平成 23 年度 独立行政法人 経済産業研究所 国立大学法人 京都大学 共同研究事業 イノベーションと経済成長に関する調査研究 平成24年3月 独立行政法人 経済産業研究所 国立大学法人 京都大学 2 Executive Summary 【RDCI モデル】 イノベーションを「新商品・新サービス等による革新的価値創造」と定義し、イノベー ションが成立する確率を P(In) 、 研究 (Research)が成功する確率を R、 開発 (Development) が 成 功 す る 確 率 を D 、 商 業 化 ( Commercialization ) が 成 功 す る 確 率 を C 、 産 業 化 (Industrialization)が成功する確率と I とすると、 P(In) = R・D・C・I であり、ここで各段階の開始確率を R-, D-, C-, I- とし、開始したプロジェクトの成功確率 を R+, D+, C+, I+ と標記すると、イノベーションの成功確率は以下のとおりとなる。 P(In) = R-・R+・D-・D+・C-・C+・I-・I+ 【RDCI モデルから得られる示唆】 1.オールグリーン問題とイニシエーターの重要性 RDCI モデルの重要な示唆は、 「一カ所でも連鎖が切れるとイノベーション全体が死ぬ」 ことである。稟議制の日本企業では、すべての関係者の了解を得ないと(オールグリーン) プロジェクトの開始・推進ができない。リスクに敏感な一人の反対がプロジェクトをつぶ してしまう。反対者があってもプロジェクトを進められる多様なルートの成長過程をいか に確保するか(並列化) 、いかにプロジェクトのリスクを減らし途中のレッドライトを阻止 するかがイノベーションの成立には重要となる。また、周囲の反対にも動じずプロジェク トを開始・推進できるイニシエーター(先導者)が重要である。 2.イノベーション・マネジメント RDCI モデルによれば、R も D も C も I も、外部調達と内部調達は無差別であり、自前 で技術調達をした場合と外部から技術調達をした場合では、確率が高い方が望ましい。こ のため、国家としてのイノベーション・マネジメントが重要になる。国内の RDC 各段階に おける要素の発展段階と国際競争力を評価し、何を海外から積極的に導入し、何を知的財 産として保護すべきか、革新的技術については当初から産業化以降も視野に入れつつイノ ベーションを適切に管理する必要がある。すなわち、RDCI モデルではイノベーションの成 立までを扱っているが、産業政策的には日本企業の国内・世界市場シェアが重要であり、 産業化した後の国内・世界市場シェア(s)を加えた RDCIs の最大化を図る必要がある。 3.構造問題 RDCI の確率が上がらないのは、日本人の気質の問題ではなく構造の問題である。社員が イノベーティブな開発に取り組まないのも、大企業からの spin-off が少ないのも、イノベー ションを起こすためのプロジェクトの開始は(R-、D-、C-)は、その中身が革新的である ほど「経済合理的でない行為」であるからである。 3 【今後のイノベーション政策のあり方】 1.政府のイノベーション・マネジメント 科学は観察から始まる。イノベーションを政府が科学的に推進するのであれば、毎年政 府が「イノベーション白書」を作成し、毎年の成果と隘路を調査して発表することが必要 である。内閣府のイノベーション室(現在は官房審議官が室長を兼任)において、各年度 のイノベーションの成功事例・失敗事例を外部委員会とともに評価し、奨励すべき模範事 例の選出と RDCI の隘路のモニタリング、その対策及び進捗状況を毎年公表すべきである。 また、DVD や液晶パネルの失敗に鑑み、iPS 細胞など我が国発の重要な革新的技術につ いては、その後どのような産業でその成果を活かすのか、外国企業への知財流出をどのよ うに抑え、外国企業とどのようにコラボレーションするのかをマネジメントする必要があ る。ただし、 「イノベーションのマネジメント」は形容矛盾と言われるほど困難であること から、政府自らがイノベーションをマネジメントしようと干渉して、逆にイノベーション を封殺することのないよう、今後イノベーションのマネジメントに関する更なる研究が必 要である。 2.イノベーションの奨励 イノベーションの推進には、国家としてのイノベーションの奨励が必要である。イノベ ーションの重要性を国のトップが宣言し、奨励する必要がある。具体的には、新産業を創 出したイノベーター、特に新商品や新サービスの開発開始・販売開始をリードしたイニシ エーターへの天皇杯の授与、NHK の「ロボット・コンテスト(ロボコン) 」と同様のビジ ネス・アイディア・コンテストの開催等が望ましい。イノベーションリテラシーの向上と 起業家人材育成への取組も不可欠である。こうしたイノベーション教育を効果的に行うた め、世界各国のイノベーション教育の実態(大学カリキュラムや社会全体の仕組み)を研 究し、世界最高のイノベーション教育を我が国において実現する必要がある。 3.成功事例の創出と構造問題への取組 いくら政府がイノベーションを奨励しても、失敗事例が増えるだけではイノベーション への期待は持続しない。 「なでしこジャパン」ではないが、一つの成功事例は人々の「やっ てもムダ」という思考停止を打破する力がある。まずは過去の成功事例の抽出と適正な評 価、そうした事例を国民に広く普及することで、新たな挑戦のきっかけを与えることが重 要である。 さらに、 「イノベーションへの取組が経済合理的でない」社会システムを「経済合理的で ある」社会システムにする必要がある。大企業に入ると生涯賃金が 4 億円保証される社会 で、優秀な人間にベンチャーを始めないかといっても経済合理的でない。モニタリング結 果を踏まえつつ、イノベーションを阻害する構造的な問題に政府として取り組み、毎年改 善を続けなければならない。 4 目 次 第一部 イノベーションと経済成長に関する調査研究 Executive Summary … 3 はじめに … 9 1.イノベーションの定義 … 11 2.イノベーションモデルの考察 … 13 (1)イノベーションモデルの先行研究 (2)イノベーションモデルの具体例 ~ ポスト・イット (3)RDCI イノベーションモデル(RDCI 確率モデル) (4)RDCI の定義 (5)RDCI の隘路 3.イノベーション事例への RDCI 確率モデルの適用 … 32 (1)東海道新幹線 (2)コンビニエンスストア (3)宅配便 (4)カップラーメン (5)YS-11 (6)ロータリーエンジン (7)Facebook … 71 4.RDCI モデルの考察 (1)イニシエーターの重要性 (2)クラスター (3)普及と標準化 (4)波及効果 5.RDCI モデルの示唆 … 79 6.イノベーション政策への応用 … 83 結語 今後の研究の方向性について … 85 第二部 CAPS 公開シンポジウム「被災地復興のためのビジネスイノベーション」… 89 5 6 第一部 イノベーションと経済成長に関する調査研究 7 8 はじめに “Innovation or Abdicate(イノベーションか退位か) ”― 2004 年、米国競争力評議会は、 産業界・学界・政府・労働界など 400 名以上のリーダーの英知を結集し、 「Innovate America」 (通称:パルミサーノ・レポート)を発表した。同レポートでは、世界中の国がグローバ ル経済に組み込まれコストや質で米国と競争可能になる 21 世紀において、 国の競争優位(コ ンペティティブ・エッジ)を授けるのはイノベーション以外にはなく、イノベーションを 進めない限り米国の覇権は危ういと結論づけている。 こうした指摘を受け、米国は、将来の高い生活の質・国の発展・高給・雇用を確保する ためにはイノベーションへの投資が必要であるとして、2006 年に「米国競争力イニシアテ ィブ」を、2007 年には「米国競争力強化法」を(2010 年に延長が決定) 、2009 年に「米国 イノベーション戦略」を発表し、科学教育や基礎研究への支援を拡充させていくこととし ている。 一方、EU は、2005 年に「新リスボン戦略」 、2007 年に「競争力イノベーションフレー ムワークプロジェクト」 、2010 年には EU の経済・社会の今後 10 年間の目標を定めた「EU 新戦略(EUROPE2020) 」を発表した。そこでは、成長に向けて取り組むべき 3 つの優先 事項として、 「知識・イノベーションを基盤にした経済の発展」、 「資源効率に優れ、環境に 配慮し、競争力のある経済の促進」 、 「社会的地域的結束をもたらす高雇用経済の醸成」を 挙げており、産業界からの投資促進により研究開発投資を GDP 比で現行の 1.9%から 3% に引き上げることとしている。 英国では、2009 年にビジネス・企業・規制改革省(BERR)とイノベーション・大学・ 技能省(DIUS)とを統合し、新たにビジネス・イノベーション・技能省(BIS)を創設す るとともに、2011~2014 年の科学研究予算として毎年 46 億ポンド(約 6,000 億円)の科 学研究予算を別枠扱いにすることが発表された。フランスでは、高等教育・研究開発・中 小企業の支援等のため、サルコジ大統領の主導により 2010 年 6 月に「将来への投資」予算 350 億ユーロ(約 3 兆 8,000 億円)を発表している。 また、経済協力開発機構(OECD)は、2010 年 5 月に「OECD イノベーション戦略」を 発表し、国民にイノベーション能力を付与するような教育の推進や、企業のイノベーショ ンを加盟国に喚起している。 OECD に加盟していない中国でも、2006 年に「国家中長期科学技術発展計画」策定する とともに、2007 年には「科学技術進歩法」を改正、2011 年には省エネ・環境産業、次世代 情報産業、バイオ産業等の7つの産業を「戦略性新興産業」として指定し、中国が先進国 に対して大きく遅れをとっているイノベーション力を引き上げることを狙っている。 このように、世界では、いかにイノベーションが結実しやすい社会の仕組みを構築する かの熾烈な国際競争が繰り広げられている。日本においても、2007 年にイノベーションに 関する長期戦略指針「イノベーション 25 ~イノベーションでつくる日本の未来」が閣議決 定するとともに、2008 年には「研究開発力強化法」を制定、2011 年 8 月に閣議決定された 「第 4 期科学技術基本計画」においても、 「科学技術イノベーションの推進」を明確に位置 付けている。 9 では、こうした政府の取組により、日本は「Innovative な国」になっているのだろうか。 少なくとも最近のベンチャー向け投資の低迷(投資先社数は 2004 年の延べ 18,000 社から 2010 年は延べ 12,000 社へ減少)や IPO 数の低下(2000 年の 204 社から 2011 年は 36 社 に)からは、Innovative な国になっているとは言いがたい。 日本をイノベーションが次々と起こる「Innovative な国」にするには、どうすればいい のか。大学の研究予算が増えて科学の研究が盛んになれば良いのか、大学発ベンチャーが 増えればいいのか、米国のシリコンバレーのようなベンチャーの成長を促すエコシステム (Eco-system)が必要なのか、産官学連携が必要なのか ― 本報告書では、イノベーションの全体像を示すモデルとして「RDCI 確率モデル」を提示 し、実際のイノベーション事例への当てはめを行うことでモデルの有効性を検証するとと もに、本モデルから導かれる示唆と産業政策上の課題を明らかにする。 10 第1章 イノベーションの定義 議論の前提として、イノベーションに関わる代表的な先行研究による定義を検討し、こ こで用いるイノベーションの概念を明確にする。 イノベーションを最初に体系的に理論化したのは、オーストラリアの経済学者シュンペ ーター(J. A. Schumpeter)である。シュンペーターは、1926 年の『経済発展の理論(第 2 版) 』で、イノベーションとは「新結合の遂行」と定義している。具体的には、①新商品 の開発、②新しい生産方法の導入、③新しい販路・市場の開拓、④新しい原料・供給源の 獲得、⑤新しい組織の実現、としており、これらの組み合わせもまたイノベーションであ るとした。これらを現代的な用語でいうならば、①プロダクト・イノベーション、②プロ セス・イノベーション、③マーケット・イノベーション、④マテリアル・イノベーション、 ⑤システム・イノベーションとなるだろう。彼は、同著で「われわれが取り扱おうとして いる変化は経済体系の内部から生じるものであり、それはその体系の均衡点を動かすもの であって、しかも新しい均衡点は古い均衡点からの微分的な歩みによっては到達しえない ようなものである(強調は原著) 。郵便馬車をいくら連続的に加えても、それによってけっ して鉄道をうることはできないであろう。」とも述べている。この「微分的な歩みによって は到達しえない新しい均衡点」という概念も重要になる(経済動学的イノベーション)。 ドラッカー(1973)は、 「イノベーションとは、人的資源や物的資源に対し、より大きな 富を生み出す新しい能力をもたらすこと」とし、イノベーションの本質は、より優れた、 あるいはより経済的な製品やサービスを創造することを通じて新たな顧客を獲得すること にある、とした。ドラッカーは、シュンペーターが提唱した経済動学的なイノベーション の概念を企業活動と結びつけ、イノベーションが企業の存続と成長のために不可欠である ことに着目している(経営学的イノベーション) 。 一方、マイヤーズとマーキス(1969)は、 「イノベーションは、単なるアイディアや概念 ではないし、新しい装置の発明でもないし、新しい市場の開拓でもない。イノベーション とは、それらすべての活動が相互に影響を与え合う統合的なプロセスである」と延べ、「イ ノベーションとは、アイディア創出から問題解決を経て、最終的には経済的・社会的価値 の実現へといたる、非常に複雑なプロセスである」と定義している。マイヤーズとマーキ スの研究は、イノベーションをプロセスとして認識し、そのプロセスを成功に導くための 分析を行ったことで、その後のイノベーション研究に大きな影響を与えた。 また、OECD の OSLO MANNUAL 3rd Edition(2005)では、イノベーションとは「新 しいまたは大きく改良された生産物(商品、サービス)や生産工程の実現、新たなマーケ ティング手法や新たな組織的手法の実施」と定義されている。日本の「イノベーション 25」 (2007)では「技術の革新にとどまらず、これまでとは全く違った新たな考え方、仕組み を取り入れて、新たな価値を生み出し、社会的に大きな変化を起こすこと」とされており、 第4期科学技術基本計画(2010)では「科学的な発見や発明等による新たな知識を基にし た知的・文化的価値の創造と、それらの知識を発展させて経済的、社会的・公共的価値の 創造に結びつける革新」を「科学技術イノベーション」と定義している。 11 イノベーションの定義に登場する「革新」とは、より具体的には何なのだろうか。ロジ ャース(1983)の指摘するように、イノベーションは新しい製品やサービスが市場に受け 入れられて、つまり経済的成果を実現してはじめて成立する。特に産業政策的な観点から は、発明・発見の学術的価値よりも実際にその研究が社会に活かされること、社会的なイ ンパクトがより重要である。妹尾(2009)は、イノベーションの普及過程に注目し、イノ ベーション(Innovation)=発明(Invention)×普及(Diffusion)と整理している。 本稿では、これらの概念を踏まえつつ、イノベーションの価値創造機能に着目し、イノ ベーションを「新商品・新サービス等による革新的価値創造」と、科学技術イノベーショ ンを「科学技術に基づいた新商品・新サービス等による革新的価値創造」と定義して議論 を進める 。 12 第2章 イノベーションモデルの考察 (1)イノベーションモデルの先行研究 では、イノベーションは、具体的にどのような発展プロセスを経るのであろうか。 イノベーションの発展プロセスについては、 「研究」→「開発」→「生産」→「マーケテ ィング」と直線的に捉える「リニアモデル」 (linear model)から、市場の発展や研究が知 識と複雑に影響し合ってイノベーションが形成されるという連鎖モデル(Kline, 1990)や、 オープン・イノベーション(Chesbrough, 2003)など様々なモデルが示されてきた。また、 技術が実用化に至るまでの課題については米国国立標準技術研究所の研究が(NIST, 2003) 、 イノベーションの普及プロセスについては、ロジャース(1983)やムーア(1991)などの 研究がある。また、イノベーションにおける技術進歩の傾向についてはフォスター(1986) が、技術の相互依存性についてはローゼンバーグ(1976)が、製品技術の変化と生産技術 の変化についてはアバナシー(1982)が、それぞれ興味深い研究をしている。 一方、出川(2005)は、自らのビジネスでの経験を踏まえ、科学技術イノベーションの 発展段階を「研究」 「開発」「事業化」「産業化」の4つのステージに整理している。また、 小川(2009)は、液晶テレビのように我が国の優れた研究と技術が産業化されたとしても、 他国企業にシェアを奪われてしまっては国富にならないことを示唆している。 イノベーションプロセスについては、これらのモデルを統合して「技術がいかに新商品 や新サービスに結実し、産業に発展して革新的価値創造を行い、社会にインパクトをもた らすのか(そして国富となるのか) 」を一体的に捉えるモデルが必要である。 図 2-1 研究・開発の事業化と産業化への過程(出川 2005) *売上のイメージは、日本 における典型的な大企業 と想定される 5,000 億円~ 1 兆円規模の会社 13 (2)イノベーションモデルの具体例 ~ ポスト・イット イノベーションの発展過程を考察するため、イノベーションの具体例である米国 3M 社 のポスト・イット(Post-it®)を採り上げる。ポスト・イットは、1980 年に 3M 社から発 売され、事務用品、しおり、ファシリテーション会議用メモ、パソコンのメモソフト、モ ザイク絵の材料等さまざまな形に応用され、世界 150 カ国以上で愛用されているイノベー ション(革新的価値創造)である。 Spencer Silver Arthur L. Fly 【研究失敗?】 3M 社中央研究所の研究者、スペンサー・シルバーは、接着力の強い接着剤を研究してい たが、できたのは「よくつくが簡単に剥がれてしまう」という接着剤としては明らかな失 敗作であった。通常こうした失敗作は棄てられてしまうが、シルバーは「これは何かに有 効に使えるに違いない」と考えた。 【開発開始まで】 シルバーは社内のあらゆる部門にこの発見を紹介し、見本を配り、新しい用途を模索し た。3M には、執務時間の 15%を自分の好きな研究に使ってもよい「15%ルール」があっ たため、奇妙な接着剤を持って社内の人々に意見を求めてまわるシルバーの行動を咎める 者はいなかったが、真剣に耳を貸そうとする者も現れなかった。コマーシャル・テープ製 品事業部の研究員、アーサー・フライもその一人だった。 【開発開始】 シルバーの発見から 5 年後の 1974 年のある日曜日、教会の聖歌隊のメンバーだったフラ イは、いつものように讃美歌集のページをめくった。すると目印に挟んでいたしおりがひ らりと滑り落ちてしまった。またかと思った瞬間、フライはひらめいた。 「あの接着剤を使 えばいいんだ!」 5 年前にシルバーが作り出した奇妙な接着剤の用途が、この時初めて具 体的なイメージとなった。翌日から、フライは 15%ルールで「のりつきしおり」の開発に 取り組んだ。 【試作品開発の成功】 「のりつきしおり」の開発で重要なのは、しっかり貼りつき、同時に簡単に剥がれるこ とである。もちろん本のページが破れたり、汚れたりすることがあってはならない。これ 14 らの条件をクリアするために接着剤の濃度を工夫し、ようやく「のりつきしおり」の試作 品が完成した。 【新用途の発見】 ここでフライはさらに重大なことに気が付く。 「これは単なる『便利なしおり』ではなく、貼ったりはがしたりできる機能を備えたまっ たく新しいメモ・ノート、すなわちコミュニケーションツールとして使える!」 【製造技術の確立】 フライは定められた業務の合間に、この新しいメモ用紙の本格的な製造技術開発に着手 した。3Mには 15%ルールのほかにも「ブートレッギング(密造酒づくり)」という不文律 がある。これは、たとえ上司の命令に背いても、自分の信じる研究をするために会社の設 備を使ってもよいというものである。 製造技術の開発には、様々な難題が山積みしていた。フライは、エンジニアたちに相談 を持ちかけたが、返ってくるのは「それは非常に難しい問題だ」という答えばかりだった。 この新しいメモ用紙には、片側の全面でなく、貼りつけたい部分だけに接着剤を塗布しな ければならず、ロール状ではなく板状になっている必要があった。そのような紙を製造す る機械を3Mは持っておらず、例え製造するにしても非常に困難であるとされた。しかし、 フライは落胆することなく、「それは素晴らしい。簡単なら誰でも真似できるが、そんなに 難しいのなら他社は真似できないだろう!」と自ら製造機を設計し、2 年以上の時間をかけ て製造機を完成させた。 【テスト販売開始まで】 試作品と製造器の完成により、ポスト・イットの量産体制は確立できたものの、市場調 査を行ったマーケティング部が販売に難色を示した。新製品の値段は通常のメモ用紙の 7 ~10 倍であり、しかも今までなかった全く新しい製品なので誰も必要性を感じない=需要 がないと判断されたのである。 この製品の良さは説明よりも体験で理解してもらえるはずだと考えたフライは、試作品 を社内の秘書たちに使ってもらうよう配った。すると秘書たちの口コミで、一度使うと手 放せなくなるその便利さが社内に広まり、使用量は瞬く間に増えていった。もう誰も「た かがメモ用紙」とは言わなくなった。 【テスト販売開始】 1977 年、 ついにアメリカ 4 大都市でポスト・イットの大々的なテスト販売が実施された。 すばらしい結果を誰もが期待したが、予想に反して報告書の内容は厳しいものであり、販 売プロジェクト中止の準備が始まった。 ところが、突如全米の優良企業の秘書たちから注文が殺到するようになった。3M の秘書 たちの凄まじい使用ぶりを知ったマーケティング部が、 「フォーチュン 500 社」の秘書に 3M 会長秘書名でポスト・イットのサンプルを送っていたのである。これによって頓挫しかけ たプロジェクトは息を吹き返し、その後「とにかく使わせる」ことを目的としたサンプリ ングが繰り返された。 そして 1980 年、フライが待ち望んでいた全米発売の決定が下された。 【全米販売の成功】 発売されたポスト・イットは大成功を収め、その後バリエーションとともに様々なカラ ーが登場し、ポスト・イットはオフィスの必需品としてゆるぎない地位を確立した。 15 【世界展開】 全米販売開始の 1 年後、3M はポスト・イットの世界販売に乗り出し、日本でも住友スリ ーエムが販売を開始した。当初は全く売れない状況が 2 年間続いていたが、1983 年春にア メリカでの例にならって、主に女性をターゲットにして企業、街頭でのサンプリング作戦 を実施し、大成功した。また、日本独自の要望に応えて、紙の先端を赤く塗った付箋紙タ イプのポスト・イットを開発・販売したところ、爆発的に売れた。ローカル市場の需要に 柔軟に対応した結果の成功だった。 こうしてポスト・イットは世界展開に成功し、今では冒頭に触れたとおり世界 150 カ国 以上で販売されている。その用途も、本のしおりから伝言用メモ、備忘録用メモ、ファシ リテーション用メモ、モザイクアート材料等、広範にわたっている。 図 2-2 ファシリテーション用メモに用いられるポスト・イット 16 図 2-3 モザイクアートに用いられるポスト・イット (3)RDCI イノベーションモデル(RDCI 確率モデル) このポスト・イットの事例から分かるように、イノベーションはその過程で何度も失敗 の危機を迎える。その危機をすべて乗り越えて初めてイノベーションは成立することから、 イノベーションのモデルは以下のような同時確率モデルで表すことができる。 P(In) = R・D・C・I … ① これを RDCI イノベーションモデル(RDCI 確率モデル)と呼ぶこととする。ここで P(In)は、イノベーションが成立する確率を、R は研究(Research)が成功する確率を、 D は開発(Development)が成功する確率を、C は商業化(Commercialization)が成功す る確率を、I は産業化(Industrialization)が成功する確率を、それぞれ意味する。ポスト・ イットであれば、シルバーによる研究の成功が R に該当し、フライによる試作品の完成が D に、全米での発売の成功が C に、シリーズ化と海外展開の成功が I にそれぞれ該当する。 ここで、研究が「成功する」とは、その研究プロジェクトが「開始」され、プロジェク トが「成果を生む」ことが必要であることから、 当該プロジェクトの成功確率 =当該プロジェクトの開始確率×開始されたプロジェクトの成功確率(打率)… ② と分解することができる。 例えば、毎年全国で 10,000 テーマの研究がなされているとして、当該テーマ(例えば iPS 細胞)の研究が 10 テーマあり、そのうち 1 テーマの研究だけが成功したとすると、iPS 細 胞の研究成功確率は 1/10,000、うちプロジェクト開始確率が 1/1,000、成功確率が 1/10 と 表すことができる。もしも iPS 細胞研究の成功確率を高めたければ、iPS 細胞研究の開始確 17 率を高める(たくさんの研究プロジェクトを立ち上げる)か、開始された iPS 細胞研究プ ロジェクトの成功確率(打率)を上げるかが必要になる。 この考え方は、研究、開発、商業化、産業化についても同じように適応できる。このた め、各段階の開始確率を R-, D-, C-, I- とし、各段階の開始プロジェクト成功確率を R+, D+, C+, I+ と標記すると、イノベーションの成功確率は以下のとおりとなる。 P(In) = R-・R+・D-・D+・C-・C+・I-・I+ … ③ ※R- = 当該研究開始数 / 全研究数 R+ = 研究成功数 / 当該研究開始数 D- = 開発開始数 / 研究成功数 D+ = 開発成功数 / 開発開始数 C- = 商業化開始数 / 開発成功数 C+ = 商業化成功数 / 商業化開始数 I- = 産業化開始数 / 商業化成功数 I+ = 産業化成功数 / 産業化開始数 図 2-4 RDCI 確率モデル(決定木) 3M 社の事例では、シルバーとフライ、マーケティング部らの努力によって、それぞれが 無事に失敗することなくつながったが、もしシルバーが失敗作を捨ててしまっていたら R+ は 0(ゼロ)であり、フライがシルバーの話を忘れてしまっていれば、あるいはしおりが落 ちた時シルバーの話を想い出さなければ、自ら商品開発をしようと思わなければ D- は 0 であり、フライに能力がなく(あるいは 15%ルールが存在せず)試作品の製造に失敗して いれば D+ は 0 であり、試作品ができても「全く新しい商品だから需要がない」と社内で 判断されたら発売できず C- は 0 だった。また、他国への展開も、マーケティングを間違え ていたら失敗し I+ は 0 となっていたかもしれない。 なお、式を単純化すると、P(In)= 産業化成功数 / 全研究数となることから、一見す ると重要なのは産業化成功数だけであって途中の要素は考慮しなくていいようにも見える 18 が、各項目を偏微分すればわかるとおり、例えば開発開始数が 2 倍になったとすると他の 要素が一定であれば成功確率は 2 倍となる。 本モデルは同時確率であるため、R- から I+ までの各確率を絶対にゼロにしないこと(一 カ所でも 0 になると P(In)は 0 になる) 、各確率をそれぞれに高めること(特に確率が低 く全体の隘路となっている項目の確率を改善すること)が重要である。 (4)RDCI の定義 R(研究:Research) 研究と開発は、 「研究開発」と一括して総称されることが多いが、両者はその方向性が大 きく異なる。研究は「発散系」であり、先の 3M の例であれば接着剤という物質の特性を 幅広く探求して新たな性質を引き出すことを目的としているのに対し、開発は「収束系」、 すなわち実用化のための諸課題(接着強度の最適化、製造装置の設計・開発、コストダウ ン等)を解決することを目的としている。 図 2-5 研究と開発 R- は、研究開始確率(当該研究開始数 / 全研究数)であり、R- を高めるためには、当 該研究分野への予算、人材等の資源投入が必要である。 「バイオブーム」「環境ブーム」の ように当該研究分野の人気が出るだけでも R-は上昇する。 R+ は、研究成功確率(研究成功数 / 当該研究開始数)であり、R+を高めるためには、 若い研究者の参加や多様分野の研究者によるチーム編成等が重要であるとされている(科 学技術政策研究所、一橋大学イノベーション研究センター, 2010)。なお、3M の事例のよ うに、一見失敗とされる研究成果であっても用途さえ見つかれば成功になるし、失敗が大 発見を生む事例も多い。例えば、2002 年にノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏がタンパ ク質分析法を発見したのは、タンパク質を溶かす有機溶剤(アセトン)の代わりに間違っ てグリセリンを入れてしまったことによる。また、シャープの液晶パネルは、実験に使う 19 液晶のフタを研究員の船田文明氏が閉め忘れてしまい不純物が入ってしまったことが、添 加剤の発見につながった。 田中耕一『生涯最高の失敗』朝日新聞出版(2003) NHK プロジェクト X『液晶 執念の対決』 (2001 年放送) また、学術的な研究の成功(画期的な発見)とイノベーションにおける研究の成功(新 たな商品やサービスにつながる発見)とは異なる。例えば、小柴昌俊氏は、ニュートリノ の観測で 2002 年にノーベル物理学賞を受賞したが、ニュートリノを用いた新商品等は未だ 開発されていない。 (R+までは到達したものの、D-にまだ移行できていない。ただし、電子 が発見された時(1897)も、当時は何の役に立つかは分からなかったことから、今後ニュ ートリノを用いた地球の資源探索など、R の成果が今後 D、C につながっていく可能性はあ る 。 ) D(開発:Development) D- は、開発開始確率(開発開始数 / 研究成功数)である。原子力発電所やエジソンの発 明した電球、米国デュポン社のナイロンのように、発明や研究成果(技術シーズ)がその まま開発成功(実用化) 、商業化につながる場合もあるが(seeds-based innovation または technology-based innovation) 、多くの企業のプロジェクトは、具体的なニーズに基づく開 20 発目標の設定で始まる(needs-based innovation または market-based innovation) 。開発 目標とは、QCD(品質:Quality、コスト:Cost、納期:Delivery)である。 どんなすばらしい研究があっても、誰かが開発(実用化)に着手しないと技術が商品と して世に出ることはない。新幹線は、要素技術としては既存(プルーブン)のものの集大 成だったとはいえ、200km を超す高速鉄道を東京~大阪間で走らせる巨大プロジェクトを 開始するには、71 歳で国鉄総裁に就任した十河信二氏の強力なリーダーシップが必要であ った。また、メディアの記録がアナログからデジタルに切り替わったのは CD の実用化に よるが、開発開始のきっかけは NHK の音響研究部長室での飲み会で出された「 (デジタル 技術は)おもしろそうだ」との発言だった。 (当時は人の話し声程度はデジタル化できても、 デジタルで音楽を流すなどまったく考えられないことだった。) 『新幹線の父』国鉄第 4 代総裁 十河信二(1884-1981) 『CD の父』元ソニー常務 中島平太郎(1921-) ここで、開発開始数は研究成功数に規定されないことに注意が必要である。3M の事例の ように、一つの技術から様々な用途が創出されうる。例えば、ロッテは脱酸素剤の研究中 に、大型の脱酸素剤が熱を発していることからカイロの用途を思いつき、1978 年の「ホカ ロン」の発売・成功となった。当初の研究テーマである脱酸素機能とは全く別の機能(発 熱)から、新たな用途が発見されて開発が始まっている(D-) 。 また、基礎研究の成果は必ずしも自社から調達する必要はなく、社外や海外から導入し てもよい。例えば、トランジスタラジオを最初に設計したのは米国のテキサス・インスツ 21 ルメンツ社だったが、携帯型ラジオとして実用化したのは日本のソニーである。液晶ディ スプレイも、基礎研究を進めていたのは米国の RCA 社だったが、電卓のパネル表示という 形で世界で初めて技術を実用化したのは日本のシャープである。 日本初のトランジスタラジオ ソニー TR-55 シャープの世界初液晶電卓 エルシーメイト 805(右端) D+ は、開発成功確率(開発成功数 / 開発開始数)である。開発の成功までの道程は厳 しく、その障害は技術的な困難性だけではない。単にモノができるだけでは不十分であり、 先の QCD をいかに満たすかが求められる。その間には、開発予算の制約もあり、組織内か らの反対の声もある。 「プリウス」などで使われるニッケル水素電池の実用化は、1969 年に米国で発見された 金属の水素吸着作用を、三洋電機(当時)の古川修弘氏らが 13 年間かけて開発に取り組ん だ成果であった。世界で最初に胃カメラを開発したオリンパス光学研究所の杉浦睦夫氏は、 所長に反対されたため会社に隠れて胃カメラの開発を続けたし、青色発光ダイオードを実 用化した中村修二氏も、会社から妨害されながらも開発を続けた。デジタルカメラ時代を 切り拓いたカシオの「QV-10」も、1987 年に発売した電子スチルカメラ「VS-101」が大失 敗したことから、当初はカメラではなく携帯テレビだと社内的に説明しつつ開発を行わざ るを得なかった。 22 トヨタ『プリウス』ニッケル水素電池 オリンパス 世界初の胃カメラ 青色発光ダイオードのイルミネーション RDCI 確率モデルにおいて、開発開始はイノベーションのエンジンであり、極めて重要で ある。開発開始は、技術シーズと市場ニーズとをつなぐスタート地点であるとも言える。 その際、新商品や新サービスの開発開始も重要であるが、コストダウンやマーケットに 適合させる開発も重要である。例えば、パソコンに使うマウスを実用化したのは米国の Apple 社のスティーブ・ジョブズだが(1984)、マウスの原理を発明したのは米国の発明家 ダクラス・エンゲルバートであり、彼は 1970 年に特許を取得している。そのマウスを Xerox 社のパロアルト研究所が実用化に成功し、ジョブズは 1979 年に見て導入を決意している。 その際、Xerox 社製で 300 ドルしたマウスを 15 ドル以下にコストダウンしたことが後の普 及につながった(コストダウンの D の成功)。 23 最初期のマウス(Macintosh 128k) D- を高めるためには、企業の技術開発投資促進税制、SBIR(中小企業技術革新制度) などのインセンティブが有効であり、企業間の競争を激しくする(企業を商品開発に向か わせる) 、知財保護を強化するなどの措置も有効である。また、D+ を高めるためには、企 業間のネットワーク形成支援や産学官協同プロジェクトの実施など、MOT(Management of Technology)の理論に沿った支援が有効である。しかし、これらの間接的な支援より、 社内の反対などを打ち破る強烈な経営トップのリーダーシップや開発者の意思が成功確率 に大きく影響しているとも考えられる。 図 2-6 RDCI 各段階のポイント(出川 2005 より) 24 C(商業化:Commercialization) C- とは、商業化開始確率(商業化開始数 / 開発成功数)である。 C- は主に企業内のプロセスである。画期的な新商品であるほど、社内では商業化開始の 決断が困難になる。このため、新技術の商品を発売する際のリスクがとれるような公的調 達制度による支援や、新規事業に係る資金調達支援などが有効である。 C+ とは、商業化成功確率(商業化成功数 / 商業化開始数)である。「ダーウィンの海」 と呼ばれる厳しい市場競争での生存確率ともいえる。3M の事例にあるように、すばらしい 新商品も、直ちに市場に受け入れられるとは限らない。提案の仕方、市場の熟度など、C+ に は様々な条件が関わってくる。C+を高めるためには、優れた商品の評価・表彰など MBA (Master of Business Administration)の理論に沿った支援が有効である。 例えば、日清食品の「カップヌードル®」は、発売当初はインスタントラーメンの 3 倍以 上の価格から全く売れなかったが、銀座の歩行者天国で「新しい時代の新しい食べ物」「オ シャレな食品」として販売したことを契機に一気に人気商品となった。 初代「カップヌードル」 (1971 年発売) 現在どの家庭にも見られる密閉式プラスティックの食器「タッパーウェア®」は、1946 年の発売当初は全く売れなかったが、1948 年に優秀なセールスレディのブロウニー・ワイ ズ氏がホームパーティで商品を使って見せながら販売するというスタイルをとってから大 評判となり世界中で販売されるようになった。 1960 年代のタッパーウェアパーティの模様 また、セブンイレブンは、日本式のコンビニエンスシステムを構築したが、1974 年に開 業した 1 号店は、16 時間営業により売上げは従来の酒屋時代から倍に増えたものの、経営 者夫婦が常にレジに立ちバイトを雇うこともできないほど経営的には苦しい状況だった。 だが、単品管理による売れ筋情報の把握、江東区への集中出店による小分け配送の実現等 25 のシステム再開発と販売への導入・検証(C→D→C)がうまくかみ合い、1 号店開業後 3 年間で 100 店舗を出店するという快挙を成し遂げている。 セブンイレブン1号店(1974) 一方、日本の戦前からの国内航空機製造技術の粋を集めた YS-11 は、通産省(当時)と 運輸省(当時)の権限争い等から国内での普及が進まず、海外市場に展開するも 1971 年の ニクソンショックによる為替レートの悪化で赤字化し、商業化の成功には至らなかった。 YS-11 I(産業化:Industrialization) I- は、産業化開始確率(産業化開始数 / 商業化成功数)である。ヒット商品も、シリー ズ化されたり、他社の参入によりラインアップが増えたりしないと、製品カテゴリーとし ての認知が十分になされず、産業として確立されない1。 西ドイツ(当時)の NSU とヴァンケル博士が開発し、世界で初めてマツダが実用化した ロータリーエンジンは、レシプロエンジンに比べ高速性能が高く、コンパクト・ハイパワ ーな「夢のエンジン」と呼ばれた。しかし、オイルショック以降重視された低燃費性を当 初はクリアできなかったため、他企業は参入せず産業化開始には至らなかった。 (その後マ 1 新商品・新サービスの黒字化が商業化の成功だが、何億円規模の市場に育てば産業化成功とい えるかは業界によって異なる。ニッチなマーケットであれば数億円で既存市場の過半のシェアを 占めるであろうし、全く新しいコンセプトの商品であればシェアという概念も当てはまらない。 一つの目安として、販売開始後 10 年間で市場が 1,000 億円以上であれば、産業化成功といえる のではないか(新幹線、セブンイレブン、宅急便、カップヌードル、青色発光ダイオード、ハイ ブリッドカー、楽天市場など) 。 26 ツダもロータリーエンジン車の発売を中止。 )原理的には優れているロータリーエンジンだ が、世界中の自動車メーカーがレシプロエンジンの開発を続けた結果、リーンバーン技術、 ターボチャージャー、直噴技術、ハイブリッド化など様々な性能向上が図られ、現在も続 いている。マツダ自身も「スカイアクティブ」技術を 2011 年に発表し、レシプロエンジン の大幅な性能向上を実現している。 マツダ「ロータリーエンジン」 I+ は、産業化成功確率(産業化成功数 / 産業化開始数)である。 ソニーの開発した家庭用ビデオ規格のベータマックスは、東芝、三洋電機、アイワ、日 本電気(NEC) 、ゼネラル、パイオニア等が参入しベータ規格として産業化を図ったが、ビ クター、松下、日立、三菱電機等による VHS 陣営との規格競争に敗れ、販売を終了した。 同様に Blu-ray と HDDVD との規格競争では、Blu-ray 陣営が勝利を収め産業化に成功し た。 なお、ベンチャーが苦労して新商品を開発しても、大手が参入するとあっという間に市 場を奪われてしまうとの見方もあるが、産業化成功確率の観点からはベンチャーと大企業 は無差別である。経済社会全体の効用を考えると、むしろ大企業の参入により市場拡大と 産業化が進む方が望ましいとの見方もできる。 I-、I+ を高めるためには、マーケティング戦略、知財戦略と標準化戦略が重要である。 特に、技術では有利でも海外とのコスト競争、規格競争で敗れる事例が携帯電話、ITS、非 接触式 IC カード等で続いており、政府と民間の一体となった取組(ISO:国際標準化機構 や IEC:国際電気標準会議等での活動など)が求められる。成功事例としては、オランダ フィリップス社と連携して国際標準規格となった CD や DVD、中国と連携して国際標準規 格となった 1100kv(UHV)の送電技術などがあり、参考とすべきである。 27 【参考】 2006 年 11 月 30 日のイノベーション 25 戦略会議にて生駒俊明委員が説明した資料は、 イノベーションプロセスを考える際の参考となるため、ここに掲載する。 28 29 30 (5)RDCI 確率モデルの隘路 既に触れたとおり、RDCI モデルでイノベーションの成功確率を高めるためには、各段階 の確率を絶対にゼロとしないこと、隘路となっている確率を高めることが必要である。 具体的には、 1) 研究に失敗(R+ ゼロ) 2) 研究に成功するも開発者が現れない(D- ゼロ) 3) 開発を開始するも実用化レベルに至らず、あるいは途中で資金切れ(D+ ゼロ) 4) 開発に成功するも販売開始に至らず(C- ゼロ) 5) 販売するも成功(黒字化)せず(C+ ゼロ) 6) 単品としてはヒットするもシリーズ化や他企業の参入に至らず(I- ゼロ) 7) 産業化は開始するも国内標準競争で敗れる(I+ ゼロ) といった隘路をいかに改善するかが課題となる。また、 8) 国内で産業化するも、世界市場で海外企業とのシェア争いに敗れる、またはガラパゴス 化してしまい国際標準化競争で敗れる という問題もある。