記録集 Vol.1 【歴史編】 - 上町台地マイルドHOPEゾーン協議会

記録集 Vol.1【歴史編】
▲シンポジウム会場になった玉造稲荷神社
『大 阪 名 物「上 町 台 地 」− 始 ま り は 上 町 台 地 』歴 史 編
「大阪の観光文化の今・昔」
シンポジウム
2010年3月13日
大阪の「背骨」
と言われる「上町台地」
。
古く
き疲れると馬も利用して旅を続けたのでしょ
から歴史を刻み、人と物の交差点でもあった
う。そんな様子を伺い知ることができました。
上町台地は、江戸時代に大流行した「お伊勢
第二部では、大阪城天守閣・研究副主幹の北
参り」
の出発点でもありました。
このシンポジ
川央氏が、江戸時代の人々はどんな観光をした
ウムは、上町台地を大阪市内外の人に知って
のか、について講演。大坂発祥の「浪花講」とい
もらう企画として開催。
「お伊勢参り」
の歴史
う画期的な旅のシステムが定着し、全国に安全
も振り返りながら、江戸期から現在にいたる
で便利な旅のネットワークが確立された江戸
上町台地を中心にした大阪の観光文化をさま
時代。一生に一度と言われた旅の大半は「お伊
ざまな視点から見つめ、
共に考えてみました。
勢参り」で、そうした旅のシステムが最大限に
落語や「道中日記」
に残る
「お伊勢参り」
観光
活かされました。北川氏は、「東からの旅」と
して、東日本からのお伊勢参りの旅を「道中日
記」で振り返りながら、当時の大坂が日本一の
第一部では、落語家の笑福亭仁智氏が、東西
観光都市であったことも詳しく紹介。会場の参
の気質の違いを語って笑わせながら、そうした
加者は、お伊勢参りや巡礼の途中で旅人が必ず
「違う文化」にふれることが旅の楽しみでもあ
立ち寄ったという大坂のにぎわいと、昔の観光
ると語り、「お伊勢参り」を題材にした上方の
文化に想いをはせました。
古典落語「三人旅」を口演しました。これは「東
の旅」と呼ばれるオムニバス大河落語の一つで
もあり、江戸時代の大坂~伊勢参宮の旅の点景
を生き生きと描いた噺。庶民は、長い道中で歩
㆒
▲北川央氏
▲笑福亭仁智氏
当日のプログラム
会場にはさまざまな展示も▶
第一部 落語「東の旅」笑福亭仁智氏
第二部 講演「東からの旅~お伊勢参りと大坂観光」
北川央氏
第三部 パネルトーク「大阪の観光文化の今・昔」
笑福亭仁智氏、北川央氏、オダギリサトシ氏、
コーディネーター・栗本智代氏
歴史や人とふれあう
〜現代の大阪観光の可能性
ふれあいを再発見したことを語り、また、上町
台地を舞台にした上方落語もいくつか紹介し
ました。北川央氏は、大阪および上町台地をア
パネルトークでは、昔と今の上町台地の観光
ピールするイベントを数多く企画して来た中
について思い思いの意見が語られ、現在、「大
で、やはり大阪城と大坂の陣関係の史跡に対す
阪旅めがね」というまち歩きの観光プログラム
る関心は高く、そこに付随する歴史の物語を語
を実施しているオダギリサトシ氏が、地元の人
る新しい観光のスタイルを提唱しました。
と話し、そこの生活文化にふれる、という一歩
上町台地から考える今の大阪観光は、意見も
踏み込んだ観光の可能性を提言。笑福亭仁智
尽きない話題でしたが、大阪の歴史の宝庫であ
氏は、昔のように実際に街道を踏破した「伊勢
る上町台地を知ってもらう良い機会になった
参り落語会」の体験を話し、忘れていた人との
のではないでしょうか。
㆓
東からの旅
お伊勢参りと大坂観光
昔、日 本 一 の 観 光 都 市 だ っ た
大 坂 の に ぎ わ い
北川央氏
(大阪城天守閣 研究副主幹)
浪花講の木製看板▶
(玉造稲荷神社所蔵) 「安心」
を約束した
画期的な旅のシステム「浪花講」
叅
る道具の製作・販売)
の手代・源助という人が、
主
人と相談をして「浪花講」というものを結成しま
江戸時代の「お伊勢参り」と大坂の観光につい
した。これが江戸時代の旅のシステムを考える上
てお話ししたいと思います。江戸時代には、たぶ
で、
画期的な出来事となったのです。
ん我々が予想するよりもはるかに高度な旅行の
源助は、唐弓弦を販売するために各地を旅行し
システムが出来上がっていました。そうした江戸
ていたわけですが、その際に非常に悩まされた苦
時代の旅の背景をひもときながら、実際に東日本
い経験があります。全く見ず知らずの土地で、ど
の人がお伊勢参りをした「東からの旅」はどのよ
の宿へ泊まったらいいのかわからない。泊まって
うなものだったのか、旅人が残した日記をもと
みると、ぼったくられて大変な目に遭うこともし
に、彼らの大坂観光の様子を追体験してみたいと
ばしばありました。そんな体験をもとに思いつい
思います。
た新しいビジネスが「浪花講」でした。いわば、我
まず、江戸時代の旅について語るとき、忘れて
が国初の協定旅館組合です。源助は、各宿場町で安
はならないことがあります。文化元年(1804)に、
心して泊まれる、サービスの良い、しかも安い旅館
大坂の玉造清水町の松屋甚四郎という唐弓の弦
を選んでネットワーク化しました。それが浪花講
師(とうゆみのつるし。木綿を打って柔らかくす
というシステム。選んだ旅館には木製の看板が配
旅籠「ひやうたん河内屋庄右衛門」の引札▶
(大阪引札研究会編『江戸・明治のチラシ広告 大阪の引札・絵びら<南木コレクション>』) られて、店先に吊るされましたので、誰が見てもそ
こが浪花講加盟旅館だとわかります。さらに、ガイ
ドブック・ガイドマップも作り、それぞれの宿場町
こにたくさんの旅館が軒を連ねていました。中で
でどこが浪花講の協定旅館か一目で分かるように
も大坂で1、2位を争った代表的な旅館が「ひや
して、無料で旅人に配布しました。当然、旅人には
うたん河内屋」と「分銅河内屋」で、どちらも客室
重宝がられ、旅館の方からも宿泊客が増えたので
数は百前後もある大旅館でした。
「御定宿(おん
大変喜ばれ、浪花講は大ヒットするわけです。やが
じょうやど)
、ひやうたん河内屋庄右衛門」と書
て、浪花講を真似たものもいっぱい作られ、幕末ま
かれた「ひやうたん河内屋」の引札が残っていま
でに三十余りの同じような「なんとか講」という
