D 飛鳥の有名人シリーズ C 飛鳥の天皇シリーズで歴代大王を紹介したが天皇位がまだ確立していない時代で は大王自身が歴史の中心的役割を果たしてきた。 しかし飛鳥期となると大王以外の豪族、皇子、高級官僚等が歴史の表舞台に登場し活躍 している。ここではその中の一部ではあるが有名人として紹介することとする。 D-1 聖徳太子の謎(聖人化のなぞ) 唐本御影:法隆寺献納宝物で現在御物 *聖徳太子は本当にいたの? 「聖徳太子」という名称は古事記、日本書紀には存在しません。奈良時代中期に編纂され かいふうそう た懐風藻(かいふうそう)の序文(751年)に初めて出てくる名前で、日本書紀・推古紀 うまやどのみこ かみつみやのたいし うまやどのとよとみみのみこ では厩戸皇子(うまやどのみこ)、上宮太子(かみつみやのたいし)、厩戸豊聡耳皇子(う まやどのとよとみみのみこ)等と呼ばれているが日本書紀編纂時(720年)には没後百年 ではありますが既に聖人化されていたのは事実でしょう。 奈良時代に現存の法隆寺である西院伽藍が完成し、夢殿を中心とした東院伽藍を建造し たのも太子を祭る目的で等身大の救世観音(ぐぜかんのん)を本尊としていることからも -1- 覗える。 太子は574年に用明天皇の皇子として生まれ、621年(622年説あり)に没した とされ、当該人物が存在したのは事実ですが日本書紀に記された諸事績が全て当人の業績 とするには謎が多すぎます。固有名詞付で史実と確定できるのは物部氏討伐戦に参戦、 いかるがのみや 斑鳩宮(いかるがのみや)を造営移住して上宮王家を興し、621年頃没し山背大兄王(や ましろのおおえのおう)が後継した等に限定されます。 この山背大兄王は聖徳太子の皇子とされているが日本書紀にはこの記述は無く、一説に は欽明の皇子で推古や用明の12番目の弟とされ年齢は聖徳太子と同程度以下と想定さ れ有力皇位継承者であった事は日本書紀に記載されているが、皇子説は「上宮聖徳法王帝 説」によるものである。I-11「古墳被葬者のなぞ」参照 *日本書紀に記された太子の業績をなぜ謎といえるの? 通説で推古紀の事績を全て聖徳太子の業績としてきた根拠は推古元年(593年)に太 子を皇太子とし摂政(せっしょう)とする記事によるものですが、皇太子や摂政の制度は この時期には無く、律令制度完成後の八世紀とする説が有力です。 冠位12階制度も証拠となる遺品無く、蘇我本宗家を除外していることから蘇我馬子の 作か?とも推定されており、憲法17条も使用字句から律令制度完成期以後に創作付加さ れたモノではないか?と、遣隋使の派遣も引用文献「随書」との比較で乖離(かいし)し ており、日本書紀には遣隋使の表記無く「大唐に遣いする」(遣唐使)とあり疑問点が多い。 さんぎょうぎしょ とんこう 太子の著作とされている三経義疏(さんぎょうぎしょ)についても後世に敦煌(とんこう) から出土した写本との類似性より伝説とも云われている。 もっとも全てが日本書紀編纂時の創作と決めつけることは出来ないし、これに近いモデ ルはこの時期に中国との対等外交を主張するため国体整備の必要性から太子や馬子によ り制作されていたと考えられます。 *なぜ聖徳太子として聖人化する必要あったの? あらひとがみ 万葉集でも天武天皇を現人神(あらひとがみ)と謳い上げており、日本書紀編纂時期に は儒教思想、老壮思想が中国から導入されていたことで治世の安定した時期には聖人・君 い っ し の へ ん 子が出現する説や乙巳の変(いっしのへん)で蘇我本宗家を滅亡させたのが中臣鎌足で父 の功績を藤原不比等が強調するための必要性から蘇我馬子の業績を抹消し聖徳太子に置 き換えたとも云われている。 更に傍系史料として「上宮聖徳法王帝説」 「聖徳太子伝暦」法隆寺関連資料(資材帳、縁 てんじゅこくまんだらしゅうちょう 起、釈迦像光背銘、薬師像光背銘)、天寿國曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうち ょう) 、法起寺露盤銘等があり、主として法隆寺の僧達が太子を聖人伝説化した史料を多 く残していることにもその要因があるのでしょう。 いずれにしろ七世紀は氏姓制度から律令制度への移行の黎明期でもあり、ヤマト朝廷と しては大王を中心とした中央集権国家体制強化の為には大王家よりスーパーマンを生み 出す必要性があり、太子は高句麗から渡来してきた高僧:慧慈(えじ)を師とした当時の -2- 最高の思想家であり、知的な偉人であったのは事実であることより通説としての「聖徳太 子」が誕生したと考えられる。 聖徳太子伝説は法隆寺を中心に全国に及んでいるが、飛鳥でも誕生地として伝承のある 橘寺が有名で境内には飛鳥と法隆寺の間を通うのに使用した愛馬・黒駒像、勝鬘経を講じ た際天から降り積もった蓮の華を埋めたという蓮華塚、冠から輝いた日月星の光をとどめ る三光石等が置かれている。 G-11 「聖徳太子像」を参照 更には太子建立七寺説:法隆寺・四天王寺・中宮寺・広隆寺・法起寺・和田廃寺等の真 偽、四国・道後温泉の石碑の解読、上記唐本御影の真偽論、播磨の斑鳩寺伝説等々全国に 太子伝説が存在することからも偉人であり、聖人化されたのは事実でしょう。 <註> かいふうそう おうみのみふね 懐風藻:我国初の漢詩集で淡海三船の編纂、和歌より漢詩に人気があった時代の勅撰集 物部氏討伐戦:蘇我一族として馬子と共に参戦し四天王寺の建造を誓願したことで有名 いかるがのみや 斑鳩宮:法隆寺の前身、上宮王家の本拠地で大和川を押さえる交通の要点 やましろのおおえのおうじ 山背大兄皇子:聖徳太子の皇子で皇位継承を舒明と争ったとあるが欽明の皇子説もあり 摂政:天皇を助け替わって政治をみること 冠位12階制度:我国初めての冠位制度で中国の制度を倣ったとするが独自の冠位として いる 憲法17条:我国初めての憲法で政治の基本理念を示したもの 大唐に遣いする:遣隋使と遣唐使を混同しており、600 年の第 1 回遣隋使が隋書に記され ているのに日本書紀には無く内容も食い違っている さんぎょうぎしょ 三経義疏:勝鬘経、法華経、維摩経の註釈書で聖徳太子の著書とされている とんこう 敦煌:シルクロードにある仏教遺跡 い っ し の へ ん 乙巳の変:大化改新の時のクーデターで蘇我入鹿を暗殺した てんじゅこくまんだらしゅうちょう 天寿國曼荼羅繍帳:聖徳太子の妃・橘郎女が太子歿後行ったとする天寿国を描いた刺繍帳 で四文字を背負った亀が百匹描かれていた 慧慈:七世紀末に高句麗王が倭国の支援を得るため送りこん -3-
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