1
目次
序論
「自由」とはなにか
第一章
古代・中世から資本主義移行期の自由
第一節
古代の自由
第二節
二つの大きな波―ルネサンスと宗教改革
第二章
近現代における自由概念
第一節
啓蒙運動とフランス革命
第二節
大衆化の始まり
第三節
消費社会に絡まった現代人
第三章
公的自由の回復
第一節
画一性をうみだす国家の罠
第二節
盲目な学生と大衆化された大学
第三節
公的自由の回復
結論
自我の喪失がもたらすもの
参考文献一覧
2
序論 「自由」とは何か
私たちは普段から、何も考えることなく言葉やモノを使用している。それらがどうい
う目的を持っているのか、何を意味しているのか、気にかけている人はほとんどいない
だろうし、そのようなことをいちいち気にしていては話すことも動くことも出来なくな
ってしまう。
「自由」もこのようにその本質を考えられずに使われてきた言葉である。私たちはた
くさんの自由を手にしている。結婚の自由、言論の自由、移動の自由、さらには公的な
場への参加の自由。それゆえ、私たちはなんの障害もなく行動することができる。この
ような社会の中で、人々によって乱用される「自由」が本来何を意味しているのか、立
ち止まって考える人などほとんどいないであろうし、また私自身もその一人であった。
気がつけば「自由」が一つの免罪符になってしまった。「自由」だから、私は好きなこ
とができる、何をしてもかまわない。しかしそれは「自由」の単なる側面でしかない。
そしてそれは、本当に「自由」と向き合っているとはいえない。見たくないものからは
目をそらし、自分が楽しいと思えることにだけ興味を示しているだけである。そしてそ
れを「自由」と置き換えているだけである。この自由の取り違えは、現代社会に深刻な
問題をもたらしている。自由が形骸化すると同時に、共同体の領域でも形骸化が起こっ
ているのである。
しかしここでふと考える。私たちが使っている「自由」の意味は、どこから来たのだ
ろうか、と。小さな島国の中で他を排除(一部の国は除かれるが)して営んできた日本
がひっくり返ってしまったのは、ペリーが来航して以来のあの激動期のことである。あ
らゆる西洋の生活様式、モノ、そして概念が輸入され、定着した。おそらく気づかぬう
ちに居座ってしまったものもあるだろう。それらは意味を考えられることもなく、形だ
けが残されているだけであるように思えてならない。そしてそんな一つが「自由」では
ないだろうか。ここで日本における「自由」の流れを見てみよう。
「自由」という言葉を聞いて、多くの人は「何にも縛られない状態」をイメージする
だろう。しかし古来より日本には、この「何にも縛られない状態」という肯定的な意味
と同時に、「自分勝手に気ままに振舞う」という否定的な意味も持ち合わせていた。そ
して江戸時代になるまで、この否定的な意味のほうが主に使われていたのである。そも
そもこの「自由」の意味は日本で生まれた意味ではなかった。
「何にも縛られない状態」
3
の意味は『魏志』に、そして「自分勝手に気ままに振舞う」の意味は『後漢書』に見ら
れるものであり、これらはどちらも中国の古典である。すなわち古代日本の「自由」概
念は中国より輸入したものなのだ。時代によって「自由」の意味は肯定的意味にも、ま
た「便利」と同様の意味にも使用されたりはしたが、しかしそのときにも否定的な要素
はついて回っていたのである。
ではその日本が、現在多くの人が考える「何にも縛られない状態」という意味をどう
して持ちうるに至ったのか。それはちょうど江戸から明治への移行期、すなわち西洋が
日本に入り込んでくる時代であった。外来語としての liberty と freedom には、
「自由」
という語と同様に「自在」や「自主」などの訳語が試されて与えられていたが、それも
自由の否定的な意味を考慮するが故である。福沢諭吉はその著『西洋事情』の中で「自
由」という言葉を使いながらも、果たしてその語が適当であるか思案しているのが見ら
れる。1 しかしその後、中村正直が J.S.ミルの≪On Liberty≫を『自由之理』と訳した
ことによって、これまで否定的な意味を持ち続けてきた自由に西洋的な自由の概念が入
ってくることとなったのである。2
否定的な意味も、近代的な肯定的意味も、結局のところ日本の中から生まれたもので
はなかったといえる。だとしたら、私たちが何気なく使う「自由」はすでに中身が失わ
れているのではないか。その結果が、とりあえず自由を掲げておけば何をしてもかまわ
ないだろう、という現代社会の自由の乱用につながっているのだろう。
そこで本稿では、形骸化してしまった現代社会の自由を回復することを目的とする。
特にその中でも、公的な自由を目指す。しかし日本の自由概念はほかの文化から流れて
きたものである。だとすれば、自由を回復するために日本の自由を取り上げてもなんら
解決にはならない。そこで現代日本にはびこる自由を捉え新たに構築するための足がか
りとして、西洋における自由概念を中心に自由概念史を組み立てることとする。
1
2
「本文、自主任意、自由の字は、我侭放蕩にて国法をも恐れずとの義に非らず。総て
その国に居り人と交て気兼ね遠慮なく自力丈け存分のことをなすべしとの趣意な
り。英語に之を「フリーダム」又は「リベルチ」と云う。未だ的当の訳字あらず。」
福澤諭吉 『福澤諭吉著作集 第 1 巻 西洋事情』 慶應義塾大学出版会 p.16 引
用
「自由」 『世界大百科事典』 平凡社 参照
4
第一章
古代・中世から資本主義移行期の自由
私たちが「自由」という言葉を口にするとき、それは全ての人々が人種、国籍、身分、
貧富は関係なく平等であり、何者にも侵害されない尊重されるべき者であるという前提
がある。そしてそれゆえに「何にも縛られない」自由を持っているのだと多くの人々は
考えるだろう。そのために、古代そして中世社会の人々は、厳しい規則に縛られ理不尽
な搾取にあっていた、この上なく不幸で自由のない人々だったと捉えてしまいがちであ
る。確かに、彼らは自分の土地やそれを治める領主、あるいは教会によって厳しい階級
社会の中に暮らしていた。しかしそれだけで彼らを自由でなかったと決めることはでき
ない。「何にも縛られない状態」という場合の、現代人の「何」と彼らの「何」は大き
く異なっていた。古代人にとって自由とは、「己の欲望」から解放されていることを意
味していたのだ。そしてこの「己の欲望」は共同体から逸脱するものであった。このよ
うな彼らにとっての自由とは、生命の必然性から抜け出して公的な場への参与を意味し
ていたのである。
第一節
古代の自由
現代の観念で古代の共同体を考えることはできない。なぜなら古代ギリシアの共同体
であるポリスは、現代とは全く異なった概念の上に成り立っていたからである。もし現
代の感覚でもって古代を理解しようとすると、その途端に古代の姿が歪められてしまう。
そのため、私たちは一層の注意を要しなければならない。
さて、古代ギリシアのポリスでは、政治的領域である「公的領域」と家族の領域とし
ての「私的領域」が、異なった別の実体として存在していた。この二つの領域は古代の
自由を理解するうえで非常に重要な要素となる。公的領域とは「共通世界に係わる活動
力」3 であり、私的領域は「生命の維持に係わる活動力」4 である。そしてこの私的領
域の中で生命の必要を克服できたものだけが、公的領域へ加わり自由人として政治的な
活動ができたのである。ではどのようにして私的領域を克服するというのだろうか。そ
もそも、なぜ私的領域を克服する必要があったのだろうか。
3
4
ハンナ・アレント 『人間の条件』
『人間の条件』 p.49 引用
志水速雄訳
5
ちくま学芸文庫
p.49 引用
私的領域とは、先にも述べたように家族の領域でありかつ生命を維持するための領域
ネセシティ
である。
「家族という自然共同体は 必 要 〔必然〕から生まれたものであり、その中で行
われるすべての行動は、必然〔必要〕によって支配」5 されていた。そしてこの「生物
学的な生命過程を守り保護」6 するためには、それを囲む財産である家が必要であった。
もしもこの家がなければ、「人は、自分自身の場所を世界の中に持つことができず、そ
うなれば、世界の問題に参加することができな」7 かった。このことから「財産は、人
間の世界性にとって最も基本的な政治条件」8 であったといえる。つまり公的領域へ参
加するためには、私的領域の存在が前提条件となっていたのである。しかし古代ギリシ
ア人の政治意識の中には、この「生計を支え、ただ生命過程だけを維持する目的に向け
られた行動は、なに一つ政治的領域へ入ることを許され」9 ていなかった。私的領域が
生命維持の領域であるということは、すなわち労働の領域であることを意味する。なぜ
なら「労働の人間的条件は生命それ自体であ」10 り、それは「個体の生存のみならず、
種の生命をも保証する」11 からだ。古代人は、この労働を軽蔑していた。それは労働
が後に何も痕跡を残さないような「骨折り仕事」12 であり、またこの「生命を維持す
るための必要物に奉仕するすべての職業が奴隷的性格をもつから」13 である。そして
この労働に従事している人間は、「真の人類としてではなく、動物の種たるヒトの一員
として存在」14 していたにすぎないのである。これらの理由から彼らは、公的領域へ
飛び込むためには「奴隷を所有しなければならない」15 と考え、奴隷制を擁護した。
この場合の奴隷とは近代的な意味での奴隷ではない。なぜならギリシアの場合、「奴隷
は普通、主人と同じ民族のもの」16 であった。つまりポリスにおける奴隷とは、生命
5
『人間の条件』
『人間の条件』
7 『人間の条件』
8 『人間の条件』
9 『人間の条件』
10 『人間の条件』
11 『人間の条件』
12 『人間の条件』
13 『人間の条件』
14 『人間の条件』
15 『人間の条件』
16 『人間の条件』
6
p.51 引用
p.93 引用
p.51 引用
p.410 引用
