2010年8月 - 阿佐ヶ谷教会

信友会 修養会 特集
テーマ「救いの恵みに、私たちはいかに応えるか」
2010年度信友会修養会基調講演
テーマ:
「地の塩、世の光として」
大村
栄
牧師
教会標語の、
「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背
負い、救い出す。
」は、バビロンで活動した第2イザヤの悲痛な預言
です。バビロン捕囚の中で、ユダヤ人はバビロンの偶像崇拝の宗教
に悩まされ、
屈辱を受けながら生活することを余儀なくされました。
辛うじて残されたユダヤ人に、造りものでしかない異国の神に悩ま
されないで、自分たちの本来の神を思い出し、その神に帰すること
を促しています。
「あなた方が生まれた時から負われ、母の胎を出た
時から担われてきた。わたしはあなたたちの老いる日まで白髪にな
るまで、背負って行こう」と言ってくださる神に帰ろうと語っているのです。
1973年の創立記念日(創立49周年)の翌週に、左近淑先生がこの聖句から「歴史を背負う神」という
説教をされました。この時代は、阿佐ヶ谷教会の歴史の中で「低迷の時代」と位置づけられました。70年安
保、ベトナム戦争など混乱の時代であり、教会から多くの人々が去り、阿佐ヶ谷教会もその埒外ではありませ
んでした。この説教の概要は、50年史や80年史にも記載されていますが、
「われわれが本当に宗教の深みに
ふれるのは、こうした(背負い込む)方に思い至る時であり、悩みと苦しみの日にこそ、私たちのそむきと強
情の者をじっと背負っている神がはっきりわかる」
。困難なときに、神によって支えられ、担ってくださる神の
姿勢に励まされるばかりでなく、神は生涯私たちを担ってくださるのです。滝藤正廣さんがこの説教に大きな
刺激を受けたことを告白されましたが、この説教に立ち会った若い人々が現代の阿佐ヶ谷教会を担っています。
阿佐ヶ谷教会の歴史を支えた説教のひとつであったと聞いています。
「フットプリント」
(足あと)という有名な詩があります。イエスと共に砂浜を歩んだ者が、その歩みを振り
返ると、二人の足あとが、一番苦しかった時に一人の足あとのみしか残っていなかったので、その理由をイエ
スに尋ねると、あなたが最も苦しんでいた時に、
「私が」あなたを背負って歩んだと答えてくださったという詩
です。
内村鑑三が残した言葉に、I for Japan, Japan for World, World for Christ, and All for God(わたしは
日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、すべては神のために)があります。私は神の
者であり、神のご用のために働くことの決意を示した言葉です。
教会標語を受けて、この時代を生きる方法や教会のあり方を考えるために、マタイ福音書の山上の説教の、
「地
の塩、世の光」を取り上げます。ここでは、地の塩、世の光であると断定されているのであり、ありたいと言
う願望ではありません。塩は、腐敗を止め、味を引き立たせるなどの働きをしており、目立たないが大切なも
のです。ラテン語ではサルで、ソルト、サラリーの語源です。ローマ時代にはサラリーを塩で支払われたほど
貴重なものでした。日本には塩について、上杉謙信の「敵に塩を送る」という言葉があり、料亭では清めとし
ての「盛塩」があります。また、いやな客が帰った時など「塩をまけ」と言ったりします。
私たちにとって「地の塩」は、社会でのあり方として、手に汗して働くことが重要であること、そして目立
たなくともその効果的な働きが世を動かすことになります。バブル時代の濡れ手に泡のような安易な時代は幻
想になりました。一生懸命働くことが求められている社会の方が良いと思いのです。
この「地の塩」の究極がイエス・キリストであります。キリストは、貧しい馬小屋に身を置き、救いのため
に労苦し、すべての人のために十字架上に命を差し出しました。塩のように自らは溶け去って他者を生かすこ
とを、身をもって教えてくださいました。
「世の光」は、地の塩とは対照的にしっかりとねらって輝きを示すものです。
「山の上にある町は隠れること
は出来ないし隠れてはいけない」。ここの表現には時代的な背景があり、エッセネ派の原理主義的な集団で「死
海写本」を残したクムラン宗団が自らを光の子と称したことにあります。彼等は光の子と言いながら修道院の
中で厳格な禁欲生活を行い、俗界から身を隠していました。ここでは彼等の批判として自己満足的な生き方を
