「 一人になるとき-孤独と誘惑 」 Ⅰ.初めに

ヒルダ・ミッシェル講座
2014 年 3 月 19 日
「キリストから学ぶ生き方」
司祭 ヨナ成成鍾
「 一人になるとき-孤独と誘惑 」
霊性の観点から
Ⅰ.初めに
キリスト教は共同体の宗教である。共同体は個々の責任的で尊重される生き方によって成り
立つ。個のタラントや多様性を無視し、全てを特定な理念一色に染める全体主義とは違う。個は
共同体によって補われ、共同体は個によって支えられる。キリスト教には教会を始めとする多様
な共同体が存在するが、全ての共同体の中心には神がある。神を中心に、個々は互いにつながっ
ている。それゆえ神との関わりが前提されないと、個々のつながりもその意義がなくなってしま
う。共同体を建物に例えると、神は土台であり、個はその土台の上に置かれて共同体という建物
を支える柱だと言える。そういった意味で、共同体を支える個々のよる神とのつながりと交わり
は欠かせられない大事な営みになる。共同体の健全さを図るバロメーターだとも言える。
深層心理学者カール・ユング(Carl Gustav Jung、1875-1961)を訪ねてきたある牧師の逸話
はそれを物語っている。牧師は、一日 14 時間も過重に働くことによって、心理的にも霊的にも困
憊していた。ユングは、8 時間だけ働いて夜は一人だけの時間を過ごすように、と助言をした。
牧師は助言の通り、仕事の量を減らし帰宅すると一人だけ書斎に入って、ショパンとかモーツァ
ルトの曲を演奏したり、ヘッセの小説などを読んだりした。そのように三日を過ごした後、ユン
グを訪ねてきた彼は、何も変わらないと不満を吐露した。話を聞いたユングは、
“誤解したようで
すが、一人だけの時間は、そういう音楽家や小説家とともに過ごすのではなく自分とともにいる
時間、つまり自分自身と向き合う時間のことです”と言ったら、牧師は“そうですか。それは最
悪の同伴者ですね”と言いかえした。するとユングは“しかし、あなたはそういう自分を通して、
一日に 14 時間もかけて人々を苦しめたのではないでしょうか”と指摘した。1
これは効率と速さを重んじることによって自分を見つめる余裕もなく、むしろ自分や神と向
き合うことを回避している現代の多くのキリスト者、特に聖職者が陥りやすい落とし穴について
の指摘である。ところが、個々のよる神とのつながりと交わりが共同体を支えであるという理解
は、キリスト教の根幹である聖書に濃く反映されている。聖書全体は、個々による神との交わり
についての証だ、といっても過言ではない。聖書に登場する人物のほとんどは、単独で直接に神
1
1
と会い交わる過程を通して、世に向かう具体的な働きが示され、また導かれた。イエス・キリス
トこそ、そういう営みの原型だと言える。十字架が象徴するように、キリストは神と交わること
が人々との交わることの支えであることを、ご生涯を通して示された。キリストが示された模範
は教会の歴史の中で、特に初代教会時代の砂漠の隠修者による霊的指導によって具現され、また
その延長線上で始まった修道共同体によって体系的な営みとして進化を遂げ、今日に受け継がれ
ている。
共同体として一緒にいることと離れて一人になることは、選択事項ではなく互いに弁証法的
に融合されている営みである。それをイギリスの信徒神学者フォン・ヒューゲル(Friedrich von
Hügel、1852-1925)は“絶縁と結縁を二つの中心とする楕円形”の生き方だと語り、ウォルター・
ヒルトン(Walter Hilton、1340?-1396)は‘平衡的な生き方’だと表現した。2 それについてト
ラピスト修道会の修道士トーマス・マートン(Thomas Merton、1915-1968)は次のように告白した。
“私は一人になることの深さの中で、兄弟たちを愛する歓待さを発見する。私は、孤独が深まれ
ば深まるほど兄弟たちを愛するようになる。一人になることと沈黙は、兄弟たちのありのままを
愛する方法を教えてくれる。
”3 これは無茶な逆説ではない。一人になること、またその中の孤独
と沈黙は、人々を共同体と神の愛へと導く。
そういう理解に沿って本稿は、前回の「人々と関わること-友情と愛」との関連の上で「一
人 に な る と き - 孤 独 と 誘 惑 」 に つ い て 霊 性 の 観 点 か ら 考 察 す る 。 先 ず ‘ 誘 惑 ’、‘ 聖 化
(Sanctification)’に準じて基本的な理解を求め、一人になることの霊性として‘孤独’、
‘沈黙’、
‘省察’
‘魂の友’を挙げて理解を深めていく。最後に具体的な実践として‘リトリート’、
‘霊的
日記’
‘霊的指導’などを提案することとする。
Ⅱ.
