福音の喜び

教皇フランシスコ使徒的勧告『福音の喜び』(抄訳)
・特に注記のない聖書の引用は、新共同訳。
・中央協議会訳が出るまでの仮訳です。
前文
【第一項】 福音の喜びはイエスと出会うすべての人の心と「生」
(人生・生活・生命)を満
たします。イエスの救いの申し出を受け入れる人は罪、悲しみ、内的な空虚さ、孤独から
解放されます。キリストと共に喜びは絶え間なく新たにされます。この使徒的勧告では私
はすべてのキリスト信者が喜びに特徴づけられた福音宣教の新しい時代へと乗り出し、一
方で来たるべき時代に教会が旅するための新しい道を目指すように励ましたいと思います。
I.
常に新しい喜び、分かち合う喜び
【第二項】 現代世界には消費主義が蔓延しており、その大きな危険とは無関心でありなが
らも貪欲な心から生まれる荒廃と苦悩、取るに足らない快楽のあくなき追求、鈍くなった
良心です。私たちの内的生命が、自分自身の興味や関心に足を取られた時はいつでも、他
者に気を配る余地、貧しい人々のための場所はもはやありません。神のみ声を耳にするこ
とはなく、神の愛という静かな喜びは感じられず、善を行いたいという望みは消え失せて
しまいます。これは信者にとっても実に現実的な危機です。多くの人がその犠牲になり、
遂には、怒りっぽくなり、腹を立て、倦怠を感じるようになってしまいます。これでは尊
厳のある、充実した「生」
(人生・生活・生命)を歩んでいるとは決して言えません。それ
は神のみ旨ではありませんし、復活されたキリストの心にその源を持つ聖霊における「生」
(人生・生活・生命)でもありません。
【第三項】 私は、今この瞬間に、世界のあらゆる所にいる、すべてのキリスト者にイエス・
キリストとの個人的な出会いを新たにするように〔刷新するように〕、あるいは少なくとも、
イエスを自分たちの心に招き入れて、イエスの方から私たちに出会って頂けるような広い
心を新たに造るようにと招きます。そしてこれを毎日怠りなく行って頂きたいのです。自
分はこの招きには関係ないと誰も思うべきではありません。何故なら「主によってもたら
された喜びからは誰も排除されていない」
(注一 パウロ六世使徒的勧告『ガウデーテ・イ
ン・ドミノ』
(主にある喜び)第22項)からです。この冒険に乗り出す人々を主は失望さ
せません。何故ならイエスに向かって一歩を踏み出す時にはいつでも、イエスはもうそこ
におられ、手を大きく広げて私たちを待っておられることに気付くからです。今はイエス
に向かって、こう申し上げるべき時です。
「主よ、私は騙されていました。手を変え品を変
えて、私はあなたの愛を避けてきましたが、ここでもう一度あなたとの契約を更新いたし
ます。私にはあなたが必要なのです。主よ、もう一度私をお救いください。あなたのあが
ないの抱擁でもう一度私を抱きしめてください」私たちが道に迷った時に主のもとの立ち
返るのはなんと素晴らしいことでしょう。もう一度このことについて言わせてください。
神は私たちを許すことを決しておやめになりません。「7の70倍」
(マタ18:22)互
いに許し合いなさいとおっしゃったキリストは自ら模範を示されました。キリストは7の
1
70倍許されたのです。何度も何度もキリストは私たちをその肩に担われます。何ものも、
この際限のない、確実な愛によって私たちに付与された尊厳から私たちを引き離すことは
できません。決して失望させられることのない、常に私たちの喜びを回復させることので
きる愛をもって、キリストは私たちが頭(こうべ)を高く上げて、新しく出発することを
可能にしてくださいます。イエスの復活から逃げないようにしましょう。やがて訪れるこ
と〔救いの訪れ〕を断念しないようにしましょう。私たちを前へと駆り立てるキリストの
生命以上に活力を与えるものは何もありませんように!
【第四項】(省略)
【第五項】(省略)
【第六項】その「生」
(人生・生活・生命)が、復活祭抜きの四旬節のようなキリスト者が
います。もちろん、喜びは人生で、特に大きな困難の時、いつも同じように表現されるも
のではないことは良くわかっています。喜びは適応・変化し、常に持続するものです。た
とえそれが、個人的な確信から生まれる一回限りの光の明滅であったとしても、です。す
べてが語り尽くされ、万策尽きた時にも、私たちは無限に愛されているのです。「私の魂は
平和から見放され、幸せを忘れてしまった。……私はひとつのことを心に留める、それが
私に希望を与えてくれる。まことに、主のいつくしみは絶えることなく、その憐れみは尽
きることがない。それは朝ごとに新たにされる。……主の救いを静かに待ち望むのは良い
こと。」
(哀 3:17,21-23,26、フランシスコ会訳)
【第七項】時々、私たちは言い分けや不平不満を見つける誘惑に駆られ、数々の諸条件が
満たされれば、幸せになれるのだが、とでも言うかのように振る舞います。ある程度まで
は、これは、私たちの生きる「技術社会は快楽の機会を大いに増やすのに成功しているも
のの、喜びを生み出すことは非常に難しいことを見出している」
(前掲書 第8項)のが原
因です。私が人生の中で目撃した喜びのもっとも美しい、自然な表現は、手放せないもの
がほとんどない貧しい人々の中にあります。私はまた、差し迫った職業的な義務のさなか
にあっても、離脱と単純素朴さの中にあふれんばかりの信仰を保っている人によって示さ
れた真の喜びのことを思います。こうした人たちのやり方において、喜びの実例のすべて
は、イエス・キリストにおいて私たちにご自身を顕わされた神の限りない愛からあふれ出
ているのです。私たちを福音の中核へと導くベネディクト十六世の以下の言葉を私は飽く
ことなく繰り返します。「人をキリスト信者とするのは、倫理的な選択や高邁(こうまい)
な思想ではなく、ある出来事との出会い、ある人格との出会いです。この出会いが、人生
に新しい展望と決定的な方向付けを与えるからです」(ベネディクト16世回勅『神は愛』
第一項)
【第八項】味わい深い友情へと発展するこの神の愛との出会い、あるいは新たにされた出
会いによってのみ、私たちは偏狭さや自己陶酔から解放されます。私たちは人間以上のも
のになる時、神が存在にまつわる完全な真理を獲得させるために私たちを私たち自身を超
えた所へと運ぶがままにする時、私たちは完全な意味で人間となります。
2
ここに、私たちは福音宣教に際してのすべての努力の起源と霊感を見出すのです。何故な
ら、もし私たちが人生に対する意味を回復させる愛を受けたのなら、その愛を他者と分か
ち合わずにいられるでしょうか?