否定する表現になっています。光の子として世のために働かねばなりません。光は隠れていては効果を発揮し
ないのです。燭台の光は家の中すべてを照らしだします。家は、ギリシャ語ではオイコスで、オイクメネーは
民族、世界の意味になります。これはエキュメニスムの語源でありプロテスタントとカトリックの教会一致運
動に使われました。世の光としての働きは、世界全体を照らし、世界を一つにすることにつながって行くので
す。
開会礼拝において、五十嵐先生がジョン・ウェスレーについての話をしました。ジョン・ウェスレーは、
「世
界はわが教区」(World is my parish)と語り、牧会の範囲を世界へと広げました。福音により救われたキリス
ト者の証しによって世界は一つになるという思
想からです。
エフェソの信徒への手紙
5章6∼13節に
「光の子として生きる」があり、8節には、
「あ
なたがたは、以前は暗闇であったが、今は主に
結ばれて光となっています。光の子として歩み
なさい。また、光から、あらゆる善意と正義と
真実とが生ずるのです。身を結ばない暗闇の業
に加わらないで、むしろ、それを明るみに出し
なさい」とあります。私たちには世の闇を照ら
し出す務めがあります。
ジョン・ウェスレーに戻りますが、メソジス
ト 教 会 は 、 本 質 的 に は 社 会 的 宗 教 (Social
Religion)でありセンチメンタルなものではありませんでした。メソジスト運動では、教会形成のほか、学校並
びにセツルメントなどの社会事業の三つの柱によって進められました。日本においても、青山学院、関西学院、
東洋英和など沢山の学校が造られ、農村伝道でも、長野におけるノルマン宣教師や洞爺丸台風で女性にライフ
ジャケットを渡し亡くなったストーン宣教師などの活動があります。バット博士のララ物資や下町でのセツル
メントの働きも私たちメソジスト教会の働きです。教会から出て社会的な働きをする人としては、当教会でも、
田中久雄さんのネパールの村興しやアジア友の会、木村吉男さんの「アジア友好の家」の働き、チャイルド・
ファンド・ジャパンにも教会員が関わっていることを知っています。
また、企業の社会的貢献(CSR)は、企業のイメージアップのためだけでなく社会的な貢献を目指すよう
になって来ています。コンプライアンス(法令順守)も今日の課題となっています。しかし、これがなぜ必要
なのかを示すモチベーションをもっているのは、私たち教会です。私たちキリスト者には、見ている方がいる
こと、どんな合理性や倫理性よりも、神との関係において正しく生きることの大切さを知っているのです。私
たちには「世の光として生きること」の原点を示す使命があります。見ているとかいないとか、誰かを喜ばせ
るためではなく、神への応答としてのクリスチャン・プレゼンスを発揮することが私たちの使命です。
オイコスからオイコノモスという言葉が出てきます。管理人という意味ですが、私たちは、この世を管理す
ることを託されています。神に喜ばれる者として、この世を整える使命が与えられているのです。私たちは、
福音の光を世界に輝かせる使命を担って行かねばなりません。これがキリスト者として、神に造られ、担われ、
救われた者としてのあるべき姿であると思います。
(文責:玉澤武之)
開会礼拝
「救いに応える信仰」
五十嵐
成見
伝道師
1517 年 10 月 31 日、ヴィッテンベルグ城教会の扉に通称「95 か条の提題」を掲示し、宗教改革の狼煙を上
げたマルティン・ルターの若き日々の問いは、
「私はいかにして恵み深い神を見出せるか」ということであった。
この問いを巡って、彼は壮絶な信仰の葛藤を経験する。しかし、ローマ書を読む中で、まことの神は、人間に
罪を宣告し、裁く恐ろしい神の姿ではなく、人間の罪を赦し、徹底的に愛しぬかれようとされる神を見出す。
「い
かにして私は恵み深い神を見出すか」
、その問いの答えは「信仰のみ」であった。人間は、よい業をなすことに
よっては、決して救われない。そうではなく、人間は、神から与えられる信仰によってのみ救われる。これが
プロテスタント教会の信仰の原点である。
だからこそ、私達はその救われたものである故に、信友
会の修養会テーマに掲げられた「救いの恵みにいかにして
私達はお応えしていくか」にも、真摯であらねばならない。
「いかにして私は恵み深い神を見出すか」がルターの問い
であったとすると、「救いの恵みにどのようにしてお応え
