『六〇年代演劇再考』

岡室美奈子・梅山いつき編
『六〇年代演劇再考』
編:岡室美奈子・梅山いつき 出版社:水声社 サイズ:21.4×15.6×3cm
280頁 定価:3,675円(税込) ISBN: 978-4-89176-888-1
七字 英輔
演劇評論家 本書は、早大演劇博物館グローバル
提供する劇作活動に専心する。一方、
で日本文学の教鞭をとっていたグッド
C O E主催で 2008 年 10 月に 3 日間を
鈴木は、別役に代わる作家として、自
マン(11年物故)では、それは荷が勝
費やして催された国際研究集会「六〇
由劇場を結成したばかりの佐藤信
(
『あ
ちすぎるだろう。いわば、身内同士の
年代演劇再考」の採録記録集である。
たしのビートルズ或いは葬式』
、67 年)
回顧譚の趣を呈してしまうからだ。事
ここで言う「六〇年代演劇」とは旧来
や状況劇場の唐十郎(『少女仮面』
、
実、唐インタビューでは、それに勢いを
の「新劇」とは別に、1960 年代後半に
69 年)に戯曲執筆を依頼している。演
得てか、
「唐ゼミ☆」の中野敦之が「乱
澎湃として起こった「小劇場演劇」
「テ
出家としての鈴木が、 新劇作家では
入」し、唐讃歌の合唱で終わってしま
ント演劇」
「アングラ演劇」を指し、冒
ない同時代作家の言葉を幅広く求め
う。
頭では、竹本幹夫演博館長が「今や現
ていた証左である。と同時に、鈴木に
違和感が残るのはそれだけではな
代 演 劇 をリードする 存 在 となった、
もまれたことがその後の劇作の上で
い。蜷川を除けば、別役を含むそれぞ
六〇年代演劇の旗手の大半が講師と
はよかった、と佐藤はたびたび語って
れが劇作家で、インタビューのほとん
して集まってくれた」と自画自賛して
いるし、
『少女仮面』の岸田戯曲賞受賞
どが劇作への論及に終始しているこ
いる。本当にそうならば、まさに 60 年
が、時代の仇花のように思われていた
とだ。そのため、唐を始めとする回答
代演劇の洗礼を浴びた身にとっては
唐の劇作にステータスを与えたのも間
者の言葉にさほど新味がない。すでに
何を措いても駆けつけたところなの
違いない。本書でも、
「最初に僕の『真
多くが彼ら自身によって語られて来
だが、しかし、それがそうでもないのは、
情あふるる軽薄さ』をほめてくれたの
ているからである。しかし、
「六〇年代
本書を見れば一目瞭然である。確かに、
は鈴木さん」と、蜷川は発言している。
演劇」と言った場合に、問題になるの
唐十郎、蜷川幸雄、別役実、佐藤信ら
その意味では、鈴木こそが 60 年代後
はいうまでもなく“パフォーマンス”で
がインタビュー(或いは座談)に応じ
半の演劇シーンの組織者だったといえ
ある。前述したように唐は戯曲が先に
(
「Ⅰ 創造者たちの証言」
)
、故・寺山修
るのだ(勿論、唐を最初に評価した寺
あったのではない。
『ジョン・シルバー』
司をテーマとする鼎談もある(
「Ⅱ 記
山もだが)
。
(再演、67 年)
を新宿「ピット・イン」
で、
憶と継承」
、但し、どういうわけか「映
それはともかく、本書を一読して私が
『由比正雪』
(68 年)を花園神社・紅テ
像作品の観点から」と注釈がつく)
。
思うのは、
「六〇年代演劇」という概念
ントで上演したときにはもう開場前に
しかし、ここには肝心要の鈴木忠志
の、なんと曖昧で不確かなものか、と
長蛇の列ができていた。佐藤信も然り
がいない(
「日程が合わなかった」とい
いうことである。ことに第Ⅰ章「創造
だ。モーターサイクル・ショーとして上
うが)
。そして鈴木の 60 年代に行った
者たちの証言」、ここでは、唐、蜷川、
演された
『おんなごろしあぶらの地獄』
活動を別役の出席で補うことはでき
別役、佐藤の 4 者 4 様の、主に演劇的
(69 年)の際には、自由劇場の前を観
ない。確かに、別役は 67 年までは早