・・・・・・
第三章
「福音の告知」
【第百十項】現代の様々な挑戦のいくつかを考察した後で、今度はすべての時代と場所で、
私たちが負っている務めについて述べたいと思います。何故なら、「イエスは主である、と
明確に告げ知らせることなしに、また福音宣教のすべての仕事にあってイエスを第一に宣
べ伝えること抜きには真の福音宣教はありえない」からです。(注七十七 ヨハネ・パウロ
二世使徒的勧告『アジアにおける教会』第19項)アジアの司教たちの懸念を認めつつ、
ヨハネ・パウロ二世は、教会が「その摂理的な計画を成就するには、救いをもたらすイエ
ス・キリストの死と復活を喜びをもって、辛抱強く、革新的にのべ伝えることは皆さんの
最優先事項です」と司教たちに語っておられます。
(注七十八 前掲書第2項)この言葉は
私たちすべてにとって真理であり続けています。
Ⅰ 神の民全体で福音を宣べ伝える
【第百十一項】福音宣教は教会の務めです。教会は、福音宣教の主体として、組織的、あ
るいは位階的制度以上のものです。つまり、教会はまず何よりも、神に向かう巡礼の歩み
を進めつつある一つの民なのです。教会は確かに三位一体に根ざした神秘ですが、旅する
民として、また福音宣教に携わる者として歴史の中に具体的な形で存在し、必要であると
は言え、いかなる制度的表現をも超越しています。私は神の無償かつ慈悲深い主導権にそ
の基礎を見出す教会をこのように理解する方法にしばし留まりたいと思います。
すべての人のための民
【第百十二項】神が私たちに差し出されている救済は、ご自身のいつくしみの業です。い
かなる人間的な努力も、それがいかに良いものであっても、私たちをこれほどまでに偉大
な賜物にふさわしい者とすることはできません。神はそのまったくの恩寵によって私たち
を御自身に引き寄せ、私たちをご自身と一つにされます。(注七十九 福音宣教に関するシ
ノドス「提言」4)神はご自身の「霊」を私たちの心に送り、子供とし、私たちを変容し、
私たちが私たちの「生」(人生、生活、生命)をもってご自身の愛に応えることができるよ
うになさいます。教会はイエス・キリストによって神から差し出された救いの秘跡(目に
見える印)として派遣されています。(注八十 第二バチカン公会議『教義憲章』1)福音
宣教の活動を通して、教会は絶え間なく、人知を超えた形で働く神の恵みの道具として協
力します。ベネディクト十六世は、シノドス(世界代表司教会議)の黙想でこのことを素
晴らしい表現で述べておられます。
「最初の言葉、真の主導権〔イニシアチブ〕
、真の活動
は、神に由来し、私たち自身を神の主導権に接ぎ木することによってのみ、また神の主導
権を願い求めることによってのみ、私たちもまた主と共に、また主の内にあって、福音宣
教者となることができるのです。」
(注八十一
3
シノドス第13回通常総会第1回通常集会
での黙想、2012年10月2日)恩寵の首位権は、常に私たちの福音宣教についての黙
想を照らす梁(はり)でなければなりません。
【第百十三項】神がもたらした救い、そして教会が喜びに満ちて告げ知らせる救いはすべ
ての人のためにあります。
(注八十二
第二バチカン公会議『現代世界憲章』
)神はご自身
をあらゆる時代のすべての人間と一つになる方法を発見されたのです。神はこれらの人々
を一つの民として呼び集めたのであって、孤立した個人としてではありません。(注八十三
第二バチカン公会議『教義憲章』9)誰も自分一人では、また自分自身の力では救われま
せん。人間の社会生活に伴う個人同士の様々な関係が複雑に織り成されることを考慮に入
れて、神は私たちを引き寄せられます。神が選ばれ、また招かれたこの人々を「教会」と
呼ぶのです。イエスは弟子たちに、排他的なエリート集団を形成するようにとは言いませ
んでした。イエスはこう言われました。
「あなたがたは行って、すべての民を弟子としなさ
い。
」
(マタ28:19)聖パウロは、神の民の中にあって、また教会にあっては、
「ユダヤ
人もギリシア人もなく、あなたがたはキリスト・イエスにあって一つなのです」(ガラ3:
28)神、そして教会を縁遠いと感じるすべての人々、恐れたり、無関心なすべての人々
に対して、私はこう言いたいのです。「主は、大きな尊敬と愛をもってあなたが、神の民の
一部となるようにと呼ばれています!」
【第百十四項】教会であるということは、神の父親としての愛の偉大な御計画と一致した
神の民であるということです。つまり、私たちは人類のただ中にあって神のパン種(酵母)
となるべきであるということなのです。これは、神の救いを世に告げ知らせ、もたらすこ
とを意味します。世はしばしば道に迷い、その道すがら励まされ、希望を与えられ、強め
られなければなりません。教会は誰もが温かく迎えられていると感じ、愛され、赦され、
福音的な善い生活を送るようにと励まされていると感じることができる、いつくしみが無
償で与えられる場でなければなりません。
・・・・・・
第五章
「聖霊に満たされた福音宣教者」
【第二百五十九項】「聖霊に満たされた福音宣教者」とは、恐れることなく聖霊の働きに心
を開いた福音宣教者です。聖霊降臨の時、聖霊によって使徒たちは自分自身の殻の外へと
出て行き、神の不思議なみ業を宣べ伝える者へと自分自身を変え、男性であれ女性であれ、
自分の言葉でひとりひとりの人に語りかけることができるようになりました。聖霊はまた
いかなる時や場所にあっても、たとえ反対に出くわした時でさえ、大胆さ(parrhesia「パ
レーシア」=ギリシア語「包み隠さずに話すこと」
「危険を冒しても公益のために真理を話
すこと」―訳者注)をもって福音の新しさを告げ知らせる勇気をお与えになりました。今
日(こんにち)にあっても祈りに堅く根ざしながら聖霊を呼び求めましょう。というのも
祈りなしには私たちの行動のすべては実りのないものとなり、私たちの使信(メッセージ)
は空虚なものになり果ててしまうからです。言葉だけではなく、何よりも神の臨在によっ
て変容された1回限りの「生」
(人生・生活・生命)によって「良き知らせ」を告げ知らせ
4
る福音宣教者をこそ、イエスは求めておられるのです。
【第二百六十項】この最終章では、キリスト教的霊性について総括的に述べたり、祈りや
聖体礼拝、信仰を典礼祭儀で祝うことについて詳しく検討する積りはありません。という
のも、これらすべてについて、教導職(教皇)の文書や偉大な著作家による世に知られた
書物が既に存在しているからです。
【第二百六十一項】何事につけ、
「(霊が)活気づいている」と私たちは言う時はいつも、
この言葉は私たちの個人的、共同体的な活動を励まし、動機づけ、養い、それに意味を与
える内面のときめきを意味しているのが普通です。
「聖霊に満たされた福音宣教」は、自分
の個人的な意思や願望があったとしても律儀にこなして行く作業の寄せ集めではありませ
ん。熱意、喜び、気前の良さ(寛容)、勇気、際限のない愛、そして魅惑に満ちた福音宣教
の新しい一章をめくるための情熱を駆り立てるのにふさわしい言葉を私はどれだけ見つけ
たいと熱望していることでしょうか!それでも、聖霊の火が私たちの心に燃えていなけれ
ば、どんな激励の言葉でも不十分であることに私は気がついています。「聖霊に満たされた
福音宣教」は聖霊によって導かれた福音宣教です。というのも聖霊は福音を告知するため
にと主に呼ばれている教会の魂だからです。いくつかの霊的な動機付けや提案を述べる前
に、私は今いちど、聖霊を呼び求めます。聖霊来てください、教会を新たにしてください、
教会を呼び覚まし、教会がすべての民を福音化するために大胆に出発できるように駆り立
ててくださいと祈り求めます。
I.