大学発ベンチャーは、技術の将来性を感じる技術者自身が開発や販売 を行うことから、2)、3)、4)の確率(D-, D+, C-)を上げる可能性はあるが、大企業と異な り資金制約があることから必ずしも D+ が高いとは言えず(ベンチャーファンドはニッケ ル水素電池の事例のように 13 年も待ってはくれない)、販売後の成功確率 C+ も販売ルー トを持たないことから高いとはいえない。大学発ベンチャーだけがイノベーションを起こ すものではないが、大学発ベンチャーの「隘路改善機能」を、資金や販売ルート等をもつ 他企業との連携で活かしていくことが重要である。 31 第3章 イノベーション事例への RDCI 確率モデルの適用 本章では、過去のイノベーションの成功例・失敗例を RDCI 確率モデルに適用し、モデ ルの有効性を検証する。 (1)新幹線 東海道新幹線は、世界初、日本初の高速鉄道であり、日本の高度経済成長を支えたイノ ベーション(革新的価値創造)である。 東海道新幹線は、輸送力が限界に達していた東海道本線の混雑を解消するため、1959 年 (昭和 34 年)に十河信二国鉄総裁と島秀雄技師長により着工され、東京オリンピック開会 直前の 1964 年(昭和 39 年)10 月 1 日に開業した。東京~名古屋~新大阪間の 515km を 結び、最高速度時速 210km は当時世界一であった(この記録が破られたのは 1981 年:仏 TGV による) 。在来線で 6 時間半かかっていた東京-大阪間を 4 時間に縮め、さらに営業 開始 1 年後には 3 時間 10 分に短縮した。開業当初は採算を懸念する声もあったが、開業 3 年目には黒字化を達成、開業から 20 年間で約 8 兆円の収入と約 3.4 兆円の収益を生み出し た。プロジェクトに融資をした世界銀行からは「(世界銀行の融資案件のなかで最も成功し たプロジェクト」とも評価されている。 現在は平均4分間隔で一日 320 本以上が運行され、利用客数は年間約 1.4 億人(全新幹 線で 3 億人) 、毎日約 38 万人を輸送している計算になる。遅延は 0.5 分/1運行、3,000 人 が毎日保守にあたっており、その運行正確性は世界一である。 売上高は約1兆円(東海道新幹線) 。東京~大阪間を日帰り経済圏内に結び、当時斜陽産 業といわれた高速鉄道旅客の未来を開拓して、世界に波及させた歴史的な功績も評価され るべきである。 「Shinkansen」は、現在輸出可能なシステムとして台湾をはじめ海外にも 展開をはじめている。 開業当初の 0 系「ひかり」 「こだま」 最新の E5 系「はやぶさ」 (最高時速 320km) 【R:研究の蓄積】 高速鉄道に関する基礎研究は、日本国有鉄道公団(国鉄)に属する鉄道技術研究所(鉄 研)で行われていた。特に終戦後は、陸海軍から多数の技術者が鉄研に加わり、車両振動 の研究、空気力学、車両構造、交流電化等の研究が蓄積されていた。また、島秀雄が終戦 後間もなく主催した高速台車振動研究会(全 6 回、昭和 21~24 年)によって、国鉄、私鉄、 32 車両メーカー等業界全体の交流がなされ、官民の技術者たちが利害を超えて結集するとい うよき伝統が育まれていた。 車両設計は、海軍航空技術廠(空技廠)出身の設計エンジニアである三木忠直が、台車 の振動問題は同じく空技廠出身の松平精らが、列車の自動制御装置の研究は陸軍科学研究 所の大尉だった河邉一が進めていた。 しかしながら、三木の研究は、鉄研生え抜きの技術者からは異端扱いされていた。蒸気 機関車を主体とする従来の技術者は、車両は重い方が良く、機関車のスリップや振動を防 ぐには車両の重さで車輪を押しつけた方が良いと考えていたためである。車両の高速化は、 重い車両を強力な馬力の機関車で牽引するのが常識とされていた。これに対し、三木は、 航空機開発の研究を基に、できる限り車両を軽く低重心にし、流線型することで空気抵抗 を減らすことが必要だと考えたのである。 松平の主張も日の目を見なかった。当時、列車の脱線事故の原因はレールの歪みにあり、 対策は難しいと考えられていた。これに対し松平は、開発当初のゼロ戦が空中分解する原 因が自励振動にあることを突き止めた経験から、脱線は列車のスピードが上がったときに 起こる振動が原因だと主張した。この松平の考えも、生え抜きの鉄道技術者からはことご とく否定されていた。 動力方式についても、当時は蒸気機関車主流の時代であり、また国際的に見ても機関車 が客車を牽く「動力集中方式」が主流であったことから、国鉄部内でも動力集中式に固執 する者が多かった。しかし、地盤が悪く山がちな日本において列車を高速運転するには、 「動 力集中方式」よりも、電車・気動車のように編成の各車両に動力を持たせる「動力分散方 式」の方が優れている。カーブや勾配の多い条件でも加減速能力に優れ、また一台一台の 車両を軽くでき線路への負担が小さいため、脆弱な地盤に敷かれた線路でも高速を出せる からである。島秀雄は、 「動力分散方式」の特性を理解し、戦前から研究を続けていた。 もう一つの重要な基礎研究は、交流電化である。新幹線の架線には交流 2 万 5,000 ボル トが流れているが、当時の在来線は直流 1,500 ボルトであった。開業時の新幹線 0 系モー ターの出力は、1,800kw。1,500 ボルトではとてもまかないきれず、とてつもなく太い架線 が必要になってしまう。交流であれば地上施設も少なく、長距離送電もたやすいうえ、商 用電流を変換することなくそのまま利用できる(50Hz 区間は 60Hz に昇圧) 。ショートも しにくく安全性も高い。この研究を推し進めたのは、島秀雄ではなく、第 3 代国鉄総裁を 務めた長崎惣之助である。昭和 20 年代に欧州視察をした長崎は、その将来性を見越して帰 国後さっそく交流電化の研究を着手させた。このため、島が技師長として国鉄に復帰した 時には、すでに実用化レベルの研究の蓄積がなされていたのである。 33 当時の鉄道技術研究所(浜松町) 【D:開発】 1955 年(昭和 30 年)に 71 歳で国鉄総裁に就任した十河信二は、国鉄出身の卓越した技 術者で民間に転出していた島秀雄を再度国鉄に招聘し、副総裁格技師長に就任させた。こ の十河-島コンビが、その後新幹線計画を強力に推進することになる。 しかし、開発開始(D-)したものの前途は多難であった。 (様々な反対勢力) 第 2 代、第 3 代と相次いで国鉄総裁が大事故の引責で辞任したため、元鉄道省官僚・満 州鉄道理事である十河の総裁就任は、時の鳩山総理からの要請によるものであった。新幹 線開発は、十河総裁により政権トップの信任を得つつ進められたが、各方面からの反対は 激しかった。 まずは身内である。十河は、まず側近に新幹線建設の予備調査を命じるが、側近は「じ いさんの夢物語」と一笑に付してまともに取り合わない。そもそも国鉄は単年度予算であ り、長期に及ぶ巨大プロジェクトはなじまない。政権は不安定であり、総裁十河の首とて いつ飛ぶとも限らない。巨費を投じて途中で計画が変更されるリスクを考えると、東海道 線を少しずつ複々線化する方が現実的という国鉄大官僚組織の判断があった。怒った十河 は、技師長の藤井松太郎を更迭し、後任に島秀雄をスカウトした。 次は政治家である。十河が「東海道新幹線構想」を唱えるやいなや、地方代議士とそこ につながる官僚たちが大反対の合唱を始めた。当時、鉄道は政治家の選挙公約として最も 効果があったとされる。 「我田引鉄」 「橋三年、鉄道一生(橋を作った人は 3 年たつと忘れ られるが、鉄道を誘致した人は一生忘れられない) 」と言われるように、国会議員は地元に 線路を引き、駅を作ることに奔走した。地方の国会議員は「新幹線を建設する金があるな ら 1km でも線路を延ばせ」と主張し、都市部の国会議員は「主要都市の幹線を改築して輸 送力を強化することこそ急務である」と主張して新幹線に反対した。 そしてマスコミである。元海軍士官の作家・阿川弘之は「世に四バカあり。万里の長城、 ピラミッド、戦艦大和に新幹線」と揶揄し、いまさら時代遅れの大建造物を作っても無用 の長物であり、莫大な建設資金の返済に苦しむだけだと主張した。これにマスコミが便乗 したのである。 (資金調達の困難性) 34 新幹線は、国家予算が約 1 兆 5,000 億円だった時代に、総工費約 3,800 億円を要する大 事業であった。しかも国鉄は昭和 24 年の発足当時から十河総裁就任までで黒字年度は 25 年度、28 年度だけである。赤字体質の国鉄に過大な負担ではないかと指摘された。 (技術・システム開発の困難性) 時速 200km 超というスピードは、国鉄の全く経験のない領域である。海外ではフランス が試験速度の世界記録 331km/h(1955 年)の世界記録があるし、一般の列車でもフランス は 160km/h(世界最高) 、米国は 153km/h などの運用実績がある。しかし、これらは広軌 (広い線路幅)での実績であり、日本のような狭軌での実績はなかった。しかも 200km/h 超である。鉄研での研究・開発項目は、台車、パンタグラフ、車体強度、レール強度など 173 に及んだ。 要素技術の困難性もさることながら、システム全体の規模の大きさとプロジェクトの短 さも厳しい課題だった。延長 500km の広軌の新線建設、時速 200km で走る新型車両を一 気に 360 両完成、駅・トンネル・架橋などの建設、信号制御、電力供給、運行ダイヤ管理、 保線など、およそ鉄道に関する一切のシステムを 5 年という短期間で新たに組み上げる必 要があった。島秀雄は、その「総合プロデューサー」として辣腕を振るうことになる。 (ブレイクスルー) では、十河-島コンビは、いかにしてこれらの困難を打ち破ったのか。 ①明確な目標 ~ 東京-大阪間 3 時間 昭和 32 年に鉄研所長に着任した篠原武司は、研究所創設 50 周年を記念して鉄道の可能 性を訴える講演会を開催したいと考え、三木、松平、河邉らと熱海の旅館で打ち合わせを 行った。互いに何の研究をしているか分からなかった彼らが自分たちの研究を突き合わせ ると、当時特急「つばめ」で 7 時間半かかっていた東京-大阪間が、3 時間で走れるとの結 論になった。この研究は 5 月 30 日に東京銀座の山葉ホールで「東京-大阪間、三時間への 挑戦」と題した講演会として発表され、会場は立ち見の出る大盛況となった。 この講演会の内容は、評判を聞いた十河総裁の前で全理事とともに再演されるが、この 「東京-大阪間 3 時間」というコンセプトは、その後の新幹線プロジェクトの明確な目標 となり、その後昭和 33 年に登場した在来線を利用したビジネス特急「こだま」で 6 時間半 かかっていた東京-大阪間を一気に 4 時間に縮めた。さらに営業開始の翌年からは 3 時間 10 分に短縮したのである。 35 特急「つばめ」 ビジネス特急「こだま」 記念講演会の吊り広告 ②十河の突破力・島のマネジメント力 十河は就任間もなく、東海道新幹線の実現のため、自ら書いたパンフレットを手に政治 家の根回しを始めている。調査費 100 億円を確保したのは、時の総理鳩山一郎宅へ朝駆け してのことである。 当初島らが想定した所要資金は、5 年間で少なく見積もっても 3,000 億円だったが、十河 は言下に「これじゃ高すぎる。半分にしてくれ。 」と減額させた。3,000 億円もかかるとな れば、国会審議で「 (新線ではなく既存の)狭軌でやれ」と言われてしまう。額面はともか くまず予算さえ通過すれば、あとは自分の政治力で押していくという判断だった。結局、 東海道新幹線の予算は昭和 34 年 3 月に 1,972 億円で可決・承認されている。十河は、新幹 線の実現のため、地方線整備のための予算も新幹線に注ぎ込み、地元である愛媛県西条市 を通るはずの新線計画すら認めなかった。 36 資金不足を補った妙案は、世界銀行からの融資だった。このアイディアは、時の大蔵大 臣佐藤栄作のものとされている。ある日、佐藤栄作は、当時国鉄常務だった兼松學を呼び 出してこう言ったという。 「十河さんの進めている新幹線計画は、とても一内閣で実現できるような計画ではない。 政局の推移に関わりなく実現するには、政府から外に縛りをかけておく必要がある。それ には世銀から借款するのがよい」 世銀から借款するためには、事業の完成に関する政府保証が義務づけられていたため、 世銀からの借款が実現すれば政府には事業完成の義務が生じ、よって追加予算も承認せざ るを得ない。①当時鉄道は世界では斜陽産業であること、②赤字体質の国鉄の実施する大 型事業であること、③全く新しい技術を用いること、の3点からの融資は困難だったが、 島の周到な準備により世銀の説得に成功した。 技師長であった島のマネジメント能力も特筆すべきものがある。新幹線の新たなシステ ムを組み上げるという経験は、明治 5 年に新橋-横浜間に線路が敷かれて以来、日本鉄道 史上初めてのことであった。これまでは、官民を問わず、線路は少しずつ延伸され、車両 は少しずつ性能アップするものだった。世界的に見ても、これだけ大規模の鉄道施設をゼ ロから丸ごと組み上げた例はほとんどないであろう。 当時国鉄渉外部長であり、鉄道友の会の創設者でもある兼松學はこう言っている。 「十河信二と島秀雄。もちろんこのふたりなくして、東海道新幹線はありえなかったと思 います。当時は世界的にも鉄道斜陽論が盛んで、事実、アメリカではどんどん線路が取り 外されて、ハイウェイ中心の自動車輸送に置き換えられていた。21 世紀になれば世界中か ら長距離列車は消え去っているだろう … とさえいわれていたんです。しかし、見てく ださい。いまや、日本の新幹線はもちろん、フランスの TGV もドイツ ICE も立派に動い ている。イタリアでも英国でも長距離列車はますます将来を期待されているわけです。世 界の鉄道関係者は、十河さんと島さんに感謝しなければいけない。」 『新幹線をつくった男 島秀雄物語』 ③技術の蓄積と市場の熟度のバランス 新幹線の様々な技術的課題を解決するため、鉄研は 800 人の技術者を総動員した。昭和 31 年に仙山線で日本初の交流電化が実現したことで交流電化技術は確立し、小田急 SE 車 の成功(昭和 32 年)で低重心・流線型の軽量車体の性能が証明された。気密性の高い客室 や二階運転台、車両の振動を抑える「空気バネ」もビジネス特急「こだま」で経験済みで ある。こうした技術の蓄積がなければ新幹線は実現しなかったし、また当時の市場が新幹 線を待望していたことも重要である。 新幹線の開発がもう 5 年早く始まっていたら、技術が未熟で新幹線は実現しなかったで あろうし、新幹線の開発があと 5 年遅れていたら、東名高速の開通もあり鉄道への期待は ここまで高くなかったであろう。 【C:商業化】 1964 年(昭和 39 年)10 月 1 日、東京オリンピックの開催(10 月 10 日)に合わせて東 海道新幹線が開業した。開業当初の営業最高速度は 200km/h(東京 - 新大阪間「ひかり」 37 4 時間、 「こだま」5 時間) 。路盤の安定を待って翌年に 210km/h 運転(同「ひかり」3 時間 10 分、 「こだま」4 時間)を開始した。 新幹線開通式 東京-大阪間は、1958 年(昭和 33 年)に在来線の特急「つばめ」で日帰り可能になっ ていたが、滞在時間がわずか 2 時間余りしか取れなかった。しかし新幹線の開通により、 日帰りでも滞在時間を充分取れるようになり、ビジネスやレジャーの新しい需要を喚起し て日本の経済社会構造に大きな影響を及ぼした。車両は当初 12 両編成だったが、1970 年 (昭和 45 年)の大阪万博の開幕を機に 16 両編成に拡大され、高速大量輸送機関としての 確固たる地位を確立した。 (安全神話) 東海道新幹線が開業して以来、これまで 40 年以上にわたって乗客が死亡する事故は発生 していない。先の 3.11 の東日本大震災でも、東北新幹線は地震波を検知し自動停止してい る。新幹線の安全を確保するシステムが的確に運用され、恒常的に維持されてきているこ とは、日本の鉄道技術の水準を端的に示す要素であるとも言える。この事実は新幹線の安 全神話などと称される。しかし死者こそ生じなかったものの、重大な事故に至る一歩手前 の事態は過去に何度か発生している。 1966 年(昭和 41 年)4 月 25 日の夜、名古屋駅を出て東京に向かっていた 18 時 00 分新 大阪駅発「ひかり 42 号」の1号車の車軸が破損した。報告では、名古屋駅を出て熱田付近 のカーブを走行中に、足立車掌がガタッという異常振動を感じ、最後尾の台車付近で火花 が発するのを目撃した。そのまま注視をつづけていると、続く 20km の直線区間では異常 を感じなかったが、次に豊橋橋梁の急カーブで再び異常振動と火花を確認したため、足立 車掌は急ぎ運転士に通報し、非常ブレーキをかけた。時速 210km で走行中だった列車は、 異常を検知後約 2,400m 走り、豊橋駅を約 400m 過ぎて停車した。軸折損であり、大惨事一 歩手前の状態であった。 国鉄を去り、住友金属工業の顧問だった島秀雄は、当時したためた「遺書」にこう残し ている。 「今回の軸の折損の事故については、上り超特急が名古屋を出た所で起こり、誰知らぬ事 とて 210km/h の高速で乗員に異常振動を感じさせながら豊橋に向かって突進したと聞いて います。後で台車を分解した時のことを聞きますと、幸いにも三四の部品がセリ合って辛 くも位置を保って何とか走行を続けていった様です。これは予定された安全によるもので なく、全く天佑と申すほかはありません。これが少しでもずれていたらたちまち脱線で、 38 あの名古屋駅熱田付近の 30m の高架から脱線墜落して 1000 人以上の死傷者が出た状況を 考えると、慄然とせざるを得ません。これで新幹線も終わりでしょうし、これによって復 興の機を得た鉄道も終わりでしょう。」 今回の福島第一原子力発電所の事故のように、ひとたび安全神話が崩れると産業そのも のが滅ぶことを踏まえると、この時の事故が大事に至らなかったことが新幹線の商業化・ 産業化の最大の原因であると考えられる。 なお、この車軸折損事故は、その後鉄研と住友金属工業で徹底的に調査され、研磨過程 で停電事故が起こっていたこと、不良部品が三重・四重の検査・検品をくぐり抜けたこと が明らかとなった。住金側の品質管理の徹底がなされ、国鉄側では超音波探傷、蛍光探傷 などの新技術が導入されるなど、あらゆる問題を調べ尽くし、マニュアルが整備され、12 月にようやく安全宣言が出された。 【I:産業化】 その後、東海道本線と同じく需要の増加していた山陽本線の抜本的輸送力改善と高速化 のため、1967 年(昭和 42 年)に東海道新幹線を延伸する形で山陽新幹線が着工され、1972 年(昭和 47 年)3 月 15 日に岡山まで、1975 年(昭和 50 年)3 月 10 日には博多まで開業 した。 この間、1970 年(昭和 45 年)には、全国新幹線鉄道整備法が成立している。当初は建 設に根強い反対論があった新幹線だが、開業以来予想を上回る利用実績をあげ、その利便 性、高速性、安全性が国民に広く支持された。このため、政治家や官僚はその姿勢を変換 し、逆に新幹線の交通網を全国に広げ、経済効果を波及させようと計画したのである。 この法律により、幹線鉄道の輸送力増強が目的であった新幹線はその性格を変え、高速 道路とともに高速交通網の主役となった。 本法第 7 条の整備計画に基づき建設が決定された路線は以下のとおり。 ◎1973 年 11 月に整備計画が決定した路線(整備新幹線) 東北新幹線 : 盛岡市 - 青森市間 北海道新幹線 : 青森市 - 札幌市間 北陸新幹線 : 東京都 - 大阪市間 九州新幹線 : 福岡市 - 鹿児島市間 九州新幹線 : 福岡市 - 長崎市間 ◎2011 年 5 月に整備計画が決定した路線 中央新幹線:東京都 - 大阪市間 39 全国新幹線鉄道網 東海道新幹線の場合 研究 鉄 道 研 究 所 内 の 蓄 積 開発 商業化 産業化 1955 十河総裁 の決断 800人の技術者 の投入 1964 最終試験 運行成功 1967 黒字化 1964 東海道新 幹線開業 予算確保 十河総裁 試験運行 解任 できず で事故 台湾新幹線 プロジェクト 大事故 の発生 2007 40 2011 1970 全国新幹線 鉄道整備法 (2)コンビニエンスストア コンビニエンスストア (convenience store) とは、年中無休で長時間の営業を行い、小規 模な店舗で主に食品、日用雑貨など多数の品種を扱う形態の小売店をいう。全国に約 4 万 4,000 店が展開しており、総売上高は年間約 8.7 兆円である(23 年 12 月:日本フランチャ イズチェーン協会調べ) 。 現在のコンビニエンスストアは、約 110 ㎡(33 坪)程度の売り場に約 2,500 程度の品目 を陳列し、POS(=Point of Sales 販売時点情報管理)システムで単品管理(タンピンカ ンリ:TK)による販売をしている。このタンピンカンリと POS システムは、これだけで 一つの重要なイノベーション事例であるが、ここではその特徴を触れるにとどめ、現代の コンビニエンスストアのモデルであるセブンイレブンの発展経緯を追うことで、コンビニ エンスストアのイノベーションプロセスを考察する。 POS システムの特長 詳細性:販売者別(男女・年齢層)の単品別の販売データが入手できる。具体的 には、いつ(時間帯別) 、どこで (○○店)、誰が(電子マネーでない 場合はレジ精算時に顧客の属性コードの入力が必要)、何を(JAN コー ド別)購入したかを把握することができる。 迅速性:日別はもちろん、リアルタイムでの販売情報を収集できる。 網羅性:POS レジを通過する全単品の販売状況を把握できる。 拡張性:POS システムで使用される商品コード(JAN コード)が共通商品コー ドであることから、他の流通情報システム、マーケティング情報システ ムなどさまざまな分野の情報システムと連結して活用ができる。 タンピンカンリ(TK) 「カンバン」方式 タンピンカンリ 企業 トヨタ自動車 セブン-イレブン・ジャパン 時期 1962年頃 1975年頃 発明者 大野耐一 鈴木敏文 業種 製造業 小売業 活用分野 生産管理 販売管理 主なキーワード Kaizen ジャスト・イン・タイム 自働化 仮説と検証 変化対応 主な効果 生産性向上(ムリ・ムラ・ムダ排除) 売上げアップ 品質向上 機会損失削減 適正在庫管理 波及効果 JIT(ジット)として海外に普及 SCMとして流通革命をも牽引 多くの流通販売業へ影響 著者作成 41 (参考)コンビニの店舗レイアウト コンビニエンスストアの店舗レイアウトは、心理学・行動経済学を基に極めて合理的に 開発されている。例えば、①通りに面した側はガラス張りにして雑誌売り場にし、立ち読 み客を配置することで防犯+誘蛾灯にする、②購買頻度の高いファーストフードや弁当、 ドリンク、雑誌をバラバラに配置し、店内の回遊時間を増やし、購買単価を上げる、③中 島(アイランド)のゴンドラ(陳列棚)は低くして(135cm~150cm)店内の視認性を高 め万引きを防止する、④レジカウンターは店に入る顧客と視線が合わないよう出入口と直 角に配置する、など。これもセブンイレブンが試行錯誤のうえ開発したとされる。 【R:研究】 日本のコンビニエンスストアの雛型は、米国のセブン-イレブン(7 Eleven Inc.)であ る2。1927 年にテキサス州ダラスで創業したサウスランド・アイスカンパニーは、電気冷蔵 庫がまだ普及していなかったため各家庭で必需品だった食品保存用の氷を扱っていたが、 サウスランド社の販売を任されたジョン・ジェファーソン・グリーンは、客から食料品や 調理器具などの日用品も扱ってくれると便利だという声を聞き、同年 5 月にこれらの販売 を始めた。これが「7-Eleven」の原型である。1946 年には、朝 7 時から夜 11 時までの営 業時間にちなみ、店名が「7-Eleven」に変更された。なお、マークや看板に使用されてい る 3 色のイメージカラーは、グリーンが砂漠のオアシスを、赤が夜明けの空・開店時間の 7 時を、オレンジが夕方の空・閉店時間の 11 時を表している。これらのイメージカラーは、 一部店舗を除き、世界中で使用されている。 2 日本のコンビニエンスストアの発祥には諸説があり、1969 年にマイショップが大阪府豊中に 出店したのがコンビニエンスストアの発祥であるとする説、1971 年にココストアが愛知県春日 井市に出した1号店だとする説、1971 年にセイコーマートが北海道札幌市に出した 1 号店だと する説、1972 年にファミリーマートが埼玉県狭山市に出した実験1号店だとする説、セブンイ レブンが 1974 年に東京都江東区に出した1号店だとする説などがある。 42 7 Eleven の 1 号店(米国テキサス州ダラス) なお、チェーンストアという経営形態については、1792 年にロンドンで創業された書店 WHSmith が最初とされる。また、フランチャイズというビジネスモデルは、1850 年代に 米国のミシンメーカーの Singer が最初に導入し、第二次大戦後に米国で急拡大した。その 先駆けとなったのが、Ray Kroc が行った McDonald のフランチャイズ展開である。 【D:開発】 (コンビニエンスストアの発見) 米国の 7 Eleven を「発見」したのは、イトーヨーカ堂(当時)の鈴木敏文と清水秀雄だ った。イトーヨーカ堂は、現在セブン&アイ・ホールディングスとして、スーパーマーケ ット業界のトップに位置しているが、1960 年代広範は業界の中堅でしかなかった。鈴木と 清水は、スーパーマーケットに代わる新しい業態への進出のため、米国視察を繰り返して いたのである。 サンフランシスコからロサンゼルスへの長距離バスでの移動中に、鈴木と清水はトイレ 休憩で立ち寄った小さな店に興味をひかれた。「コンビニエンスストア(便利店) 」と呼ば れている朝 7 時から夜 11 時まで営業している 50 坪ほどの小さな店で、ドリンク、酒、た ばこ、日用品などを売っているが、値引きをしていないのに繁盛していた。しかもこの店 は全米で 4,000 店舗もある巨大なチェーンだという。 (ヨークセブンの設立) 1972 年 5 月、鈴木と清水は、伊藤忠商事の紹介で米国のサウスランド本社を訪問した。 社内を案内した担当者は、分厚いマニュアル本を示しながら、「我が社の仕事は、すべてマ ニュアルに沿って行われている。トラブルや失敗はありえない。これが会社の強さの秘密 だ。 」と説明した。鈴木らは、1973 年 4 月に再度サウスランド社を訪問、5 月にはサウスラ ンド社のハートフォルダー社長らを日本に迎え、7 月に契約の基本合意を締結、11 月には 株式会社ヨークセブンを設立した。しかしながら親会社は本事業が成功するとは信じてお らず、イトーヨーカ堂からの出資は資本金 1 億円のうち半分だけであり、人材も素人 15 人 という船出だった。 43 (1 号店の決定) 1973 年 12 月に、チーム 15 人はダラスのサウスランド本社での研修を受けたが、内容は レジ打ちなどアルバイト向けのような内容であった。また、店舗経営の秘伝が詰まってい るはずの 27 冊に及ぶマニュアルも、レジの打ち方や報告書の書き方など、基本的なことし か書かれていない。鈴木と清水は、違約金を払って契約を破棄しようかと悩んだが、当面 の目標である 100 店舗を目指すことを決意し、帰国した。 73 年 10 月に始まったオイルショックで地価は高騰し、1 号店の出店は困難を極めた。そ うした中で、東京都江東区で酒屋を営む山本憲司からコンビニに経営転換したいとの手紙 が届いた。山本は、父の急死で店を継いだ 23 歳で、結婚したばかりの妻は身重だった。山 本商店は工場が点在する埋め立て地にあり、付近に住宅はなく、店の広さも 24 坪で米国の 半分以下。駐車場スペースもなかった。人通りも少なく、夜の来客も見込めそうにない。 決して立地条件は良くなかったが、山本の決意に促され、鈴木と清水は「失敗したら店 を元どおりにする」と約束し、5 月にセブン-イレブン 1 号店としてオープンすることを決 めた。契約にあたり、山本は店の改造資金を 2,200 万円借金している。 (店舗開発) 米国の半分以下の面積に、いかに 3,000 点という通常の酒店の 6 倍の商品を並べるか。 清水たちは、本社内の会議室に 22 坪のスペースを設け、イトーヨーカ堂の売れ筋商品をど う並べたら棚に収まるかの案を練りに練った。飲み物用の冷蔵庫は大きすぎて店内に入ら なかった。新たに前面と後面に扉をつけた大型冷蔵庫をメーカーに頼んで作ってもらい、 後ろから商品を補充できるようにした。メンバーの女性の指摘からストッキングなども揃 えた。 【C:商業化】 (成功と挫折) 1974 年 5 月 15 日、日本のセブン-イレブン 1 号店がオープンした。メンバーが配った チラシを見た団地の住人が押し寄せ、初日の売上げは 39 万 4,000 円と酒屋時代の 2 倍にな った。売上げはその後も順調に推移したが、アルバイト代、電気代、ロイヤリティーを差 し引いた利益は以前とほとんど変わっていなかった。若い山本は、コンビニエンスストア を成功させたい一心で必死に働き、睡眠時間は一日平均 3 時間だった。出産したばかりの 幼子を抱えた山本の妻も、アルバイトを雇う経費を抑えるため産後 10 日でレジに立った。 チームは頭を抱えた。鈴木や清水は対策を練ったが妙案は出ず、サウスランド社の指導 員は「米国のように広い店ならこんなことにはならなかった」と突き放された。 (再び店舗開発) メンバーの 1 人岩國修一は、せめて体だけでも山本の助けになりたいと、店のモップか けや釣り銭の両替を手伝っていた。ある日岩國は、皿やコップ、食器などあまり売れない 商品が埃をかぶっている一方で、売れ行きの比較的良いジュースなどがしばしば品切れに なっていることに気がついた。山本に理由を聞くと、山本は岩國に二階の居間を見せた。 44 居間は在庫の商品であふれていた。ジュースは 5 ケース、洗剤は 1 ダースなど、問屋から 商店に運ぶ単位が決まっているため,3,000 品目を揃えると在庫が山になるのである。 店が狭いために顕在化した在庫問題。1 号店の成否はこの在庫退治にかかっていた。鈴木 はここで、①単品管理による売れ筋商品の把握と死に筋商品の撤廃、②一地域への集中出 店による小口配送の実現、を図る。毎日 15 時間、気の遠くなるような手作業での集計の結 果、鎌田誠晧は売れ筋商品の傾向をつかんだ。洗剤は大型でなく小型が売れる、インスタ ントラーメンは袋よりカップ麺が売れる、週刊誌は販売後 4 日で売れ行きが止まるなどで ある。この手作業の単品管理は、後に仕入れから売上げまでコンピューターで一括管理す る POS システムにつながった。また、メンバーからは、一地域への集中出店は共倒れの懸 念があると反対する声もあったが、鈴木は譲らず、結果的には江東区内に半年で 5 軒の出 店を確保したことで問屋の協力を得ることに成功した。 (商業化成功、産業化へ) 1975 年夏、山本商店に小分け配送が始まると、在庫は急速に減り、収益も大幅に改善し た。1 号店は土壇場で息を吹き返し、チェーン展開は一気に弾みがついた。 【I:産業化】 1976 年 6 月、サウスランド社のトンプソン会長が来日し、セブンイレブン 100 店舗達成 を祝う記念式典に出席した。挨拶に立ったトンプソンは、「アメリカではサウスランド社創 立から 100 店までに 25 年かかった。日本はそれをわずか 2 年で実現した。見事だ。 」と祝 辞を述べた。 セブン-イレブンは順調に店舗数を伸ばし、平成 22 年度末で店舗数は国内 13,590 店、 世界 16 カ国・地域で 42,470 店、売上高 2 兆 9,476 億円、従業員 5,729 人の大企業に発展 した。なお店舗数は、第 2 位の MacDonald の約 33,000 店を大きく引き離しチェーン店と して世界一である。ローソン、ファミリーマート、サークル K サンクス、ミニストップ、 99 プラスなど、他社のチェーン展開も進んでいる。 セブンイレブン売上高推移(国内) 45 セブンイレブン店舗数推移(国内) こうしたコンビニ業界の発展の裏には、徹底した仮説検証型のサービスイノベーション がある。具体的には、セブン-イレブン・ジャパン社をはじめとする①オリジナル商品の 開発とチームマーチャンダイジング、②新サービスの開発と利便性の提供、③徹底した IT 活用と業務プロセス改善、である。 セブン-イレブンでは、取扱商品の 60%弱がオリジナル商品ともいわれており、高品質 で粗利の高い品揃えが実現している。これらはメーカーと連携したチームマーチャンダイ ジングの成果である。例えば、93 年に開始した「焼きたて直送便」は、大手メーカーの日 持ちのするパンだけでは顧客のニーズが満足できないと判断し、冷凍生地のフランソア社 と提携することで実現した。また、新サービスについては、宅配便の取扱いや公共料金の 収納、チケットサービスや写真プリント、ATM サービスの展開などが挙げられる。IT 活用 については、NEC との共同開発による小売-問屋間のバーコード発注システムの導入 (1978 年)を皮切りに、POS システムの導入(1982 年)、ISDN を用いた情報管理(1991 年)など、6 次にわたる情報化を進めている。 セブン-イレブンの場合 研究 米 国 セ ブ ン ・ イ レ ブ ン の ノ ウ ハ ウ ? 開発 商業化 産業化 1972 鈴木敏文 の決断 1973米サウス ランド社と契約 1974 1号店 開業 1975 1号店 黒字化 1974 1号店 開業 1977 100店舗 達成 公共料金取扱い チケット販売 ATM導入 等 海外16カ国に展開 4万店舗 イトーヨーカ 堂の反対 メンバー の離反 1号店 の失敗 米サウスラ ンド社救済 1991 46 1994 黒字化 (3)宅配便 宅配便(たくはいびん)とは、比較的小さな荷物を各戸へ配送する輸送便で、路線トラ ックにおける事業のうち特別積合せ事業の一形態であり、国土交通省の用語では「宅配便 貨物」と規定されている。荷主の戸口から届け先の戸口までの迅速な配達を特徴とする。 宅配便が始まるまでは、個人が簡単に荷物を発送するためには、郵便小包(現在のゆう パック)か、鉄道を利用した鉄道小荷物しかなかった。それらは、郵便局または駅で荷物 の発送をしなければならず、さらに、鉄道小荷物は駅で受け取る必要があった。また、郵 便小包は当時 6kg までしか扱いがなかった。それらを使わない場合は、通運を利用するし かなかった。 1927 年鉄道省と運送業者が始めた集荷・配達を行う特別小口扱(宅扱)が日本最古の宅 配便にあたる、とされている。なお、このサービスは 1942 年廃止されている。民間では三 八五貨物(現在の三八五流通)のグリーン宅配便に次いで、1976 年 1 月 20 日、大和運輸 (現在のヤマトホールディングス・ヤマト運輸)が「宅急便」のサービス名で行ったのが、 宅配便のサービスの始まりである。最初は関東地方のみで、1 日目の取扱量は 11 個だった。 1980 年代に入ると、店舗網の拡大が始まったコンビニエンスストアを発送窓口にしたり、 宅配便の対象地区の拡大や高速道路網の拡充による配送時間の短縮化に連動して急速に取 扱量が増えた。この過程で、1978 年頃から日本通運など他社大手輸送会社も同様のサービ スを開始した。この際、参入した各社が動物(黒猫、ペリカン、カンガルー、小熊など) をシンボルマークに用いたことから、これらの会社間の熾烈な競争は「動物戦争」とも呼 ばれた。また、これに伴い鉄道小荷物は競争力を失って 1986 年 11 月に廃止されている。 1997 年には「宅急便」の離島を含む全国展開が完了した。 宅配便の市場規模は、2010 年度(平成 22 年度)で約 32 億個、市場規模にして約 2 兆円 とされている。 47 【R:研究】 宅急便のモデルとなったのは米国の小荷物専門運送業者 UPS(United Parcel Service) 社である。1907 年に米国ワシントン州シアトル市に設立された UPS 社(設立時の社名は アメリカン・メッセンジャー・サービス)は、1922 年に一般向け小口貨物配送サービスを ロサンゼルスで開始した。小包郵便と同等の金額で小包郵便にはないサービス(週次請求 や自動ピックアップ、小切手の受付など)を行い、1924 年からは荷物の処理に初めてベル ト・コンベアーを採用、1927 年には米国の太平洋側のすべての主要都市をカバー、1975 年には全米を集配対象としている。 【D:開発】 (開発開始) 1973 年 9 月、営業所視察でニューヨークを訪れていたヤマト運輸の小倉昌男社長は、マ ンハッタンで十字路の周囲に UPS の集配車が4台停車しているのを目撃し、宅急便の開始 を決意する。 『宅急便の成否は、荷物の「密度」にある。集配車一台当たりのコストはほぼ決まってい るから、一台当たりの荷物量が勝負だ。四つ角に車が四台あったということは、ワンブロ ックにつき一台。当社ではもっと車を多くしよう。サービス内容が良ければ荷物の密度が 高まり、いつかは損益分岐点を超えるはずだ。 』(小倉昌男『経営はロマンだ!』 (2003) p.115-116) 昭和 40 年代後半 (1970 年代前半) 、 路線トラックの会社は全国で約四百数十社あったが、 売上高営業利益率が 7%以上を A クラス、5%以上を B クラス、2.5%以上を C クラス、そ 48 れ以外を D クラスとすると、ヤマト運輸は C クラスであり、大口商業貨物の輸送市場に出 遅れていたため「負け犬」であり、小倉社長はこのままではヤマト運輸は赤字に転落する という危機感を持っていた。1973 年のオイルショック後の不況もあり、1973 年に約 6,500 人いた社員を、2 年後には約 1,000 人減らすなどのリストラも行っている。それでも 1975 年度の決算では売上高経常利益率が 0.07%まで落ち込むなど、最悪期を迎える。 抜本的な対策は何か。理想的な運送会社を自問した小倉会長の頭に浮かんだのは、牛丼 の吉野屋だった。 「全国どこへでも、どんな量の荷物でも運べる会社」が理想だと思ってい たが、メニューを牛丼に絞り込んだら利益が増えた吉野家のように、取り扱う荷物を絞り 込んではどうか。これが宅急便の最初のコンセプトとなった。 第二のヒントは、身近な経験だった。小倉社長が息子の洋服のお古を千葉の弟の息子に 送ろうと思ったが、運輸業の社長の自分に送る手段がない。郵便小包と鉄道小荷物はあっ たが、どちらも“親方日の丸”で「荷札をつけろ」 「ひもでしっかり結べ」など面倒な指示 が多いし日数もかかるので主婦は困っていた。 第三のヒントは、日本航空が当時売り出した「ジャルパック」であった。ヤマト運輸は 販売代理店となっており、小倉社長も海外研修に参加したりしていた。ジャルパックは、 航空券の手配、ホテルの予約、市内観光、添乗員など、海外旅行に必要なものを全部パッ ケージにすることで、ローマ字でサインができないおばあさんでも安心してハワイに行け るようになった画期的商品だった。それまでは旅行は個人的なものだったが、日本航空は 旅行を商品化して新たな顧客を獲得したのである。 これらを総合すると、家庭から家庭へ荷物を運ぶサービスをうまく商品化すれば、主婦 に買ってもらえるのではないか。客は主婦だからサービスは明快でなければならない。地 域別均一料金、荷造り不要、原則翌日配達、全国どこでも受取とどこでも配送-商品コ ンセプトは固まってきた。 (偶発的・散発的・一回限り) 小倉社長は、まず個人宅配市場の市場規模を確認した。当時郵便貨物が年間約 1 億 9,000 万個を扱い、国鉄小荷物は約 6,000 万個を扱っていたため、既存の小荷物取扱総量は約 2 億 5,000 万個であった。仮に1個 500 円の集配手数料とすると 1,250 億円の市場と想定さ れる。 個人宅配市場に相当の需要があることは分かったが、偶発的・散発的で一回限りの輸送 需要に対応する方法は分からなかった。集荷ができないのである。郵便小包は、郵便局の 窓口に持ち込めばいいことを誰もが知っているが、ヤマト運輸の事業所がどこにあるかな ど一般市民は知らないため、窓口に持ち込んでくれと言ってもムリである。また、商業貨 物なら荷主の場所が分かっているから集荷も可能だが、宅配を希望する個人から集荷依頼 の電話があっても、その家を探して尋ねあてるまでに相当の時間がかかってしまう。商業 貨物の輸送は、いわば一升マスを持って工場に行き、豆をマス一杯に盛り、マスごと運ぶ ようなものであるが、個人の宅配貨物の輸送は、一面にぶちまけてある豆を、一粒一粒拾 うことから仕事が始まるのであり、拾わない限り仕事は始まらない。 この問題は、取次店の設置で解決した。酒屋や米屋など主婦になじみのある商店に取次 店になってもらい、主婦には取次店に荷物を運んでもらう。後は、ヤマト運輸の集荷車が 49 取次店を回り営業所に荷物を集積する。取次店には荷物一個あたりの手数料を払う(当初 は 100 円) 。お客は取次店まで荷物を持ち込んだら、自宅に集荷に行った時より運賃を割り 引いてもらえる(当初は 100 円) 。これにより「三方良し」のシステムとなった。 (反対のなかの出帆) しかしながら、当時の運送業界では、このような発想は全くの非常識であり、小倉社長 は相談した役員全員から反対される。相談役に退いていた創業社長である実父も反対した。 「集荷の手間が少ない百貨店配送事業ですら、苦しくなっている。家庭からいちいち荷物 を集めていたら、赤字になるに決まっている」という意見だった。賛成したのは、1973 年 のオイルショックで労働組合の三役だけであった。 小倉社長は、新事業のコンセプトを自ら「宅急便開発要綱」にまとめ、1975 年(昭和 50 年)8 月の役員会で提案した。内容は、 1)不特定多数の荷主または貨物を対象とする 2)需要者の立場に立ってものを考える 3)他より優れ、かつ均一的なサービスを保つ 4)永続的、発展的システムとしてとらえる 5)徹底した合理化を図る を柱としたものであった。役員会の承認を得て、同年 9 月 1 日、約 10 名の若手社員と労働 組合の代表からなるワーキンググループを編成した。議論には小倉社長と営業担当常務も 参加した。2ヶ月の議論を経て、 「宅急便商品化計画」がまとまった。内容は、 1)名称:宅急便 2)対象貨物:1個口に限る。重量 10kg、タテ・ヨコ・高さの合計 1m以内。 3)サービス区域:太平洋側の市部 4)サービスレベル:原則として翌日配達。一部地域は三日目配達。 5)地域別均一料金:出荷地域と隣接ブロックまでは同一料金とする。 6)運賃:500 円。遠距離ブロックは 100 円加算。 7)集荷:一個でも電話で集荷する。 8)取次店:米屋、酒屋と契約を結び、宅急便取次店の看板を出す。取次店に持ち込ん だ場合は運賃 100 円引き。 9)伝票:宅急便専用伝票を作成し荷物に貼付する。 というものであった。 【C:商業化】 (黒字転換) 1976 年(昭和 51 年)1 月 23 日、ヤマト運輸は宅急便の営業を開始した。初日の出荷個 数は 11 個だった。営業区域は、当初は東京都の区市部、関東 6 県の市部だけであり、面積 で日本の 3.4%、人口で 25.4%だったが、徐々に拡大して 1979 年度(昭和 54 年度)末に は北は札幌市、南は熊本市まで広がり、面積で日本の 27.4%、人口で 74.8%をカバーする に至った。