していくか」という問いは、ジョン・ウェスレーの生涯の
問いであり続けた。ウェスレーの問うた信仰の姿勢を、
「聖
化の信仰」と呼ぶことができる。救われたキリスト者であ
る故に、その救われた喜びを、いかにして生活に生かし、
そして、信仰の成長に用いていくか、がウェスレーが求め
続けた問いであり、メソジスト教会の伝統を持つ私達の阿
佐ヶ谷教会の信仰の問いでもある。
掲げられたテーマについて、フィリピの信徒への手紙を手がかりにしていく。第 2 章 12 節では「恐れおのの
きつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」とある。信仰が聖化するように、成長するようにしなさい、
と語る。
「あなた」という言葉は、複数形で書かれている。パウロは、聖化の信仰を、個人的な信仰ではなく、
共同体の中で求め続けていくことを意図している。聖化というのは、独りよがりで満足する信仰生活なのでは
ない。共同体の中で、互いの徳を高めあうための信仰生活を営むことである。パウロは、この書簡を書いた時
牢獄につながれていたと思われ、しかも、自分の死を覚悟している。その中で、パウロが一筋に願い続けてい
ることは、教会に集うキリスト者が、キリスト者として互いに配慮しあい、キリストの愛で赦しあう仲間であ
り続けてほしい、一人の信仰で満足する狭い生活ではなくて、互いに自分たちの救いの達成のために、苦慮し、
配慮し、忍耐し、赦しあう仲間であり続けて欲しい、ということだった。
新約学の神学者である佐竹明が 12 節の訳を「自分たちの救いをつくりだしなさい。」と訳す。救いをつくり
出すことを求めることによって、当然、人間側の信仰の配慮の努力が求められている。その救いをつくりだす
ために、パウロは、
「不平や理屈をいわず、
」という。私達は年を重ねれば重ねるほど、共に生きることのつぶ
やきや疑いがあることを知っている。キリストの愛に生きる共同体にしようと願って働いても、なかなかうま
くいかないこともよくわかっている。それでも私達は、このパウロの言葉に立たざるを得ない。共にキリスト
の救いをこの共同体の中にあらわすためにあなたはいるのだから、つぶやくな。疑うな。つぶやいたところで、
一体何の益になるか。疑ったところで、物事がよくなるのか。それよりも、神に信頼して、果たすべきことを
忠実に果たしなさい。その忍耐によって、この共同体がキリストの愛にいきるのなら、その忍耐は決して無駄
ではない。パウロはそう語っているかのようだ。
その「忍耐」を獲得するために、私達が必要なことは「命の言葉をしっかりと保つ」
(2:16)ことである。神
の御言葉に生かされることによって、いのちの言葉を、私たちの中に保っていく。御言葉を聞くとき、このい
のちの言葉、私たちの神の言葉であられる主イエス・キリストが、私たちの中に輝きを放ち、そして、私たち
の歩みと共に、働かれておられる。
1738 年 5 月 24 日、アメリカ伝道に失敗、人間関係も破綻し、失意のうちにイギリスへ戻ってきたジョン・
ウェスレーが、アルダスゲートの街の集会に参加した時、奇しくも、義認の信仰を説いたルターのローマ書講
解の序文を聞いた時、
「私は私の内側が不思議と暖かくなっていくのを感じた」という。信仰義認の信仰と、聖
化の信仰は、分けがたく、密接につながっている。私たちは礼拝によって、神の御言葉に生かされ、いのちの
言葉を保つことによって、輝き、イエス・キリストの輝きを放っていく。神につぶやかず、神への疑いに心を
奪われず、私たちは神の御言葉に生かされていくことを、喜びとする。私たちは、互いに配慮しあうその愛の
奉仕によって、無関心を決め込む「よこしまな曲がった時代」において、主イエス・キリストの光を、
「星のよ
うに輝かせていく」(2:15)のである。
全体討議テーマⅠ「教会標語をどう受けとめ、信仰生活にどう活かすか」
・母の胎内に宿る時から神の御心は働いて下さったと思う。75歳までと人生の設計を考えていたが、その時も過
ぎた。神の御許への道、心得を導いて下さるのは教会と思って居るので、今後如何なる立場に立たされようと、礼
拝だけには出席させて頂きたいと思って居る。T.A
・今年度の標語のみ言葉は危機に面したとき、如何に主が支えて下さっているか、その恵みを本当に力強く心刻こ
とが出来る。しかし、不断に私どもは心の中にその危機をはらんでいる事を知らねばならない。その恵みを実感を
もって人に伝えられればと思う。老・病・その他いろいろの事情で礼拝に出席できない多くの方々を思う。その方々
