守 山:成 立 期 の中 世都 市 コ ミュー ソ運 動(中) 79 成 立 期 の 中 世 都 市 コ ミ ュ ー ソ運 動(中) 一 主 と して北 フ ラ ソス の場 合 一 守 山 記 生* Lemouvementcommunaldes villesduMoyenAgea1'epoquedelanaissance specialementenFranceduNord(2) NorioMoRrヱAMA 要 前 回 で は 、 主 に 北 フ ラ ソ ス に お け る成 立 期(1070年 旨 一1180年)の 中 世 都 市 コ ミ ュ ー ソ運 動 に つ い て 、 一 般的 な事柄 と全 体的\ な特 徴 を理 解す る素 材 とす るた めに5都 市 の個 別都 市 の成 立 状況 を検討 した 。本稿 で は、 引 きつ づい て、個 別都 市 の成 立状 況 の うち、 ラ ソLaonの 場 合 を詳 述 した。 先 ず、 コ ミュー ソ前 史 か らは じめて、 次 いで、 コ ミュー ソ史 を三 つの段 階 に分 けて考 察 した。 後者 につ いて は、重 要 な同時代 史 料 を主 に用 い て、分析 した。 これ らの記 述 を通 じて 、成立 期 の中世都 市 コ ミュー ソ運 動 が、 平和運 動 の基 調 の下 に展 開 して い くこ とを 、 ラ ソの場 合 にお いて も明 らか に した 。 (II)個 別都市の成立状況 前 回 に 、 個 別 都 市 の 成 立 状 況 と して5都 市 を取 りあ げ た の で 、 今 回 は ラ ソ の コ ミ ュー ソ史 に つ い て 詳 述 した い と 思 う。 ⑥ ラ ンの コ ミュー ン (a)前 史1) (1)3世 先 ず 、3世 紀 か ら8世 紀 まで の ラ ン 紀 か ら8世 紀 ま で の ラ ソに つ い て 考 え た い。 ラ ソ は 、 典 型 的 な 城 砦 都 市 と し て ケ ル ト人 の レ ー ム 族Remesの 集 落 で あ り充 分 に 重 要 な 中 心 地 で あ っ た 。 何 故 な ら、 ラ ソ は 平 野 の 真 中 で 長 方 形 状 の か な りけ わ し い 丘 陵 地 に 位 置 し て い た か ら で あ る 。 明 る い 山 を 意 味 す る ケ ル ト語 で あ る ル グ ド ゥ ー ヌ ムLugdunum、 ラ ウ ド ゥー ヌ ムLaudunumの あ るい は 名 は 、 そ の 事 実 を よ く表 わ して い る 。 前 者 は 、530年 6世 紀 に 作 成 さ れ た 二 つ の 資 料 に お い て も 言 及 さ れ て い る2)。 時 代 は 遡 る が 、3世 ソ は 囲 壁 で と り ま か れ 、 カ ス トル ムcastrumに 頃 および 紀末 に、 ラ な った 。 キ リ ス ト教 伝 導 の は じ ま り は 、 よ く知 ら れ て い な い が 、 初 期 の キ リ ス ト教 徒 達 は 、 先 ず ラ ソ の 周 辺 部 の う ち で 、 そ して オ ア ー ズ 川 の 谷 間 で 現 れ た と 考 え ら れ る 。 キ リ ス ト教 の 流 布 は 、 こ れ も 資 料 が 欠 落 して い る の だ が 、4世 紀 と5世 紀 に お い て 徐 々 に 進 展 し て い っ た 模 様 で あ る3)。 平 成5年9月27日 受 理*史 学 研究室 80 奈 4世 紀 と5世 良 大 学 紀 要 第22号 紀 の 間 、 諸 資 料 は 全 く こ の 都 市 に つ い て 言 及 し な い4)。 即 ち 、 そ の 名 が 新 し く 引 用 さ れ る の は フ ラ ソ ク 王 国 初 代 の 王 ク ロ ヴ ィ ス(481年 ソ ス の ヒ ソ ク マ ルHincmardeReimsと 一511年)の 統 治 か らにす ぎな い 。 ラ フ ロ ド ア ー ルFlodoardの ソ 司 教 領 の 設 立 を 聖 ル ミRemiに 諸 資 料 に基 づ け ば 、 ラ 負 っ て い る と い う こ とに な る が 、 そ の 司 教 領 の起 源 は 、 ク ロ ヴ ィ ス の 死 に 続 く分 割 に 結 び つ く。 実 際 に 、511年 に 、 こ の 王 の 死 で ベ ル ギ カ 第 二 州 は 全 く分 割 さ れ た 。 ラ ソ は 、 司 教 座 に な っ た が 、 ラ ソ ス 司 教 区 か ら 引 き は な さ れ 、 ク ロ テ ー ルClotaire1世 の 下 に 帰 属 した 。 ラ ソ の カ ス トル ム か ら キ ヴ ィ タ ス の 地 位 ま で の 昇 格 は 、 秩 序 や 政 治 的 均 衡 の 諸 理 由 と 同 程 度 に、 宗 教 的 な諸 原 因 に 負 うて い る。 そ の 在 位 が 確 実 で あ る 最 初 の ラ ソ 司 教 は 、 ゲ ソ ノ バ ウ ド ゥ スGennobaudusで あ る。 彼 は そ の 司 教 職 へ の 登 位 の 前 に 、 聖 ル ミの 姪 を め と っ た 。 ガ ロ ・ロ ー マ 期 の セ ナ トー ル 貴 族 の 家 系 と の こ の 同 盟 は 、 彼 の 貴 族 的 な 起 源 を 推 測 さ せ る 。 ゲ ソ ノ バ ウ ド ゥ ス に 関 す る 年 代 的 な 唯0の 確 実 な 事 実 は 、549年 に オ ル レ ア ソ 教 会 会 議 に 出 席 して い る こ と で あ る 。 し か し 、 彼 は 老 齢 の た め 、 彼 の 副 司 教 メ ド ゥル フ スMedulfusを 代 表 者 に 任 じ た 。 ラ ソ 司 教 領 の 創 設 の 日 付 を511 年 の頃 と と るに して も、 この 司 教 が 、 ク ロ ヴ ィ スに よ るガ リア征 服 以 前 に生 ま れ て い た こ とは 確 実 で あ る。486年 に 、 彼 が フ ラ ソ ク族 と共 に 来 た と して も 、 彼 は 異 教 徒 で あ り、 多 分 ク ロ ヴ ィ ス と 共 に 、 後 に し か 改 宗 し な か っ た 。 と も か く、 聖 ル ミ と の 同 盟 に よ る ラ ソ 司 教 区 の ト ッ プ へ の 彼 の 出 現 は 、 考 古 学 や 地 名 研 究 の 成 果 も あ っ て 、 ゲ ル マ ソ 的 そ して ガ ロ ・ ロ ー マ 的 な 諸 要 素 の融 合 へ の傾 向 を確 認 させ る。 ゲ ソ ノ バ ウ ド ゥ ス は 、550年 の ラ ト ロLatroで スEbrelindus、 頃 の9月5日 に 死 去 した と 推 定 さ れ る 。 後 継 司 教 は 、 彼 の 息 子 あ っ た 。 次 の 司 教 達 と し て 、 ゴ ソ ド ゥル フ スGondulfus、 リ ゴ ベ ー ルRigobertが 来 る 。 第6代 名 で 、 ア ウ ス トラ シ ア の 王 テ オ ド ゥ ベ ー ルTheodebert2世 gnericの 息 で あ る 。 彼 の 兄 弟 姉 妹 は 、 モ ーMeaux司 道 院 の 創 設 者 で あ っ た 。 彼 は633年 ttolaで 達 の 一 人 で あ り、 ス タ ヴ ロStavelotと リ ウ スMadelgariusで ブLobbes大 の 側 近 者 で あ る ア ニ ェ リ ッ クA教 や フ ァ ル ム テ ィ エFaremoutiers修 、 カ ソ ブ レ ー 司 教 聖 オ ベ ー ルAubertの マ ル メ デ ィMalmedyを に 署 名 し た 。 以 下 、 ヴ ュ ル フ ァ ド ゥスVulfadus、 ル ラ ル ド ゥ スGerardus、 セ ル ル フ ユ スSerulfusと あ り、692年 本 拠 とす る修 道 院 設 立 文 書 司 教 が 続 く。 第12代 ゲ 目の 司 教 は マ デ ル ガ に シ ャ ロ ソ 司 教 の 特 権 に 署 名 して い る。 彼 は 、713年 修 道 院 長 で あ る聖 エ ル ムErmeを に ロ 歓 待 した 。 彼 の 後 継 者 達 と して 、 カ ロ リソ グ マ デ ル ヴ ィ ヌ ゥ スMadelvinusで 561年 に 於 け る ク ロ テ ー ル1世 叙階 司教 ペ レ グ リ ヌ ゥ スPeregrinus、 時 代 が は じ ま る ま で 、 大 体 次 の 諸 司 教 が 続 く。 即 ち 、 シ グ ロ ア ル ド ゥ スSigloaldus、 フ リ イ ド ゥ スBertifridus、 有 に 死 去 し た 。 彼 の 後 継 者 は 、 ラ ソ ス 司 教 の 兄 弟 ア トラA- あ っ た 。 ア ト ラ は 、634年3月21日 に 、648年 エ ブ レ リソ ド ゥ 目 の 司 教 カ ニ ョ ア ル ドCagnoaldは ベル テ ィ あ る5)。 の 死 で 、 ラ ソ の シ テ は 、 ソ ア ソ ソ の 王 国 か ら引 き 離 さ れ て 、 ア ウ ス トラ シ ア の 王 シ ジ ュ ベ ー ルSigebert1世 に 帰 属 さ せ ら れ た 。7∼8世 紀 を 通 じて 、 ラ ソ の シ テ は 戦 略 上 の 重 要 性 を 多 くの 戦 争 の う ち に あ っ て 保 持 し続 け る 。 この 囲 壁 内 に建 立 さ れ た主 な大 建 造 物 は 、 カ テ ドラル と司教 館 で あ った 。 前 者 は 、 ラ ソ の最 初 の 教 会 で は な か っ た よ う で あ る。 最 初 の キ リ ス ト教 徒 の 聖 所 は 、 シ テ の 少 し外 部 、 墓 地 近 く に 建 て られ た 様 子 で 、 そ こ で は 、 キ リ ス ト教 徒 を 埋 め る始 源 的 な 慣 習 が 生 き 残 っ て い た と い わ れ る 。 ス ブ ウル ビ ウ ム 内 に は 、 シ テ の 墓 地 が 拡 が っ て い た わ け で 、 こ こ に は い く ら か の 住 民 達 が い た 。 ノ ー トル ・ ダ ム 教 会 は 、 ラ ソ が 司 教 座 に な っ た 時 、6世 格 さ せ ら れ た 。 ア ル ク ィ ソAlcuinの 紀 の は じめ に カ テ ドラル に昇 詩 に よ れ ば 、 ラ ソ の ノ ー トル ・ダ ム 教 会 は 、8世 紀末 81 守 山:成 立期 の 中世都 市 コ ミュー ソ運動(中) か あ る い は9世 紀 の は じ め に 破 壊 さ れ 、 司 教 ゲ ル フ リ ド ゥ スGerfridusに よ って 再 建 され た 。 司 教 館 の 方 は 、 ガ ロ ・ロ ー マ 期 の 公 共 建 造 物 を つ い だ よ うで あ る6)。 6世 紀 以 後 、 貨 幣 鋳 造 所 の 出 現 が 、 シ テ 内 で 検 証 さ れ 、 ラ ソで 鋳 造 さ れ た 三 分 の 一 ス ー 金 貨 は 、 現 存 し て い る7)。 ラ ソ の パ グ スpagusは ル デ リ ッ クChilderic2世 、7世 紀 後 半 以 後 、664年 に お け る 聖 ア マ ソAmandに に よ る バ リ ジ ・ ゾ ・ボ アBarisis‐aux‐Boisの 対 す るシィ 寄 進 の うち に 引 用 さ れ る が 、 し か し 、 確 実 に 知 ら れ る ラ ソ の 最 初 の 伯 は 、 一 世 紀 ほ ど後 に しか 史 料 に 現 わ れ な い 。 即 ち 、749年 に 、 ピ ピ ソ短 躯 王 は ラ ソ 伯 カ リベ ー ルCaribertの 娘 ベ ル トBertheと 結 婚 した。 こ の カ リ ベ ー ル は 、 プ リ ュ ム 修 道 院 の た め を 計 っ て 、 彼 の 母 ベ ル ト ラ ドBertradeか ベ ル トの 特 許 状 の う ち に 、 た だ し ラ ソ 伯 の 称 号 を 帯 び ず に 、721年 あ るい は に 再 び言 及 され る。 宮 殿 の 主 人 ピ ピ ソ短 躯 王 と彼 の 娘 の 結 婚 は、 カ リベ ール が第 一 級 の 人 物 で あ っ た こ とを推 定 させ る。 664年 の シ ィ ル デ リ ッ ク の 特 許 状 の 宛 先 と さ れ た 伯 ベ ル テ ユ ア ソBertuinは ア マ ソ に よ っ て 新 造 さ れ た バ リ ジBarisisの 、3年 後 に、聖 修 道 院 の 寄 進 に 署 名 して い る が 、 ラ ソ の 伯 で あ っ た か 、 ま た は そ の バ リ ジ が 属 して い る 他 の 伯 領 の 称 号 を 持 つ 人 物 で あ っ た の か ど う か は 不 明 で あ る8)。 (2)カ ロ リング 朝 時 代 に お け る ラ ン こ れ ま で 主 と して8世 紀 ま で の ラ ソ に つ い て 考 え て き た の で 、 次 に カ ロ リ ソ グ朝 時 代 に お け る ラ ソ に つ い て 述 べ た い と思 う ◎ 最 初 に 述 べ な け れ ば な ら な い の は 、 ラ ソ と 国 王 と の 密 接 な 関 係 で あ り、 ラ ソ は 特 に10世 紀 に は 、 フ ラ ソ ス の 首 都 の 観 を 呈 し た 。 ラ ソ に お け る 国 王 の 滞 在 は 、9世 紀 で は あ ま りな く、 シ ャ ル ル マ ー ニ ュ な ど は 、 エ ッ ク ス ・ ラ ・ シ ャ ペ ル に し ば しば 滞 在 し 、 シ ャ ル ル 禿 頭 王Charles leChauveは キ エ ル ジ ー か 、 コ ソ ピ エー ニ ュに お い て で あ っ た。 しか し、 ラ ソ に対 す る カ ロ リ ソ グ朝 諸 王 の 関 心 は 、 次 第 に 高 ま り 、888年 後 、 シ ャ ル ル 単 純 王CharlesleSimpleは 前 者 は898年 頃 に な る と そ れ は 明 白 と な る 。 そ の3年 、 ウ ー ドEudesに の紛争 対 して 国 王 の 称 号 を 放 棄 した が 、 に 王 冠 を 再 び に ぎ り、 ラ ソ に しば しば や っ て 来 た9)。 国 王 等 が ラ ソ に 滞 在 し た の は 、 ロ ー マ起 源 の 囲壁 が 、 こ の シ テ を避 難 所 と して 第 一 級 の重 要 性 を もつ 軍 事 的 拠 点 と して きた か ら で あ る10)。強 力 な 安 全 の 場 所 で あ る ラ ソ は 、 そ こ を 避 難 所 と し た ロ テ ー ルLothaire(954年 一986年)の 主 な 居 住 地 と な り、 ラ ソ は 、 当 時 、 国 王 権 力 の 中 心 地 と な る 。 