キャリア自分史

「キャリア自分史」
柳沼
正秀
今回、自分史を書くにあたり、主なテーマをキャリア自分史に絞り込んだ背景には、3
つの理由があった。
1つは、子ども時代の記憶が断片的で、時系列に書くことが難しかったこと。2つ目は、
自分の全知全能を発揮し、生きがいをもってやってきたのが仕事だったこと。3つ目は、
50 歳でサラリーマンを卒業し、FP(ファイナンシャル・プランナー)業で独立をした際
に、独立5年前の 45 歳からの準備期間を含めてすでに書籍として出版をしていた。
今回、授業で「自分史を書く」のテーマを与えられたときに、社会人になってから 45
歳までのキャリア史を書くことで、キャリア自分が完成することに気がついたことがテー
マを決めたともいえる。
改めて自分が歩んできたキャリアの足跡を振り返ってみて、つくづく「キャリアは、予
期しない偶然の出会いによって8割が形成される」ことを実感した。これは、最近、注目
され始めたクランボルツ博士のキャリア理論、「プランド・ハップンスタンス・セオリー」
(計画的偶発性理論)という理論の中にある考え方である。
「変化の激しい時代では、キャリアは自分の思い描いたとおりに実現することは難しい。
むしろ、現実に起きたことを受け止めて、その中で自分を磨いていくことのできる力が大
切である」、「自分のほうから何かを仕掛けて予期せぬ出来事を作り出し、そこで自ら実
体験して学習していく。そして次の手を打っていくことが重要」というのがその骨子。
自分のキャリアを書きながら、一つ一つ実感として納得をしながら自分史を書いた次第
である。
多くの人に支えられながら、常に自分が生かされる場所がどこにあるのか、自分が工夫
できる余地はないか、と考えながらことを進めることが、自分のキャリアを創っていくこ
とにつながることが、自分の中で検証できた点は大きかったと思う。
60 歳以降の後半の人生設計では、生涯現役を目指し、今度は「高齢社会の中で果たすシ
ニアの役割」をキーワードにして歩んでいきたいと考えている。
平成 20 年 8 月 31 日記
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「キャリア自分史」
【 目 次 】
第1章
第1章 毎日新聞社入社までの経緯(
毎日新聞社入社までの経緯(22~
22~24 歳)
●インドへの留学を断念
●南洋諸島で軍歌を歌う
●入社の契機はゴヤ展
●アルバイトを動員、売上げを一挙倍以上に
●江口さんから毎日新聞社の受験を勧められる
●役員面接で足を組んで面接を受ける
第2章
第2章 最初の仕事は週刊英字
最初の仕事は週刊英字紙の
週刊英字紙の「
紙の「毎日ウイークリー」
毎日ウイークリー」 (25~
25~29 歳)
●仮入社で 10 月から仕事を始める
●学生会の販売数だけで2万部超を達成
●漢字出力による発送システムの開発
●毎日コミュニケーションズの創設
●海外研修ツアー事業を立ち上げる
●上司との対立
●将棋の名人戦が毎日に戻る
第3章
第3章 1年間の英国(ロンドン)留学休職 (30 歳)
●リセットのため英国へ留学
●八方塞で一時は退職を決意
●留学費用は関連会社との契約で確保
●出発直前に難題が課せられる
●1ヵ月以内の退去命令が出る
●英語学校の事業計画を作成する
第4章
第4章 中南米「古代遺跡」
中南米「古代遺跡」を巡る
「古代遺跡」を巡るヒッピー旅行記
を巡るヒッピー旅行記 (31 歳)
●1日千円の旅
●世界の若者との出会いが人生を考える契機になる
●旅行で滞在した国は7カ国
●空からナスカの地上絵を見る
●ナスカ平原で親子のミイラを発見
●沖縄出身の食堂の主人から情報収集
第5章
第5章 人生の転機となった静岡支局時代 (31~
31~34 歳)
●マッチポンプ取材
●張り込みに失敗
●死者数 15 人、負傷者 223 人の静岡駅前ガス爆発事故
●「記者の目」でガス爆発事故の検証記事を書く
●〝時限爆弾〟の表記が波紋を呼ぶ
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第6章
第6章 週刊将棋の創刊秘話 (35~
35~39 歳)
●江口氏の静岡来訪で転身を決意
●7年前に企画した将棋新聞の復活
●好きなことを仕事にする
●加藤名誉九段の賛同を得て意を強くする
●大山会長の即断で創刊が決まる
●裏話(1)販売契約書、販売手数料での仕掛け
●裏話(2)見出しのミスを発見、再印刷を決断
●升田幸三元名人とのテレビ出演
●週刊将棋での幾つかの思い出
(1)レディースオープントーナメントの創設
(2)週将ブックの創刊
(3)山本直純氏と駒音コンサートを企画
(4)木村義雄十四世名人のインタビュー企画
第7章
第7章 新規事業の撤退とPC雑誌の創刊 (40~
40~43 歳)
●弔い合戦の気持ちで化粧品会社を担当する
●米国市場への最後の賭けも挫折・撤退
●日本でもパソコン市場が育ち始めた
●最初はパソコンの解説書を出版
●月刊誌「THE123MAGAZINE」を創刊
●競合会社から雑誌コード取得の方法を教わる
●取材でFP業という職業を知る
第8章
第8章 デジタル絵本、通信対戦ゲーム、ゲー
デジタル絵本、通信対戦ゲーム、ゲーム雑誌
、ゲーム雑誌を創刊
ム雑誌を創刊
●コンピュータ将棋協会で情報を収集
●ファミコン将棋通信対戦システムの立上げ
●エデュテメントソフトを開発
●デジタル絵本「ペペロン村の四季」の絵本を制作
●ゲーム雑誌(ニンテンドウ64、セガサターンなど)を創刊
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(44~
44~45 歳)
(途中)
平成 20 年 8 月
第1章
(22~
22~24 歳)
毎日新聞社入社までの経緯
毎日新聞社入社までの経緯
大学で教育学部を選んだのは、「中学校の先生になる」のが目的だった。私がイメージ
していた教師像は、世の中の仕組みや社会のことを教えたり、人生などについて生徒と一
緒になって考えてくれる“金八先生”的な先生。その実現のために、大学入学時に決めて
いたことが2つあった。①30 職種のアルバイトをする、②卒業後、3~4 年は海外暮らし
をすること。
社会を知るには、仕事を通じて体験することが早道だろうと考えたのと、数年間は日本
以外の国に住みながら、外国人の暮らし方や考え方を学びたかったからだ。①の「30 職種
のアルバイトをする」は、地下鉄工事の土木仕事からバナナの叩き売り、海の家の焼きそ
ば販売、演歌歌手の助手、工場でのチョコレート作り、スーパーの清掃作業などなどを経
験。卒業時に数えてみたら、38 職種のアルバイトをやっていた。社会経験と授業料稼ぎの
ためにやったアルバイトだったが、「どんな仕事でもやれる」という自信がついたのは確
かだ。もう一方の外国暮らしは、ヒッピー旅行などを除けば残念ながら実現はできなかっ
た。(その後やっと 30 歳時になって留学が実現することになる)
●インドへの留学を断念
私が当初計画した外国暮らしは、インドへの留学だった。なぜ、インドなのかと聞かれ
ても困るのだが、今から考えれば幾つかの複合的な要因が重なって決めたのだと思う。最
大の理由は、英語圏でしかも留学費用がほかの国よりも安かったから。発展途上国が(教
育社会学的な視点で)今後どう発展していくのかにも興味があったし、高校の時にインド
のプーナ地方の高校生(女性)と文通し、少しはインドに関心もあった。もしかすると、
私の人間形成に大きな影響をもたらしたビートルズのジョージハリスンが、インドに行っ
たことも意識していたかもしれない。
留学先は図書館で調べ、英語の論文と大学の成績表に教授の推薦状を付けてD大学とP
大学など数校に願書を提出。学生時代はアルバイトとマージャン、将棋部の活動で明け暮
れ、ろくに勉強はしていなかったが、英語の論文だけは図書館にこもって必死に翻訳をし
て作成した覚えがある。卒論のテーマは忘れたが、内容は戦後のアプレゲールに関する考
察だった(?)と思う。
ゼミ担当のT教授とは折り合いが悪く、推薦状を誰にもらうかで悩んだが、大学の授業
で一番興味が持てた教育社会学が専門の朝倉征夫教授に留学したい思いを伝え推薦状を書
いてもらった。この留学計画は、思いのほかスムーズに進み、数ヶ月後に両大学から入学
許可が下りた。
ところが、せっかく掴んだチャンスだったが、想定外の事態の発生で、留学は断念せざ
るを得なくなる。1970 年に、東パキスタンではサイクロンによって数十万人が死亡する被
害が発生、大量の難民が隣のインドになだれ込んだ。これをきっかけに、インドが東パキ
スタン独立に介入し、第 3 次印パ戦争が勃発してしまった(東パキスタンは後にバングラ
ディッシュとして独立)。
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両大学からは、「来られるのは吝かではないが、命の保障はできない」旨の通知があっ
た。アルバイトのときに知り合いになった毎日新聞の元ニューデリー支局長のアドバイス
を受けたりいろいろと悩んだ末、結局留学は断念した。
特に就職をする当てもなく、諦めの気持ちで 1 年間留年することを決めたのだが、すで
に 4 年間の必要単位はすべて取得してしまっていた。そこで、卒論だけを落として翌年卒
業しようと、2 月の卒論の口頭試問を欠席して 3 月から 4 月の 2 ヶ月間長期のアルバイト
で出張してしまった。4 月に下宿に戻ったところ、大学から「卒業証書を取りに来るよう
に」との通知が届いていた。「それはないでしょう」という思いで学校に駆けつけ留年を
強く主張したが、取り消せるわけでもなく、意にそぐわない形で卒業する破目になった。
●南洋諸島で軍歌を歌う
今から考えれば、この 1 年間のモラトリアム期間は、人生の方向性を見失っていた自分
に、じっくりと考える時間を神が与えてくれたのかもしれない。学生という身分がなくな
ったのは寂しかったが、何とかなるという気持ちが強かったように思う。不思議とすぐに
留学や就職ということは、考えなかった。幸いアルバイトで貯めた小金は持っていたし、
幾つかやりたいこともあった。
その 1 つが、西太平洋の赤道付近に広がるミクロネシアの島々への旅行。大学生の夏休
み中、山形県の鶴岡市・出羽三山の宿坊で知り合った龍さんが戦前に滞在していた島々だ。
龍(通称)さんは、一筆で色紙に龍の絵を描くことを得意とし、全国の神社仏閣などの
お祭りの場を仕事場とする“フウテンの寅さん”的な生き方をしている人だった。年齢は
50 代後半だったと思う。龍さんとは馬が合ったのかよく将棋を指したのだが、あるとき宿
坊の押入れから分厚い原稿用紙を引っ張り出してきて見せられたことがあった。龍さんが
旅の合間に書き溜めた私小説だった。内容はほとんど忘れてしまったが、その小説の舞台
となっていた南洋諸島のパラオ、ヤップ島の印象が強く残っていた。
当時はまだ、パラオには日本から直行便が飛んでおらず、グァム島経由でパラオ(パラ
オ共和国)に入った。東京-パラオ間の距離は約 3,200 キロ、グァムからは南西 1,300 キ
ロに位置し、飛行機での旅程は、朝出発して夕方着とほぼ 1 日かかった。
戦前、日本は委託統治領としてパラオに南洋庁を置き、ここを拠点としてマリアナ諸島
やトラック諸島などを次々と開拓していった。最盛期には、島民と日本人をあわせて 3 万
人以上が暮らしていた時期もあったという。日本は同化政策の一環として同島でも日本の
義務教育制度を実施、小学校で日本人と一緒に島民の子ども達にも日本語教育を行った。
この影響で、いまでも島の高齢者は日本語を流暢に話す人が多い。
紺碧の楽園ともうたわれるパラオ本島は、大小 300 の緑の島々からなる。ミクロネシア
では、グァム島についで大きな島である。パラオの中心地となる首都、コロール島は、島
の周辺がサンゴ礁(コロール)で囲われた平坦な島で、空港からは車で 40 分ほどかかっ
た。空港からコロール島までの途中、島のあちこちにゼロ戦や戦車、機関砲などの残骸が
点在、昔の日本軍が駐留していた痕跡を見ることができた。このパラオも戦争中は日米両
軍の激戦地でもあった。ミッドウェー海戦、ガダルカナルの死闘、サイパンの玉砕後にパ
ラオ諸島もその激戦に巻き込まれ、アンガウル、ペリリューの 2 つの島でも日本軍が玉砕、
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1万人もの兵士が戦死、露と消えたのだった。
その激戦を物語る“残骸”は、戦後 20 数年の間、風雨に晒されすっかりさび付いていた。
ただ、それらの“残骸”が、夕焼けの陽に照らされてパラオの島の風景に違和感なく溶け
込んでいる様子は奇妙な光景でもあった。
ホテルで一泊後、早朝さっそく龍さんの小説に出てきた大酋長ロゴマ(?)を尋ねた。
このパラオでは、戦前まで多くの独立した地域を大酋長が統治する形態をとっていたとい
う。ホテルで教えられた大酋長の家を尋ねてみたが、出てきた初老の老人は私が言ってい
る意味をなかなか理解してくれなかった。残念ながら龍さんのお世話になった大酋長宅か
どうかは、分らなかった。ただ、その大酋長の子孫らしき老人は、私が日本から来たこと
を大変喜んでくれた。その日の夕方には、早速家の前で大宴会が開かれることになった。
とはいっても、土の上にゴザを敷いて、車座になって缶ビールを飲むだけではあったが。
夜が更けるにつれて車座の輪が大きくなり、最後は 20 人ほどの大宴会になった。
興が乗ってくると、数人が中腰で胸と太ももを敲きながらヤップダンスを力強く踊りだ
した。次に出てきたのが、日本軍の軍歌だった。ただし、軍歌とは言っても格調の高い日
清日露戦争当時の軍歌だ。正直これには参った。学生のコンパで一通りの軍歌は知ってい
るつもりだったが、さすがに日清日露までは知らない。歌詞を知らないので、メローディ
ーに必死についていくのが精一杯だった。
パラオには 1 週間ほど滞在したのだが、島民と親しくなればなるほど、日本の習慣が彼
らの生活に深く入り込んでいることを知ることになる。まず、魚は刺身にして食べる。醤
油はあるがわさびはない。わさびの代わりはタバスコを使っていた。また、小中学校の運
動会では、海苔巻き弁当を作り、家族総出で運動会に行くのだという。
一方、このパラオはダイビングスポットとしても有名だ。ダイバーが一度は憧れるのが
ブルーコーナー。パラオ諸島の外海になるのだが、サンゴ礁から突然、垂直に数百メート
ルの深海まで落ち込んでいるドロップオフ(海中の断崖絶壁)があり、どこまでも透き通
った真っ青な海は、まるで奈落の底のような怖さも持っていた。この場所にギンガメアジ
の大群や大型のロウニンアジ、イソマグロ、そして流線型の体形をしたリーフシャークが
真っ青な海底で舞う様は、まるで宇宙遊泳をしている感覚にさえなる。
このときは、残念ながらスキューバーダイビングのライセンスを持っておらず、スキン
ダイビングで我慢するしかなかった。ぜひもう一度ボンベを背負って潜ってみたいと思う。
一週間後、パラオ島から 500 キロほど離れたヤップ島に飛んだ。こちらの島は、石の通
貨、ストーンマネーが有名だ。このストーンマネーは、いまでも結婚式や土地の取引等で
は使用することがあるらしい。ヤップ島には、やはり 1 週間ほど滞在したが、島の雰囲気
は日本の地方都市のようで、非常に穏やかな日々が続いたことを覚えている。島の真ん中
には、海と繋がった川があって、旧日本軍が建築したというヤップ橋や小さな社があった。
島には、当時日本人のご夫婦が住んでいて、昼食をご馳走になった記憶がある。
島には港もあったが、驚いたのは 10 数メートルの石の船が陸に上げられていたことだ。
日本人ご夫婦の説明では、ヤップ人は航海術に長けていて、「この石の船も実際に使って
いた」と、にわかには信じられない説明だった(?)。
島の人は、外に出る時は男女とも必ず椰子の葉で編んだハンドバックを抱えていた。そ
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の中に入れたビンロージュ(椰子の樹に似たピローナッツの実)に珊瑚の白い粉と一緒に
口の中に入れると、酸っぱい味がして、これを嗜好品として噛む習慣があった。噛んでい
ると、唾液が真っ赤に染まる。この真っ赤な唾液は、飲み込まずに水鉄砲のようにピュー
と吐き出すので、至る所が赤く染まっていた。
ヤップ島の海は、マンタ(巨大な糸巻きエイ)の通り道としてもよく知られ、いまでも
多くのダイバーたちが訪れている。
パラオ、ヤップの滞在は、私の将来に何かヒントを与えてくれたような気がしている。
●入社の契機はゴヤ展
プー太郎生活の 1 年目の秋。毎日新聞のアルバイトをしているときに懇意になった英文毎
日の田辺さんからゴヤ展の手伝いを依頼される。会場となっていた上野の国立西洋美術館
で販売するゴヤ展のグッズの在庫管理などが主な業務だった。ヒッピー旅行から戻った直
後で暇だったので喜んで引き受けた。
通常、新聞社では、美術展などは事業部が担当するのだが、なぜか英字新聞を発行するセ
クションの英文毎日局が一部を担当していた。後で知ったのは、英文毎日は大正 11 年 4
月に創刊された国内で最も伝統を誇る英字媒体だが、常に赤字体質との戦いの歴史でもあ
った。当時、営業部長になった江口末人氏(私の人生で一番影響を与えた人)は、赤字体
質脱却のために、いろいろな事業に手を出していた。このゴヤ展もその一環だった。
前年に開催された大阪での日本万国博覧会では、英文毎日局は有名画家の額絵を販売して
大きな実績を上げていた。
11 月 16 日から開催されたゴヤ展(東京)は、翌年 1 月下旬まで約 2 ヶ月間の開催だった
が、入場者数が 57 万人を超える大盛況だった。1970 年代は、高松古墳の極彩色壁画の発
見やゴヤ展、モナリザ展と門外不出の美術作品が次々と日本で公開され、美術愛好家だけ
