ラカンが私たちに示しているのは、主体性についての根本的に新しい理論

序 3
序
ラカンが私たちに示しているのは、主体性についての根本的に新しい理論
である。まさに人間主体という観念を脱構築したり、一掃したりすることを
目指している大方のポスト構造主義者とは異なり、精神分析家ラカンは、主
体性という概念が避けがたいということを見いだした。彼が探求したのは、
主体であるということが何を意味するのか、どのようにして人は主体になる
「主
のか、(精神病へと至るような)主体になり損ねる条件とは何か、そして、
体性のせき立て precipitation」を誘導するために分析家が自由に使える道具
だてについてであった。
とはいえ、ラカンが主体について語る際の様々なことがらをひとつなぎに
することは極めて難しい。というのも、彼の主体の理論は、多くの人にとっ
てはあまりに「非直観的」であり(「主体とはあるシニフィアンが別のシニフィ
アンを表象することである」とラカンが何度も口にしている「定義」のことを考
えてみよう)、また、彼の著作のなかで大幅に進展していくからである。さ
らに言えば、1970年代終わりから1980年代にかけてのアメリカでは、言語に
ついて、そしてエドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」についての彼の
仕事をめぐる議論のせいで、ラカンはおそらく構造主義者として知れ渡って
いた。英語圏の読者がしばしば親しんでいるラカンは、いたるところで構造
のはたらきを暴きだすラカンであり――最も大切で疎外しえない「自己」と
考えられているもののまさにその核においてすら暴きだす――、一見すると
主体性の問題系を完全に脇に置いているラカンであろう。
私は本書の第 1 部で、
「他者性」についての極めて射程の広いラカンの考
察を追跡している。この他者性は、いまだ〔何者であるか〕特定されていな
い主体にとっては、よそものか外来性のものである。その他者性は、困った
ことに、無意識(言語としての〈他者〉)や自我(想像的他者[理想自我]と欲
望としての〈他者〉[自我理想]) から、フロイトの超自我(享楽としての〈他
者〉
)にまで及ぶ。次のような場合に、私たちは疎外されることになる。あ
る意味で自分自身の生命を持った機械やコンピューターや録音集積装置のよ
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4 うに機能している言語が、私たちの口をとおして語る場合。両親の要求(要
から生じるものとして定式化される。すなわち、主体――存在欠如している
求としての〈他者〉)によって、私たちの欲求や快感が、社会的に受け入れら
主体――とは、〈他者〉の欲望との関係であるか、もしくはそれに対してと
れる形へと組織化され方向づけられる場合。そして、私たちの欲望が、
〈他
られるひとつの構えであるとみなされるのである。この〈他者〉の欲望は、
者〉の欲望として生じる場合、である。ラカンがセミネールや著作のなかで
根本的に、スリリングでありながらも気力をそぐようなものであり、魅力的
絶えず主体について語っているまさにそのときに、たいていの場合脚光を浴
でありながらも圧倒的で嫌悪感を引き起こすものである。
びているのは、
〈他者〉であるように思える。
子どもは、両親の欲望に値するものとして、彼らから承認されることを望
しかしながら私たちは、ラカンの仕事のなかで構造や他者性という概念が
むわけだが、彼らの欲望は、催眠的な効果をもたらしながらも死に至らしめ
最大限拡張されるまさにそのときに、構造が終わって何か別のものが、すな
るようなものでもある。主体の心もとない現実存在が維持されるのは、幻想
わち構造に異議を唱えるものがはじまる場所を知ることができる。ラカンの
によってである。幻想は、誘惑と嫌悪とを巧妙に天秤にかけながら、主体に、
仕事のなかでは、構造に異議を唱えるものは二つある。すなわち、主体と対
危険な欲望から適切な距離をとらせるようにできているのである。
象(欲望の原因としての対象 a)である。
しかし、私の意見からすると、固着したものとしての主体、症状としての
本書の第 2 部で見ていくのは、ラカンが、初期の仕事においては現象学的
主体、享楽に「尻込み」したりそれを獲得したりする反復的で症状的なあり
な概念から出発しつつも、1950年代には、主体を言語ないし法である〈他
方としての主体は、ラカン的主体の一側面にすぎない。1960年代半ばのラカ
者〉に対してとられるひとつのポジションとして定義していることである。
ンは、幻想によってもたらされる存在感を「偽りの存在」と呼び、この「偽
