の高まりの根底の ひとつには、 『近世交通史料集』 や 『五 街道分間延絵

田
東 海 道 日 岡 峠 に お け る 木 食 正 禅 の道 路 改 修 事 業
安
真
紀
子
日 岡 峠 は 、 東 海 道 大 津 ∼ 京 都 間 に位置 す る。 近 世 の京 津
角 度 か ら 交 通 史 への関 心 が高 ま って い る。 交 通 史 への関 心
現 代 の都 市 問 題 の ひ と つは 交 通 問 題 で あり 、 最 近 様 々 な
坂 山 と 日岡 峠 と いう 二 つ の難 所 が存 在 し、 と く に日 岡 峠 は
て、 重要 な役 割 を果 た し て いた。 と こ ろが 、 京 津 間 には 逢
いは 北陸 と を 結 ぶ 幹 線 道 と し て、 ま た 為 登 米 運送 路 と し
に
の高 ま り の 根 底 の ひ と つ には 、 ﹃近 世 交 通 史 料 集 ﹄ や ﹃五
京 の出 入 口 の ひ と つで あ る粟 田 口 へ通 じ る要 衝 であ り な が
め
街 道分 間 延 絵 図 ﹄ な ど の基 本 的 な史 料 の公 刊 が あ る。 ま た
ら 、 急 勾 配 のう え湿 沢 な ど に より 、 雨 天 にお い ては 通 行 に
じ
最 近 の交 通 史 研 究 は 、 街 道 ・宿 駅 の成 立 や構 造 な ど の基本
困 難 をき たす 悪 路 で あ った。 京 津 間 の運 送 には 、牛 車 、 牛
は
的 な研 究 ば か り でな く 、 交 通文 化 とも いう べ き分 野 への関
の背 、 馬 の背 、 歩 行 荷 など が 利 用 さ れ て いた が、 な か で も
のぼ せ
街 道 (大 津 街 道 、 三 条 街 道 と も いう) は、 京 畿 と関 東 あ る
心 も 高 ま って いる 。 し か し、 一方 で は、 具 体 的 な個 別 事 例
牛 車 は 為 登 米 運 送 の重 役 を 担 い、 街 道 に は 往 還 と並 行 す る
ユ の研 究 には 乏 し く、 誤 ま った 事 実 認 識 や 概 念 の 混 乱 の ま
か た ち で 、牛 車 の た め の専 用 道 ﹁車 道 ﹂ が 設 け ら れ て いた 。
ま 、 再 検 討 さ れ て いな い事 が ら も 少 なく な い。 例 えば 、 こ
し か し 、重 量 荷 物 を積 載 し た牛 車 の往 来 が 輻較 す る車 道 は 、
近世 に お け る 日 岡 峠 の主 な改 修 を み る と、 宝 永 三 年 (一
く るまみち (
4)
こ に取 り 上げ る 東 海 道 日 岡 峠 に関 す る道 路 改 修 事 業 に つ い
破 損 も甚 し く、 幾 度 と な く改 修 が行 わ れ てき た。
ひ のおか ても 、 具 体 的 な論 証 を み な いま ま 、 誤 ま った理 解 が 定 説 化
さ れ て い る か に み え る。
一59一
道 付 替 ﹂ 普 請 が 行 わ れ、 享 保 二十 一年 (一七三 六 )か ら は、
七 〇 六 )十 一月 か ら 翌 年 三 月 にか け て、山 科 各 村 によ り ﹁車
て活 躍 し た 人物 で あ る。 こ の よう な誤 り は 、 応 其 が あ まり
野 山 を再 興 す る な ど、 十 六世 紀 末 から 十 七世 紀 初 頭 にか け
見受 け ら れ る。 応 其 と いえば 、 豊 臣 秀 吉 の帰 依 を 受 け 、 高
京 都 の僧 木 食 正 禅 (一六 八 八∼ 一七 六 三) が 三 年 を費 や し
日 岡 峠 の改修 に つ いて は、 正 禅 の改 修 に限 らず 、 いく つ
に も有 名 で、 木食 上人 と いえば 応 其 の代 名 詞 のよ う にな っ
八 町筋 か ら 京 都 三 条 大 橋 に至 る約 三 里 が改 修 さ れ て いる 。
か の改 修 が交 錯 し て、 研 究 者 の混 同 や誤 解 を ひ き お こし、
て改 修 し て いる 。 ま た、 文 化 二年 (一八 〇 五 )に は、 心学 者
更 に、 慶 応 元 年 (一八 六 五 )には 、 峠 の 迂回 路 が切 り 開 か
各 改 修 の事 実 関 係 を より 不 明 確 に し て いる 。 と く に、 ﹁車
て いる こと に起因 す るも の と考 えら れ る。
れ、 慶 応 二年 (一八 六 六)七月 に は、 大 津 御 用 米 会 所 ・同 米
石 ﹂ の問 題 に つ いて は、 敷 設 起 源 な ど を め ぐ って、 研 究 者
脇 坂 義 堂 (? ∼ 一八 一八)の上 申 に より 幕 府 に よ って、 大 津
取 締 方 、京 都 三条 ・四 条 の車 屋 が 中 心 とな り 、﹁新 道 御 切開
に より 様 々 な 見解 が な さ れ て い るが 、 な か には 正禅 の改 修
坂道 引 均﹂ 普 請 を 願 い出 て い る。 明 治 に 入 る と、 馬 車 通 行
を車 石 敷 設 起 源 と す る説 も あり 、 判 然 と し な い。 ま た、 京
が開 始 さ れ る に 伴 い、 明 治 六年 (一八 七 三)に 補 修 が 行 わ
面 に押 し出 さ れ た結 果 、 改 修 全 般 にか か わ る 事実 が不 明 瞭
津 間 の旧街 道 沿 いで は 、多 数 の車 石 が発 見 さ れ て い る た め、
こ の よ う に、 数 回 にわ た って行 わ れ た改 修 工事 の な か で
に な って し ま って いる。 こ の よう に、 混 乱 を 招 いて いる要
れ 、明 治 八年 (一八 七五 )に は 、峠 の切 り 下 げ 、道 路 の拡 張 、
も 、 享 保 二十 一年 (一七 三 六)一月 から の木 食 正 禅 に よ る改
因 の ひ と つは、 ﹁車 道 ﹂と ﹁車 石﹂ の概 念 が は っきり し て い
研 究 者 の視 点 は ﹁車 石﹂ と いう 遺 物 に向 け ら れ、 そ れ が前
修 は、 後 に幕府 によ って行 わ れ た改 修 など に比 べ て、 あ ま
な いこ と で あ ろ う。 し か し、 根 本 的 な 原 因 は、 個 別 事 例 の
舗 装 を施 し た 大規 模 改 修 が 京 都 府 に より 行 わ れ て いる 。
り 知 ら れ て いな い。 研 究 者 間 でも 、 そ の位 置 付 け は極 め て
実 証 的 研 究 が さ れ な いま ま 、 現在 に至 って いる点 に あり 、
曖 昧 で、 正 し く 評 価 さ れ て い な い場 合 が 少 な く な い。 ﹃京
そ の た め、 概 念 の混 乱 や先 学 の事実 誤認 を踏 襲 す る例 など
む 都 府 山 科 町誌 ﹄ で は 、 正 禅 の行 った 改 修 を 木 食 応 其 (一五
が生 じ て いる の で は な いだ ろ う か 。
三 六 ∼ 一六 〇 八 ) の事 蹟 と し て おり 、 他 にも 同 様 の誤 り が
一60一
と つ は、 ﹁車 道 ﹂ ﹁車 石 ﹂ と いう 用語 を 正 禅 の改 修 に か かわ
日 岡 峠 改 修 の全 容 を史 料 に基 づ い て分 析 す る こと 、 も う ひ
う な 課 題 を設 定 し た い。 ひ と つは、 正禅 によ って行 わ れ た
そ こ で、 本 稿 で は、 正 禅 に よ る改 修 を 取 り 上 げ 、 次 のよ
がみえる。
七 三 四) 十 一月 で あ る 。 願書 に は、 正 禅 の改 修 着 手 の動 機
で あ る が、 奉 行所 へ修 築 を願 い出 た の は、 享 保 十 九 年 (一
正 禅 の 日 岡 峠改 修 の願 望 は、 か なり 以前 から あ った よ う
一拙 僧 儀 先 年 一宇 建 立 之 蒙 御 赦 免 、安 祥 院 大方 成 就 仕
乍恐口上書を以御願奉申上候
な お、 正 禅 の改 修 に つ い ては、 史 料 紹 介 の意 味 も 兼 ね、
難 有 奉 存 候 。 然 者 三 条 山 科 領 日 岡 峠車 道 近年 殊 之 外
ら せな が ら 明 ら か に す る こ と で あ る 。
繁 雑 で は あ る が、 で き る だ け多 く の史 料 を 掲 載 す る こ と と
相損 シ、 荷 車 牛 大 分 苦 痛 仕 不便 二奉存 候 。依 之 坂 中
之 節 水 高 ク 牛 之 四 足 相 つか り 歩行 た や す く難 成 、 其
二而 者 上 荷 を 取 減 シ牛 追 是 を は こ ひ候 得 共 、 雨 天 杯
した。
木食正禅 による日岡峠 改修 計画
阿 奢 梨 の位 に ま で至 って いる 。 宝暦 十 三 年 (一七 六 三 )、 七
二十 四 歳 で出 家 、 高 野 山 へのぼり 、 木 食 の修 行 を積 み、 大
申 候 。 右 之 願 望 御 座 候 得 者 普 請 之 内 往 還少 茂 指 支 不
牛 馬 之 苦 痛 を か ろ し め 候 様 二仕 度、 粗 村 方 をも 承 合
間 、 蒙 御 赦 免 一鉢 之 施 入 を 以 右 車 道 を普 請 仕 、 何 卒
苦 ミ難 堪 相 見 江 申候 。 依 之 拙 僧 年 来 之 志 願 御 座 候
十 六 歳 で寂 す る ま で に、 日 岡 峠改 修 を は じ め、 一乗 寺 狸 谷
申 候 様 、 尤 車 道 脇 之 畑 地 等 も損 シ不 申、 村 方 往還 共
正 禅 は、丹 波 国 保 津 村 の出 身 、俗 名 を村 上 茂 八 郎 と称 し 、
不 動 の開 創 、 真 如 堂 安 置 の金 銅 仏 の造 立 、 安 祥 院 の再 興 、
二申 分 無 之 様 相 対 可 仕 候 。 此 普 請 之義 者第 一牛 馬 往
還 其 苦 痛 を 助 度 念 願 計 二而御 座 候故 、 急 度 普 請 致 方
渋 谷 街 道 の改 修 な ど、 多 く の社 会 ・土 木 事 業 を 行 って い る
な か でも 日 岡 峠 の改 修 事 業 は・ 最 も 大規 模 で・ 社 会 的
候 。 拙 僧 心 力 之 及 申 程 念 ヲ入 、年 久 敷 車 道 損 シ不 申 、
塵
に も 意 義 深 い と思 わ れ る。 まず は、 正禅 を中 興 の祖 と す る
む な 安 祥 院 所 蔵 の ﹃安 祥 院 文 書 ﹄ をも と に、 正禅 が 日 岡 峠 の改
牛馬 往来少 二而茂致安仕度奉存候間、此旨被為聞召
マ マ 仕 様 書 を 以 相 極 メ候 而 御 願 申 上 ル筋 二而 ハ無 御 座
修 を 発 願 し てか ら 着 工 に至 る ま で の経 過 を み て い こう 。
一61一
C-)
安祥院
木 食 正 禅 判
届御赦被成下候者難有可奉存候 。以上。
享 保 十 九 年 寅 十 一月 廿 三 日
御 奉 行 様
牛 の四 足 が つか る ほ ど ぬか る み、 歩行 も容 易 で は な か った
と いう 。
享 保 十 九 年 (一七三 四 )十 二 月、 正禅 は次 の よう な 仕 様 書
を 奉 行 所 へ提 出 し て いる 。
の目 的 は、 運 輸 機 関 の合 理 的 発 達 と 円 滑 な 流 通 に よ る経 済
