● 監修 ● ミロク会計人会連合会 中 部 会 写真提供 真提供:永谷 文人 タイトル:早春の原生林(面ノ木園地) 場所:愛知県北設楽郡設楽町津具 ●「第37回全国統一研修会・東京大会」●第 2 分科会報告 ・・・・・・・・・・・・・・2 ●「第37回全国統一研修会・東京大会」●第 3 分科会報告 ・・・・・・・・・・・・・・4 ● MJS サービスを活用した事務所経営●久納公認会計士事務所 ・・・・・・・・・・・ 6 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8 ● 顧問先紹介●サンポー (株) ● ご当地自慢●静岡県伊豆地方 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10 ● 事務所訪問●三浦康守税理士事務所 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12 ● ミロクシステム Q&A ● 『ACELINK NX-Pro 所得税確定申告書(よくあるお問い合わせ)』・・・・・・・・15 ● リレーエッセイ●中部ミロク会計人会 永谷文人 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19 は まるごと沖縄会 で す。 ★次号 第 37 回全国統一研修会報告 統一研修会レポート 分科会 どう深めるか、モチベーションをいか ます。社内でのコミュニケーションを 私 は 毎 日 、 帝 国 デ ー タ バ ン ク の﹁ 帝 国 ニ ュ ー ス ﹂に 目 を 通 し て い ま す 。 本 にして高めるか、さらにリーダーシッ 月 日︶付のニュース 日︵2012年 れ を 再 建 す る な か で﹁ 少 し で も 油 断 す していたといってもいいでしょう。そ 見捨てられていたので、実質的に倒産 もしれない状況でした。すでに銀行に にもならなくて、明日にも倒産するか ます。当時、わが社は債務超過でどう ザーの社長に就任したときにまで め、シ ン グ ル マ ザ ー や 外 国 人 な ど に 多 いる人材を最大限活用することに努 良 い 人 材 を 採 用 で き な い と き に は、今 か っ た と 申 し 上 げ て い ま す。つ ま り、 れは単なる結果であって、目的ではな から評価していただいていますが、こ 社はこの人材の多様性において多方面 人材を活用するという考え方です。当 プをどのような形で確立するかといっ れ ば 会 社 は 潰 れ る ﹂と い う こ と を い つ くのチャンスを与えてきたのです。そ に は﹁ 倒 産 件 数1 7 7 件 、3 カ 月 ぶ り も肝に銘じておくため、帝国ニュース の結果、多くの人材が育ち、自然と優秀 たことが重要になります。加えて今の に目を通すようになったのです。会社 な人材が集まるようになったのです。 に 増 加 ﹂と あ り ま し た 。 こ れ を 毎 日 読 は毎日潰れていますが、ニュースにな 時代は﹁ダイバーシティ︵多様性︶﹂ とい るのはごく一部です。だからこそ帝国 う言葉がキーになっています。異質な ニュースを読むことで、会社の倒産が 日 本 に は 今 、〝 進 化 し た 経 営 〟 が 求 められていると思います。その要素を り 事業と人員と財産を失う恐ろしいこと 私なりにあげると ①安心感を生む生 むようになった理由は、私が日本レー であるということを、その都度、思い 涯雇用 ②社員に対するフェアな扱い て変化に対応できなかったというような 経営破綻した会社を見ると、 多くは 過剰な投資と人員、 競争の激化、 そし 人事︶⑤しっかりした経営理念の発信 ④ リ ス ト ラ な し︵ 能 力 貢 献 度 に 応 じ た にする︵チャンスとチャレンジの風土︶ 返しているのです。 共 通 点を見 出 すことができます。 企 業 となります。 ③社員の成長と会社の成長をイコール 年、バブル崩壊後の赤字と債務超過で事実上 経営にあたって今、もっとも大きな課題 てお話ししたいと思います。 企業経営において財務、税務が大事 であるように、組織活性化においては 歳で一度定年とした後、全員を 歳なったら再々雇用して 歳 再雇用する機会をつくり、年金が支給 し、 そのために当社では就業規制を改定 ま ず 、 最 初 に 求 め ら れ る の は﹁ 安 心 して生涯働くことのできる環境﹂です。 の経営破綻状態に陥っていた︵株︶日本レーザー でつかんだ﹁進化した経営﹂ とは何なのか。そ バル化です。 本日は主にこのことについ とされているのが組織の活性化とグロー 年間は史上最高益を更新し、その手腕 を見事に再建し、 に直近 19 が高く評価されている近藤宣之氏。再建のなか 3 の一端を第2分科会で語っていただいた。 される 70 第 経営破綻した会社を いかにして再建したか 8 年連続で黒字を計上、とく 94 11 人事や労務が重要な役割をはたしてい 60 65 2 2 まで働いてもらうようにしまし に関して公正で透明性を持って説明で 業績に応じた賞与を与えるなど、報酬 バブルの頃には きも利益を伸ばすことに成功し、 IT 億 円を超 える利 益を 歳を超え た。現在、当社には た従業員が二人います。 り、実際、ここ 年間は毎年改定して は必要に応じて改定するようにしてお きる仕組みをつくりました。就業規則 してきました。リーマンショックのとき げで、3億円台まで過去最高益を更新 出 し、 その後 、 新 しいビジネスのおか そ れ ら を 等 し く 扱ったので は グ 貢献度は人によって異なります。 で あ ることです 。 能 力 や 努 力 や いうのは ﹁公平﹂ではなく、﹁公正﹂ な扱い﹂をしています。フェアと とができたように感じています。 ティに対応した人員構成を確立するこ などを行うことによって、ダイバーシ また、能力や貢献度に応じた抜 人事 することを恐れてはいけないのです。 います。来年も変わるでしょう。変化 きました。 たおかげで、 黒 字を維 持 することがで 引 き締 めるなどして事 前の対 策を取っ 長ならびに役員の給与体系を半年前に はさすがに売 上 げが落 ちましたが、 社 ︿講師﹀ ある﹂という認識をもってもらい、社 に、社員に﹁企業は自己実現の舞台で れは絶対の真理です。と同時 う考えを大切にしています。こ さ ら に﹁ 社 員 が 成 長 す る こ と に よ っ て 企 業 は 成 長 す る ﹂と い 大切にするべきです。 る﹂という素晴らしい日本的価値観を ちは﹁助け合い、分かち合い、共生す 正彦先生の言葉にもある通り、私た そして最後に重要となるのが﹁経営 理念の発信﹂です。基調講演での藤原 ると、 ﹁政府が悪い﹂、﹁予算減で受注が 国の台頭などによって売上げが落ち 意、あるいはバブルの崩壊、円高や中 たとえば経営環境に関して、プラザ合 ある共通点を見出すことができます。 3 68 わりました。その経験から﹁自分が経 して過去4 回にわたる人員整理に携 えたわけです。私たちのビジネスは 円になっています。 も、私たちの現在の売上げは年間 倍に増 たので、リストラをしない代わりに、 過を経て を出し続け、バブル後の赤字と債務超 年にはP/L上の再建が完 家族手当や住宅手当の廃止など既得 てしまうのは明らかなのです。 