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つまり主体とは、象徴的秩序との関係である。自我が想像的領域の観点から
りの存在」以上の何かがあることをほのめかしている。
定義されるのに対して、そのような主体は、本質的に〈他者〉に対する位置
十分に予想されることではあるが、ラカン的主体の第二の側面が現れるの
どりなのである。
〈他者〉についてのラカンの考えが進展するにしたがって、
は、その固着を克服すること、幻想を組み替えることあるいは横断すること、
主体は、〈他者〉の欲望(母の欲望、親の欲望、あるいは両親の欲望)に対して
そして、享楽をはねつけたり獲得したりするための手段を転換することにお
とられるひとつの構えとして概念化され直す。この〈他者〉の欲望は主体の
いてである。それは、主体化 subjectivization という側面、つまりそれまで
欲望を喚起する、つまり、対象 a として機能する。
はよそものであった何かを「自分自身のもの」にするプロセスなのである。
(極めて図式的な観点からラカンの理論の進展を追うと)彼は、フロイトの最
このプロセスを通じて、〈他者〉の欲望に対するポジションに完全な逆転
初期の仕事( 1 )や自身の精神分析実践からますます影響を受けながら、主体が
が起こる。人は、〈他者〉の欲望に対して、つまり、自分自身を存在させた
それに対してひとつの構えをとる何かを、快感/苦痛ないしトラウマの原初
外来性の力に対して、責任を引き受ける。人は、原因としての他者性を自分
的経験とみなしはじめる。主体は、フランス語で享楽 jouissance と呼ばれる
自身で担うのである。つまり、それまでは外的で異質な原因として経験され
根源的で圧倒的な経験に引き寄せられつつも、それに対して防衛するという
ていたものを、あるいは、自分の世界がはじまるそのときに自分とは無関係
仕方で生起するのである。享楽とは、過剰な快感であり、圧倒されたり吐き
に振られた賽を、主体化するのである。ここでラカンが示唆しているのは、
気を催したりする感覚へと誘われる快感であり、なおかつ魅惑の源となる快
被分析者のパラドックス的な動きである。分析家の側の特殊なアプローチが
感である。
この変更を準備するわけだが、この動きとは、自分自身の現実存在の原因
1950年代終わり頃のラカンは、
「存在」を次のようなものだと考える。す
――自分をこの世界へともたらした〈他者〉の欲望――を主体化し、自分自
なわち、享楽というトラウマ的経験をもたらす対象と幻想的な関係を結び、
身の運命の主体になることである。
「それが私に起こった」のではなく、
「私
そのことによってはじめて人間主体として認められる何か、である。享楽と
が見た」のであり、
「私が聞いた」のであり、
「私がやった」のである。
いう主体の根源的経験は、最終的に、
〈他者〉の欲望とのトラウマ的出会い
ラカンは、フロイトの「それがあったところ、そこに私はあらねばならな
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6 い Wo Es war, soll Ich werden」を様々なやり方で訳しているのだが、以上
ラカンは対象を原因として練り上げているわけだが、彼にとっての原因と
のことからその要点を次のように言うことができる。他者が運命の糸を操る
は、構造や体系や公理系の領域の円滑な機能をひっくり返し、アポリアやパ
(私の原因として振る舞う)ところに、私は、私自身の原因として生じなけれ
ラドックスやあらゆる種類の難問へと導くものでもある。その原因としての
ばならない( 2 )。
対象は、世界を象徴化するために私たちが用いる言語や枠組みが破綻してし
まう場所で出会われる現実的なものである。私たちが、すべてのものについ
(本書の第 3 部で詳細に論じている)対象について言うと、それは主体の理
て説明し語り尽くすためにシニフィアンを用いようとするとき、つねにそこ
論に沿って展開している。主体は、最初は〈他者〉に対するひとつの構えと
には文字が残る。
して捉えられ、次に〈他者〉の欲望に対するひとつの構えとして捉えられて
すなわち、対象はひとつ以上の機能を持っているのである。対象は〈他
いるが、まさにそれと同じように、対象は、まず自分自身に似たひとりの他
者〉の欲望として機能し、主体の欲望を誘い出す。しかしまた、文字、ある
者として捉えられ、最終的には〈他者〉の欲望に等しくなる。両親の欲望は、
いはシニフィアンのシニフィアン性(シニフィアンス signifiance)として機能
物質的な意味で子どもをこの世界にもたらし、子どもの存在そのものの原因
し、通常の種類とは異なる快感と結びついた物質性ないし実体を持っている。
として、そして結局は子どもの欲望の原因としてはたらく。子どもは、自身