p.58 引用
p.19 引用
p.21 引用
p.135 引用
p.137 引用
p.70 引用
p.137 引用
p.118 脚注(30) 引用
6
維持の必然を克服した自由人とは異なり、この「必然〔必要〕に屈服せざるをえなかっ
た」17 だったのである。こうして奴隷を所有することで生命の必然から解放された人々
は、家庭を離れ政治の場へと足を踏み入れるのである。
フリーダム
以上のような私的領域に対してアレント18 は、「ポリスの領域は 自 由 の領域であっ
た」19 と述べている。ポリスは人々を結び付ける共通世界であった。なぜなら「ポリ
スは、第一義的に、居住家屋の集合ではなくて、市民の集会場であり、公共の機能のた
「少なくとも人間の相対的永続は維持す
めに境界を定められた場所」20 でなのであり、
る空間」21 であるからだ。さて、ポリスに生きる人々にとって「自由であるというこ
とは、生活の必要〔必然〕あるいは他人の命令に従属しないということに加えて、自分
を命令する立場に置かないという」22 ことを意味していた。つまり「ポリスには『平
等者』しかいない」23 のである。家庭の中に自由は存在しなかった。そこは必然のゆ
えに不平等であり、それを支配するのが家長であった。そしてそれぞれの家族を支配し
ている家長たちがその家族を去り、同等者が集う政治的領域へ入ってゆくのである。す
なわち古代の平等は、現代のようにあらゆる人が同じ権利を所有しているということで
はなく、たくさんの家族の領域に存在している不平等者の存在の上に成り立っているの
「自由であることとは、支
である。つまり平等は「ほかならぬ自由の本質」24 であり、
配に現われる不平等から自由であり、支配も被支配も存在しない領域を動くという意味
であった。
」25 しかし一方で、同等者の間で生活することを許された自由人は、全員が
右を向いていてはならない。ポリスの中では「どんな人でも、自分を常に他人と区別し
17
18
19
20
21
22
23
24
25
『人間の条件』 p.137 引用
Hannah Arendt 1906-1975 ドイツで生まれ、第二次世界大戦後のアメリカで活
躍した女性の政治思想家。ドイツのユダヤ人家庭に生まれる。マールブルク大学で
ハイデガーに、ハイデルベルク大学でヤスパースに師事、哲学を学ぶ。1933 年に
ナチスの迫害を逃れるためフランスへ亡命。40 年にはアメリカへ亡命している。
20 世紀の全体主義を生み出した現代大衆社会の病理と対決することを生涯の課題
とした。(『人間の条件』参照)
『人間の条件』 p.51 引用
オルテガ 『大衆の反逆』 寺田和夫訳 中公クラシックス p.196 引用
『人間の条件』 p.84 引用
『人間の条件』 p.54 引用
『人間の条件』 p.53 引用
『人間の条件』 p.54 引用
『人間の条件』 p.54 引用
7
なければならず、ユニークな業績や成績によって、自分が万人の中の最良の者であるこ
とを示さなければならなかった」26 のだ。それゆえに多くの自由人が重荷である役割
をすすんで引き受けていた。ここにはただ他人とは異なる自分だけの真実を示そうとい
うことばかりではなく、政治体であるポリスに対する愛のためでもあった。これにより
同等者でありながらその役割によって異なる立場に立つ人々が、共通世界でそれぞれの
プラクシス
レクシス
視点で「 活 動 と言論」27 を行っていた。これこそまさに公的生活の意味である。28
古代人の自由やひいては平等概念は、明らかに現代とは異なっていたことがわかる。
生命の維持に従事しているものは人類として認められず、奴隷になるしかなかった。そ
してこの奴隷を所有することで生命の必然〔必要〕を克服してはじめて政治的領域へ踏
み込んだ。しかもただ自由人であることに甘えてはならず、己の真実を示すために喜ん
で重荷を引き受けており、真の公的生活を行っていたのである。
第二節
二つの大きな波―ルネサンスと宗教改革
古代ギリシアのポリスに生きる人々にとって、「たしかに家族における生活の必要を
克服しない限り、生命も『善き生活』もありえなかった。
」29 そのために彼らは奴隷を
所有し私的領域を克服することで、自由人として公的領域の舞台に立つことができたの
である。では、中世の封建時代はどうであったか。近代そして現代の社会に比べると、
中世社会は「個人的自由の欠如」30 がその特徴であった。当時は階級社会であり、階
級は絶対であった。他の階級へ移ることは当然不可能であったし、土地を移動すること
もできなかった。さらに職業、結婚はもちろんのこと、服装の自由さえも行使すること
が難しかった。あらゆる生活上の事柄が、自らが生まれる以前にすでに定められていた
のである。31しかしその一方で、彼らは自分が所属する社会の中に結び付けられていた。
目に見える、手に触れられるものが社会であり世界であった。彼らにとっての世界は非
常に身近なものであったのだ。それゆえに決められた法さえ守っていれば生活は侵害さ
26
27
28
29
30
31
『人間の条件』 p.65 引用
『人間の条件』 p.46 引用
『人間の条件』 p.85-86 参照
『人間の条件』 p.59 引用
E・フロム 『自由からの逃走』 日高六郎訳
『自由からの逃走』 p.123 参照
8
東京創元社
p.52 引用
れることはなく、むしろその枠の中で自由な創造32 を行えたのである。33 つまり、彼
らの内に「実際生活における具体的な個人主義」34 は存在していたのだ。
正確に述べるなら、「個人主義」という言葉自体、正しいとはいえない。なぜなら、
そもそも中世には「個人」という概念さえなかったからだ。先に述べたように、中世社
会に生きる人々は、自らが属するコミュニティーに密接につながっていた。フロムの言
葉を借りるなら、そのつながりは、まるで子どもが母の胎内で臍の緒につながっている
のと同じような、
「第一次的絆」35 なのである。このような状態において、コミュニテ
ィーは彼らの一部であり、また彼ら自身がコミュニティーの一部となる。そこに「他人」
は存在しない。だからこそ同時に、「個人」としての「私」という概念も存在しなかっ
たのである。それは同時に、現代のような「共同体」と「個」の対立がなかったことも
意味する。それゆえに共同体における自分の階級に反抗するような人もいなかったので
ある。
そのような中世世界に生きる人間たちに、大きな転機がやってくる。共同体的な生活
から経済的生活への移行である。そして十四、五世紀に現われたヨーロッパ全土を流れ
るこの「もろもろの宗教的、政治的、そして文化的の革新への努力」36 は、人間の態
度の中に中世文化のものとは全く異なるものを根付かせた。37 ルネサンスと宗教改革
である。この二つの大きな運動に共通していることは、それぞれが「『源泉への』まね
「ヨーロッパ精神を若返ら」39 せたと
きと再生、敬虔の復活と文芸の復興」38 であり、
いうことであった。同時にこの運動は、安定感と帰属感を持った人々の前に、大きな不
安と一種の恐怖をもたらす結果ともなったのである。このようなルネサンスと宗教改革
は、先に述べたヨーロッパ精神の若返りという共通性と啓蒙主義の前提であったという
点を強調されすぎており、それぞれの現象の精神や意義を共通性のかなたへ押しやられ
32
33
34
35
36
37
38
39
ここでいう創造とは、誰かによってまだ考えられていなかったということではなく、
自分の活動によって生じるその人自身の思考を指す。 『自由からの逃走』 p.268
参照
『自由からの逃走』 p.52-53 参照
『自由からの逃走』 p.53 引用
『自由からの逃走』 p.35 引用
トレルチ 『ルネサンスと宗教改革』 内田芳明訳 岩波文庫 p.16 引用
『ルネサンスと宗教改革』 p.16 参照
『ルネサンスと宗教改革』 p.17 引用
『ルネサンスと宗教改革』 p.17 引用
9
てしまった。40 しかし実際には、ルネサンスと宗教改革のもつ本質やこれらが与えた
影響などは異なっていたのである。
文芸復興といわれるルネサンスは、イタリアで花開いたものであった。この状態を、
トレルチは「それまで中世を支配していたフランス的・神学的・騎士的理念世界に対す
るイタリア文化の対立」41 であると述べている。それは、このルネサンスが政治的・
経済的領域に関する関心方向への変化であり、それが「個人は教会の倫理に拘束されず、
もしくは教会倫理との折り合いにおいて、権力を、富を、生の充足を、追及する」42
ものとなったということを意味する。さて、この政治的・経済的興隆は人々に富をもた
らした。そうしてイタリアに「創意と力と野心にみちた強力な有産階級」43 が産みお
とされた。有産階級―いわゆるブルジョア―の勃興は、封建社会の身分制度に揺さぶり
をかけはじめる。それまでの身分制度では市民と明らかに一線を画していた貴族に、こ
のブルジョアが富によって肩を並べようとしていたからである。そうしてこれらブルジ
ョアや富裕な貴族たちは、その富によって「自由の感情と個性の自覚とを」44 獲得し
ていく。だが、彼らがこの自由を得るために代償として差し出したものは大きかった。
それは、彼らをそれぞれが属するコミュニティーと結び付けていた「第一次的絆」であ
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
る。この「第一次的絆」の喪失により、「個人は独りぼっちにされた。すべてはみずか
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
らの努力にかかっており、伝統的な地位の安定」45 に寄りかかることができなくなっ
てしまった。自由と同時に耐え難い孤独を手にしたブルジョアたちは、その孤独から逃
れるために、またコミュニティーに代わる安心感を得るために、更なる富と力を手に入
れたいという欲望へ向かっていった。46 それは名誉あるいは名声へと繋がる。限りあ