ではなく、一般の人もその人気に煽られて多くの美術展に足を運んだ時代でもあった。
スペインの画家フランシスコ・ゴヤを詳しく知らない人のために、少しゴヤについて触れ
ておこう。近代絵画の創始者とされるゴヤは、1746~1828 年生まれ。40 代半ばで聴力を失
うがカルロス 4 世の主席宮廷画家となる。ゴヤの晩年は、ナポレオン軍によるスペイン支
配と対仏独立戦争が始まり、最後は亡命まで追い詰められ 82 歳の人生を閉じることになる。
その 82 年に及ぶ波乱に満ちた人生の中、油絵、版画、壁画、肖像画、宗教画、戦争画など
広範囲なジャンルをカバー。近代的な裸婦の先駆ともいえる「裸のマハ」や「着衣のマハ」、
肖像画では最高傑作といわれる「カルロス 4 世の家族」、黒い絵として知られる「我が子
を食らうサトゥルヌス」(ローマ神話)などが有名である。
西洋美術館で私が扱うものは、ゴヤの描いた「裸のマハ」、「着衣のマハ」のほか、銅版
画(エッチング)などの額絵だった。絵だけのものが1枚 150 円、ミニ額に入ると 800 円
程度。圧巻はエッチングだった。「戦争の惨禍」シリーズなどを印刷したものだが、あま
りにもその印刷が精細かつ精巧だったため、西洋美術館から贋物として売られる危険性が
あるので、「必ず額絵に印を押して判別できるようにするように」との注意を受けるほど
だった。
この額絵を販売するのは、西洋美術館の女性販売員。これが問題だった。土日になると、
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毎日1~2 万人の人の入場者があり、連日2~3 時間待ちが当たり前だった。販売するカ
ウンターは、出口付近になるのだが、カウンター前は常に購入する人だかりができていた。
したがって、後ろを通る人は見本を見ることもできず、購入するには人垣を掻き分けてカ
ウンターまで来ないと買えない状況だった。あまりにも混雑していたため購入するのを諦
める人が続出した。それでも女性販売員は、黙々と絵を販売するだけ。見かねた私は、大
きな声を出してカウンターから離れた人の注文を取り、販売を始めた。アルバイトで、バ
ナナの叩き売りや祭りでのテキヤを経験した身には、大声を出すことは何でもなかった。
●アルバイトを動員、売上げを一挙倍以上に
これは大きな販売チャンスを逃していると直感した私は、すぐに担当の田辺さんに提案。
翌日からアルバイト仲間を5、6人投入。開館前に、売れ筋の「裸のマハ」と「着衣のマ
ハ」などをセットにして準備、販売カウンターに数人のアルバイトが入って大きな声を出
して販売を開始したところ、1 日 50 万円程度の売上げが一挙に倍以上の 100 万円以上に
跳ね上がった。その後、ノウハウが積み上げられ 1 日 300 万円を売り上げる日もでてきた。
この勢いが影響したのか、額絵以外に用意をしていたグッズも売れ出した。
それ以降は、毎日の販売状況から翌日以降の販売数を推計して額縁業者に注文、結局引き
続き開催された京都展と合わせた 4 ヶ月間の売上げで数億円の売上げを達成することにな
る。
この時の思い出は、いろいろあるのだが、一番印象に残っているのは、ゴヤの絵を護衛す
るためにプラド美術館(スペイン政府?)から派遣された護衛官たちとの交流だった。か
れらは、6,7人いたと思うがいずれも 18~20 歳代の若者。展覧会が終了すると同時に、
アルバイト仲間たちと上野や浅草に飲みに行くのが日課になっていた。
展覧会には、女子学生のアルバイトも数多くおり、一度そのなかのマドンナの取り合いで、
つかみ合いの喧嘩になりかかったときもあった。私の当時の格好は、髪が背中にまで届く
ロングヘアー、その髪が邪魔にならないように麻紐を頭に巻いていたため、衛兵からは「ジ
ャパニーズ・インディアン」という有難くないニックネームで呼ばれていた。
このときに覚えたブロークンのスペイン語は、5 年後に南米の古代遺跡を巡るヒッピー旅
行をした際に役立つことになる。
この国立西洋美術館の販売実績が認められ、翌年の 2 月から 3 月まで京都市立美術館で引
き続き開催された京都展の仕切りを任せられることになる。この時の英文毎日(大阪)担
当のTさんには、大変お世話になった。定宿は毎日新聞の宝塚寮に寝泊りしていたが、京
都近くのTさんの家にも泊めてもらったことがある。お母さんが、大学で江戸文学を教え
ていた関係で、江戸時代の古地図を多数見せてもらった記憶がある。
Tさんには、先斗町にも何回か連れて行ってもらった。ふぐ刺しは京都で始めて食べるこ
とになった。
このときのゴヤ展の入場者からのアンケート(50 万通程度)は、その後R社と組んで、額
入りの絵画の通信販売を行う事業に発展する(後の毎日コミュニケーションズの美術部)。
英文毎日の江口さんから毎日新聞社への入社の誘いを受けたのは、このゴヤ展の京都展
の打上の席であった。
●江口さんから毎日新聞社の受験を勧められる
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ゴヤ展の京都展が終了したあと、江口さんから「今年、久々に週刊の英字新聞を創刊す
るのでスタッフとして来ないか」と誘いを受けることになる。
何にも準備をしていない身としては、入社試験が苦痛ではあったが、「試験は 6 月にあ
るが、毎日、新聞を読んでいれば受かるから」と説得される。
江口さんから「毎日新聞の入社試験がある 7 月まで、知り合いの会社を紹介するからそ
こで営業販売の勉強をしたらどうか」とアドバイスがあり、4~6 月の 3 か月間だけ毎日
インターナショナルで働くことになる。この会社の社長である陳さんからは、営業販売、
販売員の統括、顧客からの苦情処理、売掛金の回収業務など、ほぼ 24 時間体制で商売の
基本を徹底的に叩き込まれた。
台湾出身の陳さんは、通称【エンクロ屋】と呼ばれていた百科事典販売のプロで、この業
界では成功を収めた 1 人であった。その語り口は、大きな声ではないが徹底した理詰めの
セールストーク(口調)に大きな特徴があった。10 人近くの販売の猛者を取り仕切ってい
た。その連絡係を担当させられたのだ。この3か月間ではいやというほどのドロドロした
人間関係や社会の裏側を見せつけられることになる。(詳細は次の機会に書く予定)
●役員面接で足を組んで面接を受ける
毎日新聞社は、この年まで数年新入社員を採っておらず、1,2年ぶりの入社試験の実
施だった。しかも学歴不問だったため卒業後 1 年間浪人をしていた私でも受験ができた。
当時の入社試験では新卒が常識で、就職浪人が受験できる企業は、自動車のセールスなど
の業種に限られていた。その点、毎日新聞は“えらい会社”だと今でも感謝している。
最初の募集人員は編集職、営業職合わせて約 30 人、応募者数は 2,000 人以上いたと思
う(この年は、結局追加募集をして約 100 人が同期入社となったが)。試験は、一次試験
は一般常識と論文。ほとんど勉強していなかったので、判らない問題は鉛筆を転がして出
た目で解答した。論文のテーマは「対話」。この年に東京都知事で再選された美濃部亮吉
氏のキャッチフレーズ「都民との対話と福祉政策」をそのまま取り上げての出題だった。
江口さんからは、「一次試験で 120 番まで入ってくれれば後は何とかする」といわれて
いた。結果は後で 70 数番目(?)と聞いた。なんとか、グループ面接も通過して、最終
の役員面接に臨むことになるのだが、ここでまた大失敗をしでかすことになる。
自分では意識をしていなかったのだが、6 人の役員面接では、なんと足を組んで面接を受
けていたようなのだ(本人はまったく記憶がない)。早速、試験の翌日、江口さんに呼び
出され、開口一番「役員を説得するのに苦労したよ」と叱られた。足を組んで面接を受け
た話は、その後数十年間江口さんに言われ続けることになる。当時のマスコミ試験は、「局
長クラスのコネとある程度の試験の成績」が必要といわれた時代でもあった。
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第2章
最初の仕事は週刊英字紙の「毎日ウイークリー
25~29 歳)
最初の仕事は週刊英字紙の「毎日ウイークリー」
週刊英字紙の「毎日ウイークリー」 (25~
●仮入社で 10 月から仕事を始める
毎日新聞社への入社は 1973 年(昭和 48 年)4 月と決まったが、私を含め既卒業の数人
は前年の 10 月から出社することになった。私の最初の配属は Mainichi Daily News を発行
している英文毎日局。サラリーマン初の仕事は、毎日ウイークリーの営業業務だった。
毎日ウイークリーの版型は、新聞紙(ブランケット版)の半分のタブロイド版 16 ページ。
「辞書なしで英語が気楽に読める」がキャッチフレーズで、各ページには難しい単語や熟
語の訳を掲載。主なターゲットは、高校、大学生や若い OL などの 20 歳代の社会人。
高校や大学に直接の営業を行ったことで、最盛期には 2 万部以上が高校などの副教材とし
て採用される。競合紙には、ジャパンタイムズ発行の「スチューデントタイムズ」(発行
数万部程度)があったが、毎日ウイークリーは創刊 2 年半で倍近い 16 万部を超える発行
部数を達成するなど、事業的には大成功を収める。
私は、毎日ウイークリー創刊のために大阪から乗り込んできた江口部長一派と一緒に仕事
をすることになる。与えられたミッションは、学生の販売部隊を編成し、翌年の 2 月~4
月の 3 か月間で 2 万部を拡張(販売)すること。学生時代に「学生会」を組織してその幹
部をやっていた私にとっては、容易いことだった。
学生時代は、授業料や下宿代稼ぎと社会勉強を兼ねて多くのアルバイトをやっていたが、
そのうちの 1 つが英字新聞の拡張だった。販売の対象は大学の新入生。合格発表や入学式
の際、日本で一番古い英字新聞である Mainichi Daily News を 1 ヵ月間だけ試読させるの
が主な仕事だ。私のアルバイトの中でもこの収入は、欠かせないもので、3,4年生の時
には 2 ヶ月で 30~40 万円は稼いでいた。当時のアルバイトは日当 800 円程度。授業料と
生活費に使っても十分おつりが来る金額だった。
当時英字紙の業界では、ジャパンタイムズ、朝日イブ二ングニュース、ザ・デーリー読売
などが競合紙として売られており、毎日の発行部数は数万部程度だったと思う。我々学生
会は 2 月中旬から 4 月の中旬の拡張で2万部前後を拡張するので、5 月時点での部数は一
挙に 1.5 倍程度に膨れ上がる。その後毎月数千部単位で減るが、1 年後には 1,000 部程度
が残っているような状況だった。同じ学生拡張団を持つ朝日も読売も同様の商売をしてい
た。「新聞はインテリが作ってやくざが売る」と言われていたが、まさに学生会は“やく
ざ”まがいの商売をしていたのかもしれない。
この学生会は、関東の主な大学の学生で構成され、毎年 100 人規模で活動していた。こ
のうち中核を成していたリーダー役の 10 数人とは、いまでも年に1,2回程度の飲み会
をするなどの交流があり、その後の仕事上の強力な支援部隊ともなっている。
●学生会の販売数だけで2万部超を達成
学生の販売部隊は 2 つ作られた。当面の販売対象である高校生に対してはウイークリー
班、大学生の新入生には、学生会が当たることになった。
ウイークリー班は主に二部の学生7、8人を中心に組織。年間を通して全国の高校や短大
10
の英語教師に対し、授業で毎日ウイークリーの使用を勧めるキャンペーン部隊。
対して、学生会は千代田区竹橋のパレスサイドビル内に事務局を置き、こちらは、従来の
毎日デーリーニューズの拡張グループと、毎日ウイークリーを拡張する 2 グループで編成。
総数 150 人以上に膨れ上がった学生アルバイトを 10 人近くのリーダーが取り仕切る仕組
みだ。
リーダーの 10 人は、すでに拡張経験2、3年のベテランばかり。ほとんど基本的な指
示を出しておけば、期待通りの部数を挙げる組織に育っていた。毎日ウイークリーの当面
の目標部数は 2 万部。拡張の対象を大学生だけでなく高校の新入生に広げたところ部数が
一挙にアップし、総数では軽く2万部を超えてしまった。高校生は学校がやっているもの
だと勘違いするケースが多く、1 高校で入学者の 8 割近くが申し込むような状況が出てし
まい、慌てて高校生対象の拡張をやめさせる事態になった。
●漢字出力による発送システムの開発
毎日ウイークリーが成功した要因の 1 つに、メールによる発送システムがある。新聞社
は販売店という強力な配達網を持っているのだが、逆にこれがあるためにほかの新聞を読
んでいる人に対してのアプローチが難しい点がある。駅売りという即売スタイルもあるが、
安定した定期読者獲得には繋がらない。
そこで、毎日ウイークリーは当初から読者への配達方法として、①新聞販売店、②駅売
り(即売)、③メールシステムによる発送を考えていた。ピーク時には、16 万部の発行の
うち 3 割弱に当たる 4 万数千人のメール購読者がいた。メールシステムがなかったら、そ
れほど大きな部数の発行にはならなかったのではないかと思う。
このメールシステムは、発送業者に外注をしていたが、幾つかの弱点があった。業者は、
申込者ごとにカード型の原版をつくり、回転式のガリ版方式による印刷方法で宛名を封筒
に印刷する。その後、3,6、12ヶ月の定期購読申込みに対して、手作業で請求書を封
筒に入れる仕組みになっていた。ところが、この請求書は購読者の申込期日によって、微
妙にタイミングが異なるため、請求書を入れる作業が困難を極めた。
かなりの入れ間違いが生じていた結果、入金がなかなかされないという弱点があった。ま
た、中途解約があってもすぐに止めることが難しかった。
そこで、毎日新聞社のシステム部が中心になり、電算システム会社に外注して、コンピ
ュータによる発送システムを導入する。だが、これも問題があった。宛名の印刷がカタカ
ナなのである。後で知ることになるのだが、当時の郵便局は漢字宛名だと宛先不明であっ
ても最低 2 回は住所を探してくれるが、カタカナ宛名は 1 回の配達で不明だと、宛先不明
で戻すという暗黙のルールを適用していたのだ。この不着率が1,2%あったので、毎週
400~500 通宛先不明で戻ってくるのだ。このため、苦情の電話が毎日、数百件単位でかか
ってきたため、最後は内勤の女性が泣き出すような状況だった。
何とか改善策はないかと、日本語の宛名打ち出しができるシステムを検討するが、当時
はまだ漢字システムの事例はなく、どこに当たっても断られた。そんな中、1社だけ漢字
システムの開発を受けてくれる会社が見つかった。悪戦苦闘した結果、開発には 1 年近く
の期間を要したがなんとか漢字による宛名出力と請求システムを完成させる。しかも開発
費0円でというのが私の自慢でもあった。
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この漢字システムは、34 年前の当時(昭和 50 年頃)としては画期的で、その後行政の住
民登録用としても使われるようになる。ソフト開発会社から後で聞いた話では、「開発費
の数倍は儲けさせてもらいました」とのことだった。
この時に1週間開発会社に泊まりこんでソフト開発をした経験が、10 年後の週刊将棋新聞
の発送システムや 15 年後のパソコン雑誌の創刊のときに生かされることになる。
●毎日コミュニケーションズの創設
毎日コミュニケーションズの創設
私たちに与えられた最終的なミッションは、英文毎日局の赤字を黒字化することだった。
毎日ウイークリー創刊もその一環だ。英文毎日局は残念ながら Mainichi Daily News を発刊
した大正 11 年以来、赤字セクション。それでも本体の毎日新聞が勢いのあった 1960 年代
までは、社会事業という位置づけだったので問題なかった。ただし、1970 年代になって、
本体そのものが危うくなると、そうはいっていられなくなった。
働いている私たちも、自分たちの稼いだお金で給与をもらいたいとの想いが強かった。
そのために、英文毎日局というセクションにはこだわらず、大阪万博での額絵の販売、ゴ
ヤ展、毎日ウイークリーの創刊、手漉和紙大鑑の発行などなりふり構わず、「新規事業で
稼ぐ」というのが、江口さんの方針でもあった。ただし、新聞社には定款があって行う事
業にも限界があった。
そこで、関連会社を作り、毎日新聞という名前を最大限生かして各種の事業を行う戦略
を練ることになり、プロジェクトが結成された。私も新人ながらその1員として仲間に入
れてもらう。その形となったのが、㈱毎日コミュニケーションズ(毎コミ)の設立だった。
当初の事業案は、TBSブリタニカの販売部隊、リトグラフ(版画)を扱う美術部、アル
バイトニュース的な媒体の発行を考えていた。そこにたまたま、就職情報誌を出している
会社からS氏一派が率いる就職部隊が飛び込んできた。どうせやるならこちらの方が面白
いと、就職情報部を立ち上げることになる。毎コミの設立日は、江口さんのこだわりもあ
って終戦記念日にあわせた昭和 48 年(1973 年)の 8 月 15 日に決まった。
●海外研修ツアー事業を立ち上げる
そして、その就職情報部隊と毎日ウイークリーが提携して事業化したのが、海外研修事
業だった。発想は単純だ。大学 3 年生向けの就職情報誌に申込はがきを付け、加えて自社
媒体の毎日ウイークリーで宣伝をすれば、広告宣伝費はほとんど使わずに、数百人は簡単
に集まるだろうというのが当初の目算だった。
立ち上げは、就職部隊のS氏とT氏に私を含めての 5 人のスタッフ。S氏、T氏、柳沼
は通常の仕事を持ちながらの兼任業務。特に私は、毎日新聞社の社員でありながら毎日コ
ミュニケーションズの仕事をするために、両方に机をもっていた(これが後の上司との対
立を招くことになる)。
今から考えれば、なんのノウハウも経験もない中での無茶な計画だった。それでも幾多