「一人になること」とは
現代人にとって一人になることは、避けたい項目の中の一つである。一人になることを不安
に思い、何もすることのない状態にいらつくほど、一人になることは慣れない不自然な営みにな
っている。また一人になることは、一人ぼっちになることとして受け取られ、寂しさ、孤独、孤
立、疎外などを連想させる。それゆえ、多くの人は人々とのつながりを求めて、約束を決めスケ
ジュルを埋めたり、絶えずメールや SNS をチェックしたり、仕事に没頭したりして多忙な日々を
送る。ところが忙しく時間を使うとして、寂しや孤立感などがなくなるのではない。瞬間的に忘
れるだけである。そういった感情は実在するものであるのではなく、外部からの影響による内面
の反応であるからである。人間の内面には外部の状況や出来事に左右される感情の種が潜まれて
2
3
2
いる。
それゆえ、古くから信仰の先輩たちは、一人になることは可視的な形だけではなく、一人に
なることによって発生する要素との関連で理解してきた。その要素とは、良心と意識についての
自己省察や識別を始め、誘惑、罪、悪、試練、苦難などである。ところが、そういった要素の多
くは負のイメージとして受け取りがちだが、決してそれだけではない。使徒聖パウロが“罪が増
したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れる”4 と語ったように、陰は陽を呼び寄せる。一
人になることによってより深く体験するようになる誘惑、罪、悪、試練、苦難などは、自己省察
や識別の素材にもなり、霊性を形成していくための聖化の過程として理解する必要がある。本稿
では、キリストに学ぶ生き方というテーマに沿って‘誘惑’と‘聖化(Sanctification)’を取り
上げて理解を深めることとする。
1.誘惑
聖書で用いられている誘惑という言葉は、他には‘試みること’、‘試験’、‘試練’などの意
味を持っている。16 世紀の宗教改革者のマルティン・ルター(Martin Luther、1483-1546)は“我々
は前も後ろも試みに取り囲まれている。それを自分で取り払うことはできない”という言葉を持
って、誘惑にさらされている人間の状態について指摘した。ルターが語った‘前からの誘惑’と
は何もかも順調であるようなときの落とし穴のことを、
‘後ろからの誘惑’とは反対に逆境のとき
に陥りやすい人間の心情を指していると考えられる。5 つまり、人間は誘惑に包囲されていると
のことであるが、特に一人になるときに誘惑の攻めはより強くなり、また誘惑に陥りやすくなる。
それは誘惑というのは、人間の心理や魂の状態と相関関係があるからである。
キリスト教における誘惑の原型は、創世記 3 章に記されている‘蛇の誘惑’であるが、蛇は
エバの心理をうまく操りながら誘惑した。蛇のエバを誘惑した内容は、もう一つの誘惑の原型だ
とも言えるキリストの荒れ野での誘惑6 と同じ脈絡で理解することができる。二つの原型から読
み取れる誘惑の内容とは、物質欲、名誉欲、権力欲という三つの欲望7 に集約されると考えられ
る。それについてヘンリ・ナウエン(Henry J. Nouwen、1932-1996)は、私たちがいつも直面する
三つの誘惑として‘状況に合わせようとする誘惑’、‘関心を寄せようとする誘惑’、‘権力を確報
しようとする誘惑’について指摘した。8 そういった意味で、誘惑とは一方的に外から来るもの
であるより、それに反応したエゴ(ego)という人間の利己的自我によって生じてくるものとして理
解する必要がある。
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5
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8
3
ところが、キリストが主の祈りを通して教えられたように9、誘惑や人間の欲望事態が悪いも
のではない。誘惑に陥ることや欲望がエゴの利己的な目的で用いることが、問題の発端として罪
と悪につながるようになる。むしろ食べ物、性、慰め、平和などについての欲望は神から与えら
