7 しきないしゃ の高い式内社が多いことも特徴の一つ です。高鴨神社や長柄神社の社殿は、 もちろん当時のものではありませんが、 特色ある建造物としてそれぞれ国や県 の重要文化財に指定されています。 高鴨神社 国指定の寺院建築としては鎌倉時代 とうば 建立の安楽寺の塔婆、民家としては江 戸初期の中村邸があり、それぞれ当時 の建築様式を現在に伝えるものとして 貴重です。このほか葛城の地域には、 創建が古く、格式の高い社寺が多いた め、国や県の重要文化財に指定されて いる仏像や神像なども少なくありませ ん。 月号からは、背景となった歴史事 象をできるだけ盛り込みながら、こう した市内の文化財を紹介していきたい と思います。 6 編集後記 年前にテレビ放映され ていた松本零士原作のアニ メ『1000年女王』全 話をDVDで観る機会を得 た。同氏の作品としては、 『ヤマト』や『999』ほど 人気作ではないが、個人的 には最も好きな作品である。 着想の大胆さ、壮大なスケ ール感、スリリングで謎め いたストーリー展開、作中 随所に盛り込まれた自己犠 牲と人類愛のメッセージ…。 そして何よりもヒロインに のしかかる切なく悲しい運 命が観る者の胸を締め付け る。特に最終回はあまりに も悲痛で、当時中学生だっ た私は、その夜ふとんの中 でいつまでも泣いていたの を覚えている。私にとって は不朽の名作である。… 42 (久) 5 2008. 来の古墳文化の融合を示す、最古の事 例として広く知られています。最近の 條ウル神古墳の調査では、巨大な石室 と家形石棺が話題になりました。 うじでら 巨勢氏の氏寺であった巨勢寺跡(国 せいち 史跡)は、現在では精緻な細工が施さ とうしんそ きだん れた塔心礎とそれをのせる基壇しかみ ることができませんが、発掘調査によ がらんはいち って東面する法隆寺式の伽藍配置であ ったことが判明しており、往事の壮大 しの さを偲ばせるものとなっています。 このほか、古代から禅行修道の場と なった金剛山や、その山腹に所在する 初期の古代寺院、高宮廃寺が国の史跡 に指定されています。 えんぎ また、 世紀初頭に成立した「延喜 しき 式」に記載のある神社、つまり、格式 鴨都波遺跡第15次調査の様子 生涯学習課文化財係 ☎内線696 御所市の 文化財概観 5 御所市 一 帯 は 、 天 皇 家 の 外 戚 と し て かつらぎ けいたい 権勢を誇った葛城氏や、継体天皇の擁 こ せ 立に功績のあった巨勢氏の本貫地であ ったこと か ら 、 と り わ け 〜 世 紀 の 遺跡や史 跡 に は 目 を 見 張 る も の が あ り かつらぎそつひこ ます。 葛 城 襲 津 彦 の 墓 の 有 力 な 候 補 と される墳長238㍍の室宮山古墳(国 史跡)は 世 紀 前 葉 の 古 墳 と し て は 破 格 の 規 模 を 誇 り 、 全 国 で も 唯 一 、「 王 ひつぎ ながもちがたせっかん たてあなしき の柩」といわれる長持形石棺を竪穴式 せきしつ 石室に安置されたままの状態でみるこ とができ る 古 墳 と し て 著 名 で 、 全 国 か らの見学 者 が 絶 え ま せ ん 。 また、 巨 勢 氏 の 盟 主 の 墓 と み ら れ る みどろ れんげもん 水泥南古墳の、蓮華文(ハスの花の文 様)が刻 ま れ た 家 形 石 棺 は 、 そ の 時 代 に新たに 伝 わ り 始 め た 仏 教 文 化 と 、 旧 5 文化財探訪 其の一 ふるさと御所 10 27 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 せきじん 後期旧石器時代は石刃技法(図1) という石器製作法により特徴付けられ げんせき ます。これは石器の材料となる原石の だめん 端を計画的に打ち欠いて、打面(作業 面と言ってよい)を最初に作った後に、 はくへん 連続的に規格的な剥片素材(石刃)を 多量生産するという、非常に効率の良 い方法でした。この石刃にさらに調整 を加えることにより、後期旧石器時代 を代表するナイフ形石器(図2)など が製作されます。 ほどこ ナイフ形石器には刃を潰す加工が施 されるので、その箇所に指を添えて実 際にナイフのようにして用いられたこ けもの しゅりょう ともあったようですが、獣を狩猟する ためのヤリ先としての用途も重視され ます。 つぶ 石刃 旧石器時代 10 5 図2 桜ヶ丘第1地点遺跡(香芝市 関屋)出土 ナイフ形石器 香芝市二上山博物館 蔵 近辺では、香芝市の二上山北麓に広 がる旧石器時代の遺跡群が有名です。 きせき 二上山ではサヌカイトと呼ばれる輝石 あんざんがん 安山岩の一種が産出します。サヌカイ トはガラス質の岩石で、打ち欠くと貝 殻状に割れて鋭い刃が出来るので、打 製石器の材料として重宝されました。 近畿地方のナイフ形石器は、打面に 対して横方向に長い剥片を取るという、 世界的にも珍しい、瀬戸内技法と呼ば れる石刃技法の一種から作られます。 これはサヌカイトの石質に、より適応 もさく した技法が模索されたことによるので しょう。 残念ながら現在のところ、御所市内 ではナイフ形石器をはじめとする旧石 器時代の遺跡・遺物は知られていませ ん。しかし、これは土石流の影響によ さんろく るもので、きっと金剛・葛城山麓など の地中深くに埋もれているものと思っ ています。 編集後記 月の連休、久しぶりに 南アルプス南部へ分け入っ て来ました。静岡市中心部 からバスを乗り継ぐこと 時間、その後徒歩で 時間。 たどり着いた大井川源流地 域は、製紙会社と電源開発 の施設など人工物が散在す る一方、周囲は恐ろしく深 い山また山という不思議な 環境。ただし交通の便が極 めて悪いため、観光客や登 山客の姿は全くなく、世間 けん のゴールデンウィークの喧 そう 噪とは無縁の静寂の時間が そこにはありました。… 4 (久) 赤石岳 20 6 3 石刃を剥ぐ 打面をつくる 文化財探訪 生涯学習課文化財係 ☎内線696 ホモ・ サ ピ エ ン ス は 約 万 年 前 に ア フリカで 誕 生 し 、 約 万 年 前 に は ホ モ ・サピエンス・ネアンデルターレンシ スとして 、 ま た 、 約 〜 万 年 前 に は ホモ・サ ピ エ ン ス ・ サ ピ エ ン ス と し て 二度にわ た り 世 界 へ 広 が っ て い き ま す が、現世 人 類 は い ず れ も 後 者 の ホ モ ・ サピエン ス ・ サ ピ エ ン ス と さ れ ま す 。 氷期( い わ ゆ る 氷 河 時 代 ) に は 海 水 面が数十 メ ー ト ル か ら 百 メ ー ト ル 以 上 低くなり、陸の面積が大幅に増えます。 日本列島はほとんど大陸と陸続きとな っていま し た が 、 つ い に 約 万 年 前 、 ウルム氷 期 ( 氷 河 時 代 の 最 後 の 段 階 ) のうちに 、 後 期 旧 石 器 文 化 を 携 え た ホ モ・サピ エ ン ス ・ サ ピ エ ン ス が 日 本 列 島にもや っ て 来 ま し た 。 5 6 2008. 図1 石刃技法の工程(鎌木義昌「旧石器時代論」 『岩波講座日本歴史』1、1975年から) 其の二 ふるさと御所 5 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 4 文化財探訪 4 りできることにより動物性タンパクの、 それぞれの供給量を大きく増やすこと を可能にしたからです。 せきぞく 50 柱穴 縄文時代〈1〉 小河道 2cm 石鏃(やじり) おうきむけいしき 凹基無茎式の縄文時代の 典型的な石鏃。 観音寺本馬遺跡出土 編集後記 雨降りの続く梅雨の時期 は、どうしても室内に閉じ こもることが多くなります。 そんなとき欠かせないのが オーディオです。雨だれの 音をBGMに聴く楽曲は、 ハイドンの弦楽四重奏曲や モーツァルトのクラリネッ ト五重奏曲など、やはりサ クッと心地良く聞ける室内 楽が主になりますが、J ・ S・バッハのロ短調ミサ曲 やマタイ受難曲のような普 段ゆっくり聴けないような 長大作品を落ち着いて聴く にも好適な季節であると言 えるでしょう。いずれにし ても、日ごろ見向きもされ ずラックの隅っこで眠って いる不遇のCDたちが、よ うやく日の目を浴びる目覚 めの季節でもあります。 (久) 7 2008. 5 3 め、大集落は解体し、分村化してゆく ことが知られています。一方、西日本 の縄文文化は、中期までは亜熱帯に近 い気候であったためにやや低調ですが、 後期に入るころから少し活性化します。 小林遺跡は、この時期(縄文中期末 〜後期初)の御所市内の遺跡です。小 林遺跡では、幅 ㎝ ほどの急流の小河 道の周りに小屋を設けた石器製作場が 見つかっています。出土遺物にはサヌ カイトを荒割りした石器素材、荒割り くさび たたきいし に使ったとみられる楔形石器や叩石と 台石、縄文土器片などがあります。こ のほか御所市内の縄文後期の遺跡とし たまで くじら ては、玉手遺跡や櫛羅遺跡が知られて います。 小林遺跡の石器加工場(東から) 生涯学習課文化財係 ☎内線696 1 7 3 0 5 また、温暖な気候は、縄文中期(約 千年前)の、とりわけ東北〜甲信越 さち 地方に豊かな自然の幸をもたらせまし さんないまるやま た。例えば、青森県三内丸山遺跡は直 径にしておよそ500ⅿ にも達する縄 文時代最大の集落で、クリの栽培など まかな により多くの人口を賄うことができた なかざと とみられています。また、東京都中里 かいづか 貝塚では幅100ⅿ 、長さ500ⅿ 、 厚さ ⅿ 以上にも達する貝層が知られ、 しかもそれは旬の季節に採れたハマグ リとカキのみで形成されていたという から驚きです。これらは加工して交換 財にされたとみられています。 こうした生活の余裕は、精神性を豊 かに発達させました。立体的かつ複雑 こうえんぶ か え ん ど き に口縁部を飾ることで有名な火焔土器 も、この時期の甲信越地方の産物です。 「豊かな縄文時代」とは、まさにこの ようなものを指すわけです。 しかし、縄文後期(約 千年前)に なると、気候変動をはじめさまざまな かげ 要因からこの豊かさにも翳りが見え始 4 其の三 ふるさと御所 氷期( い わ ゆ る 氷 河 時 代 ) は 約 万 千年前 に よ う や く 終 わ り 、 次 第 に 温 暖になっ て い き ま し た 。 お よ そ 千 年 前から 千 年 前 に か け て は 現 在 よ り も 温暖で、 ピ ー ク 時 に は 海 面 は 〜 m じょうもんかいしん 程度も高 く 、 こ れ を 縄 文 海 進 と 呼 ん で います。 縄文時 代 は 氷 期 の 終 わ り と 時 を ほ ぼ 同じくし て 始 ま り 、 今 か ら お よ そ 千 年前まで 続 き ま す 。 縄 文 時 代 は 土 器 の 発明によ り そ の 前 の 旧 石 器 時 代 と 区 分 されます が 、 土 器 に 加 え 弓 矢 の 発 明 は しゅりょうさいしゅう 狩猟採集による生活を画期的に豊かに し、定住生活を可能にしました。つま り、土器 は 採 集 し た 堅 果 類 ( ド ン グ リ やクリな ど ) を 煮 る こ と に よ り 植 物 性 タンパク の 、 弓 矢 は 動 物 を 能 率 良 く 狩 2 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 〉 写真① 観音寺本馬遺跡の住居跡 19 通路 写真② 石冠 初から完成された姿であったことが分 かります。弥生早期とも位置付けられ るようになったこの時期は、今から約 2800〜2700年前とみられます。 さて、平成 年度の京奈和自動車道 建設に伴う発掘調査では、その直前の 時期、今から約3000〜2800年 前(縄文晩期中ごろ:近畿では滋賀里 かんのんじほんま Ⅲa 及びⅢb式)の観音寺本馬遺跡が 新規発見されました。 写真①は住居跡 とみられる遺構で ろ す。中央の炉を囲 んで直径約 ⅿ の 円形に遺物が分布 する範囲があり、 据え置きの柱による、やや簡易な構造 の建物の存在が想定されます。 せっかん この住居跡の床面からは石冠(写真 ふかばち ②)や深鉢(写真③) など豊富な石器や土器 が出土しました。石冠 は高さ ㎝ で男女の性 じゅじゅつぐ 器を抽象化した呪術具 とみられています。深 鉢は口径 ㎝ で、外面 こんせき には火を受けた痕跡が あり、水を入れて堅果類(ドングリや クリ)を煮たものでしょう。口縁部に はしまくら は箸枕状突起とリボン状突起を合成し た装飾があります。 ちゅうこう やや離れた場所から出土した注口土 きゅうす どびん 器(写真④)は、現在の急須や土瓶の ような形をした 土器で、口径は ㎝ を測ります。 竹管を押しつけ は たり粘土を貼り 付けたりして表 面を飾っており、 大変珍しい文様構成です。 元来は、石冠は東北〜中部地方の縄 文中期に、また、このような形の注口 土器は東北〜関東地方の縄文後期に起 源をもちます。北部九州にもたらされ た弥生文化に西日本が急激に移行する のは、観音寺本馬遺跡で生活が営まれ たころから、わずか200〜300年 ほど後のことでした。 8 34 縄文時代〈 56 2 生涯学習課文化財係 ☎内線696 従来、 縄 文 時 代 と 弥 生 時 代 の 区 別 は おんががわ 明らかで し た 。 遠 賀 川 式 土 器 と も 言 わ れる弥生 前 期 の 土 器 と 共 に 、 朝 鮮 半 島 から稲作 農 耕 と 金 属 器 が 伝 わ っ た と さ れていた か ら で す 。 しかし 昭 和 〜 年 に か け て 、 福 岡 いたつけ 県福岡市の板付遺跡と佐賀県唐津市の なばたけ 菜畑遺跡において相次いで、それまで ゆ 縄文晩期 後 半 に 位 置 付 け ら れ て い た 夜 うす 臼式土器(近畿では滋賀里Ⅳ式に併行) に伴う水 田 跡 が 発 掘 さ れ 、 常 識 は 覆 り ました。 し か も 両 遺 跡 で 見 つ か っ た 水 やいた くい けいはん 田は、矢板や杭によって水路や畦畔(う ね・あぜ)を補強する本格的なもので、 くわ すき 耕作に必要な鍬・鋤などの農耕具もそ ろって出 土 し ま し た 。 こ の こ と か ら 稲 作は、ま ず 北 部 九 州 に も た ら さ れ 、 当 編集後記 飛騨の名峰、乗鞍岳に登 ってきました。3千mを超 える山ですが、頂上付近ま で路線バスで上がれるので、 何か申し訳ないと思えるほ ど楽な登山でした。膨大な 量の残雪と特有の雄大な地 形景観が素晴らしく、さら には、梅雨の最中にもかか わらず天候にも恵まれ、早 朝には感動的な御来光を眺 めることができました。 (久) 8 2008. 写真③ 深鉢 写真④ 注口土器 炉 8 文化財探訪 53 住居跡 其の四 ふるさと御所 写真1 観音寺本馬遺跡の住居跡 13 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 編集後記 北京オリンピック、柔道 男子 ㎏ 級の決勝戦には大 変感動しました。試合は韓 国選手とオーストリア選手 が戦い、韓国選手が一本勝 ちしたのですが、敗れたオ ーストリア選手は勝者に対 しとても友愛的で、感激に 泣き崩れる韓国選手を助け 起こして優しく抱きしめ、 さらに勝者をたたえて手を とり高々と差し上げたので すがすが した。何という清々しさ。 とかく自国の勝利のみが優 先されがちなオリンピック 競技にあって、これぞスポ ーツマンシップというべき 心温まる光景でした。折し もこの日は 月 日。敵味 方の区別なく相手を思いや る心の積み重ねが世界平和 をもたらすのでしょう。 60 岸 12 の護 水路 古い 弥生時代〈1〉 弥生人も必死 農業用水路の確保 護 岸 の 度重なる水路の改修の状況 水路は度重なる洪水によって破壊さ れてしまうので、およそ100年ほど の間に 回以上もの大がかりな改修が 行われ、さらにはそれに数倍する補修 が行われました。ときには住居の建築 はり くわ 部材としての梁や農具としての鍬の未 製品なども護岸材として転用されてお り、護岸の緊急性と鴨都波弥生人の農 ほうふつ 耕にかけた執念を彷彿とさせるものに なっています。 護岸材は、当初は横木を杭で固定す るものから、次第に矢板を用いる比率 が増え、最新のものでは大形の矢板を わら 密に打ち込んで稲藁を矢板の前後に編 み込むようにして護岸するものへと変 化します。わずか100年ほどの間に 大きな技術革新がなされていることが 分かり、護岸水路発達の歴史を知る上 でも貴重な発見となりました。 (久) 2008. 9 9 文化財探訪 朝鮮半 島 か ら の 渡 来 人 に よ っ て も た らされた 稲 作 文 化 は 弥 生 早 期 ( お よ そ 2700年前)までに 北部九州地方に定着し、 弥生前期(2500〜 2300年前:紀元前 〜 世紀)には近畿 地方までの西日本全体 が急激に弥生文化へと 移行することになりま す。弥生時代には従来 しゅりょうさいしゅう の狩猟採集の経済に加 え、稲作農耕と金属器 (青銅器・鉄器)の使用 により生産性が飛躍的 に高まりました。 か も つ ば い せ き 鴨都波遺跡(三室・柳田町ほか所在) は南葛城を代表する拠点的大集落(母 集落)で、弥生前期から古墳時代後期 ( 世紀)の長期間にわたって集落が 営まれました。 かんがいしせつ 稲作農耕には灌漑施設が不可欠なた め、集落の構成員総出で大がかりな共 同工事が行われます。鴨都波遺跡第 次調査地(三室)では、 弥生中期後半(紀 元 年〜 世紀ごろ)の大規模な護岸 水路が見つかりました。 調査区となった西端から東端までの くい やいた よこぎ m 以上にわたり、杭・矢板・横木で 護岸された水路はほかには知られてい ません。調査対象にできた護岸材は8 41本に及び、調査の及ばなかった下 層の水路の護岸材や鴨都波遺跡全体の ものも含めると、その数は膨大なもの となるはずです。 8 新 し い 水 路 6 其の五 生涯学習課文化財係 ☎内線696 鴨都波遺跡の護岸水路(西から) 6 6 4 0 40 ふるさと御所 1 新(手前)・旧(奥)の矢板列 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 弥生時代〈 〉 環濠集落と 弥生人の住まい ろ めに不可欠の炉が設けられます。この ような竪穴式住居は、鴨都波遺跡でも 多数見つかっています(図 ) 。 