第6章 メキシコ干渉

ナポレオン三世の外交政策
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
第6章
第1節
メキシコ干渉
同床異夢の出兵
メキシコ干渉とは、メキシコ国内の慢性的な政情不安のため、同国が発行した外債に焦げつき
の可能性が出てきたとき、それに業を煮やしたイギリス、フランス、スペインの債権国がメキシ
コの内政干渉に乗り出して起きた事件である。イギリスは債権償還の見通しがつくとすぐに引き
揚げたが、フランスは当地に軍隊を送り傀儡政権をつくるなど深入りし、泥沼状況を経て結局は
撤収を余儀なくされた。この遠征の失敗はフランスとナポレオン三世の威信を著しく損じること
になった。
ます、事件のあらましから始めよう。危機は 1861 年 7 月に訪れた。長く続いたメキシコ内乱
に終止符を打って最終的な勝利者となったファーレスは同月 17 日、外国借款について元金と利
子を含めすべての支払いを向こう2年間停止すると宣言。むろん財政難が理由だが、それは、十
数年前の米墨戦争(1846~48 年)で膨れあがった軍事費の償還と、戦後の内戦で惨憺たる状態
に陥った経済的破綻による歳入減とが重なって起きたものである。内戦にひとまず終止符を打っ
たとはいえ、国情は依然として不安定なままであり、騒乱に備えて余計な軍事費を計上しなけれ
ばならなかった。
支払停止の発表がなされると、メキシコ駐在の英・仏大使は本国に召還され、英・仏・西三国
の政府代表のあいだで善後策が協議された。支払停止の対象となった債務のなかに、メキシコ政
府が外国の民間会社または市民と契約したものも含まれていたことが問題を大きくした。国民の
圧力を受けて英・仏両政府は武力解決に訴えることになった。その決定の根拠は2つある。アメ
リカ合衆国において南北戦争(1861~65 年)が始まったばかりで、英・仏・西三国干渉に反対
も抑制もできない状態にあった[注 1]。第二に、メキシコ内の王党派が三国政府に対し、権力
簒奪者にすぎないファーレスを追放し王制を復活させたのち、三国政府のお眼鏡に適った国王を
推戴することに賛成であるという意思表示したためである。
[注 1] 英・仏・西の三国は、メキシコ問題に介入すれば合衆国を刺激しないわけにはいかな
いことを承知していた。合衆国の反対に逢わないために、また、合衆国もメキシコに対し同じ請
求権をもっていた以上、この三国間協議に加わるよう招請された。だが、合衆国は参加を拒否し
た。それでも三国でメキシコ干渉のための協議が続行されたのは、合衆国は南北戦争の最中にあ
り、「
「モンロー主義」
モンロー主義」を実行するゆとりがないだろうとの読みがあったからだ。
1
三国間協議は、各国がそれぞれの思惑をもっていたため調整が難航した。イギリスは、債務と
賠償金支払い、当地に在留するイギリス人の保護を武力介入の目的とした。メキシコの元の宗主
国スペインは債務償還を促すのはむろん、ファーレス政府の自由主義政策が気に入らず、当地の
政府反対派と組んで政権の転覆を狙っていた。
フランスはどうかというと、もともと親英的なナポレオン三世は、イギリスが唱える目的での
遠征軍派遣に異存はなかった。しかし、彼はそれ以上の目的を隠しもっていた。フランスがスペ
インを誘うことにこだわったのは、スペインの植民地キューバの基地を使用できるということの
ほかに、この協調行動を通してイベリア半島でのフランスの投資と経済的利権の拡大を狙っての
ものだった。フランスにはさらにもう一つ別の理由があった。南北戦争に起因して合衆国からの
綿花が途絶し、それが国内の綿工業を危機に陥れていた。メキシコ北部が綿花栽培に適している
ことが知られており、ナポレオン三世はここを開拓すれば、合衆国に代わる供給源となりうると