す。引札というのは、今の言葉で言うチラシで、お
ネットワークが誕生しました。
客様を引っ張ってくる札、つまり印刷物のこと。
ガイドや土産物、宅配便など
観光のすべてを担った宿
これを見ますと、
「御定宿・・」と書かれた上に、
ひょうたんマークが描かれ、その両側に、
「屋根
にこの印」と書かれています。うちの旅館の屋根
江戸時代の旅人は、こういう安心できる旅のシス
にはひょうたん印が上がっていますので、それが
テムに乗っかって旅行を続けました。多くの旅人が
目印ですよ、ということですね。その隣には「ひ
訪れる江戸、京都、大坂、奈良、堺などには有料ガイ
やうたん河内屋」の店先や大坂名所を描いた絵が
ドもいました。旅人は泊まった宿屋でガイドを斡旋
あり、
「ひやうたん河内屋」の二階の欄干の所か
してもらい、彼らの案内で市中を見物する、という
ら棒が突き出ていて、その先にひょうたんの印が
システムが江戸時代にすでにあったわけです。この
ついています。
有料ガイドのことに限らず、江戸時代の旅の中で一
番キーになるのは旅館という存在でしょう。
その右には、別の目印も見えます。これは隣の
「分銅河内屋」のもので、左右にふくれあがって真
大坂で言いますと、今は電気屋街として有名な
ん中が凹んでいる分銅のマークが描かれていま
日本橋の商店街のところを「長町」と呼び、あの
す。「ひやうたん河内屋」とは姉妹店で、本家と分
界隈に旅館がたくさん集まっていました。江戸時
家にあたります。有名な『東海道中膝栗毛』の弥次
代、「大坂三郷」と称された大坂の町は、道頓堀と
さん喜多さんの二人は、「分銅河内屋」の方に泊ま
大川に挟まれた地域、大川の向こうの天満、そし
る設定になっています。さらに、この引札の「御定
て大坂城周辺の上町、おおよそこうした範囲が江
宿 ひやうたん河内屋庄右衛門」と書かれた部分
戸時代の大坂だったわけで、それより北の梅田や
の左側を読んでみますと「京都のぼり船、讃州金毘
南の難波などは町ではなく村場でした。ところ
羅船、毎日出し申し候・・・」とあります。一般に京
が、この長町だけは紀州街道に沿って長く突き出
都への上り船、すなわち京と大坂をつなぎ淀川を
た「町」だったので、「長町」と呼ばれました。こ
往来した三十石船は、八軒家からだけ出ていたと
㆕
東からの旅 〜お伊勢参りと大坂観光
▲友鳴松旭図「浪華名所独案内」
(大阪引札研究会編『江戸・明治のチラシ広告 大阪の引札・絵びら<南木コレクション>』)
思われがちですが、実は、この「ひやうたん河内屋」
重要な要素だった道頓堀での芝居見物のことで
に近い日本橋辺りも含めて、大坂のいろんな所か
す。その芝居見物も、旅館の方で直接劇場側と取
ら、京都上り船は出ていました。もちろん京都から
引していますから、よそでお買い求めになるより
下る船も、いろんな所に着きます。そして、讃岐の
は、うちで買うてもらった方が安うで見物出来ま
金毘羅さんへ向かう船も、「ひやうたん河内屋」で
すよ、というわけです。こういうプレイガイドとし
は毎日出していました。
ての役割も、宿屋にはありました。宿屋はほんとう
引札の文章を続いて読んでみますと、
「並びに、
にいろんな機能を持っていたことが、この一枚の
諸国書状荷物取次ぎつかまつり候」。江戸時代に
引札からもよくわかります。江戸時代は私たちが
は、もう郵便や宅配便みたいなシステムがありま
思っているような前近代社会ではなく、旅のシス
した。全国どこへでも手紙や荷物を届けますよ、
テムだけを見ても、かなり現代に近い高度な仕組
ということです。江戸時代の旅人は、このシステ
みが出来上がっていたのです。
ムを利用して、故郷に土産物を送りました。また、
今とは違い電車やバス、飛行機もありませんでし
たから、長期旅行の荷物をたくさん持って歩くの
⓹
一生に一度のお伊勢参りで
必ず立ち寄った大坂
はたいへんだっただろうなと思われるかもしれ
さて、江戸時代の旅における大坂の位置はどの
ませんが、その場合もやはりこのシステムを使っ
ようなものだったのでしょう。信仰の旅には西国
て、旅人は次に泊まる旅館へ先に荷物を送ってお
三十三ケ所の観音巡礼や四国八十八ヶ所の遍路、
いて、本人らは身軽な旅を続けたのです。そんな
金毘羅参り、善光寺参りというように、いろいろと
便利なシステムが江戸時代にすでにあったわけ
ありますが、江戸時代で最も信仰を集めたのは、な
です。さらに、その左側には「芝居ご見物の節は、
んといってもお伊勢さん(伊勢神宮)です。全国各
私方、直々取引つかまつり候あいだ、外かたより
地の村々に「伊勢講」や「神明講」という名でお伊
は、格別下直(げじき)にお世話つかまつり候」と
勢さんの信仰のグループが作られました。こうし
あります。「芝居」というのは、大坂見物の中でも
た講では、毎月1回、縁日に集まり、皆で神事をし、
お金も毎月積み立てて、講としてそのお金をプー
ルしました。そして、くじ引きなどで代表を決め、
そのお金で毎年誰かがお伊勢さんにお参りに行き
(代参)、村の安全を祈祷してもらい、各家のお札を
もらって帰ってくる。これが「伊勢講」のシステム
です。規模が大きい村では、たくさんのお金が集り
ますので、村を代表して一度に3人も4人も行く
ことがありましたし、1人だけしか行けない村も
ありました。
江戸時代の庶民の旅の大半は、このような人た
ちのお伊勢参りだったと言えます。江戸時代、庶民
が長距離の旅に出るのは、大体一生に一度で、その
一度の旅がお伊勢参りというわけです。これは皆
ターンに分類されます。Aパターンでは、途中で
で積み立てたお金で行く、いわば公務の旅なので、
お伊勢参りの格好から西国三十三ケ所の巡礼姿
旅の様子やお金をどう使ったかを全部記録に残さ
に着替える必要がありますが、三重県玉城町の田
ないといけません。その記録が道中日記で、今もた
丸という所で西国巡礼用の笈摺(おいずる)が売
くさん残っています。ところが、それら江戸時代の
られていて、ここでお伊勢参りから巡礼姿に変身
お伊勢まいりの道中日記を集めますと、意外なこ
をいたします。そして熊野へと向かうのですが、
とがわかってきました。みんな同じようなコース
