モンテーニュ再考 −−ルネサンス人の生と死

モンテーニュ再考
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−ルネサンス人の生と死−
−
中 川 誠*
Ⅰ
わが国ではじめてモンテーニュの Essais と旅日記と手紙を完訳した関根秀雄氏は、五度目の改訳
刊行の1983年に、《幸福と長寿への道−−モンテーニュとの60年》と題するエッセーを新聞にのせた
(「朝日」夕刊、2月21日)。おそらくこれが氏の、モンテーニュを語って公にした最後の文章であろ
う。それから4年後、あとひと月で92歳という1987年7月に氏は冥界の人となった。フランスでは、
モンテーニュを愛読した父親の感化で10歳の時から、この仏人モラリストに親しんで、異色ある評注
付モンテーニュ全集(Oeuvre complètes de Michel de Montaigne, Paris, 1924)を出して名高いアルマン
ゴー博士(Dr. Arthur Armaingaud, 1842-1935)の没年も92歳であった。
そのフランスの碩学に劣らぬほど長い間モンテーニュに取り組み、その人と思想を語り続けてきた
関根氏は、モンテーニュを読むと長生きするということを口癖にしていた。氏ばかりではない。アル
マンゴー博士はモンテーニュ研究者としてだけではなく、本職の医学者の立場からも、モンテーニュ
の効能を語っている。二人とも長寿を全うしたということは、彼らの持説が正しかったことを立証し
ているといってよいかもしれない。
モンテーニュを読む者は長生きするという説は、単なる説というにはとどまらない。アルマンゴー
氏や関根氏だけではなく、モンテーニュを友とする者の多くに通ずる感情ではあるまいか。モンテー
ニュは30代の後半、父親譲りの腎臓結石の発作に襲われ、以後20年間、59歳で世を去るまで、激痛の
合間を縫っては essai を書いた。それは堅忍不抜と自然随順と万物共生の哲学であり、それを書くこ
とによって彼は生きた。20年を要した Essais が完結した時、彼は死んだ。Essais を読む者はそこに
魂の平安と長寿への道を見いだしたのである。
関根氏の、新聞に寄せた文章はこのように書かれている:
「はじめてモンテーニュの名を知ったのは大正5年東大仏文研究室におけるエック先生の講義
によってであった。私がモンテーニュにのめり込んだのは何年だったかはっきりしないが、勉強
*
Makoto NAKAGAWA 英語・英米文化学科(Department of English Language and English and American Culture)
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東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
のつもりでアルカン版『エセー』を取り寄せ翻訳にかかったのは大正最後の年だったと記憶する
から、私とモンテーニュとの付き合いは今や60年になんなんとする。
「事実、昭和10年『モンテーニュ随想録』初版以来、昭和27年、32年、57年と、重版の都度全
面的に改修したし、ほとんど各章に解説や評注を書き加えもしたし、更に51年には『モンテーニ
ュとその時代』
、55年には『モンテーニュ逍遙』と書き続けずにはいられなかったのである。
「さて、
『随想録』初版のはしがきに私はこう書いている。
“私がこの本の翻訳に志したのはも
っぱら自身自家のためであった。生まれつき病弱で神経のかぼそい私自身のために、また不治の
病患を背負っていわば人生の旅路に行きなやんでいる家族の一人のために、幸福と長寿への道を
学ぼうとしたのが、そもそもの始まりであった”と。そのひとりはわが稿の完成を待たずに昇天
してしまったが、残された私の方は思わざる長寿にめぐまれて、ここにこうして、至極幸福に生
きている。これひとえにモンテーニュのおかげと言うほかはない。
「今ここに有名なモンテーニュ全集の編者のアルマンゴー医博がいあわせたら、そうだ、それ
にちがいない、と太鼓判を押してくれただろう。この人は10歳にしてモンテーニュを知り、1913
年にモンテーニュ学会を創立し、晩年には日本のトゥーリストたちもおそらくご覧になったと思
う、あのソルボンヌ前広場にあるモンテーニュ像をパリ市に寄贈した上、92歳の高齢で大往生を
とげた不朽のモンテーニュ学者であったが、その専門だった衛生学の学会誌に、“中年から『随
想録』の愛読者になった人たちは、そうでない人たちより10年や15年は長生きしている”と報告
している。
「顧みると私が『随想録』の翻訳に取りかかったのはまさに満州事変勃発の前夜、31歳の時で
あったが、モンテーニュがエセーを書き始めたのも血なまぐさい宗教戦争の最中、1572、3年ご
ろで、まさにかの聖バルテルミ祭大虐殺の前夜であった。
「彼はそれより先、1563年30歳のとき親友ラ・ボエシと死別して以来、原因不明の、何とも名
状しがたい不安な毎日−
−彼自ら“ただ煙り…暗くわびしい夜”と書いている−
−いわゆる〈実存
の不安〉のただ中に暮らしていた。何をする気にもなれず、さりとて何もせずにいればますます
居たたまれない気持に落ち込んでゆく、そうした気分を、彼は〈無為について〉
、
〈孤独について〉
の両章につぶさに述べているが、これはモンテーニュだけのことではなかった。それは古今東西
を問わず乱世に生を享けたすべての〈在野の閑人〉、思い高きすべてのインテリたちが、例外な
くまともにぶつかった〈実存の不安〉
、
〈人間の問い〉そのものであった。
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モンテーニュ再考
「これに答えるために、彼らはどうしても“名利にとらわれて静かなるいとまもなく、蟻の如
く集まりて東西にいそぎ南北に走る”世間の俗物と断然交わりを断って独りになり、〈自分対自
分〉の対話に沈潜しないではいられなかった。かくて兼好も長明も淵明も、『森の生活』の著者
ソーローもわがモンテーニュも、皆ひとりになることを求めたのであり、中国の戦国時代も、幾
多の隠逸の士とその詩文とを生んだのである。
「だがまちがえてはいけない。それは決して単なる逃避には終わらなかった。それは積極的な
一種独特な生活態度、反体制者の生活の一つの型を生んだ。だからモンテーニュも、あの塔の三
階にたてこもって閑寂な日々を楽しんでばかりはいなかった。戦争にも参加したし、政治外交の
世界では、後年即位早々の国王アンリ四世から、最高顧問として就任するようにその親書を賜る
ほどの実力を示したのである。『きけわだつみの声』の若き戦士たちも、だから『随想録』をふ
ところに戦場に赴いたし、私もまた戦中戦後を通じて、このモンテーニュの生き方にならって生
きながらえてきたのである。
「ところで今、88年をこの日本という国に生きて、何が一体われわれに欠けているかと考えて
みると、それは〈モラル〉だと答えるのに私は躊躇しない。昔は孔孟の教えとか皇道精神とやら
もあったけれども、今のわれわれには果たしていかなるモラルの拠りどころがあるか。民主主義
国ともなればそんなものは一切いらないのか。神様にも天皇にもよらない〈人間のモラル〉を、
どこかに捜し求めようと努めないでよいのだろうか。
「サント・ブーヴはかのフランス革命で何もかも失ってただ愚痴ばかりこぼしている同胞に向
かって、
“もう一度明晢と節度とを取り戻すべく、
『随想録』を毎晩1ページずつ読みなおそうで
はないか”と言った。そこには〈自分対自分〉の対決から生まれ出るわれわれのモラル、モンテ
ーニュが言うところの《ユメーヌ・コンディシオン》を踏んまえて立つ〈人間のモラル〉がある。
しかもそれが抽象論としてではなく賢愚尊卑老若男女の生態の生々しい描写を通じて示されてい
るのだ。それは自由と徳性との美しい調和である。
」
これは可能な限り、正直に、そして飾らず簡潔明快に表現することをモットーとしたモンテーニュ
に傾倒して、自らの文章道を究めた達人の文章というべきである。関根氏自ら、半生にわたる『随想
録』訳業の日々は、翻訳とは、そして言葉・文章とはいかにあるべきかを考えさせられることの連続
であったと言っている。人間探求と文章道の鬼であったモンテーニュが命がけで書いた2,000ページを
超える大作を読むこと、ましてや全訳するとなったら、その作業自体が人間探求と文章道修業になら
ざるをえまい。『随想録』は日本文学の古典です、と語る訳者関根氏の気概は、そこから生まれたの
であろう。美しく、風味のある、確かな日本語が姿を消しつつある昨今、氏の『随想録』を自分の文
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章の模範とした文学者・知識人を筆者は幾人も見てきた。彼らにとって文章道は、モンテーニュと訳
者にそうであったように、人のあり方そのものに深くつながっていたのである。
Ⅱ
牧師をしていた父親の蔵書の中にエマソン(Ralph Waldo Emerson, 1803-82)はコトン訳のモンテ
ーニュ(Charles Cotton 1630-87, Montaigne’s Essays 1685)を見つけた。小学生の時のことであるから
モンテーニュを読んで理解できたとも思えないが、エマソンは古典に対する父親譲りの憧れと愛着心
の強い早熟の子供であった。そのコトン訳 Essays がパスカルの『パンセ』(Blaise Pascal 1623-62,
Pensées 1670)と並んで彼の愛読書となってゆくのは大学生になってからのことである。エマソンは
信仰心あつい人だったのでモンテーニュよりはパスカルに近かったと思われるが、パスカル自身がそ
うであったように、エマソンも自分とはかなり異質の懐疑主義者モンテーニュに対して、無関心では
いられなかった模様で−
−
−現に彼の『代表的人物論』
(Representative Men, 1850)の中のモンテーニ
−
−コトン訳 Essays を愛読した跡が、ハーヴァー
ュ論も、題名は“Montaigne or the Sceptic”である−
ド大学保管の彼の手沢本の書き込みに残されている。
アメリカ人の多くがそうであったように、精神的母国ヨーロッパへの郷愁はエマソンの場合、なみ
なみならぬものがあった。後年、アメリカ独自の精神文化構築に彼が心を砕いて、ホームズ(Oliver
Wendell Holmes, 1809-94)に、「アメリカの知的独立宣言」と言わせたエマソンの講演(1837.8.31. at
Cambridge)「アメリカの学者」(The American Scholar)に顕著な彼のヤンキー魂の発露も、彼のヨー
ロッパへの郷愁と、それを断ち切ろうとする彼の長年の悲願あってのことであろう。
エマソン憧れのヨーロッパ初訪問(1832-33)、特に彼が傾倒したルネサンス精神発祥の地イタリア