たなければ、残念ながら負け組になっ デルを変えて頑張るという気概を持 ションも上がりません。ビジネスモ 責任にしている限り、社員のモチベー くて当たり前﹂等々、すべてを周りの なった﹂、 ﹁少子高齢化だから仕事がな 大型店が出店してきたから売れなく から脱することはできません。﹁隣に がしろにしてしまっては絶対に苦境 と閉塞感ばかりを共有し、対策をない ずです。それなのに﹁日本全体が悪い﹂ ある程度は対応することができるは するのはたしかに難しいことですが、 落ちた﹂と外部の要因をあげてしまう 近藤 宣之 氏 億円でし バブル崩壊を迎えました。その頃︵ のです。経営環境の変化を事前に予測 こういった経験を踏まえた上で、倒 産する会社を見てみると、そこには ローバル時代で通用しません。 また 、 ﹁年齢、学歴、性別、国 籍 な ど に か か わ ら ず 、〝 フ ェア 〟 1 振り返ってみると、日本経済は 員の能力開発を会社が支援するなど、 年のプラザ合意からバブルを経て、 チャンスやチャレンジの風土をつく り出すようにしています。 年︶の当社の売上げは年間 営者になったら人は切らない﹂と決め 年 間40 0 0 ∼5 0 0 0 万 円 の 利 益 億 年 ﹂と い わ れ な が ら ていました。今の会社を再建するにあ が出ればいいほうで、不調なときは た 。﹁ 失 わ れ た たっても、リストラは一切していませ ころなのですが、常にそれ以上の利益 2 0 0 0 ∼3 0 0 0 万 円 と い っ た と 85 92 40 了しました。 その後も不良在庫や不良 4 権に対する見直しを行い、さらに年功 20 設 備を処 分して、 アジア通 貨 危 機のと 年で ん。けれど、今までのような考え方で 一方で、リストラは絶対にするべき ではありません。私はサラリーマンと 10 は会社の存続は不可能だとわかってい 20 序列型退職金制度を刷新し、チームと 96 2013.2 ● 税理士事務所 3 10 65 ︵株︶ 日本レーザー・代表取締役 70 ︿プロフィール﹀ 1944 年東京生まれ。 年慶応義塾 大学工学部卒業後、日本電子︵株︶に 入社し電子顕微鏡部門に勤務。 年には ソビエト連邦︵現・ロシア︶のレニングラー ド、モスクワに駐在。その後、日本電子 連合労働組合執行委員長に就任。退任 後は日本電子米国法人の支配人などを 歴任。 年に債務超過に陥っていた︵株︶ 日本レーザーの代表取締役に就任し再建 に取り組み 1996 年に再建を達成。 ︿受賞暦﹀ 2011 年﹁第 回日 本でいちばん 大切にしたい会社﹂大賞、2012 年 ﹁新 宿 区 優 良 企 業﹂ 大 賞、 東 京 商工 会議所﹁勇気ある経営﹂大賞など。 94 第 37 回全国統一研修会報告 分科会 統一研修会レポート 第 日本人と歌舞伎の関係 日本を代表する歌舞伎役者である坂東三津五 郎氏。 年にわたるキャリアを経て、現在は歌 分科会では坂東氏に歌舞伎文化の特徴と日 さまざまな分野で活躍されている。そこで、第 舞伎や日本舞踊以外にも、映画やテレビなど、 50 本とのかかわりについて語っていただいた。 3 で す。﹁ 大 川 ﹂ は 隅 田 川 の 別 称 で、 隅 な大川橋蔵さんの名前もそのひとつ 前の多くはこのように洒落が効いて と が わ か り ま し た。 歌 舞 伎 役 者 の 名 らしい洒落が効いた名前だというこ の は﹁ 八 ﹂ と い う 意 味 を 重 ね る 江 戸 す が、 そ う す る と 坂 東 八 十 助 と い う という意味があることを知ったので には﹁関東八州﹂から由来して、 ﹁八﹂ 江戸語辞典をめくってみると、 ﹁坂東﹂ う 名 前 で し た。 あ る 日、 あ ら た め て そ れ か ら、 私 は 今 の 三 津 五 郎 の 名 を 襲 名 す る 前 ま で は﹁ 八 十 助 ﹂ と い と書かれてしまうことがあります。 ので、新聞や雑誌などではよく﹁板東﹂ まり一般的な漢字の使い方ではない こ と を 意 味 し て い る わ け で す が、 あ 坂東という苗字も関東の出身である 武者﹂と呼ばれていました。もちろん、 きましたし、関東の侍のことは﹁坂東 利 根 川 は 昔、﹁ 坂 東 太 郎 ﹂ と い わ れ て 私の苗字である﹁坂東﹂はもともと 関 東 の こ と を 意 味 し て い ま す。 実 際、 げ て き ま し た。 し か し、 能 楽 が 世 阿 た伝統芸能のひとつとして発展を遂 改めることになったそうです。 そ も そ も、 歌 舞 伎 は 1 6 0 3 年 に 出 雲 阿 国 が 興 し、 狂 言 や 文 楽 と い っ め に、 燃 え や す い﹁ 木 ﹂が 入 っ た 姓 を あまりにも火事に遭ってしまったた 森 田 と い う 字 を 使 っ て い た の で す が、 私 ど も の 守 田 と い う 姓 も、 か つ て は と い う 字 を 使 っ て い る の で す。 ま た、 ていて縁起が悪いということで、 ﹁穐﹂ と い う 字 に は﹁ 火 ﹂ と い う 字 が 入 っ う の で す が、 歌 舞 伎 の 世 界 で は﹁ 秋 ﹂ と い え ば﹁ 千 秋 楽 ﹂ と い う 文 字 を 使 を 意 味 す る﹁ 千 穐 楽 ﹂ と い う 言 葉 に く な い と い う 思 い は、 芝 居 の 最 終 日 厳 し か っ た よ う で す。 火 事 に 遭 い た を経営する江戸三座の経営はかなり 日 常 茶 飯 事 だ っ た の で、 歌 舞 伎 小 屋 の 華 ﹂ と い わ れ て た よ う に、 火 事 は し か も、 当 時 は﹁ 火 事 と 喧 嘩 は 江 戸 ら す ぐ に 打 ち 切 る と い う も の で し た。 そ れ が 当 た れ ば ロ ン グ ラ ン、 外 れ た ス ポ ン サ ー を 集 め て 芝 居 を つ く り、 田川には古くから多くの橋が架かっ 弥 以 来、 大 名 た ち の 保 護 を 受 け て き い ま す。 た と え ば、 銭 形 平 次 で 有 名 ているのです。 たのに対し、歌舞伎役者は﹁河原乞食﹂ と い わ れ、 長 年 に わ た っ て な い が し ばれ、幕府認定の芝居小屋を運営して 来事を取り入れた作品をつくりつづ で す が、 歌 舞 伎 は ま れ て い た が ゆ え に、 そ の 時 代、 時 代 の 事 件 や 出 ろにされてきました。 い ま し た。 当 時 の 歌 舞 伎 は 今 で い う けてきました。そのため、幕府からは ち な み に、 坂 東 家 は 守 田 と い う 姓 を 持 っ て お り、 昔 か ら 守 田 家 は 市 村 と こ ろ の ブ ロ ー ド ウ ェ イ 方 式 で あ り、 家、 中 村 家 と と も に、 江 戸 三 座 と 呼 も あ ら わ れ て い ま す。 普 通、 千 穐 楽 て い た の で、 橋 蔵 と い う 名 前 に な っ 4 3 4 ︿講師﹀ 坂東 三津五郎 氏 歌舞伎俳優・日本舞踊坂東流家元 06 01 締 ま り を 受 け る こ と も 多 く、 て い た も の の、 厳 し い 取 り 芝居小屋の運営は認められ 家がお家芸として選定した 番の歌 わ れ て い ま す 。 