報告:『スィンティ女性三代記 私たちはこの世に 存在すべきではなかった

1
ルードウィク・ラーハ編著 金
子マーティン訳 凱風社 2009
年8月 2,500円+税
インド発祥のロマ民族は複数の
2
グループから構成されていて、
そのひとつがスィンティである。
スィンティは中世後期から中央
ヨーロッパに定住してきた民族
であるといわれている。
10 月 26 日(木)、18 時 30 分より、松本治一郎記念会館にて、『スィンティ女性三代
記 私たちはこの世に存在すべきではなかった』1 の著者ルードウィク・ラーハさんを
招いた講演会を開催した。この本の訳者である金子マーティンさん(日本女子大学教授、
IMADR 理事)の通訳による講演を以下に報告する。
報告:
『スィンティ女性三代記 私たちはこの世に
存在すべきではなかった』
著者ルードウィク・ラーハさんに聞く会
一寸木純子(IMADR-JC)
花も人間と同じものとして捉えることがあ
ラーハさんのこと
ルードウィク・ラーハさんはオーストリア
る。だがヨーロッパでは、それらは土地や財
の首都ウィーン郊外に位置する、オーバーエ
産の 1 つとして考える。こうした考えの違い
スターライヒ州で生まれた。文筆家であると
が、差別や偏見としていまだに続いている。
ともに、ドキュメンタリー映画の制作者でも
1935 年にナチスが台頭し始めて以降、豊
ある。彼の作品の中で最も有名なのは、
『心
かだったスィンティの暮らしは一変する。そ
筋退化症』である。ナチス時代に設置され
の頃から移動生活のない冬にのみ学校に通っ
た、
「ジプシー収容所ワイヤー」に関するセ
ていた子どもたちの通学も禁じられ、1939
ミ・ドキュメンタリーだ。
『心筋退化症』は
年頃から、多くのスィンティやロマが競馬場
架空の病名だが、収容所でスィンティ が死
の厩を収容所として収容された。1 つの厩に
亡した際、診断書に書かれていた病名である。
15 人が押し込まれ、女性や子どもにも建設工
ドキュメンタリーは 2001 年に発表されたが、
事の労働が強いられた。しかしスィンティの
その制作の際に三世代にわたるスィンティ女
人たちは最後まで、自分たちが収容所へ送ら
性家族に出会い、
「スィンティ女性三代記」
れるとは思ってもいなかった。
2
執筆の構想が生まれた。家父長制で、年長者
1940 年、スペイン人の映画監督が自作の
を敬うスィンティ社会の中で、三代にわたり、
映画「低地」のエキストラを探すため、収容
一人ひとりがスィンティであることに向き合
所へやってきた。ローザもエキストラの一人
い、自分らしく生きている姿を描くことで、
として選ばれ、70 人以上のスィンティがエキ
多くの人にスィンティについてより身近に感
ストラとして、山地の農園で暮らした。終始
じるきっかけになってほしいという思いが、
監視はされていたものの、収容所の暮らしよ
本に込められている。
りは十分な食糧が与えられ、楽園のようだっ
たとローザはのちに語っている。
ある日母から「別の収容所へ移るかもしれ
スィンティの人びとの暮らし、
ない」と手紙をもらったローザは、逃亡を決
ローザが生き抜いた時代
1923 年にローザは誕生したが、1850 年頃
から始まった差別は、ロマの人びとの存在自
14
IMADR-JC通信 No.164 / 2010秋
され、そこで母に再会する。謝罪を求められ、
体を否定し、警
最後まで拒否し続けたローザは強制収容所へ
察がロマの人び
連行された。
との名前をまと
強制収容所では 1 日の食糧がイモ 2 個、厳
め、罰するほど
しい労働が課せられ、雪の降る寒い朝に屋外
だった。ロマの
に立たされていたローザたちに看守が冷たい
人びとの暮らし
水を放水し、続いてお湯がかけられた。服従
は主に、馬車で
をしないものは懲罰棟に入れられ、食事は 3
移動しながらの
日に一度。1 日中椅子に座るだけの生活を 3
暮らしで、どの
週間も強いられた。
家族も多産で大
ラーハさん
意するが、3 時間後に捕まり、刑務所へ連行
ある夜、ローザが自分のエプロンを窓枠に
人 数 で あ っ た。
干したところを看守に見つかり、犬に体じゅ
スィンティが大
うを噛みつかれ、さらに看守もローザをめっ
切にしている考
た打ち。だがスィンティ女性 2 人が命ごいを
え に、 川 や 魚、
してくれたおかげもあり、ローザは一命をと
りとめることができた。自分の尿で傷を洗い
られず、結婚前
流したが、今も傷痕は体中に残っている。
の姓への改名を