が わ れ る。 近 代 的 な考 え方 にも と づ け ば 、 ⋮
難所 の改 良 工事
た い と し て い る。 こ こ に、 僧 侶 と し て の正 禅 の姿 勢 が う か
牛 が 通 行 に苦 労 し て いる こ と を挙 げ 、 牛 の苦 痛 を 軽 減 さ せ
二者 不 相 成候 哉、 且 又仕 様 如 何 候 様 二仕 候 哉 と 御 尋
上 ケ候 内 ハ車 往 還牽 通 シ候 哉 、 左 候 ハ ・往 還 之 障 り
先 月 廿 三 日御 願 申 上候 処昨 晦 日被 召 出 、 車 道 地 形 築
シ有 之 二付、 車 道幅 三間 二弐 町 之 間 地 普 請 仕 度 旨 、
一今 度 拙 僧義 、 日 岡 峠 車 道 深 サ 七 、八 尺 通 り程 堀 レ損
乍恐口上書
的 発 展 を望 む こ と に あ る 。 と ころ が 、 正 禅 は利 益 など を 一
被 成 候 二付、 委 細 書 付 奉 差 上候 覚 。
正 禅 は、 改 修 発 起 の 理由 と し て、 車 道 の破 損 が 激 しく 、
切 追 求 す る こ と な く、 宗 教 者 と し て、 生 類 を 慈 し む 心 から
く とも 正禅 が改 修 に着 手 す る 以 前 か ら 車 道 が 存 在 し て い た
お け る車 道 の起 源 は定 か で は な いが 、 こ の願 書 から 、 少 な
う 目 的 ど おり 、 車 道 に改 修 の主 眼 を 置 い て い る。 京 津 間 に
と こ ろ で、 正禅 は、 荷 車 牛 の苦 痛 を 軽 減 さ せ る た め と い
相 対 を 以 私 買 得 仕 、 其 屋敷 之 北手 江建 物 引 退 ケ置 、
付 、 右 狭 キ場 所 之 北 側 二出 張 候 在 家 弐 軒 御 座 候 を 、
候 。 尤 峠 之 間 二者 往 還狭 ク車 弐 輌 行 違 候 義 難 成 候 二
リ ニ御 座 候 。 右 地 普 請 之 間 ハ荷 車 往 還 を 牽 セ申 度
小 石 ヲ入 築 上 ケ 一面 大 石 ヲ敷 、 往 還 並 二引平 均 候 積
一前 段 二申 上候 通 弐 町 余 之 間 深 サ 七 、八 尺程 窪 候 所 江
こ と は確 か で あ る。 ま た、 願 書 か ら 当 時 の車 道 の破 損 状 況
往 還 人 馬 煩 無 之 様 二仕 度 候 。 此外 右 之 場 所 之 前 後 者
改 修 を発 起 し て いる 。
を知 る こ と も で き る。 急 勾 配 の坂 は 、 路 面 の破 損 に より な
車 行 違 候 而 も 指 構 無 之 程 之 道幅 二而御 座 候 。
一右 在 家 弐 軒 北 ノ方 へ引 退 ケ候 跡 地 、 永 代 往 還 江指 出
お 一層 牛 に負 担 を与 え る た め 、牛 車 は 上 荷 を 減 ら し、 そ の
分 を人 が 運 ぶ と いう 程 で あ った 。 加 え て、雨 天 にお い ては 、
一一62一
一往 還 之 筋 、 峠 二而 三 尺 斗 茂 地 形 引卸 シ申 度 候 。 此 外
義 難 成 候 二付 ﹂ ﹁此 外 右 之場 所 之 前 後 者車 行 違 候 而 も 指構
こ こ で注 目 す べ き は、 ﹁峠 之 間 二者 往 還 狭 ク 車 弐 輌 行 違 候
が 不 可能 な た め 、車 は往 還 を通 す よう にし た いと し て いる 。
二も 連 々 以往 還 車 道共 二次 第 二手 ヲ入 、 道 宜 敷 成 候
無 之 程 之 道 幅 二而御 座 候﹂ と、 往 還 筋 に おけ る行 き 違 い通
シ道 幅 二而 御 座 候 。
様 二仕 度 候 。
申 上 候 。 尤 山 科 郷 日 岡 村 領 分 二付 、 庄 屋 ・年 寄 へ茂
立 候 二付 、 急 々 ニ ハ出来 申 間 敷 候 間 、 此 段 茂 御 断 奉
一右 地 普 請 之 義 ハ、先 達 而 申 上 候 通 一鉢 之施 入 を 以 存
臨
車 石 が 敷 設 さ れ た 軌 道 は 単 線 で あ る と 考 え ら れ る こと か
いて 、車 両 の行 き 違 い が慣 行 さ れ て いた こと を示 し て いる。
行 に ふ れ て いる点 で あ る。 こ れ は、 着 工以 前 か ら 車 道 にお
カ 相 障 義 少 茂 無 御 座 候 。 勿 論 往 還 之 妨 ケ ニ成 候 義 毛頭
起 源 や車 石 敷 設 後 の車 道 に つ いて は後 述 す るが 、 車 石 の起
こ の時 点 に お け る車 石 の存 在 は認 めら れ な い・ 車 石 の
無御座候。 願 之通 被為仰付被下候 ハ・難有 可奉存
源 を知 る 上 に お い て、こ の仕 様 書 は貴 重 な 史 料 と いえ よ う 。
さ て、 仕 様 書 に挙 げ ら れ た 工事 の概 要 で あ るが 、 車 道 に
つ いて は、 破 損 の激 し い 二町 の間 、 幅 三間 にわ た って改 修
こ の仕 様 書 に は、 いく つか 注 目 す べき 点 が あ る。 まず 、
路 面 の 凹 凸 を な く す こと が でき、 敷 石 で地 面 を覆 う こ と に
敷 き な ら す ﹁敷 石 法﹂ を 採 用 し て いる。 こ の 工法 なら ば 、
判
車 道 の破 損 の程 度 で あ る が 、正禅 の報 告 によ ると 、七 、八 尺
よ って、 雨 天 の泥 檸 を防 ぐ こと も 可能 で あ る。 ま た、 往 還
禅
候。以上。
享 保 十 九年 寅 十 二月 朔 日
清水寺領五条坂
安祥院 正
も 掘 れ損 じ て、 路 面 は か なり 凹 凸 が 生 じ て いた と いう 。 先
に つ い ても 、 工事 中 の車 両 通 行 に伴 う 道幅 の拡 張 と峠 の切
(16 )
を行 う こと と し、 窪 地 へ小 石 を 入 れ、 そ の上 一面 に大 石 を
に挙 げ た願 書 に み え る破 損 状 況 を 考 え合 わ せ ると 、 正 禅 が
り 下 げ の実 施 を申 し出 て いる。 とく に、 往 還 の拡 張 に あ た
御 奉 行 様
改 修 に着 手 す る以 前 、 日岡 峠 の車 道 は 、 土 道 であ った と推
って は、 妨 げ と な る沿 道 の屋 敷 地 を 正 禅 自 ら 買 い取 り、 建
物 は移 築 し て跡 地 を永 代 往 還 と し て提 供 す ると 約 束 、同 月 、
察 さ れ る。
さ ら に、 仕 様 書 を分 析 す る と、 工 事 期 間中 は 車 道 の通 行
一63一
銀 百 匁 で購 入 し て いる こと が、 次 の口 上 書 か ら わ か る。
乍 恐 口 上書
一山 科 日岡 峠 車 道築 立 候儀 、 先 達 而 奉 願 、 当 十 三 日御
役 人 中 様 御 見分 被 成 下難 有 奉 存 候 。 車 道 普 請 之 内 者
庄屋
議人
伊右衛門 印
庄右衛門 印
ま 家 出 張 リ申 候 二付 、 相 対 之 上 買 取 家 跡 道 二可 仕 旨
費 用 は す べ て正 禅 が負 担 し ており 、 財 源 なら び に捻 出 方 法
こ の屋 敷 地 の買 い取 り を は じ め と し て、 改 修 に関 す る諸
年寄 五 兵 衛 印
川原町三条下ル弐丁目車屋
挨拶人 長 次 郎 印
申 上 置 候 。 当 十 三 日 御 見分 相 済 候 上 二而 弥 相 対 仕 、
は興 味 を ひ く と ころ で あ る。 こ れ ま で み てき た享 保 十 九 年
御 奉 行 様
右 つま 屋敷 地 東 西 拾 間 半 南 北 五 間 半 、 北 東 ノ方 二而
十 一月 の願 書 、 同 年 十 二月 の仕 様 書 に は とも に、 コ 鉢 之
往 還 を車 牽 せ 申 候 二付 而 ハ、 同 村 百 姓 長 兵 衛 後 家 つ
欠 在 之内 二つま 居 宅 建 御 座 候 を、 此 度 右 家 屋敷 地 代
施 入 を 以﹂ と あ り、 これ が費 用 の調 達 法 を知 る手 が か り と
所 へ 一通 の口 上 書 を 差 し出 し て い る。 そ れ に よ る と、 ﹁私
銀 百 匁 二永 代 買 取 申 候 。 則 代 銀 相 渡 証 文 取 置 申 候 。
敷 之内 を 海 道 二も 致 シ、 又 者 石 入 置 場 井 休 所 二成 候
一鉢 之 施 入 を 以 道普 請 仕 度 奉 願 候 二付 、 施 入 と 申 ハ御 公儀
な ろ う 。 こ の コ 鉢 之 施 入﹂ の解 釈 を めぐ り 、 正 禅 は 奉 行
様 二小 屋 建 候 分 二而 、 余 リ地 者 差 而外 二入候 事 無 之
之御 威 光 ヲか り 勧化 二而茂 仕 哉 と 御 尋 被 成 候 。 此 義 ハ先 達
畢 寛 右 地普 請 之 間 之 入 用 二買 取 候 地 所 二付 、 右 地 屋
二付 、 残 リ 地 之 所 二八畳 敷 之 つま居 宅 正禅 よ り 建直
も 申 上候 通 、 拙 僧平 生粍 鉢 二罷 出 候 。 其 余 斗 ヲ以 、 右 之普
保 を も 目 的 と し て いた こ と と な る。 托 鉢 修 行 で市 中 の支 持
鉢 は、 自 身 の修 行、 市 中 への信 仰 の普 及 の他 に、財 源 の確
ら 京 都 へ戻 り 、 以来 市中 を托 鉢 し て廻 って い る。 正禅 の托
た も のと わ か る。 正禅 は、 正 徳 二年 (一七 一二)に高 野山 か
請 仕 度 志 二御 座 候﹂ と、 費 用 は托 鉢 に よ って捻 出 さ れ て い
シ古 木 等 ハつま 江 可 遣 筈 二とく と示 合 置 、 何 之 申 分
茂 無 之指 障 候 義 弥 以無 御 座 候 間 、 願 之 通被 為 仰 付 被
下 候 ハ ・難 有 可 奉 存 候 。 以 上 。
享 保 十 九 年 寅 十 二月 十 七日
清水領五条坂安祥院
木 食 正禅 印
山科郷日岡村百姓長兵衛後家
売主
つま 印
一64-一
が 狸 谷 へ群 れ な し、 奉 行 所 か ら下 山命 令 が出 る と い った経
一八)、正 禅 は 一乗 寺 狸 谷 に山 居 、そ の際 、彼 を 慕 って人 々
者 も 少 な く な か った よ う で あ る 。 た と えば 、享 保 三年 (一七
書付奉願上候御事。
成 方 へ相 談 仕 、 此 度 地 普 請 目 論 見 致替 申 候 段 、 左 二
り 二牛 難 儀 之 筋 二相 聞 候 。 依 之 相 考 車 屋 中 之内 巧者
然 ル所 二敷 石 二仕 候 得 者車 之 輪 留 り 無 御 座 、 登 り 下
托 鉢 ま た は寄 付 によ って い る。 正 禅 は、 托 鉢 に よ って集 め
を は じ め 数 多 く の事 業 を 手 が け て い る が、 こ れ ら の費 用 も
い う こと が でき る。 日 岡 峠 の改 修 以前 に も、 安 祥 院 の再 建
った の で あろ う 。 いず れ に せ よ、 正 禅 は か なり の 理財 家 と
お い て相 当 な支 持 を得 て おり 、 こ れ が経 済 的 な支 え と も な
宛 之積 り 二相 成 り 申 候 。 左 候 得 ハ牛 車 苦 痛 ハ無 御 座
