PDF形式 - 東京大学|大学院教育学研究科・教育学部

講演(日本語訳)
「セクシュアリティと障害:文化人類学的視点から」
アメリカ・エール大学大学院助教授 Karen Nakamura
ありがとうございます。白石先生、星加先生、また、バリアフリーセンターのスタッフの方に感謝しま
す。また皆様、わざわざお越しいただきありがとうございます。
石川先生から素晴らしい基調講演があったので、あとに続くのは厳しいですが、私からは本日、中心的
研究テーマであるディスアビリティ(障害)とセクシュアリティーの話をします。
白石先生からお話があったように、文化人類学は人間の多様性を研究する学問です。従って、障害とセ
クシュアリティも人間の多様性を表す自然なものです。それを研究することは、人類学、ホモサピエン
スである人間の多様性を研究する基本的学問だと言えましょう。
本日は、障害とセクシュアリティについて、幅広い見地から話をします。
歴史的には 2 つの背景があります。1 つ目は、第一波の障害+セクシュアリティの研究。ここでは、セク
シュアリティーの概念を障害に足したときに何が起きるかという観点からの研究です。第二波は、障害
とセクシュアリティを交差するアイデンティティとしてとらえたとき、かけ算としてとらえたときにど
うなるか。そのとき、どういう複雑なアイデンティティが表れるかという研究になります。
セクシュアリティの回復:「ノーマル」への統合
まず第一波、障害者におけるセクシュアリティの回復について。2006 年に「バベル」という映画があり
ました。この中では、ろう者の菊地凛子が演じる欲求不満なキャラクターが登場しました。これは、刑
事が捜査を行っているとき、菊地凛子の役の人に会います。彼女が裸で登場します。一般観客には、ろ
う者である障害者が性欲を持つことに驚くのです。なぜ驚かれるのか。聴衆の皆さん、性欲を持ってい
ることを認められると思います。ろう者であってもティーンエイジャーなら当たり前のことだと私は思
います。しかしそうではないのです。
この映画は聴衆が描く驚きを 1 つのテーマとして追求しています。
ですから、ホモサピエンスとして多くの欲とニーズを持っています。そのなかには性欲もあります。
障害者が人間の一部であるところの、幅の広い性欲とニーズを持っていても、驚くに値しないはずなの
に、しかし、人々は驚いてしまう。幅広い人間の中には、障害者も存在しています。集合論からいうと、
先ほどの結論は当然です。しかし歴史を振り返ると、障害者は常にセクシュアリティを否定されてきま
した。1880 年代から 1950 年代まで続いていた優生保護運動をみると、これが一般的に見られます。
障害者は様々な戦略を通じて、不適格者とか望まれない者として処理されました。選択的な中絶をされ
て、不適格者、望まれない者が生まれないようにする。また、不妊、断種。障害者が生まれたら、さら
に増えていかないようにする、膿瘍切除、ロボトミーによって、自己決定権を排除する。また施設に収
容することで、不適格者が生まれた場合、一般社会で暮らすことが許されません。5 つめとして、ナチ、
処刑することも加えたい。不適格者が生まれたら殺そうとしてしまう。
右側に示した写真はローズマリー・ケネディです。ジョン・F・ケネディやロバート・ケネディの妹にあ
たります。ケネディ家も秘密にしていて、はっきりしないのですが、若干知的障害、あるいは社会心理
的障害を持っていました。
実際、ケネディ家はどうしたか。まず、カソリックの修道院の学校に入れて、ロボトミーを行い、ゾン
ビ状態にした、その後、彼女は 70 年も生きながらえた。悲しい状況です。
こうしたことは日本でもまた起きていることです。安積遊歩という研究者が、この研究の大家です。バ
ークレイ校で自立生活センターの研究を行い、帰国後、日本の自立生活運動の活動家になりました。1990
年代に日本の優生保護法と障害者の研究を発表しました。彼女のサンプリングによると、1993 年には
22 人の障害者男性が断種手術を受け、4,000 人以上の障害女性が不妊手術をさせられた。そして彼女の
