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中東における日本の将来的役割
歴史・文明部 近代史・国際関係助教授
Dr.サーリフ ビン ハマド アッサクリー
前書き
ただ唯一のアッラーに讃えあれ・・・最後の預言者に祝福と平安あれ・・・
日本とアラブ・イスラーム世界、特にサウジアラビア王国の関係は飛躍的発展を遂げたとみ
なされています。またこの関係は、包括性、文化・経済・政治間の調和性、そして各国がそれ
ぞれの国の独自性と傾向に敬意を払い利益交換をし、内政干渉を互いに行わないので、現
代の他の国際関係とは区別される模範的な関係と言えます。
この『日本とイスラーム(サウジアラビア)の対話』セミナーはこの区別の上に成り立っており、
その継続性の強調とその歩みを導くために開催されています。このような中、私は『中東にお
ける日本の将来的役割』を研究テーマとして選びました。このテーマを選択した理由は以下の
とおりです。
1-このテーマが「日本・中国・東南アジア」という極東に関する国際関係という私の専門分野
の一部であるということです。これは、最近まで、多くの研究者や政治家たちが注ぐべき
関心をそれに注がなかった専門分野です。というのも過去、そしていまだ力を入れられて
いるのは「西」だからです。たとえ「西」が重要であっても、「東」への無視や研究される権
利を与えないことは間違いであったと今日では確定されています。
サウジの諸学術組織、特にイマーム大学はこの「隙間」を埋めること、そして注がれて当
然の関心を持つ重要性を理解しました。そこで日本であれ、サウジであれ、その他のア
ラブ世界であれ、そこで行われる科学・文化セミナー開催の仕方について、他とは異なる
計画を立てることになりました。私たちのこのセミナーはその延長上にあり、文化関係、
また広くは国際関係がこうあるべきだという模倣的なものとして開催されています。
2-日本は世界的経済・技術大国として、国際関係のフィールドにおいて新しい立場を見い出
しているということです。つまり日本は、9月11日の事件、アフガニスタンとイラクに起こ
った戦争が起こるまでの過去に例を見なかった、新しい役割を担っており、また日本の過
去の敵であり現在の同盟国であるアメリカ合衆国と、過去から現在にいたるまで友好国
であり同盟国であった世界の国々、特にアラブ・イスラーム世界との特別な関係維持の
間で揺れているのです。これが、このセミナーにおいて私たちが研究するものなのです。
私たちはここで日本に私たちと日本の間にある特別な関係の継続のために私たちの見
方・考え方を知ってもらい、この新しい展開が私たちの関係に影響を受けないようにする
ことを試みます・・・
数々の困難がこの研究を取り囲んでいることは疑いありません。おそらくその最たるもの
は、参考する研究や文献の少なさでしょう。これはいまだ発展段階にある「新しい政治」なの
です。この分野は日本にとって新しい経験なのです。日本が現在のイラクでの経験を通
して人員と物質の浪費の後にイラクから撤退することはありえないことではありません。
私が何人かの日本人代表たちと会い、リヤドにある日本大使館にある幾つかの報告書と研
究、同様にサウジと日本の諸関係のシンポジウムやその他のシンポジウムで発表された研
究を目にしたことは私にとって有益なものでした。
次のテーマに沿ってこの論文は話が進められます:
1-日本の対中東政策の基本方針。
2-新しい国際変化と日本の対中東政策への影響。
3-日本の対中東政策の展望。
● 国際問題における軍事介入に対する日本の立場。
● イスラーム世界、特にサウジアラビア王国との文明対話と文化交流の原理の継続にお
ける日本の役割。
最後に、在日サウジ大使館及び日本外務省と協力し、このような科学シンポジウム開催継続
への努力に対して、イマーム大学とその分校である日本のアラブ イスラーム学院に厚く御礼
申し上げます。また、特にイマーム大学学長ムハンマド サアド アッサーリム博士と副学長
ムハンマド ビン アブドゥッラハマーン アッルバイイウ博士、このシンポジウムの科学委員
会議長とメンバーのみなさん、そしてこの研究のために私たちを支えてくださったこの分野の
専門家のみなさん、在リヤド日本大使館と王国の専門科学センター、特に故ファイサル国王
イスラーム研究センターのみなさんにも重ねて御礼申し上げます。あなた方の上に平安とアッ
ラーの慈悲と祝福がありますように。
