蕎麦と和歴の時間を 楽しむまち―常陸太田

と き
vol.21
蕎麦と和歴の時間を
楽しむまち―常陸太田―
まちづくりアナリスト
松本あきら
鯨ヶ丘の街並み
水戸から JR 水郡線で約3
5分。茨城県北部
の西山荘に隠居するなど、常陸太田は、水戸
に位置する常陸太田は、戦国時代までは佐竹
藩にとって重要な位置を占め、物資の集散地
氏、そして江戸期には、水戸徳川家と深い関
としても大いに発展した。
わりを有してきた歴史のまちである。明治時
代は、葉煙草の生産が盛んになり、まちの中
くじら
鯨ヶ丘商店街
おか
心である「 鯨ヶ丘」には、土蔵や町家が建
市の中心で佐竹氏の居城「舞鶴城(太田
ち並ぶ商店街が形成され、今日のまちの骨格
城)
」があった馬の背状の台地は、その姿が
かな さ ごう
が築かれた。そして、近年は、金砂郷町を発
海に浮かぶ鯨のように見えることから、いつ
祥地とする「常陸秋そば」のおひざ元として、
からか「鯨ヶ丘」と呼ばれるようになり、常
そば通には憧れのまちでもある。そんな歴史
陸太田の中心商業地として賑わってきた。
性豊かな常陸太田の今を紹介する。
かな さ ごう
すい ふ
江戸時代には、米や特産物を運んだ棚倉街
さと み
平成1
6年、近隣の金砂郷町、水府村、里美
道が走り領内有数の物資の集散地として、明
村と合併した常陸太田市は、南部に広大な穀
治期にかけては葉煙草を取引する問屋などで
倉地帯、北部には豊かな自然が拡がる人口約
まちは活況を呈していた。その後、煙草の専
5
7,
0
0
0人の典型的な地方都市である。平安時
売制により、葉煙草を扱う商店は少なくなっ
代末期に来住した豪族佐竹氏は、1
5
9
1(天正
たが、これに代わって呉服店や銀行が軒を並
1
1)年、居城を水戸に移すまでの約4
5
0年間、
べて賑わっていた。最盛時には1
0
0を超える
この地を本拠とし、5
4万石の戦国大名にまで
店舗も、今は3
0余りに減った。
なった。1
6
0
2年、徳川家康の命により、佐竹
そんな鯨ヶ丘で、ユニークなまちづくりが
氏が秋田へと国替えになると、徳川御三家の
行われている。鯨ヶ丘商店街の副会長であり、
ずい りゅう
一つ、水戸徳川家の支配になる。市内瑞 龍
鯨ヶ丘倶楽部の事務局長を務める西野寧さん
町には、水戸徳川家歴代の墓所が置かれ、水
にお話を伺った。西野さんは、商店街で電気
戸黄門で知られる二代藩主徳川光圀公が市内
店と学習塾を経営しながら、町おこしのため、
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商店街が一丸となってオープンさせた「くじ
葉で古来の風習を楽しむ。各地で流行の雛祭
ら屋」で餡子入りのお焼きも焼く。西野さん
りは、旧暦(新暦の3月から4月)で行うた
曰く「商店街の衰退を嘆くのではなく、皆で
め、雛祭りで有名な桜川市真壁地区などと重
楽しくまちおこしをしようと有志が立ちあが
ならず、観光客は2度楽しめると言う。この
った。まちを元気にするため、久自楽舞(く
ように鯨ヶ丘では、日本固有の行事や風習を
じらまい)というヒップホップ系の踊りを創
和歴(旧暦)で行うことで、本来の意味や季
作。大型店の空き店舗を拠点に活動している。
節感が感じられるまちづくりに取り組んでい
また、美味しい常陸太田産のコシヒカリが市
る。
場で買いたたかれないよう『久自楽米(くじ
らまい)
』という自主流通米にしてブランド
鯨ヶ丘のまち巡りのお薦めスポットを紹介
しよう。
化を図った。最近では、JA と協力して久自
一つは、梅津会館と呼ばれる郷土資料館。
楽米(くじらまい)のおにぎりコンテストを
地元出身の実業家梅津福次郎の寄付金により、
行った。楽しくやっている。活動資金は、頑
昭和1
1年、太田町役場として建てられた。塔
張る商店街支援事業のコンペに応募して1
0
0
屋がついた鉄筋コンクリート造り2階建。外
万円をゲットした。都会のまねをするのでは
壁にはスクラッチタイルが貼られ、階段の手
なく、ゆっくりと時間の流れを楽しむまちに
すりや腰板には、地元産の大理石(寒水石)
したい。
」そんな気持ちから和歴(旧暦)で
が使われている。昭和5
3年に市役所が移転し
楽しむまちづくりに取り組む。七草の若葉を
た後は、内部を改装して郷土資料館として活
入れた粥を食べて邪気を祓う七草がゆも新暦
用。現在は登録文化財になっていて、無料で
の1月7日ではなく旧暦で行うため、旬の若
常陸太田の歩みを教えてくれる。筆者が取材
町おこしの拠点「くじら屋」
