ボクスター購入記 電気工学科 6 期 柳原利成 私は 1973 年に電気工学科を卒業し、日本電子株式会社に入社した。同社を知ったのは、 サイエンスという雑誌の走査電子顕微鏡(SEM)の記事だった。ずいぶん後になって知っ たのであるが、日本電子は世界で 2 番目に SEM の商用機を開発したのだそうだ。それで記 事になったのだろう。ちなみに一番は、イギリスのケンブリッジ社で半年前だった。当時、 就職活動の解禁は 5 年生になってからだと思うが、求人募集の封筒の山に、たまたま日本 電子を見つけ、担任であった越川先生に相談した。先生としてはあまりお勧めではなかっ たと記憶しているが、入社試験を受けたら合格してしまった。以来、37 年間同社に勤務し、 2010 年 6 月に定年退職まで 2 年数ヶ月を残して退職した。 同社は今も当時も電子顕微鏡のトップメーカーだが、入社したころは、経営の多角化で いろいろな事業を展開しようとしていた。その中のひとつに、サーモグラフィーがあり、 それを担当することになった。この装置の納入先は大学の研究室、病院、企業の研究所や 品質管理部門、製造部門などさまざまで、製鉄所では灼熱の鉄塊が流れる上や、命綱を付 けて溶鉱炉に登り仕事をしたこともあった。そのような場所では、ガス検知器持参で作業 する。昔は、オーム事件の時のように「カナリア」を連れていったそうだ。溶鉱炉に昇る エレベータには氷柱と塩が置かれておりて「こういう現場ではこれを舐めながら仕事する のか」と思った。艤装前のタンカー(たしか三十万トン)での仕事もあった。ベルトコン ベアで甲板に上がり、30 メートル下のエンジンルームで、高速回転するタービンブレード の温度分布を測定する仕事であった。当時日本電子の工場では、一台の装置は組み立てか ら納品までを一人でおこなっていた。作業が遅れ納期間際の週には、連日ほぼ徹夜で仕上 げ、納品しなければならない事もあった。通用門が閉まると、塀を乗り越えて寮に帰った ものだ。その場を職務質問されたり、寮への連絡を忘れ、4 階の部屋までよじ登ったりした こともあった。「吊革につかまって眠れる」ことを知ったのもこのときだ。 そのような仕事を 10 年ほど経験した後、FTIR(フーリエ変換赤外分光光度計)などの 分析器の生産、納品、アフターサービスなどの仕事をした。20 年ほど前からは、SEM 事業 に携わる機会を得、退職までその応用研究部門にいた。SEM は物体の表面を高倍率(数 10 倍から数 10 万倍)で観察する装置だが、元素分析や結晶方位の解析などもできる。写真は、 アルミ合金中に析出した元素の分布を測定したものである。これは電子顕微鏡学会の写真 コンクールで銀賞を頂いた作品だ。 SEM 像 シリコン ニッケル 5 年ほど前、大阪に単身赴任する事になり、生まれて初めての一人暮らしを経験した。そ こにいた同僚が車好きで、ポルシェにも安い車種があって維持費も国産車並みで、故障も 少ない事を知った。BOX(水平対向)エンジンのスピードスター(同社のオープンモデル名) と言う意味の「ボクスター」だ。車のコマーシャルで「いつかは・・・」というキャッチ コピーがあったが、「定年退職したらそんな車に乗ってみたい」と思うようになり、それま でに資金を準備する計画を立てた。資金は単身赴任手当などの増収分から、大阪での生活 費を引いた残りを充てることにした。そのころ、父が入院し、自家用に作っていた畑の世 話ができなくなっていたので、週末には岐阜の実家に帰り畑の手入れをし、野菜などを持 ち帰っては自炊した。 写真はある日の朝食メニューで、トースト、ピザトースト、目玉焼き、ジャム、ニンジ ンとジャガイモとツナ缶の卵炒め、ヨーグルト、グレープフルーツ、コーヒー。また、あ る日の夕食のメニューは、なすとピーマンの味噌炒め、ゴーヤチャンプルー、大根おろし とえのきの佃煮、切干大根とニンジンの煮物、チキンの香草焼き、ビール(発泡酒) 。たま には出来合いのもので済ませることもあったが、ほとんど手作りだ。ジャムの材料もブラ ックベリー、ラズベリー、ブルーベリー、イチゴ、マーマレードなどは自分で栽培したも のが材料。ヨーグルトも自家製だ。野菜もキノコ以外は自分で栽培したもの、香草(ロー ズマリー)は近くの公園で採集したもの。肉や魚は買うが、保存し易いように干物なども 作った。干物は圧倒的に自家製の方が旨いし、生よりも調理時間も短くグリルの汚れが少 なく手入れが簡単だ。写真は、ハタハタ。サンマやアジなどの干物も良く作った。マンシ ョンは高台にあり部屋は 6 階で、ハエや猫の心配もなく、風通しも良いので良い干物がで きた。ベランダには、レタスやバジルなども栽培してある。作った料理は写真に残してい たので、こんな写真が 350 枚も残っている。 運動不足の解消を兼ね、片道 6km の通勤も自転車にした。支給される通勤費も資金だ。 通勤途上、車にぶつけられたときの賠償金も資金となった。時間に余裕のある出張では、 新幹線を使わず、各駅停車を乗り継いだり、時に深夜バスも利用したりした。回り道する 時は青春 18 切符も利用した。3 年ほどの間の総延長は 13,088km だった。私は鉄道マニア ではないが、もともと列車の旅は好きで、高専在学中の夏休みには、一月かけて北海道の 全路線を制覇しようとしたこともあった。残念ながらいくつかの路線を残したが、今では そのほとんどは廃線となっている。 