その後、ローザはバート収容所へ移される。
命じられる。こ
が、そこでは、病気になると元の収容所へ送
のとき、多くの
り返されたが、戻ってくるものは一人として
スィンティが改
おらず、何千人もの人びとが餓えでなくなっ
名 を 求 め ら れ、
ていくのをローザは目にした。
多くのスィン
そしてついに 6 人のスィンティ女性ととも
に逃亡し、苦難の旅を経て故郷オーストリア
ティの姓が消滅
した。
へと戻ってくることができた。国境を越えた
このギッタの
ときは心から嬉しく、地面にキスをした女性
大きな貢献か
もいたほどだった。その逃亡劇の際にスィン
ら、多くのスィ
ティの男性グループと出会い、そのグループ
ンティがギッタ
にいた男性とローザは結婚した。
に助けを求める
第二次世界大戦後、ローザの家族で強制収
ようになる。そこで、ギッタはスィンティや
容所から生還できたのは、ローザと二人のい
ロマの差別をなくすため、1998 年 4 月、
「スィ
とこだけだった。またオーストリアはナチス
ンティとロマのためのケタニ協会 3」を設立。
の被害国と認められたが、スィンティに対し
社会的な運動だけでなく、スィンティやロマ
ては行商の許可書を求めても発行しなかっ
の文化を守り続ける活動、映画製作、20 世紀
た。国籍も戦争中に多くの証明書を失ったこ
におけるスィンティやロマ迫害の資料集めも
とを理由に奪われ、スィンティは無国籍と
している。
3
ケタニとはスィンティの言語で
あるロマネス語で「共に」という
意味である。
なってしまった。
ニコルの時代:スィンティとして生きる
ギッタの時代:母から受け継いだもの
1946 年に生まれたローザの娘ギッタは、
現在、
「スィンティとロマのためのケタニ
協会」の代表は、ギッタの娘であり、ローザ
幼い頃友だちが祖父母や親の兄弟について話
の孫娘にあたるニコルが務めている。ニコル
していたことで、『なぜ自分の親はそのよう
はスィンティにとって自由な時代に生まれた
な話をしないのか』、『祖父母はどこにいるの
が、ニコルや若いスィンティは多数派社会に
だろうか』と父親に聞き、初めて自分の親族
同化するか、または先祖たちのことを大切に
の多くが収容所で殺されたことを知る。
スィンティとして生きるかの選択に悩んでい
ギッタの子ども時代はまだ、キャンピン
グカーで移動しながらの行商生活だったが、
るという。
オーストリアでは、1998 年にロマが暮ら
ギッタと弟 2 人も学校に通い、学校が休みの
す村に「インドに帰れ」という立て札が立て
時のみ、行商の手伝いをしていた。ギッタは
られ、それを外そうとした時、爆弾が爆発し、
とても成績優秀な子どもだったが、中学を卒
4 人のロマが亡くなるという事件が起きた。
業する 3 か月前、
父が行商の営業許可書を持っ
これを受けオーストリア政府は、ロマやスィ
ていないとの理由で逮捕される。そのせいで
ンティに対する支援を強化し、多くの子ども
「逮捕されたスィンティの子と一緒に授業を
たちの学業成績が上がり、高校や大学へ進学
受けさせたくない」と保護者から学校に苦情
が届き、ギッタは成績証明書をもらうが、卒
業することができなかった。
ギッタはのちに 16 年かけ、ロマやスィン
することができるようになった。
小さな村から起きたことだが、このような
悲しい出来事からではなく、もっとロマや
スィンティに対する支援や理解を深めること
ティに対する戦後補償を訴え続け、母であ
は、他のヨーロッパでもできることだろう。
るローザの国籍を復帰させることができた。
ロマの人びとは自分たちの国家を作ろうとは
1991 年のことである。ローザにはオースト
思っていない、ただ自分たちのことを自分た
リアの国籍が再発給され、オーストリアのパ
ちで決める権利を認めてほしい、自分たちの
スポート、収容所に拘禁されたことに対する
存在を理解してほしいのだと、ラーハさんは
補償金、月々の年金を受け取ることが認めら
最後に語った。
れた。しかし、最後まで結婚したことは認め
(ちょっき じゅんこ)
「ナチス体制下におけるスィンティ
とロマの大量虐殺」
アウシュヴィッツ国立博物館常設展
示カタログ(日本語版)発売中 ロマニ・ロゼ編 金子マーティン訳
2009年IMADR-JC発行
ご注文は、ウェブサイト:
http://www.imadr.org/japan/
publications/other/
あるいはIMADR-JC事務局まで
IMADR-JC通信 No.164 / 2010秋
15