一番札所が那智山の青岸渡寺、二番が和歌山の紀
をたどる、ということです。
三井寺、三番は紀ノ川をさかのぼって粉河寺、四
今回は「東からの旅」ということですが、関東や
番は大阪府和泉市の槇尾山施福寺。ところが、江
東北など東日本からの場合で言えば、大きく二つ
戸時代の巡礼者は順番どおり単純には行かない
のコースに分かれます。
のですね。三番札所の粉河寺から四番の槇尾山施
福寺へは、和泉の葛城山脈を越えるとわりに近い
A伊勢参宮+西国三十三ケ所巡礼ルート
のですが、何しろ一生に一度の旅ですから、この
B伊勢参宮モデルルート(西国巡礼を伴わない)
旅の途中でいろいろと有名なところに立ち寄り
(右上図参照)
ます。三番と四番の間では、必ずみんな高野山へ
お参りします。その後、橋本から河内長野を通っ
実は「東からの旅」、すなわち東日本からの伊
て四番の槇尾山施福寺。そして、次の五番札所は
勢参りというのは、この二パターンしかありま
藤井寺市の葛井寺ですが、そこに直接行くかとい
せん。どの道中記を読んでも、全部どちらかのパ
うと、やはりそうではなく、この場合も四番槇尾
⓺
東からの旅 〜お伊勢参りと大坂観光
山から必ず堺、住吉を見て大坂へ入り、大坂での
屋」の引札にも、日本橋の下のところに三十石早
市中見物を終えて最後に四天王寺にお参りして
船と共に金毘羅船が描かれています。当時の旅は
から五番葛井寺へ向かいます。
陸路ばかりでしたから、この船旅という新たな観
Bパターンの場合も大坂に来るわけですから、東
光商品は非常に人気を呼びました。そして、大坂
日本からのお伊勢参りの場合、どちらのパターンで
から金毘羅参りに行った旅人は、必ず戻って、ま
も、必ず、100%大坂にやって来たわけです。しかも大
た大坂でお金を落としてくれます。金毘羅に行か
坂には旅の途中、最も長い期間、2 〜 5泊程度滞在す
せることで、大坂は二度もおいしい思いをしたわ
るのが普通で、どの道中記でもそうなっています。で
けです。さらに、この船旅は金毘羅から、安芸の宮
すから、江戸時代の大坂は日本一の観光都市だった
島、岩国の錦帯橋へと、幕末になるに従って、どん
ことは間違いありません。
どん距離が伸びていきます。前述のAとB、二つ
金毘羅参りも加わり、
旅のステーションに
のルートとも、金毘羅参詣が加わるパターン(普
及型)や、さらに安芸の宮島、岩国・錦帯橋が加わ
るパターン(拡張型)などが生まれるのですが、
さらに1800年前後からは、A・Bいずれのパ
これらもA・Bルートのバリエーションに過ぎま
ターンでも、四国・讃岐の金毘羅さんへのお参り
せん。
「分銅河内屋」に泊まる弥次さん喜多さん
が加わります。金毘羅はそれほど由緒のある、有
の旅を描いた十返舍一九作『東海道中膝栗毛』
は、
名な神様ではありませんでしたが、江戸時代の終
実は当時のお伊勢参りの旅をベースにした物語
わり頃には、伊勢と金毘羅は一生に一度は絶対参
なのです。あそこに出て来るお店や宿は全部実在
らないといけないと言われるぐらい有名になり
し、すでにお伊勢参りの旅をした人は、自分の旅
ました。幕府が各藩にそれぞれの地域の風俗・習
の経験と重ね合わせてあの本を読みましたし、こ
慣などについて問合せ(アンケート調査)をした
れから出かける人は期待に胸を膨らませながら
のですが、東北地方の人でさえ伊勢と金毘羅は一
読んだわけです。金毘羅参りなど、旅のパターン
生に一度は参るものだと回答しています。この金
が増えると、物語の方も『続膝栗毛』シリーズが
毘羅信仰を売り出したのが大坂で、よく知られて
刊行されて、
これに対応しました。
いる「金毘羅ふねふね」という、あの歌も、金毘羅
参りのテーマソングとして大坂で歌いだされた
ものです。お伊勢参りの旅人を大坂からさらに四
「道中記」で追体験。木賃米銭の宿
に泊まり境見物して大坂へ
国へ動して一儲けしようと、大坂の宿屋が船旅と
柒
いう新たな旅を企画・提案したわけです。金毘羅
さて、実際に道中日記を読んで、昔の旅と大坂
船が、大坂の各所から毎日出ていたのもそうい
の観光はどんなものだったのかをたどって行き
うことなのですね。さきほどの「ひやうたん河内
ましょう。天明4年(1784)に生まれた常陸国久慈
▲文化9年(1812)常陸国久慈郡高柴村 益子広三郎「西国 順礼道中記」(『大子町史料 別冊9』)
郡高柴村(茨城県大子町)の益子広三郎という人
は定番の包丁を土産物として買っています。江戸
の「西国順礼道中記」です。彼は文化9年(1812)
時代は、名物といったらその土地で食べるもので、
正月4日に地元の高柴村を出発して、帰宅したの
故郷への土産物は実用品を買うと区別していまし
は4月4日。総計87日間の旅を行ないました。
た。そして境をあとにした一行は、住吉大社、天下
江戸時代のお伊勢参りの日数がおおむねご理解
茶屋、姫松を経て、ようやく九つ=正午に大坂に
いただけると思います。彼の旅は、さきに挙げた
到着。「長町、河内屋加兵衛へ泊まり。昼食つかま
二つの内、お伊勢参りプラス西国三十三ケ所の方
つり申し候て、ただ一人道頓堀の芝居へ参り申し
のパターンでした。そして、途中に金毘羅さんに
候」。他の人はほっといて、広三郎一人だけで芝居
もお参りに行っています。一行4人の旅で、お伊
見物に行ったとあります。当時はとにかく上方歌
勢参りの後、西国巡礼をしながら、三番粉河寺の
舞伎は大人気で、有名な役者さんがたくさんいて、
次には高野山にお参りをして、四番和泉の槙尾
音に聞くスーパースターの実物を見ることができ
寺(施福寺)から境(堺市)に到着。「二月十三日
ました。「古今無双の名人ゆえ、面白くござ候。千
泊、木56文、米80文、河内屋金十郎」とありま
両役者片岡仁左衛門・・誠に名人なり」と、大興奮
すが、これは河内屋金十郎という宿に泊まり、薪
で書いています。「芝居かかり銭三百三十二文」は
代の木賃56文と米代80文を払い、自炊したと
境の宿賃と比べれば、いかに高いお金を払って芝
いう意味です。江戸時代の宿屋には3種類ありま
居を見たかということがわかります。ゆるゆると
した。一番安いのが木賃宿で、お米や食べ物を全
