ついに来た来た ホンジュラス!(22)

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ついに来た来た
ホンジュラス!(22)
11月14日
今、目下の目標は、この算数の講習会を充実させ、満足に終わらせること!
せっせと進めてい
るが、それもやっと、残り5分の一を残すところとなった。毎回、いろいろなことがあるがトラブ
ルも面倒も楽しみのうち、と思って残りも頑張っていきたい。
《ダンスに始まってダンスに終わる・・・誕生日のお祝い》
ここの誕生日のお祝いの仕方は 、
「 誕生日の人が 、友達を招いてもてなす 」という方法だ 。今回は 、
ここでの、日本とはちょっと違う誕生日の祝い方を紹介したいと思う。
〈大音響で始まる朝〉
1年くらい前のある日の朝、とてつもない大きな音でうなされるように目が覚めた。まだ真っ暗
な窓の外で、ガラスも割れんばかりの大音響音楽がかかっている 。「何やろ?何やろか?
何時?」時計を見ると、朝の4時 。「こんな朝っぱらから何をやっとるんやろ?
しかも今
嫌がらせかいな?
まったく・・・」少し不機嫌気味になりながら我慢して横になっていると、近くの家から「お誕生
日おめでとう!!」の歓声が聞こえる!
私にとって、ここでの「誕生日の祝い方」を知った最初の出来事だった。
こんな調子で 、自分の家や近所に誕生日の人がいると 、その朝はまだ暗いうちから目が覚める 。
(覚
まさされる)まだニワトリも起きないような早朝から、ボリュームいっぱい音楽を流す車が誕生日
の人がいる家の前に、30分くらい止まるのだ。その音で家の人はハッと起きてきて、まだ暗い朝
っぱらから誕生日の人を囲んで踊る。そして音楽車が去ると、またパタッと部屋へ帰っていって横
になる。そしてしばしの眠りにつくのである。
ホンジュラス標準の大音響なのでその家だけに聞こえるというわけにはいかず、近所の家全部に
鳴り響き嫌でも目が覚める。ここでは音楽を聞くときは普段からボリュームいっぱい上げるし、何
かの宣伝カーかと思うほどの大音響車が走るのが標準のお国柄。とはいえ、誕生日毎の睡眠妨害に
- 22の 2 はちょっと閉口である。この感覚でいくと、この国には「騒音防止条例」などというのは成立しな
いんじゃないかと思う。
でもまあ誕生日をお祝いするという気持ちは、とても素敵なことだ。しかも家族だけではなく、
近所の人も自然に巻き込んでみんなでお祝いするというところに、心の通じ合う暖かさがあるとい
えばまったくその通り。
その車のサービスは、お金を払って仕事でやっているということ。そういう仕事があるというの
も、いかにもソナゲラ 。(ちなみに 、「首都テグシではこういうのは見たことがない」と、首都任地
の隊員が言っておりました 。)
〈教育委員会同僚との誕生会〉
うちのソナゲラ市教育委員会では、お手伝いさんも含めた職員全員の誕生日を画用紙に大きく書
き 、まるで1年生の教室みたいに事務所の壁に貼っている 。そして誕生日には教育長の家に集まり 、
みんなでお金を出し合って料理を用意し、お祝いする。誕生日の人は、人よりも多く払って誕生会
を盛り上げる。
こうやって職員全員が仲が良く、いい雰囲気の職場に恵まれたことを、私はとてもありがたく思
っている。
誕生会に限らず、ここのパーティというのはいつもダンスに始まってダンスに終わる。途中、踊
り疲れた頃に食事をしてデザートを食べる。そして、食べたら再び踊り始める。
ビールも飲むが、彼らは決してフラフラになるまでは飲まない 。「酔っぱらう」というのは「無教
養な人がする恥ずべき行為」という認識が強いので、お酒類は程々の量だ。女性がビールを飲んで
いるところで写真を撮ろうとすると 、彼女たちはビール瓶を隠そうとしたり恥ずかしがったりする 。
そして「ミヨ、私がお酒を飲んでいる写真なんかを日本へ送ったら、日本人に『あら、ホンジュラ
ス人の女性はふしだらね。酔っぱらいかしら 。』て、思われちゃうわ 。」なんて言うので、私はハハ
ハ・・・と、苦笑いをしておく 。(でも最近は私のカメラにも慣れてきて、彼女たちはお酒といっし
ょでも平気で「撮ってくれー!」と言うようになった 。)
お酒や飲み物は、一応勧めるはするが 、「まあ、そういわずにどうぞどうぞ」などと言って、相手