し か し、10世 紀 に お い て 当 市 は 、 多 数 の 占 領 が く り か え さ れ る。 ロ テ ー ル の 兄 弟 で あ る シ ャ ル ル ・ ド ・ ロ レ ー ヌ CharlesdeLorraineは 、 メ ッ ス 司 教 に よ っ て 、987年 に ラ ソで 国 王 と して既 に宣 告 され た が 、 ユ ー グ ・カ ペ ー の 王 冠 へ の 選 出 後 、 当 市 を 占 領 した 。 カ ロ リ ソ グ期 の 主 要 な 居 住 地 の あ る じ に も ど っ て 、 シ ャ ル ル ・ ド ・ロ レ ー ヌ は 、 か な り戦 略 的 に 重 要 な 強 固 な 地 を 確 保 し、 家 族 の 安 寧 を 要 求 し、 ル イ5世 の 後 継 者 と して 再 び 姿 を 表 わ す 。 ユ ー グ ・カ ペ ー は 、991年 に お いて しか 、 当 市 を 再 占 領 し な か っ た11)。 ラ ソ に お け る 国 王 の 宮 殿palatiumに 言 及 す る 最 初 の 文 書 は 、921年1月5日 つ い て若 干 述 べ て お きた い 。 即 ち、 国 王 の 居 住 地 を に遡 る シ ャル ル単 純 王 の 特許 状 で あ る。 国 王 の宮 殿 は 、 サ ソ ・ ジ ャ ソ修 道 院 の 防 禦 さ れ た 囲 壁 内 に あ っ た よ う で あ る。 後 に 、 ル イ6世 ソ 修 道 院 の 内 部 に 滞 在 した し、 ル イ7世 の 権 利 を 持 っ て い た 。9世 もこ のサ ソ ・ジ ャ の統 治 ま で 、 諸 王 は こ の修 道 院 の うち に 、 宿 所 と代 理 紀 の は じ め に 、 こ の 女 子 修 道 院 長 は 、 ル イ 敬13C王LouislePieux の 娘 イ ル ドガ ル ドHildegardeで あ り 、10世 紀 に お い て こ の 修 道 院 は 、 そ の 長 に 寡 婦 資 産 と して こ こ を 所 有 し た 王 妃 の オ ジ ィ ブOgiveと ジ ェ ル ベ ル ジ ュGerbergeを もつ 。 そ れ 故 に、 国 王 は ラ ソ に 来 た 時 、 自 分 の 妻 の 許 で 暮 ら し た 。 こ の 修 道 院 は 、 カ ロ リ ソ グ朝 諸 王 の 手 中 に あ 奈 82 り、1128年 で の ル イ6世 良 大 学 紀 要 第22号 の 特 許 状 が 確 認 す る よ う に 、 再 び 国 王 の 修 道 院 と して 長 い 間 と ど ま っ た 。 諸 王 は 、 よ りそ の 西 部 に 新 し い 宮 殿 を き ず い た ル イ7世 の 統 治 ま で 、 こ の サ ソ ・ジ ャ ソ に 滞 在 す る 権 利 を も っ た12)。 と こ ろ で 、 カ ロ リ ソ グ 朝 諸 王 は 、 ラ ソ 市 以 外 に 、 ラ ソ 地 方 内 に 、 多 く の 宮 殿 を 所 有 し た 。 即 ち 、 サ ム シ イSamoussy,ス ル ヴ ェServais、 コ ル ベ ニ ィCorbeny に お い て で あ る13)。サ ム シ イ に つ い て は 、 ラ ソ地 方 の 国 庫 と して 注 目 さ れ 、 ラ ソ か ら8キ トル の と こ ろ に あ る 農 村 で あ る 。 ピ ピ ソ 短 躯 王 は こ の ヴ ィ ラ 内 で766年 彼 の 死 後 、 カ ル ロ マ ソCarlomanの 手 中 に わ た っ た 。774年 に ク リス マ スを 祝 い 、 に シ ャ ル ル マ ー ニ ュ 、 次 い で816 年 と830年 に ル イ 敬/3C王 が 、 特 許 状 を そ こ に 与 え て い る 。 シ ャ ル ル 禿 頭 王 は 、841年 で 歓 迎 し 、846年 に フ ォ セFosses修 5月20日 に姉 を こ こ 道 院 に 対 す る 特 許 状 の 件 で サ ム シ イ に 幾 度 も き た 。867年 、 彼 は 、 教 皇 の 書 簡 を た ず さ え て い た サ ソ ス 大 司 教 エ ジ ロ ソEgilonに 876年11月 ロメ ー の 末 に こ こ で 政 治 会 議 を 開 い た 。 又 、 彼 は 、877年5月5日 トル ・ダ ム修 道 院 に 、 サ ム シ イ の 多 く の 国 庫 の 十 分 の 一 税 の3分 こ こで会 い 、 、 コソ ピエ ー ニ ュ の ノー の2を 譲 渡 した。 な お、 更 に、 カ ロ リ ソ グ朝 諸 王 は 、 国 庫 と し て 、 ラ ソ の 近 く の ブ リ ュ イ エ ー ルBruyeresに 諸 財 産 を持 っ て い た14)6 次 に 、 カ ロ リ ソ グ期 以 降 の ラ ソ の 司 教 に つ い て 述 べ た い 。 カ ロ リ ソ グ 朝 は751年 る が 、 第16代 目 の 司 教 は 、748年5月1日 ボ ーGenebaud2世 で あ る 。 彼 は 、762年 署 名 し 、765年 の ア テ ィ ニ ィAttignyの 次 い で798年 か らは じ ま に 遡 る教 皇 の 書 簡 の宛 先 人 の 中 に姿 を 表 わす ジ ェ ヌ に プ リュ ム修 道 院 の た め の ピ ピ ソ短 躯 王 の法 令 に 集 会 に 参 加 した 。 こ の 司 教 の 後 、 ベ ル ニ コBernico、 一799年 に サ ソ ・ リ キ エ 修 道 院 の 聖 遺 物 の 奉 献 に 参 加 し た 前 述 の ゲ ル フ リ ド ゥ ス が 来 る 。 彼 ら の 後 継 者 達 は 、 ウ エ ニ ロWenilo、 た オ ス ト ロ ル ド ゥ スOstroldusで 転 に 参 加 し、845年 次 い で ノ ア イ ヨ ソ の 教 会 会 議 に814年 に参 加 し あ る 。 ラ ソ の 司 教 座 は 、835年 に 聖 カ ソ タ ソの 聖 遺 物 の 移 の ボ ー ヴ ェ の 教 会 会 議 に 出 席 し た シ モ ソSimonへ と 続 く。 彼 は 、846年 、 コル ビ ー 大 修 道 院 の 有 利 に な る特 許 状 に 署 名 し、 少 し後 に 、 パ リ の 教 会 会 議 に 出 席 した 。 シ モ ソ の 後 継 者 は 、849年 ル デ ュ ー ルParduleで に キ エル ジー の 教 会 会 議 の 法 令 の 中 に 司 教 と して は じめ て 言 及 され た パ あ る 。853年 に 、 彼 は 、 ソ ア ソ ソ 、 キ エ ル ジ ー 、 ヴ ェ ル ベ リVerberie の 諸 会 議 に 参 加 した 。 パ ル デ ュ ー ル は 、 幾 度 も の 外 交 使 節 と し て 彼 を 用 い た シ ャ ル ル 禿 頭 王 の 宮 廷 の 有 力 者 で あ り、 ラ ソ ス の ヒ ソ ク マ ル と も 親 し い 間 柄 に あ っ た 。 第23代 目 は 、 ヒ ソ クマ ル で あ り、 彼 の お じで あ る 首 都 大 司 教 の ラ ソ ス 大 司 教 ヒ ソ ク マ ル と の 争 い の た め に よ く知 られ て い る 。 彼 は 、859年 に メ ッ ス の 教 会 会 議 に 出 席 し、869年4月24日 に、 ラ ソス の ヒ ソクマ ル に よ っ て 主 宰 さ れ た ヴ ェ ル ベ リ で の 教 会 会 議 に 出 席 し た 。 彼 は 、 晩 年 、 失 意 の 人 で あ っ た が 、876年 3月 に 、 新 司 教 ヘ デ ヌ ル フ スHedenulfusが 指 名 さ れ た 。 彼 は 、878年 頃 に 聖 女 ヴ ノ ア ッ トの 聖 遺 物 の 移 転 に 取 り か か り 、 カ ソ ブ レ ー 司 教 の 選 出 の 時 で あ る879年 に 教 皇 に 対 す る 訪 問 者 と して 指 名 さ れ た 。 彼 の 後 継 者 デ ィ ド ソDidonは の 書 簡 を 受 け と り 、893年 死 後 、 ラ ウ ルRaou11世 、892年 に ノ ア イ ヨ ソ 司 教 エ デ ィ ロ ソHedilon に ラ ソ ス 教 会 会 議 に 参 加 し、895年12月14日 が 継 い だ 。900年 に 、 彼 は 、 ラ ソ ス 大 司 教 フ ル クFoulquesの 者 達 を 破 門 に し た ラ ソ ス 教 会 会 議 に い た 。 彼 の 名 前 は 、905年 に 姿 を あ ら わ す が 、921年 ス ー ル フSeulfeに に ゆ だ ね ら れ た 。948年 、 ラ ソ ス大 司 教 に 召 集 され た地 方 会 議 に 出 席 した。 国 王 ラ ウル は 、 ラ ソ の サ の12人 に 継 い だ ア ロ ー ム の 甥 ゴ ズ ベ ー ルGozbertは 司 教 は ア ソ ゲ ラ ソEnguerrandで 暗殺 の シ ャル ル 単 純 王 の 特 許 状 の 中 に 職 を ゆ ず っ た 。 そ の 後 継 者 ア ロ ー ムAlleaumeは よ っ て923年 ソ ・ヴ ァ ソ サ ソSaint-Vincentで ル2世 に 死 去 し た 。 デ ィ ドソ の 、936年 の 教 会 参 事 会 員 を 彼 が つ か せ る よ う に し た 。930年 、 数 年 しかそ の 司 教 区 を指 揮 しな か った 。 次 の 頃 に死 去 した。 次 い で 、 ラ ソ司 教 座 教 会 は 、 ラ ウ に 、 彼 は ト レ ー ヴTreves教 会 会 議 に 出 席 し、 少 し後 に 死 去 し 守 山:成 立 期 の 中 世都 市 コ ミュー ソ運 動(中) た 。 彼 の 後 継 者 で ル イ4世 83 の 義 理 の 兄 弟 で あ っ た ロ リ コ ソRoriconは 、949年 に選 出 され た 。 961年 に 、 こ の 司 教 は 、 サ ソ ・ ヴ ノ ア ・シ ュ ル ・ ロ ア ー ルSaint-Ben(免 一sur--Loireの 修 道 士 達 を こ こ に 来 さ せ て 、 サ ソ ・ ヴ ァ ソ サ ソ 修 道 院 を 復 興 し た 。 彼 は 、976年 に職 を ゆ ず った 。 彼 の 後 継 者 は 、978年6月 に サ ソ ・ ヴ ァ ソ サ ソ に 特 許 状 を 与 え 、987年 に 、 シ ャ ル ル ・ ド ・ロ レ ー ヌ に 対 抗 し て 、 ユ ー グ ・カ ペ ー に 加 担 し た ア ダ ル ベ ロ ソAdalberonで あ る15)。1104年 以 後 、 ラ ソ 司 教 管 区 に 属 し た ノ ジ ャ ソ 修 道 院 長 で あ っ た ギ ベ ー ル は 、 有 名 な 彼 の 『回 想 録 』 で こ の ア ダ ル ベ ロ ソ に つ い て 記 して い る 。 ギ ベ ー ル は 、 「ラ ソ 市 に お け る す べ て の 不 幸 の 起 源 は 司 教 達 の 堕 落 か ら 生 じ た16)」 と 述 べ 、 以 下 コ ミ ュ ー ソ運 動 期 の 司 教 ゴ ー ド リGaudryの 頽廃 にいた る ま で の諸 司教 の失 政 に つ い て 書 い て い る。 そ の 冒 頭 に 司 教 ア ダ ル ベ ロ ソに つ い て 述 べ 、 彼 は ロ レ ー ヌ生 ま れ で 豊 か な 土 地 と 財 産 を 持 っ て い た が 、 そ れ ら す べ て を 売 り払 っ て 巨 額 の 金 を 自 己 の 統 轄 す る 司 教 区 に も た ら し た と 一 定 の 評 価 を ギ ベ ー ル は 与 え て い る。 し か しな が ら、 ギ ベ ー ル は 、 ア ダ ル ベ ロ ソ の 失 政 と して 、 彼 が 忠 誠 を 誓 っ て い た 自分 の 主 君 で あ る 少 年 王 シ ャ ル ル ・ ド ・ ロ レ ー ヌ を 裏 切 っ て 、 ユ ー グ ・カ ペ ー た 荷 担 した こ と を あ げ る。 こ の 司 教 は 、 カ ペ ー 朝 誕 生 の 中 心 人 物 の0人 と して の 役 割 を 果 た す が 、 ギ ベ ー ル の 言 及 は 、 あ くま で も 彼 自 身 の 立 場 か ら き て い る の で あ っ て 、 筆 者 と して は 、 ユ ー グ ・カ ペ ー 側 に ア ダ ル ベ ロ ソ が た っ た こ と は 彼 の 失 政 と は 考 え が た い 。 失 政 と い う よ り も 、 む し ろ 上 述 して き た よ う に ラ ソ が 国 王 と の 関 係 を 密 に し て 、 発 展 の 一 つ の 契 機 を つ か ん だ と 考 え る 。 な お 、 ア ダ ル ベ ロ ソ は977年 か ら1030年 ある い は そ れ 以 後 まで ラ ソの 司 教 で あ っ た。 853年 に ノ ル マ ソ 人 達 に よ っ て 攻 撃 さ れ た ガ ソ の 修 道 院 の 修 道 士 達 が 、 最 も 貴 重 な 彼 ら の 聖 遺 物 を た ず さ え て 逃 れ て き 、881年 で あ る 。882年 に聖 カ ソ タ ソの 遺 体 が保 護 され た の も ラ ソの シ テ に お い て に 、 ノ ル マ ソ人 達 が ア ミア ソ と ノア イ ヨ ソか らや っ て来 て 、 ラ ソの シ テ の 周 辺 部 を 攻 略 し 、 サ ソ ・ ヴ ァ ソ サ ソ と イ レ ー ルHilaireの 大 修 道 院 を 襲 っ た が 、 し か し、 こ の 都 市 を 占 領 す る こ と は 出 来 な か っ た17)。 9世 紀 に お い て 、 ラ ソ の シ テ 内 で 市 場 が あ っ た 。 こ の 市 場 は 、 副 次 的 な 経 済 的 重 要 性 し か も た な か っ た18)よ うで あ る 。 し か しな が ら、 史 料 的 に 制 約 が あ る だ ろ うが 、 こ の 市 場 に つ い て は 更 に 一 層 の 探 求 が 必 要 で あ る と 思 う。 キ ベ ー ル ・ ド ・ ノ ジ ャ ソ も そ の 第7章 で こ の市 場 に つ い て 、 「土 曜 日 に 、 農 民 た ち が 、 市 場 を 目 ざ して ラ ソ市 ま で さ ま ざ ま な 農 村 か ら や っ て 来 た19)」 と して 週 市 が 開 か れ て い た こ と を 述 べ て い る 。 