楽しんで、戻り道で道頓堀の遊女町の夜店のにぎ
部持っていき、これを炊く薪代、すなわち木賃を
わいを見ながら宿に帰っています。
払って自炊する。その次にランクの高いのが、木
「二月十四日泊。宿百三十二文、河内屋嘉(加)兵
賃米銭の宿。お米は持参しなくてよく、宿で米と
衛」。宿とだけあり、木・米と書いていないのは、ここ
薪を買って自炊をする。河内屋金十郎はまさにこ
が旅籠だということを意味しています。
のタイプでした。仮に1文が30円としたら合計4
千円ほど払ったことになります。そして、もう一
つ上のランクが旅籠で、ちゃんと料理を出してく
高いガイド料を払い、
大坂をどん欲に観光した旅人
れる高級旅館です。
翌十五日には案内人を一人につき二百文(6,000
翌十四日にガイドの案内で境(堺)を見物。境で
円)で頼み、大坂見物を楽しんでいます。有料ガイド
⓼
東からの旅 〜お伊勢参りと大坂観光
▲『摂津名所図会』挿画「砂場いづみや」(『日本名所風俗図会10 大阪の巻』)
▲南天満公園にある「天満青物市場跡」の碑
がかなり高い料金だったことがわかります。一人当
ず、林立する船の帆柱はまるで海に林があるよう
たり二百文ですから、宿代より高いわけです。
だと記しています。市中の堀川は底が浅く、川舟し
この日はまず「生玉大明神」(生國魂神社)に
か入れませんでしたので、大型の廻船は沖に停泊
参っています。ここは当時の大坂を代表する観光
しましたが、その様子も「天下の台所」として繁栄
名所のひとつでした。ついで高津の社(高津宮)
をきわめる大坂の代表的な景観で、他では見られ
に行きましたが、ここには遠眼鏡(望遠鏡)が置
ないものでした。当時の大湊(大坂港)は、木津川口
かれていて、繁栄する大坂のまちが一望できまし
と安治川口の二カ所でしたので、広三郎らは、その
た。そして、大坂城から天満天神(大阪天満宮)に
どちらかに見に行ったと思われます。ちなみに貞
向かい、天満青物市場を見物して、東西本願寺(北
享元年(1684)に安治川が開削されるまでは、伝法
御堂と南御堂)に行き、砂場(船場とあるのは翻刻
川口がもうひとつの湊でした。
の誤り。今の西区新町一丁目あたりに秀吉の大坂
続いて、阿弥陀池に参りますが、ここは善光寺
築城の際に砂置き場だったと伝える場所があり、
如来が出現したという伝説の池で、その中にお堂
そこを「砂場」と言った)へ向かい、和泉屋吉兵衛
があり、絶やすことなく定燈明がともされていま
のそば屋をのぞいています。砂場にはもう一軒、
した。この池のほとりに、善光寺の別院として和
津の国屋があり、この二軒がしのぎをけずって張
光寺が建てられたのは元禄年間(1688 ~ 1704)
り合い、砂場の蕎麦を有名にしました。大坂の庶
のことですが、周囲に石の矢来がめぐらされた池
民もよく食べましたが、明治以後、近代になると
は今も当時のままの姿で残っています。ちょうど
大坂ではうどんに押されてそばが衰退し、砂場の
広三郎らが大坂にやって来た頃は、道頓堀の五座
そばも東京に拠点を移しました。現在は150店
が火災で焼失していたので、この阿弥陀池和光寺
舗以上が営業を続けており、「砂場」はそば屋の
の境内に五座のうちいくつかの小屋が移って営
ブランドとして関東で抜群の知名度を誇ります。
業しており、ここで浄瑠璃を楽しんだ広三郎は、
さて、和泉屋では、下男・下女を四十~五十人も
浄瑠璃は日本一の面白さだと書いています。つい
使っていたとあり、広三郎は「誠に大きなるけむ
で幕府が飢饉対策用に建てた難波御蔵を見物し、
とん(麺)屋」だと記しています。それから、本町通
へ出て岩城升屋、三井越後屋(後の三越)という呉
服の大店を見物し、また豪商・鴻池家の屋敷は、町
人なのに、まるで大名屋敷さながらに見
えた、とたまげています。
土佐堀川沿いに川岸を西に進むと、
大湊に出、沖に停泊中のたくさんの大
船(諸国の廻船)が見え、千石船は数知れ
⓽
▼和光寺にある「阿弥陀池」
今橋二丁目にある豪商
▼「旧鴻池家本宅跡」の碑
◀はりまや源蔵 引札
(大阪引札研究会編 『江戸・明治のチラシ広告
大阪の引札・ 絵びら<南木コレクション>』)
そこから向かったのが四ツ橋。当時
文(2,160円)でした。夜中に同行の者が
の大坂の土産物といえば、なんといっ
食あたりになってたいへん難渋したと
てもこの四ツ橋の「きせる」で、ほとん
も書いています。
どの旅人が買い求めています。煙草がわ
翌十六日は宿を出立して四天王寺
が国に入って来たのは戦国時代ですが、
にお参り。七堂伽藍と聞いていたが、
瞬く間に女や子どもまでが煙草を吸うよ
これまた焼失して普請中だと書いて
うになり、江戸時代はまさに喫煙全盛の時
います。亀の池や石の大鳥居、そこ
代でした。ですから、きせるの需要も高く、
に懸けられた「釈迦如来 転法輪
中でも最も有名だったのが大坂・四ツ橋のき
所 当極楽土 東門中心」の扁額などを見ていま
せるでした。四ツ橋には「はりまや」を名乗るきせ
す。そして、平野郷に行き、大念仏寺の巨大な本堂
る屋が軒を連ね、「本家」「正本家」などいろいろと
に感心します。平野郷についてもすばらしい町だ
冠して互いに競い合いました。この道中記では、思
と称え、ここから西国巡礼の五番札所・葛井寺へと
いのほか高価だったとあります。さきほど紹介し
向かいました。当時のガイドブックには、滞在日数
たものとは別の「ひやうたん河内屋」の引札(ガイ
によって、いろんなモデルコースが提示されてい
ドマップ)には、「本家はりまや」の名が記されてい
ますが、大体これが、典型的な大坂観光のパターン
ますから、「ひやうたん河内屋」に泊まると、有料ガ
でした。
イドは旅人を「本家はりまや」に連れて行ったので
しょう。今でもツアー旅行などに参加すると、特定
の土産物屋に連れて行かれるというのはよくある
四天王寺、大坂城、芝居見物・・
商都の活力も魅力に
話ですが、江戸時代から既にそういうシステムがで
私は、こういう道中記をたくさん集めて研究し
きあがっていて、宿屋とガイドと土産物屋はグルに
ていますので、江戸時代の旅人が、大坂に泊まっ
なっていたわけです。やっぱり江戸時代は馬鹿にで