集落には住居のほか、田畑で収穫し たかゆかしきそう た稲や作物を保管するための高床式倉 こ 庫、敵の接近をいち早く発見するため ぼうろう の 望 楼 (見張 り台)、各種工房、井戸 はいぜつ などが設けられます。井戸を廃絶する おさ に際しては、その底に土器が納められ ています(図 ) 。おそらく土器の中に は米や酒などが入れられ、水の神様に せいすい 感謝し、新たに掘削する井戸に清水が み いの ささ 充ちるよう祈りが捧げられたのでしょ う。近現代にも通じるこのような風習 は、2500年以上前の弥生時代に起 源を持っています。 図1 ㈶横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センター 『調査研究集録1』 、1976年 から転載許可(横歴埋第104号)。 図3 考古学研究会=都出比呂志「竪穴式住居の周堤と壁体」『考古学研究』 第22巻第2号、1975年、考古学研究会 から転載許可。 2 生涯学習課文化財係 ☎内線696 図2 鴨都波遺跡の大溝 (第11次調査) 11 2.5 2 図3 竪穴式住居復原案 弥生集落の特徴と言えます。 か も つ ば い せ き 鴨都波遺跡は地形上の制約から集落 を完周する環濠こそ持っていませんが、 第 次調査(三室)では、集落の南端 を画する幅 m 、深さ m 以上の大溝 (図 )が見つかっています。こうした 環濠や大溝は、弥生社会が戦闘状態に 備える防御集落を必要としたことを示 しています。 たてあなしき 環濠内部の弥生人の住まいは竪穴式 住居(図 )と言われるものです。直 しゅうへきこう 径 〜 m 程度の竪穴を掘り、周壁溝 くい に杭を打って板材を固定することによ かべ しゅう り壁とし、雨水が進入しないように周 てい 堤を巡らせます。屋内には通常 本な けた いし 本の柱を埋め込み、桁材を渡し、 つか むなぎ たるき 桁の上に束を立てて支えた棟木に垂木 か を架けて かやぶきやね 茅葺屋根 を支える ものと考 えられて います。 ゆか また、床 めん 面の中央 付近には 調理や暖 を取るた 4 【転載許可】 3.9 3 12 5 編集後記 北アルプスの上高地から 蝶ヶ岳に登ってきました。 初日は猛烈な雨で、真っ白 いガスの世界でしたが、翌 日は晴れ渡り、期待してい た槍・穂高連峰の大パノラ マが視界いっぱいに広がり、 長い縦走路の道中、目を楽 しませてくれました。… (久) 10 2008. 図4 鴨都波遺跡の竪穴式住居 (第11次調査) 図5 井戸の祭り (第11次調査) だえんけい 1 2 6 4 文化財探訪 其の六 ふるさと御所 弥生時 代 の 集 落 は 、 楕 円 形 や 不 整 円 ほり 形に巡ら さ れ た 濠 に 取 り 囲 ま れ て い る ことを通 有 と し ま す 。 集 落 が 全 掘 さ れ まれ た稀なものとして、図 に横浜市の大 塚遺跡例 を 掲 げ て お き ま し た が 、 こ う かんごうしゅうらく すいとうのうこう した弥生時代の環濠集落は、水稲農耕 技術をも た ら し た 渡 来 者 集 団 の 故 郷 の しゅんじゅうせんごく 集落造成 技 術 で あ り 、 中 国 の 春 秋 戦 国 時代(紀元前770 じょうかくと 年〜)以来の城郭都 し 市が変形した姿とみ られています。つま り居住域としての環 濠内部と、墓地や水 田域としての環濠外 部の使い分けが明確 になされているのが 図1 大塚遺跡(横浜市)の環濠集落 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 〉 3 弥生時代〈 12 環濠集落と 弥生人の住まい 水文様)であるのに対して、もう片 おうたいもん 面(B面)の文様が横帯文(細線の こうし 格子で埋められた幅広の横方向直線 帯を主とした文様)となっており、 A・B面の文様原理を違えること、 たちゅうさいもんきょう もう一つは多鈕細文鏡と呼ばれる朝 鮮半島製の青銅鏡(写真 )と一緒 に埋められていた(地下約 ㎝ )こ とです。変わった顔をした、他とは 少し異なる使われ方をした銅鐸、と 言えるかもしれません。 ※写真1 〜 3は、いずれも東京国立博物館から貸し出し許可済み。 Image:TNM Image Archives Source:http://TnmArchives.jp/ ましたが、古墳時代に入る直前に一 斉にその使用が中止されます。つま り銅鐸の祭りは古墳時代の施政者に い とって忌むべきものだった、という ことになります。したがって名柄銅 鐸の場合は紀元前 世紀ごろに作ら れ、以降、五百年以上にわたって用 い続けられたことになります。 さて、名柄銅鐸は大変珍しい銅鐸 として著名です。一つは片面(A面) りゅうすいもん の文様が流水文(櫛状工具による曲 6 70 写真1 名柄銅鐸A面(総高 ・ ㎝ ) 写真 名柄出土の多鈕細文鏡 東京国立博物館蔵(重要文化財) (直径 ・ ㎝ ) 東京国立博物館蔵(重要文化財) 7 2 写真 鴨都波遺跡 次調査出土 銅鐸形ミニチュア土製品 写真 名柄銅鐸B面(同) (残存高 ㎝ ) 東京国立博物館蔵(重要文化財) ( 名 柄 銅 鐸 B面 と 同 様 、 横 帯 文 を表現する) 15 4.7 文化財探訪 いん りますが、銅鐸もまた日本列島内 (近 畿地方とその周縁地域)で製作され るようになると大形化が進みます。 御所市名柄出土の銅鐸(写真 ・ )は、比較的古式の巨大化が進む ちゅう 以前のもので高さは ㎝ ほど、鈕(吊 り手部分)には吊り下げたことによ る損傷がみられ、表面は長期の使用 まもう もんよう により摩耗して文様も分かりにくく なっています。名柄銅鐸は内面に下 げられた舌により当時実際に打ち鳴 らされたものですが、続く世代の銅 鐸は次第に巨大化が進むのに反して その鈕は薄く扁平になり、不必要な 装飾がにぎやかとなって、もはや銅 鐸本体を吊り下げるための強度を持 たなくなります。「聞く銅鐸」 から 「見 る銅鐸」へと銅鐸は変化するという わけです。ちなみに「見る銅鐸」の 最大のものは総高130㎝ を超える 巨大なものとなっています。 「聞く銅鐸」は近畿地方を中心に 分布し、周縁に行くに従って「見る 銅鐸」の比率が増えてゆきます。こ れは銅鐸の祭りの始まったのが早い か遅いかを示すものと考えられてい ます。また、銅鐸は日本列島ではム ラ全体が管理するものとなって、常 時はムラの境界あたりに布に包まれ るなどして大切に埋められ、毎年の 収穫の祭りの際に掘り出されて用い られたものと考えられています。銅 鐸の祭りは弥生時代を通じて行われ 3 4 広報ごせ 2008年11月号 22 其の七 ふるさと御所 中国では、殷(紀元前1400年 ごろ〜) の 時 代 か ら 、 牛 ・ 馬 ・ 犬 な すず ど家畜の 首 に 青 銅 製 の 鈴 が 付 け ら れ ぜつ ていました。この鈴の内部には舌と つ 呼ばれる小さな棒が吊り下げられ、 揺れて鈴 の 内 面 に 舌 が 当 た る 度 、 カ ランカラ ン と い う 軽 や か な 金 属 音 を 発したの で す 。 朝 鮮 半 島 で は こ の 銅 きしょう 鈴は稀少であったため個人の持ち物 となり、 ま た 、 こ れ が や や 大 き く 作 られるよ う に な っ て 、 高 さ ㎝ 程 度 どうたく までの小 形 の 銅 鐸 と し て も 墓 に 副 葬 されるよ う に な り ま し た 。 ほ ど な く 日本列島 に も た ら さ れ た 青 銅 製 の 武 どうけん どうほこ どうか 器(銅剣・銅矛・銅戈)も九州地方 へんぺい に根付い て 大 形 化 、 扁 平 化 が 進 み 、 さいき 実用の武器からはほど遠い祭器とな 2 2 生涯学習課文化財係 ☎内線696 15 市役所は☎62-3001 2 25 1 ⑧ ⑩ 4 槽(破損品) (木製の大きな入れ物) 臼 玉杓子未製品 もくせいたかつき 1 2 編集後記 ありがとうございました ****10月分**** (久) 小惑星アポフィスが今か ら 年後の2036年に地 球に衝突する確率が450 分の1あるらしい。映画「ア ルマゲドン」が現実になる のだろうか?人々が累々と 築き上げた財産や名誉もす さいか べて一つの災禍に滅却され るのだとすれば、些細なこ とに一喜一憂している私た ちの人生とは、いかなる価 値を持つのだろうか。… ♥件数 9件 ※H20年度累計 20件 12 ♥寄附金額 201,300円 ※H20年度累計 848,300円 2008. 組み合わせ式の木製高杯(杯部) 三連の広鍬未製品出土状態 (二連から四連のまま効率よく 原材から削り出す) たまじゃくし 匙(破損品) さじ 杓子未製品 28 ふるさと納税 な木器が出土しています。写真 の⑨ え は完成した広鍬の破損品で、柄が装着 されたままの状態で出土しました。柄 には曲げの力に対して粘り強いサカキ が用いられ、写真 の⑩の鋤(スコッ けんろう プ)には堅牢なアカガシが用いられて います。このように樹種ごとの特性を 熟知して木器を製作する様は、弥生文 化が既に完成された状態で日本列島に もたらされたことの証左の一つと言え るでしょう。このほか、弥生人の生活 の豊かさを示すかのようなさまざまな 木器を写真(左)で紹介しておきます。 そう 写真3 集水マス内の 広鍬未製品の集積 の途中に設けられた集水マス(写真 ) の内部から、重ねられた状態で発見(写 真 )されました。この集水マスは突 然の洪水によって埋没してしまうので ま すが、それを目の当たりにしたであろ う、この弥生農具製作者の気持ちを考 えると、同情を禁じ得ません。 さて、集水マスはその名のとおり水 た を溜めるための施設で、農具をこのよ すき うに入れておくのは、鍬や鋤のように 土を掘る道具は、堅くて丈夫であるこ とが求められるため、特にアカガシを 選んで作られますが、自然に乾燥させ ると表面のひび割れが進むために、一 つ 度、水に浸け込む必要があったからで す。なお、この集水マスからは、鍬を 打ち下ろしたときに後方への土や泥の どろよけぐ 跳ね上がりを防ぐための泥除具の未製 品(写真 の⑦・⑧)も出土しています。 また、護岸水路の中からはさまざま 1 〉 12 写真2 集水マス 全景(西から) 3 4 生涯学習課文化財係 ☎内線696 弥生時代〈 1 道具❶ 木器 ⑥ しゃくし うす 文化財探訪 写真1 広鍬未製品・泥除 具未製品・鋤未製品など ① ⑨ ② 9 ④ ③ 0 其の八 ふるさと御所 弥生時 代 の 祭 器 と し て は 先 月 号 で 紹 どうたく 介した 銅 鐸 な ど 青 銅 器 が 有 名 で す が 、 実際の生 活 や 生 産 活 動 に 深 く か か わ っ て用いられた道具は木器、土器、石器、 そして鉄 器 で す 。 か も つ ば 月号で紹介した鴨都波遺跡第 次 調査の紀 元 年 か ら 世 紀 ご ろ の 護 岸 水路では 、 埋 没 し て も な お 地 下 水 が 豊 富に流れていたた め、木器も良好な 状態で遺存してい ました。 写真 は出土し た農具を集めたも のです。①〜⑥は ひろくわ 広鍬 未製品で、う ち つは護岸水路 ⑤ ⑦ 1 1 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 生涯学習課文化財係 ☎内線696 柱穴 さきに 月号で紹介した観音寺本馬 遺跡の発掘調査を現在も継続して実施 しています。今月号ではシリーズの番 外編として、その後の成果をご紹介し ます。なお、地元自治会のご理解ご協 力のもと、昨年 月 日には現地説明 会を開催し、多くの人に参加していた だきました。酷寒酷暑の中で作業する 私たちも報われる思いです。誠にあり がとうございました。 さて、観音寺本馬遺跡は、今から約 3000年前、縄文時代晩期中ごろの 遺跡で、平成 年度の調査では、地中 はしらざい に埋め込んだ柱材を今に残す、平地式 住居(写真 )の発見が特筆されます。 直径約 ⅿ の住居の中央付近には、調 ろ 理をしたり暖をとるための炉が設けら れ、その焼けた土には炭化したドング リなども残されていました。 ど き か ん ぼ この住居のすぐ東には土器棺墓(写 真 )が 基まとまって設けられてい はか ふかばち ます。この墓に用いられた深鉢と呼ば れる土器は、大きいもので高さ ㎝ を 測り、いずれも斜めの状態で埋められ ていました。骨は残っていませんでし たが、他の遺跡の例から乳幼児の墓の 写真3 口を大き く開けた土偶 可能性が高いものとみられます。 また、この住居周辺からは、土器、 どぐう うるしぬ 土偶、石器、漆塗り木製品などが出土 しました。土偶は西日本の縄文晩期に へんぺい (写 特徴的な扁平なものです。うち 点 真 )は口を大きく開いた表現の、全 体の高さ ㎝ ほどのもので、おなかい っぱい食べることができるように、と の思いを込めて作られたのでしょう。 柱穴 柱穴 編集後記 (久) 名柄小でプラネタリウム の取材をし、 年近く前の 記憶が脳裏に蘇りました。 氷点下 ℃近くまで冷え込 んだ晩秋の標高 千m 。北 穂高岳の幕営場で、深夜テ ントを抜け出し、寒さに身 を丸めながらも、星々で際 限なく埋め尽くされた白い 夜空を飽きることなく眺め 続けていました。忘れられ ない青春の一コマです。 20 よみがえ **平成20年11月分** 10 ありがとうございました 3 11 1 別の土偶は、高さわずか7㎝ ほどと こかん 推定される小さなものですが、股間に 女性器の表現が見られ、また、出土し せきぼう た石器のうち石棒は、男性器を表現し たものです。縄文人にとっては、子ど もが生まれ元気に育つことも大きな関 心事であったことが分かります。土器 棺墓を住居のそばに設ける風習も、同 様の思いに発するものなのでしょう。 口を大きく開けた土偶に象徴される ように、縄文時代の西日本における食 糧事情は決して良いものとは言えず、 乳幼児の死亡率も高かったことでしょ う。 観音寺本馬遺跡から200〜300 年後、西日本が急激に、稲作を伴う弥 生文化に移行するのには、このような 事情もあったとみられています。 ふるさと納税 3 ♥寄附件数 7件 ※H20年度累計 27件 1 ♥寄附金額 735,000円 ※H20年度累計 1,583,300円 2009. 41 写真2 穴に納め られた土器棺墓 12 20 1 8 9 3 観音寺本馬遺跡 の発掘調査 柱穴 柱穴 文化財探訪 柱穴 炉 柱穴 土器だまり 番外編 ふるさと御所 土器棺墓→ 土器棺墓 ↓ ←土器棺墓 柱穴 写真1 住居と周辺の遺構 2 7 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 長頸壺 長頸壺 〉 ミニチュア土器 写真1 後期(2世紀ごろ)の土器(鴨都波遺跡出土) か も つ ば 弥生時代〈 甕 生涯学習課文化財係 ☎内線696 5 細頸壺 自動車など、同じ車種であっても 製造された時期によりそれぞれに型 が変わっていきます。古いものから 順に最新のモデルまで並べてみると、 変化に方向性を見て取ることができ ます。このことにより、それぞれの 型の先後関係を一定程度認識するこ とができるわけで、考古学の場合に はこの認識を、土層の上下関係や遺 構の先後関係によって検証し、時期 ごとに遺物などの先後関係を決定し へんねん て、編年がなされています。 この際に時間の物差しとして最も 有用なのは土器です。これは土器の 材料が粘土であるために、形状や文 こ 様の流行といった時代背景や、凝り あ あるいは飽きといった心理状況が土 写真2は、前期末(紀元前3世紀 ヘ ラ 器製作にあたって鋭敏に反映するこ ごろ)の壺の肩部分に施されたヘラ がきちんせんもん とによります。 描沈線文と呼ばれる文様です。この とが 弥生土器の場合には、用途により 場合のヘラとは、先を尖らせた棒あ ちょぞう つぼ しゃふつ 貯蔵形態としての壺、煮沸形態とし るいはヘラ状の文様原体のことを指 かめ きょうさん ての甕、供餐(お供え用、盛りつけ し、線は1本ずつ引かれるので2本 たかつき 用または食事用)形態としての高坏 の線は平行にはなっていません。 はち ・鉢などに機能分化がなされており 中期に入る(紀元前2世紀ごろ) (写真1)、それぞれに地域や時期に と、板の先端をギザギザに加工した くし よって形状や文様などが変化してい 櫛状原体が考案され、紀元前1世紀 きます。奈良県域の弥生土器の場合 ごろまでには土器を乗せる回転台が には、 以上もの時期別の様式に細 登場することとも相まって、美しい くしがきちょくせんもん 分されていて、その変化すべてをこ 多条の平行線 (櫛描直線文=写真3) こで述べることは不可能ですので、 が一度に引けるようになります。こ その変化の一端を壺などの表面を飾 の原体を上下に動かしつつ線を引く くしがきはじょうもん る文様によって見ておきたいと思い と波打ったような櫛描波状文(写真 ます。 4)と呼ばれる文様が、また、回転 写真3 櫛描直線文 写真4 櫛描波状文 写真5 櫛描簾状文 か も つ ば 写真 6 櫛描簾状文 +貼付突帯 (写真はいずれも鴨都波 遺跡出土土器) 写真2 ヘラ描沈線文 を細かく止めて原体をその度に器面 くしがき に押し当てるとスダレのような櫛描 れんじょうもん 簾状文(写真5)と呼ばれる文様が 施文されます。写真6は、その上に は さらに粘土帯を貼り付けたものです。 この時期の弥生土器は最も美しく 飾られますが、これをピークとして 次第に無文化が進み、ほとんど文様 を施さない後期(2〜3世紀)の土 器(写真1)へと至ります。 製作時に土器に付いた指跡(とき には指紋も残っている)や施文の方 向などを観察すると、右利きの女性 が弥生土器作りに従事することが多 かったことが分かり、土器の破片一 つ一つから弥生人の息吹が感じられ るようです。 広報ごせ 2009(平成21)年2月号 甕 高坏 広口壺 道具❷ 土器 文化財探訪 其の九 ふるさと御所 16 ね が ⑤ を専業とする集団が生まれていたこと を示します。同様の性格を有する石器 ませいせきふ として、各種の磨製石斧(写真4)も 掲げておきましょう。 前記のようなやや特殊な発達を遂げ る近畿地方における弥生時代の石器文 化ですが、後期( 世紀ごろ)に入る と、消耗率の高い石鏃(矢尻)を除き 石器はみられなくなり、近畿地方にも 鉄器が普及します。 これは弥生時代後期に至って、近畿 地方の各拠点集落が、瀬戸内ルートに はくさい よる朝鮮半島からの鉄の舶載( 輸 ≒入) システムを確立させたことを示すもの であり、この動きは続く古墳時代にお いて、近畿の勢力がリーダーシップを たいどう 取るための胎動となるものと評価でき ます。 