9世 紀 の 間 、 国 王 の 貨 幣 鋳 造 所 は 、 ラ ソ で 活 動 して い た 。 シ ャ ル ル 禿 頭 王 、 ル イ2世 、 ルイ 3世 、 ウ ー ド、 ラ ウル の 各 王 が 諸 貨 幣 を 鋳 造 さ せ た 。 ラ ソ の カ ロ リ ソ グ期 の 諸 貨 幣 は 、 ドイ ツ 、 低 地 地 方 、 イ ギ リ ス 等 の 充 分 遠 い と こ ろ で 発 見 さ れ て い る が 、2世 紀 半 の 間 で た だ12箇 しか な く、 貨 幣 流 通 の 実 態 に つ い て は 不 明 で あ る 。 しか し な が ら、 フ ラ ソ ク の 全 時 代 を 通 じて ラ ソ で 貨 幣 鋳 造 所 が あ っ た と い う こ と は 、 商 業 に 有 利 に 働 い た に ち が い な い20)。ギ ベ ー ル ・ ド ・ ノ ジ ャ ソ も こ の シ テ 内 の 貨 幣 鋳 造 所 に つ い て ふ れ 、 そ こ で の0種 の 鋳 貨 改 悪 に つ い て 、 「ロ ー マ 期 の 囲 壁 内 で鋳 造 され た 当市 の 由緒 あ る貨 幣 は とて も尊 重 され て きた の に 、 どん な戦 争 も ど ん な略 奪 も ど ん な 焼 打 ち も こ れ 以 上 に は 当 司 教 区 を 決 して 傷 つ け は し な か っ た21)」 と な げ い て い る 。 ラ ソ 伯 カ リベ ー ル 後 、 約 一 世 紀 の 間 、 ラ ソ 諸 伯 に つ い て は 不 明 で あ る 。867年 禿 頭 王 は 、 サ ソ ・ ドニ の 修 道 士 達 に 、 ア ロ ー ムAlleaumeな 2教 会 と 共 に 、 ラ ソ 伯 領 所 在 の シ ャ ウ ル スChaourseの に 、 シ ャル ル る人 物 に よ って 所 有 され て い た ヴ ィ ラvillaを 与 え た 。 そ れ 故 に、 ア ロ ー ム は 、 ラ ソ 伯 領 の 頭 に い た こ と は 間 違 い な く、 彼 は ラ ソ伯 で あ っ た と 言 っ て よ い で あ ろ う。 そ し て 、 ラ ソ 司 教 ア ロ ー ム は 、 彼 の 家 系 の0員 年 に エ ク スAixの 条 約 に 署 名 し 、877年 で あ っ た よ う で あ る 。 伯 ア ロ ー ム は 、870 に も 引 用 さ れ 、879年 以 後 に 死 去 し た 。 彼 の 死 去 で 、 84 奈 彼 の 息 ゴ ー テ ィ エGautierが 良 大 学 紀 要 第22号 継 い だ が 、 し か し 、 国 王 ウー ドは ゴ ー テ ィ エ か ら 彼 の 伯 領 を 奪 っ た 。 こ の 後 、 ま た 、 約30年 の 間 、 ラ ソ伯 に つ い て 不 明 で あ る。923年 に 、 ラ ソ 伯 ロ ジ ェRoger 1世 は 、 ソ ア ソ ソ の 戦 闘 に 加 わ っ た 。 同 年 に 国 王 に 選 ば れ た ラ ウ ル は 、 ロ ジ ェ1世 ラ ソ に 入 市 す る。 ロ ジ ェ1世 は 、 シ ャ ル ル 単 純 王 か ら伯 領 を 受 け 取 っ た よ う で あ り 、 彼 が 同 盟 して い た 国 王 ラ ウ ル の 選 出 後 そ れ を 維 持 した 。926年 1世 の 息 ロ ジ ェ2世 の手 助 けで 、 に ラ ソ の 伯 領 を ま か せ た 。928年 の ロ ジ ェ1世 の 死 去 で 、 ラ ウル は 、 ロ ジ ェ に ヴ ェ ル マ ソ ドア の エ ル ベ ー ル2世 ラ ソ を 占 領 し 、 彼 の 息 ウ ー ドに そ の 伯 領 を 与 え た 。931年 に 、 ラ ウ ル は ロ ジ ェ2世 は、 に ドゥエ Douai伯 領 を 確 認 し て 、 ラ ソ を 再 占 領 す る の に 助 力 し た ユ ー グ ・ル ・ グ ラ ソHuguesle Grandに 報 償 と し て 、 ラ ソ 伯 領 を 譲 渡 した 。 次 の 伯 と して 正 確 に は 留 保 し な け れ ば な ら な い が ウ ー ドが 来 、 つ づ い て こ れ も 不 正 確 だ が ア ル ノ ル ドArnoldが 王 ル イ4世 登 場 す る 。 ロ ジ ェ2世 は、国 に 接 近 し、 こ の 国 王 は ラ ソ に 再 来 し、 裏 切 り の と が で 、 ア ル ノ ル ドを 滅 ぼ し、 ロ ジ ェ 2世 に ラ ソ伯 領 を 確 認 した 。942年 に ロ ジ ェ2世 は 、 使 節 と して 国 王 に よ っ て つ か わ さ れ て い た ギ ヨ ー ム ・ ド ・ノ ル マ ソ デ ィ の 宅 で 死 去 し た 。 こ れ も不 正 確 だ が 、 ロ ジ ェ2世 ル ノ アBolenoisと ユ ー グ は 、961年 バ シ イ ニ ーBassignyの の 息 で あ るボ 伯 で あ る ユ ー グが 後 継 者 と な っ た模 様 で あ る。 の 彼 の 死 去 に 際 し、 ロ テ ー ル に ラ ソ伯 領 を 遺 贈 し た 。 カ ロ リ ソ グ 諸 王 の 没 落 後 、 ラ ソ伯 領 は ど う な っ た か 。 リ シ ェ ルRicherの 証 言 を支 持 す れ ば 、 次 の よ うに な る。 即 ち 、 国 王 ユ ー グ ・カ ペ ー は 、 彼 の 登 位 後 あ る い は991年 に 、 シ ャル ル ・ ド ・ロ レー ヌ か ら当 市 を 奪 い 返 した 後 、 司 教 ア ダ ル ベ ロ ソ に ラ ソ 伯 領 を 与 え た 。 し か し な が ら 、 多 数 の 文 書 が 、 ラ ソ 伯 領 は 、 少 く と も 法 的 に 、 最 初 の カ ペ ー 朝 諸 王 の 財 産 で あ り 、 も し 司 教 達 が 一.定数 の 国 王 大 権 を 持 っ て い た と して も 、 そ れ に つ い て 奪 う た め に10世 紀 末 の 弱 体 で あ っ た 王 権 の 状 態 を 彼 ら が 利 用 した と い う こ と で あ り、 あ る い は 国 王 は 彼 ら に そ の 諸 権 利 を 譲 渡 した と い う こ と を 証 明 す る よ うに 思 わ れ る22)。J・ リ ュ ス の 上 述 した 見 解 や 注 記 し た 諸 解 釈 を 参 考 に す れ ば 、 ラ ソ伯 権 は ユ ー グ ・カ ペ ー と 以 後 の カ ペ ー 朝 諸 王 が 法 的 に は に ぎ っ た と い う 印 象 を も つ 。 (3)11世 紀 に お け るラ ン コ ミ ュ ヲ ソ 前 史 の 最 後 に11世 紀 に お け る ラ ソ の 様 々 な 局 面 に つ い て ふ れ て お き た い 。 先 ず 、 シ テ 内 の 司 教 の 権 力 に つ い て で あ る が 、 ア ダ ル ベ ロ ソ が10世 紀 の 末 に 、 ラ ソ の 最 初 の 司 教 伯 で あ っ た と考 え ら れ て き た23)が、 そ れ に は 異 論 の 余 地 が あ る こ と は 前 述 の 通 り で あ る。 こ れ も 既 述 した が 、 国 王 は 、ラ ソ の シ テ 内 で 国 王 の 諸 権 利 を 行 使 す る こ と を や め な か っ た 。996 年 と1030年 頃 の 間 に 、 司 教 ア ダ ル ベ ロ ソ が 、 彼 の 名 前 で 貨 幣 を 鋳 造 す る と し て も、 そ の ド ゥニ エ 貨 は 、 半 ば 国 王 の 貨 幣 と して の 特 徴 を も つ 。 何 故 な ら 、0つ の側 で は 当司 教 の胸 像 と、他 の 側 で は 国 王 の 肖 像 が き ざ み こ ま れ て い る か らで あ る 。 ギ ベ ー ル ・ ド ・ ノ ジ ャ ソ の 目 に お い て は 、 ラ ソ の シ テ は 、12世 紀 の は じ め に お い て も 、 一 つ の 国 王 都 市 で あ り続 け た 。 そ れ 故 に 、 フ ェ ル コ ー ト ラ ソ も次 の よ う に 結 論 す る。 即 ち 、10世 紀 と11世 紀 に お い て 、 ラ ソ諸 司 教 は 、 シ テ 内 に 伯 領comitatusを 持 た な か っ た24)、 と 。 し か し 、 ラ ソ 司 教 は 、11世 紀 に 、 ラ ソ周 辺 地 方 の 伯 領 を 獲 得 し た 。 こ の 伯 領 は 、 シ テ の 周 辺 部 の う ち に 位 置 して い る17ヶ 所 の 村 を 含 ん で い た 。 司 教 は 、11世 紀 以 来 、 裁 判 権 の 行 使 を 司 教 代 理vidameに 委 任 した 。 司 教 は 、 彼 に対 して 見 か え り と して 、 い くらか の役 に立 つ 諸 収 入 の 権 利 をゆ ず った 。 司 教 の も うひ と りの 役 人 は 、 司 教 の 軍 事 的 義 務 の 執 行 を 委 任 さ れ た 城 主 で あ っ た 。 彼 は 、 司 教 の 騎 士 た ち に 命 令 し、 司 教 館 等 を 防 禦 した 。11世 紀 の 後 半 以 後 、 司 教 は 、 諸 役 人 、 貨 幣 鋳 造 人 、 パ ソ製 造 人 、 酒 蔵 係 りの よ う な 使 用 人 達 を 従 え た25)。 と こ ろ で 、 ギ ベ ー ル ・ ド ・ノ ジ ャ ソ は 、 司 教 ア ダ ル ベ ロ ソ に 続 い て 、 司 教 の 失 政 に つ い て 述 べ て い く。 ア ダ ル ベ ロ ソ の 後 に 二 人 の 司 教 の ジ ェ ビ ゥ ア ソGebuinと リ エ ト リLietryが 職 85 守 山:成 立 期 の 中世 都 市 コ ミュ ー ソ運 動(中) に つ くが 、 次 の エ リナ ソHelmand(1052年 な り、 聖 職 売 買simoniaに 一1098年)は イ ギ リス国 王 の宮 廷 礼 拝 堂 付 司祭 と よ って フ ラ ソ ス王 ア ソ リ1世 か らラ ソ司教 職 を手 に入 れ た。 そ し て エ リナ ソは蓄 妾 を し、 欺 隔 的 な諸 手 段 に よ って 、 ラ ソ ス大 司教 職 に就 く こ とを求 め た が 、 こ れ らもた い した失 政 とは 筆者 に は思 わ れ な い。 ギ ベー ル も、 エ リナ ソが教 会 の 自由 を見 事 に 守 っ た り した と して 一 定 の評 価 を 彼 に与 え て い る26)ので あ るが 、 こ の 司教 は 、1071年 の特 許 状 で 、 国 王 フ ィ リ ップ1世 が毎 年 、 魚 屋 や 肉屋 の屋 台 店 に対 して受 け と って い た貢 租 を譲 渡 さ れ た27)。 次 に 、 司 教 ア ソゲ ラ ソEnguerran(1098年 又 は1099年 一1104年)が 登 位 す る。 ギベ ール は、 こ れ ま た彼 の失 政 を述 べ る。 前 代 司 教 エ リナ ソは 、上 述 した よ うに、 国 王 フ ィ リ ップ か ら、以 前 に は王 権 に よっ て この 司 教 管 区 か ら集 め られ て い た特 定 の 収 入 を引 き取 って い た。 司 教 ア ソゲ ラ ソ は、 い わ ば公 金 で あ る この 特 定 収 入 を ば、 自分 の聖 職 売 買 に当 て て しま い、 彼 の就 任 時 に す べ て を国 王 フ ィ リップ1世 に 戻 した 。 続 いて 、 ギ ベ ー ル は この 司 教 の も うひ とつ の失 政 を あ げ る 。 即 ち 、 こ の 司 教 は 、 彼 の い と こ に あ た る ア ミ ア ソ 伯 ア ソ ゲ ラ ソ ・ ド ・ボ ブ ス EnguerrandeBovesと ポル シ ァ ソPorcien伯 ロ ジ ェRogerの 娘 で ナ ミ ュー ルNamur伯 ゴ トフ ロアGodefroyの 妻 との 不 法 な 結 婚 を 二 人 が破 門 され て い た に もか か わ らず こ っそ り と赦 免 して しま った 。 この赦 免 が原 因 と も結 果 と もな っ て 、 ア ミア ソ伯 と ナ ミュー ル 伯 の 両 者 の 間 で 、 は げ しい戦 争 が お こ っ た28)。戦 場 は ラ ソ市 そ の もの で な か った が、 この 司教 は 、 ラ ソ 市 民 の反 感 を 買 った と思 う。 この 司教 ア ソゲ ラ ソ は、 相 当 の失 政 を や って しま った と筆 者 は 考 え る。 彼 の 死 で ラ ソ司 教 座 は2年 間空 白の ま ま に置 かれ る が、 ア ミア ソ伯 ア ソゲ ラ ソは 前 任 司 教 の肩 書 で 、次 の 司 教 ゴー ドリの選 出 に一 役 を は た す 。 そ して、 い よい よ コ ミ ュー ソ期 を む か え る。 な お、 国 王 の城 主 あ るい は プ レ ヴォ は 、塔 と国 王 の 宮 殿 の護 衛 に任 じ られ 、 キ ヴ ィタ ス 内 に 住 んで い た。 そ の名 前 は 、1110年 にお いて の み は じめ て 引用 され る29)。 次 に、 ラ ソに お け る民 衆 と土 地 の状 態 に つ い て 考 え た い 。 11世 紀 に 、 シ テ の世 俗 の 人 口は 、 人 頭 税 の支 払 い に しば りつ け られ て い る一 定 数 の諸 個 人 で 構 成 され て い た よ うで あ る。 後 述 す る1128年 の ラ ソの コ ミュー ソ特 許 状 は、 シ テ 内 で人 頭 税 民 の 出 現 を喚 起 さ せ る が 、 彼 らが 国 王 に従 属 して い るの か 、 あ るい は 司 教 に対 して 緊 密 な隷 属 の 絆 の うち に い る の か 不 明 で あ る。 司 教 の 人 頭 税 民 が確 実 に知 られ る の は、 もっ と後 の こ と で あ る。 この 後 代 の 場 合 、人 頭 税 民 は 、 ブル ジ ョア と注 意 深 く区 別 され 、 租 税 の一 定 の 免 除 を享 受 す る。 この よ うな事 実 は 、特 権 を 与 え られ た 不 自 由民 達 を彼 らに 見 、10世 紀 、 そ して11世 紀 に お い て シ テ を人 々で 満 た した住 民達 の 子 孫 達 と して 彼 らを考 え る こ とが 出 来 そ うで あ る。 推 測 の域 を 出 な いの で あ る が 、 シ テ の住 民達 の 大 部 分 は、 司教 の保 護 下 に あ るい は 多 分 シテ の 伯 で あ る国 王 自体 の 保 護 下 に お か れ た。 