ま た﹁ 十 八 番 ﹂も 市 川 台﹁ 心 中 万 年 草 ﹂で 好 ん で 着 た 柄 と い などの役が好まれるのに対し、上方で 江戸では正義の味方である火消し頭 は 人 気 の 役 柄 に も あ ら わ れ て い ま す。 にもあうこともありました。 ときには上演禁止の憂き目 葉 で す 。 さ ら に﹁ 差 し 金 ﹂と い う 言 葉 舞 伎 演 目﹁ 歌 舞 伎 十 八 番 ﹂か ら き た 言 れます。 はよく喋り、ユーモアのある役が好ま も、もともとは歌舞伎の舞台上で蝶や 鳥などが飛んでいるように見せるた さ て、 皆 さ ん は 歌 舞 伎 役 者 と い う と、優雅な暮らしを送っていると思わ で す か ら、 江 戸 時 代 の 歌 舞 伎 は つ ね に〝 検 閲 〟 と の 歌舞伎で江戸城の内部の諍 目 に つ い て も、 大 衆 演 劇 の 舞 伎 で は 本 来﹁ 黒 衣 ﹂と い う 役 割 で あ ぶのが当たり前になっていますが、歌 ら派生したものです。いまや黒子と呼 あと、よく﹁黒子役に徹する﹂といっ た 具 合 に 使 わ れ る﹁ 黒 子 ﹂も 歌 舞 伎 か の ほ か 、地 方 巡 業 は も ち ろ ん 、テ レ ビ み、またすぐに公演が始まります。そ につぎの芝居の稽古に5 日間ほど励 も 、ひ と つ の 公 演 が 終 わ っ た ら 、す ぐ 日間つづけなければなりません。しか れるかもしれませんが、決してそんな いを語っては処罰されてし り 、現 在 も 黒 子 で は な く 、黒 衣 と 呼 び めの小道具のことです。 ま う と い う こ と で、 微 妙 に ます。このあたりを知っておくと歌舞 戦 い で も あ り ま し た。 あ の 時代設定や名前を変えるこ や映画などの仕事もありますし、とき じまると、毎日2ステージの公演を ことはありません。ひとつの芝居がは と で、 史 実 で は な い と い う 伎通と思われること請け合いです。 ﹃忠臣蔵﹄をテーマにした演 こ と を 強 調 し て い ま す。 現 25 18 ところで、歌舞伎は江戸と上方とで には体調不良の役者さんの代役とし に、演目のひとつである﹃仮 ︿プロフィール﹀ 大きく異なります。江戸の歌舞伎は正 て舞台に立つこともあります。 名手本忠臣蔵﹄では明らか 1956年に9代目坂東三津五郎の長男として生ま 義が悪を倒す勧善懲悪物が中心です ともあれ、皆様方のおかげで歌舞伎 にストーリーは忠臣蔵その れる。 年に5代目坂東八十助として初舞台。 が、上方は色恋やお金の話を中心とし は順調に興行をつづけることができ も の で あ り な が ら も、 時 代 年 月、 月に ﹃喜 ﹄ ﹃寿曽我対面﹄ ﹃め組の喧嘩﹄ た人情物が中心になります。当時の江 て い ま す。 こ れ は 何 よ り も の 幸 せ で 設定は室町時代で、 ﹃太平記﹄ などで 代目坂東三津五郎を襲名。歌舞伎では時 戸には大名屋敷が集中し、町人と武士 す。しかし、歌舞伎以外の伝統芸能は のひとつの物語として上演 代物から世話物、新歌舞伎など幅広い役柄を演じ、 その演技力には定評がある。歌舞伎、日本舞踊以外 の人口が半々といわれていました。そ 依然として厳しい状況にあります。京 さ れ て き ま し た。 さ ら に、 にもさまざまなジャンルの演劇に出演。﹃母べえ﹄ ﹃武 の た め、 町 人 も 武 家 と の 接 点 が 多 く、 都 や 奈 良 に 日 本 の 文 化 や 四 季 を 楽 し 大石内蔵助の名前が大星由 士の一分﹄ ﹃うぬぼれ刑事﹄などの映画やテレビにも 知らず知らずのうちに武士の美学が み に 行 か れ る 方 は た く さ ん い ま す が、 良 之 助 に な る な ど、 登 場 人 多数出演。 浸透していたのです。だから﹁弱きを 日常生活の中に日本の文化を取り入 物の名前も微妙に変えられ ︿受賞歴﹀ 助 け、 強 き を 挫 く ﹂﹁ 宵 越 し の 銭 は 持 れる方は減ってきているのです。京都 ています。 年 芸 術 選 奨 文 部 大 臣 新 人 賞。 年に芸 術 院 たない﹂といった考え方が自然と広く や 奈 良 に 行 く の も い い の で す が、 で 賞。 年に紫綬褒章。 歌舞伎が世の中にいかに 受け入れられるようになったのだと き れ ば 一 年 に 数 回 は 歌 舞 伎 や 能、 狂 浸 透 し て い た か と い う の は、 ︿著書﹀ ﹃ 坂 東 三 津 五 郎 歌 舞 伎の愉 しみ﹄︵ 岩 波 書 店 ︶、 思います。が、一方で大阪は商人の街 言 、寄 席 な ど に 出 か け て み た り 、着 物 私たちが日常で使う言葉に ﹃ 坂 東 三 津 五 郎 踊 りの愉 しみ﹄︵ 同 ︶、﹃ 三 津 五 として発展していたため、武士の美学 を着たり、畳に座ってお茶をしたりと も 現 れ て い ま す。 た と え ば 郎 城 めぐり﹄︵ 三 月 書 房 ︶、﹃坂 東 三 津 五 郎 粋な よ り も 町 人 な ら で は の 人 情 物 が 好 ま いったことを楽しんでみてはいかが ﹁ 市 松 模 様 ﹂ の 発 祥 も 歌 舞 伎 城めぐり﹄︵角川 SSC新書︶などがある。 れつづけたのです。さらに、その趣向 でしょうか。 で、 初 代・ 佐 野 川 市 松 が 舞 2013.2 ● 税理士事務所 5 62 2 10 09 1 88 仕訳入力業務の効率化には データ交換の活用が効果的です 双方に取引があるため、仕訳データは 重 複します。 でも、と りあえずデータ を 連 結して元 帳で残 高を 確 認しなが ら仕訳を削除すれば済むことです。職 員もとにかくデータを連結して、 シス のためにはお 客 様からでき 通れないと 思っています。そ 仕 訳 入 力の省 力 化が避けて 業 務 の 効 率 化 のためには、 用しています。会計事務所の 久納所長︵ 以下敬称︶ 大いに活 た。 ていらっしゃる と 聞 き ま し ある ﹃データ交換﹄ を活用し 会計大将のオプション機能で 石川支社長 ︵ 以下敬称︶ 先生は 将に仕訳として連結することで、何か Excel で入力したデータを会計大 作 成 機 能は 後から 追 加 されました。 石 川 そ うですね。デ ー タ 交 換 機 能 は あ り ま し た が、 Excel 出 納 帳 せんでしたからね。 大将にExcel 出納帳機能はありま 出 納 帳 を 作 り 始めたと きには、会 計 ものです。というのも、私 がExcel 納 帳は事 務 所オリジナルで作 成した で取り込んでいます。 このExcel 出 力していただいた出納帳をデータ交換 がかからないようです。 ですから、苦情 はないので、憶えるのもそれほど 時 間 いますが、使用する科目も多いわけで す。科 目コー ドは入 力していただいて が 使 え ま すので、入 力 は 楽にな り ま を 好 み ま す。それに、摘 要 入 力 時 も 久納 最 近 の 若 い 人 は と くに 書 く こと よ り も パソコンで入 力 するほ う ませんか。 石川 Excel に入 力することに顧 問 先 様から 面 倒だといった言 葉は出 処理できるといっています。 があるので、その会 社 用のフォーマッ 形 式によって処 理 方 法を 変える必 要 データがあるところでは、 そのデータ また、提 供していただけるCSV 会計事務所の業務効率は﹁入力業務を簡素化するしかない﹂ と考え、 データ交換を有効活用している久納公認会計士事 務所の久納幹史所長にMJS名古屋支社の石川哲士支社長 と営業担当の鰆幸一が聞いてみた。 