2 ④ へんぺいかたばせきふ 〉 18 9 写真2 石鎌(サヌカイト製) 写真3 石剣(サヌカイト製) ③ 弥生時代〈 ために、鎌で根刈りす るのはかえって非効率 ほづみ 的だったようで、穂摘 ぐ 具の使用が一般的です。 せきぞく やじり 石包丁や石鏃(矢尻) など一般的な石器は鴨 都波遺跡の集落内にお いて製作されたものと みられますが、それと は少し性格を異にする 石器もあります。 まれにみられる石鎌(写真2:刃長 ・ ㎝ )は、石器とは思えぬほどの 美しい形状をしているのみならず、細 部の調整も非常に細やか です。この細部調整は、 しか 荒割りした石器素材に鹿 の角の先などを押し当て はくり て少しずつ剥離させるも のですが、現代のわたし たちからすれば、必要以 上に凝った造りといえま す。同様に、石剣(写真 3:長さ ・ ㎝ )もま た、大変凝った造りとい えるでしょう。 10 6 このような必要以上とも思える凝り は、これらの石器が交換財として流通 していたことを示すと共に、その製作 3 いつも「ひまわり号」をご利用いただきありがとうございます。 「ひまわり号」は、車検(継続検査)実施のため上記の期間運休します。 ご不便をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いします。 管財課☎内線234 2009. ふとがたはまぐりばせきふ ①環状石斧部分(武器?) 写真1 石包丁(緑泥片岩製) 写真4 各種の石斧(石材は各種) 6 道具❸ 石器と鉄器 12 8 生涯学習課文化財係 ☎内線696 弥生文 化 は 朝 鮮 半 島 か ら の 渡 来 人 に より、紀 元 前 世 紀 ご ろ ま で に 北 部 九 すいとうのう 州地方に も た ら さ れ 、 当 初 か ら 水 稲 農 こう おおむ そろ 耕技術とそれに伴う各種道具が概ね揃 っていま し た 。 つ ま り 、 日 本 列 島 に は 青銅器時代と鉄器時代がほぼ同時にや って来た 、 と い う こ と に な り ま す 。 ただ、 日 本 海 を 介 し て 朝 鮮 半 島 に 門 戸を開か れ 、 鉄 器 の 入 手 が 可 能 で あ っ た北部九 州 や 山 陰 地 方 以 外 で は 鉄 器 の 普及は大 幅 に 遅 れ 、 利 器 の 素 材 と し て はまだま だ 長 く 石 器 に 依 存 す る こ と に なります 。 か も つ ば 鴨都波遺跡出土の石器を例にとると、 いしぼうちょう 石包丁(写真1:幅 ・ ㎝ )は稲の 穂を摘み 取 る た め の 道 具 で す 。 当 時 の 稲は生育 の 度 合 い に ば ら つ き が あ っ た ④柱状両刃石斧 ⑤扁平片刃石斧 ちょうな (いずれも手斧に使用し、木の表面 をはつる) ちゅうじょうりょうばせきふ 太型蛤刃石斧 (木の伐採用) ② ① ②・③ かんじょうせきふ 文化財探訪 8 其の十 ふるさと御所 コミュニティバス「ひまわり号」運休します コミュ二ティバス「ひまわり号」運休します ◆運休期間 3月23日㈪〜25日㈬ (西コース・東コースとも運休します) 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 は近畿地方とその周辺に集中する傾向 の続く段において「一人の女子が現れた。 ひ み こ が知られていますが、うち、後期の分 名を卑弥呼と言い、年長になっても嫁かず、 ごかんじょ きどう 弥生時代〈 〉 布の特徴は、中国の史書『後漢書』卷 鬼道(まじないや予言など)を用いてよく とういれつでん かんてい れいてい わこくたいらん 八五東夷列傳第七五に「桓帝・霊帝の 衆を惑わしたので、ここに於いて王に共立 倭国大乱と わこく 治 世の間( 年〜 年)、 倭 国 は大い した。 」とすることに良く合致します。 高地性集落 に乱れ、さらに互いに攻め合い、何年 つまり、奈良盆地内の高地性集落に象徴 わこくたいらん やまたいこく も 王がいなかった。」とあることと関 される倭国大乱は、邪馬台国の女王卑弥呼 連のあるものとして注目されています。 の共立によって収束したというわけです。 御所市内の高地性集落もまさに 古墳時代の到来は、まさに目前に迫ってい その時期に営まれており、発掘調 ました。 こ せ や ま 査が行われた巨勢山丘陵上の巨勢 さかいだに はちぶせ 山境谷遺跡・巨勢山八伏遺跡・巨 なかたに くにみやま 勢山中谷遺跡のほか、国見山遺跡、 はんだびら 吐田平遺跡などが知られています。 ノロシ 巨勢山境谷遺跡と巨勢山八伏遺 こんせき やけ 跡ではノロシの痕跡とみられる焼 つち 弥生時 代 は 水 稲 に よ る 農 耕 社 会 で す 土や炭の詰まった穴が見つかって から、集 落 は 平 地 に 営 ま れ る の が 一 般 い ま す ( 写 真 1)。 こ れ は 領 域 内 への外敵の侵入を、母集落である 的ですが 、 と き に は 標 高 〜 ⅿ の 小 高い丘陵 上 や 山 頂 に 集 落 が 営 ま れ る 場 鴨都波遺跡などに対していち早く 合があり ま す 。 知らせるためのものでしょう。 こうちせいしゅうらく 高地性集落と呼ばれるこの種の集落 また、巨勢山中谷遺跡では 棟 せきぞく 以上の住居跡(写真2・3)が検 は稲作には適さず、大形石鏃や金属製 とうだん 鏃あるいは投弾などの出土が目立つの 出されており、高地性集落では恒 常的な居住が行われていたことが で、軍事 的 な 目 的 の た め の 集 落 と み ら れており 、 一 方 で 、 こ の 種 の 集 落 で は 分かります。このほか巨勢山境谷 遺跡では墓の存在(写真4)も知 不用とみ ら れ る 水 田 用 の 石 包 丁 ( 先 月 号参照) な ど も 出 土 す る こ と が あ る た られています。 にげじろ め、戦乱時における逃城としての性格 さて、奈良盆地内の高地性集落 あわ も併せ持っていたと考えられています。 は弥生時代が終わるまでには一斉 に廃絶しますが、これを戦乱の終 高地性 集 落 は 弥 生 中 期 ( 紀 元 前 後 の とら およそ 年 間 ) に は 中 部 瀬 戸 内 か ら 大 結と捉えるならば、先に紹介した 『後漢書』卷八五東夷列傳第七五 阪湾岸に 、 弥 生 後 期 ( 〜 世 紀 ) に 100 2 写真2 巨勢山中谷遺跡の竪穴式住居 1 丘陵上にあり、背景からその標高の 高さがよく分かる。 写真4 巨勢山境谷遺跡の土器棺 かめ 2つの甕を合わせて棺とする。改葬墓か? 編集後記 じゅう 先日、テレビでアレルギ ーの特集をしていました。 実は私も、さまざまな物質 に対してアレルギー反応を 起こす体質なので、決して 人ごとではなく、恐怖すら 感じて見ていました。今は 花粉に苦しめられる日々が 続いています。私はヒノキ が主なので、まだまだこれ からが正念場です。しかし、 私にとって最も恐ろしいの は「そば」です。直接食べ るだけでなく、そばを煮込 んだ汁を飲んだり、そば粉 を吸い込んだりするだけで も、のどの不快感から始ま ほっしん り、発疹、消化管の硬直、 呼吸困難と命にかかわる重 とく 篤症状に陥ります。恐るべ し、アレルギー反応。… (久) 4 2009. 焼土と炭がびっしりと埋まっていた。 この住居跡には土器がたくさん残されていた。 写真3 巨勢山中谷遺跡の竪穴式住居 2 7 生涯学習課文化財係 ☎内線696 200 3 其の十一 ふるさと御所 300 文化財探訪 146 189 5 写真1 ノロシ用の穴(巨勢山八伏遺跡) 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 わ ひ み こ ならばら 北陸系 楢原遺跡出土の、遠隔地からもたらされた土器 ます。大規模な護岸水路、祭殿とみ られる建物、 特殊な出土遺物の存在、 さらに纒向弥生墳墓群(古墳群)を 擁する纒向遺跡は、女王「卑弥呼」 やまたいこく が都する「邪馬台国」の最有力地と 目されており、昨年度からその中心 部の発掘調査が進められつつありま す。今後の動向に注目したいと思い ます。 北部九州系 〉 吉備系 御所市内の遺跡では楢原遺跡にお いて北部九州、東部瀬戸内、近江、 伊勢湾岸、北陸、南関東系の土器が 知られ、また、昨年実施された京奈 和自動車道関係発掘調査では茅原地 区や玉手地区で東海系、山陰系の土 器が出土しています。 広域流通を担うこの時期の代表的 まきむく な集落遺跡に桜井市纒向遺跡があり 南関東系 弥生時代〈 文化財探訪 生涯学習課文化財係 ☎内線696 さんごくし 其の十二 「三国志」と古墳 わこく 出現前夜の倭国 倭の女王「卑弥呼」は外交感覚に た も長けた人物だと評価されています。 それは楽浪郡・帯方郡の接収により 「魏」へのルートが確保できた翌年 の景初三年(239年)に、早くも 「魏」への遣使を行っている(三国 ぎしょとういでんわじんのじょう ぎ し 志魏書東夷伝倭人条=いわゆる魏志 わじんでん 倭人伝)ことによります。このとき しんぎわおう 卑 弥 呼 に 対 し 、「 親 魏 倭 王 」 の 金 印 たいしゅ が帯方太守を通じることとして仮授 され、このほか銅鏡百枚などが送ら せいし れました。また翌、正始元年 (240 年)には今度は「魏」の使いが倭国 にやって来てさまざまなものを「卑 弥呼」に与えています。こうした関 係はその後、正始四年(243年) 、 正始六年(245年) 、 正始八年(2 47年)と隔年で取り結ばれました。 中国朝廷への遣使という外交上の 大きな動きに加え、倭国内でも大き な動きが生じます。弥生時代の拠点 かんごう 的大集落の環濠は埋め立てられ、多 くの拠点的集落は解体する一方、新 たに広域流通を担う集落が登場して きます。それは近畿地方に各地の土 器が持ち運ばれることによって象徴 的に示されますが、とりわけ奈良盆 地内のこの時期の集落には山陰・中 国・四国など西日本の土器に加え、 東海・北陸さらには関東地方の土器 までも持ち運ばれており、これによ ってその地域の人々の奈良盆地への 流入が想定されています。 東海系 8 ふるさと御所 最近話 題 の 映 画 「 レ ッ ド ク リ フ 」 で知られ 、 小 説 や ド ラ マ 、 さ ら に は さんごく 漫画やゲ ー ム で も 親 し ま れ る 「 三 国 し ぎ しん 志」 。元は「魏」に続く朝廷「晋」に ちんじゅ へんさん 仕えた 陳 寿 と い う 人 が 編 纂 し た 中 国 正史です 。 しょく その「三国志」によれば、 「蜀」の じょうしょう しょかつりょうこうめい ご 丞相「諸葛亮孔明」は234年に五 じょうげん 丈 原 の 陣 中 に 没 し ま す 。「 孔 明 」 の し 最大のラ イ バ ル と し て 描 か れ る 「 司 ばいちゅうたつ 馬 懿 仲 達 」 は 、「 蜀 」 に よ る 脅 威 が な く な っ た こ と を 見 越 し 、「 魏 」 の けいしょ そんけん 景 初 二 年 ( 2 3 8 年 ) に は 、「 孫 権 ちゅうぼう ご こうそん 仲謀」の「呉」が援助していた公孫 しせいけん う 氏政権を伐ち、遼東半島を平定して、 らくろうぐん たいほうぐん 楽浪郡 ・ 帯 方 郡 を 接 収 し ま す 。 広報ごせ 2009年5月号 市役所は☎62-3001 やがて弥生時代後期になると、さら 古墳時代〈 〉 に大きな墳丘をもつものが各地に登場 たてつき します。岡山県総社市の楯築墳丘墓で 弥生墳墓から は直径 ⅿ 強の円形墳丘の両側に細長 古墳へ い張り出し部が設けられました。やは り木槨墓を中心主体としますが、加美 遺跡 号方形周溝墓などとの大きな違 いは、たった1人の首長のためにこれ だけの規模の墓を造り始めたことです。 とくしゅき また、墳丘上に立て並べられた特殊器 だい とくしゅつぼ 台・特殊壺と呼ばれる大形の土器は、 じゅりつ はにわ 後の古墳に樹立される埴輪の起源とな りました。 古墳時代を特徴づける前方後円形の 墳墓の起源は四国の瀬戸内沿岸にあり、 はぎわら 近畿地 方 に お け る 弥 生 時 代 の 墓 と し 徳島県鳴門市萩原 号墓(墳長 ⅿ ) 、 つるお ほうけいしゅうこうぼ 香川県高松市鶴尾神社 号墓(墳長 て代表的なものは、方形周溝墓といわ ⅿ )は円丘の片側にのみ細い突出部の れるもの で す 。 こ れ は 通 常 、 一 辺 〜 ⅿ 程度 の 方 形 に 溝 を 掘 り 、 内 部 に 複 取り付く弥生終末期の墳丘墓です。こ もっかん の突出部は通路として使用されたと考 数の 木棺 を 納 め る も の で 、 市 内 で も 小 林遺跡ほかで弥生中期のものが見つか えられ、円丘と方丘が結合したような ぜんぽうこうえんふん 形になる前方後円墳の起源問題に決着 っています(写真1)。 がついたと評価されています。また、 方形周溝墓としてとりわ ふきいし いた 墳丘斜面を石で固める葺石の起源、板 け大きいのはやはり弥生 いしづみ てんじょう たてあなしき 中期の大阪市加美遺跡 石積の石室の天井を石で閉じる竪穴式 せきしつ 石室の起源もこの地域にあります。 号墓で、長辺 ⅿ 、短辺 まきむく ⅿ 、高さ ⅿ あります。 同じ頃、桜井市纒向遺跡の一角に、 円丘の片側に短い突出部の付く特徴的 墳丘には 基に及ぶ木棺 が納められましたが、特 な墳丘墓が現れます。うち、ホケノ山 墳 丘墓(墳長 ⅿ )(写真 2) の中心 に中央の木棺は二重構造 もっかくぼ で、木槨墓(中国大陸に 主体は右記した萩原1号墓と同様、石 で囲った木槨墓でした。 起源を持つ)と呼ばれる ものでした。 そして墳長 ⅿ と、従来の弥生墳丘 写真1 小林遺跡の方形周溝墓 7 78 278 供献土器 かく 墓からは隔 ぜつ 絶した規模 で、やはり 纒向遺跡の 一角に登場 するのが最 初の古墳で はしはか ある箸墓古 墳(写真3) です。3世 紀後半の築 造とみられ、 やまたいこく ひ み こ ぎ せいし 邪馬台国の女王、卑弥呼の死が魏の正始八 年( 年)を前後する頃ですから、死後に 築造を始めたと考えれば、この古墳を卑弥 呼の墓とみても矛盾ありません。また前述 のように、前方後円墳という墳形をはじめ、 葺石、竪穴式石室、特殊器台・特殊壺(埴 輪の起源)といった東部瀬戸内ほか、西日 本各地に起源をもつさまざまな要素が結合 ぎ した形で最初の古墳が出現することは、魏 しわじんでん 志倭人伝の「共に一女子を立てて王となす 名付けて卑弥呼という」との記事、つまり 卑弥呼はさまざまな勢力により共立された、 とあることを思い起こさせます。 転載許可:奈良県立橿原考古学研究所 写真2 ホケノ山墳丘墓 写真提供・掲載許可: 桜井市教育委員会 写真3 箸墓古墳 5 40 Y-1 1 生涯学習課文化財係 ☎内線696 Y-1 26 編集後記 月中旬、柏原地内の人 権ふるさと公園内の一部分 がご覧のとおり、シバザク ラできれいに飾られていま した。地元の有志の方が整 備して植えてくださったそ うです。来年の同じころに は、今年以上に茂り、一面 鮮やかなピンク一色になっ ていることでしょう。… (久) 6 2009. 3 23 文化財探訪 15 其の十三 ふるさと御所 1 4 27 36 247 4 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 立 て て 、 人 を 損 な っ て は な ら な い 、 と 今 よ り 以 後 、 陵 墓 に は 必 ず こ の 土 物 を 物 を 埴 輪 と 名 付 け た 。 そ し て 天 皇 は 、 れ を 陵 墓 に 立 て る こ と と し た 。 こ の 土 ま ざ ま な 形 を 作 っ て 天 皇 に 献 上 し 、 こ が 埴 ︵ 赤 く て 粘 る 土 ︶ で 人 や 馬 な ど さ 78㎝ 命 じ た 。 ﹂ と 説 明 し て い ま す 。 図3 鴨都波古墳群の 朝顔形埴輪 る 風 習 が 誠 に 傷 ま し い た め 、 野 見 宿 三 十 二 年 条 に お い て ﹁ 亡 き 人 に 殉 死 す つ い て は 、 ﹃ 日 本 書 紀 ﹄ で は 垂 仁 天 皇 の 立 物 が 樹 立 さ れ ま す 。 埴 輪 の 起 源 に 紀 後 葉 を 待 た ね ば な り ま せ ん 。 は 5 世 紀 中 葉 、 人 の 埴 輪 の 出 現 は 5 世 あ り 、 日 本 書 紀 が い う 馬 の 埴 輪 の 出 現 相 当 す る 円 筒 埴 輪 こ そ が 最 古 の 埴 輪 で ( 『鴨都波1号墳調査概報』 、 2001年、学生社から転載) 2009. 7 ま た 、 各 段 の 平 坦 面 に は 埴 輪 や 木 製 が あ り ま せ ん 。 朝 顔 形 埴 輪 と 、 器 台 に 大 形 の 前 方 後 円 墳 は 、 段 築 ︵ 段 を 設 も の で す 。 見 え る 貼 石 と い う 手 法 と は 全 く 異 な る 斜 面 を 石 で 覆 う と い う 意 味 で は 同 様 に げ て い く も の で す 。 な お 、 こ れ は 墳 丘 口 面 を 外 表 面 に 出 す 方 法 で 石 を 積 み 上 わ れ る こ と が 通 有 で す 。 葺 石 は 石 の 小 化 し 、 し か も 壺 を 表 現 し た 部 分 に は 底 の 朝 顔 形 埴 輪 で す が 、 壺 と 器 台 は 一 体 た 形 状 を よ く と ど め る 比 較 的 古 い 型 式 を 掲 げ て い ま す 。 器 台 に 壺 が 乗 せ ら れ に な り 、 図 3 に は 出 土 し た 朝 顔 形 埴 輪 調 査 で は 鴨 都 波 古 墳 群 の 存 在 が 明 ら か ふるさと御所 其の十四 文化財探訪 古 墳 墳 丘 時 葺ふ き外 代 石い し表 と の ︿ 埴は 装 2 に 輪わ 飾 ﹀ 生涯学習課文化財係 ☎内線696 さ て 、 墳 丘 斜 面 は 、 葺 石 に よ っ て 覆 済 生 会 御 所 病 院 増 築 工 事 に 伴 う 発 掘 な っ た 人 も 多 い の で は な い で し ょ う か 。 公 園 内 に あ り ま す の で 、 す で に ご 覧 に る こ と が で き ま す ︵ 図 1 ︶ 。 馬 見 丘 陵 当 時 の 状 況 に 復 元 整 備 し た 姿 を 見 学 す れ て い ま す 。 