最も新しい本の中での歴史研究によると、2010 年までには 1 万 6,000 人以上の障害者が優生保護法の
もとで断種や不妊手術を受けたという累積数字を出しました。
また私の研究では、ろう者においても不妊手術を医者から施された、両親の命令のもとでそういう処置
があったことも一般的現象として認識されました。結婚しないよう、子どもを持たないようということ
で、親がそういう処置を施させたわけです。これは中世の暗黒時代でなく、ごく最近起きていたことで
す。遊歩さんの最近の本によると、実際に不妊手術を受けなければならないと言われたそうです。
アメリカでも似たようなケースがあります。2007 年のことです。アシュリーという小さな女の子。1997
年にアメリカのシアトル市で生まれました。生まれた時から非常に重い知的障害を持っていました。診
断されたことはありません。両親と医師は 3 カ月くらいの知性しかないと言っていましたが、その理由
ははっきりしません。
9 歳の時に、両親は医師との協議のもと、そして病院の倫理委員会の許可を得て、
「アシュリー治療」と
いうのを受けさせられました。両親と医師がそういう名称をつけました。2 つの要素があり、1 つめは
子宮と胸を物理的に撤去すること。2 番目には、ホルモン療法、エストロゲン投与ということで、体の
骨の成長を止め、それ以上大きくならないようにしたのです。9 歳児の体でとどまるように、というこ
と。身長や体重を 9 歳以上の大きな体にならないように、胸も大きくならないように、そして月経を経
験しないようにということだったのです。
両親が正当化宣言をホームページで行っています。両親の主張は、これは介護者である両親の都合では
なく、アシュリーのクオリティオブライフのためだと。今私は、皮肉を込めてはなしています。この両
親を好きにはなれませんね。
たそれとは別に、
「ピローエンジェル(枕の天使)」という呼び方もしています。おもちゃメーカーが、枕
の天使という製品を出した。人間扱いをされていません。枕の天使の治療について、なぜ乳房を切除し
たかというと、巨乳による不快感を和らげたかったと。母も祖母も巨乳でたいへんだったからと。第 2
には、介護者による性的介護、セクハラを防ぐという目的が示されています。
子宮切除が行われた理由は何でしょうか。女性が月経の痛みと痙攣を経験しなければならないのをアシ
ュリーに避けさせるため、子どもを生まないなら月経の痛みを感じる必要はないということです。体が
9 歳児のままであるということは、移動のためであり、軽い体重なら簡単につれて歩けるということで
した。いかりを感じたいと思ったら、アシュリーの両親が出した正当化宣言を読めばいいでしょう。本
当に腹立たしい気持ちになります。
さらに、倫理委員会がそれを許したということが信じられません。ある意味では、両親の気持ちは分か
らないでもない。彼らは大変な困難を抱えていたわけです。アメリカでは国の医療体制も貧弱ですから。
しかし、倫理委員会が認めたことは理解できない。
倫理委員会のディレクターの発言では、数多くの障害者が月経でトラウマをうけている、体から血が出
ているかわからない、アシュリーは血を見ると怖がる子だから、ということでした。
本当に驚くべきことです。ところが、こういう同じような主張はほかでも出てくるのです。安積さんの
本を読むと、彼女の脳性麻痺の友人も、施設入所に当たって、介護者として月経の世話までしたくない
から、子宮を取り除こうと言われた話が出てきます。信じられませんよね。
幸いなことにアシュリー事件が発生して、その前に病院の医師が医学会の雑誌にこれを発表しました。
そこでマスコミや障害者を擁護する団体から厳しい批判が出て、ワシントン州の裁判所が調べて州法違
反と分かりましたが、刑事告訴は行われなかった。神を信じるものにとって唯一救われるのは、アシュ
リー担当医師が自殺したことです。マスコミにたたかれたことによって。
では、話を戻しましょう。障害者は性欲を持っているのかもしれないということ、これは障害を持たな