てどこを見に行っているか統計を取ってみまし
きませんね(笑)。このように彼らは、この日いちに
た。宝永三年(1706)~文久二年(1862)に至るま
ち、実に慌しい大坂観光をし、最後に道頓堀五座の
での道中記32冊を分析した結果です(次項図)
。
焼け跡を見て、やっと宿へ帰っています。
1位はなんといっても四天王寺。また、この時
この日も広三郎らは河内屋嘉(加)兵衛に泊
代、驚くべきことに大坂城の中を見学することも
まりましたが、夜にはまた出かけ、大坂一の色町
できました。阿弥陀池は、善光寺如来出現の地と
だった新町の遊女屋を見物しました。たしかにた
して全国的に有名。これがベスト3で、こういっ
いそうな賑わいでしたが、とりたてて面白くは思
た所も見ながら、道頓堀の芝居見物もして、江戸
わなかったと記しています。このナイト・ツアー
時代の旅人が最も多くの時間を費やしたのが、大
だけで、有料ガイドの案内銭が一人につき七十二
坂でした。江戸時代の道中記を見ますと、京都や
⓾
東からの旅 〜お伊勢参りと大坂観光
奈良は今の観光と変わらず、行く所も今と一緒
で、奈良では鹿せんべいを買って鹿にやったりも
していますが、江戸時代の大坂観光はそうした京
都・奈良とはずいぶん違ったんですね。もちろん
大坂にも古寺名社はあり、そうしたところも見て
まわっていますが、道頓堀の芝居見物など、大坂
という最先端の都市文化の魅力を楽しみ満喫す
るのが大坂観光の最大の特徴で、たとえば天満の
青物市場なんかも、ものすごい人気でした。田舎
から来た人には信じられないぐらいの量の青物
が山積みされているのに驚き、それが一瞬の間
に売り捌かれて無くなってしまうので再度驚く。
そうした「天下の台所」大坂の商都としての活力
も、江戸時代の大坂観光の大きな要素でした。
「無いものを見せる」ー現代大阪
観光の鍵は歴史の物語
⓫
呼ばれました。
船場の「平野町」
「淡路町」
「本町」
「久宝寺町」
に対して、
「内平野町」
「内淡路町」
「内
本町」
「内久宝寺町」
になるわけです。
「町人の町」
といわれる江戸時代の大坂ですが、その中核はや
はり大坂城で、大坂の町は大坂城の城下町だった
上町台地に関していえば、江戸時代の大坂の地
ことを再認識する必要があります。
図は大坂城のある東を必ず上にして描かれまし
今も大阪城には毎日毎日たくさんの観光客が
た。大坂城が江戸時代の大坂では最も高貴な場所
お越しになります。でも、その大半が天守閣だけ
だったからで、江戸時代のそうした空間認識から
を見て、さよならです。なんとも残念です。大阪城
いうと、船場の東にある上町はまさに地図の上の
には天守閣以外にもたくさんの見所があるので、
方にある「上町」だったわけです。東横堀や西横
ぜひそれらを見てまわって欲しい。それから、大
堀も、そういう空間認識だったことを理解して
坂の陣の舞台になった史跡・伝承地も大阪城周辺
初めて「横堀」であることがわかります。それ以
にはいろいろとあるので、ぜひそちらも訪ねて欲
外の堀、道頓堀や長堀はすべて東西に流れる「縦
しい。歴史の舞台に立つと、当時の様子がはっき
堀」だったわけです。
りとした映像になって頭に浮かぶはずです。
「歴
東横堀は、船場と上町の境界線でしたが、その
史の現場」だけがもつ「場の力」
、その迫力を感じ
東横堀は豊臣時代には大坂城の西惣構堀(にし
て欲しいと思います。私は、抜群の知名度を誇る
そうがまえぼり)で、この堀より東は大坂城の内
大阪城・大坂の陣と、それにまつわる物語を結び
側でした。ですから、「上町」はまた「内町」とも
つけた観光ができないものか、いろいろと試行錯
変わりゆく道頓堀▶
誤を繰り返してきました。大阪城・大坂の陣以外
に向けて、今後いろいろ
でも、難波宮・四天王寺・熊野街道など歴史の舞台
な取り組みをしていくつ
になった場所が上町台地には数多くあります。歴
もりです。
史上の史実だけでなく、歌舞伎や文楽、能などの
これまで私は、大阪城
物語になった話も多いし、落語・講談の舞台もた
や上町台地の魅力をア
くさんある。そんなすぐれた財産をなぜ活用しな
ピールするため、さまざ
いのか。なんとももったいない。ほんとうに忸怩
まなイベントに取り組ん
たる思いでいます。
で来ましたが、そうした
今は旅行に行く機会も増え、伊勢神宮にお参り
中でも、私自身が自信を
する人も、江戸時代より現代の方が断然多くなっ
持ってご案内できるのは
ています。大阪を訪れる人も当然今の方がはる
大阪城と大坂の陣に関す
かに多い。今の大阪で観光客が行く所といえば、
る史跡を回ることです。
大阪城、USJ、海遊館、通天閣、道頓堀といった所
大坂の陣の史跡といって
ですが、私自身は、大阪にはもっともっとおもし
も、とくに何があるとい
ろいところがたくさんあると思います。でも、そ
うわけではありません。
のおもしろさがわかるには歴史や古典の物語を
でも、その歴史の現場に立って、そこで実際に
知っていなければならない。教養が必要な、少し
あった出来事を聞き、そのシーンを脳裏に思い浮
知的な旅ですね。現代の観光はそうしたレベル
かべるだけで、そこは一瞬にして「観光地」にな
に来ていると思っています。2014年、2015年に
ります。かなり贅沢な旅です。このようにして「無
は「大坂落城400年」を迎えます。豊臣秀頼とその
いものを見せる」というのが、新しい観光のスタイ
母淀殿、真田幸村や後藤又兵衛といった豊臣方の
ルではないかと思っています。鉄筋コンクリート
智将・勇将、大御所徳川家康、将軍秀忠、徳川方の
の天守閣に過ぎない大阪城の方が、なぜ世界遺産
諸将、そして大坂の市民や近郊農村の百姓ら、さ
に登録される姫路城よりもはるかに多く観光客が
まざまな人間模様が渦巻いて、「落城400年」には
訪れるのか?それは要するに、大阪城には秀吉の
「築城400年」よりもはるかに豊かな人間ドラマが
天下統一の物語、大坂夏の陣での落城の悲劇、こう
あります。そして大坂は全国を相手に戦い敗れ
した物語が付加価値となって、その舞台である大
たものの、くじけずに復興を遂げ、「天下の台所」