る命を生きる人間が、その功績によって後の数世紀まで他人に名を知られる存在となる。
そうして初めて、自分の生に意味と価値を見出すのである。しかしこの名声は、それを
獲得できるだけの手段を、すなわち富と力を持っている身分の者にしか可能ではありえ
40
41
42
43
44
45
22
『ルネサンスと宗教改革』
『ルネサンスと宗教改革』
『ルネサンスと宗教改革』
『自由からの逃走』 p.56
『自由からの逃走』 p.58
『自由からの逃走』 p.68
『自由からの逃走』 p.58
p.19-p.21 参照
p.24 引用
p.25 引用
引用
引用
引用
参照
10
なかった。力も富ももたない無力な人々は、以前の「第一次的絆」を絶たれ、押し寄せ
る不安と孤独の中、世界と対面しなければならなかったのである。47
このような状況の中であらわれたのが、ルターやカルヴァンによって行われた宗教改
革である。ルネサンスが「富裕な貴族とブルジョアの文化」48 ならば、この宗教改革
は「都市の中産階級や貧困階級の、また農民の宗教」49 だった。というのも、宗教改
革の発端であるルターの教義は、
「教会の権威に反抗し、新しい有産階級に憤りを感じ、
資本主義の勃興によって脅威にさらされ、無力感と個人の無意味感とに打ちひしがれた、
中産階級の感情をあらわしていた」50 からである。そこで、ルターが反抗した宗教改
革以前の教会であるカトリック神学についてまずは見てみよう。現在では、宗教改革以
降に現れたプロテスタンティズムと対置する形で考えられているカトリシズムは、ロー
マ法王を最高指導者と仰ぐ僧侶の階層制度や、典礼や教義が整った教会組織を重視して
いた。人々の罪や感情の同様は、この神の代行機関である教会を通じて克服されていた。
懺悔、告白、免罪符を経験することで、人は罪の重荷から解放されたのである。このよ
うに見ると、中世の教会概念では努力もなしに罪から解放されるように思える。しかし
そうではない。むしろ「中世の教会は人間の尊厳や、人間の意志の自由や、また人間の
努力の有効であることを強調し」51 ていたのだ。アダムによって堕落した人間ではあ
るが、善を求める自由があるというカトリック神学の特徴がこれを支えていた。自由で
あるが故にあらゆる善き行いができるのであり、それゆえにその意志は外的な力から解
き放たれているというのである。努力せずに罪を許されるように見える免罪符も、手に
する前に懺悔や告白という努力が行われたという前提のもとに有効であると考えられ
ていたのだ。ルネサンスにより有産階級が富と力を手にしていく中で、この人間の努力
と自由の意志はより強調された。富と力を持つ富裕者ばかりが、その経済的な努力によ
り己の罪から逃れていた。52 これにより教会のもつ共同性が失われてゆくと共に、人々
はここでも「第一次的絆」を断たれてしまったのである。
47
48
49
50
51
52
『自由からの逃走』
『自由からの逃走』
『自由からの逃走』
『自由からの逃走』
『自由からの逃走』
『自由からの逃走』
p.59 参照
p.58 引用
p.72 引用
p.82 引用
p.81 引用
p.78-p.82 参照
11
一方プロテスタンティズムの発端ともいえるルターの教義は、カトリック教会の掲げ
るものとは全く異なっていた。そもそも人間には「生まれながらの悪が存在」53 して
おり、
「善を選ぶ自由がまったくかけている」54 というものであった。だから人間は己
の努力や仕事が自己を救ったり神に喜ばれたりすると考えてはならない。罪は人間の努
力で消えるほど軽いものではなく、完全に消えるものではないのだ。では、人間は救わ
れないとでもいうのだろうか。力のない中産階級や貧困層の人々は、宗教さえも奪われ
てしまうのだろうか。そこでルターは述べている。「もし信仰をもっているならば、救
済を確信することができる」55 と。この点が、カトリック教会とは異なるところであ
る。教会に依存することで信仰の確かさを得るカトリシズムとは異なり、プロテスタン
ティズムではその信仰の確かさは「各個人がみずから親しく獲得するほかはない」56
ものであった。聖書と聖書の言葉が神と交わる媒体となった。神に与えられた信仰を受
け入れるだけの感受性が人間にはあり、信仰によってキリストと一体になることができ
るのである。57 新しい教義はこのように教会から権威を奪い、それを個人に与えた。
そして信仰におけるすべての責任は個人にもたらされた。ここよりルターの教義は、
「宗
教的問題で人間に独立性をあたえた」58 ということが理解できる。
ルネサンスと同様、宗教改革も身分や階層によって異なる影響を与えた。貧困階層は
この宗教改革によってよりいっそうの自由を望みはじめる。そしてそれは農民一揆とし
て革命的な要素を帯びてゆく。最初はこの下層階級を指導していたルターも、気がつけ
ば革命精神が独り歩きをはじめたことにより、彼らに対して背を向けてしまった。59
そうして新たな階層へとその教義はひらかれる。都市の中産階級である。彼らにとって
は、ルネサンスにより上層階級が立ち向かうことのできない大きな壁として目の前を阻
んだ。宗教改革では下層階級が己の心に従って運動を起こし始めた。しかし中産階級は
経済的にも政治的にもなんとかして富裕者と肩を並べたいが為に、すべてを捨ててまで
53
54
55
56
57
58
59
『自由からの逃走』 p.83
『自由からの逃走』 p.83
『自由からの逃走』 p.85
『ルネサンスと宗教改革』
『自由からの逃走』 p.85
『自由からの逃走』 p.82
『自由からの逃走』 p.88
引用
引用
引用
p.36 引用
参照
引用
参照
12
革命に身を投じることさえできなかった。60 行き場をなくした彼らの前に開かれた道
は、ただ己の無力を認め、神の前に服従するということであった。そうして逃れられな
い孤独や懐疑を克服するのである。61
経済的な関心の方向転換から生まれたルネサンスと宗教改革は、それぞれの階級で個
人と自由を自覚させた。その一方で、新たな懐疑と孤独、不安をうみだした。そこから
逃れるために生まれた圧倒的な強者への服従という行為が、予想もしないところでこれ
からの社会的・経済的発展のための重要な要素となっていったのである。62
60
61
62
『自由からの逃走』
『自由からの逃走』
『自由からの逃走』
p.102-p.103 参照
p.109 参照
p.109 参照
13
第二章
近現代における自由概念
小さなコミュニティーの中で与えられた自分の役割を全うしながらも安定していた
人々は、精神的に解放された。そして「個人」という新しい自分を手に入れた。しかし
同時に、彼らは孤独と不安という重荷をも背負わなければならなくなった。啓蒙の時代
に入り、精神的のみならず物理的な自由がささやかれ始める。そうした歴史の流れの中
で起こった市民革命は、現代への礎となった。はたして私たち現代人は、何の見返りも
なく自由を手に入れられたのだろうか。そもそも私たちは自由なのだろうか。この章で
は、現代に至る間に大きく歪められた自由の姿を露にしていこう。
第一節
啓蒙運動とフランス革命
前章で見たように、ルネサンスと宗教改革は人々を「第一次的絆」から解き放つ結果
となった。それは同時に、
「精神的および宗教的領域における均等化」63 をもたらした。
人々は自由になった。そしてまた孤独になった。しかし不安の中に取り残された人々(そ
してこれは特に下層階級に属する人々であるが)は、経済的圧迫からの自由への追求へ
駆り立てられる。
そんな折、ヨーロッパに現れたものが啓蒙思想である。この思想は、人間の理性によ
って公正な社会を構成しようとした知的運動であり、十七世紀から十八世紀にかけて展
、、、、、
開された。カント64 は啓蒙について、以下のような定義をしている。曰く、
「啓蒙とは、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
人間が自分の未成年状態から抜けでることである」65 と。未成年状態とは、ただ一般
的に言われているような年齢によって線引きされるものではなく、「他人の指導がなけ
れば、自分自身の悟性を使用し得ない状態」66 を指している。
そしてカントは、人々が啓蒙されるためには、自由が必要であると述べている。すなわ
、、
ち「啓蒙を成就するに必要なものは、実に自由にほかならない、しかもおよそ自由と称
、
せられる限りのもののうちで最も無害な自由―すなわち自分の理性をあらゆる点で公
63
64
65
66
『ルネサンスと宗教改革』 p.100 引用
Immanuel Kant 1724-1804 ドイツの哲学者。
カント 『啓蒙とは何か』 篠田英雄訳 岩波文庫
『啓蒙とは何か』 p.7 引用
14
p.7 引用
、、、、、、
的に使用する自由である。
」67 カントは理性を使用する自由に、公的なものと私的なも
のを挙げており、次のように定義されている。公的使用とは「或る人が学者として、一
般の読者全体の前で彼自身の理性を使用すること」68 であり、私的使用とは「公民と
して或る地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性
を使用することが許される」69 ということである。そして、公的なものがいつでも自
由であるのに対して、私的なものは時に制限されてもよいとしている。この公的な理性
使用とは、ある人が「著書や論文を通じて、本来の意味での公衆一般、すなわち世界に
向かって話す」70 ことを意味する。
一方フランスの啓蒙学者であるルソー71 は自由を、自分以外の何者にも譲り渡すこ
とのできないものであるとしている。72 自由は個人に属するものであり、たとえ親で
あろうとも侵害することはできない。しかしだからといって、自ら放棄することもあっ
てはならない。なぜなら「自分の自由の放棄、それは人間たる資格、人類の権利ならび
