イブン・シーナーとその生涯

イブン・シーナーとその生涯 イブン・シーナー(Ibn Sina)、英語では.Ibn Sina の他にラテン語の発音でアウィセンア
(Avicenna)とも呼ぶ。ペルシャ語では、親しみを持って、アブー・アリー(イブン・シーナー
ファーストネーム)で呼ばれることが多い。尚、古今、世界中の科学者、哲学者、医師などの
間でイブン・シーナーの名を知らない人はいないであろう。 イブン・シーナーが科学者であり、哲学者であり、文学者であり、医師であったので、言い換
えれば百科辞典的な人物であった。現代のように各科学や医学分野が区分されていなかった時
代の背景の中で、各分野の様々な知識を追求し、身につけた結果、その地位に至ったのである。 イブン・シーナーはすべての学問を独自に勉強し、解明したもので、少年期の基礎教育を別に
し、同時代の学者たちと交流があったものの、特定の師について学んだものではない。 イブン・シーナーの高弟子で、いつも師と一緒に居たアブー・アビード・グーズガーニー(ジ
ューズジャーニー)が、イブン・シーナーから聞いた、師の人生について以下の通り述べてい
る: 『父の名はアブドッラー、その父(祖父)の名はハッサン、祖父の父の名はアリー・イブン・
シーナーで、ボハーラー(ウズベキスタンの古都市で、日本語ではブハラまたはボハラとも呼
ぶ)の在住であった。サーマン王朝のアミール・ヌーフの時代にボハーラーの方に移住し、そ
してボハーラの郊外にあるホラミシャンという小さな村に移り住み、穀物の栽培と農業を行っ
た。その時期に、アフシャネ(アグシャナ)という村に住んでいたセターレ(セターラ)とい
う女性と結婚し、イスラム暦の 370 年のイスラムの第2月((西暦 980 年8月)に生まれた。 数年後、父がボハーラーに行った。私をマクタブ(イスラム教の学校)に連れてゆき、先生
に預けた(その先生の名はアブーバクレ・バルギーだった)。 コーランの勉強と文学の学習を始め、10歳の時にコーランを完全に暗記し、文学においても
同級生が驚くほどに上達した。 イスマーイール・ザーヘッドという先生のもとでフェグフ(宗教学)の勉強に努め、この分
野においてボハーラのハナフィヤーンのモフティー(Mofti'e'Hanafiyan=イスラム教徒たちの
法学者)程の地位になってきた。同じ時期に、算数に精通していたある八百屋のもとで算数を
習い、また数学をマフムード・マッサーという先生のところで学んだ。やがて、アブドッラー・
ナーテリーという人は、我々の町にやって来て、自分をフィーラスーフ(哲学者)であると紹
介し、父が彼を私たちの家に住ませ、私に教えるように依頼した。イサーグーチ(数学関係の
本)という本を彼のもとで読んで、先生が与えていたどの問題も私のほうが先生よりうまく解
説していた。ナーテリーの講義とは別に、自分で自習していて、様々な書物に書かれていた解
説を覚えていた。短期間にわたって、論理学において大きな知識を得た。オグリドス(★)の
著書もナーテリーの所で始めた〔★ペルシャ語/アラビア語:Oglidos /フランス語:Euclide /ギリシャ語:Eukleiδes→ギリシャの数学者(紀元前 306
283 年)で「原理」という本を著
し、平面幾何学の原理についてである。ペルシャにおいて古くからこの書の翻訳や解説がされ
ていた〕。その五・六の方式を解説され、残りの難しい方式を自分で解いた。今度はマジェステ
ィー(アル・マゲスト)(★)という本の勉強を開始し、ナーテリーにはもう用がなく、ナーテ
リーは我らから離れて行った。(★マジェスティー→ペルシャ語・アラビア語:Majesti =西暦
2世紀にプトレマイオス(Ptolemaios Klaudios)という古代ギリシャの天文学者・数学者・地
理学者によって書かれた本で「プトレマイオスの天動説」という名で知られている)。 ナーテリーやその他に論理学や幾何学および天文学を習った後、自然科学や形而上学(けい
じじょうがく)および医学の学習を行った。医学はわりと簡単な分野であったが、形而上学は
難解だった。アリストテレスの形而上学という本を見つけた。その本の理解は非常に難しく、
最初のページから最後まで四十回読み、その内容のすべてを暗記したが、その内容の意味を理
解できなかった。ある日、ボハーラの製本街で,ある古物商人に出会い、一冊の本を手にして、
こう言った;アブーアリー(イブン・シーナーのファーストネーム)よ! この本は非常に安
いので購入してくれ、この本の持ち主が金に困っているのでこれを売りたい。その本を三ディ
ルハム(当時の金貨)で購入し家に持って帰った。本はファーラービーが著したアリストテレ