る だけ 資 料 を デ ー タでいた 不便に感じることはありませんか。 はほとんどないですね。 むしろ、手書き トを作成することになります。最初は MJS 名古屋支社 石川 哲士 支社長 だき、 それを手で入力するの の出 納 帳にしたら 苦 情がくると 思い 大 変ですが、パターンを 作 成してしま テムのなかでチェックしたほうが早く では な く、デ ー タ 処 理 と し 久納 とくにはありません。顧問先に はできるところまで処 理してもらい、 ます。 MJS 名古屋支社 営業 鰆 幸一 て仕 訳 処 理を行 うことが必 足らないところは 事 務 所で補 う とい ンジもされていますか。 鰆 その他の活 用 例をお聞かせくだ さい。 思っています。 に短 縮できますから 効 果は大きいと えば、あとは 毎 月の入 力 時 間が大 幅 久納 部 門 別を 採 用している 会 社で は、それに 合 わせてアレンジし ま す。 Excel のオートコンプリ ート 機 能 要となります。 このためには うスタンスで取り組んでいます。 ※1 ﹃ デ ー タ交 換 ﹄ はなくてはな 鰆 オリジナルのExcel 出 納 帳と いうことでしたが、顧 問 先ごとのアレ んか。 らないツールなのです。 鰆 具 体 的にどのよ うに活 用されていますか。 久 納 たしかに現 金と 預 金の出 納 帳 鰆 現預金の取引など2重に入力さ れてしまうといったリスクはありませ 久納 お客様にExcelで入 6 きるという 点もデータ交 換の良い点 Windows でもMac でも対応で それにCSV データですから、 相 手が が、それでも 半 日あれば片 付きます。 作 業によるデータの修 正は必 要です 減でき ました。も ち ろん 連 結 後に 手 によ り、入 力 作 業 と 時 間は 大 幅に削 振ってから 会 計 大 将に連 結すること かし、店舗別のデータに部門コードを で、手 入 力だと 丸2日かかり ます。し ま す。店 舗 別の 部 門 管 理 が必 要 なの CSV デー タで提 供してもらってい 久 納 複 数の店 舗がある顧 問 先です , 000 件のデータをすべて が、月2 なってきました。 マクロの作成は職員でもできるように で、多少の細かい部分の変更や簡単な してVBA の研 修を 行っているの ※3 感じです。 3年前くらいから職員に対 けて私がマクロ ※2を 構 築するという 久 納 担 当 職 員から﹁このデータを 仕訳に取り込みたい﹂ という要望を受 どのように構築されていますか。 石川 顧 問 先 様のデータをデータ交 換で会計大将に取り組む処理工程は ともすすめていきたいと思っています。 理を 進められるかということを 今 後 います。先生ご自身が次に取り組まれ 鰆 Excel 出納帳に興味をもたれ る 方も 多いので、データ交 換の一歩と です。 スもおこらないわけですから、 お薦め できることはもちろんですが、入力ミ り込むことによって、入力時間を削減 がでしょうか。 データを直接仕訳に取 ら、ま ずはそこから 始めてみてはいか 納 帳が会 計 大 将から 作 成できますか もマクロが組み 込 まれたExcel 出 しょうか。VBA のスキルがない方で 納 帳 入 力 ﹄を 活 用 されてはいかがで 久納 ま ずは、先ほど 話に 出 ました 会 計 大 将 オプションの﹃Excel 出 ざいました。 石川 また、良い事例がありましたら ご紹介ください。本日はありがとうご て連結することを考えています。 クレジットカー ドの情 報を 仕 訳 とし に挑 戦したいと 考えています。今 度は なるべくデータ交 換で取 り 込むこと CSV ファイルで提 供 される ものは かして使 うかだと 思っていますから、 事 務 所の効 率 化はいかにデータを 生 書の電子申告も簡単にできます。私は ロを 組みましたから、給 与 支 払 報 告 です。 このように会 社のデータをどの 石川 データ交換は企業でよく利用 されますが、会計事務所の需要は少な たいことはありますか。 のを 活かしていかに効 率よ く 会 計 処 ように活かせるか、簡素化できるかを いですね。 久納 今 年から 関 与 先になったとこ ろですが、今年いっぱいはエプソンの給 久納 私 自 身、文 系に 行 くとは 思っ ていませんでしたが、親の職 業が税 理 ていなければ話になりません。 しかし、 解するには﹁CSV ファイル﹂ を知っ だったのですが、データ交 換の話を 理 と 時 間が必 要にな り ま す。そこで、 エ ちいち 手 入 力していては 大 変な 労 力 になります。人数が多い会社なので、 い に事 務 所で年 末 調 整 処 理をすること ムにデータ交 換でデータを 取 り 込む 久納 幹史 所長 考えるのは私にとってはゲームみたい 久納 そうでしょうね。以前、会 計 事 務所の所長・職員向けに研修会を行っ 与ソフトを使うため、 そのデータを元 士だったから今、 この仕事をしています 聞いてみたところ﹁ 知っている ﹂と 手 プソンのシステムからCSV でデータ して今後もご提案をしていきたいと思 なものです。 たことがあります。参加者は 名ほど ︵笑︶ 。 でも 今は、この仕 事で良かった をあげたのはわずか数 人でした。それ を 抽 出してMJS の年 末 調 整システ 石川 先生ご自身が率先して取り組 まれておられるのですね。 と思っています。 だけ、会計事務所にはなじみが薄いこ となんですね。 要な社員情報や給与賞与金額データ こういう取り組みをはじめたのも、 も と も とコンピュー タだと か プログ 鰆 VBA まで覚えてデータ交換を 活用するのは、難しいと思いますが、 こ の入 力が不 要になります。また、住 所 から 市 区 町 村コー ドを 割り 振るマク 予 定です。 こうすれば、年 末 調 整に必 FORTRAN を やった こ と が、そ れから取り組む方へ何かアドバイスは ラミングに興 味があったのと、大 学で もそものきっかけだったかもしれませ ありますか。 2013.2 ● 税理士事務所 7 ん。とにかくデータ連 結など、あるも 取材事務所: 久納公認会計士事務所 公認会計士・税理士 久納 幹史 〒 460-0008 愛知県名古屋市 中区栄 3-27-33 TEL.052-262-5608 導入システム/ ACELINK Navi 30 ※ ︶CSV とは、カンマ︵" , "︶で区切って並べたファイル形式のことです。主に表計算ソフトやデータベースソフトがデータを保存するときに使います。汎用性が高く、多くの電子手帳やワープロソフトなどでも利用できる ため、異なる種類のアプリケーションソフト間のデータ交換に使われます。 ※ ︶マクロとは、表計算ソフトなどで特定の操作手順をプログラムとして記述して自動化する機能です。 ※ ︶VBA とは、マイクロソフト社の製品に独自の機能拡張を施すためのマクロ言語として開発されたプログラミング言語です。 1 3 2 めに誠心誠意こなしていくことでは ト加工︶はすべて外注で行っていま 刷・フィルムを貼り合せるラミネー す。製袋加工以外の設備︵製版・印 期面での融通がきくということで 荷前に製品の検品ができますし、納 製袋加工設備を持つメリットは、出 加工︶の設備がございます。