取扱個数も、初年度(1976 年度)170.5 万個、1977 年度は 540 万個(前年比 3.1 倍) 、1978 年度は 1,087 万個(同 2 倍) 、1979 年度は 2,226 万個(同 2 倍強) 、とほぼ 50 倍々ゲームで伸びていった。そして、1980 年度には取扱個数 3,340 万個(前年比 1.5 倍)、 売上高 699 億円、経常利益 39 億円、売上高経常利益率は 5.9%と、ついに黒字に転換した のである。 (資金繰りの克服) 宅急便を開始した当初のヤマト運輸の資本金は 8 億 4,000 万円だったが、宅急便の営業 区域拡大に伴い、各地の拠点整備・集配車の購入等の設備投資が必要になった。これを同 社は増資とメインバンク(当時の富士銀行)の支援で乗り切るが、1947 年に日本通運から 株式を買い戻す際に一個人株主に 4 割の株式を持たせた経緯があり、増資のためにはその 個人株主の同意が必要であった。 「財政面で一つの転機を迎えたのは、昭和 49 年に資本金を 5 億円から 8 億円に増強したと きである。600 万株のうちわずか 100 万株であったが、時価発行による公募増資に充てた のだ。それまでも何回か公募増資をしたいと考え、大株主に相談したのであるが、自分の 持ち株比率が下がる話には一切応じられないと、一蹴されていたのである。大株主は、増 資には株主割当以外の方法があることを知らなかったのだが、執拗に食い下がり何年もか けて固い頭をほぐしたのである。 」 (小倉昌男「経営学」1999 年 p.252) 公募増資の実現により、1977 年以降 1982 年まで 5 回にわたって 143 億円の資金を調達 した。また、1977 年以降は金融機関からの借入金残高も減少に転じた。 【I:産業化】 51 業界が予想していなかった宅急便の黒字化により、新規参入が相次ぎ宅配事業に新たに 35 社が参入した。また、小口の貨物輸送サービスに競争原理が働き、単なる輸送だけでは なく、下記のような新規サービスの提供などが行なわれるようになった。 ・スキー場やゴルフ場等への用具の配送 ・空港へ、あるいは空港からの手荷物の配送 ・生鮮食品の配送のための冷蔵・冷凍小荷物配送(クール便) ・期日、時間帯指定配送。特に急いで配送したい場合や、配達先の都合の良い時間帯や期 日(例・在宅している夜間や日曜日など)に配達を行いたい場合。 ・地域限定の即日配送。特に急いで配送したい場合のほか、送り先の距離が短い場合、通 常運賃で午前中に集荷→当日夕刻以降に配達可能な地域がある。 ・通信販売の代金決済(コレクト)サービス などである。 ヤマト運輸の場合 研究 米 国 U P S ・ 林 周 二 「 流 通 革 命 」 開発 商業化 産業化 1973 小倉昌男 社長決断 1975 「宅配便 開発要綱」 経営悪化 1980 35社が参入 1976 営業 開始 1975 WGの 結論 経営幹部 の妨害 1980 黒字化 達成 資金ショート・ 大株主の反対 スキー宅急便(1983) 公聴会(1984) 運輸省を告訴(1986) 代金回収サービス(1986) クール宅急便(1988) 引越らくらくパック(1991) クロネコメール便(1997) 上海・シンガポール展開 (2010) → アジアNo.1の流通・ 生活支援ソリューション プロバイダーへ 52 (4)カップヌードル カップ麺は、1970 年に日清食品から発売された「カップヌードル」が始まりである。 「カ ップヌードル」の成功後、カップ麺市場には 1973 年にエースコックの「カレーヌードル」 が、1974 年には明星食品の「カップリーナしょう油味」が、1975 年にはサンヨー食品の「カ ップスター」が発売されるなど、現在は国内市場規模で約 4,000 億円、毎年日本だけで 30 億食以上が消費されており、世界 80 カ国以上で消費されているとも言われている。 【R:研究】 カップヌードルの基礎となったのは、日清食品が開発したチキンラーメン(1958 年)で ある。チキンラーメンは、日清食品創業者である安藤百福社長が、終戦直後の大阪・梅田 の闇市でラーメン屋台に並ぶ行列を見て「もっと手軽にラーメンを食べたい」と開発した ものである。チキンラーメンは、安藤社長が大阪府池田市の自宅の敷地内に作業小屋を建 て、試行錯誤の末に生まれた。ある日、安藤家の夕食の主菜だった天ぷらの調理法を見て、 「油の熱で麺を乾かす」瞬間油熱乾燥法を思いついたといわれている。 【D:開発】 (商品コンセプトの確立) チキンラーメンのヒットにより、日清食品は急成長した。安藤は、終戦直後は空襲で消 失した工場の保険金が四千数百万円(現在の貨幣価値で 1,000 億円)入り、新聞でも「日 本一の金持ち」と報じられるほどだったが、その後信用組合の理事長を引き受けた際にス ターリン暴落に遭い、無一文となっていた。その無一文から、チキンラーメンの成功によ り、日清食品は東京と大阪の証券取引所に上場するまでになる。 しかし、チキンラーメンの成功により後発メーカーが続々と参入し、インスタントラー メン業界は 360 社がしのぎを削るような激戦状態となった。商品単価も当初のチキンラー メン 35 円から値崩れを起こし、10 円を切るような商品まで現れ、倒産するメーカーが相次 いでいた。日清食品も 1,100 人いた従業員を 800 人に減らしている。 1966 年(昭和 41 年)に、安藤は、チキンラーメンの海外進出を目指してアメリカに飛 んだ。このとき、安藤は「西洋人は箸と丼で食事をしない」ことに気づき愕然とした。や むなく現地では、紙コップにチキンラーメンを砕いて入れ、熱湯をかけて食べたが、梱包 材であり、調理用具であり、食器であるという一人三役をこなすカップで食べる「カップ ヌードル」のコンセプトがこのときに生まれた。 53 (開発開始) カップヌードルの開発も、チキンラーメンと同じく難航を極めた。容器は、背の高い人 も低い人も、手の大きな人も手の小さな人も持ちやすく、熱湯を入れても変形せず安定し ており、オシャレでなくてはならなかった。口をつける部分の厚みは、食べやすさと強度 アップを実現したが、これは安藤社長自らのアイディアである。材料は実験を重ねて発表 スチロールに落ち着いたが、国産品の発泡スチロールにはスチレンモノマーの匂いがして どうしても抜けなかった。あるとき、安藤が容器を自宅に持ち帰り、ブリキの空き缶に入 れて熱し、一晩放置しておいたところ、翌朝これが見事に消えていた。輸入品は輸送中の 船底で熱が加わり脱臭作用を及ぼしていたのである。また、容器の密閉については、機内 食についていたマカダミアナッツのパッケージが素晴らしいヒントとなった。安藤は、こ の容器をそっとポケットに入れて持ち帰り研究している。 (麺の問題) 麺の開発も難航した。チキンラーメンの 3 倍の厚みがあるため、これまでどおりの油熱 乾燥では外は揚がっても中は半生になってしまう。かといって油の温度を上げると中まで 火が通っても外が黒こげになってしまう。この問題も、安藤の天ぷらの発想から解決でき た。金型に余裕をもって麺を詰め、一度沈んだ麺が天ぷらのように浮いてきた時に引き上 げると、見事に中まで火が通っていた。 逆円錐形のカップに揚がった麺を詰めるのも大変だった。麺を容器より小さくすると、 移動中に振動で麺が割れるおそれがある。また、カップの中間に麺の固まりを入れようと すると、技術的に難しい。結果的に、 「昼も夜も、そのことばかり考えた。ある夜、寝床の中でふと目を覚ましたとき、天井が 目に映った。寝覚めの錯覚で、ハメ板がゆっくり回転していた。天と地が逆になった感じ だった。 『そうか。めんを容器の中に入れようとするから、進まないのだ。中身を下に置いて、逆 に容器を上からかぶせたらどうだろうか。』 まさに逆転の発想だった。 めんのかたまりの上にカップをかぶせる。くるっと一回転して落ち着かせると、めんは 見事に中間保持されていた。 」(安藤百福『苦境からの脱出』2006) (具材の問題) インスタントラーメンの登場までは、ラーメンを食べたければラーメン屋に行くしかな かった。それを家庭でもという発想からインスタントラーメンが生まれた。そして、今度 は、ラーメンと同等のものをいつでもどこでも、となると具材の開発は商品の成功に極め て重要であった。 お湯で戻して食べられるものといえば乾燥食品になるが、一般的な乾物は熱湯に 3 分間 つけても元に戻らなかった。そこで、研究員の大野一夫は大学時代に学んだフリーズドラ イ(凍結乾燥法)を試みる。フリーズドライとは、医薬品などを作るための新しい技術で、 水分を含んだ食品や食品原料を、マイナス 30℃程度で急速に凍結し、さらに減圧して真空 54 状態で水分を昇華させて乾燥するものである。具材が酸化せず長持ちして、お湯で戻せば すぐに食べられるものになる。会社にフリーズドライの設備がなかったため、大野は自ら 装置を自作して試験を繰り返した。最後の難関は、エビの開発だった。安藤は、具材には どうしてもエビが必要だと主張した。エビは高級感があるしめでたい。日本人は皆大好き であり、エビが入れば必ずカップヌードルはヒットすると考えた。しかしながら、フリー ズドライしたエビはどれも発色が悪く、お湯で戻してもぼそぼそになってしまう。何十種 類のエビを試し、ようやく発見したのがインド洋産のエビ「プーバラン」だった。 プーバラン 【C:商業化】 カップヌードルは、1971 年 9 月に発売したものの、希望小売価格は 100 円と当時約 25 〜35 円だった袋入りインスタントラーメンの 3〜4 倍だったことから関係者の反応は悪く、 注文の入らない日々が続いた。新しいコンセプトの商品であるため、市場調査も兼ねて従 来と違った特殊なルートであるプロ野球の球場や遊園地、警察署や消防署などといった夜 勤の多い職場などで試験販売が行われた。「簡便性」「完全調理済食品」という点に目を付 けた自衛隊が大量購入し、最初の顧客となった。 安藤社長は、ブームに火をつけるべく、銀座の歩行者天国で自ら指揮をとって街頭販売 を開始した。場所は三越前。試行販売を数次行った 11 月 21 日、ついにブームに火がつき、 4 時間で 2 万食を売った。発売翌年の 1972 年(昭和 47 年)2 月、あさま山荘事件が起き た際に、機動隊員たちがカップヌードルを食べる場面が全国に生中継され、視聴者の注目 を集めた。当時、事件の現場は-15℃前後の寒さで、隊員たちに配給される弁当も凍ってし まうため、熱湯を注ぐだけですぐに食べられるカップヌードルが非常食として重宝された。 これをきっかけにカップヌードルの認知度は全国的に高まり、各地域から販売希望が多数 寄せられ、その要望にこたえて後に全国発売となった。 【I:産業化】 チキンラーメンでは、安藤社長は製法を惜しみなく公開したため、企業の参入を招き過 当競争に陥った。このため、日清食品は、カップヌードルの発売に際しては「カップヌー ドル」という商標に加え、製法やカップ等についても特許を取得している。 それでも冒頭に記したとおり、エースコックや明星食品など、各社がカップ麺市場に参 入した結果、現在では一大食品産業に成長している。 55 【各社の参入状況】 1971 年 9 月 日清食品 カップヌードル ¥100 1972 年 6 月 イトメン カップジョイ 1972 年 7 月 松永食品 パックヌードル 1972 年 9 月 ヤマダイ ニュータッチヌードル 1972 年 10 月 横山製麺工業 カップチャーシューメン 1972 年 10 月 恵比須産業 チャイナヌードル 1972 年 10 月 三共食品 カップ入り肉うどん 1972 年 11 月 スマイル食品 スマイルカップ純肉うどん 1972 年 12 月 日清食品 カップヌードル天そば 1973 年 2 月 和同食品 サッポロヌードル 1973 年 3 月 エースコック カレーヌードル 1973 年 4 月 徳島製粉 金ちゃんヌードル 1973 年 5 月 日清食品 カップヌードルカレー 1973 年 6 月 エースコック シュリンプヌードル(以下略) カップヌードルの場合 研究 イ ン ス タ ン ト 麺 の 技 術 開発 1966 米国で の体験 1970安藤 社長決断 フ リ ー ズ ド ラ イ の 技 術 経営悪化 商業化 容器の開発 麺の開発 具の開発 産業化 各社が参入 1971 定価100円 で販売開始 1971 カップ麺 完成 社内の反対 1971 銀座作 戦成功 ブレイクせず 56 世界各国で 生産・販売 (5) YS-11 YS-11(わいえす・いちいち:通称はわいえす・じゅういち)は、1962 年に日本航空機 製造株式会社が商業化した双発ターボプロップエンジン方式の中型旅客機であり、第二次 世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機である。製造機数は累計で 182 機 (1965-1973) 、海外 7 カ国(15 社)に輸出し、国内で就航した 1965 年から 2006 年にか けては、初期不良はあったもののその後は高い安全性を誇った。一方で、パワー不足や 1200m の滑走路での離着陸を要件としていたためプロペラが非常に大きく、着陸の難しさ も指摘されている。 YS-11 は、 「名機」と言われながらも、所管省庁の問題や為替の変動等によりイノベーシ ョンとしての「商業化(黒字化) 」や「産業化」にはいたらなかった。 【R:研究】 基礎研究は、戦前の日本の航空機産業に蓄積されていた。名機「零戦」や「二式大艇」 「紫 電改」 「彩雲」 「疾風」などは、当時世界トップの性能を誇る優秀な機体であった。 しかしながら、敗戦により、日本人による航空機の生産、研究、実験、教育等ありとあ らゆる航空に関する活動は禁止された。各飛行場に残された国産飛行機は破壊され、大学 の航空学科も廃止され、研究施設も閉鎖された。この活動禁止は 1945 年から 1952 年のサ ンフランシスコ平和条約締結(の直前)までの 7 年間続くことになる。産業分野のなかで も最も高度な研究と技術の蓄積が求められる航空分野において、ジェット時代の到来時の ブランクはあまりに大きく、 「航空禁止の 7 年間で、日本の航空産業は 50 年遅れた」とま で言う専門家も現れた。ジェット機は圧縮機やタービンによる高速の燃焼ガスの推力で飛 ぶが、このためジェット機は従来のレシプロエンジンで飛ぶ飛行機と、構造もポイントも 全く違っていた。 (このため、1953 年には、大宮富士工業(のちに富士重工に合同)が、富 士精密工業(現:日産自動車)の協力を得てジェットエンジンの研究を開始している。) 【D:開発】 (イニシエーターは通産省) 通産省(現:経済産業省)で 1955 年に第三代航空機武器課長に就任した赤澤璋一は、国 産機の開発を夢見ていた。彼は、1956 年 5 月号の『通商産業研究』に、以下のような論文 を掲載している(一部抜粋) 。 57 「航空機工業としては、防衛庁保有機の維持整備等の防衛庁の要請はさし迫った問題であ るが、また精密総合工業として他産業に対する貢献、輸出産業としての適格性を考慮すれ ば、ようやく軌道に乗りつつある航空機工業の振興がこの際真剣に考慮されるべきであり、 さしあたり企業努力を超えた諸要請を充足するために、さらに特段の施策が必要であろう。 航空機関係においては、高度かつ広範な試験研究を行う必要があり、しかも担当事業者に 資金的余裕のない現状において一層強力なる助成措置を講ずる必要があろう」 「日本の空を日本の翼で」赤澤は戦後の新しい航空ニッポンの道を拓くべく、民間メー カーの首脳達に働きかけを行った。そして 1957 年度の予算要求用に「中型輸送機国産化 5 か年計画」を関係 4 省庁で議論した。計画案では開発期間 5 年、予算 30 億円、ターボプロ ップエンジン双発、全幅 30m、全長 21~24m、総重量 19~23 トン、巡航速度 480km/時、 航続距離 2,000km、客席 40~45 席、未整備の国内ローカル空港を想定して、最大滑走路 1200m とした。57 年度予算では、通産省から開発費 30 億円のうち初年度 2 億円を要求し たが、このうち補助金として認められたのは 3500 万円であった。このため、民間機体メー カー6 社(新三菱重工業、川崎航空機工業、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛 行機)が 4,500 万円を負担し、計 8,000 万円の予算で中型飛行機の設計研究が始まること になった。 (開発開始~基本設計) 1957 年 5 月 1 日、財団法人・輸送機設計研究協会(輸研)が設立された。輸研では、先 進国の現状を調査するために、荘田泰蔵理事長(航空工業会理事長:新三菱)を先頭に米 国、英国、西独、オランダ、フランスへ調査団を派遣し、各国の中型輸送機の現状と各国 政府の航空機産業助成策が調査された。 輸研の技術委員会では、機体の初期設計を検討した。最終的に、ロールスロイス社のエ ンジンを搭載し、全幅 28.3m、全長 26m、総重量 19.5 トン、巡航速度 520km/時、航続距 離ペイロード(貨物)5.1t で約 556km、客席 60 席、滑走路長 1,200m が基本設計案として 選ばれた。この基本設計案は YS(輸送機設計)-1 と仮称された。 (開発開始~基礎設計) 基礎設計は 1958 年の春から始まった。輸送機設計研究協会に各メーカーから 44 人の技 術者が集められ、総合主任と各分野の主任が置かれた。総合主任は木村秀政・日本大学教 授で、空力は菊原静男(新明和) 、構造は堀越二郎(新三菱) 、艤装は土井武夫(川崎) 、企 画は太田稔(富士)であった。木村は、戦前の東京帝国大学航空研究所で「航研機」や「A-26」 という世界記録を樹立した長距離機を設計・開発した日本航空学界の第一人者であった。 菊原は世界最強の戦闘機ともいわれた「紫電改」や「二式大艇」 、水上戦闘機「強風」等の 主任設計士を務めた。堀越は「96 式艦上戦闘機」や「零戦」の主任設計士であり、土井は 「飛燕」の主任設計士である。そして太田は「97 式戦闘機」 「隼」 「疾風」を設計するなど、 この 5 人はいずれも戦前の日本の航空機産業を代表するキラ星のごときベテランであった。 のちに彼らは「5 人のサムライ」と呼ばれるようになる。 しかしながら、各社から集まった若手技術者には、飛行機の設計はおろか飛行機に乗っ たこともない者ばかりだった。土井は「この飛行機の設計は、大将と兵隊だけで戦争して 58 いるようなもんだ」と若手に語っている。YS-11 は、作風が違う 5 人の「芸術家」の合作 であり、連日激しい議論がなされた。大まかな仕様は決まっていたものの、まだ曖昧な部 分も多く、「太胴」にするか「細胴」にするかなどの基本的な部分も決まっていなかった。 (試作機予算確保) 当時の政府は東海道新幹線に本腰を入れていたこともあり、YS-11 の予算獲得は難航を極 めていた。大蔵省は「自動車でもまだ輸出できないというのに、飛行機を輸出するなど夢 のような話だ」と航空機産業の育成を考えなかった。 このため、土井は大博打に出た。1959 年度予算審議の山場となる 12 月までに実大模型 (モックアップ)を作り、大デモンストレーションをしてはどうかと進言したのである。 堀越や菊原は「基礎設計が固まっていないのにモックアップを作っても無意味だ」と大反 対したが、土井は来年度予算を確保しなければプロジェクトはここで頓挫してしまうと譲 らなかった。結局、58 年度の予算として確保してあった 5,500 万円(現在の 10 億円以上に 相当)をつぎ込み、3 ヶ月でモックアップを製作した。全長 26m の機体はすべて木材で作 られるため、全国から選りすぐりの船大工が集められた。最後の 1 ヶ月は不眠不休の作業 が続いた。土井は若手技術者に「図面では見えない問題点を、この機会に洗い出せ」とハ ッパをかけた。 1958 年 12 月 11 日、モックアップが公開された。キャッチコピーは「横浜杉田(Yokohama Sugita)で 11 日に会いましょう」 。白色と銀色に塗り分けられた胴体に、赤い印象的なラ イン、尾翼には日の丸がデザインされた巨大な模型の迫力に、約 500 人の招待客はみな一 様にどよめいた。見事なできばえだった。デザインは一流デザイナーの渡辺力氏。特注の 座席は豪華な西陣織が使われていた。高碕達之助通産大臣は、「我が国でも、これほど素晴 らしい飛行機ができるのか」と感心し、YS の実現に尽力することを確約した。高碕は終戦 時に満州航空にいたこともあり、感慨はひとしおだった。 モックアップ公開から 17 日後の 12 月 28 日、高碕経産大臣と佐藤栄作蔵相とのトップ会 談により、特殊法人設立に関する 3 億円の政府出資が決まった。土井の大博打は成功した のである。 (試作機の作成) 1959 年 6 月 1 日、日本航空機製造株式会社(日航製)が設立された。筆頭株主は日本政 府、その他大手航空機メーカー各社が出資した官民共同の国際会社である。 ここで「5 人のサムライ」は、若い世代に新しいプロジェクトを任せて一線を退くことに した。新会社の命運を担う男に指名されたのは、新三菱重工名古屋航空機製作所技術部次 長の東條輝雄だった。東條輝雄は、東條英機元首相の息子であり、「零戦」設計チームのメ ンバーでもあった。 東條は、まずメーカー各社に各研究グループを統括できる課長クラスの優秀な人材を派 遣してもらえるように頼み、日航製の設計部は 6 班・約 70 人に増員された。一班は庶務と 設計管理(新明和・佐治主査) 、二班は全体設計と空力・性能・基礎強度(新三菱重工・島 主査) 、三班は胴体構造、客席艤装、胴体強度(日本飛行機・内田主査)、四班は主翼及び 59 エンジン、燃料装置(川崎航空機・藤島主査)、五班は尾翼、脚、油圧(富士重工・得能主 査) 、六班は計器、余圧、防水、操縦室艤装(伊藤忠・佃主査)となった。 次に東條が手をつけたことは、輸研が基礎設計したすべての図面を洗い直すことだった。 5 人のサムライが設計した案は矛盾に満ちており、このまま次の工程である詳細設計に進め ばそれらの矛盾が噴出する。5 人のサムライはそれぞれが実績と経験を持ち、航空機の設計 への考え方も異なっていたため、調整がつかないまま外向きに都合のいい政治的な計画案 がまとめられていたのである。例えば、重量を精査すると、これまで公表されていた数次 より 0.5 トンオーバーしていた。この数字は、輸送機の性能を著しく落とすもので、このま までは当初の目的であった飛行機の性能に達しないのは明白だった。 このため、東條は、YS-11 のセールスポイントである 1,200m の短い離着陸距離を確保す るならば、胴体を 3.3m から 2.88m に細くするしかないと決断し、1959 年 11 月 21 日、関 係省庁らによる第1回審議室会議で設計変更を提案した。これに対し、その後の拡張性を 大きく損なうとして通産省、運輸省、科学技術庁は猛反発した。 一方、航空機メーカーの首脳は別の考えを持っていた。民間航空機の世界では、経済性 と安全性・信頼性が求められるため、何よりメーカーの信用と実績が問われる。世界の航 空機工業は、戦後ジェット化の波を受けて長足の進歩を遂げており、技術は高度化・複雑 化・巨大化していた。欧米メーカーの規模も巨大化しており、日本は足元にも及ばない。 こうした状況で、輸送機計画 YS-11 で大風呂敷を広げても、結局は売れず大赤字になり失 敗の責任を追及されるだけである。防衛庁からの受注の端境期でもあり、技術の習得にな るため、政府が積極的に進める事業に反対はしないが、収めどころをわきまえておき必要 以上に事業を広げすぎないことが重要だと考えていた。このため細胴には賛成だったので ある。 東條の細胴案は、1ヶ月後の第2回審議室会議で了承された。しかし、課題は山積して いた。まずは耐久性。戦前・戦中の軍用機の平均稼働時間は 100 時間足らずであり、バグ 激機でも数百時間でしかなく、疲労強度についての技術蓄積は皆無だった。英国のデハビ ランド社のジェット旅客機コメットが就航 1 年内に 3 回も空中爆発を起こしており、安全 性の確保は航空機産業の絶対条件であった。YS-11 では、一つの部材が破損しても他の部材 で強度を保つ「フェール・セーフ構造」という最新の設計手法を取り入れ、耐用時間は 3 万時間とした。機内と地上とを同じ気圧にして一定の気温を保つ「与圧」も日本には全く なかった技術だった。また、コクピットに配置する計器類の製造技術も日本は遅れていた。 そもそも各計器がなぜこの位置にレイアウトされているのかの意味が分からなかった。通 信航法装置も日本は持っていなかった。 東條らは、全日空が採用した英国コンベア社 CV440、オランダ・フォッカー社フレンド シップ F27、英国ビッカース・バイカウント社の VC828、日本航空が採用した米国ダグラ ス社の DC-6 などの外国機を徹底的に研究した。しかしそれらは 5~6 年前に設計された機 体であり、4~5 年後に YS-11 が就航する頃には 10 年前のモデルとなってしまっている。 生産体制も手探りであり、防衛庁向けとして日本の機体メーカーがライセンス生産してい た F86 戦闘機(新三菱) 、P2V 対潜哨戒機(川崎)などの資料から、品質管理手法、検査基 準、部品製作の工具等も研究していった。 60 (試作第一号機の完成) 基礎設計の見直しでスタートが遅れたが、1960 年初めから残業に次ぐ残業で作業を進め、 60 年の暮れには約千枚の計画図面が完成した。これを受けて各メーカーでは 1 万 2,000 枚 の詳細図面が作成され、6 月頃より各メーカーによる一号機の製作が始まった。試作機は 4 機作られ、01 機、02 機は強度試験用に、一号機と二号機は実際の試験飛行用である。YS-11 は耐用時間を 3 万時間としていたが、運輸省が慎重を期してか「スキャターファクター」 という余裕比率を 6 とし、18 万時間の試験を要求してきた。このため、耐用試験には 1 年 4 ヶ月もかかった。鳥衝突試験では、鶏を圧搾空気で撃ち出して機体にぶつけて強度を確認 した。 1962 年 7 月 11 日、ついに YS-11 は完成し、小牧工場の格納庫から駐機場に引き出され た。当初予定より 4 ヶ月遅れたロールアウトだった。そして 8 月 25 日は地上滑走試験を終 了、30 日には記念すべき初飛行がなされた。200 人の関係者や報道陣を前に、YS-11 は午 前 7 時 21 分、名古屋空港を離陸した。1 号機は伊勢湾上空で水平飛行に移り、8 時 17 分に 着陸した。この初フライトは、テレビ・ラジオで生中継された。 12 月 18 日には、羽田空港で皇太子殿下のご臨席による公開飛行が行われた。政財界、空 空関係者、マスコミなど総勢 500 人が出席する大々的な披露となった。皇太子殿下は熱心 に機内を視察され、式の最後には今後ともこの事業の達成を期待するとのお言葉も述べら れた。 しかし、その 10 日後に名古屋空港で行われた 1 号機、2 号機の試験飛行で、大きな問題 が露呈してきた。横安定の不良と方向舵の流れである。1963 年 3 月の FAA(米国連邦航空 局)の飛行試験でも昇降舵、方向舵、補助翼(いわゆる「三舵」)と横安定に問題があり、 このままでは旅客機として不適であり型式証明は出せないとの厳しいものだった。また、 飛行中に片方のエンジンを停止する試験の際に機体が制御不能のきりもみ状態となり、墜 落しかけた事件も関係者にはショックであった。有効な解決策が見つからないまま時間が 過ぎ、それまで好意的に見守っていたマスコミの論調も「飛べない飛行機」「欠陥飛行機」 と」批判的になった。 東條は、63 年 1 月に後輩の島文雄(新幹線の島秀雄の弟)に後を託して新三菱に戻って いたが、9 月に日航製に復職した。東條は、動揺して浮き立っていた若手を前に、「一つ一 つ解決に向けて進んでいけば必ず解決できる」と再び陣頭指揮を執った。問題は「安定性」 と「操縦性」であり、安定性問題(横滑り)は主翼の角度=上反角に原因があった。しか しその変更は主翼を造り直す大作業となり、根本的な設計変更に1年は要すると見積もら れた。そこで土井武夫が主翼を一度切り離し、翼の根元にくさびを入れて現在の上反角 4.19 度を 6.19 度に増やすアイディアを出した。若手はそんなことができるのかと訝しんだが、 東條は GO サインを出した。横滑りは見事に解決された。もう一つの問題である操縦性に ついては、若手の鳥養鶴雄が「スプリング・タブ」の記事を発見し、当時使われだしたば かりのコンピューターの解析で解決策を見いだした。 1964 年 2 月、改修を終えた一号機の飛行テストで手応えを得て、5 月 26 日に FAA の再 試験を行うことになった。26 日の飛行は成功し、28 日には離陸時に片方のエンジンを切る 片発離陸というシビアな試験が行われた。改良された YS-11 は、見事片発離陸に成功し、 試験官は「YS-11 はすばらしい飛行機だ」「独創性も安定性も申し分ない」と賞賛した。 61 【C:商業化】 (投入の遅れと初期不良問題) YS-11 は、 1964 年 8 月 25 日に運輸省の認可を受け、 65 年 4 月 1 日に日本国内航空 (JDA) によって初就航となった(東京~徳島~高知)。日航製は 1963 年に営業部を新設し、東亜 国内航空、全日空、防衛庁など機体を納入した。しかし、YS-11 が実際に就航してみると、 膨大なトラブルやクレームが発生し、「実用機以前の段階だ」と酷評された。例えば、雨が 機体に進入して電気系統がショートしたり、騒音やエアコンの効きが悪かったり、エアラ インには大問題であった。日航製は月産 2 機のペースで製造を続けつつ、これら初期不良 への対策に取り組まなければならなかった。 全日空は YS-11 に敬意と期待を寄せており、1962 年 10 月 1 日とまだ試作段階から 20 機納入の仮契約を結んでいたが、完成が当初の予定より 2 年遅れてしまったことは痛手で あり、YS-11 の就航を待ちきれなかった全日空はライバル社であるオランダのフレンドシッ プ社から 25 機の購入を決めてしまった。世界の旅客機のトレンドはプロペラからジェット 機に移っており、YS-11 は新しい飛行機とは見なされなかったのである。 (海外受注と資金問題) それでも初期不良を改善し、世界各国で勢力的にデモフライトを繰り返すことで、YS-11 は当初の目標である 100 機受注のため海外への売り込みを行った。1 機 5 億円(当時)を 超える買い物であり、売り込みには現地でのデモフライトが必要であったが、こうしたコ ストも赤字の原因となった。それでも 4 年間に 60 カ国のデモフライトを行うことで、当初 の予定の 50 機を上回る 75 機の受注を得ることができた。しかしながら、生産機数が増え ても製造コストは一向に下がらず、作れば作るほど赤字が増していった。さらに売上代金 は長期の延べ払いであり、日航製は資金繰りで窮地に陥った。 (経営赤字と生産中止) 日航製の赤字は、1970 年 3 月末に 80 億円、1971 年 3 月で 145 億円に膨れ上がり、航空 機工業審議会に銀行代表で構成される「日航製経営改善専門委員会」が作られ、赤字の実 態と原因の究明、今後の対策などが議論された。赤字が明らかになると、マスコミが騒ぎ、 世論も追随した。一時は輸出の花形ともてはやされ、日本の誇りと称えられた YS-11 は、 “失 敗作”と決めつけられ、税金の無駄遣いの象徴とされた。各社からは「通産省の主導では じめた事業なのに、なぜ我々が赤字を負担しなければならないのか」 「YS-11 は赤澤さんの 私生児だ。仕方なくお付き合いしただけで、いい迷惑だ」との声が上がり、国会でも赤字 問題が取り上げられたことから大蔵省は態度を硬化させ、1973 年 YS-11 の生産は 180 機を もって打ち切られ、1982 年に日航製も解散した。YS-11 は、 「技術的には成功したが、経営 的には失敗だった」と片づけられてしまった。 通産省は、1958 年に航空機工業振興法を成立させ、航空機の産業化を狙っていたが、 YS-11 の「失敗」が産官のトラウマとなり、その後の民間企業主導によるホンダジェット(ホ ンダ技研工業) 、MRJ(三菱重工業)にわずかにつながるにとどまっている。 62 YS-11の場合 研究 国 内 航 空 技 術 者 の 蓄 積 開発 1942 戦争体験 1956 赤澤課長 の決断 エ海 ン外 ジ航 ニ空 ア機 リの ンリ グバ ー ス 商業化 技術者・ 業界の招集 予算確保 予算確保 できず 産業化 1966 デモフライト 作戦成功 1965 国内外で 販売開始 1964 FAA審査 通過 累積赤字のため 生産中止 (1973) FAA審査 通過できず 2007 三菱重工 MRJ計画発表 63 (6) ロータリーエンジン ロータリーエンジンとは、ピストンの代わりにローター(回転子)を用いたオットーサ イクルエンジンである。ドイツの技術者フェリクス・ヴァンケルが発明し、日本の東洋工 業(現:マツダ)が実用化した。英語ではヴァンケルエンジン(Wankel engine)という。 通常のエンジンは、ピストンの往復運動をクランクシャフトの円運動に変換して動力を 得るが、変換の際にエネルギーのロスが構造上必然的に出てしまう。この問題を解決する 革命的なエンジンがロータリーエンジンだった。ピストンクランク機構の往復運動やバル ブメカニズムが不要なため振動や騒音が少なく、部品点数も少ないため小型軽量で大出力 となる。この理論は内燃機関の登場前から知られており、1580 年代の揚水ポンプやワット の蒸気機関にも応用が見られている。しかし実用化は困難であり、多くの発明家による挑 戦と失敗の歴史を繰り返してきた。 東洋工業は、1967 年にロータリーエンジンを搭載したコスモスポーツを発売し、ロータ リーエンジンの実用化に成功した。しかしながら、オイルショック等の影響もあり、燃費 が悪かったロータリーエンジンの開発に他社は参入せず、産業化には至らなかった。 レシプロ エンジン ロータリー エンジン 【R:研究】 機構としてのロータリー(回転)エンジンには 400 年以上の歴史があり、蒸気機関から 発展したレシプロエンジンの 200 年の歴史を上回っている。 1588 年にラメリーにより考案された揚水ポンプ、1639 年にバッペンハイムが発明した歯 車式ポンプは、ロータリーエンジンの原型ともいえるものである。蒸気機関が動力として 活用されるようになった 19 世紀にはロータリー式の機関が多く試作されたが、内部の気密 (シール)を保つことが難しく、効率の良いものにならなかった。その代わりに、ピスト ンリングを使用したレシプロ(往復)機関が主流となり発展していく。 こうした中で、ドイツのヴァンケル技師が構想したのが、トリコロイド曲線を持つエン ジン室のロータリーエンジンである。例えば、真円の中でおむすび型のローターを回転さ せても圧縮はできないが、トリコロイド(繭型)のエンジン室でローターを回転させると、 回転につれておむすび型ローターの「辺」にあたる部分と内壁との空間が狭くなる。この 圧縮を利用してガソリンを爆発させ、回転力を得る。ヴァンケルは、1951 年に、当時世界 的に有名なオートバイメーカーであり、四輪部門への参入を狙っていた西ドイツの NSU 社 64 にロータリーエンジンの共同開発を申し入れた。NSU 社は同年ヴァンケルと技術提携契約 を結び、技術・資金援助を約束した。 【D:開発】 (開発開始) 1959 年 12 月 9 日、西ドイツ(当時)のエンジン技術者フェリックス・ヴァンケルと同 国の NSU 社は、ロータリーエンジンの試験開発に成功したと発表した。当時は航空機がレ シプロからジェット時代になり、レシプロエンジンが急速に過去のものになりつつある印 象を与えていた。そうした背景で発表されたロータリーエンジンは、世界中のメディアか ら注目され、興味を示した自動車会社も GM、ポルシェ、ダイムラーベンツ、ロールスロイ スなど 100 社を超えた。 一方、国内では、1965 年(昭和 40 年)の乗用車輸入自由化に向け、通商産業省主導に よる自動車業界再編が噂されていた。三輪車(軽三輪トラック)のメーカーとしてはダイ ハツとともに市場を二分していた東洋工業であったが、四輪自動車への参入に遅れたため 業績は低迷し、このままでは統合・合併の危機が迫っていた。「東の本田(宗一郎)、西の 松田」と謳われた名物社長の松田恒次社長は、「技術は永遠に革新である」をモットーに夢 の新構造エンジンに社運を賭け、1960 年に NSU と技術提携の仮調印を行った。NSU との 契約は、 ・10 年で契約金は 2 億 8000 万円(当時の従業員 8000 人の月給に相当) ・東洋工業が取得した特許は無条件で NSU に提供 ・ロータリーエンジン搭載車の販売は 1 台ごとに NSU へのロイヤリティーを支払う というあまりにも一方的な内容であった。 (欠陥だらけの「夢のエンジン」 ) 1961 年 3 月に NSU と東洋工業は正式に契約を結び、同年 7 月に日本政府の認可が下り ると、技術研修団 7 名が NSU に向かった。しかし、社運を賭けた契約だったにもかかわら ず、NSU の試作エンジンはとんでもない欠陥品であった。アイドリング時の激しい振動、 オイル漏れとおびただしい白煙、さらにチャターマーク(ローターハウジング内壁に波状 磨耗が起きるトラブル)によって 40 時間程でエンジンは停止してしまう。ロータリーエン ジンは試験開発には成功したものの、とても実用化できるレベルではなかったのである。 当初関心を示した多くのメーカーは、開発の見通しのつかないロータリーエンジンの量産 化はリスクが高いと撤退したが、東洋工業は後に引くわけにはいかなかった。 1963 年 4 月、山本健一をリーダーとするロータリーエンジン研究部が発足した。調査、 設計、実験、材料研究の 4 課 47 名からなるチームは、赤穂浪士にあやかって「ロータリー 47 士」と呼ばれた。 「創造的に、また挑戦的に仕事をしろ、そしてネバーギブアップ。これ ぞロータリー・スピリットである」と山本は部下に発破をかけた。 (悪魔の爪痕とカチカチ山) 最大の問題だった「チャターマーク」は“悪魔の爪痕(つめあと) ”と呼ばれた。最初は 様々な素材をアペックスシール(おにぎり型の頂点のシール)に使い試した。最適な素材 65 を探して、牛の骨までテストにかけられたという。研究部が発足して半年後、チャターマ ークはアペックスシール自身の振動(共振)によることが分かってきた。山本はあるとき シールに穴を開けることを思いつき試したところ、今まで 200 時間も保たなかったエンジ ンが 300 時間を超えても快調に回り続けた。待ちきれずにエンジンを開けてみると、チャ ターマークは発生していなかった。ついにチームは一筋の光明を見たのである。 しかし、自動車用エンジンとしては、耐久性はまだまだ不十分だった。高強度カーボン を開発した日本カーボン社と共同開発を行ったが開発は難航を極め、最終的にアルミニウ ムを染みこませた高強度カーボンシールが完成したのは 3 年後の 1966 年だった。 一方、エンジンを回すと排気管から白煙が吹き出す現象は「カチカチ山」と呼ばれ、こ ちらも退治できなかった。潤滑用のオイルが燃えることが原因だが、レシプロエンジンと ロータリーエンジンの構造が違うため、レシプロエンジンのノウハウは役に立たなかった のである。これは、オイルシールにゴム材を用い、先端部分に厚みをつけ、外周をクロー ムでメッキすることにより、シール先端が接触して摩耗しても硬質クロームメッキした部 分が次々と現れる構造を開発したことで退治に成功した。 数々の難題を乗り越え、1967 年 5 月 30 日、世界初のロータリーエンジン搭載車“コス モスポーツ”はデビューした。マスコミはこぞって「広島の奇跡」と賞賛した。 【C:商業化】 “コスモスポーツ”は、その斬新なデザインとロータリーエンジンの魅力から熱狂的に 迎えられた。ロータリーエンジンの走りは、レシプロエンジンとはまさに異次元的な感覚 をもたらした。当時ほとんどのレシプロエンジン搭載の国産車は毎分 4,000 回転を超える 高速走行では騒音・振動がひどくなり、時速 100km を超すと会話すら困難となったが、ロ ータリーエンジンはレッドゾーンの毎分 7,000 回転まで静粛かつスムーズに吹けあがった。 ロータリーエンジンは、1968 年から始まった米国の排ガス規制も、1969 年に完成したサ ーマルリアクター(排気再燃焼器)でクリアし、1970 年から米国に輸出された。米国の四 大自動車専門誌の一つである『ロード・テスト』は、コスモスポーツを『歴史を作った車』 と賞賛し、RX2(カペラ)を 1972 年度の優秀輸入車に、RX3(サバンナワゴン)を 1973 年の最優秀輸入車賞に選定している。 何より世界を驚かせたのは、1970 年に成立した米国の排気ガス規制法「マスキー法」の 基準すらもロータリーエンジンはクリアしたことである。 66 【I:産業化】 1970 年には世界最大の自動車メーカーである GM 社、日本でも日産、スズキが NSU 社 と技術提携を結び、1971 年にはトヨタも加わった。各社でロータリーエンジンの研究が再 び盛んになり、レシプロエンジンの強力な対抗馬となる兆しが見えてきた。 しかしながら、1973 年のオイルショックで事態は一変する。ガソリンの市場価格は従来 の 2~3 倍に跳ね上がり、 それまであまり注目されなかった燃費が重視されるようになった。 1974 年 1 月に米国環境保護庁(EPA)が同年車種別燃費調査データを公表したが、マツダ の車は最下位だった。米国メディアは「マツダはガスガズラー(ガソリンをがぶ飲みする 車)である」と酷評するようになった。ロータリーエンジン車の売れ行きはがた落ちとな った。 その後山本健一らによる「フェニックス計画」で、ロータリーエンジンの燃費は 40%改 善され、フランスの「ル・マン 24 時間耐久レース」でもロータリーエンジン車の“マツダ 787B”が 1991 年に日本のメーカーとして初めて優勝するなど、ロータリーエンジンは進 化を続けたが、各社は追随せず産業化には至らなかった。1985 年までにロータリーエンジ ンの研究に従事していた各国のメーカーが開発した特許は、NSU 社 291 件、ダイムラー・ ベンツ 299 件、フォード 22 件、これに対し東洋工業の開発した特許は 1302 件にのぼる。 (ロータリーエンジンは、二輪車、航空機用エンジン等自動車以外でも用いられている。) ロータリーエンジンの場合 研究 ラ メ リ ー 、 ワ ッ ト 、 バ ン ケ ル ら の 研 究 開発 商業化 1959 NSUバンケル社 ロータリーエンジン発表 1961 松田社長 の決断 1965 試作車事前 テスト 1964 試作車 完成 1967 コスモスポーツ 販売開始 1970 ファミリアREクーペ 米国輸出開始 開発失敗 経営悪化 オイルショックの ため輸出中止 (1974) 1975 フェニックス計画 1978 サバンナRX-7発売 67 産業化 (7)Facebook Facebook は、ハーバード大学の学生だったマーク・ザッカーバーグが 2004 年 2 月 4 日 にサービスを開始したソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)である。当初は学生 のみに限定していたが、2006 年 9 月 26 日以降は一般にも開放された。日本語版は 2008 年 に公開されており、13 歳以上であれば無料で参加できる。