に義務をさえ放棄することである」73 からだ。
このような啓蒙運動は、一つの理想的な政治体を掲げた。「社会契約」である。この
社会契約は「各構成員の身体と財産、共同の力すべてをあげて守り保護するような、統
合の一形式を見出」74 したものであり、このような社会において、そこに暮らす市民
は「すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じよう
に自由である」75 ことができるのである。この社会契約は、その社会に属する全員一
致で結ばれた「最初の約束」76 であり、人民の意志によって国家は成り立つ。ルソー
はこれを一般意志とし、各個人が人間としてもつ特殊意志と対置した。この社会契約に
よって、人間は「彼の自然的自由と、彼の気をひき、しかも彼が手に入れることのでき
67
68
69
70
71
72
73
74
75
76
『啓蒙とは何か』 p.10 引用
『啓蒙とは何か』 p.11 引用
『啓蒙とは何か』 p.11 引用
『啓蒙とは何か』 p.13 引用
Jean-Jacques Rousseau 1712-1778 フランスの哲学者。
J.J.ルソー 『社会契約論』 桑原武夫・前川貞次郎訳 岩波文庫
『社会契約論』 p.22 引用
『社会契約論』 p.29 引用
『社会契約論』 p.29 引用
『社会契約論』 p.27 引用
15
p.22 参照
る一切についての無制限の権利」77 を失ったが、他方で「市民的自由と、彼の持って
いるもの一切についての所有権」78 を獲得した。あくまでもこの社会では、一般意志
だけが国家の力を行使できるのであり、それゆえに「もっぱらこの共通の利害にもとづ
いて、おさめられなければなら」79 ない。国家の法は一般意志を表明しなければなら
ないし、政府は「臣民と主権者との間の相互の連絡のために設けられ、法律の執行と市
民的および政治的自由の維持とを任務とする一つの仲介団体で」80 なければならない
のだ。また人民は、この一般意志に服従しなければならない。もし個人が特殊意志にし
たがって己の欲望の衝動に従ってしまえばその人民は「ドレイ状態」81 であり、社会
契約は「空虚な法規」82 となってしまう。人民は常に「自ら課した法律に従うこと」83
で、はじめて市民的自由を得ることができるのだ。このことは、人民を体力や精神の
点で不平等にしてしまうが、この約束や権利によって、人民の上に「道徳上および法律
上の平等」84 がもたらされるのである。
以上のような個人の理性によって公正な社会を作ろうとした啓蒙運動は、人々の自由
への欲求を駆り立てた。そして市民革命の時代が幕を開ける。「自由、平等、博愛」を
旗印としたフランス革命は、最下層に位置する人々が立ち上がり、最高権力である国王
を処刑すると共に、市民の手で政府を樹立するにいたったという点で、ヨーロッパの
国々に影響を与えるものであった。そうしてこの市民革命の時代を境に、自由は中世的
な共同体・宗教的な自由から権力と対置される個人の自由へと変貌を遂げたのである。
ここで一つ注意をしておきたいことがある。それは「自由」についてである。アレン
トはその主著である『革命について』の中で、二つの自由が存在することを述べている。
それはリバティとフリーダムである。リバティとは「欠乏と恐怖からの自由というわれ
われ自身の主張もふくめて、もちろん本質的にネガティブなものである」85 のに対し、
77
78
79
80
81
82
83
84
85
『社会契約論』 p.36 引用
『社会契約論』 p.36 引用
『社会契約論』 p.42 引用
『社会契約論』 p.84 引用
『社会契約論』 p.20 引用
『社会契約論』 p.35 引用
『社会契約論』 p.37 引用
『社会契約論』 p.41 引用
ハンナ・アレント 『革命について』
志水速雄訳
16
ちくま学芸文庫
p.43 引用
フリーダムは「公的関係への参加、あるいは公的領域への加入」86 を意味していた。
ここより、古代の自由人はフリーダムをもっていたということが理解できる。この二つ
の自由が、フランス革命では混在していたのである。
さて、話をフランス革命へと戻そう。フランス革命は、長らく続く圧制と搾取、そし
てそれによって生じる貧困のために、耐え切れなくなった平民が起こしたものである、
というのが歴史の授業で習うようなことである。しかし革命の初期の段階で求められた
ものは、抑圧からの解放と自由の創設であり、「専制と抑圧にたいして、人民の権利を
主張した」87 のである。この段階では彼らにとって搾取や貧困ということよりも、む
しろ貴族が公的領域での生活を送るために、その重荷をすべて平民へなげているという、
抑圧に対する怒りであった。彼らは貴族と同等者になるために平等と自由を掲げたのだ。
この第一の革命は、王政を転覆させることに成功した。しかし結果として「支配者と被
支配者、政府と国民の関係は変化」88 しなかった。なぜならこの抑圧からの解放は「少
数者にとってのみ自由を意味し」89 たからである。というのも、この初期の革命で王
政を廃止した後に権力を握ったジロンド派は、主に裕福な商工業者である上・中階層の
市民が指示していたのであり、このような平民はただ商業上の規制という抑圧から解放
されればそれでよかったからである。それゆえにあいもかわらず政府と市民の溝は埋ま
らず、下層階級の市民は貧困に苦しんでいた。解放をその身に感じられない彼らは、も
う一度解放されなければならなかった。そしてそれは抑圧からの解放ではなく、必然性
〔貧窮〕からの解放であった。二度目の革命である。しかしここには一つの問題があっ
た。最初の革命では、それに加わった人々が「政治的には明らかに無力であり、したが
って抑圧された人びとの仲間であったから、」90 同じ人民に属しているという連帯感を
つくる必要はなかった。だが今回の革命は、「もはや共通の大義の客観的絆で結ばれて
「人
はいなかった」91 ので、その鎖をつくらなければならなくなった。そしてこの鎖は、
、、、、、、、、
民の福祉を考えること、自分の意志を人民の意志に合致させること―ただ一つの意志が
86
87
88
89
90
91
『革命について』
『革命について』
『革命について』
『革命について』
『革命について』
『革命について』
p.43 引用
p.111 引用
p.112 引用
p.112 引用
p.111 引用
p.112 引用
17
、、、、、
必要である―を意味し」92 ており、そしてこのような努力は、
「何よりもまず多数者の
幸福」93 へむけられることとなった。このことにより、
「自由ではなく幸福」が新しい
理念となったのである。その連帯感として考えられたのが、「上層階級の下層民に対す
る同情」94 であった。これはルソーの一般意志という概念に影響を受けたロベスピエ
ールが考えたものである。上・中層階級の人々は、すでに一回目の革命で抑圧から解放
されその上に胡坐をかいている。この富裕層を革命に巻き込むためには、平民が抱える
必然性を、見るに忍びないものとしなければならない。そうして同情を生み出すことで、
市民が一体になるのである。
このようなフランス革命の流れは、革命の役割が「もはや、自由の創設はおろか、人
びとを同じ仲間の人間の抑圧から解放することですらなく、むしろ社会の生命過程を稀
少性の足枷から解放し、それを豊かさの流れに変えることであった。こうして今や、自
由ではなく豊かさが革命の目的となった」95 ことをあらわしている。貧困という生命
の必然性から逃れたいという欲求は、生命が最高善であるという考えを生み出した。そ
してあらゆる階層の人々がこの生命維持の機会を持つように、貧困層の人の生は上昇さ
フリーダム
れた。フランス革命が最初に目指した 自 由 の創設はとうの昔にどこかへ忘れ去られ、
リバティ
ただ必然性から逃れるための自由が幅を利かせるようになっただけとなったのである。
第二節
大衆化の始まり
フランス革命を皮切りに各国で起こった市民革命は、最終的に人々を物理的束縛―す
なわち身分による搾取や制限―から解放する結果となった。しかしフランス革命によっ
て、即時に人々が解放されたわけではない。ナポレオン・ボナパルトの出現で、革命は
沈静化されたといえよう。しかし彼の夢見た帝政は長くは続かない。脅威を恐れた他国
からの攻撃と保守的反動。それは再びブルボン王朝の支配という、王政復古へ繋がった。
断ち切ったはずの圧政が人々にのしかかる。しかし一度生まれた自由の意識はそう簡単
92
93
94
95
『革命について』
『革命について』
『革命について』
『革命について』
p.113 引用
p.113 引用
p.119 引用
p.97 引用
18
に消せるものではない。相次いで沸き起こった二月革命・七月革命、その後に続く第二
帝政を経て、フランスは共和制へたどり着いたのである。
ヨーロッパ世界の一国だけでもこれほどの複雑さを擁していたのである。ましてフラ
ンス革命に引きずられる形で市民が権利を主張し始めた国々では、より多くの複雑さが
生まれたであろうことは想像に難くない。十八世紀から十九世紀初頭はそんな時代だっ
たのである。そのような中で、奇妙な集団が現れた。そしてその奇妙な人々を「大衆」
と名づけ危惧した人物がいる。オルテガ96 である。
ここで注意しておくが、オルテガの述べる「大衆」とは、単なる量的な人間の集まり
「質的な特性をもった
ではない。ここでいわれている大衆とは「《平均人》
」97 であり、
もの」98 である。つまり、政治的な意味での一般大衆としてではなく、人間的性格を
も含めたうえでの大衆ということになる。では人間的性格とはいったい何かというと、
オルテガは次のように述べている。「大衆とは、みずからを、特別な理由によって―よ
いとも悪いとも―評価しようとせず、自分が《みんなと同じ》だと感ずることに、いっ
こうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そ
