日本の古典文学から読む子ども史

卒業研究論文
日本の古典文学から読む子ども史
原
田
知
佳*
(笹川ゼミ)
キーワード:子ども、上代、中古、中世、社会、大人
石川謙によってまとめられた『我国における児童
はじめに
観の発達』は、内容的に現在でも児童史、児童観
研究の基本書となりうるものである。だがその書
「教育」とは誰のために行うべきものか、と問
名にも拘らず、中世以降の通史となっていること
われたとき、私は迷うことなく、
「未来の子ども
に象徴されるように、江戸以前の児童史について
たちのため」と答えるであろう。しかし、ここで
はいまだ十分な研究成果はない。しかし、歴史と
自問する。「子どもたちのためというが、私は子
はもとより、時間の連続性の上に成り立つもので
どものことをどれだけ知っているだろう」と。
ある。その連続性を尊重して、初めて真の姿が理
今回、卒業論文で一つのことを深く調べ、考
解される。そこで、奈良時代から平安時代までの
え、自分なりの答えを導き出せる機会を得たとき
上代と鎌倉時代から江戸時代以前までの中世を中
に、私は子どものことをもっと知りたいと思っ
心に子どもの歴史について考察し、児童文化との
た。大学では教育福祉学部に在籍していることも
関連から子どもの生活を歴史的に捉えなおすこと
あり、子どもの話題を中心とした授業が多かっ
を第一の目的とする。
た。教職の授業では教育の変遷、心理学の授業で
第二の目的は、子どもにとっての幸せな暮らし
は子どもの虐待について、一般教養の美術では聖
や教育とは何か、またそれを阻害するのは何かを
母子画など、さまざまな面からみる子どもを学ぶ
歴史を通して追求することである。これだけ生活
ことができた。だからこそ、将来、国語教育を担
が豊かになり、
「子どもの発見」と呼ばれる近代
う一端として、日本の古典文学の中から子どもの
的な児童観のもとで、子どもたちは保護され慈し
歴史を調べてみたい。
まれているかのようにみえる。だが、社会や家庭
1941 年に桜井庄太郎によって書かれた『日本
の歪みや混乱の犠牲になる子どもたちは、残念な
児童生活史』が、日本の児童史の先駆けであっ
がら後を絶たない。社会の歪みや混乱のしわ寄せ
た。日本の子ども史研究は、それから多くの人々
を受けるのは、社会的に弱い立場にある子どもた
によって進められている。そのため江戸時代以降
ちなのである。子どもにとって理想の暮らしを整
の子どもの生活については、決して十分とはいえ
える要因は数多く存在するが、子どもにとっての
ないまでも、かなりの研究成果によって子どもの
幸福の実現へと少しでも近付けるように、過去の
様子や子ども観がわかってきている。1948 年に
歴史から現在そして未来の子どものあるべき姿を
────────────
*
平成 22 年度卒業生
探してみたい。
― 62 ―
の怒りにふれた子どもであり、育てることはでき
第一章
神仏が授けた子ども−上代・中古−
なかったのである。
『日本書紀』の中にも「其の児をつつみて渚に
大和朝廷による統一国家の成立から、律令制に
2)という記述があ
置きて、即ち海に入りて去ぬ」
よる新しい国家の誕生によって、日本の社会は大
る。このことの意味として、生まれた乳児を何か
きな変動期を迎えることになった。国家という巨
に包んで水に投げ入れ、浮かべば正しい出生で、
大な力の支配のもとに民衆の生活が営まれるとい
沈めば不正な出生である、と審判をする習俗があ
う、かつて経験したことのない時代が始まった。
ったのではないかといわれている。原始社会で
同時に、力を持つ者と持たざる者、富める者と貧
は、病気や不具はすべて神の怒りによる一種の穢
しき者という階層分化もしだいにはっきりしてく
れと考えられ、傷を負ったり病気になったりする
る時期でもある。この章では、そんな奈良時代・
のも、すべて神の怒りにふれた罪の結果であっ
平安時代に生きた子どもの生活をたどってみた
た。神が授ける子どもは、同時に、神が人を断罪
い。
するための存在でもあったのである。
当時の子どもの生活を知る資料として、
『扇面
その一方、子どもには神が憑きやすく、子ども
古写経』、『年中行事絵巻』などの絵巻物に描かれ
は神の憑坐だ、という幼児観も古くからあった。
ている絵画資料と『古事記』や『日本書紀』
、あ
京都の三大祭の一つであり、日本の三大祭の一つ
るいは『万葉集』、『日本霊異記』などの文字によ
である祇園祭に「稚児」として、子どもが参加し
って記録されている文献があるが、本論文は後者
ていることからも、この幼児観が現在に続いてい
の文字による文献のみ活用する。
ることがわかる。
『古事記』清寧天皇の条にこん
よりまし
な話がある。
第一節
山部連小盾が播磨の国の国司に任ぜられたと
上代
さて、この時代は障害を持って生まれてきた子
き、名を志自牟という者の家で祝宴を開いた。酒
どもは、容赦なく殺される時代であった。8 世紀
が入って座は盛り上がり、やがて人々は次々に踊
初めに成立したと考えられている『古事記』の中
り始めた。そのとき竈のそばで二人の子どもが火
に、次のような話が載っている。
焼きの仕事をしていた。人々がその子どもにも踊
イザナギノミコトとイザナミノミコトとの間に
るように勧めると、二人は相手に先に踊るように
生まれた子どもは、三年経っても歩くことができ
と互いに譲り合った。その様子がおかしいと一座
なかった。蛭のような骨なしの子どもであったと
の人々は笑い合うのである。ところが、やがて子
いわれているが、何らかの重い障害を持っていた
どもの一人が舞いながらうたうところを聞くと、
のであろう。結局、この子どもは葦の船に乗せら
二人は履中天皇の子孫であることがわかった。国
れて流されてしまう。
司の山部連小盾は驚きのあまり上座から転がり落
この「蛭子」は女神のイザナミノミコトからイ
ち、人々を部屋から追い出して、二人の皇子を左
ザナギノミコトを誘って、その結果生まれた子ど
右の膝 に 乗 せ て 泣 き 悲 し ん だ、と い う の で あ
もであった。
「女人先に言へるは良からず」1)で、
る3)。
当時は女性の方から男性を誘うのははしたないこ
子どもが神事に奉仕する例は多い。女性神であ
とであり、神の怒りにふれることであった。つま
る竈の神に奉仕する戸座には、古来、男の童子が
り、障害を持って生まれてくるということは、神
選ばれたという。このように、火と子どもの関係
へ
― 63 ―
ざ
は深く、なかでも竈と男児の関係は深かった。
産の末に命を落としたり、なんとか産んでも産後
また、生命の起源である水と関係があるのは、
のひだちが悪く、母親自身が亡くなったりするこ
女の子であると考えられていた。水と女の子の関
とも多かった。しかもそうやって産み落とした我
係については、童女は水を祀る巫女であったとす
が子が、無事に成人を迎える保証は何もなく、む
る見方があり、また伊勢大神に奉仕する大物忌に
しろ育つよりも、亡くなる子どもの方がはるかに
も童女が選ばれ、川姫命の名が与えられているよ
多かったのがこの時代である。
うに、女の子はもともと水に関係が深かった。こ
のことから、日常生活でも水汲みの仕事が女の子
第二節
によって行われるようになった。『日本霊異記』
10 世紀半ば頃に成立したと考えられている日
中古
の上巻第九話に、鷲にさらわれた嬰児が、数年後
本最初の長編小説『宇津保物語』には、出産の様
に父親と再会する話が載っている。
子や成長の節目節目の通過儀礼の存在が書かれて
但馬の国にある山里の家の庭に、女の赤子が這
いる。特に「蔵開の巻」や「国譲の巻」には、出
い回っていると、一羽の鷲が舞い降りてきて女の
産とその後のお祝いの様子が事細かに記されてお
子をさらって飛び立ってしまう。両親は驚いてあ