変 遷 を 経 た も の が 箸 墓 古 墳 で も 採 用 さ 例 ︵ 図 2 ︶ か ら 吉 備 地 方 内 で 数 段 階 の と 特 殊 壺 が そ れ で 、 最 古 の 楯 築 墳 丘 墓 す に ま 円 段 前 河 。 は す 部 か 方 合 3 。 は ら 部 段 こ 4 な 前 町 築 の 段 り 面 所 成 段 の 、 は 在 が 築 段 後 4 の 典 に 築 ナ 型 つ の ガ 例 い 上 レ と て に 山 な は 円 古 っ 、 丘 墳 て 5 壇 で い 世 が は き 紀 乗 築 ま 代 り 造 上 や 墳 丘 裾 に 立 て 並 べ ら れ る 特 殊 器 台 る こ と が 分 か っ て い ま す 。 や は り 墳 丘 地 方 の 弥 生 時 代 後 期 後 半 の 墳 丘 墓 に あ 埴 輪 の 本 来 の 起 源 は 、 吉 備 ︵ 岡 山 県 ︶ 古 墳 の 場 合 に は 初 の 古 墳 、 箸 墓 3 世 紀 後 半 の 最 38㎝ 図1 墳丘斜面の葺石と段築平坦面に樹立された埴輪列 (河合町 ナガレ山古墳の整備・復元状況) し か し 、 先 月 号 で も 触 れ た と お り 図2 楯築墳丘墓の 、 特殊壺と特殊器台 112㎝ け て 造 成 す る 。 ︶ に よ り 築 造 さ れ ま す 。 (楯築刊行会から 転載許可) 畏 敬 の 念 を 覚 え ま す 。 ⋮ (久) だ 先 人 た ち に は 、 限 り な い で 絶 望 的 な 頂 に 果 敢 に 挑 ん す ら な い 時 代 に 、 あ の 孤 高 す が 、 ま だ 満 足 な 登 山 用 具 難 な 山 の 一 つ と な っ て い ま 登 頂 す る に は 日 本 で 最 も 困 堂 と し て 、 一 般 ル ー ト か ら 日 本 を 代 表 す る 岩 と 雪 の 殿 こ と に な り ま し た 。 現 在 も 岳 に 魅 せ ら れ 何 度 も 訪 れ る い る の で し ょ う か 。 以 来 劔 き の 強 烈 な 印 象 が 影 響 し て 夏 山 合 宿 で 劔 岳 を 訪 れ た と 高 校 入 学 し た 年 の 山 岳 部 の 私 の 最 も 好 き な 作 品 で す 。 画 の 原 作 ﹁ 劔 岳 点 の 記 ﹂ は で も 、 現 在 劇 場 公 開 中 の 映 た 新 田 次 郎 の 山 岳 小 説 の 中 す る の も 忘 れ て 読 み ふ け っ 高 校 時 代 に 眠 る の も 勉 強 編 集 後 記 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 写真1 天理市黒塚古墳の竪穴式石室 (転載許可:奈良県立橿原考古学研究所) 天井石 粘 土 棺 床 角 度 で 持 ち 送 り な が ら 構 築 し 、 最 後 に 土 で 固 め つ つ 、 矢 印 か ら 上 の 板 石 を 急 ︵ ﹃ 鴨 都 波 1 号 墳 調 査 概 報 ﹄ 、 2 0 0 1 年 、 学 生 社 か ら 転 載 ︶ 写 真 3 粘 土 を ほ ぼ 取 り 除 い た 状 態 副 葬 品 を 納 め ま す 。 そ し て 背 後 を 石 と 葬 者 が 見 え な く な っ た 状 態 で 、 棺 外 の に 副 葬 し ま す 。 次 い で 棺 に 蓋 を し て 被 者 を 棺 に 納 め 、 さ ま ざ ま な 遺 物 を 棺 内 面 で い っ た ん 石 室 の 構 築 を 中 断 し 、 死 粘 土 槨 の 棺 外 遺 物 を 取 り 上 げ 、 棺 蓋 の 被 覆 2009. に 合 わ せ て 構 築 さ れ た も の で す 。 こ の 矢 印 か ら 下 の 石 室 は 、 棺 の 身 の 高 さ す か ら 、 箸 墓 古 墳 は 古 墳 時 代 の 始 ま り ん う で 、 木 棺 蓋 を でて二 天ん 重 じ 構 井ょ う を 造 閉 と じ し る 、 と 周 い り う に も 石 の を で 積 の ホ ケ ノ 山 墳 丘 墓 は 、 石 囲 い 木 槨 と い で 、 先 行 し て 築 造 さ れ た 弥 生 時 代 末 期 分 か り い た だ け る で し ょ う か 。 り 上 は 板 石 が 用 い ら れ て い る こ と が お 築 い て い き ま す 。 写 真 2 の 赤 い 矢 印 よ に 木 棺 を 納 め る の と 同 時 進 行 で 石 室 を の 延 長 上 に あ る と い え る で し ょ う 。 こ と は 、 当 時 の 人 々 に と っ て は 自 然 な 発 想 望 の 光 が 見 え る よ う な 、 素 い 悲 し み の 中 に も 確 か な 希 り 下 は や や 厚 み の あ る 塊 石 が 、 矢 印 よ 棺 蓋 被覆粘土 (残存) 8 晴 ら し い 歌 声 で し た 。 ⋮ (久) れ て い ま す 。 同 じ 纒 向 墳 墓 群 ・ 古 墳 群 さ て 、 竪 穴 式 石 室 で は 粘 土 棺 床 の 上 棺 を 密 封 す る 形 の 埋 葬 主 体 と し て 登 場 す る す 。 山 本 さ ん の 歌 唱 は 、 深 お り 、 竪 穴 式 石 室 が 採 用 さ れ た と み ら 古 墳 の 後 円 部 墳 頂 に は 板 石 が 散 乱 し て と 蓋 と す る こ と が 通 有 で す 。 ウ ヤ マ キ の 巨 木 の 内 部 を 刳 り 抜 き 、 身 の 石 室 内 に 納 め ら れ る 棺 は 、 2 本 の コ 室 の 上 を 厚 く 粘 土 で 覆 っ て い ま す 。 そ じ る と 完 全 に 密 閉 さ れ ま す 。 ま た 、 石 と し て 、 当 時 に お い て は 格 や 規 模 の や や 劣 れ る こ と か ら す れ ば 、 竪 穴 式 石 室 の 省 略 形 と に 加 え 、 そ の 石 室 も ま た 粘 土 で 厚 く 覆 わ 室 内 部 に は 本 来 ほ と ん ど 空 間 が な か っ た こ る 古 墳 に 用 い ら れ る 傾 向 の あ る 粘 土 槨 が 、 を い つ も 涙 ぐ ま せ て く れ ま 3 世 紀 後 半 に 築 造 さ れ た 桜 井 市 箸 墓 特 そ 有 の の 悲 敬けい痛 虔けんな な 心 雰 情 囲 や 気 ヘ が ン 、 デ 私 ル ふるさと御所 其の十五 文化財探訪 前 古 竪 期 墳 穴 古 時 と 式 墳 の 粘 石 埋 代 土 室 葬 ︿ 槨 主 3 生涯学習課 文化財係 ☎内線696 も 好 き な ア リ ア な の で す 。 面 の ア リ ア で 、 実 は 私 の 最 竪 穴 式 石 室 ︵ 写 真 1 ︶ は 、 天 井 を 閉 一 見 、 異 様 な 構 造 の よ う で す が 、 竪 穴 式 石 ン が 悲 劇 的 な 運 命 を 嘆 く 場 ﹁ リ ナ ル ド ﹂ の 中 で 、 ヒ ロ イ 室 を 採 用 し た 墳 墓 と 評 価 さ れ ま す 。 ︵ 写 真 3 ︶ と 呼 ば れ る 埋 葬 施 設 が 登 場 し ま す 。 い を 描 い た ヘ ン デ ル の 歌 劇 に あ た り 、 近 畿 地 方 で 最 初 に 竪 穴 式 石 せ ず に 棺 全 体 を 粘 土 で 覆 っ て し ま う 粘 土 槨 十 字 軍 と イ ス ラ ム 教 徒 の 闘 体 ﹀ 粘土棺床 写真2 黒塚古墳の竪穴式石室南小口付近 (転載許可:奈良県立橿原考古学研究所) さ て 、 4 世 紀 中 葉 に な る と 、 石 室 を 構 築 を 泣 か せ て く だ さ い ︶ ﹂ は 、 見 ら れ る よ う な 空 間 は ほ と ん ど あ り ま せ ん 。 に よ っ て ほ ぼ 占 有 さ れ る た め 、 実 際 に は 今 の 竪 穴 式 石 室 の 内 部 は 、 巨 大 な 棺 身 ・ 棺 蓋 こ と も 少 な く あ り ま せ ん 。 こ の よ う な 構 造 ﹁ ラ シ ャ キ オ ピ ア ン ガ ︵ 私 山 本 か ず み さ ん が 熱 唱 し た ま せ ん で し た 。 記 念 公 演 で ル で 聴 け る と は 夢 に も 思 い が 自 然 と 組 み 合 わ さ っ て 閉 じ ら れ て し ま う ピ ア ン ガ ﹂ を ア ザ レ ア ホ ー 井 石 と 言 え る も の は 特 に な く 、 両 側 の 壁 面 ま さ か 、 生 の ﹁ ラ シ ャ キ オ 非 常 に 小 型 の 石 材 で あ っ た り 、 と き に は 天 ら れ る よ う に 竪 穴 式 石 室 の 場 合 、 天 井 石 は 天 井 が 閉 じ ら れ ま す 。 天 理 市 黒 塚 古 墳 に 見 市 民 集 会 で 感 動 し ま し た 。 編 集 後 記 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 写真1 島の山古墳の粘土槨 棺外遺物出土状況 (木棺の腐食によって生じた被覆粘土の陥没 さいし に添って祭祀具としての石製腕飾類が落ち 込んでいる。この箇所では大半が車輪石。) 〈転載許可:奈良県立橿原考古学研究所〉 号 墳 か ら は 4 面 の 出 土 が 知 ら れ ま す 。 さ て 、 件 の 三 角 縁 神 獣 鏡 は 鴨 都 波 1 さ れ た と 見 る べ き か と 思 わ れ ま す 。 の 数 の 三 角 縁 神 獣 鏡 が コ ピ ー し て 製 作 鏡 の 鋳 型 ︶ を 作 り 、 倭 国 内 で も か な り が あ り ま す 。 原 鏡 か ら 複 数 の 笵 型 ︵ 銅 王 朝 か ら 送 ら れ た も の と す る に は 無 理 鏡 状 を 況 魏 か 王 ら 朝 み ま れ た ば は 、 こ す れ べ を て 受 の け 三 継 角 い 縁 だ 神 晋し ん獣 ま し た 。 し か し 、 右 記 し た 黒 塚 古 墳 の が た い も の を 棺 外 副 葬 品 と し た で あ ろ も の や 、 大 き さ の 制 約 で 棺 内 に は 納 め た も の を 棺 内 副 葬 品 と し 、 そ れ 以 外 の っ て よ り 重 要 だ っ た も の や 身 近 に あ っ お そ ら く は 生 前 に お い て 、 被 葬 者 に と か な る 発 想 に 基 づ く も の で し ょ う か 。 分 け て 配 置 す る 行 為 と は 、 果 た し て い の 鏡 の 最 有 力 候 補 の 一 つ と 見 ら れ て き 鏡 は 画 文 帯 神 獣 鏡 な ど と 共 に 、 卑 弥 呼 の も あ る こ と な ど か ら も 、 三 角 縁 神 獣 正 始 元 年 ︵ 2 4 0 年 ︶ の 銘 文 を 持 つ も の 年 号 で あ る 景 初 3 年 ︵ 2 3 9 年 ︶ や ま す 。 三 角 縁 神 獣 鏡 の 中 に は 実 際 に 魏 を 数 度 に わ た っ て 送 ら れ た 記 事 が あ り 鴨都波1号墳 副葬品一覧 かんないきょう 棺 内 さんかくふちしんじゅうきょう うるしぬりつえじょうもくせいひん 棺内鏡(三角縁神獣鏡)1、漆塗杖状木製品1、 りょくしょくぎょうかいがんせいぼうすいしゃがたせきせいひん たまるい こうぎょくせい 緑色凝灰岩製紡錘車形石製品1、玉類(硬玉製 まがたま へきぎょくせいくだたま こだま てっけん 勾玉5、碧玉製管玉8、ガラス小玉44)、鉄剣1 てっとう やせん てつぞく うるしぬりゆぎ うるしまく 刀2以上、矢箭(鉄鏃)10、漆塗靭1、漆膜 棺外東 鉄 たて へきぎょくせいおおがたぼうすいしゃがたせきせいひん (盾?)1、碧玉製大形紡錘車形石製品1 かんがいきょう さんかくふちしんじゅうきょう ほうけいいたかわとじたんこう 外鏡(三角縁神獣鏡)3、方形板革綴短甲1、 棺外西 棺 うるしぬりゆぎ やせん てつぞく やり 棺外 漆塗靭1、矢箭(鉄鏃)27、槍2 北小口(不明) ばんじょうてっぷ ゆうたいてっぷ てっけん やりがんな のみ 状鉄斧1、有袋鉄斧2、鉄剣4、釶5、鑿1、 南小口 板 ふめいてつせいひん 不明鉄製品1 2009. 9 性 ス を ポ 垣かいー 間まツ 見みマ た ン 気 の が 美 す し る い 。 精 (久) 神 く る 菊 池 君 の 姿 に 、 健 全 な 負 い 込 ん だ よ う に 泣 き じ ゃ 合 後 、 敗 戦 の 責 を す べ て 背 な い の が 救 い で あ っ た 。 試 古 墳 に お い て 棺 内 と 棺 外 に 副 葬 品 を に は 卑 弥 呼 が 魏 王 朝 か ら 銅 鏡 ふるさと御所 文化財探訪 ン チ に 最 後 ま で 笑 顔 が 絶 え 棺か ん 前 内な い 期 副ふ く 古 葬そ う 墳 と の 棺か ん 埋 外が い 葬 副ふ く 主 葬そ う 体 生涯学習課文化財係 ☎内線696 5 月 号 で 触 れ た と お り 、 魏 志 枚 倭 な 人 ど 伝 考 に 備 え て お き た い と 思 い ま す 。 其の十六 副 葬 品 を 棺 内 と 棺 外 に 分 け て 記 し 、 後 選 手 た ち の 全 力 プ レ ー と ベ 三 角 縁 神 獣 鏡 で し た 。 棺 外 に 副 葬 さ れ た 33 面 の 銅 鏡 は す べ て す る と し て 、 こ こ で は 鴨 都 波 1 号 墳 の そ れ ら に 関 す る 詳 細 は 次 号 以 降 で 検 討 一 方 的 な 試 合 と な っ た が 、 完かん菊 膚ぷ池 な 君 き は ま じ で め に 代 打 役 ち の 込 投 ま 手 れ も 、 中 国 製 画 文 帯 神 獣 鏡 が 副 葬 さ れ る 一 方 、 石 室 ︵ 写 真 2 ︶ で は 、 棺 内 に は 1 面 の ま た 天 理 市 所 在 、 黒 塚 古 墳 の 竪 穴 式 れ ま し た 。 納 め ら れ る と い う 顕 著 な 差 異 が 認 め ら 玉 類 、 石 製 の 合 子 ︵ 小 物 入 れ ︶ な ど が 方 、 棺 内 に は 銅 鏡 3 面 や 首 飾 り な ど の 三 角 縁 神 獣 鏡 べ て 棺 外 の 被 覆 粘 土 の 上 に 置 か れ 、 他 腕 飾 類 ︵ 車 輪 石 ・ 鍬 形 石 ・ 石 釧 ︶ は す 土 槨 ︵ 写 真 1 ︶ で は 点 を 超 え る 石 製 古 墳 時 代 ︿ 4 ﹀ 川 西 町 所 在 、 島 の 山 古 墳 前 方 部 の 粘 う こ と は 推 測 す る に 難 く あ り ま せ ん 。 三 角 縁 神 獣 鏡 画 文 帯 神 獣 鏡 写真2 黒塚古墳の竪穴式石室 遺物出土状況 (北から) (棺内には画文帯神獣鏡1面が副葬されたが、棺外 ふた の三角縁神獣鏡33面は棺の蓋を閉じた後、石室と 棺のすき間に滑り込ませるようにして副葬された) 〈転載許可:奈良県立橿原考古学研究所〉 が し た 。 準 決 勝 で は 故 障 の 高 校 野 球 の 原 点 を 見 た 思 い ベ ス ト 4 ま で 勝 ち 進 む 姿 に 、 ぱ い の は つ ら つ 全 員 野 球 で た が 、 ピ ン チ で も 笑 顔 い っ 子 で な く 苦 し い 試 合 が 続 い エ ー ス の 菊 池 雄 星 君 が 本 調 校 は 準 決 勝 で 敗 れ 去 っ た 。 た 甲 子 園 。 注 目 の 花 巻 東 高 連 日 熱 戦 が 繰 り 広 げ ら れ 編 集 後 記 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 写真1 弥生時代前期の水田 た 。 そ の た め 、 き 、 各 時 期 に 状 況 で 検 出 で 当 時 の ま ま の わ れ て い ま し て き た 砂 で 覆 に よ り 運 ば れ だ さ い 。 ︵ 27 ペ ー ジ に 案 内 記 事 を 掲 載 し て い ま す 。 ︶ ど を 実 際 に 見 て い た だ け ま す の で 、 ぜ ひ お 越 し く 弥 ☆ 遺 生 10 構 時 月 が 代 4 御 前 日 所 期 ㈰ 市 の に 内 水 現 で 田 地 見 と 説 つ 縄 明 か 文 会 る 時 を の 代 開 も 晩 催 初 期 し め の ま て 土 す の こ 器 と 棺 で 墓 す な 。 し 時 代 が 下 る も の で す 。 こ の 凸 帯 文 土 器 の 時 期 の 末 も て 期 の の い 末 ま ︵ た 篠し ので ま は 原ら、 す 約 、 。 2 弥 式 観か 8 生 ︵ 音ん のこ 約 寺んれ 0 前 3 本じ ほ は 0 期 0 馬ん と年 ま凸っ の 0 前 水 遺 帯た い 0 跡 文も︶ 田 年 で んのどの 土 土 前 下 出 器 器き か ︶ の 土 と 棺ん層 土 し 総 墓ぼで 器 た 称 の は 棺 縄 さ 存 、 墓 文 れ 在 縄 よ 時 る も 文 り 代 時 確 時 も 晩 期 認 代 少 期 の し 晩 そ れ ぞ れ 洪 水 時 期 の 水 田 は 、 り 重 弥 ま な 生 す 事 時 。 例 と 代 な 各 跡 と し て の 水 田 が 見 つ か っ た の は 大 き な 成 果 で す 。 の 水 田 は 、 奈 良 県 で は 最 古 級 と な る 貴 特 に 、 弥 生 時 代 前 期 ︵ 約 2 5 0 0 年 前 ︶ に わ た る 水 田 遺 構 を 検 出 し て い ま す 。 は 知 ら れ て い ま し た が 、 生 活 の 基 盤 と な る 生 産 遺 す 。 こ れ ま で 御 所 市 内 で は 、 弥 生 時 代 の 集 落 や 墓 地ち則 真 と 正 3 な し ︶ っ く は て 作 、 お ら 1 り れ 辺 、 て が 畑 い 約 と ま 4 な す ∼ っ 。 8 て 水 m い 田 で た の 、 可 な 水 能 い 路 性 場 に が 所 沿 あ は っ り 微び て こ ま 高う規 水田 水路 微高地(畑?) 10 に 30 駆 m け ほ 出 ど し 離 た れ 。 て 野 か 生 ら の 一 凄すご目 み 散 し ず つ 後 ず さ り を 繰 り 返 し 、 自 動 車 道 建 設 に 伴 う 発 掘 調 査 で は 、 こ J R 玉 手 駅 の 北 側 で 実 施 中 の 京 奈 和 る こ と も 分 か り ま し た 。 