彼 らが そ ん な風 に獲 得 した安 全 さは 、 人 頭税 の 支払 い とい う こ との う ちに そ の 代 替 物 を見 い 出す30)。 11世 紀 に おけ る ラ ソ の経 済 生 活 に つ い て 最 後 にみ て お きた い。 11世 紀 が もた ら した相 対 的 な平 穏 さの た め に 、 都 市 人 口 が拡 大 した。 そ の ひ とつ の証 拠 と し て 、新 し く諸 教 会 が 、 シ テ 内 や そ の近 くに 建 立 され 、 諸 礼 拝 堂 が完 全 に建 て 直 され た。 この 人 口の増 加 は シテ の経 済 的 発 展 と軌 を一〇に して い た 。 シ テ は、11世 紀 半 ば 以後 に お い て も、 既述 した 市場 を 持 った が 、 こ の市 場 は周 辺 の 農 民達 が 、 そ の 屋 台 店 で、 肉類 ・魚類 ・野 菜 類 ・果 物 類 を市 民達 に 売 った 場 所 で あ っ た と思 わ れ る。 フ ェル コー トラ ソは 以下 の様 に論 じる。 即 ち 、 この 土 曜 日の週0回 の 市 場 の 出現 は 、 シ テ 内 に もは や 直 接 的 に土 地 の諸 生 産 物 を 自 ら生 産 しえ な い 人 々 が 出 て きた こ と を認 め さ せ る。 ギ ベ ー ル ・ ド ・ノ ジ ャ ソが彼 らを 呼 ぶ よ うに 、 これ ら の キ ヴ ェ スcivesあ るい は ブル ゲ ソ セ スburgensesは 、 農 業 経 済 の絆 の うち に もは や た ず さ 奈 86 良 大 学 紀 要 第22号 わ っ て い な い よ う で あ る。 彼 ら は 商 業 や 高 利 で 金 を 貸 す こ と に 従 事 す る こ と に よ っ て 生 計 を 立 て て い る 。 こ れ ら の 「ブ ル ジ ョ ア 」 は 、 キ ヴ ィ タ ス 内 の 市 場 鋤 の 周 辺 に 、 即 ち 、 ラ ソ丘 陵 地 の 東 端 に 定 住 し た 。 同 所 に は 、 主 に 司 教 の 館 で 職 務 に つ い て い た 大 部 分 の 貴 族 も 住 ん で い た 。17 世 紀 ま で 、 こ の0角 は サ ソ ・ ピ エ ー ル ・オ ・マ ル シ ェ と 呼 ば れ 、 「シ テ の 最 も 人 の 往 来 の 多 い 、 最 も美 しい」 街 区 を な した。 商 人達 の 大 多 数 は、 囲壁 の西 部 に拡 が っ て い た ス ブ ウル ビ ウム の う ち に 住 ん で い た と い わ れ 、12世 紀 以 後 に は ブ ル グ スburgusと い う用 語 が この 新 集 落 を さ す よ う に な る が 、 商 人 の 店 舗 ・市 場 の 存 在 等 不 明 な こ と が 多 く 、18世 紀 に お い て も 、 シ テ と こ の プ ー ル と は 地 誌 的 に 明 確 に 区 別 さ れ 、 コ ミ ュ ー ソ期 に お い て も前 者 の 諸 活 動 に 重 心 が 置 か れ た よ う に 思 う。12世 紀 の は じ め に 、 商 人 達 は 、 ラ ソ に お い て 充 分 多 数 と な りsz)、1112年 の 「ラ ソ の 反 乱 コ ミ ュ ー ソ」 は 、 彼 ら を 主 に し た 運 動 に 他 な ら な い 。 (b)コ ミ ュー ン 史33) 成 立 期 の ラ ソ の コ ミ ュ ー ソ 史 あ る い は コ ミ ュ ー ソ運 動 の 過 程 に つ い て は 、 三 段 階 、 即 ち 、 三 つ の 期 間 に わ け て 検 討 し て み る 要 が あ る 。 第 一 段 階 目 は 、1111年 頃 の い わ ば 平和 裡 に 設 立 され た 最 初 の コ ミ ュ ー ソ の 成 立 の 過 程 で あ る 。 次 の 段 階 は 、 司 教 の 暴 政 に 怒 っ た 主 と して コ ミ ュ ー ソ市 民 に よ る1112年 以 後 の コ ミ ュ ー ソ の 反 乱 運 動 に つ い て で あ る。 最 後 の 第 三 段 階 は 、 コ ミ ュ ー ソ の 反 乱 の 弾 圧 に も め げ ず 、1128年 で な さ れ た コ ミ ュ ー・ソ の 回 復 の 時 期 で あ る 。 第0期 のすべ て と第 二 期 の ほ と ん ど の 最 も 重 要 な 同 時 代 史 料 は 、 既 述 し た よ う に 、 ギ ベ ー ル ・ ド ・ノ ジ ャ ソ の そ れ で あ る。G・ た1115年 デ ュ ビ ィ に よ れ ば 、 ギ ベ ー ル が そ の 『回 想 録 』 を 書 い た の は 彼 が60才 で あ っ で あ る39)。ラ ソ の コ ミ ュ ー ソ運 動 に 彼 自 身 が 半 ば 当 事 者 で あ っ た こ と と 、 更 に 、 当 時 修 道 院 長 で あ り、 従 っ て 、 保 守 的 な 教 会 人 と し て35)の彼 の 立 場 は くず れ な い と し て も 、 客 観 度 も か な り あ っ て 、 中 世 都 市 史 料 と し て 一 級 の 文 献 で あ る と い っ て 良 い 。 筆 者 も 前 述 した よ う に 、 第 一 期 と第 二期 に つ い て は 、 ギ ベ ー ル の史 料 を 中心 と した い 。 (1)1111年 頃 に お け る最 初 の コ ミュ ー ン の成 立 先 ず 、 経 過 ・原 因 に つ い て ふ れ た い 。 こ れ ら の 問 題 に つ い て 、 司 教 ゴ ー ド リの 失 政 か ら は じ め る。 ゴ ー ド リは 、 ラ ソ の 司 教 座 の2年 間 の 空 白 の 後 、1106年 司 教 と し て 就 任 す る 。 彼 は 、 も と イ ギ リス 国 王 ヘ ソ リー1世 に 選 出 され 、 実 質 的 に 言 って 新 の 官 房 長 で あ り、 選 出 後 副 助 祭 に して も らい 、 ル ー ア ソ教 会 の 司 教 座 聖 堂 参 事 会 員 と して認 め て も らお うとす る。 これ は 司 教 位 に 就 き そ の 職 務 を 実 行 して い く た め の 急 ご し ら え の 条 件 づ く りで あ っ た と 思 う。 そ して 、 ゴ ー ド リは や っ と の こ と で 教 皇 に も 司 教 聖 別 の 許 可 を 得 る。 そ の 際 、 彼 は 、 教 皇 に 対 して で は な か っ た と思 う が 、 教 皇 の ご く側 近 に 聖 職 売 買 を し た よ うで あ る 。 ギ ベ ー ル の こ の 司 教 に 対 す る 人 物 評 価 で あ る が 、 ゴ ー ド リは 金 持 ち で は あ る け れ ど も 、 当 時 ま で は 全 く の 俗 生 活 し か 送 っ て い ず 、 戦 争 と鷹 狩 りの 話 に しか 興 味 を も た な い と 言 い 切 っ て い る36)。 次 に 、 司 教 ゴ ー ド リ の 大 き な 失 政 の も と に な っ た ジ ェ ラ ー ル ・ ド ・キ エ ル ジ ー・Gerardde Quierzyの 暗 殺 に つ い て 述 べ る。 ジ ェ ラ ー・ル は 、 前 史 で も 述 べ た ラ ソ の サ ソ ・ジ ャ ソ女 子 修 道 院 の 守 護avoueで あ り、 ノ ジ ャ ソ の 北 方 で 近 くに あ っ た バ リ ジ ・ゾ ・ボ ア 修 道 院 の 守 護 で も あ っ た 。 彼 は 、 活 動 的 な 人 物 で 、 と て も快 活 な 弁 舌 と精 神 を も ち 、 武 勲 に も す ぐれ 、 ラ ソ 地 方 で は 無 論 の こ と ソ ア ソ ソ や ノ ア イ』 ヨ ソの 諸地 方 で 恐 れ られ て もい た が 、 尊 敬 も され て い た 。 し か しな が ら 、 評 判 の よ い 人 物 に は 決 して しな か っ た の で あ る が 、 彼 は こ れ ぞ と 思 っ た 人 物 に は 辛 辣 に 口 ぎ た な くの の し る 癖 が あ っ た 。 と こ ろ で 、 ポ ル シ ァ ソ 伯 の 娘 で シ ビー ユ ・ ド ・ポ ル シ ァ ソSibylledePorcienと い う人 物 が い た が 、 ギ ベ ー ル に 言 わ せ れ ば 、 性 行 不 良 で 、 ロ レー 一 ヌ 生 ま れ の ナ ミ ュ ー ル 伯 ゴ ド フ ロ ア と 結 婚 した が 、 前 述 の ア ミ ア ソ 伯 ア ソ ゲ ラ ソ の 誘 惑 に 負 け 後 者 と 再 婚 す る 。 この た め に 、 凄 ま じい 戦 争 が 勃 発 し た の は 上 述 の 通 りで あ る。 ジ ェ ラー ル は 、 守 山:成 立 期 の 中世 都 市 コ ミュー ソ運 動(中) 87 この シ ビー ユ を非 難 して は ば か らな か っ たが 、 そ の こ とに よ って ア ミア ソ伯 と も仲 た が い に な っ た。 彼 は独 身 の と き、 この女 性 を 恋 人 と して い た が 、 他 の 女 性 と結 婚 後 そ の縁 を 切 った 。 しか し、 シ ビー ユ と ジ ェ ラー ル の 妻 との 女 同 志 の の の し り合 い へ と話 は展 開 して い き、捨 て られ た シ ビー ユ は激 怒 して 、 つ い に ジ ェ ラー ル を殺 して しま お うと決 意 す る。 そ の機 会 は 、 司 教 ゴー ド リとそ の一 派 に よ る犯 行 とい う具 合 い に転 じて進 ん で行 く。 何 故 な ら、 ジ ェ ラー ル は 司 教 に 対 して も非 難 して お り、 司教 は が まん な らな い程 に な って い た か らで あ る。 司教 ゴー ドリ とそ の一 派 の 副 司 教達 と有 力 貴 族 は 、 ジ ェ ラー ル 暗 殺 を くわ だ て る。 この 同 盟 に は幾 人 か の富 裕 な女 性 もふ くまれ て い た 。 そ の企 て が ひ と まず 落 着 す る と、 司 教 は 、 ア リバ イ を作 る た め に ロー マ へ と旅 立 つ 。 そ れ は 、1110年11月 初 め の 数 日 目で あ る。、1111年1月13日 早 朝 、 ジ ェ ラー ル は 司教 座 聖 堂 内 で惨 殺 され る。 この くだ りは 、 ギ ベ ー ル に よ って 、 あ た か も 文 学 作 品 で あ るか の よ うに描 写 され て い る37)が、 紙 数 の都 合 も あ って割 愛 す る。 サ ソ ・身 ヤ ソ の市 民burgenses等 を つ れ て イ ボYvoと い う名 の 国 王 役 人 は 、 貴 族 を主 とす る と思 わ れ る が荷 担 者 の一 部 を 家 屋 破 壊 ・追 放 に早 速 処 しお)、教 会 も荷 担 者 す べ て を 破 門 にす る。 教 皇 は 、 この事 件 を重 大 だ と考 え た が 、 司 教 は 彼 にへ つ らい の 贈 物 を呈 す る こ とに よ って 事件 に 自分 が 関 わ らな か っ た こと と して も らい 、 い つ に な く う き う き と して ロ ー マ を あ とに した 。 帰 任 の 司 教 は国 王 の 命 もあ っ て ラ ソに 入 市 で きず ア ミア ソ伯 とあ の シ ビー ユ が い る ク ー シ イCoucyで 歓 待 さ れ る。 司 教 は 国 王 も買 収 して 入 市 後 、 サ ソ ・ニ コ ラ ・ゾ ・ボ アSaint-Nicolas-auxBoisで 野 外 祈 薦 集 会 を開 く。 そ の場 所 で 、 司 教 は荷 担 者 の 破 門 を 認 めず 逆 に暗 殺 の結 束 を 乱 し た 者 達 を破 門 と宣 告 し、 ラ ソ市 民 と司 教 区 民 の怒 りは 爆 発 寸 前 とな る39)。こ こ に い た って 、 コ ミュー ソの 設 立 が も はや 必 然 化 す る と言 って よ い の だ が 、 そ の 前 に 当時 の ラ ソ市 を お お って い た ア ナー キー な状 態 に つ い て考 え て み な け れ ば な らな い 。 ギベ ー ル は 次 の よ うに言 う。 即 ち 、 「古 くか ら、 ラ ソ市 で は 、 … … … そ れ ぞ れ の 人 間 の 実 力 と欲 望 に 従 うま まで 、 公 権 力 が略 奪 と殺 人 に巻 こ ま れ て い た 。」 この言 及 に つ い て 、 司 教 ゴー ドリ期 の ジ ェ ラー ル 暗 殺 事 件 が最 も よい 例 で あ る が 、 前 代 司 教 の失 政 、特 に ア ソゲ ラ ソ期 に つ い て も若 干 考 えて み る要 が あ ろ う。 そ の 他 の ア ナ ー キ ー 状 態 の具 体 例 を ギ ベ ー ル に即 して 、4 点 ば か りを 簡 単 に挙 げ た い。 先 ず 、有 力 者primoresは そ の手 下 を使 って 公 然 と窃 盗 や 強 盗 で さえ 働 い て い る。 夜 の 治 安 は 特 に悪 い 。 次 に、 国 王 と い え ど も ラ ソ市 に来 れ ば 、 馬 等 の 自分 の所 有 物 の保 護 に用 心 しな け れ ば な らな い 。 三 つ 目に、 本 来 保 護 され て しか るべ き聖 職 者 さ え もそ の従 属 民 ・財産 を保 護 され て い な い 。 最 後 に、 民 衆plebes内 部 に もア ナー キ ー状 態 が あ る。 農 民 は最 上 の保 証 つ き 通 行券 が な け れ ば 当 市 に近 づ く こ と もで きず 、 入 市 す れ ば 投 獄 ・身 代 金 要 求 ・不法 訴 訟 に引 き こ まれ る。 ギ ベ ー ル は 、 前 述 した土 曜 市 で の 、 商 人 で あ る市 民 の 農 民 に対 す る不 正 の一 例 を具 体 的 に書 い て い る。 この よ うに、 ラ ソ市 で は 、 司 教 の失 政 の ほ か 暴 力 ・不 法 ・恣 意 的 な 裁 判 権 の 行使 が 横行 して い る。 従 って 、 市 民 の 生 活 は 甚 だ不 安 定 で あ り、 聖 職 者 ・貴 族 に と って も、 一 面 と して 市 民 らか ら租 税 を確 実 に と る こ と も ま ま な らな い とい っ た経 済 的 側 面 もあ って 、 こ の よ うな状 況 は 脅威 とな って い る。 