り、物語の挿話であるとはいえ、当時の習俗がか
とを追うが、たちまち行方がわからなくなってし
なり正確に写し取られているとみてよい。
まった。それから八年後、子どもをさらわれた父
ここでは、11 世紀初めに書かれた『紫式部日
親がちょっとしたついでがあって丹波の国に出か
記』によって、当時の貴族社会の出産の様子とそ
け、ある家に泊めてもらった。その家には召使い
の後の通過儀礼を紹介する。これは、紫式部が一
の女の子がおり、水を汲みに井戸へ行くというの
条天皇の中宮彰子に仕えた足かけ三年間の記録で
で、父親も足を洗おうとついていった。井戸端に
ある。日記といっても当時の日記は、毎日の出来
は水を汲みにきていた村の娘たちがおり、召使い
事を連続して記録するものではない。見聞した行
の女の子のつるべを奪い取ろうとして喧嘩にな
事について実際の様子を正確に記録したものであ
る。そのとき、村の娘たちは、みんなでこの子を
り、史料としての価値が高い。特に一条天皇と中
いじめて「おまえは鷲の食い残し。何でそんなに
宮彰子の間に生まれた敦成親王誕生の様子とその
礼儀知らずのことをするのか」と悪口を言い、押
後のさまざまのお祝いの儀式の記述は、詳細に記
さえつけてぶった。女の子は泣きながら家に帰
されている。日記は、1008(寛弘五)年 7 月、中
り、一部始終を見ていた父親が事情を話すと、家
宮彰子が出産のために帰ってきた土御門邸の様子
の主人は「鷲の食い残し」という悪口の意味を話
から始まり、9 月 11 日の敦成親王誕生と、その
した。あれこれ当時の話を統合すると、召し使わ
後の御湯殿の儀や産養などの諸行事、また 11 月
れていた少女は鷲にさらわれたわが子であること
に行われた五十日の祝い、翌年 5 月の戴 餅の儀
がわかり、八年ぶりに父娘が再会を果たす、とい
にいたるまでの通過儀礼が、紫式部の目を通して
う話である4)。
精写されている。
うぶやしない
い
か
いただきもちい
神の憑坐であると考えられていた子どもが、事
まず、出産をめぐる様子をみてみると、出産が
故が起きやすい火場や水場の仕事につくことは、
近付いた中宮彰子は白装束に着替えて出産をする
厄除けや守護の意味があったのではないだろう
部屋に入る。そこも調度や設備などは白一色で整
か。
えられていた。出産によって命を落とすことが多
出産は女にとって命を懸けた大仕事である。難
かったから、出産と死は常に結び付けられて考え
― 64 ―
られていた。『古事記』には、血の穢れを避ける
式だ。御湯殿の儀は朝夕二回行うことがしきたり
ためであろう、別に産屋を建てて、そこで出産が
であった。日記に「御湯殿は酉の刻とか。火とも
行われていたという記述がある5)。中宮彰子が入
して……」とあることから、朝の儀が午後六時頃
った部屋というのも、このような産屋の中の一室
で夕の儀が夜の十二時であったという。ただし、
であろう。さらに、
「御いただきの御髪下ろした
夜遅い夕の儀は形式的なものであったらしい。通
てまつり、御忌むことうけさせたてまつりたま
常は乳母が抱いて湯を使わせるが、このときは道
ふ」とあるように、剃髪と仏法の受戒を行う。仏
長自身が抱いたと考えられる。道長は孫の誕生が
の加護を受け安産を願うためである。もちろん、
よほどうれしかったのであろう。娘の彰子を天皇
本当に髪を全部剃るのではなく、形式的に剃髪の
の后にし、その娘が皇子を生んで、このときから
作法をするのである。この頃は、人間が死ぬのは
藤原道長の権力者への道が開いていったという史
衰弱した体に、死霊や生霊、物の怪などがとりつ
実を合わせて考えてみると、その喜びがわかる。
うち まき
湯殿始と並行して「散米」や「読書」
、「鳴弦」
いて殺されるのだ、と考えられていた。だから女
性の体に大きな負担をかける出産のときには、物
などの行事も行われた。散米は悪魔よけのために
の怪たちがとりつきやすい機会である。いよいよ
米を撒き散らすことであるが、米には霊力がある
無事に出産というときに、物の怪が苦しがってわ
と信じられていたからであろう。日記に「うちま
めきたてる声が聞こえた、と紫式部は書いている
きをなげののしり」とあるから、大声をあげなが
ことから、本当にそう信じていたのであろう。し
ら撒き散らしたもののようだ。
たがって、出産の際に神仏の力を借りて物の怪た
「読書」は漢籍のめでたい文章を読み上げる儀
ちを追い払うために、加持祈祷や僧侶による読経
式で、
『孝経』や『史記』の一部が読まれた。こ
が行われる。このときも昼夜を通して僧侶が「大
のときは蔵人の弁の広業が、高欄の上に立って
般若経」や「法華経」を読経し続け、また全国か
『史記』の第一巻を読んだ。
「鳴弦」は弓の弦を鳴らし、悪魔を追い払う呪
ら集められた修行僧が連日連夜加持祈祷を行い、
術である。庭上に総勢二十人が十人ずつ二列に並
陰陽師によるお祓いも行われていた。
こうして無事出産を迎えると、その後にはさま
んで弦を鳴らしたというから、あたりの空気を大
きく振るわすものであったであろう。
ざまのお祝いや儀式が控えている。
ほぞ
まず、「臍の緒切り」で、これは新生児のへそ
次は「産養」である。産養の儀は、誕生後の三
の緒を竹刀で切る儀式である。このときは藤原道
日、五日、七日、九日に行われるお祝いである。
長の北の方がつとめたとあるから、産婦の母親の
それぞれの夜に親族や縁者が集まって祝宴を開
役目であったのであろう。
く。その際には出席するものから、産婦や子ども
ちつけ
ついで「乳付」の儀式がある。これは生まれた
に衣服、食べ物、調度品が贈られる。日記に描か
子に初めて乳を飲ませることだが、このときの乳
れている様子では、三日の夜はさまざま贈答品に
付の役は橘の三位、徳子だとある。
あふれ、招待客も多かった。五日の夜は道長主催
お は か し
また、皇子際にだけ「御佩刀」の儀があった。
の産養の儀で、土御門邸の女房や召し使われてい
これは天皇から下賜される守り刀の御剣の伝達で
る身分の低い者たちでも参加できたらしい。七日
ある。勅使として源頼定が来邸した。
の夜は朝廷主催の祝宴であるため、一段と盛大で
ゆどのはじめ
さて次は「湯殿始」である。日記では、「御湯
にぎやかな産養の儀であった。九日の産養の儀
殿」と書いてあるが、新生児に産湯を使わせる儀
は、道長の長男で敦成親王にとっては叔父にあた
― 65 ―
る頼道が取り仕切り、七日までと違ってたいそう
以上、『紫式部日記』からさまざまな通過儀礼
現代的であったというから、趣向を変えて自分な
をみてきたが、この他にも、産後五日あるいは七
りの演出をしたのであろう。この日までの儀式で
日に行う、胞衣を壷や桶に入れて、縁の下や戸口
はすべてにおいて「白」が基調となっていた。白
の敷居の下、あるいは人通りの多い辻などに埋め
装束に屏風も白、贈り物の衣類も白で皿は銀製で
る「胞衣納」があった。胞衣は大勢の人間に踏ま
あった。だが、お七夜が過ぎるとしきたりが変わ
れるほどよい、という信仰があったせいである。
り、几帳なども普通のものが用いられ、女房たち
また、誕生後初めて外出するときを「 行始」と
も濃い紅の打衣を着た。今までの白装束に見慣れ
いい、吉方を選んで額に犬の字を書いて外出した
た目には新鮮に見えると紫式部は書いている。お
といわれる。生後百日目にお祝いの餅をつき、子
七夜までの産養にはある共通した形式があるが、
どもに食べさせる「百日の祝い」や生後二十ヶ月
最終の九日では多少破格のやり方が許されていた
くらいの頃に魚などの動物性の食品を食べさせる
えなおさめ
ゆきはじめ
ももか
「魚味始(まなはじめ)
・真魚始」、三歳から七歳
のかもしれない。
ちゃっこ
さて、誕生から三十五日経っ た 10 月 17 日 に
「剃髪の祝い」、または「産剃りの祝い」があっ
