宇多田ヒカルの歌詞分析

The Extension Course
Scientific Analysis of the Lyrics of Pop
Music
Instructor: Toshinobu FUKUYA
(Ube National College of Technology)
The 2nd Session: Utada Hikaru
5/21 2006
宇多田ヒカルの言語感覚
宇多田ヒカルの DNA と音楽的ルーツ
宇多田ヒカルの母親は昭和演歌の申し子と言われた藤圭子である。父親は浪曲師、母親
は三味線弾きであり、一家は幼い娘を連れて、極寒の北海道や東北を流して歩いた。宿賃
に窮したときは、神社の境内の片隅で身を寄せ合って一夜をしのいだこともあったという。
歌手藤圭子は、そんな厳しい境遇の中から苦節に苦節を重ねてレコード・デビューにこぎ
つけた。大ヒットした「圭子の夢は夜ひらく」は、そんな彼女の暗い過去を物語るととも
に、1970 年代の生活に疲れた人々の胸にしっかり刻まれ、共感を得た。
十五、十六、十七と
過去はどんなに
私の人生
暗くとも
暗かった
夢は夜ひらく
しかし、歌手としての藤圭子の華々しい時代は長くは続かなかった。逆説的ではあるが、
それはあまりに彼女の生い立ちが演歌的であり、あまりに彼女の歌唱がリアルであったか
らである。作家の五木寛之氏は、「彼女の歌は、凝縮した怨念が、一気に燃焼した一瞬の閃
光であった。それは芸として繰り返し生産し得るものではなかった」と的を得た感想を述
べている。
売れなくなった藤圭子は、一度結婚したが離婚し、傷心を癒すかのごとくアメリカへ
向かった。アメリカは、中学までしか教育を受けさせてもらえなかった彼女の切ないまで
の夢が詰まった「約束の地」(the Promised Land: 聖書の中で、神が子孫に約束した希望の
地、カナンのこと。しかしこれがアメリカとの関わりで使用される場合、すべての移民を
受け入れてくれた合衆国を指す)であった。この意味において、藤圭子のアメリカ行きは「私
的”Exodus”」と呼ぶのが相応しい。
そのアメリカで出会ったのが音楽プロデューサーの宇多田照實氏であり、二人の間に
生まれたのが宇多田ヒカルである。ヒカルは、黒人の貧困、差別などを歌いこんだブルー
スから派生したリズム&ブルース(R&B)を聞いて育った。十代にさしかかった頃は、この
R&B にヒップ・ホップのテイストを加えた
NEW R&B が全盛期であり、彼女が最もリ
スペクトするシンガーがローリン・ヒルだというのも頷ける。
Lauryn Hill
すなわち、歌手宇多田ヒカルの DNA は日本の怨み節(演歌)とアメリカの恨み節(ブルース)
で構成されていると言える。これは宇多田ヒカルを論じる場合、決して見過ごされてはな
らない視点である。
アメリカン・スクールに通い、その後はコロンビア大学に学んだ宇多田ヒカルは、そ
のイメージからすれば、明るくドライなアメリカン・ロックを聴いていそうである。しか
し、上記のような彼女のバックグラウンドもあって、黒っぽいウェットな黒人音楽を聞き
込んでいた。彼女のファースト・アルバムでは、ローリング・ストーンズ(イギリスの R&B
ベースのロック・バンド)の「黒く塗れ」のさびの部分をリフレインしている。そんなとこ
ろにも、ヒカルの黒人音楽への傾倒ぶりの一端がうかがえる。
また、あの反逆のカリスマ、尾崎豊の歌詞に涙することもしばしばだと言う。ちなみ
に、'Bohemian Summer 2000'と銘うって行われたコンサート・ツアーでは、尾崎豊の「ア
イ・ラブ・ユー」を取り上げ、聴衆の心をとらえる熱唱を披露している。あるインタビュ
ーにおいて、宇多田ヒカルは、「彼の歌には、素直に入り込んでいける」と述べている。
Rolling Stones
尾崎豊
宇多田ヒカルの家庭もまた世間のイメージとは異なり、かなり複雑であった。両親は離
婚・復縁を繰り返し、現在は三度目の復縁中である。その間、彼女の小さな心が揺れ動い
たことは、容易に想像できる。生活費を稼ぐために日本で巡業(ヘルス・センターなどの土
さ周りが中心)中の母親に、
「ママ、どうして仕事に行くの、ヒカル淋しいの」という手紙を
書いていたりする。
幼い頃のヒカル
宇多田ヒカルの言語感覚
時として批判の対象となる宇多田ヒカルの「ため口トーク」も、いつも両親の顔色を
伺いながら、それでも精一杯踏ん張ってきた、彼女なりの処世術であったかも知れない。
彼女は、自分の「ため口」について、次のように語っている。
「私は、嫌いな人に対しては敬語を使うなぁ。敬語って、ホラ、相手との距離を示す
ものだよね?言葉が与える印象の面で敬語は大事だと思うし、日本の大事な文化だけど
さ、私はできるだけ使わないようにしている!