のような人々全部である。
」99 もう少し詳しくみていこう。
そもそも社会とは、「大衆と、大衆から離れた特殊な少数派との複雑な統一体であっ
「貴族」である。この場合の貴族とは、歴史の中に現
た」100 という。この少数派とは、
れる、平民とは異なった特権を持つ身分にいる人々(そしてそれは大体において世襲的)
を指すのではなく、常に自分を困難の中におくことで自らを律しながら努力をする人た
ち、オルテガの言葉を借りるなら、
「高貴な生」をもつ人々を指す。これら少数派の人々
は、自らの生に甘んじ何もしない大衆とは正反対の位置にいる。そしてその動的、すな
わち自らを絶えず緊張関係におくがゆえに、その努力によって特権を得ていた。彼らの
José Ortega y Gasset 1883-1955 スペインの哲学者。マドリッド大学卒業後ドイツ
に留学。27 歳でマドリッド大学形而上学教授に就任。1914 年、
『ドンキ・ホーテを
めぐる思索』で初めて自らの哲学的立場を明確にし、「私は私と私の環境である」
という有名な命題を発見する。1930 年に発表した『大衆の反逆』は、彼の名を文
明批評家として広く世界に印象づけた。スペイン内乱に際し外国に亡命、1945 年
に帰国し、故郷の知的復興に尽力した。(『大衆の反逆』より抜粋)
97 『大衆の反逆』
p.7 引用
98 『大衆の反逆』
p.7 引用
99 『大衆の反逆』
p.9 引用
100 『大衆の反逆』
p.14 引用
96
19
ための場所で、彼らだけの楽しみを享受できたのである。そして以前なら、もし大衆が
この特権を得ようと思うなら、努力の道を歩まねばならなかった。そうして同じ資格を
得て初めてその楽しみに参加することができたのである。101 しかし今ここで問題とな
っている大衆は、その努力もなしに、少数派のための楽しみの場へ溢れ出し、我が物顔
で利用している。さらに彼ら大衆は、高貴な生を生きている選ばれた少数派に対して、
以前のように従順ではなくなったのである。102
その原因は当時の社会情勢にある。そしてオルテガの生きた時代が、二十世紀前半の
ヨーロッパであったことを考慮しなければならない。
十九世紀、それはこれまでの社会が見事にひっくり返った時代だといえよう。革命の
時代である。弱くて何もできないと思われた人々は命を賭して自由と平等の為に立ち上
がる。そして「平等」という名の自由を手に入れた。ここで彼らは社会的なしがらみか
ら自由になる。さらに同時期にイギリスで起こった産業革命は、良質で安価なものを一
度に多く作る技術を生み出した。そしてそれは世界へ一気に波及する。資源的にも経済
的にも豊かになり始めたといえる。そうして土台は出来上がった。この苦しい生みの時
代を乗り越えた新しい世界に生まれた人間は、残念ながら過去の努力を知らない。前世
紀のいわゆる伝統的な社会は、革命によって否定され壊された。そうして新しい世界が
そのうえに樹立されてしまったからである。だから「もはや、生まれたときから、社会
生活のいろいろな部面で邪魔も制限も受けない」103 新しい人間は、自分たちの生が「す
べての過去の生よりも豊富である」104 と考え、過去に対する尊敬の念を失った。さら
に悪いことには、これらの豊富な技術やそれによって生み出される道具が人間の努力の
結果でもたらされたにもかかわらず、まるで原野で自然に育つ草花のように湧き出てく
るものと捉え、それらを自由に使う権利を当然のように要求するのである。それがあた
かも自分たちの役割であるといわんばかりに。105 それにもかかわらず、彼らは自分の
意見を持たない。正確に述べるなら、彼らは自分がどのように動けばいいのかわからな
いのである。そうして「自己閉鎖の機構」106 へ向かっていく。それはすなわち、自分
101
102
103
104
105
106
『大衆の反逆』
『大衆の反逆』
『大衆の反逆』
『大衆の反逆』
『大衆の反逆』
『大衆の反逆』
p.70-p.79 参照
p.18 参照
p.63 引用
p.36 引用
p.68 引用
p.81 引用
20
が知的に完璧であるという満足を感じることであり、自分の周りにあるものを必要であ
ると考えない構造だ。大衆は、決して自己の完璧さを疑わないのである。107
、、、
そうしてこの大衆たちは、二十世紀初頭に現われたファシズム主義の中で、「理由を
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしないで、ひたす
ら自分の意見を押し付けるタイプの人間」108 となった。そして「すべての差異、秀抜
さ、個人的なもの、資質に恵まれたこと、選ばれた者をすべて圧殺する」109 ようにな
、、、、、
りはじめた。それも、
「最後の理性」110 であるところの力を、まるでそれが新たなはじ
まりであるかのごとくに使用しているのである。111
本来選ばれた少数者の権威に従い、指導され組織されるべき役割をもっていた大衆が、
自らすすんで行動するという己の使命に反することを始めた。112 そして自己の運命や
自己のあるべき姿から逃げ回り、生み出すことの難しさも知らず自分の責任をとること
もしないで、ただ周囲のものを自分の好きなように利用するようになってしまった。113
あるべき生のあり方を見失ったこの大衆は、それに気づかぬまま邁進を続ける。ナチズ
ムの脅威と第二次世界大戦、そしてその後に続く消費社会の罠がすぐ後ろまで迫ってい
ることも知らずに、彼らは心の扉を閉めてしまったのである。
第三節
消費社会に絡まった現代人
オルテガの危惧もむなしく、人々は何も見ないまま豊かな社会を歩んできた。進化の
一途を遂げると思われている科学技術、それらが生み出す便利な生活。そしてその生活
を、やはりまるで私たちが支配していると思い込み、私たち以上に偉大な者はいないと
考える。
この点において現代は豊かである。それは疑いもない事実だ。少なくとも私たち日本
人の多くは、食べるものには困っていないし、暑さや寒さをしのぐ家だってある。衣服
107
108
109
110
111
112
113
『大衆の反逆』
『大衆の反逆』
『大衆の反逆』
『大衆の反逆』
『大衆の反逆』
『大衆の反逆』
『大衆の反逆』
p.81-p.82 参照
p.86 引用
p.13 引用
p.88 引用
p.88 参照
p.143-p.144 参照
p.118-p.130 参照
21
にいたっては、毎日着ていくものに悩むくらいだ。このように、日本中がたくさんのモ
ノで溢れかえっている。そしてそれらの多くは、確かに生活を豊かにしてくれてはいる
が、実際には持っていなくても生きていけるものばかりである。しかしこれらのモノは、
私たちの気づかぬうちに自己を主張し始めた。例えば、大きな家、外国の車、高級ブラ
ンドのバッグや靴、それらはすべて「お金持ち」の代名詞であり、これらを所有してい
る人は「お金持ち」として捉えられるようになる。このようにして、私たちはそれぞれ
が保有しているモノによって「他人」を計っているだけではなく、その同じ物差しを使
って「私」というものが判断されているのである。私たち現代人は、モノに支配されて
しまったのだ。私たちは、私たちが「どう生きるか」ということよりもむしろ、「何を
所有しているか」ということを大切にしているのである。この、モノによって他人がど
、、、、、
ういう人であるかを計る行為は、
「平等の神話」114 に由来している。この平等の神話は、
産業革命と度重なる政治的革命によって、幸福の概念に組みこまれた。そしてここから、
、、、、
次のような結果がもたらされた。すなわち、「幸福は計量可能なものでなければならな
い。幸福は、モノと記号によって計量することができる福利、物質的安楽でなければな
らない」115 というものである。なぜなら消費社会における理想の幸福が、
「第一に平等
、、、、、、、
の要請であり、そのために常に目に見える基準との関係で意味をもつべきもの」116 だ
からである。モノの消費は、モノ自体を消費するためではない。消費の論理はむしろ社
会的意味をもつものの生産および操作の論理」117 であり、
「自分を他者と区別する記号
として(最も広い意味での)モノを常に操作」118 するのである。そうして彼らは「個
人にとっての地位を生産する」119 のだ。
さて、現代に生きる私たちが自由に使えると考えるものの中に、余暇がある。余暇は
労働を行わずにすむ休日であり、このときばかりは自分の好きなことができる。だが実
際には、余暇さえも消費のシステムに組み込まれているのだ。そもそも中世より以前に
は、近代的な意味の時間概念なるものは存在しなかった。時間は「反復される集団活動
114
115
116
117
118
119
ジャン・ボードリヤール 『消費社会の神話と構造』 今村仁司・塚原史訳
国屋書店 p.48 引用
『消費社会の神話と構造』 p.49 引用
『消費社会の神話と構造』 p.49 引用
『消費社会の神話と構造』 p.67 引用
『消費社会の神話と構造』 p.68 引用
『消費社会の神話と構造』 p.236 引用
22
紀伊
(労働や祭りの儀礼)のリズム以外の何もので」120 はなく、
「純粋な象徴的な時間」121
であった。現代のように「時間だけを切り離して抽象的概念とすることはできな」122
かったのだ。しかし資本主義の発展に伴って時間観念が現れると、時間が貴重で非常に
価値あるものへと変化し、時間のつまらない浪費は無駄なものであると考えられるよう
になった。そうして労働が、更なる価値をもつものとなったのである。123 時間観念が
生まれたことで、「時間は、交換価値の法則に従う稀少かつ貴重な商品」124 となった。
つまり現代の消費システムにおいては時間も一種のモノであり、生産性を高めるための
、、
「時間的資本」125 としてしか存在し得ない。そしてこのような時間は、
「もはや真に自
由ではありえないの」126 である。自由時間が「利潤を生む資本、潜在的生産力」とな