のトラブルを抱えながら事業を支えたのは、スタッフのやる気だったように思う。旅行の
代理店としては、私がヒッピー時代に交流のあった旅行会社と手を組む。
英国の英語学校との交渉から事業は始まった。私とT氏は、英国の英語学校との交渉の
ため、英国に行くことになる。
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(英語学校との四苦八苦の交渉事やその後の英国ホームステイ2人部屋事件、米国UCL
Aでの滞在記、砂漠の中でクーラーが効かない地獄のバス旅行、ドライブインでの強盗事
件などは次の機会に書く予定)
●上司との対立
●上司との対立
最初から江口さんらと仕事をしてきたこともあって、ほとんど上司には事後承諾で仕事
してきた経緯がある。このことで、一度しっぺ返しを食らったことがあった。
あるとき、郵送読者からのクレームが担当役員のところに寄せられた。内容は、「請求ど
おり払ったのにまた請求書が届いた」というクレーム。すぐに、上司と担当者の私が呼び
出され、説明を求められた。私が請求システムの説明をしようとすると、上司が最初から
「ご無理ごもっとも」とコメつきバッタのように謝り始めた。何を説明するでもなく、何
も弁明すらせずにひたすら頭を下げるのみ。これにはさすがの私も口をあんぐりせざるを
得なかった。
そして、上司は部屋に帰ってくるなり、私を会議室に連れて行き「これで俺の点数が減点
された。どうしてくれるんだ」と怒鳴り散らす有様。このとき、サラリーマンの本音と悲
哀を見たような気がした。上司を哀れとさえ思った。
結局、これまで上司を軽視していた態度などの背景もあって、担当の仕事のほとんどを外
されてしまうことになる。ただ、この罰は私にとっては好都合でもあった。毎コミの仕事
に集中できるのと、余裕のある時間を利用して、以前から取得したかった自動車免許と、
英語のブラッシュアップのために学校に通うことができた。その意味では上司には感謝し
てもいいのかもしれない。
●将棋の名人戦が毎日に戻る
昭和 51 年、将棋名人戦が朝日新聞から毎日新聞に戻ることになった。きっかけは、名人
戦の契約金問題でもめたことだった。名人戦はもともと毎日新聞が昭和 10 年に創設した棋
戦であり、本来のところに戻ってきたとの想いもあったが、複雑な気持ちでもあった。
問題は、名人戦が朝日に移ったあとに創設された王将戦の扱いだった。結局、王将戦は
朋友のスポニチに掲載することになった。
将棋ファンとしては、2つの将棋の棋戦が毎日新聞かスポニチを読んでいる人しか見ら
れない点には不満があった。特に、名人戦は棋士全員が総当りする順位戦になっており、
年間で 600 局以上もある。この棋譜が埋もれてしまうのはあまりにも忍びない。
私は毎日新聞も好きだが、将棋ファンである。将棋界には将棋世界、近代将棋などの雑
誌があったが、いずれも月刊誌で、肝心の棋譜が掲載されるのは、3~4 ヵ月後。将棋フ
ァンとしては「なんとかしてほしい」というのが正直な気持ちだった。
最初に考えたアイディアは、週刊将棋新聞だった。このアイディアのベースになったの
が毎日ウイークリーだった。毎日ウイークリーの成功要因は、いくつかあったが、
①新聞の輪転機や紙はそのまま使えて制作費が安く済んだ
②販売店、即売、メール発送と販売網が充実していた
③新しいメールシステムが販路を広げた
英語を将棋のコンテンツに変えるだけで、その成功要因をそっくり使うことができる。
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これほどやりやすい事業はない。
ただし、実際にマーケットを調べてみると、将棋人口は確かに 1,000 万人を超えるのだ
が、文字媒体の発行部数が少ないことが分った。それに対して、囲碁人口は少ないのだが、
文字媒体(雑誌)の購読者は多い。雑誌を発行する視点から見ると、囲碁は成立しやすい
が将棋は困難が予想された。
そこで、囲碁・将棋新聞の企画となった。毎日新聞は、囲碁関係では本因坊戦を持って
おり、将棋界で言えば、名人戦に匹敵する権威のある棋戦。つまり、毎日新聞は将棋、囲
碁とも最高の棋戦を持っていることになる。これを利用しない手はない、というのが私の
気持ちだった。
早速企画書を作成して、日本棋院と日本将棋連盟に打診をしてみた。担当者のあたりは
悪くない。ところが、社内では上司があちこちの部署に企画書を持ちまわったことで、意
見が百出、結局この企画はうやむやのうちにボツになってしまった。
その後 1、2年ほどして、週刊紙スタイルのタブロイド版、24Pの「週刊碁」が日本棋
院発行で創刊される。これほど悔しい思いをしたことはなかった。週刊将棋は、8 年後の
昭和 59 年 1 月に日の目を見ることになる(週刊将棋発行までの経緯は後述する)。
新たにつくられた準備室では、将棋・囲碁新聞以外にもコンテンツを教育に代えたタブ
ロイド週刊紙「教育新聞」などが企画されたが、会社としてすでに新事業を立ち上げる状
況ではなくなっており、すべて計画倒れになってしまう。
このあと、私は自分のリセットのため英国への留学を計画することになる。
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第 3 章 1年間の英国(ロンドン)留学休職 (30 歳)
●リセットのため英国へ留学
自分のリセットのため英国への留学休職を決意したのは、丁度入社 5 年目(昭和 53 年)
の 30 歳のときだった。留学の目的は英国の生涯教育制度の研究だったが、この 1 年間の
留学期間中に経験をした出来事は、その後の私の人生に大きな影響を及ぼすことになる。
滞在中の主な出来事を思いつくまま列記してみると、
①ホームステイ先夫婦のハッピーリタイアメントの考え方にカルチャーショックを受ける
②英国の教師が語った「教育は投資である」という考え方
③女性英語教師からの相談で知る「階層が違うために結婚ができない」という英国の根強
い構造的階層社会の実態、
④日本からの語学研修の学生数百人の世話をする中で経験する各種の事件(盲腸による入
院、中学生同士のナイフによる傷害事件など)
⑤仕事でロンドン-パリ間を月に6往復、英国ホームオフィスから 1 ヵ月以内の退去命令
⇒ワーク・パーミット(滞在労働許可書)をもらうまでのホームオフィスとの戦い
⑥友人の英語学校の事業計画書を作成、英国の銀行から融資を獲得する
⑦古代遺跡を巡る中南米のヒッピー旅行は、その後の生き方に大きな影響を与える
ここでは、すべてを書くことができないが、ホームステイ先の 50 代夫婦がよく語ってい
たハッピーリタイアメントに価値観を置いた考え方。南米で出会ったベトナム戦争後に自
分の生き方を求めてヒッピー旅行を続ける帰還兵、ヒッピー宿で世界各地から訪れた若者
たちと夜遅くなるまで語り合った宗教論などは、私の人生観や価値観をひっくり返すには
十分すぎるくらいだった。少なくとも 50 歳以降の私の人生設計に対して大きな影響を与
えたのは間違いない。
●八方塞で一時は退職を決意
江口局長への直訴で、英文毎日局と新設の教育開発準備室のそれぞれに自分の机を持つ
ことができ、各種の新規事業の提案ができるようになったのは大きな収穫ではあった。だ
が、残念ながら会社の事情で新しい企画案が通るような状況ではなくなってしまった。
ダメ押しになったのが、書籍取次による毎日小中学生年鑑の不扱い(書店からの注文が
あっても本を流さない)だった。自分としては、全国 47 都道府県巡りで開拓した乾坤一
擲の勝負を賭けた出版販売の新規ルート開発(教科書流通ルート)だっただけに、この不
扱いは痛かった。結局、新規流通ルートで 4 万部の配本は実現できたものの、通常の書籍
取次ルートで来た「短冊」(注文伝票)に対しては、書店に書籍小包で 1 冊 1 冊を手作業
で直接郵送することになる。しかも、毎日新聞の出版局もほかの書籍への影響を恐れて、
書籍取次に抗議すらしない姿勢に大きく落胆をしてしまう。
当時の私の心境を振り返れば、将棋新聞、教育新聞の新企画の廃止⇒書籍取次による毎
日小中学生年鑑の不扱い⇒新しい事業ができない会社の厳しい状況=仕事に対するモチベ
ーションの低下⇒新しい活動の場を求めてのリセット、という流れになるのはやむを得な
かった。再出発を図るなら「原点に戻る」のが分かりやすい。学生時代からのテーマであ
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る社会教育の勉強のために、退社して英国へ行くのは自然な成り行きだった。
ところが、「辞めたい」と会社に伝えたときに「待った」が掛かる。上司から、「お前
には今まで大きな投資をしている。英国へ行くなら留学扱いにするから」と留意される。
●留学費用は関連会社との契約で確保
「帰国後の仕事まで放棄をすることはないだろう」と、会社からの留学の提案を受ける
ことにする。人事部からは、「帰国後は復職するという念書を書けば、給与の半分は出す」
といわれたが、縛られるのは嫌だったので、この提案は断り無給での留学を選択した。自
分としては、英国での生活費くらいは稼ぐ自信はあったし、給与の半分にはそれほど魅力
は感じなかった。
留学が決まってから出発までの3ヵ月が大変だった。留学の条件が、「受け入れ先の学
校の入学許可書」提出だった。本人は、辞めて行くつもりだったのでそんなものは用意し
ていない。ただ、創業時から関係していた毎コミの海外研修部(海研)では、語学学校と
の交渉も担当していたので、英国の語学学校のいくつかは顔が利いた。すぐに連絡をして
急遽、入学許可書を作成するように依頼して間に合わせた。同時に、英国の 6 ヶ月以上の
留学に必要な入国審査(エントリークリアランス)を申請する。
留学費用は、すでに毎コミの海研の担当者との契約で何とかなるだろうと踏んでいた。
契約の内容は、①夏休みと冬休みの期間、語学研修学生の世話係(ラウンドオペレータ)
をやる、②行きの飛行機代は、学生を引率する代わりに無料で提供してもらう。この契約
で大よその費用の目処はつけていた。
有難いことに、現地ではもうひとつの収入源を見つけることになる。日本から送り込ま
れてくる学生たちをキャッチするため、ロンドン―パリ間を1シーズン6、7回往復した
のだが、この往復の費用は通常の航空運賃(4、5 万円)が請求できた。実は英国には、
ロンドンーパリ間の列車利用に「3day ticket」という格安のチケットがあり、私は毎回
これを利用して数千円で往復することができた。この差額だけでも馬鹿にならない額にな
った。さらに、語学研修と一緒の便で同乗してきた自由旅行者グループ(往復の航空チケ
ット+ヨーロッパを周遊できるユーレルパス)の中には、帰国便を使わない者がいて、こ
のチケットの売買もかなりの収入になった。
ラッキーだったのは、契約が日本円の支払になっていたことだ。私が英国に留学後、円は
ドル、ポンドに対して大幅な円高となった。円の振込額は変わらないのだが、ポンドに換
金をすると、当初予想の1.5倍程度に銀行口座の預金高が膨れ上がった。
更に嬉しかったのが、英国の預金金利だ。当時は、預金しているだけでも 12~15%程度
金利が付いた。200 万円預けていれば、24~30 万円程度の利息が付く。しかも、銀行の口
座には毎月利息が入るので複利運用もできたわけだ。
●出発直前に難題が課せられる
ただ、この添乗に便乗しての飛行機代ただ乗り作戦は、引き換えに大変な局面に遭遇す
ることになる。引率する学生は 20 数人だったが、彼らのホームステイ先は全員が純粋な
英国人家庭ばかりではなかった。ところが、募集時の説明では、あかたもそうであるかご
とく説明をしていたのだ。私は、この事情を出発直前になって担当者から伝えられた。
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これには正直参った。しかし、いまさら出発を止めるわけにもいかず、ロンドンに着く
前に彼らに伝えなければならない。うまく伝えられないと、トラブルになる可能性が高い。
そこで、一計を案じることになる。リーダー的な存在になりそうな学生 2 人をピックアッ
プ、東京―ロンドンの飛行機の中で私のシンパにして、何かあった場合でもほかの学生を
抑える戦略を練る。幸いに利用した飛行機は南回りでロンドンまでの飛行時間は 20 時間
近くある。この間、2 人の学生にはできるだけ接触をしながら英国の情報を提供するなど
便宜を図り手懐けていった。この作戦は、これまで幾度となく学生の語学研修ツアーの添
乗経験から得たノウハウでもある。
ロンドン・ヒースロー空港から英国南西部のリゾート地・ボーマスの学校までは、約 3
時間のバス旅行になる。このバス旅行が勝負だ。バスの中で、学生たちには英国の事情を
できるだけ詳細に説明をした。英国連邦(英国のコモンウエルス)の話をすることで、実
は英国はアングロ・サクソン人だけの国ではなく、インドやアフリカなどの国々の人も英
国に移民をしていることなどを理解してもらう作戦だ。学生たちは、緊張もあったのだろ
うが、私の話を真剣に聴いてくれ、当初の目的はそれなり果たせたと感じていた。
学校に到着後は、学校での簡単な入学手続きをしたあと、学生全員を再度バスに乗せて
学生 1 人 1 人をホームステイ先まで直接連れて行くことにした。これで、学生はいろいろ
なホームステイ先があることが理解できるはずだ。実際の英国の普通の家庭がどんなとこ
ろかも理解できるだろう。私の方は、直接ホームステイ先の受け入れ態勢を見ることで、
後日トラブルになったときにこの情報は役立つ。
翌日は、各家庭から学生 1 人 1 人が登校、クラス編成試験を受けることになる。一緒に
学校内で昼食を食べた時に、数人の学生がホームステイ先のホストファミリーについて話
題にしていたが、恐れていた事態までには至らずホッとする。
後の便以降は、私がヒースロー空港、またはフランスのシャルルドゴール空港で、日本
から送られてくる学生をキャッチし、そのまま手配したバスで学校やホームステイ先まで
連れて行くのが仕事である。この仕事は、7~8 月と翌年の2~3 月の計 4 ヶ月ほど続け
た。
英国は、もともと植民地政策として英語の語学教育が発達しており、英国の全土に外国
人向けの英語学校がある。毎コミと契約をしている学校は、ロンドン、オックスフォード、
ケンブリッジ地区のほか、ロンドンから電車で 1 時間の南部の保養地であるブライトン、
電車で約 2 時間のボーマス、南西部には電車で 2 時間 30 分のエクセターなどがあった。
●1 ヵ月以内の退去命令が出る(ホームオフィスとの闘い)
計算外だったのは、入国管理事務所の対応だった。さすがに、1 ヵ月のうちに5、6回
ロンドンーパリを往復していることに入国管理事務所の職員が疑問を持ったのだ。早速、
入国管理事務所の奥の部屋で、事情を聞かれる。私は必死で「日本の友人がパリにいるの
で」と弁明をするが、結局この反論は受け入れられず、最後はパスポートに1ヵ月だけの
ビザを押印される。
まだ、私としては英国を出るわけには行かない。ここは、英国の在住期間が長く、いろ
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いろな経験と裏ワザを知っているマック鈴木の知恵を借りるしかない。マックは、5 年前
の英国語学研修ツアーの企画で、英国の語学学校を回っている際に知り合いになった。
マックのアドバイスは、「とりあえず、ホームオフィスに異議申し立て書を提出しておけ
ば、その間はそれを盾に英国に居られるはずだ。その間に方策を考えればよいのではない
か」。英国では、正規の労働ビザを取得するのは難しいが、日本企業のエージェントとい
うことであれば在留許可(ワーク・パーミット)が取れる可能性が高いという。もちろん、
こんなことは社には頼めない。早速、日本で旅行代理店を経営する友人に連絡をして、私
が英国の市場調査のため英国でのエージェントになることの了承をもらい、すぐに証明書
の発行を依頼する。その事実証明として一番分かりやすいのは、日本から私宛に給料が毎
月振り込まれる形をとることだ。そこで、自分の手元にある預金を日本の友人の会社に送
金し、これを 10 万円単位にして、毎月振り込んでもらうことにする。
友人によると、やはり日本の英国領事館から友人の旅行代理店に私に関する確認等の調
査が入ったという。給与振込みの手続きをしていて助かった。ホームオフィスとは、その
後何度かのやりとりがあったが、やっとのことで在留許可を取得することができた。この
間の書類の作成は、悪戦苦闘の連続でかなりの労力を割かれた。これで、とにかく安心し
て英国に居られることになった。
あとで、英国の支社に来ている人に聞いた話では、通常は英国ホームオフィスの手続き
等は、弁護士に任せるのが普通だといわれた。人というのは、必死になれば、自分の能力
以上の力を発揮できることを、実感を持って知ることになった。
●英語学校の事業計画を作成する
当時マック鈴木は、オーストラリア人の女性と結婚をしていて、オーペアの紹介業や旅
行代理店をやっていた。彼は自分で英語学校を持つのが夢だった。
マック鈴木は、自分のセミデタッチ(一棟二軒住宅、英国の中流家庭の典型的な住宅)
の家を担保に銀行から融資を受ける計画だった。ただ、マック鈴木は5年近く英国で仕事
はしていたが、銀行から融資を受けた経験はなく、私に相談をしてきた。もちろん、私と
て英国の融資制度自体は知らない。ただ、学生時代に仲間と会社の設立準備をしたときに
銀行の融資制度を勉強したことがあった。また、毎日ウリークリーの予算管理や販売計画
等は自分で立てていたので、そのポイントだけは知っていたつもりだ。そこで、日本式で
はあるが、英語学校の事業計画案つくりをすることになる。
私の作成した事業計画は、毎日ウイークリーの販売計画とほとんど同じやり方だった。
ウイークリーの郵送契約は、3、6、12 ヶ月の3タイプ。この契約が引き続き再契約がで
