親鸞に義絶された善鸞のその後は、杳(よう)として分からない。親鸞亡き後、相 模国の余綾山中で出会った甥の子覚如に風邪退治の護符を与えたことがわずか に知られているのみである。 善鸞の没年、寂地については諸説あるが、福島県白河市の隣り、泉崎村山寺に この如信の墓があり、その近くに「善鸞阿弥陀」と呼ばれる善鸞の墓があること から、この地にいた如信の許で没したものであろうか。一説には、善鸞の晩年は 親鸞の門弟たちからも見放され、関東一円を流浪の末、隆寛の墓がある光福寺近 くで没し、弘徳寺の墓地にその墓が立てられたともいわれる。 弘徳寺は親鸞の門弟信楽が茨城県八千代町新地に創建した同名の寺の分寺 であるが、開基の信楽は、生前親鸞によって破門された人物である。信楽と善鸞 はくしくも親鸞から「異端」の烙印を押された者同士であった。そんな縁から、信 楽は善鸞の墓を守ったのであろうか。 信楽の破門の理由は、彼が経文の意味について親鸞の言うことを故意に用い ず、自説を曲げなかったため、親鸞の咎めを受けたとしか分からない。 信楽の父親は法然の専修念仏に帰依した相馬師常という鎌倉御家人であり、 法然門の念仏者として著名で、『吾妻鏡』には、その死が往生を信じて揺るぎなか ったと紹介している。この父に感化されて念仏信仰に入った信楽のことである。 法然の念仏信仰を発展させ、教えを深化させた親鸞の教説には初めから違和感 があった。親鸞の経文解釈を納得できず破門されたが、何の痛痒も感じなかった ろう。信楽は、再び親鸞と語らうこともなく、念仏三昧の日々を送った。 親鸞は、山伏弁円に代表されるような他宗の容喙(ようかい)や、信仰を抱かぬ 人々への教化は実に寛容な態度で接し、遂には帰信に導く。だが、その反面、一 旦念仏信仰を持った人が邪義や邪説を打ち立てると、情け容赦なく切り捨てた。 我が子といえども、邪義を立てた善鸞を勘当したのは良い例であろう。親鸞が厳 しい信仰の人であったと言われる所以である。 さて、信楽が破門された時、門弟の間に、 「信楽に与えた本尊や聖教などを取り返すべきだ。」 という声が上った。これに対して親鸞は、 「それは適切なことではない。なぜなら、親鸞は弟子を一人も持たないからで ある。誰もが如来の弟子であるからであるから、皆平等で同行なのだ。念仏に よって浄土に生まれると信じる心が得られるのは、釈尊と阿弥陀如来の二尊が 手立てとして起こしてくだされた誓願であり、親鸞が授けたものではない。今 日、互いの信仰の意見が異なる時、本尊や聖教を取り返し、付け与えた房号や 信心さえをも取り返すことが行われているが、それは本義に反することだ。」 親鸞には、師と弟子という観念はなかった。誰もが阿弥陀如来の弟子なのであっ て、親鸞の弟子ではない。皆平等で、同行同朋なのである。 「信楽を破門したのも、私と意見が違うからで、如来から破門されたわけでは ない。如来には破門ということがないのである。」 親鸞は人々にそう説いた。この親鸞の本質を信楽が理解するのは、親鸞が亡く なってからのことであった。(武田鏡村)
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