実名登録制となっており、個人 情報の登録も必要となっている。Facebook はサービス開始とともに急速にユーザー数を増 やしており、2012 年 2 月現在、世界中に 8.5 億人のユーザーを持つ世界最大の SNS とな った。中国の人口が 13 億人、インドが 12 億人であることから、世界で人口が多い国は「中 国、インド、Facebook」であるとも言われる。 Facebook の特徴は、実名のプロフィール公開機能をもち、友人との交流機能、ツイッタ ーのようなリアルタイム掲示板機能、ゲーム等のアプリケーションを作動させる機能等を 兼ね備えていることである。2012 年 2 月から 50 億ドルの株式公開を準備中の Facebook は、現在ウェブで最も人気のある目的地であり、ウェブを支えるプラットフォームへと急 速に変わりつつある。 創業者のマーク・ザッカーバーグ 【R:研究】 Facebook はプログラミングであり、Facebook のための基礎研究は特に存在しない。 ソーシャル・ネットワークというコンセプトも新しいものではなく、Facebook の要素は 他のパイオニア達によって開発されたものである。1997 年には sixdegrees.com というニュ ーヨークで設立されたネットワーク・サービスは、実名をベースにした画期的なものだっ た。 【D:開発】 (コースマッチ) 2003 年 9 月、コンピューター科学専攻のハーバード大学 2 年生マーク・ザッカーバーグ は、 「コースマッチ」というインターネットソフトウェアを開発した。これは、ある講義を 誰が取っているか、ある学生はどの講義を取っているかを調べられるものだった。ユーザ ーがある講義をクリックすると受講者の一覧示され、逆に学生の名前をクリックすると受 68 講している講義の一覧が現れる。簡単なソフトだったが、ハーバードの学生達はすぐに何 百人もコースマッチを使い出した。人一倍プライドが高い彼らは、そのクラスを他の誰が 受講しているかに非常に強い関心があった。ザッカーバーグは彼らの求めていたサービス を提供したのである。 (フェイスマッシュ) 10 月、コースマッチの意外な成功に大胆さを増したザッカーバーグは、 「フェイスマッシ ュ」というサービスをリリースした。開発には 8 時間かかった。2 人の同性の人物を写真で 表示し、どちらがより「ホット」かを投票する仕組みである。フェイススマッシュで用い たハーバード大学の学生の顔写真は、大学の各寮が用意した公式の「フェイスブック(顔 写真入り寮生名簿) 」であり、学生がオリエンテーションに出席した時に撮影されたもので ある。 この写真の収集方法が違法なものであり、かつフェイススマッシュが性差別主義・人種 差別主義であるとの女性団体からの告発により、ザッカーバーグはその後大学の査問委員 会に呼び出され、倫理規定違反とコンピュータ・セキュリティの侵害、著作権の侵害等、 プライバシーの侵害等で告発され謹慎処分となった。 (Facebook の発案) ザッカーバーグがソーシャルサービスに興味を持ったのは、2003 年の夏休みだった。当 時、彼は高校の同級生 2 人とハーバード・ビジネス・スクールの寮で暮らしており、その 1 人であるダンジェロは、 「バディ・ズー」というサービスを立ち上げていた。 これは AIM(AOL インスタントメッセンジャー)の連絡先リストをネットにアップロードすることで、他の ユーザーと比較することができるものだった。これにより、誰と共通の友人がいるのかが 可視化できる。 一方、ハーバード大学は何ヶ月も前から全寮の「フェイスブック」を 1 カ所に集めてデ ジタル化して公開すると約束していたが、一向に実現しなかった。オンライン人名録を作 るのはそれほど難しくないが、法的なトラブルをおそれた大学側が躊躇していたと言われ ている。ザッカーバーグは、 「サイトのコンテンツを学生が自発的にアップロードする情報 に限ればトラブルはないはずだ」と考えた。 2004 年 1 月にザッカーバーグは「thefacebook.com」というドメインを取得し、2 月 4 日に借りていたサーバーで「thefacebook」のサービスを開始した。これは、コースマッチ とフェイスマッシュを混ぜ、それにザッカーバーグ自身が加入している「フレンドスター」 の要素を加えたものだった。フレンドスターでは、ユーザーは自分専用のプロフィールペ ージを持ち、趣味や好きな音楽など自分についてのあらゆる情報を書き込めた。これは主 にデートの相手を探すのに使われていたサービスだった。 【C:商業化】 thefacebook のサイトは爆発的にアクセスが増えた。サイトの公開から 4 日後には 650 人以上の学生が登録し、翌日にはさらに 300 人が登録した。1 週間後にはハーバード大の学 生の約半分が登録し、2 月末には 4 分の 3 が登録した。 69 当初は thefacebook のサービスはハーバード大の学生に限られていたが、サイトの公開後 2 週間で、他の大学からいつ自分たちの大学でも使えるかの問い合わせが届き始めた。2 月 25 日はコロンビア大、26 日にはスタンフォード大、29 日にはイェール大と次々とユーザ ーは拡大していった。3 月の中旬にはユーザーは 2 万人を突破し、3 月末には 3 万人を超え た。ハーバード大学というアカデミズムの最高峰で生まれたことも、thefacebook の魅力を 高めていた。 途中アイディアを盗用したとの訴訟問題、2004 年秋のサーバーパンクの危機等を乗り越 え、thefacebook は 2005 年に Facebook に社名を変更し、その後も順調に成長を続け現在 はインターネットの巨人 Google を凌駕する勢いとなっている。その波及効果もすさまじく、 チュニジアやエジプトの体制崩壊は“ジャスミン革命” “Facebook 革命”言われ、Facebook ユーザーがデモを呼びかけたことから発生した。Facebook は世界展開しており【I:産業化】 段階に達しているが、LinkedIn(2003 年サービス開始)の 1.5 億人のユーザー数を大きく 引き離しており、世界市場においてはほぼ「独占状態」に近いといえる。 Facebook の場合 研究 開発 商業化 Sixdegrees.com 先行する 各種SNSサービス 産業化 ※2000年に廃止 フレンドスター MySpace 2004 theFacebook サービス開始 2003 ザッカーバー グの発案 不人気・ 訴訟敗訴 資金ショート 等 ・フェイスマッシュ問題で ハーバード大を追放 ・ハーバード大自身が 「Facebook」を開始 70 波及効果は非常に大きいが ほぼ独占状態 第 4 章 RDCI モデルの考察 (1)イニシエーターの重要性 これまでの事例で見たように、イノベーションの原動力は人であり、開発を自ら開始す る、あるいは開発開始を部下に指示する人間が必要である。開発開始(R-)を指揮する人 間を、ここでは「イニシエーター」という。 新幹線では十河信二が、セブンイレブンでは鈴木敏文が、宅急便では小倉昌男が、カッ プヌードルでは安藤百福が、YS-11 では通産省の赤澤璋一が、ロータリーエンジンでは松田 恒次が、Facebook ではマーク・ザッカーバーグがイニシエーターであり、デジタルカメラ ではカシオの末高弘之が、青色発光ダイオードでは日亜化学工業の中村修二が、それぞれ イニシエーターである。 イノベーションは「革新的な価値創造」であるため、プロジェクトを開始する行為は合 理的ではない。市場は不透明であり、資金の投資回収の見込みも立ちにくい。リスクは高 く、失敗すればサラリーマン人生の破滅を招きかねない。企業のトップでさえ、社内から、 メインバンクから、あるいは国会議員やマスコミ等から反対され、計画が頓挫する危険は 十分ある。 では、何がイニシエーターを動かすのだろうか。佐分利(2009)は、以下の動学モデル を用いて起業家行動を説明している。 図 4-1 創業モデル 外的資源の入手可能性(Resources Accessibility) 経 済 ・ 社 会 環 境 ① ビジネス チャンス の発見 (PO) ② 創業能力 の確信 (PC) 成功事例 創業活動(TEA) ③ 創業の コスト評価 (OCA) 起業 準備 起業 存続 ④失敗の恐怖の克服 失敗の恐怖 (FF) 起業への期待値(Entrepreneurship Expectancy) ここで、 RE = RN + RO(PO, PC, OCA, FF, RA, EE) RE:対象者のうち創業活動をしている人の割合(創業活動率) 71 RN:必要に迫られ創業活動を行う人の割合 RO:ビジネス・チャンスを捉えて創業活動を行う人の割合 PO:対象者のうちビジネス・チャンスがあると考える人の割合(+) PC:対象者のうち自分に創業能力があると考える人の割合(+) OCA:創業が得になると判断する人の割合(+) FF:失敗による恐怖を乗り越える人の割合(+) RA:創業に必要となる外部資源の入手が可能であると考える人の割合(+) EE:起業に関心や期待を持つ人の割合(+) ※RA と EE は PO、PC、OCA、FF へ影響し RE に影響 すなわち、創業する人とは、解雇や倒産等により必要に迫られて創業する(RN:Rate of Necessity Startups)か、ビジネス・チャンスを捉えて自発的に創業する(RO :Rate of Opportunity Startups)であり、RO は自分にビジネス・チャンスがあり(PO:Perceived Opportunity) 、かつ、自分に創業能力がある(PC:Perceived Capability)と考えた人が、 今の仕事を続けるよりも創業した方が得になると判断し(OCA:Opportunity Cost Analysis) 、失敗による恐怖を乗り越え(FF:Fear of Failure)、創業するというモデルで ある。その際、創業に必要な資源が豊富であれば(RA:Resource Accessibility)RO は高 まり、人々が起業に関心や期待をもっている(EE:Entrepreneurship Expectancy)と RO は高まるといえる。 このモデルをイニシエーターに当てはめると、新幹線=高速鉄道建設の使命感、セブン イレブン=独立して背水の陣、ヤマト運輸、日清食品、東洋工業=会社の危機、YS-11=国 産航空機復活の使命感、などは RN=必要に迫られてプロジェクトを開始するケースであり、 Facebook は RO である。 (ザッカーバーグは学生でリスクは低く、初期投資もドメイン名 取得時の 15 ドルとサーバーを借り上げた月額 85 ドルだけであった。) すなわち、イニシエーターを生むためには、RO を高めるべく、ビジネス・チャンスを人々 に十分伝え、プロジェクト開始の能力を高める教育をし、OCA で開始を選択するよう十分 な成功報酬を与え、倒産すると一家が路頭に迷うなどの失敗時の過度なリスクを減らし(あ るいは正社員の保護を弱め) 、資源調達を容易にし、世間のイノベーションへの期待・イニ シエーターへの尊敬を高める必要がある。また、RN を高めるような使命感の付与(被災地 の復興など)も有効である。 (2)クラスター RDCI モデルでは、産業クラスターやテクノリージョン(ハイテクベンチャー企業の集積) はどのように捉えられるのであろうか? 産業クラスターやテクノリージョンの存在は、イノベーションの成功確率を高める。例 えば、近接した企業群の支援は、内製化した技術陣と同様、開発成功確率を高める。カッ プラーメン開発のカギを握ったエビ「プーバラン」の情報、ロータリーエンジンのシール 材の開発など、開発に必要な貴重な情報が、外部との連携で得られる可能性があるためで る。また、ベンチャーキャピタルやコンサルタント等の支援により、上記 RA が上がり D+ が高まるとともに、開発途中の資金難や商業化資金等を得られやすくなることから D+、C-、 72 C+も高まる。NTBFs(New Technology Based Firms:技術開発型ベンチャー)も、クラ スターの支援があることで成功確率が高まり、その成功が新たな NTBF を生むなどの正の フィードバックも期待できる。 図 4-2 NTBFs クラスターのイメージ ①’ 大学から新たな spin-out が発生 ① 大学(苗床)からの spin-out の発生 NTBFsクラスター クラスターの成長 NTBF NTBF NTBF NTBF NTBF 《苗床》 大学 資金 コンサル タント 経営者 研究者 ③ 経営資源の流入等により 新たな発明やマッチングが発生 学生 ② 初期のNTBFsの成功により 様々な経営資源が流入、教員等 のベンチャーへの関心も上昇 (3)普及と標準化 ロジャーズ(1983)によれば、製品は普及率 16%を超えると一気に普及が加速するため、 いかに普及率 16%を超えるまで市場に浸透するかが産業化の成功への大きなカギとなる。 図 4-3 製品の普及過程 73 図 4-4 主要耐久消費財の世帯普及率の推移 図 4-5 パソコン世帯普及率の推移 16%を超えると 普及が加速 74 インスタントラーメンは、その製法特許を知的財産として保護しなかったため他社の参 入を招き、急激に市場は拡大したが需要の頭打ちに伴い価格競争が発生し倒産する会社も 現れた。一方で、ロータリーエンジンのように特許で製造技術を保護すると他社が参入し にくくなり、ロータリーエンジンそのものの進化が遅れ、普及も進まない(I+ が低下)。 標準化は、業界の普及への努力を統合する仕組みである(I+ が上昇)。しかしながら、 その形成には業界内の勢力関係、国際標準化機関への働きかけの力などが関係してくるた め、注意が必要である。家庭用 VTR の標準化競争では、性能が良いとされたベータマック スに VHS が勝利しており、パソコンの OS でも性能が良いとされている Mac OS より Windows の普及率が高い。 日本はこれまで国内のイノベーションの成果を海外に普及する際に、国際標準化の戦い で敗れてきた(原田, 2008) 。国際標準を得られないと、WTO ルールにより他国の政府調達 に参入できないことから、国際標準の確保は世界市場での普及の大きなカベとなっていた が、東京電力チームらによる 1,100kv の高電圧送変電(UHV)技術が中国の国家送電公司 との連携により国際標準の獲得に成功するなど、日本企業の取組にも変化の兆しが見え始 めている。 なお、標準がとれないと勝てないとは限らない。日本政府が進める地上波デジタル放送 の標準は、現在米国方式、欧州方式、日本方式の 3 種が世界で使われているが、米国も欧 州も日本製のテレビは販売されている。方式の違いが競争力につながるのは、放送機材・ 通信機材であってテレビ(受信機)ではないからである(受信機は各方式に対応したチッ プを装着すれば足りる-あるいは世界のどの地域の方式にも対応できるソフトを組み込め ば足りる) 。競争力の決め手となる標準化をどう押さえるかが重要となる。 75 図 4-6 世界各国の地上デジタルテレビ放送の規格と導入動向 (5)波及効果 イノベーションで重要なのは、RDCI の成功による革新的価値創造であるが、その波及効 果にも留意する必要がある。例えば、車が売れるということは、車を売る販売店(直接効 果)だけでなく、車を作ったメーカー、メーカーに部品を納入する下請企業など上流企業 の売上増をもたらす(一次効果) 。また、これら企業の関係者は売上増加により所得が増加 し、その消費によって GDP を増加させる(二次効果)。さらに、車の提供する価値により 産業の生産性が高まれば(自転車で配達していたのが車に代わるなど)、これも経済的には プラスとなる(二次効果) 。 76 図 4-7 経済波及効果 【一次効果】 【二次効果】 【直接効果】 ⑤消費の 増加 ④所得の 増加 ①自動車 1台 生産性の 向上 ③ ②を作るた めの投入など ②自動車 部品など コンビニ ATM で銀行振込が済ませられれば銀行の支店を探さなくても済むし、宅急便サ ービスがあれば、北海道の漁師は新鮮なカニを東京に直接販売することができる。イノベ ーションによる新たなサービスの提供は、生産性を向上させたり別の新たなサービスを創 造したりするし、イノベーションによる新たな技術の開発は、別の技術の開発を助けたり する。イノベーションの効用は、その商品やサービスの価値以上のものである。例えば、 航空機産業の技術波及による生産誘発効果は売上高の 10 倍近くになるとの試算もある。 図 4-8 技術波及効果 技術波及効果 研究 プロジェクト 成果技術 技術A 製品A 技術B 製品B 関連技術 研究開発力 の向上 国民生活 の向上 製品 ・省エネ ・需要創出 等 関連製品 技術C 製品C 技術D 製品D ・国際競争力強化 ・情報交流の場の設立 ・研究開発者の増加 ・研究開発予算の増加 等 経済効果 ・価格・コストの低下 ・市場創出 ・雇用創出 等 16 77 図 4-8 航空機産業の技術波及効果 航空機産業の技術波及効果 技術波及効果 産業波及効果 (技術波及によ (産業波及によ る生産誘発額) る生産誘発額) 生産額 波及効果合計 航空機産業(A) 11兆円 103兆円 12兆円 115兆円 自動車産業(B) 320兆円 34兆円 872兆円 906兆円 3.4% 3倍 1.4% 12.7% 自動車産業 との比較 (A/B) 出典:三菱総合研究所推計 (平成12年3月 日本航空宇宙工業会委託調査) 78 第 5 章 RDCI モデルの示唆 (1)オールグリーン問題とイニシエーターの重要性 RDCI モデルの最初の重要な示唆は、「一カ所でも連鎖が切れるとイノベーション全体が 死ぬ」ことである。この問題には、日本の経済社会構造が大きく関わってくる。 例えば、大企業の稟議制では、一人の反対者によってイノベーションが葬り去られてし まう。仮に画期的なアイディアを社員が思いついたとしても、その実現には資金が必要で あり、課長から部長へ、常務会へと上がっていく決済の過程で反対者が一人でもいるとそ のアイディアはそこで死んでしまう。この現象は、すべての信号が青でないと通れない= オールグリーンと呼ばれている。一方、シリコンバレーのようなテクノリージョンであれ ば、会社が葬ったアイディアが本当にすばらしいなら技術者は spin-off して会社を創業すれ ばよいし、ベンチャー企業の突飛なアイディアも数多い投資家の一人が賛成すればそのア イディアは生きる。 大企業は「直列型」で、一人でも No といえばアイディアが死んでしまい(オールグリー ン=すべての信号が青でないと通れない)、一方テクノリージョンは「並列型」で、一人で も Yes といえばアイディアが生きる。かくてイノベーションの成功確率はテクノリージョ ンの方が高くなる。なお、日本の大企業であっても、オーナー企業でオーナーの発案した プロジェクト(日清食品のカップヌードルやホンダの CVCC エンジンなど)や大企業トッ プの号令によるプロジェクト(トヨタのプリウスなど)は、D- → D+ → C- の阻害要因 が少なくイノベーションの成功確率が上がる。シャープの液晶電卓も、社内の理解者であ る佐々木正産業機器事業部長がいなければ和田富雄氏のチームは道半ばにして(D- →D+ の途中で)解散されていただろうし、青色発光ダイオードの中村修二氏の研究(R- →R+) も日亜化学の創業者である小川信雄会長が 3 億円の研究予算と米国留学を認めなければ社 内の反対で研究はつぶされていた。 いかに多様なルートの成長過程を確保するか(並列化) 、いかにプロジェクトのリスクを 減らし途中のレッドライトを阻止するか(新幹線プロジェクトにおける世界銀行のような 外部スポンサーの活用)がイノベーションの成立には重要となる。また、周囲の反対(レ ッドライト)にも動じずプロジェクトを開始・推進できるイニシエーター(エンジン)が 必要であり、 「周囲の空気を読まず」自らの信念を貫くイニシエーターをいかに育成できる かが重要になる。 (2)イノベーション・マネジメント RDCI モデルによれば、R も D も C も I も、外部調達と内部調達は無差別であり、自前 で技術調達をした場合と外部から技術調達をした場合では、確率が高い方が望ましいとい うことになる。すなわち、R(研究)を自前で行わなくても、海外から調達すれば D の開 始は可能であり、D(開発)を自前で行わなくても海外製品を導入すれば C(商業化)は可 能である。海外の I(産業化したイノベーション)に日本市場を開放すれば、自前で RDCI の過程を経ることなくイノベーションの経済社会効果を享受することができる。 例えば、IT の普及は生産性の向上に大きな効果があるが、これを OS(オペレーティング システム)からネットワーク技術まですべて国産で対応することは非効率であり、Windows や Cisco 社の技術を導入した方が(国内産業育成にはならないが)社会における価値創造は 79 大きいだろう。難病治療に有効な画期的な新薬があり、海外で C- →C+ まで進んでいるの であるなら、日本にいち早く導入することが国内の R→D→C を待つよりも患者のメリット は大きくなる。産業化ステージにいち早く移行するによる社会への価値創造を重視するな ら、R から I まで国内調達にこだわることなく、海外から最適調達をすることが社会的厚生 の観点からは望ましいといえる。 このため、国家としてのイノベーション・マネジメントが重要になる。国内の RDC 各段 階における要素の発展段階と国際競争力を評価し、何を海外から積極的に導入し、何を知 的財産として保護すべきかを判断する必要がある。さもないと、海外の進んだサービスを 国内で享受できないことで関連産業の国際競争力が低下してしまう(医療、農業などの規 制産業) 。逆に、どれだけ科学技術振興費を増額し基礎研究の成果を出しても、あるいは新 商品を開発して特許を取っても、それらの要素を適切に管理しないと、国内のイノベーシ ョンに用いられず海外企業に先に用いられてしまい、逆に日本企業の首を絞めることにな りかねない。太陽電池や液晶パネルのように、日本で開発された技術が海外企業に流出し、 日本企業の国際シェアを年々落とすことのないよう、当初から産業化以降も視野に入れつ つイノベーションを適切に管理する必要がある。 なお、RDCI モデルでは、イノベーションの成立までを扱っているが、産業政策的には日 本企業の国内・世界市場シェアが重要であり、産業化した後の国内・世界市場シェア(s) を加えた RDCIs の最大化を図る必要がある。小川(2009)の指摘にあるように、液晶パネ ルも、DVD プレーヤーも、カーナビも、日本が開発し、商業化し、産業化したにもかかわ らず、国際市場での日本企業のシェアは低落を続けている。これは、R, D, C, I の海外への 流出の事例である。 (日本で RDCI まで進んだイノベーションが、海外に流出して DC を模 倣され世界市場を奪われた。 ) 80 図 5-1 エレクトロニクス製品における日本企業の世界市場シェアの推移 基礎研究については、1980 年代に「日本ただ乗り論」が叫ばれたが、日本が基礎研究を 充実させてきた結果、iPS 細胞などの画期的な発明も知財保護が十分でなければまさに海外 企業に「ただ乗り」されてしまう可能性もある。科学技術振興費を増額しても、それが国 内のイノベーションに用いられないと、海外に用いられて逆に日本企業の首を絞めること になりかねない。 例えば、日本で発明されたバラの画期的な栽培技術「アーチング」は、知財保護が十分 なされなかったためオランダ企業に模倣され、世界のバラの生産性を高めたため、輸入バ ラと競合する日本のバラ生産者を苦しめている。また、次世代 DVD 技術の Blu-ray は日本 で開発され普及しているが、Blu-ray と規格争いをしていた東芝の HDDVD 技術は中国に 流出し、CBHD として普及している。イノベーションの各要素をいかに海外流出から保護 し、逆輸入されないようにするかが課題だといえよう。 (3)構造問題 RDCI の確率が上がらないのは、日本人の気質の問題ではなく構造の問題である。例えば、 会社が四半期毎の決算を重視し短期的な目標を追うようになると、社員は無難な目標を設 定するようになるためブレイクスルーは減ってしまう。就職氷河期になると、若者は苦労 して得た職にしがみつくため、リスク回避をしがちになる。大企業に入ると生涯賃金は年 金を含め 4 億円だが、大企業を辞めてベンチャーを始めることはこうした期待収益を失う ものであり経済合理的でない。 81 イノベーションを起こすためのプロジェクトの開始は(R-、D-、C-)は、その中身が革 新的であるほど周囲からは「経済合理的でない行為」と映るなるため支持を得られない。 毎年ニューモデルを出すことが既定化されている自動車業界やお菓子業界、新しい作品を 出し続けることが必要な映画業界など、業界全体が競争的(competitive) ・動的(dynamic) である場合は新たなプロジェクトの開始は支持されやすくなることから、イノベーション を進めるためには、掟破りの挑戦を支持するなど、いかに業界内の競争環境を高めるか、 活性化するかが重要である(ハリウッドも近年はマーケティングを重視しているが、マー ケティングを重視すると無難な内容に流れやすくなり結果としてブレイクスルーが出にく くなることに留意が必要である) 。 図 5-2 企業規模別生涯賃金 82 第6章 イノベーション政策への応用 これらの考察を踏まえると、イノベーション政策には以下が必要である。 (1)政府のイノベーション・マネジメント 科学は観察から始まる。イノベーションを政府が科学的に推進するのであれば、毎年政 府が「イノベーション白書」を作成し、毎年の成果と隘路を調査して発表することが必要 である。内閣府のイノベーション室(現在は官房審議官が室長を兼任)において、各年度 のイノベーションの成功事例・失敗事例を外部委員会とともに評価し、奨励すべき模範事 例の選出と RDCI の隘路のモニタリング、その対策及び進捗状況を毎年公表すべきである。 また、DVD や液晶パネルの失敗に鑑み、iPS 細胞など我が国発の重要な革新的技術につ いては、その後どのような産業でその成果を活かすのか、外国企業への知財流出をどのよ うに抑え、外国企業とどのようにコラボレーションするのかをマネジメントする必要があ る。ただし、 「イノベーションのマネジメント」は形容矛盾と言われるほど困難であること から、政府自らがイノベーションをマネジメントしようと干渉して、逆にイノベーション を封殺することのないよう、今後イノベーションのマネジメントに関する更なる研究が必 要である。 (2)イノベーションの奨励 イノベーションの推進には、国家としてのイノベーションの奨励が必要である。イノベ ーションの重要性を国のトップが宣言し、奨励する必要がある。 具体的には、新産業を創出したイノベーター、特に新商品や新サービスの開発開始・販 売開始をリードしたイニシエーターへの天皇杯の授与が望ましい。天皇杯は農業分野には 毎年7人に与えられているが、産業分野は「ものづくり大賞」の総理大臣表彰が最高位で ある。農業が国の基幹産業であることは論を待たないが、イノベーションも国富を増し、 人々の生活を豊かにする重要な価値創造である。イノベーションの重要性を社会全体で再 認識し、イノベーションへの新たな挑戦を鼓舞するためにも、イノベーションの功労者へ の天皇賞授与が期待される。 イノベーションを促すために有効な手段として、NHK の「ロボット・コンテスト(ロボ コン) 」と同様のビジネス・アイディア・コンテストの開催も挙げられる。1988 年に高等専 門学校を対象に始まった「高専ロボコン」は、日本に一大ブームを巻き起こし、高等専門 学校生の科学教育に大きな影響を与えた。1991 年には「大学ロボコン」が始まり、2002 年にはアジアの国々が参加する「ABU ロボコン」に発展するなど、アジアの国々の大学教 育・国民教育の成功事例となっている。若者にアイディアを競わせ、それを発表させる場 を設けることにより、若者と社会全体のイノベーションへの注意と関心を高めることがで きる。NHK やテレビ局にこうした企画を依頼するべきである。なお、優勝者にはベンチャ ーキャピタルからの出資や、米国でのベンチャー教育機会の提供などのステップが準備さ れることが望ましい。 イノベーションリテラシーの向上と人材育成への取組も不可欠である。IT リテラシーの 低い地方では IT 産業が育たないように、イノベーションリテラシーの低い国はイノベーシ 83 ョンが起こりにくい。新幹線が日本をつなぎ、コンビニエンスストアが暮らしを便利にし、 宅配便が地域産品の全国への販売手段を提供して地域を活性化し、楽天が中小企業のチャ ンスを広げ意欲ある企業を元気にしたように、政府に頼らなくてもイノベーションが社会 の問題を解決できること、そして学生や主婦も社会のニーズや課題を発見することでイノ ベーションの重要な一翼を担うことが可能であることを、全国民が知る必要がある。また、 こうしたイノベーション教育を効果的に行うため、世界各国のイノベーション教育の実態 (大学カリキュラムや社会全体の仕組み)を研究し、世界最高のイノベーション教育を我 が国において実現する必要がある。 イノベーションは、RDCI 各段階で誰かが一歩を踏み出さなければ始まらない。子どもが エジソンの伝記に興味を持つように、義務教育段階から、高等教育で、社会人に、テレビ 等で各家庭に、イノベーションの全体増と RDCI 各段階を開始するイニシエーターの重要 性を伝えることにより、未来のイノベーションの担い手を育てるべきである。具体的なロ ールモデル(渋沢栄一や本田宗一郎など)が広く国民に共有されれば人々はビジネスチャ ンスに鋭敏になり(Perceived Opportunity の上昇) 、起業家教育を受ければ起業の自信も 生まれ(Perceived Capability の上昇) 、失敗の恐怖も減る(Fear of Failure の低下) 。発 明家としてのエジソンではなく、事業家としてのエジソンに光をあてたテレビドラマを作 成するなど、イノベーションリテラシーの向上に社会全体で取り組む必要がある。 (3)成功事例の創出と構造問題への取組 いくら政府がイノベーションを奨励しても、失敗事例が増えるだけではイノベーション への期待は持続しない。 「なでしこジャパン」ではないが、一つの成功事例は人々の「やっ てもムダ」という思考停止を打破する力がある。まずは(1)にあるように過去の成功事 例の抽出と適正な評価を与えること、そうした事例を国民に広く普及することで、新たな 挑戦のきっかけを与えることが重要である。 同時に、構造問題への取組が必要となる。新しい技術を「実績がない」「知名度がない」 として忌避したり(C+への移行が困難)、退職金が勤続年数で決まるため大企業を辞めてベ ンチャーを始めると不利になったり(D-が上がらない) 、開発が成功に近づくと幾何級数的 に必要資金が増えるため資金繰りに行き詰まり、借入金に個人保証を求められ、事業に失 敗すると破産してやり直すこともできないなど(D+が上がらない、失敗事例が流布すると D-も上がらない) 、 「イノベーションへの取組が経済合理的でない」社会システムを「経済 合理的である」社会システムにする必要がある。(1)のモニタリング結果を踏まえつつ、 イノベーションを阻害する構造的な問題に政府として取り組み、毎年改善を続けなければ ならない。 84 結語 今後の研究の方向性について これまでの研究では、モデルの提示と事例分析、政策的示唆は提示できたが、現在の日 本社会における RDCI の確率を上げるための具体的なボトルネックを示す十分なデータが 得られていない。このため、RDCI の各主体へのインタビューや文献調査を深めることによ り、具体的なボトルネックを明らかにしていく必要がある。 RDCI 確率モデルは、イノベーションの全体像を理解するための便宜的なフレームワーク であり、イノベーションの全てを説明するものではない。科学技術イノベーションでない Facebook の事例にあるように、イノベーションは連続しており、それぞれの事例の成果が 次なるイノベーションを生むためである。技術も需要も相互に影響しあい変動している。 システム的、動学的な視点が求められる。 各事例へのモデルの当てはめは仮説演繹法であり、モデルの蓋然性を高めるが非演繹的 推論であるため仮説が 100%正しくなるわけではない。今後さらに事例を増やし、モデルの 精緻化を図っていきたい。 85 (参考文献) Abernathy, W. J. (1978) The Productivity Dilemma: Roadblock to Innovation in the Automobile Industry Chesbrough, H.W. (2003) Open Innovation: The new imperative for creating and profiting from technology Council on Competitiveness (2004) Innovate America Drucker, P. F.(1954)The Practice of Management Foster, R. N.(1986)Innovation: The Attacker’s Advantage Jordan, G.B.(2005)What matters to R&D workers Kline, S. (1990) Innovation Systems in Japan and the United States: Cultural Bases Moore, G.A. (1991) Crossing the Chasm Myers, S. and D. G. Marquis (1969) Successful industrial innovations: Washington, D. C. NIST (1993) Between Invention and Innovation: An Analysis of Funding for Early-Stage Technology Development OECD(2005)Oslo Manual : Guidelines for Collecting and Interpreting Innovation Data, 3rd Edition Rogers,E.(1983)The Diffusion of Innovation Rosenberg, N. (1976)Perspectives on Technology Schumpeter, J.A.(1926)THEORIE DER WIRTSCHAFTLICHEN ENTWICKLUNG, 2. Aufl., (邦訳:塩野谷祐一、中山伊知郎、東畑精一訳『経済発展の理論』, 岩波書店, 1977) 内閣府(2007)『イノベーション 25』 妹尾堅一郎(2009)『技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか』 小川紘一(2009) 『国際標準化と事業戦略―日本型イノベーションとしての標準化ビジネスモデ ル』 科学技術政策研究所、一橋大学イノベーション研究センター(2010) 『日本の研究者を対象とし た科学における知識生産プロセスについての大規模アンケート調査』 出川通(2005)『図解入門ビジネス 最新 MOT(技術経営)がよーくわかる本』 高橋団吉(2000)『新幹線をつくった男』 NHK プロジェクト X 制作班(2003)『プロジェクト X ② 復活への舞台裏』 梅原淳(2010)『新幹線の科学』 近藤正高(2010)『新幹線と日本の半世紀』 武石彰、青島矢一、マイケル・A・クスマノ(2010)『メイド・イン・ジャパンは終わるのか』 近能善範、高井文子(2010)『コア・テキスト 板崎英士(1999)『革新 トヨタ自動車 イノベーション・マネジメント』 世界を震撼させたプリウスの衝撃』 御堀直嗣(2003)『未来カー・新型プリウス エンジニアたちの挑戦』 山根一眞(2003)『メタルカラーの時代 6』 山口敦雄(2004)『楽天の研究 なぜ彼らは勝ち続けるのか』 NHK プロジェクト X 制作班(2003)『プロジェクト X ② 復活の舞台裏』 86 NHK プロジェクト X 制作班(2003)『プロジェクト X ③ 翼よ、よみがえれ』 NHK プロジェクト X 制作班(2003)『プロジェクト X ⑤ そして、風が吹いた』 科学技術政策研究所、一橋大学イノベーション研究センター(2010) 『日本の研究者を対象とし た科学における知識生産プロセスについての大規模アンケート調査』 原田節雄(2008)『世界市場を制覇する国際標準化戦略-二十一世紀のビジネススタンダード』 GP 企画センター(2003)『マツダ・ロータリーエンジンの歴史』 中村修二(2001)『怒りのブレイクスルー』 志村幸雄(2011)『世界に勝てる! 日本発の科学技術』 デビット・カークパトリック(2011)『フェイスブック 若き天才の野望』 3M 社ホームページ「 〈ポスト・イット〉ノート開発物語」 中村浩美(2006)『YS-11 世界を翔けた日本の翼』 前田孝則(2008)『なぜ、日本は 50 年間も旅客機をつくれなかったのか』 前田孝則(2006)『名機 YS-11-零戦から生まれた国産旅客機』 小倉昌男(1999)『経営学』 小倉昌男(2003)『経営はロマンだ! 私の履歴書』 http://www.mmm.co.jp/develop/story2-1.html ほか 87 88 第二部 CAPS 公開シンポジウム 「被災地復興のためのビジネスイノベーション」 89 90 第1章の RDCI イノベーションモデルの有効性を検証すべく、平成 24 年 3 月 8 日に、京 都大学において、京都大学経済研究所先端政策分析研究センター(CAPS)主催による「被 災地復興のためのビジネスイノベーション」シンポジウムを開催した。 以下にシンポジウムの概要及びシンポジウムの開催を通じて得られたイノベーション政 策への示唆を記述する。 91 1. シンポジウムの概要 シンポジウムの概要は以下のとおり。 (1) 目的 被災地の復興は、我が国の最優先課題の一つである。被災地の復興を、いかに迅速に、 かつ効果的に行うかは、我が国の財政のみならず経済成長・国内産業空洞化問題等とも密 接に絡んでいる。 本シンポジウムは、京都大学、京都府、京都市及び関西経済界のこれまでの被災地復興 への取組を広く紹介するとともに、先進的な復興支援のビジネスモデル(ベスト・プラク ティス)や新たなビジネスイノベーションについて議論することにより、関西の産官学の 力を被災地の効果的な復興に寄与させることを目的とする。 (2) 日時 平成 24 年 3 月 8 日(木)13:00 ~ 17:00 (3) 場所 京都大学百周年時計台記念館 百周年記念ホール (4) 主催等 主催:京都大学経済研究所先端政策分析研究センター(CAPS) 後援:復興庁、近畿経済産業局、京都府、京都市 独立行政法人中小企業基盤整備機構 独立行政法人経済産業研究所 関西経済連合会、大阪商工会議所、京都商工会議所 京都府中小企業団体中央会、京都工業会、京都経済同友会 京都経営者協会、日本ベンチャー学会 協賛:特定非営利活動法人 TiE Tokyo グローバルアントレプレナークラブ (5) 集客規模・対象 約 200 名 (関西・東北の経済関係者、公共団体職員、教職員・学生、報道関係者等) 92 (6) プログラム 13:00 開会挨拶 松本紘 京都大学総長 13:05 来賓挨拶 山田啓二 京都府知事 長尾正彦 近畿経済産業局長 13:20 問題提起 佐分利応貴 京都大学経済研究所准教授 「被災地復興のためのビジネスイノベーション ~ AINAS(愛為す)の法則」 13:45 復興支援ビジネス事例報告 池田泉州銀行 服部盛隆 取締役頭取兼 CEO 「被災地金融機関と協力したビジネスフェアの開催」 ヤフー株式会社 髙田正行 震災タスクフォース プロジェクトリーダー 「Yahoo! JAPAN の東日本大震災への取り組み」 深中メッキ工業株式会社 深田稔 代表取締役 「震災とものづくり中小企業ネットワーク」 カンサイ建装工業株式会社 草刈健太郎 代表取締役 「 『OMOIYARI』プロジェクト(映像紹介) 」 復興支援ポータルサイト紹介 松田一敬 合同会社 SARR 代表執行社員 14:50 休憩 15:00 パネルディスカッション:「未来への挑戦」 モデレーター:鈴木将覚 京都大学経済研究所准教授 パネラー: 寺島英弥 河北新報社編集委員『被災地におけるマスメディアの役割』 竹井智宏 一般社団法人 MAKOTO 代表理事 『被災地復興のためのビジネスマッチング』 奥村正明 株式会社ライフネス専務取締役 『テレワークを活用した被災地就業支援 (テレワーク 1000 プロジェクト) 』 半谷栄寿 福島復興ソーラー株式会社 社長 『太陽光発電の仕事体験を通した南相馬と全国の交流』 古谷知之 慶応大学総合政策学部准教授 『被災地復興における大学の役割』 田中秀一郎 大和証券投資信託委託株式会社商品企画部副部長 『被災地復興ファンドの提案』 草刈健太郎 カンサイ建装工業株式会社代表取締役 16:50 閉会挨拶 矢野誠 京都大学経済研究所長 93 2. シンポジウム開催から得られたイノベーション政策への示唆 (1) シンポジウム開催に際しての仮説 イノベーションにおいて重要なのは、R(研究)D(開発)C(商業化)I(産業化)の各 段階で、たとえ困難があってもプロジェクトの開始を決断し実行する「イニシエーター」 (先 導者)である。 このため、被災地復興のイノベーションにおいても、 ① 被災地復興ビジネスに取り組むイニシエーターを発見し、 ② その活動を外部者として「先進事例」として権威付けるとともに支援し、 (イニシエーターへの抵抗を減らし外部者の支援を増す効果あり) ③ 「先進事例」を広く共有・普及することで、これらの事例に刺激を受けた新たな イニシエーターを生むとともに、「できるわけがない」という組織内での反対勢力 (レッドライト)を封じ込める ことが重要であると考えた。そこで、 ① 新たなイニシエーターを造成するモデルを「AINAS(愛為す)の法則」として提 示することでイノベーションの運動論をイメージしやすくし、 ② 被災地復興支援のビジネスモデルの先進事例とイニシエーターを各方面への取材 から発掘してシンポジウムへの参加を呼びかけ、 ③ 今回のシンポジウムが単なる勉強会に終わることのないよう、企画協力会社 (SARR 社)をシンポジウムの準備段階から関与させ、シンポジウム終了後も被災 地復興の情報交換を継続的に行うためにポータルサイトの立ち上げと1年間の運 営を委託する こととした。また、シンポジウムの開催に際しては、以下に留意した。 ・産官学の幅広い関係者に声をかけ「AINAS の法則」(新たなビジネスやイノベーション は問題への Attention(気づき) 、 Interest (関心)がインセンティブとなり、 具体的な Network (ネットワーク)を通じて Action(行動)が生まれ、その成果が Share(共有)されるこ とでまた新たな Attention を生むというモデル)の N=ネットワーク形成の基盤とした。