コリントのギリシャ滞在

2012年4月28日
147:1 ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに
美しく快いことか。
147:2 主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。
147:3 打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。
147:4 主は星に数を定め/それぞれに呼び名をお与えになる。
147:5 わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない。
147:6 主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。
147:7 感謝の献げ物をささげて主に歌え。竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をう
たえ。(詩篇)
詩篇137編には、捕囚となったイスラエルの人々の嘆きが綴られています。
人々は
バビロンの川のほとりに座り、エルサレムにある神殿に詣でて神を賛美した日々を思い起
こし、涙する毎日でした。
彼らを捕囚とした人々が彼らにシオンの歌を歌い聞かせるよ
う強要したので、竪琴を柳の木々にかけ、断固拒否しました。
シオンの歌は神への賛美
であり、人にしかも捕囚とした人々の余興に聞かせるなど以ての外でした。
の世界に入るに等しく、神を賛美出来ない状態です。
捕囚とは死
イスラエルの人々は、かつてはエ
ジプトで奴隷として、また、バビロンで捕囚という環境に置かれ、ある意味一時的に神か
ら見離される経験をしました。
そういう経験を経て、神を賛美出来る喜びの尊さを味わ
ったのが冒頭の詩です。 1節に書かれているように、神への賛美は喜びが伴います。 喜
びは、神の臨在の中で生きるのと同義語であり、神と一体となっている状態です。
イスラエルの人々にとって最も重要だったのは、神への礼拝です。
ルサレム、取り分け神殿の再建が最優先課題でした。
そのためには、エ
話には聞いていたものの、彼らが
エルサレムに戻って来て目にした光景は、想像を絶するものでした。
城壁は崩れ落ちて
町は荒廃し、神殿は見る影もない状態でした。
復興にあたり、どこから手をつけて良い
のか、呆然と立ちつくすしかなかったのです。
しかし、彼らには2節に書かれているよ
うに、主は追いやられた人々を集め、エルサレムを再建して下さるとの信仰と希望があり
ました。
とにもかくにも彼らは信仰によって立ち上がりました。
そして、幾多の困難
を経て復興を果たしたのです。
作者は体験を通して神の性質を知ることとなりました。
れています。
くいます。
心に受けた傷はなかなか癒えません。
それが3節の短い言葉に表さ
そのため苦しんでおられる人が多
しかし、神はその癒し難い傷を包み癒してくださる方であると知りました。
また、主は貧しい人々を励まし、戦争の恐怖からからも守り、最良の麦で養ってくださる
方であるとも知りました。
その上で、神は人に何を求めておられるのかを見出しました。 10-11節です。 戦
いの勝利を得るために必要な軍備を増強することでも、優秀な戦術を生み出し用いること
でもなく、神を敬い、神が与えて下さる恵みを待ち望む人を望んでおられることを。
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2012年4月28日
今週はテサロニケの信徒への手紙第二2章に書かれている不法の秘密の力について見て
いきます。
テサロニケは地中海沿岸、ギリシャの北方に位置し、当時は非常に繁栄して
いた港町でした。
パウロは三度伝道旅行に出かけていますが、その第二回目の時にテサ
ロニケに立ち寄りました。
て福音を伝えました。
そこにはユダヤ人の会堂があり、そこで三回の安息日に亘っ
それで多くの神を崇めるギリシャ人やかなりの数のおもだった婦
人たちが、彼らの言葉を聞き、信じて従いました。 こうして「教会」が出来たのですが、
いつものようにユダヤ人のねたみから暴動が起こり、信者たちは二人をベレアに送り出し
ました。 教会に対する迫害はその後も続き、投獄される者もいました。
パウロたちは、その後いくつかの町を経てコリントに赴き、そこでテサロニケの教会を
案じて出した手紙がテサロニケの信徒への手紙です。
なかったことを補足したのが第二です。
ています。
一通目第一を出した後、言い足り
この手紙はパウロが書いた最初の手紙と言われ
この手紙を読むと、初代教会にあって重要視した事柄と教会内での問題点が
見えてきます。
そして、それらは今を生きる私たちにも必要な内容なので、よく学ぶ必
要があります。 そこで、いくつかを取り上げてみます。