までの間に行われる初めて袴着ける「着袴の儀」
がある6)。
た。誕生後初めて新生児の産毛を剃る儀式であ
以上、出産の様子と通過儀礼の数々をみてきた
る。本当はもっと早い時期に行われるものなのか
が、いつ頃からどういう理由でこのようなことが
もしれないが、父の一条天皇とこの前日に行幸が
行われるようになったのか、ということについて
あり、その日に初対面することになっていたの
はっきりしたことはわからない。幼児の死亡率が
で、生まれたままの髪の毛がある方がいいだろ
高かったので、さまざまな儀式を行ってこの世に
う、という配慮によって先延ばしにされていた。
つなぎとめようとした、という説。成長の節目、
ついで 11 月 1 日には「五十日の祝い」が執り
節目に祝宴を開いて大勢の人を招待し、子育てに
行われた。生まれて五十日目の赤子の口に、父や
多くの人の手を借りようとした、という説。通過
外祖父などが餅をふくませて祝う儀式である。こ
儀礼の存在については多様な解釈が必要であろ
のときは、道長が手ずから若宮に「五十日の祝
う。
いずれにしても子どもの誕生を喜び、親戚・縁
餅」を差し上げたと書いてある。
そして、年の始めに行うお祝いに「戴餅の儀
式」がある。これは祝いの餅を子どもの頭の上に
者の手を借りて子どもを大事に育てようとする思
いがあったからだと思われる。
三回触れさせ、前途の無事息災を願うものであ
平安貴族の儀礼はその後、鎌倉時代の武士階級
る。寛弘六年の正月は敦成親王にとっては最初の
に受け継がれ、やがて庶民の世界にも広がった。
かんにち
正月であったが、陰陽道で諸事に凶とする坎日に
産湯や初宮参り、百日の食い初めなど庶民にもお
当たっていたので、翌寛弘七年の正月に行われ
なじみの子育て習俗は、この平安時代に始まった
た。儀式は清涼殿で一日から三日まで毎日行われ
ものであろう。
た。藤原頼道が若宮を抱き、道長が祝いの餅を一
条天皇に取り次いで、天皇が手ずから餅を若宮の
第三節
頭に触れさせた。若宮を抱いた頼道が、天皇の御
では、庶民の子どもたちはどうであったのであ
前に参上したり退下したりする作法はすばらしい
見ものだったと紫式部は書いてある。
上代・中古における庶民の子どもたち
ろう。
『古事記』や『日本書紀』に、出産や育児に関
― 66 ―
する記述がみられる。だが、庶民階級の出産や育
窮問答歌」の中に、生活が苦しくても、子どもへ
児のようすは当然残っていない。しかし、皇室関
の深い愛情がうたわれたものがある。これが一般
係の子育てについては、
『日本書紀』の中に次の
的な考え方であったとすると、当時の子どもは親
ちおも
ような記述がみえる。皇室の子どもには、乳母と
の愛情だけはいっぱい受けて育ったものであると
呼ばれる乳母が十三歳になるまで官費によってつ
想像できる。
けられた。子育ては母親よりも乳母にまかされて
子どもという存在に注目し、大切に育てるの
ゆおも
いた。その他に、乳児に湯を飲ませる役の湯母
は、決して「子どもの発見」と呼ばれる近代的児
や、乾飯を噛んでやわらかくして食べさせる役の
童観の専有物ではない。この時代から、親は自分
いいかみ
ゆあびと
飯噛、あるいは湯を用意し、入浴の準備をする湯坐
の子どもを可愛がり、大切に養育していたことが
などの存在があった7)。これらは皇室の恵まれた
よくわかる。
皇子たちの子育ての役割分担であるが、庶民階級
しかし、庶民にとって「貧困」という問題は抗
でも飯噛などは母親によって行われていたであろ
えないものであった。親の貧しさによる生活苦
う。特別な離乳食がなかった当時では、母親がよ
は、必然的に子どもの生きることへの受難につな
く噛んで与えることがもっとも手軽で確実な方法
がったのである。
であったと思われる。同様に湯を使わせたり、飲
国家体制が確立され、さまざまな法令が整備さ
ませたりすることも当然母親がやっていたのであ
れてくると、子どもの社会的地位もはっきりして
ろう。
くる。たとえば、年齢によって人間の一生を区切
『日本霊異記』の中に、子どもの母親として、
る制度が定められ、子ども時代が確定する。有名
あるいは主婦として理想の女性が描かれている話
な口分田の班給はこれによって定められた。結婚
がある。食事の際には、子どもたちをきちんと座
については、男は十五歳、女は十三歳になれば認
らせ、微笑みを絶やさず、和やかに語り合いなが
めている。また、罪を犯した場合の責任能力につ
ら、団欒のうちに食事を終えることが常であっ
いても、七歳以下は「行を加えず」と罪に問わ
た3)。この話では、父親がいないという事情もあ
ず、それ以上の年齢に限定している。
ったが、子どもの教育は母親が日々の団欒の中で
行うものであったと考えられる。
この地位の法的・社会的整備は、一見子どもを
守るための体制であるかのように見えるが、実際
『古事記』の中に「凡そ子の名は必ず母の名づ
はその逆であり、子に対する親の権利のみが一方
くるを、何とかこの子の御名をば称さむ」1)とあ
的に確立され、子は親の従属物として位置づけら
って、子どもの名前は母親が付けていたことがわ
れていくのである。
かる。
このような時代背景において親に捨てられる子
いずれにしても、子どもは父親よりも母親との
どもも多く、孝謙天皇の側近で和気広虫が、捨て
結びつきが強かったことがわかる。これは、貴族
子を八十三人も拾って養育していた記録が残って
や庶民関係なく、そうであったであろう。
いる。また、光明皇后が設置したといわれている
また『万葉集』の中にも、子どもの姿や生活ぶ
施薬院や付属施設であった悲田院は、本来病人に
りを直接書いたものはない。親が子どもに対する
薬を施すところであったが、捨て子が多く、やが
愛情をうたったものとして山上憶良の歌が有名で
てその子どもたちの養育を担うことになった。こ
あるが、これも子どもの生活ぶりがわかるもので
れらの施設は平安時代の末期にはなくなり、捨て
はない。わずかに庶民の暮らしぶりがわかる「貧
子は 9 世紀半ばを過ぎる頃からさらに増え、さす
― 67 ―
がに政府からも捨て子禁止令が出た。このとき
また、悲しくてなかなか実行に移せない親も同様
「人間として情を忘れたもの」と子を捨てた親を
である。いくら悲しくても生きるためには結局子
断罪しているが、これは支配層特有の偏ったもの
どもを捨てるしかない。この話の場合は、幸いに
の見方であろう。生活の貧しさ、母親一人でする
もこの老女が一人の子どもを引き取るが、非常に
育児の難しさ、その他さまざまな状況の中で子ど
稀な出来事であったであろう。
もを捨てているのである。人通りの多い道端や貴
族層の大きな門前などに子どもを捨てたという事
また、その次の四十四話には、捨て子を犬が育
てる話が載っている。
実をみても、捨てる親の心情がみてとれる。通り
ある男が門の下に捨てられている男の子を見つ
すがりの人が拾ってくれるかもしれない、裕福な
けた。かわいそうだとは思ったが、急ぎの用事が
家の人だから育ててくれるかもしれない、という
あったので、そのまま見捨てて通り過ぎた。翌
一縷の望みをかけてのことであろう。
朝、仕事を終えて門の前を通りかかると、昨日の
『今昔物語集』には捨てられる子どもたちの具
ままで衰弱している様子もなく生きていた。男
体的な様子が書かれている。第十九巻四十三話
は、「これはきっと犬に養われているのかもしれ
に、次のような話が載っている。
ない。でも、今夜あたり多分犬に食い殺されるだ
一人の老女が、ある日講を聞きに行っての帰り
ろうな」と思いながら家に帰った。気になったの
道、激しい夕立にあって、ある家の門前に雨宿り
で次の日の朝見に行くと赤ん坊は生きていた。不
をする。門内には荒れ果てたみすぼらしい小屋が
