文教大学 50 周年エッセイコンテスト 「私の記念日~My Anniversary

文教大学
50 周年エッセイコンテスト
「私の記念日~My Anniversary」
作品集
主催
文教大学
文教大学
50 周年エッセイコンテスト「私の記念日~My Anniversary」
応募総数:2,226 作品
最 優 秀 賞
「殻のイヤホン」
新居浜工業高等専門学校
3年
日野
鈴香
イヤホンを外す。たった一瞬で済むこの簡単な動作に、指が震える。人と話すこと
が苦手な私にとってイヤホンは、自分を守ってくれる殻のようなものだった。けれど
殻に閉じこもり続けるうちに誰からも話しかけられなくなり、胸が張り裂けるような
寂しさは音楽でかき消さなきゃやってられない。そんな私の記念日は、八月の台湾に
眠っている。イヤホンを外した日、大切なことを教わった日。
今年の夏休み、私は二週間の台湾中国語研修に参加した。友達がいないから夏休み
は毎年退屈との戦いと化す。寂しい夏休みは嫌だからと少し不真面目な理由で参加し
た研修だったが、この二週間が私をガラリと変えてしまったのである。
日本でも上手くコミュニケーションが取れない、いわゆるコミュ障であるのに、言
葉の通じない外国で上手く行くはずがない。自ら応募したくせに、飛行機の中からす
でにイヤホンを装備していた。この研修は台湾の大学で行われ、参加学生一人に二人
の台湾人学生がチューターとしてサポートに付く。私にも二人のチューターが付いた
が、彼女達の前でも私はイヤホンを外すことができなかった。殻に閉じこもったまま
俯く私に、彼女達は言い放った。
「心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味、比謂脩身在正其心」
儒教の経書である「大学」の一文だそうだが、中国語の分からない私には意味が理
解できない。呆然とする私を、先生が諭した。
「心が上の空だと、何を見ても見えず、聞こえず、味も分からない。あなたはいつも
耳を塞いでいて、そのままだと心も塞がってしまう。自分を開きなさい、本当の景色
を知るために」
核心を突かれた。私は閉じこもってばかりで、自分を開く努力をしてこなかったの
だ。イヤホンを外すと、様々な景色が、音が、心を揺らした。私はこの日から、イヤ
ホンを付けていない。人とも積極的に話すようになった。殻の外は広く明るく、音が
よく聞こえる。台湾の友達から届く、メールの着信音とかね。
優 秀 賞
「新生、俺。アメージング記念日」
春日部共栄高等学校
2年
武藤
光輝
私は誕生日が二つあると考えて各々の日を新たな気持ちで迎えている。一つは本当
の誕生日で、二つめは虫垂炎で入院、手術をした九月十二日だ。
それは、中学一年生の夏休みが終わって間もない部活が終了した夕方、激しい腹痛
に見舞われた。普段から痛がり屋の私だが、その時は声も出せないほどだった。一晩
ほとんど眠れず痛みに耐え、翌日に病院へ行ったものの診断がつかず、いよいよ苦し
みが頂点に達した夜に別の病院へ行き、虫垂炎と判明した。急遽、手術することにな
り、焦るところだが、痛みが強すぎて訳がわからない状態になっていた。当時の私は
虫垂炎という病気を知らなかった。手術室の扉の前で心配そうに見送る母と私の間に
鉛色の三途の川が物凄い勢いで流れているように思えた。
退院したのはその二日後だった。あまりに早く退院許可が出て面食らった。しかし、
初めて命の危機を感じた私は、術後に麻酔から覚めたばかりのぼんやりした頭で、生
きていてよかったと幸せを噛みしめていたことをしっかり覚えている。生まれ変わっ
たような気さえしていた。
それから私は、手術をした九月十二日を第二の誕生日と密かに思うようになった。
あの日の激痛、絶望、安堵、歓喜、生きる意欲など、一日で様々な感情を味わった。
この体験は忘れることはなく、この日が来ると胸がキュウと締めつけられるような複
雑な気分と共に、将来に向かってやる気が湧いてくる。私にとって大切な記念日だ。
現在は、人体の不思議さに興味を持ち、大学の理学部、生命科学科を目指して勉強し
ている。生きていることは素晴らしい、新鮮な気持ちで人生を歩み出すという二つの
意味を込めて、私は九月十二日を「新生、俺。アメージング記念日」と名付けて、ひ
とり心の中で祝っている。
優 秀 賞
「十歳の記念日」
徳島文理高等学校
2年
立石
雄祐大
「雄祐大にはショックが大きかったかな?」父の声が響いた。顔面神経鞘腫を取り
除く大手術のために、顔面神経を切断しなければならなかった父の顔は、右側が不自
然に垂れ下がってしまっていた。睡眠中も瞼はきちんと閉じないし、口はへの字に曲
がってしまった。主治医からは「ひょっとこのような顔になります。」と言われ覚悟は
していた。かと言って、このまま右耳の奥に大きな腫瘍二個も放置すると、頭蓋骨を
砕いてしまい大変なことになってしまう。父が少しでも健康に近い状態になることを、
家族全員が望んだ。そして、二十四時間にも及んだ大手術は無事成功した。
しかし、大きく変わった外見を見た人々の反応はまちまちだった。奇異なものでも
見るように顔を背ける人、じろじろ無遠慮に見る人、
「どうしたんですか、その顔は!