新たにされる宣教的な「ときめき」のいくつかの要因
【第二百六十二項】聖霊に満たされた福音宣教者は、祈り、かつ働く福音宣教者です。堅
固な社会的・宣教的な活動範囲の遠心的な拡大(アウトリーチ)という裏付けのない神秘
主義的な思い付きは福音宣教の役に立ちませんし、回心をもたらすことのできる霊性の欠
如した学位論文や社会的・司牧的実践も同じです。こうした一面的で不完全な問題提起は
ごく一部の集団にしか到達せず、こうした人々のさらに向こう側まで照らし出すことはで
きません。なぜならこれらの突飛な想念、論文、実践は福音を矮小化しているからです。
必要なのは、隣人との深い関わり合いや活動についての重要性をキリスト者が自覚できる
ようにする内面的なゆとりを養う能力です。(注二百五 ベネディクト十六世、シノドス後
使徒的勧告『中東における教会』)礼拝、祈りを伴った聖書のみ言葉との出会い、主との心
のこもった会話に十分時間を割かなければ、私たちの働きはいとも簡単に無意味なものに
なってしまいます。つまり、私たちは疲労や困難を経験することによって活力を失い、熱
意は死に絶えてしまうのです。教会は緊急に祈りの深呼吸を必要としており、祈りやとり
なしの祈り、神のみ言葉を祈りながら読むこと、そして聖体の永久礼拝に自らを捧げる団
体が、教会生活の各レベルで増えてきていることは、私の大変大きな喜びです。それでも
「私たちは愛徳の要求にそぐわない、神が人となられたことが持つ様々な意味合いにひと
5
言も触れることのない、私的領域に閉じ込められた〔私事化した〕、個人主義的な霊性を提
示する誘惑を拒絶しなければなりません」。
(注二百六 ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『新
千年紀の始めに』
)祈りに費やすある一定の時間が、自分の「生」(人生・生活・生命)を
宣教に差し出さない言い訳になってしまう危険が常にあります。つまり、私的領域に閉じ
込められた〔私事化した〕生活様式は、ある種の誤った霊性形態に逃避するようにとキリ
スト者を導くのです。
【第二百六十三項】初代教会のキリスト者や歴史を通じた各時代の多くの兄弟姉妹たちが、
喜びで満ち満ちており、倦(う)むことを知らない勇気と熱意をもって福音を告げ知らせ
たことを私たちは十分、心に留めています。現代では「昔のようには事は容易に運ばない」
と言って自らを慰める人がいます。しかし、ローマ帝国では福音の使信(メッセージ)、正
義を実現するための戦い、人間の尊厳の擁護がやすやすとは伝わらなかったことを私たち
は知っています。歴史のどの時期にも、人間的な弱さ、自己陶酔、自己満足、自己中心性
が特徴的に存在しており、私たちすべてを食い物にする根強い欲望について何も語られま
せんでした。こうしたことはいつも次から次へと外観を変えて存在し続けます。これらは、
特定の状況というよりは、むしろ人間の限界から来るものだからです。「現代では事を成す
のは以前より難しい」と言うのは止めましょう。というのも、困難はただ形を変えている
だけなのですから。それでも、自分たちの生きた時代の困難に直面し、私たちに先立って
天国にいる聖人たちから学びましょう。私たちはしばし立ち止まって、今日(こんにち)
聖人たちに倣うのに役立つ要因をいくつか再発見しようではありませんか。(注二百七
V・M・フェルナンデス『活動的な希望のための霊性~アルゼンチン第一回教会社会教説全
国大会の開会演説』参照 )
救いをもたらすイエスの愛との個人的な出会い
【第二百六十四項】福音化の第一の理由は、私たちが受けたイエスの愛であり、私たちが
イエスをこれまで以上に愛するように駆り立てた救いの経験です。最愛の人について話し、
その人を指差し、その方の存在について人に伝える必要を感じない愛というものがあり得
るでしょうか?この愛を分かち合いたいという強い願いを感じないなら、主がもう一度私
たちの心に触れてくださるようにと辛抱強く祈らなければなりません。毎日、主の恵みを
願い求め、私たちの冷え切った心を開いて、主の眼差しが私たちに注がれるようにと、「私
はあなたがイチジクの木の下にいるのを見た」
(ヨハ1:48)とイエスがおっしゃったあ
の日にナタナエルが垣間見た、あの愛の眼差しを仰がせてください、と主に願わなければ
なりません。十字架像の前にたたずむこと、あるいは、聖体のパンの前でひざまずくこと、
そして主の現存にただ浸り切ることは何と素晴らしいことでしょうか!主がもう一度、私
たちの人生に触れてくださり、主の新しい命を分かち合うよう私たちを駆り立てられる時、
どんなに素晴らしいことが私たちに起こるでしょう!そしてその後に起こるのは、
「私たち
6
が見、また聞いたことを伝える」(1ヨハ 1:3)ことです。福音を分かち合いたいとい
う最高の意欲は、愛をもって福音を観想し、その一ページ一ページにじっくり、丹念に目
を通し、心で読むことから湧いてきます。このように福音に近づくなら、福音は私たちを
驚嘆させ、絶えることなく私たちの喜びをかき立てます。こうしたことが起こったとして
も、私たちをより人間らしくし、私たちを新しい「生」
(人生・生活・生命)へと導くのに
役立つ宝が私たちに委ねられていることに常に心新たに気付かせてくれる観想的霊性を回
復する必要があります。他者に与えることができるもので、これほど貴重なものはないの
です。
【第二百六十五項】イエスの全生涯、イエスの貧しい人との接し方、イエスの行動、イエ
スの高潔さ、イエスの日常における寛容な行い、そして、生涯最後におけるイエスの自己
贈与は尊く、イエスの神的な生命の神秘を啓示しています。私たちが心新たにこの神秘に
出会う時はいつでも、たとえ自覚していないとしても、この神秘をこそ他者が必要として
いるものだと確信することができるようになります。「あなたが知らずに拝んでいるもの、
それをわたしはお知らせしましょう」
(使17:23)
。時として、私たちは宣教に対する
熱意を失ってしまいます。なぜなら、福音が私たちに提供していること、つまり、イエス
との友情、私たちの兄弟姉妹に対する愛のために、私たちは造られているので、福音は私
たちの心の深くにある必要に応えるものなのだ、という事実を忘れてしまうからです。私
たちが福音の本質的な内容を適切かつ、美しく表現することに成功するなら、このメッセ
ージは確実に、人々の心にある深いあこがれに訴えかけることができるでしょう。
「聖霊の
働きによって、個人と集団の中に神について、人間について、罪と死から自由になるため
に定められている方法についての真理に対するあこがれが、無意識にせよ、既に存在して
いることを宣教者は確信しています。キリストを宣べ伝える宣教者の熱意は、このあこが
れに宣教者が応えつつあるという確信に由来するのです。」
(注二百八