に「 注ぐ 」習慣はない 。ビール瓶も日本のより小さく 、コップに注いで飲むことなく直接「 口飲み 」
する。きれいな水がないことを考えると、この方が清潔なのかもしれない。食べ物、飲み物は基本
的に、飲みたい人が自分で注ぎ、食べたい人が自分で食べたいだけ食べる。自分で欲しいと意思表
- 22の 3 示しないと誰も注いでくれたりしないし、気を利かせてくれたりしない。遠慮はないが、ましてお
酒の強要も「付き合い飲み」もない。
またダンスの種類によっては、汗びっりょりになる。お酒の量もほどほど、食べる量も自分で調
節。考えようによって、これはかなり健康的な飲み会なのかもしれない。
誕生会で出される食事は、定番になっているようで、どこでもほぼ同じのようだ。牛肉の炭火焼
きと、バナナの砂糖煮つけ、チモールというサラダ(トマト、ピーマン、タマネギを塩とお酢で和
えたもの)とチーズ、そしてやっぱり欠かせないのがトルティージャ。それに、貝のココナッツス
ープやナカタマリというお祝い料理が、プラスされるときもある。
この牛肉の炭火焼きは、聞こえはおいしそうだが実は味はそうでもない。カラカラになるまで焼
くので、肉がまるでスルメのように硬いのだ。私は日本人の隊員の中で、この「牛肉の炭火焼きが
大好きだ 」というのを聞いたことがない 。それくらい日本人にはちょっと合わない味かもしれない 。
飲み物は、ビール、そして必ずコカコーラ、それにオルチャータという甘い飲み物がよく出され
る。
日本料理の趣向とはまったく違うホンジュラス料理だが、これはこれでけっこうおいしい。日本
でもたまに食べるのなら、誰でも「いける味」だと思うのではないだろうか。日本へ帰ったら、こ
の「誕生会メニュー」をぜひ再現してみたい!!
そして食事の後、ケーキが登場。ケーキが出てくると、必ず行われる遊びがある。それは嬉しそ
うにケーキのクリームを人の顔に塗り合って遊ぶのである。特に誕生日の人は集中攻撃に遭う。ケ
ーキにズブッと顔を埋めさせられることもある。また生卵をぶつけられることもある。
ちょっと子どもっぽい戯れのようだが、毎度毎度誕生日のお祝いには、この「クリームの付け合
・
・
・
いゴッコ」がくり返される。誕生日の人をお祝いしようという、みんなの暖かい気持ちの表現方法
の一つなんだろう!?
そしてケーキの後、再び踊る踊る踊る踊る・・・・・踊る!
〈「家」の財力・知名度・影響力が示される誕生会〉
誕生会は楽しい。人と人との暖かいふれ合いの雰囲気が、おいしい料理と飲み物によってますま
す彩られる。また音楽の力はすごい。そこでのダンスも、この楽しさを倍増させてくれる。
- 22の 4 しかし、やっぱり人の営みが何百年と営まれてきた所。人とのふれ合いを「楽しい」などと、ヒ
ューマニズム的きれいごとでは片づけられない、誕生会の別の一面がある。
先に述べた「朝の車大音響サービス」というのは、すべての人が行っているわけではない。そん
な、腹の足しになるわけでもないことにゼニを出せるのは、権力層・富裕層のごく一部の階級の人
たちだけである。
ここの社会は個人の能力よりも、コネと血脈がモノをいう。そんな中、今私が部屋を借りている
のは、ソナゲラ市長、警察、学校、などの要職に一族の誰かが就いている巨大一族の中の、ある家
である。そのおかげで、ここの特徴的な人間関係の複雑な絡み合いを身近に感じることができる。
コネと血脈がモノをいうえ、ここではキリスト教的二元論でものを考えられている。そのため人
間も「政府の要職=金持=教養がある 」「仕事がない=貧乏=無教養」で二分され、普段付き合う友
人にもその二分は適用される。
私が、貧しそうな身なりの煙草を吸っている人と道で話をしていると、すぐに誰かが注進してう
ちの一族のおばさんから 、「危険だから無教養な人とは関わらないように」と御指導が入る。
またたとえば「作業用の黒い長靴を履いている人は=肉体労働者で貧乏=無教養」と見なされ蔑
視される。だから教職やデスクワークの仕事に就いている人は、自分の家の庭仕事をするときにも
絶対に黒いゴム長靴など、作業服っぽい格好はしない。どれだけ土で汚れようとも、えり付きのワ
イシャツに革靴を履いて行う。
学校でも校内の花壇の手入れなどの土仕事は、先生方は基本的には自らは行わない 。「土仕事=肉
体労働者の行う仕事=無教養な人の仕事=私たち(教員)が行うようなことではない」となる。私
