Bruce Jackson

Bruce Jackson
2011 年 1 月 29 日、CLAIR との関わりが大きかった偉大なサウンドエンジニア、Bruce Jackson 氏が逝去さ
れました。彼を偲び、素晴らしい偉業と功績をまとめたウィキペディアを翻訳させていただきました。
Wikipedia より (http://en.wikipedia.org/wiki/Bruce_Jackson_(audio_engineer)
Bruce Jackson (1948 年 6 月 3 日∼2011 年 1 月 29 日)はオースト
ラリア人のサウンドエンジニアで、音響・照明・ステージを手がける JANDS
社の創始者である。1970 年代にアメリカ人のサウンドエンジニア Roy
Clair 氏と出会い Elvis Presley のモニターをミキシングする経緯に至る。
また Clair 氏と共にカスタムミキシングコンソールを始めとするオーディオ
機器の設計を行った。1978 年からは Clair のサウンドシステムを使い
Bruce Springsteen のバンドエンジニアを 10 年務めている。シドニーに
Wembley スタジアムで Springsteen をミ
ックスする Jackson 氏。(Born In The
ある Fairlight CMI 社のビジネスに興味を持ったことがきっかけでデジタ
USA" tour, 1985) 1975 年に設計した
折りたたみコンソールを 2 台使用。
ルオーディオに深く携わるようになり、当時住んでいた CA 州サンタモニカ
に Apogee Electronics 社を立ち上げた。Apogee 社の株を売り、Roy
Clair 氏、Tony Clair 氏と共にコンサートサウンドシステムをコントロールする Clair iO を開発する合弁事業を
設立した。その後 Dave McGrath から Lake 社の技術力を借りて商業化することに成功、Dolby の研究機関
がこの技術を買収し、Jackson 氏を副社長とする Dolby Lake 社が設立された。2009 年には Lab.gruppen
が商標を買収、2005 年に Jackson は Parnelli Innovator 賞を受賞した。Apogee 社に携わりながら、1993
年から 2007 年まで Barbra Streisand のツアーでミキシングとシステムデザインを担当。『Barbra:The
Concert』という Streisand のテレビ特番でもミキシングとシステムデザインを手がけ Jackson を含めた 3 名
のスタッフはエミー賞を受賞した。2000 年のシドニー夏季オリンピックにおいては開会式と閉会式のオーディオ
ディレクターを務め、2006 年のアジア競技大会(カタール・ドーハ)で、また 2010 年の冬季オリンピック(カナ
ダ・バンクーバー)でも同様にオーディオディレクターを務めた。
JANDS
Jackson の両親が所有していたマンションはシドニーの東側に位置する New South Wales 州 Vaucluse の
Point Piper にあった。(このマンション『Altona』はオーストラリアで最も高額とされていた) そのマンションの地
下に小さな研究所と作業台を構えたのが 13 歳の時、電子機器に興味を持ち始めたころであった。Vaucluse の
男子校に通っていた Jackson は同じく電子機器に興味を持っていた仲間達と共に放課後、非常にパワフルな
AM トランスミッターを使い、商業用電波の AM 帯(一番端のハイエンド)に合わせて違法なラジオ放送をしていた
のを郵政公社に見つかった。そのシグナルはシドニー全土に届いていたと言う。その時まで彼らは自分たちの
作ったチューブトランスミッターや長く伸ばしたアンテナがそこまで高性能なものだとは思ってもみなかった。
Jackson が 17∼18 歳のころ、ビジネスパートナーの Phil Storey と『J&S Research Electronics』を立ち
上げた。(J&S は 2 人の苗字のイニシャル) Ellis D.Fogg (LSD Fogg)として活動するサイケデリック照明効
果のプロデューサー、Roger Foley 氏が当時の 1 番のクライアントだったが、彼が小切手の会社名を省略して
『JandS』と書いていたことがきっかけで、後に会社名を『JANDS』と変更する。会社を Point Piper から Rose
Bay に移転させ、Jackson の言葉を借りると『何でも気の向いたままに』製作活動を行った。照明機材、ギター
アンプ、ラウドスピーカーなどの PA システム… 『ベトナムに赴任していたアメリカのビジネスマンが休暇をシドニ
ーで過ごしていたのでオーストラリアのクラブやコンサートには大勢の客が入った。ライブミュージックビジネスは