れた生きる力でもあり、キリストも聖霊に導かれて自ら誘惑を受けられたように、霊性を形成す
るための自己省察と浄化の過程として誘惑について理解する必要がある。それゆえ大事なことは、
エゴが利己的な目的で感覚と欲望と心情などを操ることがないように放置しないことである。エ
ゴを無くすことはできないが、縛っておくことや超越することはできる。10 それについて教父聖
エヴァグリウス・ポンティクス(Evagrius Ponticus、345-399)は、誘惑や悪は‘思い(logismos)’
から発生するという理解の上で、貪食・淫欲・貪欲・悲しさ・怠慢・怒り・虚栄11 を挙げ“この
全ての思いが、魂をいじめることは私たちの能力外にある。しかし、それらを魂のなかに留ませ
るかどうか、欲を起こすように許すかどうかは、私たち次第である”12 と語って、悪い思いとそ
れの源であるエゴを治めるように教えた。
2.聖化(Sanctification)
伝統的に一人になることは、召命の過程、さらに霊性を形成していくための聖化の過程とし
て重んじられてきた。詩編の記者が“神よ、私を究め私の心を知ってください。私を試し、悩み
を知ってください。ご覧ください。私の内に迷いの道があるかどうかを。どうか、私をとこしえ
の道に導いてください”13 と語ったように、聖書のほとんどの人物は、一人になることを通して
自己を省察し、神との交わりを深めた。例えば、一人になったときにべテルで天につながるハシ
ゴを行き来する天使の夢を見、またぺヌエルで神と格闘してイスラエルという新しい名前をもら
ったヤコブ14、神の山であるホレブで柴の間に燃え上がる炎を通して神に出会って召命をもらい、
その後も神と会うことを通して行く道を具体的に示されたモーセ15、カルメル山でバアルの預言者
を退けた後、荒れ野をさまよいホレブ山に逃げ込んだとき、静かにささやく声を通して預言者と
しての使命を新たにもらったエリヤ16 などを挙げることができる。また最後の預言者として新約
の道を開いた洗礼者ヨハネは、荒れ野で独居することを通して自己を極め、自らキリストの道に
なったシンボル的な存在である。
キリストは福音宣教の御業の成し遂げるため、一人になるときを徹底的に持たれた。そのキ
リストから一人になることが聖化の過程であることを示されている。キリストは公生涯に入る前、
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荒れ野で 40 日間一人になりことを通して福音宣教を準備された。忙しい宣教活動の間にも、度々
山や人里離れたところへ退かれたが、大きな出来ことの前は必ず一人になって神と交わる祈りの
ときを過ごした。17 そして福音宣教の最後、苦難を受け十字架に掛けられたときも一人になって
救いの御業を成就された。このようにキリストは一人になることを重んじられたが、それは霊性
を形成する聖化の過程として‘浄化の道(Via Purificativa)’
、‘照明の道(Via illuminativa)’、
‘一致の道(Via unitiva)’という三つの段階についての示しとして理解することができる。つま
り準備段階として荒れ野で悪魔から誘惑されたことは、自己を省みて罪を告白し、内面の悪を退
けて清めていく浄化の過程に、宣教活動の間に人里離れたところへ退かれ神と交わったことは、
神の光と真理に照らされる証明の過程に、そして救いの御業を成就するために十字架で一人にな
られたことは、神との一致の過程に当てはまる。
キリストは完全なる神であるため、聖化の過程は必要なかった。そうであったにもかかわら
ず、キリストは徹底して一人になられた。それは神と交わることが宣教の根底であり、また霊性
を形成していくことの大事さを示されるためだった、と読み取ることができる。一人になること
は聖化の過程であるが、それについてヘンリ・ナウエンは“神との偉大なる出会いを通して、自
分の変革が起こる溶鉱炉だ”18 と語った。つまり一人になる事は再生と復活をもたらす過程であ
る。
Ⅲ.