思議なことがあるものだと思った男は、その夜隠
あり、そこでその家の女房が一人で泣いていた。
れて見ていた。やがてたくさんの野犬が現れた
わけを聞いてみると、
「去年と今年、続いて生ま
が、赤ん坊のそばには行かなかった。夜も更けた
れた二人の年子がいるのですが、貧しくて乳母を
頃、どこからともなく大きな白い犬がやってき
雇うこともできません。ご主人様が田舎に行かれ
て、その姿を見た他の犬たちは皆逃げ去っていっ
ることになり、私も一緒にお供してお仕えしよう
た。白い犬は赤ん坊に近付いていったので、今夜
とも思うのですが、赤ん坊が二人もいてはどうし
とうとうこの赤ん坊も食べられてしまうのか、と
ようもありません。それで一人を捨てていこうと
思って見ていると赤ん坊に乳を吸わせ始めたので
思うのですが、悲しくてどうしようもないので
ある。母親の乳を飲むようによく飲んでいる赤ん
す」というのである。この話を聞いた老女は、女
坊の様子を見て、
「こうやって犬が乳を飲ませて
房から子どもを一人引き取る。帰宅し、法華経を
いたので、赤ん坊は生きていたのだ」と納得して
念じながら夜もすがら赤ん坊に乳を吸わせている
帰宅した。次の日の夜も同じように犬が赤ん坊に
と、不思議なことに子どもを生み終わって二十五
乳を飲ませていた。しかし、その次の夜には赤ん
年も経つが、盛りのときのように乳が張ってオッ
坊の姿はなく、犬も現れなかった。きっと昨夜に
パイが出るのである。これは皆、厚い信仰のおか
人の気配を感じて、赤ん坊をどこかに連れて行っ
げだと、人々は語り継いできた、という話であ
たのであろう。それきり、その赤ん坊と白い犬の
る5)。
行方はわからない。この犬はおそらく只者ではな
ご主人に仕えて仕事を続けるためには、どうし
い。犬が逃げ去ったことから鬼神か、あるいは仏
ても一人捨てていかなければならない。このよう
菩薩が姿を変えて赤ん坊を救うためにおいでにな
にせっぱつまって子どもを捨てなければならなく
ったのか、いろいろ想像してみるが今ひとつ納得
なる親はこの女房に限ったことではない。そして
できない、と男は語り継いでいるそうである、と
― 68 ―
結ばれている8)。
た、という話である9)。
この話からわかることは、捨て子を見かけるこ
病気になった子どもは、引き取り手がなかった
とがそう珍しいことではなかったらしいことであ
から孤児であったのであろう。病気が重くて身動
る。男は捨てられている男の子を見ても、そのま
きできない子どもを遠いところへ置き去りにする
ま仕事に行ってしまう。日常よく目にすることで
のだから、残酷な話である。女の子も、追い出さ
あったからであろう。また、捨てられた子どもが
ないでほしい、と頼むのではなく、犬に知られな
よく犬に食われたらしいこともわかる。自ら動け
いところに連れて行ってほしい、と哀願している
ない乳児は当然であるが、飢えや病気などで衰弱
のだから、最初から追い出されることはあきらめ
して倒れてしまえば、歩き回れる年齢の子どもで
ているのである。人に召し使われてやっとその
も同じ道をたどることになったであろう。
日、その日を生きている孤児にとっては、仕事が
だが、親に捨てられた子どもが運良く拾われて
できなくなれば追い出されて当たり前の日常であ
成長しても、孤児となった子どもには過酷な運命
ったのであろう。病気、特に感染病は、当時の医
が待っていた。同じく『今昔物語集』第二十六巻
学ではどうしようもなかった。抵抗力のない老人
二十話にはそんな話が載っている。
や子どもはまっさきに犠牲になったことは想像に
ある家に十二、三歳くらいの女の子が召使いと
難くない。
して仕えていた。隣の家に白い犬が飼われていた
親にとって子どもは愛しく、慈しむべき存在で
が、どういうわけかこの女の子を見ると吠えかか
あった。だが、社会的仕組みのうえからも自然的
り目の敵にしている。一方、女の子もこの犬を見
条件からも、子どもにとっては生き延びることに
ると敵意をむき出しにして打とうとした。この様
過酷な時代であった。親は子どもに降りかかる不
子を見て、人々は怪しく思っていたものだが、そ
幸や不遇を神仏の怒りや采配として受け止めるこ
のうち女の子は病気になり、重体になってしまっ
とで、どうにもならない現実を納得しようとして
た。この家の主人は、そんな女の子を家の外に追
いたのかもしれない。
い出そうとした。女の子が主人に頼んで言うに
は、「私が人のいないところに 出 さ れ て し ま う
第二章
乱世で生きる子ども−中世−
と、必ず隣の犬に食われてしまいます。ふだん私
が元気なときでも襲ってくるのですから、まして
1192(建久三)年、源頼朝が鎌倉幕府を開いて
病気になって動けない今、人のいないところに出
から、1603(慶長八)年、徳川家康が江戸幕府を
されれば、必ず襲われて食い殺されてしまいま
開くまでの約四百年間、南北朝、室町、戦国と続
す。だから私を追い出すのなら、犬の知らない遠
いたこの時代は、子どもの生活という視点からみ
いところまで連れて行ってください」と主人に哀
ても「乱世」という言葉がふさわしい時代であっ
願した。それを聞いて、主人も確かにそうだと思
た。子どもは、どの身分の誰の子として生まれた
い、食べ物などを用意して、遠いところまで連れ
かが、その子の幼児期からの生活を決め、その
て行って置いてきた。毎日必ず人に様子を見に来
日々の生活そのものが、親の身分やそのときの立
させるから、と約束した。その日、犬は気がつか
場によって異なっていた。天皇家や将軍家では後
ないようだったが、次の日犬の姿が見えない。お
継者が必要となれば、実権を握る周りの者によっ
かしいと思って女の子のところに行ってみると、
て、その血筋の子どもを例え幼児であっても、そ
犬と女の子が互いに相手を食い殺して息絶えてい
の地位につけて権力の維持を図ろうとした。また
― 69 ―
一般の公家や武家でも、親の死亡などにより子ど
る。
も時代に家を継ぎ、位を授けられることは多かっ
このような農業の発展があるとはいえ、武士の
た。そして農民や職人などの子どもは、幼少期か
内乱は平民の生活を脅かしていた。平民たちは武
ら親の職業を見習い手伝いながら一人前になって
士に対抗し、団結して惣や惣村を組織し、地侍を
いった。そこで本章では、この時代を支えた農民
先頭に名主・百姓が兵力となって土一揆が頻発し
(平民)とこの時代の主役であり続けた武士につ
た。こうした中から平民の兵卒の足軽が出現す
いてみてみよう。
る。室町時代までは、武士とはいえ将軍は古代国
家の天皇家の系統に属する者が立てられてきた
第一節
農民の子ども
が、このような時代背景の中で、古代国家の勢力
まずは、農民の子どもに注目する。1223(貞応
そのものが衰退し、各地の戦国武将の力が強ま
二)年に書かれた『海道記』には、尾張の国(愛
り、子ども時代からの自己の才覚と努力とで武士
知県)を旅している作者が、田畑で働く人々を記
社会での地位を獲得する者が出てくる。下克上の
し、子どもについても次のように書いている。
時代である戦国時代には、平民出身の豊臣秀吉が
ほとんどおかっぱ頭の幼い子どもでさえも、手
天下をとるのである。秀吉の子ども時代は乱世の
習いもせず、ただ足を泥んこにしようという思い
子どもの成功物語として典型的なものがある。
があるだけである。幼いときから職業を見習う様
『日本の歴史』12 からその一端をみてみる。
子はあまりにもかわいそうな気がする。実に、父
秀吉は 1537 年 2 月 6 日、小猿と名付けられ百
兄の教えを謹んで聞くことはなくても、孝の心は
姓の両親のもとに生まれた。父はかつて織田信秀
自然に出てくるものなのであろうか10)。
の軍の足軽であったが、戦傷で片足が不自由にな
これを書いた作者は古来、鴨長明とも源光行と