に始まる旅の途中、彼はパリの墓地ペール・ラシェーズ(Père Lachaise)に立ち寄った。エマソン30
歳の時のことである。祖国イギリスの文学はいうまでもなく、ルネサンス・ヨーロッパの詩人文人に
親しんで、アメリカ人としての自分の行くべき道を模索していた頃であった。通称“東の墓地”ペー
ル・ラシェーズは多くの作家や芸術家たち、バルザック、ドーデ、ドラクロワ、ミュッセ、ショパン、
ビゼなどが眠る場所として名高いが、エマソンが佇んだのは、比較的新しい、ひときわ人目を引く大
理石の円柱型の墓の前であった。父親の思い出につながるモンテーニュにゆかりのある墓であった。
その墓碑には次のような文字が刻まれていた。
「ここにオギュスト・シャルル・コリニヨン(Auguste Charles Collignon)眠る。この人は
1830年4月15日、神の仁慈への信頼にあふれつつ、68歳と4ヶ月をもってみまかった。この人は
善行を愛し、善行をなそうと努め、モンテーニュの『随想録』とラ・フォンテーヌの『寓話』の
(1)
道徳と教訓とを、できる限り実践しようと努めながら、おだやかにも幸福な一生を送った。
」
これを紹介した仏文学者大塚幸男氏は、この墓碑銘について次のように述べている。
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「コリニョンとはどんな人物であったか。どこかの役所に勤める官吏であったという以外には
詳しいことはわかっていない。しかしそれ以上の詮索は無用であろう。このような名もない庶民
が、モンテーニュやラ・フォンテーヌのごときモラリストを友とし、その教えに従うことによっ
て、幸福な一生を送ったということこそ、われわれにとって大切なことではあるまいか。モラリ
(2)
ストに従って、よりよい、幸福な一生を送ることのできる人は幸いなるかな!」
Ⅲ
上の墓碑銘にモンテーニュと並びおかれたラ・フォンテーヌの『寓話』( La Fontaine 1621-98,
Fables 1668-94)とはいかなるものであったのか? モンテーニュを真似てエッセイを書いたベーコ
ン(Sir Francis Bacon 1561-1626, The Essays or Counsels Civil and Moral 1597, 1612, 1625)やカウレー
(Abraham Cowley 1618-67, Essays in Verse and Prose 1668)によってはじめてエッセイ文学の醍醐味
を知らされた17、18世紀イギリス人にとっては、大昔の『イソップ寓話』を韻文に書きかえたにすぎ
ないような『ラ・フォンテーヌ寓話』など、子供向けのおとぎ話であって、大人がまじめに読む本で
はないと思われたかもしれない。現にその『寓話』の最初に出た部分(The First Collection, 1668)は、
ルイ14世の長子に献じられたものであって、その時の王太子は6歳になったばかりの子供であった。
その献辞には次のようなことが書かれている。
「殿下
文学の世界に何か誇りうるものがあるとすれば、それはイソップが道徳を語った形式にあると
思います。私ではなく、誰かほかの人たちがイソップの寓話を美しい詩で書きかえていればよか
ったと私は思います。その効用は賢者ソクラテスも認めていたところであります。殿下、僭越な
がら私が試みたものをいくつか献上させていただきます。殿下のご年令にふさわしい楽しい読み
物であります。殿下は、王侯にも娯楽と遊びが許されるご年令にあられます。同時に、まじめな
ことを考えるのも時には必要なご年令でもあります。そのすべてが、幸いにイソップの寓話の中
に見いだされます。それは確かに幼稚な作りばなしに見えますが、その幼さの中に大切な真理が
包まれております。殿下、私はこのような有益で楽しい作りばなしを殿下がご好意をもってお受
け取り下さると信じます。この、有益で楽しいということほど素晴らしいものがほかにあるでし
ょうか。この二つを実践することこそ学問を発達させてきたのであります。イソップはこの二つ
を結びつける特別な技を備えております。彼の書いた物語を読むと、人は自分ではそうと気付か
ぬうちに、心の中に美徳の種をまきます。自分では勉強とは別のことをしているつもりでも、実
(3)
は自分自身を知ることを学んでいるのであります。
」
有益で楽しいこと、そしてこの二つが学問の生命であること、自分では気付かぬうちにいつのまに
か正しい心を養うこと、そして最後に、とはいえこれこそ最も大切なことなのだが、自分を知ること
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を学ぶ、という項目の一つ一つがモラリストの本領を言いあてている。
モラリストのあり方も決して一様ではなく、その多様性もまたモンテーニュが好んでやまない自然
界の掟の一つであろうが、イソップとラ・フォンテーヌがなぜ、児童向きの寓話形式でモラルを説い
たのか、わかるような気がする。箴言風の教訓や小話など、フランスで言う leçons をイソップは自
分の生きた古代ギリシアの、そしてラ・フォンテーヌはルネサンスの洗礼を受けた時代の、それぞれ
の立場から、誰にも理解できるような形で伝承させたいと願ったのであろう。
一方では、読者の人生経験と知恵を必要とする他のモラリストたちの高度に彫琢された散文が、モ
ンテーニュの大冊 Essais あたりから始まる。これは韻文や児童向けの物語形式とは別の散文独自の
分野を究めることになってゆく。彼ら散文のモラリストたちが申し合わせたように、深く心に思い決
めた散文の掟とは一体いかなるものであったのか? イギリスの散文作家の中でも屈指の名文家とし
て知られる W.
ハズリット(William Hazlitt, 1778-1830)の文体を作る上にフランス・モラリストが
果たした役割はきわめて大きいが、彼を旗頭とする19世紀イギリス・エッセイストたちが学んだ文章
道の本家の一例として、文章の研鑽に励んだ仏人の代表株フロベール(Gustave Flaubert, 1821-80)に、
文章道とはいかなるものであるかを語ってもらうことにする。それが間違いなく、モラリストたちの、
そしてハズリット自身が力説した文章道そのものだといえるのだから。
「いわゆる同義語なるものは存在しない。作家は自らの思想を、いささかの歪曲も虚飾もなく伝
達すべき《唯一の正しい語》を絶えず模索し続けなければならない。
」
(
『書簡』
)
「韻文と同じように律動的でありながら、しかも同時に科学用語のように的確な文体。
」
(同)
「言葉が思想に密着すればするほど、その効果は美しい。
」
(同)
フロベールの《唯一の正しい語》をハズリットは《決定的一語(a decisive word)》と呼んで、そ
(4)
「私が集めるのに心血を注いできた、稀にしか
れを発見するまでは休まなかったと言っている。
(5)
とも言った。「真実を求める道中で私は美を発見することがあっ
見ることができない真理の閃光」
(6)
とも。モンテーニュに言わせるなら、
「事柄をしっかりと掴んでいれば言葉は自然に出てくる」
た」
(Ⅰ-26)
、
「物事は後ろに言葉を従えている」
(同)
、
「心の中に命ある、はっきりした思想を抱いている
etc. これらはいずれも、フロベールが言うところと同一の精
者は、必ずそれを表現するだろう」
(同)
、
神のものである。彼ら散文のモラリストたちにとって、エッセーを書くことは、モンテーニュの言う、
「私自らがこの本(Essais)の内容なのです」(「読者に」)、そして、「私はここに、ただ私自身を明ら
かにしようと目指しているだけだ」(Ⅰ-26)というような言葉に尽きる、散文による自己表現の究極
を精一杯に試みているのである。もともと essai や essay という語は“試み”という意味であった。
モンテーニュは寓話や詩ではなく散文によって真っ向から自己検索に取りかかった。自分自身との
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モンテーニュ再考
対話に専念することである。しかし、essai を書き始めた頃は、自分がどういう人間であるかを見き
わめるつもりであったが、書き進むうちに自分の中に、人類なるものが等しく持つ人間性が完全な形
で備わっていることに気付いた。自己を語ることは人間を語ることだったのである。自己検索が人間
研究となって行く。Essais を書き、それを推稿した20年というものは、その仕事が彼の有益な楽しみ
となった。再び、「有益で楽しいということほど素晴らしいことがあるだろうか。この二つを実践す
ることこそ学問を発達させてきたのだ」という部分は特筆に値する。《不学の学》を説いた老子やソ
クラテスの同じ教えの意味するところも、ここにあるだろう。《不学の学》に、普遍的ヒューマニズ
ムに立脚したモラルが凝縮されている。この《不学の学》の精神をモンテーニュはことのほか愛した。
この意味でも、王太子に宛てたラ・フォンテーヌの献辞は巧まずして、東西のモラリストたちの所信
表明(manifesto)となっていると言ってよいだろう。学問や知識をひけらかすことではなく、モラリ
ストの使命は人間を表示することにあったのだ。
フランス人はもともと、教訓的、風刺的ひと口ばなしや箴言(maximes)を好む傾向が強かった。
そのような風刺的な短い言葉で人間を表示することを好むフランス的土壌あってはじめて、モンテー
ニュをはじめ、世界文学の中で特異の地位を占めるフランス・モラリストの群像が誕生したのである。
、パス
ラ・ロシュフコー(La Rochefoucauld 1613-80, Réflexions Sentences et Maximes Morales 1678)
カル(Blaise Pascal 1623-62, Pensées 1670)、ヴォヴナルグ(Vauvenargues 1715-47, Réflexions et
Maximes 1746)、そしてジュベール(Joseph Joubert 1754-1824, Recueil des Pensées 1838)、etc. いずれ
も簡潔明快な名文で含蓄に富む思索の軌跡を残した者たちである。イギリスのハズリットはフラン
ス・モラリストの、特にラ・ロシュフコーの箴言にならって自分でも数多くの箴言を書いたが、彼の
仕事は一代限りで終わることなく、その息子と孫はコトン版モンテーニュ英訳を改訳したり、世界中
の箴言を集めたりした。飾らぬ文体を志し、「文は人にして人は文なり」を実践したハズリットは、
「素朴な人間性は深い思索から生まれる」(Simplicity of character is the natural result of profound
(6)
と言った。それと同じことを文章道に関連させてヴォヴナルグは次のように述べている。
thought.)