発展を続け、とても忙しかった』と Jackson は語っている。レンタルビジネスが成功した JANDS は新製品開発に
乗り出す。2 年後 Storey との軋轢が高まり Jackson は JANDS を去るが、その後 JANDS はオーストラリア
最大手の音響・照明会社となった。
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Clair Brothers との関わり
1969 年∼1970 年の Blood, Sweat & Tears ワールドツアーで Randwick Racecourse(シドニー)公演を
行った際、Jackson は Roy Clair と初めて出逢う。当時 Clair が持ち込んでいた PA は、オーストラリアでは珍
しかった大きなアメリカ製のコンサートサウンドシステムで、Jackson はその音や、黒くて大きな『W』ケースがど
のように設計されたのかに興味津々であった。Jackson は友人と会場に忍び込んで Clair を見つけ、いくつもの
質問をぶつけた。Johnny Cash のオーストラリアツアーを半年後に控え、アメリカから機材を再び船で輸送する
必要があった Clair はその分の機材を Jackson に預けてしまうことを決めた。半年機材を保管した後 Jackson
はその機材を使ってオーストラリアツアーを行いミキシングも担当した。後日 Clair は Jackson をペンシルバニ
ア州リティッツに呼びよせる。ロンドンへ寄った後、Jackson は Clair Brothers を訪れしばらくペンシルバニア
州に滞在した。
Jackson は Ron Borthwick とチームを結成し、折りたたむとロードケースになるミキシングコンソールを設計し
た。このコンソールにはサウンドレベルの平均値とピーク値が両方表示されるうえ、ピークメーターと VU メーター
の特性を結合することができる斬新なプラズマ棒グラフメーターが採用され、Clair で 12 年間、トップアーティス
トのツアーで独占使用された。Clair の製作したコンソールは 10 台で、これらはパラメトリック EQ が組み込まれ
た最初のコンソールである。
Elvis Presley
Clair Brothers 社の一員となった Jackson は Elvis Presley のツアーでモニターミキシングを担当する。(こ
のときの FOH は Bill Porter 氏) すべての音響機材は Clair が提供し、Jackson はパワフルなステージモニタ
ーシステムを設計した。さらに、客席を広く取るため、PA をスタッキングせずにチェーンとモーターを逆さまに使っ
て客席頭上の梁に吊り上げるシステムを考案。現在最もよく使われる方法となっている。また、当時コンサート録
音を何度も行っていたと Jackson は明言しているが、全て未発表となっている。
Clair のサポートを受けていた当時、いわゆる『モニターエンジニア』というものは存在せず、モニターミックスは
FOH の Porter が担当し、Jackson が振り分けを行っていた。モニタースピーカーからの自身の声が聞きやす
ければ聞きやすいほど、プレスリーのパフォーマンスが良くなる事に気づいた Jackson は、ステージ横にモニタ
ーミキシングのスペースを作ろうと主張した。反対の声を何とか説得しモニターエンジニアのポジションを得るこ
ととなる。『モニターエンジニア』の立場を確立したのは Jackson なのでは、という問いかけに対し、「いいや、時
代の波に乗っただけだ」と答えたと言われている。
Graceland でのリハーサルやサウンドチェックに顔を見せないプレスリーのモニターエンジニアを務めるのは容
易ではなかった。コンサート開演間近に現れ、そのままステージへ直行して歌を歌うプレスリーは、システムの音
を聴いたことさえなかったようだ。コンサートの最中にモニターを変更させることはもちろん、show を中断させて
Jackson を呼びつけ 2 万人の観客の前でステージに立たせモニターを聞かせながら歌うこともあった。テキサス
州 Fort Worth でのコンサートでは Jackson のために観客に『ハッピーバースディ』を歌わせた。「信じられない
ほど素晴らしい、だけどもとても恥ずかしい時間だった」と Jackson は振り返った。1977 年のテレビ番組、
『CBS Special』でも、ステージ脇のミックスポジションで彼の姿があった。また 1977 年 6 月 26 日のコンサート
最中、プレスリーの口からこんな言葉が飛び出す。「私を担当してくれているサウンドエンジニア、オーストラリア
出身の Bruce Jackson に感謝の意を捧げたい。」図らずもこの日がプレスリー最後のパフォーマンスとなった。