パウロたちが去った後も迫害が続いている。
ユダヤにある教会がユダヤ人から迫害されたように、テサロニケの教会は同胞からも苦
しめられました。
パウロは迫害によって信仰を失う人たちが出るのではないかと案じ、
テモテを派遣しました。
テモテが持ち帰った報告は、テサロニケの教会が忍耐し信仰と
愛をもって歩んでいるとのことであり、パウロを安堵させました。
しかし、パウロはそ
の後も続くであろう彼らの苦難を思い、どのような苦難に遭遇しても動揺しないよう、ま
た惑わされないように手紙を書いて彼らを励ましたのです。
私たちは今この日本で、イエス様を信じたからといって初代教会のような迫害を受ける
ことはないでしょうが、家族や親戚、友人との間に軋轢が生じ、嫌な思いをすることはあ
るでしょう。
私たちが信仰に立つ時、主は全てを良いように計らって下さいます。
主
は各自の霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、主の日には非の打ち所
がない者として下さることを信じて、これからも歩みましょう。

怠惰な生活を送る者が出て来た。
そういう人たちが教会内に出て来たのには、三つの理由が考えられます。
弟たちが集まる際にはパンを裂きました。
一つは、兄
つまり、教会に属しているなら食べる心配を
しなくて良かったのです。 もう一つは、イエス様の御再臨が近いと信じていましたので、
あくせく働く必要はないと考える人が現れたのです。
また、既にその日が来てしまった
かのように言う人も出て来て、それに惑わされ失望してしまったのです。
もう一つは、
当時そういった人たちがかなりいたのです。 それで、パウロがテサロニケに滞在中、「働
きたくない者は食べてはならない」と命じていたのです。
パウロが去った後、怠惰な生
活を改めなかった人たちがいることを耳にしたパウロは、自分の仕事に励み、努めて自分
の手で働くようにと強く勧めました。
そして、もし彼らが生活態度を改めないなら、そ
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の人たちを避けるようにと、教会に書き送りました。

死んだ者が神の栄光に与れないとの不安が生じてきた。
パウロが去った後、テサロニケの教会で亡くなった人が出たのでしょう。
彼らはイエ
ス様の御再臨が近いと信じていましたから、その前に死んだ場合神の栄光に与れないので
はないかと不安にかられたのです。 パウロは、
「既に眠りについた人たちについては、希
望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために」と言って、復活すること、そし
て、それには順序があることを書いて教えました。
御再臨の日には、先ずキリストに結
ばれて死んだ人たちが復活し、それから生き残っている者が天に携え挙げられ、いつまで
も主と共にいるようになると教えました。 キリスト者にとっては、死は終わりではなく、
希望を伴っているので、死を眠ると表現したのです。

偶像と訣別出来ない人がいた。
テサロニケの町には、エジプトやギリシャの偶像が満ちていました。
神の御心は聖な
る者になること、つまり偶像との関わりを絶つことです。
偶像から離れて神に立ち帰っ
ても、注意していないとそれに引き戻されてしまいます。
テサロニケの兄弟たちの間に
そういう傾向があったのでしょう。
それはテサロニケだけでなく、各地に見られ、異邦
人に福音を伝えるパウロにとって、難題となっていました。
今もそうですが、多くの異
邦人にとって偶像への供え物は生活の一部、習慣になっていて、それが悪霊に献げものを
することであり、悪霊の仲間になるということに気付いていません。
パウロはテサロニ
ケに滞在中、かなりの時間を割いて彼らを偶像から訣別させることに力を注いだはずです
が、それでも手紙に書いて注意を促したところに事の重要性を感じます。

