バラードとは何だったのか? と き ま さ 講演 関 口 時 正 関 口 時 正 講 演 ポーランド文化の第一人者で国内唯一のポーランド文化論講座の教授としてご活躍の関口時正先 生による「バラード」とショパンの関係についての講演が行われました。 もんがいかん 皆さんこんにちは。この伝統ある研究大会でピアノとは門外漢の私が話しをするということで、 どうなりますか。 私はポーランド文学を中心に研究しておりますが、日本でポーランド語を読める専門家がいない ということで音楽関係、演劇関係等、文学以外の色々な方々からお声がかかり、それにお答えして いるうちに、何でも屋になってしまいました。 ショパンに関しては、伝記を翻訳して以来、何かとご縁があります。 今年はショパン年ということで、日本におけるショパン年の催しの実行委員会にも名前を連ねて おり、それなりに貢献したいと思っています。 今日の講演は、音楽はまったくありませんし、絵も動画もありません。2台のパソコンを使いな がら、言葉だけでお話をしたいと思います。 ポーランド語のballada(バラード)は、ドイツ語のBalladeからきています。私はショパンの曲 に「バラード」という題名があるのを昔から不思議に思っていました。 その一つの理由は、ショパンが自分の曲にあまり表題をつけたがらないこと(人が勝手に題をつ いきどお けると大変 憤 っていた)。 もう一つはショパンが文学と縁が遠いということ。はっきり言うと文学嫌いだった訳です。その 18 ショパンがなぜ「バラード」という非常に文学的な題名をつけたのでしょうか? 〈特集〉第26回全国研究大会 ショパンは曲に4回「バラード」という題名を自分でつけました。初めの作品23は、ショパンが ご い 23、4歳くらいのときです。その頃のショパンの頭の中にある語彙の「バラード」とはどういう意 味をもつのでしょうか。それを説明し、なぜピアノ独奏曲に「バラード」という名前をつけたのか ということを、どのように解釈するか、このことは音楽家の皆さんの問題でもありますが、私の専 門とするポーランド文化史を考える上でも大事な問題です。 ショパン自身が「バラード」と命名した問題をいくつかの観点から見ていきたいと思います。 そもそもショパンはごく一部の例外を除いて表題をつけませんでした。その頃に誰一人として器 楽曲に「バラード」という題名をつけた作曲家はいませんし、声楽曲の「バラード」との関係、文 学との関係、さらにロマン主義との関係はどうなのかということも、見ていきたいと思います。 声楽曲との関係 ショパン自身は出版するつもりはなく、死んだ後に友人のフォンタナがショパンの歌曲集を出版 しますが、フォンタナ自身によってその冒頭に大変重要な証言となることが書かれています。 ちつじょ 「言葉は音楽に対して思考のある種の秩序やスタイルや曲調を強制する、つまり文学や言葉は自分 のスタイルを音楽に強制するのではないか、ショパンは決してそういうことを良しとしなかった。 」 この言葉は他のショパンのテクストを見ても読み取れる、「言葉」というものを排除するショパ がっち ンの姿勢と合致します。言葉に頼らない、もう少し言えば、言葉を除外する姿勢です。 外国語の詩に曲をつけるようなことも一度として試みたことがないのも不思議なことです。唯一 ポーランド語では、友人たちの詩を使ってサロン等でプレゼントとして書いたというものが残って いますが、ショパン自身のコンサートのプログラムには歌曲は一度ものせていないというのも有名 な事実です。 19 文学との関係 「バラード」を考えるにあたっての大事な文学との関係ですが、ショパンは同時代の知識人、芸 術家に比べると、まず文学に関して語らない。唯一のテクストである書簡を隅から隅まで読んでも、 文学についてほとんど何も語られていません。ジョルジュ・サンドという文学者と同棲していたと いうことが何とも面白いパラドックスです。 ショパンが14、5歳の若い頃の手紙からの引用ですが(当時14、5歳という年齢は最も本を読む 時期ですし、ロマン主義者ショパンの周りの多くの学友や先生たちはしきりに本を読み議論をして いました)、「本が寝ている、本が横になっている」というようなことを書いています。 