<神様の豊かさ> ヘブライ人への手紙 2 章 10~18 節 2012 年 2 月 19

<神様の豊かさ>
ヘブライ人への手紙 2 章 10~18 節
2012 年 2 月 19 日
私達が人生を歩む中で、恐れている事が多くあります。それを知ってみたら、心配してい
る事が過ぎてみたら、そんなに深刻な苦痛でもありません。また、死についても同じです。
人間の命という事が意外に簡単に切らないのです。クリスチャンとしての死は終わりでは
なく、もう一つ、永遠の世界の始まりなのです。しかし、私達は死について恐れ、生き苦
しく過ごしているのです。それはキリストによって恵まれたその恵みを知っていないから
です。
今日の御言葉を通してキリストからどういう恵みを与えられたのか、そして、その恵みが
私達の中にあるすべての恐れと暗闇と恨みを追い出して、大きな喜びと希望の中で、生き
る(歩く)恵みを知り、導かれたいと願っています。
キリストが私達のためになさった業を今日の 10 節で「と言うのは、多くの子らを栄光へと
導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な物とされたのは、万物の
目標であり、源である方に、ふさわしい事であったからです。
」と。神様は多くの子らを栄
光へと導く、この御業のために、救い主であるキリストが苦しみを受けるようにされたと
いう事です。ここの多くの子らとは私達です。キリストによって神の子になった者を示し
ています。元の私達は神様と離れていましたので、罪とその罪によって死の下にいたので
した。そういう私達が神の子になり、神の栄光へと導かれた事はキリストの苦しみを通し
て、完成したと言う事です。
ローマ書 3 章 23 節以下によっても「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなってい
ますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされ
るのです。
」ここの神の栄光は何でしょうか。
聖書が語っている神の栄光と言うのは神の豊かさ、神の充満さが外的に現れる事を神の
栄光と言うのです。エフェソの信徒への手紙 1 章 23 節を見ると、
「教会はキリストの体で
あり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
」この「満たして
いる方の満ちておられる場」と言うのが充満だと言えるのです。神様は宇宙の中で豊かさ
を表して下さったのです。この神様がお造りになった宇宙の大きさだけ考えて見ても、私
達はすぐ感じられるのです。
神の栄光と言うのは測り知れない宇宙の中で、全てを満たしておられる神様の充満さ、神
様の豊かさと充満さと言えるのです。
「多くの子らを栄光へと導く」と言う事はそういう宇宙の中で全てを満ちておられる神の
豊かさに入ると言う意味です。キリストの苦しみを通して、私達がその神の豊かさに入る
存在になったという事です。私達の人間をとても貴重な存在として創造なさったのです。
神様が天地創造をなさる時、一番、最後に創造したのは人です。しかも、人を造る時、神
様の動作がありました。主なる神は土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられ
た。創世記2章7節に記されています。それが神様の豊かさを私達に与えたという事です。
また創世記1章27節と28節を見ましょうか。「神に彼らを祝福して言われた。産めよ、
増えよ、地に満ちて地と従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せ
よ。
」これが初めに神様が私達に与えた神の豊かさと充満さなのです。
しかし、初めの人間アダムはその神の豊かさと充満さを逃したのです。神様の御言葉に不
従順になり、神様を離れて自らの人生を生きようとしたのです。その結果、神の豊かさと
充満さを失ってしまったのです。
罪の定義がこれです。私達の罪の基本的な観念は倫理・道徳的な「悪」を思い浮かべるの
ですが、罪についての真の定義は神の御心通りに創造された人間が自分を造った神様を離
れて自分の意志通りに生きようとする事、それが罪なのです。そして、その罪の結果、神
の豊かさを失った事です。
しかし、今日の本文によりますと、キリストが失った神の栄光を、回復し、私達がその神
の子になるようになさったのです。
神様はそのために、神の子、キリストが苦しみを受けるようになさったのです。救い主で
あり、創造主であったその方が、受肉され、人間の姿でこの世にいらっしゃったのです。
11節です「事実、人の聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つ
の源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
」ここ
で、聖なる者となさる方は勿論、キリストです。そして、聖なる者とされる人たちは、キ
リストによって神の子になった私達なのです。
さて、聖書はそのキリストと私達が兄弟になったと言うのです。キリストと私達が同じ家
族になったと言うのです。創造主なるその方が人間の姿でこの世にいらっしゃって被造物
である私達と兄弟になる事が出来るでしょうか。これはキリストが受けた苦しみの出発な
のです。12節はこう語っているのです。
「わたしは、あなたの名を私の兄弟たちに知らせ、
集会の中であなたを賛美します。
」これは詩編22編22節を引用した御言葉です。ここで、
あなたの名はヤーウェ神様でしょう。そのヤーウェ神様の名を兄弟たちに知らせたのです。