日本の対中東政策
1)
経済面
日本の経済政策において中東地域は大きな範囲を占めています。それは幾つかの原因によ
りますが、その最たるものは:
1-日本は原油輸入の80.2%を中東に依存しており、うち23.9%をサウジアラビア王国
一国から輸入しているということ。その額は西暦1999年には75億米ドルに達し、2000年に
は122億ドルに達しました。
2-湾岸諸国・サウジアラビア王国を含む中東諸国は工業・技術製品の大部分を日本から輸
入しているということ。サウジ一国で商品・工場・自動車などの輸入額は1999年、31億米ド
ルに達しました。
3-日本が中東諸国支援が中東だけでなく日本と全世界の安定と平和支援に繋がると考え
ていること。特に中東地域は幾度となく戦争に見舞われ、アラブ・イスラエル戦争、イラン・イラ
ク戦争、湾岸戦争、アメリカ合衆国とアフガニスタン、そしてイラクという、国際紛争・問題の戦
場となりました。
日本は共同投資会社形成を通しての輸入・輸出・交換投資という分野に収まらないように意
欲的でした。それどころか、日本はパレスチナを含むアラブ・イスラーム数カ国への経済支援
提供まで行いました。
ここで特筆すべきことは、世界的ショックであったオイルショック後の1973年までの日本の外
務省の報告どおり、遅れて開始された中東諸国への日本の経済支援参加にもかかわらず、
その増進において日本の一般的な公的支援参加率は0.8%までしか到達していなかったと
いうことです。
ところが、1973年の戦争とオイルショックの発生後、日本は中東地域に大きく向き合い、19
77年には支援全体の24.5%という他に例の見ない形で参加率が跳び上がりました。
それからその上昇は継続し、1990年の第一次湾岸戦争の間にはその頂点に達しました。そ
の時日本は全体の20.4%に達する率の、30億米ドルにも達する援助提供を行いました。
そのほとんどが湾岸戦争後のエジプト・シリア・ヨルダンの安定に参加するためにこれら諸国
に向けて行われました。
1995年には経済成長のための公的支援は増加し、54.4%がアジアへのものとなり、うち6.
7%がアラブ諸国へ、12.6%がアフリカへ、10.3%が中南米諸国へのものとなり日本はア
メリカとフランスに続く第3の援助国となりました。
日本が中東諸国に提供したこれらの援助は3種類に表わされます。
1-低率の資金借款
2-資金供与
3-技術援助
これらの援助提供は援助を受ける国家それぞれの国民所得に比例しておこなわれ、これをも
とに日本は、たとえば1996年、個人所得が1395ドル以下のエジプトやモロッコなどの国々
へ、資金供与と技術援助という方法を通じて協力を行いました。
また、個人所得が1395ドル以上2895ドル未満のトルコやチュニジアなどには低率の資金
借款と技術援助を行いました。
またイエメンなどの最貧国には技術援助と工業・社会活動のための社会的基盤の建設への
無償援助を提供しました。
サウジアラビア王国や湾岸諸国などの最高水準の国民所得を享受する産油諸国に対しては
金銭援助を行わず、技術援助と呼ばれる技術や研修の移行や科学・芸術交換における相互
協力を行いました。
この分野における日本と中東諸国間の幾つかの相互協定への調印がなされ、その際たるも
のは、1975年に日本とサウジアラビア王国の間で調印された、石油・石油化学産業計画、
投資会社、芸術経験の提供、奨学、研修、実技・技術研究プログラムの建築における両国政
府の相互協力が述べられた経済協定でした。
日本の対中東、特にパレスチナ問題とアラブ・イスラエル紛争におけるこの政策は継続しまし
た。日本はパレスチナ人への巨額の資金援助を提供し、同様にパレスチナ暫定自治政府の
大部分の支出をカバーし、雇用機会の充実を目指す諸計画やガザ地区で計画された社会基
盤の設立や道路や発電所の舗装・建設、水の確保、他国でのパレスチナ人たちの訓練プロ
グラムに協力しました。
同様に日本は中東和平交渉における数回にわたる交渉、中東・北アフリカ経済首脳会議に
おける政治的参加も果たしました。
そして特に日本は環境問題に関する数々の仕事や、アカバ湾北部の石油汚染に対する計画
などのプログラムの作成などを先駆けて行いました。
また日本は旅行と観光のための中東・地中海組織の創立を援助しました。それはパレスチナ
会議とゴラン高原での戦闘行為監視する国連軍への移動手段の補充と援助の組織でした。
日本は中東諸国から高い敬意を受けたこの政策を守り続けました。