阪城に多くの人々が引き寄せられるからではない
として再び繁栄をきわめました。現在の大阪の厳
でしょうか。歴史上の出来事や物語を聞くことで、
しい状況を重ねると、今の時代にとっても「落城
見えないものが見えてくる。すなわち、見えないも
400年」は大阪の再生を考える上で意義深いこと
のを見せていくことが、これからの大阪観光の鍵
だと思います。2014年・2015年の大坂の陣400年
だと思っています。
▲四天王寺のお彼岸風景
⓬
▲平成4年夏、弟弟子たちと大阪
落語家
笑福亭仁智氏
から徒歩で「伊勢参り落語会」を
私 は、平 成4年 の
一緒に玉造稲荷神社で
40歳を迎える夏に「伊勢参り落語会」と
お祓いしてもらって出
いうのをおこないました。
これは、
大阪から
発しました。6泊7日の旅で、1日一回落語
伊勢神宮までチャリティ落語会(収益金は
会をしながらと思い、集客のことも考え人
老人福祉のために寄付)を開きながら歩い
の住んでる方をと、ちょっと遠回りですけ
たんですね。
上方落語には、
お伊勢参りをす
ど、伊勢の本街道じゃなしに名張を通る表
る旅の噺「東の旅」というのがありまして、
街道の方をとって、伊勢まで1日25キロ、170
それを自分の足で歩きたいと思ったんで
キロの道のりを歩きました。浴衣に、てっこ
す。
旅と落語の原点にふれ、
自分を見つめ直
う脚絆、笠をかぶって、足はスニーカーとい
したかった、
と言いますか。
弟弟子の三人と
う恰好でした。
▼お伊勢参りのスタート地・玉造稲荷神社
でお祓いしてもらい出発
▲玉造稲荷神社が発行している 「伊勢参宮本街道行程図」
⓭
▲真夏の徒歩の旅は貴重な体験に
新聞が協力してくれて、
「こんな旅をす
たり、思いがけなく深い話もできる。なん
るから、
会場を募るので、
ここでやってほし
と言うんですか、昔の人の時間の感覚や旅
いというかた、
どうぞ手を挙げてください」
の気分を感じながら、今自分たちが忘れて
と言いましたら、
歩いてどうすんねん、
とい
いるものを再発見できるような新鮮な体験
うか、忘れられていた旅みたいに受け取ら
で、「ああ、私にもこんな気持ちがあんね
れたのか、結果的にものすごい反響があり
や」と、改めてまた進もうという気持ちにな
ました。
ここでやって、
あそこでやって、
と、
れました。受け入れ側の人も「よう歩いて
ほんとにもう、
断るのに苦労したたぐらい、
きたなあ」と迎えてくれてね、雨宿りさせて
うれしい悲鳴をあげました。実際に歩いて
くれたおばあちゃんは
る時も、いろんな人から声かけていただい
「昔はここをよう歩いて
たりしました。実は、10年前に2回目を歩い
きてたんやで」とか言っ
たんですが、最初の時と感触が全然違うん
て、懐かしがっていろん
ですね。1回目はものすごかったんですけ
な話をしてくださった。
ど、2回目はほったらかしなんです。時代の
横道にそれて道を間違
流れとか、その時の告知、周知のしかたとか
えて、何でこんな遠回り
違いがあったんでしょうが。
をして、足に豆ができて
▲旅の無事を祈願
しんどいのにせなあかんねんとか、雷雨に
その1回目、真夏に
おうたりとか、いろいろありましたけど、人
歩いて思ったことが
の温かい心に触れた、すごい中身の濃い、語
あ り ま す。歩 く っ て
りつくせんような旅であったと思います。
いうのは、そのスピー
人が平穏無事を願う素朴な祈りの気持ちも
ドに自分の考えや目
実感しましたし、お参りというのは、浄化さ
線がついてくるわけ
れに行くものなんですね。再来年には還暦
ですから、ふと立ち止
を迎えるので、60歳がまた行く良い機会か
まって人としゃべっ
なとは思っているところです。
◀「上方落語喜講」ののぼりを
掲げる旅途中の仁智氏
⓮
歌があるように、玉造は大坂のはしでござ
いますね。二軒茶屋という枡屋芳兵衛と鶴
屋秀次郎の茶屋がありまして、ここで酸い
酒の一杯も飲みまして、見送りの友達と別
れまして、そこから二人連れ。東へ道をとり
ますと、「笠を買うなら深江が名所」てなこ
というてね、深江笠という名前は深いんで
すけど、実際は浅いんですね。それから御厨
(みくりや)とか、額田(ぬかた)、豊浦(と
ゆら)、松原を越えまして、やってまいりま
したのが、くらがり峠でございます。「くら
がりと、いえど明石の沖までも」てな句碑が
残ってございますが、暗がり峠やなしに、坂
が急なんで、馬がひっくり
がえる、鞍がひっくりかえ
るから、鞍がえり峠、という
のが始まりやそうでござい
ます。・・というようなこと
今日、私がやりますのは「東の旅」の中の
「三人旅」という噺です。普通、
「東の旅」は
お伊勢参りをする二人の道中の噺で、最初
で、「東の旅・発端」が始ま
るわけでございます。
深江稲荷神社にある碑▶
はこうです。大坂のウマの合いました喜六
深江の菅笠は伊勢参宮の と清八という二人の男がお伊勢参りでもし
旅人の必需品 ようやないかと、黄道吉日を選んで出立す
る。
親戚、
近所それから友達にあいさつを済
「三人旅」
ませまして、安堂
この噺は、大坂の気のおうた三人ー喜六、
寺橋を東へ東へ、
清八、源兵衛が旅を続けるもので、そのお伊
「大坂離れてはや
勢参りの道中の出来事。馬に乗ろうという
玉造」とそういう
ので、安い馬方を探し、お百姓が野良仕事
◀JR玉造駅前にある
「二軒茶屋」の碑
⓯
◀大川ぞいの南天満公園にある
「淀川三十石船舟唄碑」
お伊勢参りの帰りの噺で、兵庫の三人連
れが日本橋の宿屋に泊まる「宿屋仇」とい
う大作もあり、これは武士と隣り合わせた
ために大騒動になる物語。もう一つ、お伊勢
の片手間にやってるのをようやく見つける
参りでは「百人坊主」という噺もあり、昔の
が、
三宝荒神乗りで三人が乗ってみると、
足
各村にあった伊勢講の様子も伝えている貴
も片目もけがをしてる馬で・・。
「宮川越す
重な噺。
に越せんことないけど、行きがせわしない
ちなみに「西の旅」というのもあり、金
さかい、今日は明星泊まりにしようと思て
毘羅参りの帰路をあつかったもの。「播州
のう、
三田屋三郎兵衛、
玄関横付けでなんぼ
巡 り 」(「明 石 名
▼土佐堀通に設けられた