自社で ムを袋に完成させる最終工程︵製袋 いたのですが、お客様の要望や意向 す。以前はデザインを外注に出して り、他社との差別化をはかっていま 社内でデザインを手がける体制をと す。そこで当社では、十数年前から 提供できるかが重要だと考えていま れらにいかにプラスα の付加価値を やスタンダードとなっています。こ 隄 業界では価格が安く、納期が早 く、品質が安定していることがもは 福中 御社の強みはどのようなとこ ろにあるとお考えですか。 す。自社で一貫生産できる設備がな が伝わらずコンペで負けることがし ないかと思います。弊社には先代よ 大切ですが、無理をせず、身の丈に いことによるデメリットもありま し、 お 客 様 の 要 望 に き め 細 か く 対 応 包装 資 材 の 製 造 ・ 販 売 を 主 な 事 業 と 株式 会 社 ﹂ を 設 立 し ま し た 。 食 品 の 1963年︵昭和 年︶に﹁サンポー 社 名 の 一 部 を い た だ き、 帰 郷 し て 扱う 会 社 に 勤 務 し た 後 、 そ の 会 社 の 会長 の 私 の 父 親 が 大 阪 の 包 装 資 材 を が当 社 の 原 点 で す 。 2 代 目 で あ り 現 営し て い た ﹁ 堤 商 店 ﹂ と い う 小 売 業 隄社 長 ︵ 以 下 役 職 略 ︶ 私 の 祖 父 が 経 刷部門を持って 当社も以前は印 す。 ち な み に、 きたいと思いま た仕事をしてい も身の丈に合っ の で、 こ れ か ら も な い ま す。 な えのリスクもと す る と、 そ れ ゆ す が、 重 装 備 に することにしました。 と感じ、デザイナーを雇って内製化 門外。どうしても発想に限界がある りましたが、独学の上にもともと専 し、製品のデザインをするようにな てきたマッキントッシュPCを駆使 こともありました。その後、普及し インラフを描き、お客様に提案した いと、時には色鉛筆でみずからデザ のいくデザインをお客様に提案した ばしばありました。自分自身も納得 り自社設備として印刷されたフィル 合った仕事をコツコツとお客様のた 我 が 事 務 所 の 顧 問 先 紹 介 福中所長︵以下役職略︶はじめに御 する こ と で 信 頼 を 積 み 上 げ て き ま し い ま し た が、 現 菓 子や海 藻 類の外 袋といった食 品の包 装 資 材 ︵軟 包 材︶の製 造・ 販 売を手掛けるサンポー株式会社。 競争が激化する業界に身を置きな がらも、増収増益を続ける活気ある企業です。 同社の隄泰宏社長に、 好業績をあげる事業の特長と今後の展開について、 福中昭二税理士 事務所の福中昭二所長がインタビュー。 社の 沿 革 を 教 え て く だ さ い 。 た。 現 在 は 私 が 会 社 を 引 き 継 い で い 在はすべて外注 福中 そのプラスα が、お客様から 高く支持されているのですね。 ます が 、 基 本 的 に 堅 実 に や っ て い く とい う 方 針 は し っ か り 守 り な が ら 経 営し て い ま す 。 福中 ﹁堅実﹂な経営について詳し く教 え て く だ さ い 。 隄 大事なのは業績を伸ばすことも 立 し て、 そ こ で は別会社を設 ま す。 製 袋 加 工 関しましても、常日頃より注力して ていただいています。価格競争力に て、デザインにある一定の評価もし 隄 お客様の要望や事情に合わせて 臨機応変に対応できることに加え に切り替えてい 行っています。 福中所長 (左) と隄社長(右) 38 8 らは 年 間 を 通 し て 注 文 が く る よ う に 集中 し て い ま し た が 、 昨 年 く ら い か が新 商 品 を 発 売 す る 春 と 秋 に 仕 事 が てい ま す 。 こ れ ま で は メ ー カ ー 各 社 こと は 大 変 あ り が た い こ と だ と 思 っ いた だ き 、 当 社 を ご 指 名 い た だ け る いま す 。 企 画 デ ザ イ ン 力 を 評 価 し て 採算となり、会社の業績悪化になり、 とられます。それを繰り返せば、不 しかしながら、価格でとれば価格で 仕 事 を と る こ と は 簡 単 な こ と で す。 姿であると考えます。価格を下げて はありますが、それが本来の営業の いこう﹂ということ。難しいことで の導入なども積極的に検討していき でのノウハウをベースに新しい技術 当社がこれまで扱ってきた小ロット す。 競 争 も 厳 し く な っ て く る の で、 大手が参入してくると予測していま 価が維持されている小ロット分野に が進んでいます。今後は比較的高単 経営者と比較しても、非常に高い えを 出されていますね。同世 代の のかを、 つねによ く 考えてから 答 福中 物 事の捉え 方が表 面 的で はなく、問題の本質はどこにある 隄社長について を 維 持・ 向 上 さ せ 況 で す か ら、 業 績 迷が続いている状 隄 新規顧客の獲 得 で す。 景 気 の 低 とは あ り ま す か 。 福中 経営の面で 注力されているこ 予定 で す 。 さらに充実させる もデザイン部門を な り ま し た。 今 後 既存のお客様か 思います。また、 定につながると 営のさらなる安 することが、経 を一社でも多く ただけるお客様 くお付き合いい ていただき、長 社の特徴を買っ さらには業界全 通 り 無 理 を せ ず、身 軽 で 柔 軟 に 動 け 一手を考えています。 ただ、 これまで でも時代の変化を予測して常に次の 不安定な経済情勢が続き先を見通 ながります。当 すのは容易ではありませんが、それ 体の悪化にもつ る体制は継続していく方針です。 していてはいけないのです。 たいと思います。他社と同じことを 張ってほしいと思います。 元・伊 勢 を 盛 り 上 げるために頑 る右 腕の育 成です。 これからも 地 のでしょう。次の目 標は信 頼おけ な 経 営で会 社を 成 長させた会 長 資質をお持ちだと思います。堅実 よう心掛けています。 福中 昭二 福中昭二税理士事務所 所長 〒 三重県伊勢市通町 52 1 0596 25 8522 − 〒 516 0018 三重県伊勢市黒瀬町字円保 826 0596 22 3044︵代︶ 事業内容 TEL 本社所在地 社 名 サンポー株式会社 代表者 隄 泰宏 設 立 昭和 38年 3月 , 000 万円 資本金 1 ■紹介会社概要 TEL 住所 事務所名 ■訪問事務所概要 からも良い薫陶を受けられている ていくためには新 らのご紹介も多 社屋外観 規案件の獲得が必 く、必要に応じ て私も含め小回 りの利く営業ス るこ と が 重 要 だ と 考 え て い ま す 。 福中 最後に、今後の展望を教えて ください。 − 須 に な り ま す。 新 規顧客を獲得する ことで当社の売上 福中 新 規 顧 客 開 拓 の 戦 略 を 教 え て くだ さ い 。 隄 業界ではこれまで大きなロット 数での案件が多かったのですが、大 タイルができる 隄 新規のお客様専任の営業職を2 名配 置 し て い ま す 。 彼 ら に 伝 え て い 手を中心に競争が激化し、低価格化 − げ全体を拡大させ るの は ﹁ 営 業 力 と 提 案 力 で 勝 負 し て 食品包装資材の製造・販売 1 0 0 1 2 − − 2013.2 ● 税理士事務所 9 − 5 1 −6 − 包装印刷工場 ます。