(7)
「明快さは深い思想を飾る。
」
(La clarité orne les pensées profondes.−Ⅳ)
(8)
「不明瞭は誤謬の王国である。
」
(L’obscurité est le royaume de l’erreur.−Ⅴ)
「ある思想が素朴に表現できないほど脆弱な場合は、その思想を捨てよ、という天の声である。
」
(Lorsqu’une pensée est trop faille pour porter une expression simple, c’est la marque pour la
(9)
rejeter.−Ⅲ)
いずれも文章道に心を寄せる者にとって模範とすべき名文である。文体は性格であるという考え方
は、実は、あらゆる人間行動は知性や理性ではなく感性の産物であるというモンテーニュ的な精神に
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東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
端を発している。
「感覚はどれもこれも、われわれの理性や霊魂を支配する力を持っている。
」
(Ⅱ-12)
「知識と感覚とは別物ではない。感覚の道を通り、感覚の案内によってわれわれの学識のすべて
は入ってくる。
」
(同)
「われわれは公の不幸を、ただそれがわれわれの個人的な利害に関する範囲でしか感じないし、
それ以外には感ずることができない。
」
(Ⅲ-12)
「すべて認識されるものは認識者の性能によって認識される。そしてすべての認識は感覚を通し
てわれわれの内に入ってくる。感覚こそ、われわれの主人である。
」
(Ⅱ-12)
ハズリットは自分の箴言に次の詩を引用した。
「われらが胸のうちには情熱という、もう一人の主人が治めている。情熱を支配する者、裁く者、
それはただ一つ、情熱だけである。
(Within our bosoms reigns another lord, / Passion, sole judge
(10)
and umpire of itself.)
(11)
ヴォヴナルグは、
「偉大な思想は心情から来る」
(Les grandes pensées viennent du cœur.−cxxvii)
とも言っている。
Ⅳ
モンテーニュの Essais は3巻に分けて出されたが、第1巻発売(1580)と共にフランスの王侯貴
族知識人の間で広く読まれた。前評判も高かった。それは著者が人望高い帯剣貴族政治家であったこ
とに加え、その本がルネサンス期フランス人が渇仰した古典の逸話と精神に充満していたこと、特に
前述したようにフランス人好みの教訓的箴言の集大成とも見られたからであろう。母国フランスに次
いで Essais が最も歓迎されたのはイギリスでのことであった。ルネサンス・イタリア人の血を引く
フロリオ(John Florio 1533?-1625, The Essayes of Michael Lord of Montaigne, 1603)の英訳がいち早く
出て、この訳がまた良かった。今も英文学史に残る名品の一つとなっている。モンテーニュに傾倒し
てイギリスではおそらくはじめて Essays と名乗った本を出したコーンウォリス(William Cornwallis,
d. 1631? Essays 1600, 1610, 1616, 1632)はナイトの称号を持つ政治家で、ベン・ジョンソン(Ben
Jonson, 1572-1637)のパトロンにもなったりした才人であったが、モンテーニュを意識したエッセイ
を次々と書いた。しかし、それ以上にヒットしたのがベーコンのエッセイ集である(Francis Bacon
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モンテーニュ再考
1561-1626, The Essays or Counsels Civil and Moral 1597, 1612, 1625)
。その初版はフロリオ訳が出る前
のことであるから、ベーコンは原文でモンテーニュを読んでいたのであろう。ベーコンの兄は長く駐
仏外交官としてモンテーニュとも親しく−−−モンテーニュの死を彼に知らせた仏人の手紙は名高い
−−
−著者から Essais を贈られていた。それを兄は弟フランシスに渡したのであろう。ベーコン兄
(12)
弟の仲睦まじさは有名であった。モンテーニュの盛名も兄から聞かされていたに違いない。大物政治
家モンテーニュの成功した先例あってのベーコン・エッセイ集である。コーンウォリスとベーコンの
次にエッセイ集を出したカウレー(Abraham Cowley 1618-67, Essays in Prose and Verse, 1681)は詩
人であったが、これも外交官として長くフランスに駐在して、仲間たちの間で評判になっていたモン
テーニュのことは早くから聞き知っていたから、彼も多分、フランス語原文で Essais を読んだので
あろう。このように個人的にモンテーニュやフランス人とかかわり合った人たちはもちろん、大陸文
化の中心はフランスにあると信じていたイギリス知識人たちの間ではモンテーニュは既に高名なフラ
ンス・エッセイストであった。
これに拍車をかけたのがフロリオ訳であって、この訳をシェイクスピア、ベン・ジョンソン、ジョ
ン・ウェブスターなどのエリザベス朝劇作家たちが読んで、争うように利用したり剽窃したりしたこ
とによって、更にモンテーニュの名はイギリス人の間で上がってゆく。このフロリオ訳が第3版
(1632)をもって姿を消してしまったのは妙であるが−
−
−第4版が出るのは1882年のことである−
−
−
おそらく、一世を風靡したエリザベス朝演劇が幕を閉じた時、そこに活躍したフロリオ訳もまた、そ
れと運命を共にしたのであろう。
だが、フロリオ訳が復活するまで250年待たねばならなかったとはいえ、その間モンテーニュが影
をひそめたわけでは決してなかった。1685年にコトンの新訳(Charles Cotton 1630-87, Montaigne’s
Essays)が出て、この訳も良かった。これがイギリス本国からの大量移民の波に乗ってアメリカへ渡
り、建国時代の新大陸に大勢の読者を獲得する。このコトン訳はハズリットの息子と孫の改訂版
(1842, 1877)が出るまで、フロリオに代わって世界中の英語圏を席捲することになる。
17・18世紀イギリスにモンテーニュが歓迎された他の理由の一つとして、ナントの勅令廃棄(1685)
が想起される。それによって故国フランスを追われてイギリスに亡命した大勢のユグノー
(13)
(Huguenots)の貴族・文化人が、イギリス人の間でモンテーニュの名声を喧伝したことであろう。
モンテーニュはカトリック教徒ではあったが、身内にプロテスタントもいて、彼は両派の妥協を計っ
ていた。もともと狂信を嫌悪したモンテーニュのことであるから、それが Essais に反映されずには
いない。自分のことを友人知人に知ってもらうためにエセーを書くことにしたという彼の言葉をその
まま真に受ける必要はない。Essais は、新旧キリスト教徒が示す狂信の愚に愛想を尽かした著者が、
両派を名指しで非難することなしに、どうすれば寛容の道が開けるかを、あの手この手で思案の限り
を尽くして書き綴った大著でもある。その Essais を異端の槍玉にあげたり、なまぬるいといって非
難したりする者は一人もいなかった。というのは、モンテーニュ在世中は新旧両派の差別なしに、こ
れほど尊重された人も著作もなかったからである。ローマ教皇庁が彼を疑って Essais を禁書目録に
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入れたのは著者没後80年もたってからのことであった(1676)
。この一書が後に自由・平等・博愛を標
榜した革命の倫理網領のごとく扱われるフランス大革命、それにナポレオン戦争を経験して、フラン
スの誇るべき精神的財産としての地位を確立して久しい1939年にもなってようやく、教皇庁は禁を解
いた。解禁の理由は、「モンテーニュはカトリック教に貢献した」ということであった。なんともソ
ラゾラしいことである。しかし教皇庁がモンテーニュを疑ったのは、あながち無謀とばかりは言えな
い。彼にはユグノーの中に大勢の友人がいたからである。このことが、プロテスタント王国イギリス
にモンテーニュを、ヨーロッパの他のいかなる国よりも早く受け入れさせた要因の一つであろう。
モンテーニュ自身はパスカルのような熱烈なキリスト信者から見ると、救い難い無神論者であり、
懐疑主義者であった。モンテーニュが信じたのはルネサンスが奉じた古典精神であって宗教ではなか
った。そのような彼がいかに個人的には人望高くても、異端と思われる恐れが全くないとは言えなか
った。そのため彼の態度は慎重をきわめた。とはいえ、いかにカムフラージュしても Essais は彼の
真相を打ち明けずにはいない。カトリック万能時代には彼はカトリックとして生きることを当然とし
ていたが、それは必ずしもカトリックに味方してプロテスタントに反発するということではない。仮
りに彼がプロテスタントの時代に生をうけていたとすれば、彼は間違いなくプロテスタントとして生
涯を全うしたであろう。そのようなモンテーニュはユグノーから見れば、いかなる意味でも過激に走
ることは決してない、信頼できる紳士(honnête homme)であり、彼らユグノーが殉じようとしたル
ネサンス精神の忠実な信奉者だったのである。
Ⅴ
モンテーニュの Essais とは、いかなる本なのか? それを枕頭の書としたフロベール(Gustave
Flaubert, 1821-80)は手紙に書いている。
「何を読んだらよいかとおっしゃるのですか? モンテーニュをお読みなさい。
…彼はあなたの
気持を鎮め落ちつかせてくれるでしょう。子供のように興味本位で読んではいけません。また学
者になろうなどと大それた気持で読んではいけません。そうではなしに、生きゆくためにお読み
(14)
なさい。
」