にとっては意味不明なプライドだが、彼らにとっては重要なことらしい。
野菜や畜産の職種でここに来ている協力隊員が作業を行うときも 、作業服と長靴をはいていると 、
人々に無教養な人と見られて軽蔑され、うまく活動が進まないとも言っていた。日本の小学校から
子どもたちのメッセージ付きの好意でゴム長靴が送られてきたが、ここの人たちに配ることなどで
きないため、山積みのままになっていた。
日本では先生方は、当たり前に学校園や学級園の土仕事はするし、それがみっともないことだと
いうような価値観はない。また作業服姿の人を軽蔑したり、農作業従事者や肉体労働者を無教養な
人とレッテル貼りし、話しかけることも避けるというほどの狭い価値観でもない。
その点では見た目で人を判断することを良しとしない日本は、柔軟な価値観の広がりがある社会
だと思う。またここほどもコネと血脈に縛られない日本はかなりの実力社会であり、個人の実力や
努力でどうにでも人生を描ける寛容な社会でもあると思う。
- 22の 5 誕生会の規模は、そうした「家」の財力・知名度・影響力が示される機会でもある。
しかし日本でも、冠婚葬祭など人生の節目では、そういった意味合いはどうしても外せないとこ
ろがあるかもしれない。世界に稀をみる平等社会である日本でもそうなのだから、この国でそれが
より色濃くなるのは当たり前と言えば当たり前でもある。
〈言わずと知れた盛大な一族の長の誕生会〉
10月には、このソナゲラ巨大一族の長の誕生日があった。当然?盛大な誕生会が開かれた。
誕生会は、プール付き農場の一角に大きなテントを4点も張り、料理は一週間前から延べ70人
のお手伝いさんが作って準備した。当日招かれた客は、農場取引関係者、テグシガルパから警察高
官、教育省役員、ソナゲラ市の金持ちなど、約300人。当日のお手伝いさんは20人くらいはい
た。一族の中ではアメリカへ働きに行っている兄弟達も帰ってきて、去年のクリスマス以来兄弟1
7人が全員そろった。
誕生日の数日前からソナゲラの教育委員会では、指導主事さんたちや、教育長へ陳情にやってく
る市民らの間で「誕生会?
私は招かれてないワ 。」「あら、私は招かれているワヨ 。」「どうしたの
かしら?(招くように)抗議に行こうかしら!」などという会話がよく聞かれた。
他人が招かれていて「あら。私は招かれていないワ 。」とくれば、日本人なら自然に「あら。私、
あちらの人に何か失礼なことでもしたのかしら?」と、まず我が身を振り返る。ところが 、「招かな
い相手が悪い。私に失礼だ 。」という理論になるのが、いかにもこの国らしい。
ともかくそれくらい、この一族の長の誕生会のことはみんなよく知っていた。
誕生会は朝から開かれ、夕方暗くなってもまだ続けられていた。招待客はその間、好きな時間に
来て好きな時間に帰って行った。テグシガルパから、マリアッチという演奏グループを二グループ
も雇っていたので、彼らが一日中交代で音楽を演奏し、踊りたい客は踊っていた。
誕生会が一番盛り上がるのは、昼過ぎで17人の兄弟が、真ん中の壇上でパパ(一族の長)を囲
み、マリアッチにあわせて誕生日の曲を歌う頃である。日本の、ある結婚式のように花嫁が「お父
さん今までありがとう」と、泣かせる手紙を読むシーンに似たものもあって、兄弟の何人かがパパ
への手紙を読み上げた。
ここで「 男は泣かないもの 」という考えが広いと思っていたが 、そうでもない場合もあるらしい 。
私には不思議に思えるほど、このとき兄弟の女性はもちろん男性達もみんな、パパを囲んで泣いて
いた。ソナゲラ市長も、警察の要職に就いてテグシに住んでいるという息子も 、「パパありがとう」
- 22の 6 という感謝の手紙を読みながら、目に涙がいっぱい。それが頬をつたって流れるのも、人目にはば
からない様子だった。
そうして一族がパパを中心に囲んで涙ながらの感動をかみしめている間 、他の招待客はというと 、
壇上で繰り広げられているであろう(客に尻を向けて、中を向いてやっているので何をしているの
かは、客からはよく見えない)儀式に、ときたま拍手を送ったり自由におしゃべりしたりと気まま
に過ごしている。
誕生会とは、内輪の一族内の祝い事を他人に見せ示して、一族の結束とお互いの感謝を確認し合
うデモストラクションの意味もあるのか!?