きる見込みを 7 割として、再契約ごとに部数が落ちる計画を作っていた。当然、それを補
うための販売計画も一緒に立てて、新規読者を増やなければならない。英国の学校の学生
募集でもまったく同じ形式で事業計画案を作った。
この事業計画は見事成功、英国の銀行から融資を引き出すことができた。英国の銀行担
当者の話では、3 ヶ月契約で入学した生徒が、再契約時に 3 割程度落ちることを前提にし
た事業計画案を評価しての融資だったという。
この英語学校の設立では、地下鉄での学校案内のポスター貼りから、マック鈴木が中近
東へ学生募集で出張したときには、校長代理まで務めることになる。
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第 4 章 中南米「古代遺跡」を巡る
中南米「古代遺跡」を巡るヒッピー旅行記
「古代遺跡」を巡るヒッピー旅行記
(31 歳)
滞在中、英語の勉強のためにYMCAに通っていたのだが、同じクラスで勉強をしていた
Jorge(ホルヘ)との出会いが、中南米の遺跡巡り旅行へのきっかけだった。
彼はコロンビアで弁護士をしていたが、英国での弁護士を目指し夫婦でYMCAに滞在し
ていた。年齢が 30 歳と同じだったこともあって、よく一緒に食事をした。そのときの主な
話題は古代遺跡の話しだった。特に、私はインカ文明に興味があった。
話をしているうちに、段々古代遺跡への興味が湧き、とうとう学校がイースター期間(ホ
リデイ)になるのを契機に、中南米への旅行を決意する。奇しくも英国は、労働党のキャ
ラハン政権が保守党のサッチャー政権に変わる 1979 年 5 月に英国を出発する。
●1 日千円の旅
問題は旅行資金だった。手持ち資金は約 35 万円程度。急に思い立ったので、中南米国のビ
ザは取る時間がない。当時、多くの中南米国が軍事政権下にあったので申請をしても取れ
る見込みは薄かった。出たとこ勝負で行くしかない。ただし、ノービザで入るからには、
リターン(帰国)チケットを持っていることが最低条件になる。航空運賃は、ロンドンか
らマイアミ経由のスタンバイチケットを利用してもペルーまでの最安値の航空券が 5 万円、
ロスアンゼルスからのリターンチケット代が 7 万円で計 12 万円。残り 23 万円が旅行費用
ということになる。途中の移動の交通手段は、できるだけヒッチハイクを利用したとして
も最低限7、8 万円は必要だろう。となると、最低 3 ヶ月間宿泊代を含めて 1 日 1,500 円
見当でやり繰りをしなければならない。このときは、資金が尽きたら帰国すればいいだろ
うという安易な気持ちだった。結局、3 ヵ月後の 7 月に日本に帰国したときには、お土産
も幾つか買ったうえ数万円余っていたのだから移動費込で 1 日千円程度で旅行したことに
なった。
今回は、インカとマヤ、アステカ文明の古代遺跡を中心に回る計画を立てた。中南米の
公用語であるスペイン語は、ゴヤ展のときにブロークンで使った以外にはほとんど知らな
かった。そこで、友人の Jorge に 1 週間即席でスペイン語講座を開いてもらい、最低限生
活をしていくうえでの必要な言葉を覚えた。宿も、
1 泊 300~500 円程度が目安になるため、
ヒッピーがよく利用していた「along the gringo」の旅行書を買い求める。この書籍は、
当時若者に人気があった旅行書「1 日 10 ドルの旅」と同様に、実際に中南米を旅行した若
者たちの口コミ情報で作成されていた。私にとっては旅行中のバイブルとなった本である。
●世界の若者との出会いが人生を考える契機になる
●世界の若者との出会いが人生を考える契機になる
この 3 ヶ月間にあった出来事を書き出したらきりがない。いま考えてみると、古代遺跡
の旅ではあったが、世界各国から来ている若者との出会いが、その後の人生の進むべき方
向性を示唆していたような気がする。
思い出すだけでも、ベトナム戦争からの帰国後、自分の信じる宗教(キリスト教)に疑問
を感じて夫婦で旅に出た若者夫婦。アメリカンドリームを夢見て偽造パスポートで米国へ
の入国を図る中南米の若者。その夢を餌に偽造パスポートを売りつける怪しい商売人。旅
行者を相手にコカイン(麻薬)の売買をする人。コカインの所持が見つかって 2 年間監獄
に送られた若者。1 ヵ月をニューヨークで働き、残りの 11 ヶ月をゆったりと南米で生活す
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る日本人の若者。南米の奥地までカヌーで入っていく大学の探検部。バイクや自転車で、
南米から北米まで 1 人で旅行をする若者たち、などなど。数え切れないほどの若者たちと
の出会いでは、生き方や宗教に関係する話が熱く語られた。それまで、どちらかといえば
宗教から距離を置いていた自分だったが、否が応でも深く考えなければならなかった。
●旅行で滞在した国は 7 カ国
この旅行は約 3 ヵ月間に及ぶのだが、主なルートを書いてみると、
ロンドン⇒マイアミ⇒リマ(ペルー)⇒クスコ⇒マチュピチュ⇒プノ(チチカカ湖)⇒
アレキパ⇒ナスカ(地上絵)⇒チャビン⇒リマ⇒キトー(エクアドル)⇒ボゴタ(コロン
ビア)⇒カリ⇒カルタヘナ⇒ガテマラシティ(ガテマラ)⇒ティカール(マヤ遺跡)⇒コ
パン(ホンジュラス)⇒ベリイズ⇒⇒ユカタン半島⇒チェチェンイツァ(マヤ遺跡)⇒ウ
シュマル(マヤ遺跡)⇒パレンケ(マヤ遺跡)⇒オアハカ⇒ベラクルス⇒メキシコシティ
⇒ロスアンゼルス⇒成田(日本)
通過した中南米国は、ペルー、エクアドル、コロンビア、ガテマラ、ホンジュラス、ベ
リイズ、メキシコの 7 カ国。主な移動手段は、飛行機、列車、路線バス、ヒッチハイク。
今回自分史を書くに当たり、自宅や実家の物置まで関係ある写真や資料を探し歩いた。そ
の結果、中南米の旅行中に、メモ書き程度に付けていた日記が見つかったので、この日記
を見ながら当時の状況を振り返ってみたいと思う。B5 ノートで 70pあるので、1 日あた
り 1p程度書いていた計算になる。その日にあった事だけではなく、宿代や食事代、バス
代などが書かれている。貧乏旅行だったので、家計簿代わりに付けていたのかもしれない。
(1979 年)5 月 14 日(月)晴 起床 7 時 30 分 <ナスカ(地上絵)> (31 歳)
(リマ(ペルー)⇒クスコ⇒マチュピチュ⇒プノ(チチカカ湖)⇒アレキパ⇒ナスカ
●空からナスカの地上絵を見る
昨日宿の人の話によると、銀行は 7 時から open だと言っていたが、少し早すぎる気もす
る。ただ、昨日の taxi driver が来ないうちに宿を出るべく顔を洗って 7 時 40 分頃にとり
あえず、荷物を置いて宿を出る。街中は既に賑やかになっているのには驚いた。銀行に行
ってみたが、案の定 8 時 30 分に開くとのこと。今日のバスを予約するため、昨日使った
tepsa の営業所を探す。Lima まで 800soles で出発は 10 時とのこと。(ナスカの地上絵を
見るための)Airplain の料金と出発時間を尋ねるため、Motel Monte Calro に行く。$25
ということが分った。この料金を聞いて一瞬躊躇してしまう。$25 あれば、5 日間の費用
に値する。随分と迷ったが、2 度と来ない可能性もあり後で後悔するのは嫌だったので、
Airplain に乗ることにする。この決断は、大正解だった。
Baneode la Nation で$50 を両替、先にバスの予約をする。予約をしている最中、例の taxi
driver が、「友人なんだ」と話しかけてくる。飛行場まで私が taxi を使うのを狙ってい
るらしい。そういえば、宿の若いのが「彼は crazy だ」と言っていたが、どうもそんな気
がする。今日は朝早くから歩いたせいか、腹がすき食堂を探す。一軒適当なところを見つ
けて入る。Bistek と野菜サラダ、 leche を頼む。野菜はまずくて食えない。ここのホス
テスは、なかなかグラマーで美人。どういう訳か私に興味を持ったらしく話しかけてくる。
ただ、残念なのは all Spanish で互いに意思が通じないのが小憎らしい。
20
飛行場まで taxi で 200 soles。受付で手続きを済ませるとすぐに飛ぶという。軽自動車の
社内よりも狭いと思われる小型機で、パイロット 1 人にお客が私を含めて 3 人(席数も3
つ)、ルーマニア人とスカンジナビア人。離陸は簡単ですぐに 200m上空へ向う。眼下に
は、いろいろな線に混じってアストロノウス、whale、コンドル、サル、鳥、花などが、南
北に走った直線の幾何学模様に混じってはっきりと絵が見える。
大地はどうなっているのか。上空からでは、明確に判別できないが、千年以上経って消え
ないところをみると、深く掘ってあるのか、気候のせいか何か要因がありそうな気がする。
一緒に乗っている外人は、写真を撮るのに夢中で、1 人は望遠レンズを駆使、もう一人
はカメラと 8 ミリを使って撮っている。私も 1 本 950 soles もする白黒フイルムで 36 枚全
部を撮り終わる。5,400 soles の価値は十分あった。
●ナスカ平原で親子のミイラを発見
降りると同時に、のどが渇いているのに気付き、レストルームでコーラを飲む。しかし、
なんと、ここでもまた同じドライーバーに会う。Cementorio(お墓)とか何とか言ってい
るが、最後にセニョリータという言葉が出てきたので、売春ではないかと勘違いをして断
る。しかし、スペイン語が通じないとみると今度はさっき飛んでくれた小型飛行機のパイ
ロットを連れてきて、Cementorio へ一緒に行くことを口説いてくる。最初は 1,500 soles
と言っていたのが、だんだんと値引きをして 500 soles で Cementorio(お墓)まで行って、
そのまま街まで帰るという。500 soles であれば損はないと判断し一緒に行くことを了承、
タクシーにはすでにフランスの女性が 2 人乗っていた。車中、彼女たちに英語で話しかけ
ると、1 人がよく英語を話すので一安心する。とにかく、英語がこれほど有難いものだと
は思わなかった。(中略)
village を出発して約 10 分、砂漠の真ん中で停車、ここから歩いて行くという。周り一
面は砂漠(目算では4,5キロ㎡ほどの広さ)で、遠くに少し緑が認められるくらい。一
体ここに何があるのか。想像もできず、とにかくドライバーの後を付いて行く。そこには、
何と人骨、頭蓋骨が当たり一面に散らばっている。色は、真っ白で遠くからでは本物なの
か、偽物なのか識別できない。ドライバーは、そばにあった長い髪の毛を持ち上げ、スペ
イン語で説明をする。それを隣のフランス人が英語で通訳をしてくれる。「これは宗教上
の理由と sun からの直接頭を守るために長くしている」のだという。それにしても 1,500
年以上経っているのに、ほとんど現物のままで置いてあるのは本物なのかどうか疑わしく
感じられる。そういえば、車の中でドライバーが 2 年以上ここは雨が降っていないといっ
ていたのを思い出した。それにしても写真を Nazaca の地上絵で全部使ってしまった。仕方
がないので簡単なスケッチを描く。
それにしても夥しい頭蓋骨と人骨の山で、皆露出しているわけではないが、確認できる
だけで相当なものだ。ほかに着衣と思しきものや、紐のようなものが当たり一面に散らば
っている。女性 2 人はそれぞれ別行動を取って好き勝手な方に歩き出す。私はドライバー
に引きずられるまま歩く。途中土器の破片で模様の入ったものを2,3個拾う。「もって
いってもいいか」とドライバーに聞いて見ると、「黙っているから、その代りお金をくれ」
という。随分と現金なものだ。誰も見張っていないのだからもちろん、もっていっても分
21
からないわけだ。それにしても直射日光をダイレクトに受けているので暑い。ガイドブッ
クに「南米で、帽子を被らず直射日光の中に出て行くのは crazy dog だ」と英語で書いて
あったっけ。
ドライバーは、途中布を拾ったらしく、片手に持ちながら先へ先へと歩いていく。どこ
まで行っても同じような気がして引き返し始めると、ドライバーが一緒に来いと手招きを
する。別に帰ってもどうすることもないので、また歩き始める。2,3分歩いたところで、
ドライバーが立ち止まった。追いついてみると、何と(こんな言葉くらいしか表現できな
い)ミイラが土の中に座っている。それも頭には帽子らしきものを被り、膝には小さな骸
骨を抱いているような形で、ほぼ完全なミイラだ。こんな貴重なものを誰もいない砂漠の
中に置いておくなんて、とても信じられない。さしずめ日本なら間違いなく大発見のニュ
ースになるはずだ。よく見ると、周りに土器や着衣のようなものがあり、老婆のような気
がする。ドライバーは、女性で子ども(バンビーノ)を抱えているのだと説明している。
写真がないので、これも簡単にスケッチをするが本当に写真を持っていなくて残念だ。
遠くにいる女性にも知らせたいが、いくら叫んでも遠すぎて聞こえない。仕方なく、途中
まで引き返し、面白いものがあるからすぐに来るように合図をする。2 人は何のことか分
らず、道草を食いながらゆっくりと歩いてくる。そして意外にも見てもあまり驚いた様子
がない。私はスペイン語が話せないので、「どうして誰もこれを守らないのか」と、ドラ
イバーに聞いてくれと頼む。ドライバーは「お金のせいだ」という。これは、「インカで
はなく Nazaca people でたぶん、紀元前後の墓だろう」という。破片を持っていくこと
に対してはどう思うかと尋ねると、「ドライバーもああして持っていくのだから仕方ない」
と彼女は言いながら、彼女も長い紐のようなものを持っている。ドライバーの説明による
と、これらの紐はリャーマや羊などを追うのに使ったということだった。
周辺を探したが、同じようなミイラはなかった。しばらくそこで過ごした後、車まで戻
り centro Nazaca へと出発する。それにしても、こんな状態で放置したままにしているの
は信じがたい。古代遺跡などを研究している者には、宝以上のものに違いない。それが、
私のような観光客が物見高に来て、いろいろと持ち帰っているのだろう。ただ、ここはま
だあまりポピュラーなところではなく、そんなに荒らされていないのが救いでもあった。
彼女たちのホテルの前でタクシーを降り、1,000 soles を払うと、300 soles しかお釣り
をくれない。「アミーゴ、アミーゴ」といってなかなかくれない。昨日宿までタダで乗っ
て、ノーチップだったし、今回のタクシーで動いた距離を考えれば、700 soles はどう見
ても安い。また、Cementorio(お墓)は行った価値が十分あったので 300 soles をもらっ
て諦める。(中略)
◇沖縄出身の食堂の主人から情報収集
夕食を映画館の前の食堂で食べる。10 時まで大分時間があるのでコーラを飲んだり、日
誌を書いたりして粘っていると、この店の主人が日本語で話しかけてくる。沖縄出身の大
城さんで、19 歳くらいの時に当地にやってきてすでに子どもも大きくなり、本人は 70 歳
になるという。いままで、いろいろな日本人、特に女性が来ているようだが、多くの人が
大城さんにお世話になっている様子だった。ある人は、有り金全部を Nazaca でバスを降り
た瞬間にすべて盗られ、10 日ほど大城さんのところにやっかいになった者。あるいは、オ
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ートバイで旅をして病気になり、病院の世話までしてもらった者。自転車旅行で、アメリ
カ 200 年記念サイクリングに日本代表で出席して、行方不明になった者。渥美清が撮影に
来た話、日本の領事、大使館関係の小学 3 年生 25 人が来た話、日本の多くの女性は大金を
もって旅行している話(300~400 万円を持っている人が何人もいたという)。長女がアメ
リカの大学で学びながらペルーで自動車事故でなくなった話。お母さんが 95 歳で健在、家
族は lima で生活しているが、自分は 1 人で Nazaca にいるので寂しい。来年は家族と一緒
に lima で暮らしたい。日本には、次女が住んでいて、長男(孫)がいま 17 歳だが、4,
5年したら本人も希望しているので、日本に行かせたい。また、18 年前に早稲田大学の調
査隊 10 人ほどが来て、いろいろと手伝った話、そのほか、食堂のご主人にお世話になった
日本人は数え切れないほどいるようだ。ジュースをご馳走になり、事務所でまた話し込む。
結局、夜の 10 時頃まで 3 時間ほど話す。
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第5章 人生の転機となった静岡支局時代
(31~
31~34 歳)
静岡支局に勤務した 3 年 10 月は、私の生き方の中でも大きな分岐点の1つになった。
仕事的には、その後の仕事のベースになる編集の基礎が学習でき、人生中盤戦以降の方向
付けを確固としたものにした。また、家族 3 人の絆がしっかりと結ばれたときでもあった。
支局がある静岡市は、北へ車を 10 分飛ばせば南アルプスの山や温泉に行き着く。また、
南に車を 10 分走らせれば、石垣イチゴで知られる東照宮久能山や用宗海岸の駿河湾に行
ける。一方、東には富士山や伊豆半島、西にはお茶所の川根や井川、遠州灘が一望できる
浜松・中田島の砂丘や浜名湖、舘山寺に行ける。全県が観光地と云ってもいい。
私たち家族は、土日ともなると、家族 3 人でドライブに出かけるのが常だった。これほ
ど家族が一緒に行動したことはなかった。後にも先にも静岡時代だけだ。留学が単身だっ
ただけに、余計その感激が大きかったのかもしれない。いまでも家族の間で静岡の話しに
なると、「静岡は楽しかったね」という感想が出るほどだ。
心に残る人との出会いもあった。人生の恩師となる安田デスクをはじめ、記者クラブ、