ジョルジュ・サンド(George Sand, 1804-76)に Essais を読むようにすすめたのもフロベールであ
る。Essais のことを彼は次のように言っている。
「Essais は哲学や神学をそこに学ぶためにではなく、自分の一生を幸福のうちに生き抜く術をそ
(15)
こに体得するために読む本なのです。
」
同じフロベールの別の手紙には次のような文字も見られる。
10
モンテーニュ再考
「これほど(Essais のこと)穏やかな、そしてあなたをこれ以上静朗な気分にさせる書物を私は
(15)
知りません。
」
本稿のはじめの新聞からの引用の中に、「もう一度明晢と節度とを取り戻すべく『随想録』を毎晩
1ページずつ読みなおそうではないか」とあったが、それを言ったサント・ブーヴ( Charles-
Augustin Sainte-Beuve, 1804-69)には次のような文もある。
「『随想録』という本は、私生活向きに生まれついていながら騒乱と革命の時代にめぐり合わせ
た紳士( honnête homme )の、われわれが利用すべき有益な勧告と直接の慰安とを蔵してい
(16)
る。
」
上の引用文はいずれも、学問や知識のためにではなく、幸せに生きるための知恵をモンテーニュの
中に見いだした人たちの言葉である。
パスカルは、「神なき人間の悲惨、神を持つ人間の至福」と言ってモンテーニュを否定し、自らを
弁護した。にもかかわらずパスカルはモンテーニュの中に、いかなる信仰・哲理をもってしても否定
し去れない、なま身の人間的なあり方(condition humaine)を見て、生涯モンテーニュを手放すこと
はできなかった。パスカルがおそらく末期のガンで苦しんでいた時、同情する者たちに向かって彼は
言った。「私をあわれむようなことはしないで下さい。病気はキリスト教徒の自然の状態なのです。
なぜなら、人は病んでいると、常にあるべき状態にあるからです。すなわち、苦しみと、苦患と、す
べての恵みの剥奪と、官能の快楽の喪失との状態にあり、いっさいの情念を免れ、野心もなく、貪欲
もなく、絶えず死を待っているからです。キリスト教徒たる者はこのようにして生涯を過ごすべきで
はないでしょうか。とすれば、われわれがそうあるべき状態に余儀なく置かれることは大きな幸福で
(17)
はないでしょうか?」
一昼夜続いた激痛のあとに訪れた臨終の時のパスカル最後の言葉は、「神よ、どうか私を見棄てな
いで下さい」であったという。信仰に生きる者たちは、このようなパスカルを自分の模範とも慰めと
もしてきた。一方では、パスカルと違ってストイックな自己抑制を早くから棄てて、自然随順を人間
の理想としたモンテーニュは、もしもパスカルと出会ったとすれば、彼の中に敬虔な信仰・哲理とは
言いきれない一種の狂信を見たかもしれない、と言ったら言いすぎであろうか。なぜなら、モンテー
ニュは、苦しむことはできるものなら避けるべきことであって、できる限り幸福に生き、幸福に死ぬ
ことこそ、人の最も自然にかなうあり方であると考えたからである。苦患を幸福と言えるのか? そ
してモンテーニュは思った。自分のような有閑階級の人間たちが人生や死の問題を取り上げて、何の
結論も出せずに悩んでいるのに、貧しい庶民たちは苛酷な運命に堪え、黙々と死んでゆくではないか。
というのは、ペストや飢餓で死ぬ領民が後を絶たなかったからである。いかに生き、いかに死ぬかを
知っているのは、学問も知識もない貧しい者たちではないか。彼らの中にこそ自然随順の哲理は実践
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東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
されていたのである。モンテーニュが愛誦したセネカの一句、「運命はそれに従う者を乗せ、逆らう
者を引きずって行く」も、単なる運命論ではなく、自然随順の法をセネカはそれによって語ったので
あろう。
若い頃はストイックな哲学に傾斜して、その影響下に Essais を書き始めたのであるが、彼が一番
恐れた死や病を分析しているうちに、そのような誰にも避け難い苦患を避けようと努めること自体が
不自然なのだと気付いて、それ以後、彼は自然にさからって無理な規制を自分に課すことをストイシ
ズムと一緒に棄ててしまった。これに関連してパスカルは次のように述べている。
「人間は死と、悲惨と、無知とを治すことができなかったので、自分を幸福にするために、それ
らのものに思いを致さないようにすることを思いついた。
」
(
『パンセ』168)
これは人間本能について至極当然のことを言ったにすぎないが、実はこれもパスカル一流の《神と
人》、《正義と煩悩》、という物事の両極を対立的に見る時の緊張感が生みだしたものである。モン
テーニュは、このような善悪の対決姿勢とは違った、もっと大らかで、楽な気持を持つことこそ、自
然に叶うことだと考えた。
「自分の存在を正しく享楽することを知ることこそ、絶対の完全であり、神のごとき完全である。
最も美しい生活とは、私の信ずるところでは、普通の人間らしい模範に従う生活である。秩序は
あるけれども、奇跡だの突飛だのというところのない生活である。
」
(Ⅲ-13)
「老人は、さらにもう少しやさしく取り扱われる必要がある。健康
そして Essais 最終章の結びは、
と知恵とを、ただし愉快で社交的な知恵とを守らせ給うおん神アポロンにおすがり申そう」(Ⅲ-13)
で終わっている。
カトリックならカトリックの神さまがいてよいではないか、そしてプロテスタントならプロテスタ
ントの。その神さまを拝んで幸せになれるものなら、一生懸命拝んで幸せを願うことにいたしましょ
う。神を拝むにも、義務や強制からではなく、拝む人にとってそれが自分の生きる楽しみとも支えと
もなってくれるなら、宗教も紛うことなき幸せの糧というものではないか、という考え方である。エ
ピキュリアンにふさわしい一種の諦観と言えまいか。
モンテーニュは神も仏も知らぬ平凡な者たちの平凡な生き方の中にこそ、人間の安心立命をもたら
す普遍的な知恵があることを経験から学んだ。その思索の結晶が Essais なのであるから、彼がその
著作にかけた抱負と自信には並々ならぬものがあった。その Essais を人が読んで楽しくもなく有益
でもないとしたら、それは読者に責任があるのだ、と彼は言っている。
「私の本をソソクサと読むのはやめてもらいたい。一つの章と他の章との間に何の脈絡もないと
12
モンテーニュ再考
いって愚痴る人は注意が足りない証拠である。私の書くことは、他の場所に書かれていることと
必ず見合っている。それがわからずに私の本を誤って解釈するようなことになったら、それを正
すために私はあの世からいつでも舞い戻ってくるだろう。
」
(Ⅲ-9)
『方
モンテーニュは自分の essais を discours とも呼んだ。discours とは、Discours de la méthode(
『文体論』
)のように、学説・論文を指すこともあるが、モンテー
法序説』
)や Discours sur le style(
ニュの場合はそうではなく、動詞 discourir(弁じ立てる、長ばなしをする)の名詞、「閑談・むだば
なし」というほどのへりくだった意味で言ったのであろう。essais という語も今われわれがエッセイ
と呼ぶものとは必ずしも同一ではなく、
「知的な試み」
「提案」というつもりでモンテーニュは使って
いた模様である。著者としては「つれづれなるままに」書きとめた随筆というような、のどかなもの
ではなかった。一章一章を、自分の能力・知識・経験・判断の試みとして書いたのであるが、読者に
対してはそれはあくまでも個人的な試みですという謙虚な姿勢で essai と言ったのであろう。Essais
と呼ばれている書名も著者在世中は(初版1580、第二版1582、第三版1587)大文字ではなく無冠詞の
(19)
essais であった。
冠詞付きで Les Essais の標題が掲げられるのは著者没後の1595年の改訂版以降の
ことであって、それは著者のあずかり知らぬことであった。
著者が試みた essais の一つ一つが107章に分類されて−−−モンテーニュは章分けもしていなかっ
た−−−一冊の大著となって完成した時、それを編纂した者たち−−−生前、彼の親しかった友人
(Pierre de Brach)と女弟子グルネ嬢(Mlle de Gournay)−−−にとっては、それはもはやモンテーニ
、ましてや閑談にとどまるようなものでは決してなく、
ュの個人的論考・試論(traités, discours, essais)
はっきりした目的をもって精巧に構成された一つの文学作品だったのである。この文集に賭けた著者
長年の執念と情熱をよく理解した者たちの心意気が Les Essais の名に込められている。誰の作ともわ
「Essais
からぬ essais を集めたものではなく、Les Essais de Michel de Montaigne である。関根氏は、
といえばモンテーニュの essais のことであり、
『随想録』といえば私の訳した Essais のことだ」と筆
者に語ったことがある。もっとも、今でも無冠詞の Essais がないわけではない。Pléiade の版と Le
Livre de Poche の Essais 等。この編者たちは無冠詞で通した原著者の意を汲んだのであろうか。
自分の書くものが質量ともに未曾有の作品になることをモンテーニュは予測していたであろう。そ
れだけの抱負がなければその一作の推敲に20年もの歳月をかけることはあるまい。それについてのわ
れわれ読者の憶測とは別に、Essais の存立には今われわれが言う実存的不安の要素が根深く一貫して
いることを思わずにはいられない。それは彼が essais を書き始めた目的そのものと関係がある。その
目的とは、彼が自分で言っている限りでは、「自分自身を描くこと」であった。それはとりもなおさ
ず、先述のように自分を通して人間を描くことであった。変転きわまりない不可解な人間性なるもの
を! そのような不可解なものに挑戦するとは一体、どういうことなのか?