ヨハネ・パウロ2
世回勅『救い主の使命』)福音宣教の熱意はこの確信に根ざしています。私たちには欺くこ
とのできない命と愛の宝、誤解されたり、失望させたりすることができないメッセージが
あります。この宝、メッセージは私たちの心の奥深くまで貫き、私たちを精神的に支え、
気高くします。それは、他の何ものも到達することのできない私たちの存在の領域に到達
することができるので、決して色褪せることのない真理なのです。私たちの究極的な悲し
みは、1つの究極的な愛によってだけ、いやすことができます。
【第二百六十六項】しかし、この確信は、キリストの友情とキリストのメッセージを十分
に味わう体験を絶え間なく経験することによって支えられなければなりません。イエスに
出会うことはまだ出会っていないこととは異なり、イエスと共に歩むことは盲目的に歩む
こととは異なり、イエスのみ言葉に聴くことはそのみ言葉の存在を知らないこととは異な
り、イエスを観想し、礼拝し、イエスの内に平安を見いだすことは、そうしないこととは
異なるという個人的な体験による確信がなければ、絶え間なく熱心に福音宣教をすること
は不可能です。キリストの福音によって世界を建て上げようとすることと私たち自身の光
7
によってそうしようと試みることは別のことです。イエスと共にあるなら、
「生」
(人生、
生活、生命)は、より豊かなものとなり、イエスと共にあるならすべてのことの内に意味
を見いだすのはもっと容易であることを私たちはよく弁えています。これこそが福音宣教
の理由です。イエスの弟子であることを決して止めようとしない、真の宣教者は、イエス
が自分と共に歩まれていること、自分に語りかけられること、自分と共に働かれているこ
とを知っています。真の宣教者は、イエスが宣教事業のただ中で生きておられることを身
をもって感じています。私たち自身の宣教上の関わりの真ん中にイエスが臨在しているの
がわからないなら、私たちの情熱は徐々に衰え、私たちが伝達しているのは何かについて、
もはや確信が持てなくなります、つまり、活力と熱意を失うのです。確信を持てない、情
熱の失せた、自信のない、愛の内にいない人は誰をも納得させることはありません。
【第二百七十七項】イエスと一つになることの中に、私たちはイエスが探し求めているも
のを探し求め、イエスが愛されることを愛するのです。そして、私たちが追求することは、
御父の栄光となります。つまり、私たちは「神が与えてくださった輝かしい栄光をたたえ
るために」(エフェ1:6)に生き、そして行うのです。もし、私たちが自分自身のすべて
を完全かつ忍耐強く捧げようとするなら、他のすべての動機から離脱しなければなりませ
ん。これこそが私たちが行うことすべての背後にある、私たちの決定的な、心からの、そ
して最も偉大な動機、究極の理由と意味なのです。つまり、それはイエスが生涯の間、い
つも探し求めていた御父の栄光です。御子〔息子〕として、イエスは「父のふところにい
る」
(ヨハ1:18)にいることを永遠に喜ばれているのです。もし、私たちが宣教者なら、
それは第一に、
「あなたがたが豊かに実を結ぶなら、私の父は栄光をお受けになる」
(ヨハ
15:8)とイエスが私たちに語られたからです。私たちの好みや利害、私たちの理解や
動機のすべてを超えて、私たちを愛される御父のより大いなる栄光のために、私たちは福
音宣教を行うのです。
一つの民であるという霊的な味わい
【第二百六十八項】神のみ言葉は、また私たちが一つの民であることを認識するようにと
私たちを招きます。「かつては神の民ではなかったが、今は神の民である。
」(1ペト2:1
0)霊魂を福音化する者となるために、私たちは、人々の「生」
(人生、生活、生命)に寄
り添うという霊的な持ち味を引き出し、これこそがより大きな喜びの源泉であることを発
見する必要があります。宣教とはイエスに対する熱意であると同時に、イエスの民に対す
る情熱でもあるのです。十字架につけられたイエスの前に立つ時、私たちを高め、支える
イエスの愛の深さを悟りますが、同時に、私たちが霊的な視力を失っていないなら、愛に
燃えたイエスの眼差しがイエスに属するすべての人々を抱擁するために遠くへと伸びてい
ることにも気付き始めるのです。ご自分の最愛の民に近づくために私たちを用いたいとイ
エスが望んでおられることに私たちはもう一度気付きます。イエスはご自分の民のただ中
8
から私たちを引き抜かれ、ご自分の民のもとに私たちを派遣されます。つまり、こういう
ことです。こうした(神の民への)所属の感覚抜きには、私たちは自分たちの根本的な存
在意義を理解できません。
【第二百六十九項】ご自身の民のまさに真ん中に私たちを運ぶこの福音宣教の方法の模範
はイエスご自身です。イエスがすべての人に対して示された親しさを観想することは何と
素晴らしいことでしょう!イエスが誰かに話しかけるとするなら、イエスは深い愛情と気
遣いをもってその人の両眼を覗きこまれます。聖書にはこう書いてあります。
「イエスは彼
を見つめ慈しまれた」
(マコ10:21)。イエスが目の見えない人に近づかれた時(マコ
10:46-52参照)、大食漢で大酒飲みと思われることなど気にせずに(マタ11:1
9参照)罪びとと食べ、かつ飲まれた(マコ2:16参照)イエスはどんなに近づきやす
い方であるかを私たちは知ります。罪深い女が、足に油を注ぐ(ルカ7:36-50)の
を許した時の、また夜にニコデモの訪問を受けた時の(ヨハ3:1-15参照)イエスの
細かい気配りを私たちは知ります。イエスの十字架上での犠牲はイエスの全生涯を貫いた
生き方の最高の到達点以外の何ものでもありません。イエスの模範に促されて、私たちは
社会構造の中へと完全に入って行き、すべての人の「生」
(人生・生活・命)と分かち合い、
彼らの心配ごとに耳を傾け、彼らが必要とすることで物的・霊的に彼らを助け、喜ぶ人と
共に喜び、泣く人と共に泣きたいと思います。こうして腕を組んで私たちは新しい世界の
建設に献身します。しかしそうするのは、義務感からでも、重荷となる〔厄介な〕務めと
してでもなく、私たちに喜びをもたらし、私たちの「生」(人生・生活・生命)に意味を与
える個人的な決断からするのです。
【第二百七十項】時として、私たちはイエスのみ傷を手を伸ばせばやっと届く範囲に置い
ておくようなキリスト者になる誘惑を受けます。しかし、イエスは私たちが人間の悲惨に
触れ、他者の苦しむ肉体に触れることを望んでおられます。イエスが望んでおられるのは、
私たちが人間の不幸という大混乱から身を隠す個人としての、あるいは共同体単位として
の「隙間」を探すのを止め、その代わりに、他者の「生」(人生・生活・生命)の現実に分
け入り、優しさという力を知ることです。そうする時にはいつも、私たちの「生」
(人生・
生活・生命)は、得も言えぬ素晴らしいものとなり、私たちは一つの民に、一つの民の一