プレスリーのツアーは他の仕事とは一味違っていた。プレスリー一行は 4∼5 機の飛行機でコンサート会場を移
動していた。振り分けは①プレスリーと一部の取り巻き、②バンド、③プレスリーのマネージャーである Colonel
Tom Parker、④アシスタントやスタッフ、そしていつも皆より先に到着しなければならない RCA Records のマ
ネージメントがリアジェットを使っていた。1973 年の 6 月∼7 月の内 2 週間、プレスリーは真っ黒に塗装された
DC-9 機で移動した。この飛行機は後部に Playboy のロゴが入っており、通称『Big Bunny』と呼ばれた。プレ
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スリーに選ばれた Jackson を含むスタッフはバニーガール(Jet Bunnies)から食事や飲み物のサービスを受
けたと言う。Jackson がミキシングを担当したプレスリーのコンサートは数百本、彼の仕事人生は休みなく続く旅、
肉体的にハードな労働、他では経験できない日々で満たされていた。1977 年、Jackson がプレスリーの訃報を
聞いたのはポートランド(アメリカ・メイン州)で次回ツアーの打ち合わせをしている最中であった。
フリーランスエンジニア
Bruce Springsteen のツアーでは Clair が音響機材を担当したものの、Jackson はフリーランスのエンジニア
としてアーティストと直接契約を結ぶ。1978 年から 1988 年まで、『Darkness』、『The River』、『Born in the
U.S.A』、『Tunnel of Love Express』などの有名なツアー4 本を含むミキシングを担当した。アルバム、
『Live/1975-85』のクレジットには彼の名前が挙がっている。ツアー前には Springsteen と E-Street バンド
が Lititz の Clair Brothers を訪れ新しいサウンドシステムのコンポーネントや照明効果を視察し、スタッフは技
術的な打ち合わせをする機会を与えられた。コンサートやリハーサルで使われたのは Jackson がデザインした
折りたたみ式のコンソール。Springsteen は Jackson のことを親しみを込めて『BJ』と呼んでいた。
Springsteen が自身のコンサートサウンドに対して特別に厳しい人だと Jackson が気づくのに時間はかからな
かった。新しく訪れる会場で BJ を伴い、全てのブロック、一番後ろの列を含む全客席まで E-Street バンドが演
奏するのを聞きに行く Springsteen。ある日、なぜ一番後ろは音が悪いのか、どうにかできないのかという
Springsteen の問いに対し Jackson は「いくらでも方法がある」と答え、Clair と共に思案した結果が、距離と
共に薄れてしまう高周波数帯を増加させる円形ディレイスピーカーを遠くの客席付近に設置する方法であった。
こうすることで遠くの席でもハイハットの音がキレのある透明な音として聞こえ、以前と比べて音質が格段に上が
った。常に全ての客席に高音質のサウンドを届けることを目標とした Springsteen の気持ちに応え、ツアーが
進むにつれて音質はどんどん上がっていった。1984 年に行われた最も大きな会場でのコンサートでは円形ディ
レイが 8 セット置かれていた。
1985 年の『Born in the U.S.A』ツアーでは初の試みとしてラウドスピーカーを『チェッカーボード』のように設置。
システムが大きすぎて非現実的になる可能性は十分にはらんでいたが、L と R
のステレオシグナルをラウドスピーカー縦 1 列(8 本)ずつ交互に送り立体的な
音響を客席に届けることを目標としていた。Popular Mechanics の記者による
と、大きなアリーナ及びスタジアムで使用したラウドスピーカーはメイン 160 本、
オグジュアリー40 本で、メインは 54 フィート(16m)の高さでセッティングされ、
オグジュアリーのスピーカーでステージ周りの客席がカバーされていたようだ。
各キャビネットには 18 インチの LOW 周波数帯コーンドライバーが 2 本、10 イ
ンチの MID 周波数帯コーンドライバーが 4 本、HI-MID コンプレッションドライ
バーが 2 本、HI 周波数帯コンプレッションドライバーが 2 本入っていた。200
本のラウドスピーカーは 96 アンプチャンネルでドライブされ、稼動電力は
380,000W に上った。このツアーに関して「こんなにキレがあって歪みのない
パフォーマンスは滅多に見れない」という批評家の賞賛を受けている。Gene
Clair が『ベストサウンドエンジニア』として賞を受賞した 1985 年の TEC アワ
ードには Jackson も同じ賞でノミネートされていた。
大規模なコンサートにおいて