り、以後、百姓をしていた。だが、秀吉が七歳の
もいわれていたが、現在はそのどちらもあてはま
ときにやはり戦死している。母はその後再婚し、
らないと考えられている。いずれにせよ子ども時
このときは病気で辞めていたが、この義父もまた
代には、学問や修行に専念できた身分の人であろ
織田家で雑役を勤めていた男であった。秀吉は八
う。幼い子どもが手習いもせず、すでに親の百姓
歳のときに光明寺という寺の門弟として預けられ
仕事を見習って真似ていることを不憫に感じたの
るが、寺の中でおとなしくできない性格のため追
であろう。とはいえ、この時代の農村は、それ以
い出される。家でも義父と不仲であったため、実
前に比べて農業技術や生産力の面で発展し、それ
父の残した永楽銭一貫文を持って家を出る。秀吉
ぞれに適した産業作物を栽培するようになった。
は銭が持ち運びに便利で、町や海道沿いの村では
桑、麻、和紙の原料となす楮、漆、染料となる茜
何でも買えるが、使い始めればすぐになくなって
や藍、胡麻、菜種、茶などを栽培し、これらを原
しまうこと、辺鄙な村ではまだまだ物々交換が盛
料とした手工業を農家で行うものが多くなった。
んであることも知っていたので、母が大針をいつ
こうした発展の裏には、鎌倉幕府が奨励した二毛
も欲しがっていたことを思い出し、この銭で針を
作があり、これによって農民の生活が豊かになっ
たくさん買って、食料や草鞋などと交換し、行商
たという事情があった。「働く」ということは、
しながら奉公先を探していた。歩いているときに
より豊かに心の余裕を持って生きることにつなが
運良く、今川氏の家臣に猿のような風貌に目をと
っていた。子どもはこれを感じ取り、楽しんで親
められ、奉公するか声をかけられる。秀吉は喜ん
の仕事の真似をしていたのではないかと想像でき
で、草履取りから始まり、小姓、御納戸の出納と
― 70 ―
急速に出世したが、それが妬みを買い、盗みの嫌
二夜、三夜、五夜、七夜、九夜の儀での贈 り 物
疑をかけられる。秀吉は結局三年で身を引いた。
は、御家人から護刀や馬二百頭以上など、実に武
このとき秀吉は十八歳、故郷に帰る途中、亡父が
士の子どもへの贈り物にふさわしいものが献上さ
織田家の使用人のことを話していたことを思い出
れた。また、千葉介常胤が執り行った七夜の儀
し、その男の口添えで信長の草履取りとして召抱
は、次のように記されている。
えられた。その後は信長の気に入る働きをしたの
常胤は子息六人を伴って詰所に着いた。父子は
だろう。二十五歳のときに武士の娘と結婚し、入
白い水干袴を着て、胤正の母が頼朝夫妻の膳の給
り婿と し て 正 式 に 武士 の 仲 間 入り し た の で あ
仕をした。また、贈り物をした。嫡男胤正・次男
る11)。
師常が甲をかつぎ、三男胤盛・四男胤信が鞍を置
この話からわかることは、戦乱の中で平民とは
いた馬を引いた。五男胤道が弓箭を持ち、六男が
いえ戦に出て戦傷を負うことがあり、平民の子も
剣を持って、各々庭に整列した。兄弟は皆、容姿
寺に預けられることがあったこと。農村でも生活
が優れていた壮士であった。頼朝はことにこれに
水準が上がり貨幣経済が発達してきたこと。数え
感心した。人々もまた壮観であると言った。
年十五歳の少年が自分の力で奉公先を見つけ、そ
頼家が七歳のときである。1188(文治四)年 7
の中で自分の努力と才覚とで出世していくことが
月 4 日に、まず家臣の娘を頼家の世話係として鎌
できたこと。この年齢は現在の中学生だが、古代
倉の館に来させている。これによって、乳母とそ
国家の時代から江戸時代まで、公家や武士の子は
の家族による世話という乳幼児期の扱いを終わら
だいたい十二歳から十六歳ぐらいで元服し一人前
せて、武士の子として館の中で教育していく第一
の扱いを受けていた。
歩となる。続く 7 月 10 日には正式に七歳の祝い
が行われており、
「若公(万寿公七歳)に初めて
おんよろい
第二節
御甲をお着せ申し上げる。南面でその儀式があ
武士の子ども
った」とあり、頼朝が登場、家臣が御簾を上げ、
(一)『吾妻鏡』に見える子ども
それでは、生まれたときから武士の子どもはど
次に頼家が登場、乳母の夫と兄に伴われている。
のような子ども時代を過ごしたのであろう。乱世
しばらくして他の家臣が甲と直垂を持参して頼家
の時代の初期、12 世紀末から 13 世紀半ば頃に生
の衣類を着替えさせ、腰を結び、また千葉介常胤
まれた名流武士の子どもの、出生と生活と教育の
が甲の納め櫃を持参し、その息子がこれをかつい
様子を伝える資料として『吾妻鏡』がある。これ
で前進する。常胤が頼家を、甲を南に向けて立た
は鎌倉幕府の公式記録である。『吾妻鏡』は源頼
せる。この間に他の家臣が剣、弓、矢、鞍を置い
朝三十四歳のときから始まる。だが、武士の子ど
た馬を献上する。家臣らが頼家を助けて馬に乗
もが生まれ育つ記録が書かれているのは、二代目
せ、三度南庭をまわらせて抱き下ろす。それから
将軍の頼家が登場するところからである。まずこ
甲などを脱がせ、武具や馬を納め、その後、頼朝
れによって、武士の子の出生と教育をみてみる。
と家臣とで頼家の吉事を祝って盃をかわした、と
前章にもある出産時の加持祈祷などの厄払いや出
いう。七歳の祝いで武具を着け、馬に乗るという
産後の祝いの儀は、武士の子どもも同様に行われ
儀式は、実に武士の子らしい祝い方である。だ
る。だが、ここでは「武士の子ども」らしい通過
が、他の文献に類似はなく、
『吾妻鏡』の中に出
儀礼を取り上げてみよう。
てくるのみで、他の武士の子どももこのような祝
1182(養和二)年 8 月 12 日に頼家が誕生する。
い方が一般的であったかはわからない。
― 71 ―
それにしても、このような祝いの場に母親や乳
福され、おそらく恵まれた子ども時代を過ごした
母など、女親が登場しないのは前章との大きな違
であろう。だが、名流武士の子として生まれなが
いであろう。この時代、男の子であるということ
ら、親の跡継ぎとしての道を得られないときや敗
を差し引いても、子どもとの関係は、父親や乳母
者として世をしのぶ身になる子どもも中にはい
の夫など男親との方が強かったと考えられる。
た。その身の処し方として一般的であったのが、
翌 1189(文 治 五)年 正 月 9 日、頼 朝 方 の「弓
寺入りや出家である。
『吾妻鏡』には出家させら
始めの儀」に続いて頼家の御所でも「弓始めの
れた頼家の息子善哉についての記録もある。1205
儀」を行っている。また、19 日には頼家方で宮
(元久二)年、六歳で政子の計らいによって鶴岡
中の大饗宴をまねた宴会を開いている。八歳の少
別当阿闍梨尊暁の門弟として寺入りしている。侍
年とはいえ、一人の武将として行事を主催する立
五人を従えてであるが、武将としての生き方をは
場であったことがわかる。
ずされ、僧侶への道に入れられたのである。善哉
またこの翌年、九歳の 4 月 7 日には、将軍家は
には翌年六月、七歳で「着袴の儀」が行われ、さ
弓の達人に書状を送り、頼家の弓の師として呼び
らに十二歳で出家させられ、初めて仏門に入る者
寄せている。「若君が次第に成人していく時期な
が戒律を受ける受戒のために上洛させられてい
ので弓馬の芸に慣れさせる以外、他事があるはず
る13)。『義経記』にも平清盛によって敗れた源義
がない」というわけである。続く 11 日には、頼
朝の息子、頼朝や他の子どもたちが出家させられ
家が初めて小笠懸を射る儀式を行っている。笠懸
る場面が載っている。義経が頼朝の挙兵に合わせ
とは、もとは笠を的として馬上から弓を射る競技
て武士として戦いに臨むが、最後に頼朝に殺され
で、『吾妻鏡』では、頻繁に行われている。ここ
るのは有名な話である。