これは、 伊 豆 半 島とその周 辺 スコリア層を確認できる 豆 半 島の崖などでは、 火 山 群の多 く まさに火山帯によって形成されてい る 伊 豆 半 島ですが、そのなかでも 有 伊東のシンボル ﹁大室山﹂ せんが、伊豆半島ジオパークはこれら がもともとは海 底 火 山であった証 拠 名 な の が、 静岡県伊豆地方 海域の岩石を磁気測定した結果、明 を 見 事にクリアして2012 年9 月 が、その断面を見ることでわかるので らかになったそうです。そのため、伊 日に日本ジオパークネットワークに 伊 東 市の もある大 シンボルで す。 加 盟し 日 本ジオパークに認 定されま した。 現 在 また、 伊 豆 半 島では 万 パー ク ネ ッ 山などの火 山 天城 山や 達 磨 ∼ でプリンの 山はまる で す。大 室 580 ㍍︶ は 世 界 ジオ ト ワ ー クへ 群 が形 成 され ような形 室山︵標高 の加 盟 を 目 ま し た。 そし をしていま Rを 展 開し ています。 万 年 前に 指 して、 環 て、 こ う し た すが、これ 境 整 備 やP 火 山 群は豊 富 形 成し、 伊 豆 特 産のわさ び は陸化後 な 地 下 水 脈を では、 伊 豆 半 島には どの よ う な に誕生し た火 山の溶 岩のしぶき︵スコリア︶が 体積してできたもので、学術的にはス き、生態系や人間生活との関わりを 見て、その成 り立ちとし くみに気 付 所 がジオパー クです。 山 や 川を よ く 学ぶ旅、 ジオツー リズムを 楽しむ 場 と、﹁ジオ︵ 地 球 ︶に親しみ、ジオを ジオパー クと は、 日 本 ジオパー ク ネットワ ー クのウェブサイトによ る あったものが、プレートの北上ととも に火 山 島や海 底 火 山の集まりとして のフィリピン諸 島がある 地 帯︵ 南 洋 ︶ 伊豆半島は、2000万年前に現在 乗っているということです。そもそも で唯一、フィリピン海 プレートの上に の特 徴としてあ げられるのは、 本 州 とともに生きてきた人々の知 恵と 文 ている伊豆の大地﹂⑤﹁変動する大地 化後に並び立つ大型火山群﹂④﹁生き ﹁ 海 底 火 山 群としてのルーツ﹂ ③﹁ 陸 ① ﹁本州に衝突した南洋の火山島﹂② り もの﹂ というメインテーマのも と、 こ と がで 層を 見る スコ リ ア 層をなす 縞 模 様の 周 辺では 大 室 山の コリア丘と呼ばれる形状だそうです。 考える場所﹂です。日本ジオパークに に移 動し本 州に衝 突して隆 起し、 現 化﹂というサブテーマを設定していま きます。 そのため、 認 定されるにはさまざまな書 類 審 査 す。 特 徴 があっ 栽 培などに大 て、日本ジオパークに認定されたのか いに活用されているのです。 説明しますと、まず伊豆半島の最大 このような特徴を踏まえ、伊豆半 島ジオパークは﹁南から来た火山の贈 大室山 案内人/浜田税理士事務所 浜田忠将副所長 事務所がある静岡県伊東市といえ ば、テレビCMなどの影 響で、 温 泉や﹁ハトヤ﹂というイメージをお 持ちの方が多いと 思いますが、 実 は 今、 伊 東 は﹁ 伊 豆 半 島 ジオパー ク﹂に 向 けた 取 り 組みで大いに 盛 り 上 がっています。 また、このジ オパークの特徴を確認できる﹁ジオ サイト﹂巡りがにわかに脚光を浴び ています。そこで、 今 回は 伊 豆 半 島ジオパークの目 玉をご案 内させ ていただきます。 火山列島・日本を象徴する 80 在のような地形になったといわれてい ﹁伊豆半島ジオパーク﹂ 伊豆シャボテン公園の前に立つ浜田副所長 や現 地 審 査に合 格しなければなりま 大室山のスコリアラフト 20 24 10 溶岩でできた美しい リアス式海岸 ﹁城ヶ崎海岸﹂ 大 室 山は4000 年 前に噴 火し、 伊豆高原を形成しました。伊豆高原 の先の海 岸はギザギザ状のリアス式 海岸になっていますが、これはまさに 海 岸に溶 岩が流れ出した証だといわ れたもの からは当時の軽石・火山灰層を見る えながら、 伊 豆 半 島 ジオパー クの概 で す。 現 要を説明しています。 ことができます。 在の 灯 台 また、 伊 東 市の﹁いと う 漁 協︵ 高 この﹁ 堂ヶ島 ﹂を 巡 る 時に 忘 れ ず 田充朗組合長︶ ﹂の直営レストラン﹁漁 に 見てほしいと こ ろ が﹁ 天 窓 洞 ﹂と は高さ ・ 望 台が設 ころに展 4 ㍍のと ㍍と 9㍍で、地 ら、 天窓 洞 と 名 付けられたといわれ に 窓のよ う な 穴 が開いていることか 浸 食されてできた海 洞です。 上 部 積し 隆 起した部 分が、さらに海 水に ポットです。 ﹁天窓 洞 ﹂は火 山 灰が堆 ﹁ 三 四 郎 島 ﹂という ふたつの 観 光 ス 880円∼とリーズナブルなので、ジ だんに乗せた丼は実に美 味。 価 格も ジやサバのほか、 季 節の 地 魚 をふん なネ ーミングも さること ながら、ア クの﹁ジオ﹂と 地 魚をかけたユニーク うメニューを提供しています。ジオパー 師めしや波魚波﹂では﹁地魚丼﹂とい 上 置 さ れ、 ていま す。 洞 窟 内は 遊 覧 船 クルーズ 大な自然を一望することができるよう には 是 非 ﹁門脇岬﹂ て有 名な 勝 地とし と くに 景 島が海 底 は伊豆 半 の 堂ヶ島 ﹁ 伊豆の松 島 ﹂と 称されています。こ パー クのジオサイトのひとつであ り、 伊 東 市からはやや離れますが、西 伊 豆 町の﹁ 堂ヶ島 ﹂も 伊 豆 半 島 ジオ 光客もいるほどです。 れ、この光 景を 見るために訪れる 観 ます。これは﹁トンボロ現象﹂と呼ば ﹁いとう漁協﹂が直営する ﹁漁師めしや波魚波﹂の ﹁地魚丼﹂ のほかにも 伊 豆には温 泉や観 光 地が 満 載です。たと えば、 伊 東の﹁伊 豆 シャボテン公 園 ﹂では 露 天 風 呂に 浸 ま す。 ジオパー ク 観 光 に 合 わ せて、 伊東市ではこの﹁伊豆半島ジオパー ク﹂の機 運に合わせて、 さ ま ざ まな ﹁NPO法 人まちこん伊 東 ﹂では﹁ 伊 こ ういった 伊 東の魅 力 を 楽しんでく かる カピバラの姿 を 見 ること もでき 豆 半 島ジオパーク伊 東 市 地 区 別 出 前 ださい。 崎海岸﹂や﹁堂ヶ 島﹂の話などを交 静岡県伊豆地方 講座﹂を開催し、先に紹介した﹁城ヶ 取り組みを展開しています。 たとえば、 堂ヶ島 れています。 伊 豆の 広 オパーク観光の折には是非とも食べて です。 その絶 壁には 地 層 をはっき り そのなかでもっと も 有 名なのが大 室山の南東に位置する﹁城ヶ崎海岸﹂ で入ることができるので、中に入って ほしいと思います。 島﹂は堆積した火山灰が島になったス ポットです。その島の火山灰が海水に とも足を 火 山 だっ より 削られた部 分が浅 瀬になり、 潮 伸 ばして た 時 代 西伊豆町の ﹁堂ヶ島﹂ ﹁伊豆の松島﹂と称される になっています。 備されているのでピクニックコースと しても 親 し ま れて く だ さい。 の噴 火に が引 くと 伊 豆 半 島と 陸つづきになり ここの 灯 よ って 形 い ま す。 台は昭和 海 岸 で、 伊 東 市を 中 心に伊 豆 半 島ジオパー クの魅 力を 紹 介してきましたが、そ みることをおすすめします。