高野 公男 - 笠間市教育委員会

高野公男(本名吉郎)は,1930年(昭
和5年)茨城県笠間市大郷戸に生まれま
した。
年表
昭和 5 年(1930 年)2 月 6 日生
昭和 31 年(1956 年)9 月 8 日死去
- 代表作品 高野公男
「男の友情」
作詞 高野公男/作曲 船村徹
「別れの一本杉」
作詞 高野公男/作曲 船村徹
「三味線マドロス」
作詞 高野公男/作曲 船村徹
船村
徹
上の写真は高野公男がコンビを組んでいた作曲家の船村
徹(ふなむらとおる,1932年6月12日生)です。彼は,日
本の作曲家で,日本音楽著作権協会(JASRAC)の名誉会長,
日本作曲家協会会長,横綱審議委員会委員,保守系国民団
体「日本会議」会員等も務めています。
高野公男は,10代で東京に上京し数々の仕事をしながら,
作詞の勉強に打ちこみました。大学(東洋音楽学校・現東
京音楽大学)在学時に作曲家の船村徹との出会いにより,
以後26歳の若さで死ぬまで生涯の友としてコンビを組みま
した。当初はビクターレコード専属の作詞家としてデビュ
ーしたもののこれといったヒット曲もなく,鳴かず飛ばず
の状態が続き,もう後がないと思って売り込みに行ったキ
ングレコードで春日八郎を担当していたスタッフの目にと
まり,春日の歌唱による『別れの一本杉』が大ヒットして
一躍名の知られる作詞家となったのです。
おりしも,日本は戦後の困難な時代にあり二人とも口に
はいえない苦労を味わいますが,その中で代表作「泣けた,
泣けた こらえきれずに泣けたっけ・・・」で有名な『別
れ一本の杉』が大ヒットし作家としての地位を築きました。
しかし,彼の体をおかしていた病魔は,遠い彼岸 のはてに
高野公男を連れて行ってしまいました。1955年,
『別
れの一本杉』のヒットから間もなく公男は肺結核に
侵され,翌年9月8日,26歳の若さで帰らぬ人となり
ました。長く生きていれば,もっと多くの作品を残す
ことができたでしょう。日本人にいつまでも歌われ
続ける曲がたくさんできたでしょう。
この高野公男コーナーは箱田小学校にあるものです。こ
のコーナーでは公男さんのさまざまな歴史が分かります。
感想
高野公男さんは最初ヒット曲はなかったものの,あきらめずに
続けていったチャレンジ精神がすばらしいと思いました。
しかし26才の若さで死んでしまったことは,とても残念でなり
ません。別れの一本杉でのヒットはすごい思いました。