支局の仲間と一緒に仕事や遊びで過ごした日々は、今でも懐かしく思い出される。また、
県警、市政、県政クラブで遭遇した幾多の事件や事故、経済・政治関連の事案を通じて、
社会の仕組みだけでなく、その裏側で繰り広げられる人間模様などを知ったことは大変勉
強になった。
●マッチポンプ取材
あるとき、静岡市内の食糧(農政)事務所を巡っての汚職事件の内偵情報が入る。容疑者
(被疑者)はおおよそ見当が付いている。あとは、どんな容疑で、いつ逮捕されるかだ。
すぐに捜査二課長のところに夜討ち、朝駆けをするが、もちろんそう簡単に言うはずがな
い。県警の特捜が動いているので、なかなか動きがつかめない。支局総出でそれぞれのネ
タ元に取材をかけるが、なかなか有力な情報が出てこない。こういう状況下で、我々がよ
く使う手が“マッチポンプ取材”だ。
捜査二課ものは、警察発表があるときはすでに捜査が終わっているとき、内偵の段階で
捜査内容を押さえないと核心の記事は書けない。こういうときには、どうするか。有効な
のがマッチポンプ取材だった。
直接捜査をしている警察官は口が堅い。ではどうするか。直接関係のない部署の幹部に当
たるのだ。警察は縦社会、直接事件には関連がなくても、幹部会議やサツカン(警察官)
仲間内の話で、意外に知っているのだ。雑談で少しネタをふると、「そうらしいな」とい
いながら、関連情報を提供してもらえる場合がある。このネタをまた別のサツカンにぶつ
ける。すると、また新しいネタが仕込める。これをあっちこっちで繰り返すのだ。つまり、
最初は小耳に挟んだネタでもあっちこっちでこの情報をキャッチボールするうちに、情報
を雪だるまのように大きくしていく取材方法がマッチポンプ取材だ。
途中、事実関係を確認するため捜査二課長や刑事部長の家を夜討ち朝駆けで確認する。口
は堅いが、間違っていない場合は否定しないケースが多い。大事件のときは、最後は本部
長のところで念押しをする。本部長に夜討ちをかけると、必ず次の日秘書課の広報官が事
情を聞きに来る。つまり、本部長への夜討ちは警察関係者に知れ渡るので最後の切り札に
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しか使えない。
●張り込みに失敗
県警や所轄警察署の動きがおかしい。いよいよ汚職事件の捜査が大詰めを迎えたようだ。
私は、毎日所轄の警察に通ってサツカンの動きとサツカンの勤務表に注目した。容疑者(被
疑者)を引っ張るときは早朝が多い。特に、子どもがいる家庭では、子どもたちに配慮し
て子どもが起きる前の早朝に引っ張るのが常識になっている。当然、サツカンの勤務体制
もその日だけは特別勤務体制に替わる。
所轄の幹部で仲のいい人がいて、この家にはよく夜討ちをかけた。新しいネタは提供して
もらえないが、裏付けを取るのには重宝した。この感触からも逮捕は近いと確信する。こ
れは禁じ手なのだが、捜査情報を得るために、参考人から事情を聴取している部屋の隣の
部屋に忍び込んで、情報を取ったときもあった。
あるとき、勤務表がいつもと違っている。これは何かあるぞ、と直感した。支局に戻ると、
捜査班の関係者をネタもと(情報源)にもつ支局員から「Xデイ(逮捕)は明日の朝」と
いう情報が入る。深夜県警幹部に裏付けを取るが明確には否定しない。「間違いない。X
デイは明日だ」。支局ではデスクと相談して翌日の朝刊で「○○逮捕へ」という記事を書
くことになった。ただし、あまりに正確な記事にすると、ネタもとがばれる危険性がある。
そこで、私はわざと被疑者の住所を間違った住所にして記事を書いた。
夜明け前に、容疑者宅から少し離れた道路に、支局車を停め張り込みを開始する。すで
に、テレビ局 1 社と新聞社 1 社らしき車が見える。やはり、逮捕は間違いない。
すでに夕刊に送る原稿は予定稿で書いてある。あとは、逮捕時間や逮捕時の雑感を入れれ
ばすぐに完成できる。問題は写真だ。どうしてもサツカンが容疑者を連行する写真を撮り
たい。ただし、警察の捜査を邪魔するわけにはいかないので、少し離れたところから写真
を撮ることになる。カメラには望遠レンズを付けて用意した。
午前6時丁度に、どこかに待機をしていたサツカンが数人、容疑者の家に入る。どのくら
いの時間が掛かるのかはわからない。その間、各社とも息を潜めてその瞬間を待つ。
玄関の戸が開いた。それが合図のように、テレビカメラマンが容疑者目掛けて突進する。
私は遠くから写真を撮る予定だったが、テレビが前に出たからにはじっとしているわけに
はいかない。すぐに車から飛び出し写真を撮りに行く。テレビが邪魔をして写真が撮りに
くい。望遠レンズを取る時間がなく、付けたまま撮ることになった。これが大失敗だった。
あまりにも近づき過ぎて、顔がほとんど飛んでいた。「ボケていて使えない」と感じた
ときは後の祭りだった。結局、写真がないということで、夕刊には記事も掲載されなかっ
た。翌日の朝刊にほぼベタ記事扱いで、逮捕された事実だけが掲載された。
●死者数 15 人、負傷者 223 人の静岡駅前ガス爆発
人の静岡駅前ガス爆発事故
静岡駅前ガス爆発事故
昭和 55 年(1980 年)8 月 16 日、静岡駅前のガス爆発事故が起こる。私がガス爆発事故
の一報を知ったのは、夏の甲子園野球大会で浜松商業高校の取材をしているときだった。
テレビでしか事故の状況は分からなかったが、爆発事故で取材記者を含め多数の死亡者や
かなりのけが人が出ている大事故であることだけは理解できた。このガス爆発事故は、私
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が支局勤務をしている中では最大の死者数を出した事故だった。
当時、県警のキャップをしている身としては、すぐにでも駆けつけなければいけない事
故だが、甲子園の野球取材をほったらかしにはできず、歯がゆい思いであった。様子を知
ろうと夜、支局に電話を入れた。取材陣のけが人は、NHK のM氏と、テレビ静岡のA氏
であることが分かった。いつも県警の記者クラブで一緒にレクチャーを受けたり麻雀や花
札をして遊んでいる仲間だけにその安否が気になった。毎日新聞は幸いにして到着したの
が、二次爆発の後だったのでケガはなかった。
ガス爆発は2回起こっていた。1回目は 9 時 26 分、2 回目は 30 分後の 9 時 56 分。原
因は、1回目がビル地下の床下湧水槽に溜まっていたメタンガス、2回目は都市ガス管か
ら漏れた都市ガスによるもの。この爆発事故で、4 階建ての駅前第一ビルに入居していた
136 店舗と 27 住宅が全半壊。駆け付けた消防署員や通行人 15 人が死亡、223 人が負傷す
る大事故だった。
その後は、出火原因と爆発原因の特定を巡っての取材合戦が繰り広げられることになる。
連日、ガス会社はもちろん、警察の科捜研、静岡大学でガスなどを専門とする教授、消防
署、県警・所轄警察署などに多数の取材人が押しかけ、大騒ぎになった。この事故以降、
県警クラブは、いつもは会見用の大机で花札や雑談をしたり、仮眠室にある麻雀台を囲ん
でいる記者が必ず数人いたが、数ヶ月ほどまったく見かけなくなった。
ガス爆発で大きな被害を被ったビルオーナーや被害者、遺族ら 44 人は都市ガスの責任者
であるガス会社を相手どって総額 27 億円にのぼる損害賠償請求訴訟を起こした。
●「記者の目」でガス爆発事故
記者の目」でガス爆発事故の検証記事を書く
」でガス爆発事故の検証記事を書く
事故から 1 年後の 8 月、静岡駅前ガス爆発事故1周年を控えて、本社から「記者の目で何
か書けないか」という連絡があった。本来なら事故当時現場にいたN君が書くところだが、
なぜか県警キャップの私にお鉢が回ってきた。与えられた時間は 1 日だけ。何にポイント
置いて書くのか考え込んでしまった。
実は、この事故を取材する中で疑問があったのは、事故の要因となったガス管だった。
ガス会社の説明では、ガス管は通常 50 年はもつという。ところが、事故後に掘り出され
たガス管は、埋設後 16 年しか経っていないのに、さび付いてぼろぼろだった。事故後掘
り起こしたガス管からは、腐食してできた穴 4 箇所(幅4~6 ミリ、長さ1~3センチ)
が発見された。いずれも触ると、穴の周りがぼろぼろとはがれてしまうような状況だった。
これは、このビルだけの問題だけではない。大げさに言えば、日本国中のどこでもあり得
ることなのではないか。そこで、「記者の目」では、「腐食野放しのガス管、耐用年数の
設定を急げ、ガス会社まかせは疑問だ」という記事を書くことにした。
以下は、「記者の目」のリード部分の記事内容。(昭和 56 年 8 月 11 日付毎日新聞)
昨年 8 月、死者 15 人、重軽傷者 223 人を出した国鉄静岡駅前のガス爆発事故から 1 年。
この大惨事は、ガスによる都市災害の恐ろしさを見せつけたと同時に、もう 1 つのショッ
キングな事実を浮き彫りにした。事故直後にわかったことだが、爆心地付近に埋設してあ
26
ったガス管(導管)が腐食してボロボロになっていたのだ。1
ったガス管(導管)が腐食してボロボロになっていたのだ。1 年間の取材を通じて、私は
ガス管には特に耐用年数が決まっておらず、その管理はすべてガス会社にかませられてい
ガス管には特に耐用年数が決まっておらず、その管理はすべてガス会社にかませられてい
る実態を知った。もちろん法律上の規制もない。戦前に埋設したガス管が今も使われてい
る。地震について過敏すぎるくらい恐怖心をもつ私は、「もし今、東海大地震に襲われた
ら・・・」と、底知れぬ不安にかられる。毎日、“時限爆弾”の上で生活しているような恐
ろしさだ。事故 1 周年を機に、もう一度「ガス管は本当に安全なのか」を改めて検証して
みたい。
ガス会社ははっきりとは言わなかったが、ガス管に穴が開いても周りの土が穴をカバーす
るので、すぐには問題ないという考え方のようだった。幾つかのガス管を作っている会社
の研究所に取材をしたが、なかなか本質に迫るところまでは話をしてくれない。取材をす
る中で、聞いたことがなかった言葉に行き当たる。それは「電蝕」という現象だった。
実は、ガス管が腐る理由は、水による錆だけではなく、振動や電気が通じることによる電
蝕によっても腐食するというのだ。地中電流が流れたり、建物と地面の電位差の違いから
ガス管を伝って電流が流れたりすると、腐蝕がおこりガス漏れが簡単に発生するという。
ただし、通常、穴は小さく外部の土で塞がれるので問題ないのだという。
これまで、ガス管は耐用年数が 50 年以上あるということで、あまり劣化ということが問題
にはなっていなかった。しかし、「電蝕」があると、状況によってはガス管が数年しかも
たないことがわかった。
私としては、この電蝕の現象を調べれば調べるほど、今回の事故の原因は電蝕によって
腐食したガス管から漏れたガスに、一次爆発の火が引火して起こったとの確証があった。
ただ、私の思いだけでは記事は書けない。原稿を出稿するまでの 1 日を使って、関係の研
究所などに徹底した電話取材をかけた。その結果、ある大手企業の研究所の責任者から「極
端な例ですが、私たちの実験では、最悪の条件下で電蝕の状況を作り出したところ、2週
間でガス管に穴が開いたこともあった」との言質をとることができた。
● “時限爆弾”の表記が波紋を呼ぶ
“時限爆弾”の表記が波紋を呼ぶ
原稿は徹夜で書いて、翌朝支局長を通じて本社に出稿した。新聞が掲載されたあとの反響
はすごかった。まず、ガス会社の広報担当者がすぐに飛んできた。この担当者は、ふだん
記者クラブでよく話をしているので顔見知りだ。ストレートには言わないが、私の記事が
掲載されたことで、会社は大慌てになったらしい。まず、係争中の事案には当然響くだろ
うし、何よりも、“時限爆弾”という表現を恐れていた。
このほか、被害者の団体の責任者は、味方ができたとばかり、私の記事をコピーして事故
現場に張り巡らされているシートに数枚貼り出した。これを見た通行人や関係者などから
の問い合わせなどがしばらく続いた。
ガス会社は、事故後ガス管を導管から腐食に強いガス管に切り換えた。ガス事業法も改定
され、地下街は年 1 回ガスの漏えい検査を行うことが義務づけられた。外部の有識者から
も検証記事についての問い合わせなどもあった。
サツ回り(警察回り)の感覚で事故や事件を追っていたとしたら、この記事は書けなかっ
たかもしれない。生活者の目線を忘れなかったことが、この記事につながったのだと思う。
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(35~
35~39 歳)
第6章 週刊将棋の創刊秘話
週刊将棋の創刊秘話
「人生の 10 大事件として一番目に何を挙げるか」と問われれば、私は躊躇なく「週刊
将棋の創刊」と答えるだろう。「好きなことを仕事にする」をモットーとしてきた私にと
って、週刊将棋こそ仕事の中に自己実現ができる場の最たるものだったからだ。それは、
偶然の出会いの中で生まれた。
週刊将棋を企画創刊した昭和 58~59 年の日本は、第 1 次~第 2 次の中曽根内閣の時代。
昭和 58 年 12 月に行われた第 37 回の衆議院議員選挙では、直前に東京地裁のロッキード裁
判で田中角栄被告に懲役 4 年・追徴金5億円の判決が下されたことで、自由民主党が大敗、
新自由クラブとの閣内連立政権を組んだときでもあった。中曽根首相は、時代の先を読ん
で、自在変化に身を処すやり方から風見鶏とも呼ばれていたが、その最大の功績は、国の
お荷物だった国鉄を民営化したことだろう。
日本全体の景気としては、インフレ政策によって内需が萎み 3 年間にもおよぶ戦後最大
の不況となったが、昭和 58 年からは米国への輸出拡大が起動力になり不況から回復し始め
た時期でもあった。昭和 59 年には、米国ロスアンゼルスでオリンピックが開催されたほか、
米国大統領選挙でレーガン大統領が再選。社会的にはグリコ・森永事件などが起こった年
でもあった。
●江口氏の静岡
●江口氏の静岡来訪
静岡来訪で転身
来訪で転身を決意
で転身を決意
静岡支局の勤務が3年を過ぎたころ、支局長から一枚のシートを差し出され、「本社に
あがる際の希望部署を提出するように」といわれる。当時の支局勤務は、4 年が一般的だ
った。その後は、それぞれの希望を聞いたうえで、社会部や政治部、経済部、外信部、整
理本部など次の配属が決まるシステムだ。もちろん、希望通りの部署に行けるわけではな
く、本人のスキルと受け側の部署の事情などが斟酌されて決めるケースが多かった。
私は、支局長に「しばらく考えさせて欲しい」と、その場での即答は避けた。というの
は、私は 3 年間の支局勤務を通して幾多の経験が得られたし、大変面白かったのだが、最
終的に記者職を続けることにあまり興味が持てなかった。実は、英国留学後の南米の自由
旅行が頭を離れず、4 年間の支局勤務後は、国際協力機構(JICA)での日本語派遣教師で、
南米に行く計画を立てていたのだ。そのために、1 年ほど前からあまりいい返事をしない
妻を説得していた。
この状況は、元の上司でその後関連会社の毎日コミュニケーションズ(毎コミ)の代表
になった江口末人氏が静岡に来たことで一変する。江口氏の静岡来訪の目的は、私の毎コ
ミへの勧誘だった。毎コミは私が毎日新聞社に入社した昭和 48 年 8 月 15 日に創業後、就
職情報、美術、出版事業、海外研修事業などを柱に順調に発展、従業員も 100 人(15 年
後に私が辞める時には 600 人以上に膨れ上がっていた)に達しようとしていた。江口氏は、
私が毎日を辞めて海外に行くらしいとの噂を聞き、毎コミに来ないかと誘ってくれたのだ。
この後、毎コミでの 15 年間、自分の好きな仕事ができたのは、江口氏がいたからに他な
らない。
この話に飛びついたのが女房だった。「南米よりは東京の方がよっぽどいい」とばかり、
どんどん話を進めてしまった。女房に賛成をされれば、断る理由がなくなる。結局、南米
行きは諦めて毎コミ行きを決意することになる。
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●7年前に企画した将棋新聞の復活
私が江口氏に出した条件は2つ。①給与は同じ程度もらいたい、②どうせやるなら新事
業をやりたい。それと、毎コミには創業時に海外研修部の立ち上げに携わったことから、
ほとんどのメンバーを知っていた。その中で仕事をするのであれば、本気で転身を決意し
たことも示したかったので、出向ではなく転籍の道を選んだのは私の拘りでもあった。
毎コミでは、新しく立ち上げようとしていた医療事業部に配属された。医療事業部の主な
事業は、レーザーディスクを使っての医師の通信教育と、レセプトの保険点数が自動計算
できるパソコンによるシステム化だった。いずれも、外部からの持ち込み企画だ。さっそ
く、1 ヶ月間自分なりに市場調査を行ってみた。私の結論はNO。いずれの事業も、パソ
コンさえほとんど普及していない時代で、企画内容に対する反応は悪くなかったが、あま
りにも斬新過ぎ、5 年早過ぎるというのが関係者の感想だった。
私の次のテーマは新事業の企画を考えることに変わった。すぐにいいアイディアが出て
くるわけではない。毎コミの仲間と飲みながらあれこれ話をしているうちに、毎日新聞の
先輩から「以前企画した将棋新聞はどうだ」とのアドバイスがあり、これがきっかけで将
棋新聞が創刊されることになった。
将棋新聞は7年前に毎日新聞に在籍中に企画したもので、昭和 51(1976)年に、将棋
名人戦が朝日新聞から毎日新聞に戻ったときに考えた企画だった。その後、週刊碁が日本
棋院から発行されていたが、将棋の週刊紙は発行されていなかった。
●好きなことを仕事にする
新聞社育ちの私は、新規事業で毎コミの柱を創りたいとの気持ちがあった。すでに出版
事業では、昭和 58 年の初めに、明治時代の新聞のデータベースともいうべき「明治ニュ
ース事典」(全 8 巻)シリーズが発行を開始していたが、販売方法は販売代理店方式の直