ラカンは性的な欲望(欲望ないし欲望することの快感のことであり、彼はこれを
の欲望を引き起こし、誘い出し、刺激する対象との関係から自分自身を見い
「ファルス的享楽」、より正確には「象徴的享楽」と呼ぶ)を、通常の種類とは異
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だすのだが、そのためのポジションを設定するのが、幻想である。
なる快感(「〈他なる〉享楽」)から切り離しているが、それはある意味では対
欲望をどういうわけか満足させるような何かとしての対象ではなく、欲望
象 a の多価性に導かれてのことである。
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の原因としての対象についての理論と考えることで、ラカンによる分析技法
私たちは、このような対象の二つの側面から、つまり a と S(A
/ )から、
の革新についてある程度理解することができるようになる。彼は次のような
性差を理解することができる。性差については、これから英語圏のラカン研
観点から分析家の役割を概念化し直す。ひとつは、分析家が避けるべき役割
究が把握しなければならないもので、それは現在流布している「解釈」をは
という観点である。それは自我心理学のアプローチに暗に示されているよう
るかに超えている。それらの「解釈」によれば、男が主体を指し女が対象を
な想像的他者の役割、審判する他者の役割、すべてを知っている〈他者〉の
指しているとラカンが主張しているだとか、男性性を能動性や所有と同一視
役割である。もうひとつは、分析家が担うべき役割という観点である。それ
し女性性を受動性や非所有と同一視するフロイトの古い落とし穴にラカンが
は被分析者が、自らを生じさせた外来性の原因を自分自身の手でますます主
はまっているだとか言われる。
体化していくために、主体の幻想のなかで演じなければならない分析家の役
では、主体の二つの側面と対象の二つの側面は、パラレルで二元的な対立
割、すなわち対象 a である。
なのだろうか。私はそうは思わない。そうではなく、これらの二つの側面は、
分析セッティングについてのラカンの考え方からすると、分析家は「良い
私が「ゲーデル的構造主義」と呼ぶものの形式であり、そこではあらゆる体
対象」や「ほど良い母」
、あるいは、患者の弱い自我と同盟を結ぶ強い自我
系が、それ自身のなかに含み込む他性ないし異他性によって不完全なものに
として要請されるのではない。むしろ分析家は、謎としての欲望というポジ
させられる。
ションを維持することで、主体の幻想のなかの対象という役割を担わなけれ
ばならない。そうすることで、幻想を組み替え、享楽に対する新たな構えを
本書の第 4 部で取り上げている精神分析のディスクールの地位は、合衆国
とらせ、新しい主体のポジションをもたらすのである。それを成し遂げるた
のような科学主義的コンテクストのなかで実践している臨床家にとっては、
めに分析家が自由に使える道具のひとつが、時間である。可変時間セッショ
避けがたい話題である。医療制度が2000年までに事実上すべての心の病気を
ンは緊張を生みだすための手段だが、その緊張は〈他者〉の欲望に対する幻
「征服する」ようになる、とワシントン州にある国立精神保健研究所の所長
想化された関係から主体を分離させるのに必要なものなのである。
は憚ることなく語っている( 3 )。また、遺伝子がアルコール依存症や同性愛、
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8 恐怖症、統合失調症、その他諸々の「原因である」、と多くの論文が毎日伝
について、説明することが必要になってくるからである。
えている。そして、精神分析の基盤への素朴な科学主義的な攻撃が、精神分
ラカンが彼のキャリアのなかで何度もつくり直している概念を私は本書で
析の信頼性に大打撃を与えるものになるとみなされている。そのような環境
取り上げようとしているのだが、それには次のものが含まれている。想像的
にあっては、分析家や精神分析に傾倒する人は、自らの領域の認識論的地位
なもの、象徴的なもの、現実的なもの。欲求、要求、欲望、享楽。言明の主
について知的に論じるだけの用意がなければならない。
体、言表行為の主体(ないし話す主体)、無意識の主体、分裂した主体、防衛
というのも、今のところ理解されている意味での「科学」としての科学を
としての主体、隠喩としての主体。父性隠喩、原抑圧、二次的抑圧。神経症、
構成しないうちは、精神分析が、現存する医学的ないし科学的制度に自らの
精神病、倒錯。シニフィアン(主のシニフィアンあるいは一のシニフィアンと
正当性を要求しても無駄だからである。ラカンの仕事は、精神分析をディス