「一人になること」の霊性
一人になることの霊性は、いわゆる‘砂漠の霊性’である。砂漠はキリスト教において極め
て大事な意味を持っている空間である。厳しい状況の何もない荒れ果てた空間として、救いと解
放の象徴であり、極度に単純な条件で内面と向き合い、神と対面する空間として霊性の象徴であ
る。砂漠は単にキリスト教の発祥地だけはなく、歴史が生まれ霊性が育まれた原点である。初代
教会以来、ひとえに神を求めた人々は砂漠に入り、孤独と沈黙の中で霊性の土台を整えた。砂漠
の隠修者だとも言われたアッパス(Abbas:教父たち)やアンマス(Ammas:教母たち)による霊的指
導の働きは、後に修道共同体として具体的な体系を整えようになる。一人になって神と対面する
人たちが一緒に生活する修道会によって、砂漠から育まれた宝のような霊性の伝統は、今日にま
で受け継がれている。そして現在、砂漠の霊性は一部の修道士だけのものではなく、神を求める
全てのキリスト者のものになっている。つまり、砂漠の霊性は修道会の霊性でもあり、さらにキ
リスト者の生活の霊性でもある。昔も今も、砂漠は物理的な空間であるよりは、神に会い自分自
身と向き合う魂の場として、私たちの訪問を待っている。そういう理解に沿って、一人になるこ
17
18
5
との霊性として‘孤独’
、
‘沈黙’
、
‘省察’、‘魂の友’について提案する。
1.孤独
一人になることの霊性は、何より先ず孤独の霊性だと言える。だとして孤独(Solitude)と寂
しさ(loneliness)は違う。現代の多くは寂しいとき、他の人々を求めてむなしさを補おうとし、
物や仕事に執着することで自分の必要を満たそうとする。さらに何かに没頭することで、寂しさ
の種が潜んでいる自分の心理や魂と向き合うことを回避する。そのように寂しさが一人ぼっちで
あることを認識させることだとすると、孤独は積極的に一人になることを通して、一人ではない
ことを体験させる。つまり孤独の中では、一人になるけれども決して一人だけではない。神と共
にいるからである。ウィリアム・コリンズ(William E. Collins)が語ったように“寂しさの中で
は捨てられたかのように感じるが、孤独の中では対話をしていると感じられる。
”19 寂しさは自分
の意図とは関係なく勝手に訪ねてくる感情であるが、その寂しさが私たちを神へと導く役割を果
たすこともある。それゆえ、一人になって積極的に寂しさと向かうことが求められる。すると寂
しさは孤独に変わりつつ、神との交わりへと私たちを導く。つまり孤独は寂しさを変化させて、
私たちが神と共に存在するものであることを再確認させる。
そのように寂しさとは違う孤独は、積極的に一人になって、存在の中心へと深く静まること
である。孤独は、自分の中心におられる神に触れる場である。それゆえ、魂が戻っていくべき故
郷、聖なる場所だと言える。孤独は、私たちを徹底的に自分自身と向き合わせ、神の現存に目覚
めさせる。まるで砂漠のように、自分が作り上げたあらゆる関わりや土台を除去し、顔を隠す仮
面も鎧のような服も脱がせ、無の状態へと戻ってから新たに神と交わるように導く。砂漠のよう
な孤独は、ありのままを見ることができるように、この世で最も明るくて冷酷な光を放つからで
ある。それについてヘンリ・ナウエンは次のように語った。
“孤独は、大きな戦いと重大な出会い
の場である。つまり偽りの自我からの強制と戦う闘争であり、新しい自我の実体として自らを提
供する愛の神との出会いである。
”20 砂漠のアッパ・モーセ(Abba Moses)が悟りを求める弟子に“戻
って自分の独房で座りなさい。独房が全てを教える”21 と語ったように、孤独は何かのための手
段ではなく、それ自体が自由と再生のための目的になる営みである。孤独において、私たちは神
と一つに結ばれ、人類全体と宇宙と生きとし生ける全てのものへの愛に開かれる。そういった意
味で孤独は、逆説的であるけれども交わりの極めだと言える。
2.沈黙
19
20
21
6
‘砂漠の霊性’において沈黙は孤独と恋人のような関係であるため、セットで理解する必要
がある。積極的に一人になることとして孤独が、内面の聖なる場所へと向かう過程だとすると、
沈黙を保つことは内面の聖なる場所に留まる過程だと言える。沈黙は、孤独を現実化する目に見
える孤独の実践である。沈黙によってその孤独はさらに強められ、より完全へと導かれる。つま
り孤独の中で沈黙を保つことによって、私たちは存在の中心におられる神へとより深く導かれる
ようになる。その沈黙の大事さについて、7 世紀の二ネヴェの主教イサク(Isaac of Nineveh、?
