ベネズエラのソト美術館を訪ねて

2. 寄稿: ベネズエラのソト美術館を訪ねて
荒垣さやこ(ライター・美術展企画者
荒垣さやこ(ライター・美術展企画者)
ライター・美術展企画者)
昨年秋、目黒のラテン文化センター、カフェ・イ・リブロスでのラテンアメ
リカ文化関連のイベントで、同所の代表 礼子・デレオンさんから時事通信の
横井弘海記者を紹介された数日後、「突然ですが・・・」と仰って、翌週10月
初頭のベネズエラ取材旅行へのお誘いを頂いた。とはいえ、ベネズエラは遠い。
しかもフランクフルト経由、と聞いて、正直いささかひるんだ。しかし、私の
永年研究してきた現代キネティック・アートのパイオニア、ヤーコブ・アガム
の“同志”的存在であるヘスス・ラファエル・ソトの故郷だったなあ・・・と
いうのが私のファースト・リアクションだった。それで、
「もしもソトの作品を
網羅的に見られるなら・・」ということで決心した旅であった。
ベネズエラの首都カラカスから飛行機
で約一時間、オリノコ河の川幅が約1マ
イルほどに狭まったところにある、人口
約29万人の港湾都市ボリバル市
(Ciudad Bolivar)。ここには、ベネズエ
ラが世界に誇る現代美術の大家ソトにち
なんだ、ヘスス・ラファエル・ソト近代
美 術 館 ( Fundacion Museo de Arte
Moderno Jesus Soto)がある。
Jesus Rafael Soto
ソトは1950年代に勃興したキネテ
ィック・アート(動きの芸術)の旗手の
ひとりで、ヤーコブ・アガム、ポール・
ビュリー、ジャン・ティンゲリーらと並
んで世界的に知られている。パリのポン
ピドゥ・センターのエントランスホ ール
の天井から吊るさがった黄色の作品は、
ご記憶の方も多いかもしれない。ニュー
ヨークの MOMA やグッゲンハイム美術
館、パリのポンピドゥ・センターのみな
らず、日本でも東京の原美術館や福岡市
美術館で彼の作品を見ることができる。実際、日本には彼の繊細な作品世界の
熱烈なファンが多く、1990年から91年にかけて「視覚の魔術師 ラファ
エル・ソト展」が日本の四都市で開かれている。1996年、パリのシャンゼ
リゼ大通りの両側に屋外彫刻を並べた大展覧会「Champs de la sculpture」に
ソトが出した作品も記憶に残るものだが、筆者は今回、これの小さいバージョ
ンをソト美術館で見つけ、本当に嬉しかった!
1923年ボリバル市に生まれた彼は、1940年代にカラカスの造詣美術
学校に学んだ。この頃はブラックやセザンヌの影響を受けたという――つまり、
当時、近現代美術の中心であったヨーロッパから遥かに離れた「辺境」ともい
うべきベネズエラの、しかも首都から(現在でも!)車で十時間以上もかかる
ようなボリバル市で生い立った彼にとって、現在進行形の芸術運動の最先端か
らは、かなりの「時差」が生じていたのである。美術学校での教育ですら、ひ
と時代前の絵画の世界をなぞっていたのだから・・・。
ソトは苦労人である。母子家庭に育っ
た彼は、若い頃から自活の道をさぐった。
後年アーティストとして大成功するなど、
当時の彼には想像もできなかっただろう。
たまたまレタリングに秀でていることが
わかって、16歳で映画館のポスターデザ
インのアルバイトをする。また、1950
年パリに渡ってからも、初めから芸術で食
べていくことなど到底かなわないので、得
意のギター演奏(・・いかにもベネズエラ
人です!)で口を糊した。
「自分の作品が
売れて生活できるようになったのは、1
957年からなんだ」と本人も語ってい
る。
そんななか、モンドリアンやマーレヴィ
ッチのしごとに大きな影響を受けた彼は、
次第に自分なりの芸術表現を見出してい
く。プレキシグラスを重ねてオプティカル
な効果を醸し、見る者の視点によってイメ
ージが変幻(メタモルフォーズ)する作品
は、人間の「視覚」というものへの挑戦と
なっている。ソトは言っている、
「私はこの四角形を何か“非物質的”なものに
したかった。だからプレキシグラスの上にヴァニスのように透明や白を置こう
と考えたのです。また、小さな四角形を繰り返し描いたり点を仕組んだりする
ことによって、“構築”をしようとしたのです。」(左の写真)
彼の作品においては、
“空間”というものが、単なるフォルムであるばかりで
なく、むしろそれこそが本質 ――すなわち“独立した実在物” となっている
のだ。
彼の芸術が進化するにしたがい、それは作品の「非物化」の方向へ進む。ソ
トは言う、「(こうした作品は)始まりも終わりも無い、永遠に続く「構造」なの
です。それはこの作品を、人間の物差しでははかり知ることのできないリアリ
ティのかけら(断片)と成すのです。」
ソトはまた、J・S・バッハの音楽に魅かれていた。そのことは、実は彼の芸
術表現の本質ともつながっている。彼は言う、
「音楽は私に、テーストなどとい
ったものからは独立した“構造”と いうものを発見する手助けとなりました。」
ソト美術館の庭には、緑の芝生に巨大な屋外彫刻 が据えられている。無数
のひもが、固定された天井から垂れ下がり、訪れた人はそのなかをかき分けて
進むことができる(左上の写真)。こうした「ペネトラブル作品群」は、“人が作品
の中に入っていく”という観客参加型の彫刻で、ソトのトレードマークのよう
な作品だ(右上の写真)。
ソト美術館は、
「若い人たちのために・・・」と、ソトが自らの所蔵品を故郷
のボリバル市に寄贈し、市が土地を提供してスタートした。設計は著名な建築
家のカルロス・ラウル・ヴィラヌエヴァ。ミニマリズムの影響を受けたその建
物は、キネティック・アート作品の展示にいかにもふさわしい。1969年に
建築が始まり、1973年にオープンした。約700点の所蔵品のうちおよそ
200点がソトの寄贈によるもので、これにシスネロス財団のコレクションが
加わる。所蔵品のうち175点が常設展示されており、5~6年ごとに展示替
えをするとのこと。財団にはもちろんソト未亡人のエレーヌはじめ、長女のア
ンヌ(理事長)なども名を連ねているが、この財団を動かしているのは、ベネ
ズエラ有数の財閥ファミリーとして世界的に知られるシスネロス一族だ。
ちなみに、財団は約700点の作品のうち、なんと80点を税金がわりに国
家に納めたそうで、それらは政府所有のまま同館に展示ないし保管されている。
(これは、たとえばフランスで、有名画家が死亡した際など、莫大な相続税を
払いきれない遺族が dation といって国家に「物納」するケースに非常によく似
ている。
セイコウ・イシカワ駐日ベネズエラ大使のお父上ルイス・イシカワ氏のご紹
介で、今回お話をうかがったソト美術館館長のアルフレド・イナティ(Alfredo
Inatty)氏(右下の写真)は、ソトの竹馬の友であった。イナティ氏は言う。「ソト
はサインする時いつも、苗字だけですよね、あなたはそのわけを知っています
か?・・・ソトの父親は、彼の母親と結婚しなかったのです。それで彼女は女
手ひとつで子どもたちを育てねばならなかった。大変な苦労をしたんです。だ
からソトは、有名になっても自分の作品にはどれも、フルネームではなしに Soto、
Soto、と必ず母親の姓でサインしたんですよ。母の家の名誉のためにね!」・・
さすが、名誉を重んじるラテンの国ならではのエピソードであった。
(了)