そ こで 、 支 配 者 達 も、 市 民 も こ の よ うな無 政 府 状 態 を脱 す るに は 、 コ ミュー ソ に よ って しか もは や 不 可 能 で 、 当市 の平 和 を と りも どす こ とは 出来 な い と 悟 ら され た 。 ギ ベ ー ル 自体 もそ うで あ っ た40)。次 に、 第0段 ソ結成 の認 可 に つ い て 簡 単 に述 べて お きた い 。 階 の 経 過 の最 後 と して 、 コ ミュー 1111年 頃91)、副 司 教 達 ら聖 職 者 と貴 族 は 、上 述 した よ うな ア ナ ー キ ー状 態 を 無 論 経 済 的側 面 も ふ くめ て 考 慮 し、 市 民populoに コ ミ ュ ー ソ結 成 の 認 可communionisfaciendae licentiamを 売 り渡 そ う とす る。 司 教 ゴー ド リは渡 英 中 で あ っ た 。 市 民 は これ に応 じて 巨額 の 88 奈 良 大 学 紀 要 第22号 金 を 与 え 、 聖 職 者 ・貴 族 は コ ミ ュー ソ の 維 持 を 誓 約 す る 。 ギ ベ ー ル は 言 う。 「こ の よ う に して 、 聖 職 者 、 貴 族 、 市 民 の 間 で 相 互 扶 助 の 誓 約 団 体 が 設 立 さ れ た 。 」factaitaqueinterclerum, proceresetpopulummutuiadjutoriiconjuratione姐). ラ ソ に お け る成 立 期 の コ ミ ュ ー ソ の 第 一 段 階 の 終 り と し て 、 そ の 目的 に つ い て 考 え た い 。 こ れ ま で み て きた そ の経 過 か ら も理 解 され る よ うに、 そ の 目的 は ラ ソ市 の ア ナ ー キ ー状 態 の 防 止 を め ざす も の で あ っ た 。 そ うい っ た 平 和 を 回 復 す る た め に 聖 職 者 、 貴 族 、 市 民 の 間 の 協 定 と い う形 態 を と っ た 。 更 に 、 そ の 具 体 的 で 重 要 な 一 側 面 と して 、 ギ ベ ー ル の 以 下 の 有 名 な コ ミ ュ ー' ソ の 定 義 を 考 え て み る 要 が あ る 。 しか し、 こ の 定 義 は 、 後 述 す る 反 乱 コ ミ ュ ー ソ運 動 と の 関 係 も 考 慮 に 入 れ な け れ ば な ら な い と 思 う。 ギ ベ ー ル の 定 義 の 大 意 を 述 べ る 。 「コ ミ ュ ー ソ と は 新 し くて 邪 悪 な 名 で あ る 。 す な わ ち 、 す べ て の 人 頭 税 民 が 領 主 に 対 す る従 来 か ら の 隷 属 的 賦 課 租 を 年 一 度 の 一 括 払 い で す ま そ う と す る も の で あ り、 た と え 誰 か が 法 に 違 反 した と して も法 に よ っ て 定 め ら れ た 罰 金 を 払 え ば よ く、 隷 属 民 に 従 来 通 り課 せ ら れ る そ の 他 の す べ て の 課 税 は 完 全 に 廃 止 さ れ る43)。 」 第 一 段 階 は こ れ で 終 りに し、 次 に 移 り た い 。 (2)コ ミ ュー ンの 反 乱 第 二 期 の 主 に1112年 以 後 の 反 乱 コ ミュ ー 一ソ運 動 に つ い て 論 述 し た い 。 先 ず 、 司 教 ゴ ー ド リに よ る 一 時 的 な コ ミ ュ ー ソ承 認 に つ い て で あ る。 司 教 は 帰 国 後 、 コ ミ ュ ー ソ 設 立 に 激 怒 し て い た が 、 つ い に 巨 額 の 金 銭 で 許 可 し た 。 そ の 際 、 ノ ア イ ヨ ソ市 と サ ソ ・カ ソ タ ソ 市NoviomagensemurbemetSanctiQuintinenseoPPidumの 両 特 許 状 に な ら って コ ミュー ソ を維持 す る と司 教 は 誓 約 した。 国 王 も買収 され て これ を確 認 した。 しか しな が ら 、 司 教 は い や い や な が ら維 持 の 誓 い を して い た の で あ り 、 程 な く彼 は コ ミ ュ ー ソ を 破 棄 しに か か る 。 当 初 は な し くず し の 破 棄 で あ り、 司 教 は コ ミ ュ ー ソ誓 約 の 違 反 と い う言 動 を と っ た と 考 え て よ い と 思 う。 特 許 状 も現 存 し て な い の で 、 具 体 的 に は 不 明 だ が 、 第 一 期 の 成 立 過 程 か ち ほ ぼ 考 え られ る次 の三 つ の誓 約 の違 反 と思 わ れ る例 を挙 げ て お きた い。 先 ず 、 司 教 は 、 コ ミ ュ ー ソ 市 民 を しぼ れ る だ け の 収 賄 に よ っ て 恣 意 的 に 裁 判 し た こ と 、 次 に 、 古 くか ら 貨 幣 鋳 造 所 が あ り、 鋳 貨 改 悪 が 行 わ れ た こ と は 前 述 した が 、 鋳 貨 を 改 悪 し て 都 市 経 済 を 混 乱 さ せ た が 、 司 教 は これ に よ って 充 分 利 益 を得 た。 そ の上 、 改 悪 通 貨 を非 難 した市 民 に あ らゆ る種 類 の 重 い 罰 金 を 課 した こ と 、 最 後 に 、 司 教 領 の 村 役 人decanusrusticorumを 恣 意 的 で残 虐 な 体 罰 に 処 し、 コ ミ ュ ー ソ 市 民 の 反 感 を 高 め た 。 そ して 、 今 度 は 、 司 教 は コ ミ ュ ー ソ の 公 然 た る破 壊 行 為 に 出 る 。1112年4月18日 universumpopulumに conjuratioの 、 洗 足 木 曜 日 に 、 司 教 は 国 王 と 配 下 の す べ て の 人 々suum コ ミ ュ ー ソ誓 約 を 破 棄 す る こ と を 指 示 す る 。 更 に 、 誓 約 団 体 破 壊 後 、 当 市 の 法 を 以 前 の 状 態 に 戻 す べ く国 王 に 要 請 した 。 こ の 機iを懸 念 した 市 民burgensesは 国 王 に400リ 派 は 国 王 に700リ ー一ブ ル を 渡 す こ と に して 、 互 い に 賄 賂 合 戦 を す る 。 国 王 ル イ6世 ー ブ ル か そ れ 以 上 を 渡 す こ と で 未 然 に 防 こ う と し 、0方 司教 一 は 、単 純 に 高 額 な 後 者 に 買 収 さ れ て コ ミ ュ ー ソ 維 持 の 誓 約 、 即 ち 、 司 教 と 貴 族 達 の そ れomnia sacramentasua,scilicetepiscopiacprocerumを 無 効 と し、 市 民 は 衝 撃 を 受 け 、 混 乱 が 生 じた 。 国 王 は ラ ソ市 に お い て 好 き勝 手 に ど こ に で も 泊 る 権 利 を 持 っ て い た に も か か わ らず 、 こ の 夜 だ け は 恐 れ を な し 司 教 館 に 泊 り翌 朝 早 く こ っ そ り と ラ ソ市 を 去 っ た44)。 い よ い よ 、 コ ミ ュ ー ソ の 反 乱 へ と事 件 は 進 ん で 行 く。1112年4月19日 、 聖 金 曜 日に 、 コ ミ ュ ー ソ盟 約破 棄後 の市 民 の抗 議 行 動 が み られ 、 これ は反 乱 の準 備 と も とれ な い こ と も な い。 即 ち、 手 工 業 者 の す べ てomnesofficialesは sutoresは そ の 仕 事 を 放 棄 し、 な め し革 屋 達cerdonesや 店 を 閉 め 、 居 酒 屋 の 主 人 達pandocesや 小 売 商 人 達cauponesは 靴屋達 商 品 を何 も陳 列 89 守 山:成 立 期 の中 世都 市 コ ミュー ソ運 動(中) しな い とい う有 様 で あ った 。 これ らの商 人 、手 工 業 者 は コ ミュ ー ソ創 設 の た め に金 銭 を提 供 し て い るの で あ るか ら、 最 初 の コ ミ ュー ソの構 成 員 の 一 翼 を に な った こ と は ほ ぼ 間違 い な く、 司 教 と貴 族 に よ って そ の 同 じ額 を そ の破 棄 の た め に も要 求 され て い る。 この よ うな こ とは 、 司教 を 中心 とす る支 配 者 の 市 民 達 に対 す る あ ま りに も破 廉 恥 な 行 為 で あ っ た。 翌4月20日 、 聖 土 曜 日に 、 司 教 と貴 族 は下 層 民 の 財 産inferiorumsubstantiasを 奪取 す る こと に専 念 して い た 。 復 活 祭 を 明 日に ひ か え て 、 司 教 らは そ の 職 務 を全 う しな け れ ば な らな い と い う時 に お い て で あ る。 ギ ベ ール は 言 う。 「しか し、 これ らの 下 層 民 の 方 で は もは や た だ の 怒 りで は な く、 野 獣 の よ うな激 怒 に つ き動 か さ れ た45)」 、と。 これ らの市 民 は つ い に 司教 と同調 者 を殺 害 す る こ とを 相 互 に 誓 約 す る にい た る。40人 が 誓 約 に参 加 した と言 わ れ る。 次 の 日の4月21日 は 、復 活 祭 日で あ り、 司教 は 、 伴 の 者 達 に 外套 の 下 に短 剣 を持 っ て く る よ うに命 じて 、 練 り歩 きprocessioに 出 た。 中 世 の 祝 日の教 会 行 事 は、 練 り歩 きに は じま り、 練 り歩 きで 終 わ る とい わ れ るが 、 ラ ソの こ の場 合 に お い て もそ の 最 中 に行 列 の乱 れ が生 じ、 コ ミュー ソ蜂 起 に は絶 好 の機 会 が や って き た。 しか しな が ら、 そ の 蜂 起 は 寸 前 で 制 止 され た。 ギ ベ ー ル は 、 そ の制 止 の理 由 を 次 の様 に 述 べ る。 即 ち 、 「な ぜ な らそ の 日は 祝 日で あ っ た の で、 制 止 は 容 易 で あ っ た」Quod,quiafestumerat,facilerepressumest.復 活 祭 日 な ど の聖 な る時 間 に は暴 力 を ふ る って は な らな い と い う教 会 側 か らす る社 会 的 慣 習 の 定 礎 が こ こで もみ られ 、 い わ ゆ る 「神 の平 和 」 運 動 で そ の よ うな慣 習 は 更 に増 幅 され るが 、 ラ ソ の支 配 者 側 は、 良俗 、 即 ち、 四 旬 節 中 の誓 約 に よ る平 和 遵 守 に対 して何 の配 慮 も しな か った の に対 して 、 ここ で は そ うい っ た 習 慣 を 民 衆 は 誠 実 に 守 っ た の で あ る 。 こ の 機 に 及 ん で 、 司 教 は 、 司 教 領 episcopalibusvillisか ら多数 の 農 民rusticorumを 召 集 し、 身 辺 の警 戒 体 制 を固 め る。 も っ と も、 召 集 され た農 民 達 も司教 が 国王 に 約 束 して い た札 束 を 自分 らか ら吸 い あ げ られ る と知 り い や い や な が らで あ っ た の で あ るが。 復 活 祭 の 翌 日 には 、 聖 職 者 達 が サ ソ ・ヴ ァソサ ソ修 道 院 に会 す るの が な らわ しで あ る。 この 4月22日 は 、 反 乱 軍 は蜂 起 を お こそ う と考 えて い た◎ 彼 らは貴 族 達 が み な 司 教 と共 にい る こ と を 目撃 しな か った な らば、 反 乱 を お こ して い た で あ ろ うと思 う。 反 乱 者 達 は 、 ギベ ー ル の年 若 い い と こで あ る少 女 と結 婚 した ば か りの貴 族 の ひ と りを見 つ け た が 、 あ え て 彼 を 攻 撃 しよ うと は しな か った 。 何 故 な ら、 そ の こ とで他 の 者達 に よ り一 層 の警 戒 体 制 を と らせ る こ と を恐 れ た か らで あ る。 この よ うに して 、 反 乱 者 達 は そ の 決 行 を見 合 わ せ た の で あ り、 彼 らは 偶 発 的 に行 動 を お こ した の で は な く、 と て も慎 重 に事 を運 ぼ うと した こと が よ く理 解 で き る。 翌 日4月23 日に 、 司教 は 、 も う大 丈 夫 だ ろ うと警 戒 体 制 を とい た 。 翌4月24日 に は、 これ は反 乱 が 起 き る 前 日な の で あ るが 、 ギ ベー ル が司 教 を訪 問 した。 彼 は 司 教 に忠 告 した が、 司教 は耳 を か そ うと は しな い で 、 彼 の 内 面 は わ か らな い が、 外 見 で は 強 気 で 頑 固 さ を くず そ う とは 決 して しなか っ た46)。 翌4月25日 burgensesは 、 「コ ミ ュ ー ソ!」Communiamの 最 大 の軍 勢 でcummaximoagmine、 叫 び 声 と共 に 反 乱 が お き る。 市 民 達 司 教 館 を襲 撃 した。 反 乱 軍 は さま ざ まな 物 を武 器 と して 戦 った の で あ る が、 これ に対 して 司 教 や 、 こ うい う時 に な れ ば駆 け 付 け る こ と を誓 っ て い た貴 族 達 は 抗 戦 した。 司 教 は か って の 戦 士 と して の 心 意 気 をみ せ て い た が 、 抗 戦 す る こと が不 可 能 とな って 、 家 僕 の服 を きて 、教 会 の 倉 庫 の 樽 の 内 に身 を隠 した。 彼 は も う これ で安全 だ ろ うと安 直 に考 えた。 しか し、 司教 の こと を 「極 悪犯 よ出 て こい」 と叫 びな が ら コミュー ソ反 乱 軍 は 方 々 を探 しまわ って い た が、 一 人 の使 用 人 の 裏 切 りで 、 彼 らは、 司教 の 隠 れ場 所 を 知 った。 そ して 、反 乱 軍 は 、 司 教 の許 しを乞 うの を か た くな な心 で もの と もせず 、 彼 を惨 殺 し た。 反 乱 軍 の 指 導 者 は サ ソ ・ヴ ァ ソサ ソ修 道 院 の隷 属 民 で 前 述 した ア ミア ソ伯 ア ソゲ ラ ソ ・ ド・ 奈 90 ボ ブ ス の 下 級 役 人praepositusで 良 大 学 紀 要 第22号 あ る テ ィ エ ゴ ーThiegaudで あ っ た47)。 