具 体的には、後援名義を、行政(復興庁や近畿経済産業局、京都府・京都市、中小企業基盤 整備機構や経済産業研究所)だけでなく、経済団体(関西経済連合会、大阪商工会議所、 京都商工会議所、京都商工会議所、京都府中小企業団体中央会、京都工業会、京都経済同 友会、京都経営者協会) 、学会(日本ベンチャー学会)から得るとともに、東北大学、東北 工業大学、慶應大学等の協力を得た。また、大阪ボランティア協会や京都ボランティア○ ○を通じたボランティアや避難者への告知、 フェアトレード東北(石巻市の被災者支援 NPO) の参加、Hamanasu(南三陸町被災者支援 NPO)からの写真提供など、NPO 団体との連 携も行った。 94 ・シンポジウムでの報告や議論等を知的財産として残すため、Ustream や twitter を通じ た記録と発信を行うとともに、ホームページから内容をいつでも見られるように動画をア ップした。また、AINAS における参加者の Attention(注意)と Interest(関心)を高め るため、被災地の映像クリップを関係者の了解を得て紹介した。 ・福島県郡山市で同日開催されていた中小企業家同友会全国協議会の年次総会「震災1年、 強い絆のもとわれら断じて滅びず」から岩手県陸前高田市で被災した八木澤商店河野社長 に web 中継でメッセージをいただくとともに、石巻市で『OMOIYARI』プロジェクトを実 施し現地の食品加工業者を支援しているカンサイ建装工業の草刈社長に登場いただく、シ ンポジウム終了後懇親会の時間を設けるなど、具体的な支援者・支援先の「顔」を見せる ことに注力した。 (2) 結果の考察 500 人収容の会場に 200 人強の入場者では集客が不十分であったものの、来場者の声で は大いに満足、ある程度満足が4分の3を超えるなど、高い評価を得られた。アンケート では、 「被災地の厳しい状況とそこからの復興に向けてのあつい思いで活動されている方々 の現状をしることができた」 「東北の状況が聞けてよかった。支援のファンドの話もあった よかった⇒あとは“やる気”のみ。 」といった意見もあったが、一方で「一つ一つの話が短 いうえ、パネルの議論がなかった。」 (やや不満)との意見もあった。 講演者・パネリストからは、 「今後につながる素晴らしいネットワークができた」 「5 月に も同じようなシンポジウムをやりたい」など非常に高い評価を得られた。 シ ンポジウムの満足度(n=46) 大いに 不満 0.0% 未回答 4.3% やや不 満 普通 2.2% 15.2% 大いに 満足 19.6% ある程 度満足 58.7% また、今回重視していた参加者の態度変容については、今回のシンポジウムをきっかけ に「関係者とのネットワークをもつ」「被災地のために行動を起こす」 「気づきや活動を知 人に伝える」といった活動を今後行う人数が高くなっており、シンポジウムが来場者に強 いインパクトを与えることができることが明らかとなった。 95 被災地復興のためにしたいこと(n=46) 35 30 これまで 25 これから 人 20 数 ( 人 ) 15 10 5 0 被災地の現状に 気づく 関心を持つ 関係者との ネットワークをもつ 被災地のための 行動を起こす 気づきや活動を 知人に伝える (3) イノベーション政策への示唆 阪神淡路大震災の例を引くまでもなく、被災地の復興は官の力だけでは不可能であり、 いかに民の力(ビジネスやボランティア)を引き出すかがカギとなる。持続的なビジネス がなければ被災地の雇用は維持できず、政府の画一的なサービスだけでは被災地の困窮者 への十分な支援が不可能だからである。 今回のシンポジウムにより、AINAS の法則(具体的な行動を起こすためのモデル)の有 効性が一定程度明らかになった。AINAS の法則とは、消費者の購買行動のモデルである AIDMA の法則、AISAS の法則から敷衍したビジネス行動のモデルであるが、今後もこの モデルを検証しつつ、被災地復興のイノベーション、ひいては我が国の復興のイノベーシ ョンへの Attention(注意) 、Interest(関心)を高めつつ、Face to face の顔の見える Network (ネットワーク)形成を政策的に支援することにより、Action(行動) 、Share(成果の共 有)が生まれ、さらなる Attention、Interest につなげていくことが必要である。被災地の ニーズをタイムリーに伝えるポータルサイト、先進事例の発掘と紹介、ビジネスマッチン グのための被災地の窓口整備とコーディネーション・きっかけづくり、活動を共有できる ポータルサイト… こうしたすべての取組を継続的かつ総合的に進めることが被災地の復 興に不可欠である。そしてこの取組は、日本のイノベーションの成功確率を高めるエコシ ステム形成にもつながると期待される。 4 月 1 日には、今回のシンポジウムの企画協力を行った SARR 社によるポータルサイト が立ち上がり、各種イベントや行政の支援制度、現地のニーズや先進事例等を紹介できる 仕組みができる予定である。こうした取組への積極的な支援も、関係者に方々にお願いし たい。 96 【参考資料】 ○シンポジウム・プログラム 97 98 99 100 ○会場風景 開会挨拶: 松本紘 京都大学総長 来賓挨拶: 山田啓二 京都府知事 来賓挨拶: 長尾正彦 近畿経済産業局長 101 先進事例報告 パネルディスカッション 写真展示の一部( 「南三陸町からの手紙」より) 交流会風景 102 ○新聞記事 3 月 9 日(金)京都新聞朝刊 28 面 103 ○アンケート結果 (回収数:46) ※コメントは省略せずすべてを掲載 1)回答者の属性 2)シンポジウムをどのようにして知ったか ※その他「中小企業家同友会」 「メール」 「けいはんなメーリングニュース」 「京大からのネットニュース」 3)今回のシンポジウムに満足したか 104 (コメント欄) 【大いに満足】 ・被災地の厳しい状況とそこからの復興に向けてのあつい思いで活動されている方々の現状をし ることができました。 ・情熱あふれる志のある方々に出会えたから。 ・日本人を再発見。 ・現実に動いているみなさんの情熱やエネルギーに触れることができた。 ・AINAS の概念、事例紹介が勉強になりました。 【ある程度満足】 ・個々のお話がとても面白かったが、ディスカッションの時間が欲しかった。多様な切り口で問 題をみられた。 ・事例をいろいろと知ることができ、興味深かった。一方でいかにもここからビジネスイノベー ションを創出できるか、もう少し学術的に整理された見解・議論を聞きたかった。大学の先端政 策分析研究センター主催のシンポジウムとしてはこの程度でよいのか疑問も感じた。 ・その人ならではの話というのが少なかった気がする。 ・もう少し掘り下げた議論が聞きたかった。 ・若い人たちの活発な議論が興味深かったです。最後の時間が押していたのは残念。 ・もう少し議論の時間があれば、なおよかったです。 ・事例報告等の資料はカラーコピーでするべきである(タイムスケジュールに無理があったので は?) 。 ・東北からのパネリストにもっと話をしていただきたかった。 ・被災地の現状がよりよくわかりましたので、これから少しでも復興のための力になりたいと思 った。 ・被災地への働きかけや活動の状況をしることができた。 ・実際の企業家の方々の活動を聞けて満足した。 ・関西で得られる被災地の情報は偏っておりこのようなシンポジウムは貴重。都合で途中までし か聴講できないが、よくを言えば、現状の課題や問題点などもっと具体的に紹介があればより参 考になった。 (よい話ばかりの印象) ・まことに生煮えのようなシンポジウムでした。現状報告が中心で先への具体的提案は少なかっ たようです。仕方ないでしょう。この辺が今の現状そのものだと思います。ただ、若い人が苦労 しながらいろいろトライしている姿だけはよくわかりました。それにしても参加者少なすぎる。 ・東北の状況が聞けてよかった。支援のファンドの話もあったよかった⇒あとは”やる気”のみ。 【普通】 ・人によって内容の差がある。興味深い者はすばらしいが、レベルの低いものもあり残念だった。 ・5分でまとめないとあきてくる。 ・各発話者とは初対面であり、活動内容も初めて知ったので今後注目してゆきたいと思います。 ・内容は良しとするが、IT 技術の使い方に問題あり。 ・発表者のなかで、問題提起に対しての温度差がかなりあったと思われる。 【やや不満】 ・一つ一つの話が短いうえ、パネルの議論がなかった。 105 4)被災地復興のためにどのようなことをしたいか 【これまで】 ・世界につなげる ・全国で最初にバキューム車や塵芥車を送った(鹿児島県) ・参加者に手作りの座布団を作ってもらい一人ずつメッセージを書いてもらいそれを石巻の被災 地へ持っていき、直接手渡した ・義捐金・支援物資送付 ・大学としての支援 <これから> ・復興支援 ・事業を行う ・投資や企業とのマッチング ・今回のシンポジウムで学んだことを生かしたい ・まだいっていないので、現地を訪問できたらと思います ・復古に役立つ商品の開発の支援 ・ビジネス進出 ・草刈さんの事業に一市民として参画する ・草刈さんの事業に一市民として参画する+がれき撤去手伝いボランティア参加 ・現地の優先順位に即した大学としての支援 106 5) その他パネリスト等へのコメント ・"深田様:すみだ区の集まりに参加したいです。 竹井様:志のみ遺産してネットワークに参加したく思います. 半谷様:関西から子供たちを修学旅行を含め研修旅行として参加体験させてあげたいと思いま す。今後いろいろとご協力くださいますようお願い申し上げます。" ・東北以外の方で入っていかれた方に質問です。3つの重要な要素「ヒト」現地のキーマンをど うやってつかんだか?「モノ」 「カネ」Network→Action に動くとき、Action の現地との整合性、 現地ニーズの引き出しで重要なポイントは? ・日本民族の存亡がかかった三重の衝撃を受けた教訓を生かすことが平成の我々に求められてい る。正しく的確な検証がなされなければならないと思う。阪神大震災で村山氏が、今回の東日本 震災では管氏が、体育館で被災者に叱られていました。歴史は繰り返すというが、何たる姿であ ろうか。戦後、日本は政治指導者が無きに等しかったということだろう。願わくば一刻も早く「人 財」を育てなければ日本は進化しないのではないかと思う。幕末・明治維新を学び、坂本龍馬・ 福沢諭吉などの足跡をたどることが望まれる。 ・1.NPO 事業が今日の出口とすれば、ありきたりすぎる。テーマと進歩の中身が若干ソゴをき たしていませんか? 2.最初の曲がいただけないと思います。レクイエムを流した方がよい。意図はよくわかるが、 歌手・曲があっていない。 ・テレワークにはがんばっていただきたいです! ・現地に行き、実行をしている皆様に感謝! ・田中様:高台の復興支援住宅は低賃金で供給し、そのうえ数十年後はガラ空きになりそうだし、 PFI やファンドでできるのでしょうか。赤字は公共が補填するのですか? ・福島復興ソーラー(株)半谷社長がどうしてこの時期に南相馬ソーラー&アグリパークを建設 することには疑問である。元東京電力執行役員なのに・・・?本当に建設して安全なのか?(福 島原発はまだまだ不安定なのに1) ・自問自答して被災地復興をしていきたい。 ・各界、各団体の方々が意義に基づく活動をなさっていることに感動を受けました。これから全 国的に横のつながりを密にすれば独力でのそれよりも一層効果がでてくるのではないかと思いま す。 ・パネリストが多すぎる。相互ディスカッションの時間が短いのが残念でした。場内照明をもう 少し明るく。メモをとりながら聴講したい。 ・被災地の早期の復興をのぞむとともに、関心だけでなく、何らかの行動に進んでゆきたい。 ・IT の使い方が下手。ビデオ再生されない。画像歪むなど。意欲的な取り組みなのかもしれない が、意気込みが空回りしている感が否めない。 ・東電 OB の半谷氏の話が一番よかった。他の人は頭の中で理屈をこねているだけ(失礼)。やは りビジネス経験、経営センスの差が大きい。しかし同氏の話は基本的な考えでおかしい。この会 社は交流が目的というが、やはり利益がでないと長続きしない。いつまでも補助目当てでで は・・・?この点、どうでしょうか?他にも正直な気持ち、原発事故の今後の対応はどうすべき かという話を聞きたい。 (原因が聞きたいのではない) ・問題提起の話が最もよかった。講演では深田氏の話が何が必要で何ができるのかが分かりやく す説明されていた。 ・AINAS についてあまりにもショッキングな映像に驚きました。復興を御祈します。 107 ○プレゼンテーション資料 京都大学 佐分利応貴 准教授 被災地映像(約 4 分間) 108 109 110 池田泉州銀行 服部盛隆 代表取締役頭取兼CEO 111 112 113 ヤフー株式会社 髙田正行 震災タスクフォース プロジェクトリーダー Yahoo! JAPAN 東日本大震災への取り組みについて ヤフー株式会社 2012年3月 114 115 116 117 118 深中メッキ工業株式会社 深田稔 代表取締役 119 河北新報社 寺島英弥 編集委員 120 121 122 123 124 一般社団法人 MAKOTO 竹井智宏 代表理事 125 126 株式会社ライフネス 奥村正明専務取締役 テレワークを活用した被災地就業支援(テレワーク1000プロジェクト) 専務取締役 奥村正明 2012年3月8日 関係者外秘・持出厳禁 Proprietary and Confidential. Copyright©2012,Lifeness,Inc. All rights reserved. 文書ID:Proposal 文書ID:Proposal テレワークとは? モバイルワーク 在宅勤務/在宅ワーク SOHO テレワークとは? サテライトオフィス Copyright©2012,Lifeness,Inc. All rights reserved. 文書ID:Proposal テレワークとは? モバイルワーク 「 テレワーク」とは? ICTを使って「 場所」 や「 時間」にとらわれない柔軟な働き方 、ワークスタイルの事です。 ※ICT:情報通信技術(パソコンやインターネッ トなどの技術) 政府や関係4省(総務省、 国交省、厚労省、経産省)がテレワークを推進し、普及活動を 在宅勤務/在宅ワーク 行っております。 SOHO ※ 「i-Japan戦略2015」2015 年までに、在宅型テレワーカー700 万人とする) サテライトオフィス 昨年の東日本大震災以降、BC M / BC P(事業継続管理、計画)対策として注目される 育児・介護対応などワークライフバランスにも非常に有効であり、検討する企業増加 Copyright©2012,Lifeness,Inc. All rights reserved. 127 Copyright©2012,Lifeness,Inc. All rights reserved. 128 129 福島復興ソーラー株式会社 半谷栄寿 代表取締役社長 130 慶應義塾大学 古谷知之 総合政策学部准教授 131 132 大和証券投資信託委託株式会社 田中秀一郎 商品企画部副部長 133 134 ○シンポジウム内容(未定稿) 1. 開会挨拶 ◎京都大学 松本総長 ご紹介いただきました、京都大学の総長を務めております松本です。本日は大変お忙しい中、 このシンポジウムへご参集いただきましてありがとうございます。このシンポジウムのタイトル は「被災地復興のためのビジネスイノベーション」 「未来への挑戦」となってございます。主催は 京都大学経済研究所とありますが、そこの先端政策分析研究センターが主催でございます。今回 の東日本大震災から間もなく一年になろうとするのですが、復興というのが大きな政策、あるい は国民または政府を挙げて取り組むべき一番重要な課題という意味で、先端政策をやっている研 究センターが取り組まないはずがない、と思っておりましたら、見事に色々集められまして、本 日のシンポジウムになったと思っております。 この機会にごく簡単に「先端政策分析研究センター」のご紹介を申し上げたいと思いますが、 これは普通の大学のいろんなセンターとは違う特色を持っております。大学の中には 17 の研究 会に加えて 14 の研究所、20 の研究センターがございますが、このセンターは経済研究所の中の センターです。特色は、大学の研究者だけが集まってセンターを成しているものではございませ ん。2005 年にスタートいたしまして 6 年単位で、6 年無事終了いたしまして、2 期目に入ってい るセンターでございます。通称 CAPS(キャプス)と言っておりますが、 (The Research Center for)Advanced Policy Studies という名前の付いたセンターでございます。主要省庁から半期 3 年間、5 名の方が教授あるいは准教授としてこの研究センターへお越しになりまして、省庁が推 進しようとしている、あるいは将来推進すべき課題について、研究に取り組んでいただいており ます。3 年、3 年、5 人ずつ、10 人の研究者が京都大学に来られまして、最先端の研究をしなが ら、それをお帰りになって国の政策に反映する、あるいは、中途段階で役職を行き来しながら政 策へ反映するという、大変素晴らしい取り組みをしているセンターです。所長は矢野先生でござ いまして、後ほどご挨拶させていただきます。 さて、東日本大震災というのは日本人全てに大きなインパクトを与えました。現代文明の見直 しという、自分たちの生活はこれでいいのか、というのと同時に、被災された方々に対して心を 寄せる、あるいは支援をするということは全ての国民に宿っている心であろうと思います。そう いった意味で市民はもとより政府、そして我々のような大学の研究者を含めて、復興をいかに進 めるかということが大変重要なことでございます。ビジネス界はビジネス界で、研究している研 究者のコミュニティはコミュニティで、そして政府あるいは地方政府、これは全てがその方向に 向かって努力をしておられると思います。本日はそういった方々が全てここに集って、ビジネス 界、学会、地方政府 ― 山田知事も本日は大変お忙しい中お越しいただきましてありがとうござ います ― そういった復興を目指したシンポジウムが非常に活発に行われると思っております。 京大も震災以来いろんな取組をしてまいりまして、医療チーム「DMAT」を早速震災直後にお送 りしました。医療の関係の活動として京大の病院関係者、医療関係者、その他が馳せ参じました。 それ以外にも義援金とかボランティア、あるいは心のケアなど専門家がたくさんおりますので、 それなりの貢献をさせていただきました。今後はまだまだ広範囲の土木関係技術、あるいはビジ ネスモデル、あるいはこういった先端政策、色々なかたちで関与をしていかなければならないと 思ってございます。そういった意味で、この震災は、 「震災後」と言われておりますが、今なお「震 災中」の方々がたくさんおられるわけでございまして、本日は東北からの報道関係の方もお越し でございますし、東北の実態というものをご紹介いただけるのではないかと思います。 135 日本人が非常に整然とした行動をとって暴動も起こらなかったということが、外国から大変高 い「素晴らしい、尊敬できる態度である」とお褒めをいただいてございますが、それで安心しき るというわけにはいきません。つい先ほど、昨年の 11 月ですかね、山田知事も後でおっしゃる と思いますが、京都府と福島県が手を結ばれました。京都大学もその仲間として 11 月に京都府 と連携を結びました。京都府は福島県の担当という事で、会津藩ですよね、京都の方に御所があ った時代に京都の守護職を会津藩が務めたというのも良く知られていることですが、長い歴史の 中で京都が果たすべき役割がきっとあるだろう、その中でも府は府、市は市、あるいは京都大学 は京都大学の役割があろうかと思います。本日はそういった意味で大学関係者を含めて非常に多 くの方々が実りのある議論をしていただけるものと思っております。そういうシンポジウムの機 会を準備してくださった CAPS ならびに経済研究所あるいは関係の方々にお礼を申し上げまして、 私のご挨拶とさせていただきます。どうもありがとうございました。 2. 来賓挨拶 ◎京都府 山田知事 皆さんこんにちは。京都府知事の山田です。早いもので東日本の大震災からもうすぐ 1 年経と うとしております。私も昨年は京都府議会の最終日で、予算の議決をいただいてお礼を議場でし て、最後の締めにかかろうとしていたのが 14 時 47 分だったな、というふうに思っております。 まさに私たちが過去に経験したことのない大災害でありましたし、その中で特にあれだけの大災 害を多くの国民がテレビを通じて目の当たりにした、津波が各被災地に襲い掛かる、その瞬間を 目撃した、あの衝撃の大きさというのは、今までにも空前絶後のものだったんじゃないかな、と いうふうに感じているわけです。その後私どもも被災地支援のために、特に立ち上がったばかり の関西広域連合を使いまして、それぞれが役割分担をして様々な支援措置を行ってまいりました。 私どもは総長よりお話がありましたように福島県を担当し、そこに職員を派遣して、被災地の避 難所の運営とか、さらには被災地との間のバスを運行して、被災地から被災者を受け入れるなど の様々な活動を、ボランティアの派遣や救援物資の派遣と共に行ってまいりました。これからも 私たちは助け合い支えあう、その中で被災地に対して京都が何をできるのか、ということを問い 続けながら、支援活動、復旧活動のために全力を挙げていきたいと思います。そして、京都大学 とも、まさに日本の知の拠点であります京都大学というのは京都にとりまして一番大きな財産の 一つであります。その京都大学と連携をして福島に対して何ができるかという協定も結ばせてい ただきまして、除染の問題を含め、今何を我々ができるかということについて検討を進めている ところであります。 私、実はこの後すぐにここを失礼しなければならないのですけども、やはり 3 月 11 日を前に して、もう一度政府とも、いま全国知事会の会長という立場もありますので、少し瓦礫処理の問 題も含めてお話しをして、本当に進めるようにしていきたい、ということで今日この後すぐに東 京へ向かうことをお許しいただきたいと思います。このように被災地支援のために我々は京都と して何ができるか、その中でも京大という知の拠点から「被災地復興のためのビジネスイノベー ション」のシンポジウムが行われるということは、これからの復興をしていかなければならない 被災地に取りまして、大変大きな力になるんじゃないか、これこそ、私たちができる、支援の中 でも本当に前向きの大きな第一歩を踏み出すきっかけになるんじゃないかなということを心から 期待している次第であります。 同時にこれは被災地のためだけではない、まさに私たちのためのシンポジウムなんじゃないか な、と思っております。それは 2 点あると思います。被災地が大きな被害を受けた時に京都の北 136 部でも操業を中止する企業がどんどん出てまいりました。サプライチェーンが切れる中でいかに 日本の中がネットワークで繋がっているのか、被災地の企業が停止をすること、経済活動が停止 すること、イコール、京都の経済活動も窮地に追い込まれる現状が、そこにはありました。被災 地の復興、イコール、私は、京都の経済の復興にも、まともに大きな関係があるのだというふう に思っています。同時にこれから、東海、東南海、南海大地震、直下型地震、この関西もいつ被 害を受けてもおかしくない状況にあります。それを考えた時に、この復興のためのビジネスイノ ベーション、新しい地域経済の振興策を考えていくということは、これは私たちにとりましても 大変大きな BCP(Business Continuity Plan:事業継続計画) 、この観点からも私は役割を果たす というふうに思っております。これから、京都というものが、やはり日本列島自身が災害を DNA としてもっている以上、京都自身の BCP というものを考えていった時に、こうしたビジネスイ ノベーションというものを、我々はこの経験を基にして、しっかりと準備をしていく必要がある というふうに考えておりまして、その点からも大変大きな意味合いがあるというふうに思ってお ります。 是非とも今日は各界、各方面の方々が、この京都大学に集われて、その持てる力を披露してい ただき、新しい日本の再生に向けて、貴重な一歩になります事を心から願いますと共に、京都大 学のこうした素晴らしい現実の対応に対する学問的な見地からの行動に対しまして敬意を表しま して、私の挨拶とお祝いの言葉とさせていただきたいと思います。本日は本当にありがとうござ います。 ◎近畿経済産業局 長尾局長 ご紹介いただきました、経済産業省近畿経済産業局長の長尾でございます。まずもって今日は 京都大学様のまさに 3 月 11 日を間近に迎えた時宜を得た素晴らしいシンポジウムだと思います。 先ほどの松本総長あるいは山田知事からのご紹介があったとおり、これは日本全体の問題でござ いますし、関西から何ができるか、京都から何ができるかという話ですけど、みんなに共通した 課題かな、というふうに思っておるところでございます。それのまたいいきっかけ作りになれば 大変有意義なものだと思いまして、松本総長をはじめ、先端研の皆様方、ご出席いただきました 皆様方に本当に感謝申し上げたいと存じます。 国の方からは遅い遅いと言われながらも、三次補正予算ですとか、復興庁、あるいは復興特区 ですとか、ツールが整ってまいっております。後ほどパネラーの先生方から色々、現場のなかな か生々しい、厳しいお話しもあろうかと思います。我々も関西の地からも新しい取組をしていか なきゃいかん、というふうに思っているところでございます。先ほどのお話にもございましたよ うに、私も素晴らしいと思いますのは、日本の、今日はビジネスイノベーションだということで すからちょっとそちらの話をさせていただきたいと思いますけど、サプライチェーンが断絶して 世界中の自動車の生産とか家電の生産が止まったのは事実でございまして、これはこれで複線化 の問題ですとか BCP の問題ですとか、これをもう一回練り直すという機運が盛り上がってきて おります。関西のいろんな、今日いらっしゃっている企業さんでも震災直後から BCP の取組を どうするんだというふうなことを検討されて、もう既にマニュアル化したり実際に訓練をしよう という動きも出てきて、心強い限りでございます。そういうものに加えまして、やはり逆に言う と、それだけの技術ですとかものづくりとか素晴らしいオンリーワンでいた存在が日本の中にあ った、というのも気がついた大きい事実でございます。私はこちらも大事だなと思っておりまし て、従いまして、ビジネスの力、ビジネスのイノベーション力でもってさらに付加価値を上げて 137 日本全体の再生に向けていくと。やはり日本全体の再生とか復興はもう、パラレルというか、総 合的に作用していくんじゃないかな、と思っております。 例えば先ほど知事が瓦礫の話をされましたけれど、東北では太平洋セメントの大船渡工場がご ざいまして、あそこも被災されてセメントの生産がドカンと止まったのですが、実は皆さんもお 気付きのとおりセメントの生産は廃棄物を最近は原料としております。セメント生産は化学作用 でございますから、廃棄物が立派なセメントに生まれ変わるということでエコセメントの時代に なっております。ただ、瓦礫処理をするためにもやっぱり塩分を抜かなきゃいかんとか、選別を しなきゃいかんとか、ちょっと手間で技術的にも課題があったのですけれども、これは太平洋セ メントさんにノウハウを提供してタイアップして成功したのが実は大阪の岸和田にあるリマテッ クさんという企業なのです。従って私もセメント産業もそれくらいの技術を持っているのかなと 思ったら、あにはからんや、日本の中小企業の方々、ベンチャー企業の方々がいろんな技術を持 っていらっしゃいます。今除染の関係でもそうだと思います。従って私はこのビジネスイノベー ションというのは結構できることがあるのではないか、復興対策でも大学の皆様方あるいは企業 の皆様方のお力で、結構、私はできることがあるのではないかというふうに思っておりまして、 今日のシンポジウムはそういうヒントになるのではないかなと思って期待申し上げております。 お手元の封筒の中に少し最後の方に入れてありますけれど、 「新産業・新市場の創出に向けて」 ということで、これから、先ほど総長や知事が言われましたように、日本経済全体がやっぱり生 まれ変わっていかなきゃいかんわけでございますけれど、期待される産業分野という事でこうい う社会的な課題を解決してくれるビジネス、ライフケアもそうですし、グリーンイノベーション もそうなのですけど、やっぱり今日本で困っていることが逆に裏を返せばイノベーションの力で ビジネスになっていくというようなことでございまして、あるいはクリエイティブ産業ですとか 先端産業を含めて、こういう取組を、少し、軸足をしっかりこっちに持っていかなきゃいかん、 これが復興の方といいパラレルになっていくんじゃないかな、ということで、関連する法案も出 されておるところでございます。我々はこういったツールをさらに使いながら日本全体がジャン プアップして、復興地の復興が更に加速することを、引き続き汗をかいていかなきゃいかんな、 と思っておる次第でございますので、今後ともよろしくお願い申し上げたいと存じます。本日は 実り多いシンポジウムであるとご期待申し上げます。ありがとうございました。 3.問題提起 ◎京都大学 佐分利准教授 ただ今ご紹介に預かりました、京都大学の佐分利と申します。本日は本当に遠いところ、ある いはこの近くの方もいらっしゃるかとは思いますが、こちらの方にお越しいただきましてありが とうございます。私の方から最初に問題提起としてご説明させていただきたいと思います。今日 の話の内容ですが、 「はじめに」として 4 分程度のビデオをご覧いただきたいと思います。この 後、3 点「援助理論」それから「AINAS(愛為す)の法則」 、 「被災地復興のためのイノベーショ ン」 、この 3 つのテーマに関してご紹介したいと思います。 ODA(政府開発援助)の世界ではこういう言葉があります。 「わたしは、あなただったかもし れない」と。たまたま、たまたま私たちは日本に生まれた。ひょっとして同じ時に 1,000km くら い西の方に生まれていたら、今頃かなり飢えに苦しんでいたかもしれませんし、アフリカだった かもしれないし、あるいは今回のように、たまたまあの場所に居合わせてしまった、あるいはた またま助かった。本当に「わたしは、あなただったかもしれない」という状況だと思います。こ 138 の ODA の世界ではこういうふうに申しますが、今回の震災に関しても、まずスタートは「わた しは、あなただったかもしれない」という言葉で始めさせていただきたいと思います。 続きまして、これからビデオをご覧いただきます。これは私の知人からいただいたもので、内 容が若干強烈な画もございます。ですので、もし被災者の方でご覧になるのが耐えられない方は 目を閉じて音楽をお楽しみいただきたいと思います。曲も素晴らしいです。 (鑑賞) これは「たむらぱん」という方の歌です。たむらぱんの事務所の方にも是非使っていただきた い、ということでご了解をいただいております。 津波の話がたくさん出てきておりますが、福島はまだ「震災中」です。総長の話にも知事のお 話にもありましたように、まだこの「震災中」のなか、我々としては何ができるのか、というこ とを考えて参りたいと思います。京都府および京都大学は福島と広域連携という事で、福島をな んとか支えたいと、守りたいと、考えております。 希望はあります。今日、こちらの方にお持ちした、そこにも写真が載っておりますが、私の知 人からこれを届けていただきました。中にはこんな写真、厳しい映像もありますが、 「今度は私た ちの番」だと、 「これからは、感謝の気持ちを忘れずに絶対に私たちの町を取り戻していきたい」 という力強い言葉もいただいております。それから例えばこの方は、NPO「フェアトレード東北」 の布施龍一代表です。若い人の中で選ばれる「人間力大賞」という「若い人の国民栄誉賞」と言 われますが、青年会議所で選ばれる「人間力大賞」を受賞されております。この方は石巻のご出 身で被災されましたが、自らが被災しながらも、その地域をどう支えるかということで、被災者 の孤独死を絶対にさせない、阪神淡路でもやはり震災後の孤独死の問題っていうのが出てまいり ました。そうしたことを踏まえながら、自ら被災しながら、でも被災した仲間同士で助け合いな がら、どうやってその一番弱い方に手を差し延べるか、ということをしていらっしゃる若者もい ます。布施君、いますか? はい、今日わざわざこのために来ていただきました、石巻の若い力 は素晴らしいものがあります。 困難が心を鍛えると申しますが、まさに被災地の若者というのは本当にいま頑張っています。 輝いています。我々としても何かしたい。ところがですね、ここから先は大学なのでちょっと堅 い話に入りますが、 「心は動くのに行動はできない」 、行動経済学、社会心理学という分野になり ます。なぜ、具体的な行動ができないのか? 社会医学という、私の専門としております、社会 の病気を治す学問というのがあるのですが、 そこの大原則が「人は動かない、 なかなか動かない」 、 それは「その人には理由がある」のです。 「けしからん」とか「けしかる」とかじゃなくて、人が 動くからには必ず何か理由がある。そこを変えていかないと、なかなか人の「動き」、 「行動」、 「人 生」 、変わっていきません。 それは何なのか、ということで一つ目です。援助理論。1964 年 3 月 13 日ニューヨークの事件 ですが、夜中にある女性が暴漢に襲われた。目撃者がいたのだけれども誰も助けなかった。これ でアメリカ中、大騒ぎになりまして、 「なんだこれは」と。 「アメリカのモラルは地に落ちたのか」 という話になったんです。そこから、 「援助」の研究が始まりました。 「援助がなぜできなかった のか」 、 「モラルの問題なのか」と。違うんです。援助行動に実際に移るためにはこういう 5 つの ステップがあるといわれております。1 つ目、「何か大変だ」と事態に気づく。それが、「緊急事 態だ」と、何とかしなきゃという状況だということを理解する。3 つ目にこれは「俺が何とかし なきゃ」と思うかどうか、これが大きいんです。みんながいると、俺が何かしなくてもいいんじ 139 ゃないかと思っちゃうわけです。それから、どうやって助けたらいいかってことを知らないと動 けません。救急車を呼ぶとか、警察に通報するとか、大声を上げるとか、どうしたら良いかって ことがわからないと、行動には移らないんです。それから、それを全部踏まえて最後に「よし、 助けよう」と。それ以外は全部援助しない方にいきます。これは、いいとか悪いとかじゃないん です。そういうものなのです。例えば、若者に聞くとこういう言葉が返ってきます。 「だって、よ くわかんないっすよ」 、 「テレビもってねーし」、 「新聞読んでねーし」、 「もう 1 年たったから、大 丈夫じゃね?」 、 「べつにオレ、関係なくね?」 、 「わかるんだけど、なかなかきっかけもないしね」、 「ボランティアどこでやっているのかよく知らないし」、 「今忙しいし」、「勉強あるし」、「就活あ るし」 。だからいいとか悪いとかじゃないんです。こういうものなのです。 で、今日のテーマ 2 つ目です。では、どうしたらいいのか、人の動きを変えていく、どうした らそういう人たちが「動かない」理由を変えていけるのか。そうしないと支援というものは続き ません。 「AIDMA(アイドマ)の法則」というものがあります。これは経営学ですが、ものを買 う時にはこういう 5 つのステップをとるのですよ、という教えです。AIDMA、 「Attention」 、最 初にそのことに気がつくと、その商品に気がつくと。「Interest」 、なんかコマーシャルとか見た ら、かっこいいなと、おもしろそうだなと。 「Desire」、欲求、欲しいと、買いたいと思う。あと それを覚えていて( 「Memory」 )見つけて、買う(「Action」 )。こういうステップがあるんですよ、 という割と古い経営学のお話です。今はちょっと話が違っていまして、マーケティング、経営学 の世界では、 「AISAS(アイサス) 」だと。電通さんが言い出した話ですが、 「AISAS の法則」と いうのがあります。何かと申しますと、 「Attention」、 「Interest」 、何かを見つけて、面白そうだ なと思う、そこまでは一緒ですが、ネット社会なのでもうみんな携帯とかで調べるんですよね。 「どうだろこれ」 、 評判がいい、 星が 3 つ、5 つだと ( 「Search」)。 で、 いいなと思って買う(「Action」)。 買った後「良かったよー」と言って「Share」をする。 「AISAS」と言います。今こういうふうな 形で皆さんの動きがあるということです。じゃあ、支援の行動はどうなるのだろうかと。今日の パンフレットの後ろ側にも書いてありますが、1 つのテーマ、問題提起として、この「AINAS」 というのがどうやったら回るのか、を皆さんに考えていただけないかと、思っております。 「Attention」 、被災地の現状への気づきがあって、関心をもっていただく( 「Interest」 )。関心も、 「すごい、こんなことをやっているんだ!」と、強烈なインパクトがある、模範的な事例がある とみんなの心は動きます。そういった最新事例をご紹介させていただきたいと思っております。 そのあと、 「N」ですね、 「Network」 。いいなと思っても、何かきっかけがないと、知り合いがい ないと、 「一緒にやらない?」と言ってくれる人がいないと、あるいはその被災地に誰か窓口にな って、この人のところに行けばいいという人がいないと、なかなか次の行動に移らないんですよ ね。Network をどう築くのか。で、 「Action」をする。で、「Share」をする。「Share」をして、 「あ、こうだった」 「現地行ったら全然ダメだ」「何とかしなきゃいけない」という話をしていく と、それが周りに広がって、それに気がついて、 「あ、そうなの?」、 「新聞ないけど、そうなの?」 、 「知らなかったわ」という話になって、これをどう回していくのか、回していくためには「気づ き」があり、関心を誰か持った人がそれを「Network」から「Action」へ繋げていき、その結果 を「Share」していくことを繰り返していく中で、初めて支援というのが 1 年経ち、2 年経ち、3 年経ち、続いていく。 じゃあこれはボランティアの話なのですか? いや、違うんです。イノベーションです。ビジネ スもこうなのです。イノベーションってことはよくお聞きになったかとは思いますが、イノベー ションっていうのは、発明×普及という。なんかすごいものが出てきてですね、それがブワーっ と広がる。式で書くと、ビックリマーク、 「うぉ~」というのが、どんどん広がって、なんかみん 140 なそうなっちゃった、っていうのがイノベーションですね (革新的価値創造=!×みんな) 。で、 どんなものかというと、新幹線。これはすごいですね、日本変わっちゃいましたね。オリンピッ クの時の新幹線ですね。それから、セブンイレブン。コンビニエンスストアの 1 号店です。コン ビニエンスストアがない社会なんて考えられないくらい今や世の中変わっちゃいました。宅急便。 宅急便があるお陰で地域おこしだってできるんですね。日本中のものが売れるようになりますか ら。カップヌードル。これもすごいイノベーションなんですよね。災害時にも助かります。カッ プヌードルで 3 分でご飯が食べられるということは、日本人の時間をものすごく節約できるのか もしれない。場合によっては、その食事のときのコミュニケーションを奪っちゃっているのかも しれない。それから、デジカメですね。これもまたすごいイノベーションで、デジカメのお陰で すぐその瞬間に、今ここにいるよっていうのが出てきちゃったりする。とにかくイノベーション ってのはすごいんですね。ビックリマーク。それをみんなが使い出した。これがイノベーション です。では、これがどうしたらできるのかです。簡単じゃないんですよね。まず新しいことって なかなか最近は厳しくお金がつかないんです。で、技術。新しい技術は難しいです。上手くいく 訳がない。確率もどんどん下って、難しいですね。また会社の中で反対されるんですね、これが。 「そんなことやんなくていい」とかですね。 「リスクがあるじゃないか」とかですね。例えばその、 今回の素晴らしいベストプラクティスに感謝状を出してはどうかという話がありました。でも、 感謝状を誰の名義でやるんだとか、どうしても組織ってこういうことを考えちゃうんです。組織 がいいとか悪いとかじゃなくて、そういうものなんです。イノベーションっていうのは、研究か ら開発から商業化から産業化まで、全部突破しなきゃいけないのです。どっかで切れちゃったら そこで終わっちゃうんです。例えば会社の中で誰かが反対したら、止まっちゃうんです。これは、 「オールグリーン」 、全部青信号でなきゃいけないというんですけど、オールグリーンでないとイ ノベーションっていうのは起こんない、となるとこれはもう大変ですよ。誰か反対しますから。 何かやる人には誰か反対しますから。じゃどうしたらいいのか、ですよね。でもそんな中でもイ ノベーションが起こってるってどういうことか。イニシエーター(創始者)って人がいるんです よね。反対があろうとも、どんな困難があろうとも、とにかく突き進む。一番こちら(画面左上、 十河信二の写真) 、国鉄、新幹線の時の総裁。71 歳で総裁になってですね、新幹線で討ち死にす るんだと、覚悟を決めて、総裁になった十河信二。その隣、鈴木敏文さんですね。第一号店、山 本さんのその一号店を絶対に倒したらあかん、山本さんは夫婦で、ちっちゃい子どももいて、こ の人たちを絶対倒したらいかん、といって、岩国さんたち 15 人のチームで、日本でコンビニエ ンスストアの仕組みを創り上げた。かの有名な小倉(昌男)さんですね。周り中が反対して、そ んなの上手くいくはずがない、と言ったんだけれども、断固これをやるんだと言って、宅急便を 始めた小倉さんです。カップラーメン、安藤百福さんですね。 「こんなん無理や、売れるわけがな い」といった周囲の反対を押し切って、絶対これは売れると、新しい食べ物や、といってカップ ラーメンを創られた方。それからデジカメ、末高(弘之)さんですね、カシオの方です。10 年間 ずーっと会社に内緒で、反対されながら、 「無理無理」言われながら一生懸命デジカメを開発し続 けて、最後は会社も「良かろう」と言って出てきたのが、95 年に出た QV-10。日本で初めてヒッ トしたデジカメです。こういった取組があって、イノベーションというのは突破されてきた。一 番向こう、中村修二さんですね。青色発光ダイオードの。この方も会社から、散々、やめろやめ ろと言われて、応援しない、そんなことはもうやめろと言われながらも、青色発光ダイオードの 開発を続けた。社長から反対されていたが、会長はですね、社長の(義理の)お父さんなんです が、会長からは気に入られていたので、研究開発費をなんとかもらって、周りからの反対に耐え 141 続けて開発をした青色発光ダイオードのお陰で我々はこうやってパネルで、パソコンで、液晶パ ネルっていうのが、青信号が見えるのです。 