いろいろ考えながら『これは敬語じゃ
ないと失礼に聞こえるかも••••••』っていうところだけ敬語を使ったりしてきたんだ。
話している人の中身を探りたいから、距離をできるだけなくしたいって思うのは自然だ
よなぁ?普通は敬語を使うことが礼儀だけど、私にとっては敬語を使わないことが礼儀
だったりする。これをやっていくには、想像以上に相手への配慮が必要とされるんだけ
どね」。
「敬語って、相手との距離を示すものだよね?」という宇多田ヒカルの発言には、言語
研究をしている者として、「十代の少女が英語の本質を感覚で体得している!!!」と唸ら
ざるを得ない。英語では、会話の相手が自分より立場が上だと思う場合、そのような相手
と自分との精神的距離を現在と過去との時間的距離に「写像」(言語学用語:mapping)¹して
「丁寧度」(politeness level)²を増すのである。だから、Can you~? Will you~?でもの
を頼むより、過去時制の Could you~? Would you~?で聞くほうが丁寧になるのである。
並の英語教師では説明できない言語学的事実を、宇多田ヒカルは本能的な言語感覚として
有しているのである。これは音楽で言えば、絶対音感を有する、あるいはそれ以上のこと
であろう。
宇多田ヒカルは、英語でも「ため口」口調にこだわる。彼女はものを依頼するときの表
現を Can you~?で行い、Will you~?さえ使うことがまれである。一例を挙げれば、"Can
You Keep a Secret?"という曲。Can you~?を使用しての依頼は、「能力があれば~して
くれませんか?」というききかたである。それに対して Will you~?を使用しての依頼は、
「能力があり、なおかつそれをする意思があれば~してくれませんか?」というききかた
である(will は意思未来)。すなわち、Will you~?のほうが Can you~?より一段階相手に
対する配慮がある依頼のしかたになっているのであり、この配慮が依頼相手に対する距離
感を生み、少し丁寧になる。宇多田ヒカルの歌詞は、英語においても、徹底した「ため口」
口調を取り入れていると言える。それでは、そんな類まれな言語感覚を持つ少女が作る歌
詞の分析に入る。
3.宇多田ヒカルの歌詞分析
宇多田ヒカルのデビュー曲「オートマティック」が大ヒットした要因はたくさん挙げら
れる。けだるさとクールさの混在するメロディー、彼女の卓越した歌唱力、台頭しつつあ
った NEW R&B 等々。それでも、この曲が大ヒットした一番の要因は、歌詞の符割りで
あろう。普通に日本語として考えれば、
「ななかいめの
ベルで
じゅわきをとった
きみ」となる。
それを宇多田ヒカルは、
「なっ
なかいめの
べっ
るでじゅわき
ぃをと
ったきみ」としている。
単語の切れ目もなにも無視した符割りである。これは今までの日本の歌にはなかった形だ。
あのサザンの桑田圭介をもってしてもできなかった業である。まるで、意味を捨ててしま
った言葉を再度組み合わせてつくったような不思議な言葉のつながり。宇多田ヒカルの独
特の日本語に対する感覚がうかがえる。日本語の歌をあまり聴かずに育ったために抵抗な
くこういうことが出来るのだろうと思うが、この不思議な符割りが、歌に、まるで日本語
の歌ではないような雰囲気と、R&B 独特の「ノリ」をあたえているのだ。意図的にしよう
としても、なかなか難しいこの斬新な言葉の区切り方を、自然に使えるのも、英語と日本
語のごちゃまぜの言語生活のなかで育った宇多田ヒカルならではであろう。そのせいか、
宇多田ワールドが最も魅力的な展開を見せるのは、英語と日本語が彼女の心のフィルター
を通過したのち、絶妙のバランスを見せるときである。
絶妙のバランス感覚は、"Addicted To You"でさらに進化し洗練される。
「君に夢中」とい
う英語表現は、"I'm crazy for you"と"I'm addicted to you"が代表的であろう。この二つの
表現は前者が支障のない恋愛の中でおおらかに発することができる「君に夢中」である。
それに対して後者は、支障がある恋愛で、ひょっとしたら周囲からは「何であんな人がい
いの?」と白い目で見られていたりするかもしれない。しかし、良くない恋愛とわかって
いても自分ではどうしようもなく「君に夢中」なのである。"be addicted to~"は「~に中
毒」という意味である。やめようと思っていてもなかなかやめられない麻薬をメタファー
として、この表現は禁断の恋愛表現としてのリアリティーを持つに至る。十代の情勢の言
語感覚としては、かなり早熟である。
その後、体調不良、それに伴う精神的不安定などもあり、一時宇多田ヒカルはスランプ
に陥る。しかし、結婚生活も安定してきた頃から、彼女は再び輝きを取り戻しつつある。
当然のことながら、デビュー当時のキャピキャピした輝きではなく、大人の潤いを身につ
けたしっとりとした輝きである。その成長は、これまで以上に広い世界を切り取って見せ
てくれた"Deep River"の歌詞のなかに明白に反映されている。同時に、宇多田ヒカルは若さ
に特有な一途な突っ張り部分を削ぎ落とし、肩の力が抜けたぶんだけ「しなやかで強靭な
反抗心」を身につけている。「剣と剣がぶつかる音を、知るために託された剣じゃないよ。
そんな矛盾で誰を守れるの?······ どこでも受け入れらようとしないでいいよ。自分らし
さという剣をみな授かった」という反戦のメッセージの高いフレーズは、アイルランドか
ら世界に羽ばたいた U2 の影響を垣間見れる。それを証明するように、2001 年の「アンプ
ラグド」と銘うたれたコンサートでは、U2 の "With or Without You"を歌いこんでいる。
引用文献
1. Leech,G(1983). Principle of Pragmatics, Longman, p.23.
2. Brown,P. and Levinson,S.(1978) Politeness: Some Universals in Language Usage,
Cambridge University Press, p.65.