以前 、別の誕生会へ招かれたとき 、私が本人に「 お誕生日おめでとう 」と言うと 、
「 あたりまえよ 。
おめでたいわ。それよりも、今はあなたを私の誕生会へ招待してあげているのよ。ありがたいでし
ょ 。」と言われて 、「はぁ???」と、かなり面食らったことがある。
しかし、今回の会も招待客へ「お越し頂きありがとう」という感謝の言葉がないのは、前回のエ
ピソードからいうと当然のことかもしれない。招待客がプレゼントを渡しながら 、「あなたの一族の
誕生会に、私を招待してくれてありがとう 。」それから「お誕生日おめでとう」を言うのが正当なら
しい。
今回もいつものように、遠慮のないお人柄の一族に「ミヨ!写真写真!ほら!今撮って! 」「ちゃ
と撮ってる?」と、まるで雇われカメラマンのようだった。でもこれも「誕生会に招待されている
身」なのだから当然ということだろうか。
〈ピニャータ割り・・・子どもの誕生会〉
ここでの子どもの誕生会を紹介したい。子どもの誕生会とはいっても企画するのは大人なので、
招待客の人選や運営のバックには大人の人間関係が表れている。子どもの学校つながりの友人とい
っても、まずどの学校へ通うかによって親の身分や生活状態が影響されている。日本のように多少
私立や公立の差はあっても、親や親戚がどんな職業であろうとかかわらず、どの家の子も同じよう
に机を並べるというような社会ではない。
その点でいくと先ほど述べた誕生会と大差はないかもしれないが、目立って違うのは「ピニャー
タ割り」という、ゲームがあることだろう。
「ピニャータ」というのは、キティーやプーさんなどの形の人形の中に飴やお菓子を詰めて、木
の枝などから吊し、スイカ割りの要領でバシバシ叩いて中のお菓子を落とすというゲームである。
- 22の 7 ピニャータの形は、キティーやキキとララ、プーさんやミッキーマウス、ピカチュウなどのキャ
ラクターになっている。色とりどりでキャラクター本物に似ていてかわいい。子どもが大喜びしそ
うである。
ふと、このキャラクター達の無断コピーを作って、しかもそれで商売していいのか?
という疑
問が頭をよぎる。まあこれはピニャータに限ったことではない。日用品は偽キャラクターが印刷さ
れた中国製品であふれている。この国のように、特許や意匠権、商標権といった知的財産権に対す
る意識や、著作権という概念がないのは、めずらしいことではないだろう。任国外で見たところに
よると、中米ではコスタリカ以外の4カ国とメキシコでも同じ状態だった。
ピニャータは簡単な骨組みを針金で作り、そのまわりを張り子のように新聞紙で覆って形を作
る。仕上げはカラー紙で飾ってキャラクターができあがる。
もともとピニャータは 、「叩きつぶして壊れる」のを前提に作られている、また「叩きつぶすのを
楽しみに」作られているような物なので、さほど強く作られているわけではなく、また必要以上に
しっかりできていると壊れないので面白くない。ピニャータは、一回だけの使い切りである。
誕生日に招かれた子どもは、小さい子はそのまま、大きい子は目隠しをして棒で吊されたピニャ
ータを叩く。ピニャータにはロープがついていて、その先を大人が持っている。そしてロープを引
っ張ったりゆるめたりして、子どもがピニャータを叩きにくいように、ちょっと意地悪する。それ
を見ながら、まわりの子は「上! 」「下!」などと言って、目隠しをされている子にピニャータの位
置を教える。日本の夏のスイカ割りとよく似ている。
しかし同じようで、実は違う(ように思える 。)スイカは、ただ丸くて色がついているだけで目や
口がないが、ピニャータはそうはいかない。キティーやプーさん、ピカチュウなど、なるべくかわ
いく本物に似せて作られている。つぶらな瞳で見つめるキティちゃんや、きょとんとしたかわいい
プーさんをスイカのごとく、棒でバシバシその姿形がわからなくなるまで叩きのめするのだから、
ちょっと私にとって尋常なことではない。
最初このピニャータ割りを見たとき、子どもの情操に悪くないのか?