L と R のステレオチャンネルを送った
キャビネットを交互に配置した例
Springsteen のバンドミュージシャン一人一人が望む音を返せるようにと彼らと深く関わりながら仕事をしてい
た Jackson。キーボードの Danny Federici から Hammond B-3 オルガンをカットするか、という相談を John
Stilwell と共に受けたり、サックス担当の Clarence Clemons とはいつもマイクの話をしていた。後日
Clemons と Jackson によって開発されたマイク装置でサックスの音を拾うこととなる。ベースの Garry Tallent
は記者に対しベースの説明をし終わると「あとは神と Bruce Jackson 次第です。」と親指を立てて話し、
Jackson の大きな存在感を感じさせた。
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Jackson はプレスリーとも近い存在ではあったが年齢差が大きかった。一方、Springsteen は Jackson と同
年代だったため 2 人は友達のようになる。コンサートの成功に貢献した、として感謝の気持ちをこめ
Springsteen は Jackson に Jeep をプレゼントしたと言う。その Jeep について Jackson は「ボンボン跳ねな
がら移動するのに疲れて売り払ってしまった」と語った。息子 Lindsey の誕生を機にツアーに携わるのを辞め、
カリフォルニア州サンタモニカに落ち着いた彼はオーディオ機器の開発にしばらく没頭した。
Barbra Streisand
10 年ぶりに開催される Barbra Streisand のコンサートをミキシングして欲しいと彼女のプロデューサーが
Jackson にコンタクトを取った 1993 年、彼はデジタルオーディオ機器の企業家となっていた。良いサウンドを作
るため出来ることは何でもする、と契約書にサインして熟考し Wembley スタジアムや Madison Square
Garden などの大きな会場では音の反射をなくすために高価なカーテンを壁につるしてカーペットを敷くことを決
めた。Jackson は Streisand が 1960 年代以降に作られたモニタースピーカーをどれも気に入っていないと分
かると、ミッドレンジとハイレンジに 1970 年代以降最も多く使われていたパワフルなコンプレッションドライバー
ではなく、ソフトドムドライバーを使用したウェッジを設計した。メインのサウンドシステムには Clair Brothers に
よって新しく開発された『i4』と言うラインアレイシステムを採用。ステージのノイズを除去したり一人一人の楽器
を際立たせてミックスできるイヤモニの使用は Streisand には拒まれたがバンドには受け入れられた。ステージ
モニタースピーカー、ラインアレイ、贅沢な環境作り。全てが Streisand に気に入られ、Jackson は彼女に「世
界で 1 番のサウンドエンジニア」と言わしめた。
『Barbra:The Concert』という Streisand のテレビ特番のミキシングも Jackson が担当。映像ミキサーの Ed
Greene、Bob La Masney と共にライブサウンドデザイン&ミキシング部門でエミー賞を受賞した。他に
1999-2000 Timeless: Live in Concert ツアー、1999 年 12 月 31 日の MGM Grand Garden アリーナ
(ラスベガス)でのカウントダウンライブなどのサウンドデザインも手がけた。2000 年、シドニーとメルボルンの公
演では大勢のコーラス隊がいる会場(騎馬ホッケー場の近く)と光ファイバーをつないでミキシングを行ったが、こ
れは半年後の夏季オリンピックに向けた公開予行練習であった。
2006 年∼2007 年の Streisand の US ツアーとワールドツアーでは客席を 1 つでも増やすため小さめのデジ
タルコンソール、Digidesign Venue を採用、またプラグインのオーディオエフェクターが新たに使用された。さ
らにこのツアーでは 3 台のコンソールから直接 128ch のハードディスク録音ができる ProTools が併用された。
3 台のうち 1 台は弦楽器、1 台は管楽器、リード楽器、パーカッション、1 台は Jackson 用で、Streisand のマ
イクインプットやステムミックスは他のコンソールを使っていた。ニューヨークとワシントン DC で行われたレコーデ
ィングはリミックスされてアルバム『Live In Concert 2006』に収録されているが、その中で Jackson の名がサ
ウンドデザイナーとして記載されている。サウンドデザイナーと FOH エンジニアのポジションを Chris Carlton と
