人の子の復活 (ルカの福音書 24:36~43) 1989年 ソウル聖楽教会 主日礼拝 説教録取⑫ キムキドン 説教 : 担任監督 金箕東牧師 イエスは神の御子であり、人でおられます。その方は御言葉が肉体となって来られた方 です。「御言葉が肉体となって」というのはどのような意味でしょうか? 御言葉は神でお られます。神は目に見えませんが、実際に存在しておられる人格です。その御言葉が肉体 となって来られたのです。御言葉は本来、肉と骨をもたない霊的な存在ですが、肉体とな ったために肉と骨をもつようになりました。イエスも「わたしの手やわたしの足を見なさ い。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はあり ません。わたしは持っています。」(ルカ24:39)といわれました。 イエスは女の出産を通して肉と骨をもった人としてお生まれになりました。その方は本 来、神のふところにおられた霊的な存在であるために、女の体に宿らないで天から直接、 この世に来ることもできました。しかし、その方は女の体に宿ってその体を通してこの世 に来られました。イエスは肉と骨をもった方でおられます。その方は死んだのちによみが えったときにも肉と骨をもっておられましたし、天に上ったときにも肉と骨をもっておら れました。 イエスの肉と骨は人間のそれと根本が異なります。人間の肉と骨は土から来ましたが、 イエスは御言葉が肉体となられました。土によってなされた肉体は腐って消えますが、霊 によってなされた肉と骨は永遠に変わることがありません。それゆえ、イエスの肉体は肉 と骨をもっているという点で人間の肉体と同じですが、その本質はまったく異なります。 神は土によって人を造り、その人に霊を注がれました。霊は物質ではなく、目に見えま せんが、はっきりと存在します。人間に霊がないのであれば、人の魂、すなわち人格は肉 体が滅びるのと同時に消滅します。しかし、人には霊があるために、肉体が土に帰ったと しても魂は霊とともに永遠に存在します。 人間は男と女が会って生産することによって子孫を得ます。女は男から種を受けて身ご もる畑のようなものです。どんなに良い種があったとしても畑がないのであれば、実を得 ることができません。そのように人が子孫を得るためには必ず女がいなければなりません。 イエス・キリストも女の体を通してお生まれになりました。しかし、その方は人の種によ って宿られた方ではないために、人間の血統とは関係がありません。イエスを身ごもった 当時、マリヤはまだ男を知らない処女でした。畑は農夫が何をまくのかに従って作物を輩 出します。畑に豆をまくのであれば、豆が出て来ますし、ニンニクをまくのであれば、ニ パク パク ンニクが出て来ます。これと同じように、朴さんの種を受けた女からは朴さんの子孫が出 キム キム て来ますし、金さんを受けた女からは金さんの子孫が出て来ます。 人々はよく「母親が私を産んだ。」といいます。しかし、厳密に言うと、ある詩人が 「父親が私を生んで、母親が私を育てた。」と歌ったように、人間は誰でも父から出て来 たのです。女の任務は男から種を受けて養育して産むことです。マリヤの任務も神の力に よって子を身ごもったのちに産むことでした。「あなたは身ごもって、男の子を産みま す。」という知らせを聞いたマリヤは「どうしてそのようなことになりえましょう。私は まだ男の人を知りませんのに。」といいました。すると、天使は「聖霊があなたの上に臨 み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子 と呼ばれます。」(ルカ1:35)といいました。男を知らない処女であってもいくらでも身ご もらせるのが全能なる神の力です。神の力によってマリヤの体に宿ったのは人の血統では なく、神の御言葉でした。神の御言葉がこのように女の体に宿ったのはそのようにしなけ れば、肉と骨をもつことができなかったためです。 キリストの肉と骨も私たちの肉体のように痛みや空腹や疲労を感じます。しかし、本質 的に私たちの肉と骨は土であり、キリストの肉と骨は霊です。それゆえ、キリストの肉体 は腐らないで永遠に存在します。イエスが死んで3日後によみがえられたときまで、その 方の肉と血は腐らないでそのままでした。その方が仮に3年後によみがえられたとしても 神の御言葉が肉体となって来られた方であったために、その肉と骨は少しも腐ることがな かったのです。 人間は死ねば、その肉と骨が腐ってなくなります。人間にとって腐らないのは霊だけで す。目に見えないという理由によって人々は霊の存在をやさしく無視します。しかし、霊 こそ人間にとって最も重要です。なぜならば、霊は腐らないで永遠に存在するためです。 イエスが再び来られるときに、私たちの霊は腐らない肉と骨、すなわち霊的な体に変えら れます。今、私たちがもっている体は霊的な体ではなく、土から来た体であるために、い つかは土に帰ります。しかし、霊は永遠に存在します。その永遠な存在がイエスが再び来 られるときに体に変えられます。これが復活です。 土から出て来た体は時間が流れるほど老いていきます。老いるというのは古びるという 意味です。しかし、霊は永遠に古びることがありません。ある人が80歳でこの世を離れた としても将来、主が来られるときにその老体を着てよみがえるのではありません。霊的な 体をもつようとなるときには若者と老人の区別がなくなります。また、片腕しかない者が よみがえるときに片腕がない体をもつようになるわけではありません。土によって造られ た腕がなくなったからといって、霊の腕がなくなったわけではありません。土から来たそ の人の腕はすでに腐ってちりとなりましたが、霊としてはその構造がそのままあります。 私たちが神の御言葉を受けるのは霊のためです。アダムは「それを取って食べるとき、 あなたは必ず死ぬ。」という御言葉を聞きましたが、善悪を知る木の実を食べました。そ の結果、アダムは死にました。何が死んだでしょうか? アダムの肉体は善悪を知る木の実 を食べたのちにも900年ぐらい生きながら子どもを生みました。