-700)は次のように語った。
“真理を愛するなら、世の中の何よりも沈黙を愛するものになりなさ
い。すると沈黙は、言葉では言い表せない貴重な実りをあなたにもたらしてくれる。つまり沈黙
は、あなたを神と一つにならせてくれる。”22 このように一人になることを重んじる砂漠の霊性の
中、沈黙は祈りの核心になる要素でとして理解されてきた。それについてケネス・リーチ(Kenneth
Leech、1939-)は“神は他の全ての徳目より沈黙を優先とし、沈黙の中におられ、神との一致は
沈黙を深めることを通して成し遂げられる”23 と説明している。
このように沈黙は、私たちを真理そのものである神へと導く霊的な営みである。ところが、
その沈黙は単に音や言葉を出さない状態を指しているのではない。教会が伝統的に用いている沈
黙というのは、言葉と心を治める内面的な静けさのことを意味する。内面的な沈黙の状態とは、
神の言葉である沈黙の中で静まり、その中でみ心に耳を傾ける姿勢である。そしてそういう状態
が保ち続けられると、沈黙がまるで鏡のように自分と神の存在について照らし、心身のあらゆる
面での変化が起こり始める。内面的な沈黙には、心と魂の目を開き、自己存在についての理解を
深める神秘的な力が潜んでいるからである。それゆえ、沈黙は神に関する意識を保つため、また
自己認識を深めるための魂の糧として霊性家たち24 によって大事にされてきたのである。そうい
った意味で、沈黙は霊性を形成していく聖化の過程の始めであり、中身であり、終わりだとも言
える。
3.省察
省察は、一人になるときに自然的に導かれる営みである。意図的に避けない以上、神の言葉
である沈黙の中に留まる人は、聖霊の導きにより自分を省みるようになる。孤独の中で内面の聖
なる場所へと導かれると、沈黙を保つことよって御心に接し、自分の意識や日々の行いなどを見
極めるようになる。ケネス・リーチは、そういう省察の必要性について次のように語った。
“霊的
生活に一番大きな敵は、偽りの潔白である。私たちは自己省察と罪の告白を通して、この虚像か
22
23
24
7
ら離れなくてはならない。
”25 自分には何の間違いも罪もないと潔白を主張することは、自分が作
り出した虚像や偽りを明らかにすることにしかならない。神の前で潔白な人間は一人もいない。
それゆえ、初代教会の共同体は“神の深みさえも究めて明らかに示してくださる聖霊”26 に頼り
ながら自分を省み、その過程の中で罪や間違いを見極め、さらに“主に癒していただくために、
罪を告白し合い、互いのために祈る”27 ことを信仰生活の模範としていた。
省察は、言葉の通りに自分のこと察して省みることである。具体的には、内面的な自分とし
て自我を省み、また自分の外部的な営みである生活を省みることである。そしてその中での神の
臨在とみ働きを察することである。省察をする目的は、神によって創られた人間としての自己認
識を正し深めることを通して、神を中心とした人生を送るためである。正しい自己認識は恵みと
して、私たちを自己肯定と自己愛へと案内し、神に愛される者として生きるように導く。そうい
った意味で省察は、心理分析や問題の解決のための手段ではない。自己について心理的に分析す
ることを超えて、神を受け入れている自分についての霊的な認識を深めることであり、罪の属性
や問題についての解決よりは、そういう問題を持っている者として主と共に生きるための基礎的
な準備である。ケネス・リーチはそれについて次のように語った。“自我についての省察は、正
直に自分の不安定な状態を認め、恥ずかしさや罪意識を持たずに自分の疑いの実体を認めること
であり、また疑いと葛藤がどのように信仰生活の一部分になるのかについて絶えず観察すること
である。”28 省察は、霊性を形成する聖化の過程にいる者を真の自由29へと導く、値高い恵みだ
と言える。
霊性神学では、省察のことを大きく‘良心(Conscience)の省察’と‘意識(Consciousness)
の省察’に分けている。言葉の通りに、良心の省察は生活の中での自分の良心について省察する
ことであり、意識の省察は自己意識と神についての認識などを省察することである。だとして二
つの省察は、くっきりと分離されているのではなく、相互的に補い合う関係である。良心の省察
を通しては、自分の中で浄化や治癒されるべき部分について発見するようになる。また意識の省
察を通しては、日々の生活での神の臨在について悟ることができるように導かれる。基本的に省
察は生活の中で日ごろ行われることであるが、比較的に意識の省察は毎日行うように、また良心