﹁三四郎 24 と 見ることができます。 遊 歩 道も 整 17 成 さ れた 設 さ れ、 その 白 く 漁師めしや波魚波の地魚丼 門脇吊り橋と門脇灯台を望む 年に建 平成7年 美 しい 崖 2013.2 ● 税理士事務所 11 35 に改築さ 城ヶ崎海岸 岐阜市と羽島市を拠点に 3代にわたって 大手から中小零細企業までを支援 三浦康守税理士事務所の皆さん 三浦康守税理士事務所 後復興のおかげもあり、ものすごい 勢いで顧問先が増えていったそうで す。とはいえ、 羽 島 市 だけでは 市 場 年には 岐 学部を卒業した後にそのまま東京の 岐阜県羽島市生まれで、明治大学商 康守所長︵以下敬称略︶ 父の明一は られたのですか。 父上はどのような経緯で税理士にな いるそうですが、もともと先代のお 3代にわたって事務所を運営されて れたのですか。 ︱康守先生はいつ頃、事務所に入ら き来していたのを覚えています。 らは電車でよく羽島市と岐阜市を往 当 時、 父が駅 まで自 転 車で、それか 市のほうに拠点を移していきました。 阜 市にも 事 務 所を構え、徐々に岐 阜 が小 さかったので、 昭 和 銀行に勤めていました。しかし、長 年に復 と、 税 理 士︵ 当 時 は 税 務 代 理 士 ︶の 験を生かせるような仕事をしよう 員後、地元に戻り、銀行員時代の経 高 く、 顧 問 先 が 増 え て い き ま し た。 康守 当時は地場産業である繊維製 造業の勢いがあり、企業の開業率も かがでしたか。 ︱当時の事務所や顧問先の状況はい 41 仕事を始めることにしたのです。開 21 所当時は戦争が終わった直後で、戦 男だったこともあり、昭和 康守 実家 昭和 年に大学を卒業し、 に戻って事務所で働きはじめました。 ︱三浦康守税理士事務所は岐阜県で 住 所/岐阜県岐阜市加納丸之内 8 ー15 T E L :058 ー271ー 0835 F A X :058 ー275 ー2117 設立/ 1946 年 職員数/ 6 名 導入システム/ ACELINK NX-Pro 25 戦後すぐに開業した 岐阜の老舗税理士事務所 岐阜市の三浦康守税理士事務所は 3代にわたって岐阜県を中心に企 業の税務・会計を支援し続けてい ます。現在は三浦康守先生とその ご子息の三浦陽平先生が二人三脚 で、 税務・会計のみならず、 相続や 企業再生といった案件にも取り組 んでいます。この岐阜を代表する 老舗税理士事務所のこれまでの歩 みと取り組みについて、三浦康守 先生と三浦陽平先生のお二方にお 話を伺いました。 12 それに伴い、事務所の職員数も増え、 私が 入 っ た と き で す で に 名 の 職 員 が働 い て い ま し た 。 と は い え 、 当 時 の業務はほとんど手作業でしたか ら、 確 定 申 告 の 時 期 な ど は 連 日 、 夜 中ま で 作 業 を す る の が 当 た り 前 で し た。 ま た 、 そ の 頃 は 実 務 作 業 が 中 心 で、 顧 問 先 に 対 す る 経 営 の ア ド バ イ スや 指 導 と い っ た 業 務 は そ れ ほ ど な かっ た よ う に 思 い ま す 。 苦境に立たされた企業の 起死回生を支援する ︱日 本 の 高 度 経 済 成 長 に 合 わ せ て 事 バブルが崩壊すると地元の繊維製造 で は そ の 勢 い が つ づ い た の で す が、 なっていました。しかし、バブルま り、 岐 阜 で は 最 大 規 模 の 事 務 所 に 300件を超えるほどの規模にな て い ま す。 最 盛 期 に は 顧 問 先 数 が 大手企業などとの顧問関係が継続し 康守 そうですね。おかげ様で、現 在も当時顧問先になっていただいた ですね。 務所の規模も大きくなっていったの 残っているというような会社が増え 陽 平 副 所 長︵ 以 下 敬 称 略 ︶ 役 員 報 酬 を 下 げ る な ど し て、 何 と か 生 き しょうか。 ︱顧問先全体の景況感はいかがで 順調に業績を伸ばしています。 維産業などにシフトできたところは、 会社でもうまく自動車関係の炭素繊 になっています。 一方、同じ繊維関係の り屋根の建物は残っていますが、ほと まっています。繊維製造工場ののこぎ た。大学卒業後に専門学校に行って 陽平 大学生の頃にはすでにいつか は事務所を継ごうと思っていまし に立たされたということですが、現 ︱繊維製造業がバブル崩壊後に苦境 いる会社は、ネットショップなどを る気があり、先端のITを活用して ると感じています。現に経営者にや いますが、陽平先生は最初から事務 所を継ぐつもりだったのですか。 勉強し、 歳のときに公認会計士の 一次試験に合格して大手監査法人に 就職しました。監査法人で5年ほど 5年という短期間で資格を取得することができたそうです。 年に岐阜に戻ってきま す。それでも、日々努力を重ねることで、事務所に入ってから 働き、平成 あって、入所当時は税務・会計の知識が少なく苦労したそうで した。 なかなかとれなかった」と。また、経済学部出身だったことも んどが稼 働しておら ず、 空き 家 状 態 カーとして独り立ちしている会社も 在の繊維製造業の状況をもう少し詳 最大限に活用して売上げを伸ばして 生と二人三脚で事務所を経営されて 業の元気がなくなり、倒産件数が増 てきています。ただ、なかにはメー 年頃には現場をはな え、 顧 問 先 も 減 少 し て い き ま し た。 先代は平成 しくお話しください。 本気を出せば、地方都市であっても あるので、まだまだ再生の余地はあ 康守 岐阜には家内制手工業のよう な機屋さんが多かったのですが、現在 起死回生は十分にできると考えてい 年に 歳で逝去しました。 このよ うなところが苦 境に立たされ ます。また、岐阜は名古屋と近いの います。とくに次の世代の経営者が ています。かつてそういった機 屋さん なりの時間を仕事に充てなければならず、試験勉強の時間が 4 で、今後は岐阜だけでなく、名古屋 うですが、当時の業務は手書きが中心だったこともあり「か 4 の多 くは従 業 員を 住み込 ませていた 監査法人時代のノウハウで コンサル業務を展開 25 19 所。以来、事務所で働きながら、税理士試験の勉強に励んだそ 4 の市場にも目を向けることが肝心だ かも、 繊 維 製 造 業は海 外シフトがす すみ、国内での仕事が激減してしまっ 軒ほどあった顧 問 先の機 屋さん ています。 実 際、 羽 島 市 内を 中 心に に 康守所長は、昭和41 年に大学を卒業し、父上の事務所に入 4 ︱現在、康守先生はご子息の陽平先 税理士まで の 道のり 4 のですが、今ではそういった労働体系 れ、平成 5 と思います。 90 をとることがなかなかできません。し 13 は、いまや2、3軒にまで減 少してし 2013.2 ● 税理士事務所 13 3 50 10 二人三脚で事務所を経営する三浦康守先生(右)と陽平先生 4 うにしています。また、祖父が担当 やIT支援などは私が担当するよ 件に関しては父が担当し、業務改善 分担 は あ る の で す か 。 ︱康守先生と陽平先生とで仕事の ます 。 しては、そのノウハウを提供してい 務改善に頭を抱えている企業に対 できるようになりました。また、業 ディーかつ正確なサービスを提供 業効率は大幅に上がり、よりスピー 導入しています。