販。私は、一般の市販をする出版物を出したいとの思いが強かった。それに、出版では定
期媒体を持つと、それがデータベースとなって書籍出版や関連の事業がしやすくなる。週
刊将棋は、その思いにピッタリの企画であり、それこそ私にとっては、「好きなことを仕
事にする」そのものだった。
私は、7年前に書いた企画書は破棄していたが、なんと友人で毎日系の広告代理店のN
氏がその企画書のコピーを持っていたのだ。B4 の計算用紙で 50 枚以上あったのだが、N
氏がそのコピーを大事に持っていたのには、感謝と同時に感動すら覚えた。
旧医療事業部の担当役員のS氏、N氏と私の 3 人はプロジェクトを組み、さっそくこの
企画書をもとにマーケットリサーチを始めた。レジャー白書によると、将棋人口は約 1,000
万人。ただし、これは 1 年間に 1 回以上将棋を指す人口のことで、将棋雑誌や将棋書籍を
読む人口は数十万人といわれていた。雑誌関係では、日本将棋連盟発行の「将棋世界」と
「将棋マガジン」の 2 つの月刊誌のほかに「近代将棋」を含めた 3 つの月刊誌が発行され
ていた。いずれも数万部発行されていたが、一番部数が多い将棋世界でも 10 万部程度。
確かに、市販本としては大きな発行部数ではない。しかし、全国に 200 以上ある将棋道場
を取材して歩いてみると、確実にそのマーケットは存在したし、月刊誌の弱点も幾つか見
えてきた。その最たるものがタイトル戦の棋譜だった。将棋界には、名人戦をはじめ竜王
戦、棋聖戦など各新聞社が主催する7大タイトル戦があるのだが、その棋譜が月刊誌で見
られるのは2~3月後だ。しかも、自分が取っている新聞によっては、将棋のタイトル戦
の詳細な情報はほとんど入らない。将棋ファンにとっては、これは大きな不満だ。将棋フ
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ァンは、1日でも早くその結果と内容、棋譜を見たいという思いがある。
1,000 人近く実施した週刊将棋の創刊(企画内容や値段設定など)についてのアンケー
トの反応は悪くなかった。3人のプロジェクトチームが出した結論は、「将棋新聞は商売
になる」だった。
●加藤名誉九段の賛同を得て意を強くする
当時の将棋界は、中原誠名人時代が 72 年から 81 年まで 9 年続いた後、82 年には加藤
一二三名人、83、84 年は谷川浩司名人と、数年ごとに名人が変わる将棋戦国時代に突入す
る気配を見せていた。創刊後の週刊将棋の紙面でも「谷川―田中(寅)の巌流島の決闘」
など、その雰囲気を匂わせる見出しが躍った。
あとは、週刊将棋の企画を日本将棋連盟にどう持ち込むかだ。毎日新聞が主催をしてい
る名人戦、王将戦以外のタイトル戦を扱うとなれば、毎日だけの問題で済む話ではない。
どうしても日本将棋連盟の協力体制が不可欠の企画だ。私は、日本将棋連盟と各新聞社と
の関係がそれぞれ微妙な事情を抱えていることは承知していた。最初に持ち込むところを
間違えると、この企画自体が成立しなくなる恐れがある。最終的に、その適任者として考
えたのが、将棋界のご意見番でもある加藤治郎名誉九段だった。
加藤名誉九段は、日本将棋連盟の会長を務めたほか、将棋界では珍しく大学卒の良識派
として知られていた。なによりも、早大将棋部の先輩ということで、アプローチしやすい
こともあった。さっそく、S氏と 2 人で、原宿にあった加藤名誉九段宅を訪れ、企画案を
話して協力を仰いだ。加藤名誉九段は、「将棋界としては嬉しい企画です。私もできる限
りの協力をしましょう。やはり、順番としては最初に大山康晴・日本将棋連盟会長のとこ
ろに企画を持っていくべきでしょう」と、アドバイスをしてくれた。事前に、加藤名誉九
段の賛同を得たことで、話を進める点では大変心強かった。
大山会長には、夏ごろに開かれた毎日新聞の名人戦のパーティの席上で企画を話したと
ころ、「わかりました。いつからできますか」と、非常に好感触が得られた。後でわかっ
たことだが、大山会長は即断即決主義で、しかもせっかちでもあった。
●大山会長の即断で創刊が決まる
すぐに、大山会長が直接、毎日新聞社の山内大介社長に電話連絡をして打合せの段取り
をしてくれたのも驚きだった。大山-山内会談で、週刊将棋は翌年(昭和 59 年)1 月の創
刊が決まった。日本将棋連盟と毎コミ、毎日新聞社側の条件は、①編集から販売までの全
責任は毎日側で持つ、②発行元は、タイトル戦などの棋譜を扱う関係上、日本将棋連盟発
行という体裁を整える。③タイトル戦をもつ各新聞社との折衝は日本将棋連盟が担当する、
と分担が決まった。
早速、日本将棋連盟出版担当だった二上達也九段(後の日本将棋連盟会長)と一緒に各新
聞社を回ったのだが、いずれの社もいい返事をくれない。毎日新聞が将棋を独占するとい
う恐れを感じたのかもしれない。それでも、大山会長は「連盟発行であれば、これまでの
将棋世界や将棋マガジンと同様、棋譜を使う点では問題ない」との判断で、企画を進める
よう後押しをしてくれた。念のため、同時進行で棋譜の著作権も調べた。これは連盟の理
事が中心になって調べた。
当初編集室は、千代田区一ツ橋の毎コミの中に設けるつもりだった。駄目もとで大山会
長に将棋会館内に編集室を作れないかと相談したところ、「将棋会館の地下・将棋展示室
を取り払って編集室にしましょう」と、これも即断をしてくれた。編集室が千駄ヶ谷の将
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棋会館の中にあるというのは、いろいろな意味で心強い。取材元に編集室が置ければ棋士
との接点が多くなる利点のほか、発行元の連盟の中に編集部があれば、各タイトル戦の主
催紙の担当記者も自然と協力をしてくれるようになるだろう。
大山会長には、創刊時の販売戦略として、大山会長の直筆での色紙を 100 枚以上お願いし
たばかりでなく、日本将棋連盟の各棋士に対して週刊将棋の拡張(販売)に協力をするよ
う依頼した。大山会長には、自ら各方面に見本誌と申込書を配布していただいた。これに
は、私たち週刊将棋スタッフ一同、「絶対に週刊将棋を成功させなければならない」とい
う思いを強くした。
●裏話(1
●裏話(1)販売契約書、販売手数料での仕掛け
日本将棋連盟のほか毎日新聞との交渉の窓口は、ほぼ私が中心で行った。特に、新聞社
での印刷から発送、即売、コンピュータによる郵送システムは、新入社員のときに毎日ウ
イークリーの創刊を経験したことで熟知していた。さらに、各現場での交渉が比較的スム
ーズに運べたのは、毎日新聞の全国の本社、支社、印刷局、発送部の担当者が、すでに毎
コミに席を移していた私が毎日新聞の社員(出向)と思い込んでいたからかもしれない。
交渉がスムーズに進むのであればと、あえて私の方から申し出ることはしなかった。
今回の企画案は当初毎日新聞にも出していた。経営企画室の担当者が直接私のところに取
材に来て、私が計画をしていた事業計画から収益まで、ほとんどこちらの手の内まで公開
することを要求した。毎コミは、毎日新聞の関連会社とはいえ、利益の詳細まで教える必
要はないとは感じていたが、最後は担当者の要求を呑まざるを得なかった。
毎日新聞社の代表室と契約書を締結する際には、毎日新聞側にすでに私たちの利益分まで
公開しており、毎日新聞の要請は飲まざるを得なかった。以下に紹介するように、印刷ひ
とつをとっても、すべて毎日の事情に合わせることが要求された。もちろん、交渉ごとな
のですべて理想的にできるとは思っていなかったが、一般的な商行為をも無視するような
ことをいくつも押し付けられ、飲まざるを得ない状況である点だけは合点がいかなかった。
そこで、私は一計を案じることにした。不条理な要求を呑んで毎コミ側の負担部分が重く
なる分くらいは、どこかで取り返そうという気持ちが強くなった。私は新入社員のときに
毎日ウイークリーの創刊業務を担当した関係で、毎日の販売局や発送の仕組みについては
熟知している。この知識を利用して、余分な負担分だけは取り返そうと考えたのだ。
1つは販売手数料での仕掛けを試みた。一般的には、毎日新聞の販売手数料は定価に対し
て○○%とするやり方だ。私は、契約書を作成する際に、「週刊将棋の販売に関する手数
料等は、販売局入金額の○○%とする」という内容で代表室と契約を結んだ。販売局への
入金という意味は、販売店から販売局に入金をする際は、定価の何掛けかで入金する。つ
まり、販売店の手数料を差し引いて販売局に入金がされる。今回は、その入金額に掛け率
を掛けるので、その分手数料が安くなるのだ。
2 つ目は新聞発送での中入れ(毎日新聞と一緒に同送する)部数については、通常の発
送部数に対して手数料を払うシステムにした。一見すると、当たり前のようだが、新聞の
発送には“追送”という仕組みがある。販売店からの急な注文に対しては、発送の中入れ
部数にはカウントせず、伝票(メモ)だけで発送をしてしまう。つまり、メモ分は手数料
を請求されないのだ。創刊当初は、追送だけでも相当な部数があったので、この発送手数
料だけで毎月数十万円を浮かせることができた。
●裏話(2
●裏話(2)見出しのミスを発見、再印刷を決断
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創刊の次の第 2 号目を刷った時に大トラブルが発生した。当初、週刊将棋が軌道に乗る
までは、私が営業、担当役員が編集長という役割分担となった。編集は飯田橋の版下会社
で版下を作成したあと、竹橋の毎日新聞印刷局に持ち込む。私は編集部に輪転機の立会い
を求めたが、版下を作成した後は、見ても直しようがないという理由で編集の立会いはな
かった。
週刊将棋の印刷は毎週土曜日に、毎日新聞の夕刊が刷り上った後に刷ることになってい
た。発送部では、その日のうちに、全国の支社や販売店に新聞を発送するので、都内の販
売店では翌日の朝刊と一緒に配達される。たとえば、金曜日の夕方に終わったタイトル戦
であれば、原稿を金曜日の夜中までに入れれば、翌日の土曜日の印刷には十分間に合う。
将棋ファンとしては、2 日前に終了したタイトル戦の棋譜が解説付きで見られるわけであ
る。こんなことができるのは、新聞社だからできる技だといってもいい。ある意味ではこ
れが週刊将棋の売りでもあった。
昭和 59 年 1 月 25 日になんとか創刊号が出せてホッとしたのもつかの間、2 号目が刷り上
る土曜日の午後 2 時過ぎに、私が外出から戻ると、私の席に 2 号目の刷り出し見本紙が置
いてあった。次の瞬間、1 面の見出しを見た私の背筋が凍りついた。
見出しが「○○が○○を被る」とあるのだ。どう見ても「破る」とは見えない。念のた
め辞書で調べたが、もちろん「被る」にはそんな意味はない。すぐに編集に電話をすると、
「しょうがない」という返事。冗談ではない、毎日コミの発行であれば、謝って済むかも
しれないが、週刊将棋は日本将棋連盟の発行の形態をとっている。このまま発行してしま
いえば、連盟の信用にキズがついてしまう。私はすぐさま5階のフロアーから2階のフロ
アーにある印刷局に駆けつけた。すでに現場の人は印刷を終えてほとんど残っていない。
手短に状況を説明し、再印刷は可能かどうか尋ねた。たまたま、印刷技術関係の責任者が
いて、すぐに状況を把握してくれることになった。私はその足で、印刷現場の人を呼び戻
すために 3 階の食堂に走った。印刷服を着た人がまだ数人残っていた。大声で「緊急事態
なのですぐに現場に戻ってほしい」旨伝えて、地下1階の発送部に走った。すでに週刊将
棋を積んだトラック便は出た後だった。躊躇している時間はない。私は、独断で発送部の
責任者にすぐにトラックに連絡をして引き返すよう要請した。
印刷の方では、再印刷を検討した結果、刷版はなんとかもう一度くらいは使えそうだとい
う結論になった。この際コストは度外視し、印刷局に再印刷を頼んでなんとかこのピンチ
を切り抜けることができた。この間時間にして 10~20 分だろうか。このときはなぜか全て
の指示を短時間に出すことができた。印刷、発送の人も全員協力体制をとってくれた。食
堂に印刷の人が残っていてくれたことも幸運だった。あとで、印刷と発送の担当者から「土
曜日のあの時間でよく再印刷と発送後のトラック便を止めることができた。まるで本紙の
印刷でミスが出たときのように全員が動いてくれた。」とそのときの感想を聞いたことが
ある。発送も通常の時間よりは2時間程度の遅れで発送することができた。この印刷の再
印刷で 100 万円以上の損失を“被った”が、考えればミスをしたまま発行をして信用を失
うよりも安いものだと思った。
その後、毎週土曜日の印刷日には、竹橋にいる営業担当者が地下3階にある輪転機の立
会いをすることにした。
●升田幸三元名人とのテレビ出演
●升田幸三元名人とのテレビ出演
週刊将棋の仕事をする中で、一番嬉しかったのが升田幸三元名人とのテレビ出演だった。
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私が一生懸命に将棋を指していた小学校から大学生までの期間、将棋界は事実上、大山、
升田時代だったといってもよい。昭和 27(1952)年から昭和 46(1971)年までの実に 20
年間、将棋名人は大山十五世名人か升田元名人の 2 人のどちらかが就いていたのだ。2 人
は、木見金治郎門下の兄弟弟子(兄弟子が升田元名人)でありながら、終生のライバルで
もあった。2 人にまつわる話は一杯あるが、第 7 期名人挑戦者決定 3 番勝負の第3局、勝
勢だった升田元名人が大悪手を指して頓死し「錯覚いけない、よく見るよろし」と終局後
に語った「高野山の決戦」はいまでも将棋界で語り継がれている話である。
また、升田元名人は、将棋史上初のタイトル三冠(名人・王将・九段)制覇を成し遂げたほ
か、「新手一生」を掲げて、既成の定跡にとらわれない魅せる将棋に拘って将棋を指した。
私もその古武士のような風貌と、独創的な将棋の指しまわしに魅了されたファンの1人で
もあった。その憧れの升田元名人と一緒にテレビに出演できるのは夢のような出来事だっ
た。
当時のテレビ将棋は、毎週日曜日の午前中に放映されるNHK将棋トーナメントと、民放
でただ 1 つ、東京 12 チャンネル(テレビ東京)が早朝に「将棋早指し戦」を放映してい
た。この早指し戦は、ほとんど持ち時間がない厳しいルールに特徴があった。「将棋早指
し戦」は、1972 年から 2003 年まで 32 年間放映された。
「将棋早指し戦」の聞き手の依頼は、連盟の秘書課からだった。「将棋早指し戦で升田
元名人が解説することになったのですが、聞き手をやってもらえませんか」。これまで、
テレビ将棋の聞き手をやった経験のなかった私は、この申し出が一瞬何を言われているの
かわからなかった。その後我に返った私が承諾の返事をしたのはいうまでもない。あとで
私が聞き手として選ばれた理由を聞くと、升田元名人はめったにテレビ将棋の解説をしな
いうえ、かなり難解な指し手を解説するときがあるという。聞き手も有段者でないと、付
いていけないことがあるのだそうだ。私は大学の将棋部出身ということで聞き手として選
ばれたのだと聞かされた。升田元名人と一緒に仕事ができるのであれば、理由は何でもよ
かった。
テレビ収録は、渋谷のスタジオで行われた。1 日に 2 局を収録し、毎週1度、早朝に1
局ずつ放映をしていた。スタジオの控え室で、テレビ局の人と簡単な段取りをして待って
いると、袴姿の升田元名人と奥さんが入ってこられた。何を話したかは忘れてしまったが、
升田元名人は奥さんが焼酎に梅干を入れたお湯割を差し出すと、美味そうに飲んでいた情
景が脳裏に焼きついている。この焼酎が後の収録で少し悪戯をすることになる。
1 局目の収録が終了すると、2 局目が始まるまで升田元名人と聞き手の私は控え室で待
つのだが、そんなときでも升田元名人は焼酎のお湯割を飲むのを忘れなかった。2 局目が
始まり、解説は順調で対局も早めに終了した。通常であれば、解説者と聞き手の仕事はこ
れで終了し帰宅できるのだが、ここで1つ問題が起こる。2 局目の対局が予想以上に早く
終わったため、残りの 10 数分を解説でカバーして欲しいというのだ。問題は升田元名人
だった。2 局目が終了したあとも控え室でお湯割を飲み続け、すっかり酔いが回ったよう
だった。とても、局面を再現できるような状況ではなった。やむなく、聞き手の私が、ポ
イントになる局面を幾つか再現して、その局面での解説を升田元名人にお願いする方法で
なんとか収録を終えることができた。このときの私は、天下の元名人に対して畏れ多いと
の気持ちがあったが、状況を考えればやるしかないというのが正直な気持ちだった。
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●週刊将棋での幾つかの思い出
結局、週刊将棋は4年間ほど担当することになるのだが、このときほどいろいろなアイ
ディアを考えたことはなかった。将棋の用語で言えば、“脳がウニになるまで考えた”。
そのいくつかを紹介しよう。
(1)レディース
)レディースオープントーナメントの創設
「将棋人口をもっと増やせないか」。これが、週刊将棋を担当していたときに常に考え
ていたことだった。そのひとつは女性の将棋人口を増やすこと。将棋人口は 1,000 万人を
超えるといわれながら、人口の半分を占める女性の普及がほとんどされていない。なんと
かならないかと企画をしたのが、女流棋戦の創設だった。当時は、女流名人戦や女流王将
戦などがあったが、まだまだ棋戦数が少ない。男性棋士並みとはいかなくても、もっと女
流棋戦を多くして、女流プロを活性化することが将棋人口の増加につながるのではないか
と考えていた。昭和 62(1987)年、新たに育成会員とアマチュアの参加できる唯一の女
流公式棋戦である「レディースオープントーナメント」(現在はマイナビ女子オープン)
という棋戦を創設、その棋譜を週刊将棋で紹介することにした。