と、このみ言葉の恵みを共有したいと思う。M.I
・神様の赦しと揺るぎない御救いの力強い意志が示され、言い表す事の出来ない神様の大きく深い愛を感じます。
この愛に応え、主の礼拝を大切に、心から御言葉を傾聴し、実践していこうという思いがあります。終わりの日ま
で主に従う強い信仰を養えるよう神様に祈ります。M.E
・造り主である主が共にいて、私たちの罪さえも担ってくださる。その恵みを携え、主の語りかけに耳を澄ませて
歩んでいける者でありたいです。A.O
・修養会で与えられるテーマで、あらためて聖書のみ言 葉をかみしめます。自分が切り開く人生だと思っていまし
たが、神が実は見ていてくださるということで、更に勇気がわきます。Y.O
・自らの存在が神にあること、自らが知らないところで も神に支えられていることをしっかりと受けとめるよう自
分に言い聞かせている。従って、人格神である主を悲しませることがないかを、自己反省を忘れることのないよう
に信仰生活に活かしていきたい。T.O
・このたび、この聖句にふれて、私の越し方にはまったくその
通りとの感慨に浸っており感謝の念でいっぱいです。このこと
を証ししなければと思います。S.K
・二日間にわたり、信友会の、永く旧い友人とも、現役のより
若い世代の方々とも新たに友人となったことを、心より感謝し
ます。主にある交わり、人の交わりがいよいよ恵まれるよう願
っております。Y.K
・主を信ずる信仰がなかったらどんな人生を歩み来たであろ
う・・と想像するだけで恐怖を覚える程です。信仰があったか
ら現在の自分が在ることを思う。だからこそ主が共にいて下さ
り、担い、背負い、救い出してくださった恵みに応えるべく、
何処にいても何事に対しても主を証して行く生活を送り続け
たいと思っています。M.K
・私のような者をも神様は背負っていてくださる。ただ感謝するしかない。そして私は、背負われているという、
<受身の姿>にこだわりたいと思う。S.S
・地の塩を目的にこの言葉の意味を勉強した。私は青年時代に地の塩会会長をやったことを思い出す。今76歳に
なるが地の塩たらんと努力している。もっと元気になるため。T.T
・今年の教会標語は1973年の左近淑先生の説教を通して示された御言葉であり、私の信仰生活のキーポイント
の一つです。苦しい時期がある毎にこの御言葉に励まされ、これからも歩むべき道を示されると思いますし、歩み
たいものです。M.T
・教会標語は今までの生きてきた指針であり、残された生きざまでも神様が守り背負っていただけることに安心と
感謝しています。神様の守りにいかに応えるかを考えながら進んで行きたいと思います。T.T
・日々の生活、特にビジネスの場において、主がいつも私のそばにいて下さるという事をベースに歩むようにして
おり、同時に神様が自分を背負い、困難な局面にも、常に救い出してくださる事を信じ歩むようにしている。同時
に、現在の仕事の局面においても、次世代の人材に対しても、与えられた責務を神様のミッションと認識して、ま
さに自分自身が次世代の人々を背負い、困難な局面に可能な限り支援する事によって、標語の実践と思っています。
H.N
・相模湖事件、心臓発作、医療過誤の危機などで、私は神に愛され担われていることを強く自覚している。一方で
どうすればそれに応えられるかは確信を得たとは言えない。今までの人生で応えてきたのか、それともこれから召
命があるのか、いつまでも模索が続く。Y.N
・過去を振り返り初めて感じる「神の恵み」
、その時は「苦悩」「試練」と思えてもそれは「神の恵み」「我々が生ま
れる前から捉えられ、担われ、背負われ、救われている」このみ言葉一つによってこれらの全てが Cover されてし
まう事に、改めてこれから成すべき自らの責任を感じる。Y.H
・キリスト教と仏教の接点
最近、仏教の勉強を通して気づいたのですが、キリスト教との共通点がかなりある
ことです。私たちは常に「人は何故苦しむのか」を考えます。仏教では四苦すなわち生・老・病・死を唱えます。
生まれることも苦しい、老いることも苦しい・・など。この苦しみの原因とは「愛執」である、と仏教では言いま
す。愛とは欲望のこと。この世の欲に捉われている限り人は苦しむのである、と。本当に救われるのであればこの
世の欲(妄執)を取り払いなさい。 教会標語のイザヤ書(第二)でも、偶像礼拝を厳しく批難しております。偶
像とは、人間の欲望のこと、ここに価値観を置く礼拝を偶像礼拝と言います。私たちは偶像を自分の背に担い、そ