の省察は、毎日よりは聖餐式の準備として一週間ごとに、あるいはリトリートなどを通して定期
的に行うのが望ましいと勧められている。
省察の実践のためには、心得として次の三つのことを心に入れて置く必要がある。30 それは
省察が皮相的にならないように、また省察を行うことによって感情的な絶望に落ちないようにす
るためである。一つ目は、私たち人間は、神の前では不完全で弱い存在にすぎないという認識で
ある。つまり人間は罪に陥りやすい存在として、絶えず神から離れて自己中心的な生き方に走り
25
26
27
28
29
30
8
出す属性を持っているものだと理解する必要がある。二つ目は、神が私たちを愛しておられると
いう認識である。神の愛は無条件で絶対的なものとして、私たちが犯した罪によって消えるもの
でも、私たちが拒否することで無くなるものでもない。そして三つ目は、神が共におられるとい
う認識である。省察は自分のことを省みることだとしても、決して自分一人での行いではなく、
神と共に行う共同作業である。それゆえ、省察の過程や結果について自己批判や自己弁明ではな
く、御声に耳を傾けながら御心を求めるようにするのが勧められる。人間は“悪を善と言い、善
を悪という者、闇を光とし光を闇とする者”31 であるため、神に頼らなくては正しい省察に至ら
なくなる。
4.魂の友
先述したように一人になるとき、あらゆる方面から誘惑の攻めが始まる。しばらくの間、そ
れは耐え切れないほどの試練や苦痛として感じられる。エゴという偽りの自我と戦うことも、自
分の良心や生活一般を省みる自己省察も、決して易しい事柄ではない。それゆえ、一人になると
きには、時折に交わり支え合うための魂の友が求められる。それについてケネス・リーチは次の
ように指摘している。
“活動主義的な世界から、いかなる妨害もない孤独の状態の中へと直行する
ことは、実に恐ろしい経験になりがちである。それゆえ、私たちはそういう恐怖にうまく対処し
なくてはならない。まさにこの地点で‘魂の友’つまり霊的同伴者や案内者の存在が極めて重要
視される。… 沈黙の領域についてあまりにも敵対的なこの狂っている時代には、誰でも沈黙を実
践しようとするとき、心の震えと不安を感じるようになる。それゆえ、そういう人を導いて、諦
めないでより深い次元へと入り、ついに神の沈黙へと至るように手助けする人が絶対的に必要と
されるのだ。
”32
キリスト者の霊性形成や聖化の過程は、聖霊の助けと導きによって成り立つ営みである。と
ころが聖霊の働きとは、かなり神秘的な側面もあるので、それについての理解が主観に偏り、ま
た利己的な解釈になってしまう可能性も高い。それゆえ、聖霊の働きを見極めるためには、識別
力のある信仰者の手助けが必要とされる。そういう理由で、教会の中で‘魂の友(Soul Friend)’
や‘霊的同伴(Spiritual Companionship)’また‘霊的指導(Spiritual Direction)’と‘霊的指
導者(Spiritual Director)’という伝統が生まれ、その働きは初代教会から今日に至るまで、祈
りの伝統と共に受け継がれている。
霊的指導は、神と共に生きている成熟した信仰者によって行われるが、導き手としての真の
霊的指導者(Real Director)は、聖霊御自身である。つまり霊的指導は、霊的指導者が単純に霊性
の技術(spiritual technique)や方法を教えることではなく、同伴者自らが祈りの中で聖霊に導か
れ、信仰生活を通して御心を識別し、さらに霊的な成長と真の自由に与ることができるように手
31
32
9
伝うことである。そういった意味で霊的指導とは、聖霊によって結ばれた霊的指導者と同伴者の
二人三脚の霊的歩みだと言える。33 シャレム霊性形成研究所(The Shalem Institute)の創始者で
あるチルデン・エドワーズ(Tilden Edwards)は、医師の例えを用いて次のように語った。
“霊的指
導者として霊的な友になることは、傷ついた魂のため医師になることと同じである。医師は次の
三つのことを行う。傷口をきれいに洗い、裂かれている部分を縫い、そして心身が安らぐように
すること。それが全部である。
”34 つまり手術などの治療までは医師としての霊的指導者の役割で
あるが、そこからの治癒と回復は神様の役割である。そのように霊的指導は、個人と共同体の中
で生きておられる真の霊的指導者である聖霊の臨在と、み働きに注目することにポイントがおい
てある。
Ⅳ.