対をなすシニフィアン)、文字、シニフィアン性。(欲望のシニフィアンとして
クールとして構成するための手段を私たちに与えてくれる。そのディスクー
の)ファルス、ファルス関数、性差、ファルス的享楽、
〈他なる〉享楽、男
ルは、歴史的に見て科学の誕生に依拠していながらも、いわば自分自身の二
の構造、女の構造。疎外、分離、幻想の横断、
「パス」
。句読法、解釈、可変
本の足で立っていられるものである。ラカンによって概念化された精神分析
時間セッション、純粋な欲望そのものとしての分析家の役割。現実存在と外
は、単にそれ固有の土壌を持ったディスクールであるだけでなく、(学術的
存在。四つのディスクール(主人のディスクール、ヒステリー者のディスクール、
なものであれ科学的なものであれ)自分以外の「学問領域」の動因や盲点を照
分析家のディスクール、大学のディスクール)
、それらの動因、それらに伴う犠
らしだしながら、それらの構造とはたらきを分析することができるディス
牲。知、誤認、真理。ディスクール、メタ言語、縫合。形式化、極性、伝達。
クールでもある。
この序で示された道案内によって、私が列挙したこれら幅広い概念群のなか
ラカンは、通常理解されているような意味での科学に精神分析的な考え方
で、読者が木と森を区別することができれば幸いである。
を導き入れることによって――すなわち、ある意味で、科学的研究の対象を
第 1 部のそれぞれの章は、ラカンの著作に関する知識を前提にしなくても
定義し直すようなやり方で科学の最前線を押し返すことによって――、科学
すむように、簡潔さを狙っている。第 2 部と第 3 部、第 4 部は、先行する部
を根本的に変革する可能性を指摘している。ある人が主張しているように精
分を基盤として積み上がりながらだんだんと複雑なものになっていく。読者
神分析はこれまでもこれからも科学の領域の外に居続けるよう定められてい
によっては、最初のうちは(第 5 章、第 6 章、第 8 章のような)内容の濃い章
るとみなすのではなく、むしろラカンは、科学のほうがいまだに精神分析を
を飛ばして、たとえば、対象 a について論じている第 7 章から、ディスクー
とり入れるという使命に耐えられないのだと指摘する
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。いつの日にか科学
ルについて論じている第 9 章と第10章へとすぐに読み進めてもらってもかま
のディスクールは、おのれの敷地のなかに精神分析を囲い込むようにつくり
わない。多くの章がそれ以前に書かれたものの上に築かれていて、時にはそ
直されるのかもしれない。だがその間に、精神分析のほうは、臨床実践と理
れらを参照することもあるが、それぞれの章は独立したものとして読むこと
論構築という精神分析固有のプラクシスを練り上げ続けることができるので
ができる。ラカンの仕事についての多くの予備知識を持っている読者は、お
ある。
そらく、第 1 章はすべて飛ばそうと思うだろうし、最初の部分はパラパラめ
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くるだけで、すぐに第 5 章へ行こうとさえ思うかもしれない。
ここでの簡潔な素描は、私の議論のおおまかな道筋を示している。なので
これが、この本を読むなかで必要とあらば時々戻ってくるべき道案内のよう
本書のなかで私が広く狙いを定めているもののひとつは、臨床的考察を棚
なものとして読者の役に立てば幸いである。というのも、ここでは主体、対
上げしないようなコンテクストのなかに、ラカンの仕事についての議論を位
象、
〈他者〉
、ディスクールを主要な概念として展開したが、それらを文脈の
置づけ直す作業に着手することである。アメリカにおいては、精神分析コ
なかで論じるためには、さらに多くのラカンの基本概念について、そして、
ミュニティが今日に至るまで何十年もラカンの思索を拒んできた一方で、文
それらを使いながら分析経験を定式化しようとする彼の生涯を通じての試み
学者と言語学者がラカンの仕事に忍耐強い多大なる興味を持ち続けてきた。
序 11
10 こういった状況の歴史的で知的な理由づけは、繰り返すまでもなくあまりに
ル』を下敷きにして授業を行い、特定の概念の段階的発展(精神分析の倫理
よく知られたことだが、私からすると、その末路は、ラカンの思索の歪めら
を発展させた第 7 巻や、転移を発展させた第 8 巻など) を追ってきた。そのよ
れた部分的な表象であった。この本は、特に臨床家を念頭において書かれた
うな積極的で創造的な精神が活動しているのを垣間見る際の私の興奮は、し
というわけではないが( 5 )、精神分析というプラクシスを行った私自身の経験
