マルコの福音書 10章1節から12節 e-聖書研究会 奥田 昭 1、本日の

マルコの福音書
10章1節から12節
e-聖書研究会
奥田
昭
1、本日のメッセージの箇所はマルコの福音書10章1節から12節です。お読みい
たします。今日はこの箇所から、「ふたりはひとり。」と題して、聖書が結婚や夫婦生
活に関してどのように教えているかを学びたいと思います。お祈りをいたします。
2、イエスがヨルダン川の東側を南下されてエルサレムに向かう途中のできごとでし
た。パリサイ人がイエスをためそうとやってきたのです。イエスの名声が高まり群集
がイエスの教えを聞くために集っているので、わなをしかけるためです。離婚につい
てイエスに質問したのです。バプテスマのヨハネという方がいました。彼はイエスの
来られるのを前もって皆に伝えるために神から遣わされた預言者でした。このバプテ
マのヨハネが当時のユダヤの王であったヘロデが自分の妻と離婚して義理の兄弟の妻、
ヘロデヤを妻にしたことを非難し、それが原因で処刑されたいきさつがありました。
したがってその回答によっては、イエスは非常に危険な立場になります。また、イエ
スのまわりには当時、道徳的にふしだらと見られていた人たち、たとえば遊女だった
マグダラのマリヤや、取税人が救いをもとめて集ってきていました。そして道徳的に
ふしだらな回答をすれば、それを立てにイエスを裁こうと考えていたのです。それほ
ど彼らパリサイ人の身の危険を感じたからかもしれません。
3、彼らの質問は「夫が妻を離別、離婚することは赦されるか」です。ここで、パリ
サイ派の人達は、まず一つ目に大きな過ちを犯しました。それは、聖書に書かれてい
る神さまの創造の業、創造の秩序を理解していないことでした。
聖書の書かれている神の天地創造の箇所を見てみましょう。まず、「神は仰せられた。
「光があれ。」神は光を見て良しとされた。これが第1日めですね。そして5か日まで
に人間が生きていくことができる条件を備えられました。1日目から5日目まで、神
さまはそれらをご覧になられ「良し」とされたのです。良かった、良かったというわ
けです。そして、6日目に「神は人をご自身のかたちとして創造」されたのです。し
かし、最初のひと、そうですね。アダムです。それをごらんになって良かったとはお
しゃいませんでした。かえってこのように言われたのです。神である主は仰せられた。
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「人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造
ろう」そしておとこのあばら骨から、ひとりの女をつくられました。そうエバですね。
そして、神はお造りになったものすべてを見られ、
「非常に良かった」とされたのです。
神は男と女を創造され、それでよかったを通り超えて、はなはだよかったとされたの
です。神さまの天地創造の完成は、男と女ができ上がってからです。男一人が造られ
たときではありません。神さまの創造の秩序は、男と女がそろって、始めて完成なの
です。したがって、神さまの創造の成り立ち、秩序を理解しないかぎり、パリサイ派
のような質問でてくることになるのです。
4、当時パリサイ派のなかにも、この離婚をめぐって、大きくふたつの考えの違いが
ありました。代表的な意見はヒルレル派と呼ばれる離婚寛容派、別名ふしだら派と呼
ばれる人たちです。この人たちは、離婚は男性側の勝手な理由でできると考えるグル
ープです。たとえば料理が下手だから離婚、女性のいびきがおおきから離婚、おしゃ
べりだから離婚、という具合いです。女性のみなさん。この当時、ユダヤに生まれな
くってよかったですね。このふしだら派の人たちがイエスに論争を挑んだのです。と
いうのもの、質問は夫側から妻を離別することの是非でした。
5、イエスはかれらの質問には直接答えませんでした。かえって質問しました。これ
はユダヤ教の指導者、ラビと呼ばれていますが、彼らの討論の仕方です。質問をもっ
て質問に答える方式です。例えば、誰かに「これについてどのように思いますか」と
質問されれば、その人に「あなたはどう思いますか」と答えるのです。パリサイ派の
人はやむをえず、答えます。
「モーセは、離婚状を書いて妻を離婚することを許しまし
た。」と。しかし,彼等の本音は、男の一方的な、勝手な理由で離婚できる、離婚状さ
え書けばでした。
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パリサイ人は二つ目の誤りをしました。それは聖書を自分勝手に解釈するという
ものです。聖書を自分本位、自分の都合にあわせて読むというものです。
「神のことば
を曲げず、真理を明らかに」
(2コリ4-2)しなければいけません。
「曲解」
(第2ぺ
テ3-16)もゆるされません。また、「付け加えても、減らしても」(申命4-2)
いけないのです。ここで、申命記24章1節をあけてください。
(3版P345、2版
2
P315)
「人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、
気に入らなくなった場
合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。」
「何か恥ずべき事」とはみにくいこと、例えば妻の不貞とか子育て放棄があれば、例
外的に離婚が許されたのです。ここで、どのように読んでも離婚状を書けば男側から、
勝手に離婚できるとはよめません。しかし、パリサイ派の人は、旧約聖書の正しい理
解ではなく、かれらの律法解釈で、男性有利、男性勝手な立場で解釈していたのです。
申命記の離婚の意味はこうです。「男の身勝手で離婚させられた女の人は、法的、公
的に離婚を宣言されたのだから、離婚状さえあれば、再婚の可能性を法的、公的に認
めることになる、」したがって申命記に書かれていることは、男の身勝手許すために
認めたものではなく、女の立場を擁護するために定められたものだったのです。
2000年前の当時のユダヤ社会は現在では考えられないほど、男女不平等な社会
でした。一方的に理不尽な理由で離婚された女の方は、やはり再婚して新しい家庭で
やり直すしか方法がなかったのです。神さまの配慮ですね。
6、イエスはパリサイ人の三つ目の誤りを指摘します。「あなたが心がかたくななの
で、この命令を」おいたのだと。それはユダヤ人がかたくな、頑固だから例外的に離
婚を認めたのではなく、この律法を置く事によって、人間のかたくなさ、頑固という