で行く?」というセリフが往時の旅を彷彿
所」)→「兵庫船」。
「八軒家船着場の跡」の碑
とさせます。
宿の名も実在したもの。
また、大坂にやっ
「東の旅」は「伊勢参宮神乃賑」とも言い、
て来る旅もあり、
オムニバスの大河落語で、大坂~伊勢の往
「上 方 見 物 」と い
路往路にさまざまな噺があります。その
う噺は田舎から
コースは、玉造から暗越奈良街道~奈良上
観光で来た二人
街道~初瀬街道~伊勢本街道を進んで伊勢
連れが芝居で有
神宮ー内宮へと至り、
帰路は松阪、
津、
亀山、
名な道頓堀を見
鈴鹿を通って草津、大津、京、伏見から三十
物がてら、日本橋
石船に乗って大坂八軒家に帰る、というの
界隈の商店をひ
がルートと言えます。
噺にも順があり、
現在
やかして笑いに
演じられているものをあげると、
なります。
「発端」→「奈良名所」→「野辺」
→<→「法会」
→「もぎとり」→「軽業」
>→「煮売屋」→「七
度狐」→「運つく酒」→<→「三人旅」>→「宮
巡り」→<→「高宮川天狗の酒盛り」>→「軽
石屁」→「矢橋船」→「宿屋町」→「瘤弁慶」
→「京名所」→「三十石夢の通い路」
▲天満橋のたもとによみがえった八軒家浜船着場
⓰
「天神山」
お伊勢参りの「東の旅」は、京の伏見から
三十石船に乗って終点の天満橋のところの
八軒家に帰って来ます。この八軒家のあた
りから南が上町台地になるわけですね。上
「初天神」
「あめ買うてくれ」「みたらし買うてくれ」という子に
父 子 が 一 月 二 十 五 日 の 初 天 神 の 日 に 天 満 宮 に 行 き、
四天王寺▶
やいてると、
今度は「凧を買うてくれ」
と子どもがせが
み、仕方なしに買った父親。
大坂城の馬場(ばんば)ー
今の大阪城の大手前のあたりですか、この馬場まで凧
を 揚 げ に い く。と こ ろ が、父 親 が 凧 揚 げ に 夢 中 に な っ
も「やかましい、
こんなのは大人がするもんや」
言うて
て し ま い、子 ど も が「凧 揚 げ さ せ て く れ や 」と 言 っ て
ね。
子ども「ああこんなんやったら、お父っつあん連れ
て来るんやなかった」というのがオチです。
⓱
▲大阪天満宮
「こんな奴、連れて来んかったらよかった」と父親がぼ
(大阪天満宮~馬場町)
花見時分の噺。へんちきの源助という変わった男が花見
ならぬ墓見をしようと一心寺へ。ある墓を相手に一人で
酒宴をし、そこにあるしゃれこうべを持ち帰る。すると、
そ の 夜「昼 間 の お 礼 に 」と き れ い な 幽 霊 の 娘 が 訪 ね て 来
て、押しかけ女房になってしまう。それを聞いた隣の安兵
衛 が、自 分 も 嫁 は ん が 欲 し い と い う の で、一 心 寺 に 行 く
が、しゃれこうべは見当たらず、向かいの安居の天神さん
にお願いしにゆく。そこに狐穫りがいて、狐をつかまえ高
津の黒焼き屋に持って行くという。可哀想に思った安兵
衛がなけなしの金で買い取り逃がすのだが、狐は化けて
安兵衛のもとに行き、押しかけ女房に。「芦屋道満大内鑑」
葛の葉の子別れのパロディで、結局、正体がばれて「恋し
く ば 訪 ね き て み よ(信 太 の 森 と 違 い )南 な る 天 神 山 の 森
の中まで」と書き残して姿を消すという噺です。
(一心寺、安居神社)
方落語には、この上町台地を舞台にした噺
がいくつもあります。
あ っ た、今 の 空 堀 の 界 隈 ら し い。そ の 裏 長 屋 に 住
この噺の舞台は、「野漠」といって、瓦土取り場の
天 の 熊 五 郎 」と い う や く ざ っ ぽ い 男 が 現 れ、通 夜
む「ら く だ 」と い う 男 が 亡 く な っ た。そ こ へ、「脳
通 り が か る。災 難 は 紙 く ず 屋 で、町 の 月 番 や 家 主
のまねごとをしたろうと思った所へ紙くず屋が
とこにいろいろ集めに行かされ、死人のカンカン
踊りの手伝いまでさせられる。それが終わったら
▲安居神社には、狐穴が残る
転して・・、という大阪の落語を代表する噺です。
ちに、酔っぱらった紙くず屋と熊五郎の立場が逆
「さあ一杯飲め」と無理矢理飲まされ、そうするう
(野漠=谷町六丁目付近)
「らくだ」
▲マイドーム大阪の前に建つ「西町奉行所」の碑
▲高津宮
⓲
オダギリサトシ氏
(株式会社インプリージョン ツーリズムプロデューサー)
た。そこで、じっくりまちを見るには、やっぱ
り歩きながら見ていくのが一番と考え、それ
も、地元の人あるいはその地域のことに精通
している人が一緒に案内しながら、まちを見
て行くことが大事だと思い、そういう提案を
さしてもらっています。
私のやっている「OSAKA旅めがね」は、そ
ういう「まちを歩いて観光する」プログラム
▲空堀ツアーで町並みを楽しむ参加者
⓳
です。今は、ガイドブックもインターネットも
あるし、そういうものを調べれば、いくらでも
地元と交流する新しい上町台地
観光で、古今のまちの魅力を
勝手にまちを歩くこともできるのですが、
「大
私は大阪・上町台地の中心で生まれ育ちま
地域の人と交流したり、その地域でしかでき
した。観光という切り口でこの町の魅力を知っ
ないことを体験したり、というようなことを
ていただきたいと思い、かれこれ7~8年ぐら
させてもらっています。
い活動を続けております。旅行会社の企画とし
上町台地ではプログラムが3つあり、1つ
て、大阪のいろんな所を売り込むというような
は寺町。谷町九丁目から天王寺に向かってた
ことをやっておりまして、その一環として、ま
くさんのお寺が並ん
ち歩きで大阪を知ってもらいたいと考えまし
で い ま す け れ ど も、
て、昨年から「OSAKA旅めがね」という、まち
その寺町あたりのお
歩きの観光プログラムを行っています。
寺 に 三 軒 ほ ど 寄 り、
なぜ、まち歩きが良いのか。従来は団体で、
お寺の方のお話を聞
ドッとある施設へ行ってパッと見てドッと移
いたりしながらまち
動する。そういう繰り返しの物見遊山型の観
を 回 っ て い ま す。通
光が多かったわけです。
しかし、
そういう形態
常、寺 町 の あ た り は
では、
どうしても、
