「パウロの伝道旅行Ⅱ」

2016年10月2日
麻生教会主日礼拝説教
「パウロの伝道旅行Ⅱ」
使徒言行録15章36節~16章10節
久保哲哉牧師
1.第二次伝道旅行の目的
第二回目の伝道旅行の旅立ちの前、パウロはバルナバに言いました。
「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを
訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか(使徒15:36)」
この言葉から、今日から始まるパウロの第二回目の伝道旅行の目的につい
て、出発当初は第一回目の伝道旅行で立てた教会を訪ねるためであったとい
うことがわかります。
今日お配りした地図をご覧ください。
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当初の計画では真ん中右の方の小アジア(現在のトルコあたり)のリストラ
・イコニオンなどを回って帰ってくる計画であったのでしょう。これが、終
わってみますと、主の不思議な導きでガラテヤ地方を通ってトロアスの港に
向かい、そこから船出してマケドニア州(ヨーロッパ)に渡るという壮大な旅
へと変わっていることがわかるでしょう。
結果、それまではアジア地域、エルサレムを中心とした東方世界で宣べ伝
えられていた福音が、海を越え西方はヨーロッパに伝わったという点で、世
界史的にも重要なターニングポイントとなりました。その信仰の門の開かれ
方がいかにも福音的で、よいのです。今日は共にこの出来事から主の恵みに
触れていきたいと思います。
2.旅立ちの前の事件-バルナバとの別れとテモテとの出会い-
エルサレム使徒会議の協議においてパウロ率いるアンティオキア教会とペ
トロ率いるエルサレム教会が一致して伝道を行う決定をし、パウロがエルサ
レム教会の正式な認可を経て、異邦人伝道に繰りだそうとした矢先のことで
す。パウロを見出し、エルサレム教会とパウロの橋渡しをし、また良き友で
あったバルナバとパウロが「激しく対立した」とルカは記しています。
聖書にはバルナバのいとこのマルコが、第一回目の宣教旅行から外れたこ
とが原因であると記されていますが、おそらく真理問題での別れがあったの
でしょう。バルナバほどの人ですから、おそらくパウロと別れたあとも精力
的に伝道活動を行い、多くの信じる者を生み出し続けたのだろうと想像しま
すけれども、教会の外からの難、教会の内側からの難。そして親友との決別
という人間的にみれば様々な困難のあと、パウロの第二次の伝道旅行は始ま
っていく。ということになります。
バルナバという同労者を失ったパウロはエルサレム教会の指導者の一人の
シラス(シルワノ)をお供に第二回伝道旅行へと旅立ちました。そこでパウロ
は評判のよい人テモテと出会います。このテモテはパウロが書いたとされる
テモテへの手紙に出るテモテです。この時はおそらくまだ若く、僕より年下
くらいのイメージがありますけれども、後にパウロの弟子の中で最重要の弟
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子となった人物です。
テモテはユダヤ人の母と異邦人の父との間に生まれた人であったと記され
ています。それで、父親の反対があったのでしょうか。テモテはユダヤ人と
しての割礼を受けてはいなかったのですけれども、そのテモテにパウロは割
礼を施すように指導するということが語られていきます。これはさらっと読
むと読み飛ばしてしまうのですけれども、おもしろい所です。伝道のための
工夫とはどのように行うかということが記されております。
というのも、前回、パウロはエルサレム使徒会議において、キリスト教信
仰においてはもはや割礼は無意味であることを宣言し、キリスト教徒が割礼
を受けることに強く反対していました。なぜ割礼を受けることを反対したの
か。それは、割礼を認めるということは主キリストの十字架の恵みを薄める
ことになるためです。これについては先週触れましたから今日は触れません
けれども、このことでエルサレム会議では「意見の対立と論争(使徒15:2)」
が起こりましたが、パウロはやっとのことでこの割礼問題に「異邦人は割礼
を受ける必要はないと」ケリをつけたのです。にも関わらず、ここでテモテ
に割礼を受けさせるというのが不思議なのです。けれども、よく引用してい
る北森牧師はこれを「非常に高度な政治性」と表現していました。
聖書には「その地方に住むユダヤ人の手前(使徒16:3)」とあります。信仰
についての譲れない真理問題であったはずの割礼問題なのですが、福音宣教
のために大胆に、しかし柔軟にこれに対処していくパウロの姿があります。
北森牧師曰く「割礼論者に花をもたせた」とか「原始キリスト教会を双肩に
担った人物としてはやむを得な」かったとか、しかしながら、議論で打ち負
かされた相手を尊重するというこの行為は、「相手本意」という「福音の精神
にのっとった」行為であったとこの出来事を評しています。僕も同じ意見で