均 二いた し 申 候 得 ハ、 拾 間 二而之 こ うば い弐 尺 余 程
シ、 右 拾 五 間 程 之 こうば い凡 惣 長延 三百 間 斗 之 所 平
坂 之 下 タ よ り 壱 里塚 迄 之 問 六 拾 間 程 之 所 へ持 平 均
坂 之 上 二而 平 地 之 道 筋 凡 六 拾 間 程 を 削 下 ケ、 其 土 を
一右 凡 百 八拾 間 程 之 間 二直 高 拾 五 間 程 之 か うば いを、
レ 緯 も あ る。 こ の 一件 に見 ら れ る よ う に、 正禅 は 京都 市中 に
ら れ た資 金 を 有 益 、 か つ有 効 に活 用 す る方 法 を常 に考 え て
候 様 奉 存 候 。 尤 所 々 二土 留 二大 石 ヲ敷 、永 々車 道 筋
巧 者 に相 談 の結 果 、 峠 を 切 り 下 げ 勾 配 を な だ ら か に す る
牛 が 登 り下 り に難 儀 す ると の情 報 を得 た た め で、 車 屋 中 の
工 法 変 更 の理 由 は、 敷 石 法 にす ると車 の輪 留 め が な く、
御 奉 行 様
享 保 二十 乙卯年 六月
存 候 。尤 地 普 請 取 掛 リ候 節 前 日 御 断 可 奉 申 上 候 。以上 。
安祥院住持
木 食 正 禅
右 之 趣 重 而奉 願 上 候 。御 赦 免 被 為 成 下 候 ハ ・難 有 可 奉
二引 平 均 申 度 奉 願 上候 御 事 。
損 不 申候 様 二仕 候 。 且 又 人馬 道筋 之 高 下 を車 道 同 様
いたのではなかろうか。
な お、 工事 の経 費 、 労 働 力 な ど の具 体 的 な 数 値 に つい て
は 、 記 録 に欠 け 詳 ら か で は な い。
改 修 の準 備 が整 い始 め た 享保 二十 年 (一七 三 五)六 月 、 正
禅 は 次 の よ う な 工法 の変 更 を願 い出 て いる 。
乍恐重而奉願上候御事
一先 達 而 奉 願 上 候 大 津 海 道 日岡 峠 車 道 筋 長延 凡 百 八拾
間 程 之 間、 深 サ 七 、八尺 程 之 低 キ所 江小 石 交 り山 土
二而築 上 ケ、 一面 二大 石 ヲ敷 往 還 並 二引 平 均 地 普 請
仕 度 御 願 奉 申 上候 処、 願 之 通 被 為 仰 付 難 有 奉 存 候 。
一65一
げ 法 は 、約 百 八 十 間 の間 、 直 高 十 五 間 の勾 配 を、 坂 上 の平
﹁峠 の 切 り 下 げ 法﹂ を 用 い る こ と と し て い る。 峠 の切 り下
分 無 御 座 候 。 勿 論 此 儀 二付 金 銀 申 請 候 義 ハ不 勝 手 二
座 候間 、 私 共 居 宅 共 二地 面 御 上 ケ被 下 候 ハ ・少 茂 申
(1
8)
地 約 六十 間 を削 り、 そ の土 を 坂 下 か ら 一里 塚 迄 の約 六十 間
二而も 普 請 二御 取 懸 り 可 被 成 候 。 右 為後 日 之 傍 而 如
印
御 座 候 。此 旨 被 仰 上 御 願 之 通 御 赦 免 被 遊 候 ハ ・何 時
件。
享保廿年卯八月廿六日
安祥院木食正禅
日岡村百性
善
六
の所 へ持 って いく も の で、短 距 離 (
約 百 八十 間 )で急 勾 配 の
坂 を、 なだ ら か で長 い (約 三 百 間) 坂 に し よう と いう も の
で あ る。 確 か に、 着 工前 、 八 パ ー セ ント の勾 配 が 、 切 り 下
げ 後 に は 五 パ ー セ ント と な る計 算 で、 切 り 下 げ が 実 施 さ れ
塚 迄 の間 は 置 土 によ り 路 面 が高 く な る こと か ら、 沿 道 に屋
と ころ が 、 峠 の切 り 下 げ 法 を採 用 す る と、 坂 下 か ら 一里
る。 善 六が 正 禅 に宛 て た 一札 にも 、 ﹁御 大 望 之 義 二而 御 座
正 禅 に協 力 的 で、 条 件 を 提 示 し な が らも 工事 に賛 成 し て い
ど の住 民 と正 禅 と のや り と り を み る と、 沿 道 住 民 は総 じ て
こ の善 六 と の 一件 を は じ め、 沿 道 屋敷 地 を買 い取 る際 な
敷 を 持 つ百 姓 善 六 は、 自 宅 の嵩 上 げ を条 件 に 道路 の置 土 を
候 間 、 私 共 居 宅 共 二地 面 御 上 ケ被 下 候 ハ ・少 茂 申 分 無 御 座
れ ば 、 牛 の負 担 は か なり 軽 減 さ れ る はず であ る。
認 め て いる 。善 六 が 正 禅 に宛 て た 一札 を み て み よ う。
ル十 二 日 二御 見 分 被 遊、 其 節 御 役 人 様 方被 仰 渡 候 趣
地 面 被 上候 二付 、 御 公儀 様 へ先 達 而 御 願 上 有 之 、 去
請 被 成 度 、 依 之 峠 よ り 下 ノ方 一里 塚 ノ前 後 迄 土 ヲ置
一当 所 日 岡 峠車 道 相損 シ候 二付 、 右 車 道 井 人 馬 共 二普
っても な いこ と で、さ ら にそ れ が 公儀 に よ るも の では な く 、
て、 正 禅 の よ う に改 修 に のり 出 す 者 が で てき た こ と は、 願
は な いだ ろ う か。 修 復 し たく ても でき な い住 民 た ち に と っ
民 は 日岡 峠 の破 損 に迷 惑 を被 って い たと ころ が あ った の で
住 民 が正 禅 に信 頼 を寄 せ て い た こと が わ か る 。 加 え て、 住
候 。 勿 論 此 儀 二付 金銀 申 請 候 義 ハ不 勝 手 二御 座 候 ﹂と み え、
ハ、 私 共 表 通り 二土 を置 地面 あ がり 候 而も 不苦 候 哉
民 間 人 の手 に よ るも の であ った こと に、 前 向 き な態 度 を示
一札
と 御 尋 被 遊 候 故 、 私 共 申 上 候 ハ表 通り 地 面 あ が り 候
し た の で あろ う 。
カ て ハ出 入 勇 迷 惑 仕 候 段 申 上 候 。 併 御 大 望 之 義 二而御
一66一
し か し、 同 年 九月 に は、 沿 道 住 民 の反 対 によ り 、 正 禅 は
三度 工 法 の変 更 を 願 い出 て い る。
以上。
享保廿年卯九月四日
間 程 之間 坂 之 上 二而 直 高 十 五 間 程 削 下 ケ、 坂 之 下 よ
候 得 者車 之 輪 留 り 無 御 座 難 義 筋 相 聞 候 二付 、 百 八 拾
仕 度 旨 、 去 寅 十 一月 廿 三 日 御 願 申 上 候 処 、 敷 石 二仕
一山 科 郷 日 岡 峠 車 道 築 上 ケ、 一面 二大 石 を敷 、 地 普 請
面 に大 石 を敷 く の で は な く、輪 通 り に小 石 を 入 れ築 き 上 げ 、
用 し た いと し て いる。 大石 砂 留 め法 は、 敷 石 法 のよ う に 一
止 め、 当 初 の敷 石 法 に改 良 を加 え た ﹁大 石 砂 留 め法﹂ を 採
害 が 訴 え ら れ、 正禅 は 住 民 の意 見 を尊 重 、 峠 の切 り 下 げ を
峠 の切 り 下 げ 法 の検 分 の際 、 沿 道 住 民 から 屋 敷 地 への障
木 食 正 禅
り 一里 塚 迄 右 土 持平 均 申 度 旨 、 重 而 当 六 月 十 一日奉
所 々 に大 石 を敷 く方 法 で、 沿 道 住 宅 への障 害 、牛 の負 担 な
御 奉 行 様
願 、 同 八月 十 二日 御 役 人中 様 御 見 分 之 上 、 村 方 道 筋
ど を 考 え る と、 こ れま で の 二方 法 よ り も は る か に優 れ て い
乍 恐重而御願
之 百 性 共 被 召 出 右 願 二付 相 障 義 も無 之 哉 と 御 尋 被 遊
る 。 そ こ で、 最 終 的 な 工法 を 大 石砂 留 め法 と決 め、 享 保 二
ね 候 処 、 百 性 家 之 表 通 り 削 下 ケ義 、 又 ハ置 土 仕 候 義 両
以 上 、 正禅 が 改 修 を 願 い出 て か ら着 手 す るま で の過 程 を
十 年 (一七 三 五)十 二月 には 、 翌 年 二月 上旬 か ら の着 工 を届
塚 迄 六 十間 程 之 間 土 置 申 度 存 候 へ共 、 是 も 差 止 メ、
み て き た。 着 工 ま で に 一年 を要 し て い るが 、 三 回 にわ た っ
処 共 難 義 之 旨 申 上 候 二付 、 右 願 筋 御 取 上難 被 為 成 旨
先 牛 道 埋 メ候 上 二而 重 而 追 々可 奉 願 候 。 併 輪 通 り 二
て 工法 を変 更 し た こ と、 住 民 と の交 渉 、 奉 行 所 と の折 衝 に
け出 て、 実 際 には 一月 か ら 下準 備 か た が た 工事 に とり か か
大 石 敷 候 義 ハ輪 留 り 無 之、 す べり 候 由 二而 、 輪 通 り
要 す る時 間 を考 え る と、 決 し て長 い時 間 では な いだ ろ う。
被 仰 渡 奉 畏 候 。 依 之 右 御 願 ハ相 止 メ、 去 寅 十 一月 発
に多 ク小 石 入 築 上 ケ、 所 々 二大石 敷 申 度 奉 存 候 。 ケ
正禅 にと って 一年 の準 備 期 間 は 、 住 民 の意 見 を聞 く た め の
って いる。
様 二仕 立 候 得 者 、 村 方 其 外 何 方 へも何 之 差構 も 無 御
重 要 な 時 間 で あ った と い え る。
旦願 上 ケ 候 通 り 二仕 度 重 而 奉 願 候 。 尤 坂下 よ り 一里
座 候 。 右 願 之 通 被 為 仰 付 被 下 候 ハ ・難 有 可 奉存 候 。
一67一
⇒
(
元文 年 間 の 日 岡峠 改修 工事
次 に 着 工後 の経 過 を 追 って い こう 。 正 禅 は十 分 な準 備 段
階 を経 て、 享 保 二十 一年 (一七 三 六 )一月 か ら 工事 に とり か
か って いる 。 そ し て、同 年 三 月 ま で に、往 還 よ り も 八 、九尺
(20 )
低 か った車 道 を 往 還 同 等 の高 さ に埋 め、 さら に は、 坂 下 か
ら 一里 塚迄 の聞 に 置 土 を し た いと 申 し 出 て い る。
奉差 上 口 上書
一日岡 峠 地 普 請 之儀 、先 達 而奉 願 候 通 、車 道 八 、九 尺 ほ
法 の折 衷 工法 に よ った と思 わ れ る。
元 文 元 年 (一七 三 六)十 月 、 道 造 り が 大半 完 成 し た と こ ろ
で、 正 禅 は街 道 周 辺 の施 設 の整 備 に着 手 し て いる。 以 下 、
そ の内 容 を み よう 。
乍 恐 口上 書
一山 科 日岡 車 道 普 請 之義 、 当 春御 届申 上 候 通 、 当 辰 正
月 廿 四 日 より 取 懸 り 過半 出 来 仕 難 有 奉 存 候 。 然 処 二
峠 南 之 方 百 性 八 兵衛 表 通 り 迄 ハ溝 御 座 候 へ共 、 夫 よ
り 下 之 方 拾 三 、四 間 程 ハ溝 無 御 座 候 故 、 高 水 之 瑚 者
迄 之 間 之 所 、 先 達 而置 土 之義 奉 願 候 。 此 義 者 前 通 り
間 五尺 、 奥 行 三 間 五 尺 之 明 地 屋敷 を相 対 を以 拙 僧 方