ならないのかな?
と思った。暴力的な子に
と余分な心配をした。協力隊員同士でこの話題になっても、みな同じ意見にな
るので、日本人的には同じ感覚になるんだろうと思う。しかし彼らに言ってみると「はぁ?
ャータを叩きつぶすのがかわいそうだって?
ピニ
紙と針金でできてるだけだよ 。」とまったく意味がわ
からないという表情をする。これも「物や自然物にも命を感じる」多神教の日本人ならではの感覚
かもしれないのかな?
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その土地に昔から(「 ピニャータ割り」は昔からか?)ある文化や慣習について、外国から来たよ
く知らない人間が「これはいい、これは悪い」と言うこと自体がおかしい 。「ピニャータ割りは、子
どもへの道徳教育によくない 。」などというのは 、「アフガンでタリバンから人々が解放され、女性
達はブルカを脱いで自由になった。よかったよかった 。」という、一部の偏った報道機関の見方と同
じことになる。
まあ、ここの子どもたちはピニャータが大好きで、ピニャータ割りは大喜びでやっている。子ど
もが喜んでいるからイイ、という無責任な見方ではないが、私ごときが意見することではないこと
は確かだ。子どもたちの嬉しそうな様子、ほほえましい光景だと思う。
〈「施し」に共通するもの〉
誕生会をしていると 、どこからともなく裸足でボロボロの布をまとった貧しげな人がやってきて 、
私たちの様子を覗いている。中には庭まで入って来て、いつの間にか私の隣に座っていることもあ
る。
そんな人がある程度集まると、誰ともなく誕生日会残りの料理をお皿に盛って、彼らに渡す。す
ると彼らはそれを持って、どこかへ去っていく。彼らは誕生会をしていると毎回必ず集まってくる
が、誕生会以外でもこうした「施しの自然体風景」はよく見かける。家で食事をしていると、貧し
い人がいつの間にか入り口に立っていて、欲しそうに眺めているので食事を渡す。また道で貧しい
人が座り込んで物乞いをしていると、前を通る人はお金を渡す 。・・・と、こんな調子である。聖書
に「持つ人は、持たない人へ差し出しなさい」と書いてあるんだと、あるホンジュラス人は言って
いた。
あげる方ももらう方も一言も言葉を使わない。この一連の儀式?は、水の流れのようにごく自然
体で、さらっと行われる。私は最初これを見たとき、あまりにの美しさに感動した。
例えば日本で托鉢中の修行僧へ布施をしても 、修行僧は決して「 ありがとう 」は言わないはずだ 。
仏教ではその「布施」という「徳を積む」行為のはずのものが 、「ありがとう」と返されることによ
って、布施をした人の元へ徳が返らなくなると考えるからだそうだ。私はこの美しい光景を見る度
に、いつも仏教とここのキリスト教とに重なる部分を見ているような気がして、思わず考えてしま
う。
毎回、施しをもらっても一切お礼を言わない貧しそうな人達と、お礼の一言ぐらい気にせずごく
自然体で食べ物を渡している人々とが、どこまで宗教的な意識があって動いているのかは分からな
- 22の 9 い。もしかして「ありがとう」という、単なる人間関係上の基本的な習慣が身についていない状態
と 、それが社会一般の風潮で違和感を感じていない単なる状態 、ただそれだけのことかもしれない 。
何度も書いているように、ここの人たちは日本人ほど「ありがとう 」「ごめんなさい」などの言葉
を使わない。店員だろうが知り合いだろうが、その基本的とも言える言葉が滅多に使われないこと
に、不愉快なことになることもある。しかしやっぱり「ありがとう」という言葉は、こちらが求め
るような代物ではないのかもしれない。
誕生日をダシにしてみんなが集まる。そしておしゃべりをしたり、ダンスをしたりして楽しいひ
とときを過ごす。こうしたゆとりの時間があること、そして集えるメンバーがいること。そこにど
んな下心や野心が働いていようと、人との交流を純粋に喜ぶ気持ちは必ずある。
誕生会、これは生きる幸せをかみしめることのできる時間でもあると思う。
《いい加減なことを放送するなぁーっ!・・・メキシコのバラエティ番組へ》
いつも気になっているのだが、土曜日の夜、いわゆるゴールデンタイムに放送されているある番
組のこと。見ていると不快感にさいなまされる。