部になるべきことを強烈に体験するのです。
【第二百七十一項】
「世」
(世界)と接する際に、私たちの抱いている希望について弁明す
るようにと私たちは主から命じられていますが、世を批判し、糾弾する敵としてそうする
ようにとは命じられていないというのは本当です。私たちが命じられているのは極めて単
純なことです。「穏やかに、敬意をもってそうしなさい」(一ペト3:15)、そして「でき
れば、せめてあなたがたはすべての人と平和に暮らしなさい」(ロマ12:18)。
「善をも
って悪に打ち勝つ」(ロマ12:21)よう、そして「すべての人に対して善を行いましょ
う」
(ガラ6:10)とも言われています。決して自分を他人よりよく見せようとするので
9
はなく、
「へりくだって、相手を自分よりも優れた者と考え」
(フィリ2:3)るべきです。
主の使徒たち自身が、
「民衆全体から好意を寄せられていた」
(使2:47;4:21,3
3;5:13)のです。私たちが他者を見下す高官になるのではなく、民衆の側に立つ人
間となることをイエスが望まれているのは明らかです。これは教皇の思い付きや何よりも
司牧的選択肢の一つとしてではなく、神のみ言葉に含まれている強制的な命令であり、明
瞭で、ズバリそのままであり、私たちを挑発する可能性を持つこれらのみ言葉の力を殺(そ)
ぐような解釈は必要ありません。何の注釈も加えずに(sine glossa「シネ・グロッサ」)、
これらのみ言葉を生きましょう。そうすることで、世界の中心に火をともそうと努力する
中で、私たちは神の忠実な民と「生」(人生、生活、生命)を分かち合う宣教的な喜びを知
ることになるのです。
【第二百七十二項】他者を愛することは神と一つになることへと私たちを近づける霊的な
力です。実に、隣人を愛することのない者は「闇の中を歩み」(一ヨハ2:11)、
「死にと
どまったままで」
(一ヨハ3:14)
、「神を知りません」(一ヨハ4:8)
。ベネディクト十
六世は、
「隣人から目を背けるならなら、神を見ることもできなくなるのです。」
(注二百九
ベネディクト十六世回勅『神は愛』第十六項)
、そして愛は、遂には「闇の世をつねに照ら
し、生き、働き続けるのに必要な勇気を私たちに与える」唯一の光であると既に述べてお
られます。(注二百十 前掲『神は愛』第三十九項)
他者に寄り添う霊性を実際に生き、他者の幸福を追求するなら、私たちの心は神の最も偉
大で、最も美しい賜物の数々に対して大きく開かれます。他の人と愛のうちに出会う時に
はいつでも、私たちは神について何か新しいことを学びます。私たちの眼が、他者の存在
を認めようと大きく開かれる時はいつでも、私たちは信仰の光と神の知識において成長す
るの
です。もし、霊的生活において進歩したいなら、私たちは絶え間なく宣教者でなければな
りません。福音化の働きは知性と心を豊かにします。また霊的地平を拡げます。聖霊の働
きにもっともっと敏感になり、私たちの限られた霊性上の先入観の向こう側へと私たちを
運んでいきます。献身的な宣教者は、とめどなくあふれ、他者を生き返らせる泉となるこ
との喜びを知っています。他者の善を探し求め、彼らの幸せを強く願うことに幸せを感じ
る人だけが宣教者になれるのです。この心の開放性が、喜びの源泉です。というのも「受
けるよりも与える方が幸いである」
(使20:35)からです。私たちは逃げ、隠れ、分か
ち合うことを拒み、与えることを止め、自らの心地良さの中に閉じこもるなら、より善く
生きることはできません。そのような「生」(人生・生活・生命)は緩慢な自殺にほかなり
ません。
【第二百七十三項】人々の真ん中に立つという私の使命は、私の「生」
(人生・生活・生命)
の一部分でも、取り外すことのできるバッジでもありません。またそれは「おまけ」つま
り、
「生」
(人生・生活・生命)における特別な瞬間でもないのです、そうではなく、自分
10
の存在から引き抜こうとするなら自分を破壊しなければならないようなものなのです。私
はこの地上で1つの「ミッション(「使命」
・「宣教」
・「派遣」―訳注)
」そのものです。だ
からこの地上に存在しているのです。私たちは自分自身を、光をもたらし、祝福し、生き
生きとさせ、育て上げ、いやし、解放する使命によって証印を押され、焼き印さえ押され
た者として考えなければなりません。私たちの周囲に魂を持つ看護婦、魂を持つ教師、魂
を持つ政治家、他者と共に生き、他者のために生きることを心の奥底で選び取った人々を
見るようになります。しかし、一度でも自分の仕事を自分の私生活から切り離せば、すべ
ては灰色に変わり、私たちはいつも他者からの承認を求め、自分の欲求を強く主張するよ
うになるのです。私たちは一つの民であることを止めます。
【第二百七十四項】私たちがもし、他者と「生」(人生、生活、生命)を分かち合い、惜し
みなく自分を差し出すべきなら、私たちはすべての人が私たちの自己贈与に値すると気付
かなければなりません。身体的な容姿や、能力、言語、思想信条や私たちが得るであろう
いかなる満足と引き換えにでもなく、その人たちは神の作品であり、神が造られた存在で
あるという、それだけのためにそうするのです。神はその人をご自身の似姿に造られたの
です。そしてその人は神の栄光を映し出しているのです。すべての人間が神の無限の優し
さの対象であり、神ご自身がすべての人間の「生」の中に現存されているのです。外見に
関係なく、すべての人は極みなく神聖であり、私たちの愛を受けるに値します。結果的に、
もし私が少なくとも一人の人を助けて、より善い「生」
(人生・生活・生命)へと導くこと
ができるなら、それで既に私の人生という捧げ物は義とされるのです。神の忠実な民であ
ることは素晴らしいことです。壁を取り壊し、心が顔や名前で一杯になる時、私たちは充
足感を達成するのです。
復活されたキリストと聖霊の不思議なみ業
【第二百七十五項】第二章で、私たちは悲観主義、運命論、疑いへと姿を変える「深い霊
性の欠如」について省察しました。何も変化することはなく、努力するのは無駄だと考え
ているので、宣教に関わらない人々がいます。
「顕著な成果が何も見られないのに、私や私
の快適さ、私の快楽を何故否定しなければならないのか?」と考えるのです。こうした態
度では宣教者となることは不可能です。それは、居心地の良さ、怠け心、漠然とした不満、
空疎な自己中心性に足を掬(すく)われたままでいることの悪意に満ちた言い訳に過ぎま
せん。それは自己を破壊する態度です。というのも「人間は希望なしには生きることがで
きません。そして、それなしには『生』は無意味で、耐えがたいものとなるでしょう。
」
(注
二百十一
シノドス(世界代表司教会議)第二回ヨーロッパ特別会議での閉会の辞、千九
