世界史 A 事前ワークシート 2013. 12. 12 12/17(火)の授業

世界史 A
事前ワークシート
2013. 12. 12
◎12/17(火)の授業までに以下の質問について答えておいてください。
<質問1>
あなたが「独裁者」だと思う人物(歴史上の人物でも存命中の人物でも誰でも構いませ
ん)をひとり挙げてください。
<質問2>
その人物が「独裁者」だと思う理由を挙げてください。
<質問3>
「独裁者」とはどのような人物なのか、あなたの考えを書いてください。
※
このプリントは 12/17(火)の授業の際に持ってきてください。
1年
I組
番
名前
ワークシート A
A
班
<この絵の時期のナポレオン>
1800 年にアルプス山脈を越えてイタリアに遠征するナポレオンの姿を描いた絵である。
前年の 1799 年 11 月、ナポレオンは遠征先のエジプト(
「兵士諸君、ピラミッドの頂から、四千年の歴史が
◎次の文章を読んで、以下の質問について話し合ってまとめて下さい。
諸君を見つめている!」という名言を残したのはこの時)に 23000 人余りの将兵を置き去りにして秘密裏に
単身帰国した。敵前逃亡罪に問われかねない強引で危険な帰国であった。帰国したナポレオンは、軍と民衆の支
持を背景に、当時のフランス政府であった総裁政府と議会を解散させ、統領政府という新しい政府を樹立した。
「ブリュメール 18 日のクーデタ」と呼ばれるこのクーデタは、ナポレオン自身が後に、
「あれはシェイエスと
文官たちがやったことで、余は手先に過ぎず、主役ではなかった。ただ果実だけをいただいた」と語ったように、
首謀者はナポレオンひとりではなかった。
当時のフランスは、革命における諸改革が一段落し、市民階層は革命によって自由権や平等権、圧制への抵抗
権、私有財産の不可侵などの諸権利を手に入れ、農民層は農奴身分から解放され自分たちの土地を手にすること
ができた。一方、政情は不安定で、革命の徹底と反対派の粛清を強力に実行したロベスピエール率いるジャコバ
ン派の独裁政府が、テルミドール 9 日のクーデタ(1794 年 7 月)で倒された後、革命の行きすぎや独裁の防
止のために 5 人の総裁に権力を分散させる総裁政府が樹立された(1795 年 10 月)
。しかし、総裁政府は権
力を分散させたため強力な指導力を欠き、革命を潰そうと侵入してくる諸外国との戦いや、戦費の支出と貨幣の
乱発で発生した国内のインフレーション、反革命の絶対王政擁護派である王党派の反乱などの諸問題に対して有
効な対策を講じることができなかった。この状況に不満を持った総裁の一人シェイエスや前外相のタレーランと
いった政治家たちは、体制の刷新に軍の支援を得ること、その刷新に国民の支持を取り付けることを目的に、一
人の人物に目をつける。それが、王党派との戦いや諸外国との戦いにことごとく勝利し、
「常勝将軍」として時
の人となり、民衆の人気が高かった軍人ナポレオンであった。
クーデタは成功し、ナポレオン・シェイエス・デュコの 3 人の統領からなる統領政府が成立する。総裁政府
の反省から、3 人の統領のうち第一統領と呼ばれる 1 人に行政権や軍隊の指揮権を与え、強力な指導力を有す
ることができるようにした。問題はだれが第一統領になるかであった。クーデタの黒幕であるシェイエスは、自
ダヴィド『ナポレオンのアルプス越え』
(1801,油彩,260×221cm,マルメゾン国立美術館蔵)
分が第一統領になるつもりでいたが、ここまで担ぎあげられた形であったナポレオンが、ここに至って自分が第
一統領になると強力に主張する。既に国民の人気と軍事力を手にしていたナポレオンを無下に扱うことはできず、
デュコの「我々では事態を乗り切れない。全力でナポレオンを助けるべきである」という説得もあり、ナポレオ
ンが任期 10 年で独裁的な権力を持った第一統領に就任することになった。
第一統領となったナポレオンは、革命の成果の定着と国内の安定を求める民衆からの強力な支持を背景に、国
<フランス革命(1789~99)とは>
1789 年のバスティーユ牢獄襲撃に始まる市民革命。近代社会成立への転換点。徹底的で典型的な市民革命
内の社会秩序の回復に着手する一方、イタリア遠征のように積極的に外征を行い、フランスの外へと勢力を広げ
であり、王政廃止(絶対王政の打倒)
・共和政の樹立・国民主権・法の支配・自由権や平等権の保障・圧制への
ていくことに着手することとなる。ナポレオンの弟リュシアンは、まだ軍人になる前の若き日の兄を、
「ナポレ
抵抗権の保障・私有財産の不可侵などを実現し、フランス社会を根底から変革するものであった。革命自体は成
オンの心中には何かの野心があり、
専制者たる素質があり、
王位に就けばまさに独裁者となるだろう」
と評した。
功するが、革命政府内の内紛や王党派(絶対王政擁護派)の反乱の頻発などで政情は不安定であった。加えて、
第一執政になることを強力に主張した時、ナポレオンはその心の内に何を思っていたのだろう?