とにかくイノベーションをするためにはこういう人たちが必要だと。で、こういう人たちだけ でできるのか、と申しますと、仲間が必要だったんです。ネットワークが必要だったんです。ソ ニーの盛田さんですとかですね。井深さんとかですね。本田宗一郎とかですね。必ずやっぱり仲 間がいるんですね。そういう仲間がいてイノベーションが、オールグリーンでなきゃいけないイ ノベーションが支えられて、なんとか最後まで行き着く。「Attention」があって「Interest」が あって、 「Network」で仲間から支えられて「Action」をみんなが「Share」して支えて、これが イノベーションなんです。イノベーションは本当に難しい、あらゆるところでその障害がある。 全部クリアしないとイノベーションにはならない。大変難しいです。でもそれができるのは仲間 の支えがあってということです。 今日はまさにそうした仲間にここに集まっていただきました。ビジネスは大変です。ですが、 必ずや、こんな熱い人たち、本当に今日集まっていただいたパネラーの方たちは本当に熱い人た ちばかりです。私が本当に尊敬する、自信を持って皆さんにご紹介する方ばかりです。是非、皆 さんの力でですね、今日お集まりの皆さんの力で「関西モデル」を作ろう。被災地から遠くても 何かできるんだと、ビジネスになるんだと。京都大学ではいろんなことをやっています。2 日前 にも学生が、うちの学生がシンポジウムをやっています。ボランティア活動もやっています。い ろんな活動が実は、京都でも大阪でもあるんです。気がついてないだけです。やってるんです。 そういったものを集めて「関西モデル」をつくる。関西には阪神淡路大震災の経験があります。 それから、和歌山には「稲むらの火」という昔の大津波の経験も、今教科書にも載っていますが そのようなエピソードがある。それから京都にも伝統文化があり、異文化のコミュニケーション っていうのもできる。ベンチャーもいる。滋賀にも「三方よし」という商人魂がある。神戸には またカルチャーがあり、新しいお菓子だったり、いろんな魅力があるわけです。関西の魅力はや っぱり束にならないともったいないですね。異文化の交流がイノベーションを生む。ですので、 今日はこの議論で、イノベーションのきっかけを皆さんで築いていただいて、「おもしろいな」 、 「すげーな」と思っていただいて、このあとネットワーク、懇親会、あるいはアンケート。アン ケートを書いていただければ、必ずご連絡させていただきます。あとは松田さんの方からご紹介 いただきますポータルサイトで情報共有します。今日は福島からも後で、ネット中継で、メッセ ージが入る、できれば入るはずです。是非ご期待いただければと思います。 本当にお忙しい中今日はお越しいただきましてありがとうございました。皆さんにとってお役 に立てるようなシンポジウムにしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。ありがと うございました。 4.復興支援ビジネス事例報告 ◎池田泉州銀行 服部代表取締役頭取兼 CEO 池田泉州銀行の服部でございます。よろしくお願いいたします。今日のお話に入る前に、私、 かねて私どもの職員に「地方銀行とは」ということを時々問いかけております。いろんな役割が ありますが、その中で忘れてはならないといいますか、一番大事なものは地域との共生、あるい は共存共栄、これが一番大きな役割であろうと、そのように思っております。それで、今回の大 震災が起きた、その直後からその地域の考え方、地域の枠を少し広げまして、大震災で大きな被 害を受けられました東北地方の皆さん、何がしかのお役に立ちたい、お手伝いをさせていただき たいと、そういうように思っておりました。日に日にその思いが募ってくる訳でございますけれ 142 ども、そういう中で私どもが過去 11 年間開催して参りました、ビジネスマッチングフェアに東 北地方の皆さんも是非お招きしようということで、結果的にはお招きをさせていただいた訳であ りますが、私どもとしては、ただ、そのことをしたと、それだけのことをしたということであり まして、今日このような発表の機会をいただきましたことに、いささか、面映ゆさを感じており ますが、先ほど佐分利先生のお話を伺っておりまして、私どもの取り組みも「AINAS」に多少繋 がるものであったかということで、ほっとしておるということでございます。それでは初めに私 どもの銀行を簡単に紹介させていただきまして、昨年度に実施しましたビジネスエンカレッジフ ェアにつきましてご報告させていただきます。 池田泉州銀行は 2 年前に 2 行が統合して誕生いたしました。大阪府北部と阪神間を商業基盤と します池田銀行と大阪府南部を商業基盤とする泉州銀行の 2 行でございます。大阪の南北にござ います関西空港と伊丹空港が今年、経営統合をされますが、これに先んじること、2 年強でござ います。本店は大阪の梅田にございます。京都には烏丸御池に京都支店がございます。先日、日 経新聞が調査の結果を発表されましたけれども、学生さんの就職希望企業、そのランキングでは、 関西で 4 番目の評価をいただいたということでございます。 当行主催のビジネスマッチングフェアでございますが、ちょうど 12 年前の 2000 年に当時の近 畿通商産業局、今の近畿経済産業局さんでございますけど、実は 800 万円の応援をいただきまし て、スタートをいたしました。本当は 1 年しかダメだったようでありますけれども、2 年続けて 800 万円ご支援をいただきまして、これはやめるわけにはいかない、ということで続けておりま すが、当時はバブル経済が崩壊した後でございまして、金融はかつてない緩和状態でございまし たが、経済に自立反転力が乏しくって、それこそお金よりも仕事が欲しいと、そういう時代でご ざいました。ということで、仕事の創造、仕事を作ろうと、そういう願いを込めてビジネスマッ チングをはじめた訳であります。もちろん、その背景には、地域あっての地方銀行でありますか ら、地域が疲弊すれば、銀行も成り立たないと、そういう私どもの思いもございました。その後、 当行では新規性あるいは独創性のあるビジネスプラン、それに対する応援、ということで助成金 制度を設けました。あるいは大学とか、公設研究機関との研究開発を応援する助成金制度、その 2 つをもった訳であります。これまでに総額で 3 億円強の助成金を提供させていただきました。 もちろん技術の評価を含めまして銀行単独で行うには限界がございますので、近畿経済産業局さ ん、京都大学をはじめとする大学、産業技術総合研究所、そういった研究機関、大阪府をはじめ 自治体、そして関西の産業界に幅広くご協力をいただきました。産官学のネットワークを大きく しながら進めて参りました。先ほどの佐分利先生のお話にもございましたけれども、このネット ワークというのは大変重要なものでありまして、今やこのネットワーク、産官学のネットワーク は池田泉州銀行に対しまして大きな財産になっておるというように思っております。 それから、2 年前の 2010 年の 5 月に池田泉州銀行が誕生した際に、新銀行の進むべき方向、 成長戦略を策定いたしました。その中で当行独自の戦略 3 本部を設けた訳でございます。 「アジ アチャイナ本部」 、 「先進テクノ本部」 、 「プライベートバンキング本部」でございます。ちなみに 現在、我々池田泉州銀行は「親切で新しい」そういう銀行を目指そうと、そういう言葉をキャッ チフレーズに使っております。これらの戦略 3 本部を活用することでお客様と共に地域の皆様と 共に発展しようと、そういうことでありまして、産学官の連携とか、助成金制度の運営、あるい は M&A、そういった業務は先進テクノ本部が担当をしております。新銀行の役割の一つでござ いますが、まさにお客様との共生、地域の活性化でございます。そういう思いを込めて新銀行発 足時に関西活性化シンポジウムというものを企画させていただきました。趣旨に賛同いただきま して京都大学、大阪大学、神戸大学の総長さん、学長さんに近畿経済産業局長さん、そして大阪 143 ガス、塩野義製薬の社長さん方にご参加をいただきまして、コーディネーターは日経新聞の編集 局長さんにお願いをいたしました。このシンポジウムは大変反響が大きくて、会場が 900 名しか 定員がございませんでしたけれども、1,400 名の皆さんに参加をいただきました。急遽、場所を 作ったということもございました。松本総長さんをはじめとして、そのときの皆さんのお話でご ざいますけれども、関西の強みは高度なものづくり、あるいはハイレベルで密度の高い大学、そ して世界に誇れる文化、優れたインフラ、ということで、これらを活かすためにも産学官の連携、 あるいは協調、これが必要であると、そういった白熱の議論がございました。 このような背景もございまして、昨年第 12 回目のビジネスマッチングフェアを開催するに当 たって、もう少し輪を広げようではないか、そしてより多くの皆様にご参加をいただこうと、そ のように考えておりましたが、そこに東日本大震災が発生したわけであります。直後の 4 月には 松本総長さんをはじめ、関西の 47 名の方々が、 「ささえよう日本、関西からできること」そうい うメッセージを出されました。しかしその後、エネルギー問題を含めまして色々な事柄が表面化 するにいたって、 「大震災はいわば戦後最大の日本の国難である」 、そういう表現に移っていった 訳であります。ということで、そのビジネスマッチングフェアのキャッチフレーズ、これは「東 日本大震災からの復興 今、日本の力をひとつに」 。そういうキャッチフレーズが私の頭の中を過 ぎりました。ということで、被災地の福島県の東邦銀行さん、宮城県の七十七銀行さん、岩手県 の岩手銀行さん、東北銀行さん、の各行に特別参加をご案内いたしました。関西経済連合会から は東北経済連合会にもお声掛けをしたいと、そういうご意向をいただきましたので、東北経済連 合会にもご後援をお願いいたしました。大学とか、研究機関、あるいは大手企業、自治体などに は、これまでの同様のご協力をいただきました。加えまして東北 4 銀行のお取引先、それから但 馬銀行さんにも特別に参加をいただきまして、そのお取引先、それから当行のお取引先、合計 115 の団体にご出展いただくことになりました。京都大学をはじめとして、東北大学など 14 大学、 それからシャープ、オムロン、ダイキン、そういった大手メーカーさん、さらにはエネルギー問 題で大変なご苦労をなさっておられた関西電力さんにもご出展をいただきました。 画面は開会式の模様でございます。近畿経済産業局の先ほどの長尾局長さんにも、それから関 経連の副会長さんで、ダイキン工業の井上会長、大阪商工会議所の佐藤会頭にもご参加をいただ きました。展示会場には、産学官、金融、そういった各界の皆様にも大勢お越しをいただきまし て、2 日間の開催期間中に 6,200 名のご来場をいただきました。これは東北地方の出展ブースで ございます。福島県からは、プレス加工、金型製造、プラスチック成形、そういったものづくり 企業が出展されました。宮城県からはソフト開発、あるいは商社、岩手県からは蕎麦の製麺機メ ーカー、岩手大学、県の企業誘致部門、そういった出展をいただきました。東北地方からはトー タル 17 団体のご参加をいただいた訳であります。その蕎麦製麺機はフェア開催中、というより 初日ですね、商談が成立いたしました。それから岩手大学からは、関西の企業からの受託研究が 2 件、成約の見込みであるという話を伺っております。震災後のビジネスフェアということで、 特色のある展示もいただきました。京都大学のブースでは、貝殻や海草を用いまして放射性物質 を除染する技術とか、放射線に反応する蛍光プラスチック、これを医療分野へ応用する技術、そ ういった時宜を得た技術のご紹介もございました。 次は震災をテーマにしたセミナーの様子でございます。元京都大学教授で、現在は関西大学の 河田先生に「防災、減災」というテーマでお話をいただきました。それから産業技術総合研究所 の寒川先生には地中の痕跡から大地震の歴史をよんで、地震考古学の切り口で、今後の東海・東 南海・南海地震に関わる講演をいただきました。フェアの趣旨にご賛同いただいて、日経新聞さ んからは、地震発生の直後から復興の過程を撮られました写真約 140 枚を展示いただきました。 144 来場者から「同じ日本で起こったこの災害をいつまでも忘れてはいけない」 、「息の長い支援が必 要」といった感想もございました。次は京都伝統工芸大学校さんに展示をいただきました岩手県 陸前高田市の流木松で制作した大日如来坐像でございます。ブータン国王が来日した時にノミを 入れられましたけれども、今回のフェアでは 1,287 名の方々がノミを入れられました。この仏像 は本来 3 月 11 日に清水寺に奉納される予定でございましたけれども、少し延びているようでご ざいます。 各企業のブースへの来訪件数でございますが、トータルで 6,400 件でございました。この内、 商談見込み有りが、140 件、見込み大が 16 件、その場での成約が 4 件でございました。大学、 公的機関などへの相談件数でございますけども、これは 226 件になっております。それから産総 研の東北センターでも関西の企業との連携が 3 件ほど進んでいると、そういうお話でございまし た。先ほどちょっと飛ばしましたけれども、会場には 3 県の物産販売コーナーを設けましたけれ ども常に行列が出来ておりまして、初日に品切れになる商品も出て参りました。次は代表的な来 場者の声になります。 「出展をいただいた産学官各団体の研究成果のレベルの高さに感心した」 。 それから、 「東北地方に良い企業があることを知った」。先ほどの写真のところでも申し上げまし たけれども、 「一過性でなく息の長い支援が必要」 。それから清水寺に奉納される大日如来像を震 災のメモリアルとしてずっと見続けていきたいということ、最後に国による復興計画のプランが 示されていないということに対する厳しいご意見、これは 12 月初めでございます。 ということで第 12 回目のビジネスマッチングフェアを終えた訳でありますけれども、フェア の評価はこれからでございます。被災地の銀行、それから企業の皆さんから異口同音に関西の企 業との接点を作ってもらったとか、県産品の消費あるいは観光の PR に協力してもらったと、そ ういう言葉をいただきました。本当に我々、わずかな事柄に協力をさせていただいたということ でありますけども、そういう言葉をいただきまして、本当に望外の喜びとしております。 被災地と言いましても、これは、内容は様々でございまして、福島では放射能汚染の被害が深 刻でございます。ということで、今年もまた震災からの復興ということをテーマに、東北の皆様 にもお声掛をして、フェアを開催したいと考えております。これからも皆様にご理解・ご協力を お願いいたしまして、私の報告を終えたいと思います。ありがとうございました。 ◎ヤフー株式会社 高田 R&D 統括本部 部長 兼 震災タスクフォースプロジェクトリーダー ヤフーの髙田と申します。本日はよろしくお願いします。たまたま、私ヤフーという会社から 来ていますけれども、これからのパートに関しましては、インターネットのメディア企業、ある いは IT 企業がどのようなことをこの一年やってきたのか、あるいはこれからどうしようとして いるのか、というところの一つの事例として見ていただければと思います。 実は我々が、こういった激甚災害、大規模災害に備えを開始したのは 2004 年からになります。 当時、中越沖地震ですね、新潟の大きな地震がありまして、それまではなかなかインターネット の常時接続といいますか、いつでもネットを繋ぎっぱなしにするという環境がなかったんですけ れども、この頃からブロードバンドが普及して、結構長時間インターネットを楽しむ人が増えて きました。もし大きな地震や津波が来た際に、テレビやラジオをつけていれば警報に気付くかも しれませんけれども、インターネットを見ているだけであれば、そういった災害の情報に気づか ないかもしれないと、そういうところに我々は課題を感じまして、ヤフーの全サービス全ページ に、震度 3 以上であればその通知、あるいは津波の警報というのが出るような仕組みを作らさせ ていただきました。で、加えてここに出ていますけれども、インターネットを通じて募金が出来 るような仕組みですとか、あと、日頃から使っていただいておりますけれども、ヤフーのニュー 145 スですとかトピックスを通じて最新のニュースが流れるという仕組みに関しましても、例えば東 京にスタッフがいてそこに地震が起きたらもう更新が出来ないということではいけないというこ とで、地域も分散化して 24 時間対応できると、そのような BCP 体制を実施しておりました。 これを経まして今回地震が起きたわけですけれども、基本的にですね、このような緊急体制は すぐ自動的に発動するようになっていますので、最初はそのプランで進行しておりました。ただ やはり予想以上のことがどんどん起きてきまして、そちらが今回の大きな今後の課題のところに 繋がっていきます。で、ニュースの更新ですとか、そういった緊急災害情報の集約ページ、ハブ ページと呼んでおりますけれども、立ち上げなども即時に行ったんですけれども、皆さんご存知 の通り災害の規模があまりにも大きいというところで、通常のこの災害対応に加えまして、東名 阪 70 名規模の 24 時間体制のプロジェクトをすぐに追加で開始をしました。 で、日曜日にですね、皆さんご存知のように停電のお話、大規模停電、輪番停電、計画停電の 話が出てきました。この辺りからですね、今回かなり変化が起きてくるんですけれども、この肝 心の停電の情報を伝える東電さんのホームページが、サーバーがアクセスが増えて落ちるという ことがこの日の夜から起こりました。結果的にですね、ヤフーの方のページにその情報を見る方 が増えていくというふうな状態になりまして、我々は東電さんとホットラインを結んで、データ をいただいて、それを手入力で更新していくということを先ほどの緊急体制の中で推進していき ました。これは、最初の資料といいますか、東電さんが発表されていたものは、PDF のリストで して、実際に自分が住んでいる場所が停電に該当するのかしないのかというのがなかなか探せな いような、そのようなものでした。ですので、これを検索できるようにしたんです。地図に反映 するという作業を全部これ手作業で 24 時間やっていました。ただまあ、非常に間違った情報が 多くてですね、東京都川崎市とか、本当に一般的な地番でさえも間違っているというとこですの で、それもいちいち修正しながらそのまま進めていくということをこの間進めておりました。実 はその月曜日の段階で、ヤフーというのは創業以来のページビュー、ページの閲覧数というのを 出すんですけれども、これは先ほど申し上げましたように、電気関係あるいは地震関係の情報が 知りたいというところのニーズのとこからですね、このようなピークが生まれたのかなというふ うに考えております。 この後、本当にさまざまな施策を行ってきました。ネット募金も、瞬く間に十億円を突破する と。募金は一円単位から出来ますから、本当に一円の積み重ねが十億円に達していくというよう なことになっておりました。 で、 全体の情報が補完できるようなページを立ち上げたりですとか、 あるいはチャリティーオークションなどを通じて募金活動をしていく、というところなどを続け ておりました。さらに 3 月 22 日からはですね、電気の節電に関するところの見える化というこ とで東京電力さんが発表される電力の需給情報をグラフ化して見せていく部分を、ヤフーのトッ プページに置かせていただきました。これは実は地域で出し分けをしておりまして、各電力の管 轄の区域の皆さんにだけこのメーターは表示されるようになっています。ですので、恐らく関西 の皆さんは、昨年末に関しては関西電力さんのページのメーターをご覧になったと思うんですけ れども、これは現在もこのように出し分けをして運用をしております。また、娯楽が必要という ところでですね、集英社さんのご協力をいただきまして、週刊少年ジャンプの最新号をサイマル 配信すると。この他にも絵本をですね、著作権フリーでコピーできる状態で配布するというよう なことも、実質しておりました。で、ガソリンスタンドの実際に使える・使えないという地図上 の情報ですとか、 あるいは携帯の電波が繋がりやすい・繋がりにくい場所を見せる地図ですとか、 そういったものを継続的に展開しておりました。 146 ちょっとまとめに入ってくるんですけれども、 まず最初、 今回我々が一番広く感じましたのは、 正しい情報をインターネットを通じて広くお伝えしたいんですが、データが出てこないという問 題ですね。これは実は今後に繋がる問題でして、日本というのはですね、世界で一番に自然災害、 主に地震、 あと選挙が多い国というふうに我々思っております。このような実態を踏まえますと、 防災・減災に繋がるあらゆる情報を誰でもいつでも見れる状態にしておかないといけないんじゃ ないかというふうに考えています。これまでですね、この地震の前に関しましては、実はアプロ ーチとしましては、我々は新聞社さんですとか雑誌社さんから情報をお預かりして、それを分か りやすく陳列して提供するというところで、サービスで言えばヤフーニュース、ヤフートピック スといったものをメインに考えて情報提供のことを考えていました。ただまあ今回に関しまして は、もっと動的なデータというものが求められるという状況に変化してきています。例えば放射 線の情報で、この地域のベクレルはどれだけ推移しているか、あるいは電気の 24 時間の需要が 一時間当たりどういうように変化しているか、という部分を継続的にずっと提供していくという 部分に関しましては、放送ですとか出版というメディアよりはインターネットの方に非常にメリ ットがあります。ですので、ここの役割といいますか、というところをもっと全うして行きたい というふうに考えております。加えて我々は、我々がお預かりしたデータに関しましては、全部 二次利用できるように公開しております。ですので放射線情報ですとか、電力の情報に関しまし ても、我々が公開しているデータを使って一般個人さんですとか、他の民間企業さんが別々のま たサービスを作っていく、防災・減災に繋がるサービスを作っていく、というようなサイクルが 現状生まれつつあります。 実際にですね、例の良くニュースに出てきます、スピーディ(SPEEDI)という放射線に関す る災害予測の情報に関しましても、現状でも公開されておりません。非常にですね、我々もいろ んな個別のアプローチをしているんですけれども、まだまだこれは動きが遅い所がありまして、 こういった部分に関してもですね、是非、皆さんと今後の防災・減災に繋がる所の大きな要の部 分ですので、協力していければというふうに考えています。そもそもですね、やはり公共的なデ ータに関しましては、やはり税金を納めていらっしゃる皆さんのものですので、出来れば速やか にこういったものが誰でも使える様態で公開されるというところを、目指していければというふ うに考えております。そういったものを横断的に利用できるというところから、また新しい、防 災・減災に関する復興のビジネスでも生まれてくるのかなというふうに考えております。これち ょっとサイクルの絵にしているんですけれども、生のデータが公開されて、それを我々のような 民間の業者が、もっと分かりやすく見える化する、あるいは、加工してご提供すると。そこから また一般の方が感想を述べられて、それによってデータのフォーマットですとか、内容が改善さ れていくと、こういうサイクルをもっともっと早く大規模にまわしていかないと、次の災害の時 にまた同じような欲しい情報が見られない、手に入らない、というような事が起きてしまうんじ ゃないかというふうに考えています。ですから、本当に得意な所を得意なものとしてですね、な るべくコストもかけず時間もかけずまわしていくというような協力体制を持っていければという ふうに考えています。 我々はですね、現状どういったとこを続けているかというとこでいきますと、ヤフージャパン のトップページですとか、一番大きな集客力のある部分からですね、災害復興に関する最新情報 をまとめてご案内をし続けています。これはちょっと公開が終わっていますけれども、安否確認 の情報に関しましてもデータベースを作っておりました。加えまして写真を、デジタルアーカイ ブといいますか、一般の方がお持ちの写真がそのまま散逸するのを防ぐために、投稿していただ いて記録するというようなサービスも実施しております。こちらは今後、他の民間で同じような 147 ことをされていらっしゃる皆さんですとか、各機関の方と協力して、横断的に誰でも利用できる ような研究材料として、発展して行きたいと考えております。 で、先ほどの電気に関する見える化の部分ですね。あとポータルというところです。全国の善 意ある皆さんが被災地でボランティアをしたいと。でもどんなボランティアのプログラムがある のか分からない。一方で、被災地の皆さんは被災地で頑張っていらっしゃる、NPO の皆さんは 自分たちの活動はなかなか伝わらない、というところで、そこのマッチングの場を作っておりま す。これは、ヤフーが場所をご提供しているだけなんですけれども、現地で頑張っていらっしゃ るお客さんの最新情報の一覧をご提供したりとか、最新のボランティアプログラムが全て見られ るというようなコーナーもご用意させていただいております。あと今日、この後ご登場されます 慶応の古谷先生などもご参加されていらっしゃる民間の放射線測定のプロジェクトとも連携しま して、全国での民間のリアルタイム放射線計測情報も公開しております。また、津波、ゲリラ豪 雨、地震、あるいは停電、そういったものはですね、全て、自分の希望する地域に関する情報を まとめて通知できるというようなサービスも展開しております。 最後にですね、こういった情報を広くお伝えするという部分以外に我々が持っているもう一つ 別の側面といいますか、e コマース、インターネットショッピングに関してですね、そこを一つ の起点にして、 被災地の実際のビジネス支援、自立支援を行っているプロジェクトがございます。 これがこの復興デパートメントという名前のものです。 これはですね、 現状一年目を迎えまして、 よく NHK さんとかでもドキュメントをたくさん流されていますけれども、一般の個人事業主さ んですとか、中小企業さんが、家屋が流されている、店舗が流されているという状態で、もう一 度ビジネスをするのは結構負荷がかかります。ただ、ネットに関しては無店舗商売ですから、品 物さえまわれば、すぐにビジネスが開始できます。ただ一方で、やはりインターネットショッピ ングですので、実際にまわしていく、もっと売れるようにしていく、というところに関してはノ ウハウが必要です。ですので、我々の社員が現地にずっと赴きまして、そのノウハウですとか、 自立化するところまでずっとサポートすると、いうところを行っています。それを地域ブロック ごとにデパートという形で立ち上げさせていただいて、一つの店舗というよりは、地域全体で大 きなデパートを作ると、そのような構想で昨年の秋から開始しているものです。これに関しまし ては、実は別にヤフーだけがやるという形ではなくてですね、非常に広範にネットワークを結ん でやっていこうと考えています。まずはそういうインターネットショッピングの実施ノウハウを 学んでいただいて、その学ぶところに関しましても、フェイストゥフェイスで、人間と人間で、 お話して高めていくというプロセスを経まして、それで自立化したところをさらに現地で雇用を 増やす機会にしていきたいというところです。現状でもこれくらいの企業さんの参加をいただい ておりますけれども、今後も集客装置ですとかインターネットショッピングのインフラというと ころで我々協力させていただいて、一般の費用よりもすごい安価にご提供をさせていただくんで すけれども、それ以外の部分に関しましても、他のいろんな企業さんのサポートを得まして、も っと幅広く展開して行きたいというふうに考えております。ですので、是非ともまた今後ともご 協力のほどよろしくお願いいたします。ありがとうございます。 ◎深中メッキ工業株式会社 深田代表取締役 それでは早速ご報告させていただきたいと思います。 最近この「利他主義」という言葉がですね、テレビ、新聞等を飾っておりますけれども、意外 にアレルギーをお持ちの方もおられるかと思いますけれども、私はちょっとそれが不思議でなら ないんですが、明治時代以降ですね、全ての価値をお金で決めてしまうというような傾向があり 148 まして、本来我々の心の底にある利他主義というものがだんだん希薄になってしまったというこ とです。簡単に言うと、あなたがいたから今私がいると、あなたがいたから私は頑張れる、そう いうあなたになりたくありませんか、というのがこの利他主義だと思います。 リスクマネージメントなんですけれども、私の会社は実は 10 人ぐらいの非常に小さな可愛ら しい会社なんですけれども、そういった中小零細企業にはですね、それなりのリスクマネージメ ントと、また、ネットワークがあります。実は一橋大学名誉教授の関満博先生が阪神大震災や、 そして柏崎などの大きな地震の時にすぐさま現地入りをして非常に多くの調査をされました。そ の時に、例えば精密プレスの会社が被災した時に、地震で被災してしまった時に、どういうこと が起こって何が必要だったか、例えばこんな大きなプレスの機械が傾いてしまった時に一番必要 なのは水準器であるとか、そういう細かい所や、そのプレスメーカーが実際に被災地に入った順 番、どこのメーカーは何番目に来たとか、そういう細かいところまで実はデータを残してくださ っています。実はですね、 「ひたちなか支援」ということで、私がおります東京の墨田区、今スカ イツリーが非常に有名でテレビに良く出ておりますが、墨田区にはですね、フロンティア墨田塾 という墨田区と共同してやっております若手のビジネス経営者のビジネススクールがあります。 先ほどご紹介した関満博先生が塾長をされていまして、行政と絡んでやっている私塾が全国に 25 箇所あります。で、このひたちなかという所は茨城県なんですけれども、地震だけを取ると一番 被害が多かった所だそうです。ご多分に漏れず、ひたちなかのその塾のメンバーのプレスが傾い てしまったということで、いち早く我々にメールが来ました。水準器を持っているところがあっ たらすぐ貸して欲しいというメールがありましたので、それをこの全国この 25 箇所のですね、 北は北海道から南は鹿児島まで、そのネットワークにメールを送りまして、墨田区中心に岡山、 そして八王子などから、非常に多くの水準器をひたちなかに送ることが出来ました。で、その結 果どうなったかと言いますと、通常でしたら一月以上は必ず復帰にかかるところ、一週間以内に 全てのプレス工場が復帰できたということがありまして、これは日経新聞にも大きく取り上げら れたんですけれども、それを機に、今では例えば岡山と八王子とか、遠方の同業者の工場を中心 にお互いの工場見学をし合う、そんなことにもなっております。やはりこのようにネットワーク というのは、緊急時に突然できるものではなくて、普段からのお付き合いが非常に大事だという ことであります。 で、今も申し上げましたけれども、やっぱり同じ町会に住んでいたりする同業者というのはな かなかライバル意識というのが強かったりして、コラボレーションできなかったりしますので、 震災も絡めて近くの異業種、そして遠くの同業者とコラボレーションするのが非常にいいのでは ないかということがあります。関西圏はですね、今日、和泉社長お見えになっているのかな。大 阪にはですね、大阪ケイオスという非常に素晴らしいものづくりのグループがありましてですね、 自社のイメージビデオ、コマーシャルを映像にして配信したりとか、そして今回の被災に関して もですね、白いリボンのバッジをお作りになって、それを義援金にしたりなど、非常に素晴らし い活躍をされているグループがあります。それと同時にですね、関西の KNS というのがあるん ですけれども、これは岩手大学の INS の子分のような団体だそうでして、こちらも非常に大きな 団体となっております。で、KNS も大阪ケイオスも非常に情報発信力が素晴らしいということで して、先ほど言いましたように、INS 岩手大学のネットワーク、その INS はですね、やはりいち 早く被災の状況をメールで我々に提供していただいて、これも船大工さんの工具が実は足りない という情報をいただきまして、墨田区でどこかないか、どこどここういうのはないか、というふ うにお願いしたところ、即座に、しかも新品が集まりまして、それをお送りしたという経緯があ るんですけれども、やはり岩手大学さんは、今では珍しくないんですけれども、大学に入学して 149 いただくために、大学の方々が各高校に挨拶に行く、つまり営業に行くということを何と 25 年 前からおやりになっているという、非常に歴史が長い地域であります。 それで、我々墨田区は何をやったかという前に、まず墨田区というのはどういう所かというこ とをご紹介したいと思うんですけれども、墨田区というのは皆さんあんまりご存じないと思うん ですが、実は東京駅とか銀座まで直線距離で 5km の非常に便利のいい所です。江戸時代で言い ますと、それこそ吉良上野介の吉良邸があったりとか、あと遠山の金さんが住んでた家とか、長 谷川平蔵の家もあったとか、それから、ねずみ小僧の墓があったりとか、とにかくそういう歴史 文化が非常に混在している、江戸時代の中心的な地域だったんです。ご多分に漏れず、墨田区も 非常に被害に遭いました。古くは明暦の大火。そして、関東大震災と東京大空襲。で、実はです ね墨田区の特に向島地区は人もやっと通れるような狭い路地がたくさん残っているんです。なぜ でしょう。本当にたくさんあります。今お話したように「え?おかしいなぁ。東京大空襲があっ たのに何で焼けなかったのだろう。 」そういう皆さん、疑問がおありだと思うんですが、実はです ね、関東大震災っていうのは、ご存知のように地震で、もちろん津波もたくさん来たんですけど、 下町が一番被害を被ったのは火事なんですね。この火事でほとんどの家が焼けてしまいました。 ですからみんなバラックに住んで、お互いを助け合った。例えばどういうことをしたかというと、 「どこどこさんって、そう言えばおじいちゃんいたよね」 「うちら寒いけど、うちらのどてらをお じいちゃんにあげよう」そうやって自分たちも一つしかない上着をご提供したりとか、 「そう言え ば、どこどこさん家には小さい赤ちゃんいたよね」 「うちらも食べ物ないけど、どこどこさんにあ げよう」そうやってお互いがお互いを助け合って生きてきた地域なんですね。 で、その疑問の回答に移りますけれども、これ東京大空襲というのはご存知のように B29 がた くさん焼夷弾を落としました。たくさん落としました。ところが、こういった助け合いの精神で 生きてきた地域ですから、実は焼夷弾というのはですね、落ちてから爆発するまで 5 分ぐらいか かると言われております。その 5 分の間にですね、そこに住んでいる地域の方々がバケツリレー 方式でその焼夷弾を井戸に落として火災を逃れたというようなことが文献に残っているようなぐ らい、非常に墨田区、下町って言うのはご近所付き合いが強いし、お互いを助け合うという気持 ちが非常に強い、こういう地域であります。で、皆さん 3 丁目の夕日という映画をご覧になった かと思いますが、我々の住んでいる町会の社長は、実は秋田県出身だったとかですね、それから 岩手県出身だとか、それから東北の仙台出身だとか、つまり東北地方から集団就職で東京関東に 来てですね、そこで働いて独立されて事業をされている方が非常に多いです。ですから、非常に 東北の震災に関してはもちろん我々の所もですね、非常に大きな被災をしたところもあります。 実際に私の会社もですね、三階が全部崩壊しまして、罹災証明をもらったぐらい結構被害に遭っ たんですけれども。 で、そのような付き合いで発展してきたというか、墨田区が何をしたかと、どういうことが起 こったかというとですね、ご存知ないかもしれませんが墨田区というのは東京 23 区の内で一番 貧乏な、語弊があるかもしれませんが、一番貧しい区なんですね。つまり、税収が一番少ない、 個人の所得でいうとお尻から数えて 5 番目ぐらいの、そういう区であります。ところが今回の震 災の義援金に関しては、東京都 23 区の平均のなんと 1.5 倍を出しています。一番税収が少ない、 そして個人の所得もお尻から数えて 5 番目の、そんな住民たちが「これを使って欲しい」という ことで赤十字を通して東北の方々に義援金をお渡しております。墨田区の産業経済部のある職員 の方が教えてくれました。震災が起こるひと月前に、信用保証協会の保証付きの低利子のお金を 借りてきたそうです。 「ちょっと会社が暇になっちゃったので、お金を貸して欲しい」ということ で、いくらかはわかりませんが、お金を借りるように申し込んできた。それで申し込んで回答が 150 来る前に 3 月 11 日を迎えてしまった。すると、それを借りに来た社長が突然、産業経済部に来 て、 「これを使ってくれ」と言って、なんと 500 万を寄付したそうです。 「だって社長、会社のお 金を借りに来たじゃないですか」 「何言ってるんだ。あれは会社のお金。これは俺のへそくりだ。 これはみんなのために使うんだ」と言って、なんと 500 万円を寄付したという、非常に太っ腹な 社長が多いのも墨田区の大きな特徴です。そして是非、皆さんにも東京に来た際にもお寄りいた だきたいのが、両国の国技館のすぐ側に、東京慰霊堂というのがあります。これはどういうもの かと言いますと、関東大震災と、そして東京大空襲でお亡くなりになった方々をそこに納めてい ます。そしてその横に慰霊堂の記念館があります。そこには非常に生々しい写真とか物とかが、 例えば鉄が火事で溶けているものとか、それから自動車が焼けて骨だけになったものが雨ざらし になって飾ってあるとか、そういうような物から、あとは関東大震災のときの小田原の方の絵が あるんですけれども、非常に大きな津波の絵があったりとかですね、そういう生々しい物が、写 真であるとか絵であるとか遺品であるとかオブジェだったりしますので、是非、皆さんも東京に お見えになった時は、東京慰霊堂にお立ち寄りいただきたいなと思います。で、こういうような いつまでも震災を心に留めておくっていうのは、私は今回の東北震災でも必要なんじゃないかな と思います。 そして私の会社で私が実際にやったこと、これは、まず、3 月 11 日は金曜日でしたので、月曜 日の朝礼で、東京も東北もこういうふうになってしまったと、個人のお金で、義援金をするのは 非常に限度がある、じゃあ会社として何ができるんだろうということを言いまして、やはり会社 としてはちょっとでもたくさん利益を上げて、みんなに給料をたくさんあげて、所得税をいっぱ い払ってもらって会社は法人税を払う。これが、一番身近で確率の高いことだ。だから仕事をで きないと言わずに頑張りましょう、ということをそこで宣言しました。そして東北復興が終了し たと、震災の復興が終了したと政府が宣言するまで、毎月、5,000 円を復興手当てとして君たち にあげる。だからその 5,000 円は、復興に関する、何でもいいからそれに使って欲しいというこ とを申し上げました。あとネットワークということで、ここに書いてありますけど、松田一敬さ んも副理事でいらっしゃいますけど、特認 NPO 地域産業おこしの会と、これはどういう会かと 申しますと、ご説明するとそれだけで何十分もかかってしまうので、とにかく各分野のトップた ちの集団でありますので、地域産業おこしをお手伝いする、もちろん、復興に対してもお手伝い をしております。岩手で屋台村を作ったというニュースもご存知だと思うんですが、あれは我々 の仲間が実際にやったことなんですが、是非、皆さんもこの NPO にご参加いただきたいと思い ます。そして是非、毎年 1 月の終わりに、墨田区区役所のリバーサイドホールというものがあり まして、そこで若手経営者、そして各都道府県の行政の人をひっくるめて、300 人以上集まる新 年会をやります。是非、皆さん、これにも参加していただいて、交流を広げていただきたい。そ してネットワークを構築していただきたいと思います。そして、もう 1 つはやはり Facebook。 この時代はやはりこういうツールは欠かせないと思います。福島県の浪江町役場に呼んでいただ いて、商工会の方と役場の方と、これからどうしたらいいんだろうということを会議した時に、 実は働き口がないという時に、 「あ、そういえばこの人、二本松にスポット溶接の工場を持ってた な」 。その場でですね、実はお願いしたら「いいですよ。2 人ぐらいなら受け入れますよ」 。今、 そういう時代なんですね。ですから、リスクということだけでなくて、普段からこの Facebook に登録して、どんどん繋がっていただきたいと、良かったら、私もやっておりますので、どんど ん繋がっていただきたいなと思います。 そして最後に、かつてあのマザー・テレサが言った言葉なんですけれども、 「愛という行動の真 逆のこと、それは無関心」と、そういうようなことを言ったことを思い出します。やはり今回の 151 震災のことに関しても、 無関心が一番良くないなと個人的に思いますので、関心し続けてですね、 是非、皆さんの力で復興を一日でも早くしていただけたらなと思います。ということで私の報告 を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。 ※ここで、機材の不調により草刈社長の『OMOIYARI』プロジェクトの映像が流れなかったため、 ポータルサイトの紹介へ 復興支援ポータルサイト紹介 ◎合同会社 SARR 松田代表執行社員 皆さん、こんにちは。ただ今ご紹介いただきました松田一敬といいます。ちょっと、映像確認 をしていたのですけれども、先ほどの映像が上手く音が出なかったので、先に私の方の話をさせ ていただきます。 今回の「被災地復興の為のビジネスイノベーション ~未来への挑戦~」の一番大きなテーマは 持続的な雇用の創出をどうやって東北につくるか、それのために関西から、京都から、どんなこ とが出来るか、そういうことをテーマに今日、そういうシンポジウムを京都大学の CAPS さんが 開かしていただきましたので、私どもこちらの企画・運営をやらせていただいております。私今 ずっと北海道を始め、いろんな所を地域おこしのファンドをやったり、先ほどの深田さんと一緒 に「地域産業おこしの会」という NPO の副理事長をやらせていただいて、ずっと地域おこしの 仕事をしてきました。その中で深く持論としてあるのは、起業、自分で会社を起こす人が多いほ ど元気で、日本で雇用を生み出しているのは創業してから 5 年未満の会社なんですね。創業して から 10 年以上経ってる会社っていうのは雇用を喪失しています。ですから、今、東北を元気に しようと思ったら、ここ暫らくは公共事業があるので大丈夫だと思いますけれども、12 万人の失 業者を継続して職をつくっていくためには、どれだけたくさんの人が東北で起業する、もしくは 関西で起業して東北でビジネスをする、そういったことを創り出していく、そういったことが重 要だと思っています。 