考えたのだ。
1861 年 10 月 31 日、「ロンドン協定」といわれる合意に達した。内容は次のとおり。
(1)三国はメキシコ政府に対し、各国の市民の生命・財産に対して有効な保護措置をとること
(2)三国は、メキシコが同盟三国と結んだ義務の履行をめざし統一的な行動をとること
(3)三国は領土の獲得や個別の利益を追求せず、メキシコの国内問題に容喙しないこと
(1)と(2)は曖昧な表現ながら、三国干渉の目的と方法を述べている。こうした表現は合
衆国を刺激することを恐れたためであろうが、その曖昧さのゆえに、協定の履行に取りかかるや
いなや、すぐに各国の思惑違いが表面化することになる。
(3)は三国干渉の限界を定めている。
この部分にイギリスの主張、すなわち他二国への牽制の意味が込められている。だが、(1)の
規定が不十分である以上、
(3)は反故になる可能性がある。実際に生起したことから考えると、
フランスは最初から(3)を破るつもりで協定に加わったたように思われる。
協定条文の不明確さと、統一見解が交換されなかったこととによって、同盟国間には最初から
不和・抗争がもちあがる。話しあっても調整がつかず、代表団たちはそれぞれの政府からまった
く異なる指令をもち寄ったからである。
遠征軍の兵力は完全に不釣合いであり、しかも、約束の地にまちまちの時間に到着した。スペ
イン軍が最初に(12 月 8 日)メキシコのベラクルース港に上陸したが、その陣容は将兵 6,200
人を数える大仰さであった。フランスは 3,000 人で 1 か月後の 1862 年 1 月 6 日に、イギリスは
僅か 800 人で 1 月 8 日に到着。英・仏はスペインの派遣軍をみて不快感を募らせ、フランスはス
ペインと均衡をとるため、2,500 人から成る増援部隊を急派したが、イギリス軍は増援を要請し
なかった。
メキシコ政府は和戦両様の構えをもって慎重に事にあたった。すなわち、ファーレスは 7 月
17 日法の廃棄を国会に要請するとともに、政治犯に恩赦を与え国論統一をはかった。政治犯に
は王党派の軍司令官が多数含まれていたが、この釈放は彼らにとって、外国軍と合流するか、そ
2
れとも防衛軍に加わるかの“踏み絵”となった。メキシコの外務大臣ドブラードは同盟三国間の
意見の相違を巧みに利用しつつ、軍事衝突を回避することに全力を傾注した。
全権使節がベラクルース上陸後に共同してメキシコ国民に宛てた宣言(1 月 10 日)と、ファ
ーレス政府に送った覚書(1 月 14 日)は「協定」と同一内容をもっていた。ファーレスは 1 月
23 日、この覚書に対して返書を送る。立憲手続をへて合法的に確立されたメキシコ現政権の権
威は国民から承認されている以上、同盟国の政府がメキシコの秩序を保障するための支持を提供
するのは不必要であり、懸案の請求事項に関しては使節たちと同意できるような解決案を模索す
る用意があると述べ、会談場所としてオリサバを提案した。
ファーレスの提案は受け入れられ、ただちに交渉が始まった。会議の冒頭から干渉国側のもく
ろみ違いは明瞭なものになった。イギリスは「借金の返済を迫るためここに来た、それ以上の意
図はもたない」[注:ワイク全権大使]と表明。イギリスはつづいてファーレスとのあいだに約
定を結び、事件から完全に身を引くことになる。スペインはメキシコに王制を復活させる目的を
もっていたが、フランスも同じ意図をもつのを察知するや、すぐに計画を放棄した[注
[注 2]。フ
ランスには干渉の意図が堅く、本国からの新しい訓令を帯びた使者ロランセ伯が増援部隊を引き
連れて到着した。そのため、債務履行の約束と賠償金支払を除く事項については合意することが