革命の自国への波及を恐れる近隣諸国の武力介入を断続的に受けることとなった。
質問①
ナポレオンが第一統領となる以前のフランスはどのような状況だったのか、話し合ってまとめなさい。
質問②
ナポレオンはどのようにして権力を握り、また、その時何を思っていたのか、話し合ってまとめなさい。
<ナポレオン=ボナパルト(1769~1821)とは>
地中海のコルシカ島出身の軍人。フランス革命中に革命軍に参加し、1793 年にイギリス軍と王党派が占領
するトゥーロン軍港の奪回で功績をあげ、95 年には王党派の反乱を鎮圧し、96 年にはイタリアに遠征してオ
ーストリアを破り、一躍名声を高めた。99 年にクーデタで統領政府を樹立し、1804 年には軍事的成功を背
景に皇帝(位 1804~14,15)となり全ヨーロッパの支配を目指すが、支配に反発するヨーロッパ諸国との
解放戦争に敗れて退位した。
1年 I組
番 名前
ワークシートB
B
班
<この絵の時期のナポレオン>
1804 年に国民投票を経て戴冠し、皇帝となった際のナポレオンを描いた絵である。
ナポレオンは統領政府のトップである第一統領として権力を掌握(1799 年 11 月)した後、まずは国内の
◎次の文章を読んで、以下の質問について話し合ってまとめて下さい。
安定に着手した。ナポレオンが国内政策で目指したものとは、国民主権・法の支配・自由権や平等権の保障・圧
制への抵抗権の保障・私有財産の不可侵など、フランス革命で形作られた市民社会の秩序を確立すること。そし
て、革命によって混乱したフランスの政治的な秩序を回復させ、イギリスなどで既に始まっていた資本主義経済
をフランスでも育成することであった。
ナポレオンはまず、フランス革命以来対立関係にあった(革命ではキリスト教は旧体制の権化とされ、教会の
財産や土地は没収された)ローマ教会と宗教協約(コンコルダート)を結んで和解し、カトリックを復活させて
民心の安定を図った。また、フランス銀行を設立して財政の安定をはかり、産業の振興や教育制度の改革などの
国内改革を積極的に行った。そして、戴冠する直前の 1804 年には、ローマ法以来の万民法をまとめた上で、
人身の自由・私有財産の不可侵・法の前の平等・契約の自由などを規定し、革命の成果を法文化して市民社会の
原則を確立させたナポレオン法典を制定した。ナポレオンは後に自身を「革命の申し子」であると評し、没落後
も「余の真の栄光は 40 回の戦いの勝利ではなく、永久に生きるのはわが民法典である」と語ったのは行き過ぎ
た自画自賛ではなく、フランス革命の成果は彼によって確固たるものになったといえよう。
その「革命の申し子」であるナポレオンが、なぜ皇帝になろうとしたのか。ナポレオンの最初の妻ジョゼフィ
ーヌに仕えたレミュザ夫人は、
「第一統領としてのボナパルトの立場は具合のいいものであった。なんとなく明
確さを欠くものであっただけに、ある種の人々にはいささかの不安感も与えることなく通すことができた。しか
し、皇帝という能動的な地位には、こうした利点がない」と評し、ナポレオン自身も「皇帝としてやれることで
執政としてやれないことはない。しかし、執政の方がよりおとなしい。それはひとつの公職に過ぎず、国家の所
有を伴わず、事実上の君主にすぎないからである」と語ったように、政治を行っていく上では敢えて皇帝となる
メリットはない。統領と皇帝の差といえば、その身分が終身であるか否かと、世襲されるか否かということであ
る。統領政府のベルリエ顧問官が「世襲制をとれば共和国(革命後のフランス)は消滅してしまう・・・いったん
ダヴィド『ナポレオンの戴冠式』
(1805~07,油彩,629×926cm,ルーヴル美術館蔵)
覆したもの(君主制)を、自らの手で再建するというのは滑稽ではないか」と危惧した一方、ナポレオン自身は
皇帝になった理由を「世襲のみが反革命を防止しうる」と述べた。つまり、フランス革命の成果を確立させてい
るナポレオンの体制を君主制・世襲制にして永続化させることが、王党派や諸外国から革命を守ることになる、