ま た 、 弥 生 後 期 の 水 田 ︵ 写 ふるさと御所 番外編 京 玉奈 発手和 掘地自 弥生時代の小区画水田を検出 調 区 動 査の車 生涯学習課 文化財係 道 文化財探訪 ☎内線696 畦 か ︵ っ 大だ い た 畦け い はた 畔んめ ︶ だ に よ と っ 考 て え 複 ら 数 れ の ま 水 す 田 。 が こ ま こ と で め は ら 、 れ 大 て き い な 写 真 3 写 真 2 弥 生 時 代 後 期 の 水 田 弥 生 時 代 中 期 の 水 田 大畦畔 目 ら を み 逸そ合 ら い せ が た 続 機 く 会 中 に 、 私 ク は マ 少 が に な っ た 。 20 分 ほ ど 長 い に 合 い 、 一 瞬 頭 の 中 が ま っ 白 立 ち 上 が っ た 親 グ マ と 目 が 差 が 小 さ く な っ た た め 、 畦 を 細 か く 作 る 必 要 が な の ク マ と 鉢 合 わ せ に な っ た 。 い ま す 。 こ れ は 、 以 前 の 洪 水 に よ っ て 地 形 の 高 低 3 ∼ 10 m で 、 一 枚 一 枚 の 大 き さ や 形 状 が 異 な っ て ま す 。 一 方 、 弥 生 中 期 の 水 田 ︵ 写 真 2 ︶ は 1 辺 が 約 3.5 ∼ 5.5 m 、 短 辺 約 1.5 m の 小 さ な 長 方 形 を 呈 し て い 検 出 さ れ た 弥 生 前 期 の 水 田 ︵ 写 真 1 ︶ は 、 長 辺 約 小 限 と す る こ と も 特 徴 の 一 つ で す 。 わ せ て 細 か く 区 切 る こ と に よ り 、 造 成 の 労 力 を 最 田 す は 。 小 し 区 か 画 し 水 、 田 一 と 方 呼 で ば 、 れ 弥 、 生 畦あ ぜ時 ︵ 代 畦け いか 畔は んら ︶ 古 を 墳 地 時 形 代 に の 合 水 な ど 、 高 い 技 術 を 伴 っ て い た こ と が 分 か っ て い ま 代 の 水 田 は 、 当 初 か ら 水 田 と 流 路 か ら 構 成 さ れ る お け る 水 田 の 様 相 が 明 ら か に な り ま し た 。 弥 生 時 小畦畔 水口 → → 2009. を 痛 感 す る 体 験 だ っ た 。 (久) れ ま で に 弥 生 時 代 前 ・ 中 ・ 後 期 と 長 期 い た と き 、 至 近 距 離 で 親 子 北 は 信 犬 州 の 戸とが比 隠くしで の は 山 な 中 い を 。 歩 数 年 い 前 て 、 こ と も あ る 。 し か し 、 ク マ る 行 動 自 体 に 恐 怖 を 感 じ る 人 に よ っ て は 懐 い て ジ ャ レ 飼 い 主 側 の 視 点 で あ っ て 、 て い る と 言 っ て も 、 そ れ は も の は な い 。 人 に よ く 懐 い ﹁ 放 し 飼 い ﹂ ほ ど 恐 ろ し い 犬 の 苦 手 な 私 に と っ て 、 編 集 後 記 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 市役所は☎62-3001 写真1:航空写真 で す 。 そ の 副 葬 品 内 容 は 、 9 月 号 に 鴨都波1号墳 と 1 し 号 て 墳 一 の 般 墳 的 丘 な に 葺ふ きは 石い し、 も 古 墳 埴は に 輪わの も 外 あ 表 り 施 ま 設 よ う な 施 設 が 見 ら れ 、 加 え て 鴨 都 波 っ ︵ た 写 弥 真 生 3 時 ︶ 。 代 市 の 内 方ほ うの 形け い小 周し ゅ林 溝う こ遺 墓う ぼ跡 に で も 見 こ つ の か 造 と な っ て い る こ と は 特 筆 さ れ ま す 土 手 と な っ て 墳 丘 と 外 部 を つ な ぐ 構 は 法 北 の 西 一 隅す みつ で と 一 い 部 え 途 ま 切 す れ 。 て ま お た り 、 、 そ 渡 の り 隍 生 時 代 以 来 行 わ れ て き た 伝 統 的 な 葬 し た も の と 考 え ら れ ま す 。 こ れ は 弥 よ っ て 被 葬 者 と の 決 別 の 気 持 ち を 表 そ お れ 祭 ら り を に 隍 用 に い 投 ら 棄 れ し た も 破は さ 砕いの す と る み こ ら と れ に 、 水 田 下 か ら 不 時 発 見 さ れ た 前 期 古 墳 の 増 築 工 事 に 伴 う 発 掘 調 査 に よ り 、 鴨か も 都つ 波ば 1 号 墳 は 、 済 生 会 御 所 病 院 1 小 2 の も 号 形 ︶ 土 の 。 器 で 墳 器き だ い の 台 土 が す 被 、 器 投と 。 は 棄う きそ 葬 高た か 土はさ の 者 杯つ き をほ、 師じれ 隍 か器き 葬う て の む甕め る な の い 底 に ど 小 ま 近 あ で 形まし く た 、 丸るた に っ 鴨 底ぞ こ︵ は て 都 坩つ ぼ写 多 の 波 、 真 量 墳丘 濠 ふるさと御所 其の十七 文化財探訪 内 容 の ギ ャ ッ プ 生涯学習課 文化財係 ☎内線696 墳 丘 規 模 と 副 葬 品 に る 巡 機 っ 墳 し 能 て 丘 ま は い の す な ま 周 。 く す 囲 、 。 に 本 こ は 来 の 幅 はか濠 3 ぼに ∼ 隍ら り と は 5 呼 水 m ぶ を の べ 溜た濠ほ り き め が 点 に つ い て 少 し 詳 し く み て お く こ と と は 大 変 重 要 な 事 実 で す の で 、 こ の 前 記 の と お り 墳 丘 が 小 規 模 で あ る こ 世 を 紀 取 今 代 り 後 の 上 数 歴 げ 回 史 る に を こ わ 紐ひ もと た 解とに っ い よ て て っ 鴨 い て 都 き か つ波 ま 城ら 1 す のぎ号 が 4 墳 、 そ こ に 前 期 古 墳 が 築 造 さ れ る な は い え 一 般 的 に は 、 鴨 都 波 遺 跡 な 勢 力 の 長 と 評 価 で き ま す 。 と は ま さ に そ の 系 譜 を 引 く 伝 統 的 的 大 集 落 で す が 、 鴨 都 波 1 号 墳 す 集 る 落 こ が と そ は の 極 ま め ま て 古 稀ま れ墳 で 時 、 代 ま に し 継 て 続 の よ う に 、 弥 生 時 代 の 拠 点 的 大 も 度た び鴨 々た び都 登 波 場 遺 し 跡 た は 弥 こ 生 の 時 シ 代 リ の ー 拠 ズ 点 に 古 墳 時 代 ︿ 5 ⑴ ﹀ 鴨 都 波 1 号 墳 方ほ うは 墳ふ ん一 に 辺 過 わ ぎ ず ま か せ 20 ん m ︵ 足 写 ら 真 ず 1 の ︶ 小 。 規 模 な を 圧 倒 す る も の が あ り ま し た が 、 実 掲 載 し た 一 覧 表 で 示 し た と お り 、 他 見 ま が う ば か り の 構 造 と な っ て 丘 は 、 弥 生 時 代 の 方 形 周 溝 墓 と せ ん 。 つ ま り 鴨 都 波 1 号 墳 の 墳 い る の で す 。 写真2:濠内の土器出土状況(南から) う 上 う 。 げ 一 ま 度 し 取 ょ り 5 の 最 後 に も の シ リ ー ズ 都 波 1 号 墳 い て は 、 鴨 の 問 題 に つ い に か か わ る に 相 違 あ り ま せ ん 。 こ た 鴨 都 波 1 号 墳 の 系 譜 の 特 異 性 が 大 品 相ふ さ が 応わ鴨 出 し 都 土 く 波 し な 1 た い 号 謎な ぞ、 墳 を 豊 に 解 富 お く で い 鍵か ぎ突 て は 出 墳 、 し 丘 こ た 規 う 副 模 し 葬 に で は あ り ま せ ん 。 ど と い う こ と は 皆 無 と 言 っ て も 過 言 広報ごせ 2009(平成21)年11月号 写 真 3 濠 渡り土手 墳丘 渡 り 土 手 と 濠 ︵ 北 か ら ︶ は と り わ け 水 銀 朱 の 被 葬 者 の 頭 部 付 近 と 鑑 定 さ れ て い ま す 。 ︵ 30 ∼ 40 歳 前 後 ︶ 男 子 し た 歯 に よ っ て 壮 年 別 に つ い て は 、 遺 存 被 葬 者 の 年 齢 と 性 い ま し た 。 に 向 け て 埋 葬 さ れ て の ほ ぼ 中 央 に 頭 を 北 ら な り 、 被 葬 者 は 棺 る た め の 2 枚 の 板 か 抜 さ い 棺 れ た は た 、 長 ま 棺 さ ま 身 4.3 の と m 状 棺 の 態 蓋 コ で 検 N、 ウ ヤ 出 マ さ キ れ を ま 刳 し り た 。 お よ び 両 小 口 を 閉 じ 盗 掘 さ れ る こ と な く 、 被 葬 者 が 埋 葬 鴨 都 波 1 号 墳 の 粘 土 槨 は ま っ た く ふるさと御所 其の十八 文化財探訪 鴨 埋 都 葬 波 位 副置 1 葬と 号 墳 品 配 ⑵ 置 生涯学習課文化財係 ☎内線696 有 来 跡 あ り 紡 円 あ 得 の 三 か 玉 棺内鏡 紡錘車形石製品 機 は し 足 り ま 錘 形 り た 銅 角 れ で 質 色 か 下 ま す 車 で ま ︶ 鏡 縁 、 構 刀 が と 残 か す 。 形 中 す で に 神 北 成 副 り っ ら 。 ま 石 央 。 始 は 獣 側 さ 玉類 た 製 に そ ま 吾 鏡 に れ 葬 ど て 南 方形板革綴短甲 歯 、 品 穴 の る 有 が は る さ り い 側 右 と を 西 二 好 副 唯 首 れ の ま の 腰 呼 穿 側 十 同 葬 一 飾 せ た 布 棺 鉄鏃 付 ば た に 一 ︵ さ の り も や ん 内 近 れ れ 近 文 私 れ 棺 が の 木 で に に る た 接 字 は ま 内 ま と 製 し は 矢柄 漆塗靭 1 は も 、 し の 良 し 鏡 と 推 品 た 木 鉄 の 碧 て 銘 い た と め 測 な が 棺 剣 2 剣 が 玉 は 文 銅 。 し て さ ど 、 の が あ 製 、 が を こ て 置 本 れ の 痕 漆塗盾? 3 棺外鏡 に 一 覧 表 を 掲 げ ま し た が 、 棺 内 と 棺 槍 剣・斧・釶 鴨都波1号墳の粘土槨(合成写真) 2010. 1 じ る 感 覚 と い え る で し ょ う 。 置 く 行 為 は 、 現 在 の 我 々 に も 通 棺 外 に 副 葬 品 目 や 内 容 を 違 え て 分 け 出 土 品 目 の 詳 細 に つ い て は 9 月 号 く 述 べ ま す が 、 こ の よ う に 、 棺 内 と め ら れ て 出 土 し ま し た 。 こ の 点 に つ い て は 次 号 で や や 詳 し や 釶 な ど の 農 工 具 が 木 製 の 容 器 に 収 ま た 、 棺 外 南 小 口 か ら は 鉄 剣 と 鉄 斧 漆 塗 り 盾 と 見 ら れ る も の が 置 か れ 、 あ る こ と が 分 か り ま す 。 有 率 が 低 く 、 両 者 に は 明 ら か な 差 の 外 鏡 3 面 に つ い て は 赤 銅 色 で 錫 の 含 棺 外 東 に は 北 か ら 順 に 鉄 刀 、 矢 、 着 側 こ さ に の れ 向 位 た か 置 鉄 っ が 製 て 末 槍 2.6 端 の m と 本 伸 な 体 び る へ 、 槍 と 先 の 至 端 柄 り 部 は ま に 、 す 装 南 。 革 綴 短 甲 ︶ が か ぶ さ り ま す 。 ま た 、 と 錫 の 合 金 ︶ に よ る も の で す が 、 棺 有 好 同 ﹂ に ふ さ わ し い 良 質 の 青 銅 ︵ 銅 3 面 が み ら れ ま す が 、 鋳 上 が り に は 在 も な お 白 銅 色 に 輝 く 、 ま さ に ﹁ 吾 か な り の 差 が あ り ま す 。 棺 内 鏡 は 現 に そ の 北 の 端 に は 鉄 製 の 甲 ︵ 方 形 板 ま た 、 銅 鏡 は 棺 内 に 1 面 、 棺 外 に 入 れ て 背 負 う も の ︶ が 置 か れ 、 さ ら 獣 鏡 ︶ の 上 に 矢 と 漆 塗 り の 靭 ︵ 矢 を 具 が 目 立 つ こ と が 分 か り ま す 。 武 器 、 あ る い は 鉄 製 短 甲 と い っ た 武 の か は 判 然 と し ま せ ん 。 に 際 し て 直 接 顔 面 に 塗 ら れ た も の な つ 棺 で 外 す 西 。 で は 3 面 の 銅 鏡 ︵ 三 角 縁 神 る の は 、 こ の 古 墳 の 重 要 な 特 徴 の 一 葬 品 に は 矢 の ほ か 刀 剣 や 槍 と い っ た み に み ら れ る 一 方 、 矢 は 棺 外 の み の 側 頭 部 に は 翡 翠 製 勾 玉 と 碧 玉 製 管 副 葬 と な っ て お り 、 総 じ て 棺 外 の 副 古 墳 時 代 ︿ 6 ﹀ 起 因 す る も の な の か 、 そ れ と も 葬 送 赤 が 鮮 や か で す が 、 こ れ は 枕 な ど に ま 棺 す 外 。 に も 豊 富 で 顕 著 な 副 葬 品 が あ 葬 者 の 身 に つ け る も の な の で 棺 内 の 外 の 副 葬 品 を 比 較 す る と 、 玉 類 は 被 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 神 と 二 獣 を 十 字 に 配 置 す る 形 に 近 く 、 守 好 同 清 且 明 吾ご ゆと 有う こ他 好う の ど 同う三 三 面 神 よ 神 三 り 守 獣 も 仙 鏡 や 人 と や 居 称 小 中 さ 振 れ 央 、 り ﹁ で 今 吾 す 世 有 。 仙 人 居 ● 中 神 ● 明 神 帯た い困 □ が 難 孫 あ ま 宜 り た □ ま は 王 す 不 ﹂ 。 能 ︵ 内 、 □ 区 □ は で は 欠 は 逆 損 一 字 の 応 ︶ た 、 の め 三 銘め い判 神 文ぶ ん読 と 三 獣 を 表 現 し ま す が 、 放 射 状 に 二 守 し た が っ て 銘 文 帯 の 位 置 で い え ば 、 棺 内 鏡 ︵ 写 真 1 ︶ は 面 径 18 ・ 5 ㎝ 仙 人 居 ● 中 ﹁ に お 明 い ﹂ て か は ら 二 ﹁ 神 中 と ﹂ 一 あ 獣 た がきり ま 窮ゅ う で 屈く つ に の 収 区 め 画 が 、 か な り の 違 い も み ら れ ま す 。 く い 神ん じ 獣ゅ う三 ま き 角 す 鏡ょ う のは形 。 に い 範ん ち 疇ゅ 尖と がず う で る れ 捉と ら特 も え 徴 、 ら を 縁 れ 持 の る つ 断 も 、 面 の 三さ ん形 で 角か くが す 縁ふ ち鋭 し 央 今 央 世 ●且 明 今 世 ● 且 清 ● □ 同 同 清 □ 面 、 棺 外 か ら 3 面 の 銅 鏡 が 出 土 し て 宜 □ 吾 好好 ● ● 有 有 宜 □ 王 王吾 写真1 三角縁吾有好同三神三獣鏡(棺内鏡) 写真1 三角縁吾有好同三神三獣鏡(棺内鏡) 写真1 三角縁吾有好同三神三獣鏡(棺内鏡) 写 真 2 ︵三 棺角 外縁 鏡二 1 神 ︶龍 虎 画 像 鏡 い ま す 。 が 、 こ の 古 墳 の 大 き な 特 徴 と な っ て 鴨か も 都つ 波ば 1 号 墳 か ら は 、 棺 内 か ら 1 ふるさと御所 其の十九 文化財探訪 棺 内 鏡 と 棺 外 鏡 生涯学習課文化財係 ☎内線696 は 新 し い 段 階 の も の で す 。 箇 所 が み ら れ 、 三 角 縁 神 獣 鏡 と し て は っ き り し な い な ど 図 像 に 不 明 瞭 な ・ 7 ㎝ で す 。 共 に 神 像 の 目 鼻 立 ち が 真 4 ︶ は 三 角 縁 二 神 四 獣 鏡 で 面 径 20 三 獣 鏡 で 面 径 21 ・ 4 ㎝ 、 棺 外 鏡 3 ︵ 写 4 面 も の 三 角 縁 神 獣 鏡 を 有 す る こ と の 方 墳 に 過 ぎ な い に も か か わ ら ず 計 都 波 1 号 墳 の 場 合 は 、 一 辺 20 m ほ ど 円 墳 で も 一 般 的 に み ら れ ま す が 、 鴨 外 に と い う 配 置 は 他 の 有 力 な 前 方 後 よ り 良 い 鏡 は 棺 内 に 、 そ れ 以 外 は 棺 孫 孫 棺 外 鏡 2 ︵ 写 真 3 ︶ は 三 角 縁 三 神 も の と な っ て い ま す 。 と の お は り 色 錫す ず調 の で 含 、 有 こ 率 れ の は 違 前 い 号 に で よ も り 述 ま べ す 。 た こ と も 三 角 縁 神 獣 鏡 と し て は 珍 し い 異 り 例 上 で が あ る り 細 、 線 ま で たり表 現 龍ゅ う と さ 虎と られ が て 描 い か る れ 点 る が こ の 鏡 で は 主 と し て 断 面 三 角 形 に 盛 古 墳 時 代 ︿ 7 ⑶ ﹀ 鴨 都 波 1 号 墳 像 ㎝ は で 通 す 常 。 、は三 半ん角 肉に く 縁 彫ぼ り 神 で 獣 表 鏡 現 の さ 神 れ や ま 獣 す の が 図 、 龍り ゅ 虎う こ棺 画が ぞ外 像う き鏡 鏡ょ う1 と ︵ 称 写 さ 真 れ 2 、 ︶ 面 は 径 三 は 角 21 縁 ・ 二 0 神 ら れ て い ま す 。 き る 笵は に 2 内 鏡ょ ん う そ は に と 鏡 を 三 棺 れ 大 1 呼 を 複 角 内 ぞ 阪 面 び 作 数 縁 鏡 れ 府 と ま る 作 神 と 棺 1 内 山 す こ っ 獣 外 面 ・ 梨 が と て 鏡 鏡 、 愛 県 、 が 兄 の を 棺 知 内 棺 あ 弟 場 一 外 県 に 外 り の 合 見 鏡 内 1 鏡 、 関 、げ し 3 ・ 面 1 こ 係 原ん き て は 栃 、 は れ に 鏡ょ う 異 岡 木 棺 奈 を 相 を ど な 山 県 外 良 同う当 元 る 写真3 三角縁三神三獣鏡(棺外鏡2) 県 内 鏡 県 型け いす に 内 に 1 面 の 同 型 鏡 が あ り ま す 。 写真2 三角縁二神龍虎画像鏡(棺外鏡1) 写真2 三角縁二神龍虎画像鏡(棺外鏡1) 2010. 2 写真3 三角縁三神三獣鏡(棺外鏡2) 写真3 三角縁三神三獣鏡(棺外鏡2) 写真4 三角縁二神四獣鏡(棺外鏡3) 写真4 三角縁二神四獣鏡(棺外鏡3) 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 し た 。 