百九十九年十月二十七日)もし、変化は何も起きないと考えるなら、私たちは、イエス・
キリストは罪と死に打ち勝ち、今や全能であられることを思い起こす必要があります。イ
11
エス・キリストは本当に生きておられるのです。別の言い方をするなら、
「そして、キリス
トが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄です。」
(一コリ15:14)最初の
弟子たちが宣教に出かけた時、
「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、
それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」
(マコ16:20)同じことが現
代でも起きるのです。私たちはそのことを見いだし、体験するようにと招かれているので
す。復活され、栄光に上げられたキリストは、私たちの希望の源泉であり、キリストは私
たちに託された宣教を成し遂げるために必要な助けを与えられないということはありませ
ん。
【第二百七十六項】キリストの復活は過去の出来事ではありません。キリストの復活は生
命力に満ちあふれており、その生命力はすでにこの世に行き渡っています。すべてが死に
絶えたように見えるところで、復活の兆しが突然芽吹き始めます。これは抗い難い力です。
神など存在していないかのように見えることが良くあります。つまり、私たちの周囲に、
執拗に繰り広げられる不正義、邪悪、無関心、残酷さを私たちは見ます。しかし、闇のた
だ中に何か新しいものが常に芽を吹き、早かれ遅かれ、実を結びます。壊滅させられた場
所で、生命が断固として、かつ揺るぎなく立ち現われるのです。悪がどんなものであれ、
善は再び姿を現し、広がっていきます。私たちの世界では毎日、美が新たに生まれ、歴史
の風雪を経て変容されつつ、立ち現われてきます。様々な価値は、常に新たな装いの下に
再び登場し、人間は命運が尽きたかに見える様々な状況から次から次へと立ち上がってき
ました。これこそが復活の力です。そして福音宣教に携わる者は皆、この力の道具なので
す。
【第二百七十七項】同時に新しい困難も常に浮上しています。つまり、沢山の痛みをもた
らす失敗と人間的な弱さです。経験によって私たちは皆、務めが私たちの探し求めている
満足をもたらさず、成果は少なく、変化は緩慢で、私たちは消耗する誘惑にさらされるこ
とを知っています。しかし疲労から一時的に腕を下ろすことと、慢性的な不満や魂を枯渇
させる気だるさに打ち負かされて、永久に腕を下ろすことは異なります。最終的に私たち
が、他人からの承認や賞賛、褒美、地位に飢え渇く立身出世第一主義に足を取られるがゆ
えに、こうした骨折りにうんざりしてしまうことも起きます。この場合、腕を下ろすこと
はしませんが、私たちが探し求めているものをもはや掴もうとはしません。復活はそこに
はないのです。こうしたケースでは、この世が与えることのできる最も美しいメッセージ
である福音は言い分けの山の下に埋もれてしまうのです。
【第二百七十八項】信仰とは、また、神を信じること、神は本当に私たちを愛しておられ
ること、神は生きておられること、神秘的な形で介入される能力をお持ちであること、私
たちを見捨てられないこと、ご自身のみ力と無限の創造性を発揮されて悪から善を生じさ
せることを信じることです。それは、神が「召された者、選ばれた者、忠実な者」
(黙17:
14)を従えて歴史の中で、凱旋の行進を行われることを意味するのです。神の国はそこ
かしこで、異なる形で、既にこの世に現存しており、ちょうど小さな種が大きな樹木にま
12
で成長するように(マタ13:31-32参照)、一定量のパン種が、パン生地を膨らませ
るように(マタ13:33参照)、雑草の間から良い種が芽を出して(マタ13、24-3
0)
、私たちにうれしい驚きを与える様に、成長していることを福音が私たちに語りかける
時、福音を信じましょう。神の国は「ここ」にあります。神の国は回復されたのです。そ
して新たな花を咲かせようともがいているのです。キリストの復活はあらゆる場所で、あ
の新しい世界を生み出す数々の種を呼び醒ますのです。たとえそれらが短く刈り込まれて
しまったとしても、また生え出でるのです。というのも復活は既にこの歴史の構造の中に
ひそかに編み込まれているからです。イエスは無意味に復活されたのではありません。私
たちが、生きた希望というこの勝利の行進の観客席に決して座ることがありませんよう
に!
【第二百七十九項】こうした種が育つのを私たちはいつも目撃するわけではありませんか
ら、内面的な信念に基づく確信が私たちには必要です。明らかな後退・挫折の最中にあっ
てさえも、神はあらゆる状況の中で働かれることがおできになるという確信です。この様
に書かれています。「私たちはこの様な宝を土の器に納めています」
(二コリ4:7)
。この
確信はしばしば「神秘に対する感覚」と呼ばれます。それには、自分自身を神に委ねる者
は皆、豊かな実を結ぶ(ヨハ15:5参照)ということを確信をもって知っていることが
含まれます。この豊かな実りは、目に見えず、言葉で定義するのが難しく、数値で表すこ
とができないことがほとんどです。私たちは、どのような理由で、どんな点で、またいつ、
というように断言せずとも、自分の人生が実り豊かになるだろうと十分に理解することが
できます。自分の愛の行いのどれ1つも無駄になることもなければ、他者に対してまごこ
ろを込めて関心を寄せる行いもまたどれ1つとして無駄にならないことを確信するべきで
す。神のために捧げるどんな愛のわざも無駄になることがなく、寛容な努力が無意味なも
のになることもありえず、痛みを伴った忍耐が無駄になることもないのです。しかし、宣
教は、ビジネスの取引でも投資でもなく、人道主義的な活動でもありません。広報・宣伝
によってどれだけ多くの人がやって来たかを数え上げるショーではありません。むしろ、
それは、何かもっと深い、あらゆる数量化を免れるものなのです。私たちが生涯一度も訪
れることのない世界の別の地域に祝福を注ぐために主が私たちの犠牲を用いられることも
あり得るのです。聖霊は、働かれたいと思われる時に、働かれたいと思われる場所で、お
望みのままに働かれます。あっと驚くような結果をあえて見ようという気負いなしに私た
ちは自分自身をお委ねするのです。私たちが知っているのは、自分の献身が必要とされて
いるという事実だけです。私たちの創意工夫に満ちた、気前の良い献身のさなかにあって、
御父の御腕の優しさに憩うことを学びましょう。前進しつづけましょう。御父にすべてを
委ね、神にとってふさわしい時に私たちの努力が実を結ぶようにして頂きましょう。
【第二百八十項】私たちの宣教に対する熱意を生き生きと保つには、聖霊に信頼すること