不法の秘密の力が働いている。
前述したように、主の日(イエス様の御再臨)が既に来てしまったと言う人たちが現れ
ました。
コリントの信徒への手紙に書かれているように、主は様々な賜物を教会にお与
えになりました。
それである人は霊の賜物を与えられていたのですが、それを誤用して
しまったのです。
私たちも注意が必要です。
はいけません。
誰それが言うことだからと鵜呑みにして
吟味して良いものを大事にしなければならず、そのためには聖書の言葉
に立脚した考えを持っていなければなりません。
主の日はキリスト者にとって希望中の希望です。
動揺するのは当然です。
それが無くなったとなれば、教会が
しかも、それは霊や言葉によって、また、パウロが書いたと偽
った手紙によって語られたから、教会は慌てふためいたのです。
そこで、教会がその人
たちの言葉を受けて動揺して分別を無くしたり、慌てふためかないように手紙を書きまし
た。
主の日については第一の手紙に書き、その日の時と時期については、突然訪れるか
ら目を覚まし、身を慎むようにと促しましたが、それだけでは不十分と思ったのでしょう。
第二の手紙には、主の日が来る前には、神に対する反逆が起こり、不法の者つまり滅び
の子が出現すると伝えました。
その不法の者は、神に反抗し、傲慢にふるまい、神殿に
座り込み、自分が神であると宣言すると言うのです。 では、不法の者とは一体誰なのか?
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そして、その者を抑えているのは誰なのか、幾つか考えられます。
とについては、ダニエルが預言しています。
不法の者が現れるこ
そして、イエス様はその預言の通り、破壊
者(不法の者)が神殿に立つことに言及されました。
過去(BC168年)に、そのよ
うな人物(アンティオコス4世エピファネス)が登場し、神殿が汚された事件がありまし
たが、それ以上の出来事が起こるとイエス様は預言されたのです。
その時には、偽メシ
アや偽預言者が現れ、大きな徴や不思議な業を行い、選民をも惑わそうとすると言われま
した。
イエス様が言われたそれらのことを受けて、パウロはテサロニケの人々に主の日
について言われたと考えられます。 実際、主の日が既に来てしまったと言って惑わす人々
が現れたので、パウロは不法の秘密の力が既に働いていると言ったのです。
そう考える
と、その力を抑えているのは教会或いは聖霊と言うことになります。
また、不法な者とは律法を守らない者という人を指しますから、ユダヤ人の中からその
ような人物が現れると考えられます。
害を受けました。
事実、パウロは伝道する先々で同胞からひどい迫
また、イエス様がおられた時から、神殿は祈りの家ではなく、強盗の
巣と化していました。
それに拍車がかかるのは、歴史を見ても明らかなので、パウロは
そのことを言ったとも考えられます。
他にも考えられますが、では今の私たちはどう捉
えたら良いのでしょう?
主の日は、キリスト者にとっては最大の喜びの日となりますが、神を畏れない者には滅
亡の日となります。
その日が訪れることは疑いの余地はありませんから、私たちはその
日を待ち望みつつ信仰の完成を目指さなければなりません。
そこで、もう一度不法の者
がどう働きかけてくるのかを見てみると、神に反抗し、神殿に座り込み、自分が神だと宣
言すると言われてます。
神殿は紀元70年に崩壊して以降、どこにも存在していません
から、神殿に誰かが立つとは最早考えられません。
ただ、コリントやエフェソの信徒へ
の手紙の中で、パウロはキリスト者が神の神殿であると述べています。 テサロニケの人々
に書き送った時点ではエルサレムに神殿が存在していたのですが、パウロはその神殿では
なく、むしろキリスト者を神殿と見て、手紙を書いたのではないかと考えられます。
そ
うであるなら、神殿とされた私たち自身に不信仰の芽が生じ、神に反抗的になり、神を避
け自分中心に振る舞うようになると見ることが出来ます。
タンの働きによって為されていきます。
それはパウロが言うようにサ
そして、神をなおざりにする生活をしても、偽
りの奇跡や徴や不思議が起こるので、益々神から遠ざかってしまうのです。
そうなるの
は、
『自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったから』とあるように、イエス様と神
の言葉を侮るからです。 そういう不法の秘密(隠れた)力が既に働き、私たちを惑わし、
イエス様が与えて下さる恵みと祝福を受けられなくしようと躍起になっています。
今、
その働きを止めているのは、私たちを救って下さったイエス様(聖霊)です。 私たちは、
不法の秘密の力に負け、今日まで保ってきた信仰が無意味なものにならないよう、そして、
イエス様が御再臨される主の日には、神の国に相応しい者として、主と共にいることにな
るよう、日々、目を覚まして光の子として歩んで行きましょう。
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