2 人で担いながら、Streisand が通るであろう道には必ずソフトドムウェッジが的確に配置されていることを徹底
した。Clair Brothers がこのツアーのために準備した Dolby Lake プロセッサーは 18 台、Jackson はこのほ
とんどをメインサウンドシステムのチューニングに利用し、他を Streisand や前座の Il Divo のウェッジコントロ
ールに使った。Streisand の声に合ったワイヤレスマイクの検証を行った結果、Sennheiser SKM5200 トラン
スミッターと Neumann KK105 S スーパーカーディオイド・カプセルに落ち着いた。あらゆるアリーナでこのマイ
クを使ってサウンドシステムをテストしていたが UK∼ヨーロッパでカプセルを Røde に変更した。これは
Jackson の要望にあわせて作られたオリジナルで『Jackson Special』と呼ばれた。Madison Square
Garden など録音トラックまで 800 フィート(240m)ものケーブルを使う会場では音が変わってしまうのを防ぐた
め、複数のコンソールへアウトプットを送るマイク全てに Millennia のマイクプリアンプが使用された。
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その他のアーティスト
プレスリーや Springsteen、Streisand に加え、Jackson がミキシングを担当したアーティストは Diana Ross、
Stevie Wonder、Rod Stewart and the Faces、Barry White、Jefferson Airplane、Ozzy Osbourne、
Carly Simon、Three Dog Night、The Jackson 5、Cat Stevens、Glenn Campbell、Art Garfunkel、
Procol Harum、Lou Reed などが挙げられる。Springsteen がツアーをしていない 1983 年の 6 月から 11
月には Stevie Nicks の『The Wild Heart Tour』のミキシングを行った。MTV 用に Burbank で収録された
Fleetwood Mac のライブから 14 年後、アルバム『The Dance』がリリースされている。
世界的イベント
1998 年、Jackson はシドニーオリンピック組織委員会(SOCOG)から、2000 年のオリンピックでミキシングを
担当してくれないかと打診される。この時、Jackson はコンソールの後ろに立つだけよりも、オーディオディレクタ
ーとして、またその責任者として仕事をすればこれまでの力を最大に発揮できるのではないか、と感じたと言う。
彼はまず音の衰弱や雑音なしに大きな会場同士を光ファイバーでつなぐ設備を整えるためオーディオチームを
結成した。実際会場にいる観客は 11 万人、そしてメディアを通して見守る観客は世界中で 30 億人。そんなイベ
ントのシステムにミスがあってはならないと充分なスペア機材を準備した。「予算内で仕事をする、というのはとて
も大切な要素。Streisand との仕事でもそうだったが」と Jackson は語った。彼はオーディオディレクターとして
9 月 15 日の開会式、10 月 1 日の閉会式を取り仕切った。オリンピックの前、記者に対して Jackson は「私に
は充分にリハーサルを行ったスタッフがついており、失敗する気がしない。そう言える根拠は山のようにある。」と
話した。
2006 年、カタール・ドーハで開催された第 15 回アジア競技大会でも Jackson はオーディオディレクターを務め
た。この時、開会式と閉会式に採用されたシステムは L-ACOUSTICS の KUDO システム。光ファイバーが気温
の高さや急なスコールに耐えられると判断した Jackson は各会場をデジタルオーディオで繋いだ。Lake
Contour と Dolby Lake プロセッサーが共に使用された。
シドニーでの成功を受け、Jackson は 2010 年カナダのバンクーバー(ブリティッシュ・コロンビア州)で開催され
た冬季オリンピックでもオーディオデザイン・制作を任されることとなる。この時も開会式と閉会式を取り仕切った。
BC Place スタジアムの音響設計においては観客席を下から狙うスタッキング・スピーカーは 1 本も存在しなかっ
た。下から狙った場合、天井からの反射が大きくなってしまうと考えた Jackson は、天井から(グランドレベルか
ら 100ft、30m の地点で)スピーカーをリング状にハンギングして上から観客席を狙うことを決定。リングは 2 重
で、内側のリングは 12 本の Clair i3 を 1 アレイとして 8 アレイ、外側のリングは 7 本の Clair i3 を 1 アレイと