ホンジュラスの製作番組というのは、大統領の演説放送と一日数分のニュースくらいで、他はど
れも周辺国メキシコやコロンビア、ペルーなどの番組が放送されている。中南米ほぼみなスペイン
語圏というのは、番組電波のゆき来が楽という利点でもあり、それでもって国内の放送局が育たな
いという欠点でもある。
メキシコのある番組のこと。それは毎回、5組の男女カップルが登場して、様々な難題を協力し
ながら愛の力で克服するという内容のものだ。
例えば、ダブルベッドでカップルの男女が重なって横になる。そのダブルベッドは動く仕組みに
なっていて、ベッドは彼らを落とそうと激しく上下左右に動く。それに耐えられず落ちたら負けに
なるので、落ちないようにカップルは必死で抱き合う。その様子を見て観衆は、笑ったり拍手を送
ったりして楽しむのである。
その意図は別にいいとして(仕方ないとして )、その中で気になること。カップルが向かう難題の
げ て も の
中に 、毎度相も変わらず同じよに「 下手物料理 」がある 。ネズミやゴキブリ 、ウジ虫などの料理を 、
- 2 2の 10 あるものはまだ生きているままお皿に盛りつけている 。それを二人で協力して食べ 、飲み込めたら 、
その問題は克服!となるのだ。
カップルは悲惨な様相で料理が蠢く皿を眺める。スタジオの音楽もおどろおどろしい曲を流して
雰囲気を演出する。下手物料理を眺める。そしてあるカップルが思い切った様相で、ネズミ料理を
食べる!
っと、すると進行役が「やった!やりました!あなたも立派な中国人ー!」と言いなが
ら、食べたネズミを必死で飲み込もうとしている人の目頭を、横にビーっと引っ張るのだ!
それ
は「目が細い中国人」という真似である。
ちなみに、この目頭を横に引っ張ってそれを中国人、と示すのはホンジュラスでも日常的なこと
で、私も何度もそのジェスチャーを示されてきた。目の細い中国人を表しているこの辺りの共通ジ
ェスチャーである。
それにしても何だ!この番組!こんなのを放送するから「 チーナ!チンカンチョン!( 中国人ー!
今日はネズミを食ったか? )」と呼ばれるんだ。ちまたで使われるその表現があまりにも慣習化して
いるので、それを電波にのせることについて何の呵責も起こらないらしい。当の中国人ではなくて
も、人間として不愉快になる。
このメキシコ番組のモラルの低さと、毎週これで何も気にならずに楽しそうに眺めている人々の
社会意識の低さに悲しさを覚える。
日本では少し前 、「言葉狩り」という異常なまでに言葉に敏感な時期があったが、メキシコのこれ
はそんなものの風下にも及ばない。しかしあのブラックユーモアの王、筒井康隆氏だったら何と言
うだろうか?
これをブラックジョークと笑い飛ばせないのは、私のセンスがないだけなのだろう
か?
落合信彦氏は、メディアはまさしく「その国の民の知的レベルを映し出す鏡」だと云っている。
この番組の制作者にはテレビメディアを通して、中南米の多くの人々の意識を創り上げているとい
う責任感をもって、仕事に臨んでほしいと思う。
《先生方のストの昨今》
長らく続いていた教員のストは、11月初めから学校がテスト期間に入り、11月中旬からは長
期休暇に入るのをもっておさまりかけている。
周知の通り日本は労働基本権の制約によって、公務員のスト権はない。ここの先生方にそれを話
すとみんな口をそろえて「信じられない!日本はそれでも民主国家か!」と言われる。
- 2 2の 11 ここの人たちは何かあると、ふた言目には「人権。人権!」と叫ぶ。老人の人権を訴える老人の
デモ、女性の人権を訴える女性のデモ、バスの運転手の人権を訴える運転手のデモ、子どもの人権
を訴える子どものデモ、そして教員の人権を訴える教員のデモ・・・。数え切れないほどのデモ集
会が、しょっちゅう起こっている。
またテグシガルパの大統領官邸前では、毎日数グループの団体が「権利」と「人権」を訴えて、
座り込みデモをしている。
日本のデモと大きく違うのは 、主張する内容 。日本ではたとえば「 万景峰号入港反対 」のように 、
直接自分の利害に関わらないことでも行動を起こす。しかしここで見るデモは「自分の生活向上」
や「自分たちの人権尊重」を訴えるなど、直接自分に関わることばかりが主張されている。この違
いは、日本が豊かで安定しているから?