こ の 程 度 の 大 き さ で は 大 人 の 遺 れ ま す が 、 骨 な ど は 残 っ て い ま せ ん で め る も の で す 。 土 器 の 中 に は 遺 体 を 入 に 穴 を 掘 っ て 高 さ 40 ㎝ ほ ど の 土 器 を 埋 離 れ た 地 点 で 出 土 し ま し た 。 植 す 。 ま た 、 糸 玉 は 墓 地 か ら 少 し 土 偶 が 壊 さ れ た も の と 思 わ れ ま 祭 祀 行 為 の 過 程 で 人 の 形 を し た 土 器 棺 墓 と は 、 写 真 1 の よ う に 地 面 な ど が 造 ら れ て い た こ と が 判 り ま し た 。 時 代 晩 期 末 ︵ 口 酒 井 式 期 ︶ の 土 器 棺 墓 田 の 下 層 に 約 2 8 0 0 年 前 ご ろ の 縄 文 が 、 そ の 後 さ ら に 調 査 を 進 め る と 、 水 ・ 腕 部 ・ 脚 部 だ け の 出 土 で す 。 完 形 で す が 、 多 く は 頭 部 ・ 半 身 土 し ま し た 。 写 真 の も の は ほ ぼ が あ り ま し た 。 土 偶 は 12 点 が 出 て 写 真 3 の 土 偶 や 写 真 4 の 糸 玉 た る 水 田 遺 構 を 検 出 し て い ま す 。 そ の で に 弥 生 時 代 前 ・ 中 ・ 後 期 と 長 期 に わ 昨 年 4 月 か ら 本 掘 調 査 を 始 め 、 こ れ ま 行 っ て い ま す 。 J R 玉 手 駅 の 北 側 で は 、 設 に 伴 っ て 工 事 前 の 文 化 財 発 掘 調 査 を か る し こ 。 よ た う 。 の に 後 ほ 隠 で か し 取 、 て り 特 い 出 徴 た し 的 の て な で 加 遺 し 工 物 ょ で と う き し 石 が 1 3 7 点 も 埋 め ら れ て い ま は 、 そ の よ う な 製 品 に な る 前 の 加 工 し て 利 用 さ れ ま す 。 こ こ に で 、 硬 質 で 矢 尻 や ナ イ フ な ど に 代 は 約 2 5 0 0 年 前 に さ か の ぼ り ま す で も 紹 介 し ま し た 。 最 も 古 い 水 田 の 年 成 果 の 一 部 は 昨 年 10 月 号 の ﹃ 広 報 ご せ ﹄ 教 育 委 員 会 で は 、 京 奈 和 自 動 車 道 建 カ イ ト は 二 上 山 な ど で 採 れ る 石 ふるさと御所 番外編 文化財探訪 京 玉奈 発手和 掘地自 調区動 査の車 道 ⑵ 縄文時代晩期の 土器棺墓などを検出 生涯学習課 文化財係 ☎内線696 ト 集 石 土 坑 が あ り ま し た 。 サ ヌ 遺 構 と し て は 写 真 2 の サ ヌ カ イ で す 。 こ の ほ か 、 類 例 が 少 な い 写真1 土器棺墓 写真2 サヌカイト集石土坑 写真3 土偶出土状態 写真4 赤漆を塗った糸玉 2010. 3 30 分 間 が 過 ぎ て い っ た 。 (久) 酔 し て し ま い 、 夢 見 心 地 の 熱 的 な チ ェ ロ に す っ か り 陶 律 を 奏 で る デ ュ ・ プ レ の 情 再 燃 さ せ た 。 物 悲 し げ な 旋 よ っ て そ の 内 包 す る 魅 力 を 曲 の C D は 、 こ の ア ン プ に っ た エ ル ガ ー の チ ェ ロ 協 奏 ク の 片 隅 で 日 の 目 を 見 な か や か な 中 高 音 。 今 ま で ラ ッ あ っ て 人 が 生 活 を し て い た 証 拠 の て あ く る る 重 。 低 そ 音 し 。 て 生 豊 々 か し で く 量 艶つや感 こ れ ら は 、 当 時 何 ら か の 建 物 が き 火 の 痕 跡 ︵ 地 床 炉 ︶ が あ り ま し た 。 成 果 を 上 げ る こ と が で き ま し た 。 ー 高 ト い の 。 音 オ がめー 明いりケ 瞭ょうス に ト 耳 ラ に の 迫 各 っ パ の 遺 跡 の 特 徴 と 言 え る で し ょ う 。 囲 に 密 度 高 く 墓 を 造 っ て い る こ と が こ る 土 壙 墓 14 基 が 見 ら れ ま し た 。 狭 い 範 こ と も あ り 、 今 回 の 発 掘 で は 、 こ れ か ら 縄 日 本 で は 縄 文 時 代 の 遺 跡 の 数 自 体 が 少 な い の 遺 構 ・ 遺 物 が 検 出 さ れ ま し た 。 一 般 に 西 に 出 か し く 、 音 度 が 肝 緻ちみを 密つ抜 で か 分 れ 解 た 能 。 が と 倒 的 な ス ケ ー ル の 音 が 鳴 り り な い 外 観 と は 裏 腹 に 、 圧 ま た 、 墓 以 外 に も 周 辺 部 に 柱 穴 や 焚 文 時 代 の 社 会 像 を 考 え て い く う え で 重 要 な ほ か に も 土 を 掘 っ て 直 接 遺 体 を 埋 葬 す こ の よ う に 、 玉 手 地 区 の 発 掘 調 査 で 多 く 試 聴 し た 。 コ ン パ ク ト で 頼 が 南 北 60 m 程 の 範 囲 に 20 基 も 検 出 さ れ 、 も 考 え ら れ ま す 。 こ の よ う な 土 器 棺 墓 大 人 の 場 合 に は 骨 だ け を 改 葬 す る こ と 体 は 入 ら ず 乳 幼 児 の 墓 と み ら れ ま す が 、 例 し か 類 例 が な い 珍 し い も の で す 。 と し て 作 ら れ た も の で す が 、 全 国 で も 十 数 朱 を 使 っ た 赤 漆 を 塗 っ て い ま し た 。 装 飾 品 物 の 繊 維 を 合 わ せ て 束 を 作 り 、 さ ら に 水 銀 プ を 一 週 間 貸 し て も ら っ て 近 所 の 人 に デ ジ タ ル ア ン 編 集 後 記 ★公共の場等では禁煙・分煙の徹底を★ 子どもたちや妊婦、非喫煙者等を受動喫煙の被害から守ろう ! 刀剣の把 槍と鞘 蓋 写真1.宝塚1号墳の船形埴輪 (写真提供:松阪市教育委員会) 刻 ま れ て い ま し た 。 こ の 直 弧 文 は 石 文も ん具 そ と に っ 呼 は く ば 直 り れ 線 で る と す 古 円 。 墳 で そ 時 構 し 代 成 て 特 さ 、 有 れ そ の る の 文 、 鞘 様 直ち ょ尻 が 弧っ こ装 11.6cm ︵ 写 掲 真 載 許︵2 . 可雪 琴 野柱 東山 近古形 石 江墳製 市出品 教土 育︶ 委 員 会 ︶ と で も 有 名 で す 。 最 前 列 に は 刀 剣 の タ イ プ の 石 見 型 埴 輪 の 形 状 に ま さ に 野 山 古 墳 の 琴 柱 形 石 製 品 そ し て 古 い し た 宝 塚 1 号 墳 船 形 埴 輪 の 立 物 、 雪 や 半 塗ぬ り定 槍りで 部 の 的 ︵ 、 の 鞘さ やに 写 こ 鞘さ やが な 真 れ 尻じ か り 3 ら り 装そ ぶ ま ︶ の う 具ぐせ し で モ ︵ て た あ デ 写 あ 。 っ ル 真 り 槍 た に 4 、 の こ な ︶ 特 先 と っ は に 端 が た 、 そ に ほ も 右 の はうぼ の 記 上 漆る し確 が ︵ 文 責 2010. 4 田 和 尊 ︶ た 事 例 の 典 型 例 と い え る で し ょ う 。 2 在 つ 、 のて北 天ん じを 井ょ う柳 川が わ田 に 川 よ 、 っ 南 て を 画 さ 城 れ 川 、 と ま い た う 、 下 水 位 は 、 集 落 が 営 ま れ た 当 時 に 比 流 す る こ と と も 相 ま っ て 、 付 近 の 地 器 物 が 立 て 並 べ ら れ た 表 現 が あ る こ 構こ し せ 本 6 し あ 質し う真 宝 つが に と こ 極 れ に 造ぞ う1 塚 三 た 、 来 5 と り の 、 土 い と め ま あ 鴨 て 船せ ん︶ 1 重 。 多 の 0 り ま 遺 一 に え に て し る 都 非 く 姿 年 わ し 存 方 変 ま な 高 た 現 波 常 を は 号 県 の を 前 けうた 状 で わ す り い か 在 1 に 写 、 墳 松 も し 外 か 阪 謎な ぞわ 当 漆る。 況 木っる 。 、 地 ら の 号 高 し ら い ま 市 た 洋 を た 時 膜く に 棺か んほ こ こ 下 、 水 墳 は を ど の の 水 埋 田 は も も 航 出 所 解 し の の 目 は 劣 た 点 位 葬 の 、 の の 海 土 在 く た さ 残 し を じ 化 め で に 主 地 そ に の で に こ ち ま り な 見 め し 、 も 晒さ す 用 たふ前 と の ざ の ら体 下 の 船 な 張 と て 鉄 極 さ は か よ っ が い が方 に 前 ま 良 形 た る す い 製 め れ 長 ら う て 、 ら は後 寄 に な さ も る ま 品 て て い 検 な い 多 れ 埴に円 与 現 器 は 輪 わ の 有ゆ し は 異 い 間 出 環 ま く たじ︵ 墳 し 出 物 、 う ゅ き が 機 た 既 例 た 、 さ 境 す の 準ん写 、 ま さ の 1 。 そ う し た 中 、 鴨 都 波 1 号 墳 の 調 査 無 理 が あ り ま す 。 波 き 1 く 号 進 墳 む の こ 水 と 浸び たが し 時 の 々 主 あ 体 り 部 ま は す そ 。 う 鴨 し 都 遺 跡 の す ぐ 東 側 で そ の 2 つ の 川 が 合 な 大 き さ に 表 現 さ れ た と 考 え る に は 考 古 学 で は 一 つ の 調 査 で 認 識 が 大 が 宝 塚 1 号 墳 の 埴 輪 に 見 ら れ る よ う 見 型 埴 輪 に も よ く み ら れ る 文 様 で す 。 形 の 儀 杖 や 指 揮 棒 だ と し て も 、 そ れ 盆 地 底 と な る 鴨 都 波 遺 跡 付 近 は 現 ふるさと御所 其の二十 文化財探訪 鴨か も 水 都 う つ び 漆るし浸た 波ば のし 美の 1 ︵ 主 号 そ 体 墳 の 部 1と ⑷ ︶ 生涯学習課文化財係 ☎内線696 ま で 製 す 、 品 し 杖つ え︵ 、 と 写 仮 し 真 にして 2 掌ょ うの ︶ ち 中ゅ 機 は う に 能 サ 収 に イ ま も ズ る 疑 が 程 問 小 度 が さ の 残 い 小 り の 突 輪 起 に の 見 付 ら く れ タ る イ よ プ う のへな 、 碧き ぎ 玉ょ く上 製 部 に 琴こ と 柱じ二 形 つ 石 の て い ま し た が 、 宝 塚 1 号 墳 の 船 形 埴 一 い 応 て 、 は 儀ぎ じさ 杖ょ うま ︵ぎざ ま 玉ょ く じ な 杖ょ う ︶ 議 説 論 が が 有 あ 力 り に ま な し っ た 。 型 埴 輪 が 何 を 写 し た も の な の か に つ こ と が 指 摘 さ れ た も の の 、 こ の 石 見 う ち 、 よ り 古 い 一 群 に 近 似 し て い る て つ は し い 、 か て 石い し は わ 見み、 異 型 中 論 と 間 は 呼 の あ ば 2 り れ つ ま る の せ た 形け い立てん し 象ょ物も の。 埴う はに 輪に わつ の い 古 墳 時 代 ︿ 8 ﹀ し 把つ か 掛 部 け 分 ら 、 れ 最 るき後 が尾 蓋ぬ さ が に 表 は 現 貴 さ 人 れ の た 頭 こ 上 と に に 差 写真4.鴨都波1号墳の槍と鞘 (槍先端部と鞘尻装具を拡大) 写真3.鴨都波1号墳の槍と鞘 (2本の槍が重なって出土した。 ) ★公共の場等では禁煙・分煙の徹底を★ 子どもたちや妊婦、非喫煙者等を受動喫煙の被害から守ろう ! 市役所は☎62-3001 短 甲 短た ん状 上 甲こ う態 に ︶ で 置 の 置 か 中 か れ に れ 、 入 た 口 れ 鉄 の 込こ製 付 ま よ ろ近 れ 甲いは ︵ て ほう う い 方 つ 形け ま 板い い たぶ し 革かせ た 綴わ と の 。 じ 漆 塗 靭 三 角 縁 神 獣 鏡 写真1:鴨都波1号墳 棺外西副葬品出土状況 て い ま す 。 な お 、 よ る 平 織 で 織 ら れ 太 い 絹 の 撚 り 糸 に で し ょ う 。 ︵ 文 責 田 和 尊 ︶ い て お り 、 こ れ は し が 二 対 計 4 つ 付 卓 に 越 対 性 す を る 示し大 唆さ和 す の る 経 も 済 の 的 と か 評 つ 価 軍 で 事 き 的 る な 定 板い たの 上 す と 側 と る 結 面 4 た び に 段 め つ は 目 の け 、 の せ 紐ひ もて 背お横 い帯 通ど 固 負 お 期 の 甲 冑 が 出 土 す る 事 実 は 、 他 地 域 よ う な 中 小 規 模 の 円 墳 や 方 墳 に も 前 大 和 に お い て の み 、 鴨 都 波 1 号 墳 の 副 葬 さ れ る こ と を 原 則 と し て い ま す 。 ま す 。 ま た 、 一 番 各 地 域 を 代 表 す る 前 方 後 円 墳 に の み 糸 で 界 線 と 中 間 線 の 装 飾 を 施 し て い 古 墳 時 代 前 期 に お い て は 甲 冑 は 、 ら に ア ク セ ン ト と し て 太 い 絹 の 撚 り 胴 す 部 。 か 出 ら 土 下 状 は 態 二 も 面 特 のさ徴 的 三ん か 角く ふで 縁ち し︵ ん 神じ 写 ゅ 獣う き真 鏡ょ う1 の ︶ 、 で で は 編 平ひ らみ 織お り上 と げ し つ 、 つ そ 、 の 6 横 段 帯 あ 部 る 分 横 に 帯 は 部 さ 分 靭 は 矢 を 入 れ て 背 負 う た め の 道 具 で 状 態 粘ね ん の 土ど か 良 槨く いうの 漆る 棺 し 塗ぬ 外 り 西 靭ゆ ぎ が か 出 ら 土 は し 非 ま 常 し に た 遺 。 存 り 飾 革 、 の で 細 た 全 い め 体 絹き ぬの を の 市い ち形 撚よ松ま つ作 り 文も んっ 糸 様よ うた 14 を 後 本 、 、 な 1 そ い 単 の し 位 上 16 あ に 本 た 装 と 刻 は に 木 全 釘く ぎ面 で が 接 覆 合 わ さ れ れ 、 ま 別 す 作 。 り 矢 の 筒 矢 部 筒 は 部 ふるさと御所 文化財探訪 鴨か 水 都も う つ る 漆し浸びた 波ば のし 美の 1 ︵ 号 そ主 墳 体 の部 2と ⑸ ︶ 生涯学習課 文化財係 ☎内線696 た な 彫 り 靭 刻 ま は と す 矢 段だ 。 筒 ん 彫ぼ木 部 り 箱 と に は 底 し 菱ひ しに た 形が た用 ベ を い ル 組 る ト み 木 状 合 箱 の わ か 彫 せ ら 1 ︶ を 知 る こ と が で き ま し た 。 細 な 調 査 を 行 う こ と に よ り 、 全 容 ︵ 図 た 表 の 革 え ま を は こ ら こ 厳い か面 場 盾 ば と す 失 、 と そ れ の め に 合 な ほ こ 。 わ 1 に れ た 靭 し 定 に ど か ろ ぬ 6 よ ら 蓋ふ たに い 着 はやに に で 、 5 り の も は 武 さ 焼き も 刀 当 実 0 仕 全 付 本 装 せ 漆う る塗 剣 時 に 年 上 面 属 体 し を て と 布 や に 優 を げ に し を 演 、 い さ 槍 お れ 経 ら 漆 ま 倒 出 漆し た て れ を す 立 っう れ の い し 黒こ 工 も た 重か さ。 さ く技 、 装 て て を 法 ま 具 は 芸 な こ ね せ き 基 で た 、 、 品 お の 塗 た ま 調 鉄 、 矢や漆 と 黒 漆 り 形 が か し と 板 甲っ柄らと い い 塗 す で ち た し の 冑ゅ、 い え 光 靭 作 る う 。 か わ た て 其の二十一 靭 の 裏 面 か ら 詳 る ん で 取 り 上 げ 、 ン フ ォ ー ム に く 端 ま で を ウ レ タ か ら 三 面 の 鏡 の つ ま り 短 甲 の 端 m に も 及 ぶ 範 囲 、 古 墳 時 代 ︿ 9 ﹀ 長 さ 1.5 m 、 幅 1 周 囲 の 土 ご と 蓋 紐通し 漆図 塗1 靭 模 式 図 紐通し 矢筒部 木釘 「総合治水」に関する資料請求・問い合わせは…御所市土木課☎内線 553 7 写真2:漆塗靭底部付近 (裏面) 広報ごせ 2010(平成22)年5月号 木箱部 豊 富 で 豪 華 な 副 葬 品 を 伴 っ て い た の 三ん こ か 角く ふれ 縁ち しま ん 神じ で ゅ 獣う き見 鏡ょ うて を き は た じ と め お と り す 、 る 4 非 面 常 も に の さ そ の よ う な 小 形 墳 に も か か わ ら ず 、 小 規 模 な 方 墳 に す ぎ ま せ ん で し た 。 は 、 ま さ に そ れ と 見 ま が う ば か り の 土どの 手て墳 ま 丘 で コ 伴 ー っ ナ て ー お に り よ 、 く 鴨 見 都 ら 波 れ 1 る 号 渡 墳 り の と 墳 み 丘 ら に れ は ま 、 す 弥 。 生 南 時 北 代 20 の ⅿ 方ほ う、 形け い東 周し ゅ西 溝う こ16 墓う ぼⅿ 伝 統 勢 力 の リ ー ダ ー の 一 人 で あ っ た 集 代 落 前 ﹁ 期 鴨 以 都 来 波 綿 遺 々 跡 と ﹂ 営 に ま 代だ い れ 々だ い ばる 蟠ん拠 踞き ょ 点 し 的 た 大 、 鴨 都 波 1 号 墳 の 被 葬 者 は 、 弥 生 時 コラム① 鴨都波1号墳棺内の玉類出土状況 (頭の右側からまとまって出土した。頭の左側から まがたま へきぎょく 出土した勾玉2点を加えると、ヒスイ製勾玉5、碧玉 くだたま 製管 玉8、ガラス小玉44の構成となる。ヒスイは いといがわ 新潟県糸魚川産、碧玉は北陸ないし山陰産) 葦 の り が 田 場 の あ 宿 合 地 り に 名 、 系 は が そ 、 れ の 場 城 玉 ぞ 合 上 田 れ に 郡 宿 に ゆ は に 、 系 か 系 は と 、 対 葦あ し し 田だ 城 て の 宿す 氏 、 く ねに 塚 系 は 口 の 玉た ま義 2 田だ 信 の 系 宿す さ く 統 ねん え て い ま す 。 