一人の人間が常に同一の人物であることは決してなく、朝の自分と昼の、ましてや夕刻の自分とは
全く別人だと言って人間の非恒常性(inconstance)を口癖にするモンテーニュである。自分を知ろう
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東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
と試みること、そしてその作業を通して究極的には普遍的人間なるものを知ること−
−これは彼の人
間観から見れば明らかに論理的には矛盾することである。これこそ、彼が愛誦してやまなかった
(
“空の空なり、すべては空なり”−
−『伝道の書』
)にほかなるまい。
“Vanity of vanities, all is vanity”
それとも、彼が言うように、有限の人間のすることの中にむなしくないことが果たして一つでもある
のだろうか? エピキュリアン・モンテーニュのように、人生を享楽したいという欲望が強ければ強
いほど、有限の人生を思う時の pessimism もひときわ強く深いのではないか? 彼の血肉ともなって
Essais の底に流れる pessimism =“Vanity of vanities…”を彼の中に一瞥せずにモンテーニュを語る
ことはできない。
「心が定まらぬことこそ、われわれの天性の最も普通で、また顕著な欠陥である。
」
(Ⅲ-1)
「私には人間の恒常性( constance )を信ずることが何よりも難しく、かえってその非恒常性
」
(同)
(inconstance)の方が容易に信じられる。
「われわれの普通の行き方は、身を桟会の風の運ぶのにまかせて、右に左に、上に下に、ただた
だ欲望の赴くところに、これに従うことである。
」
(同)
「われわれは自分で行くのではない。運ばれて行くのだ。まるで水に浮いた物のように、波が怒
っているか静かであるかによって、ある時は静かに、ある時は荒々しく。
」
(同)
「われわれは相反するさまざまな意見の間に浮動している。われわれは何一つ自由に、何一つ絶
対的に、何一つ変わらずに、意欲することはない。
」
(同)
「私は自分のことを完全に、単一に、決定的に、混じりけなしに、ただの一語では何一つ言うこ
とができない。
」
(同)
「われわれの行為は、いろいろなもののはぎ合わせにすぎない。
」
(同)
「われわれはみな、もろもろの断片から成っており、その構成ははなはだ雑然として食い違って
いるから、各断片は各瞬間ごとに思い思いのことをする。だからある時のわれわれと、また別の
ある時のわれわれとの間には、われわれと他人との間におけるほどの距離がある。
」
(同)
「人々の意見に最も普遍的な性質といえば、それは多様だということだ。
」
(Ⅱ-37)
14
モンテーニュ再考
「世界は要するに多様と相違にすぎない。
」
(Ⅱ-2)
「いかに多様にわれわれは物事を判断するか。いかにたびたびわれわれは自分の考えを変える
か。
」
(Ⅱ-12)
「物事はその形相のまま、本質のままにわれわれの中に宿ることはしない。それ自身の力、それ
自身の権力によってわれわれの中に入ってくることはない。外界の物はみなわれわれの思うがま
まになっていて、われわれが望むとおりにわれわれの中に宿っている。
」
(Ⅱ-12)
「人が何をわれわれに教えるにしても、われわれが何を学ぶにしても、与えるのは常に人であり、
受けるのもまた人である。−
−“人々の思いは変わる。ジュピターが彼らにふり注ぐ光線のよう
に。
”
(ホーマー)
」
(同)
「いかに相違した分別と理性を、いかに矛盾撞着する思想を、さまざまなわれわれの情熱はわれ
われに提出することか! これほど不安定で変わりやすく、その本質上とかく混乱をこうむりが
ちな、強いられた借りの歩みでなければ進めないものに、われわれはどんな確信を持つことがで
きよう。もしわれわれの判断が病気にも、ただの心の乱れにさえも容易に左右されるとすれば、
また狂気や無謀からも物事の印象を受けねばならぬとすれば、どんな確実さをわれわれは判断に
期待することができよう?」
(同)
これで十分であろう。人間の定まらぬことに思いを致すなら、自分の企ての定まらぬことをも思わ
ずにはいられまい。モンテーニュが一人の個人であったと同時に、彼が言ったように全人類の形相を
完全な形で体現した一人の人間であったとすれば、ここでわれらが芭蕉を引き合いに出して文人なる
ものの宿命を考えることも、あながち無意味なこととは言えまい。芭蕉は何と言っていたのか?
「百骸九竅の中に物有、かりに名付けて風羅坊といふ。誠にうすものの風に破れやすからむ事を
言ふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。終に生涯のはかりごととなす。ある時は倦みて放擲
せんことをおもひ、ある時はすすんで人に勝たむことをほこり、是非胸中にたたかふて、是がた
めに身安からず、しばらく身を立てん事をねがへども、これが為めにさへられ、暫く学んで愚を
暁らん事をおもへども、是がために破られ、ついに無能無芸にして、只此一筋に繋る。
「西行の和歌における、宗紙の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道
する物は一なり、しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見るところ花にあ
らずといふことなし。おもふところ月にあらずといふことなし。像花にあらざる時は夷狄にひと
し。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ造化にかへれと
15
東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
なり。
」
(
『笈の小文』
)
書くことが自分の本命となろうとは予想もしなかった文人の、万策尽きて自分の想いを命がけで文
字に託す情熱と自信と無常感である。なぜ無常感か? モンテーニュの場合を考えてみよう。
「一切は空であるという題のもとに、こんなに空なることを書きつらねるくらい、明白に空なる
ことはおそらくないだろう。むしろ神様がこのことについてあんなにも神々しくおおせられたこ
とこそ(関根注:旧約『伝道の書』1−2の“空の空、空の空なるかな、すべては空なり”
)
、悟
性ある人々によって注意深く、また不断に瞑想されねばなるまい。
「だが御覧のとおり、私はこれなる一つの道を歩いてきた。これからも同じ道を、相変わらず、
無理をしないで、世にインキと紙とがあらん限り、たどりゆくことであろう。私は行為によって
私の一生を記録することができない。運命は私の行為をあまりに低きにおいた。だから私は、私
の思想によって一生を記録するほかはない。
」
(Ⅲ-9)
「運命は私の行為をあまりに低きにおいた」とあるが、ここにルネサンス人モンテーニュの特質を
解く鍵がある。彼は他のルネサンス人の多くがそうであったように、古代のギリシア・ローマの英傑
たちの世界に深い憧憬を寄せていた。中世騎士道もまた古代賛美の風潮の落とし子であったが、中世
人たちは古代ギリシア・ローマを美化し、それを自分の生活行動の模範とした。モンテーニュ自身は、
幼少期から父親の教育方針でラテン語に習熟していたので、ラテン語を通して古典に接した。中でも
彼が愛読したのはセネカ(Seneca, 4B.C.-A.D.65)とプルターク(Plutarch, A.D.46-120)であった。セ
ネカの著作はラテン語で書かれているから(
『道徳論集』
、
『道徳書簡集』
、
『自然研究』
)に、モンテー
ニュは若い頃から親しんだが、プルタークの方はギリシア語に不得手な彼が本格的に取り組んだのは
『倫理論集』1572)のフランス語訳
有名なアミヨ(Jacque Amyot, 『ギリシア・ローマ偉人伝』1559、
を通してであった。モンテーニュ自身はレモン・スボン『自然神学』( Raymond Sebond ?-1436,
Theologia Naturalis, sive Liber creaturarum 1487)をラテン語からフランス語に訳したことがあった。
レモン・スボンなる人物については医学・神学の学者であったということのほかにはよくわかってい
ないらしいが、その著作は古典の自然観をキリスト教神学に導入して、大自然の尊さを説いた1,000ペ
ージを超える大作である。ラテン語の版だけでも25種あり、フランス語訳はモンテーニュ以前にも5
種類も出ていて、モンテーニュ訳(1569)自体も1641年までに6版を重ねた重要な文献である。これ
ほどの大著を訳して、その訳業によって自ら文章道を学んだことは言うまでもなく、翻訳のあり方に
ついても一家言を持っていたモンテーニュが手放しで賛めたのが、ほかならぬアミヨ訳プルタークで
ある。これは文字どおり彼の生涯、枕頭の書となってゆく。スボンの自然神学そのものがモンテーニ
ュに与えた影響の深さもはかり知れないものがある。新旧キリスト教徒と神学者・哲学者の間で物議
をかもしたスボンの自然神学を擁護して書いた膨大な論文『レモン・スボン弁護』( Apologie de
16
モンテーニュ再考
Raimond Sebond)をモンテーニュは Essais の一章(Ⅱ-12)とした。これが Essais 全107章の中で突
出した長篇となっている。モンテーニュの思想の要点を知るためにはこの一章を熟読すればよいとさ
え言える重要な章である。この中にモンテーニュ自身の自然哲学が開陳されている。それはスボンが
言った、「自然こそ人間が神と人間との関係を知るために読むべき唯一無二の書物である」に尽きる。
カトリック教全盛時代のことであるから「神」と言わなければならなかった。大自然の一員としての
人間を考えることこそ−
−万物の霊長としてでは決してなく−
−人間の至高の義務であると言うところ
を、それが神の意志であると言わなければ危険だったのである。スボンの真意は、「自然こそ人間の
読むべき唯一無二の書」ということであろう。われわれ日本人に親しい東洋的自然観の根底にあるも
のと軌を一にしている。善導の「自然即ち是れ阿彌陀国なり」、親鸞の「みだ仏は自然の様を知らせ
(20)
、等々。
む料なり」
、あるいは荘子の、
「天地は我と並び生じ万物は我と一なり」
このような、人間のあり方を大自然の一員としての立場から考えて、何事においても自然を逸脱す
ることのない生き方の中に、人間の守るべき道はあるという、古今の教えがモンテーニュの人間観を
作っている。セネカからは《生と死》、《自然随順》の思想を学んだ。(これがスボンの自然神学に
伝わっている。)プルタークからはモンテーニュ自身が好んだ歴史と伝記の分野を通して、古代の英