できなくなった。英西の代表はロンドン協定の線に戻るようフランス代表を促したが、徒労に終
わる。かくて、英西の代表はロンドン協定を破棄し(4 月 9 日)、それぞれ軍を引き連れてメキ
シコから撤収した。その際に、ナポレオン三世の計画の邪魔立てはしない立場を明らかにした。
フランスのみが当地に残り、以後、生起する諸事件について全責任を帯びることになった。
[注 2] スペイン全権使節はプリム将軍であった。彼は女王イサベラ二世より個人的に王制復
活の密命を帯びてメキシコに来ていたが、当地の状況をみて外国干渉によって王制を復活させる
のは無理とみて断念したのであった。
第2節
プエブラの戦い
なぜナポレオン三世はあれほどにメキシコに固執したのであろうか。その理由のひとつは、メ
キシコの王党派がフランスに対して楽観的な情報を提供したところにある。曰く。国民は王制を
望んでいる、自分らとフランスが組めば不人気な現政権は簡単に打倒できるだろう、と。フラン
スはこうして軍事干渉が大きな障害にぶつからないだろうと信じこまされた。同じような勧誘の
おこなわれたスペインがそれに乗らなかったのは、同国が中南米における植民地支配の長い経験
から、ナショナリズムの強烈さをイヤというほど味わっていたからである。
メキシコでは政府反対派は王党派のほかにもいたが、この保守派は最初、外国軍も加えた政府
転覆という謀略に加わることを躊躇した。フランスがこの国の独立と政治的自由を保障したため、
保守派は王党派と行動を共にする気になった。こうして各地に潜んでいた保守派と王党派は各地
で反乱を起こし、武器と指導を求めて仏軍の駐屯地に集まってきた。
メキシコ干渉戦争は2つの段階に分かれる。干渉軍が勝利して共和政府軍を窮地に追い込み、
傀儡政府を樹立するまでが第一段階である(1862 年 4 月~1865 年 8 月)。共和政府軍がゲリラ
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戦を通じて反撃に出て徐々に地歩を固め、干渉軍を後退させ仏軍撤退に追い込んだあと、傀儡政
府軍を最終的に殲滅するまでが第二段階である(~1867 年 6 月)。
緒戦は 1862 年4月 28 日、コルドバ近郊における散発的な戦いで始まった。これは仏軍の進軍
速度を緩めさせる結果になった。以来、第一段階の戦闘は 1864 年6月まで2年余のあいだつづ
くことになる。激戦は 5 月 5 日、プエブラで発生。ここはベラクルースより首都メヒコ(メキシ
コ・シティ)に向かって 220 キロメートルほど奥地に入った要塞都市である。ロランセ将軍率い
る仏軍 6,000 とサラゴーサ将軍指揮下の守備隊 4,000 が激突。仏軍は3波にわたる猛攻を試みた
が、4時間経過しても守備隊の抵抗を弱めることができず、ロランセはついに攻撃を中止し、軍
に撤退を命じた。
劣勢とみられたメキシコ軍がフランス正規軍と堂々とわたりあい、これをついに撃退したこと
はメキシコの戦史に長く「プエブラの栄光」として書きとめられことになった。この戦いは、フ
ランス側にあった偏見と幻想をぶち壊してしまう。すなわち、メキシコ軍はけっして弱くはなか
ったし、王党派は国民の支持を受けていなかったのである。勝利はメキシコ国民を鼓舞し、共和
政府に対する信認を強めた。仏軍はその後続々と増援部隊を派遣することになるが、それでもっ
て防衛側の士気が弱まるというわけでもなかった。
敗将ロランセは更迭され、援軍3万を率いて到着したフォレー将軍が代わって指揮をとること
になった(62 年9月)。フォレーはベラクルース近郊を掃討したのち、プエブラに兵を進め、
この町を包囲した(63 年 3 月 17 日)。この町の争奪戦(第二次プエブラ攻防戦)は 62 日間つ
