中世ムスリムが見たヨーロッパ [i] 2007 年 12 月 15 日 東北学院大学 中世ムスリムが見たヨーロッパ─「ローマ」と「フランク」─ 京都女子大学 谷口淳一 はじめに ・中世ムスリムのヨーロッパ人観の変化とその背景を考える。 ・時期区分:11 世紀以前;12-13 世紀(十字軍時代);14-15 世紀。 ・地域:中東・東アラブ(イラク・シリア・エジプト) 7-11 世紀─十字軍到来以前─ ・ヨーロッパ:ビザンツ帝国(ローマ[ルーム])+西ヨーロッパ(フランク人[イフランジュ]) +その他(スラブ人[サカーリバ]など) <主な情報源> 1.プトレマイオス(2 世紀、アレクサンドリアで活動)地理学…→ムスリム地理学者: 北半球を 7 気候帯に区分…中東は第 3・4気候帯;ヨーロッパは第 5・6 気候帯。 彼ら(フランク人やスラブ人)のところでは、その遠さゆえに太陽の力は弱い。その地域で は冷と湿が勝っており、彼らのもとには雪と氷が降り続く。彼らには、温原質が少ない。彼ら の身体は大きく、性質は粗野で、性格は荒々しい。理解力に乏しく、話し方は鈍重である。肌 の色はとても白く、白色を超えて青色である。皮膚は薄く、肉は厚い。肌の色の特徴と違わず、 瞳も青い。髪は湿気の多さゆえに、伸びて赤みを帯びている。彼らの信仰には固い意志が見ら れない。それも温質の欠如と冷質のゆえである。[マスウーディー『警告と監視の書』(BGA 8)] 2.ゴドマル(?):ヘロナのフランク人司教。939 年フランク人の歴史を書いて後ウマイヤ 朝王子に献呈した。メロヴィング朝クローヴィス 1 世(フランク王 481/2-511 年)からカ ロリング朝ルイ 4 世(西フランク王 936-954 年)までを含む。 3.ビザンツ史書(?):マスウーディー(956 年頃没)が利用。 4.ハールーン・ブン・ヤフヤー:9 世紀末(または 10 世紀初頭)にパレスティナで捕ら えられコンスタンティノープルで解放された。同地の他、ベネツィアとローマを訪問。 中世ムスリムが見たヨーロッパ [ii] コンスタンティノープルは大都市で、…ローマ(ルーミーヤ)へ続く道が通る門は、黄金で できており、その側にはそこで仕える者たちが控えている。黄金門と呼ばれる。門の上には、5 頭の象の彫像とその象たちの手綱を取る一人の男の彫像が立っている。…街の中央の教会の近 くに、皇帝の宮殿がある。それは宮城で、その横にヒポドロームと言われる場所がある。それ は競技場のようなもので、そこへ貴族たちが集まってくる。すると皇帝は、街の中央にある彼 の宮城から彼らを見おろすのである。[イブン・ルスタ『貴重なるものの書』(BGA 7)] 5.イブラーヒーム・ブン・ヤークーブ・トゥルトゥーシー:トルトサ生まれのユダヤ教 徒。965 年頃フランス、ドイツ、ボヘミア、イタリア等を旅行。カズウィーニーが引用。 <情報の傾向> ・ビザンツ帝国:ローマ建国以来の歴史;コンスタンティノープルの繁栄;キリスト教世 界の中心。 ・フランク地方:北方の寒冷湿潤地帯;住民は青白い肌に碧眼;身体が大きく、力が強く、 粗野、勇猛;知能や信仰心に乏しい;フランク王国の歴史は簡略。 <背景> ・ビザンツ帝国:隣接する敵対国かつ先進国…交戦、捕虜・使節の交換。敵対と羨望。 フランク人の国:遠方の地…外交記録、使節到来に関する記録は少ない。 ・プトレマイオスの地理学:第 3・4気候帯(中東)が最良の気候帯→優越意識。 12-13 世紀─十字軍時代─ <主な情報源> 1.カズウィーニー(1203 頃-1283 年): 『諸地方の特徴と諸住民の情報』…地理書。先行 文献の引用が多い。 フランクの地。キリスト教徒の地にある大きなくに、広い王国である。その寒さは非常に厳 しく、空気は厳しい寒さゆえに重い。…そこの住民はキリスト教徒である。勇敢で、多くの臣 民がいて、支配力のある王がいる。イスラームの地の中央、 〔地中海の〕こちら側の海岸沿いに ある二つか三つの都市は、その王のもので、彼はそれらを対岸から防衛している。つまり、ム スリム達がそこを征服する人員を派遣すると、必ずその王は、いずれも非常に勇敢なそこを防 衛する人員と自分の軍団とを対岸から派遣するのである。彼らは、対戦の際は決して逃亡など 考えず、逃亡せずに死ぬことを考える。