大阪へ赴任して1年くらいたった頃、ただ節約のために時間をかけるのはつまらないと 思い、このころ読み始めた司馬遼太郎や津本陽の小説の舞台を訪れるようになった。旅の 目的地は、昔から名所、旧跡、神社、仏閣、温泉、博物館などだ。彼らの小説には、各地 のお城が登場する。子供のころから毎日、岐阜城を見て育ったせいかお城が好きで、主な 目的地はお城になった。それらの小説を旅行ガイドブックとして、その後の 5 年間で登城 数は、安土城から始まり、北は出羽鶴岡城から南は琉球首里城まで延べ 162 城であった。 つい先日は、高専への通学経路にあった美濃北方城跡へ行った。城へのアクセスは、ほと んど鉄道と徒歩だが、近場の大阪城(写真左)などは自転車やレンタサイクルも利用した。 ほとんど一人旅だが、家族旅行では、「景色が良い、温泉がある、桜がきれいだから」など と言って立ち寄ったりもした。次の写真は竹田城だ。昨年公開された高倉健主演映画の舞 台となっていたので見覚えのある人もいるだろう。この時は、大阪からレンタカーで、丹 波篠山城から天橋立、出石城をまわり香住温泉で蟹を食べ、翌日は高専の修学旅行で行っ た思い出の、実はよく覚えていない、鳥取砂丘、鳥取城から湯村温泉(NHK 夢千代日記の 舞台)に入り、摩耶山から神戸の夜景(日本三大夜景)を見て帰った。次の写真は日本三大山 城で、天守を持つ城では最も高いところにある備中松山城で、このときだけは相乗りタク シーを利用した。 慣れない地での仕事や単身での生活は大変なこともあったので、この計画は心の支えで もあった。そんな事をしながら定年までいるつもりの大阪であったが、2 年で本社に戻る事 になった。資金計画はくるったが、たまの出張では節約に心がけ、お城めぐりもしながら 1年ほど本社勤務して日本電子を退職した。当初の予定より 2 年早いが、これを機に車を 買う事にした。新車を買う資金はないし、買う気もなかったので中古車捜しを始めた。失 業中なので時間はたっぷりある。車種はボクスターかケイマン、年式は 2004 年以降(987 型)、ボディカラーは白系以外、右ハンドル、AT、修復歴なし。これらの条件に合う車を関 東圏と中部圏で捜した。近場の車屋さんへは自転車で行ったりしたが、本気にされなかっ たのか、一向に連絡が無い業者もあった。岐阜では車がないので、もっぱら自転車で車屋 へ通った。再就職のために会社が紹介してくれた講座や、ハローワークへ行ったよりも多 くの時間を車捜しに費やした。が、結局、車をみても良く分からず、業者を信用して現物 を見ることなく写真の車を買った。実際、乗ってみると車高が低いせいかミッドシップエ ンジンのためか、山道では私が運転してもほかの車より速い。高速でも、 「どこまで出るん だ」って感じだ。飛ばしすぎたせいではないと思うが、1 ヶ月後、高速で冷却水が漏れてロ ードサービスを受ける破目になった。それまで、車から降りるとなにか変なにおいがする なと思っていたが、少しずつ漏れていて、ウォータポンプの軸から一気にじゃじゃ漏れに なったようだ。 .. さらに 1 ヶ月後、次のトラブルに見舞われた。これは自分のへまで、縁石にぶつかって 写真のようにタイヤに亀裂が入った。これに気付かず、岐阜から東京まで高速を走ったか と思うと、あぶないところであった。前輪 205/55-17 後輪 235/50-17 のタイヤはどこのカ ーショップにも在庫がなく、車を残し岐阜に戻らなければならなかった。しばらくして、 車両保険が使えることに思い至り、あわててショップに電話し、外したタイヤを探しても らった。幸い処分されていなかったので保険が使えた。だが、保険会社への連絡が遅れた ので岐阜との往復旅費は自費となってしまった。事故が無くても、あと 1 万 km で交換の 必要があったから、2 本分だけでも保険金が出たのはラッキーだったのかもしれない。その 後は今まで特にトラブルもなく、燃費も高速では 11km とまずまず。今はあまり乗る機会 が無く、ほとんどカバーをかけたままになっている。先日の雪の日、近所の子供たちが車 の上に乗って遊んでいたのにはあわてたが、子供が乗ったくらいではソフトトップは大丈 夫な事がわかった。最後の写真は名古屋の産業技術記念館にあったカローラだ。この車は 私が最初に乗ったもので、通学にも使っていた。懐かしくて、つい写真を撮ってしまった。 なお、同館には日本電子の電子顕微鏡(これは透過型)も展示してあるのでお見逃しなく。 今は高専の時以来の電車通学で、再就職先の名古屋工業大学へ通っている。完全リタイ アの暁には 4 人乗れる「911」に換えようか、と現金出納簿だけはせっせとつけ、一駅先ま で自転車で行ったり、弁当持参したりで相変わらず節約を心がけている。 名古屋工業大学では、 学外からの測定依頼を受け付けている。特に SEM と SPM、EPMA、 AES、SIMS、ESCA の表面分析装置 6 機種は学内料金で利用できる。条件を満たせば、無 料測定もできる。私は主に、SEM の測定を担当している。来年度以降もこの事業は継続さ れる予定だし、測定の相談は無料なので、興味があれば、以下のホームページを見てほし い。http://kyoyonavi.mext.go.jp/ http://hyomen.irc.nitech.ac.jp/
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