では、弓の師が弓と引目を献上し、他の家臣たち
むかばき
も的・馬・鞍・行縢・沓・水 干 袴 を 贈 っ た と あ
(二)軍記物語に見える子ども
る。その三年後の 1193(建久三)年 5 月に頼朝
『吾妻鏡』はすでに述べたように、時間経過に
は、大々的な夏狩を行う。そこで十二歳の頼家は
従った記録的な書物である。その一方で、この時
初めて鹿を射る。もちろん頼家に射させる計画
代の人々の考え方を伝えるものとして、武士の戦
で、頼朝の家臣たちに追い詰められた鹿ではあっ
いを通し、感情豊かに語られてきた書物がある。
たが、これは喜ぶべき大事件であり、頼朝はその
それが『保元物語』
『平治物語』
『平家物語』
『太
喜びのあまり家臣を馬で走らせ、政子に報告させ
平記』『義経記』『曾我物語』などである。これら
ている。だが、政子は特に感じる様子もなく、
の軍記物語は、中世に作られたが、鎌倉時代以
「武将の嫡男として、原野の鹿 や 鳥 を 獲 た こ と
後、江戸幕府滅亡までの七百年あまりの間、武士
は、必ずしもめったにない大事とするようなこと
の生き方・考え方、天皇と武士との関係、武士の
ではない。突然の特使はいささか迷惑なことだ」
子のあるべき姿や敗れた武士の子の末路などを伝
と言ったという12)。頼朝の率直な喜び方と政子の
えていった。登場人物の言動などは、歴史的事実
言葉、どちらも武士の子として最も重要な能力が
ではないかもしれない。だが、そこに書かれてい
弓矢の力量であることを示していることにはかわ
る「武士としての理念」は、むしろ明確に書き出
りない。
されている。
さて、頼家はその後、政子によって将軍職を降
まずこれらの物語の中から、戦乱の世の始まり
ろされるが、それまでの頼家は嫡男として皆に祝
となる保元の乱を題材にした『保元物語』をみて
― 72 ―
みよう。事件のあらすじは、鳥羽院の死から崇徳
士の子は、親の家臣であるおもり役の武士によっ
院と後白河天皇の対立に、公家や武士を巻き込ん
て、いつも世話されていたことがわかる。
だ戦いであった。これは源氏と平治の戦い、武士
保元の乱の三年後に起きた平治の乱では、今度
の世、戦国時代へと展開していく始まりであっ
は源義朝が敗れ平清盛が勝利する。この顛末を書
た。この戦いは院方が敗れ、そちら側の味方につ
いた『平治物語』には、義朝が長男悪源太義平、
いた平忠正や源為義らが斬られる。ここでは天皇
次男朝長、三男頼朝などで都落ちをする場面があ
方が源義朝に、為義の四人の息子も殺すように命
る。その中には三人の息子についての記述があ
じ、連れ出して殺害しようとする場面に注目す
る。
る。
十三歳の頼朝は、疲れから馬上で眠ってしまっ
三人の弟たちはこれは何かの間違いではないか
て遅れ、ある宿場で雑人たちに取り囲まれたが、
と取り乱すが、兄の乙若は弟たちをなだめ、
「こ
逃れて義朝に追いつく。遅れた理由を聞かれた頼
の世に生きていらっしゃる父上は、お討たれにな
朝が、馬眠りをし、宿場で取り囲まれて、もう少
った。頼むべき兄たちは皆斬られなさった。助け
しで抱き下ろそうとした者をこの名刀で二つに切
てくださるはずの義朝は敵だ。所領の一ヶ所も持
り、雑人たちを蹴散らして参りました、と言う。
たないで、乞食頭陀の行をして、あれこそ為義の
義朝はたいそう可愛く思って、
「どんな者も、今
子どもの成れの果てよと、人に指差されてなんと
のようなときに、そのように振る舞うことはでき
しよう。それよりも父を恋しく思うのならば、泣
ないものだ」と褒めたという。これに対して、悪
き止み西に向かって手を合わせ、父入道殿、我ら
源太義平は、
「ときによるでしょう。十二、三歳
四人同じところにお迎えください、なみあみだぶ
で馬眠りとは、はなはだみっともないことだ。義
つと申せば、父のいらっしゃるところにすぐに行
平は十五のときに、大倉(埼玉県)の戦で大将と
くことになるぞ」とさとし、自分が先に斬られて
して戦い、伯父を討ったものであるのに」と言う
は弟たちが動揺するであろうと、自分は最後に斬
が、義朝はさらに「それでも不足だと言おうか。
られる。子どもたちには、一人ずつおもり役がつ
頼朝は十三になるのだぞ。十四、五にもなったと
いていたが、子どもたちが殺された後、天王のお
きには、お前には決して劣らないだろう。あっぱ
もり役は首のない遺体を懐に入れ、肌に触れ合わ
れ末代の大将よ」と言ったという15)。
せながら、「七年の間、少しも離れることはあり
鎌倉幕府成立後に付け加えられた部分が多いの
ませんでしたのに、今後、誰を膝に乗せ、誰の首
で、頼朝に対しての評価は高く書かれている。だ
を抱いて育てるのだろう。いつか領地を持ってお
がいずれにせよ、武士の子としての理想は、敵に
前に預けようとおっしゃったありさまも、いつ忘
囲まれても怯まず、斬りつけ逃れてくるような腕
れることができるだろう」と言って切腹し、他の
力と気概を持つことであり、また十五歳になれば
三人のおもり役も自害してしまう14)。
一人前の大将として敵を打ち倒すのは当然である
物語ではあるが、殺される場面において武士の
と考えられていたことは確かである。
子はどのように振る舞うべきかという一つの典型
一方、これとは対照的な人物が十六歳の次男朝
的な姿が示され、また名流の武士の子としての自
長である。朝長は義朝の命令で信濃路へと向かっ
覚が、所領を持ち、それを守ることであって、修
たが、すでに傷を負っており、それがひどく痛む
行僧となって生き延びることは不名誉なことであ
ので我慢できずに戻ってきてしまう。これに対し
る、という意識が示されている。また、名流の武
て義朝は、「頼朝なら幼くてもこうではないであ
― 73 ―
ろう。お前を助けおいたら、敵に捕らえられ、不
弟から母にあてた手紙に、幼いときから父の仇を
名誉な評判を流すことになるだろう。義朝の手で
討とうとしてきたことがしたためられており、頼
殺した方がよいと思うがどうだ」と聞き、結局、
朝は感涙してこれを読み、永く文庫に納めたとい
自らの手にかけて殺す。朝長は宮中の交際の中
う17)。
で、才気も人柄も優しく育った人物として書かれ
武士の子にとって父の恥辱を雪ぎ、父の仇を討
ているが、武士の子としては失格となったのであ
つのは当然のこと、それをしてこそ勇者であっ
る16)。
た。このような武力の争いでは、どちらの言い分
最後に、曾我兄弟の仇討ちという題材を扱った
が正しいか、どちらの行動が戦いのきっかけにな
『曾我物語』をみてみる。これは子どもが主役の
ったかなどは問題ではなかった。武士として強い
物語であるだけに、子どもたちに与えた影響は当
意志を持つということは、同時に恨みも恩も忘れ
初から大きかったと考えられる。江戸時代はもち
ないということである。その点において、この曾
ろん、明治以後も第二次世界大戦が終わるまで、
我兄弟はすばらしい武士であり、頼朝をも感動さ
子ども向きの絵本の一冊として読み継がれてい
せたのであろう。
た。また、これまでは大人から見た子どもの様子
これらのことから、名流武士の子どもの教育で
や言動が書かれた書物は多くあったが、子ども自
重要視していたのは、弓矢や身の処し方だけでは
身が考え、行動を起こす「主役」としての子ども
ない。むしろ、その根幹となっているのは、
「武
が書かれている書物はこれが最初と考えられ、子
士としての美学」であると考えられる。乱世の時
ども史としても貴重な書物である。ここでは、こ
代に起きた事件を題材にしたこれらの物語は、こ
のあらすじを、題材となった事件を記録した『吾
の後 20 世紀の前半まで、これらの物語に書かれ
妻鏡』から記す。
た武士の子の姿を、日本の少年のあるべき姿とし
この事件は 1193(建久四)年 5 月 28 日に、富