して 12 アレイ+サブウーファーが 16 本、共にハンギングされた。これらのスピーカーは 160 台の
Lab.gruppen アンプでドライブされた。このアンプも天井からハンギングされており、ネットワークはダンテ、電
源はトリプルリダンダント。FOH コンソールは DiGiCo D5 を 2 台、モニターコンソールは Yamaha PM1D を 2
台(それぞれスペア 1 台ずつ含む)が用意された。その他の機材としてはデュアルリダンダントの光ファイバー、
Dolby Lake プロセッサー2 台、フェアライトが 2 組(タイムコードジェネレーターとして、また会場の動きに合わ
せてオーディオキューをコントロールするために使用)など。
そして Jackson は 2010 年 4 月 30 日に開会式が行われた上海エキスポでもオーディオディレクターを務めた。
キュー出しはフェアライトシステムを Studer(ルーティングとディストリビューションを行う機材)に繋ぎ
Soundcraft のデジタルコンソールとアナログコンソールにシグナルを送った。また、黄埔川に沿って並べた 72
台のアンプラックにはそれぞれ BSS Audio ラウドスピーカーコントローラー、Crown International アンプを
搭載。スター型配線、デュアルリダンダントの光ファイバーケーブル(約 64km)が繋がれ、400 台以上の JBL ラ
ウドスピーカーがドライブされた。
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デジタルオーディオ
1979 年、Jackson は Springsteen のツアーの合間に、アメリカを縦横しながらオーストラリア人の Peter
Vogel と Kim Ryrie によって作製されたデジタルサンプラー『Fairlight CMI』のプロモーション活動を行ってい
た。(Ryrie と Jackson は Point Piper で隣通しに住んでいた幼馴染だった) 当時の Fairlights は法外に値
段が高く、24kHz サンプルレートはオーディオマスタリングには低すぎるとされていたが、作曲にすごく便利なツ
ールであることがすぐに広まるだろうと Jackson は考えていた。サンプラーに目を付けたのは NY の Power
Station レコーディングスタジオを創設した Tony Bongiovi や Rick Wakeman であった。サンプラーを見せら
れた Springsteen は「おお、すごい機材じゃないか、BJ。でも一体僕にこれをどうしろと言うんだ?」と言ったと
いう。
結局 Jackson が買ってくれるだろうと期待していた人物には 1 台も売れ
ず 1 年が過ぎたが、Harbie Hancock、Stevie Wonder、Geordie
Hormel らが 1 台 27500 ドルで 2 台購入する運びとなった。『Journey
Through the Secret Life of Plants 』 を Computer Music
Melodian サンプラーで収録したばかりだった Stevie Wonder は自ら
の小切手にサイン+拇印して Fairlight を購入。また、次のツアーのミッ
ク ス を 担 当 し て く れ な い か と Jackson に 打 診 し 交 渉 は 成 立 す る 。
Fairlight に深く携わることで Jackson は初期のデジタルオーディオの
弱点、ノイズや不協和音の歪みなどについてはっきり認識する。
1985 年 4 月、Springsteen の日本公演。Jackson は CD プレイヤー
で再生された音を初めてコンサートサウンドシステムで聞くこととなる。そ
Fairlight CMI
の音を好きになれなかった彼は 16-bit と 44.1kHz におけるプレイバッ
クや録音に問題があることを感じ、原因を突き止めれば解決できるのではと考えた。
初期のサンプラー
アポジー・エレクトロニクス
Springsteen の『Born in the U.S.A』ツアー終了後、デジタル機器デザイナーの Christof
Heidelberger、そして Soudncraft US の代表である Betty Bennett とデジタルオーディオの
今後に関して話し合いの場を設けた。この 3 人で 1985 年 12 月に Apogee Electronics を立 Apogee の
ロゴ
ち上げ(Billboard の 11 月 23 日号に記載)、44kHz デジタルオーディオ周期に関連する音の
問題について研究を開始した。その結果、必要以上に傾斜のついた『テキストブック・フィルター』
が、CD プレイヤーのアウトプットを 20kHz(音楽にはほとんど含まれていないハイレベルのシグナル)から守ろ