候 故 、 今 度 同所 南 側 百性 久右 衛 門 所 持 仕 候 表 口拾 四
水 車 道 江流 込 候 二付 、 車 道 ハ不 及 申 往 還 共 堀 損 シ申
之 百 性 共 居 宅 共 二地 形築 上 ケ 呉 候 ハ ・、 何 之 申 分 茂
へ買 請 、 則 表 通り 溝 付 右 溝 を 永 々往 還 江差 出 シ置 申
と埋 メ地 形 海 道 並 二罷 成 申 候 。 且 又 峠 下 より 壱 里 塚
無 之 段 拙 僧 方 へ 一札 差 出 シ申 候 二付 、 百 性 家 共 二築
度奉存候。
一先 達 而 蒙 御 赦 免候 拙 僧休 足場 壱 ケ所 、 此 度 久 右 衛 門
方 より 買 請 候 土 地 へ、 間 尺其 儘 二而引 移 り 、 且 又 峠
由 二付 、 右買 請 候 地 面 之 内 二井 戸 壱 ケ所 堀 、 勿論 永
清水寺領五条坂
安祥院 木 食 正 禅
上 ケ置 土 仕 度 奉 存 候 。 依 之右 之 段 御 断 奉 申 上 候 。 以
上。
享 保 廿 一年 辰 三 月
この よ う に、 置 土 は 、 前 年 八 月 沿 道 住 民 の善 六 と の間 に
々 相 損 シ不 申候 様 二石 井 二仕 、 松 養 水 号、 村 方 ・旅
二井 戸 無 之 山 ノし た たり 斗 を請 来 、 往 来 共 難義 仕 候
交 わ さ れ た 約束 通 り、 住 宅 の嵩 上 げ をも 同 時 に行 う と し て
人 之 呑 水 二仕 度 御 届 申 上 候 。 則 絵 図 二記 奉 差 上候 。
御 奉 行 様
いる。 し た が って、 日 岡 峠 の 修 築 は 、 大 石 砂 留 め法 と置 土
.:
惣 代 別 紙 書 付 出 之 申 候 二付 、 右 普 請 之刻 石水 坂 之 辺
二者 人 馬 共 別 而 難 義 仕 候 由 二而、 諸 方 之牛 馬 持 之 為
四 足 立 不 申 、 其 上 同 所 東 方 土橋 不時 成 踏 抜 キ 、 闇 夜
一蹴 揚 石 水 坂 寒 中 二至 而 ハ土岩 な め ら 二罷 成 、 牛 馬 之
の日 岡 村 の項 目 に、 コ 、 石 橋 、 長 壱 間 四 尺 、 横 三 間 五 尺﹂
橋 に つ い ても 同 様 に判 然 とし な いが、 ﹃東 海 道宿 村 大概 帳 ﹄
た り 、 九 体 町 付 近 で は な いか と 思 わ れ る。 架 け替 えら れ た
石 水 坂 の位 置 は 判 然 と し な いが 、 お そ ら く蹴 上 の清 水 前 あ
土 橋 を 石 橋 に架 け 替 え る こと を 上 申 し て いる。 現 在 で は、
ボ 百 五 拾 間 程 之 間 、 土 岩 共 切 平 均 遣 シ、 土橋 を 石橋 二
て い る。
七 月 と 八 月 には 、 休 息 小 屋 の改 良 工事 お よび 増 築 を願 い出
ま のか た ち で移 築 さ れ た。 そ し て、 翌 元文 二年 (一七 三 七)
休 息 所 は 、 五 年 の期 限 付 き で設 置 が許 可 さ れ、 以 前 のま
致 シ替 遣 し 度 、 此 段 奉 伺 候 。 乍 恐被 為 聞 召届 被 下候
と あ り 、 これ を こ の時 正 禅 が 架 け 替 え た 橋 とす る説 も あ
(
22)
る。
ハ ・、 重 々難 有 可 奉 存 候 。 以 上 。
清水寺領五条坂
安祥院
木 食 正 禅
元 文 元 年辰 十 月 十 日
御 奉 行 様
(
絵図略)
前 年 道 路 工事 用 に設 け た休 息所 を 移 築 し、 ま た松 養 水 と称
止 策 を講 じ た の で あ る。 そ し て、 買 い受 け た土 地 内 に は、
表 通 り に溝 を設 け た いと し て い る。 雨 に よ る道 路 破 損 の防
の で は な いだ ろう か。 元 文 三年 (一七三 八 ) 十 一月 には 竣
は、 大 き な問 題 も な く 工 事 が進 め ら れ たも の と考 え てよ い
来 、 峠 下 か ら 一里 塚間 の修築 法 に関 し て変 更 が あ った ほ か
いほ ど記 録 が な い。 享 保 二十 一年 (一七三 六 )一月 に着 工以
こ の間 、 道普 請 の進 行 状 況 に つ いて は、 全 く と い ってよ
す る井 戸 を設 け て、 村 方 や旅 人 に飲 料 水 と し て提 供 し た い
工、 実 地 の検 分 を上 申 し て いる。 こう し て、 約 三 年 にわ た
ま ず 、正 禅 は 街 道 に面 し た久 右 衛 門 の所 持 地 を 買 い受 け 、
と 申 し出 て い る。 口上 書 に添 え ら れ た 絵 図 によ る と、 溝 は
る街 道 の改 修 工事 は完 了 し た が、 人 馬 道 と 車 道 の区 別 を 明
(23 )
幅 二尺 、 松 養 水 は高 さ 二 尺、 差 し渡 し 三 尺 三 寸 の石 井 で、
示 す る た め、 石 標 四 基 の建 立 を願 い出 て い る。
乍恐奉願候
休 息 小 屋 の他 に石 置 き場 が あ る 。
さ ら に、 正 禅 は、 蹴 上 石 水 坂 の約 百 五 十 間 の道普 請 と 、
一69一
一大津 海 道 目 岡 峠 地 普 請 出 来 仕 候 二付 、 往 古 之 通人 馬
井 車 引 通 道 筋 相 分 り 申 候 様 二被 仰 付 被 下 候 上、 石杭
二御 書 付 左 之 通 奉 願 上 候 。 尤 石 杭 四本 拙 僧 方 よ り持
清水寺領五条坂
安祥院
木 食 正 禅
差 上 ケ 可 申 候 間 、 乍 恐 御 書 付 被 仰 付 被 下 候 様 二奉 願
上候。以上。
元文 三 年 午 十 一月
御 奉 行 様
峠坂之上二
是 よ り 右 の か た牛 車 引 通 し道
同所二
是 よ り 左 のか た人 馬 往 還 道
峠坂之下
是 よ り 左 の か た牛 車 引 通 し 道
同所二
是 よ り 右 の か た人 馬 往 還 道
石 標 は 、 峠 坂 の上 に 二基 、 坂 の下 に 二基 を 建 立 し た いと
と岡 川 に架 け ら れ た石 橋 付 近 に 二基 ず つ建 てら れ た の では
な いだ ろ う か 。
石 標 四 基 は、 人馬 道 と車 道 の位 置 関 係 を知 る上 に お い て
重要 で あ る。 石 標 に記 さ れ た ﹁右﹂ ﹁左 ﹂ は 、 京 都 側 ま た
は 大津 側 のど ち ら か ら み る べき で あ ろう か。 正 禅 の 工事 区
間 が 、 日 岡 峠 の急 坂 であ った こと を考 え れば 、 こ れら の石
標 は いず れ も 、 坂 を 通 行 す る人 々 の た め のも の と いう こと
が でき る。 し たが って、 坂 の 上 の 二基 は、 峠 を下 る人 々 の
た め のも の、 す な わ ち 京都 側 か ら大 津 側 へ向 う 人 々 の た め
のも ので あ り 、 坂 の下 の 二基 は、 坂 を登 る人 々 の た め のも
の、 す な わ ち 大 津 側 か ら 京 都 側 へ向 う人 々 の た め に設 置 し
た も のと 考 え ら れ る。 ゆ え に、 日岡 峠 に お い て は、 車 道 は
京 都 へ向 って左 側 に、 人馬 道 は 右側 に位 置 し て い たと いう
川 か ら 一里 塚 迄 付 近 を指 し て い る と思 わ れ る。 一般 的 に日
のち の梅 香 庵 あ た り を指 す も の と思 わ れ、 坂 の下 と は、 岡
足数 、 経 費 な ど の記 録 が な いの は残 念 で あ るが 、 正禅 が手
細 な 内 容 、 例 えば 使 用 し た 土砂 の量 、 敷 石 の数 、 間 隔 、 人
以 上 、 正 禅 の改 修 着 工後 の経 過 を追 って き た。 工事 の詳
こと にな ろ う 。
岡 峠 と いえば 、 梅 香 庵 付 近 を指 し、 ﹃東 海 道 分 間 延 絵 図﹄
懸 け た 仕 事 の範 囲 は 明確 で あ る。
し て い る。 こ こ で いう 坂 の上 と は 、正 禅 が 建 立 し た休 息 所 、
を み て も、 岡 川 か ら 梅 香 庵 に至 る道 筋 が 急 坂 で あ る こと が
わ か る 。 正禅 が 着 工 前 に示 し た峠 の切 り 下 げ 法 と同 様 の 位
置 関 係 で、 石 標 の設 置 に あ た った と思 わ れ る。 梅 香 庵付 近
一70一
日岡峠 の保全 と渋 谷街 道の改修
正 禅 は、 改 修 工事 終 了 後 も 街 道 の永 代 管 理 を 約 束 し 、 保
全 ・維 持 に あ た って い る。 道 普 請 完 成 直 後 には 、 工 事 のた
め に置 い た休 息 所 を本 格 的 街 道 施 設 と す る 旨 を 申 し 出 て い
る。
乍 恐奉 願 上 候 口上 書
有 仕 合 可奉 存 候 。尤 小 庵 跡 地 之 儀 者 村 並 之 俗 家 地 二
被 仰 付 被 下 候 様 二是 又奉 願 上 候 。 以 上 。
安祥院住持
願主 木 食 正 禅
元 文 三年 午 十 一月
御 奉 行 様
正 禅 は、 道 路 改 修 中 から 後 々 の街 道 管 理 のた め の小 屋 の
設 置 を 計 画 し て い た の で あろ う か 。 竣 工時 には す で に葛 野
郡 梅 ケ畑 の至 芳 庵 を譲 り 受 け て い る。 こ の至 芳 庵 を 日岡 峠
話 仕 候 様 二申 付 置 、 拙 僧 義 も 折 々罷 越 、 道 筋 少 々損
損 シ候 所 修 覆 難 心得 奉 存 候 。 当分 ハ弟 子 共 差 遣 置 世
者 右 道 筋 修 覆 之 儀 者如 何 様 共 可 仕 候 得 土ハ
、 至後 々 二
所 江、 右 之 小 庵 引 移 シ申 度 奉 願 上 候 。 拙 僧 存命 之 内
此 小 庵 日岡 峠 道 普 請 中 御 免 被 成 下 候小 屋 建 有 之 候 此
り 先 達 而拙 僧 江譲 り 請 申 候 二付 、兼 帯 庵 二仕 罷 有 候 。
庵 与 申 庵 地 献栖既醐戦尺 年 貢 地 之小 庵 二而 同 村 庵 主 よ
一山 城 国 葛 野 郡 梅 ケ畑 広 芝 二在 之 候 無 本 寺 浄 土 宗 至 芳
殊 之 外 難 儀 仕 候 。 小 庵 引 移 置 道 心 者 壱 人 指 置 往来 之仁 休 ミ
外 共 無 心 許 奉 存 、 明 キ小 屋 二而 番 人 付 置 候 様 仕 候 得 者拙 僧
月 の願 書 に は、 ﹁五 ケ年 之 内 小 屋 損 置 候 而 ハ海 道筋 非 常 其
小 庵 の引 き 移 し を願 い出 て い る。 元 文 三 年 (一七三 八)十 二
め た いと いう 正 禅 の熱 意 は強 く 、そ の後 も 数 回 にわ た って、
所 は 難 色 を 示 し た よう で あ る。 そ れ でも 、街 道 の保 全 に努
交 わ さ れ て おり 、 永 代 にわ た る小 庵 の設 置 に つ いて、 奉 行
設 置 に つ い て は、 五年 間 限 り と いう 約 束 が 奉 行所 と の間 に
と いう 願 い で あ ったが 、 元 文 元 年 (一七 三 六)に休 息小 屋 の