と こ ろ で 、 反 乱 参 加 者 の 構 成 ・ 目 的 な ど48)につ い て で あ る が 、 ギ ベ ー ル は 直 接 的 な 叙 述 を し て い な い 。 従 っ て 、 ま ず 、 司 教 ゴ ー ド リの コ ミ ュ ー ソ 破 棄 か ら 反 乱 時 に い た る ま で の 経 過 か ら 引 き 出 す 要 が あ ろ う し 、 つ い で 、 第 一 期 の コ ミ ュ ー・ソ 成 立 の 経 過 、 又 前 述 し た ギ ベ ー ル の コ ミ ュ ー ソ の 定 義 も併 せ て 考 え て み る要 が あ る と 思 う 。 コ ミ ュ ー ソ が 反 乱 を 起 した 同 じ 日 に 、 反 乱 軍 に 攻 撃 を 受 け た 高 位 聖 職 者 や 貴 族 と そ の 妻 子 は 逃 亡 す る。 郊 外 区 に 落 ち の び る た め に 通 ら な け れ ば な ら な い 各 門 を 反 乱 軍 に 見 張 られ た 特 に 妻 子 は ど の よ う に し て 脱 出 した の だ ろ う か 。 高 い シ テ の 囲 壁 を ど う に か して 乗 り越 え た の だ ろ う か 、 と も か く女 性 は 男 装 に 身 を か え て 子 供 を と も な い 、 ラ ソ の 丘 陵 地 の 中 腹 に あ る 有 名 な ブ ド ウ 畑 を 通 りす ぎ て 、 サ ソ ・ヴ ァ ソ サ ソ修 道 院 に 逃 れ た49)。 しか し な が ら 、 反 乱 市 民civesは 国 王 の 裁 きregiumjudiciumを 恐 れ はLめ 、 マ ル ルMarle城 主 の トマ50)Thomasに 、 支援 を 求 め た 。 早 速 、 トマ は 家 臣 団 と 相 談 し た 結 果 、 国 王 の 攻 撃 に 対 して 都 市 防 衛 が 不 可 能 と み な して 、 自 己 の 領 地 で 反 乱 市 民 の 保 護 を 約 束 し た 。 市 民 は 大 層 驚 い た が 、 こ れ に 従 っ た 。 ラ ソ市 は 一 部 の 者 達 を 除 い て 、 住 む 人 と て な い 都 市 に な り、 貴 族 の 復 讐 と 略 奪 が は じ ま る 。 近 隣 の 民 衆 も と て も す ば や く噂 を 聞 き 及 ん で 、 ラ ソ市 に や っ て 来 て 逃 亡 者 達 の 家 屋 の 内 部 の 物 な ど を 略 奪 す る51)。国 王 ル イ6世 は 、 諸 侯 や イ ギ リ ス 国 王 と の 戦 い な ど で 忙 殺 さ れ52)、 ラ ソ 市 と そ の 周 辺 の この よ うな事 態 を放 置 した ま ま で あ っ た。 と か く す る う ち に 、 支 配 者 側 が 元 気 を 取 り 戻 し 、1113年 BarthelemydeJurが 、 バ ル テ ル ミ ィ ・ ド ・ジ ュ ー ル 新 司 教 に 就 任 後 、 反 乱 コ ミ ュ ー ソ の 弾 圧 は 本 格 化 す る 。1114年 、四旬 節 の 間 に 反 乱 の 指 導 者 テ ィ エ ゴ ー を 捕 え て 処 刑 した 。 テ ィ エ ゴ ー は 、 自分 は 神 の 栄 光 を 充 分 に 受 け て い る と豪 語 し、 雄 々 し く死 ん で い っ た53)。同 年 、8月29日 、 ラ ソ ス大 司 教 ラ ウル は 、 反 乱 時 に焼 け て しま っ た ラ ソ司教 座 聖 堂 の再 建 式 に や って 来 た。 彼 は、 に 反 し て 隷 属 民serviが 「コ ミ ュ ー ソ は 神 聖 な 法 そ の 領 主 の 権 限 か ら暴 力 に よ っ て 逃 れ よ う と す る 呪 う べ き も の 」 と 非 難 し、 次 い で 、 大 司 教 は 「ペ テ ロ の 第 一 の 手 紙 」 を 用 い て 、 以 下 の よ う な 説 教 を 行 っ た 。 即 ち 、 「僕 た る者 よ 、 全 くの 畏 怖 の 念 を も っ て 汝 の 主 人 に 従 が え 、 善 良 で 寛 容 な 人 々 に 対 して の み な ら ず 、 片 意 地 な 人 々 に 対 し て も そ うす べ き で あ る 」Servisubditiestoteinomni timoredominis,etnontantumbonisetmodestissedetdiscolis騒)。 翌 年 の1115年 に な る と 、 ル イ6世 は 、 ラ ソ 地 方 に や っ て 来 て 、 破 門 さ れ て い た トマ ・ ド ・マ ル ル を 帰 順 さ せ 、 トマ に 従 っ て い た 反 乱 市 民 を 処 刑 す る 。 こ の よ う に して 、 ラ ソ 市 の コ ミ ュ ー ソ の 反 乱 に 決 定 的 な 終 止 符 を 打 っ た 。1119年 ソ を 訪 問 し 、1124年 (3)コ に は 、 教 皇 カ リ ク ス ト ゥ スCalixtus2世 が、 ラ に な る と 、 フ ラ ソ ス 国 王 軍 の 軍 役 に ラ ソ は 服 して さ え い る 。 ミ ュー ンの 回 復 反 乱 コ ミ ュ ー ソ 運 動 は 、 一 旦 弾 圧 さ れ た が 、 そ の 市 民 達 は 、 カ ソ ブ レー の 人 々 と 全 く 同 様 に 二 の 腕 を 切 り落 と さ せ は しな か っ た55)。1128年8月26日 に 、 ラ ソ の 人 々 は 、 国 王 ル イ6世 か ら 特 許 状 を 受 け 、 コ ミ ュ ー ソ は 回 復 した 。 即 ち 、 成 立 期 の ラ ソ に お け る コ ミ ュ ー ソ運 動 の 第 三 期 に あ た る が 、 ど ん な 内 容 の 特 許 状 だ っ た の か を 紹 介 し、 今 回 の 拙 稿 の しめ く く り と し た い 。 ル イ6世 が 与 え た 特 許 状 は 、 使 用 し た ラ テ ソ語 版 と 仏 語 訳 版 に よ れ ば 、 序 言 と 本 文23ケ 条 そ して 末 尾 の 文 で な り た っ て い る が 、 序 言 か ら終 り ま で 順 番 に 紙 数 の 都 合 も あ っ て 全 文 を 掲 載 す る こ と は 出 来 な い が 、 筆 者 に よ る 若 干 の コ メ ソ トを 付 して 考 え て い く。 ま ず 、 序 言 で あ る が 最 も 重 要 な こ と は56)、 コ ミ ュ ー ソ が 「平 和 の 制 度 」InstitutioPacis と 称 さ れ て い る こ と で あ る 。 「平 和 」 は 時 に コ ミ ュ ー ソ と 同 意 語 で あ っ た57)。以 下 、 序 言 の 内 容 を 記 す 。 「不 可 視 の 聖 な る三 位 一 体 の 名 に お い て 、 ア ー メ ソ。 神 の 御 加 護 に よ っ て 、 フ ラ ソ 91 守 山:成 立 期 の 中世 都市 コ ミュー ソ運 動(中) ス国 王 に して ル イ で あ る余 は 現 在 及 び 未 来 の忠 僕 の す べ て に 次 の こ と を知 らせ ん こ とを欲 す 。 即 ち 、 余 は 余 の 貴 族proceresと ラ ソ 市 民civesの 同 意 と 助 言assensuetconsilio で 当 市 の た め に この く平 和 の 制 度 〉を 設 立 した。 ア ル ドソか ら ヴル ー ユ の 森 ま で行 きわ た ると こ ろの こ と を知 る べ きで あ る。 そ れ 故 、 ル イ リー の村 は 、 す べ て の ブ ドウ畑 と そ の領 域 を包 含 す る丘 と共 に これ らの境 界 内 に含 まれ る。」 次 に 恣 意 的 な裁 判 を 禁 止 して い る と思 われ る第1 条 か らは じめ る。 「1.誰 も裁 判 の 役 人justicia以 外 に い か な る大 罪 を 犯 した 自由 民 あ る い は隷 属 民 で あ って も彼 らを捕 え る こ とは 出来 な い。 … … 」 この 上 記 の 役 人 は 、 国 王 役 人 で あ っ た と考 え られ 、 国 王 の裁 判 権 、特 に上 級 裁 判 権 の確 立 を狙 って い る よ うに思 わ れ る。 しか し、 0面 で は ラ ソ市 の これ まで の動 向 か らみ て 、恣 意 的 な 裁 判 を禁 止 して い る条 項 で もあ る と思 う。 更に、 コ ミュー ソ裁 判 の保証 を謳 った第2条 につ いで あ る。 「2.誰 か が在地 の あ るい は外来 の聖職者 clericus・ 騎 士miles・ 商 人mercatorに 何 らか の 方 法 で罪injuriaを 犯 した 場 合 、 も しそ の 違 反 者 が 当市 に属 す る者 で あ れ ば 、 彼 は召 換 後 遅 くと も4日 以 内 に市 長 と ユ ラテ ィmajoret juratiの 面 前 に 出 頭 しな け れ ば な らな い 。 … … も し彼 が賠 償 金 を払 うこ と を欲 しな か った な らば 、… …彼 の家 族 集 団 を な す す べ て の人 々 と共 に 、彼 は 当 市 か ら追 放 され な けれ ば な らな い。 そ して 、誠 実 な償 い と して 賠 償 金 を彼 が 払 い お お せ る時 まで 彼 が も ど って 来 る こ と は許 され る べ きで な い 。 も し、 彼 が 、 当市 の 内部 に 家 屋 や あ るい は ブ ドウ畑 を 所 有 して い る な らば 、 市 長 とユ ラテ ィは、 この悪 人 の裁 判 を … … 要 求 す る。 … …」 この 条 項 で 述 べ られ て い る罪injuria は侮 辱 や 暴 行 とい った 軽 い罪 を意 味 す る と考 え られ 、 コ ミュー ソ側 は これ に 甘 ん じて い るが 、 と もか くこの よ うな 内 容 で あ っ て も、 コ ミュ ー ソ裁 判 は は じめ て 保 証 され る こ と に な った 。 コ ミュー ソの 主 要 な刑 罰 と して追 放 が あ る が、 そ の追 放 者 の処 置 に つ い て 、 第3条 は 以 下 の よ うに 決 め られ て い る。 即 ち、 「3.も し誰 か が 無 知 に よ って 当 市 か ら追 放 され た 悪 人 を 、 〈平 和 の制 度 〉 の 限界 の 内部infraterminosPacisinstituteに 導 い た な らば 、 そ して 、 も し彼 が誓 約 に よ って 彼 の 無 知 の証 しを た て る こ と が 出来 るな ら、 彼 は この た び だ け は 自分 で そ の悪 人 を追 い か え さな け れ ば な らな い。 この 逆 の場 合 で は 、 そ の悪 人 は 、誠 実 な賠 償 をす る ま で 引 き とめ られ な け れ ば な らな い。」 第4条 に定 め る。 即 ち 、 「4.… は、 ど ち らか とい え ば 軽 い 違反 に対 して 次 の よ う … 身 分 に よ る法 律 上 の過 料 の違 い に よ って 、 彼 が 罪 を犯 した 人 に対 して 罰 金 を払 わ な け れ ば な ら な い し、 そ して 、 市 長 と ユ ラ テ ィの か た わ らで く平 和>Pacis を侵 害 した た め に 賠 償 しな け れ ば な ら な い。 … … 〈 平 和 〉 の境 界 内 に お い てintraterminos Pacis… … 傷 をつ け られ た人 が彼 に 復 讐 す る こ とを 求 め るの は そ の時 以来 禁 止 され るべ きで あ る。 … …」 次 い で 、 第5条 。 「5.も し誰 か が 他 の人 に対 す るひ どい 憎悪 を 持 つ な らば 、 他 の人 が 当市 か ら出 て行 く時 に 、彼 が そ の 人 を追 撃 す る こ と、あ るい は 、他 の 人 が 外 に 行 った 時 、 彼 を待 伏 せ す る こ と は 禁 止 され な け れ ば な らな い 。 … … 追 撃 あ るい は待 伏 せ が あ っ た と い う く平 和 〉 の人 々hominesPacisの extraterminosPacis彼 法 的証 拠 に関 して証 明 しえた 時 、 〈平 和 〉 の境 界 の外 部 で が他 の 人 を殴 打 し た りあ るい は傷 つ け た な ら ば 、 彼 は 誓 約 に よ って こ の非 難 に つ い て無 罪 の証 しを立 て な け れ ば な ら な い。 … …。 」 第9条 で は人 頭 税 の軽 減 が 謳 わ れ て い る。「9.余 hominescapitecensiは は以 下 の こ と も又 定 め る。 即 ち 、 人 頭税 民 そ の領 主 に 対 す る彼 ら の人 頭 税 だ け を支 払 え ば よ い。た と え彼 らが 定 め られ た機 会 にそ れ を支 払 わ な か った と して も現 行 の 法 に もと つ い て そ の 罰 金 を払 え ば よ く、 又 彼 らか らの 自発 的 な贈 与 で なけ れ ば 、彼 らの領 主 の 諸要 求 に満 足 を与 え る義 務 は な い。 … … 」 こ の条 項 で は 、罰 金 で さえ 法 定 され て い るの だ か ら、 そ れ と 同様 に 、人 頭 税 も固定 す る こ とに よ って 軽 減 され て い る と考 え て よ か ろ う と思 う。 そ して 、 も っ と高 く評 価 で き る こ とは 、 人頭 税 民 か らの 自発 的 な 贈与 で な い 領 主 の 諸 要 求 の ひ とつ に は恣 意 的 な課 税 が ふ くま れ るで あ ろ う 92 奈 良 大 学 紀 要 第22号 し 、 人 頭 税 の 固 定 に よ る 軽 減 と 考 え あ わ せ る と 、 こ の 条 項 は 大 き く言 っ て 、 恣 意 的 な 課 税 exactioを 第12条 禁 止 して い る 条 項 で も あ る と 言 っ て よ か ろ う と思 う。 で は 、 「12.余 ソ へ の 加 入 条 件 に0定 は 死 亡 税 を 完 全 に 禁 止 す る 」 と な っ て い る 。 第14条 の 制 約 を 与 え て い る。 即 ち 、 「14.