い人にとっては、まだ驚きとして受け止められている向きがあります。しかし国連の障害者権利条約は、
障害者が結婚し子どもを持ち、生殖能力を保持することを擁護しています。しかし、セクシュアリティ
ということのとらえ方は機械的だと言えます。
そこで 2 番目の側面についてです。セクシュアリティの回復の 2 番目の側面に光を当てていきたいと思
います。2004 年に刊行された「セックス・ボランティア」という本です。セックス・ワーカー、障害者
向けのボランティアです、独立生活運動を取り上げていて、当時日本では、セックスボランティアとい
うことにショックを受けました。ソープランドに行くという男性がいるのは知られていましたが、それ
から注目されるようになり、バリアフリーのセクシュアルデリバリーヘルスというのが出ました。これ
が果たして、このバリアフリー研究センターの研究に含まれるかどうかはわかりませんが。またこうい
ったスキャンダラスな本、障害者向けデリヘル嬢という本も出ました。
ここで私達は、生殖に関わる基本的自由というセクシュアリティの概念から脱皮する必要があります。
生殖能力を持つべき権利という意味でのセクシュアリティと同時に、性欲を持つという意味でのセクシ
ュアリティというものがあるわけです。
「マーダーボール」という 2005 年のアメリカ映画があります。車いすのラグビーを描いています。事
故で、トラックを飲酒運転したということで、このような障害を抱えることになったのですが、ほとん
どの人たちは本当に嫌なマッチョで、男尊女卑で、セックスの権利を主張しています。性欲を維持して
いる人たちです。車いすになったとしても、そういうマッチョでなくなることはないわけですが、この
映画を見た人たちは車いすの男たちもマッチョだと、はじめてわかったわけです。
果たしてこれが最善の道なのでしょうか。健常者の社会を模倣することが最善なのでしょうか。男尊女
卑な障害男性、そしてデリヘル、あるいは受け身の障害者女性がセックスボランティアが来るのを毎日
待っていて、いいのでしょうか。もっとできることがあるのではないでしょうか。
新しいセクシュアリティの形:交差性の理論
そこで私の講演の後半に入ります。それは、障害とセクシュアリティの複雑な結びつきをとらえるもの
で、
「交差性の理論」と呼ばれています。これは第二波フェミニズムへの批判から生まれたものです。
第二波フェミニズムは、中産階級の白人女性の経験から生まれたものです。しかし、ほかの女性の視点
からその原則が問われるようになってきました。アフリカ系のアメリカ人女性や第三世界出身の女性が
疑問を持ち始めました。つまり白人女性の経験が誰にでも当てはまるのかと。アフリカ系女性は白人と
は違う問題があるのではないか、ということです。
そこで、交差性の理論を提示したクレンショーやコリンズといった人たちは、問題はもっと複雑だと言
っています。黒人プラス、女性、プラス障害者という問題ではなく、それぞれの特長のアイデンティテ
ィの相互作用があると言っています。私達は、そうしたアイデンティティやカテゴリーのが複雑に相互
作用しているあり方をとらえなければならないのです。
先ほどの集合論では、C が A と B の交叉だっても、C は A でも B でもない、A+B でもないんです。交
差する地点にあることで、何か変わるわけです。つまり、足し算ではありません。黒人プラス女性、プ
ラス障害者ではなく、かけ算なのです。黒人と女性と障害者のかけ算。
この 3 つが相互作用することで、基本的な変容が生じるのです。
これはクィア理論にも当てはまります。学術的なクィア理論では、ノーマティヴィティーやカテゴリー
や強制的異性愛主義といった概念に批判と分析を加えます。クィア理論は、様々な問いを投げかけます。
人間の性的な関わりのあり方について、どのようなものが正常で理想的とされているのかということを、
批判的に問うのです。
またクィア理論は、カテゴリーの人為性を批判し、挑戦します。カテゴリーが作られたものであるなら、
それは本質的なものでも自然なものでもありません。男性か、女性か、ホモセクシュアルなのか、異性