「一人のなること」の実践
トーマス・マートンは、 砂漠教父たちが積極的に一人になることを通して得られた知恵の言
葉を紹介する本の中で、
“万が一私たちが、自分自身と分離されている深淵を渡ることができない
とすると、月まで旅行するとして何の益があるだろうか。これこそ発見のためのあらゆる旅行の
中で一番重要である。自分自身を発見できないと、他の全ては意義がなくなるどころか、悲惨に
なってしまう”35 と語った。これは自分と神についての認識を深め、さらに神と共に生きるため
の営みとして一人になることが、いかに大事なのかを強調する発言でもある。一人になって存在
の中心へと向かうこと、それこそ生きている神に会える道である。
それゆえ、私たちは積極的に一人になることを通して、自分の心と魂が置かれている寂しさ
を孤独へ、孤独を祈りへ、さらに祈りを共同体の中で活かさなくてはならない。そしてそういう
移行の営みは、人間として持っている限界を謙虚に受け止めたうえ、絶えず試みて繰り返して実
践していくことが求められる。具体的な実践として、
‘一日の沈黙’、
‘リトリート(retreat)’、
‘省
察’
、
‘霊的日記(spiritual journal)’
、
‘霊的指導’を提案する。
1.一日の沈黙
沈黙は、神に心を澄ましつつ黙ることから始まる。第 100 代目のカンタベリー大主教マイケ
ル・ラムジー(Michael Ramsey、1904-1988)が“沈黙に入る唯一の秘訣とは話さないことである。
33
34
35
10
話さずに黙っている状態が続くと、それは単に黙ることだけに留まるのではなく、深みを持ち始
める。
”36 と語るように、外部的な沈黙は内面的な沈黙へと導かれる。その具体的な実践として、
日常生活の中で沈黙をする日を決めて、
‘一日の沈黙’を保ちながら過ごすことをお勧めする。そ
れが困難な状況である場合、沈黙を保つための最小限の言葉だけを発するように努める。沈黙と
は神に心を澄ますことである、という認識を持って生活の中で、言・視・聴・覚のあらゆる面に
おいて神を見出し、神と会話を分かち合おうと試みる。礼拝のことを例として挙げると、礼拝は
五感を活かして献げるように構成されているため、言葉を発することと沈黙を保つことに注意を
払いながら神に心を澄ますことが勧められる。37
2.リトリート(retreat)
英語でリトリートは、退却や退けるという意味である。言葉として退けることは、どこから
退ける意味と、どこに向かって目的をもって退ける、という二重的な意味を持っている。それゆ
え、リトリートはレジャー活動とは違って、家庭や仕事の人間関係などによる日常のストレスや
問題から退けることと同時に、神の中に深く静まることを目的として退けることを意味する。ア
ビラの聖テレサ(St. Teresa de Jesus、1515-1582)が“あなたが一人になるとき、神に出会える”
38
と語ったように、積極的に一人になる伝統的なパターンとしてリトリートを定期的に行うこと
をお勧めする。リトリートには、孤独と沈黙が何より大事な要素となる。孤独を通して導かれた
内面の聖なる空間の中で、沈黙を保つことを通して神と交わるようになる。深い沈黙の中で出会
う神を通して、生活と信仰の活気が回復され、それはより深い霊性へと進むようになる。
リトリートは、何かのための学びの時間でも訓練の場でもない。それゆえ、自分と向き合い、
神と交わることに妨げになる一切のことを退けることが求められる。例えば、携帯電話やパソコ
ンの使用を止め、書物も聖書以外には読まないように注意する必要がある。またリトリートは厳
しい訓練の場ではないため、ゆっくり体の休みを取りながらたまった疲労を取り除き、平常心を
取り戻しつつ聖霊によりかかる状態を整えることも重要である。リトリートに臨む前の準備とし
て、初めての人は案内者の手助けをもらいながら行うことが求められる。またリトリート・セン
ターのプログラムに参加する場合、先ず自分の求めに合うプログラムを選ぶことが大事である。
3.省察
1)聖書を用いての伝統的な省察
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キリスト教の伝統の中には、聖書のみ言葉に準じて自己省察を行う営みが伝承されている。
典型的なパターンとして、東方教会の場合はキリストが山上の説教で語った‘真福九端(the
Beatitude)’39 を、ローマ・カトリック教会を含めて西方教会の場合は、主に‘十戒’40 を用い
て自己省察を行い、また懺悔の準備過程としてきた。それ以外にも、聖書には直接的には記され
ていないが、いつも誘惑の一環として心の隙間を狙っている、
‘七つの大罪’つまり傲慢・嫉妬・
憤怒・怠惰・強欲・暴食・色欲を用いることも、省察の伝統的なパターンである。また、
‘愛の章’
と言われるコリントの信徒への手紙 13 章や‘聖霊の九つの賜物’が記されているガラデヤの信徒
への手紙 5 章のみ言葉を用いることも可能である。
2)観想的な省察
チルデン・エドワーズは、観想(contemplation)の伝統に準じて、次のような意識の省察のパ
ターンを提案している。41 これは観想祈祷に基づいているため、形式的でも分析的でもなく極め
てシンプルで、ひとえに神の導きに従って行う方法である。行う時間も長くならないように 5-