へ引 移 し、 庵 主 を置 い て街 道 の管 理 や修 繕 にあ た ら せ た い
シ候 所 々有 之 節 者 繕 直 シ、 永 々右 場 所 不損 様 二仕 度
所 二仕 、 少 々之 散 物 二而 茂 有 之 候 様 仕 度 候 。 其 助 力 を 以、
(中 略 )
候 二付 、 安 祥 院 より 庵 守 指 置 小 破 之 内 二世 話 仕 候 様
車 道 若 自 今 小 破 之 所 出 来 候 節 ハ取 繕 候 様 永 々申 付候 得 者、
ム 二仕 度 奉 存 候 間 、 右 之 段 乍 恐被 為 聞 召 分 、 小 庵 引 移
先達而大普請仕置候所茂 いつ迄茂牛車 之口ロ ニ可相成与奉
之 儀 奉 願 上 候 通 御 許 容 被 為 仰 付 被 下 候 ハ ・、 重 々難
一71一
C
改 申 度 是 又 奉 願 候 。 水 神 有 之 与 存 候 者 不浄 二相 成 間
候 。 井 松 養 水 与申 称 号 唱 悪 敷 御 座 候 二付 、 量救 水 と
見 世 棚 造之 、 弁 天 之 小 宮 岩 組 之 上 へ載 セ置 申 度 奉 願
て 、 街 道 往 来 のた め の施 設 と し て機 能 さ せ よ う と し て いる
存 候 故、 小 庵 引 移 シ御 願 申 上 候 ﹂ と み え、 小 庵 を引 き移 し
こ と が わ か る 。 結 局 、 正 禅 の願 い は聞 き 入 れ ら れ、 元文 五
阿
敷 奉 存 候 二付 、 御 慈 悲 二願 之 通 被 為 仰付 可被 下 者難
有可奉存候。以上。
五条坂安祥院
養
年 (一七 四 〇)五 月 に は、至芳 庵 の移 築 に とり か か って い る 。
以 後 、 庵 は安 祥 院 の兼 帯 所 と し て 庵 主 が置 か れ、 道 路 営
寛延弐年巳八月
梅 香 庵 の井 戸 は、 以 前 より 飲 料 水 とし て提 供 さ れ て き た
御 奉 行 様
繕 の みを 目 的 とす るも の で は な く、 村 人 や旅 人 な ど街 道 使
用 者 の便 宜 を は か る た め の施 設 と し て、 日 岡 峠 の核 と な っ
が 、 不特 定 多 数 の人 が 利 用 す る に は不 衛 生 な た め、 亀 ノロ
て いる 。 延 享 三 年 (一七 四 六 )に は、 庵号 を 梅香 庵 と 改 め 、
寛 延 二年 (一七 四 九 )に は、 接 待 所 と し て充 実 さ せる た め 、
型 に修 築 し た いと し て い る。 井 戸 の名 称 も 、松 養 水 から 量
石 井 筒 二而松 養 水 と唱 来 村 方 旅 人 之 呑 水 二持 置 、 全
一当 寺 兼 帯 所 山 科 郷 日岡 村 梅 香 庵 持 添 地 二井 戸 有 之 、
清 水 が滴 って いる。 こ の よう に、 正 禅 の尽 力 によ り 梅 香 庵
庵 跡 が 亀 ノ水 不 動 と し て残 さ れ て おり 、 亀 の口 か ら は 今 も
子 が う か が わ れ る。 現 在 、 山 科 区 日 ノ岡 坂 脇 町 には 、梅 香
燐 於 煙改 め・ 水 神 を祀 る など 清 浄 な井 戸 作 り に苦 慮 し た様
り よう
井 戸 の改 善 を願 い出 て い る。
ク人 之 助 二堀 候 井 戸 二御 座 候 得 共 、 非 人 共 不 浄 成 器
は 街 道 管 理 の拠 点 と し て、 ま た接 待 所 と し て重 要 な 役 割 を
乍 恐 奉 願 口上 書
物 を 涌 出 候 井 之 中 江直 二差 入 汲 取 申 候 。 往 還 之 義 二
担 い、 正 禅 の願 望 通 り 正禅 没後 も存 続 し て い る。
を す へ、 石 之 中 へ水 取 、 亀 ノ ロ より 井 ノ内 江水 落 候
よ り 涌 上 り候 様 二仕 置 候 処 、 不 浄 除 之 為 亀 之 形 之 石
候 。 此水 只 今 迄 ハ岸 よ り 覧 二而 水 取 土 中 江落 シ、 夫
事 業 を み る限 り 改 修 の対 象 は溝 や橋 、 休 息 所 や水 飲 み場 と
は、 と か く車 道 の問 題 に目 を 奪 わ れ が ち だ が、 正 禅 の改 修
の維 持 ・管 理 を ひと 通 り み てき た 。 日岡 峠 の改 修 に関 し て
こ こま で、 正 禅 によ って行 わ れ た 日岡 峠 の改 修 とそ の後
め 付 御 歴 々之 呑水 二茂 相 成 候 処 、 不 浄 二仕 気 毒 二奉 存
様 仕 、 井 戸 之 上 方 岸 際 江 不 断 仏 前 二指 置 候 八 寸 四 方
一72一
南 之 方 東 本 願 寺 御 領山 、 北 之 方 清 閑 寺 領 山 二而 御 座
願 二御 座 候 得 者 、 東 西 南 北 共 二卿 二而茂 難 儀 之 筋 無
い った 街 道 施 設 全 般 に及 ん で い る。 こ れ は注 目 す べ き こと
ま た 、正 禅 は 日 岡 峠 の改 修 の経 験 を生 か し、延 享 四年 (一
之 様 二仕 置 度 奉 願 上 候 。 右 之願 望 二御 座 候 得 者 、 急
候 。 右南 北 共 相 対 仕如 何様 共 申 請 、 土砂 山 崩 等 無 御
七 四 七) に渋 谷 街 道 に お いて峠 の 切り 下 げ 工事 を行 って い
度 仕 様 を 相 極 メ、 唯 今 御願 難 申 上奉 存 候 。 御 赦 免 被
で 、 便 利 か つ安 全 な街 道 づ くり は、 利 用 者 や地 域 に と って
る 。 こ こ でも 正 禅 は 日岡 峠 の 改修 と 同様 の手 順 を ふん で い
成 下 候 者 其 所 々 二応 シ随 分 宜 様 二仕度 奉存 候 。 何 卒
座 候 様 二切 開 キ、 往来 坂 之所 切 平 均 、 牛 馬 苦 痛 無 之
る。 渋 谷 街 道 改 修 の経 過 を追 って み よ う。 渋 谷 街 道 は 、 東
右 場 所 普 請 之 儀 御 赦 免 被 成 下 候 者、 片 側宛 取 掛 り 普
最 重 要 事 項 で あり 、 正 禅 に よ る街 道 施 設 の改 善 と街 道 管 理
海 道 の山 科 五条 別 れ か ら清 閑 寺 を越 え て馬 町 へと 至 る道 筋
請 中 往 来 指 支 無 之 様 可 仕 候 。 此 段被 為 聞 召 届 御 赦 免
様 仕 度 奉 存 候 。 元 来牛 馬 往 来 共 難 儀 無 之 様 二と の心
で あ るが 、 日岡 峠 同 様 、 破 損 が 激 し く、 正 禅 は 延 享 三 年 一
によ り 、 治 安 が 向 上 し た こ と は間 違 いな いで あ ろ う 。
月 、 次 の よう な願 書 を 奉行 所 へ提 出 し て い る。
延 享 三年 寅 正 月
被成下候者難有可奉存候。以上。
清水寺領五条坂安祥院住持
木 食 養 阿
乍 恐奉 願 口 上書
茂 す べり 候 而荷 物 を 捨 難 儀 仕 候 体 近 年 及 見 候 而、 何
二者道 氷 候 而 牛 馬 往 来 二怪 我 仕 、 勿 論 往 来 之 荷 物 等
連 之義 二山 科 渋 谷 海 道 筋 道 悪 敷 坂 御 座 候 二付 、 寒 中
被 成 下 出 来 仕 、 牛 馬 之 働 能 ク 罷 成 偏 二難 有 奉 存 候 。
か ﹁毎 度 恐多 ク是 迄 見合 罷 在 候 ﹂ と あ る。 し か し、 願 書 提
も 早 い着 工 を望 ん で いた よう で あ るが 、 公儀 への遠 慮 か ら
る。 正 禅 は、 牛 馬 の苦 痛 を少 し でも 軽 減 さ せ るた め 、 一日
発 起 の理 由 は、 牛 馬 の苦 労 し て い る姿 を 見 か ね た た め で あ
こ の願 書 に み ら れ る よ う に、 渋 谷 街 道 にお いて も、 改修
御 奉 行 様
と そ 往 来 危 ク無 御 座 候 様 二仕 度 心願 二而罷 在 候 得
出 以前 より 準 備 は 進 め ており 、 延 享 二年 (一七 四 五)十 二月
一私 儀 先 年 奉願 候 山 科 日 岡 峠 切 下 ケ申 度 義 奉 願 御 赦 免
共 、 御 願 申 上 候 儀 毎 度 恐多 ク是 迄 見 合 罷 在 候 。 此度
に は清 閑 寺 へ伺 いを た て了 承 を得 て いる。 こ の よう な地 域
れ 右 海 道筋 難 所 之 所 内 見 仕 候 処 、凡 長 五 拾 間 余 御 座 候 。
一73一
や周 辺 住 民 への配 慮 も 、 日 岡 峠 の場 合 同 様 、 念 入 り
に行 って いる 。
野 村 与 一兵 衛 殿
之 方 清 閑 寺 持 山 裾 通 リ、 東 西 凡 長 五拾 間 余 之内 、 狭
一山 科 海 道 渋 谷 峠 牛 馬 為 助 ケ有 来 道 幅 南 北 弐 問 余 、 北
﹁海 道 筋 宜 相 成 候 義 二御 座候 ヘ ハ願 之 通被 仰 付 被 下 候 様 二
寺 領 山 周 辺 の住 民 が 改 修 に賛 成 の意 を示 し たも の であ る。
これ は 、 延 享 三 年 (一七四 六 )、 実 地 の検 分 の際 、 東 本 願
年 寄
庄左衛門
所 者 道 幅 弐 間 余 二切 広 ケ道 造 り 申 度 旨 、 五 条 坂安 祥
於 私 共 も 奉 願 候﹂ と あ る よ う に、 渋 谷 街 道 に お い ても 人 々
塩 津 又十郎 殿
院 御 願 被 申 上 候 二付 、 今 日右 場 所 為 御 見分 御 出 、 私
は 改 良 工 事 を 待 ち 望 ん で いた に ち が い な い。 日岡 峠 改 修 の
指 上申 口 上書
共 地 境 二付 御 呼 出 シ、 右 願 之 通被 仰 付 候 而も 指構 無
経 験 も あ ってか 、 渋 谷街 道 の改 修 に あ た って は、 奉 行 所 と
道 は 特 別 に設 け ら れ て お らず 、 そ し て住 民 の反 対 も な か っ
下 げ る ﹁峠 の 切り 下 げ 法 ﹂ を用 い て い る。 渋 谷 街 道 では車
(28 )
いと ころ 、 長 さ 約 五 十間 に わ た って切 り 開 げ 、 高 さ を切 り
り普 請 にと り か か って い る。 工法 と し て は、 峠 の道 幅 の狭
行 所 の許 可 が おり、 翌延 享 四年 (一七 四 七 )一月 二十 一日 よ
と 返 答 、 事 な き を 得 て い る。 こ の よう に し て、 同 年 九 月 奉
も 御 公儀 之 御 威 光 をかり 勧化 等 申 立候 儀 二而 ハ無 御 座 候 ﹂
り が あ り 、 正 禅 は ﹁自 力 を 以仕 度 心願 二御 座 候 得 者 柳 二而
之施 入 を 以 ﹂ の解釈 を め ぐ って奉 行 所 と の あ いだ にや り と
って い る 。 た だ 経費 に つい て は、日 岡 峠 の場 合 同 様 、コ 鉢
の 折 衝 、 住 民 と の や り とり な ど、 短 期 間 で円 滑 に準 備 が 整
之哉与御尋被成候。右造り安祥院 願之通被仰付候義
二付 、東本 願 寺 持 山 地 境 私 共 何 之 指 構 毛 頭 無 御 座 候 。
海 道 筋 宜 相 成 候 義 二御 座 候 ヘ ハ願 之 通 被 仰 付 被 下 候
様 二於 私 共 も 奉 願 候 。 以 上 。