づく。戦闘ではけっして敗れなかった守備隊であるが、食糧・弾薬が底をうち、これ以上抵抗を
つづける手段をなくして投降し、将兵ともに捕虜となった。この激しい戦いを通じて、またもメ
キシコ軍の高い士気と戦闘能力が示された。
首都防衛は不可能とみたファーレスはメヒコからサン・ルイス・ポトシに遷都し(63 年 5 月
31 日)、ここで国土防衛の指揮をとることにした。1週間後に仏軍はメヒコに入城。フォレー
将軍はメキシコの王党派・保守派と図って王制樹立の準備を急いだ。メキシコの自主性を表向き
尊重するような体裁を施したうえ、決議を発表した(7 月 11 日)。それによれば、皇帝の称号
をもつカトリック王を戴く世襲王制の政府形態をとること、オーストリア大公フェルディナン
ド・マクシミリアンに王位に就くよう要請することであった。
仏軍の指揮は、フォレーの後任のバゼーヌがとることになった。バゼーヌの指揮下には 34,000
のフランス兵と 8,000 のメキシコ兵がいた。バゼーヌは諸州の平定作戦を続行した。干渉軍が軍
事的に勝利したとはいえ、諸州の大部分は依然として合法政府に忠実であったからである。この
作戦はうまく運んだ。装備・組織・規律3拍子整った大軍に敵対するにはメキシコ側の準備は心
もとなかった。小規模なゲリラ戦だけがそれなりの戦果を挙げたが、それだからといって全体の
戦況を変えるにはほど遠い。メキシコ側にも変節と裏切りが出てくるようになった。いつの世ど
こでも戦いに大方の帰趨がついたとき、日和見主義が頭をもたげるものである。こうして 1864
年末にバゼーヌ将軍が掃討作戦を終えたとき、ファーレスの政府はまったく窮地に陥っていた。
戦況悪化を受けて、政府所在地はサン・ルイス・ポトシ、サルティージョ、モンテレイというよ
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うに次々に北方に押し上げられていく。1865 年 8 月 15 日にはついにメキシコ北端の町パソ・デ
ル・ノルテ(現シュダード・ファーレス)に政府が移動。このときがファーレスとメキシコ共和
政府にとって絶体絶命のピンチだった。
第3節
皇帝マクシミリアン
一方、帝位への就任を要請されていたマクシミリアンは迷った末に、これを受諾した(1864
年4月 10 日)。彼は 5 月末にベラクルースに上陸し、6 月 12 日にメヒコに入った。彼はハプス
ブルク家の出身で、ベルギー王女シャルロット・エミリーと結婚していた。彼はヨーロッパの王
子のつねとして政治と軍事の教育を受け、海軍に籍をおいたままオーストリア皇帝の名において
ロンバルディア・ヴェネチア王国を統治していた。肖像画が示すように、毛並みと育ちのよさの
せいだろうか、彼は容姿端麗にして利発そうで、いかにも優しそうな雰囲気を漂わせる人物であ
る。これらは美点にちがいないが、動乱の最中にある国を統治しなければならないことを考える
と、むしろ気の毒な感じがする。何をさておき、乱世の首魁の資質としては的確な状況判断力を
もてるかどうか、果断に力の政策に訴えられるかどうかが要であるはずだが、じっさい、この皇
帝にはそうした要素がまったく欠けていた。
マクシミリアンの治世はメヒコ入城から 1867 年 6 月における彼の死(銃殺刑)までのわずか
2年しかない。つまり、彼の全治世が戦争に明け暮れしてしまうのだ。1865 年夏を境目として
共和政府軍は劣勢を挽回し、徐々に大規模な戦いを展開するようになっていく。この間に皇帝は
戦争の指揮をとり、新政府内の対立・抗争をおさめ、ナポレオン三世の要求と渡りあわなければ
ならなかった。したがって、マクシミリアンの短い治績を評価するには相当の斟酌をもって臨ま
ねばならないだろう。マクシミリアンが悲劇的な死を迎えるにいたった責任の大半は彼自身に帰
