信仰の人アブラハム

信仰の人アブラハム
旧約単篇
創世記の福音
信仰の人アブラハム
創世記 12:1-9
朗読して頂いた記事は、その前の 14 行を含めて、創世記の要をなすと言わ
れる箇所です。どんな意味で要になっているのかは、以下の本文を追いなが
ら少しずつ語って行くつもりですが、11 章末から 12 章の初めにかけて、創
世記はアダムの子孫の失敗と不毛の歴史から、「信仰の人」の歴史へ、神の
選びによるアブラハム一族への招きへ発展します。新共同訳では二つの見出
し……「テラの系図」と「アブラハムの召命と移住」のところ、88 年に出た
第 2 版では、15 頁の上段 1 行目から下段最後の行までにキッチリ入っている
のが印象的でした。偶然そうなったのでしょうが、たまたまブルグマンの注
解書で「このテキストは創世記におけるかなめである」という文章を読んだ
後だったので、しばらくは 15 頁のレイアウトに見とれていました。
バベルでの人間の挫折の後に、セムの系図という形で七人の名が、セムと
テラの間に挟まって紹介されます。6 章の洪水のところに「人の寿命は百二
十年であれ」という神の宣言がありますが、12 章から後は大体そうなってい
ます。この数字は「汚染その他の悪条件さえ取り払われれば、純粋に生物学
的な見地から人という生物の生存限界は 120 年」という、東海大学の研究と
大体同一致します。その中で、特に使命と祝福を神から受けた人たちは、た
とえばヤコブが 130 年とか、アブラハムが 175 年とかいう実例があります。
このセムの系図を見ますと、5 章の 900 年……800 年という「アダムの系図」
の数字よりは少なめですが、セムの 600 年から、440、430 と徐々に減って、
テラの 205 年からアブラハムの 175 年へとリタルダンドしています。速くな
るのですからアッチェレランドかも知れません。この不思議な数列の意味は、
「百二十年」という主の意志が徐々に段階を追って実現して行く……という、
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創世記記者の詩のリズムと考えるべきか…………系図の年令にこだわるのを
お許しください。
先日 NHK の「歴史誕生」で、ロシア皇太子に切りつけて負傷させた津田
三蔵という人物を扱っていました。四日市でしたかどこかでは、「今後津田
姓を名乗ることを禁じ、三蔵と命名することを許さず」という条例が出て、
そのとき、「何とか三蔵」という人が町役場から改名を命じられたので、「こ
の三蔵という名は、私の名ではなくて、先祖伝来の屋号のようなものです」
と言って抵抗した話が出てきました。そのとき思ったのです。ノアとかセム
とかアルパクシャドというような名前は、そんな屋号のように、二三代続い
たのかな?(400 年─600 年の暖簾は珍しくありません)そしてアブラハム
あたりからは、その屋号も使われなくなって、一代一代の個人をはっきり区
別して、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という表記に変わっ
てゆく……という、そんな推移をこれらの年齢の数字に見るのは、興味をか
き立てます。
しかし「屋号」であったにせよ、個人の寿命であったにせよ、セムの系図
に現れる数列は、人間の生命力がまるで徐々に「ガス欠」になって行くよう
に、シュルシュルと萎んでついに、「不妊」という行き詰まりに終わります。
その萎んでゆくプロセスは、確かに、「セムの系図」をここへ入れた記者の
霊的意図に含まれていたろうと思うのです。さて、その「シュルシュル」の
極みに、この話はどうなるのか?
27.テラの系図は次のとおりである。テラにはアブラム、ナホル、ハランが
生まれた。ハランにはロトが生まれた。 28.ハランは父のテラより先に、故
郷カルデアのウルで死んだ。29.アブラムとナホルはそれぞれ妻をめとった。
アブラムの妻の名はサライ、ナホルの妻の名はミルカといった。ミルカはハ
ランの娘である。ハランはミルカとイスカの父であった。 30.サライは不妊
の女で、子供ができなかった。
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31.テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および
息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発
し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。32.
テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ。
この 14 行の中心は真ん中の 30 節、「サライは不妊の女で、子供ができな
かった」にあります。前の頁から 600→400→200→150→(シュルシュル)→
ゼロ……という“前置き”の効果を著者が考えて書いたかどうかは別として、
神なしにでも塔とメガロポリスを完成して結束しよう、人間の力がどれだけ
あるか、神にまで印象づけてやろう、という所まで来たその「アダムの末」
の正体がどうなったかの絵が、子孫ゼロ、行き詰まり。誇り高きアダムは自
滅という絵になって示されます。
現代人の我々がサライを見るとき、我々が考えるのは、不妊の原因は何か
……とか、自然のバラツキとして不妊は 0.何%くらいの率で現れる……とか、
そういうドライな角度からの計算になりますが、創世記の目はそれとは違い
ます。すべての歴史を、「人は神を仰がずに栄え得るか? 神抜きで独り歩き
しだした“人”は果して本当の意味で“人”として生きられるのか?」とい
う視点からだけ見ているのです。その意味ではこの「アダムよ、どこにいる
のか?」と言われた“肉なるもの”の代表としてのアダムとエバの「とどの
つまり」を代表するような、アブラムとサライという夫婦が、父のテラと一
緒にカルデアのウルを出てハランまでは来たものの、一族の命運は尽きた!
かに見えた……その絶望的な結末を、創世記は「不妊」の悲哀の中に読み取
らせたいのです。
ステファノの演説(使 7 章)では、アブラハムがこの 31 節より前の時点で
既に、「わたしが示す地へ行け」という命令を受けていたと言います。命令
は実際には父のテラに与えられて、テラが家族を連れてウルを出たのでしょ
う。ウルは当時の世界では、後のローマのような文明の中心でした。NHK
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テレビで「シュメール文明」を御覧になった方は、この巨大文明がまさに「人
間の実力の究極の産物」─“塔と都市”の典型であったことを知ります。
その“全能者人間”への賛歌のような文明都市ウルを、決然捨てて荒野に足
を踏み出したのが、テラの一族でした。
そのテラのキャラバンが、ハランに留どまった理由は何だったか……? 創
世記が、ステファノが言及したウルでの命令に触れずに、このハランでの、
アブラハム自身への命令を中心に置くのはなぜか?―解けない謎も残りま
す。恐らくアブラハムにとっては、父の信仰と父の言葉を通してだけ現実で
あった神の命令―「お前を生んで育てたシュメール文明と縁を切れ。わた
しが示す地へ行け」を、アブラハム自身が神を仰ぐ家の家長として受け止め
たのはこのハランで、父の死の直前くらいだったのでしょう。著者はこの命
令の再確認を特筆するに際し、「シュルシュル……ゼロ?」という罪の行き
止まりの道が、神からの新しい“お呼び”によって開かれて、そこから無限
に広がるのを見せるのです。
1.主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
2.わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
3.あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
4.アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。
アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。
神のお呼びによる救いの歴史の始まりです。お呼び“calling”と言えば、
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すでに 1 章のアダムへの御命令が“calling”でした。見出しの字で言います
と、「召命」です。「大辞林」には「キリスト教用語」として出ていますか
ら、昔はこの熟語は無かったものでしょう。でも、平ったく言えば、「お呼
び」です。「お呼びでない!」という植木さんのギャグが一時流行りました。
あと 20 年もすれば忘れられるでしょう。しかし、「お呼びである!」という
創世記のテーマは、神を仰ごうとする人が地上にいる限り今から後も、力強
く、霊の耳に鳴り響くのです。
アダムへの「お呼び」はこうでした。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を
従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(1:
28)「支配せよ」は、「好きなようにせよ」ではなく、「神の創造のお心に
従って、それぞれ生かして用いよ」です。実際、アダム自身が「神の像に」
造られたのだと創世記は明記します。「聖なる神はこんな方だ。神の慈しみ
と真実とを見よ!」―それを具現するのがアダムの果たすべき使命、アダ
ムの“calling”でした。惜しいかな! アダムはついにその「お呼び」を無
にしたのでした。
神はここで、被造物たる人の本来の使命、アダムに与えられてついに果た
されずじまいになった“聖なる務め”への「お呼び」を、アブラムという一
人の人物に、新たにお与えになります。アダムへの御期待は今やアブラム
―後にアブラハムと呼ばれるようになる人物に、改めて懸けられます。「神
の像としての実を、今度こそは示せ。地に満ちて、地を従わせよ。お前が触
れ合うすべての人に私の心を示してやれ。」
2 節の最後のお言葉、「あなたが祝福の源になるように、私はしよう。」
それに 3 節の後半の 2 行、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入
る」に注目してください。アブラハムは、実に生ける神の祝福を運ぶ器とし
て、「お呼び」calling を受けるのです。
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アブラハムへの神のお言葉は、前半が命令、後半が約束からなっています。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」
―これは命令です。全く見も知らぬ土地へ旅立て……と。その事だけを考
えるなら、無謀という以外に表現しようもない暴挙です。
約束の方は、2 節の 3 行に要約されています。「わたしはあなたを大いな
る国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源になるように
する。」未来ゼロ! という壁に突き当たっている一人の人に、無数の子孫に
よる繁栄と、幸いと栄誉とが約束されているのです。もしアブラハムが、バ
ベルの住民と同じ世界観に立つのなら、未来はすべて自分のイニシャティヴ
に懸かっており、自分の力の行き詰まりはすべての終わりです。しかし約束
というものは、「神の可能性にかけるか?」というチャレンジです。サライ
の不妊はアブラハム自身の、人間としての未来の行き詰まりと絶望を象徴す
る……と、先程申しました。その絶望を神が打ち砕いて、活路を開こうと、
神は言われます。果たしてアブラハムは信頼して、神の可能性に委ねられる
か……?