が必要です。何故なら聖霊が「弱い私たちを助けてくださる」
(ロマ 8:26)からです。
しかし、この惜しみない信頼は養い育てる必要があります。ですから私たちは絶えず聖霊
13
を呼び求める必要があります。宣教に向けた努力の中で私たちを衰弱させるどんなことで
あれ、聖霊はいやしてくださいます。見えないものに対する信頼によって、方向感覚を失
う可能性があることは本当です。深い水の底に沈んでいても、何が見つかるのかもわから
ないようなものですから。しかし、自分を聖霊によって導かれるがままにし、微細な点に
至るまで〔重箱の隅をつつくように〕すべてを計画し、コントロールしようとする企てを
手放し、聖霊に照らして頂き、導いて頂き、方向を決めて頂き、聖霊がお望みになる所に
私たちの手を引いて行って頂くことほど、大きな自由はありません。聖霊は、いつでもど
こでも必要なことをよく御存知です。これこそ、神秘的な次元で実り豊かであることの意
味なのです。
とりなしの祈りの宣教的な力
【第二百八十一項】私たちが福音化〔福音宣教〕の務めに着手し、他者の善を追求するよ
うに駆り立てる祈りの一形態があります。それは「とりなしの祈り」です。ここでしばら
くの間、聖パウロの心の中を覗き込み、パウロの祈りがどんなものであったかを理解する
ようにしましょう。その祈りの中には沢山の人が含まれていました。
「あなたがた一同のた
めに祈る度に、あなたがたと共に祈っています。…あなたがた一同のことを心に留めてい
るからです。
」
(フィリ1:4,7)
。ここで私たちは、とりなしの祈りが、真の観想から私
たちの気を逸らすものではないことを理解します。何故なら、正真正銘の観想には、いつ
も他者のための余地があるからです。
【第二百八十二項】この態度は、他者の存在のゆえに神に感謝の祈りを捧げることにつな
がります。
「イエス・キリストを通してあなたがた一同についてわたしの神に感謝します」
(ロマ1:8)
。それは絶え間ない感謝です。こうも書かれています。
「私は、あなたがた
がキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつも私の神に感謝してい
ます。」
(一コリ1:4)私はあなたがたのことを思い出すたびに私の神に感謝し」
(フィリ
1:3)ています。それは、疑い深さや否定的感情や、絶望とは遠くかけ離れており、神
が他者の「生」(人生・生活・生命)で働いておられることを認める深い信仰から生まれる
霊的な眼差しです。同時に、他者を思いやる心から流れ出る感謝なのです。福音宣教者が
祈りから身を起こし、その心がもっと大きく開かれ、自己陶酔から解放される時、彼らは
善を行い、自分の「生」(人生・生活・生命)を他者と分かち合うことに恋焦がれるでしょ
う。
【第二百八十三項】神の偉大な男女は、偉大なとりなし手です。とりなしの祈りは「三位
一体の中心に置かれたパン種」のようなものです。それは御父のみ心に浸透し、具体的な
状況に光を当てて、それを変えることのできる新しい次元を発見する手立てです。神のみ
心に私たちのとりなしの祈りが触れるのです。しかし、実際には、神の方がまずそこにい
つも最初におられるのです。私たちのとりなしの祈りが成し遂げるのは、神のみ力、神の
14
愛、神の忠実さが人々のただ中でこれまで以上にはっきりと示されることなのです。
Ⅱ「マリア、福音宣教の母」
【第二百八十四項】聖霊と共に、聖母はいつも民の真ん中に臨在されています。マリアは
聖霊の降臨を弟子たちと共に祈り求め(使1:14)、聖霊降臨に起こった宣教者の爆発的
な誕生を可能にしたのです。マリアは福音宣教を行う教会の母であり、マリアなしには新
しい福音宣教の精神を決して理解できないでしょう。
イエスがご自身の民に与えられた贈り物
【第二百八十五項】十字架上で、イエスが世の罪と神のいつくしみとの劇的なせめぎ合い
をご自身の肉において耐え忍ばれた時、イエスは、足元に自分の母親と友の慰めに満ちた
存在を感じることができました。あの重大な瞬間、御父に託された仕事を成し遂げる前に、
イエスはマリアに「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」とおっしゃいました。彼の最
愛の友には「見なさい。あなたの母です」と言ったのです。
(ヨハ19:26-27)死に
ゆくイエスのこれらの言葉は、何も自分の母親に対する献身的な愛情や気づかいの表現だ
けだったわけではありません。むしろ、一つの特別な救済的使命の神秘を明らかにするた
めの啓示的方法だったのです。そうすることによって初めて、イエスは「すべては今、成
し遂げられた」(ヨハ19:28)と知ったのです。十字架のふもとで、新しい創造という
究極の時にあって、キリストは私たちをマリアへと導いたのです。イエスはご自分の母を
私たちの母として残されました。主は私たちをマリアの元に連れて行きました。主は私た
ちが母なしで旅をすることを望まれず、私たちの民は、この母性的な姿の内に福音のすべ
ての神秘を読み取ります。主は、この女性らしさという鑑(かがみ)抜きに教会を放って
置きたくなかったのです。マリアは偉大な信仰によってイエスをこの世にもたらし、
「その
子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守り通している者たち」
(黙
12:17)に寄り添われるのです。マリア、教会、そして信者の一人一人との間の密接
な関係は、それぞれがそれぞれのやり方でキリストをもたらそうとする事実に基づいて、
福者ステラのイサクによって美しく表現されています。
「聖霊の息吹きを注がれた聖書では、
おとめであり、かつ母であることの普遍的な意味において、教会はおとめマリアという個
人としての意味合いで理解される。ある意味で、すべてのキリスト者は、神のみ言葉の花
嫁であり、キリストの母であり、キリストの娘であり、姉妹であり、処女であり、かつ子
沢山なのである。……キリストはマリアの胎という聖櫃で9カ月の間、住まわれた。キリ
ストは教会の信仰という聖櫃に世の終わりまで住まわれる。そして、それぞれの信者の魂
の知識と愛のうちにとこしえに住まわれるだろう。
」
(注二百十二 ステラのイサク『説教』
51)
15
【第二百八十六項】マリアは粗末な布でくるみ、たっぷり愛を注ぐことにより家畜小屋を
イエスの家にすることができました。マリアは、御父に対する賛美を歌う御父のはしため
です。マリアは私たちの「生」
(人生、生活、生命)にぶどう酒が足りないことのないよう
にと常に気を配る友です。マリアはその心臓を槍で刺しぬかれ、私たちの痛みをすべて知
っておられます。すべての民の母として、マリアは正義の産みの苦しみに喘ぐ人々にとっ
て希望のしるしです。マリアは私たちに近づき、生涯を通じて私たちに寄り添い、母とし