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
ってしまったが127 ゆえに、私たちは「自分自身の自由時間さえも金を出して買わなけ
、、、、、
ればならな」128 くなったのだ。
一方でアレントの掲げる余暇の問題は、「本質的には、消費能力を完全に維持するた
めに、いかにして日々の消耗に十分な機会を与えるか」129 ということである。アレン
トによる消費者社会は、人々が「労働者の社会に生きている」130 ということを意味す
る。しかし現代では、オートメーション化が進んでいる。それに伴い今まで人間によっ
て行われてきた労働が、徐々に機械によって奪われていくのである。そうなると、労働
者の社会に生きる我々は、そのあり余る労働力を消費の努力へと向けるようになる。こ
の苦痛のない消費は、貪欲な性格をさらに増大させる。そして「世界全体を自由に『消
費』するようになり、人類が消費したいと思うすべての物を日々自由に再生産するよう
になる」131 のだ。飽くことのない消費の欲望は、ついにはその消費が「必要物に限定
120
121
122
123
124
125
126
127
128
129
130
131
『消費社会の神話と構造』 p.228
『消費社会の神話と構造』 p.228
『消費社会の神話と構造』 p.228
『自由からの逃走』 p.68 参照
『消費社会の神話と構造』 p.229
『消費社会の神話と構造』 p.227
『消費社会の神話と構造』 p.227
『消費社会の神話と構造』 p.229
『消費社会の神話と構造』 p.229
『人間の条件』 p.193 引用
『人間の条件』 p.188 引用
『人間の条件』 p.193 引用
引用
引用
引用
引用
引用
引用
引用
引用
23
されず、むしろ主に生命の不要物に集中して」132 いくのであり、まさにアレントの危
惧したこの状態が、私たちが生きる消費社会であるといえる。さてここで、アレントの
最初の問題に戻ろう。すなわち、余暇が消費サイクルを維持するための時間であるとい
うものだ。これを少し現代に照らし合わせてみると、まず一週間のうち月曜日から金曜
日までは労働の時間である。この労働によって人々はお金を得る。そして週末に訪れる
休日、すなわち余暇に、映画を見たり、買物をしたり、本を読んだりして過ごす。この
際人々は、日ごろ稼いだお金を使って余暇を過ごす楽しみを得るのである。そうして再
び次の余暇を消費するお金を得るために、月曜から働き始める。このサイクルが永遠と
続くのである。ここより、昨今世間をにぎわせている「ゆとり教育」や「スローライフ」
という考えは、一見、時間に追われる現代人が自由な時間を持つための素晴らしい合言
葉であるかのようだ。しかし実際には、ゆとり教育においては子どもに労働と余暇しか
ないことを早い段階で植えつけるための手段であるし、スローライフは余暇の時間を増
すことによって、より一層の消費を促すための機会を提供しているにすぎないのである。
現代人は自由を保有していると思いながら、実は自由でなかった。自由な時間と思っ
ていた余暇でさえも、消費構造においては売買の対象なのである。このような社会を生
きているにもかかわらず、それでもなお私たち現代人は過去のどんな人々よりも自由を
謳歌しているというのである。なぜなら社会そのものが「増大する繁殖力の豊かさによ
って幻惑され、終わりなき過程の円滑な作用にとらえられ」133 てしまったのであり、
「このような社会は、もはやそれ自身の空虚さを認めることができない」134 からだ。
長い歴史の中で自由を追い求めてきた現代人は、出口のないループの中を漂っている。
しかも、誰もその事実に気づいていない。そんな中で私たち現代人は、幻影の自由を掲
げ喜んでいるのである。
132
133
134
『人間の条件』
『人間の条件』
『人間の条件』
p.195 引用
p.198 引用
p.198 引用
24
第三章
公的自由の回復
私たちは大きな勘違いをしていたようだ。自由であると思っていながら、実は多くの
制約に絡めとられてしまっている。はびこる情報をうまく駆使していると天狗になって
いながら、実際にはそれらの情報によって不自由であることを巧妙に目隠しされている
のだ。ここには「国家」が絡んでいる。この「国家」という大きな装置は、一見すると
私たちの前に自由を差し出しているように見えるが、実は国民の意識を一定の方向へ向
けているだけに過ぎないのである。この章の始めに、国家のもつ見えない糸を露にする。
そしてその罠に知らないうちに組み込まれ、本来の意義を失いつつある大学に焦点を当
てることで、自由のあるべき姿を取り戻すのである。
第一節
画一性をうみだす国家の罠
私たち現代人は、これ以上もないくらい尊大な態度を取っている。まるで私たち以上
に偉大なものはこの世に存在しておらず、またすべては意のままであると考える。生活
を脅かすものも、また圧力をかけるものも存在しない。あらゆる行動は自由であり、ど
んな発言も許される。そしてこの発言が、政治ひいては国家さえも、動かせるものであ
ると勘違いしているのである。そうしてこれこそがかつての人々が求めていた自由であ
ると信じて疑わない。しかし実際には、このような大衆社会から現在の消費社会にいた
るまでの誤った自由概念は、現代の国家によって植えつけられたものなのだ。
古代は公的領域と私的領域の二つの領域が明確に区別されていた。しかし近代に入っ
てこの二つのバランスが崩れ始め、その境界線があやふやになってしまった。アレント
はその第三の領域が、
「社会的領域」であると述べている。この社会的領域においては、
さまざまな立場の同等者が集まることでなりたつ政治的な共同体を「ある種の家族にす
ナショナル・エコノミー
ぎない」135 と考えている。このような思考は「 国 民 経 済 」136 に基づくであり、こ
の経済によって組織された国家という集団が、大きな「家族の模写となっているものこ
そ、私たちが『社会』と呼んでいるもの」137 なのである。そしてこのような社会は、
135
136
137
『人間の条件』
『人間の条件』
『人間の条件』
p.50 引用
p.50 引用
p.50 引用
25
「いつでも、その成員がたった一つの意見と一つの利害しかもたないような、単一の巨
大家族の成員でもあるかのように振舞うよう要求する」138 ような、画一主義的性格を
持っている。このことは、社会の集団の中へ家族の単位が吸収されたことを意味してい
る。それというのも、社会集団における平等は、古代の家族の不平等を前提とした一部
の同等者の平等ではなく、巨大な家族の家長のもとにいる家族全員の平等というもので
ワンマン・ルール
あるからだ。これは同時に古代人の家族における「一人支配」が、巨大家族という社会
ノーマン・ルール
においては「無人支配」へ変貌したことを意味する。139 ここに現代の権威を見ること
ができる。その歴史的な出来事から、権威はその持ち主を変えてきた。教会から国家へ、
国家から良心へ。そして現代において権威は、良心から「同調の道具としての、常識や
世論という匿名の権威に交替した」140 のだ。そしてこの匿名の権威をもつ社会は、家
ビヘイヴィア
族の領域同様に活動の可能性を排除し、その代わり「それぞれの成員にある種の 行 動
を期待し、無数の多様な規則を押しつける。
」141 そしてこの期待通りに行動していると
きだけ、現代人は「自我を確信することができ」142 安心感を得るが、同時にそれは「み
ずから意志する個人であるというまぼろしのもとに生きる自動人形」143 にすぎないの
である。しかし過去のどんな時代よりも偉大であると考える大衆は、この匿名の権威の
中で、自分が匿名者であると感じており、国家を自分のものだと考えている。そしてど
んなに危機に陥ろうとも、自分たちが国家を動かすことができ、簡単に安全を手に入れ
られるのだと信じて疑わない。この大衆は、社会が要求する規則に従うものを「正常な
人」であるとし、逆にこの規則に逸脱しようとする少数者を、国家という機能を使って
つぶそうとするのである。144 国家は「安全をつくりだす機械」145 である。よりよく生
きるための道具として、国家を作り上げる。そうしてその機械を動かしているのは自分
138
139
140
141
142
143
144
145
『人間の条件』 p.62 引用
『人間の条件』 p.63 参照
『自由からの逃走』 p.279 引用
『人間の条件』 p.64 引用
『自由からの逃走』 p.280 引用
『自由からの逃走』 p.279 引用
『大衆の反逆』 p.149 参照
『大衆の反逆』 p.151 参照
26
たちだと大衆は考えている。しかし真実は逆である。国家という装置を操作していると
重いながら、実は国家のために生きることを余儀なくされているのである。146
さて、この画一主義の中で他人の期待にこたえようと行動する現代人は、それゆえに
自我を喪失している。仮の安心感を得るために自我を喪失することは、「自発性と個性
を放棄すること」147 であり、これは生命力を妨げている。つまり自我を喪失すること
で、現代人は感情的、精神的なものを殺しているのである。このため表面上は楽観的に
振舞っていても、実際には絶望のふちに立たされているのだ。そして彼らは、藁をも掴
む思いで個性という観念を手に入れようとする。すなわち「他人とは『ことなろう』」148
という願いだ。個性に対するこの願いは、特に現代において顕著になっている。「あな
たの個性を伸ばします」といった啓発的な本が相次いで出版され、また「ゆとり教育」
にも個性を育むための総合学習の時間が取り入れられた。しかしそれは真の個性ではな
い。個性は生命維持の必然〔必要〕から逃れた上に、さらに自身をあえて重荷のなかに
おくことで得ることができるものだからだ。149 現代人のこの個性に対する強い願望は、