更 は 、 この コ ミ ュー に、 諸 教 会 あ るい は 当市 の騎 士 達 の 人 頭 税 民 を な す い か な る 外 来 者 と い え ど も 、 そ の 主 人 の 許 可 な し に 、 こ の く 平 和 の 制 度> Pacisinstitucioの うち へ 受 け 入 れ て は な ら な い … …」 に つ い て で あ る。 即 ち、 「15.こ の く 平 和>Paceの 第15条 も、 ま た、 加 入 の一 般 的 条 件 うち に認 め られ るで あ ろ う と ころ の者 は 誰 も 、1年 の う ち に 、家 屋 を た て さ せ ね ば な ら ず 、あ る い は ブ ド ウ 畑 を か わ ね ば な ら ず 、 ま た 、 も し苦 情 が 彼 に 対 し て も た ら さ れ る よ う な ら ば 、 人 々 が 彼 を 裁 判 す る こ と が 出 来 る た め に 、 彼 の動 産 の充 分 な部 分 を都 市 に も って 来 な け れ ば な ら ない 。 」 第17条 で は 》城 主 と コ ミュー ソ市 民 の 関係 に つ い て 、 い わ ば市 民 の方 に有 利 に成 文 法 化 され て い る。 即 ち 、 「17.城 主 が 、 当 市 に 所 有 して い る こ と を 主 張 す る 諸 慣 習 に 関 して は 、 も し彼 が 司教 の 法廷 で 彼 の祖 先達 が 合 法 的 に長 い 間 そ れ ら を所 有 して い た こ とを示 す こ とが 出来 た な らば 、彼 は そ れ らを 自由 に保 持 す べ き で あ る。 … … 」 て い る。 「18.余 次 に 、 第18条 で は ター ユ に つ い て定 め は 、 次 の や り方 で 慣 習 的 な タ ー ユ を 調 整 し た 。 即 ち 、 タ ー ユ に 従 っ て い る め い め い の 者 は 、 こ れ ら の タ ー ユ が 支 払 わ れ る べ き お の お の の 支 払 期 日 に 、4ド ね ば な ら な い 。 … … 〈 平 和 〉 の 領 域 の 外 にextraterminosPacis土 ゥニ エ を 支 払 わ 地 を彼 が持 っ て い る場 合 だ け は別 と して 、彼 は 他 の い か な る タ ー ユ も支 払 わ ない 。 」 こ の 特 許 状 の 最 後 の 方 で 、 国 王 は 自 己 の 権 益 を 述 べ る こ と も忘 れ な い 。 第22条 で あ る 。 即 ち 、 「22.恩 は 以下 の通 り 恵 、 即 ち 、 余 の 国 王 と して の 寛 大 さ の 結 果 に よ っ て 、 上 述 の 住 民 達 に 余 が 許 し た 恩 恵 と 他 の も の の 返 礼 と し て 、 こ の 同 じ く 平 和 〉 の 人 々Pacishomines は 、 も し余 が 彼 らの都 市 内 に来 る な らば 、 一 年 に三 度 、 彼 らは余 に宿 所 を 準備 す る とい う こ と を 余 に 同 意 し た 。 も し 余 が 来 な い な ら ば 、 彼 ら は 余 に 代 償 と して20リ ブ ラlibrasを 支 払 うで あ ろ う。 」 末 尾 の文 は 、次 の よ うに な って い る。 即 ち、 institutioが 「そ れ 故 に 、 こ の く 平 和 の 制 度>Pacis 、 永 遠 に堅 固 で 、 ゆ る が な い ま まで あ る よ うに 、 余 は そ れ を強 化 す る こ とを命 じ た 。 国 王 ル イ の 署 名 、 余 の 息 子 フ ィ リ ップ の 署 名 等 等 。 主 の 降 臨 か ら 、 国 王 ル イ と し て の20年 目 の1128年 に な さ れ た 。 大 法 官 シ モ ソ の 手 に よ っ て 、 コ ソ ピ エ ー ニ ュ で 与 え ら れ た 。」58)・ 1128年 の 回 復 さ れ た コ ミ ュ ー・ソ が 、 「平 和 の 制 度 」 と 呼 ば れ て い る の は 特 筆 に 値 す る。 特 許 状 の うち に も 、 「平 和 」 、 「平 和 の 人 々 」 、 「平 和 の 領 域 」 な ど と い っ た 用 語 が か な り使 わ れ て い る 。 そ して 、 以 前 、 以 後 を 問 わ ず 、 成 立 し た 他 の コ ミ ュ ー ソ都 市 に お い て も主 な 目 的 で あ っ た 内 容 が こ の 特 許 状 の う ち に 盛 り 込 ま れ た 。 特 に 、 第1条 、 第2条 、 第9条 、 第12条 あ た り は 、 そ うで あ る 。 こ の 特 許 状 は 他 の 興 味 あ る 示 唆 を も ふ く ん で い る 。 こ の コ ミ ュ ー ソ は 、 最 初 に成 立 した コ ミュ ー ソに お け る よ うに 聖 職 者 、 貴 族 そ して 司教 の誓 約 に よ って もは や 保証 され な い 。 こ こ で は 、君 主 の み が 関 わ り 、そ の 名 に お い て そ の 認 可 の 主 導 権 を 宣 言 し、唯0の 保証 人 とな る59)。も っ と も、 こ の よ う な 事 実 が 鮮 明 に な る の は フ ィ リ ッ プ ・オ ー ギ ュ ス トの 統 治 の 時 代 に お い てで あ るが。 こ れ で 、 ラ ソ の コ ミ ュ ー ソ前 史 、 コ ミ ュ ー ソ史 の 考 察 を 終 え る が 、 こ の 際 、 ひ と つ の こ と だ け特 記 して お きた い。 そ れ は 、 ラ ソだ け に は 限定 され な い の で あ る が、 特 に ラ ソで は そ の都 市 コ ミ ュ ー ソ運 動 が 起 点 と な り周 辺 の 農 村 コ ミ ュ ー ソ の 形 成 へ と 拡 大 して い っ た こ と で あ る 。 こ の 村 落 連 合 コ ミ ュ ー ソ の 成 立 に 、 一 部 で は 、 ラ ソ市 の1128年 の 「平 和 の 制 度 」 が 強 い 影 響 を 及 ぼ し た 。 以 後 、 農 村 コ ミ ュ ー ソ 運 動 は 激 動 の 時 代 を む か え て 行 くが 、 都 市 コ ミ ュ ー ソ運 動 だ け 守 山:成 立 期 の中 世都 市 コ ミュー ソ運 動(中) 93 に 目 を む け て 、 こ の よ うな 農 村 部 へ の 拡 大 を 見 落 して は な ら な い と思 う。 《未 完 、 当 初 、 (上)(下)で 終 え る はず で あ った が、 掲 載 分 量 が 大 幅 に ふ えた た め三 分 割 し、 今 回 を(中) と した。 次 回 は(下 一1)と して ア ミア ソ と ヴ ァラ ソシ エ ソ ヌの 個 別 都 市 の成 立 状 況 を考 え た い。 更 に 、 最終 回 は(下 一2)と して 都 市 コ ミュー ソ運 動 の 展 開 と既 存 の諸 権 力 と の関 係 を検 討 す る予 定 で あ る。 な お 、(上)は 『奈 良 大 学 紀 要 』 第17号 、1989年 に掲 載 さ れ て い る。 》 注 1)ラ ソ の コ ミ ュ ー ソ 前 史 に つ い て は 、F.Vercauteren,EtudesurlescivitatesdelaBelgique Seconde,1934(reimpr.,1974).J.Lusse,Naissanced'unecite,LaonetleLaonnoisduVeau X8siecle,1992.GuibertdeNogent,Devitasua,ed.G.Bourgin,1907.GuibertdeNogent, Autobiographie,introduction,editionettraductionparE.R:Labande,1981(以 Autobiographieと 下 で は の み 記 す 、 筆 者 は 、 ギ ベ ー ル の こ の 史 料 の ラ テ ソ 語 版 、 英 語 訳 版 、 そ し て 拙 訳 も 使 用 す る が 、 以 下 に お い て 、 そ の こ と を 前 提 と し て 、 繁 雑 に も な る の で 、 こ の 仏 語 訳 版 の み を 原 則 と し て 注 記 す る こ と に し た い 。な お 、用 語 に は ラ テ ソ 語 を 付 記 す る こ と が あ る 。)J.F.Benton(ed.),Self andSocietyinMedievalFrance:TheMemoirsofAbbotGuibertofNogent,1970(こ 版 を 底 本 と し た 筆 者 の 抄 訳 が あ る)を ー ロ ッ パ 中 世 都 市 の 起 源 』1993年 の 英 語 訳 そ れ ぞ れ 参 照 。 な お 、 要 を 得 た 労 作 で 大 著 で あ る 瀬 原 義 生 、 、150-152頁 『ヨ が あ る 。 2)Lusse,op.cit.,p.229.R.Fossier(ed.),HistoiredelaPicardie,1974,P.78. 3)Lusse,op.cit.;p.320. 4)Vercauteren,op.cit.,p.327. 5)Lusse,op.cit.,p.148,pp.327-328.な お 、 同 書 、pp.330-331の ラ ソ 司 教 の リス トも 一 応 役 に 立 つ 。 Vercauteren,op.cit.,p.328. 6)Lusse,op.cit.,pp.243‐244. ?)Ibid.,p.251.Vercauteren,op.cit.,p.330. 8)Vercauteren,op.cit.,pp.330‐331.Lusse,op.cit.,p.345. 9)Lusse,op.cit.,pp.234‐241. 10)Vercauteren,op.cit.,p.331. 11)Lusse,op.cit.,p.241. 12)Ibid.,pp.241‐243.Vercauteren,op.cit.,pp.337‐338. 13)Lusse,op.cit.,p.322. 14)Ibid.,pp.263-266. 15)Ibid.,pp.328-331. 16)Autobiographie,p.269.な 市 ラ ソ の コ ミ ュ ー ソ 運 動 一 お 、 前 述 し た 拙 訳 、 」 、 「ノ ジ ャ ソ の ギ ベ ー ル の 回 想 録(一)一 『奈 良 史 学 』 第 三 号 、1985年 も 参 照 の こ と 。 17)Vercauteren,op.cit.,pp.331-332.Lusse,op.cit.,p.301.な ル 人 も 侵 入 一 一 中 世 都 お 、919年 に は 、 マ ジ ャ ー し て き た 。cf.J.Dunbabin,FranceintheMaking,843-1180,1985,P.38. 18)Vercauteren,op.cit.,pp.334‐335. 19)Autobiographi.e,p.319. 20)Vercauteren,op.cit.,p.335.Lusse,op.cit.,p.251. 21)Autobiographie,p.327.も っ と も 、 ギ ベ ー ル が こ の よ う に 記 述 し て い る 時 期 は 、 ゴ ー ド リが 司 教 で あ っ た 時 に お い て で あ る 。 22)Lusse,op.cit.,pp.346-348.プ テ ィ ・デ ュ タ イ イ は 、 司 教 と 国 王 が 、 伯 権 力 を 分 有 し た と 論 じ て い る 。 奈 94 良 大 学 紀 要 第22号 Ch・Petit-Dutaillis,Lescommunesfrangaises,Caracteresetevolutiondesoriginesau XVIIIs.,1947,p.74.G.Duby(ed.),HistoiredelaFranceurbaine,t.2,Lavillemedievale, 1980,p.149も 参 照 。R・ カ イ ザ ー も10世 紀 と11世 を 譲 渡 す る こ と な し に 、 一 定 数 の 特 権 の 行 使 を 失 s.,RN,t.56,1974,p.422.な 頁 と28頁 お 、H・ で は 、10世 の 例 と に お い て 、 諸 王 は 司 教 に 伯 領comitatus う と 述 べ て い る 。R.Kaiser,LaonauxXIIeetXIIIo プ ラ ー ニ ッ ツ 、 鯖 田 豊 之 訳 『中 世 都 市 成 立 論 』1959年,26 紀 以 降 、 司 教 は 同 時 に 都 市 の グ ラ ー フ に な り 、 フ ラ ソ ス 国 王 の 重 要 な 国 王 大 権 は 、 ご く少 数 の 司 教 だ け か か る権 利 を 全 て 、 前 者 紀 し て ラ ソ や サ ソ く獲 得 し な か っ た り 、 他 の 領 主 と共 有 リ ス を あ げ て い る 。 な お 、 フ ェ ル し な け れ ば な ら な か っ た と し コ ー ト ラ ソ は 、MnMelleville, HistoiredelavilledeLaonetdesesinstitutions,t,1,1846(reimpr.,1976),p.399 以 下 の ラ ソ 伯 領 に つ い て の 記 述 、 同 書 、P.400に の せ ら れ て い る ラ ソ 伯 の リ ス ト等 に つ い て 、 価 値 が な い と 言 及 し て い る 。cf.Vercauteren,op.cit.,pp.333-7334no6. 23)Melleville,op.cit.,p.401で は 、 ア ダ ル ベ ロ ソ が ラ ソ の 公 の 称 号 を 得 た よ う で あ る と ま で 述 べ る が 、 信 じ が た い 。cf.Lusse,op.cit.,pp.345-346.な お 、 ア ダ ル ベ ロ ソ に つ い て は 、Dunbabin, op.cit.,p.133,p.151,p.167,p.191andp.206.G.Duby,FranceintheMiddleAges, 987‐1460,1991,p.17.E.M.Hallam,CapetianFrance,987‐1328,1980,pp.68‐70. 24) Vercauteren,op.cit.,p.341. 25) Ibid.,pp.341-342. 26) Autobiographie,pp.270‐273. 2?) Vercauteren,op.cit.,p.340. 28) Autobiographie,pp.272‐281. 