す。パウロにとって割礼を受ける、受けないは救いの決定的な出来事ではあ
りませんから、受けるも受けぬも自由ということだからでしょう。また、テ
モテの割礼は福音宣教の前進のための一つの工夫であったのでしょう。
私たちの教会も次々週の礼拝は教会学校と合同の特別伝道礼拝を予定して
いますが、宣教のための工夫について今日の役員会では話し合われる予定で
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す。どうなるかは話し合いの結果次第ですけれども、礼拝の中でちょっと新
しいことをするかもしれませんし、しないかもしれません。ともかく、福音
とは聞くものに喜ばしいものですから、よい集会となり、一人でも多くの友
と共に礼拝がしたいと思っておりますので、どうぞ教会から離れている友や
教会に来てほしい家族がおりましたら是非お誘いくださればと思います。
3.聖霊から禁じられた結果のヨーロッパ伝道
さて続いて16章の6節以下に続きましょう。大胆な工夫をもってテモテ
を伝道旅行の仲間に加えたパウロ一行はアジア州で御言葉を語ることを聖霊
からを禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通っていったとあります。
この「聖霊から禁じられた」、原文では「聖霊によって妨げられた」となって
いるので、おもしろい表現だなとみているのですが、牧師をしていると、こ
ういうことはよくあるのです。渦中にあるときには自分の意志とは違う方向
にいくのですから、試練としか思えないようなことも後になってみればそれ
が恵みであったということは信仰者なら誰でも経験することでしょう。パウ
ロも伝道旅行が終わってからこの出来事を振り返ったときに、神の力が働い
ていたとの確信を得たからこそ、このように表現し、それをルカが書き残し
たのだろうと思います。
ではいったい、このときパウロに何が起こったのか。繰り返しになります
がまず最初、パウロは第一次伝道旅行で回ったアジア州の教会、現在のトル
コの辺りを回ってアンティオキアに帰ってくる予定であったはずなのです。
ですが、何らかの理由でこれが妨げられまして、東の方には戻らずに、西の
方に向かうこととなりました。それで、「フリギア・ガラテヤ地方」を通って
いったようです。これは最初の計画にはなかったことです。
こうしてガラテヤ地方を回ってパウロは教会を建てていったのでしょう。
そのときにできたであろうガラテヤの諸教会に宛てたパウロの手紙。ガラテ
ヤ書4章13節を少し開いてみますと、なぜこの地方を通ったのかのヒントが記
されています。ガラテヤ書4章13節には「知ってのとおり、この前わたしは、
体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」
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とあります。
現代でも夏の小アジア・現在のトルコはおそろしく暑いと聞きます。海岸
地帯は西部も南部も摂氏40度を超える気温が続くそうです。想像の域を出ま
せんが、おそらくパウロはその暑さで疲弊してしまったのでしょう。このま
までは命が危ないと暑い沿岸地域を避けて順路を変更。ガラテヤの高原は気
温も涼しく、過ごしやすいため、そこまで一気に上っていって、骨休めをし
た。ただし、そこは標高千メートルを超す高原であったためそこに至るまで
に相当に無理をしたのでしょう、体調を崩して長期の休養が必要となってし
まった。そこで、せっかく上ってきたのだし、夏の間は涼しいガラテヤで過
ごすこととした。そこで福音を宣教した結果、ガラテヤの地方に多くの教会
が誕生した。ということなのだろうと思います。
それで、健康が回復し、再出発したときに、当初の予定通り、西の海岸地
方のアジアへと下ろうと思っていたに違いないのですが、なぜか方向がそれ
まして、ミシア・ビティニアへ向かっている。その理由は記されていないの
でよくわからない所ですが、地震もあるし嵐もある地域です。だからもとに
帰る道がふさがっていたのかもしれないし、方位磁針や地図はない。案内な
ども頻繁にあるとも思えませんから、単純に迷った結果の出来事なのかもし
れません。ルカはそれを「イエスの霊がそれを許さなかった」と表現します
が、人間の思いを超えてなぜか自分の思い通りにならない、道がこうふさが
れて自分が自分の意志ではなく、何か導かれるように別の道をたどる。とい
うことは人生でよくあることです。ともかく自分の意志ではなく、しかし必
然的に導かれ、そしてアジア地域の端の端。トロアスの港へと着くことにな
る。そこで、パウロたちが眠りにつくとマケドニア人の夢・幻を見るのです。
その夜、夢の中でマケドニア人は言いました。
「マケドニア州に渡ってきて、わたしたちを助けてください(使徒16:9)」
この幻を受けてパウロたちは大胆にもマケドニアへの道を進んでいきます。
このアジアのもっとも西の地に来ただけでも大快挙ですから、ここからまっ