スの形而上学の解説本(注釈本)であった。ファーラービー(西暦 874
950 年)は中世のイス
ラムの偉大な哲学者である。アリストテレス二世も言われていた程に、アリストテレスの前作
を判りやすく解説した。自分の著書も多数ある。その本のおかげで形而上学の全ての難解なと
ころは私には解るようになった。 医学の分野において、当時の多くの書物を勉強した。医学は難しい分野ではないことを解っ
た。この分野においてもいち早く上達し、当時の医師たちより上に立ち、患者らの治療に当た
った。臨床で得た経験の結果、当時の医学の書物に記載されていた内容の多くは逆であること
を発見した、それは私が16才の時であった。 言わなければならないものは、父の名はアブドッラー、また私より上の兄がいて、皆バーティ
ニッヤ(イスラム教シーア派の一派であるイスマーイル派の一分派)であった。多くの時にイ
スマーイル派の教義に基づいて肉体と精神について論説していたことを私が聞いていたが、私
が彼らの議論を好まなかったものの自分たちの宗派に招かれたが断わった。』 上記はアブー・アビード・グーズガーニーが直接イブンシーナーから聞いたことであるが、
グーズガーニーがさらに話を次のように続けている: 『イブン・シーナーが17才の時に、サーマーニ王朝のアミール・ヌーフというボハーラーの
当時の支配者は、病気にかかった。ボハーラーの大医師たちはアミールのところに呼ばれた。
若きイブン・シーナーも彼らの間に入ってアミールの見舞いに行った。 イブン・シーナーがこの件について自ら、次のように述べられた: 『医師たち全員がアミールの病気の診断で困った。私の診断が正しかったことに神に感謝を
しなければならない。私の治療は満足した効果をもたらし、アミールが治った。』 アミール・ヌーフの病気というのは、全身の筋肉が固くなって固着し、全く動きを出来ない
状態であったという。診察に行った医師たちが全く治療できなかった。若きイブン・シーナー
が正確な診察の後に、アミールの宮殿にあったプールの中に大量の電気鰻(ウナギ)を入れる
ように命じた。アミールを裸にして木製のカゴに入れてプールの中に入れた。電気鰻から発生
する電気の力はアミールの身体に通達し、アミールの筋肉の固さが完全に解消されたのである。 アミール・ヌーフがこの驚くべき治療法の感謝としてイブン・シィーナーに褒賞を与えよう
とした。 『アブー・アリーよ! どんな欲しいものでもあげよう!』とアミールが訊くと、イブン・
シーナーが次のように答えたという: 『小生の欲しいものというのは、アミールの図書館に自由に出入りできるように許可してい
ただきたい。』 イブン・シーナー曰く; 『図書館の中に許可が許され、その建物には数十の個室があった。各部屋には無数の本棚が
あって、その中は貴重な書物でいっぱいで、また各部屋の書物は特定の分野の書物に分けられ
ていた。例えば、一つにはアラビア文学や詩、他には宗教学や原理学、もう一つには幾何学、
次には医学など。要するに、どの分野や科学を探したい場合は、その分野や科学に関する書物
は特定の場所にあった。 書物の目録を調べて、志望していたものを係の人からもらって読んでいた。事実、今までに
そのタイトルを全く聞いたこともなかった数多くの書物を見たが、間違いなく他の研究者たち
も、当時それらの存在すら知らなかったであろう。驚くことに、その時以来、それらのような
書物をどこにも見たことはない。 一生懸命に勉強を開始し、各書物とその著者をその実績に応じて評価していた。科学のもう
一つの世界が私に開いたということを言わなければならない。様々なことを発見をし、多くの
問題が私に解明されたのである。このように18才にして、常用されていた当時のあらゆる科
学分野の勉強を終わり、もう勉強の必要性がなくなった。』 イブン・シーナーが二十二才の時に父が他界した。サーマーン王朝がボハーラーを支配して
いた時まで、イブン・シーナーもそこで有益な人生を送ったという。しかし、その地方にガズ
ニー朝が征服することになると、イブン・シーナーがマフムード・ガズナビーを恐れていたこ
とから、ウルガンジ(Urganj)市に行き、マウムーンの息子・ホラズムシャー・アリーの宮殿
に入った。ホラズムシャーの死の後、マウムーンの後継者、モハッメッドの息子も、イブン・
シーナーを大切にした。ソルタン・マフムードがホラズム(地名)を征服した後、イブン・シ
ーナーがホラズムを離れ、ネサー、アビーワルド、トゥース、そして最後にゴルガンへ移った。
イスラム暦403年(西暦1012年)に、医学規範を書きはじめ、そしてやがてハマダーン