現代の便利な生活を捨てることなく、簡単に個性をも得ようとしているようである。し
かし大衆社会に生きる現代人は、自発的に生きるすべを知らない。唯一個性を発揮でき
る場が消費社会であり、他人と異なったモノを所有することでしか自らの個性を示すこ
とができないのでる。150
現代人は「『自由』の名のもとに生活はあらゆる構成を失」151 っている。技術の発展
は世界を近づけた。しかしそれは同時に世界を遠ざけるものでもあった。テレビや新聞
から流れる映像は、世界にとって驚異的な事件もただ消費欲を掻き立てるだけの広告も、
すべて同じレベルにした。その結果、毎日繰り返される映像の中ですべては平坦なもの
となり、逆に無関心を生み出したのである。さらにおびただしい情報の錯綜は、問題を
複雑にしてしまった。これらの問題の多くは、本来なら非常に単純なものである。しか
し科学が生み出した「専門家」でしか理解できず、また解決できないものであると見せ
146
147
148
149
150
151
『大衆の反逆』 p.150-151
『自由からの逃走』 p.281
『自由からの逃走』 p.281
『人間の条件』 p.65 参照
『自由からの逃走』 p.281
『自由からの逃走』 p.276
参照
引用
引用
参照
引用
27
ることで、問題をぼかしているのだ。152 こうして自発的な感情や個性は抑圧された。
そこに漬け込むようにして、ただ一つの利害や意見しか持たない社会が人々の上にのし
かかるのである。この社会の中で現代人は、まるでそれが自分の意志でもあるかのよう
に、行動する。そしてそれが社会の仕掛けた罠であることには決して気づかないのであ
る。
第二節
盲目な学生と大衆化された大学
近代の勃興は、社会的な領域の始まりであり同時に家族領域の崩壊でもあった。この
社会的な領域は、ただ一つの利害と意見のもとにその成員である人々をおく。それがあ
たかも自分の意見であるかのように感じさせるのである。しかしその利害や意見がいく
ら一致しても、そこには共同性は生まれない。なぜなら社会的領域の成員は、耐え切れ
ない孤独から逃れるために、意識的に自由であることが自由であると思い込みながらも
ただ自我を捨ててその権威にしがみついているだけだからである。
この画一主義は、大人だけではなく子どもに対しても牙を向けている。所属している
社会に何の疑いももたず従順となる成員を生み出すためには、教育がその手段となるか
らだ。そしてその教育あるいは学問の頂点にたつ大学は、ただ一つの知的な活動の場で
ある。しかし今、大学はその意義と精神を大きく歪められてしまった。どれだけの学生
が自らを知の場へ送りこんでいるのか疑わしい。しかし大学が資本主義における幸福の
ための通過点となってしまった以上、学生を責めるわけにもいかない。それは先にも述
べたように、画一主義の下で行われる教育そのものに問題があるからだ。画一主義を推
し進めるために、教育はさまざまな歪みを生み出しているのである。
まずは感情である。自発的感情や個性の発達は、子どもという非常に早い段階で抑圧
するように訓練され始める。このような訓練による束縛は、あくまでも子どもの成長を
支える過渡的な手段にしか過ぎない。しかし実際には、このような「教育の結果、上か
らあたえられた感情や思想や願望のために自発性が排除され、自然の精神的活動がうち
すてられることが、じつにしばしば起こっている」153 のである。そしてこの教育のも
つ本質的な目標は、敵対心や反抗心といった反作用的な感情を取り除くということであ
152
153
『自由からの逃走』
『自由からの逃走』
p.275-277 参照
p.268 引用
28
る。これは子どもたちに敵対心や不誠実の意識を抑圧させると共に、子どもたちに自分
の「感情を表現することを断念し、ついには感情そのものまで放棄」154 させるように
なる。その一方でこの同じ教育は、「まったく『自分のもの』でない感情をもつように
教え」155 るのである。それは主に他人に対する親しさであり、微笑である。こうして
「感じのよいパースナリティ」156 をもつようになる。この感情は自分のものではなく
訓練されて得るものであるから、親しさや微笑が必要であるときに一瞬にして表すこと
ができるのである。このような感情の訓練や教育は、自発的な感情を抑圧したその上に、
新しくにせの感情を植えつける。そしてそれがあたかも自分の感情であるかのように人
を振舞わせるのである。この教育による歪みは感情のうちにみられるものではなく、そ
、、
れは「独創的な思考」157 の上にも同じくのしかかっているのである。
子どもは本来、外の世界に対する好奇心が旺盛であり、それを知的にも肉体的にも把
握しようとする。それは真理を知りたいと欲することである。しかし子どものこの欲求
と好奇心に対して大人は誠実ではなく、子どもを諭したり叱ったりすることで問題をぼ
かしてしまう。158 このような状態で子どもたちは学校や大学へ入ってくるのである。
この学校という学問の場では、一つの迷信が広がっている。「より多くの真実を知れば
知るほど、真実の知識に到達する」159 という悲しいものである。生徒は頭の中に、数
え切れないほどの知識を詰め込まれるのである。これらの知識が相互にどう関連してい
るのかを考える暇もなく、課題が与えられていく。これは日本の教育に照らしてみれば
よくわかる。小学校から高校までに習うことは、それが実社会でどのように使われてい
るのかということを考えるためではなく、また共同体の為に使うものでもない。あくま
でも学問の最終地点である大学へ入学するための手段であり、いかに知識を使うかとい
うことよりもどれだけ知識を暗記しているかということが重要視されているのである。
このような教育環境の中で学ぶ生徒は、ただ「『事実』を登録する機械」160 に成り下が
り、学校は真理の探究という知の活動を失ったただの箱にすぎなくなった。このことは
154
155
156
157
158
159
160
『自由からの逃走』
『自由からの逃走』
『自由からの逃走』
『自由からの逃走』
『自由からの逃走』
『自由からの逃走』
『自由からの逃走』
p.268
p.269
p.269
p.272
p.273
p.273
p.274
引用
引用
引用
引用
参照
引用
引用
29
近代の始まりに起こった学校が、それ自身は「前世紀の大きな誇りであったが、大衆に
近代生活の技術を教える以外のことはできなかった」161 ことに由来しており、教育に
よって「独創的な思考は阻害され、既製品の思想がひとびとの頭にもたらされる」162
だけなのである。
このように知識そのものをただ単に詰め込まれた機械人間は、空虚な箱である学校を
卒業して大学へと入ってくる。大学進学という行動は、知の活動を行うためではなく、
社会が操作し要求する「大学に入っていい会社に就職することで、よりよい生活を送る」
という意志をあたかも自分で意志決定したかのように使用しているにすぎない。つまり
本来選らばれた少数者のみが学ぶ場であった大学が、近代に伴って大衆レベルまで落ち
てしまったのである。そしてあと二、三年もすれば、大学の募集人数と大学へ進学する
生徒数が同じになるともいわれている。つまり社会的に大学の位置づけは高いものでは
なく、労働社会へ組み込まれる前の単なる通過点という認識しかされていないというこ
とである。大学すらも、人間の地位をあらわすただの記号になってしまったのだ。しか
し学生にとって、明らかに大学と学校は異なっている。それは、大学が学校よりも自由
な空間となっていることである。学生にとって、大学はレジャーランドなのだ。ここで
の自由とは、ポリスのように必要を乗り越えた故に手にできる自由ではなく、単なる足
枷からの自由である。学校は生徒に勉強することを迫る。暗記しなければならない無数
の記号と目の前に次々に立ちはだかる課題の山は、生徒の意志にかかわらずやらなけれ
ばならない足枷でしかなかった。しかし大学は一転して個人に任される。数ある講義か
ら何を選択するかは自由であるし、確かに講義や課題はあるとしても学校ほど重たい鎖
とはなっていない。また一方で、学生は真の労働社会を知らないから、たとえアルバイ
トでその断片を垣間見たとしても遠い世界の出来事でしかないのである。勉強という鎖
にも労働という鎖にも絡まっていない学生は、まさに「
《慢心した坊ちゃん》」163 なの
である。労働からも勉強からも解放されている彼らは、ただ目の前に存在するたくさん
の便利なものをまるで自分のものであるかのように我が物顔で使い、しかもたとえ問題
が起こっても取り返しがつくと信じて疑わないし、自分には責任がないと思い込んでい
、、、
る。このように甘えた学生は、決して外部の声に耳を傾けることをしないで、「自分が
161
162
163
『大衆の反逆』 p.57 引用
『自由からの逃走』 p.272 引用
『大衆の反逆』 p.118 引用
30
、、、、、、、、、、、
そうであらねばならぬ姿と対面することを避け」164 ているのだ。本来の自分の姿に蓋
をした学生は決して知のネットワークの中に自らを組み込むことはない。そして「いか
に公的領域で自分の知識を使用するか」ということよりもむしろ、「いかに日々を享楽
的に生きるか」ということが学生の暗黙の合言葉となってしまったのである。
第三節
公的自由の回復
成人式の模様を放送するニュースの中で、あるアンケートがとられていた。そのアン
ケートの中に、
「今あなたが斬りたい人は誰ですか」
(この場合の「斬りたい」というの
は決して刀で斬り殺すという意味ではなく、何か物申したいということである)と、
「あ
なたが尊敬している人は誰ですか」という二つの質問があった。「斬りたい人」の上位
五つの中には、小泉首相や友達、あるいはだらだらしている自分という回答があった。
また「尊敬している人」の回答は、両親をはじめとして先生や先輩というものであった。
ここまではある程度予想がつくと思われる。しかしそれぞれの回答の第二位が、私の興