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すぐに戻るということも考えられたのでしょうが、彼らはここでも止まらな
い。つまりアジアを超えてヨーロッパに旅立つ確信をパウロは得ることとな
ります。海を越えたヨーロッパの地にも福音をまっている民がいることを確
信し、当初の予定を大幅に超えて、第二次宣教旅行によって初めてアジア世
界を飛び出しまして、東方の世界から信仰の門は西方へ、ヨーロッパへと開
かれていくこととなるのです。
4.医者ルカの合流
-われら資料について-
それでここで一つ触たいのは、使徒言行録では今日の最後の箇所10節。ここ
から、
「わたしたち」という言葉がでることです。これは古くから「我ら資料」
とか「我ら箇所」とか「私たち文書」と言われて学問的に議論されているこ
となのですが、一言でいうと、これまで使徒言行録は三人称、つまり「パウ
ロは」とか「バルナバは」とか「彼らは」とか、そういう三人称で書かれて
いるのに、ここから急に主語が三人称複数、「わたしたち」という風になると
いうことです。
使徒言行録はこれまで客観的に、物語風というか、パウロがこうであった。
ペトロはこうであった。と、ある種客観的に進んできた所から、急に「わた
したちは」と、物語の視点がシフトしていきます。それで、急に生き生きと、
自らが体験したことを記しているような。まるで日記のような文体に変わっ
ていきます。そのことに注目をしたいのです。
なぜここから「わたしたち」となるのか。それはルカ福音書の著者。医者
ルカが、ここでパウロと合流したのだろうと言われます。それで、自らの体
験した出来事としてパウロとテモテとシラスと「医者ルカ」を含めた「わた
したちは」と記していると言われるのです。
漫画でも何でも作者が自分自身を登場人物として著作に出すときには少々
デフォルメをしたり、控えめにしたりするものだけれども、ルカもそうだっ
たのだろうと思います。自分の名はそこには出さずに、気づく人は気づくよ
うに、しかし注意をしないと気づかれないような仕方で「わたしたち」の中
に自分を含めた。そうみると浪漫があります。
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おそらくルカ自身がこの時、トロアスの港でパウロと出会い、福音の御言
葉を聞き、クリスチャンとなったということなのでしょう。そしてこれから
使徒言行録を読み進める際には注意して見てもらえるとよいと思います。
ユダヤ人の中のユダヤ人でありながら異邦人のための使徒として召された
パウロ。エルサレム教会の指導者であったシラス。ユダヤ人の母を持ち、異
邦人の父を持つ。若き伝道者テモテ。そして異邦人キリスト者医者ルカ。
身体が弱く、病気があったパウロにとって長旅での医者ルカの存在は心強か
ったことでしょう。当初の目的とはまったく違った、聖霊によって禁じられ
た結果の逃れの道で「病気」すらも用いられ教会が建ち、力強い信仰仲間が
次々と集まってくる。これがキリスト教会の伝道、聖霊に導かれた教会の伝
道の真骨頂という所でしょう。
伝道も教会形成も私たちの人生も、事柄は決して順調に進みません。人間
関係で悩むこともあります。信仰の事柄で悩むこともあります。病気になる
こともあります。道がふさがれて進みたい方向に進めないこともあります。
けれども、こうした躓きを通してこそ、わたしたちの歩みが整えられ、導か
れ、神の御業であることが示されるのです。主キリストに従って信仰の歩み
を進めるものの道を主なる神は思いもよらない仕方で必ず導かれるのです。
すべてを主におゆだねし、神の平和の内を導かれていく者たちはこのような
旅路をいくのです。その信仰を新たに今日も歩み出したいと思います。
わたしたちはこれから聖餐を祝います。使徒パウロが主イエスと共にあり、
その霊によって導かれ歩んだように、わたしたちも主が共におられることを
確認するためになされる食事です。制定の言葉において「主キリストの身体
と血に与るとこい、主キリストはわたしたちの内に親しく臨んでおられます」
といわれていることは真実です。主キリストの十字架と復活の出来事を確信
し、この食事をいただくことで、わたしたちの内に主が生きて働いておられ
ることがわかります。主キリストの十字架の出来事は、わたしたちが罪の内
に倒れずに立ち上がることができるように、なされたことであったことがわ
かるとき、わたしたちはこの主の恵みに「力づけ(使徒15:40)」られるのです。
その結果、喜びの内にひたすら主に仕え、その戒めを守り、互いに愛し合い
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ながら歩むことが可能とされるのです。
主キリストの復活の力が今、わたしたちにも注がれていることに感謝して、
時がよくとも悪くとも御言葉を宣べ伝えていきましょう。主を証していきま
しょう。神の平和はそこにこそ実現するのです。
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