29) Vercauteren,op.cit.,p.340. 30) Ibid.,pp.342‐343. 31) リ ュ ス は 、 フ ェ ル コ ー 的 裏 づ け が 全 く な い と 批 判 Lusse,op.cit.,p.251.不 ト ラ ソ が 、 こ の 市 場 を ラ ソ の 丘 陵 地 の 東 端 に 位 置 づ け た が 、 こ の 見 解 は 資 料 し、 別 の 場 所 で あ る プ ラ ー ス ・デ ュ ・マ ル シ ェ で 催 さ れ た と して い る 。 正 確 だ が 、 筆 者 は 、 一 応 、 フ ェ ル コ ー cf. トラ ソ 説 に よ っ て お く。 32)Vercauteren,op.cit.,pp.344‐345. 33)ラ ソ の コ ミ ュ ー ソ 史 に つ い て は 、 以 下 の 文 献 を 参 照 さ れ た い 。 注1)で ベ ー ル ・ ド ・ ノ ジ ャ ソ の ラ テ ソ 語 版 、 仏 語 訳 版 、 英 語 訳 版 及 び 注16)の 学 』 第 四 号 、1986年 上 記 拙 訳 。 更 に 、Petit‐Dutaillis,op.cit.,pp.72-79.同 と した 同 時 代 史 料 で あ る ギ 「同(二)」 、 『奈 良 史 書 の 英 語 訳 版 で あ るdo.・, TheFrenchcommunesintheMiddleAges,1978,pp.51-57(以 下 で ペ ー ジ 数 等 を 注 記 す る の は 、 仏 語 版 に よ る)。A.Vermeesch,Essaisurlesoriginesetlasignificationdelacommune BansleNorddelaFrance(XIQetXIIes.)1966,pp.108‐113.Ordonnancesdesroisde Francedelatroisiemerace,t.XI,1769(reimpr.,1967).Kaiser,op.cit.,pp.421-426.Duby (ed.),op.cit.,pp.166‐169,pp.173‐176.J.F.Lemarignier,LaFrancemedievale, institutionsetsociete,1970,pp.186‐187.Dunbabin,op.cit.,pp.269‐270.S.Reynolds, KingdomsandcommunitiesinWesternEurope,900‐1300,1984,pp.176‐177.Fossier (ed.),op.cit.,p.151.Hallam,op.cit.,pp.141-142.Duby,op.cit.,pp.140‐141.R. Latouche,Lefilmde1'histoiremedievaleenFrance,843‐1328,1959,pp.223‐226. 瀬 原 、 前 掲 書 、168-170頁 。 井 上 泰 男 「中 世 的 支 配 権 の 変 質 と 農 奴 制 の 成 立12・3世 紀 フ ラ ソ ス に し 於 け る反 封 建 闘 争 の屈 折 一 一 」 ュ ー ソ蜂 起 73-82頁 『歴 史 学 研 究 』 第171号 ラ ソ の 民 衆 の 組 織 ・構 成 ・意 識 」 、1954年 、1-17頁 。 森 山軍 治 郎 『専 修 大 学 北 海 道 短 期 大 学 紀 要 』 第7号 。 な お 、 ラ オ ネ の 農 村 コ ミ ュ ー ソ に つ い て は 、A.Luchaire,Lescommunesfrangaisesa 「中 世 の コ ミ 、1975年 、 守 山:成 立 期 の 中世 都 市 コ ミ ュー ソ運 動(中) 95 1'epoquedesCapetiensdirects,1911(reimpr.,1964),pp.79‐96.Petit‐Dutaillis,op.cit., pp.105-106を それ ぞ れ 参 照 の こ と。 34)G.Duby,Lechevalier,1afemmeetlepretre,LemariagedanslaFrancefeodale,1981, p.151.デ ュ ビ ィ は、 ギ ベ ー ル の 父母 の こ と、 彼 の 人 格 、 そ して 論 じ て い る が 、 後 者 に つ い て は 、 同 上 書 、p.159以 て い る 。Kaiser,oP.cit.,P.421.な 『回 想 録 』 で 描 か れ た 世 界 に つ い て 下 を 参 照 。 カ イ ザ ー も 執 筆 年 代 を 多 分1115年 とし お 、 ギ ベ ー ル の パ ー ソ ナ リ テ ィ に つ い て は 、J.F.Benton, Culture,power`andpersonalityinMedievalFrance,1991,pp.293-312が 35)Vermeesch,op.cit.,p.109.井 上泰男 36)Autobiographie,pp.280-295.ギ 参 考 とな る。 『西 欧 社 会 と市 民 の 起 源 』1976年 、177頁 。 ベ ー ル に 言 わ せ れ ば 、 ゴ ー ド リは 俗 人 の 生 活 以 外 に 何 も し て こ な か っ た と い う こ と に な る が 、 カ イ ザ ー に よ る と 、 ゴ ー ド リの 前 歴 は 、1100年 国 王 の 礼 拝 堂 付 司 祭 で あ り、 多 分1102年12月25日 か ら1102年 まで イ ギ リス 以 後 官 房 長 に な っ た と し て い る 。Kaiser,op.cit., p.422. 37)注16)の 拙 訳 を 参 照 され た い 。 な お 、 ギ ベ ー ル の ラテ ソ語 版 の 注 で は 、 ジ ェ ラー ル の 暗 殺 の 日付 は 、 1110年1月7日 と な っ て い る 。cf.GuibertdeNogent,Devitasua,ed.,Bourgin,p,146no3. 英 語訳 版 で も同 じで あ る。 38)Autobiographie,pp.296-305. 39)Ibid.,pp.304-317.瀬 原 、 前 掲 書 、169頁 40)Vermeesch,op.cit.,p.110.井 41)P・ 。 上 、 前 掲 書 、177-178頁 。 デ ポ ル トは 、 次 の 大 著 で ラ ソ の コ ミ ュ ー ソ の 最 初 の 成 立 を1109年 頃 と して い た が 、 ジ ェ ラー ル ・ ド・キ エ ル ジ ー の 暗 殺 後 の ア ナ ー キ ー 状 態 の 過 程 で 結 成 さ れ た の だ か ら 認 め が た い 。P.Desportes, ReimsetlesRemoisauxXIIIeetXIVes.,1979,p.73.も っ と も 、 最 近 で は 、 彼 は1111年 と して い る 。'do.,LescommunespicardesauMoyenAge:une6volutionoriginale,RN,t.LXX, 1988,p.265.筆 者 は い ま だ に 確 定 出 来 な い で い る 。 も っ と も 、 幅 が あ りす ぎ る が 、前 述 し た よ う に ギ ベ ー ル の 仏 語 訳 版 で は1111年1月13日(同 じ く 、ラ テ ソ 語 ・英 語 訳 の 両 版 に よ れ ば1110年1月7日)以 で 、 司 教 が コ ミ ュ ー ソ の 公 然 た る破 棄 に 出 る1112年4月18日 42)Autobiographie,pp.316-321.な い るが 、 そ の 直 前 で 後 以 前 で あ るの は ほぼ 確 実 で あ る。 お 、 ギ ベ ー ル は 第 一 期 の コ ミ ュ ー ソ を こ の よ う に しめ く く っ て 「彼 ら 聖 職 者 ・貴 族 は … … 誓 約 を,し 、 こ の よ う に して 結 ば れ た 契 約 を 尊 重 す る こ と を 約 束 した 」 と 言 っ て お り、 後 述 す る 司 教 も そ う だ が 、 彼 ら は コ ミ ュ ー ソ 維 持 の 誓 約 を した の で あ り、 コ ミュー ソそ の もの の 構 成 員 で は な か った との 印 象 を もつ 。 エ ソ ネ ソは 体 は 実 際 に 共 同 体 な の で あ る 。 … …1190年 で あ る 。1189年 「北 フ ラ ソ ス で は 市 民 の 誓 約 団 に ア ミア ソ に与 え られ た …… 用 語 法 で は …… 都 市 共 同 体 な の に ソ ア ソ ソ に与 え ら れ た コ ミ ュ ー ソ の 確 認 文 書 で は 、 キ ヴ ィ タ ス な らび に ス ブ ウ ル ビ ウ ム の 全 住 民 は コ ミ ュ ー ソ を 誓 約 し な け れ ば な ら な い … … 」 と 論 じた 後 、 彼 女 は 「聖 職 者 と 騎 士 は 時 に 除 外 さ れ る 」 と 述 べ 、 聖 職 者 と 騎 士 が コ ミ ュ ー ソ 非 構 成 員 で あ る 可 能 性 を 示 して い る 。E.Ennen,Die europaischeStadtdesMittelalters,1979,S.127.E・ 都 市 』1987年 、147-148頁 エ ネ ソ、 佐 々木 克 巳訳 『ヨ ー ロ ッ パ の 中 世 も参 照 。 43)Communioautemnovumacpessimumnomensicsehabet,utcapitecensiomnessolitum servitutisdebitumdominissemelinannosolvant,etsiquidcontraJuradeliquerint, pensionelegaliemendent;caeteraecensuumexactiones,quaeservisinfligisolent,omnimodis vacent.(GuibertdeNogent,Devitasua,ed.Bourgin,pp.156‐157..) 44)Petit-Dutaillis,op.cit.,p.76.Vermeesch,op.cit.,p.111.瀬 45)Autobiographie,p.333. 46)Ibid.,pp.320-337. 原 、 前 掲 書 、169頁 。 奈 96 47)Ibid.,pp.336-345.な 良 大 学 紀 要 第22号 お 、 テ ィ エ ゴ ー に つ い て は 、Kaiser,op.cit.,p.424.更 に 、G・ フル カ ソは 、 ラ ソ の場 合 が示 す よ うに、 権 利 要 求 の運 動 の指 導 者 達 は、 必 ず し も富裕 な市 民 達 だ け で は なか っ た と 述 べ て い る 。G.Fourquin,LessoulevementspopulairesauMoyenAge,1972,p.148. 48)森 山、 前 掲 論 文 を参 照 の こ と。 49)Autobiographie,pp.344-357.Duby(ed.),op.cit.,p.87.な お 、 ラ ソ 地 方 の ブ ドウ 酒 の 生 産 と 商 業 に つ い て は 、Kaiser,op.cit.,p.426. 50)ト マ ・ ド ・マ ル ル は 、 ア ミ ア ソ 伯 の ア ソ ゲ ラ ソ が 最 初 に 結 婚 し た ア ド ・ ド ・マ ル ルAdedeMarle の 息 子 で あ る と い わ れ る 。 ア ソ ゲ ラ ソ は 、 こ の 妻 を 不 義 の と が で 離 婚 さ せ た 。 トマ に 関 す る 事 柄 に つ い て は 、Suger,ViedeLouisVIleGros,editeeettraduiteparH.Waquet,1964,PP. 172-179.Hallam,op.cit.,pp.115-116も 治 の故 郷 を求 め て 』1977年 参 照 。 森 山 軍治 郎 、44-54頁 『フ ラ ソ1ス 田 舎 放 浪 記 一 一 自 由 と 自 で も トマ に つ い て 興 味 深 く書 か れ て い る 。 な お 、 拙 稿 「都 市 コ ミ ュ ー ソ の 発 展 一 一 サ ソ ・カ ソ タ ソ の コ ミ ュ ー ソ 証 書 の 分 析 を 通 じて 一 一 」 『奈 良 大 学 紀 要 』第6号 1977年 、148頁 の 注17)も 参照。 51)Autobiographie,pp.362‐377. 52)Petit‐Dutaillis,op.cit.,p.?7. 53)Autobiographie,pp.394‐397. 54)Ibid.,pp.356‐361. 55)Vermeesch,op.cit.,p.112. 56)Ibid.,pp.112-113. 57)Luchaire,op.cit.,p.42.Petit-Dutaillis,op.cit.,p.79.瀬 原 、 前 掲 書 、170頁 1769(reimpr.,1967),pp. 58)OrdonnancesdesroisdeFrancedelatroisiemerace,t.XI, 185‐187.Ch.-M.deLaRonciere,Ph.Contamine,R.Delort, etM.Rouche,L'Europe auMoyenAge,Documentsexpliques,t.II,1969,pp.229‐233. 59)Vermeesch,op.cit.,p.113. Sommaire CetarticletraitedumouvementcommunaldanslesvillesmedievalesspecialementenFrance duNorda1'epoquedesanaissance. Danslapremierepantie,1'auteuraexaminecinqcas,LeMans,Cambrai,Saint‐Quentin, BeauvaisetNoyon. CettedeuxiemepantiePortesunlecasd'uneautreville,Laon.APartindelaprehistoire communale,1'auteurdiviselemouvementdapscettevilleentroisstadeset1'analyseen exploitantdesdocumentsimportantsdecetteepoque.Atraversdecetteexamination,ittente deprouverquelemouvements'estdeveloppepourlapaixegalementaLaon. 、172頁 。 、
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