14節も同じ御言葉です「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスも、また同
様にこれらのものを備えられました。それは。死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の
死によって滅ぼし、
」キリストが私達と同じ血と肉を備えてきて十字架で死なれたその理由
は何ですか。死の力を持って死の力を発揮する悪魔の勢力を滅ぼすために来られたのです。
悪魔・サタンはこんにちも、世の中の人々が神の栄光に入る事が出来ないように邪魔をし
ています。または、すでに神の栄光に入っている者に、その事実を完全に忘れさせて生き
ながら、忙しくて不平を申し、不便の中、苦痛の中で、生きるようにするのがサタンの戦
略なのです。
どころで、キリストがこの世に人の姿でいらっしゃって十字架で死なれた理由が何か、そ
れは悪魔サタンの勢力を滅ぼすためです。
そうすると、キリストの恵みでその神の栄光に留まるようになったのは、何を意味します
か。具体的に15節がそれです。
「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを
解放なさるためでした。
」これが神の栄光に留まるクリスチャンの姿なのです。
この世の人々が一番怖く考えているのは多分、死でしょう。すべての人の心には死につい
ての恐れと死の病があるのです。
世の人々が熱心に働いてお金を儲ける理由が何ですか。色々理由があると思いますが、し
かし、究極的に、食べて生きるためです。はなはだしくは、クリスチャンもそれがあまり
にも重要な業になって、忙しく生きているのではないでしょうか。
しかし、キリスト、その方自身もサタンの働きによって十字架で死なれましたが、その死
に結ばれなくて三日目に蘇られて死に打ち勝ちました。言い換えれば、死を持っていたず
らをしていたサタンの力をキリストが折ってしまったのです。その上、より感謝するのは、
その復活の権能を持っていらっしゃるキリストが、私達のクリスチャンにも死に打ち勝っ
て永遠の命を約束して下さったのです。
年を取れば取る程、健康に関心多くなるのです。しかし、年を取れば取る程、より関心を
持たなければならないのが、天国についての希望なのです。私は天国を希望して生きてい
るか、ここにいる私達、全部は皆死ぬようになっているが、私は死について準備をしなが
ら生きているか、それを顧みなければならないのです。
第2番目に、こういうふうに、死の問題が解決出来たら、世の中で生きる事は言うまでも
ないのです。15節をもう一度見ましょう。
「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあっ
た者たちを解放なさるためでした。
」イエス・キリストがこの世にいらっしゃった理由は一
生奴隷の生活する私達を解放させるために、私達の中にいらっしゃったという事です。だ
から、食べて生きる事に心配し、それに結ばれて生きるのがよい表現では最善を尽くして
生きるように見えても、実は奴隷の生活をしているのです。
詩編37編23~25節に「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。
人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。若い時
にも老いた今も、私は見ていない。主に従う人が捨てられ子孫がパンを乞うのを。」人が行
く道を自分決め、自分の意志で熱心に生きても、自分の意思通りにならないのです。神様
がその道を導いて下さるからです。そして、私の志を決め、熱心に生きたけれども、自分
の意思通りにならなくて、今私の生活が崩れていて生き苦しくて暗闇の中にいたとしても、
その人が完全に倒れていることではないという事です。何故かと言うと、神様が今もその
人生を捨てないで、手をとらえているという事です。主に従う人がパンを乞うのを見たこ
とがないとおっしゃったように、主は選ばれた皆さんの人生について責任を持つと言う事
です。
神様が私の人生について責任を持って下さると言う信仰がある人がむしろより努力する
ようになっています。何の希望がない人は何の努力もしたくないのです。神様が私の責任
を持つと言う信仰の中で努力するのと、体がぼろぼろになる位、働きながらもいつも心配
する事とは、全然違います。キリストがこの世にいらっしゃって十字架で死なれる事と復
活の中で、私達が神様の栄光の中に留まるようにして下さった事はこういうふうな心配と
恐れの中で、私達を自由・解放させるためにいらっしゃったのです。
神の豊かさが私の弱さを握っているのを知るので、食べて生きるために、恐れでそんなに
忙しく生きるのが良い事ではないのです。
こんにち、クリスチャンの生活を代弁するのが、イスラエル民の荒れ野の生活なのです。
イスラエル民は出エジプトした後、ヤーウェ神様が約束した永遠のカナンの地、そのカナ
ンの地に入るまで、一時的にも、神様の保護から逃れた事がありません。驚くのは、一時
的にも神様の保護から逃れた事がないにも関わらず、イスラエル民は一時的にもその神様
を見上げながら満足し、感謝していないと言う事です。引き続き、彼らは恨んだり、不平
を申したり、しています。恨みだらけです。何もないし、これも出来ないし、あれも出来
ないし、イスラエル民をカナンの地に入るまで不平を申します。神様は天からマンナを食
べさせ、岩から水が出るようになさったりしてその人々の生活を守ったにも関わらず、彼
らは続けて恨んだりします。民数記14章4節を見ると、
「民に加わっていた雑多な他国人
は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。誰が肉を食べさせてくれ