梅津会館(郷土資料館)と展示内容
旧太田中学校講堂
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赤土の常陸秋そば
「常陸秋そば」使用店証明
に訪れたときは「少年の昭和史」というテー
一面に拡がる風景。常陸太田は、今や不動の
マで、怪傑ハリマオ、月光仮面などの懐かし
ブランドである「常陸秋そば」の発祥の地で
い展示が行われていた。
ある。そばは、今から2
0
0
0年前に中国から伝
鯨ヶ丘は、素朴さとセンスを感じるお店が
えられた食べ物。栄養価が高く消化に優れる
多く、まち巡りの楽しさが倍加する。地元の
タンパク質を多く含み、高血圧などに効果の
名物「太田粽(ちまき)
」を製造販売する「な
あるルチンを多量に含む健康食品である。
べや」
。伝統的な町家を思わせる店構えは創
「常陸秋そば」は、1
9
7
8(昭和5
3)年、金
業1
0
0年の老舗の風格を感じる。また、旧太
砂郷村(現常陸太田市)で古くから栽培され
田銀行の瀟洒な建物を活用した蕎麦とうどん
てきた「金砂郷在来種」から選りすぐりの種
の店「塩町館」
、土蔵造りの建物を使って地
を選抜育成して生まれた。市内の金砂郷、水
産地食のフランス料理が楽しめるレストラン
府、里見の各地区は、山間地特有の地形で、
「オーベル・ジーヌ」など個性豊かな店が多
昼夜の気温差が大きく、斜面地を活かした畑
い。安政年間の建築で、母屋には天狗党の争
は良質な蕎麦の産地として、江戸時代から広
いによる刀傷も残る立川醤油店。順天堂病院
く知られてきた。8月のお盆前後に種をまき、
の基礎を築いた佐藤進男爵の生家でもあるヨ
秋には真っ白で可憐なそばの花が里山の風景
ネビシ醤油には、大きな杉の木桶が整然と並
を埋め尽くす。そばの花は、台風や大雨の影
び、仕込み蔵では田舎醤油や丸大豆醤油が醸
響を受けやすく2割程度しか実をつけないが、
造される。
生産農家の地道な努力により、粒ぞろいで品
それから、城跡に近い太田一高には、重要
質に優れ、そば独特の香り、風味、甘みを備
文化財の旧茨城県立太田中学校講堂がある。
えたそばが栽培されている。特に香りのよさ
明治3
7年に完成した洋風の建物で梁間1
4.
5m、
は群を抜くとの評判で、品質日本一との呼び
桁行2
0.
9m、正面にエンタシス柱の車寄せを
声も高い。
「常陸秋そば」の故郷、金砂郷地
もつ堂々とした建物である。現在は資料館と
区では、現在も常陸秋そばの種子となる「種
して公開している。まさに、鯨ヶ丘は、懐か
そば」の栽培を大事に受け継ぎ、その種子が
しい時代の郷愁を心地よく感じさせてくれる
県内各地に作付けされている。
まちである。
常陸秋そば
朝霧の立ちのぼる山間の斜面地にソバ畑が
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また、今年で1
0年目を迎える「常陸秋そば
オーナー制」は、遊休農地の解消、美しい景
観の形成、常陸秋そばの普及を目的に行って
いて大変好評だという。オーナーには、一口
まちづくり診断の旅
西山荘
西山荘に至る西山の里
西山の里 茶席晏如庵の抹茶
2
2,
0
0
0円で金砂郷赤土地内の1
5
0!の畑が割
が、晩年の1
0年を過ごした「西山荘」
。木造
り当てられ、ここで栽培収穫した常陸秋そば
平屋建て茅葺の庵は、前藩主の隠居所とは思
の玄そばが渡される。オーナーは、
畝きり、
種
えないほど質素なつくりである。部屋と部屋
まき、中耕、刈取り、脱穀と全ての作業を行
の間には敷居がなく、上下の隔たりを作らな
わなければならないが、常陸秋そばの真髄を
いという光圀の考えが表れている。西山荘で
とことん体験したいと毎年多数の応募がある。
の光圀は、領民たちと親しく交流しながら、
蕎麦を食する
丸窓のある三畳の書斎で「大日本史」の編纂
に情熱を注ぎ、あるいは藩内の巡視などをし
蕎麦と言えば、そばつゆで食する「ざる蕎
て余生を過ごし、1
7
0
0(元禄1
3)年、この地
麦」が一般的だが、常陸太田では、昔からけ
で7
3歳の生涯を閉じた。現在の建物は、火災
んちんそばが郷土料理として親しまれてきた。
焼失後の1
8
1
9(文政2)年再建のもので、光
ダイコン、人参、ゴボウ、里芋、コンニャク
圀の時代の半分程度の規模である。
などがたっぷり入ったけんちん汁に、蕎麦を
光圀公は、大の麺好きで、好んで「そばき
浸して食べるけんちん蕎麦は、田舎のご馳走
り」を食したことは日乗上人日記に記されて
として食卓に上がってきた。最近では、市内