10 分とする。先ず一つ目に、神の現存を意識する。二つ目に、お導きを短く求める。そして三つ
目に、その日の短編的な出来事が神の前で再統合されることを願う心を持って、一日のことを軽
く振り返ってみる。最後に神に感謝の祈りを献げる。
4.霊的日記(spiritual journal)
省察の一環として、多くの霊性家は‘霊的日記(spiritual journal)’を記録することをお勧
めしている。霊的日記とは、一日あるいは日程の期間の間、生活の営みを振り返り、その中に差
し伸べられた御手の働きを探し出し、また自己を省察することである。そういった意味で、単純
な記録や普通の日記とは違って、霊性形成の道に伴う霊的な同伴者とも言える。霊的日記を書く
過程を通して、自分のアイデンティティーを再確認し、神についての理解が深まる。そのように
霊的日記を書く瞬間は、み声に耳を傾ける祈りの瞬間であるため、小さな リトリート
(mini-retreat)とも言われる。記録は、劇的な叙述や名文章を書こうとするよりは、可能な限り
率直で単純明瞭にまとめるのが望ましい。週に 2-3 回ほど、規則的かつ継続的に書くことが勧め
られるが、記録に至る手順として次のようなパターンが提案できる。
先ず一つ目、神の現存を意識し、短くお導きを求める祈りを献げる。二つ目、開かれた心で
無理なく自然的な感じで、その日の出来事を振り返ってみる。三つ目、浮かんでくる出来事の中
で先ず一つを選び、その中での神の臨在について、また神の恵みについて注目してみる。四つ目、
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神の臨在に対して、また人々に対して、自分はどのように反応したのか省みる。もしかして、神
の恵みが感じられない場合は、憐れみを求める祈りを短く献げ、感じた場合は感謝の祈りを短く
献げる。五つ目、他に浮かんできた出来事を取り上げ、四つ目の内容を繰り返す。最後に六つ目、
省察したことを記録する。そのとき、出来事自体や人々ではなく、自分と神について感じたこと
について記録するように注意を払う。つまり自分に意味のあることを中心に、新しい発見やみ恵
み、また感謝などを書きとめる。
5.霊的指導
基本的に霊的指導は、霊的指導者と同伴者が一対一で対話を交わすことによって行われる。
この対話に照らされることによって、祈りや生活におけるみ働きに気づき、また識別しやすくな
る。霊的指導者とは定期的に会うこと、一般的には月に一回や二週間に一回が勧められる。霊的
成長は生涯にわたるプロセスであるため、一生涯何らかのかたちで霊的指導を受けることは大き
な助けとなる。
霊的指導者と同伴者の関係は、十字架の聖ヨハネが“神が前もって定められた通り、か弱い
私たちは互いに道具になって信仰の中で成長して行きます”と言ったように、霊的成長のために
互いに協力し合う相互的な関係である。また二人の関係は、真の霊的指導者である聖霊のみ働き
に二人とも協力しながら、魂の友として霊的な旅路を共に歩む同伴者の関係である。それゆえ、
霊的指導の最初の段階から、二人は霊的成長のための協力関係にあるという認識を共有すると同
時に、霊的指導の基本的な部分について互いに同意し明確にしておく必要がある。
1)協力関係のために互いに同意する部分
① 日常の営みの中で神を探し求め、神との関係を省察すること。
② それぞれに相応しい聖霊の導きがあることを信じ、その力に頼ること。
③ 相互的な信頼と尊重する心を持つこと。互いに心を開いて率直に話し合うこと。
④ 話し合われた内容について秘密を守ること。
⑤ 交わりの後、祈りの課題や感想などを記録(Spiritual Journal)しておくこと。
⑥ 最初の約 3 回の交わりの後、互いに交わりを継続するかどうかが決められること。
2)霊的指導者に求められる協力
① 優先的な働きとして同伴者のために祈ること。
② 霊的指導者本人の考えや意志ではなく、同伴者の霊的成長のために必要なものとは何かを求
めるため、神の前に自らを開いて置くこと。
③ 同伴者の神との関係とその変化について的確に気づくこと。
④ 同伴者が自分の霊的成長のために、どれほど責任感を持って取り組んでいるのかを省察する
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ように導き、それを言語化できるように励ますこと。
⑤ 霊的指導者としての自分自身の霊的深化に積極的に取り組むこと。
⑥ 個人のスーパービジョン(Supervision)、またはピア・グループ・スーパービジョン(Peer
Group Supervision)の時、同伴者との霊的指導に関する具体的な内容や名前などについて秘
密を守ること。
3)同伴者に求められる協力
① 霊的指導の成否の鍵は自分の祈りにあることを覚え、祈りを深めること。
② 週に 2-3 回、日常生活や信仰生活の様々な営みの中で感じる霊的な変化や神との関係につ
いて記録(Spiritual Journal)すること。
③ 自分の霊的成長のため、与えられる様々な課題に主体的に取り込むこと。
④ 霊的指導者が本人の霊的深化や成長のため参加するスーパービジョン、またはピア・スーパ
ービジョンについて配慮すること。
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