うとする働きを持っていることを発見する。CD の収録過程で Low-Pass フィルターを使えば、傾斜が緩くなって
可聴範囲内の位相切替えも少なくなるので音質が向上するという結論に達し、録音機材用のアンチエイリアス・
フィルターを製作した。Jackson のガレージから始まったこの小さな会社で Jackson は代表取締役となり、
Bennett は営業部長を務めた。1986 年 11 月、LA で開催された音響技術協会第 81 回集会で最初の製品を
発表。Sony PCM-3324 などのマルチトラック・デジタルテープレコーダーに使われていたフィルターに取って代
わる製品となる 944 シリーズ(低分散性、直線位相のアクティブ低域フィルター)である。最初はなかなか売れな
かったもののだんだん売れ行きが伸び、結果 3 万個を売り上げるヒット製品となった。1988 年、944 シリーズは
TEC アワードを受賞。この後 Apogee 社はいくつも賞を受賞していくこととなるが、これが最初の賞であった。
Apogee のブランド戦略はほぼ Jackson が手がけた。2005 年、Bennett は紫色の製品を売るという会社の
決断は Jackson のアイディアが元になっていると語った。「Jackson はデザインに関して鋭い視点を持っていま
した。当時ラック機材は黒ばかりだったので差をつけたかったのです。」と Bennet。ある夜、Jackson が会食の
場で Clair Brothers の照明デザイナーに頼んで紙ナプキンに描いてもらった絵が、Apogee 社のロゴとして即
採用された。
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1994 年に Jackson は Billboard からデジタルオーディオに関して取材を受ける。Apogee 社の代表として、
そしてチーフエンジニアとして Jackson はデジタルサウンドが、皆に好まれる温かで自然なアナログの音に限り
なく近づいている、と語った。それから 10 年後、Jackson は『スペックが大きければ大きいほどいい音になる』と
いう説に警鐘を鳴らした。現実的に、現場の会場では音に影響を与える様々な要因があり、そのような場所では
96kHz より 192kHz のサンプリングレートの方が良いと位置づけられることが多いのだとも付け加えた。(速度
が倍になるため)
1990 年代半ばに Jackson 夫妻の離婚が成立し、財産分与として Apogee の株を売却したため、その後
Bennett が CEO に就任した。
ラウドスピーカー・マネージメント・システム
Apogee を退社した Jackson は Clair Brothers と共にコンサートサウ
ンドシステムのデジタルコントローラーの開発に取り組む。当初、彼が予
想した投資額は 80 万ドルだったが、結果 Clair が費やした額は 200 万ド
ル以上にのぼった。Apogee をスタートしたガレージで、現 Clair iO(2x
インプット、6x アウトプット デジタルオーディオマトリックス{光アイソレー
ター アウトプット回路})の開発に没頭した。一番重要視したポイントは、
サウンドエンジニア自身がワイヤレスのタブレットを持ち歩いて観客席を
歩き回り、システムの音を正確に合わせていくことだった。Jackson は
Lake Technology の Dave McGrath と共に商業用のコントローラーで
ある『Lake Contour』(本質的にハードウエアは同じだが違うソフトを使
用)を製作。McGrath と Jackson は初期の合併事業である『Clair
Technologies LLC』を設立した。また、2004 年には Lake が Dolby
Laboratories によって買収され製品部に携わり続けた Jackson は
Dolby で副社長に就任した。2005 年までに 3000 台が製作され、この年
ブラジル Gigantinho スポーツアリーナでの
のトップ 10 に入るコンサートのうち 7 組のアーティストがこのコントローラ
Hillsong United ショー。4 つの丸いディスプ
レーが特徴の Dolby Lake Processor がラッ
ーを使用していた。2005 年には 3 番目の配偶者である Terri と子供達
クに入っているのが分かる。
と共にシドニーへ引っ越すが 11 月には Parnelli Innovator 賞を受け、
授賞式に参加するため一度アメリカへ戻っている。2006 年、設計を再度やり直し、ラウドスピーカークロスオー
バーとして 4x インプット、12x アウトプット(システムイコライザーとしては 8x インプット、8x アウトプット、もし