そして日本はこの政策により、1994年には日本を世界における第2の経済大国とし、世界に
おけるアメリカの最大のビジネスパートナーとした経済力・偉大な科学的進歩を守ることがで
きたのです。そして日本はこれにおいてアメリカを上回り、両国間の貿易全体の39.2%にあ
たる約700億ドルの貿易赤字をアメリカは日本に対して抱えました。
2)
文化面
研究者たちの何人かは、日本と中東の協力の歴史を、シルクロードで知られる古い歴史まで
遡らせます。それは日本の博物館の一つにある、聖武天皇(西暦701-751)の遺跡に含ま
れる幾つかの宝とが明らかにしており、この宝の中には駱駝の鋳造されたガラス細工やペル
シャ製の幾つかの品があります。
サミール アブドゥルハミード イブラーヒーム博士はそれを著書『日本の中のイスラームと諸
宗教』で強調しています。〈私は日本滞在中、日本語の中にアラビア語の単語の存在に気が
ついた。アラブの航海家たちの本にたくさん述べられている、国あるいは世界の最果てという
「アルワーク ワーク」あるいは「アルワーク ワーク諸島」という単語でさえもである。そして古
代日本の呼び名は「寇倭」であった。ここからワーク諸島が日本列島であることがわかる。〉
それにもかかわらず日本人は、20世紀初頭の1909年最初の日本人ムスリム山岡小太郎
氏が巡礼の義務を果たしたこと以外に、イスラームやアラビア語に対して大きな関心を持つこ
とはありませんでした。
また、第2次世界大戦のアメリカ合衆国による原子爆弾の爆撃に遭遇した悲劇により、中東
に対する日本人の関心はありませんでした。そして関係は経済的・文化的関係に制限されま
した。
日本のイスラーム世界との、そして特にサウジとの文化的関係は、研究者たちが日本あるい
はサウジ、またエジプトやバーレーンやその他の国々で開催された文化セミナーを通して話し
た幾つかの分野において体現されました。
これらの研究者たちの一人であるイマーム大学副学長ムハンマド アッルバイイウ博士は、
彼の価値ある論文『日本のアラブ・イスラーム学支援におけるサウジアラビア王国の努力』の
中で両国の間の文化協力の姿について述べました。それらは以下のことに要約されます。
1-イマーム大学監督下でサウジが設立した東京アラブ イスラーム学院や拓殖大学のシャ
リーアなどの学校や文化センターの設立。
2-教授・研究者たちの学術的交換訪問。
3-日本人学生・研究者たちへの奨学金付与とサウジあるいはエジプトのアラビア語学校に
おけるアラビア語奨学金付与、語学コースの締結。
4-科学会議・シンポジウムの開催。これらのシンポジウムの最たるものは日本・バーレーン。
エジプトで開催されたイスラームと日本の対話シンポジウムである。
5-日本の大学における客員教授席の設置。日本のイスラーム研究へのファハド国王客員
教授設置計画がある。
6-日本語・アラビア語書籍の翻訳と日本とアラブ・イスラーム世界の文化交流を容易にする
ための翻訳センターの設立。
日本の外務省は日本と中東諸国間の文化交流を報告しました。その文化交流には次のこと
が含まれます:
―大使館などの在外日本外交団たちが行う様々な文化活動、パーティー・展示会・文化人や
友人たちの代表招待のアドバイスや様々な計画、同じく日本研究と日本語教育支援などの
幅広い分野における日本の組織が行う活動など。
―その他に日本政府が日本に外国人留学生たちを招待するために提供する奨学金制度や
国際協力機構が行う青年たちの交換訪問計画。
―また日本は特に中東地域ではカイロとテヘラン両地に文化・メディアセンターを創立しまし
た。
報告書は日本と中東の相互理解実現の前には、いまだ長い道のりがあるということを示し
ています。それに関して強く望まれることは、日本と中東間の交流の活動が特に文化・ス
ポーツ面における相互理解を深めるために行われるということです。
これらの平和的政策と世界的経済優越は、国際的軍事・闘争分野への介入という日本の新
しい政策開始において大きな影響を与えた幾つかの国際情勢の変化がなければ、継続する
ことができたでしょう。
日本の対中東政策における新しい変化
日本の専門的な研究家の一人ベネット・リチャードソンは次のように述べています。アメ
リカによるイラク占領後の2004年初頭、日本は550名の自衛隊の兵士たちを第一次
隊としてイラクへと派遣しました。
それは、第二次大戦以来、平和を選択し、軍事的に防衛政策を打ち出していた強国が疑い
なく変化し始めたということを表わしています。