る 考 え ︵ 小 城 説 ︶ を 唱 麓ろ く囲 を を 加 、 え 南 た 程 城 度 に に 二 限 上 定 山 す 東 な い こ と か ら 、 社し ゃそ 和 す が の 田あ︵ 大 そ 名 萃つ む れ に さ 城 以 冠か んん 北 す は 説 に る ﹁ ︶ の は 延え ん で 城 広 喜ぎ 城 す し の が 式き ﹂ が な 範 ら 内いを 、 い ま す 。 ︵ つ づ く ︵ ︶ 文 責 2010. 6 田 和 尊 ︶ 豊 富 で 豪 華 な 副 葬 品 ● 小 墳 に 見 合 わ ぬ ふるさと御所 其の二十二 文化財探訪 鴨か 古 も 都つ 墳 波ば 時 1 号 代 墳 ︿ 10 生涯学習課 文化財係 ☎内線696 ど と い っ た 状 況 を 認 め る こ と は 到 底 し か も そ れ を 棺 の 内 外 に 分 け 置 く な 面 、 棺 外 に 3 面 の 鏡 を 分 け 置 い て い 鴨 都 波 1 号 墳 に お い て の み 棺 内 に 1 べ て 棺 内 に 副 葬 す る の が 通 例 で す が 、 市 ︶ の 南 北 約 23 ㎞ の 広 大 な 地 域 を 指 お ょ 下も の所 郡り令う的 問 こ お 郡り市 ︵ の に 題 ︵ ︶ 旧 令れ いは と 北 ・おの 制せ い﹁ な 忍し り み南 に い ま 城 海の 城 こ お 郡 郡り城 うか﹂ す と ・か郡 つ らは 。 ぎ の、 一 周 つ 城 ら か り ぎ 辺 城の御 上み の律つ般 ど こ ま で と す る か 、 が た 場 合 に 、 そ の 範 囲 を 大 城 下 城 郡 説 に を 存 支 在 持 す す る る こ 見 と 解 か を ら 発 、 表 改 し め て て に 4 面 の 三 角 縁 神 獣 鏡 が 副 葬 さ れ 、 し 墳 の す べ て に 、 鴨 都 波 1 号 墳 の よ う る こ と に も 注 意 さ れ ま す 。 と は い え 、 大 和 に 所 在 す る 前 期 古 こ ≒ 容 で の す 間 。 に こ ギ れ ャ ほ ッ ど プ 墳 ︵ 丘 隔へ だ規 た 模 り と ︶ 副 が 葬 あ 品 る 内 り ⑹ ﹀ を 副 葬 す る 前 期 古 墳 は 、 原 則 と し て し た 。 中 小 規 模 墳 で あ り な が ら 甲 冑 す 古 遺 古 墳 物 墳 は と 時 他 し 代 に て 前 例 、 期 を 前 の 見 号 大 ま でか和 せ の ん 甲っ ち 卓た 冑ゅ く。 う を 越え つ 挙 性せ い げ を ま 示 ● ま 示 ま 大 す し 。 参 ず 考 ﹁ 城 説 に 供 城 と し ﹂ 小 て と お い 城 き っ 説 考 え ま す の で 、 私 見 を 殊 な 事 情 が 介 在 す る と 墳 す は 。 、 ま 前ぜ んた 方ぽ う、 後こ う4 円え ん∼ 墳ふ ん5 も 面 含 の め 鏡 て を 、 有 鏡 す は る す 古 大 和 に お い て の み 認 め ら れ る か ら で ﹁ で か つ き 城ら ぎ ま ﹂ せ な ん ら 。 で そ は こ の に 特 は コラム② 鴨都波1号墳棺外南の工具等出土状況 ばんじょうてっぷ (木製の容器に収められていた。中央の板状鉄斧の たいじょうてっぷ やりがんな ほか袋状鉄斧、剣、釶などが出土した。主体部は長 きにわたり水浸しであったため、鉄製品の遺存状態 は大変悪い。 ) ★公共の場等では禁煙・分煙の徹底を★ 子どもたちや妊婦、非喫煙者等を受動喫煙の被害から守ろう ! 墳 か ら は 小 規 模 な 墳 丘 に 見 合 わ の と 考 え て い ま す 。 鴨 都 波 1 号 写 真 2 は 馬 プ見 原ロ ト古 墳 城 群 氏 の と 被 で 葬 も 者 呼 像 ぶ に べ つ き い も て 5 り 確 た で 世 認 地 き 紀 城 で 名 ず の 氏 き も 、 の な せ 一 城 勢 い い 方 の 力 う ぜ 、 範 が ら い 大 囲 最 み 中 は も が 世 城 い 盛 あ ま 説 ず ん り で の れ だ ま し 根 の っ す かさ拠 のに 場 た 。 遡か ぼ 合 4 つ っ な も ∼ ま て っ 地 域 を 論 じ た に 過 ぎ な い 可 能 性 を 否 定 10 世 紀 初 頭 段 階 の カ ヅ ラ キ と 呼 ば れ た 社 点 の も 名 あ 称 り の ま 場 す 合 。 に ま は ず 延え ん、 小 喜ぎ し 式き の 城 成 説 立 の し 式 た 内 た 共 に 地 名 か ら の 考 証 に つ き も の の 弱 城 説 を 採 る 理 由 で あ り 、 前 期 の 大 王 家 と は 異 な る 因 習 を 保 ち 、 頭 足 分 離 型 の 鏡 副 葬 配 置 と い う 、 個 別 に 伝 達 さ れ た と み ら れ ま す 。 の 2 種 類 の 因 習 は 、 列 島 各 地 の ▲ ▲ ▲ ▲ そ れ を 全 国 に 多 く の 鏡 と 共 に 伝 写 真 1 頭 部 集 中 型 ︵の 奈鏡 良副 県 立葬 橿配 原置 考︵ 古天 学理 研市 究 所黒 転塚 載古 許墳 可︶ 済 ︶ 首 長 に 鏡 が 配 布 さ れ る に 際 し て 、 そ し て 鏡 副 葬 配 置 に か か る こ 二 人 の 文 献 史 学 者 か ら の 城 の 範 囲 域 を 中 心 に 展 開 し た も の で す 。 ふるさと御所 か つ ら ぎ な ど を 典 型 例 と し 、 置 で 、 鴨 都 波 1 号 墳 の 事 例 ︵ 写 真 2 ︶ 時 代 前 期 中 葉 以 降 に 登 場 す る 鏡 副 葬 配 た も の で す 。 一 方 、 頭 足 分 離 型 は 古 墳 大 王 家 や そ れ に 近 い 勢 力 が 採 用 し て き ▲▲▲ ▲▲ ▲ 田 和 尊 ︶ 耐 え ら れ そ う に な い 。 ⋮ (久) し て い け る だ ろ う か 。 到 底 し て こ の ク モ と 仲 良 く 共 存 ム カ デ が 嫌 い な 私 が 、 果 た と は い う も の の 、 虫 ・ ク モ ・ キ ブ リ を 全 滅 さ せ て く れ る 大 切 に 保 護 す れ ば 家 中 の ゴ す べ き 有 益 生 物 だ そ う な 。 配 置 す る ﹁ 頭 部 集 中 型 ﹂ の 鏡 副 葬 配 置 半 は 、 馬 見 古 墳 群 の 勢 力 を 通 じ て も た ら さ 城 の 伝 統 勢 力 で し た 。 豊 富 な 副 葬 品 の 大 鴨 都 波 1 号 墳 の 被 葬 者 は 片 腕 と も 言 え る 南 配 布 し た 前 期 の 馬 見 古 墳 群 の 勢 力 に と っ て 、 三 角 縁 神 獣 鏡 を は じ め と す る 銅 鏡 を 全 国 に い て お り 、 跳 び 上 が る ほ ど 巨 大 な 褐 色 の ク モ が 張 り 付 る と 、 す ぐ 目 の 前 の 壁 面 に 下 の 照 明 の ス イ ッ チ を 入 れ キ ブ リ を 食 べ て く れ る 尊 敬 い う 巨 大 な こ の ク モ 、 ア シ る と 10 ㎝ 以 上 は あ ろ う か と び っ く り し た 。 四 肢 を 広 げ く み る と 、 頭 の 周 囲 の み に 多 く の 鏡 を と 、 頭 の 周 囲 と 足 の 付 近 に 分 け 置 く ﹁ 頭 参 ょ 容 れ 6史 考 う の た 文 か ギ も 号 王献 ︶ 、権 。 ャ の 1 の拙 ッ と 9 最稿 プ 考 9 前﹁ も え 7 線 納 れ 年﹄城 得 ば ︵ ﹃氏 で 、 別と き 墳 馬 冊 る 丘 歴見 史古 の 規 読墳 で 模 本群 は と ﹂ ﹄﹃ な 副 第日 い 葬 22 本 で 品 巻古 し 内 第代 ダ カ グ モ と い う 種 で 、 不 気 墳 丘 規 模 と 副 葬 品 足 分 離 型 ﹂ の 鏡 副 葬 配 置 の 区 別 が あ り の 伝 統 的 な 鏡 副 葬 配 置 で 、 天 理 市 黒 塚 味 な 外 観 と は 裏 腹 に 憎 き ゴ 内 容 の ギ ャ ッ プ ま す 。 う ち 頭 部 集 中 型 は 弥 生 時 代 以 来 古 墳 の 事 例 ︵ 写 真 1 ︶ が 示 す と お り 、 城 や 淀 川 北 岸 地 ︵ 文 責 生涯学習課 文化財係 ☎内線696 ▲ 其の二十三 文化財探訪 ▲ 7 に 達 あ で る き る 馬う ま 見み勢 古 力 墳 と 群 し を て 除 は い 、 て 北 は 考 城 ▲ ▲ ▲ 2010. え ら れ ま せ ん 。 こ れ が 私 が 大 の 考 察 は 共 に 説 得 力 は あ り ま す が 、 ま ▲▲▲▲ 頭 足 分 離 型 の 鏡 副 葬 配 置 ︵ 御 所 市 鴨 都 波 1 号 墳 ︶ こ の よ う な と き 、 強 み を 発 揮 す る の 検 証 し き れ な い の で す 。 ▲ な い 、 三 角 縁 神 獣 鏡 4 面 を は じ ▲▲ ▲ ▲▲▲ ▲ が 考 古 学 と い え ま す 。 私 は 古 墳 に 副 葬 ▲▲ ▲▲ さ れ た 鏡 の 副 葬 位 置 の 検 討 か ら 、 大 ▲▲▲▲▲ め と す る 豊 富 な 副 葬 品 が 出 土 し 城 説 に 立 っ て い ま す の で 、 ご く 簡 単 に ▲ そ の 根 拠 を 記 し て お き ま す 。 ら と 起 き 出 し 、 真 っ 暗 な 廊 頭 足 分 離 型 の 鏡 副 葬 配 置 の 因 習 と 共 に 、 う と 寝 ぼ け 眼 の ま ま ふ ら ふ 鴨か 古 も 都つ 墳 波ば 時 1 号 代 墳 ︿ 11 ⑺ ﹀ す る 場 合 、 棺 内 ・ 棺 外 を 問 わ ず に 大 き 代 の 鏡 の 副 葬 配 置 に は 、 複 数 の 鏡 を 有 と 考 え ら れ ま す 。 接 の 関 係 の 中 で は こ れ ほ ど の 厚 遇 は 得 難 い さ 三ん か 角く ふ 縁ち し じ 神ん ゅ 獣う き 鏡ょ う を は じ め と す る 古 墳 時 ま し た 。 他 勢 力 も 見 守 る 中 、 大 王 家 と の 直 あ る 深 夜 、 ト イ レ に 行 こ 編 集 後 記 ★公共の場等では禁煙・分煙の徹底を★ 子どもたちや妊婦、非喫煙者等を受動喫煙の被害から守ろう ! 葺石 ど が 知 ら れ ま す が 、 い ず れ も 数 十 ⅿ 埴輪列 オ れ サ 、 カ そ ケ れ 古 以 墳 外 、 で は 巨こ せ 勢や寺 山ま口 4 和 1 田 9 1 号 号 墳 墳 な や や 群 西 で 浦 は 古 鴨 墳 都 、こ波 孝う し1 昭ょ う号 り 墳 陵ょ う 古 の 墳 ほ な か ど 同 が 2 知 号 ら 墳 ︵ 写 真 1 ︶ は ち ょ う ど 前 方 部 北 側 張 南 城 の 前 期 古 墳 は 、 鴨か も 都つ 波ば 古 墳 ふるさと御所 其の二十四 文化財探訪 か つ 古 破 城ら ぎ 格 氏 墳 室むろの の 時 宮みや規 代 山やま模 盛 ︿ 古の 衰 12 墳 生涯学習課 文化財係 ☎内線696 出 部 の 取 り 付 き 部 分 に あ た り 、 張 出 ネ陪 コ塚 塚 古 墳 ぜ 最 せ て 状 内 も と で そ 墳 南 大 5 ん も 態 に の い 示 れ 後 と 世 。 有 で 長 で う す は 円 名 見 持 す 大 と 蓋ふ 城 い 紀 た部 で 学 形 。 変 3 石 南 の う 前 、 で 石 な 豪ご 地 突 葉 う・ の 石 遠 き 棺 お 壮そ に 出 当 う51 長 室 来 る が 、 な ⅿ さ の 何 し 時 の 全 納 本 の た に あ 見 国 め 墳 規 前ま え 学 唯 ら は 触ぶ模 っ 者 一 れ 竪 れ の て が の た 穴 も 古 は 絶 例 ま 式 な 墳 奈 え と ま 石 く が 良 ま し の 室 突 な 県 図1 室宮山古墳墳丘復元図 ︵ 文 責 2010. 8 田 和 尊 ︶ 然 に 出 現 す る の か 、 5 世 紀 代 の 天 皇 て い き た い と 思 い ま す 。 も 代 の の 史 個 で の 別 す 謎な ぞの 。 を 事 次 解 象 号 明 に か す と ら る ど 少 こ ま し と ら ず に ず つ つ 、 紐ひ もな 日 解とが 本 い る 古 朝 顔 形 埴 輪 が 樹 立 さ れ ま す 。 平 成 6 こ 墳 れ は ら 何 の の 命め いた 題だ いめ は に た 築 だ 造 単 さ に れ 南 た の 城 か 地 な 域 ど 、 さ 三 良 れ 段 県 、 築 最 各 成 大 段 の で の 墳 、 テ 丘 破 ラ の 格 ス 斜 の に 面 規 は に 模 を 円 は 誇 ふ 筒 葺きり 石い 埴は し に ま 輪わが す と 施 。 室む ろ 宮み やそ 山や まう 古 し 墳 た が 中 突 、 如 5 と 世 し 紀 て 前 出 葉 現 に し 至 ま っ す て 。 し 部 た の 写真1 葺石と埴輪列の検出(平成6年調査) 。 形 図 状 1 も 所 陪ば 式 容 復 は 推 い乗 箇 張 あ 墳 き 石 後 が 塚づ かる 所 出 り 丘 埋 が 元 木 測 も 室 円 想 の か ず 部 、 中 葬 偲し の図 許とで に 部 定 ネ た つ に 前 軸 主 ば で 守 き は の さ コ ち 、 も 方 を 体 れ 、 さ る 、 2 れ 塚 で そ そ 部 挟 は ま 築 ん よ 共 箇 ま 古 築 し れ に ん 後 す 造 に う に 所 す 墳 造 て ぞ も で 円 。 当 よ に 兵 の 。 に さ 周 れ 2 2 部 時 る な 庫 竪 の 墳 り 1 れ 堤 に 箇 箇 に 県 穴 威 丘 ま 箇 た に 1 所 所 は 、 陵 古 墳 に 匹 敵 す る 規 模 の 長 持 形 石 棺 年 度 の 調 査 で 設 定 し た 試 掘 ト レ ン チ 物 と 考 え ら れ る の か 、 陪 塚 ネ コ 塚 古 が 大 そ な れ 墳 ぞ 丘 れ に の は 被ひ そ複 数 葬う し 者ゃの は 埋 ど 葬 の 主 よ 体 う が な あ 人 る 墳 長 2 3 8 ⅿ は そ の 時 期 に 限 れ ば 奈 が 用 い ら れ る こ と の 意 味 は 何 か 、 巨 な 地 域 と い え ま す 。 地 西 南 部 や 中 南 部 は 前 期 古 墳 の 希 薄 ⑴ ﹀ 奈 良 盆 地 の 中 に あ っ て は 、 総 じ て 盆 柳 陵 長 本 古 3 古 墳 0 墳 が 0 群 連 ⅿ や 綿 に 佐さと も 紀き築 な 盾た て造 り 列な みさ な 古 れ ん 墳 る と 群 、おす る が 大お や 天 あ 倭ま と る ・ 皇 で を あ 見 る 渡 新に いし 沢ざ わて 5 も 0 墳 0 長 号 62 墳 ⅿ が の 最 前 大 方 で 後 、 円 墳 墳 と り わ け 室 宮 山 古 のひ長 棺つ 持 ぎ ﹂ 形 と 石 も 棺 称 は さ ﹁ れ 王 、 た 石せ っ竜つ高 か 棺ん山や ま砂 ︵ 石い し市 写 製 で 真 の 産 2 長な が出 ︶ 持も ちす が 形が たる 納 め ら れ て い ま す 。 級 の 円 墳 や 方 墳 に 過 ぎ ま せ ん 。 近 隣 写真2 後円部南石室の長持形石棺 (昭和25年調査) 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 ︵ 天て んの あ の 主し ゅ う ふ皇りは た 墳ん陵ょ陪ば いり う ︶ 古 塚づ か、 に 墳 ネ ま 付 ク コ ず 属 ラ 塚 は す ス 古 じ る の 墳 め 中 大 で に 小 形 す 取 規 前 。 り 模 方 陪 上 の 後 塚 げ 古 円 と た 墳 墳 は い 写真1 野中古墳第1列の甲冑等出土状況 (掲載許可:大阪大学考古学研究室) 詳 細 に 検 討 し た と こ ろ 、 こ れ ら は 個 10 組 の 甲 冑 そ れ ぞ れ の 組 み 合 わ せ を あ こ 頸か べ甲う紀 っ よ 甲ろ ︶ 代 た い な の の の ど ほ 甲 か の か 冑 、 付 首 ︵ が 属 か 写 問 具 ら 真 題 で 胸 2 と 構 背 ︶ な 成 部 は り さ を 、か ま 胄ぶ と れ 防ぼ うと す よ ま 禦ぎ ろ。 い す すょ甲 ︵ 5 が る 短た世 ん 、 で が は 出 そ 土 れ ︵ ら 写 の 真 本 1 来 ︶ の し 持 て ち い 主 る は の で 誰だ れ す で が あ 、 一 方 で 第 1 列 か ら は 10 組 も の 甲 冑 箱 の う ち 人 体 が 埋 葬 さ れ た の は 第 2 第 1 列 、 第 2 列 ・ ・ ・ と 称 さ れ た 木 の 各 種 遺 物 が 出 土 し ま し た 。 西 か ら ︵ 図 1 ︶ 、 そ れ ぞ れ の 内 部 か ら は 大 量 か 後 副 円 葬 部 さ 南 れ 石 て 室 い に な は か 甲 っ 冑 た は こ 1 と ∼ も 2 判わ か組 っ し 他 方 、 室 宮 山 古 墳 の 中 心 主 体 で あ る な ど が 採 集 さ れ た こ と が あ り ま す 。 墳 で も か つ て 少 な く な い 量 の 甲 冑 片 参 考 文 献 し ま す 。 政 治 体 制 が 敷 か れ て い た こ と が 判 明 か 甲っ 列 ち 冑ゅ うで も 、 第 被 2 葬 列 者 に 自 副 身 葬 が さ 使 れ 用 て す い る ま た す め 。 の 写真2 宇治二子塚古墳北墳出土の甲冑 (掲載許可:宇治市歴史資料館) ︵ 文 責 2010. 9 2 0 0 6 年 田 、 和 学 尊 生 社 ︶ 拙 著 ﹃ 古 墳 時 代 の 王 権 と 軍 事 ﹄ 、 野 中 古 墳 に は 5 つ の 木 箱 が 埋 め ら れ 実 は 室 宮 山 古 墳 の 陪 塚 、 ネ コ 塚 古 室 宮 山 古 墳 の 被 葬 者 像 を 考 え る に ふるさと御所 其の二十五 文化財探訪 か む つ古 室ろ 城ら ぎ 陪ばい宮みや 氏 墳 塚づか山やま の 時 ネ古 代 コ墳 盛 ︿ 塚と 衰 13 古 ⑵ ﹀ 墳 生涯学習課 文化財係 ☎内線696 墳 は 陪 塚 の 典 型 例 と し て 有 名 で す 。 