傑たちの雄々しい生き方と死に方を学んだ。
モンテーニュ自身が帯剣貴族であったことも関係していると思われるが、彼が何にもまして重んじ
たのは人間の雄々しさ・気高さであった。男の中の男性的な表れを彼が愛したのは男として当然であ
ろうが、女性の中にさえ彼が一番心動かされたのは、人間としての雄々しさであった。雄々しさと言
って語弊があるなら、女性特有の献身的な奉仕とやさしさ、と言おう。古典の中の男性が示した模範
をモンテーニュはソクラテス、アレクサンダー大王、エパミノンダス、アルキビアデス、カトー父子
等に見た。ソクラテスを男の中の男と言うのは日本人にはなじみが薄いかもしれないが、古典の描い
た大哲学者は、戦場では泣く子も黙る豪勇無双の武人だったのである。プルタークの『偉人伝』はモ
ンテーニュに理想的な男性像を幾つも提供した。モンテーニュは「プルタークこそ、あらゆる面で私
の無二の友である」
(Ⅱ-10)とも言っている。
(De Trois Bonnes Femmes)に書いた、崇
女性については、Essais、Ⅱ-35の「三人の良き妻たち」
高なまでに献身的な女性の生き方、死に方にモンテーニュは感動した。その中の一人、セネカの妻の
ことであるが、セネカが誠心誠意尽くしてきた皇帝ネロにうとまれ、傷心の思いで自殺行の旅に出た
彼に途中で死を思いとどまらせたのは、留守宅で夫のことを心配している妻への彼のいたわりであっ
たとモンテーニュは書いている。遂には皇帝から死刑宣告が下されて、いよいよ本当に死ななければ
ならない日がやってくると、どうしても一緒に死にたいと言って譲らなかったやさしい妻の意を汲ん
でセネカが独りで死ぬことを断念したのも、妻への思いやりであったという。ただ、セネカよりも若
くて丈夫であった妻は命を取りとめて生き残る運命になったが、夫の死を弔うためにだけ生きる彼女
の、この世の人とも思えぬ青ざめたやつれぶりを伝え聞いて、さすがのネロ皇帝も気がとがめた、と
も書いている。「青ざめた」というのは、夫と一緒に手首を切ったあと、老齢の夫はまもなく死んだ
17
東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
が、生き残った彼女の失われた血が悲しみのため戻らなかったのだ、とモンテーニュは述べている。
モンテーニュを感動させたのは、プルターク描く人々の生と死に見られた人間の運命の悲しさ、苛酷
さ、むなしさ、そしてそれら一切を包み込む大自然の壯厳さ、壮大さであった。その中に彼は美を発
見したのである。
モンテーニュ自身は父親の躾けもあって、武人たる者は野人であることを良しと考えていた。話し
方も文章もぶっきらぼうであることを好んだ。簡潔明快・素朴・男性的風味が彼の理想であった。大
勢の領民を持ち、王宮に仕える貴族が野人で通用するはずはないし、モンテーニュ自身も実は野人で
あることをもって一種の隠れミノとしたのかもしれない。というのはフランス王国の王侯貴族顕婦人
たちの権謀術策渦巻く中では、よほど用心堅固に振舞わなければ一日たりと身がもたぬような時代環
境にあっては、一分の隙もないほど洗練された貴公子や騎士であるよりも、むしろ野人を気取った方
が無難だからである。後のモラリストの一人、フランス王国切っての名門貴族ラ・ロシュフコーの生
涯もまた、この点はモンテーニュと一脈通ずるものを感じさせる。ただモンテーニュの場合は、育っ
た環境が母性的慈愛にとぼしく、父性的な雰囲気に終始したことが、とりわけ強く彼に男性的なもの
への親しみを植えつけたのであろう。その反面、女のやさしさと献身的なるものに対する彼の強い憧
れと執着は、その自然の副産物であったのだろう。不運なことに、結婚してからもセネカのような慈
愛に富んだ妻に恵まれることはなかった。彼の Essais は世界の文学でも類例を見ないほど、徹頭徹
尾、男性の文学である。それを著者から献じられて、あるいは人にすすめられて読まされた貴婦人が
幾人か外にいたとしても、少なくともその本の価値を知る女性は彼の家庭の内には一人もいなかった。
奇しくも Essais を読んで生前の著者に心酔した女性が一人いた。先述のマリ・ド・グルネ嬢である。
彼女は著者死後版 Les Essais (1595)の整理刊行に尽くして、これが後の決定本ボルドー市版
(Édition municipale de Bordeaux, 1933)が出るまで広く流布することになる。モンテーニュが彼女こ
そ自分がこの世で信頼できるただ一人の女性だと、彼にしては珍しいことを言っていた人物である。
これは例外と言うべきで、Essais に登場した女性たちも常に古代の賢夫人であり、自分の母と妻と娘
ではなかった。この三人の女性が揃いも揃って不出来の人間であったことが、彼の女性観を作る上で
決定的な意味を持ったのであろう。
彼は自分の生涯が、生まれ合わせた時代環境からして、プルタークの書に躍動する豪華絢爛たる古
代英傑のものではないことを歎いていた。祖国フランスの言葉よりもラテン語を愛し、フランスの地
名人名よりも、古代ギリシア・ローマのそれが親しいと言う彼のことでもある。
(Ⅲ-9) そのような
ことを考え合わせると、果たせぬ夢を文筆に託した彼の気持もわかるであろう。彼は性格的に冒険探
険のような奇行蛮行には向いていなかった。幼児的な性格は彼には見られない。『伝道の書』に色濃
い虚無的人生観に共鳴しながら、現世には実現不能の古典の理想を Essais に書き続けたモンテーニ
ュは、現世に倦いて古代に憧れたルネサンス人たちの生き方を象徴的に、そして、より生産的に示し
ていると思われる。
モンテーニュをわれわれの知るモラリストに転身させた直接の動機はおそらく、彼がボルドー高等
18
モンテーニュ再考
法院評定官を勤めていた時代(1554-70)の同僚で彼の無二の親友との交際とその早世、そして父親の
死にあるだろう。深く敬愛した二人の人物との幸せな交流と、彼らとの死別が、ようやく中年にさし
かかったモンテーニュ自身の生と死に重大な意味を持ってこようとは彼自身、予想もしなかったであ
ろう。その「親友」とはラ・ボエシ(Etienne de La Boëtie, 1530-63)のことである。人間の個性尊
重・精神の自由・生きる基本権を力説して有名になった『奴隷根性』( Discours sur la Servitude
volontaire, 1553頃)の著者で、ストイックな性格と早成した態度振舞いをもって知られていた。現在、
その生まれ故郷南仏サルラ(Sarlat)の町に、モンテーニュとの縁とフランス革命との縁を記念して
彼の堂々たる銅像がギリシア彫刻のように立っている。なぜ「フランス革命」なのか? 実は『奴隷
根性』は後に『反一人論』
(Contr’Un)と改題されてモンテーニュの Essais と共に、大革命の理論的
武器になって行く運命にあったからである。
ここにひとこと、作品が持つ不思議な運命のために少し道草を食うとすれば、その『反一人論』は
モンテーニュの Essais に収録されて革命を迎えた。その Essais はピエール・コスト版(Pierre Coste,
1724)であって、ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-78)をはじめ、大革命先導者たちはこの版に
よってモンテーニュを読んだのである。編者コストはユグノー亡命者の一人としてイギリスへ渡り、
ロンドンでEssais を出版した。この版こそ今世紀のボルドー市版が出るまで最良の texte として18・
19世紀一杯、最も広く流布した歴史的名著とされるものである。モンテーニュとボエシを一緒にして
一巻の Essaisを作った編者ピエール・コストは、モンテーニュの思想が後代にどのような影響を及ぼ
すことになるかを予見した先覚者と言わなければならない。少なくとも Essais の中に、長い不平等
の時代に終止符を打って人間が人間らしく生きることを目指す近代精神の胎動を感じ取っていた人だ
と言えよう。亡命先ロンドンの仮寓に、時代の夜明けを切望しながら畢世の Essais 版制作に取り組
んだ一人の孤独なユグノーは、遠い南仏ペリゴール(Périgord)の城館三階の一室で独りエセー執筆
に夜々を送ったモンテーニュを、未来永劫に伝えることだけを考えて生きたのであろう。文人たちの
執念の生涯を想わずにいられない。
モンテーニュは新旧両教徒の狂信的対立抗争と王国専制政治の時代に、もっと自由で大らかな古典
の精神に憧れ、現実を風刺しながらも理想を棄てなかった。これがルネサンス人モンテーニュの生き
方であったとすれば、彼を後世に伝えることに自分の夢を託した亡命ユグノーのコストもまた、本質
的にはルネサンスの人であったのだろう。彼らの務めは実現不可能な理想を説くことであった。過去
を夢見ること、現世を風刺すること、これまた万物流転と生者必滅の原点から見るならば、すべては
無常の世界の夢物語である。この無常感は実は古典の中にこそ根強い人生観であったのだ。文明進歩
に伴う社会的矛盾が深刻さを増すにつれて、後代のルネサンス人たちが、自分たちの夢見た古代の
人々よりも一層強く無常を感ずるとすれば、無常感は時代の歩みと共に尖鋭化する性質のものだと言
えるだろう。実に無常感は、万物の霊長をうそぶく人類の宿命と考えざるをえない。ラ・ボエシは次
のような歌をよんだ。
19
東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
“あたかも流るる小川のなかに
水絶ゆることなし 相つぎ
永遠の一路を ゆくがごとし
来たる水あれば 去りゆく水あり
これなる水は あれなる水に
押されつつ また越えつつ ゆけども
常に水は水のなかを 流れゆくなり
そは常に 同じ川瀬にして
(21)
流るる水は 常に新たなり”
これはボエシが後に彼の妻となる女性に書き送った八行詩であるが、モンテーニュが愛誦した。無
常感がルネサンス人の流行にもなっていた一例である。モンテーニュが彼から受けたルネサンス的影
響の強さを考えると、ポエシこそ典型的ルネサンス人であったのだろう。このボエシの詩は『方丈記』
の書き出しの一節を思い出させる。
“ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、淀みにうかぶうたかたはかつ消えかつ結
びて久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖とまたかくの如し。
”
西洋の《万物流転》
(ヘラクレイトス)も東洋の《諸行無常》
(平家物語)も、尽きるところは同じ
ものなのであろう。だが男性的な雄々しさ、力強さを愛したモンテーニュの無常感は孤独な沈思黙考
というよりはむしろ、それをもって万物の宿命とする認識と言うに近い。それが西洋的であり、ルネ