そして日本の小泉首相はイラクへの自衛隊派遣は国際社会の一員としての日本の義務の一
つであると強調しています。
闘争地域、特に中東地域への日本の平和的政策の転換とみなされるこの決定は世界の専
門
家たちや首脳たちにとっては驚くべきことではありません。
日本は以前からずっとこの政策を見ていたのでした。第二次大戦後勝利国であったアメリ
カの GHQ が日本に強いた、日本が強大な軍をつくらないこと、そして武装しないこと、自
衛隊をつくることで十分であるという協定を強い、アメリカが置いた憲法である、国際問
題解決への軍事力行使を拒否する憲法に描かれた非武装国家という状態、そして日本にい
るアメリカ軍人や兵士たちが約4万7千人に達した軍事協定を行ったこと対して、不満と
侮辱を感じていたからです。
この新政策への分岐点は、1992年、日本の国会が国連監視下の国際平和維持活動への
参加を許可する法を発表した時でした。日本は、1991年のイラク侵攻によるクウェー
ト解放活動において130億ドルの資金援助によって参加し、厳しい国際非難を浴びてい
ました。
北岡 伸一東京大学政治学教授は次のように述べています。日本政府の法制委員会の大
多数はこの状況を示し、世界の大国が経済面を除けば日本は弱小国であると考えるだろう
ということを示しました。そして日本人の多くはクウェート解放活動のために日本の自衛
隊を派遣せず経済参加のみに留まったことは過ちであったと考えていることを付け加えま
した。
3年ごとに行われる日本政府の世論調査によると、1991年、日本人の46%が海外へ
の自衛隊派遣を支持しており、それは2000年には約80%にまで達しました。
2001年9月11日のテロ後、小泉首相は戦争における援助・食糧供給活動への日本の
自衛隊参加のために、対アフガニスタンのアメリカの戦争への支援充足への協力のために、
インド洋へ自衛隊を派遣することを許可する法律を決定させるよう、圧力をかけました。
日本人研究家
は、日本で現在上がっている声は、諸大国の間で意見が聞き入れられる
ようにするために国際平和維持活動にはっきりした形で参加するべきだ、というものだと述べ
ています。
過去アメリカがこのような決定に反対したにもかかわらず、今回においては異なり
ました。アメリカ国務次官リチャード・エルミタージュは最近の日本の方向を褒め称え
ました。そしてアメリカは、日本によるイラクへの自衛隊派遣を奨励し、このような危険
を背負う日本の意思を確実に評価していると言いました。そしてこれは「日本が世界にお
けるその役割を描きなおしている明確な証拠である。」と言いました。
いや、それどころではありません。アメリカ代表は日本近郊で攻撃にあった場合には防衛
のためにアメリカ軍に協力するという自衛隊の任務の拡大化を求めました。
アメリカ合衆国の対日本政策のこの変化が、障害からの脱出の試みと、そこには国連によ
る法的カバーがなかったイラクに対するアメリカの戦争が体験したことが原因であるのは
疑いありません。
このため、アメリカはその戦争が国際的同盟によって行われているものであり、アメリカ
による単独行動ではないと世界に知らしめるためのあらゆる同盟国を探していたのでした。
そして日本人の多くがこのような海外への自衛隊派遣に反対し、最近まで強い反論に遭遇
し、政敵からも大きな抵抗にあっていた自衛隊として知られる日本人兵士たちを紛争・戦
闘地域に派遣することが単なる提案だったにもかかわらず、日本は、この新しい変化が日本
の将来的外交政策であると公表するために、その機会とアメリカの障害を利用しました。
日本の世論調査はイラクへの自衛隊派遣問題に関する国民の意見が大きく分かれており、
大多数は一連の動きに反対していることを示しました。
私たちはこの件に関する日本における民衆デモを見ましたが、日本の首相はイラクにおける
日本の自衛隊の任務が含まれる人道的要素はイラクにおける一般状況の改善を助けること
ができるだろう、そしておそらくこの方向への抵抗は次の二つのことが原因になっているのだ
ろうという見方を示しています:
1-これが日本国憲法に違反し、自衛隊の任務に違反しているということ。
2-イラク戦争の決定が国連によるものだとされていないこと。
3-この反対の多くは過去の戦争に苦しんだ高齢者層であるということ。ある日本の退役軍
人は「私たちは平和と安楽の中で長年暮らしてきました。私たちは世界における平和実現の