アダムは神から永遠のい のちの御言葉と力を受ける資格を失ったのです。刑務所で刑罰を受けている者は肉体とし ては生きていたとしても公民権を失います。そのようにアダムは善悪を知る木の実を食べ た瞬間、霊的な権利をすべて失い、ただ肉体としてだけ生きるようになったのです。今日、 私たちがキリストによって救いを受けたというのは死んでいた私たちの霊が生き返って機 能を発揮しはじめたということです。もう一度言うと、神の御言葉を受け、神から供給さ れる霊的な食物を食べることができるようになったということです。 人は生きるために食べ物を食べなければなりませんが、それは肉体のために役に立つだ けであって、霊のためには何の益もありません。肉体がどんなに満腹に食べたとしても霊 魂がそれによって満足を得ることはできません。食べ物を食べないのであれば、肉体が弱 まりますし、食べ物を食べるのであれば、力を得ます。そのように霊も満腹な者のように 健康になることもありますし、飢えた者のように弱まることもあります。 イエスは「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによ る』と書いてある。」(マタイ4:4)といわれました。人に神の御言葉が必要であるのは霊が あるためです。神の御言葉を熱心に読んで恵みを多く受けたからといって、肉体が満腹に なるわけではありません。食べ物を食べなければ、どんなに神の御言葉を多く受けたとし ても飢え死にします。食べ物は肉体のための食物であり、神の御言葉は霊のための食物で す。また、神の御言葉は戒めです。その戒めは永遠のいのちです(ヨハネ12:50)。人の霊魂 は神の戒めによって支えられなければなりません。神の戒めは肉体には苦しみを与えます が、霊にはいのちを得る知恵を与えます。 私たちは霊のために神の御言葉を霊魂の食物として受けなければなりませんし、また、 神の戒めを生涯の知恵としなければなりません。そのとき、肉体に何の形跡も見えなかっ たとしても、復活するときにはそれぞれがどのように自分の霊の益を図ったのかに従って はっきりとした結果が現れます。人々は肉体の老化を遅らせるために高価な化粧品を使っ たり体に良い物を食べたりするなどの努力を惜しみません。しかし、肉体はどんなに飾っ たり整えたりしたとしても結局、老いて死にます。しかし、霊のために図ったすべての努 力の結果は少しも消えないで、復活するときにはっきりと現れます。それゆえ、私たちは 神の御言葉を受けて食物にしなければなりませんし、また、神の戒めを受けて知恵としな ければなりません。 イエスは自分を産んだ母にも「私の母とは誰ですか?」といわれました。イエスは血統 とは何の関係もない方です。神の御心通りに信仰をもたなければ、イエスを産んだ母であ っても神と関係がありません。これと同じように、私たちが神の御言葉を受けた、神の戒 めを聞いたといったとしても、これが私たちの霊魂に実際に影響を及ぼすことができない のであれば、何の価値もありません。私たちは神の御言葉を私たちの霊魂を生かす食物と しなければなりませんし、神の戒めを私たちの霊魂の知恵や力としなければなりません。 そのようにしてこそ私たちの霊は復活するときに栄光の体に変えられます。 信じない者にも霊があります。彼らものちに復活して腐らない体をもつようになります。 しかし、彼らはこの世にとどまる間に霊の食物を拒んで、霊が生きていく法則を無視しま した。彼らは霊のために生きたこともありませんし、霊のために訓練をしたこともありま せん。それゆえ、彼らの霊は腐らない肉体に変えられたのちにはっきりとした感覚をもっ たまま永遠な刑罰の中に入って行くようになります。信じる者はいのちの復活をしますが、 信じない者は裁きの復活をします(ヨハネ5:29)。 復活のときには私たちの霊が霊的な体に変えられます。そのとき、私たちの体はイエス の体と同じ水準に至るようになりますし、私たちはその体をもって再び来られたイエスと ともに天に行って永遠に生きるようになります。それゆえ、私たちは将来、霊的な体に変 えられる自分の霊のために霊的な食物を食べ、神の知恵が入っている戒めを受けなければ なりません。今、そのようにする者は自分が受けた神の御言葉が将来、復活のときに効力 を発生させ、自分を天に入って行かせるということを確認するようになります。反対に、 信じない者は自分の霊が裁きの復活に出て来たということを知って泣くようになります。 しかし、血と肉があるときに生まれ変わって自分の霊魂の益を図らないのであれば、再び 機会を得ることができません。 今、私たちが肉体をもっているのは復活のときに私たちの霊が可視的な存在に変えられ るということを見せる一種の約束であり、しるしです。今、私たちは肉と骨をもっている ために感覚が生きています。これと同じように、復活して肉と骨をもつようになるのなら ば、今と少しも異なることなく感覚を維持するようになります。ただ、復活した体は霊的 な体であり、今の体は腐る体であるという事実が異なるだけです。腐る体を下ろして霊的 な体で復活する瞬間、私たちはこの世で神の御言葉によって生きてきたことについての効 力を見るようになります。 私たちは霊的な体で復活する自分の霊のために神の御言葉を受けなければなりません。 私たちが聖書を近くにする理由がここにあります。聖書は神の御言葉がある本です。この 世に数多くの本がありますが、聖書のように人間を正確に理解している本はありません。 この世の文章は人間を理解させてくれますが、その結果、むしろ人間を放縦と堕落に追い 込みます。聖書は人間の状況を最も正確に理解していますし、人間に必要なものが何であ るのかをはっきりと提示しています。私たちはこのように神の御言葉を豊かに受けること によって、主が再び来られるときに自分の霊魂が霊的な体で復活することができるように しなければなりません。 翻訳: 聖楽教会 聖楽宣教センター 日本語翻訳室
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