延 享 三年 寅 六月 廿 九 日
東本願寺山役人
猪 田 五 兵 衛
山科郷清閑寺村庄屋
与次兵衛
年 寄
甚右衛門
同上花山村庄屋
藤 右衛門
年 寄
清 左衛 門
同北花山村庄屋
六左衛門
一74一
は 、 道 切 り 開 き に伴 い 土砂 崩 れ の 恐 れ を 心配 し た 北花 山 村
た か ら で あ ろう か、 峠 の切 り 下 げ 法 を採 った。 同 年 四 月 に
いる。 こ の場 合 も、 住 民 の安 全 を考 え、 山 崩 れが あ った 際
ど を 聞 き 入 れ 、 利 用 す る人 にと って よ り よ い方 法 を採 って
正 禅 は 、 日 岡 峠 の改 修 も そ う で あ った が、 住 民 の意 見 な
負 う と ころ に、 正禅 の改 修 に対 す る熱 意 が 現 わ れ て い るよ
の復 旧 工事 を も 約束 し て いる。 改 修 竣 工後 の管 理 責 任 ま で
の 庄 屋 ・年 寄 に次 の よ う な 一札 を差 し出 し て いる 。
一札
一当 所 渋 谷 道 普 請 之 儀 、 去 正 月 十 八 日 二御 公儀 様 江 奉
こ の よ う に、 渋 谷 街 道 の改 修 は、 日岡 峠 の経 験 を 生 か し
う に思 わ れ る。 工事 は 、 同 年 八月 完 成 し て い る。
願 場 所 取 掛 り 申 候 。 然 ル所 道筋 切開 キ 申候 二付 、 岩
た と思 わ れ る と こ ろ が多 く、 ま た 日岡 峠 改 修 の実 績 か ら 、
願候処、御吟味之上奉蒙御赦免、依 之当正月より右
石 土 砂 共 清 閑 寺 山 之 内 江引 平 均 申 候 。 将 又 同 所 山 す
周 囲 の 理解 も得 や す か った の で は な いだ ろう か。
既 述 の と おり 、 正 禅 に よ る 日岡 峠 の改 修 は車 道 を 中 心 に
車 道と車 石に関す る考察
之 者 江対 談 仕 候 処 、 後 日 二ぬけ出 崩 申儀 、 曾 而 無 御
行 わ れ た。 こ こ で は 、車 道 の問 題 に つ い て検 討 を 加 え よ う 。
一
一75一
そ 二而 石 垣 仕 候 而段 々 土砂 共 此所 江 取 入 申 候 二付 、
末 々 二至 り 右 石 垣 くす れ 土砂 共 谷 江相 流 可 申与 御 気
座 申 段 請 合 候 故 、 弥 相 続 セ申 候 。 乍 恐 末 々 二至 り 少
京 津 街 道 に お け る車 道 の起 源 に つい て は諸 説 が 唱 え ら れ
遣 二思 召 候 段 、 御 尤 千 万 存 候 。併 、 其 段 と く と 石 方
二而茂 く す れ候 ハ ・拙 院 より 早 々相 直 シ可 申 候 。 此
て おり 、 ﹃山 科 郷 竹 ケ鼻 村 史 ﹄ には 、 宝 永 三 年 (一七〇 六 )
れ て いる こと な ど か ら 、車 道 の起 源 は元 禄 以 前 と し て い る。
む 年 (一六 九 五)十 月 調 製 の土 地 台帳 図 にす で に車 道 が記 録 さ
句 に ﹁あ ふ坂 や花 の梢 の車 道﹂ が あ る こと、 お よ び元 禄 八
し か し 、 ﹃胴齢日本 土木 史 ﹄ では 、 元 禄 期 の俳 人 川 井 智 月 の
旨 御 届 被 下 候 者弥 以安 心 可 仕候 。 為 後 日 之 価 而 一札
清水寺領五条坂
安祥 院
木 食 養 阿
十 一月 か ら 翌 年 三 月 にか け て つく ら れ た と記 さ れ て い る。
御年寄庄左衛門殿
御庄屋 六左衛門殿
延享 四年卯 四月
如 件。
(四)
道 な ど には 車 道 が 造 ら れ て、 盛 ん に そ の材 料 運搬 が行 わ れ
し た が 、 こ の復 興 事 業 の た め、 京街 道、 竹 出 街 道、 大 津 街
町 を 、 十 六 世 紀 後 半 に な って織 田 信 長、 豊臣 秀 吉 ら が 復 興
ま た、 小 林 茂 氏 は、 応 仁 の乱 によ って焦 土 と 化 し た 京 都 の
禅 の改 修 に着 目 し、 車 石 が 使 用 さ れ て いた か否 か確 認 し て
り 車 石 が 敷 設 さ れ たと の説 も 唱 え ら れ て いる。 今 一度 、 正
いう と車 石 に よ る舗 装 と理 解 し て いる 例 も多 く、 正 禅 に よ
も の と の 理解 に よ る誤 り であ る。 そ のた め、 車 道 の改 修 と
を し な い ま ま、 漠 然 と車 道 と いえ ば車 石 が敷 設 さ れ て いる
書 ﹄ 成 立 以 前 にさ か の ぼ る起 源 に つい て は明 ら か で な い。
の 十 六世 紀 末 には 車 道 の存 在 が わ か る。 し か し、 ﹃日葡 辞
始 、 慶 長 八 年 (一六 〇 三 )に刊 行 さ れ て おり 、 同 辞 書 作 成 時
書 ﹄ は、 日本 イ エズ ス会 に より 天 正 九 年 (一五 八 一)作 成 開
げ ら れ る。 同 辞 書 で は 車 海 道 ・車 路 の見 出 し語 を車 の通
ま る 道 と 語 釈 し て おり 、 車 道 の存 在 が認 め ら れ る。 ﹃日 葡 辞
いう 用 語 の初 見 史 料 と 思 わ れ る も の に、 ﹃日葡 辞 書 ﹄ が あ
の と おり 、 当時 、 車 道 に お い て は行 き 違 い通 行 が 慣 行 さ れ
場 所 が あ る た め、 道 幅 の拡 張 を願 い出 て い る。 これ は 既 述
が、 そ の際 、 往 還 が狭 く車 が 二両 行 き 違 う こと が でき な い
よ り 車 道 が 通 行 止 め の間、 往 還 に車 を 通す こ とと し て い る
土 道 で あ った と 思 わ れ る 。 ま た、 仕 様 書 に よ れば 、 工事 に
う こと であ るか ら、 路 面 は敷 石 な ど で覆 わ れ る こ と なく 、
さ 七、八 尺 程 の窪 地 が 生 じ て、 雨 天 時 に は泥 檸 と な る と い
奉 行 所 へ提 出 し た願 書 およ び 仕 様書 か ら、 改 修 以 前 の車 道
正 禅 が 、享 保 十 九 年 (一七三 四 )、日 岡 峠 の改 修 を 発 願 し 、
た 、 と さ れ て い る。 小 林 氏 の説 に従 えば 、 車 道 の 起 源 は 安
、こう 。
し
お 土 桃 山 時 代 と いう こ と に な る が、 確 証 は 示 さ れ て いな い。
江戸 時 代 にお い ては 、 往 還 と は別 に設 けら れ た牛 車 の た
こ のよ う に、 車 道 の起 源 に つ いて は諸 説 あ る が、 車 道 と
め の専 用 道 を 、車 道 ま た は 牛 道 と称 し て い る。 そ れ は、﹃東
て いた こと を 示 し て い る。 車 石 が 敷 設 さ れ た 道 は 、単 線 (二
の状 況 を 窺 い知 る こと が でき る。 正禅 に よ れば 、 車 道 は深
海 道 分 間 延 絵 図 ﹄ や ﹁三 条 海 道 筋 山 科 郷 鹿 絵 図 ﹂ に より 明
本 の軌 道 ) で あ る と さ れ て い る こと か ら 、 行 き違 い通行 は
お くるま じ
ら か で あ る。 と ころ が 、 幕 末 およ び 明 治 期 に お け る車 道 に
難 し く、 正禅 が改 修 に着 手 す る以 前 の車 道 に は、 車 石 が敷
くるま かいどう
は、 車 石 が敷 設 さ れ て い る こと から 、 車 石 の敷 設 さ れ た道
設 さ れ て いな か った と いう こと が でき よ う。
を車 道 と す る 誤 った 理 解 が 生 じ て い る。 これ は 厳 密 な検 討
76
更 さ れ た た め 実 際 には 用 いら れな か ったが 、 着 工時 に敷 石
畳 舗 装 と いう こと が でき る。 こ の敷 石 法 は、 後 に 工法 が変
石 法 は 石 によ る 舗 装 であ り 、 大 石 を 一面 に敷 く こ と か ら石
し、 そ の 上 に大 石 を 敷 く ﹁敷 石 法 ﹂ を と り あげ て い る。 敷
よ う。 改 修発 願 当 初 、 正 禅 は 、 窪 地 に小 石 を 入 れ路 面 を均
次 に、 正禅 が 考 案 し た 工 法 か ら 車 石 使 用 の有 無 を み て み
に み え る ﹁輪 通 り ﹂ を、 車 石 の敷 設 さ れ た 軌 道 と解 釈 で き
用 い て おり 、 車 石 の使 用 は認 めら れ な い。 し か し、 願 書 中
と あ る よう に、 輪 通り に小 石 を 入 れ 輪 留 め を 設 け る 工法 を
二而 輪 通り に多 ク小 石 入築 上 ケ所 々 二大 石 敷 申 度 奉 存 候 ﹂
を み ても 、 ﹁輪 通 り 二大 石 敷候 義 ハ輪 留 り 無 之 す べり 候 由
は ず であ る。 ま た、 実 際 に採 ら れ た 工 法 ﹁大 石砂 留 め法 ﹂
か た ち で触 れ て い る はず であ り、 自 身 で も取 り 入 れ て い る
が 、 車 石 が 敷 設 さ れ て いな け れば 、 対 向 車 が あ っても 随 時
ず れ る こと は 容 易 では なく 、 す れ 違 う こ と は 無 理 であ る
であ ろ う 。 車 石 が敷 設 さ れ て い れば 、 車 が そ の軌 道 か ら は
ほ ぼ 決 めら れ た車 輪 の 通り 道 を、 正 禅 は 輪 通 り と 称 し た の
で通 行 す る た め、 ほ ぼ統 一さ れ た轍 が 二本 刻 ま れ る 。 この
道 のほ ぼ 中 央 、 或 い は最 も 路 面 の状 態 のよ いと ころ を 選 ん
めら れ た車 線 が あ る訳 でも な い車 道 にお いて は 、 ど の車 も
法 が とり あ げ ら れ た と いう こと は、 そ れ以 前 に車 石 は存 在
レ
行 き 違 い が可 能 で あ る。 正 禅 が 着 工以 前 に、 工事 中 の車 の
行 き違 い通行 を願 い出 て いる こ と から も 、 輪 通 り と は車 石
の使 用 を示 し た も の で は な いと 理由 づ け ら れ る。
こ の よ う に、 正 禅 の改 修 に関 す る記 録 から は、 車 石 の使
一77
な く も な い。 が 、 正 禅 の いう ﹁輪 通 り﹂ と は、 車 に よ って
ぎ
、
ガ モ
、、㌻
上 は 『明治以前 日本土木史』掲載 の逢坂 山車石発掘現場
真。下 は滋 賀県立 図書館前 に仮復元 された車石 であるが
その配列、車幅 などについ ては若干 の問題が ある。
し て い な か った と いう こと にな る。 つま り 、 正 禅 が改 修 を
曲
ギ
着 ギ聖
漏 、
謬難
磯農鵬
晶
君
耗動
‡
諾
翠
欝 饗i騨 ㌶ 鐸"
地 面 に刻 ま れ た轍 の部 分 を指 し て いる と 思 わ れ る 。特 に決
翻71轟
伽
魏響
灘鐸擁魂̀
伸
灘鰍 ・ ・
行 う 以 前 か ら車 石 が 存 在 し て いた な ら ば 、 正 禅 は何 ら か の
・
.