人間の罪をハッキリさせるために、際立たせるためにこの律法をおいたのだと。人間
が頑固でなければ、人間に罪がなければ、離婚もありえない。人間のかたくなさ、頑
固さ、罪が離婚によって明らかにされる、そういうものとして、申命記24章を理解
すべきであるとされたのです。人間の頑固でかたくなさという罪のためにイエスは十
字架にかかられました。人間の業では律法を完全になすことができないからです。律
法を守ることによっては、罪はどうにもならないからです。イエスの十字架は我々一
人一人が持つ、こころのかたくなさのためでした。「肉によって無力になったため、
律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を
罪のために、肉深い肉とおなじような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰され
たのです。」(ローマ8-3)
7、イエスはそして、結婚についての教えを創世記から説明します。創世記1章27
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節にはこのように書かれています。
「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男
と女とに彼らを創造された。」
神さまは天地創造のとき、男性と女性という二つの性の人間を造られました。一方が
多くて、一方が少ないものではありません。その証拠に世界の人口はいつの時代でも、
おおよそ男女の半数づつで構成されています。
「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」
2章24節です。
神さまは夫となる者と妻となる者の結びつきを、親子関係より離れてあたらしい結び
つきとました。最も親しい絆である親子関係からはなれ、それまで知らなかった新し
い絆、夫婦関係と結ばれていくのです。この新しい関係の創造は、人間によるもので
はありません。神さまが画し、神さまによって造られたものなのです。これが二つの
性を造られた目的でもあるのです結婚は神さまの摂理で、人間の情愛を超えた結びつ
きなのです。
7、ちかごろでは、クリスチャンでない方も教会や、キリスト教式結婚式を挙げる方
が増えています。やはり、イエスや聖書は深くは信じないが、人生の初めにキリスト
教のもつ聖さや、荘厳さにふれて出発したという願いからでしょうか。そこで牧師は
この聖書の箇所を式のなかで読します。
「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あな
たがたも、自分の妻を愛しなさい。」「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ば
れ、ふたりは一体となる。」エペソ書5章の箇所です。一体とは、鍵と錠枚(じょう
まえ)、バヨリンと弓のようなものかもしれません。夫婦の関係は、夫は妻を愛する
こと、妻は夫に従うことが求められています。また聖書は互いに「助け手」であるこ
とから成り立っていることも定められています。この関係
は両手の右の手と左の手の関係だと理解すればいいのかもしれません。指の長さや働
きは
一長一短です。それを互いに補い合うのだと言うのです。両手を組み合わされば、感
じが分かると思います。
4
8、イエスはこうも言われました。
「それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結
び合わせたものを引き離してはなりません。」「ふたりでひとり」、これに良く似た
ようなことばがありました。そう。三位一体、みっつでひとつ。これも良く分からな
いことばです。聖書学者はこれはキリスト教の奥義だといいました。ふたりでひとり、
これもそうかもしれません。しかし、深い内容はわからなくても、神さまが我々人間
に恵みを与え、祝福してくださるために、神の秩序として定められたと理解しようで
はありませんか。好きだ、愛してるという情愛や感情が結婚の動機となることはやむ
をえません。しかし、結婚は神が結び合わせたもの、神が結び合わされた土台という
気持ちがなければ、確実なものになりません。情愛や感情は、時とともに消え去るか、
あっがたりさがったりするものだからです。
9、イエスが教えられたポイントはこうです。
まず1、結婚によって結ばれた夫婦は、神によってむすばれたのもである。それほど
尊厳なできごとである。
2、ふたりは一体となる。ふたりはひとりである。精神的にも肉体的にも深い結びつ
きになる。
これはこの世でもっとも神秘的な出来事である。
3、
したがって、離婚を自分勝手な理由ですることはゆるされない。11・12章
でイエスは、「妻
を離婚して他の女を妻にするなら、姦淫の罪を犯していることになる」とも言われま
した。姦淫の罪は、有名なあの十戒の一つですね。それぐらいの罪を犯していること
になるとも言われたのです。
10、日本も離婚が日常茶飯事になりました。私たちのまわりにも離婚によって、傷
つきこころ痛まれた方がおられると思います。聖書の神の証し人として、その方々の
痛みを回復を祈ると共に、神さまが結びつけた元の状態の回復を祈ろうではありませ
んか、最近、こんな証しを聞きました。離婚されて3年になっていたそうです。離婚
当初は妻を憎み、なぜなぜと理由ばかり捜しておられた方がいました。しかし、聖書
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の神さまを知り、神さまがその計画をもって夫婦を結ばれたことを知りました。それ
から悔い改めの祈りを、毎日したそうです。そして、元の奥様に自分がいかに奥様を
愛していなかったか、また家庭を顧みていなかったかの詫び状を書いたそうです。そ
れも1度2度ではなかったそうです。そうするとどうなったか、みなさん想像できま
すね。そうです。みなさんの想像されたとおり、奥様と元通りの関係が回復し、再婚
されました。実は先日のおふたりで楽しそうにキリスト教の聖会に出席されていると
ころを、拝見しました。「人は、神が結び合わせたものを引きはなしてはなりません。」
ある方は今日の聖書の箇所をこのように短歌に読まれました。身勝手に
そむきたる
離婚の罪は
許したまわず
このように読んだのもいます。
神により
結ばれられし
定めなり
ただめぐみかな
お祈りします。
6
ふたりはひとり
神の掟に