」と面と向かって不躾な質問をしてくる人などなど。
三ヶ月後に退院して仕事に復帰することになった父と一緒に列車に乗ったときのこ
とである。父を見る人の奇妙な視線に気づいたのだ。同乗している人の視線が「痛い
」と感じた。父はこれからこのような視線に耐えていかなければならないのだ。興味
本位な視線、目を背ける人などのあからさまな様子にショックを受けている僕に、父
はこう言った。
「辛いかもしれないけど、お父さんの顔はもう元には戻らないんだ。残りの人生はこ
の顔で生きていくんだよ。でも、お父さんは今までの人生よりもこの顔で生きていく
人生に誇りを持てるように、頑張るつもりだからな!」
僕はその時、父を支えられる人間になろうと決心した。父が自分を誇りに思うよう
な生き方を目指すように、僕も自分に誇りを持って生きていこう。この父が自慢に思
ってもらえるような人間になろうと心に誓った。そして、父のような容貌差別と戦う
人に寄り添おうと。十歳の記念日は僕を強くしてくれた。
佳
作
「親友になれた日」
大阪府教育センター附属高等学校
2年
斉藤
智怜
「なんで私は友達が少ないのだろう。」それは私の言葉が関係しているのだろうか。
今まで仲よくなった子に「親友になって。」と言われても、「親友は自然になるものだ
から誰かに頼むものとは違うよ。
」と返していた。あの頃は友達といっても表面上だけ
だった。裏では私の悪口を言っていることももちろん知っていた。悲しくて、辛くて
何度も泣いた。そのうちに私は話をした時に言葉をどう返すことが正解なのか、そう
考えるようになった。どの言葉を返せば相手が喜んでくれるのかずっと悩んできた。
だが、一人だけ何も考えずに話せる友人がいた。笑顔で話掛けてきてくれた友人を嫌
いになんてなることはなかった。中学校の三年間も友人のおかげで楽しく過ごすこと
ができた。
しかし高校に入学して、新しい生活が忙しく連絡することすらできなかった。その
子とはじめて離れた時に不意に思った。「友人は私のことをどう思っていたのだろう。
」かと。私は友人のことを「親友」だと思っていた。けれども友人も同じことを思っ
ているとは限らないのではないか。まず「親友」というのは不確かなものだ。そうだ。
なりたいからといってなれるわけではない。だからこそ私が自然に「親友」だと思っ
た友人は私のことをどう思っているのかがとても気になった。
それから半年後、友人がいきなり家に寄ってくれた。私は嬉しくて友人に抱きつい
た。いつもの私なら想像もできないほどたくさん話をしたことを覚えている。その話
の最中、友人は私に「さすが私の親友やね。」と言った。その瞬間考えていたことが全
てふっ飛んだ。それくらい私にとって衝撃的だった。ずっとその言葉を聞きたかった。
他でもない「親友」の口から。今でもその日を私は忘れない。
佳
作
「少し大人になった日」
福岡県立筑前高等学校
2年
林
萌里
「おぎゃー」と元気な産声が分娩室に響きわたった。その元気な産声に安心する一
方、妹の足が普通ではないことに気が付いた。姉になった喜びとこれから向かい合わ
なければならない現実。この日は私が少し大人になった特別な日である。
妹が生まれた時、別室で寝ていた幼い私は父に起こされ分娩室へと向かった。あま
りはっきりとは覚えていないが、きっとドキドキ、ワクワクしていたことだろう。し
かし、分娩室の雰囲気があまり良くないことに気が付いた。大人達が話しているのを
聞き妹の足を見てみると、右足が普通ではありえない方向に曲がっていた。その日の
うちに大きな病院で検査を受けると、非常に珍しい障害であることが分かった。
父と母から妹の障害について説明を受けた。難しいことはよく分からなかったが、