結果、事務所の作 在は当事務所でもチーム分業制を すし、チェック機能が働くので、現 ム単位のほうが仕事がはかどりま 事務所の実務作業についてもチー をこなしていくわけですが、税理士 クトチーム単位で膨大な作業工程 とえば、大手企業の監査はプロジェ の意味で大きく役立っています。た た。しかし、監査法人での仕事は別 陽平 監査法人では主に大手企業 の監査業務を担当していたので、規 にギャップはありませんでしたか。 ︱監査法人から事務所に戻ったとき ビスを提供していきたいと思って することで、顧問先に継続的なサー 士法人を設立する予定です。法人化 陽平 叔父が羽島市で税理士をし ているので、近いうちに共同で税理 か。 ︱税理士法人化の予定はあります ています。 画書の作成方法などをテーマにし 主に資金繰りの改善方法や経営計 ナ ー の 講 師 を 務 め ま し た。 内 容 は、 陽平 商工会議所などからの依頼 で、 こ れ ま で に 5、6 回 ほ ど セ ミ も力を入れているそうですね。 ︱陽平先生は最近、セミナー活動に しています。 ムを活用して、整理するように指導 は会社分割やM&Aなどのスキー また、再生が厳しいと判断した場合 し て 支 援 さ せ て い た だ い て い ま す。 作成や資金繰りの改善案などを通 うな企業については、経営計画書の ことが増えてきました。再生できそ 陽平 裁判所や金融機関からの依 頼で企業再生の案件を引き受ける き受けることもあるそうですね。 ︱最近は事業再生などの案件を引 いですね。 がいる企業を担当するケースが多 的にはそれぞれ同じ世代の経営者 し上げます。 躍をお祈り申 い。益々のご活 張ってくださ するために頑 ︱これからも います。 ことができて を効率化する め、互いの業務 ソフトをすす 帳くん﹄などの ます。顧問先に うになってい とができるよ に対応するこ 業規模や業種 上に、幅広い企 を抑えられる に比べて経費 ステムは他社 す。MJSのシ 陽平 非常に いいと思いま か。 はいかがです ムの使い勝手 JSのシステ ︱ところで、M 陽平 はっきりと区別しているわ けではありませんが、相続関係の案 模や業務内容は大きく異なりまし していた羽島市の顧問先に関して います。 岐阜を元気に も積極的に﹃記 は、今も父が担当しています。基本 事務所風景 14 75 24 10 75 2013.2 ● 税理士事務所 19 ● 発 行/株式会社ミロク情報サービス 〒 1600004 東京都新宿区四谷 4291 TEL. 0353260304(ミロク会計人会事務局) ● 発 行 人/是枝 周樹 ● 編集企画/ミロク会計人会連合会広報委員会 ミロク会計人会事務局 ● 配信制作/東方通信社 ● 印 刷/株式会社シナノ ● 購読申込/株式会社ミロク情報サービス ● 禁無断転載 ※本誌に掲載されている会社名及び製品名は、各社の商標または登録商標です。 お詫びと訂正/ 1月号の 8 頁「 ニアピン・ドラコン」の 成 績 表 の 中でドラコン O U T・ 6 番 の お 名 前 に 誤りがござ いました 。倉 本 正 人 様 の お 名 前 は 正しくは 雅 弘 様で す。謹んでお詫びし、訂正いたします。 標高1240m の面ノ木園 地内には広葉樹の原生林、 自然林や湿地帯など、 さまざ まな自然があり、高山植物な ど貴重な動植物も多く生息 しています。秋には紅葉が美 しく、冬には霧氷も見られま す。面ノ木峠周辺は公園・遊歩道(登山道) ・展望 台などが整備されています。尾根、展望台などからは 三河や南アルプスの山々、 津具の集落を見渡せます。 14 75 17 45 60 楽あれば苦あり だった。 先ほど休んだのに、もう息は切れ切れ、心臓パクパ ク、足はパンパンだった。自転車を降りて疲れて歩い ている人に﹁ガンバッテ﹂と、見栄で声をかけ、自分 は必死の形相︵内心︶で漕いで行く。目の前が真っ白 になりかけたところで、やっと峠らしい場所に到着。 スタート 余裕出る 今まさにスタートしようとしている。 平成 年 月 日、午前7時 分、﹁あんじょう ゆるい下 り 坂 と 登 り 坂を 繰 り 返している うちに、 第2中継所である﹁松平郷﹂に到着。 じゃんだらりん﹂、 ㎞コース出発のそのとき。 ℃、絶好のサイクリン ここではちょっとゆっくり休もうと思い、自転車を 天気晴朗、微風、温度約 立木に立て掛け、あてがわれたスポーツドリンクとア グ日和である。この大会は安城市の市制 周年を記 ンパンをいただいた︵ここで約 ㎞︶。 念し、安城市が催した自転車の集い。世の中にはさ まざまな自転車の集いがあるが、自治体が主催する 休 憩もそこそこに切り 上げ、レースに参 加。ここ からは整備された国道・県道加えて、おおむね下り ことは非常に珍しいらしい。 坂が多いので、〝はなうた〟も。 スイスイ ラッキー 安城市のランドマーク﹁デンパーク﹂を起点に、岡 崎市西北部・豊田市の南東部を回遊する120㎞と 豊田市の水 源 橋で、まったく 前 後に誰もいなくな り、 ﹁道を間違えたのか﹂と不安になり、止まって3 ㎞のコースである。私は自転車︵ロードバイク︶をは ∼5分 くらい地 図を 見ていたところ、 幸 運にも 後 方 じめて間もないので、 ㎞コースを選択した。スター から数名が自転車で走ってくるではないか。 ト後はしばらく﹁安城市自転車緑道﹂を中心に、割 ﹁ラッキー﹂ 、この人たちを追いかけていけば、﹁デンパー と平坦な道を走っていった。 ク﹂に着くはず⋮。もう、両太ももは完全に悲鳴を バクバク 上げている。 ﹁水源橋﹂を越え豊田市に入っていくと、徐々にスピー 笑顔で ドが落ちていった。坂がだらだらと続いているからだ。 最 後の中 継 地 点は﹁ 安 城 総 合 運 動 公 園 入 り口﹂ 。 周りの景 色はというと、 清 流が流れ、 鳥のさえづ おにぎりと﹁トン汁﹂のふるまいを受け、精一杯の笑 りが聞こえ、 非 常にのどかである。しかし、わが心 顔で﹁じゃんだらりんガール﹂と記念撮影をし、残 臓の鳴動は高鳴ってきた。 り5㎞のゴールを目指し、自転車にまたがった⋮。 ﹁これくらいの坂は越えなければ⋮﹂と、自 らを鼓 舞し﹁奥殿陣屋﹂に到着。これで、出発点から約 ㎞。 完走した感想 先 着 組はすでに100台︵100人 ︶くらいいたで ①また走りたいな。今度は100㎞か? あろうか。ふるまいのペットボトルの飲料を飲み、パ でも、今度はこれだけのサポートはあるかな? ンなどを食して休んでいた。私は時間の余裕がないの ②上り坂の数だけ下り坂はある。 で、トイレを済まし、水を少し飲んで、写真をパチリ。 プラスマイナスゼロか? ③さて自分の人生は? ガンバレ 今現在、登りか? 下りか? 次の中 継 地に向け、 徐々に延々と 続 く 坂 道をゆっ くりゆっくり登って行った。稲を刈り取られた田んぼ、 楽しているか? 苦しいか? 軒先の色付いた柿などに囲まれた典型的な里山の道 それは﹁?﹂である。 (所在地:愛知県設楽町) 通巻 378 号 月刊 税理士事務所 Channel 「早春の原生林(面ノ木園地) 」 文人 中部ミロク会計人会 永谷 20 50 表紙の写真 月刊税理士事務所 一 電話 ○三︵ 五三二六 ︶〇三〇四 平成二五年二月一日発行︵毎月一日発行︶第三百七十八号 発行 株式会社ミロク情報サービス 〒一六〇 〇〇〇四 東京都新宿区 四谷 四 二十九 | | |
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