それでですね、まだ(PC が)繋がれていないようなのですけれども、今回お呼びさせていた だいた皆さんは、事業を自分でつくる人、東北でつくる人、事業を自分でつくると同時につくる 人を応援する人、そこにお金を提供する人、インターネットとかの環境でそれを側面で支援する 人、もしくはテレワークという事で現地にいながら東京とか関西の仕事ができるような環境をつ くれる人。どうやったら現地でビジネスをつくっていくか、そういうのを生み出すことを想定し ています。それでですね、実は今日、4 月 1 日にスタートさせていただく予定の、お手元のパン フレットの裏を見ていただきたいんですけれども、今後の予定という事で、 「4 月 1 日(日) 関 西発被災地復興支援ポータルサイト開設(予定)と書いてありまして、今世の中にある復興支援 関連サイトというのは、先ほどのヤフーさんのような中小企業支援型の復興デパートメント、あ あいったものは実は非常に稀でして、どっちかというと現地でボランティアをやりましょう、と か、現地で被災している人に義援金を送りましょう、とか、何か物を送りましょう、とか、そう いったものが多くて、ビジネスを作ろうと、あ、映像が出てきましたね、ビジネスを作ろうとい う話はなかなかないので、そういう観点から、まず一つはここに来れば日本の、特に関西から東 北地方でビジネスをつくろうとしているいろんな人たちがわかる、そういうものを考えています。 具体的には今回発表いただいている事例紹介の方、パネリストの方たちの中身も含めて事例紹介 を行って、どんなイベントが東北もしくはこちらであるかということも、紹介していくと。しか も今 Ustream で配信しております。もしお手元にパソコンがあってネットに繋がる方は、是非 152 Ustream も見ながらどんどんどんどん発言もしていただきたいのですが、こういったものをアー カイブで残しながら、 それ以外の動画が出てきたらそれもアップしていくということになります。 先ほどの佐分利先生の話でありましたような「AINAS」関西の力を被災地の復興へ、という理 念を説明させていただいた後に、いろんな事例紹介、これモックなので、まだ具体的な内容はな いのですけれども、例えばこの後発表されるような起業家支援ネットワークをつくっておられる MAKOTO の活動だとか、福島でソーラーをつくられる福島ソーラーの活動だとか、そういった ことをご紹介させていただいていきます。そして、どんなイベントが今どこであるのかというこ とをわかるように、そういうページをつくろうというふうに思っています。後はそれぞれの活動 が、今ここは今回の後援機関の名前が書いてありますが、それ以外の実際にやっていらっしゃる ところの活動がどういうことをやっているのかというお話をさせていただいて、特に事業をつく るっていうことを目的にしていますので、先ほどの YAHOO!さんの復興デパートメント、池田泉 州銀行さんのビジネスマッチング、このあと発表される MAKOTO の起業家支援ネットワークも しくは MAKOTO ファンド、こういったところを色々連携しながら現地と色々やり取りをしなが ら、やっていきたいと思っております。 あともう一つ、このサイトの特徴は、今日後でお話をいただきますが、実際に事業を起こす時 に、自分でつくる人、応援する人、それを分析するアカデミアンの人、プラスお金を調達する人、 自分でお金を出したい人、もしくはお金を調達したい人、そういった人が来れるようなサイトを 作れればいいなというふうに思っております。今日の結果も含めまして、とりあえず 4 月 1 日に ベータ版をアップして、徐々に中身を充実させて、いろんなところと提携をしながらやっていき たいと思いますので、是非、応援ならびにご参加の方をよろしくお願いします。どうもありがと うございました。 (休憩) 5.パネルディスカッション : 未来への挑戦 ◎京都大学 鈴木准教授 京都大学の鈴木でございます。よろしくお願いいたします。パネルディスカッションでは、こ こにいらっしゃる7名の方にまずご報告いただきます。10 分を目処に、多少長くなっても仕方が ないと思いますが、なにせ人数が多いものですから、10 分を目処に皆さんご報告いただいて、ま ず、人数が多いこともあって、この人はどういう人だろうというふうに皆様が思っていると思い ますので、簡単な自己紹介も兼ねながら、これからやろうとしている事業、着手しつつある事業、 その他、プレゼンテーションしていただければと思います。そしてその後、簡単にこちらでディ スカッションした後、最後に会場から質問を受け付けたいと思います。ネットワークがキーワー ドでありますので、やはりお互い理解しないといけないということで、会場からも活発な質疑を いただければというふうに思っております。それでは早速パネリストの報告をしていただきたい というふうに思いますが、私の左から順に報告をいただきたいと思います。まず河北新報社の寺 島さんからよろしくお願いします。報告は私の右手にあります、演壇でお願いしていただきたい と思います。 ◎河北新報社 寺島編集委員 ご紹介いただきました、河北新報社編集局編集委員の寺島と申します。私は現役の記者であり まして、一番年長、年を取った記者という事ですが、去年の 3 月 11 日以来、若い同僚たちと一 153 緒に現場をずっと歩いてきました。で、連載の取材とデスクをやりながら、 「余震の中で新聞を作 る」というブログもずっと書いてきました。そうした中で見た現地の状況、現状というものをま ず報告させていただきたいと思います。 東日本大震災の発生からすぐ 2 度目の 3 月 11 日が来るわけですが、宮城、岩手、福島の 3 県 で死者・行方不明者が 19,000 人、全・半壊の建物が 30 万棟、それから福島第 1 原発事故を含め まして、避難者が最大時で約 50 万人生まれたという未曾有の災害でありました。1年経っても 今でもやっぱりあの日が続いているというふうなところが実感です。 「復興という言葉を唱えられ るたびに、その陰で自分たちが忘れられていく気がする」という人もいました。 最近も、陸前高田とか、気仙沼、南三陸町、石巻といった被災地を歩いてきました。震災当初 の町という町を埋め尽くした瓦礫というものは、今はほとんど撤去されて表面上はありません。 そのかわりに、何もなくなった空間が荒れ野のように広がっている。ここにいったいどんな絵が 描かれるのであろうというふうなことを考えるのが、なかなか今の時点では難しいというふうな 状況です。避難所にいらっしゃった被災者の方は仮設住宅に移る、あるいは身内を頼る、あるい はもう仙台とか東京とか、そういったところに移っていくといった選択を迫られ、いろんな人生 の岐路をそれぞれ経て今の復興の歩みとは別に生きなくてはならないというのが実情です。 例えば去年から、夏ぐらいから、市町村ごとに復興計画というのが今作られていて大体まとま ってきた。そしてそれに血液を流すといいますかね、そういう役割をもつところが復興庁、さら に復興局という出先が各県に置かれ、復興事務所が各被災地の現場に開かれ、去年の暮れに 3 次 補正で 12、 3 兆円という巨額な復興のための予算が組まれたということです。 漁港の地盤沈下は、 牡鹿半島で 1~2mも岸壁が沈みました。そういったところに土を盛って応急にかさ上げするとか、 道路を復旧するとか、目に見るところの公共工事っていうのは進んでいる。瓦礫の撤去も含めて ですね。でも実際にはそこから例えば、被災地や浸水地域になったところの人たちがそこからど う生きる場所を作るか、 例えば集団移転、高台移転とか区画整理とかいろんな方法ありますけど、 なかなかそれが現地にとどまりたいという人、もうここにはいたくないという人、いろんな意見 があってなかなかまとまらないところが多い。あるいはその漁港をはじめ、被災した所はだいた い海に面した地域でしたから、水揚げ量は前年度の 2、3 割にまだとどまっている。港がそのよ うに被災し、さらには冷蔵庫、冷凍施設、その後ろにある水産加工施設、水産加工団地といった ところがみんな被災して、しかも地盤沈下したり、さらにそこにですね、先ほど申し上げました 移転をすべきかどうか、といった問題がのしかかっている。それを判断するための防災上のいわ ゆる危険区域、建築制限などの線引きが行われたり、まだ決まらなかったりして、現地の企業も 人も身の振り方が決まらない。 失業手当の受給者も被災三県で約 64,000 人だそうです。 これは前年の 2 倍ということでした。 この失業手当をもらってない人たちもたくさんいるわけで、その家族を含めると、どのくらいに なるのかということです。それから、さらに復興計画を、例えば 8 年とか 10 年とかかかる復興 計画を待てない人もいる。生きなきゃならない、もう待てない。そういったことでですね、人口 が流出していくという問題も起きている。例えば石巻と合併した所ですが旧雄勝町という所には 4,000 人いた人口が 1,000 人余りに減ってしまった。自治会がもう機能を維持できないというこ とで解散が相次いだり。こういった現状があります。 それから、人口動態を見ますと、3 県での転出超過というのが計 41,226 人だそうです。これは 前年の 4 倍ということです。原発事故で放射能汚染を受けて住民が避難した、20km 圏内とかで すね、あるいは、その周辺でも「もうここには住めない」というふうに、子どもと共に移った家 族とか、そういった方を含めて福島からは約 33,000 人の方たちが転出していった。また福島か 154 らは、県内あるいは山形であるとか、とにかく数えることが困難なぐらいの数の方が、例えば収 入を得るために旦那さんは地元に居て、奥さんと子どもさんが市外、県外に出るとか、そういっ た家族の分断も起きている。 あるいは、飯館村を始め、除染を進めて早く帰りたい、 「帰村しよう」というふうな言葉が聞か れますが、そういった除染自体がまだまだ実験段階にある。今年から農水省が、放射性セシウム が例えば表土から 4、5 センチのところにだいたい吸着しているという性質であることから、そ の部分を、とにかくその下の土のまた下にひっくり返してしまう「天地返し」という田んぼの除 染方法を広めようとしているけれども、その上で、そこで取れる農産物、米やりんごや桃を、ど れだけの人が買ってくれるのか、という風評の問題が残る。 私の知り合いといいますか、私の取材でも、たくさんの農家の人も取材してきましたが、とに かく自分たちでできる限りの除染なり、土壌改良なりそういった努力をして、しかもそういった 土を筑波なりの研究機関に送って「不検出」といった結果を得ながら、しかし買い手が全くつか ないという実情があった。私の親しいりんご農家は、その平年のりんご生産・販売の約 3 割から 4 割、20 トンも売れないまま廃棄して、自らそれを機械でつぶさないとならなかった。 現在のところ、2 度目の 3.11 に向けて報道機関も「現状はどうか、復興をどうする」というふう なキャンペーンをやっています。被災地では、それが過ぎた後、自分たちはまた忘れられてしま うのではないかと、そして延々たる風評、風化との戦いのまた 1 年が始まるのではないかという ことを思っている人が多いです。で、私自身もそういう覚悟をしておりました。その中で今日の ような、東北から遠いですが関西の地で、こういった被災地の声といいますか、被災地をどのよ うに応援してくれるかということを、いろんな知恵を出してくださるという方々が集う場を設け てくださったことには大変感謝しております。ではちょっと写真を見たいと思います。 これは、河北新報の被災当時のものですね。こういうふうに、外界で何が起きたのかというこ とがわからずに私たちはとにかく、まずは記者たちの安否確認をした上で、家族の安否も確認で きた記者たちだけで、とにかく当日の新聞を作ろうとしました。とにかく行けるところまで行っ て安全を確保した上で、見たまま聞いたままをとにかく電話で吹き込めと、まあこういう情景で すね。河北新報はそれまで 48 万部近く発行してたんですが、3 万 5 千部が津波の被災地となった 地域から失われました。これが、新潟日報という友好紙の協力を得て作った翌 3 月 12 日の新聞、 たった 8 ページになりましたが。ここに載っているのは記者たちの自らの被災体験の手記です。 「遭遇丸 2 日生還 目前で防波堤崩落」 「全部なくなった」「胸まで水 死を覚悟」 「迫る波、町 をのむ」 「歩き、車乗り継ぎ家へ」 。この間、記者たちは 3 日も 4 日も安否不明になった。 この写真は私も行った遠野市の前線基地の様子です。仙台から朝 5 時ごろ出て、岩手の沿岸の 被災地に行こうということで、盛岡や北上の支局の現地記者たちと遠野で落ち合って、これから 出発しようという場面です。私がここに行ったのは 3 月 20 日ごろでした。こういう状況でした。 これは大船渡市内です。これは陸前高田、なんというふうな形容がいいのか。私は日本史の教科 書で見た広島の写真を思い出しました。これもまた陸前高田です。これは米軍のトモダチ作戦で 届けられた水です。これは女川という石巻の 1 つ北にある漁港の町ですが、この役場の屋上近く まで波が来たということでした。こちらのビルの屋上に車が乗っかっています。地盤沈下のため 町の真ん中辺りに、ここまで満潮になると水がやってくる。 次に、これは人が誰もいなくなった福島県飯舘村です。国から指示された計画的避難が 5 月に 終わったあとですね。ここでボランティアの除染活動をしている人たちがいる。まあ、国がやっ てるいろんな除染のモデル事業はなかなかうまい成果が出せません。そこで、つくばや東京のい ろんな分野の研究者たちが、有志のNPOを組んで、ほとんど町の 8 割方を締めるであろう山林 155 の除染の実験をやっているところです。地元の農家も協力して関わっている。次は飯館の村役場 の前です。だけども、飯館村にもこういうふうに、全員が避難して、村を離れてしまったら、い つか帰ってくる時、再び帰村する日に若い人が働くための基盤がなくなってしまう。ということ で、村に 9 つの事業所が残りました。今も、厳しい放射線の測定の検査を自らやりながら操業を 続けているところです。そして、これが計画的避難の第1陣の家族を菅野典雄村長が見送ったと きの村役場の場面ですね。 これは、5 月の下旬の石巻です。死者・行方不明者が 4,000 人を超える石巻は、東北では最大 の被災地と言っていいかもしれません。で、これは石巻の中心部ですが、中心部の旧北上川の中 州でマンハッタン島になぞらえられていた中瀬という地域は、ほとんど何もなくなってしまった。 で、これはですね、去年の暮れごろの牡鹿半島の港です。やはり地盤沈下してしまったところを 応急で、こういうふうに-黒いものが真ん中の所に見えますが-土嚢を積み上げて、さらに土を 盛って、満潮に陸を浸水してくる水を防御しながら、岸壁を仮復旧しました。これは、石巻の門 脇町という最も被災のひどかったところの一つで、火災も起きました。黒こげの小学校があり、 その向こうに見えるのが散乱した墓石ですね。次に、これは仮設住宅です。そして、これは名取 市閖上というところで、2,100 戸、5,700 人の町でしたが、こういう状況に壊滅してしまいまし た。しかし、住人が 100 人委員会という組織をつくり、自ら現地再建をしようと決意し、7.2m の防潮提を築いて、その後ろにも多重防御を施した上で、土を 3m 盛ってそこに新しい町を設計 しようと取り組んでいます。これは、陸前高田です。現在はがれきが撤去されて、621ha という 広大な更地になってしまった。ここを土地区画整理事業で復興しようというのが市の計画です。 たとえば神戸の震災後の土地区画整理事業は、面積がその半分以下の 255ha で、26 年を要しま した。その時間を住民は待てるのか、という苦悩と希望の岐路にあるのが東北の被災地の現状で す。以上で、とりあえず私の報告を終わります。 福島との web 中継 ◎鈴木准教授 福島の八木澤商店の河野さんから中継が繋がっているということですので。実際に被災した事 業者の声を聞くということで中継が繋がったということですので。 ※福島の中小企業家同友会全国協議会年次総会に出席中の八木澤商店河野社長との Web 中継 (佐分利准教授) 京都中小企業家同友会の荻原さん、荻原理事いらっしゃいますか? 今、福島にいらっしゃる んですよね?はい、聞こえます、今、福島ですか? はい、聞こえます。そちら聞こえますか? (京都中小企業家同友会:荻原理事) はい、今、郡山の会場です。 (佐分利) 今そちらに、陸前高田の八木澤商店の河野さんいらっしゃると思いますが、お繋ぎいただきま すでしょうか。 (荻原) 156 はい。私の隣にいらっしゃるのが河野社長です。お話変わります。 (岩手県陸前高田市八木澤商店:河野社長) こんにちは。八木澤商店の河野です。大丈夫でしょうか。 (佐分利) なんか河野社長の顔がゆがんじゃっているんですが、こちらの映像が。どうぞお願いします。 (河野) 今、福島で全国の中小企業家同友会の会員が集まって、経営研究集会が行われております。東 北の被災地の仲間が「われら断じて滅びず」というスローガンをかかげ、中小企業こそが地域の 産業基盤を支え、地域の雇用を守ろうということで、今、郡山で集まっています。 (佐分利) 河野社長は実際に被災をされて、現地の方で従業員の方もお亡くなりなっていますが、今後ど のように復活への道筋をつけられていく予定でしょうか。 (河野) はい、今、八木澤商店は社員全員が一丸となって、製造することができないものは、営業とし てものを売って回る、今後は、全国のお客様のもとに自分たちで醸造したものが届けられるよう に、春から工場を建設し、秋には新たな仕込みが始められる予定となっております。この春には、 新しく 3 名の新入社員を迎えることになります。自社の再建はやはり人間の手で、社員の協力な くしては成し遂げることが出来ません。そういった意味で地域の雇用は地域の産業基盤の厚顔で すので、我々も、今後も闘ってまいります。是非、皆さんのご支援を期待しております。 (佐分利) 力強いメッセージをありがとうございました。八木澤商店の河野社長でした。 (河野) ありがとうございました。 (佐分利) 荻原理事ありがとうございました。現地からの中継を終わらせていただきます。 ◎鈴木准教授 いいですか。じゃあ元に戻ります。八木澤商店の河野社長というのは非常に積極的に今活動し ている方で、伝統のある製造業者の方ですね。それで被災した後、なかなか公的な支援がない中 で、民間ファンドなんかを利用して、かなり早い時期にセッションの立ち上げを行おうとして、 積極的に行動していた、被災地の事業者のキーマンとなる方ですね。 じゃあ、 元に戻りまして、 それでは MAKOTO の竹井さんからご報告いただきたいと思います。 よろしくお願いします。 157 ◎一般社団法人 MAKOTO 竹井代表理事 ただいまご紹介に預かりました、一般社団法人 MAKOTO の竹井と申します。よろしくお願い します。今回のスライド、元はページ数の多いものを、時間も限られているということで、削っ ていって一番伝えたい所、熱さだけは伝えたいと思っていたのでそのような内容にしたら、逆に 分かりづらくなってしまったので、口頭で適宜補足しながらご説明させていただければというふ うに思います。 まず私は、仙台から来ておりまして、元々震災前からベンチャーキャピタル、ベンチャーに投 資をする会社に勤務しておりました。で、震災当日は仙台駅前のビルの 16 階におりまして物凄 く揺れまして、よく冗談で「死ぬかと思った」という表現がありますけども、 「死ぬ」と思いまし て、でもまあ蓋を開けてみれば仙台の街中というのはそれほど壊滅的な被害ではなく、ライフラ インが止まって一ヶ月お風呂に入れなかったというぐらいが被害といえば被害といったところだ ったんですけども。 震災直後からいち早く私たちとして何をすべきかといったことを考えておりまして、産業振興 に関わっていたので、やっぱり「復旧」の次のフェーズは「復興」だろうと、いち早くこの復興 に対して準備を始めるということが自分のやるべきことだろうというふうに思いまして、動いて おりました。 そうこうしているうちに、 復興支援の動きもかなり大掛かりになってきましたので、 もう会社の仕事と両立は出来ないというふうに思いまして 8 月 1 日で会社を退職しまして、この 一般社団法人 MAKOTO を立ち上げて被災地の支援に尽力していると言ったところになります。 これ、被災地の現状ということで、先ほど寺島さんからもお話ありましたけども、こういった形 で、実はそんなに、この写真は 9 月ぐらいに撮った写真なんですけども変わっていないというよ うな状況です。ただ、三次補正予算が付いて重機がかなり入ってきたなというような、この間 2 週間ぐらい前の状況ですけども、そんな印象を持っています。この状況の中でやっぱり被災地の 雇用、それから事業をどう作っていくかといったことが非常に重要というふうになっていまして、 私たちとしてはそこに取り組もうということです。じゃあ MAKOTO とは何をする団体なのかと いうことなんですけども、あんな困難な状況の中からでも頑張っている、体を張って頑張ってい る起業家の方、それから経営者の方がいらっしゃいますので、その方々を支援しようということ です。で、大きくはその復興をリードするような企業を作っていこうというところと、復興を加 速させるような仕組みというものを作っていこうということなんですけども、具体的にいきます と、起業家のインキュベーション、育てていくというところで事業計画をブラッシュアップした い、いろんなところと繋げたりといったところ、それからお金もつけなくてはいけないというと ころで、ファンド的なところも、自前のファンド、それからほかの会社のファンドとか補助金な んかも活用しながら育てていくといったことをしております。それから仕組みづくりといったと ころでは、これも多様なことをやらせていただいているんですけども、一つ大きなのは、起業家 支援のためのネットワーク作りといったところで、ちょっと長い名前なんですけども、 「復興起業 家支援協議会」というのを作っております。これは被災地でそういった起業家とか経営者を支援 しようとしている団体、これが 14 社ぐらいの団体を束ねまして、横の連携を作って行きましょ うということをやっております。 ちょっと余談的な話になるかもしれませんけども、復興で一番必要なもの、これは、私は「ア ントレプレナーシップ」ではないかと思っています。これは日本語では「起業家精神」と呼ばれ るものですけども、ただ日本ではこれが中々根付かないというふうに言われている中で、私は日 本では日本風のアントレプレナーシップというのがあるのではないかなというふうに思っていま 158 す。それが何かというところで、それはもうこの「志」だろうというふうに思っております。こ れは、いろんな人がいろんな使い方をする単語ではあるんですけども、私としては、私利私欲で はなくて、世のため人のため体を張ってやるといったのがこの「志」ではないかというふうに思 っています。また大げさな話で恐縮なんですけども、 「志」というのはガンジーの精神性と近いの ではないかと私個人としては思っています。何かというと、金のためじゃない。名誉のためじゃ ない。 単に世の中を良くしたいだけです。といったところの一念で動くというような人たちです。 まあご存知の通りこのガンジーという人は大きなことを成し遂げておりますけども、じゃあそれ が何で成し遂げられたのかなと、いうふうに考えて行きますと、そうやって人のために体を張っ てやっている。そうするとそれを見ていろんな人が手助けを差し伸べてくれる、ヘルプをしてく れて、それが一つの大きな動きとなって大きな力となって、とてもガンジー一人では成し遂げら れなかったようなことを成し遂げるための原動力になるといったことがあると思います。今回私 が被災地各地で、目撃したのもまさにこういうことだったなというふうに思っていまして、各地 で体を張って立ち上がる人がいると、その回りにいろんなサポートが集まってきて、通常では考 えられないようなスピードで物事が動いたり、大きな動きになったりといったようなことがあり ました。この力というのは物凄いんだな、というのが私の今回の気付きです。 もう 1 つ、私が発見したことがあるんですけども、それは、日本人って通常、「安全志向」と か「リスクをとらない」というふうに言われるんですけども、こういう危機的な状況になるとリ スクをとる人が出て来るんだということに気付きました。これは何かといいますと、私が震災前 から仙台で勉強会、異業種交流会というのをやっていまして、そこに 50 人ぐらいの方がいらっ しゃいます。で、震災後にこの 50 人のうち 5,6 人の人がもう会社を辞めているんですね。これは 何かといいますと、それぞれが被災地のもっと困っている人の支援をしなくちゃいけない、何か 自分が手助けになんなきゃいけない、ということで会社を辞める。それから、自分の人生を考え 直した、といったところで会社を辞める、ということです。で、これが被災地だけでなく、東京 とか全国からも会社を辞めて被災地に入る人っていうのが多いんです。で、誰もがうらやむ一部 上場の経営企画部なんかを辞めてくるような人なんかもいます。私としてはこういったリスクを とる人というのがキーパーソンなんじゃないかなと。歴史を振り返ってみても、明治維新しかり ですけども、こうやってリスクをとって飛び出した人たちが、立ち直していった、変えていった んじゃないかなというふうに思っていまして、私としてはこの志のある人たち、この人たちを集 中的に支援しようというのがコンセプトです。 この、いわゆる志の人をピックアップするわけなんですけども、ただ得てしてこの人たちって のはビジネスが上手いわけじゃない。単に思いが強いだけとか、猪突猛進みたいな形なんですけ ども、ただこの人たちが持っているその求心力とか突破力というのは物凄い力がありますので、 この人たちをコアにして、チームを作ればいいじゃないかというふうに思っています。ここに経 営が分かる人、技術が分かる人というのをマッチングしていく。そこにヒトモノカネをつけてい くといったところで、事業を作って行きたい、雇用を作って行きたい、ということです。今、支 援先としましては十数社と関わっておりまして、特にご覧のように若い経営者の方が多いです。 ジャンルは農業から水産業から IT から、アパレルもありますし、伝統工芸もあります。いろん なジャンルがあるんですけども、それぞれ共通しているのは皆さん「志」がある経営者だという ことです。実際に大手のコンサルティングファームなんかとも提携をしながらこういったものを 実現しようとして今やっているんですけども、図にするとこんな感じになりまして、事業計画を ブラッシュアップしていく、それから国内外も含めて、ビジネスマッチングをしていく。それか らお金と人とを結び付けて行って、事業が上手くいくようにお手伝いをしていくということです。 159 今日は 1 つ、色々関西の方々に期待したい所はあるんですけども、こういったことをちょっと 切り口で持ってきました。1 つはやっぱり起業家を、そういった覚悟のある起業家はいるんです けども、中々良い事業はないということで、2 番目なんですけども、低コストで始められるビジ ネスのネタなんかがあればそういったものを移植していただけるとありがたいなと。それから、 そういった起業家になら投資しても良いよという方がいらっしゃいましたら、素晴らしいなと思 いますし、後は販路拡大というところで、実際に私たちが扱っている案件の中からいうと、こう いった石のお皿だったりとかイチゴだったりとか、後は、福島いわき市からなんですけども、ラ イスバーガーを世界に発信していきたいといったことがありまして、あれは放射能の全数チェッ クをやっていますので、食べても安全大丈夫というものなんでけども、そういったことを狙って 頑張っている方が多いということです。これは私の思いなんですけども、この被災地から雑草集 団を作りたいと思っています。これは何かといいますと、先ほどのような瓦礫の中から生命力を 強く立ち上がってくる人がいると、そういう人たちをもっと作らなくてはいけないと思っていま す。更に、この東北とか、次の日本のリーダーっていうのは実は、被災地から出るんじゃないか というふうに思っています。戦後の焼け野原の跡からはソニーとかホンダとか出てきています。 それから阪神の跡からは三木谷(浩史)さんが神戸出身ということで、日本興業銀行を辞めてそ れでもう立ち上がられています。 今回も絶対そういう人たちが出てくるだろうと思っていまして、 その人たちを支援しようということです。 これは私の将来ビジョンなんですけども、この被災地を企業とか再チャレンジの特区、特別な エリアにしていきたいと思っています。ここから起業家がバンバン出てくる。それから 1 回会社 を潰した方でも、ここだったら再チャレンジできるといったもうパラダイスみたいな所にしたい ということです。これは、私は元々日本の問題として、再チャレンジが出来ないということはす ごく大きいなと思っていまして、それゆえに若い人がチャレンジしたがらない。これをこの被災 地から変えるということです。私としては関西には実は凄く縁がありまして、私の母方は枚方出 身ですし、まあ出身というかそこに住んでいます。それから私の妻は大阪商工会議所に勤めてい ました人間でして、そういった意味で関西の方々の暖かさもよく感じているといったところです。 是非、 一緒に何か作り上げることが出来ればと思っていますので、どうぞよろしくお願いします。 ありがとうございます。 ◎ライフネス 奥村専務 皆様、こんにちは。株式会社ライフネスの奥村と申します。13 時からこの会が始まってちょう ど 16 時前、約 3 時間でお疲れの方も多いかと思いますが、実際に復興に取り組んでいるメンバ ーでこの後も議論していきますので、 よろしくお願いいたします。私は京都生まれの京都育ちで、 今仕事で東京に居りますが、地元で日頃の行いを発表させていただける機会をいただいて感謝し ております。よろしくお願いいたします。 今日のポイントを少しまとめました。 「テレワークを活用した被災地就業支援とは」、という事 ですが、まず、テレワークとは何だという点があると思いますので、テレワークについて、少し 皆様にご説明したいと思います。その後、テレワーク 1000 プロジェクトの内容をご説明して、 最後にこのテレワークというものの可能性についてお話させていただければと思います。 早速ですがテレワークとは、 「テレ」とつくので、どうしてもテレフォン、電話のコールセンタ ーのお仕事かなと思われるのですが、 「テレパシー」とか「テレポーション」などと同じで、離れ てということになります。会社から、離れてワークする、お仕事をしましょうということで、在 宅勤務であるとか、在宅ワークであるとか、いわゆる SOHO といった方々、もしくは、今モバ 160 イルワークということで営業の方が会社の社外で仕事すること、これもテレワークの一部になり ます。もう一つがサテライトオフィスといいまして、インターネットとか机とかが用意されてい る場所で色々な会社の方が、会社に直接戻ることなく途中でも仕事を出来る施設で働くこと、こ ういった離れた場所でも、お仕事をしましょうというのがテレワークです。国が定めている言い 方ですと、ICT を使って、場所や時間に囚われない柔軟な働き方。ICT というのは簡単に言うと 情報通信技術でインターネットやパソコンなどの技術です。政府もこの働き方を何とか広げよう としています。総務省とか国交省とか厚生労とか経産省もこのテレワークを推しています。政府 の目標としても 2015 年までに 700 万人の方を在宅型のテレワーカーにしようという目標を立て ています。東日本大震災以降、会社の事業継続でも非常に注目されていますし、ワークライフバ ランスの育児とか介護にも有効で、今検討している企業が増えています。 今、大体どれぐらいの人がテレワーカーなのかと言いますと、日本の就労人口の中に占める、 約 2 割の方が、会社から離れて仕事をやっていますと、いう数字が先日、国土交通省の方から出 されました。こちらは在宅型です、在宅等々でお仕事をされている人が約 490 万人です。こちら が 2011 年で、2008 年辺りから全然数字が増えていなかったものが昨年一気に伸びたということ も震災の影響を受けてではないかと報告がされています。テレワークの説明のところで最後にメ リットをお話させていただければと思うのですが、先ほどから何度も出ています、会社の事業継 続、事務所に行かないと仕事が出来ないということであれば、災害等が起こった時に「じゃあど うするんだ」と。電車が止まりました、会社にいけない、でも仕事は、サービスは提供しなくて はい。 その中で離れた場所でも仕事が出来るということは非常に有効じゃないかと。次に有能な、 多様な人材の確保です。せっかく優れた社員がいるのに結婚等々で仕事を辞めなくちゃいけない ときも離れた場所で仕事ができるということになれば続けられます。例えば京都に事務所があり、 事務所に通っていただける方しか雇用できないですが、離れた場所でも仕事ができるということ になると、全国、いや、世界中から優秀な人材を確保できます、労働人口が減っていく中、海外 にどんどん仕事が出ていきますが、主婦層やシニア層を活用して、もっと日本でも仕事が出来る のではないかと。先ほどもいいましたがワークライフバランスだとか。最後にこの介護に伴うと いうところが今後注目されてきます。奥様に介護任せているから大丈夫だよとかいう部長さんは 非常に多いですが、いやもうそろそろ、あなたも介護の手助けをする立場になるタイミングが来 るのですからと。その時に会社の部下がいる、決済を持っている、プロジェクトの責任者である という中間管理職の方が仕事を出来ないとなると、会社が止まってしまいます、そういったとこ ろでも今注目されています。その他、環境負荷軽減であるとか、生産性の向上、地域の活性化等々 でも注目されているのがテレワークでございます。 少しはご理解いただけたと思うのですが、ここからが本題になります。離れた場所でも仕事が 出来ることを活用して被災地で就業支援をやっていこうというプロジェクトを立ち上げました。 私の所属している株式会社ライフネスというのは 2009 年に立ち上げた、まだまだベンチャーの 小さな会社です。そんな小さな会社がなぜこんなプロジェクトをやっているのか、テレワークや 在宅勤務に関するサービスを、それだけをやっている会社でございます。テレワークによって新 たな雇用機会の創出や、就労問題の解決であるとか、これから日本が迎える問題を解決できるの ではないかと。 そんな小さな会社にとって、大きな出来事が起こりました。、震災が起こって小さな会社が居て も立っても居られずに、まず被災地の方に向かいました。甚大な被害を見て、小さな会社が何を したらいいのかと。お金もないです、ボランティアに行かせる社員も居ないです。そんな時に現 地の方々や自治体の方とお話をさせていただきました。するとこういったお答え、お話を聞きま 161 した。義援金やボランティアはいずれなくなってしまいます、復興のために必要なのは仕事なの ですと。働くことが生きる希望であり、働く姿が復興の証ですと。是非、とも仕事をいただきた いと、仕事が欲しいですというような話を聞きました。ただその時点での、現地の求人は、瓦礫 の撤去とか、地元を離れなくてはいけない、移住してくださいというような話が中心でした。 そこでテレワークという離れても仕事が出来る、ライフネスが取り組んでいた仕事を、提供する ことで人が移住するのではなく、仕事を被災地の方に持って行こうじゃないかと。ただライフネ スは小さな会社ですので、もうこれは 1 つの企業でやるのではなく、国、自治体、多くの民間企 業にテレワークの可能性を訴えて、昨年 7 月に「被災地テレワーク就業支援協議会」を作らせて いただきました。約 7 ヶ月の活動で、391 名の方に就業機会を提供しております。支援くださる 企業、団体は 125 を超えました。テレワークの仕組みで被災地を、日本を救いたい。先ほどから 映っているのは、仙台港の夜明けなのですが、テレワークで復興の夜明けを迎えられればという ことで、テレワーク支援プロジェクトをやっております。 少し数字的なところもお話させていただきますと、昨年 6 月の厚生労働省が出している数字な のですが、被災者を対象とした求人、雇ってもいいですよという数が 41668 名。そのタイミング でハローワークに仕事探しておられる被災地の方々が 40457 名ということで、4 万人同士なので す、普通に考えると雇いたい数が 4 万人、働きたい人も 4 万人だったら上手くいくじゃないかと いうふうに思われるかもしれないですが、ここには問題があって、そのうちの 90%が被災 3 県の 就業場所ではありません。 どういうことかというと、 東京に移り住んでくれるのなら雇いますよ、 関西なら雇いますよ、九州なら雇いますよという地元の仕事ではなかった。ただ、あのような状 況の中で移住できる方なんてほとんど居られなかったわけです。でも、日本には雇う気持ちのあ る、雇う力のある会社がこれだけたくさんあるのだということは数字でも分かっていますので、 人が動くのではなく仕事を動かそうということで立ちあげております。こちら、先ほど 125 以上 というところは、ごく一部の掲載ですが、多くの会社、大きな会社、地元の会社であるとか、先 ほどの国の機関がこの事業に賛同していただいております。 プロジェクトとして何をするのか少し細かく話しますと、まず、1 番として当然仕事を見つけ て来なくてはいけませんので、ライフネスが中心となって、今全国でお仕事ないですかと探して おります。遠隔で雇っていただくこともありますし、会社で今アウトソースしている、業務を委 託しているような仕事があるのであれば、この東北向けに切り出してくれませんかとか、もしく は海外に既に出してしまっている仕事でも、テレワークできるものがあれば東北に戻しませんか と、いうような営業をし、2 番目として、テレワークするにはインターネット回線とかパソコン とか、 セキュリティを守るための技術も必要になってきますので、そういった技術も提供します。 3 番目に、募集とか人選とか本来はハローワークさんがやるべきことなのかもしれませんが、ま だまだ、イレギュラーな対応をされていますので、そういったところも我々のプロジェクトとし て面倒を見ています。お仕事された後も、ご自宅でお仕事されるというのは初めてのご経験の方 が多いのでアフターフォローなども我々が行っています。そして、その事例をこのような機会も 含めて、発表させていただくことで、テレワークという新しい働き方をもっと広げる取り組みで ございます。目標としては、年間 1,000 名の就業機会の提供としております。 現状の被災地雇用の問題は年明け 1 月から 3 月にかけて失業給付金、いわゆる失業手当が切れ る方がどんどん出てきています。そこに求人、仕事と求職、働き手のミスマッチが起こっていま す。具体的に言いますと、1 つ目、就業先が先ほども言いましたとおり東京や大阪などの移住前 提の求人がまだまだ多い点。2 つ目に仕事はあるが、建築や土木それに付随する警備であるとか 技術職が多い点。やりたい仕事が見つからない。事務的な仕事とか、販売的な仕事とか、一次産 162 業の加工業とか製造業であるとか、そういったものがなかなかない。あとは、内陸と沿岸部でも かなりの状況が違っている点。こちらが宮城県のものですが、グレーが雇ってもいいですという グラフです。濃い青が働きたい側です、求めている方がどんなお仕事を求めておられるのかとい うと、こちらの事務的な仕事です。しかし事務のお仕事をしたいといっても、それに見合う仕事 がない。ここで気付いていただきたいのが、このテレワークという、インターネットとパソコン を使い、仕事を離れた場所でも出来ることです、すなわちこの事務的なお仕事を、被災地の方々 はやりたいと思っています。ただ、この仕事が足りない。でも、日本中にはこのような仕事がた くさんあります。その部分を被災地にテレワークの技術で持っていくことが出来る取り組みにな ります。どんな仕事があるのかといいますと、インターネットによる情報収集、入札情報調べた りですとか、ベンチマークしている同業他者情報を調べたりですとか、データ入力です。今実際 にしていただいているのはある保険会社の申込書、手書きのもをスキャニングして、それを離れ た場所で入力いただいています。あとは、ウェブサイトの更新業務などもやっております。この 後、時間がまだ少しあるのであれば、不動産の物件サイトを、現地の方がやっておられる画面な ども少し見ていただければと思います。あとは在宅型の電話業務というのもございます。コール センターではなく自宅でも電話の発信受信ということが出来ます。現状は宮城県石巻市中心の取 り組みでやっております。ただ、今後、岩手県・宮城県・福島県の他の被災自治体にもこの取り 組みを広げていければと思っています。 ここから、皆様にお願いです、寄付とかボランティアなどは、なかなか会社の体力のない限り 続いていかないと思うのですが、私どもの取り組みですと、会社の事業や業務がそのまま復興の 支援に繋がります。皆様が普段の仕事を頑張って切り出していただければ復興にもつながります。 また、テレワークというものを自社に入れていただくことでも、先ほどからお話しているように 十分企業にとってもメリットがあると感じております。今日の資料に賛同のお願いを挟んでおり ますので、少しでもご興味もたれた方がおられましたらご連絡いただければと思います。デモす る時間がないようですので、私の発表は以上にさせていただきたいと思います。ご清聴のほど、 ありがとうございました。 ◎福島復興ソーラー 半谷社長 私事で恐縮なのですが、58 歳になります。58 年前に福島県の南相馬市で生まれまして、34 年 前に東京電力に入社しております。 そして 2 年ほど前に東京電力の執行役員を退任しております。 それまでは、新規事業の責任者を務めておりました。そういう意味で、退任後の原子力の事故と 申しましても、この原子力の災害につきましては、私自身は責任を強く感じております。もう一 方の私の立場なんですけども、南相馬市の中で一番南側に私の実家はありますものですから、原 子力から 20km 圏内に入っておりまして、母は今東京に避難せざるを得ない状況です。 3 月 11 日から、どう自分が行動すべきかということを考えたわけなんですが、3 月の 19 日か らほとんど毎週 2t トラックを運転しまして、6 回南相馬に支援物資を運びました。皆さんご記憶 にあると思いますが、当時は、流通が全く滞っていました。私 20 年前から環境 NPO オフィス町 内会という活動もずっと続けております。いろんな会員企業からたくさんの支援物資を頂戴しま したし、2t トラックも貸していただけたんですけども、運転手が集まらなかった。これは痛烈な 経験です。もう既に風評被害が始まってまして、南相馬っていうのは放射線量は福島県内でも低 い所なんですけども、なかなか運転手が集まりませんでした。そんな経験を踏まえまして、6 回 南相馬に支援物資を運びながら、流通も整ってきまして、何がこれからの福島県の復興に必要か 163 ということを考えた時にですね、やはり、物を運ぶのは大切だったんですが、仕組み、事業を通 して福島県の復興に何とか貢献したいという考えを起こしました。 