ないものか。
」イスラエルの民は何故、不平と恨みの中にいるようになりましたか。彼らと
共にいた他の民族の姿を見ると、自分達も知らず、自分達の中に貪欲が入ったのです。自
分達を導いて下さる神様に感謝より、どうして、私達にはマンナだけ、食べてこういうふ
うに生きなければならないのですか。と恨んだのです。民数記 11 章 5・6節をみると、
「エ
ジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、ねぎやたまねぎやにんにくが忘
れられない。今では、私達のつばは干上がり、どこを見回りしてもマッナばかりでで、何
もない。」と。
私達の人生の前に与えられた苦難について人間は二つの反応が示されます。ある人はその
苦難のため、より深い困難に落ちてしまうのです。ある人はその苦難を乗り換えて、打ち
勝つことのように羽ばたく人もいます。鷲が鳥の王である理由は何ですか。他の鳥は嵐が
あったら、全部岩の隙間に中に隠れるが、鷲はむしろその時に、羽を開くのです。避けな
くてぶつかると言うのです。自分の体でそれを受け取ってむしろより高く羽ばたくように
なります。
さて、感謝するのは、その苦難を打ち勝ってより羽ばたくように主が助けると約束したの
です。
18 節をお読みいたします。
「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受け
ている人達を助けることがおできになるのです。
」
イエス様は公生涯の働きの前に荒れ野でサタンの誘惑に出会った事があります。その誘惑
を通してイエス様は私達・人間がどんなにサタンの誘惑に弱いかをよく知っています。
そういうイエス様が弱い私達を助けるために私達の中に留まっているという事がどんなに
力になるでしょうか。そういう弱さを責める事ではなく、憐れんで助けるために今も待っ
ているのです。であるなら、そのありのままで主の前に出なければならないのです。
うまく出来ない事を認めて主の前に自分の弱さを告白するのです。そして助けを求める
のです。その時、真の自由が与えられるのです。聖書で語る自由と言うのは、私が好きで
はない事をしないのが自由ではないのです。腹が立ちたい時、腹を立てるのが自由ではな
いのです。人はしたくない事を無理にすると、病気になります。腹を立てたい時、腹を立
てなければ、他の問題が発生します。それは世の中の人々の場合です。私達クリスチャン
達はそうではありません。私達のクリスチャンには出口があるのです。今日、語っている
のです。時にはしたくもないで、することも出来ない事を私達にしたくなるようにしたり、
出来るようになさる主がいらっしゃるのです。腹が立てたいのですが、腹を立てる事が出
来ないそういう状況の中で、涙と大きい祈りの声で訴える主がいらっしゃるのです。
信仰生活の中では、時にはしたくない事をしなければならい事がある時があります。イエ
ス様がはっきり語っています。マタイによる福音書 16 章 24 節です。
「それから、弟子たち
に言われた、わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従
いなさい。
」
誰でも自分の十字架が軽い人がいるでしょうか。誰でも重いのです。負担ですから背負わ
なくてもいいのではなく、重くも自分の十字架を背負ってイエス様に従う事がクリスチャ
ンの人生なのです。自分が背負いたくない事を背負わない事が自由かと言ってはだめなの
です。それは自由な人生でも、主が願っている人生でもないのです。
ガラテヤの信徒への手紙 5 章 13 節です。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召
し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互い
に仕えなさい。
」その自由です。私がしたくない事をしない事が自由ではなく、
私達が私達の弱さのために、私達がしなければならない事や耐えなければならない事や我
慢しなければならない事を弱いからしなかった時、罪意識を持たなくてもいいです。弱さ
の中で罪意識を持たなくても大丈夫です。そうしたら、自分の十字架を背負う自信もなく
て背負わなければならない十字架、夫々の自分の十字架をどうしたら克服できますか。今
日の 18 節がその答えなのです「事実、ご自分、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を
受けている人たちを助ける事がおできになるのです。」ガラテヤの信徒への手紙 5 章 16 節
も同じでしょう。
「私が言いたいのはこういう事です。霊の導きに従って歩みなさい。そう
すれば、決して肉の欲望を満足させるような事はありません。」
主よ、主が願う人生がこれでしょう。
ところで、主よ、到底そんな人生を生きる自身がないのです。
こういう弱い私を憐れんでお助け下さい。
こういうふうに、祈れば不思議に私の真の自由が与えられるのです。その
真の自由は何でしょうか。昔だったら退き、避けたい事だったのに、いつの瞬間からか、
それがしたくなるのです。出来る気がします。これが主から与えられる自由であり、これ
が主から与えられる働きなのです。
終りに私達、自らは神の栄光に入る事が出来ないのです。しかし、主は私達をその栄光に
入られるようにし、こんにちもその栄光を享受出来るようにしてくださいました。それは
何ですか。主に求めましょう。主に助けを求める時、この世を心配する段階ではなく、キ
リストの豊かさを享受しながら生きられるのです。この恵みが皆さんと私がありますよう
に願います。