ために努力しなければならない。」と言いました。しかし権力に到達した日本の若手政治家層
は違う見方をしています。彼らは安全保障理事会の常任理事国の座を得るという日本の目標
実現には従来の日本の外交政策では不十分だと考えています。
このため、日本の首相は2005年に、参議院の3分の2の同意を必要とする憲法改定をめざ
しています。
にもかかわらず、イラクへの自衛隊派遣を日本の国会が許可した法は、自衛隊が非戦闘地
に派遣されることを条件付けました。そこで首相自らが、イラクでこれらの地域の限定は不可
能であることを認めました。
11 月の総選挙で目に見える勝利を獲得した日本の野党はそれが憲法にそぐわないとしてイ
ラクへの自衛隊派遣を批判し、首相の辞任を求めました。
そしてイラクにおける数人の日本人拉致・殺害という最近の出来事は反対するに相応しい出
来事だとする、首相に対する国民からの圧力が生じました。
このため米国務長官は、スペイン軍やその他の国が行ったように、日本からも自衛隊帰還の
決定が出されないように、日本訪問・日本への支援・圧力を急いで行いました。
この国際紛争への軍事参加への日本の政策の新展開は幾つかのことを裏付けます。それら
の最たるものは:
1-在外所有物保護のための軍事的自立の必要性の日本の実感。
アメリカの予算に義務付けられた制限により、アメリカ軍が縮小される地域ににおいてこの実
感は増大しました。
これはフィリピンの国防省が明らかにした研究で、その中で次のように述べられています。
「おそらく、終わりのない地域の軍事調和保持のためのアメリカ軍は継続できないだろう、な
ぜなら地域の力の上昇はすでにその調和は変化したからである。」
2-注目すべきことは、内政のための技術を軍事的なものに変えることができる能力がある
ことである。これはロシアへのマイクロソフトの売買は戦略的軍事的予算の変化をもたらすだ
ろう、と日本人研究者たちが示したことで十分わかるでしょう。
3-武器市場への介入の望み。
ロスター ソラルは、日本の産業省は、富を隠すために、一つは日本に巨大な市場を用意し、
二つ目に未加工の物質を提供する、つまり東アジアの秩序に、特に中国と東アジアのこの地
域秩序における利益に目をつけたのだ、と考えています。
4-地域競争特に中国との競争。
マハティール ムハンマドは、日本は技術分野において中国より上位にありつづけるだろうと
述べています。そしてそれは両国間の一種の調和を生み出すでしょう。しかしながら、日本の
安全面への恐怖感は、特に中国は軍事比率の上昇において現在の政策を継続させるでしょ
うから、中国の経済発展の継続が時代と共に軍事力成長をもたらすだろう、という基礎の上
に残り続けるでしょう。にもかかわらず、中国はその経済実績が危険にさらされないようにす
るために平和路線を継続するでしょう。
このことはアジア地域が将来的にもたらす調和が強化されるということです。
中国は日本の軍隊は、太平洋地域の諸問題においてアメリカの問題によって左右されるとい
うことです。つまりこの地域からアメリカの後退の支持が増えれば日本も同様の動きへと傾く
ということです。
日本は明らかな技術抵抗をもっています。日本には始動している原子力発電所を36所有し
ており、2010年までに15の発電所建設を計画しています。そして日本がもつプルトニウム
は2010年半ばには45-90トンに到達するでしょう。それは原子力の能力を最重要とみな
させるでしょう。特に2010年には広島・長崎の世代の多くは亡くなり、この路線に対する第二
次大戦の影響はある程度軽減されるでしょう。
終わりに
イスラーム世界への日本の将来的役割
特に、中東の紛争勃発地域における軍事参加に関連する、日本の対中東政策に起こった新
転換について私たちは述べてきましたが、日本は対アラブ・イスラーム世界への良好な関係
の協調を試みました。そして日本には特にイスラームに対して、宗教とテロを混同する西欧の
凶暴さを持っている西にも東にも結びつかない独立した視点をもっているということの強調を
試みました。
このために2001年1月に当時の外務大臣河野洋平氏はサウジ訪問後、外務省付属の委員
会の発足を行いました。この委員会は「イスラーム研究委員会」と呼ばれ、それは日本がイス
ラーム文化の概要理解を深めるためのものでした。
またそれは日本の知識人たちとサウジの知識人、そして残りのアラブ・イスラーム世界の
国々との間の相互理解の橋をつくるための強力な基礎を生み出すためでした。