泣きじゃくり自分を責め続ける母の姿を見て、大変な障害だということは理解できた。
幼いながらに私は母をなぐさめた。そして、私達家族に迫られた選択は二つ。それは
足を切断するか、残してこれから先多くの手術を乗り越えていくかだ。切断してしま
えば一度の手術で終わりこれからたくさんの痛みを味わうこともない。しかし、どん
なにこれから先の道が険しくてもせっかくついている足を切断することだけはしたく
なかった。
その日から今日までたくさんの手術やリハビリで大変な時もあったがその決断を後
悔したことはない。どんなに辛い時でも明るい妹の姿に何度も勇気付けられてきた。
妹に障害があることは決してマイナスなことではないと思う。障害者の家族だから気
が付けた事や成長できた事、また妹から学んだ事がたくさんある。だから私は妹に感
謝したい。生まれてきてくれてありがとう。平成十七年十一月二日は私にとって大切
な記念日である。
佳
作
「チームの勝利」
成蹊高等学校
2年
金子
舞菜美
忘れもしない去年の秋、十一月のこと。高校一年生だった私は、中学二年生から続
けている柔道の、公式戦で初優勝を果たした。本当に小さな支部の大会で、参加者も
七人、しかも経験が浅いことを意味する白帯の部での優勝だ。正直、私以外の参加者
は全員高校から始めていたので、中学からやっていた私が勝つのは論を俟たないこと
だと思っていた。それでもやはり興奮はしていた。表彰式では満面の笑みで賞状をも
らい、誇らしい気持ちでいっぱいだった。だが私が一番心に残ったのは、周りの人た
ちの反応だった。
実は私は柔道部の紅一点である。自分よりはるかに力の強い男子に投げられ、部活
を辞めたくなったことも、話の輪に入れず一人でいることもあった。部員は本当にい
い人たちばかりだったが、だからこそ「部にいさせてもらっている」という感覚が私
の心に付き纏っていた。しかし私が表彰式から帰ると、みんな口々にこう言った。
「お
前の努力が認められてよかった。」お世話になった先輩の目には涙すら浮かんでいた。
私はそれを見て、当然の勝利だ、なんてばかなことを考えていた自分を殴りたくなっ
た。私が勝てたのは、部員が、顧問の先生が、皆がいたからだ。彼らと共に練習をす
ることで芽生えた競争心、闘争心が私を突き動かし、彼らの応援が私を奮い立たせた。
先輩や先生が教えてくださり、同輩や後輩と練習した技で一本を決めることもできた。
これはもはや私だけの勝利ではない、このチームの勝利なのだ。と私は密かに心を震
わせた。
そんな私も今や二年生。異例の女子部長となり、部を引っ張って練習している。あ
の時、勝利という形でこのチームに貢献できたことで、私はようやく部員として認め
られたような気がした。入部三年目、この日こそが私の遅すぎた「入部記念日」なの
である。
佳
作
「誕生日の二日前」
群馬県立高崎東高等学校
2年
五十嵐
美羽
去年の夏、地域の子供達を預かる施設でボランティアをしました。近所の小学校に
通う子供達を夏休みの日中、親御さんが仕事をしている間預かる施設です。最初は自
分を受け入れてもらえるか、心を許してもらえるか不安でした。しかし、自己紹介の
後の、初めの「お遊びの時間」にその不安は一蹴されました。たくさんの子供達が私
の元へ集まって一緒に遊ぼうと誘ってくれたのです。それから五日間、皆でかき氷を
食べたり、追いかけっこをしたりと楽しい時間を過ごしました。とうとうボランティ
アも最終日となりお別れの時が来ました。特に仲良く、元気に話しかけてくれていた
女の子達は別れを惜しんで涙を流していました。私にもこの一週間の様々な思い出が