で完成させた。ある時期、ゴルガーン領のデヘスターンで生活し、また再びゴルガーンに戻っ
た。イスラム暦の405年(西暦1014年)にタブレスターン(イランにある地名、マーザ
ンダラーンの古称)へ行き、ガーブース・イブン・エ・ワォシュムギールという正義感及び芸
術好きな王のところで過ごすつもりがあったが、タブレスターンの付近に着くと、ソルターン・
ガーブースが捕まえられていることを聞いた。やむを得ず帰って、ガズウィーン(地名)に行
き、またそこからもやむを得ずハマダーンに行き、隠れた生活を遅れながら、瀉血療法師の助
手を努めたという。 ある日、その瀉血療法師とともにある女性の診察に行った。師が女性を瀉血しようとしたが、
イブン・シーナーが女性の様子を診て、師に瀉血することは彼女にとって有害であり、私が瀉
血をすすめないと言った。しかし師がイブン・シーナーの注意を無視して、瀉血を行った。す
ると、女性がただちに失神した。女性の親類がイブン・シーナーに次のように言ったという: 「貴方は自分の師より診断が正しかったので、今はどうすればよいのか?」 イブン・シーナ
ーが強壮剤を処方し、女性が治癒した。この治療法はハマダーンで人々の口から口へと伝わり、
イブン・シーナーの名が知りわたり、尊敬されるようになった。 たまたま、当時のハマダーンの支配人の宮殿の親族の女性が酷い病にかかった。ハマダーン
の医師たちがその女性の治療法に困り、何も出来なかったという。イブン・シーナーが呼ばれ、
女性を診察した途端、『この女性が恋に落ちているもので、それを言える勇気がなく、心の病に
よって、この状態になっている。』と伝えた。しかし、女性本人が否定したという。イブン・シ
ーナーが彼女の心の秘密を明かして証明するといい、手を女性の脈に当て、そしてまわりにい
た人々に向かって、この女性が気に入っていると思っている男性の名前をあげるように、と言
った。人々は次々と男性の名前を口にし、そしてイブン・シーナーがある男性の名前が言われ
た時に、女性の脈が乱れ、様子が変わったという。 『この人に心が奪われているので、もし結婚しない場合は命にかかわることになろう。』とイ
ブン・シーナーが伝えた。女性をその恋人と結婚させたら、様態が良くなったのである。その
時期から、イブン・シーナーがハマダーンにおいて名医として知られるようになった。 偶然にも、またハマダーンの支配者、シャムソッドーレが腹痛にかかり、イブン・シーナー
の治療で治ったという。シャムソッドーレがイブン・シーナーを総理に任命した。 イスラム暦の412年(西暦1021年)にイブン・シーナーがまだ総理の業務に努めていた
時期に、政権の政策を不安に思っていた軍隊が、イブン・シーナーの邸宅を攻撃し、全ての物
を略奪し、アミール(支配者)にイブン・シーナーを殺すように要求した。アミールはその要
求を拒否したが、総理から解任することにした。 イブン・シーナーが四十日間ハマダーンのある家で隠れた。アミール・シャムソッドーレは再
び腹痛にかかり、イブン・シーナーを捜し求め、彼が隠れ家から出てアミールの会いに行き、
腹痛を治した。その結果、アミールが陳謝とともに、再びイブン・シーナーを総理の業務に任
命した。シャムソッドーレの死後、その後継者であったサマーオッドーレが、イブン・シーナ
ーをファルド・ジャーン(Fardjan)という砦で投獄したが、しばらくしてから開放した。イブ
ン・シーナーがハマダーンから密かに離れ、イスファハーン(イランの古都)の方面に向かい、
イスファハーンの支配者でかなり前から知り合いだったアミール・アラーアッディーン・カー
クイェのもとへ行った。 イブン・シーナーはアラーアッディーンの宮殿で大変な尊敬と地位で招かれ、長年にわたっ
て、教授や著書及び政権の仕事に務め、平穏な人生を送ったという。 イスラム歴428年(西暦1037年)の第9月のラマザーン月に、アラーアッディーンとと
もにしていたハマダーンへの旅で、途中で病に落ち、激しい腹痛にかかった。難病で不治の病
だと、自ら治療を断念し、ハマダーンへ着く前に亡くなったのである。ハマダーンの郊外に埋
葬された。 イブン・シーナーの最初の墓があった古い建物 誕生 1000 記念のため、古い墓から移動され,新しく埋葬された。その時、頭蓋骨などの骨格の
リアルな写真が撮られ,予想される素顔が実現された。 最初の墓石 イランのハマダーンの校外にあるイブン・シーナーの墓
墓の内部 イブン・シーナーの頭蓋骨 細長い顔のペルシャ風の骨格 57才でなくなったが、驚くことに歯抜けがなく、また歯には全く虫歯の跡がなかったという。 骨格にもとづいて実現された顔 戻る