士野の旅館で起こる。曾我兄弟は頼朝の家臣であ
て、子どもの心の中に浸透させていったと考えら
れよう。
る工藤祐経を殺そうと付け狙っていたが、結局こ
の日、旅館に夜討ちをかけ、工藤を殺す。他の家
(三)外国人が見た中世日本の子ども
臣たちとも斬り合い、兄十郎祐成は死ぬが弟五郎
ところで、日本に初めてキリスト教が伝えられ
時政は捕らえられ、夜討ちの理由を尋ねられる
たのは、この乱世の時代であった。ポルトガル人
が、将軍に直接申し上げたいという。頼朝がこれ
宣教師やイスパニア人商人が来日し、日本の様子
を聞き入れ話を聞くと、五郎時政は、祐成九歳、
をヨーロッパに書き送り、学校を開いて少年たち
時政五歳のとき以来、戦いに敗れた父の恥辱を片
を教育し、そして、日本人の少年たちをヨーロッ
時も忘れることがなく、ついに仇討ちを果たした
パに連れて行って、ローマ教皇やヨーロッパの貴
のだと語る。頼朝は五郎が非常に勇者であるから
族たちに謁見させた。その結果、四百年前のヨー
助けたいと思うが、殺された工藤の息子が泣いて
ロッパで日本の少年がどのように扱われ、どのよ
訴えたため、五郎をこの息子に渡し、二十歳の五
うな印象を与えたかが、ポルトガルやイタリアな
郎は首をはねられて死ぬ。この兄弟の父は、兄弟
どに文書として残されることになった。外国から
が五歳と三歳のときに、伊豆の奥の狩場で工藤の
みる日本の子どもたちの様子を知る貴重な資料で
矢に当たって命を落としたため、兄弟は父の仇を
ある。とはいえ、宣教師たちの活動した期間は短
討つために機会を狙っていたのであった。また兄
かった。フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸
― 74 ―
した 1549(天文十八)年から豊臣秀吉がキリシ
である。宣教師たちの目に映った彼ら少年たちの
タン宣教の国外追放を命じた 1587(天正 十 五)
優等生ぶりは、次のように記されている。
年までの約四十年間である。この期間の九州と関
彼らは、温良、老熟、沈着、戯れること稀、浮
西の一部の子どもに過ぎないが、ここではそれら
簿の言をせず、粗野傲慢なところがなく、慇懃で
の記録の中から子どもの様子をみてみよう。
作り飾らず温和である。毎日、起床すると規定の
フロイスが書いた『日欧文化比較』の中に、日
時間まで黙想を続け、夜、床につく前に良心の反
本とヨーロッパの子どもの服装や髪型などの外見
省を行う。また一週に一回、航海中を除き、日曜
的特長の比較が記されている。だが、ここで注目
日に聖餐を受けたが、その準備として祈祷を重
するのは子どもたちの印象、内面的特長の記録で
ね、一同で励まして行っていた。一日の他の時間
ある。
は、帰途十ヶ月間、ラテン語、イスパニア語、ポ
○ヨーロッパの子どもは青年になってもなお使
ルトガル語を学び、ヨーロッパの文字を見事に書
者となることはできない。日本の子どもは十歳
くことを習得。音楽を学び(クラヴィチェンバロ
でも、それをはたす判断と思慮において、五十
の演奏が上達)、帰途にはさらに高い学問の初歩
歳にも見られる。
を修めた。ヨーロッパに到着にしてから出発ま
○われわれの子どもはその立居振舞に落ち着き
で、常に珍味を供えた食卓についたが、優雅な慣
がなく優雅を重んじない。日本の子どもはその
習と食を節する徳(食物を食べつくさない習慣と
点非常に完全で、全く賞賛に値する。
食欲に溺れることを卑しみ己を抑制することを尊
○われわれの子どもは大抵公開の演劇や演技の
ぶ)によって、夕食もほとんど食べないというほ
中でははにかむ。日本の子どもは恥ずかしがら
どであった。金曜日には必ず断食を行い、饗宴で
ず、のびのびしていて、愛嬌がある。そして演
もぶどう酒は飲まず、熱い湯を飲むのみ。諸聖地
ずるところは実に堂々としている。18)
を訪れ、諸寺院の宝物を参観することを楽しん
公家や武士の子が幼いときからその身分相応の
だ19)。
振る舞いをするように育てられていたことはすで
彼らは世界地図や印刷機などを日本に持ち帰
に記述している。また世阿弥の『風姿花伝』に
り、この印刷機によって、ラテン語、ポルトガル
は、能役者の子が子ども時代から、役者として注
語、日本語のキリスト教教義書や『ラテン文典』
意深く育てられるよう、年齢段階にしたがっての
『日葡辞書』などの語学書、『平家物語』『太平記』
心得が書かれている。それらを考え合わせると、
などの日本の書物、翻訳された『イソップ物語』
ここに記された各々の子どもは、そのような特定
などが印刷され出版された。これらは短期間であ
の身分、立場の子どものことを指しているのであ
ったが、セミナリオ(神学校)やコレ ジ オ(学
ろう。
院)で学ぶ少年たちの教材として使用された。
また『大日本史料』(第十一編別巻 之一、二)
さてセミナリオやコレジオで学んだ子どもたち
には、少年遣欧使節のことがまとめられている。
がその後どうなったか。使節の帰国後、次第にキ
少年遣欧使節は、九州の三人のキリシタン大名の
リスト教弾圧も強まり、1596(慶長元)年にはイ
大友宗麟、有馬晴信、大村純忠に意見を聞き、そ
エズス会とフランシスコ会の宣教師と日本人信徒
の結果、六人の満十三、四歳の少年たちが選ばれ
二十六人が磔刑されたが、その中には十三歳と十
た。彼らは、伊藤マンショ、千々石ミゲル、原マ
一歳の日本人の少年も含まれていた。使節として
ルチェール、中浦ジュリアン、そして小姓が二人
ローマに行った少年たちも、似たような悲惨な運
― 75 ―
命をたどる。彼らもまた、この乱世の波に翻弄さ
子どもたちが、日本中に数多く存在したのが 1950
れたといえるであろう。
年代頃までであった。ほとんどの子どもたちが、
追い立てられるように社会に出て、あるいは結婚
結び−願い・現代の子どもへ−
することによって、自分の生活の糧を得なければ
ならなかったのである。
子どもはいつの時代も存在し、それは人類が生
しかし、現代の子どもたちのほとんどは、学校
存する限り必ず続いていく。古代国家が成立して
を夢や希望につながる場所であるとは思っていな
以来、どの時代の子どもも属する身分・階級・階
い。また、学校は労働からの解放の場でもない。
層別に生活をみて、初めて本当の子どもたちの姿
むしろ、多くの子どもたちにとっては、嫌いな勉
を知ることができた。そして圧倒的に多数を占め
強をしなければならない場であり、人間関係のス
る庶民の子どもたちは、食べ物も十分ではなく、
トレスを経験しなければならない場であり、勝手
子どものときから労働が含まれていた。しかも、
気ままが許されない場である。中学校に入れば、
身分や階層を問わず、乳幼児の生命は常に死と隣
学校では勉強の結果の試験があり、その成績は子
り合わせであった。
どもたちに順位をつけ、そのための競争がある。
しかし、2010 年現在、日本の子どもたちの生
もちろん、戦前の学校教育でも上級学校を目指す
活は、その育つ家庭によって多少の違いはあるも
少年たちの進学競争は激しかったが、競争に参加
のの、親の階層や貧富による差はほとんどない。
しない家庭やできない家庭の子どもたちの数が圧
労働から解放され、生まれた子どものほとんど
倒的に多かった。平等ではなかったが、学校で全
は、その後の長い人生を約束されている。教育の
員が順位をつけられるストレスは無かった。不登
面では、希望するほとんどの子どもたちが義務教
校や引きこもりは増加し続け、そして学校に行っ
育である小中学校だけでなく、高等学校までの進
ている子にとっても、学級崩壊があり、いじめが
学が可能である。
あり、そしてさらにそれが引き起こす不登校、引
ところが、実際に学校教育が開かれたものとな
きこもりという連鎖がある。
り、平等に教育を受けられる権利が与えられ、す