出自や演劇革新の理念が語られる
(は
客が取り巻いた。同じことは、本書で
稲田小劇場(早稲小)に在籍していた
ずだった)
。インタビュアーは、順に堀
は触れられていないが、 瓜生良介の
が、次第に埋めがたい距離ができて、
切直人、扇田昭彦、岡室美奈子、そし
「発見の会」でもいえる。内田栄一作
早稲小が『どん底における民俗学的
てデイヴィッド・グッドマン。演劇評論
『ゴキブリの作り方』
(66 年)や今野勉
分析』
(68 年、別役・関口瑛台詞)を公
家の扇田や編著者の岡室はともかく、
作
『エンツェンスベルガー
〈政治と犯罪〉
演する頃にはすでに退団していた。以
文芸評論家で、唐演劇の熱烈な賛同
よりの幻想』
(67 年)では公演場所の
後の別役は周知のように、主に演劇企
者として知られる堀切や、
「演劇セン
千日谷会堂に多くの観客が押し寄せ
画66(別役、鈴木と同じ早大の演劇ク
ター68/71」
(後に黒色テント)のメン
た。ことに前者は、その駐車場を借り
ラブ「自由舞台」出身の古林逸郎が主
バーとして結成当初の劇団に随伴し、
ての上演で、既成の演劇、既成の劇場
宰したグループ)と文学座アトリエに
イベント当時はアメリカ、イリノイ大学
に異を唱えるこうした新しい演劇に
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若い観客が殺到したのだ。そうしたパ
鷹が行った数寄屋橋公園噴水での街頭
米演劇人の耳目を惹いたか、に配慮が
フォーマンス性(唐の「特権的肉体」論
劇(66 年)の後のように言うのは贔屓
足りない。そしてそれは今でも同じな
はその一部) を等閑視して顧みる
の引き倒しといえるだろう。
「ゼロ次元」
のだ。とても平田や岡田の及ぶべきこ
「六〇年代演劇」には、残念ながら耳
はすでに63年から
「ハプニング」
を行っ
とではない。
を傾けるべき点が少ない。
ており、当時、新聞紙上や美術雑誌誌
もうひとつの問題はアメリカから招
因みに、本書でも触れられているが、
上を賑わせていた。
「ゼロ次元」が、前
聘したエレン・スチュアートの証言の内
「アングラ」という言葉はジャーナリズ
衛美術が一堂に会した「読売アンデパ
容である。60年代後半は、地球のほぼ
ムが被せた用語で、 初めは状況劇場
ンダン展」
(57〜63年)の流れを汲んで
全域で「演劇の革新」が見られた。そ
と自由劇場、そしてこの「発見の会」
いるように、唐もまた、そういう時代の
の先駆的な例がスチュアートが主宰し
を指していた。そこにはジャーナリズ
空気を吸っていた。私は、横尾忠則が
たニューヨーク「ラ・ママ劇場」である。
ムが看取した「反権力」の臭いがあっ
どういうふうに状況劇場のポスターや
この劇場で東由多加の「東京キッドブ
たからである。
「アングラ」
、すなわち
初期天井桟敷の美術に携わるに至 っ
ラザース」や「天井桟敷」が公演し、成
「アンダーグラウンド」とは、アメリカで
たのかを少しは知る者だが、その横尾
功を収めたことは周知であろう。だが、
は「反権力」を闡明にして地下に潜行
が「そして幕は閉じた」と冷たく言い
そのことと二人との交友を語らせる
する人々を指したが、やがて体制的な
放つのもムベなるかな、という気がす
こととは別である。
「ラ・ママ」を最初
公序良俗を攪拌する「いかがわしさ」
る。当時、実験的なアニメーションを
に成功に導いたのはルーマニアからの
を持 った芸術表現にまでシフトする。
手がけていた横尾にとっては、演劇に
亡命演出家アンドレイ・シェルバンの
関係するそれらも、あくまで前衛美術
「ギリシャ悲劇 3 部作」である。シェル
「狂女女優」白石加代子を擁した早稲
小までがやがて「アングラ」と呼ばれ
の一環に過ぎなかったのである。
バンはその後、チェーホフ劇の演出で
るようになるのはそういう理由による。
第Ⅱ章「記憶と継承」については言