愛なのか同性愛なのか。そうしたカテゴリーの理解は、歴史的な産物なのです。外的な側面から見れば、
こうした理解は歴史的、制度的、社会的なプロセスを通じて構築されていますが、それと同時に内的な
プロセスも関わっています。それがアイデンティティの問題です。
クィア理論の中では、学問とアクティヴィズムは密接な関わりを持っています。アイデンティティの人
為性という考え方を前提にして、それを現実世界の中に持ち込んでいくということです。それによって、
規範をどのように揺さぶることができるでしょうか?そのために「ジェンダーファック」「ジェンダーク
ィア」といった汚い言葉をあえて使うわけです。そしてもう 1 つが「遊び」という概念です。
「遊び」の勧め
この、
「遊び」の概念は重要です。これは、クィア理論によって可能となることの基本になるものです。
まず、セクシュアリティに関わる遊びについて考えましょう。
18 歳ぐらいのときに、始めてボーイフレンド、ガールフレンドを持ったときのことを思い出してくださ
い。性的な関わりを持って午後を過ごすことが楽しかったときのことを。お互いの体を探り、どんなこ
とができるか。その頃を思い出してください。性的な遊びには無限の可能性があるように思えました。
自分の指や耳が性的な器官であるとは誰も知らなかった、しかし、遊ぶことでそのような様々な可能性
が開きました。様々な可能性を見いだしました。遊びの概念から自分の体で何ができるかわかるように
なりました。
インターセクシュアリティとはどういうことかを考えていただく上で、クリップあるいはギンプの政治
とクィアなアイデンティティによって何がもたらされるのかを示したいと思います。
まず紹介したいのはエミー・マランズです。障害から拡大へと考え方を変えようとしました。彼女はそ
れによって、美と標準に関する考え方を揺さぶろうとしました。短い映像を紹介します。
(ビデオ開始 PartI)
エミーは、驚くべき人ですね。さらに面白いと思うのは、北京オリンピックで起こった 2 つの出来事で
す。1 つは、インターセックスの競技者が女性として出場すべきかどうかについて、様々な議論を呼び
起こしました。
う 1 人は、オスカー・ピストリウスです。この人はエミーと同じ義足です。南アフリカの長距離の選手
でしたが、オリンピックに出られるほどのスピードを出すことができました。そこで IOC は驚いて、も
し障害者が健常者と同じくらい速くあるいはそれより速く走れたらどうすればいいのか。パラリンピッ
クに出る人がオリンピックに出たいと言ったらどうしようと、怖がったのです。ですが、オスカーは適
格ではなく出られなかった、この義足はルール上認められないとされました。バネが付いていてダメと
いうことでした。しかし、障害者が健常者より速く走ることができたら、人々は恐れるのだということ
がわかりました。
日本で、同じように、障害とセクシュアリティの交差性の理論を考えている人がいます。安積遊歩が一
例です。もしよければこの本を読んでください。『いのちに贈る超自立論』。
もう 1 人、カナダのジェス・サチセという人を紹介します。ジェスはホリー・ノリスという写真家との
コラボによって、体を表そうとしています、特に広告メディアを使って。
彼女はホリー・ノリスとともに偽の広告キャンペーンをしました。アメリカ・アパレルというブランド、
GAP のような流行の服を作っているところです。ここで偽の広告を打ちました。AmericaAble という
名前で。ジェスが身につけました。このキャンペーンは偽のものです。
私はアメリカンアパレルを評価したいと思います。多くの会社は、このような偽のキャンペーンがある
とおそらく弁護士を使って訴えると思いますが、アメリカ・アパレルは楽しい、面白いと言って、この
展示会の共催社となりました。
次に、簡単なビデオを紹介します。ジェスがなぜこういうことをしてるか、裸であることをこのように
話しています。(ビデオ開始 PartII)
あなたは 100 マイルも砂漠をひざまずいて歩く必要はない。体の中にある愛したいものにあいさせれば
いい。