ての愛で、私たちの心を信仰へと開きます。真(まこと)の母として私たちの傍らを歩き、
私たちと戦いを分かち合い、神の愛で私たちを常に囲います。ご自身に与えられた多くの
称号を通じて、しばしば聖母巡礼地と結びついて、マリアは福音を受容した各民族の歴史
を共に分かち、それらの民族の歴史的なアイデンティティーの一部となっています。キリ
スト教を信じる多くの親が、新しい神の子供たちを産むマリアの母性に対する信心の印と
して、自分たちの子供を聖母にゆかりのある聖地で受洗させます。これら多くの聖母ゆか
りの巡礼地で、マリアと出合うため、マリアにお目にかかるために多大な努力を払って巡
礼者としてやってきたご自身の子供たちをマリアは一つに集めます。こうして、人々は自
分の人生の疲労や苦しみに耐える力を神から頂くのです。マリアがホアン・ディエゴ(メ
キシコのグアダルーペの聖母が出現された時に立ち合った先住民のカトリック信者。聖人
―訳注)にされたように、マリアは母性的な慰めと愛とをもって、彼らに与え、彼らの耳
元でこう呟くのです。
「心を煩わせてはいけません。…私がここにいなかったら、誰があな
たの母親になるのでしょう?」
(注二百十三
メキシコ先住民の文書『エル・ニカン・モポ
フア』118-119)
新しい福音宣教の星
【第二百八十七項】私たちは生きた福音の母に、福音宣教の新局面が、教会共同体全体に
受け入れられるように取次ぎ(とりなし)を願います。マリアは、信仰に生き、信仰にお
いて前進し、
(注二百十四 第二バチカン公会議『教義憲章』52-69)
、「マリアの並は
ずれた信仰の旅路は、教会にとって変わることのない基準点です。」
(注二百十五 ヨハネ・
パウロ二世
『救い主の母』6)奉仕と豊かな実りという摂理に向かう信仰の旅路にあっ
てマリアは自分を聖霊に導かれるままにしました。今日(こんにち)
、私たちはマリアを仰
ぎ、すべての人に宛てられた救いのメッセージを私たちが告げ知らせるのを助けてくださ
い、そして、新しい弟子たちが順次、福音宣教者になれるよう助けてくださいと願います。
(注二百十六
福音宣教のためのシノドス「提言」58参照)この福音宣教の旅路で、私
たちは無味乾燥、闇、疲労の時を経験するでしょう。マリア自身、ナザレでのイエスの少
年時代の時期にこうしたことを経験したのです。「これが、喜ばしい知らせである福音の始
めなのです。しかし、この始まりに、―十字架の聖ヨハネの言葉を借りるなら―ある種の
信仰の暗夜と結びつけるべき固有の心の重さを見ることは難しいことではありません。人
はこの『ベール』を通じて、見えざる方に近づき、その神秘に親しみながら生きなければ
ならないのです。
」(注二百十七 ヨハネ・パウロ2世『救い主の母』
)
16
【第二百八十八項】教会の福音宣教の仕事に対するマリアの「流儀」
(スタイル)がありま
す。マリアを見上げる時にはいつも、愛と優しさの革命的な性格を私たちは今再び信じる
ようになります。マリアにあって、私たちは謙遜と優しさが弱者の徳目ではなく、自分に
価値があると思いなすために他者をぞんざいに扱う必要のない強者のそれであることを理
解します。マリアを観想することによって、「権力ある者をその座から引き降ろし」
、
「富め
る者を空腹のまま追い返される」(ルカ1:52-53)ことのゆえに神を賛美するマリア
は、私たちの正義の追求に家庭的な温かさをもたらされ方でもあることに気付きます。マ
リアは注意深く「これらの出来事をすべて心に納め、思い巡らせていた」方でもあります。
マリアは偉大なことの中にも些細なことの中にも神の霊の足跡(そくせき)を認めること
がおできになりました。マリアは神の神秘を私たちの住むこの世で、人間の歴史、そして
私たちの日常生活の中で観想されたのです。マリアはナザレに住む祈りかつ働く女性でし
た。そして自分の町から「急いで」
(ルカ1:39)隣人への奉仕に出かける「お助け〔人
助け〕の聖母」でもありました。この正義と優しさとの間の、また観想と他者に対する気
づかいとの間の響き合い(相互作用)こそ、教会がマリアを福音宣教の模範と仰ぐ理由で
す。私たちは教会が多くの人々の家庭、すべての人々の母となれるよう、その歩みが新し
い世界の誕生へと開かれるように、マリアの母としての取次ぎ(とりなし)を切に求めま
す。私たちを自信と揺るぐことのない希望で満たす力をもって次のように語られるのは復
活されたキリストです。「見よ、わたしはすべてを新しくする」
(黙21:5)マリアと共
に私たちはこの約束の成就に向かって確信をもって前進します。そしてマリアにこう祈り
ます。
マリア、おとめであり母である方、
あなたは、聖霊に駆り立てられて
謙遜な信仰の深みに生命のみ言葉を迎え入れられました。
あなたが永遠の御者(おんもの)に完全に自らを与え尽くしたように、
イエスの「良き知らせ」を告げ知らせるという差し迫った神からの呼び掛けに
いつも通りの熱心さで「おおせのごとくこの身になりますように」と
私たちが言うのを助けてください。
キリストの臨在に満たされ、
あなたは洗礼者ヨハネに喜びを運び、
彼の母の胎でヨハネを喜び踊らせました。
喜びに満ちあふれながら、
神がなされた偉大な業についてほめ歌いました。
十字架のふもとに立ち、
不屈の信仰で、喜ばしい復活の慰めを受けられました。
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そして、聖霊を待ち望みながら
福音宣教に励む教会が誕生するように弟子たちと共に
祈られました。
死に打ち勝った生命の福音をすべての人にもたらすことができるよう
復活から生まれ落ちる新しい熱情を、今私たちに取り次いでください。
陰ることのない美の賜物がすべての男女に届くよう、
新しい道を探し求める聖なる勇気をお与えください。
傾聴と観想のおとめよ、
愛の母よ、永遠の婚姻の宴の花嫁よ、
あなたは教会を映し出す曇りのない鑑(かがみ)〔イコン〕ですから、
教会が自分の中に決して閉じ籠らず、
神のみ国を建設する情熱を失わないよう
教会のためにお祈りください。
新しい福音宣教の星よ、
福音の喜びが地の果てにまで届き、
私たちの住む世界の隅々さえ照らし出せるように
一致、奉仕、燃えるような寛容な信仰、
正義、貧しい人々に対する愛を
顔を輝かせて証しすることができますように
私たちをお助けください。
生ける福音の母よ、
神の小さな子どもたちに備えられた幸福の泉よ
私たちのためにお祈りください。
アーメン、アレルヤ!
2013年11月24日、教皇職の最初の年、
「王であるキリスト」の祭日、信仰年の閉幕
に際して、ローマ、聖ペトロ大聖堂にて与える。フランシスコ(FRANCISCUS)
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