この委員会は日本とイスラーム世界の間の関係強化のための提案政策という題の詳細な報
告を発表しました。この私たちにとって重要な長い報告は幾つかのポイントを中心に話を進め
ています。その最も重要なものは:
第1のポイント
イスラームについての十分な理解がないということ、ムスリムたちの間での教え実行の差、そ
して真実の形で表わされたイスラームと、メディアを媒介に表わされたテロや極端なものとを
結びつけたイスラームとの混同から生まれる多くの解説の存在。
報告の前書きにはこう述べられています『日本のイスラームに対する一般的な理解はその多
くが正しくなく、十分ではなかった。現代世界にはそれぞれがもつ複雑な政治・経済事情によ
るイスラームへの数多くの解説が存在する。ムスリムの殆どは彼らの信仰において平和的な
姿勢をとっており、社会的活動を肯定的に眺めている。また時として、原理主義やテロと結び
つく極端な流れも存在している。そしてこれからは、このような極端な流れの源泉を、イスラー
ムを知るためにたった一つの入り口しか取ってこなかった怠りを取り除いて、解剖しなければ
ならない。それは日本とイスラーム諸国間の相互理解を助けるこの信仰の理解のためである。
世の中にはイスラームを脅威であるとか敵意を含む信仰だとみなす動きがある。これはヨー
ロッパにおいて支配的なふるい伝統的な考え方の延長である。しかし、現状はイスラームを
信仰する者たちの大部分は平和を愛している。そのことに関して彼らは、他の宗教を信仰す
るものたちやイデオロギーをもつ者たちと同じなのだ。このような複雑な対極的なことをくべつ
するためにイスラームへの包括的な理解へと奔走しなければならない。』
第2のポイント
イスラーム教は信仰から共同体や国家制度までの生活秩序すべてを包括する宗教だという
こと。そしてイスラーム法とムスリムの生活と彼らの生活秩序におけるその重要性について話
されています。そして特に経済問題においてこの法の原理に敬意を示さなければならない。
つまり私たちの彼らとの取引は彼らが信じ信仰することを通して行われるということです。さも
なければ彼らに彼らの法にそぐわない経済秩序を強制することになります。
報告は次のように述べられています。
『イスラームはその教えの範囲が個人の生活から共同体や国家制度にまで及ぶ信仰である。
そのため国家間の関係の運営についての話をする時にはそれが重要な要因であることを認
識しなければならない。』
同様にもう一方ではこう述べられている。
『イスラームはクルアーンに体現される神の啓示から得られたイスラーム法の解釈をとおして
の共同体や社会運営を義務付けるものである。そのため、現存する近代の法律や、特にイス
ラーム法と相反する可能性がある個人の関係を支配する法律・内政・商業面において新しい
立法をつくることは容易なことではない。都市レベルでイスラーム世界との関係を見るとき、そ
こから発生する諸問題を認識しておかなければならない。たとえばイスラーム法に十分適して
いないものを取り入れた法律の不明確さと、この法律に対しての実際の行動との差である。』
『またイスラームは利子を禁じている。しなければならないことは、利子無しの資金供給秩序
の経営法を生み出すことである。そして今、イスラームの銀行制度と世界の経済制度と国際
金融市場との適合方法を生み出すことである。』
この報告はその他のポイントを含んでいますが、それらを述べるにはここは不十分です。です
が、この論文を締め括るにあたり立ち止まらなければならない二つの重要なことがあります。
それらは:
1-この報告が理論上のものだけではなく、重要な行動の実行が続いたこと。その最たるも
のが日本におけるイスラーム・アラブ研究を支えるための2002年の拓殖大学のシャリーア
研究センターの設立と、それに続くシンポジウムや学術的対話です。その最たるものは西暦2
004年5月、ヒジュラ暦1425年4月、「日本とイスラーム(サウジアラビア)の対話シンポジウ
ム」という名で現在開催されているこのシンポジウムでしょう。
2-アラブ・イスラーム世界の研究者や民衆たちは日本からのこの素晴らしい行為に対して、
日本とアラブ・イスラーム世界間の新しい繋がりが増えるよう、よりよい行動でもってこの取引
や区別される視点の強化を促さなければなりません。
おそらく、ファハド国王客員教授の名のもとに日本の諸大学における客員教授席の設立計画
が、未来の両国間の関係において大きな成果をもたらすであろう正しい方向への一歩となる
でしょう。