いる。茨城の蕎麦は、光圀公の命で、信州か
の蕎麦処でも「つけけんちんそば」として人
ら種子を取り寄せたのがルーツと言われてい
気を博しているという。そんな地元の一押が、
る。
鯨ヶ丘から板谷坂を下ったところにある蕎麦
処「赤土」
。金砂郷でも最高品質と言われる
雪村うちわ
赤土地区産の常陸秋そばを、赤土で生まれ育
常陸太田を代表する特産品が太田うちわ、
ったご主人自らが栽培収穫して打ち上げる。
「雪村うちわ」とも言う。室町時代後期の水
常陸秋そばの「天ざる」は、蕎麦良し、天ぷ
墨画家・僧侶の雪村が市内の耕山寺に居を構
ら良しの1,
1
0
0円。海老二本、かばちゃ、長
えて始めたといわれる。四角い形をして、花
芋、なす、インゲン、大葉、そしてユニーク
鳥風月の水墨画で描かれた雪村うちわは、3
3
なトマト、葡萄、梅干しの全1
1品の揚げたて
の工程を全て手作業で行い、完成まで一年か
の天ぷらが付く。
かるという優れ物。年間2
0
0
0本しかつくれな
西山荘
い貴重なもので、茨城県の郷土工芸品に指定
されている。
黄門様で知られる水戸藩二代藩主徳川光圀
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まちづくりの処方箋
地球が太陽の周りを一周する時間(約3
6
5日)を一年
とする太陽暦は、世界標準の暦になっている。わが国で
は、明治政府により、旧暦の明治5(1
8
7
2)
年1
2月3日が
明治6(1
8
7
3)
年1月1日に改められ、今日の太陽暦にな
った。それ故、旧正月は2月初めになり、鯨ヶ丘の七夕
は旧暦に基づき新暦の8月1
4・1
5日に行われる。私たち
の暮らしを彩る行事や風習は、旧暦に基づいて行われて
いた。鯨ヶ丘の和歴(旧暦)を大切にしたまちづくりは、
日本人の暮らしのリズム、季節の移り変わりに融和した
生活習慣の素晴らしさを改めて教えてくれる。日本人が
本当に忘れかけた大切なものを私たちに語りかけている
ようだ。常陸太田のまちは、横文字やカタカナが似合わ
鯨ヶ丘は坂のまちである
ないスロータウンの和のまちなのである。そんな常陸太
田のまちづくりについて幾つかの提案を行いたい。
!提案1
西山荘観光とまちなか再生の交流・連携に取り組もう
5分と程近いが、東京に本拠を置く財団法人水府明
最大の観光名所「西山荘」は、まちの中心から徒歩で約1
徳会の管理になっているため、地元との関わりは薄いという。西山荘を訪れた観光客が鯨ヶ丘のまちを巡り、
地場産の美味しいものを食べれたらきっと喜ぶに違いない。かつて黄門様も大いに地域と交流したのだから、
観光まちづくり協定を締結して、常陸太田の魅力を相互に発信しあうことを提案したい。
!提案2
まちの回遊性を高めよう
常陸太田、特に鯨ヶ丘の魅力を満喫してもらうため、街なかの回遊性を高める取組みを強化したい。その第
一が、常陸太田駅−鯨ヶ丘(東通り・西通り)−郷土博物館−太田一高−西山荘を廻る街なか周遊の1
0
0円バ
スを土曜・日曜だけでも走らせたい。多少持ち出しがあっても、市民や観光客が街に出る、交流する価値を大
切に考えたい。次にタクシー会社と協力して、駅と郷土博物館などの施設を結ぶ5
0
0円のワンコインタクシー
を運行できないだろうか。また、駅の観光案内所にあるレンタサイクル6
0
0円も、古河市や桐生市のように無
料にして PR を図りたい。そして、デザインに優れた観光サインや観光案内板をしっかり整備して、気持ちよ
くまち巡りができる環境を整えたい。
!提案3
交流人口を増やすまちづくり
人口減少社会では、地域の元気を図る一つの目安は交流人口にある。常陸太田は、豊かな農と自然を最大限
活かしたアグリツーリズム・グリーンツーリズムで都市住民と交流する「常陸太田ツーリズム」
の仕組みを大々
的に仕掛けたらどうだろう。常陸秋そばやコシヒカリのオーナー制度、自然薯、みそ、大豆、ぶどうなどの栽
培農業体験・ワーキングホリディによる着地型・体験型の交流まちづくりを推進したい。常陸太田ツーリズム
そのものがブランドになるようなまちづくりに挑戦してほしい。
常陸太田駅の乗降客は一日約2
0
0
0人。ローカル線の終着駅であるが、現在、全面的な改良工事が進められ、観
光物産会館も同時に整備されるという。常陸太田が、何かを見に行くためのまちではなく、何かに気づくための
まち、何かを体験するまちであり続けることを願うものである。
(取材協力
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