120621 考古学とチントンシャン

人脈記 スカイツリーを見上げて No.7
『考古学とチントンシャン』
朝日新聞 2012/6/28 夕刊 から
小林 綾子(右)
母・訓子
始まりは、こんなやりとりだった。
『こんど、マクドナルドでアルバイトしようと思ってる』 そのとき19歳、慶応大学
文学部の2年生。 何の気なしに言うと、祖母が返した。
『そんなのもったいない。お金出すから、うちの料亭で芸者をやんなさい』
それから 25 年。小林綾子(44)はいま、東京は墨田区、向島の料亭「きよし」の女将として店を切り盛りする。
19年前に76歳で亡くなった祖母・たつ、母・訓子(67)と続いた店の3代目だ。
東京の花街の大どころを指して 『六花街』 と呼ぶ。 新橋・赤坂・芳町・神楽坂・浅草、そして向島。
マンションや雑居ビルのなかをすすむと、路地に囲まれた一角に 二階建ての家並みが現れる。格子戸、
黒塀、品よく整えた植木。装束を整えた姐さんたちがいそいそ行き交う。
「六花街」では向島の起こりが、
一番 最後だが、芸者衆 100 人、料亭は 15 軒と、いまは最も大きな規模で残る。
祖母が「きよし」を開いたのは、昭和24年、西暦1946年。店の名は、ずっと惚れていた男の名前をとったという。
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話を元へ。小林は、芸者デビューの時のことを、いまもはっきり覚えている。 島田姿で、おしろいぬって、
披露したのは「藤音頭」。
∮ 藤の花房色よく長く 可愛いがろとて酒買うて ∮
踊りは3歳から習っていたが、その発表会とはまるで違った。ごくわずかな距離から、ちょっとしたしぐさ、目
の配り方まで見つめられている。ずっと花街で育ってきたのに、緊張で震えがとまらなかった。
勉強ばかりじゃだめ、人の心の機微もわかるようにならないと。祖母は、そう考えて芸者をやらせたのかもし
れない。5月生まれだから、芸名は「鯉」。大学の講義が終わると美容院に直行し、店に出る毎日が始まった。
無我夢中で踊るうちに、おもしろくなってきた。視線の熱さで、お客さんの評価と思いがわかる。 「当たり」。
そう感じた人は、次も自分を指名してくれた。
芸者は結局、10年やった。でも、この仕事一つにかけているほかの芸者衆にはかなわないと感じていた。
そろそろ潮時、あとは店を継ぐかどうか。 小林は学問も続けていた。専攻の考古学を究めようと大学院へ。
26歳で幼なじみの男性と結婚した。夫はよく理解してくれたが、わらじはさすがに二足が限界だ。
家庭生活と、もう一つはどっち? 思案していたころ、店の忙しい時期に大学院のリポート提出が重なった。
書き上げようと部屋にこもったが、店が気になり、どうにも落ち着かない。
これも「血」なのだろう、そう感じ、
研究の道に区切りをつけた。 2代目の母をよく助け、一昨年、3代目の女将となった。
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小林の頭には常に、向島全体のことがある。2007年には、地元の若手で「町おこしの会」をつくった。
文人墨客が親しんだ地元の観光マップや案内板をつくり、2 千円でお座敷遊びが体験できる企画も催した。
1階と2階をあわせ、店の座敷は全部で6間。スカイツリーは、2階の窓から見える。マンションの間を縫い、
細い路地の上にすっくと立つ。 なじみ客は「東京スキマ(隙間)ツリー」と呼ぶ。
都心の東、隅田川を渡ったところにある向島。かつては、花街としてひとつ格下に見る向きもあったが、そこ
にこそいま、江戸の風情が残っている。
「生き馬の目を抜く場所から少し離れ、粋な文化を再発見してもらえたらうれしいですね」。 スカイツリーが
そのきっかけになれば、と小林は思っている。
〆
★向島で粋を楽しむ
― 和の作法や伝統文化を実際に体験しましょう -
ジャンル くらしと健康
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