するというよりも、最初に無理な計画を練りあげたナポレオン三世が負うべきであろう。それで
もなお新皇帝に責任があるとすれば、①自らの器量、②自己の拠って立つべき基盤、③情況判断
について完全な思い違いをしていた点である。
①の思い違いは改めてふれるまでもない。自分の器量の買いかぶりは、能力がないのにうまい
話に乗って動乱最中の国家元首を引き受けたこと自体に示される。このことは②と③においても
実証されよう。②についての思い違いだが、基盤はもともと無いに等しかった。メキシコ国内は
分裂しており、皇帝が頼りとすべき保守派と王党派は孤立していたし、もしこれら少数派に依拠
すれば、そのぶんだけ人心が離れることを意味した。また、自分がナポレオン三世の傀儡である
ことを弁えず、事あるごとに主人はもとより、その代理者バゼーヌ将軍とも対立した。③の思い
違いについてだが、マクシミリアンの持論である進歩主義と自由主義の政策を、歴史的背景も事
情も異なるこの地で直ちに実行に移そうとし、国内から激しい抵抗を受けるはめになったことだ。
この誤まった状況判断についてはもう少し具体的に述べる必要があろう。
皇帝が真っ先に着手したのはナポレオン三世との軍事協定、それも撤退計画(「ミラマール条
約」)である。ここで重要なのは、マクシミリアンが帝位に就くか就かないうちに頼りとすべき
干渉軍の撤退を決めたことである。当然、ナポレオン三世の了解をとりつけていたはずだが、そ
5
うだとすると、この主人のほうもあまりに情況を楽観視していたことになるだろう。自由主義の
新皇帝は、おそらく外征軍占領下の統治は望ましくなく、できるだけ早期に外征軍(仏軍)を国
軍に換え、そして軍政は民政に転換したいと考えたからであろう。その条約によれば、仏軍は6
年後に全面撤収することとされ、この間の出費はフランスが負うものとされた。まことに虫のよ
い話だが、ナポレオン三世がこれを受け入れたのはメキシコの経済的未来を信じてのことだった
[注 1]。
[注 1] ただし、6 年が経過してもメキシコ新政府の軍隊が揃わないため、仏軍に依存せざるを
えないばあいには、メキシコ側が法外な費用を払う規定があった。
マクシミリアンは信仰の自由、教会財産の没収(の再確認)、葬式と墓地の世俗化を打ち出し、
カトリック教会と保守派を怒らせた。さらに新皇帝は、インディオのペオン[注
[注 2]を大農場に
緊縛していた負債を棒引きにする宣言を出したが、これは、共和主義のファーレス政権でさえ手
を出さないような過激な政策で、配下の保守派の神経をまったく逆なでする行為であった。新皇
帝に騙された思いに駆りたてられた聖職者層と保守派は抗議の声をあげる。ところが、皇帝はフ
ランス軍の支持を得て、その造反集団の領袖たちを処罰してしまうのである。
[注 2] 手間賃を求めて農場で働く「人夫」
「人夫」の意。
「人夫」
さらに悪いことに、マクシミリアンはヨーロッパ人第一主義の立場をとり、ヨーロッパ出身の
官僚と技術者をあからさまに優遇して政府機関の枢要な地位に就けた。側近にも彼らだけをおき、
その意見だけに耳を傾けるようになった。これをメキシコ人からみると、ヨーロッパの政府が降
って湧いて出たようなもので、彼らの国民的矜持は痛く傷つけられた。
国家の財政状態は歳入と歳出の均衡にはほど遠く、おりからの政治的混乱と戦乱により、その
ギャップは開く一方にあった。それは皇帝の個人的乱費にも起因する。皇帝はナポレオン三世に
借款を願い出るが、ナポレオン三世は渋々これに応じたものの、彼自身がしだいに不安感にとら
われるようになる。ナポレオン三世はマクシミリアンを詰り、マクシミリアンは、フランスがメ
キシコから何もかも持ち去ったからだと反論する。ナポレオン三世は援助を打ち切る方向に傾い