サンス人的な無常感なのかもしれない。モンテーニュの言う「一つの道」、「一生を記録する」とは、
一体どういうことなのか? 彼の場合は、懐疑的な一人のルネサンス人が、空の空なる人間と人生を
確認するための方法として、自分を見つめ、それを通して人間と人生を知ることである。Essais の巻
頭言は次のように書かれている。
「読者よ、これは嘘いつわりのない真っ正直な書物です。何よりも先に申し上げておきますが、
私はこの本を書くにあたって、自分のこと、私のことよりほかには何も目指しはしませんでした。
…どうか皆さん、この本の中に、私の自然の、日常の、固くもならなければ取りつくろってもい
ない、ありのままの姿を見て下さい。全く私は私自身をここに描いているのです。
…私自らがこ
の本の内容なのです。
」
モンテーニュは自己検索に専念することに決めた。無常を歌うことではなく、無常を掴み取って自
分のものにすることである。自分なる個人の identity を守る道はそれ以外にあるまい。そのためには
20
モンテーニュ再考
自己と対話することである。この対話は他者との会話にも通ずる。会話は単なる伝達や社交辞令だけ
のためにあるのではない。それには音と形と内容が伴う。こころよい響き、簡潔でわかりやすいこと、
言葉がそのまま内容を語ること−
−
−これが人との会話のルールであるならば、それを自分の文体に生
かせばよいではないか。自分との対話を飾る必要もあるまい。会話を反すうすることによって人を見、
そして自分を見ることだ。その検索の結果こそ自己の思想の果実であり、自分の identity そのもので
ある。箴言の集まりともいえる Essais はこのようにして生まれた。その中に著者モンテーニュの人
間が常に浮上して、読者はそれを自分自身だと思うのである。書く者にとってそれほど幸せなことが
ほかにあるだろうか。箴言作家の一人、モラリストのジュベールのことをサント・ブーヴは次のよう
に書いた。
「それは考えたり、友人たちと語ったり、孤独のうちにあって夢想にふけったり、決して仕上が
ることのない、そして断片としてしかわれわれに伝わらない何かの大きな著述を目論んだりする
(22)
ことに一生を過ごす、あの幸福な精神の持ち主の一人であった。
」
そのジュベールが会話の、人生の中で持つ意味を、次のように語っている。
「会話することと知ること、プラトンによれば、私的生活の幸福は、わけてもそのことにあっ
(23)
た。
」
Essais は、著者モンテーニュがおよそ取り上げる価値があると思われる人物たちを登場させて、彼
らが交わす、あるいは交わすであろう会話を考えながら、それと自らとの対話を書き取った記録であ
る。その中に読者は自分も含めて、すべての人間の普遍的な運命を見て、安心立命を覚えるのである。
安心立命とは、必ずしも明るいものとは限らない。むしろその逆のところにあるのかもしれない。
仏教の《輪廻》を考えてみればわかるであろう。それは三界(俗界・色界・無色界)と六道(地獄・
餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)に生死を繰り返して永久に苦しむことである。そして先ほどの万物
流転や諸行無常の哲学も明るいとは言えまい。深き淵に入って虚無と向かい合い、そこに解脱するこ
とは闇の中に生きることを知ることである。天界ばかり仰ぎ見て足許が見えなくなり、暗い溝に落ち
込んだ哲人ターレスを笑った古人は正しかったのである。モンテーニュが狂信を嫌ったのは、確信に
値する永久不変なるものはこの世に一つもないと知ったからである。そのような人間観を暗いと言う
のか? では明るい人間観とは何なのだろう? 以心伝心、一心一体が可能な世の中なら人はわざわ
ざ光明を求めるまでもない。そこでは安心立命も日常茶飯事となるだろう。それを阻むのが人間の本
性であって、それは人間同士がお互いに違うということに尽きる。物事の実体は誰にもわからないの
だ。−
−
−これがモンテーニュの人間観である。その結論的な部分を幾つか引用してみよう。
21
東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
「結局、われわれの存在(être)にも物事の存在にも、何ら恒常的なものは実在しない。われわ
れもわれわれの判断も、そしてすべての死すべきものは、いずれもみな流転してやむことがない。
だから、どちらからも何一つ確実なものは立証されない。判断するものも判断されるものも、と
もに不断の動揺変化のうちにあるのだから。
「われわれは存在と何の交渉ももたない。なぜなら、人間はみな常に発生と死滅との中間にいて、
自己に関してただボンヤリとした影のような印象と、不確実で脆弱な意見しか与えないからであ
る。だから、もし君がふとしたことから、君の思考を、人間の本質を捉えたいということに集中
するなら、それは水を掴もうとする者と少しも変わりはないであろう。全く、本来流れてとどま
ることなきものを掴まえようとすればするほど、ますます、人はその掴まえようとするものを取
り逃がすばかりなのだ。そんな風に万物は一つの変化から他の変化へと推移するものだから、理
性はそこに真の実在を求めようとすると、永久に存続するものは何ひとつ掴まえられずに失望す
る。なぜなら、すべては今ようやく存在に入ろうとしているところで、未だ完全に存在していな
いか、あるいはまさに生まれようとしていながら早くもすでに死に始めつつあるか、そのいずれ
かであるからだ。プラトンは言った:“物体はいまだかつて存在をもたなかった”と。
…ピタゴ
ラスは“すべての物質は流動してとどまることがない”と言った。ストア学者たちは“現在とい
う時はない。われわれが現在と呼ぶものは、未来と過去のつなぎ目にすぎない”と言った。
…ま
た“死滅する物質は二度と同じ状態にあることはできない”とも言った。全くそれは、迅速な変
化によって、ある時は集まり、ある時は散らばり、来るかと見れば去るのである。したがって生
まれ始めたものも、決して完全な存在にまで到達しない。つまりこの誕生は完成することがなく、
究極にとどいたように停止することがなく、種子の時代から常にそれからそれへと変化を続ける
のである。たとえば人間の種子からは、まず第一に母の胎内に形のない果実ができ、次に胎児の
形ができ、いよいよ胎外に出て乳飲み児となり、やがて幼児となり、少年となり、それから青年
となり、大人となり、遂にはよぼよぼの老人になり果てるように。つまりあとから来る時代は常
に前の年代を解きくずしてゆくのだ。…
「それにわれわれ人間は愚かしくも一種の死ばかり恐れているが、実は他のいろいろな死を、す
でに通過したし、また現に通過しつつある。全く、ただヘラクレイトスが言ったように火の死滅
は水の発生となるばかりでなく、われわれはそれと同じことを、もっと明白にわれわれ自身のう
ちに見ることができるのである。華やかな壮年の時代がようやく移ろい始めると、老年が訪づれ
る。青春時代は壮年期の花の盛りに終わりを告げ、少年時代が終わると青年時代が、幼年時代が
終わると少年時代が到来する。そして昨日が死んで今日が生まれ、今日が死ぬと明日が来る。世
には何一つとしてとどまるものなく、何一つとして常に一つなるものはない。全くその証拠には、
もしわれわれが常に同一であるとすれば、どうして今日はこの事をよろこび明日はまた別の事を
22
モンテーニュ再考
よろこぶのであろうか。どうしてわれわれは、相反する物事を、愛したり憎んだり、ほめたりけ
なしたりするのであろうか。どうして同じ思想の中に同じ感情を持ち続けないで、相反する感情
をいだくのであろうか。全く変化することがなくて違った感情をいだくということは、本当らし
く思えないのである。そして、変化をこうむるものは同一でとどまらず、同一でないとすれば実
在してもいないのである。いやむしろ、総体的な存在もろともに、それぞれの存在も、常に別の
ものに別のものにとなりながら、しぜんに変わってゆくのである。
[関根注−−ここに総体的存在
l’être tout un というのは〈宇宙〉l’univers のこと。microcosme に対する macrocosme をさして
いる。モンテーニュは〈le monde n’est qu’une branloire pérenne〉と言って、宇宙を生成流転する
全体として捉えている。これに対してただ être とあるのは個々の存在、すなわち microcosme の
ことである。したがって文中〈存在〉という語は Etre と être とに区別されるが、一は他を含む
]
から、現実的には同一の l’être tout un に帰することになる。
「だから感覚も物事の本性に関しては勘違いをする。〈在る〉とはどういうことなのかよく知ら
ないために、〈見える〉ものを〈在る〉ものと混同するからである。だがそれでは、何が真に在
るところのものであるか。それは、永遠なもの、すなわち、誕生もなく終末もないもの、時間が
そこに何らの変化ももたらすことのないもの、である。全く時間とは動くものである。それはあ
たかも影の形に添うがごとくに、流動してやまざる物質と共に現われ、しばらくも安定せず、恒
久ならざるものである。前とか後とか、あったとかあろうとかいう語は、時間に属するもので、
いずれも見ただけですぐに、それが在るところのものでないことが明白である。全く、いまだ存
在に達しないもの、すでに存在をやめたものを在ると言うのは、ひどい愚かさ、あまりにも明白
な嘘であろう。あの〈現在〉
〈瞬間〉
〈今〉というような、それによってわれわれが主として時間
の理解を助け支えているらしい数語に至っては、理性に発見されるとたちどころに破壊されてし
まう。全く理性はすぐさまそれを、未来と過去とに分割するのだ。それは当然二つに分割してみ
ないではいられないからだ。測られる方の自然も、これを測るところの時間と、同じことである。
実に、自然の中にもまた、一つとして残るもの存続するものはないのである。そこでは、何もか
もが、あるいは生まれたか、あるいは生まれかわりか、あるいは死にかかりかである。
」
(Ⅱ-12)
以上、Essais から引用したことは、モンテーニュが言葉こそ別のものに変えても、繰り返し繰り返
し述べた彼の精神のエッセンスというべきものである。
新旧両教徒の紛争解決に尽力して、晩年は国王アンリ四世の最高顧問就任を命じられるほど−
−
−彼
は健康上の理由で辞退した−
−
−人の信頼厚かったモンテーニュは、右にも左にも突っ走るような人物
ではなかった。およそ有限で当てにならぬ人間ごとき者が決める右や左など、どちらも信ずるに値し
ない。信ずることができるのは人間の利害・理由を離れた、もっと大きな何ものかであるという態度
が、彼の存在に一種の安定感・重量感を与えた。