^
写 、
・∴鳳 ∵』一 噛
\
の 改 修 過 程 を 見 る に、 車 石 敷 設 の根 拠 と な るも の は何 ら存
事 の最 初 であ る こと は ほ ぼ間 違 い な い。 こ の よ う に、 正禅
七 三 六 ) の正 禅 に よ る改 修 が、 日岡 峠 車 道 にお け る舗 装 工
用 いら れ な か った と の見 方 が なり た つ。 た だ 、元文 元年 二
用 を 明 示 す る も のは な く 、 正 禅 の改 修 に お い て は、 車 石 は
た車 石 に つ いても 文 化 二年 に敷 設 さ れた も のと報 告 書 は伝
逢 坂山 に お いて車 石 の発 掘 調 査 が 行 わ れ 、 こ の時 発 掘 さ れ
が 使 用 さ れ た 可 能性 が高 い。 ま た、昭 和 六 年 (一九 三 一)に、
と 解 釈 す る のは 不 可 能 で は な く、 文 化 二年 の改 修 で は車 石
工事 記 録 に は ﹁車 輪 通 石﹂ の 記 述 が 見 ら れ る。 こ れ を車 石
以 後 の大 規 模 工事 に は、文 化 二年 (一八 〇 五 )の改 修 が あ り 、
で は、 車 石 の起 源 は い つで あ ろ う か 。 京 津 街 道 の車 石 に
文 化 二年 のも の であ る と 紹介 さ れ、 通説 化 し つ つあ る。 厳
は旧 街 道 沿 い に て発 見 さ れ る車 石 に つ いて、 案 内 板 等 で は
(40 )
在 せず 、 日 岡 峠 の車 石 は 正 禅 の改 修 以 降 の敷 設 と いう こ と
え て い る が、 こ れも 確 証 は な い。 にも か か わ らず 、 現 在 で
つ い て は、 文 化 二年 (一八 〇 五 )の改 修 で 、 京 都 三 条 大 橋 ∼
密 な車 石 起 源 に つ いて の実 証 的 研 究 が急 が れ な け れ ば な る
(41 )
が で き る。
大 津 札 ノ辻 間 に敷 設 さ れ た こ と が 一部 で説 か れ て いる が 、
ま い。
以前 を 起 源 と す る根 拠 と し て、 前 掲 ﹁あ ふ坂 や花 の 梢 の車
ら、 元 禄 以 前 に起 源 が あ る と は考 え難 い。水 谷 氏 は、 元 禄
一年 か ら の正 禅 の改 修 に は車 石 が 使 用 さ れ て いな い こと か
き で は な か ろ う か、 と述 べ てお ら れ る。 し か し、 享 保 二十
起 源 は 元 禄 以 前 にあ って、 こ の時 期 に補 修 さ れ た と み る べ
て水 谷 清 三 氏 は 、 文 化 二年 を敷 設 起 源 と み る より も、 そ の
いた も の と 考 え ら れ る。
か れ てお り 、 慶 応 の改 修 以前 に京 津 間 の車 石 舗 装 は 整 って
撰 花 洛 名 勝 図 会﹄ には、 蹴 上付 近 の車 石 敷 設 道 の様 子 が 描
録 は な い。 し かし な が ら、 元治 元年 (一八 六 四 )刊 行 の ﹃再
改 修 が 行 わ れ て い るが 、 いず れ も車 石 の使 用 を明 示 す る記
文 化 二年 以降 に は、 慶 応 元 年 (一八 六 五)と 翌 二年 の 二度
が こ れ を 起 源 と み る べき か 否 か問 題 は の こ る。 こ の点 に つ い
道 ﹂ の存 在 を あ げ て お ら れ る。 これ は、 車 道 の起 源 イ コー
ま た、 車 道 や車 石 は、 鳥 羽 街 道 、 竹 田 街 道 に も存 在 し て
お い る。 ﹁城 州 鳥 羽 街 道 絵 図﹂ に車 道 の文 字 が見 え、 竹 田 街
(39 )
ル車 石 の起 源 と の誤 った 理解 に 基 づ く も の で、 車 石 の起 源
道 の車 道 に つい ては 、寛 文 二年 (一六六 二)の絵 地 図 に見 ら
(43 )
は、 正 禅 の改 修 以後 の改 修 に あ る と 思 わ れ る。 正 禅 の改 修
一78
れ、 ﹃拾 遺 都 名 所 図 会﹄ には 竹 田街 道 の車 道 を 通 る 牛 車 が
(1) 吉 川 弘 文 館 刊 。 全 十巻 。
︹註︺
(44 )
描 か れ て い る。 こ の よう に、 京 都 周 辺 の交 通 の 激 し いと こ
(
2 ) 東 京 美 術 刊 。 ﹃東 海道 分 間 延 絵 図﹄ は 全 二十 四 巻 と な って
(
9)
わ いし
一般 に、 轍 に相 当 す る凹 状 の 溝 を刻 ん だ 敷石 を指 す 。 この
頁。 ﹃
角 川 日 本 地名 大辞 典 ﹄ 二六下 巻 四四 四 頁。
(
8) 竹 村 俊 則 著 ﹃
新 撰京 都 名 所 図会 ﹄(
白 川 書院 刊 )五巻 一九 九
頁 、 三 = 二頁 。
(
7) ﹃
京 都 府 山 科 町誌 ﹄ (
臨 川 書 店刊 、 一九 八 四年 復 刻 版 ) 九 九
本 稿 では 改 名 後 も 正禅 で統 一す る。
十 二月 に梶 井 宮 に よ り 上人 位 に補任 さ れ、名 を 養阿 と改 め た が 、
(
6) 以 下 、 正 禅 と表 記 す る。 な お、 正 禅 は 元文 五年 (一七 四 〇)
﹃
京 都 の歴 史 ﹄ 第 八 巻 一五 〇∼ 一五 一頁 によ る。
(
大 津 市 史 下 巻 所 収)= 三 一
∼ =一
一
一
二頁 ρ 明 治 六 、 八年 の改修 は
津 市 役 所 蔵 )。 慶 応 二年 出 願 の改修 は ﹃大 津 御 用米 会 所 要 用帳 ﹄
巻 五 三 八∼ 五 三 九 頁 。 慶応 元 年 の改修 は ﹃畑 中 昇 家文 書 ﹄ (
大
享 保 の改 修 は ﹃安祥 院 文 書 ﹄。 文 化 二年 の改 修 は ﹃大 津 市史 ﹄上
(
5) 宝 永 年 間 の 改修 は ﹃
比 留 田 家文 書 ﹄(
京 都市 歴 史 資 料 館蔵 )。
車 道 は、 竹 田 街道 や鳥 羽 街 道 にも 設 けら れ て い た。
で、 馬 車 は存 在 し な い。 荷 馬 車 は近 代 にな って普 及 し た 。
(
4) 牛 道 と も いう。 近世 京 都 に お い て、 車 と いえば 牛 車 の こ と
岡 とも 表 記 す る よ う で あ るが 、 本稿 は日 岡 で統 一す る。
(
3) 現 京 都 市 山 科 区 日 ノ岡 坂 脇 町付 近 。 日 岡 は、 日 の岡 、 日 ノ
いる 。
ろ には 、 車 道 が 設 け ら れ て い た が、 こ れ は京 都 周 辺 で の み
見 ら れ 、 車 石 も 他 所 に は存 在 し て いな い。 そ れ だ け に、 車
石 は 貴 重 な遺 物 と い え るが 、 現 在 見 ら れ る車 石 は 一部 が 記
(45 )
念 碑 な ど の か たち で保 存 さ れ て いる も の の、 道端 に放 置 さ
れ て い るも のも 少 な く な い。 昭 和 六十 三 年 (一九 八 八)に、
京 津 街 道 に つ い て調 査 し た と こ ろ、 大 津 市 大 谷 町 の 逢 坂 峠
か ら 、 京 都 市 山 科 区 の京 阪 電車 九条 山 駅 前 ま で の間 に発 見
す る こと の でき た車 石 は、 百 個 余 り に の ぼ り、 民家 の 石 垣
や庭 石 、 畑 の縁 石 など に利 用 さ れ て いた他 、 空 地 に 埋 没 ・
(46 )
山 積 し て い るも のも 見 ら れ た。 こ の よ う に、 車 石 に つ いて
は、 個 人 で保 存 さ れ て い るも の の他 は、 何 の策 も講 じ ら れ
な いま ま 放 置 さ れ て おり 、 交 通史 上 の貴 重 な遺 物 と し て 早
急 な 保 存 対 策 が 望 ま れ る。 ま た、 車 石保 存 の た め に も、 車
道 ・車 石 に関 す る総 合 的 な研 究 が 必要 で あ ろ う。
最 後 に、 史 料 の提 供 お よ び現 地 調 査 で御 助言 を下 さ った
安 祥 院 の加 藤 泰 年 氏 、 研 究 全 般 に わ たり 御 指 導 下 さ った 鎌
田 道 隆 先 生 に 心 か ら謝 意 を表 す る。
石 を レ ー ル状 に敷 き 並 べ、 そ の溝 上 を牛 車 が 通行 す る。 輪 石 、
わがたいし
輪 形 石 と も いう。
79
頁 。 昭 和 四十 年 (一九 六 五)七月 二十 日 付 ﹁
朝 日新 聞 ﹂ 野 村 孫 太
(10) 須 賀 隆 賢 著 ﹃洛 中 洛外 ﹄(
仏 教 大 学 通 信教 育 部 発 行 )二八 四
本 の轍 であ る 。
蔵 の額 絵 に描 か れ て いる 車石 舗道 は 、 いず れも 単 線 す な わ ち 二
の車 石 舗 道 、 お よび 正 行院 (
京 都 市 下 京区 東 洞 院 塩 小 路下 ル)所
て 参詣 す る人 、 稲 麻竹 葦 の こと く し て、 色 々の菓 を捧 、 仏道 の
上 人 の行 徳 都 鄙 遠 境 に あま ね く し て、 狸 谷 の岩 屋 迄 跡 を し た ふ
巌 洞 群 集 の事
て い る。
(
17) ﹃
木 食 養 阿 上 人絵 伝 ﹄ (
安祥 院 所 蔵 ) に 、 次 の よう に記 さ れ
(16) そ の工 法 より ﹁敷 石 法﹂ と命 名 し た 。
郎氏掲載記事。
(11) 前 掲 ﹃日 本 地 名大 辞 典 ﹄ 二 六下 巻 四 四 四頁 で、 正 禅 の事 蹟
を応 其 のも のと す る 誤 りも ﹃
京 都 府 山 科 町誌 ﹄ に よ って いる と
思 わ れ る。
書 第 七所 収 ) 一六 四 ∼ 一六 五頁 に、 正 禅 の 事蹟 と し て、 七条 八
跡 を し た ふも のも あり 。 又 病 の為 に加 持 を 受 て衆 病 悉 除 、身 心
(12) ﹃
安 祥 院 文 書 ﹄によ る。 他 に ﹃拾 遺都 名 所 図 会 ﹄(
新修京都叢
町 畷 の石 橋 架 設 、 困 幡 堂 の石 橋 架 設 、 御 所 八 幡 の敷 石 敷 設 、 炬
ろ 、文 治 年 間 (= 八 五 ∼ 一 一九 〇) に法 然 上 人 が再 興 、 寺 号
(
19) ﹃
史 料 京 都 の歴 史 ﹄ 第 十 一巻 二四 三頁 によ る。
(18) ﹃
史 料 京 都 の歴史 ﹄ 第 十 一巻 二 四 二頁 に よ る。
し給 ひ ぬ。
る事 市 中 の こと く なり け れ は 、是 に傍 て御 公儀 に達 し 直 に下 山
て、 道 路 の岩 を平 か に し、 木 の根 を打 て道 を ひ ろ け、 其群 集 す
安 楽 の 利益 を蒙 る も の其 数 を し ら す。 或 は 老若 男女 其 心 差 あ っ
火 殿 の井 戸 の設 置 が あ げ ら れ て い る。
(13 ) 安 祥 院 (
京 都 市 東 山 区 五条 通 東 大 路 東 入 ル遊行 前 町 ) は、
所蔵 の 旧記 に よ ると 、 天 慶 五年 (
九 四 二) に 朱 雀 天皇 の御 願 に
より 、 天 台 座 主 法 性 坊 尊 意 僧 正 が 乙訓 郡 久 世 郷 大 藪 村 に 草 創
を 安祥 院 と改 め、 天 台 宗 を 浄 土宗 に改 め た。 そ の後 、衰 退 と再
勢 参宮 名 所 図 会 ﹄ に は、 逢 坂 山 の 一段 低 く な った車 道 が 描 か れ
(20) 車 道 は、 往 還 よ り も 一段 低 く つく ら れ て いた よう で 、 ﹃
伊
し 、大 藪 山 仁 王 護 国 院 と 称 し た。 そ の後 廃 絶 に及 ん で い た と こ