という理屈である。確かに、絶対王政に回帰したい国内外の王党派や革命の波及を恐れる諸外国はナポレオン体
制の転覆を図り、ナポレオンの暗殺未遂事件も起きていた。形だけではあるが国民投票を行い、国民主権を前提
<フランス革命(1789~99)とは>
1789 年のバスティーユ牢獄襲撃に始まる市民革命。近代社会成立への転換点。徹底的で典型的な市民革命
とした形での君主制をとることで、歴史家ティエールが評したように君主制を「革命が避難した港」とすること
であり、王政廃止(絶対王政の打倒)
・共和政の樹立・国民主権・法の支配・自由権や平等権の保障・圧制への
を目指したのである。しかし、ナポレオンを革命の英雄と考えていた音楽家ベートーヴェンは、戴冠を聞くと「彼
抵抗権の保障・私有財産の不可侵などを実現し、フランス社会を根底から変革するものであった。革命自体は成
もまた俗人に過ぎなかった!」と激怒し、彼に捧げるつもりであった交響曲「英雄」の表紙を引き裂いた。
功するが、革命政府内の内紛や王党派(絶対王政擁護派)の反乱の頻発などで政情は不安定であった。加えて、
革命の自国への波及を恐れる近隣諸国の武力介入を断続的に受けることとなった。
質問①
ナポレオンはどのような国内政策を行ったのか、話し合ってまとめなさい。
質問②
ナポレオンはなぜ皇帝となったのか、理由を話し合ってまとめなさい。
<ナポレオン=ボナパルト(1769~1821)とは>
地中海のコルシカ島出身の軍人。フランス革命中に革命軍に参加し、1793 年にイギリス軍と王党派が占領
するトゥーロン軍港の奪回で功績をあげ、95 年には王党派の反乱を鎮圧し、96 年にはイタリアに遠征してオ
ーストリアを破り、一躍名声を高めた。99 年にクーデタで統領政府を樹立し、1804 年には軍事的成功を背
景に皇帝(位 1804~14,15)となり全ヨーロッパの支配を目指すが、支配に反発するヨーロッパ諸国との
解放戦争に敗れて退位した。
1年 I組
番 名前
ワークシートC
C
班
<この絵の時期のナポレオン>
1808 年 5 月 3 日、スペインに侵攻したフランス軍が、マドリード市民の暴動を鎮圧した後、反乱に参加し
た 400 人以上をマドリード郊外のプリンシペ・ピオの丘で銃殺刑に処している場面を描いた絵である。
◎次の文章を読んで、以下の質問について話し合ってまとめて下さい。
皇帝となったナポレオンは、国力を充実させて周辺諸国への遠征を計画する。宿敵イギリスへの上陸はトラフ
ァルガーの海戦の敗北(1805)によって阻止されるが、その後は狙いをヨーロッパ大陸に定め、同年にアウス
テルリッツの戦いでロシア皇帝・オーストリア(神聖ローマ)皇帝の連合軍を撃破し、神聖ローマ帝国を名実と
もに消滅(1806)させ、イタリアとオランダを屈服させた。ロシアとプロイセンへの遠征を行い、ティルジッ
ト条約(1807)で両国を屈服させた。これらの遠征は、フランスによる征服戦争であると同時に、
「ナポレオン
法典の進軍」でもあった。つまり、革命によって絶対王政から解放され、ナポレオン法典によってその権利を確
定された市民階級や農民たちで編成されたフランスの国民軍が、絶対王政の各国を破ることで、各国の絶対王政
は粉砕され、征服先の国々でも市民階級や農民たちの権利が保障された。その意味でナポレオンは、
「フランス
革命の精神を伝えるヨーロッパの解放者」であった。また、ナポレオンはこの遠征中、屈服した諸国にイギリス
との通商を禁じる大陸封鎖令(1806)を発した。この封鎖令は、イギリス経済に打撃を与え、代わりにフラン
ス製品を流通させることでフランスの産業の育成を目指したものであったが、そのためには残りのヨーロッパ諸
国、特にイギリスと経済的な結びつきの強いスペインを屈服させることが必要であった。
当時のスペインは「巨人のがい骨」と揶揄されていた。16 世紀の黄金時代は遥か彼方となり、植民地は奪わ
れ、産業は育たず、領主制のもと農民たちは重税に苦しみ、カトリック教会の力が強く、宗教裁判や魔女狩りが