その地域の魅力を知ること
門が閉められてい
はできないという観光業界の課題がありまし
て、檀 家 さ ん 以 外 は
阪旅めがね」では、もう一歩踏み込んで、その
▼寺町ツアーではミニ座禅体験も
天王寺七坂のうちの一つ源聖寺坂▶
車では見ることができないところ
を行くのが、まち歩きの魅力
▲空堀ツアーで訪問する老舗かつおぶし店
なかなか入りにくいものですが、それを案内
魅力として薦めてるのは、
人と一緒に行くことで、中を見て回ってもら
歴史だけじゃなく、今の文
おうということをやっています。
もう一つ、
松
化もある点です。この界隈
屋町のあたりの空堀エリアは戦争で焼け残っ
でもたくさん新しくお店
ていますので、古い昭和の町並みも楽しんで
ができてきて、すごく有名
いただきながら、空堀商店街で昔から商売を
なケーキ屋さんやカフェ
されている店など3か所ほど立ち寄り、お店
もでき、この静かな雰囲気
の方に地域の生活文化を聞きながら、まちを
を気に入り、違う所で飲食
見学していただいています。3つ目は道頓堀
店をされていた方が移っ
から船に乗り、大阪城公園まで行って大阪城
て来られたりもしていま
を見るという。以上のような3つのプログラ
す。これからは、歴史と新
ムを実施していて、地元の人と交流できる時
しい文化が入ってきてい
間を持てるのが、このまち歩きならではの楽
るという点もポイントに上町台地を観光ス
しみ方ではと思っています。
実際、
参加された
ポットにできれば、と考えております。
▲地元の方から昔の町の様子
などについて伺う
方のアンケート結果を見ると、
一番多い答が、
こんな場所はよく車では通っているけど、歩
いたことが無いから知らなかったというご意
見。2つ目に多いのが、地元の人とお話しす
ることができて良かったというご意見です。
これは従来型の観光では、絶対に味わい得な
「OSAKA旅∞(おおさかたびめがね)」は、水
都大阪2009の「クルーズ&ウォーク」企画と
かった観光を提供しているのかなと思ってい
してスタートした、地元密着型の大阪の新しい
ます。
観光プログラムです。
しかし、上町台地はものすごく魅力はある
従来の「観光地や名所旧跡」や「コテコテ大阪」
のですが、多くの人が上町台地を知らないの
が非常に問題で、悩ましいところでもありま
す。
歴史がほんとにいっぱい詰まっていて、
こ
だけではない地域の暮らしに根ざした「リアル
な大阪」や「水都大阪」の魅力をクルーズ、まち
歩き、体験学習などで体感できます。
http://www.tabimegane.com/
れも魅力の一つですが、私が一番上町台地の
⓴
栗本智代氏 大阪ガス(株)
エネルギー文化研究所
主席研究員
値切って安く買い物をするのを楽しみに、また“大
阪のおばちゃん”に外から会いにくるというのも1
つの大阪の楽しみ方に入っているようです。
現在、まちづくりに取り組む住民の方々を中心
に、
ボランティアからプロフェッショナルまで、
大
阪らしいユニークなガイドでまち歩きを案内して
上町台地には、非常に貴重な歴史が刻まれ、豊か
くれるツアーがかなり増えてきています。
な歴史的文化的資源があります。
一方今日のお話で、上方落語は上町台地が舞台に
それを忘れることなく、今もう1回見直して、こ
なっているものが多い、ネタの宝庫であるという
れからどのように活用して楽しめるようにするか
のもよくわかりました。落語と歌舞伎は同じ素材
を考えないと、大変もったいないと思います。大阪
が多く、例えば「らくだ」もそうで、東京の歌舞伎
を、上町台地を、歴史文化薫る、趣深いひとつの観
ファンが実は上町台地が舞台なのだということを
光地、観光名所としていくにはまずどうしたら良
知れば、
上町台地に興味もわくでしょう。
いか?という課題があるわけです。
この地域でしか出来ない体験を提供する可能性
しかし、上町台地って何?と、知らない、聞いた
やポテンシャルは、上町台地には山のようにある
こともないという方もおられます。そういう中
と思います。見えない物語というのもたくさんあ
で、いかに大阪の背骨としての上町台地を知って
りますので、それをいかに見せていくかがひとつ
もらうかが大事です。昨年開催された「水都大阪
のポイントかと思います。そのような複数の新た
2009」では、船と合わせたまち歩きコースが大
な企画やツアーをすべて一つのところで取り仕切
変人気でした。この上町台地こそ歩いて見て回る、
るプラットホームのような組織が今は大阪にな
非常に良い場所ではないでしょうか。
く、
それが大きな課題と言えます。
今日の話題に出ていなかった点として、過去には
まずは今日のシンポジウムに来られた方から率
なくて今にある大阪の文化、その一つに「大阪人」
先して上町台地を体験していただき、さらにお仲
があると思います。江戸時代ですと、大阪人は、商人
間を誘っていただければ、それがもう次の一歩に
という特徴が目立ちますが、今も、商店街の店主に
なると思います。
• 物語を見せるという新しい観光の視点を、知人にも紹介したいと思いました。
• 楽しいお話でした。より詳しく上町台地を知ることができました。また、歴史等ツアー旅行的な催しを
していただきたいと思います。
• パネルトークでいろいろな立場からの話が聞けて興味深かった。
• 本日のように落語あり、講演あり、トークありがよい。いろんな楽しみ方が
できると思います。内容も今回のように、歴史を庶民的な観点により触れて
いただければうれしい。
• 北川先生のお話、とても興味がありました。説明を聞いたら一度上町台地を
歩いてみたく思いました。
• いろいろな角度から上町台地の今後についての戦略などのお話を聞け、非
常に有意義でした。歴史のイベントにはあまり参加していないので、今後も
企画してほしいです。
㉑
㉒
【発 行】
TEL:06-6208-9631 FAX:06-6202-7064
E-mail:[email protected]
HP:http://uemachi-hope.net/
【発行日】平成22年3月
【協力者】やまだりよこ 藤田ツキト
(株)バード・デザインハウス