ショパンは「バラード」によって文学に近づこうとしたのでしょうか。それとも遠ざかろうとし たのでしょうか。 1836年にドイツで出版した楽譜の中には、ただの「バラード」ではなく「バラーデ・オーネ・ヴ ォルテ」(言葉のないバラード)があります。それはちょうどメンデルスゾーンの「リーダー・オ ーネ・ヴォルテ」(言葉のない歌=無言歌)というものの次のステップのような形です。ここには、 極めて文学的な連想の強いバラードというジャンルであえて「言葉のないものを書いてみよう。読 めるものなら読んでごらん」というショパンの態度を私は感じています。 ポーランド文学におけるバラード ショパンが生まれた頃、ポーランド語には「バラード」という言葉はありませんでした。 英語圏では「バラッド」というものがたくさん流通していましたし、すでに1770年代、ドイツで は(ショパンが活躍しはじめる半世紀前)、「バラード」を収集して書くということが始まっていま した。 ポーランド語として「バラード」が使われたのは1816年にシラーの詩がポーランド語に翻訳され たのが最初の用例だろうと思います。原作より半世紀近く遅れて「バラード」という言葉がポーラ ンドに入った訳です。 ドイツでは「バラードの年」という言い方があります。ゲーテとシラーが「バラード」を競作し とら た1797年のことで、古典主義が完成したという捉え方をされています。 それに対してポーランドの「バラードの年」は1822年です。古典主義の完成ではなく、ロマン主 義の始まりとされる年です。 4人の詩人がポーランド語で最初の「バラード」を発表しました。そしてその詩人たちはショパ ンに近い人でもありました。 1810年から1820年代にかけて、有名な古典主義者とロマン主義者との論争というものがあります。 この年代はショパンがワルシャワかポーランドの各地を旅行していた時代に重なります。 ロマン主義者の最大の武器がバラードでした。 題材にしても言葉遣い、形式、どれをとってもそれまでの優雅な古典主義とは違う民衆を主題に したものであったこと。民間信仰とか言い伝え、あるいはニュースを主題にしたものでした。そう した民衆性は、従来の古典主義文学に慣れたポーランドの知識人にとっては衝撃的でした。 20 〈特集〉第26回全国研究大会 民間伝承バラードにはどういう類型があるか――それを調べてポーランドの科学アカデミーが編 集した報告書があります。 それを見ると、民間バラードの多くのものがまず死、人の死、犯罪に関わっているということ、 それから超自然的なことがら、幽霊、妖怪、そのようなものが関わっています。 ポーランド文学では重要視された民族とか国家とか歴史とか、そういうテーマがありません。 そうしたショパン時代の「バラード」の特殊性は、ショパンの時代のポーランドの「バラード」 を読まないと、他国の観念にとらわれた研究になります。支配者に対抗的な民衆性や革命性があっ たということ、支配的・公的な文化に対してオルターナティブな文化、こういう連想を「バラード」 が持っていました。 実際に表れてくるテーマのなかには、水の精、妖怪、犯罪というものがあり、それぞれを、きち っと見ていかないとショパンの頭の中にあった「バラード」という言葉もわからない訳です。 それにしてもなぜショパンはあえてバラードという名前をつけたのでしょうか。 ごんげ 文学者に対しても、音楽家に対しても、その今はやりの最先端をいくロマン主義の権化であるか のような「バラード」を、ショパンは「私もそう題名をつけましょう、しかし言葉はないよ、言葉 はないけれど弾いてごらん」 私はそこにショパンの挑戦的な姿勢も感じます。 *最後にミツキェ―ヴィチ作の「バラード」[百合の花]をポーランド語で少しお読みくださり、 うた 謡の内容の解説をして講演を終わられました。 *関口先生の講演の詳しい内容は平成22年度紀要第26号に掲載予定です。 (編 広報部 山本 緑) 21
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