蘇り、とても寂しい気持ちになりました。最後に、泣いていた女の子のうちの一人に
住所と誕生日を聞かれました。
約六ヶ月後になってその理由が分かりました。私の誕生日は二月です。ボランティ
アに行ったのは八月でした。誕生日の二日前に一通の手紙が届きました。少し曲がっ
た切手が貼られた封筒の中には、ボランティアで仲良くしてくれたたくさんの子供達
からの誕生日を祝うメッセージカードが入っていました。「また来てほしい」「大好き
」などと書いてくれた子もいて、私のことを忘れないでいてくれたことや未だに大好
きだと言ってくれることが嬉しくて泣いてしまいました。その手紙を今も部屋に飾っ
ています。
人と人との繋がりの大切さや自分のことを祝福してくれる人のありがたさを子供達
が教えてくれました。日常生活の中で、この二つのことについて考え、気付く機会は
案外少ないです。それを子供達は、深く考えなくても知っていて更に行動で見せてく
れます。私はそんな子供達を見習うべきだと思いました。年の離れた友人が、生きる
上で大切にすべきことを教えてくれた誕生日の二日前が私の記念日です。
佳
作
「忘れられない日」
尚絅高等学校
3年
森
絵里華
四月十四日。発表会が間近に迫っていた私は、夜遅くまでピアノの練習に励んでい
た。一時間弾き続けた私は、少し休憩しようと思い、手を休めた。
ちょうどその時だった。地面が揺れ始め、椅子に座っていた私は、必死にピアノに
しがみついた。花瓶や食器は棚から落ち床に破片が散乱している。窓から見える蔵の
瓦は激しい音を立てて地面に落下する。私は、このまま死んでいくのかと思うほど怖
くなり、必死に家族の名前を叫んだ。怖くて怖くて目から涙が溢れ出した。揺れが落
ちつくと私は、リビングに向かった。しかし、動揺しているのか、中々ドアが開かな
い。私は、全体重をかけてドアを開け、やっとのことで部屋から出た。私は、走って
リビングへ向かった。そしてリビングに家族全員が集まった。家族の顔を見ると今ま
での恐怖が薄れ一瞬のうちに私は、ほっとした気持ちになった。しばらくすると長野
に住んでいる親戚が心配して電話をかけてくれた。その後も鳴り止まない電話に私は
多くの感銘を受けた。
翌日、割れた瓦の撤去と共に屋根の応急処置が始まった。父は大量に買って来たブ
ルーシートを載せたが雨や風が酷く吹き飛んでしまった。困り果てていた私の家に全
国から多くの頑丈なブルーシートが送られてきた。全国の皆が熊本を応援している。
そう考えると私の心は、感謝の気持ちでいっぱいになった。負けてはいられない。私
は、全国の応援を受け、前を向いて歩くことができた。
熊本の大地震。自然災害の恐ろしさを知ったあの日。日常生活の有難さを肌で感じ、
当たり前である事がいかに幸せな事なのかを知ることが出来た。失ったもの以上に大
きなものを得た。高校三年の四月に起きた、この出来事。私にとって一生忘れられな
い日となった。
入
選
新たなる挑戦
長崎県立佐世保北高等学校
1年
寺田
愛子
岩手県立盛岡商業高等学校
3年
鷹觜
望生
動物にとっての出産
高田高等学校
2年
田中
瑶子
私の記念日
尚絅高等学校
3年
志方
真穂
異なる生活、異なる考え
名城大学附属高等学校
2年
柿元
大典
私の記念日
大分東明高等学校
1年
武石
瑞穂
糖尿病になった日から
大分東明高等学校
3年
鷲尾
大輝
「なりたい私」になれたから
絆を知るきっかけとなった日 金沢大学人間社会学域学校教育学類附属高等学校
1年
土井菜々恵
文教大学
50 周年エッセイコンテスト
「私の記念日~My Anniversary」
平成 28 年 10 月 29 日
主催
文教大学