もうひとつ、小中学生向けの将棋選手権も創設した。戦いやすいように、当時創設した
「ファミコン将棋ネット」での対戦を売りにした。これなら、通信を介して将棋が指せる
ので、一箇所に子どもを集める必要はない。いまならインターネットで対戦できる小中学
生将棋選手権を企画したかもしれない。
(2)週将ブックの創刊
週刊将棋も創刊から 1 年ほど過ぎると、こんどは市販の書籍での将棋マーケットの制覇
を検討し始めた。週刊将棋という定期媒体をもっているので、将棋のネタには困らない。
データベースを持っているのだから、書籍を作る点では問題はないとの考えだった。
将棋書籍のマーケットを調べたところ、堅実に売れる分野であることが分かった。配本は
通常、5,000~6,000 部。時間は少し掛かるが、2 刷り、3 刷りと 2,000 部単位で刷り増し
をしている本が少なくない。売れている本の中には 1 万部を超えているものがざらにあっ
た。これなら商売にできる。
私が考えた戦略は、「書店の書棚を確保するため年間に 10 冊を発行、初刷 1 万部を配
本、一挙に将棋書籍トップになる」というもの。実用書、特に囲碁将棋麻雀などは、この
ときは特定の出版社しか発行していなかったので、将棋関連の書籍でトップシェアをとる
のはそれほど難しくないと考えたのだ。配本を確実にするため書店から注文を取った。こ
れも、発行のたびに書店を回ればいいので、営業が手分けをすれば、それほど難しいこと
ではない。そのうち、発行する書籍も多くなってきて、書店専門営業のアルバイト学生を
入れることにした。
このやり方をするうちに、配本数が読める書店が幾つかでてきて、親派の書店ができ、電
話で注文をとることも可能になった。
(3)山本直純氏と駒音コンサートを企画
ある日、音楽家の山本直純さんの秘書という人から「将棋とのタイアップでコンサート
を開催したい」との連絡が入った。将棋とコンサート?よく内容が理解できなかったが、
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とにかく話を聞くことにした。話の詳細を聴いてやっと内容が理解できた。「クラシック
音楽の普及を兼ねて、直純さんの趣味である将棋とコラボとしてコンサートを企画したい。
企画実現のために紙面での協力をお願いしたい」というのが主な趣旨だった。
企画内容には大賛成だった。将棋はとかく限られた世界での企画が多い。音楽とのコラ
ボで新しい世界が開けるかもしれないという期待もあった。すぐさま、直純さんのインタ
ビューを企画し、週刊将棋でその内容を連載した。この中では、直純さんにクラシック音
楽と将棋のコラボによる「駒音コンサート」の企画内容を熱く語ってもらった。直純さん
の秘書はその記事を持参してスポーンサーを探すというやり方だった。
この企画が縁で、直純さんとは時々将棋を指すようになったのだが、直純さんは将棋が
終わるまで、絶対に正座を崩さなかったのが印象的だった。同時に、音楽家の将棋好きの
人が作っている楽壇将棋連盟という存在も知りえたし、なによりバイオリニストの岩淵龍
太郎さんやオペラ歌手の岡村喬生さん、指揮者の小林研一郎さんらが将棋好きなことが分
かっただけでも収穫だった。
(4)木村義雄十四
)木村義雄十四世名人の
十四世名人のインタビュー
世名人のインタビュー企画
インタビュー企画
将棋の至宝(神様)と言ってもいい木村義雄十四世名人の足跡をインタビューし、週刊
将棋で長期連載する。
週刊将棋が発行された時期の将棋界は、大山、升田時代から中原、谷川時代に変わりつつ
あった。その後、羽生善治や森内俊之、佐藤康光、丸山忠久などが名人に就くなど、完全
に若手棋士に主導権が移ってきた。これに伴い、週刊将棋の読者も 30、40 代などの若い
読者が増えてきていた。そうなると、大山、升田の戦いを見る機会がないうえに、その前
の時代の木村十四世名人が生きてきた将棋界のことは必然的に遠い昔の話になっていく。
私としては、今の将棋界の基礎を作った木村十四世名人の話は、失礼ながら生きているう
ちに聞いておかないと、何も歴史に残らなくなってしまうとの危惧があった。そこで、木
村十四世名人にインタビューをお願いすると、快く引き受けていただき、当初予定の半年
間のインタビューが 1 年間にわたって週刊将棋に掲載されることになった。
将棋の名人戦は、昭和 10(1935)年に日本将棋連盟が江戸時代以来 300 年続いた一世名
人を廃止すると発表。昭和 12(1937)年から実力制名人位制度を開始したが、その後太
平洋戦争が終結する昭和 20(1945)年までの連続 5 期の名人は木村義雄十四世名人が就
いた。木村十四世名人は、戦後に再開された名人戦でも昭和 24(1949)年から 3 期、名
人位に就いている。将棋界の中興の祖といってもいい存在だった。
私も最初のインタビューの際に、神奈川県の辻堂にある木村十四世名人のご自宅に伺っ
たことがあるが、海岸沿いの松林に囲まれた閑静な別荘地にあるような住宅に住んでいた。
まだこのときはしっかりしており、インタビューにも的確に答えていただいたことを覚え
ている。
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第7章 新規事業の撤退とパソコン雑誌の創刊
(40~
40~43 歳)
パソコン(PC)雑誌の創刊は、いろいろな偶然の積重ねの中で実現することになる。
PC雑誌発刊までの経緯を改めて顧みると、以下のタイミングが1つでも狂ったら雑誌創
刊までには至らなかっただろう。①15 年前の仕事関係者からの提案⇒②別会社の仕事をし
ていて受けられず、PCを趣味にしている担当者を紹介⇒③PC出版を開始するも担当者
の退職でPC出版の中止を決定⇒④たまたま自分が手掛けていた別会社の事業が撤退⇒⑤
1 ヶ月間の猶予をもらいPC市場を調査し、役員会に継続の申し入れ⇒⑥PC出版の再開
⇒⑦学生アルバイトの活躍⇒⑧米国PC市場取材⇒⑨パソコン雑誌の創刊企画提出⇒⑩役
員会の否決⇒⑪社長との直談判⇒⑫社長が根負けして承諾⇒⑬競合会社から雑誌コード取
得のノウハウを伝授⇒⑭PC雑誌創刊にこぎつける。
その後PC関連事業が数十億円以上を稼ぐ毎コミの主力事業に発展していく契機となる。
●弔い合戦の気持ちで化粧品会社を担当する
PC雑誌創刊に至る序幕は、別会社で設立をしていた化粧品会社の幕引きから始まった。
毎コミの代表取締役をしていた江口末人氏は、毎コミが創業 15 年を経過したことや、大
型出版のニュース事典編集の目途が付いたことから、次の柱になる事業を考えていた。そ
れが、「なぜ化粧品なのか」という疑問はあったが、女性の肌を若返えさせるエラスチン
*入りの化粧品を扱う別会社「エラスティン・コーポレーション・ジャパン」を設立した。
*エラスチンとは、皮膚や血管などの弾性に富む組織に多く含まれるタンパク質の一種。コラーゲンと
共に組織を形成し、皮膚に柔軟性をもたせる働きを担っている。エラスチンは、高齢社会が本格化する
なか、若々しい肌を保つために重要なタンパク質で美容素材として注目されている。
この新規事業は、江口氏が毎日新聞時代の知り合いからの紹介が契機だった。新規事業
の企画を持ち込んできたのは、ユダヤ系のオーストラリア人M氏。「これまでの化粧品の
常識を変える」という触れ込みだった。就職情報、海外研修、美術、出版事業をメイン事
業としてきた毎コミとしては、異質な事業でもあったことから別会社を設立しての事業開
始となった。それでも、毎コミの新入社員の女性を 3 人ほど出向させたことからも、江口
氏の力の入れ具合が分かる。客観的な立場からこの事業を見たとき、ギャンブル事業とし
か見えなかったのが正直な気持ちだった。事業の形態は、基本的には全国各地に代理店を
開拓するフランチャイズ方式を採った。したがって、代理店の中には、一攫千金を夢見て
契約する得体の知れない者も含まれ、とても真っ当な商売をしている雰囲気ではなかった。
その事業の責任者として、以前毎日新聞時代に「手漉き和紙大鑑」を企画したT氏が担
当。T氏は、退社後米国やヨーロッパを回り飲食関係のマーケティングをした後、原宿に
ヨーロッパスタイルのサンドイッチレストランを開業した。一時は、「すしサンドイッチ」
などが話題を呼んだこともあった。その後、江口氏が新事業をやるために引き抜いてきた
のだった。
そんなT氏が、事業を始めて2年ほどして病に倒れる。胃がんだった。40代と若かっ
たT氏のガンの進行は早く、数ヶ月して亡くなる。今にして思えば、がんになった遠因の
一つにこの新規事業のストレスがあったのかもしれない。
社としては、T氏亡き後をどうするかは大きな課題だった。別会社の事業は、すでに数
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億円以上の資金を投入して、引くに引けない状況までになっていた。そんな状況下で直接
の担当者だったT氏ががんに倒れたのである。しかし、あまりにも仕事の内容が違いすぎ
て、次の後継者が見つからない。別会社の担当役員から「次の担当者をやってくれないか」
と私に打診があった。
私は、週刊将棋をやっと軌道に乗せたところであった。別会社の新規事業は毎コミ全体
にも影響する。私は「この事業をやれるのはあなたしかない」と、当時の社のNo2の役
員を直接口説いた。彼の答えは、「あまりにもこれまでの経験してきた仕事とは違いすぎ
る」と、ノーだった。私も同じ考えだったが、志半ばで倒れたT氏は、私が学生時代のア
ルバイトのときに、京都のゴヤ展でお世話になった先輩でもある。むげに断るわけにはい
かなかった。当時の私の気持ちとしては、「T氏の弔い合戦」という気持ちもあって、引
き受けることにする。
●米国市場への最後の賭けも挫折・撤退
やり始めてみて、やはりこの化粧品商売は一筋ではいかない事業であることが分かる。
エラスティンは、中高年の衰えた肌を蘇えさせるというのが最大の売り。ところが、小難
しい理論付けした論文はあるが、化粧品は実際に使った人の自分の感覚でしか分からない
難点がある。たぶん、今であれば、科学的な立証データを作成することはできただろうが。
それに、薬事法の関係もあり、「肌に効く」とは謳えないのだ。したがって、販売方法は
大量のイメージ広告宣伝や口コミしかない。資本力のない毎コミでは、口コミに頼るしか
ないというのが現実だった。
一方の販売代理店はどうかといえば、これまた得体が知れない連中ばかりなのだ。あと
で、分かったことだが、口コミによるマルチ講形態で商品を売る部隊には、裏のシンジケ
ートがあるのだ。どこかで、新しい商売をするという情報を感知すると、「こっちに甘い
蜜があるぞ」と、仲間を召集。販売元に対して「自分たちに任せれば、年間数億円の売上
げは必ず達成できる」と、ばかり大風呂敷を広げては、販売元から高額な販売促進費を巻
き上げるのだ。また、新事業専門の詐欺集団もいて、私が責任者の時代にもまんまと紙切
れ同然の手形を掴まされ、数百万円の損害を出したことがあった。ことほど左様に、彼ら
にとっては、どろどろした商売を経験していないマスコミ出身者なんて赤子同然だったろ
う。
それでも、江口氏はめげずにアメリカでの事業拡大まで視野に入れていた。私も最後の賭
けで渡米することになる。渡米目的は、江口氏、M氏と一緒に、米国のFDA(米国食品
医薬品局、日本の厚生労働省に該当)への根回しと、ニューヨークでの事務所の確保だ。
それに、セントルイスの牧場で生産されていたエラスチン(素材は子牛の血管から抽出し
ていた)の製品の改良依頼だった。このときは、ニューヨークのセントラルパーク前のプ
ラザホテル(プラザ合意で有名に)に滞在して、毎日夕方にはソーホー地区へジャズを聴
きに行った。また、セントルイスに行く途中のシカゴでも、夜ジャズを楽しんだことを覚
えている。
結局、FDAへの根回しは失敗、また改めて米国の化粧品市場のマーケットリサーチを
したところ、全米で商品を売り出すには、それこそ最低でも数十億円以上の資金がないと
難しいことが分かった。さらに、ちょうどこの頃の米国は、「製造物責任法」の施行で裁
判が各地で勃発。直接肌につける化粧品は、いろいろな素材が入っているだけにアレルギ
ーを起こす確率が高く、その標的にされていた。こんな事情もあって、やむなく米国市場
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への参入を諦めると同時に、化粧品事業そのものから撤退することになる。幕引きをして
いるときに、後で出てくるPC出版編集者が辞めるとの情報が入ったのだ。
●日本でもパソコン市場が育ち始めた
パソコンとの出会いのきっかけは、15 年前に毎日ウイークリーのコンピュータによる郵
送システムを作り上げた元IBMのN氏からの提案だった。N氏は外資系のパソコンソフ
ト会社の日本支社長になっていた。彼は会社の主力商品である「スーパーカルク」という
表計算ソフトの解説本を出版して欲しいとの依頼に来たのだ。
私は、このときは週刊将棋を創刊した後、前記した別会社の仕事をしていて受けられず、
パソコン(PC)が趣味のS氏を思い出し彼を推薦した。その後S氏は、ほかのPCソフ
トの解説書も数冊出版するなどPCの解説本を出版していたが、2年を経過した頃に引抜
があってPCメーカーの広報誌を請け負うために退職した。私はこの話を、別会社の事業
の幕引きをしているときに聞くことになる。今後のPC書籍の行方が心配になり担当役員
に尋ねると、後任がいないのでPC書籍の出版は止めるという。PC出版分野の将来性に
期待をかけていた私は、とりあえず 1 ヶ月間の猶予をもらいPC市場の調査を行った。そ
の結果、日本でも確実にPC市場が出来上がり始めていることが分かり、役員会にPC書
籍出版を継続したい旨申し出て了解を得ることになる。
米国のパーソナルコンピュータ市場は、1970 年代にアップルの AppleⅡが火をつけた後、
80 年代にはIBMのPC/AT互換機がほかのパソコン機を圧倒し、当時のPC業界の標
準となっていた。アップルも 80 年代に入ると、安価な Macintosh(マック)を発売、そ
のグラフィカルインターフェイスが人気を呼び、主に学生、教育者、プロフェッショナル
クリエーター好みのマニアックなPCとなっていた。特に、雑誌出版の仕組みを変えたと
いわれるDTP(デスクトップ・パブリッシング)市場は、マックが作ったといっても過
言ではない。
日本のPC市場でもNECの PC/9800 シリーズを中心に、毎コミがPC解説書を出版し
始めた 80 年代後半には年間 100 万台を超えるパソコンが出荷される(1990 年には 200
万台を突破する)など、着実にPC市場は育ち始めていた。もちろん、PC市場が伸びれ
ば、それに連れてPC書籍市場が大きくなるのは容易に想像できた。
●最初はパソコンの解説書を出版
1 ヵ月後、出版部に戻った私は、出版部長をしながらPCソフトの解説書の出版を始め
ることになる。最初は、毎コミが依頼していた著者の公認会計士や産能大学の教授などに
会って、PCソフトの解説本を引き続き出版する意向を伝えた。大方の人から協力する旨
の返事がもらえた。
毎コミが手がけた出版では、当時のPC表計算ソフトの標準になりつつあった「ロータス
123」やマック関連の解説書の売れ行きがよかった。特に、マックユーザーは、日本で
は正式ユーザーが 1 万数千人しかいないにもかかわらず、1冊の解説書が 5,000 部以上売
れていた(米国でマックを直接買い求めて、日本に持ち込んでいるユーザーが多くいると
推察されていた)。
これを逃す手はない。私は、自腹で 40 万円以上もする Macintosh Plus を購入、パソコン
に関心が高かった東京電機大と東京理科大の学生 2 人(その後 2 人とも社員として採用)
をアルバイトで雇い解説書の企画を練り始める。このパソコン事業がなんとか継続できた
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のは、この学生 2 人のお陰であることは間違いない。同時に、私自身の勉強と米国のPC
市場の調査のため、PCのビジネスショーや年 2 回開催されるマックワールドを取材する
ほか、米国の西海岸にあるマイクロソフトやアップルの本社に取材で訪問、PC関連の情
報収集に努めた。
自分がマックユーザーということもあって、マックに関心があったのだが、マックはまだ
日本で売り出したばかりで、著者候補が極端に少なかった。私は編集プロダクションの友
人の紹介で知り合った大学の英文科出身でマックユーザーである予備校の先生 2 人と飲み
会をしながら何度も企画会議を開いた。その会議で出た意見をもとに、「マッキントッシ
ュガイドブックⅡ」や「マックの玉手箱」、「エクセル入門」、「イラストレーターオフ
ィシャルブック」などを次々と出版し、確実に3刷り、4刷りと版を重ねるようになった。
一方、フォーム集をベースにした「ロータス123ビジネスフォーム集」も売れ行きは好
調だった。
そこで、データのフォームの現物をFD(フロッピーディスク)に収めた「フォーム集」
を売り出すと、これも 1 万円近い値段にもかかわらずよく売れた。また、「ロータス12
3」のアドインソフト(追加機能ソフト)で 1 本数万円もする「マクロメーカー」、「関
数メーカー」、「集計くん」などのソフトも予想外に売れた。まだパソコンの黎明期で、
PCソフトを使いこなす人が少なく、既成のフォーム集や知識がなくても自動的に集計な
どができるソフトが重宝がられた時代でもあった。
●PC月刊誌「THE123MAGAZINE」を創刊
~キャッチフレーズは、「仕事はプロだが、PCは素人のためのP
キャッチフレーズは、「仕事はプロだが、PCは素人のためのPC誌
仕事はプロだが、PCは素人のためのPC誌」
C誌」~
社内的には、PC書籍の予算は出版のニュース事典の予算内でやるといった変則的な予算