くはクロスオーバー2 台、イコライザー4 台のミックス)が可能な『Dolby Lake Processor』を発表。Smaart の
オーディオアナライザー・ソフトウエアと共に使用することも可能となった。2007 年、Dolby はスイスのオーディ
オ機器メーカーLab.gruppen 社と共同で開発を行うことを発表。Jackson の技術は Lab.gruppen の
Powered Loudspeaker Management(PLM)システムに生かされた。2 年後 Lab.gruppen は Lake の商
標を 買収し引き続き PLM や他の製品の開発を行うこととなった。 Dolby の John Carey は「 聖火を
Lab.gruppen に託すことはこの業界の技術が進歩を続け発展していくことにつながります。そうなれば Lake
はこれからも皆の心の中で愛され続けていくでしょう。」と語った。
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パイロット
Jackson は飛行機の操縦にもとても熱心だった。若いうちから免許を取
り、よく趣味で飛行機を操縦した数少ないサウンドエンジニアの一人だっ
た。1970 年代、プレスリーのコンサートの合間に Lisa Marie と名付けら
れたプレスリーの自家用ジェット『Convair 880』を操縦したこともある。
(Lisa Marie はプレスリーの娘の名前から命名) プレスリーのバンドリハ
ーサルが Graceland(プレスリーの自宅)で行われたときは、Lititz から
Memphis までマイクスタンド、ケーブル、モニタースピーカーを後ろに積
んで 800 マイル(1300km)の距離を飛行機で移動した。Graceland の
ラケットボールコートで少しリハーサルを行ったバンドメンバーはめった
に下りてこないプレスリーを Jungle Room で待ちながら談笑していた。
エルビスプレスリーのジェット機
Jackson が所有していたのは 1975 年製の Grumman American AA-5B Tiger。1979 年には Tait
Towers という照明会社を立ち上げた Michael Tait という友人にこれを売り、よりパワフルな Mooney M20J
を購入。(1978 年 12 月 7 日登録) これに Fairlight サンプラーを載せてアメリカを飛び回りスタジオやミュージ
シャンなどにデモンストレーションを行った。Herbie Hancock がサンプラーに興味を持っていることを聞いた
Jackson は 15 時間かけてニューヨークから LA に渡ったという。2005 年シドニーにある Jackson のオフィス
で行われたインタビューでは、このセスナは古い音響機器や記念品などと共にカリフォルニアの格納庫にしまっ
てあり、カリフォルニアに行かないと乗ることが出来ないので寂しいと語った。オーストラリアまで操縦することも
考えたが、妻に反対されたと笑った。
航空学にも興味があった Jackson は 2010 年半ば、友人を伴ってセスナでモハーヴェ空港&宇宙港へ訪れ、
Virgin Galactic の商用宇宙船『VSS Enterprise』の初のテスト飛行を見学した。
逝去
2011 年 1 月 29 日午後、デスバレー国立公園のビジターセンター近くのファーネスクリーク空港(北アメリカで
最も標高が低い滑走路)に着陸した Jackson。飛行計画はファイルから見つかっていないが、短時間の休憩後、
サンタモニカに向けて離陸を開始したとき、空はきれいに晴れていたという。しかし数分後 Jackson は 6.5 マイ
ル(11km)離れた水のない湖に墜落、死亡した。遺体は 1 月 31 日の朝、公園管理者によって発見され検証が
行われたが、事故の詳しい原因は分からなかった。配偶者の Terri、娘の Brianna と妻の連れ子の Aja、2 番
目の妻 Ruth Davis、息子の Lindsey と娘の Alex、1 番目の妻 Margaret (New South Wales 大学で出
会って 10 代の時に結婚、Jands 起業時や Clair で勤務するためアメリカへ引っ越したときも一緒だった)などは
悲しみにくれた。
Jackson の記念式典は 2011 年 2 月 25 日にシドニーのオペラハウスで執り行われた。500 人ほどの参加者
の前で数々の逸話や思い出話などが、Roy Clair や David McGrath などの同僚、そして家族によって語られ
た。また Springsteen や U2、 Streisand や彼女のマネージャー である Martin Erlichman、そして
Fleetwood Mac のメンバーからのメッセージビデオが流された。
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