ていく。
ナポレオン三世の代理バゼーヌ将軍は、傀儡の枠を飛び出して勝手なことをするマクシミリア
ンに腹を立て、軍事問題に関し彼に何の相談もなく処理し、その他の問題にも絶えず干渉するよ
うになった。そのため、将軍とマクシミリアンとの関係は日を追って悪化していく。将軍は本国
政府宛ての報告書のなかでマクシミリアンの“悪政”の数々をあげつらう。
支配層の不協和音が高まれば、そのぶんだけ統治のほころびが目立つようになるのは必然であ
る。
第4節
ケレタロの悲劇
1865 年夏に消滅の際にまで追い込められた共和政府は、それでも抵抗運動を止めなかった。
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地形に不案内な外国軍や正規兵に対してはゲリラ戦法が有効であることが確かめられた。奇襲を
かけたり補給部隊を襲ったりして敵に絶えず物的、心理的脅威を与えた。65 年末になると、干
渉軍のほうが国境諸州の支配を諦め、撤収を開始する。
そのときの処置が裏目に出て、事態は悪化の様相を深めていく。干渉軍は“卑怯なやり方には
卑怯なやり方で応える”とばかり、ゲリラを捕まえると、すぐに軍事法廷を開いて片っ端から銃
殺刑に処した。この措置はゲリラに限らず、投降した正規兵にも適用された。それだけにとどま
らず、ゲリラを匿ったとか、自分らを冷遇したとかの勝手な理屈をつけ、行く先々で投獄・虐殺・
略奪・放火・破壊のかぎりを尽くした。フランス兵のメキシコ人に対する民族的差別意識がそう
させたことも否定できない。こうして、干渉軍はほとんど勝利を手にした時点でそれをふいにし
たばかりか、わざわざ自ら進んでいくかたちで罠に嵌っていく。こうしたことは世界の歴史にお
いていつもくり返されることだ。
武運が傾きはじめたとき、干渉軍とマクシミリアンの命運を決定づける二つの出来事が生じた。
いずれも外部で起きた異変である。一つは、合衆国における南北戦争が 1865 年 4 月に終結した
こと、もう一つは、普墺戦争で大方の予想に反しプロイセンがケーニヒグレーツ(サドヴァ)で
オーストリア軍に大勝利をおさめた(1866 年 7 月 3 日)ことである。
南北戦争での北軍の勝利はモンロー主義の復活を意味した。合衆国は軍隊をメキシコ国境に配
備し、武力介入の構えをちらつかせ仏軍の即時撤退を迫る(65 年 8 月 1 日)。ナポレオン三世
は「情況が好転すれば」と曖昧な返答をしたが、合衆国の態度は強硬だった。だが、その合衆国
は戦死傷者の合計で百万を超える犠牲者を出す内戦を終えたばかりであり、フランスと一戦交え
るだけの余力がなかった。そのため、合衆国は方向を転じ、ひそかにファーレスに武器・弾薬を
供給するやり方でメキシコ動乱に介入した。この援助のおかげでファーレス軍はゲリラ戦一辺倒
からしだいに大規模な戦闘行動がとれるようになっていく。
フランスはどうかというと、メキシコ干渉は国内でも評判が悪かった。厳重な報道管制が敷か
れていたが、外国の新聞を黙らせるわけにはいかない。それは検閲の網をかい潜ってフランスに
もちこまれ、酒場で人々に話題を提供した。世論はこれを通じて戦争の不幸な展開に気づくよう
になる。こうした重い空気は立法院における論戦や政府批判に反映する。メキシコ遠征に関する
スキャンダルが暴露され、干渉戦争が不名誉なかたちで推移している事実がしだいに明るみに出
ると、非難の声はますます大きくなる。窮地に陥ったナポレオン三世はついに 1866 年 1 月 22
日、遠征軍の撤退とマクシミリアンへの援助打ち切りを発表。だが、発表はしたものの、ここで
また皇帝の優柔不断の習癖が頭をもたげる。合衆国に本格的介入の意思がないのをみて、ナポレ