子どもの頃、私は背骨が癒着し、体の中で抵抗するようになった、そこで裸でポーズをとることにした。
私はあなたと同じです。私は感じる。私は笑う。私は愛する。私は成長する。あなたは、私が勇敢だと
いうかもしれない、しかし私はこわい。あの日怖かった。私が服を脱いで、写真を撮るとき、怖かった。
人に裸を見せたことはなかった、裸を見られるのはいやだった。しかしみんなが見ているものが何かを
知りたかった。そして服を脱いだ。固い、長い、フレームに続くフレーム。1 人で、怖くて、傷だらけ
で美しい。あなたは、怖いですか。私のことを完全に愛せない時は、私はいつも怖い。
理解するためにはこれがすべてであることを知らなければならない。あなたに怖がって欲しい。この写
真を見て、あなたを見たい。そしてすべてを愛することを想像してほしい。どのほくろも傷も。
最後の写真には、心、心臓のように曲がっているというタトゥーが彼女の胸にあります。障害の新しい
意味を理解するプロジェクトです。(ビデオ修了)
ほかにも面白い例があります。1 人はイーライ・クレアという、FTM の活動家です。イーライは、こう
いうと思います、
「正常な体と理想的な体についての対話が必要である」と。障害であろうとクィアであ
ろうとです。
ここに、3 つのトイレ、女性用、男性用、そして障害者用のトイレがあります。この意味はどういうこ
とでしょうか?障害者は男性でも女性でもないということですか?クィアな性別があると言うことでしょ
うか。
次は、私の友人の 1 人、小島直子さんです。すばらしい本を書きました。
『口からうんちが出るように手
術してください』という挑発的なタイトルです。車いすに乗っていると大変だということが書かれてい
ます。車いすトイレの有無で一日の行動を計画します。面白いことに、トランスセクシャルやインター
セックスなどの私の友人も同じ問題、つまりトイレに問題があると言っているんです。
ほかにも興味深い人がいます。簡単に説明します。ミア・ミンガス、マーガレット・プライスなど、お
手元の資料にありますが、機会があればこの人達のプロジェクトを紹介したいと思います。障害とセク
シュアリティをあわせて、もっと生産的な分野ができるということです。
最後に、障害とクイア運動に関する提起をしたいと思います。クリップとクイア運動は根本的にからみ
あっています。この運動は基本的に、ノーマルでない理想的でない身体、そしてノーマルでない、理想
的でない欲望に関するものです。それは素晴らしいことです。その解決法はノーマルを模倣することで
はありません。ノーマルとは、行き詰まりでしかありません。ノーマルをどうやって揺さぶるかです。
どうやって乗り越えるのか。そして独自の方向にいくにはどうすればいいかを考えるのです。
そのためにどうすればいいか。そこで遊びに戻ります。遊びましょう、楽しみましょう。私たちの体で
何ができるかを楽しみ、心の中に潜んでいるものと遊びましょう。これが新しい方向だと思います。障
害運動の女性は今までまじめすぎたと思います。もう真面目ではなく、楽しくやる時期がきたと思いま
す。
皆さんに言いたいことは、家に帰って遊んでください。自分自身と、自分のパートナーと、そしてその
ほかの様々な物事と。
ここで話を終えますが、最後に紹介したい人は、あなた自身です。今日の講演もそうですし、おそらく
バリアフリー教育開発研究センターの考え方もそうだと思うのですが、これは教育者や一部の学生に向
けたものではありません。まさに皆さん自身に向けたものなのです。社会を変えたいのなら、皆さんの
見方、考え方を変えないといけません。受け身ではいけないのです。正常でないと見なされているあら
ゆる分野に関わり、それを乗り越える方法はないのかを考えてください。新しい正常にもっていけるか
どうかを考えていただきたいと思います。ありがとうございました。
司会者より
カレン中村さん、ありがとうございました。正常とは何か、障害とは何か、その観念そのものを揺るが
し、我々のアイデンティティを問いなおすようなすばらしい発表だったと思います。続いて、星加良司
さんに発表をお願いします。