そうかもしれない。しかし、それだけではないように思
う 。「権利を主張する前に義務を果たすべき」といった思慮と、問題の根元を内に向けても考えてみ
ようとする謙虚さがあるからではないだろうか。
《ホンジュラス人が誇りに思うホンジュラス文化・・・それは私も敬意を払います!?》
JICAの研修員受け入れ制度を使って、日本へ1年間研修に行っていたという男性に以前会っ
たことがある。そのとき彼はこう言っていた。
「一人の男が多くの女性を思いのままにするのは、この国の文化だ。僕は誇りに思っている。そ
れは男側に、多くの女性を操れるという魅力がある証拠だからさ。日本ではわざわざ、カネを払わ
なくてはいけなかった。そんな日本の文化は僕には合わない 。」と。
ちなみに、ここホンジュラスにも「カネを払って一晩女性を買う」という商売はある。それはこ
こ、ソナゲラにもある。
「熱烈結婚」して「即刻離婚 」、再び「熱烈結婚」して・・・の、くり返しを未来永劫、続けてい
る男性。または妻帯しながら、他でも子どもをあちこちにつくる男性。平安時代かのように、夜な
夜な別の女性や妻の家を泊まり歩いている男性。いわゆる「一生決まった女を持たない極道者」と
いうわけではなく、一般的に聞くごく普通の男性像である。
ちなみに以前にオランチョ県で『家庭の教育に関する意識調査』をした。そのときのアンケート
に家庭状況の外観をつかむため、母親に「既婚・離婚・同棲・独身」の質問項目を入れさせてもら
った。150人のデータを採ったが、それによると「既婚」の欄から順に「27%、12%、46
%、15% 」。日本の具体的な数字が、ここでは手に入らないので分からないが、状況の違いは簡単
- 2 2の 12 にイメージできる。
このデータも示している通り、婚姻関係上にある両親と同居している子どもは3割ほどしかいな
い。それでも社会が動いているのだから、相手の女性側はさほど問題ないのだろう。
というと、ここの女性達から「いや、大問題よ!」と叱られるかもしれない。いつも女性の井戸
端会議をにぎわせているのは、この手の話題だし、テレビのドラマもどれもこれも、この手の話題
ばかりだ 。(メキシコやコロンビアの番組だが、ほんと見事にすべてこの話題ばかり)それでいてみ
んな楽しんでいる。だからつまり 、「大問題だ!」と騒ぎつつも、実はそれでいて結構彼女たちは納
得しているんじゃないかと思う。
それとも、これこそがジェンダー問題なのだろうか?
しかしそれで社会がうまくまわるのなら 、冒頭の男性が言うようにこれは「 ホンジュラスの文化 」
とするしかない。同調はしないが、それに一応の敬意は表したいと思う。
以前に隊員友達が、怒りながらしていた話を思い出す。電話をかけてきた。彼女がバスで空いて
いた席に座ろうとしたら「 チナは汚いから隣に座るな 。あっちへ行け! 」って言われたのだそうだ 。
「一般的なホンジュラス国民の社会モラルが低すぎるよね!」と興奮していたが、私も彼女の受け
た痛みはよくわかる。
ラ・セイバの道で男が「 チナー 」と言うので 、私が一応「 私は日本人だよ 。」と正す 。すると 、「 あ
あそうか!日本人なら一発させろ!」と中指を立てる 。「はぁ?」と思いながらも一応睨んでそっぽ
を向く。
こういう場面に出会うたびに、私は国際理解や「人類みな兄弟」なんていう理想的な建前がふっ
飛んでしまう。敬意を表したい互いの文化。しかしまだまだ私が青いからだろうが、それは理性で
思うほどに実際は簡単ではない。