興 を く り返 し、 享 保 十 年 (一七 二 五) に正 禅 が 住 職 と な り、 廃
らず と厳 し く命 ぜ ら れ て ゐ る﹂ と記 され て いる。 正 禅 が 車道 を
紀行﹄(
駿 南 社 刊 ) にも 、 ﹁駅 者 は往 来 の低 い側 以外 は 通 る べか
て いる。 ま た、 竹 田 街道 の 場 合 では あ るが 、 ﹃ツ ンベ ルグ 日本
寺 と化 し て い た安 祥 院 を 愛 宕 郡 清水 寺 領 五条 坂 へ引 き 移 し、 再
は 、 正禅 が京 都 町 奉 行 所 に 提出 し た 口上 書 類 が 数多 く含 ま れ て
(14) ﹃
安 祥 院 文 書 ﹄ は 、 正 禅 関係 の 記 録 が 大半 を 占 め る。 中 に
一時 的 な策 と思 わ れ る。
往 還 同 等 の高 さ に埋 め た のは 、 工事 中 往 還 に牛車 を通 す た め の
建 、無 本 寺 浄 土 宗 と し て現 在 に 至 って い る。
いる が、 大 部 分 が 写 本 で、本 稿 で とり あ げ た 記 録 の中 にも 写本
(22) 昭 和 五 十 四年 (一九 七 九) 八 月 二十 六日 付 ﹁
京 都 民 報 ﹂佐
(21) ﹃東 海道 宿 村 大 概 帳﹄(
近 世 交 通史 料 集 四 巻所 収 )九 四 四頁 。
が 二種 類存 し て い るも のが あ る。 な お、 本 稿 に使 用 し た史 料 で
特 に こ と わり の な いも のは ﹃
安 祥 院 文 書 ﹄ であ る 。
(15) ﹃
再 撰花 洛 名 勝 図 会 ﹄ 東 山 之部 一に 描 か れ て い る蹴 上 付 近
一80一
野 精 一氏 掲 載 記事 。
地 普 請出 来 仕 候 二付 御 断
(23) ﹃
安 祥院 文 書﹄
庄屋 ・年寄から総触頭比留田権藤太 へ出された口上書には、次
(
前略)
のように記 されている。
享保年中之建立開基木食より以来接待仕来り候処、近年相衰
一拙 僧 儀 、 享 保 十 九年 寅 十 一月 廿 三 日東 御 役 所 江奉 願 蒙 御 赦免
助情を請漸接待仕候処、去卯年より壱ケ年 二銀百目、右義堂
之儀者右義堂相立候接待所 者無御座候。右同所梅香庵 と申者
存 候 。併 未 タ篤 ト地 固 リ 不 申 候 而 、暑 寒 之 節 又 ハ雨 降 続 キ候
一日岡峠之内 二脇坂義堂相願御聞済有之候 而相建候接待所有無
得 者 人 歩 入 損 シ 之所 々繕 直 申 候 。 惣体 者地 普 請 出 来 仕 候 。 此
(
後略)
助力有之候故、弥以無滞接待仕候。
候 大 津 海 道 日 岡峠 人 馬 道 井 車 道 共 地 普 請 之 儀 出 来 仕 難有 奉
上 右 場 所 出 来 御見 分 被 仰 付 被 下 候様 二奉 願 上 候 。 往 古 之 通 人
二仕 度 奉存 候 。 乍 恐地 普 請 出 来 二付 、 御 断 奉 申 上 候 。 以 上。
東山清水寺領五条坂
無本寺浄土宗
安 祥 院
急 々奉願上度候 二付致内見候処、凡四拾 八間程 ハ余程切下ケ
大望を延 々 二仕候得者、右願望成就之義茂無心元奉 存、依之
様江奉願候儀も 恐多、是迄見合候得共、拙僧義茂次第及老年
心願有 之候得共、先年日岡峠車道普請相続申候者毎度御公儀
捨殊外致難儀候体、近年及見候故、何卒往来危ク無之様仕度
一山科渋谷海道筋悪鋪坂御座候故、寒中 二道氷候 而牛馬往来共
二怪我 いたし、勿論往来之荷物等茂す へり候 ヘハ荷物 をなけ
(
絵図略 )
一札
(27) ﹃安祥院文書﹄
馬 道井 車 引 通 シ候 道 筋 分 リ候 様 二車 方 之 者 江 被仰 付 被 下 候 様
元 文 三 年 午十 一月
御 奉 行様
(
24 ) ﹃安 祥院 文 書 ﹄元 文 三年 (一七 三 八)十 二月 の 口上 書 に 、﹁
小
庵 引 移 シ之 儀奉 願 上 候 処 、 此 願 之 儀未 タ右 之 休 息 小 屋 建年 之 内
二而 御 座 候 間、 申 年 迄 引 移 シ願相 止 メ候 様 二被 仰 渡 奉 畏 候。 乍
然 右 休 息 小 屋 之 儀 ハ道 普 請 中 之 間斗 二而御 見 分 相 済 候 上 ハ小 屋
引 払 之 儀 、御 断 申 上 候 儀 御 座 候﹂ の 一節 が あ る 。
(
2
5) 現在 、量 救 水 の井 筒 は 、 東京 都 文 京 区 の椿 山 荘 に設 置 さ れ
は 地 蔵 尊 を安 置 す。 木 食 上 人住 し て坂 路 を 造 り 、 牛 馬 の労 を助
(
26 ) 安 永 九年 (一七 八 〇) 刊 の ﹃
都 名 所 図 会 ﹄ は ﹁峠 の梅 香 庵
合奉存候。依之右為御礼桐堂銀壱貫 五百目御当山江奉納可仕
申請度、先達 而御相談申上候処、早速御随心成被下千万恭仕
下ケ候 者左右道筋御領分之山すそ崩杯可有御座と右絵図之通
申度候。然所 二右之場所殊之外道 幅狭 ク御座候故其儘 二而切
く 。 量救 水 は石 刻 の亀 の口 よ り 帳 る。 炎 暑 の節 、 旅 人 の渇 を止
て いる と い う。 (
安 祥 院 住 職 加藤 泰年 氏 談 )
む と い ふ﹂ と伝 え て い る。
烈御得 心被下候者、其上 二而御公儀様 江奉願御赦免被成下候
候。尤御近所道筋之御衆中方且又山科御役人中方申談、御 一
ま た 、 ﹃比留 田家 文 書 ﹄の文 化 五年 く一八 〇 八)五 月に 日岡 村
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頁。
(
33 ) ﹃
邦 訳 日 葡 辞書 ﹄ (
岩 波 書店 刊 ) 一七 二頁 。
者 、右 場 所 江取 掛 リ可 申 候 。勿 論 右 桐 堂 早 速御 渡 可 申 候 へ共 、
他 借 仕 候 得 者 普 請成 就迄 二御 受 納 可 被 下候 。 将又 急 々御 入 用
一= 一頁 。
次 の よう に記 し て い る。 ﹃ブ スケ 日本 見 聞 記 ﹄ (みす ず 書房 刊 )
ラ ン ス人 ブ スケ は、 大 津 か ら 京 都 ま で の旅 程 で車 道 を 見 聞 し、
道 が描 か れ て いる。 ま た、 明 治 五年 (一八 七 二) に来 日 し た フ
お よ び 正行 院 所 蔵 の安 政 二年 (一八 五 五) 銘 の額 絵 に、 車 石舗
(
3
5) 前 掲 、 元 治 元年 (一八六 四 )刊 行 の ﹃再 撰花 洛 名 勝 図会 ﹄、
、
(
3
4) ﹃比留 田家 文 書﹄
安祥 院
木食養阿
無 御 座 候 ハ ・当分 此 方 江預 リ 置 、 月 五 分 之 利足 相 添 進 上 可 仕
候 。 侃 而 為後 証之 一札 如 件 。
延 享 二年 丑 十 二月
清閑寺様
(
2
8) 本 文 前 掲 、 延 享 三 年 一月 の口 上書 お よび 註 (27) 参 照。
地普請出来仕候御断
(29 ) ﹃安 祥院 文 書 ﹄
はその道幅 の半分は 一つ
三井 寺 か ら 下 り て、 我 々は あ と 三里 し か な い京 都 への道 を と っ
の町 から 他 の町 ま で舗 装 さ れ て おり 、 これ ら の広 い舗 石 の上 に
た。大街道i 相変 わらず東海道1
一渋 谷峠 凡 五拾 五 間 程 之 所 地 形切 平 均 、 往 来 牛 馬難 儀 無 之 様 仕
見 分 之 上同 九月 十 八日 願 之 通 御赦 免 被 為 成 下 難有 奉存 候 。 依
京 都 の牛 種 は き わ め て大 き いー
が縦
の狭 い轍 か ら それ ず に ひ い て ゆく のを見 る のは 面 白 い光 景 であ
に つな が れ て、 田舎 や都 会 の産 物 を 積 ん だ車 を ゆ っくり と 二 つ
る。 こ の鈍 重 な動 物 -
は 二 つの平 行 し た轍 が 長 年 月 の間 に牛 車 の車 輪 でう が た れ て い
度 旨 、 去 寅 正 月 十 八 日 西 御役 所 江奉 願 、 同 六 月 廿 九 日願 所 御
清水寺領五条坂
安祥院
木食養阿
之 右 間 数 之通 切平 均 地 普請 出 来 仕 候 二付 、 乍 恐御 断 奉 申 上
候。以上。
延 享 四 年 卯 八月 七 日
(36) 註 (10)参 照 。 ﹃
東 海道 分 間 延絵 図 ﹄ (
東 京美 術 刊 ) 第 二十 二
る。
(30) 佐 貫 伍 一郎 著 ﹃
山 科 郷 竹 ケ鼻 村史 ﹄ 二八 九頁 。 佐 貫 氏 は 、
巻 解 説 篇 二八頁 。 昭 和 五 十 三年 (一九 七 八) 七 月 三 十 日付 ﹁京
御奉行様
﹁三条 海 道 筋 山 科 郷鹿 絵 図 ﹂ (
﹃比 留 田家 文 書 ﹄)に 記 さ れ た ﹁車
都 民報 ﹂ 佐 野 精 一氏掲 載 記 事 。
単 線 の よ う であ る。 地 理 的 条 件 や 当時 の技 術 か ら、 二車 線 に わ
(37) 註 (15)参 照 。 ﹃
胴熊日本 土 木史 ﹄ 九 六七 頁 掲載 の発 掘 写 真も
道 宝 永 三年 戌十 一月 出 来 ﹂ の文 字 を 根 拠 に、 宝 永 三年 を 車 道起
源 と さ れ て いる 。 し か し 、宝 永 四年 の 工事 記 録 (﹃比 留 田家 文
七 ∼ 九 六 八頁 。
(38) ﹃
大 津 市 史 ﹄上 巻 五 三八 ∼ 五 三九 頁 。﹃
糊齢日 本土 木 史 ﹄ 九 六
た り 車石 を敷 設 す る の は難 し いと推 定 さ れ る。
書 ﹄)に は ﹁三 条 街道 車 道 付 替 ﹂と あ り 、 こ の時 期 に既存 の車 道
を 付 け 替 え た と み る べき であ ろ う。
(31) ﹃瑚齢日本 土 木 史 ﹄ (
岩 波書 店 刊 )九 六 七頁 。
(
3
2) ﹃
講 座 日本 技 術 の 社会 史 ﹄ (日本 評 論 社 刊 ) 第 八巻 三〇 六
82一
(
﹃地 理学 評 論 ﹄ 第 三十 巻 第 六 号 )
。
(
39 ) 水 谷清 三著 ﹁車 石 ・京 都 三 街道 に おけ る 運 送 施設 の考 察 ﹂
(
40 ) ﹃比 留 田家 文 書 ﹄ 石 方 の注 文 書 など に 、﹁車 輪 通 石﹂と あ る。
(41) ﹃滋 賀県 史 蹟 調 査 報 告 ﹄ 第 六冊 二∼ 三頁 。
(42) ﹃伊 藤英 夫 家 文 書 ﹄ (
年 不 詳 、 ﹃江 戸 時 代 図誌 ﹄ 二巻 一九 九
頁所載)
(43) ﹁新 版平 安 城 東 西 南 北 町 並 洛 外 之図 ﹂
三頁 。
(44) ﹃
拾 遺 都 名 所図 会 ﹄ (
新 修 京 都 叢 書 第 七所 収 )四 六 二∼ 四 六
大 津 市 の琵 琶 湖 文 化 館前 ・滋 賀 県 立 図 書 館 前 に、 車 石 舗 道 が 仮
(45) 京 都 市 山 科 区 日 ノ岡 朝 田町 に、 車 石 記 念碑 が あ る。 ま た、
復 元 さ れ て いる。
(46) 昭 和 六 十 三 年 (一九 八 八) 五月 十 四 日 調 査。 車 石 の大 き さ
は様 々 であ る が 、 京津 間 で見 ら れ たも のは 、平 均 長 さ 五 〇∼ 七
〇 セ ンチ メー ト ル、 幅 四 〇 ∼ 七 〇 セン チ メー ト ル程 で あ った。
ま た溝 幅 は、 一五 ∼ 二〇 セ ンチ メ ー ト ル、 溝 の深 さ は 一〇 セン
チ メー ト ル程 度 のも のが 多 か った。 車 石 の中 には 、溝 が 十文 字
に 刻 ま れ たも の、 裏 表 に溝 が あ るも の など 、 数 回 に わ たり 使 用
竹 田 街 道 の車 石 は、 正 行 院 、 陶化 小 学 校 (
京都市南区)など
さ れ た と 思 わ れ る石 も 多 数 見 ら れ た。
に 数 個 保存 さ れ て い る。
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