彼らほど下劣な者を見ることはない。彼らは背信の民 中世ムスリムが見たヨーロッパ [iii] であり、性格は賤しい。彼らは1年に1度か2度だけ冷水で身体を洗ったり入浴したりするだ けであり、衣服は着てからバラバラになるまで洗わない。 2.ウサーマ・ブン・ムンキズ(1095-1188 年) :シャイザル領主ムンキズ家に生まれ、1129 年以降ムスリム諸王朝に仕える一方で、十字軍勢力とも交流。自分のさまざまな体験と そこから得た教訓を『回想録』にまとめた。 創造主に称えあれ。人はフランク人についてさまざまなことを実見に基づいて知るようになる と、獣に力と運搬力があるように、〔彼らが〕勇気と闘争心以外に美点がない獣であることに気 づき、至高なる神を称えるのである。彼らに関するさまざまなことがらと彼らの知性の不思議な 点について、少し話すことにしよう。[邦訳:174] フランク人医師が、騎士の脚にできた腫れものを治療するためにその脚を斧で切断した。その 結果、その騎士は即死してしまった。また、気がふれた女性を診察して、頭の中に悪霊がいると 断じ、その女性の頭を切開して頭蓋骨に塩をすり込んだ。その結果、彼女は死んでしまった。 (抄 訳)[邦訳:175-176] フランク人の男が夫人を伴って歩いているときに、別の男性と出会い、その男が夫人と話すと、 夫は話が終わるまで立って待っている。話が長引くと、夫は夫人を話し相手とともに残して立ち 去ってしまう。(抄訳)[邦訳:179] ・上記の他、女性観[邦訳 179-181]、裁判[邦訳 184-186]など。 3.イブン・ジュバイル(1145-1217 年) :ヴァレンシアのアラブ人旧家に生まれる。1183-1185 年に巡礼を兼ねて中東を旅行:スペイン(グラナダ)→エジプト→ヒジャーズ→イラク →シリア→パレスティナ→シチリア→スペイン。『旅行記』はこの旅の記録。 アッカの街について──神がこの街を破壊し、〔ムスリムのために〕取り戻さんことを──。 この街は、シリアにおけるフランク人の街々の基幹をなしており…この街の道路や街路は、人で 混雑していて、息が詰まるほどであり、足の踏み場もない。ここでは、不信仰と不敬の火が激し く燃えており、豚どもと十字架が汚れた溜め息を吐き出し、街全体が不浄と人糞で満たされてい る。フランク人は、この街を〔ヒジュラ暦〕6 世紀の最初の 10 年間(実際は 497[1104]年)のうち に、ムスリムの手から強奪した。そのために、イスラームは、その瞳に涙を浮かべて泣いたので ある。まことに、イスラームの悲劇の一つであった。ここのモスクは、教会となり、ミナレット は鐘楼となった。しかし、神は、この街の会衆モスクの一部を汚れなきものとなし、ムスリムの 手中に小さなマスジドとして残し給うた。[邦訳 303-304] 中世ムスリムが見たヨーロッパ [iv] <情報の傾向> ・十字軍勢力(フランク)の記述が目立つ一方で、ビザンツ帝国に関する情報量が減少。 ・十字軍勢力とフランク人の国を結びつけているが、フランク内部の区分には無頓着。 ・フランク人:勇猛だが野蛮で不潔。キリスト教=呪われるべき不浄な信仰の持ち主 →ヨーロッパに対する深い関心の欠如。 <背景> ・ビザンツ帝国国境が遠のき、フランク人がシリアに建国→遠近関係の逆転。 ・イスラーム文明の優越意識、フランク人蔑視の継続。 ・宗教的敵対意識・嫌悪感の増大←…イスラームの土地、特に聖地エルサレムの占拠。 14-15 世紀─十字軍撤退後─ <主な情報源> 1.イブン・ファドル・アッラー・ウマリー(1300 頃-1349 年) :『王国常例解説』 ビザンツ帝国がキリスト教国の中心。ただしフランク人が征服するまでと注記。 2.イブン・ナーズィル・アッジャイシュ(1326-1377 年): 『新版・王国常例解説』 ローマ教皇をビザンツ帝国の前に置く。 3.シハーブ・アッディーン・カルカシャンディー(1355-1418 年): 『夜盲の黎明』 1と2からの引用を含む。全 14 巻。第 8 巻に、異教徒の支配者に関する簡潔な解説と、 各支配者への書簡の書式の説明がある。 ・東方の異教徒の諸王:グルジア、アルメニア(キリキア)。 ・西方すなわちイベリア半島とその北方の異教徒の諸王:トレド、リスボン(ポルトガル) 、バル セロナとアラゴン他、ナバラ、フランス。 ・南方の異教徒の諸王:アムハラ(エチオピア)、ドンゴラ(上エジプト)。 ・北方すなわちローマとフランクの地における異教徒の諸王:教皇(正統キリスト教(メルキト派) の総主教で、彼らの間ではカリフのような地位。彼の居処は、ローマ)、ビザンツ皇帝(コンス タンティノープルの支配者)、ジェノバ、ベネツィア、シノップ、ブルガリアとセルビア、ロー ドス、マスタカー島(コンスタンティノープルに近い小島)、キプロス、ムーンフラード(不詳)、 ナポリ。 中世ムスリムが見たヨーロッパ [v] <情報の傾向> ・十字軍国家への言及ほぼなし。アルメニア王国、キプロス、ロードスの支配者には言及。 ・イタリア、イベリア、地中海の島嶼の支配者が中心。セルビアとブルガリア、フランス は言及されるが、アルプス以北の西ヨーロッパの情報は依然として乏しい。 ・地中海周辺諸国の情報は詳しくなるが、不正確な点も多い。 <背景> ・ビザンツ帝国の衰退、ローマ教皇権の強化、イタリア諸都市国家の発展、レコンキスタ の進展など新たな動きを反映。ただし、時間差あり。 ・十字軍国家の消滅、ビザンツ帝国の衰退>キリスト教敵対勢力が中東から遠のく。 ・マムルーク朝と地中海周辺諸国との緊密な関係。←…イタリア諸都市との通商関係。 ・通商関係の薄い北西ヨーロッパへの関心は低い→文化的な関心や交流は乏しい。 おわりに ・十字軍の到来は、それまで遠い存在であった西欧人が中東ムスリムの眼前に現れたこと を意味したが、前代から引き継いだ世界観と十字軍の到来で増大した宗教的敵対心が、 西欧人に対する冷静で深い理解を妨げた。 ・十字軍の撤退後も、キリスト教世界であるヨーロッパに対する中東ムスリムの関心は、 政治・経済関係にとどまり、その対象は地中海周辺に限られた。 ・13 世紀のモンゴル帝国期を除けば、ヨーロッパに対するムスリムの関心がアルプス以北 にまで広がるのは、15 世紀に本格化するオスマン朝の東欧への進出以降。 主要参考文献 イブン・ジュバイル(藤本勝次・池田修 監訳)『旅行記』関西大学出版部,1991 年. ウサーマ・ブン・ムンキズ(藤本勝次 他訳注)『回想録』関西大学出版部,1987 年. バーナード・ルイス(尾高晋己 訳)『ムスリムのヨーロッパ発見』上・下,春風社,2000-2001 年. ミシェル・カプラン(井上浩一 監修)『黄金のビザンティン帝国』創文社,1993 年. Carole Hillenbrand, The Crusades: Islamic Perspectives, Edinburgh: Edinburgh University Press, 1999. *アラビア語史料原典は省略。 中世ムスリムが見たヨーロッパ [vi] 地図 1100 年頃の中東・西アジア〜ヨーロッパ 〔出典〕佐藤次高編『西アジア史Ⅰ』(山川出版社、2002 年):281 頁. 略年表 中東ムスリム国家とキリスト教国─7〜15 世紀─ 636 年 ヤルムークの戦い。イスラーム軍がビザンツ軍を破り、シリアに進出。 1009/10 年 ファーティマ朝の異教徒弾圧。聖墳墓教会の破壊。 1071 年 マラーズギルドの戦い。トルコ系遊牧民がアナトリアへ進出。ビザンツ国境西方へ。 1098 年 十字軍勢力がシリアに到来し、エデッサ伯領とアンティオキア公領が成立。 1099 年 十字軍勢力がエルサレムを征服。 1169 年 アイユーブ朝成立。 1187 年 ヒッティーンの戦い。アイユーブ朝がエルサレムなどを再征服。 1204 年 第 4 回十字軍がコンスタンティノープルを征服。ラテン帝国(-1261)成立。 1229 年 ヤッファ条約。アイユーブ朝がフリードリヒ 2 世にエルサレムを割譲。 1244 年 アイユーブ朝がエルサレムを奪回。 1250 年 エジプトのアイユーブ朝滅び、マムルーク朝興る。 1291 年 マムルーク朝がシリア沿岸部を制圧。十字軍勢力はシリア本土より撤退。 13 世紀末 1453 年 オスマン朝興る。 オスマン朝がコンスタンティノープルを征服。ビザンツ帝国滅亡。
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