学校に行かず、働きもせず、家に閉じこもって
べての子どもたちが学校に行けるということは、
いても、さしあたって子どもたちは食べ物に困る
必ずしも喜ぶべきことではなく、希望に満ちた場
こともなく、寝る場所があり、着るものがある。
ではなくなってきた。明治以後の学校教育は、子
テレビやゲーム、漫画があり、遊ぶものには不自
どもたちに立身出世の夢を与え、現実的な夢を持
由しない。最近ではパソコンや携帯電話で外の世
たない子どもにとっても新しい知識を与えられる
界と自由に交流することが可能である。つまり、
場であり、労働から解放される場であった。だ
フリーターやニートとして生きていける環境が整
が、学校に行きたくても親の経済状態が悪く、小
っているということである。日本が豊かになった
学校も終わらないうちから丁稚奉公や子守奉公に
からこそであるが、実際にそのような子どもの生
出なければならない子ども、上級学校に進みたく
活を支えているのが、それぞれの子どもの親であ
ても家の農家を継がなければならない子ども、家
ることはいうまでもない。
を出て働かなければならない子ども、戦場へ出陣
こうした問題を抱えながらも、現代の子どもた
するために学校を辞めなければならない子ども、
ちにはゆっくりと成長していく余裕と学ぶための
できるものならもっと学校に行きたかったという
多様な手段が与えられていることも事実である。
― 76 ―
学校生活を拒否したとしても、テレビ、漫画、本
の時間を確保できる労働時間にしなければならな
などで子どものときからさまざまな知識を得るこ
いことは明白である。これまでの歴史の中で、子
とができ、少し大きくなって何かに興味を持て
どもは常に弱い立場であり、過酷な生き方を強い
ば、パソコンで世界中から情報を得ることができ
られてきた。だが、大人のそばで生活していくこ
る。また海外に旅行して見聞を広め、自分の生き
とは、子どもたちにとって将来を見据えて心の糧
方を見つめることもできる。そして一方、学校教
を育てていく良い機会であった。現代の子どもた
育の中で自立への道筋を見つけていくことも、も
ちにとって、必要なのはこういう機会であろう。
ちろん可能である。将来への道筋は、これまでよ
したがって、現代の子どもにとっての幸せな暮
りずっと広がっているうえ、すべての子どもたち
らしや教育とは、心の糧を得ることだと考えられ
に開かれているのである。
る。すなわち、それは「生きる力」のことであろ
しかし子どもはいつか大人にならなければなら
う。物や情報にあふれ、豊かな生活の中で、自分
ない。そして現代の日本で大人として認められる
を律し、自分で立つ努力をすることは、簡単なよ
ためには、まず自分自身で何らかの仕事をするこ
うでいて難しい。家庭や地域社会、そして学校教
とによって、自分の生活の糧を得ることが必要で
育で子どもと生きる大人たちに求められているこ
ある。現代の子どもたちが労働から解放されてい
とは、子どもたちと共に生きることであり、自分
ることや家庭で物質的に満ち足りた生活をしてい
の生き方やその術を見せることである。「真似ぶ」
ることに加え、勝手気ままが許されていること
は「学ぶ」という、日本古来の教育を現代の子ど
は、学校生活を息苦しいものと感じさせ、さらに
もたちにも実践するべきであろう。すべての大人
学校生活から仕事への転換を非常に重苦しいもの
が子どもの教育に携わる者として、子どもたちの
にしている場合が少なくない。家庭でも地域社会
心の糧を育むために、見本となり、また成長の過
でも、子どもの生活の中に仕事への道筋をさまざ
程を共に歩む伴走者となってほしい。
「子どもは
まな形で用意し、仕事の体験を少しずつ積み重ね
社会を映す鏡」である。願わくば、現在や未来に
させ、社会の中で仕事をして生活していく心構え
生きる子どもにとっての幸福な日々や生き方が、
が自然と形成されるような仕組みを作ることが必
社会や国にとっての「理想の子ども像」であるこ
要であろう。
とを願って。
そしてまた、大人たちの社会における仕事のあ
り方も変わらなければならない。子どもたちの
注
日々の生活は子どもたちだけで営まれているので
1)倉野憲司校注『古事記』岩波文庫
はなく、大人との関わりの中で営まれている。そ
2)坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日
れは単に、大人たちによって食べ物が用意されて
いることや衣類や寝る場所が与えられていること
本書紀(一)
∼(五)
』岩波文庫
人と過ごす日々の生活の中で受け取っていくとい
1994∼5 年
3)注 1)に同じ。
4)中田祝夫校注『日本霊異記』新編日本古典文学全
というだけの意味ではなく、成長する生命が未来
に向かって歩いていくために必要な心の糧を、大
1963 年
集 10
小学館
1994 年
5)注 1)に同じ。
6)藤岡忠美・中野幸一・犬養廉・石井文夫校注『和
泉式部日記・紫式部日記・更級日記・讃岐内侍日
うことである。生活の糧を得るために働くこと
記』新編日本古典文学全集 26
小学館
1994 年
が、生活の時間のすべてを奪ってしまうのであれ
7)注 1)に同じ。
ば、子どもとの生活は失われてしまう。家庭生活
8)今野達・小峯和明・池上洵一・森正人校注『今昔
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物語(一)
∼(五)
』新日本古典文学大系
岩波書店
1993∼9 年
ター
1977 年
上笙一郎『日本子育て物語』筑摩書房
9)注 7)に同じ。
1991 年
梶原正昭校注・訳『義経記』日本古典文学全集 31
10)福田秀一・岩佐美代子・川添昭二・大曾根章介・
久保田淳・鶴崎裕雄校注『中世日記紀行集』新日
本古典文学大系 51
岩波書店
11)林屋辰三郎『日本の歴史』12
学館
加藤理『「ちご」と「わらは」の生活史−日本の中古の
1990 年
子どもたち−』慶応通信株式会社
中公文庫
1974 年
1976∼7 年
年
大系 10∼12
14)永積安明・島田勇雄校注『保元物語
岩波書店
平治物語』
岩波書店
小林茂文『周縁の古代史
1959∼60 年
有精堂
15)注 13)に同じ。
1999 年
王権と性・子ども・境界』
1994 年
後藤丹治・岡見正雄校注『太平記(三)
』日本古典文学
16)注 13)に同じ。
大系 36
岩波書店
1962 年
17)注 11)に同じ。
桜井庄太郎『日本児童生活史』刀江書院
18)『日本王国記
重松一義『少年懲戒教育史』第一法規出版
岩波書店
日欧文化比較』大航海時代業書 11
1965 年
1941 年
1976 年
高木市之助・小澤正夫・渥美かをる・金田一春彦校注
19)『大日本史料』
(第十一編別巻之一、二)
〔復刻版〕
東京大学出版会
1989
河野多麻校注『宇津保物語(一)
∼(三)
』日本古典文学
13)注 11)に同じ。
日本古典文学大系 31
1994 年
黒田日出男『「絵巻」子どもの登場』河出書房新社
12)永原慶二監修・貴志正造訳注『全譯吾妻鏡』
(全五
巻)新人物往来社
小
1971 年
『平家物語(上)
(下)
』日本古典文学大系 32・33
1974 年
岩波書店
1959∼60 年
服部早苗『平安朝の母と子』中央公論社
1991 年
参考文献
三浦佑之『万葉びとの「家族」詩』講談社
網野善彦『日本中世の民衆像−平民と職人』岩波新書
森山茂樹・中江和恵『日本子ども史』平凡社
1980 年
石川謙『我国における児童観の発達』振鈴社
1996 年
2002 年
結城陸郎編『日本子どもの歴史 2−乱世の子ども』第
1948 年
石川謙『日本学校史の研究』
〔復刻版〕 日本図書セン
― 78 ―
一法規出版
1977 年