オンは撤退実行をズルズル引き延ばす。ようやく 66 年 7 月になって撤退を始め、完了するのに
翌年2月までかかった。
もうひとつの戦争、つまり 1866 年 6 月に勃発した普墺戦争はナポレオン三世に大きな衝撃を
もたらした。後述するように、フランスはこの戦争に際し、プロイセン寄りの中立を維持し、戦
争が長期化した頃あいをみて仲裁に出るつもりであった。だが、盛名高い墺軍が開戦 1 か月で大
敗というあまりにも早い決着にナポレオンの目算は大幅に狂ってしまう。プロイセンの電撃的勝
7
利はヨーロッパ列強間の均衡を大きく突き崩した。こうなると、もはや大西洋の対岸の紛争にか
かわっているばあいではなくなる。それまでメキシコからの撤退を渋っていたナポレオンが 7
月に実行に移したというのは、予想に反した普墺戦争の決着に動機づけられたとみてよい。
マクシミリアン皇帝は軍事的保護が受けられなくなり、すべてを投げ捨てる気持ちに傾いた。
側近に帝位を退きたいと洩らしたが、皇后シャルロットと保守派がそれを思いとどまらせた。そ
こで、マクシミリアンは自前で強大な軍隊を編成しようとした。メキシコでこれ以上徴兵をおこ
なうことはむずかしいので、ヨーロッパでこれをおこなおうと思いたった。しかし、合衆国の強
硬な反対に遭って断念せざるをえなくなる。シャルロットは窮地の夫君を救いだすため、遥々大
西洋を渡ってナポレオン三世と教皇ピウス九世に会い援助を請うたが、双方から色よい返事はも
らえない。皇后は絶望のあまり発狂する。進退極まったマクシミリアンに残された道は、保守派
に身を委ね勝ち目のない戦いを続けるしかなかった。
メキシコの内戦は攻守立場を換えての戦いとなった。ジリジリ後退を余儀なくされたマクシミ
リアン軍は、各地に散っていた軍隊を一箇所に集結させるため、その場所としてケレタロ市(メ
ヒコの北西方 180 キロメートル)を選んだ(1867 年 1 月)。およそ 9,000 が集結した。ここを
包囲する共和国軍は 20,000 である。それからの戦況はもはや述べるまでもない。1867 年 6 月 19
日、マクシミリアンがケレタロ市外の丘で、2人の将軍とともに悲劇的な最期を遂げた。
「マクシミリアン、銃殺刑になる!」という報道は 7 月初めにパリに届いた。これは万国博覧
会のお祭り騒ぎをいっぺんに消し去り、フランス国内を憂色一色に染めた。ナポレオン三世は
30 日間の喪に服すと発表した。
マクシミリアンの不幸な死はフランス皇帝の名誉と直接かかわっていた。ナポレオン三世の威
信は地に堕ちる。自らの野心のためハプスブルク家の善良な皇子を無謀な計画に引っ張り出し、
事がうまく運ばないとみるや、中途で彼を見捨て自分だけは身を退いてしまう。援助を打ち切ら
れた夫君を助けるため、単身で大陸に渡った妻は目的を果たせず発狂する。待てど暮らせど援軍
来らず、の皇帝は孤軍むなしい戦いをつづけ、ついに異郷の地で処刑される。これは、だれがど
うみても倫理的に悖る行為である。ヨーロッパ中が一篇の悲劇を観ているような感覚におそわれ、
フランス皇帝の仕打ちに激怒した。増大する一方の国内の軋轢は、フランスの好ましくない外交
と相俟って帝政の終焉を予告するかのようであった。皇帝自身、直面する問題の重大性を自覚し
ていた。メキシコ干渉の完全な失敗の直後、内政改革と軍制改革に関する試案が矢継ぎ早に出さ
れた事実は、皇帝の危機意識がいかばかりであったかを物語るものである。
(次章
http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/napoleon3_7.pdf)
(c)Michiaki Matsui
2014
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