劇団四季が招聘しているから知る人
「アングラ」の一方の雄である寺山の
うべき言葉を持たない。寺山演劇を語
も多いだろう。私としては、折角の機
「天井桟敷」は、
「反権力」も「いかがわ
るのに何故、安藤紘平、九条今日子、
会だから、スチュアートに世界的視野
しさ」も十二分に持 った、いわば遅れ
萩原朔美によって映像作品が語られ
における
「六〇年代演劇」
について語っ
てきた「確信犯」であった。
るのか、理解に苦しむ。いま、60 年代
てほしかった。
その意味では、過去の舞台の方へ執
後半の劇作家の戯曲の中で最も頻繁
第Ⅲ章「批評者たちの証言」は同時
拗に還ろうとするD . グッドマンの質
に上演されているのは寺山である。現
代を併走した批評家たち、扇田昭彦、
問をかいくぐり、
「テキストの中に仕掛
在でも寺山ファンが多いことの証であ
大笹吉雄、 菅孝行、 佐伯隆幸の証言
けられている時限爆弾みたいなもの
るが、それが寺山演劇の後継なのかど
であるが、
「六〇年代演劇」とは何か、
と向き合 って(中略)そこから雷管を
うか、パフォーマンスを通して語 って
ということを含めて、 これまで私が
外してほしい」などという佐藤の韜晦
もらいたかった。美学的に模倣しよう
縷々述べてきたことと大差はない。菅
には、些か底が見えたようで悲しく思わ
とする集団は多いが、 寺山の精神と
が大笹の「アングラ」理解に対し噛み
ざるを得ない。グッドマンの論考「ア
は乖離している。そのことへの考究が
付く場面もあるが、概ね双方ともその
ングラの行方── 運動、救済、革命」
「継承」を実体化させるのだ。同様に、
主張に違いはない。 両者の立場の違
も、新しい素材が加わっているとはい
岡田利規、平田オリザ、宮沢章夫(司
いは、
「アングラ」を近代演劇の範疇で
え(鈴木清順の映画『けんかえれじい』
会・松井憲太郎)の三者に「六〇年代
捉えるかどうかにかかっている。しか
など)
、
「近代日本の超克」
、すなわち
演劇」の何が語れるだろう。 彼らと
し、岡田、平田、宮沢の鼎談に見るご
幻想としての近代天皇制、 国家神道
「六〇年代演劇」とは二重三重の隔絶
の解体から佐藤の「革命の演劇」を捉
がある。浅薄な知識による訳知り顔の
える解釈において、旧著『富士山見え
60 年代演劇論。勿論、私は彼らの演
た』
(83 年)となんら変わりはない。半
劇が駄目だといっているわけではない。
「六〇年代演劇」を問い直そうとした
世紀近い時間の経過がグッドマンには
すべては時代が規定していることを
ものだが、パフォーマンス性は今日の
欠落しているのだから、佐藤も面映かっ
差し置いて、例えば平田の「芸術の内
演劇からますます遠ざかっている。脚
たのだろう。
容で闘いたいのです。それにはまず作
本重視の娯楽劇ばかりが全盛の時代
誤謬というか、明らかな記憶の間違
品」などという横柄な言葉に反発を感
に、かつてはそれとは全く異質な演劇
いもある。堀切が、美術家集団「ゼロ次
じるだけだ。 志はいいが、70 年代初
があったことに思い至らせる点で価
元」の路上パフォーマンスを唐と大久保
頭に寺山や鈴木の演劇がどれだけ欧
値がある。
とく、今やそういうテーマ設定自体が
“野暮”と化している。
本書は、こういう時代にもう一度、
岡室美奈子さん Profile
1958 年、三重県生まれ。アイルランド国立大学ダブリン校にて博士号を取得。専攻、現代演劇、テレビドラマ研究。早稲田大学文学学術院教授。
梅山いつきさん Profile
1981 年、新潟県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)
。アングラ演劇のポスター、機関誌をめぐる研究や野外演劇集団に
スポットをあてたフィールドワークを展開している。
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