先生鞄贈凋竜鋼 ドイツ占領下、パリから疎開 エッセイスト フランソワーズ・モレシャン(75) 屠 屋同然の小屋でした。私たち家族のほ かに父の腹心の部下とその家族がお す。日曜日は、ピクニックや展覧会や は、お手伝いさんと、飼い猫と一緒で り、計12人で水道も電気もないままの はあんな惨めな思いを絶対にさせては 音楽会に行ったりしました。しかし、 暮らしを始めました。 ならない」というのが、母としての強 戦争が始まりFy!カ月もすると、ドイツ 1936年にパリで生まれた私の記 父ジャンの祖父は、ロシアの占領に の占領地が広がり、いよいよパ叶も危 -幼少期はどんな時代でしたか? 大戦間近の時期です。私の人生の記憶 よる自由剥奪を嫌い、ポーランドから ない、という空気が広まりました。 さげす を破壊するのか、ヨーロッパで最も知 の工場をそちらに移し'みんなで疎開 ルーズに良い工場が見つかった。パリ ある日、エンジニアの父が「トゥ- ど努力しましたが、それでもみんなの めるために、家事の分担を工夫するな での耐乏生清の中、母はみんなをまと ような視線を受けました。貧しい小屋 めに近所の人に物乞いまでして、蔑む る国の1つの血を受け継いでいるので しよう」と言いました。 はくだつ い願いでした。 は戦争とともに積み重ねられてきまし パリに亡命してきたのです。自由と正 - (戦争と私)とは? す。3歳の娘を前にして、ふたりはど 憶は3歳から始まります。第2次世界 た。ですから、(戦争と私)こそが私 義が損なわれることが、どれほど人間 次の日からみんなで家具を集めるた の人生の大切なテーマになるのです。 私の母、ジャンヌは16。歳の時、第1 んな思いを抱いたことでしょう。 ちます。仏独「休戦」となり、ラジオ 領。ヒトラーもエッフェル塔の前に立 半年後\ドイツがパリを完全に占 不平、不満は絶えませんでした。 次世界大戦を経験しています。第1次 母は初め抵抗をしましたが、結局、 という父の気持ちに同意して、両親の 家族はいつも1緒にいることが大事だ それぞれの母、つまり、私のふたりの ん-1937年、パリの母の実家 - ドイツによる占領に対してご家 大戦期のヨーロッパがどんな悲惨な目 に遭い、多くの人間が絶望したか- 戦前の日常生活はごく穏やかな日々 族は? 祖母をつれて、小型車に乗って、トゥ - 。ノーベル賞作家マルタン・デユ・ でした。母は美術の教師として公立学 ガールが﹃チボー家の人々﹄のなか 校で働いていましたので、平日の昼間 で彼はパリから逃げた人たちに呼びか で、戦争による世界と人間の破局につ 丸が地面の上を鋭くたたきつけ、恐怖 んです。降りて地面に伏せました。シ ェルル、ダッダダッという機関銃の弾 ツ軍の戦闘機が機関銃を発射してきた ソワ-ズ.死俄なら、1緒に空。僧 た。母は、私に言いました。「フラン が父母と私には生を全うすべき地でし るはずがありません。でも、パリこそ しかし、それはヒトラーとナチの甘 言です。母もほかのフランス人も信じ で咽吐感に襲われたのを覚えていま は私を連れて、パリ行きの列車に乗り の脳裏には「生」ではなく、「死」と まし払。4歳になるかならないかの私 -トウールーズは? (聞き手・羽毛田弘志) いう言葉が重く響きました。 も何もなく、ノミやシラミだらけの廃 トゥ-ルーズの疎開先の家は、家具 怖感が蘇ります。 よみがえ お う と けているシーンを見ると、あの時の恐 す。今でも戦争映画で市民が攻撃を受 りなさい。私たちは歓迎します」と。 けました。「安心してあなたの町に戻 いて書いたあの時期です。「我が子に -ルーズを目指しました。父は工場の トラックで移動しました。途中、ドイ 1歳半のときのフランソワー ズさんとくつろぐ父ジャンさ
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