組みをしていた。後から考えれば、PC書籍を発行しているにもかかわらず、編集者を 1
人も置かずにアルバイトと編集プロダクションだけで事業を進めたのはあまりいいことで
はなかった。社内で認識をしている人がほとんどいなかったのである。担当役員でさえ、
将来性を見越していたわけではなかった。出版部としては出版取次との取引もあるので、
ある程度の書籍を発行しなければならず、その点で便利だと考えていた節がある。
1 年半ほどPC書籍を出版していたが、毎月書籍を出版するのであれば、月刊雑誌を出
しても同じではないかと考えるようになる。雑誌であれば販売売上げ+広告が見込めるの
で有難い。PC雑誌の市場を調査してみた。この時期は技術系の人を対象にした雑誌が主
流で、ソフトバンクやアスキーなどが雑誌を発行していた。それらの雑誌の広告売上げを
調べて驚いた。平均して 1 号あたり 1,000 万円以上売り上げている。週刊将棋では、毎月
200~300 万円程度の広告料しか稼げなかったことから考えても 1,000 万円は大きな魅力
だった。
さっそく、PC雑誌をやりたいとの稟議書を出したが、役員会からは拒否をされた。「と
ても成功するとは思えない」というのが主な理由であった。私は、この分野はまだ大手出
版社が手を出していない分野である。かつ、今後のビジネス環境を考えれば、アメリカの
PC市場を見れば分かるように、将来性は十分あると考えていた。毎コミが就職情報誌で
大きな利益を出しているときに、次の収益が挙げられる事業を開拓しておく必要があると
の思いが強かった。
そこで、江口代表(社長)に直談判をすることにした。アメリカのPC市場から日本のP
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C市場の現状、そして今後の見通しなどを延々数時間しゃべり続けた。PCを「ピコピコ
屋さん」と呼んでいた江口代表にしては、チンプンカンプンの話だったかもしれない。た
だ、あまりにしつこく私が口説いたことで辟易したのか、最後は、根負けをして「(PC
雑誌を立ち上げるには)いくら掛かるんだ」と尋ねてきた。私は、シメタと思った。すか
さず、「8,000 万円あれば創刊できます」と答える。「事業内容はよくわからないが、と
にかくやってみろ」ということになった。これでPC雑誌が発行できる。
当時のPCソフトは、ワープロ、表計算、データベースソフトと大きく3つの分野に分け
られたが、ビジネスで使えるのは表計算ソフトと判断、当時一番売れていた表計算ソフト、
「ロータス123」をベースに徹底的にビジネス、仕事で使えるマガジンを目指そうと決
意をする。雑誌名も、「THE123MAGAZINE」とした。この名前を使って雑誌を発行
することは、日本のロータス社にも伝えて、了解をもらっていた。
当初の計画は、直販によるPC雑誌の発行を考えた。かなり絞り込まれたユーザーを対
象にすることや、その読者に対して、雑誌内で紹介したフォーラム集などを別売りでやろ
うという“2 度美味しい”、非常に都合のよい計画案だった。とろこが事業計画案を作り
始めた頃から、事情が変わり始める。PC雑誌市場では、FD の価格が極端に下がったこ
とから、雑誌に無料で FD を付けるのが当たり前の時代になり、この目論みは見事に外れ
ることになる。
●競合会社から雑誌コード取得の方法を教わる
●競合会社から雑誌コード取得の方法を教わる
営業担当者のM氏から、「どうせやるなら雑誌コードを取って書店ルートで売りましょう」
との提案で、駄目もとで出版取次を回ったところ、運よく雑誌コードが取れることになっ
た。この雑誌コードが取れたのは、実は競合会社となるS社のお陰だともいえる。
一般書店でPC雑誌を販売するとなると、出版取次を通じての販売になる関係上、事前に
大手出版取次である東販や日販の承認を得る必要がある。大手出版社であれば、大量の宣
伝広告費を使うので大抵の雑誌は承認されるのだが、これまで雑誌コードさえもっていな
い中小出版社が雑誌コードを取得することはかなり難しいことは聞いていた。当時の毎コ
ミは 100 人規模の中小出版社。しかも、PC出版編集担当者はほとんどいない。もちろん、
雑誌コード取得の経験はない。私は、毎日新聞社の出版担当者に出版取次への根回しのや
り方を教えてもらおうとしたが、担当者も知らなかった。困っていたときに、編集プロダ
クションの友人からS社のPC雑誌の編集長を紹介してもらい、その伝でS社の営業担当
者と面談をすることができた。私は臆することもなく、「PC雑誌を発行したいのですが
東販や日販の承認を得るには、どうすればいいのでしょうか」を率直に尋ねた。今から考
えれば、競合相手になる出版社に雑誌コード取得のノウハウを聞きに行ったのだから度胸
がいいというか、アホというか。そのときは、何としても雑誌を発行したいとの一心で無
我夢中だったからできたのかもしれない。
営業担当者は、①雑誌コードは申請して一度却下されると、あとの再申請が難しい点。②
また、それぞれの出版取次にはキーマンがいて、その人を口説けば雑誌コードが取得しや
すいこと。③そして、そのアプローチの方法から、④書店での販売キャンペーンのグッズ
の使い方など雑誌営業のノウハウまで懇切丁寧に教えてくれた。このアドバイスがなけれ
ば、創刊時の広告宣伝費が 3,000 万円程度しか使えないPC雑誌企画は成立しなかっただ
ろう。
●取材でFP業という職業を知る
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編集体制は、出版部長の私が実質的な編集長も務めるという変則体制で臨まざるを得なか
った。当初、編集長には米国の取材で知り合ったコンピュータ業界紙の編集長をやってい
るT氏の引き抜きを考えていたが、社が年収 800 万円の条件を認めてくれず白紙に戻った。
ほかに適任者も見つからなかったことから、やむなく私が編集長に、新規に募集をした編
集スタッフもPC雑誌等の経験者が 1 人もいない体制でスタートせざるを得なかった。た
だし、実質的に雑誌の編集の実務を行う編集プロダクションは、いずれもPC雑誌、書籍
などの編集実績のあるところを選んだ。
雑誌の取材対象は、PCを使って仕事をしている人にこだわった。公認会計士、税理士
のほか、マーケッティングリサーチャー、経営コンサルタントなどなど。この取材対象者
の中にFP(ファイナンシャル・プランナー)がいた。このFPの取材がなければ、50 歳
以降の一生涯の仕事として選んだFP業はできなかっただろう。
日本で最初の独立系FP事務所を紹介してくれたのが、財テク女優で売り出し中の相原と
も子さんだった。私は、雑誌で扱うPC自体が硬いものだったので、紙面や文章はできる
だけやわらかくしたかった。そこで、写真の被写体として雰囲気を和らげてくれる女優を
起用した経緯があった。この取材には、編集者と一緒に私も同行したのだが、FPがPC
を使って作成するキャッシュフロー表(CF表)が、将来のイメージを描くツールとして、
非常に優れていることに驚いた記憶がある。
4 年後、この取材で知ったFPを勉強したことが 50 歳以降、FPで独立をすることにつな
がっていく。
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第8章 デジタル絵本、通信対戦ゲーム、ゲーム雑誌を創設(途中)(
デジタル絵本、通信対戦ゲーム、ゲーム雑誌を創設(途中)(44~
44~45 歳)
私は、週刊将棋を創刊したときにもう 1 つの事業計画を持っていた。将棋コンピュータ
ゲーム機の開発だった。
●コンピュータ将棋協会で情報を収集
●コンピュータ将棋協会で情報を収集
将棋コンピュータゲーム機とは、将棋のレベルを設定できるゲーム機である。将棋は、
相手がいないと遊べないゲーム、それも同じレベルの人がいないと面白くない。ところが、
地方で将棋に興味を持った子どもがいても、相手がいなければ将棋を指すチャンスがない。
そこで、将棋の強さ(レベル)を自由に設定できるトレーニング・マシーンを作りたかっ
た。そんな折、コンピュータ将棋協会の存在を知る。この協会には、人工知能の研究者を
はじめ、森田将棋の開発者の森田さんほか、将棋の通信システムを研究している人や詰め
将棋プログラムの開発者、将棋ソフトを開発中のソフト会社員など、当時の将棋ソフトの
研究者が多く集まっていた。私はさっそく会員になり、情報収集を始めた。これが契機に
なって、毎コミでも東大の大学院生が開発した「東大将棋」などの将棋ソフトや囲碁ソフ
トの販売につながっていく。
もうひとつ、力を入れて情報収集をしていたのが将棋通信対局システムだった。すでに
個人ベースではあったが、将棋の通信対戦システムを始めている人がいた。ただし、まだ
商売にはなっていなかった。インターネットがまだ普及していないこの時代に、すでに通
信対戦ゲームができるところまで、個人でシステムを作り上げている人がいることに驚い
た。私は、これらの人を取材しながら、その運営のノウハウを身に付けられたのはラッキ
ーだのかもしれない。
●ファミコン将棋通信対戦
●ファミコン将棋通信対戦システムの立上げ
ァミコン将棋通信対戦システムの立上げ
そして、ファミコン将棋通信対局システムに出会うのである。このシステムを持ち込ん
できたのは、システム開発会社のT氏だった。彼は私が将棋ソフト会社をあちこち取材し
ていることを知って、コンタクトを採ってきたのだ。すでに、囲碁の通信対戦システムは
完成しており、T氏は将棋の通信対戦システムを運営する会社を探していたのだ。通信イ
ンフラは、NTT が開発したパケット通信の DDX-TP(現在の ISDN の前身)を使い、ハ
ードは任天堂のファミコンに通信アダプターを設置。対戦ゲームを運営するホストコンピ
ュータは、システム会社の IBM の大型コンピュータが受け持つ。あとは、将棋ソフトを
通信で使えるように開発をすれば、将棋のファミコン通信対戦システムができあがる。
私にとってはいうことのない条件だった。さっそく、ファミコンソフト会社とタイアップ
をして通信機能を付加してもらい、ファミコン通信対戦の運営を行うことにする。将棋は
通常1局が 100~120 手で終わるゲーム。手順は、1 手指すと、相手が考えて次の手を指
す。将棋は1手 1 手をパケット通信(データを分割して送受信する通信方式)で送るには
最適のゲームでもあった。このパケット通信を利用することで、日本国中であればどこで
も 1 時間電話回線を繋ぎっぱなしにしても1局 200 円程度で将棋が楽しめる。何よりも、
毎コミとしては、ほとんど開発費が掛からず、会員が集められれば毎月定期的な収入が入
る仕組みにも魅力を感じていた。将来、通信環境が向上すれば、この通信対戦事業は、大
きな事業になっていくだろうという予感もあった。つまり、将棋の通信事業が成功をすれ
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ば、コンテンツをスポーツやほかのゲームに展開すればいいわけである。
通信システムを立ち上げた当初は、会員が少なく相手がいないときが多かった。しかたな
く、週刊将棋部のアルバイト学生や将棋好きな編集部員が相手をした。ときには、1 人で
2面、3面指しということもあった。私としては、週刊将棋の読者だけでも 10 万人近く
いるわけだから 1,000 人の会員獲得はそれほど難しくはないだろうと考えていた。だが今
から考えると、1局が 200 円程度とはいっても、1 日2局対戦して 20 日間利用すると電
話代だけで 8,000 円かかる。それに月の会費が 3,000 円で計 1 万 1 千円。15、16 年前と
はいえ、趣味としては、毎月 1 万円以上の負担は大きかったのかもしれない。結局、運営
していく最低限の人数までは集められたが、目標の 1,000 人の会員までには至らなかった。
ただし、通信事業はその後も続けられ、その後、インターネットで 1 ヵ月千円の会費を出
すと囲碁・将棋・麻雀が好きなだけ対戦できるシステム「TAISEN」に変わった。
●エデュテメントソフトを開発
将棋通信事業と並行して行った事業が、CD-ROM によるエデュテメントソフトの開発
だった。PC雑誌などの取材で毎年米国のPC市場を見ていた私は、米国で広まりつつあ
るエデュテメントソフトに大きな関心があった。
エデュテメントソフトとは、エデュケーション(教育)とエンターテイメント(娯楽)
の合成語で、ゲーム感覚で楽しみながら学習することのできる教育用ソフトウェアの総称
である。米国では、イソップ童話、アンデルセン童話、グリム童話などが、動画で見られ
るようにソフト開発(CD-ROM 化)されて発売され、それなりの売上げを上げていた。
私は、これらのソフトで日本の実情にあったコンテンツの幾つかの翻訳権を手に入れて、
日本で販売することを考えていた。
そんな折、ちょうどタイミングよくマイクロソフト社から米国のシアトルで開かれる「エ
デュテメントフェア」の招待状が届いた。すぐさま申込みをして、意気込んでシアトルの
フェア会場に乗り込んだ。これぞと思うソフトメーカーと交渉を行うが、なかなか条件が
合わない。ついでなので、翻訳権などを扱う代理店などにも顔を出し、いいソフトがあれ
ば声を掛けて欲しいと依頼をする。その後、英語のレッスン・エデュテメントソフトやイ
ソップ物語などを題材としたソフトを紹介されるが、全体的に日本人の感覚に合うもので
はなくいまひとつ乗れなかった。実際にマーケッティングをしてみると、日本に合うソフ
トが意外に少ないのだ。
そこで、オリジナルのソフト開発を考え始める。最初は、伝を頼って英国BBCの動物の
ドキュメンタリーフイルムをベースにしたエデュテメントソフト「アニマル物語」などを
何本か出していたが、あまり芳しい売れ行きではなかった。「アニマル物語」は、コンテ
ンツはよかったのだが、想定外だったのが PC の機能だった。マックの上位機種はともか
く、一般ユーザーが持っている普及機では動画がうまく動かないのだ。スムーズに動くよ
うにするには、相当画像を粗く(密度を薄く)しなければならない。動画の動きを良くす
るためには、コンテンツの質を犠牲にしなければならない点が残念でならなかった。
●デジタル絵本「ペペロン村の四季」を発
●デジタル絵本「ペペロン村の四季」を発刊
を発刊
そんなときに、飛び込んできたのが、NHK エデュケーショナルとのコラボになるデジタ
ル絵本「ペペロン村の四季」の絵本作成と販売協力だった。絵本と CD-ROM のセットを
書店ルートで販売したいという。絵本作家の安野光雅氏が始めて出すデジタル絵本の企画
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で、コンテンツは申し分ない。さっそく内容を見せてもらった。
「ペペロン村の四季」は、安野氏がスパゲティのペペロンチーノが好きなことから命名
されたものだが、小さな村の四季折々に繰り広げられるイベント(キャンプファイアー、
クリスマス、教会での結婚式)や忙しく働くパン屋さん、川で魚釣りをして遊ぶ子どもた
ち、井戸の中で外に出ようと飛び跳ねている蛙などが、村一杯に描かれている。しかも、
子どもが楽しめるように、随所にクリックをする箇所があり、該当箇所をクリックすると、
キャンプファイアーを取り囲んだ子どもたちが踊りだしたり、パン屋さんが忙しく働き始
めるのだ。大島ミチル氏がオリジナル作曲した 100 曲以上の曲が、かわいい絵とピッタリ
あってすばらしかった。私は一目で気に入ってしまった。
このデジタル絵本つくりの編集プロダクションは、K社しかないと思った。K社は、も
ともと出版会社で働いていた編集者やデザイナーが作ったプロダクションで、小中学校の
テキストや教材製作などを得意としていた。話を持ち込むと、2 つ返事でやることに決定。
絵本の体裁をとりながら CD-ROM の使い方や解説となる本を作成した。この絵本の作り
には安野氏も満足してくれたようだった。余談だが、安野氏との打合せで囲碁が好きだと
知り、毎コミで販売していた碁のソフトを安野氏にプレゼントすると、大変喜んでくれた。
「ペペロン村の四季」は、定価 4,800 円で 6,000 本を作成、宣伝広告は自社媒体のPC
雑誌を中心に行ったが、残念ながら計画通りには売れなかった。実は、日本での CD-ROM
市場というのは非常に限定的で、しかも売っている店は一般の人がほとんど行かないよう
な小さな店ばかりだった。パソコンが好きなオタクを対象としているお店が多かった。
書店にも配本はしたのだが、並べられる棚はパソコンソフトが並んでいる棚で、対象と
するお母さんや子どもが行く絵本の棚には並べてもらえなかった。当時は、PCが一般の
人に十分普及をしている状況ではなかったため、やむを得なかったのだが。
一度、青山の「子どもの城」でデモを行ったときの「ペペロン村の四季」の人気はたい
したものだった。3~5 歳の子どもが、いったんデモ機であるパソコンの前に座ると、そ
のまま 10 分も 20 分も動かずに「ペペロン村の四季」に熱中するのだ。このときの即売で
はかなりの売れ行きを見せた。CD-ROM の内容を見せられれば、1 万本は売れたのでは
ないかと思う。
○ゲーム雑誌(ニンテンドウ64、セガサターンなど)を創刊
○ゲーム雑誌(ニンテンドウ64、セガサターンなど)を創刊
将棋ソフトや将棋書籍などを製作していたO氏が、ゲーム雑誌をやれないかと企画を持ち
込んできた。ゲーム雑誌は、パソコンと違いかなりマニアックな世界だったが、将棋をや
っている毎コミとしては、この分野の仕事を広げるのはまったく問題がない。
さっそく、ソニープレーステーション、セガサターン、ニンテンドウの各社を廻ってみ
た。どこも突然の訪問に戸惑い気味だったが。(次回以降に続く)
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