味をひいた。それは「誰もいない」というものだったのだ。この「誰もいない」という
回答より次のことが考えられる。つまり、誰に対しても興味を持っていないか、あるい
は自分が誰よりも偉いとうぬぼれているか、自分の意見を持ち合わせていないか、とい
うことである。この回答は、まさに現代社会にはびこる病理を見事にあらわしている。
すなわち自分が偉大であるという尊大さをもつ大衆は、大衆でありながら共通世界を有
していない。それゆえに彼らは同じ共同体に所属していながら孤独なのである。そして
その孤独から逃れるために、あたかもそれが自分の考えであるかのように社会の要求す
る行動どおりに振舞うのである。この大衆の行動は子どもという初期の段階から行われ
るので、なるほど成人を迎えた若い人がこのように答えるのにも納得ができる。
私たち現代人の前には、私たちを結び付けるポリスのような共通世界は存在しない。
それはかつて中世の終わりに共同性をつなぐ絆が切られてから、二度と同じように繋が
ることができないことを意味する。そしてそこから自由の形は歪みだした。望んで得た
はずの自由は、常に耐えがたい孤独を伴う。しかしこの孤独から逃れんために、人はさ
らに自由を歪めている。空虚な自由をそれがあたかも最高の権利であるかのように振り
かざしながら、その実、何も考えることができず何も聞くこともできないのだ。決めら
164
『大衆の反逆』
p.128 引用
31
れた、あるいは予想された以外の感情をあらわすすべを知らず、ただどうしようもない
自我の喪失と引き換えに、見せかけの安心感を得るのである。
歴史の中で自由概念が移り変わってきたことは、ただ自由の姿が歪められる過程でし
かない。自由は本来、己の欲望から解放されており、共同体のために自分を困難と重荷
の中に横たえることではなかったか。常に責任と義務の中で、自己に満足することなく
活動を続けることではなかったか。そうしてこの絶え間のない活動が、他人と自己を区
別するユニークな偉業へと繋がるのではなかったか。しかし現代では、公的領域は社会
的領域に飲み込まれてしまった。そして真の意味での公的生活は、同等者の意見がただ
一つのものになってしまったために、意見交換が成り立たなくなり消滅してしまった。
ではこの現代において、公的な自由を回復することは不可能なのだろうか。
確かに現代は労働の社会であり、どんなに自由であると思っても私たちは生命維持の
必然〔必要〕から抜け出すことはできない。であるからして、古代人が行っていたと同
じような政治的活動はできないのである。その意味で、公的な自由を回復することは非
常に困難となる。しかし「高貴な生」165 を生きることはできるはずだ。何もかも、そ
れこそ生命の必然〔必要〕に必要でないものさえ揃っている現代に生きる私たちは、己
の欲望を簡単に満たすことができる。それを保障するだけの経済も持ち合わせている。
だからこそ自分の主人は自分であると思いこみ、自分勝手に振舞うのである。そしてこ
れに輪をかけるように、いたるところで「個性」の問題が取り上げられている。「自分
らしさ」を「自分勝手」と取り違えた現代の「《慢心した坊ちゃん》」たちは、より一層
自分の周りの環境を省みなくなった。さらに悪いことに、このような人々は自分が犯し
た失敗に責任はないと思っているのである。自身には欠点などなく、むしろそれが悪い
と決める環境に対して責任を押しつけるのだ。このような生き方をする現代人は「月な
みな生」166 しか持ち合わせていない。高貴な生を持つものは、自らを永続的な緊張の
中におき、生のトレーニングを行う。すぐれた規範に対しては、自らをその規範に訴え
るために、その規範の前に身をささげるのである。義務と責任を片手に持ち、もう片方
の手で困難や労苦を抱えながら、しかしいつまでも自分に甘んじることのない生を生き
ること、それこそが現代人が公的な自由を得る唯一の方法である。もはや、世界規模で
進行している消費社会をとめることはできない。その流れを押しとどめようと逆流すれ
165
166
『大衆の反逆』
『大衆の反逆』
p.70 引用
p.70 引用
32
ばするほど、この濁流に飲み込まれるだけなのである。それゆえ政治敵領域をふたたび
取り戻して公的な自由を生み出すこともできないのだ。しかし個々人が努力と理性を積
極的に注ぐことによって、孤独を伴わない自由を手にする。そしてそれはまた、自我の
実現へと繋がる。この絶え間のない努力によって、現代人はありのままの自分の中に自
由を見出すことができるのである。
33
結論 自我の喪失がもたらすもの
これまで述べてきたことから、古代から現代に至るまで、自由概念は明らかな変化を
遂げたことを理解することができる。古代において自由は、共同体に生きる人々全員が
同じように所有していたものではなかった。生命維持という必然〔必要〕を克服できた
ものだけが持ちえたものであり、それは多くの不平等の上に成り立つ自由であった。そ
うして公的領域である政治へと関与したのであるが、そこでも彼らは同じような自由人
である他者と自分を区別するために、さらにすすんで重荷を引き受けていたのである。
そしてまた、自由人はこの公的領域である共通世界に結び付けられており、そこには安
定感や帰属感があった。中世の封建社会に生きる人々も同様に、共同体に結び付けられ
ていた。このような共同体の中であたえられた役割を果たしてさえいれば、自分の中で
生まれた感情や思考を形にすることができたのである。そのような古代的な意味の自由
が、ルネサンスと宗教改革という二つの運動によって崩れてしまう。
ルネサンスと宗教改革によって、人々はそれまで繋がっていた共同体から切り離され
てしまった。そしてこの時期に勃興し始めた資本主義は、階級ごとに違った顔を見せた
のである。富と力のある富裕階層のみがこの資本主義の波に乗り、お金と名誉によって
自由人であるかのように振舞えた。他方、全く逆の立場に生きる下層階級の人々は、宗
教改革による信仰の確かさの変化が、自由を求める運動への後押しとなった。その間に
挟まれた中産階級だけ、ただ孤独をどうすることもできず抱えており、絶対的な権力の
前に服従したのである。
その後に現れた啓蒙運動は、理性のもとに公正な社会を作ろうとする知的運動であっ
た。自由は個人と結びついており、何者もそれを奪うことはできないと同時に、自分自
身もその自由を放棄することはできないのである。また、未成年状態からの脱却による
理性の獲得は、あらゆる人が平等に社会の成員になりうることを保障する。そうしてこ
の啓蒙運動に触発された貧困層は、とうとう立ちあがった。市民革命の始まりである。
この市民革命の時代にもっとも大きな影響を与えたフランス革命は、二重の自由をもっ
ていた。フリーダムとリバティである。もともと新たな政治体の構成を形成するフリー
ダムを願って立ち上がったにもかかわらず、結局はただ貧困という必然から逃れるため
のリバティを獲得するに終わってしまった。
34
市民革命とその後に勃発する産業革命は、それ以前の社会とは全く違うものとなった。
技術の革新は物質的にも経済的にも豊かさをもたらした。これにより人間の生は増大し
た。以前には選ばれた少数者のためだけにあった楽しみの場所へ、「大衆」があふれ出
したのである。この大衆はすでに束縛も貧しさも存在しないところに生れ落ちたので、
それがあたかも自然物であるとみなし、その責任を省みることなく好き勝手に使い始め
た。また生の増大により、過去のどんな時代よりも勝っていると考えていた。このよう
な大衆は、何の反省をすることもなく現代の消費社会へ歩み続けた。モノを所有してい
ると勘違いしながら実はモノに振り回されている現代人は、自由な時間である余暇さえ
も消費のサイクルに組み込まれていることに気づかないのである。
現代社会に生きる人々は盲目である。あるいは目隠しをされているといってもよい。
しかしそれは完全ではなく、ふとしたはずみに光を感じたり目隠しがずれたりして現実
に直面することもあるだろう。そのような状態になったときでさえ、彼らは現実と向き
合わない。もう一度目を閉じ、目隠しをきつく縛るのである。たとえ孤独であっても自
我をなくしても、社会が求めるただ一つの意見と一つの利害のために行動していれば、
見せかけの安心感は得られるのだから、それが非常に脆いものだと重々承知の上で、彼
らはその上に乗っかろうとする。なぜなら、何も見ず、何も聞かず、何も考えず、ただ
社会の規則にしたがって生きていれば、わざわざ自分を重荷の中におく必要もなく、楽
をして生きていけるからだ。右を向けといわれたら右を向き、左を向けといわれたら左
を向く。機械人形となった彼らは、消費社会の耐えることないサイクルの中に自らを投
じるのである。しかし、もし真に自由を得ようと思うなら、労苦も重荷もわずらわしく
感じてはならない。楽をして手に入れた自由は、不確かな壊れやすいものでしかない。
そしてこのような自由は、むしろより一層の自我喪失を引き起こす。しかし現代人は、
楽をしてモノを手に入れる術を知っている。それゆえに先に述べたように、わざわざ目
隠しを縛りなおすのだ。そうして後に残るのは、いまだ心の奥でくすぶる孤独と自我の
喪失の痛みであり、指示や決められた目標がないとなにもすることができない、燃料の
切れたただの機械人形だけなのである。
35
参考文献一覧
エーリッヒ・フロム
『自由からの逃走』
オルテガ
『大衆の反逆』
カント
『啓蒙とは何か』
J・J・ルソー
『社会契約論』
日高六郎訳
寺田和夫訳
東京創元社
中公クラシックス
篠田英雄訳
岩波文庫
桑原武夫・前川貞次郎訳
岩波文庫
ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原史訳
トレルチ
『ルネサンスと宗教改革』
ハンナ・アレント
『革命について』
ハンナ・アレント
『人間の条件』
内田芳明訳
志水速雄訳
志水速雄訳
36
紀伊国屋書店
岩波文庫
ちくま学芸文庫
ちくま学芸文庫