の重さに耐えられず潰されます。私たちが神を背負っているのではなく、神が私たちを背負っておられるのだ、と
聖句は教えているのです。H.M
全体討議テーマⅡ「救いの惠みに、私たちはいかに応えるか」
・それぞれの場に於ける<奉仕>に尽きると思います。T.A
・神様は御子イエス・キリストをこの世に送ってくださり、私たちの罪を贖ってくださいました。この言い表す事
のできない真の愛が、神様から受けている恵みの原点と捉えています。神様は、霊と真理とをもって、また、自分
の体を聖なるいけにえとして献げる礼拝を望んでいます。恵みに応えるため、心からなる感謝の礼拝を捧げるよう
心がけます。また、聖歌隊員として、御心のままに奉仕を続けます。M.E
・自らの判断で、
「救いの恵み」を捉えてしまうことが多いが、社会にあって、教会生活において、神に聞くことを
忘れず生活をしていきたい。具体的には、自らの人生において、主なる神への信仰を第一義とできればと願う。
(世
俗的なものにとらわれずに)T.O
・さらに奮い立って何かしなければ・・・と励ましを感じますのでこれからの導きを悟り、進みたい。S.K
・毎週、礼拝での説教を自分のことに置き換えて考え
ることにしています。8月に向けては歴史にまつわる
話が続き、元来苦手な分野ではあるものの、自分の身
の周りには振り返ると大いに関係のある話として認識
しました。K.S
.
・.
私たちは誘惑に陥りやすく、油断をするとすぐに、
「自
..
分はこんなに何々をしたんだ」とか「自分
は何々なん
..
だ」という具合に自分が出てくる。
「あなたがどれだけ
したか」ではなく「その事にどれだけ愛を込めたか」
が大事なのだとマザーテレサは繰り返し説いている。
..
自分はどうでもいいのだ。神が愛を実践し給う、私た
ちはそのための道具に過ぎないのだ、ということをい
つも忘れないようにしたい。S.S
・恵みに応えるのは「安心」
「感謝」ということを与え
られているという強い気持ちを毎日持てているということ。日常の生活の中で常に神様の存在、大きな愛を感じて
いる、感じられるという安心、感謝が、み恵みに応えているという真の気持ちです。S.T
・受洗後一年足らず、初めての信友会修養会でした。皆様の社会的活動、思いなど感銘を受けました。最近の大阪
での悲しいニュース(幼児二人を部屋に置き捨て殺した事件)に深い憤りと悲しみを感じます。同年齢の二人の孫
をもつ身として、神の恵みを心にもって孫にも接していきたい。M.T
・神様は公平ですから、全ての人に公平に恵みを与えていると思います。私たちはそれに気が付いて、ある人は幸
せを、ある人は恵みを感じると思います。ですから、いつ気が付くか・・・が人夫々の「時」になるのでしょう。
A.T
・受洗後70年を超える今日まで、人間としての社会生活、教会人としての信仰生活において、数えきれぬ出来事
があったが、その後ろにはイエス・キリストが常にあって支え導いてくださったことは感謝である。残された人生
は僅かであるが、個人として教会人として、主から頂いた恵みをあとに伝えて行けるように最後までつとめさせて
いただきたい。阿佐ヶ谷教会は永遠の存在であり、代表的教会として存続するように。M.N
・導かれたみ言葉はエフェソの信徒への手紙2章8∼10「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。
このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
・・・わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神
が前もって準備してくださった善い業のためにキリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その
善い業を行って歩むのです。」この賜物に応えるにふさわしい態度として、私は二番の人間という言い方をしました。
二番の人にも二番の人がいいのだという仕事、相談がある。神様の賜物、神様の恵みです。み言葉は、ローマの信
徒への手紙12章15「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
」、ローマの信徒への手紙12章1「自分の
体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」H.M
完