ばしば彼のテーゼを見極める際につきまとう困難によって邪魔をされた。ラ
が、この本の背景を形づくっていると信じている。
カンの『セミネール』を徹底操作することは、精神分析をまじめに学ぼうと
する者にとって重要な課題であるが、私の経験からすると、そのためにはた
私は、本書において、ラカンの仕事についての「バランスのとれた」見解
くさんの目印が必要である。それがなければ、見込みや方針がまったく立た
を提示しているなどとうそぶくつもりはない。バランスのとれた見解を提示
ないのだ。
するとなれば、ラカンの思索の発展についての膨大な量の歴史的視野を与え
ラカンの著作を解釈するという課題は、プラトンやフロイトの著作を解釈
なければならないだろう。そのためには、シュールレアリスト、フロイト、
するのと同じように切りがない。だから私はこれを語り尽くしたと大げさに
現象学、実存主義、ポスト・フロイト派、ソシュール、ヤコブソン、レ
言うつもりはない。ここで私が示しているのがひとつの解釈にすぎないとい
ヴィ = ストロースなどからの多岐にわたる(少なくとも初期の頃に受けた)
うことをはっきりさせておかなければならない。とりわけ、第 5 章と第 6 章
影響を説明しなければならなくなる。そして、彼が行った精神分析理論への
で提示しているラカン的主体についての理論は私独自のものだし、第 8 章の
介入を、フランスや他の場所で当時行われていた議論の文脈のなかに位置づ
性差についてのラカンの仕事についての読解も同様にオリジナルなものだ。
けなければならないだろう。
その代わりに、私は、おそらく多くの人によってかなり静的で閉じたもの
補論では、本書での議論の全般的流れを維持するためには専門的すぎる材
とみなされているラカンの作品に対してひとつの見解を提示しようと思う。
料を扱っている。補論は、言語の構造についてのラカンの詳細なモデルや、
彼の仕事の多くの魅力のひとつは、まさに、ラカン自身がなした絶えざる変
その構造のなかに出現する例外的なもの(対象 a)が引き起こす効果に関わっ
更や自己修正、そしてパースペクティブの逆転のなかにこそある。私は、ラ
ている。
カンのいくつかの主要な概念について、1930年代からのそれらの進展をたど
本書の最後に掲載している用語解説には、本書で論じられている(「マテー
るのではなく、1970年代のパースペクティブから、ひとつの見解を示そうと
ム」として知られる)主要な記号についての簡単な解説がある。ラカンのマ
思う。私は、折にふれて、初期のラカンによる精神分析の経験の定式化を、
テームは、膨大な量の概念化を圧縮し具体化しているので、私は用語解説の
後期の彼の用語へと「翻訳する」ことによって、読者に示そうとしている。
なかでそのマテームの最も際立った特徴を要約しようとしている。とはいえ、
とはいえ概して、臨床家にとっても理論家にとっても特に力強く有益である
マテームを適切に用いるには、ラカンの理論的枠組みの全体にわたる確固た
と私が考えるラカンの理論の一断片を提供している。たしかに、ラカンの初
る理解が必要になる。
めの頃のセミネールで見うけられる「満ちた」パロールと「空虚な」パロー
私は、ラカンの著作を引用するときには、可能な限り英語版の参照を入れ
ルといったような対立は、彼の後期の仕事においてはなくなったと考えられ
ているが、既存の英訳がますます目に余るものになりつつあるので、かなり
る。それはそれで興味深いのだが、それらについての解説は他の人に任せた
自由に書き換えている。“Écrits 1966” と表記されているものは、パリのスイ
い
。
(6)
ユ社によって出版された『エクリ』のフランス語版を参照している。他方、
私はラカンの思索に対して、特定の発展を強調し、別のものは強調しない
“Écrits” とだけ表記したものは、ノートン社から出版されたアラン・シェリ
という仕方で句読点を打っている。そうすることで、読者が、すでに出版さ
ダンによる1977年の英語版選集を参照している( 7 )〔英訳版の扱いについては凡
れていたりこれから出版されるであろうラカンの膨大な量の仕事をより良く
例を参照〕
。『セミネール』の第 1 巻、第 2 巻、第 7 巻、第11巻の頁数は、
見定める助けとなれば幸いである。私は、何年もの間ラカンの『セミネー
ノートン社から出版された英訳の頁数に対応している。『セミネール』を参
12 照するときは、基本的に巻数だけを示しているが、きちんとした文献指示は
参考文献一覧のなかにある。フロイトの著作を引用するときは、スタンダー
ド・エディション(以下 SE と略記) の巻数と頁数を示しているが、場合に
よっては、「スタンダードではない」が興味深くて的をえた翻訳をもとにし
て、私が訳を修正しているところもある。
1994年 4 月