そして、9 月にこの福島復興ソーラー株式会社という新しい事業を設立しました。支援物資を 運んでくれた企業の中に、子どもたちの職業体験のテーマパークであるキッザニアもこれに賛同 して支援物資を運んでくれましたので、キッザニアから三分の一を出資してもらいました。地元 で太陽光の事業、家庭用の太陽光の事業をやっている会社から三分の一、そして私のところから 三分の一ということで、1,500 万円で資本金を組みまして、設立したのが福島復興ソーラー株式 会社です。 新会社は 500kw の太陽光発電所を作りますので、1kw 40 万円弱としましてですね、約 2 億円 必要です。おかげさまで、この事業に対して、共鳴していただく企業の皆さんからの増資と、そ れと国の補助金が、今最終段階の調整をしてありまして、おかげさまで今、見通しですが、2 億 円の建設資金が確保できる状況です。一方でですね、地元では農業の再建も非常に大切な問題で す。地元の農業法人が植物工場を作る、今計画が進んでいます。南相馬市の市役所の皆さんとも 連携しておりまして、この私どもの太陽光発電所を農業法人が建設する植物工場と隣接した所に 展開しようという計画が市の再生計画として、位置づけられました。ということで、私どもの発 電所の電気はですね、 一部はこの植物工場にも使われます。ですから太陽の恵みで植物が出来る。 そして、太陽の恵みの一つとして電気が出来て、そのエネルギーも使っていただく。 で、もちろんこの 7 月から始まります固定価格買取制度で電気も売電いたしますが、私どもの 太陽光発電の目的はこの売電によって利益を上げることではありません。私どもの収支はほとん どプラマイゼロの収支です。私どもの目的はですね、まず、農業の再建にもお役に立ちたいと思 っています。野菜のオーナー制度ですとかそういう六次産業化の支援もしっかりとやっていきた いと思います。で、私どもの一番の目的はですね、まず平日はこの本当の発電所にですね、地元 の小中学生に来てもらいまして、環境学習を体験してもらう。本物の発電所の運転員になったつ もりで自然エネルギーの体験学習をしてもらう。これが地元の子どもたちへの支援です。そして、 もちろん低線量の放射線の問題もありますので、それをご理解いただく方から始めるんですけれ ども、夏休みや春休みはこの発電所に全国からできればご家族に来ていただきまして、南相馬の 家族と交流していただきたい。これが私どもの目的です。この体験と交流のソフトは、出資者で あるキッザニアと理科教育の専門家の皆さんと作り込みを始めています。今福島県で 1 番問題は ですね、風評被害です。これは岩手とか宮城とかとは違います。農業が頑張って農作物を作る、 いろんな工業が頑張って工業製品を作る、本来安全な会津の観光地の皆さんも頑張っているんで すが、この風評被害がある限りは、農業も工業も観光も元に戻りません。イコール、雇用も戻っ てきません。私どもがこの風評被害を飛ばす方法が他にあるならそういたしますが、今考えてい るのは、地道に一人一人が顔の見える交流をしていくしかないと思っております。南相馬に来て いただくしかないと思っております。ちなみに、私の親戚が南相馬市立総合病院の副院長をやっ ておりますが、ホールボディカウンターを複数台も確保しました。南相馬の子どもたちの中でで すね、心配な内部被爆をしている子どもは一人もいません。しかし南相馬には、福島には風評被 害があります。これを解決するのは人と人との交流しかないと思っております。この自然エネル ギーの体験と交流の場を南相馬ソーラー・アグリパークという名前にすることにしました。南相 馬市の土地利用計画の中で、この事業がお陰さまで位置付けられました。農業団体と一緒に、植 物工場と連携した発電所にしていきます。71,000 人の人口が南相馬にいたんですけれども、今は 45,000 人です。26,000 人もいなくなったとも言えますが、45,000 人が頑張っているんです。子 どもたちも今、半分の 3,000 人が頑張っています。半分いなくなったとも言えますが、半分頑張 164 っています。この南相馬が元気になることが、福島が元気になることになるだろうと思っており まして、この 45,000 人の皆さんと一緒に、南相馬の復興にあたりたいと思っております。 先ほど申しました南相馬ソーラー・アグリパークでどんな交流をするのか、そのソフトの全体 像を自然エネルギーアカデミーと名付けました。4 つあります。南相馬の子どもたちに、学校の 授業の一環として半日ぐらい、この自然エネルギーアカデミーの仕事体験、農業も含めた太陽光 の仕事体験をしてもらおう。夏休みや春休みには、募集に応じていただける皆さんから始まるん ですけれども、2 泊 3 日とか 3 泊 4 日のプログラムで地元と全国の交流を是非、推進していきた いと思っています。一方でこの南相馬の子どもたちを全国に出してあげて、全国でも交流を進め ていこうということを考えています。4 つ目は、そういう子どもたちや全国からお見えになる方 たちのお世話役は、是非、地元の皆さんとやっていこう、いわゆるファシリテーターを地元で雇 用して、そして育成していきます。それら全体が自然エネルギーアカデミーです。ちなみに発電 所は来年の 3 月 11 日までの完成を目指しています。このアカデミーは来年の 4 月以降、展開し てまいります。 具体的なスケジュールですけれども、今私どもは、資金の確保と用地の決定がですね、大体 4 月の末か 5 月くらいでお陰さまで、確定するような見通しになっております。で、太陽光発電所 っていうのは、作り始めますと意外と早くてですね、4 か月もあれば組み立てができます。そし て、来年の春に、3 月 11 日までにこの発電所が完成する頃には、植物工場も完成しておりまして、 南相馬ソーラー・アグリパークとして、復興事業のモデルとして、地域の子供たちの環境体験学 習を始めます。で、今私どもは、この自然エネルギーアカデミーのプログラム開発を始めていま す。今年の秋ぐらいには地元で、ファシリテーターの採用をしてまいります。そして来年の春、 地元の小中学生の体験学習、そして夏休み以降、全国との交流を毎年繰り返していきます。これ をずっとやっていってですね、ようやく風評被害を飛ばすことができるんじゃないかなと思って います。 発電事業の収支をあえてお出ししているんですが、500kw ぐらいの発電ですと、年間の売り上 げは 1,700 万円ぐらいです。この収支でポイントになることがいくつかあるんですが、まず役員 報酬はゼロ、ということをずっとやってまいります。一方で、それをやりましてもですね、営業 利益はプラスマイナス・ゼロぐらい、そういう事業です。太陽光は規模が大きくなりますともっ と利益を出せますが、私どもの場合は利益を出すのが目的ではありませんので、子どもたちの体 験交流の場をつくるのが目的ですから、この 500kw で十分なわけです。一方で、費用の内の 650 万円が減価償却費ですので、発電所のメンテナンスに必要な、または設備の改修に必要な資金は 毎年 650 万円ずつ貯金ができるわけですから、そういう意味では健全な経済性を確保できると思 っております。 来月 4 月に、仮の名前ですが、福島復興ソーラー交流協会という一般社団法人を作ります。そ して公益社団法人に展開していく予定なんですが、この社団法人として、地元の小中学生の環境 体験学習を支援していきます。今日、何人かのパネラーもおっしゃってましたが、被災地を担う のは子どもたちですので、その子どもたちの成長を支援するのが私どもの事業の基本です。そし て、低線量の放射線とどう向き合うかということを私どももしっかり発信しまして、それをご信 頼していただく方々に、まず、南相馬に足を運んでいただきたいと思っております。で、そうや って足を運んでいただく方が多くなればなるほど、低線量の放射線との向き合い方が、国民的に 落ち着いた考え方となっていき、風評被害をなくすことができると思います。これが福島の再生 には不可欠です。既にありがたいことに、法人からもご寄付をいただいております。個人からの ご寄付も始まっております。 165 私どもは、株式会社で発電所を建設してメンテナンスをしていく、そして社団法人で子どもた ちの環境学習や交流をしていくという 2 つの歯車で、被災地福島・南相馬の復興に継続してお役 に立ちたいという思いでおります。どうもありがとうございました。 ◎慶應義塾大学 古谷准教授 皆さん、こんにちは。慶應義塾大学の古谷でございます。私は、専門は統計学とか都市工学と いった分野ですので、必ずしも今回のビジネスイノベーションで、こういう分野で何が貢献でき るのかということはあると思いますけども、震災以降、いくつか被災地でお手伝いさせていただ くことがございまして、そこでいくつか考えてきたことを今日はご報告させていただきたいと思 いますけれども。 時間も限られておりますので、まず結論から参りたいと思いますけども、私に与えられたお題 は『被災地復興における大学の役割』ということで、非常に大それたお題でして、これにどうや って答えるかっていうのもあったんですけども……。一つはですね、シンポジウムのキーワード の一つに『ネットワーク』というものがあると思うんですけども、そういったネットワーク作り、 プラットフォーム作りの仲人役としての大学があるんじゃないかなということです。 例えば、私どもの慶應義塾大学の OB・OG でも被災地で会社をやっているのがいるんですけ ども、彼らが復興の過程の中で、自治体とどうやって繋がっていくのかということとか、人材を どうやって育成するのか、といった時に、その仲人役として非常に大学っていうのが役に立つこ ともあるだろうというのがまず一つあると思います。それから先ほどから竹井さんとか何人かの 方がおっしゃってられたんですけども、被災地においてリーダー人材の育成が非常にこれから重 大になってくることと、一方で今回のビジネスイノベーションという視点から見ても、例えばベ ンチャーを立ち上げるのが、インキュベーション施設が、必ずしも被災地になかったりする、と いうこともありますので、とりわけ、大都市にも被災地にも大学はあるわけですけども、ちょう ど大学に進学するような人口、18 歳から 20 台前半の人口が少ない被災地で、あるいは被災地と も、人材育成を、例えばビジネス人材とかリーダー人材育成とかすることによって、例えば一旦、 東京とか関西圏で人材育成の時点ではお引き受けして、その後ですね、育成をした後に被災地に 人材を返す、というような仕方もあるだろうと。そういった人材育成の仕組みとしての大学の役 割が 2 つ目でございます。3 つ目は上の 2 つと重なるところではありますけども、やはり中間組 織として、地域政策あるいは地域ビジネスに提言する、あるいはそれをちゃんと精査する、とい ったような視点から、大学として求められている役割もあるだろうと思いますので、後ほどもし 時間があればですね、こういった点について議論させていただければと思います。 私がそもそも何なのかということについて、簡単にご紹介させていただきます。私は慶應義塾 大学の藤沢のキャンパスで都市計画の建築の先生たちと一緒に授業をやったり研究をやったりし ているんですけれども、震災の直後はですね、3.11 プロジェクトというものを慶應義塾大学の中 で立ち上げまして、被災地の問題とか移住地、いわゆる首都圏、国土システム、あるいは地球環 境全般の問題ということで、一旦整理しまして、その中でも気仙沼とか福島とか首都圏の問題に ついて、いくつか関わってきておりました。下に「国を支えて国を頼らず」ってありますが、こ れは我々の慶応義塾を作った福沢諭吉の言葉でございまして、あまり税金とかそういったものに 頼らず、 民間の力で国を助ける、 あるいは自治体を助けるといったようなことをやるというのが、 私ども慶應義塾大学のスタンスでありますので、そういった観点から被災地の支援に当たってい ます。 166 震災直後は私どもの教え子の 1 人に気仙沼の出身の学生がおりましたので、気仙沼の調査に入 っていたりしていたわけですけれども、主には都市計画や建築の観点から調査をして参りました。 気仙沼もですね、非常にたくさんの大学が入っておりまして、ある時点になると大学が抜けたり とかですね、ある地区には大学の支援が行き届かないといったようなこともあり得ましたので、 まずは我々の中で、プラットフォームを作って、どこを支援すべきか、あるいはどこが足りてい ないのかといったようなことを可視化するといったようなことをやっておりました。こういうご 時世ですので Facebook を作ってみたりとかですね、それから何かソーシャルネットワークを使 って情報共有をするというようなことをやることで、若い人たちが入ってきやすい仕組みを作る。 年代を超えた、あるいは地域を越えた、例えば、気仙沼なんかでもですね、気仙沼出身だけれど も東京に住んでるっていうような人たちは、こういったプラットフォームがあれば入ってきやす いといったようなこともありますので、こういった仕組みをつくる中で、我々の、基本的には学 生を被災地に連れて行くことをやることによって、 将来、 彼らが地域のリーダーになってですね、 復興支援ができるというような仕組みを中長期的にやっていくといったような観点からやってお ります。また私は統計とか地図情報が専門でして、元々、震災の前はセンサーネットワークを使 って、インターネットでデータを共有するといったようなことをやっておりましたので、先ほど ヤフーの高田さんの方からもありましたけれども、全国に下の地図にありますような形で、放射 線の測定のネットワークを作って、それをヤフーさんとか、いくつかの企業に提供して共有する といったようことをやったりですね。 先ほど半谷さんからもお話ありましたけれども、 南相馬で、 住民の方々が線量の低い所でも自分たちで測って、 今、国が情報提供している所は道路だったり、 比較的線量が高い所に限られているんですが、農家の方々が多いということもあって、自分たち で線量を測って、それをすぐに可視化してフィードバックするといったような仕組みを地元で作 ることによって、復興の支援あるいは除染活動の支援をすることもやってまいりました。 ここから先、どういったことをやるのかということは、先ほどの半谷さんのプレゼンなんかも 聞きながら考えていたんですけれども、やはり農家の方々は現金収入が得られないといったよう なこともあると思いますので、例えばコミュニティベースで、すぐには耕作ができない農地に太 陽光パネルを設置したりとか、あるいはバイオマス発電をするような、そういった仕組みを作る ことによって、それが必ずしも震災以前のレベルまで収入が得られるかといったことではないと 思いますけれども、何らかの生きる糧になる仕組みになるんじゃないかというふうに思っており まして、例えば、エネルギーの観点からエネルギーコモンズみたいなものを作ることによって、 従来は家庭とか企業とか農家が大規模発電をして、それによって地域のエネルギーをまかなうと いったような、この図で言うとちょうど青い矢印のところですか、そういったところのネットワ ークを作るといったところがメインだったんですけれども、今、例えば企業と NPO が共同して、 一緒に地域の現業を支える、といったような仕組みもですね、震災以降できつつありますので、 できるだけコミュニティレベルで収益を得られるような仕組みを支援するようなことも大学とし てなんらかできるんじゃないかなと思っています。そうした中で共同体のプラットフォームを 我々も作っていけるんじゃないかと思っていまして、これはまだ、これから取り組めれば良いな と思っているんですけども、ちょうど環境省から助成をいただいているところもありますので、 例えば南相馬とか福島とか気仙沼とか、そういった所でこういうコミュニティエネルギーアクシ ョンプランをつくるような、先ほど半谷さんがプレゼンされたようなことを、例えばもうちょっ と中長期的な視点からプランニングするような支援もできるんじゃないかというようなことであ ります。といったようなことで、こういったことを大学としてやっていけばいいんじゃないかと 思います。 167 大学の立場で感じることはですね、やはり阪神淡路以降、新しい公共という概念も定着してき たところもあるんですけども、やはり非営利でやることの限界も今回見えてきたということもあ るので、やはり非営利、非専門家ということだけではなくて、そこと営利と専門家とのですね、 バランスをどうやって取っていくか、限界があるというとちょっと言いすぎなんですけども、ど うやってバランスを取っていくかということも重要かと思っていますので、この辺のプラットフ ォーム作りのお手伝いなんかも大学ができるんじゃないかなと思います。また放射線の問題も含 めてですね、こういった科学技術で失った信頼っていうのはやはり、私自身も統計の専門家だと いうこともありますけども、科学を進歩させることで取り戻せるところもあるということもある と思います。そういった観点からなんらか、大学でお手伝いできるんじゃないかというふうに思 っておりますので、もしお時間あれば後ほど議論させていただければというふうに思っておりま す。以上で私の発表を終わらせていただきます。ありがとうございました。 ◎大和投資信託 田中副部長 大和証券投資信託委託株式会社という長い名前の会社の商品企画部というところにおります、 田中と申します。被災の当日はまだ違う会社で、大和証券というところの投資信託部というとこ ろで、まあ仕事自体は変わらなくてですね、やはりそこでも商品開発の仕事をしておりました。 大和証券グループは結構、社会貢献型の金融商品の開発と販売を積極的にやってきている会社 でございまして、例えばワクチンボンドというのを販売したりしています。これはアフリカの子 どもたちがワクチンがなくて病気で死んでしまうというような時に、国際機関からの寄付が少し ずつ来るのを待って少しずつ打っていたら、今、打ってもらえないので死んじゃう、という状況 のところを、ファンドでお金を集めて、先に注射を打って後から寄付が回ってきたらそれを債券 の利払いや償還に充てるというような債券です。こういうようなものを扱ってきた中で、マイク ロファイナンスのファンドというのも作りました。私が企画したんですけども、これは世界の貧 困層が起業して自立して立ち上がるために、お金が必要であると、このお金を融通する機関とい うのが NGO、その他にあるんですけれども、そこに対して貸し付けを行っていくファンドとい うのを作りました。こういうものを去年の 2 月ぐらいに作ったんですけれども、それが大体 200 億円ぐらいのお金を集めまして、世界で 10 番目以内に入るぐらいの規模なんですね。これが出 たのを見て東証が寄ってきましてですね、事業型のファンドという新しい類型というのがここか ら生まれる可能性がある、ということで、例えば一番最初にはこれ、例えばエネ庁がやりたがっ ている風力発電であるとか、そういう事業をファンド化するというのが事業型のファンドという ことで可能になるのではないかということなので、是非、話をさせてほしいということで、お話 を伺ってですね、じゃあちょうどエネ庁の方からも風車のファンド化をやりたいという話が来て いましたので、紹介しましょうかと言っていたら地震が起きたというようなタイミングでござい まして。その被災の直後くらいから東証からも相当、急いだ形で連絡があって、 「これは復興ファ ンドにもこのアイディアは使えるんじゃないか」ということだったので「使えますよね」という ような話をしておりました。4 月の中旬ぐらいに東証が発表した震災支援の事業の中で、例えば 赤字の繰り延べをさせてあげるんだとか、要するに上場廃止基準に当てないであるとか、そうい うものの横に並んでいる一環として、事業型のファンドでの支援ということが書いてあるのです が、それがまさにそのことを示しています。 皆さんのお話を伺っていて、本当はさっきの簡易版の(資料の)方でファンドのビジネスで支 援するっていうのは結構可能性がありますよっていうことをコンパクトにお話をしようと思って いたんですけども、それだと脈絡も今ひとつよくわからないと思いますので(配布版の方を使用 168 します) 。ここが、東証が出した当時のプレスリリースなんですけども、枠で囲んだところの中に 「復興関連 ETF」とか、色々書いてありますけども、「復興関連 REIT の上場推進」、「復興関連 事業の新商品の開発支援」と「事業型ファンド、復興ファンド、インフラファンドなど」と書い てあるところがちょうど私が相談していた内容です。その後、エネ庁の担当者は計画停電の担当 になっちゃってですね、徹夜状態で連絡が取れなくて、っていうような状況の中で、その 2 年ぐ らい前に私が日経ビジネスオンラインというところで連載していた事業型のファンドの連載の脈 絡もあって、日経ビジネスが復興関係の別冊を出すということがあったので、被災地支援にこの アイディアっていうのは使えるんじゃないですかという記事を寄稿したと。それが今日お呼びい ただいたきっかけになっています。 被災の当時、私は、東京駅の上に会社があって、すごい揺れてですね、自宅があった当時の浦 安の方であの市原の爆発がありまして、家の方向で大爆発が起こっておりまして、家の近所にも ガスタンクがあるものですから、やられたんじゃないかと大急ぎで帰ったらすごい液状化してい たというような状況で、プチ被災者でありましてですね、水も一か月止まりましたので、お話し にあった仙台と同じようにですね、1 か月ぐらいお風呂入れないというような暮らしを共有しま して、さっきそれで(他の講師の方と)仲良しになりかけたなというぐらいの状況だったんです けれども。早速、大和証券グループでも社を挙げて、グループを挙げて、被災の支援というよう なことでプロジェクトをいくつか立ち上げていました。その中の相当部分というのは表面化する 前に消えていったということがあり、実は復興支援の本気のファンドっていうのも企画はしてい たんではありますが、3 つばかり提案して 3 つとも潰れましてですね、潰れた経緯とか内容とか っていうのは社外秘なものですから全然喋れないことではあるのですけど、それなりに色々なこ とがあって実現には至らなかった。その中でも唯一、実際に事業化ができて、公表されているの が、この 11 ページの上から 2 つ目なんですけれども、東日本大震災中小企業復興支援ファンド っていうことで、これは私がやったものでなくて、大和企業投資という別の会社から提案が出て きてうまくできたものでございまして、新たな成長・発展を目指す企業を積極的に支援していく というような、いわゆるベンチャーファンドの一種ができました。他にも色々な金融機関が事業 のアシストをするようなファンドを作っていらっしゃいます。 実際に自分の手で作ったものは、唯一、日本株で運用するファンドの、運用報酬の中から被災 地に対して寄付をするようなタイプのファンドというものを 1 個作りました。これは昔からある 手法で、昔作ったエコファンドなんかでも純資産の中から出てくる信託報酬、つまり運用の手数 料なんですけれども、その一部を環境 NGO に寄付するというようなプログラムを持っていたり、 社会貢献型の企業に対して投資するようなファンドで、例えば NPO の人材育成の支援のために お金を出していくような寄付をするファンドというのを前、作っていたものですから、その連想 上で日本株を支援するということで日本株ファンドを作りつつ、その中から被災地への寄付を行 うというようなファンドを 1 個だけうまくできました。その後、今の会社に異動になったので、 証券側での商品企画というのは頓挫して、私がちょっと手がけることができなくなったんですね。 なので、実際にそこで構想していたものが止まっちゃったという面もあるんですけれども、その 他にも色々な動きは、皆さんの中からありまして、一番良い例がこれですね。ミュージックセキ ュリティーズっていう会社がありまして、ここが被災地の復興支援ファンドをやっています。フ ァンドの募集総額、調達総額が 5 億 8,000 万ぐらいっていうことになっていますね。それで、こ れ、総計 28 本の合計になっています。お客さんの数が 1 万 7,429 人ということですね。これは 半分寄付で半分投資というような形で、個々の事業主に対してお金を出していて、事業の再生を 支援していくとふうになっておりまして、これもかなりの数の事業主に対して資金投下ができて 169 いる、結構良い事例でございます。ただそうは言いましても、大和証券で集めたマイクロファイ ナンスのお金は外国に出す、外国の貧困層の救済のためにローンを出しているようなファンドだ ったんですけれども、それが 200 億円集まったのに対して、これはまだ、これだけの被災の中で 6 億に届いていないということで、やはりネットで販売していくようなビジネスモデルで資金を もっと拡大していくというのはなかなか難しいところではあるなあということで、こちらの会社 にももっと飛躍していただきたいということで、まあ、社長さんもこれの役員さんもお友達なの で、よく飲みに行っては「もっとサイズアップしたいよね」というような話をしているところで ございます。 今回、私がここで申し上げたいこと、当初申し上げたいと思っていたのはこの一番最初に書い てあることでございまして、ファンドっていうのが何か、ファンドで被災地が支援できるのでは ないかというようなことを申し上げたいと思います。ファンドで一番ポピュラーなのは私がやっ ている本業の投資信託というものでございますけれども、これは個人投資家がお金を出して、株 を買ったり債権を買ったりすると。それで儲かった分、あるいは損した分含めてですけども、そ れはお金を出した出資者に返っていくというような仕組みです。投資事業組合っていうのは、こ れはプロ向けのものが多いんですけれども、これが「いわゆるファンド」と呼ばれているもの、 いわゆるファンド、カタカナで「ファンド」って言われてるものが大抵これなんですけれども、 これは私募であったり公募であったり。私募っていうのは顔の見える関係で、少しの人に対して お金を求めていくようなもの、例えば銀行が 5 つ集まって買うようなファンドとか、そういうよ うなものです。投資先は、投資信託が有価証券に限られているのに対して、いろんなものに出し ます。これも出資者にリターンは帰属すると。 もうちょっと捻った形だと、今話題になっている改正 PFI 法っていってですね、PFI というも のが注目されてきています。これを被災地にも適用しようという話がありまして、仙台空港の再 生プランなんていうのがこの改正後 PFI 法で手がけようかっていうようなアイディアが出ている ようでございまして、これは公共の物を維持・運営していくのに対して、第 3 セクターのような 公共的な主体だとあんまりお金に頓着しないので、大赤字を抱えてしまって、お荷物になるとい うようなことがいっぱいあったわけなんですけれども、これを企業側に運営を委託するというこ とによって、儲かるような仕組みに変えていこうと。それでそのプランニング自体を民間ができ るようになったというのが今回の PFI 法の改善点でございまして、そうやって参加してそこを運 営したいと思う企業がお金を出して物作って、それを官から借り上げるような形で運営していく という仕組みでございます。これはかなり良いんですけれども、復興にも相当役立つんじゃない かと思うんですけれども、ただ、ここで儲かるのって、出資した企業、参加する企業なんですね。 どこかのデベロッパーが入ってきて、空港をうまく運営して儲かったらその会社が儲かるだけで あって、現地の人っていうのはあまり別に儲からないというようなこともあります。 復興ファンドっていうことで申し上げますと、恐らく参加する主体は現地の人たちで、それを 広くお金を集めて、現場が良くなっていくのが目の前で見えて、その運営で儲かってきた収益っ ていうのが出資をした現地の人に戻るっていうような構造のファンドを構想するのが必要ではな いかなということで、前にも提案したことなんですけれども、これがそのモデルの一個。部分的 には相当できてきているのもありますが、 例えば、 低地の住めなくなっちゃった所を借り上げて、 例えばソーラーパネルを作って発電して、上の方には住宅を作って、それを家賃を取って運営し たり電気を売ってもいいし、出資した人にお金を返していく、というファンドの形態というのが あり得るのではないかと。ちょっと研究したんですけれどもこれもちょっと壁にぶつかって今動 いていないんですが、多分制度的には色々調べたらできるようになってきていますんで、もしこ 170 ういうものについてのニーズがあるようであれば、現地の人たちとご相談しながら、組成できる ようなアイディアを出していきたいなということでございます。 ここのところ注目なんですけれども、銀行の中でお金が止まっているという現状があります。 現金・預金というのが日本人の資産の過半数を占めているのですが、その現金・預金を預かって いる銀行というのは、特に東北はそうなんですけれども、預かっているお金が半分も貸付してい ない、お金が自分の腹の中で眠ってしまっているということがあるので、ここにある資金ってい うのがファンドのような形で回り出すような仕組みというのを作れれば、お金の地産地消という ことと、産業の地産地消ということと、復興の現地に対して継続的に入るお金が発生するという ことがありますので、ここのところをうまく提案できていけたらいいなというふうに思います。 これがうまくいくと被災地の復興というだけではなくてですね、全日本で適用できるような地域 振興モデルになるのではないかというのが今日の提案でございます。 ◎カンサイ建装工業 草刈社長 ニュース番組(朝日放送 NEWS ゆう+ 2011 年 9 月 26 日(月)放送)の動画 特集: 『大阪の「食」の有名店 被災地支援のプロジェクト』] 「宮城県石巻市。大阪で建設関係の会社を営む草刈健太郎さん。4 月から何度も石巻の企業や農 業、漁業の現場を訪れていました。この日訪れたのは、創業 103 年の老舗の味噌工場。床には消 毒用の石灰が敷かれ、その先には腐敗した味噌が置かれたままの異臭を放っていました。 (インタビュー 草刈社長) 例えばお金をかけて「立ち退きなさい」と言われたら退かないといけないですからねえ。 (インタビュー 被災地の味噌屋の社長) そうなった時はたぶん、確実にキャッシュアウト(運転資金がなくなる)状態になるんですよ。 次のまた新たに投資を、借り物でも何でも投資をしないと…。 「震災から半年が過ぎ、草刈さんはその場限りの一方的に助ける形の支援に限界を感じていまし た。 」 (インタビュー 草刈社長) お金を回さないとね、復興にならないし、私たちにできること、日本人としてできることをや っていく。そういう仕組み作りをやっていく。 「金は天下の回り物。お金をまわしてこそ続けられる支援。大阪商人らしい発想から「OMOIYARI プロジェクト」がスタート。中心になったのは食い倒れの町を支えるこの人でした。お好み焼き の大手チェーン「千房」の中井社長。その呼びかけに大阪の食のオールスターが集まりました。 」 (インタビュー 飲食店社長①) 今はとにかく何かお手伝いできないかなぁと。ゆくゆく、お互いにそれがビジネスチャンスと して広がっていけば。 171 (インタビュー 飲食店社長②) 本当にそこの土地(被災地)に根を生やしてですね頑張っていただかんとあかんから、それの ちょっとだけでも応援団できるなら。 (インタビュー 飲食店社長③) (被災地の)本当に良い生産者の人たち、農家さんや漁師さんが作られたものを、しっかりと素 材の良さを活かしたものを関西の店で出すということも、これは一つのいいきっかけかなと。 ( 『OMOIYARI』プロジェクト会議風景 草刈) 今回、 大阪のすばらしい飲食店の重鎮の方が集まっていただいたので、 「東北復興支援メニュー」 を 2 品ずつ作っていただきたいなと。 (ある飲食店社長) (今すぐにではなく)食材ができた時にまた買いますよ、とかそういう話を宮城に繋げていく方 が現実的ちゃうかなと思うんですよね。 「大阪を代表する名店が、石巻の特産物で復興支援メニューを作る。産地が潤い、食べたお客も 復興に貢献、なお且つ店も儲かる。儲けることで支援を長続きさせるプロジェクトです。メンバ ーは石巻へ向かいました。道中目に入るのは、津波が日々の営みを消し去ってしまった、街の抜 け殻でした。石巻は地盤が 70~80cm 下がりました。雨と満潮が重なれば、道路は水に浸かり、 復興を妨げています。 」 「あの老舗の味噌工場。草刈さんが現地企業の実情を見せるとともに、味噌工場の山形さんに顔 を広げてもらおうと一行を連れてきたのです。 」 (味噌屋社長と草刈社長の会話) こういうのはやっぱり、津波にかぶって(再建するのに)行政がお金出してあげないと。 (建物 を)潰さないんだったら「自分らでやってください」と。 「やはり今必要なのは、お金。お金を回していく目処が立たなければ、再建の計画すら立てられ ません。4 代目の山形さんは、 「建物を残したい」とこの場所を動かず、他の業者に委託して作っ てもらった味噌や醤油を細々と販売しては再建の道を探っています。 」 (味噌屋とプロジェクトメンバーとの会話風景) 「薄口。でも関西の薄口より優しいですね」 「香りも良いね」 「東北の素晴らしい食材が危機にさらされている。食に関わるものとして、この食材を活かす支 援を考えたい。実際に石巻の特産品を見て、味わって、食材が供給できるのか、お互いに有益な ビジネスになるのか。大阪食のオールスターたちが、直に生産者と話を進めます。」 (カキ生産者とプロジェクトメンバーの会話風景] 「カキのですね……御社に(カキ)を串に刺して(もらって)冷凍して送ってもらうというのは ありですか?」 172 「やれなくはないです」 「一度社長の方で調整していただいて、現物を一回サンプルでも送っていただいて……」 「大きさとかの指摘とかしていただいて、あと品質ですね。その辺で後はキャッチボールをしな がら進めさせていただければと思います」 (握手) 「よろしくお願いします」 「頑張ります。頑張るしかないですよね。」 「お互い本音で話すことで、復興支援メニューの足がかりが掴めたようです。ついでに大阪の食 を石巻の人に楽しんでもらおうと、大阪食のオールスターたちはホンマモンの味を振る舞うイベ ントを開きました。 [来場者は-] 女の子「おいしい」 「本場の味はどうですか?」 「うまいね」 おいしく長く続く支援を目指す OMOIYARI プロジェクト。草刈さんの熱い思いがきっかけと なって流れができ、多くの人が関わってくれました。」 (インタビュー 草刈社長) 「成果は私はあったと思います。 「一つのはじまり」ですよね。互いに融合し合って、新しいよう なものが生み出せるような気がします。 」 会場からの質疑応答 質問者①: NPO 法人エコ・フォーラムの 21 市民ネットワークの河波と申します。 よろしくお願いします。 南相馬のソーラーの、ソーラーとそれから農業の植物工場という非常に面白いといいますか重要 なプロジェクトのような気がいたしまして、具体的には販路ですよね、その野菜といいますか、 そういったことをあまり触れられなかったんで、その販路の問題が重要じゃないかと思いまして、 何か一言教えていただけますか。 半谷社長: 全くその通りでして、六次産業化と簡単に一言で申しましてもおっしゃるとおり、販路がある 程度、例えば半分とか三分の一ぐらいが、きちっと今の大阪の商店の皆さんがですね石巻の農産 物をきちっと仕入れてくれるように、南相馬の今度の植物工場で出来る野菜、これはもちろん検 査もしっかりしますので、そういうご信頼をいただく方をどうやって繋いで行くかっていうのも 私としてはこれから努力が始まると、それでご信頼が繋がればですね、その分だけ風評被害が飛 ばせると。ですから風評被害を飛ばすことと、そういう商流が結べることは全く同義であってで すね、理念と経済をそうやってあわせていくって言うことをその総論じゃなくて各論で一つ一つ やっていこうと。お一人の方が南相馬に来ていただくって言うことは、お一人の方に風評被害を 超えていただくことになるわけですね。風評被害をそのまま蹴散らしていただくことになるわけ で、それを総論ではなくて、一つ一つ積み上げていこうということで、何とかやって行きたいと 思っています。 173 質問者②: お話ありがとうございました。京都大学教育学部 2 回生の肥爪(ひづめ)と申します。来週か ら日中韓の青少年の交流事業で防災について議論する機会がありまして、そのための事前の学習 としてこのシンポジウムに来させていただきました。質問なんですけども、先ほどの南相馬の施 設についてなんですけども、一度津波の被害があったということはまた今後も津波の影響もある かもしれないし、まあ、津波が着やすいところだとも思うんですけども、そこで津波対策をどの ようにやっていかれるのかなというのと、あと、津波に関しての教育をされるという話もあった んですけどもその教育っていうのは防災をするための技術のための教育なのか、自分の身を守る ための教育を目的としているのか、そういった点についてもお伺いしたいなと思います。よろし くお願いします。 半谷社長: 南相馬市はですね、今おっしゃったように次の津波がいつ起こるかわからない、でも起こる可 能性があるわけですから、そういう意味ではハードの面でも防災をどうするかっていうことは当 然立案してかなり時間はかかりますけど、それを推進するという市の再建計画を建てています。 ですから、そういう一環の中でハードの面では対応して行こうと。で、次の答えは個人的になり ますが、確か岩手だったでしょうか宮城だったでしょうか、その津波のときの対応の仕方をです ね、いずれかの大学の先生と連携して子どもたちに津波のときの対応の仕方を、非常に子どもた ちが納得できるような、または例えばその津波になったらすぐ逃げるんだと、だけどそのとき家 族のことをまずみんな心配になるんだけど、逃げることがとても大切なんだと。なんか罪悪感を 持って、おばあちゃんの所に行かないことが罪悪感になるんじゃなくて、それぞれがまず逃げる ことが大切なんだということを、確か教育なさったことが非常に津波からの生存率が高いって確 か小学校あったと思うんですね、今言わんとしたことはそういうことだと思うんですけどね、そ れも当然やっていかなくちゃいけないと思います。ちなみに私の田舎はですね、宮城や岩手の三 陸と違いまして、大きな津波が語り継がれていません。ですからこれからは語り継いでいかなく ちゃいけないと思っています。 質問者③: どうもすみません。普通の京都市民ですけど。やはり、どう検証できているかと、今日もう三 日後に一年ですね。やはりそれは正しく検証できていなければ、菅さんみたいに検証されてとん ちんかんやったということで、とんでもないことがなっているんですね。やはりイノベーション がありだと思いながら、やはりいるものは物心両面で心のインザマインドをこちらの方をしっか りと見据えてあげなければ、心のよりどころという言葉がありますね、そうでなければ立ち上が って前へ前進できないんじゃないか、 そういうようなことを私思うもんです、 ずっと見ていても。 だから、やはり、心の中身をまず再生するという、リカバリーして次作り直すというリメイクし てあげて、そして、整えるという、やっぱりリセットしてあげてその後に来るのがやっぱり次の 段階で物心両面でよみがえるというリバイバルだという言葉が来て、その後、やはり持続可能性 を希求するサスティナブル、究極の目的をやっぱり示してあげないと。キーワードは生存し生き 残るというサバイバルなんですね。このリバイバル、サスティナブル、サバイバルこういうよう なものをスローガンにしていけば、もうおばあちゃんでも、 「あぁ、あれをするんか」と足、歩を 進めることが出来る。そうすることによって、やはり私の思うのが、検証するという客観的認識 174 に基づいた、本当の知覚的能動性というものが出来るんじゃないか。それが出来なかったために 大川小学校も、反対の方へ逃げて半分死んで。ちゃんと 3km 離れ海辺から 30m 離れたらという のが、合言葉になっているぐらいなのにいざというとき何も出来なかったと。私が思うのはやは り中身の問題だと。それが如何でしょうかと思うんで、草刈さんと古谷さん如何でしょうか。 ◎カンサイ建装工業 草刈社長 先ほどの意見について、心のケアというところですよね。実は私も今回このイベントの形にな ったのはですね、被災地何回も行って向こうの現状を見たからなんです。今日来られている方も ですね、何か、被災地のために何かやりたいと思って来られているから、来られているんだろう なと思います。それはですね、最初に教授がおっしゃったようにやはり行動することなんです。 全て縁なんですよね。私は建設業。でも、こんなことをしたいんだと言ったら、飲食店のメンバ ーが集まって、じゃあ、産業復興しよう。でも、東北の気性と大阪の気性なんて全く違うんです よね。でも、飲んだり食ったりしながらやはり触れ合うことで、お互いが分かり合うんです。じ ゃあ何をすべきか。やっぱり行動して現地に行かないと行けないんですね。縁とは何か意味があ るんです。で、切ってしまうとそこで終わってしまうんで、出来たら相手に行って、向こうの施 しばっかりを聞くんではなくて、こっちのニーズもきちんと、受け取ってこっちもやっぱり利に ならないといけない。自利利他の精神という形でやはり、持続発展的にこれからやっていこうと 思えばですね、やっぱりこっちもメリットないとあかんし、向こうもメリットないとあかん。 「三 方よし」の精神であると私は思っております。ということで一番大事なもんは、情熱を持って行 動し現地に行って、何かニーズを持って行動していくということだと私は考えております。 6.閉会挨拶 ◎京都大学経済研究所 矢野所長 どうも経済研究所の所長をしております矢野でございます。 本日は皆様ちょうど週の真ん中ごろのお忙しい所をお集まりいただきまして、色々とシンポジ ウムにお付き合いいただき、ご意見をお聞かせいただいたことを誠にありがとうございます。ま た、講師やパネラーの皆様におかれましては、東京の方も東北の方も大阪の方も色々いらっしゃ るというふうに理解しております。どうも遠い所わざわざおいでいただきまして、色々話を聞か していただきありがとうございました。お礼を申し上げます。 今日お話をうかがっておりまして、やっぱり何かしなければこれからの回復がないって、わた しも経済学者ですので、何らかの回復の方法ってのを考えて行きたいというのを思うのですけど も。ビジネス界の熱い思いというのが伝わってまいりました。それが、やはりビジネスを元に経 済の復興をしていくんだろうというふうに思います。今日お集まりになった皆様のご協力を得な がら、こうやって実際にこういう活動をされている皆様の、ビジネス界の皆様のお力も借りなが ら、東北、そして日本全体を再構築、再発展、再開発、再成長、そういうものが進んでいけばい いなというふうに、今日思っておりました。今日聞いてそれが確実に、着実に進んでいくという ような実感もいたしましたので非常にいい機会だと思いました。どうも皆様ありがとうございま した。本日はどうもありがとうございます。 (以上) 175
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