23
東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
蠧
彼の愛読者にトルストイがいた。エピキュリアンと理想主義者が同居したと言えるような点で二人
は似かようところがあったが、トルストイに著しい特徴となっていたパスカル的《神と人》との相剋
はモンテーニュには縁がうすかった。また「皇帝の魂も靴屋職人の魂も同じ鋳型で作られている」と
書いたモンテーニュの人間平等意識はトルストイには無理であっただろう。モンテーニュは富有なボ
ルドー商人の祖父が貴族領を拝領してから三代目の新興貴族であったが、トルストイは帝政ロシア
(1721-1917)以前の中世ロシア公国以来数百年も続いた名門貴族の四男坊であった。
「皇帝の魂も云々」
はフランス革命運動の標語にもなった。Essais はルソー、ヴォルテール、モンテスキュー、そしてデ
ィドロ等百科全書派のバイブルとさえなって行ったのである。モンテーニュを継いだ後のフランス・
モラリストの群れと、18・19世紀の文人・思想家は言うに及ばず、今世紀のアラン、モロア、ヴァレ
リー等、フランス文学の伝統のにない手たちは一人のこらず、Essais を読み、その血統を誇りをもっ
て自分の源としている。
そのような普遍的な思想となって多くの人に影響を与えた Essais の力とは一体何なのか? キリ
ストの慈悲と19世紀末ロシアに台頭した特権階級的人道主義・博愛主義を実践しようとして家人の猛
反対に会い、追われるように家を出てロシア寒村の一駅構内で82歳の生涯を閉じたトルストイの書斎
の机の上に、読みかけの Essais がそのまま置かれていたという。彼がどのような気持で Essais のど
のページを開いていたのか知るよしもないが、トルストイの生きた帝政ロシアとは比べものにならぬ
ほど身辺剣呑な宗教戦争さなかのフランス王国に生きて、《自由・平等・博愛》実現を目指したフラ
ンス大革命の原動力の一つとなったモンテーニュの、傷心の今の自分に向かって遠くから親しく語り
かけてくるような声を、トルストイは今一度聞きたくなったのかもしれない。
トルストイにまさるとも劣らぬエピキュリアンであったモンテーニュは、自分がかねてから願って
いたように郷里の城館の一室で、一族郎党と友人知人の親しかった者たちにみとられながら大往生を
遂げた。それはまさしく Essais に書いたとおりの幸せな死にかたであった。その死を彼の長年の親
−グルネ嬢版−
−
友ピエール・ド・ブラック(Pierre de Brach, Essais の1588年版と1595年版の死後版−
編集刊行に尽力した)が人に知らせた手紙(ベルギーの人文学の大学者として高名であったジュス
ト・リプス−Juste Lipse−宛、1593年2月4日付。ベーコンの兄アンソニーにモンテーニュの死を知
らせたのも、このブラックであった。1592年10月10日付)には、こう書かれている。
「モンテーニュ殿が亡くなられました。
…彼は幸福に生きたのち幸福に死にました。今日の時代、
あれ以上に生き長らえたら、彼もまた善よりも悪を、生きる喜びよりも悲しみを、より多く見い
だすことになりましょう。痛風のため手足はきかず、それに腎石症の苦痛に悩んでいたのですか
ら。苦味はわれわれのもとに残るでしょう。特に私には。かくも稀れなる人物との甘くして快い
交りを断たれ、彼が産み出す果実を奪われましたから。けれども、彼は樹木とは違います。樹木
24
モンテーニュ再考
は形体が死ねば、もう葉もつけませんし、花も咲かさず果実もみのらせません。しかし彼の名声
の葉はとこしえに青々と繁り、その花の芳香は永くかおるでしょう。そして彼の精神の果実はそ
(24)
の味わいが正しき人々の胸に残りとどまる限り、何年たっても失われることはありますまい。
」
Essais を書き始めた頃のストア主義者モンテーニュは大まじめで、「人間いかに死すべきか」ばか
り考えていたが、書き進めていくうちに、
「いかに死すべきか」を考えることは、
「いかに生くべきか」
を考えることと同じだと気付いた。それからは生きる日々をいとしむことだけを考えた。死は生きる
ことの自然な結果に過ぎなかったのである。その意味で Essais は、人と世の中のあるべき姿を追求
しているうちに、それら有限の世界に生きる者の運命は《死生一如》、ただこれ一つに帰することを
知った一人のルネサンス人の思索の軌跡を書いたものである。
〈Notes〉
盧
大塚幸男『フランスのモラリストたち』
、白水社、p.289.
盪
同、pp.289-290.
蘯
以下、『大塚』と略。
Norman B. Spector, The Complete Fables of Jean de La Fontaine, Northwestern U.P. 1988, XXIV. これが
最新のラ・フォンテーヌ英訳。原文と英訳を左右対照させているので読みやすい。
盻
cf. 中川『ハズリットの世界−−モンテーニュの友として』彩流社、1991、以下『中川』と略。cf.『學鐙』
(丸善)Vol.80
No.12.
眈
P.P.Howe(ed), Centenary Edition of The Complete Works of William Hazlitt, Dent & Sons, London and
Toronto, 1932, IX.59.以下Hazlittと略。
眇 Ibid., IX. Characteristics.
眄 Sainte-Beuve, Réflexions Sentences et Maximes Morales de La Rochefoucauld, Oeuvres Choises de
Vauvenargues, Paris, Garnier Frères, 出版年ナシ、p.335, 以下Vauvenarguesと略。
眩 ibid.
眤 ibid.
眞 Hazlitt, Characteristics No.278, cited from John Home, Douglas IV.1.
眥 Vauvenargues, p.354.
眦 cf.関根『モンテーニュとその時代』白水社、1976、p.609.
眛 cf.『中川』、“モンテーニュ英訳とハズリット三代”
〈私家版〉、白水社、1987、p.174. 以下『逍遥』と略。
眷 cf.関根『モンテーニュ逍遥』
眸
同上。
睇
同、p.39.
睚
同、p.38.
睨
『大塚』、p.212.
睫
Essais 邦語訳は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(白水社、1985)による。慣例に従って巻・章だけを
記す。以下『随想録』と略。
睛
cf.『中川』、“モンテーニュ英訳とハズリット三代”。
睥
『逍遥』、p.177の引用。
睿
cf. 同上、p.338.
睾
同上、pp.45-46.
睹
同上、p.46.
瞎
『大塚』、p.263.
瞋
同上。
25
東京成徳大学研究紀要 第 6 号(1999)
瞑
関根『モンテーニュとその時代』
、p.610.
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盧
盪
蘯
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5
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眄
26
モンテーニュ再考
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矍
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矗
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矚
−−『モンテーニュ随想録』全3巻、白水社、1970.
矜
−−『モンテーニュ全集』全9巻、白水社、1982-83.
矣
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矮
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矼
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砌
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砒
ピエール・ヴィレー(関根訳)
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礦
落合太郎『モンテーニュ』
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砠
アンドレ・ジィド(渡辺一夫訳)
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礪
サント・ブーヴ(渡辺一夫訳)
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ストロウスキー(森有正、土居寛之訳)
『フランスの知慧』、岩波書店、1951.
碎
−精神のための祝祭』、白水社、1993.
イヴォンヌ・ベランジェ(高田勇訳)
『モンテーニュ−
硴
ソーニエ(二宮、山崎、荒木訳)
『16世紀フランス文学』、白水社、1958.
碆
渡辺一夫『フランス・ルネサンス文芸思潮序説』
、岩波書店、1958.
硼
野田又夫『ルネサンスの思想家たち』
、岩波書店、1958.
碚
ヴェドリーヌ(二宮、白井訳)
『ルネサンスの哲学』、白水社、1973.
碌
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碣
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碵
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碯
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−−訳、ジュベール『随想録−
磋
−−訳、同上『随想録抄』
〈世界人生論全集vol.9〉、筑摩書房、1963.
磔
渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』
、白水社、1979.
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碼
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27