「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」(12:4)と言います。アブラ
ハムは主の約束を信じた! のです。そして、行き先も知らぬまま、主が「終
着点を示してくださる」という、その信頼で彼は出立したのです。そんなこ
とがどうしてできたのか?
5.アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハ
ランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入っ
た。 6.アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当
時、その地方にはカナン人が住んでいた。
7.主はアブラムに現れて、言われた。
「あなたの子孫にこの土地を与える。」
アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
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8.アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを
望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。
9.アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。
「主の御名を呼んだ。」`hw"hy>
~veB. ar'q.YIw:
は、単に「ヤハヴェ」hwhy と
いう神名を初めて口にした、ということだけではありません。自分の命と未
来に意味を与えるただひとりの方として、そのひとりの神に顔を向けた。そ
のお方だけを相手にして生きた。この時から、アブラハムにとっては、自分
の自信と実力が「成功」ではなくなりました。自分の無力と悲惨が「絶望」
ではなくなったのです。生ける神の主導権に委ねて、神が与える未来を希望
とする生き方に切り替えたという、12 章の決断の締めくくりが、この「主の
御名を呼んだ」という言葉に込められています。
前段の終わりで、「そんなことがどうしてできたのか?」という問いを出
したままでした。自分の現実の絶望から、神の約束の希望への切り替えが…
…です。多くの人は、それを一つの“賭け”のように考えます。どう考えて
も、根拠と必然性が理解できないからです。それは盲目的狂信のようにさえ
見える。
西洋の花びら遊びをご存じですか。「愛してる……愛してない……愛して
る……愛してない……」そして最後の花びらがどっちになるかで決めます。
それを利用して決心するのです。コインを投げるのもご存じでしょう。
“tossing up a coin”です。それで「エイ」と決める。アブラハムの出立は、
よく分からないで見ていると、それに似た「エイッ」に見えるかも知れませ
ん。そういう「思い切り」の良い人が、信仰の決断者ではないか……そうで
なければ、よほど超人的な精神力の持ち主か……? これらはすべて「外れ」
であることは、ヘブライ書の 11 章にある「信仰で」という主題の反復から分
かります。ヘブライ書の見方はこうです。
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アブラハムが出発できたのは……、またアベルが献げ物で主に喜んで頂け
たのは……、ノアがあの箱舟を建造したのは……、その時点で凄い精神力と
宗教エネルギーを燃焼できたからではない。本当は、あれを実行した時点ま
でに、“それほど信頼できる神”との付き合いがあった。アブラハムをあの
信頼の行為へ押し出す程の“歴史”が、まずあったのです。「アブラハムが
お呼びを受けたとき、行く先も知らずに出立できたのは“信仰で”
できたのだ!」というヘブライ書の反復主題の意味は、その時点ですでに、
それだけの信頼関係があった。いや、そんな神がアブラハムを捕らえていた
からだ。読者よ、アブラハムの快挙に感動するあまり、その快挙自体に幻惑
されるな。その前にあったものを見よ!
アブラハムにとって、それだけの信頼の蓄積を持たせたものはいったい何
だったのか……。父テラの中に見た神の業か……。彼自身もまたハランで「お
呼び」に応える以前に、信頼させずにはおかない神の決定的な証拠を、体験
していたのか……。ともあれ、彼はそこまで信頼できる神との歴史を持って
いたことに注目せよ―というのが、ヘブライ書の独自の視点です。私たち
の場合、一人一人が正味体で経験したイエス・キリストの血の力、復活の命
がそれだと言えるでしょう。最後にマルコ福音書 8:35 を朗読して、結ぶこ
とにいたします。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音
のために命を失う者は、それを救うのである。
「自分の命」は、破綻したアダムの末の命。「それを」は、同じ不妊の命
ではなく、アブラハムへの主の「お呼び」が与える命です。現代のアブラハ
ムも、このお呼びを受けています。
(1991/02/24,交野)
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