公然と行われるなど絶対王政やそれ以前の封建制が色濃く残る社会であった。当時の国王はフランスのブルボン
家の血をひく「無害で無能な」カルロス 4 世であったが、政治の実権は王妃マリア・ルイサの愛人である悪名
高き宰相ゴドイが握り、国民からの人気の高いカルロス 4 世の皇太子フェルナンドはゴドイと激しく対立して
いた。ナポレオンはこのスペイン王家内部の対立に乗じてカルロス 4 世一家とゴドイをスペインから追放して
王位を手に入れ、フランス軍を進駐させた(1808)。しかし、スペイン国民は王家の追放を絶対王政からの解放
として歓迎しなかった。彼らは「スペインは売られた」として怒りの矛先をナポレオンとフランス軍に向け、首
ゴヤ『1808 年5月 3 日』
(1814,油彩,266×345cm,プラド美術館蔵)
都マドリードでは5月2日から3日にかけて市民が蜂起しフランス軍に襲いかかった。
しかし蜂起は鎮圧され、
参加した民衆はフランス軍によって虐殺された。以後もスペインでは、
「フランス人はフランスに帰れ」をスロ
ーガンに蜂起したゲリラとスペイン軍、徹底的な掃討作戦を展開するフランス軍、ゲリラ支援のためポルトガル
から進駐してきたイギリス軍の三つ巴の戦いが繰り広げられ、血で血を洗う死闘・虐殺が 5 年間続いた。この
戦いが転機となり、ヨーロッパ各国でフランス革命の精神を受け継いだ人々が、自国のフランス支配からの解放
<フランス革命(1789~99)とは>
1789 年のバスティーユ牢獄襲撃に始まる市民革命。近代社会成立への転換点。徹底的で典型的な市民革命
を目指す戦いを開始し、ナポレオン没落のきっかけとなった。フランスが撤退した後のスペインでは、イギリス
であり、王政廃止(絶対王政の打倒)
・共和政の樹立・国民主権・法の支配・自由権や平等権の保障・圧制への
の手で民衆が望む皇太子フェルナンドが王位に就いたが、彼はナポレオンが支配中に行った近代化改革(領主制
抵抗権の保障・私有財産の不可侵などを実現し、フランス社会を根底から変革するものであった。革命自体は成
の解体・宗教裁判の廃止・修道院の削減など)をことごとく破棄して絶対王政に回帰させた。歴史家ヘラルドが
功するが、革命政府内の内紛や王党派(絶対王政擁護派)の反乱の頻発などで政情は不安定であった。加えて、
「スペインは百年後退した」と揶揄したように、スペインの独立への戦いは矛盾と苦悩に満ちた結末を迎えた。
革命の自国への波及を恐れる近隣諸国の武力介入を断続的に受けることとなった。
質問①
スペインにとっては絶対王政とナポレオンの支配のどちらが良かったのか、話し合ってまとめなさい。
質問②
ナポレオンがヨーロッパの国々にもたらしたものは何なのか、話し合ってまとめなさい。
<ナポレオン=ボナパルト(1769~1821)とは>
地中海のコルシカ島出身の軍人。フランス革命中に革命軍に参加し、1793 年にイギリス軍と王党派が占領
するトゥーロン軍港の奪回で功績をあげ、95 年には王党派の反乱を鎮圧し、96 年にはイタリアに遠征してオ
ーストリアを破り、一躍名声を高めた。99 年にクーデタで統領政府を樹立し、1804 年には軍事的成功を背
景に皇帝(位 1804~14,15)となり全ヨーロッパの支配を目指すが、支配に反発するヨーロッパ諸国との
解放戦争に敗れて退位した。
1年 I組
番 名前
ワークシートD
D
班
◎ワークシートCの時期のナポレオン
(1)ワークシートA・B・Cそれぞれの時期のナポレオンについて、ワークシートを担当した人が
残りの人に説明しなさい。
◎ワークシートAの時期のナポレオン
(2)それぞれの時期を踏まえて、ナポレオンはどの時期に独裁者となったのか(または、ならなか
ったのか)を、
「独裁者とはどのような存在なのか」ということも考えながら、話し合いなさい。
◎ワークシートBの時期のナポレオン
1年 I組
番 名前
ワークシートE
E
班
◎今までの話し合いを踏まえて、「独裁者」とはどのような人物なのかを話し合いなさい。
1年
I組
番
名前