あ に れ り 墓は かた 、 山や まの そ 古 で れ 墳 し に と ょ 伴 い う う う か 野の 大 。 な 中か形 古 古 前 市 墳 方 古 と 後 墳 い 円 群 う 墳 の 方 が 中 体 制 が 確 立 し て い た こ と を 示 し ま す 。 配 な 下 く に 、 管 小 理 規 を 模 委ゆ だな ね 陪 る 塚 と の い 被 う 葬 、 者 高 で 度 あ な る さ え も 大 王 自 ら が 管 理 す る わ け で は て 仕 え た こ と を 示 す も の で あ り 、 室 て い ま す 。 こ の こ と は 陪 塚 、 ネ コ 塚 辺 宮 で 山 見 古 ら 墳 れ 被 る 葬 も 者 の の に 周 比ひ 辺 け 肩んで す は る 大 高 王 度 の な 周 古 墳 の 被 葬 者 は 武 器 庫 の 管 理 者 と し そ れ で は 、 陪 塚 は 何 の た め に 造 ら 生 命 線 と も い え る 武 器 で く 少 数 に 過 ぎ ま せ ん 。 事 例 を 除 け ば 、 陪 塚 を 伴 う 古 墳 は ご る の で す が 、 こ れ ら の 大 形 古 墳 群 の 県 あ 内 た で り は の 佐さ 数 き 紀たも 増 盾て な 列みし 古 て 墳 い 群 き で ま も す 見 。 ら 奈 れ 良 群 に お い て 出 現 し 、 次 第 に 主 墳 1 基 野 陵 世 造 市 古 紀 さ ︶ 墳 代 れ が ︵ に る 築 堺 お も か 市 い の れ ︶ て を る や の 言 百も応お うみ い 舌 神じ ん認 ま 鳥ず陵 め す ・ 古 ら 。 古ふ る墳 れ 陪 市い ち︵ 、 塚 古 羽 仁に んは 墳 曳 徳と く5 は の 濠ほ りこ を と 隔へ だを て 指 、しし 、 周ゅ う 主 堤て い に 墳 接 と す の る 位 位 置 置 関 に 係 築 で 大 王 の 周 辺 で は 、 王 権 の え る わ け で 、 こ の こ と は 庫 の 管 理 者 で あ っ た と い 野 中 古 墳 の 被 葬 者 は 武 器 に 埋 め 納 め ら れ た こ と が て 、 こ の 野 中 古 墳 第 1 列 れ て 10 組 と な っ た の で は 判 明 し ま し た 。 つ ま り 、 甲 冑 の う ち 10 組 が 選 ば れ で 保 管 さ れ て い た 多 く の な く 、 元 々 、 武 器 庫 な ど 人 個 人 の 持 ち 物 が 集 め ら 図1 野中古墳遺物出土状況 (『河内野中古墳の研究』 、1976年、大阪大学 から) ★住宅街での車庫代わりの路上駐車はやめましょう★ 近隣住民の迷惑かつ違法行為になります ! 写真1 墳丘に立つ靭形埴輪のレプリカ 矢の束 製 冑 で し た か ら 、 埴 輪 の 革 製 に 南 石 室 か ら 出 土 し た の も 鉄 る こ と に 注 目 さ れ ま す 。 実 際 は な く 、 革 製 冑 を 表 現 し て い 当 時 一 般 的 で あ っ た 鉄 製 冑 で こ の 冑 形 埴 輪 な の で す が 、 あ る こ と が 判 明 し ま し た 。 形 石 室 埴は に 輪わの 群 上 に 部 よ が り 40 方 体 形 前 に 後 取 に り も 囲 及 ま ぶ れ 武 て 器 ︵ 写 真 2 ︶ を 表 現 し た も の で を 乗 せ る 、 い わ ば ﹁ 盾 持 ち 人 ﹂ N 冑 は 誰 の 武 装 を 写 し た も の な い た こ と も 、 古 墳 時 代 中 期 の 標 識 例 こ と は あ ま り に も 著 名 で す が 、 そ の は ち 、 、 盾 中 形 央 埴 に 輪 赤 の 点 上 を にか付 し 胄ぶ と 形 た 埴 も 輪 の 豪ご うさ 壮そ うれ な ま 長な がし 持も ちた 形 。 石せ っ竪 棺か ん穴 が 式 納 石 め 室 ら の れ 内 て 部 い に た は が 盗 掘 さ れ 、 緊 急 に 発 掘 調 査 が 実 施 れ て い ま す 。 う ち 昭 和 25 年 に 南 石 室 を 挟は さ室 ん 宮 で 山 2 古 つ 墳 の の こ 竪た て後う あ 穴な円え ん 式し き部ぶ せ 石きに 室し つは が 墳 構 丘 築 中 さ 軸 の 緑 色 で 示 し た 盾 形 埴 輪 の う 合 、 次 の よ う な 疑 問 が 生 じ ま 的 か も 知 れ ま せ ん が 、 そ の 場 物 の 武 装 、 と 考 え る の が 常 識 す 。 実 は 図 1 の 南 側 の 埴 輪 列 ●● ● ● ● ● ● ● ● ● ○ ○ ● ● ○ ○ ● ● ○ ○ ○ ○ ○ ● ● ○ ○ ● ● ● ● ● ● ● ● ● 〔 凡 例 〕 ● かっちゅう 甲冑形埴輪 たて ● 盾形埴輪 ● 靭形埴輪 ● ● 盾形埴輪 + 革製冑形埴輪 ゆぎ かわ かぶと ょ う か 。 南 石 室 に 葬 ら れ た 人 武 装 を モ デ ル に し て 作 ら れ た の で し ふるさと御所 文化財探訪 0 2m 図1 南石室における武器形埴輪などの配列 参 ﹃ 古拙考 墳著文 献 ︵ 2 時 文 代 0 責 0 の 6 王 年権 田 、と 軍 和 学事 生 尊 社﹄ 、 2010. 10 ︶ 違 あ り ま せ ん 。 で は こ れ ら の 武 器 形 埴 輪 は 、 誰だ れ の お り 、 そ の 被 葬 者 こ そ が 親 衛 隊 長 で 張 す 出 。 部 ま の た 粘ね ん、 土ど 室 か 槨く宮 で 山 革 古 製 墳 冑 で が は 出 前 土 方 し 部 て 北 れ た も の で し た 。 兵 の た め の 武 装 と し て 特 別 に 定 め ら 部 の 外 側 に 向 け て 立 て 並 べ ら れ て お て い ま す 。 い ず れ も そ の 正 面 を 主 体 た も の で 、 図 1 の よ う な 配 列 と な っ 隊た いた た の る も 武 彼 の 装 の を 状 身 求 態 辺 め で 警 る あ 護 な っ の ら た 役 ば と を 、 生 考 担に な 前 え っ の ら た ﹁ れ 親し ん 王 ま 衛え い ﹂ そ し て 彼 の 生 前 に そ の モ デ ル と な っ 的 軍 備 の 象 徴 と み る こ と が で き ま す 。 警け い武 衛え い器 す 形 る 埴 べ 輪 く 群 立 は て 、 並 彼 べ の ら 死 れ 後 た の 、 世 集 界 団 を や し 政 た 権 。 直 革 属 製 の 冑 各 と 種 襟 施 付 設 短 を 甲 警 は 護 、 す 親 る 衛 衛え い隊 へ い 殊 も なよ、 先 革 月 甲ろ い は 製 号 他 冑 で と と 扱 区 共 っ 別 に た し 襟え り野 て 付つ き中 扱 短た ん古 わ 甲こ う墳 れ と に て い お い う い ま 特 て あ っ た と み ら れ ま す 。 古 墳 時 代 ︿ 14 ⑶ ﹀ 城 氏 の 盛 衰 か つ ら ぎ ︵ 矢 埴 禦ぎ ょ の す 写 真 た輪 こ る 束ばは れ た 1 を 、 ら め ︶ 、 背 身 高 の 放 負 体 さ 革か わた っ に 1.5 製 れ て 着 m 盾た てた 携 用 近 を 矢 行 す い そ か す る 大 れ ら る 鉄 形 ぞ 身 た 製かの 武 れ 体 め 甲っ ち 写 を の 冑ゅ 器 う ゆ し 防ぼ う靭ぎ、 形 者 り を 、 威 そ 圧 れ す は る 聖 、 域 ま に さ 侵 に 入 結け っし 界か いよ と う し と て す の る 意 識 の 下 で 立 て 並 べ ら れ た も の に 相 室 宮 山 古 親墳 衛の 隊 生涯学習課 文化財係 ☎内線696 家形埴輪 ○ 円筒埴輪・朝顔形埴輪 其の二十六 ら ば 、 40 体 に も な り な ん と す る そ の 囲 を 取 り 囲 む と い う 状 況 を 考 え る な っ て 、 こ れ ら 武 器 形 埴 輪 が 自 分 の 周 そ こ で 南 石 室 の 被 葬 者 の 立 場 に 立 と し てた 度び 々た び 取 り 上 げ ら れ る も の で す 。 の か が 問 題 と な り ま す 。 ︿ 掲 載 許 可 写 真 2 盾 持 奈ち 良人 県︵ 立革 考製 古冑 学形 研 究埴 所輪 附と 属盾 博形 物埴 館輪 ﹀︶ ★公共の場等では禁煙・分煙の徹底を★ 子どもたちや妊婦、非喫煙者等を受動喫煙の被害から守ろう ! 0 写真2 大阪府・大庭寺TG232号窯出土の 船形須恵器 (掲載許可:大阪府文化財センター) 心 人 物 こ そ が 城 襲 津 彦 な の で す 。 ま さ に こ の 船 形 陶 質 土 器 は 、 た び も 同 様 の 記 事 が み え 、 そ の 倭 軍 の 中 い 島 る に の 攻 で め す 込 が ん 、 だ こ 日に ほ 本んと な 書し ょ 紀きど や が 古こ記 事じさ 記きれ に て 4 刻 0 ま 4 れ 年 て に い か ま け す て 。 、 西 倭わ暦 が 3 度 9 々 1 朝 年 鮮 か 半 ら 分 か り ま す 。 に 土 器 精せ い 緻ち︵ な 写 文 真 様 2 が ︶ 刻 と ま 比 れ べ て て い み る る こ と と 非 が 常 破 片 に す ぎ ま せ ん が 、 須 恵 器 の 船 形 り 6.3 ︵ ま 、 ⅿ 広 中 す そ ・ 開 国 。 の 幅 土 吉 四 約 王 林 面 1.5 ︶ 省 に ⅿ の 集 総 の 業 安 計 角 績 に 1 柱 をた高こ う 8 状 讃た句く え 0 の 麗り た の 2 石せ き 文 碑ひ高 好こ う 字 が さ 太た い が あ 約 王お う 土 れ 器 ま は す 外 。 洋 室 船 宮 の 山 波な み古 除よ け墳 板い た出 部 土 分 の の 船 小 形 さ 陶 な 質 で 作 ら れ た 場 合 に は 陶 質 土 器 と 呼 ば 2010. 11 文化財探訪 か む つ古 室 ろみ 城ら ぎ 墳 宮やや 氏 山ま の 時 被古 代 葬墳 盛 ︿ 者の 衰 15 像 写真1 室宮山古墳出土 の船形陶質土器 (波除板部分) 共 さ 候 に ん 補 か つと と 文 し 城ら ぎ 献 て 襲の そ 史 、 津つ ひ 彦こ学 考 な 者 古 る の 学 人 塚 者 物 口 の を 義 白 挙 信 石 げ さ 太 て ん 一 い は 、 郎 し 田 和 尊 ︶ 其の二十七 5cm 恵え焼ょ ま 物 れ う 器き成せ いす に た と ︵ 。 船 木 呼 註 日 形 の ば 2 本 陶と う根 れ ︶ 列 質し つの ま に 島 土 土 す よ 内 器 の が る で ︵ 中 、 灰 作 写 か 朝 色 ら 真 ら 鮮 の れ 1 出 半 土 た ︶ 土 島 器 還か んが し な は 元げ んあ た ど 須す炎え んり 遺 ︵ 文 責 ふるさと御所 ︻ 室御参 宮所考 山市文 古教献 墳育︼ 出委 土員 遺会 物﹃ 台 ﹄ 、風 1 7 9 号 9 被 9 害 年に よ る 他 な り ま せ ん 。 そ の 被 葬 者 の 有 力 な 害 で と 、 こ 室 ろ 宮 で 山 、 古 平 墳 成 の 10 墳ふ ん年 頂ち ょの 部う ぶ台 で 風 起 7 こ 号 さ 被 ︵ 反 意 語 = 酸 化 炎 焼 成 ︶ 色 の 土 器 が 焼 き 上 が る 。 が こ の 古 墳 に 葬 ら れ た こ と を 示 す に に ス 大 テ 王 ム に と 比ひ し け 肩んて す 機 る 能 勢 さ 力 せ を る 有 様 し は た 、 ﹁ ま 王 さ ﹂ と し て の 原 初 的 官 僚 ま で を も 統 治 シ 生涯学習課 文化財係 ☎内線696 警 衛 機 構 と し て の 親 衛 隊 や 管 理 機 構 定て いと 津 し 襲 す 内 彦 、 津 る 容 の ま 彦 の の 多 た の は 古 く 、 没 墳 の 記き年 妥だ と 当うと 事 紀きの と し 績 ︵ 幅 言 て に 註 の え 室 も 1 内 る 宮 相ふ ︶ に さ で 山 応わに 合 し 古 し 伝 致 ょ 墳 い え し う を 規 る ま 。 比ひ模 襲 す を し て 酸 素 の 供 給 を 断 つ 。 硬 質 で 灰 ︿ 温 由 註 度 来 2 ﹀ が の 還 十 技 分 術 元 に 。 炎 上 窯かま焼 が の 成 っ 中 = た で 大 段 土 陸 階 器 ・ で を 朝 窯 焼 鮮 半 に き 蓋ふた、 島 ︿ 註 1 ﹀ 記 紀 = 古 事 記 と 日 本 書 紀 の こ と で し ょ う 。 古 墳 と し て の 巨 大 さ の み な ら ず 、 で す か ら 、 時 期 の 上 で も 想 定 さ れ る も 呼 ぶ べ き 人 物 が 葬 ら れ ま し た 。 室 宮 山 古 墳 の 築 造 年 代 は 5 世 紀 前 葉 の た 事 び 績 朝 を 鮮 彷ほ う半 彿ふ つ島 と に さ 渡 せ っ る た も と の い と う い 襲 え 津 る 彦 武 古 器 墳 な に ど は を 王 管 の 理 下 す に る 結 、げ成 さ 原ん し れ 初ょ て た 的き か 軍 官ん り 団 僚ょ う と の ⑷ ﹀ 衛え い部 部 隊た いの 北 の 被 張 長 葬 出 で 者 部 あ に の り 忠 被 、 誠 葬 ま を 者 た も は 、 っ 、 陪ば いて 王 塚づ か仕 た ネ え る コ た 後 塚 親し ん円 ト を のひ築 と つ 竪た て棺ぎ造 い 穴あ な﹂ の う ぜ 式し きと 前ん破 石 い 方ぽ う格 室 わ 後こ うの に れ 円え ん規 納 る 墳ふ ん模 め 豪 で を て 壮 、 誇 い な 後 る 円 ま 長な 5 が も部 す 持ち 世 に 。 形が 紀 た せは 前 石っ﹁ 前 方 棺か ん王 葉 ピ ッ ク さんかくふちしんじゅうきょう よ う に 、 室 宮 山 古 墳 は 墳 長 2 3 8 m こ こ ま で 3 回 に 分 け て 記 し て き た ス へきぎょく 室宮山古墳の三角縁神獣鏡片と碧玉製品 (後円部南石室出土) 三角縁神獣鏡は古いタイプで、室宮山古墳 の築造期のものではない。このことは、被葬 者の出自が前期古墳の営まれた勢力にあり、 当時の三角縁神獣鏡が伝世されたことを示す。 したがって7月号で原・ 城氏の墓域と評価 した馬見古墳群こそが、室宮山古墳被葬者の 出身母体と考えられる。 (掲載許可:奈良県立橿原考古学研究所附属博物館) 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 写真1 室宮山古墳の大形家形埴輪 (転載許可:奈良県立橿原考古学 研究所附属博物館) し た が っ て 、 室 宮 山 古 墳 の 被 葬 者 が 古 墳 に 比 し て 若 干 遅 れ る も の で す 。 た か と 推 測 さ れ ま す 。 時 期 は 室 宮 山 は 行 政 っ 務 た を 場 執とと っ は た 考 公 え 的 が な た 場 く で 、 は お な そ か ら っ く 遺 い 跡 ま は す 、 。 館 こ な の ど こ の と 生 か 活 ら の 極 場 楽 や 寺 ヒ 祭さ い 祀しビ を キ が 少 な い こ と が 特 徴 の 一 つ と な っ て 飾 が 施 さ れ て い た と 考 え ら れ る 城 な の ど 、 古 墳 の 家 形 埴 輪 の よ う な 直 弧 文 の 装 跡 の 大 形 掘 立 柱 建 物 の 柱 に は 室 宮 山 ま で に 有 機 的 に 結 び つ い た 例 は 他 に る 実 際 の 遺 跡 で 検 出 さ れ た 遺 構 ︵ こ 両 者 は 互 い に 補 完 し 合 っ て ﹁ あ り ま せ ん 。 ま た 、 極 楽 寺 ヒ ビ キ 遺 こ で は 大 形 掘 立 柱 建 物 ︶ が こ れ ほ ど ひ 久さ 橿 埴 し さ 原 輪 ん 考 は に 古 、 よ 学 調 る 研 査 再 究 後 整 所 45 理 附 年 の 属 を 結 博 経 果 物 た 、 館 平 大 の 成 形 千ち 7 の 賀が年 、 極 楽 寺 ヒ ビ キ 遺 跡 は 遺 物 の 出 土 量 出 土 し た 埴 輪 と 、 同 じ 地 域 に 所 在 す 1 扁へ んが 平ぺ い組 な み 箱 合 形 わ の さ れ 埴は に 輪わた が 文 数 様 点 ︶ が 出 刻 土 ま し れ て た い 、 昭 和 25 年 の 室 宮 山 古 墳 後 円 部 南 石 は 円 形 に な り ま す 。 と こ ろ が 極 楽 寺 を 幅 60 ∼ 81 ㎝ 、 奥 行 き 10 ∼ 13 ㎝ の 断 ︵ ヒ 身も 舎やビ ︶ キ の 遺 柱 跡 は の 、 大 わ 形 ざ 掘 わ 立 ざ 柱 巨 建 大 物 な の 木 本 材 体 し ね に た ょ な 城 か だ う ど 氏 か 、 。 ︶ の わ が 次 る 特 用 代 遺 定 い の 跡 の た 盟 と 古 施 主 い 墳 設 ︵ う お と 例 わ よ み え け び る ば で そ は べ 玉た こ ま だな き 田の か く で 宿す ら く 、 極 楽 寺 ヒ ビ キ 遺 跡 は 襲 津 彦 そ の も の 仮 に 豊 か に し て い ま す 。 王 ﹂ が 用 い た 施 設 の イ メ ー ジ を よ り 直 弧 文 が 刻 ま れ た 箱 形 の 埴 輪 の 形 状 さ れ ま し た 。 こ れ は 冒 頭 に 述 べ た 、 田 和 尊 ︶ 査 報 告 書 ﹄ 第 1 2 2 集 ︶ 、 2 0 0 7 年 ﹃ 極 楽 寺 ヒ ビ キ 遺 跡 ﹄ ︵ ﹃ 奈 良 県 文 化 財 調 ︻ 参 考 文 献 ︼ 奈 良 県 立 橿 原 考 古 学 研 究 所 置 室 か の ら 発 、 掘 片 調 面 査 に で 直ち ょは 弧っ こ、 文も ん石 ︵ 室 直 の 線 真 と 上 の 円え ん 弧こ位 そ 面 の 長 形 方 が 形 痕こ んに 跡せ き加 と 工 な し っ て て あ 検 り 出 、 ︵ 調 写 査 真 で 3 は ︶ に ま さ に 合 致 す る こ と に な り ま す 。 ︵ 文 責 2011. ま し た 。 不 明 埴 輪 と さ れ て い た こ の 城 襲 津 彦 で あ っ た と し て も 、 ふるさと御所 其の二十八 文化財探訪 生涯学習課 文化財係 ☎内線696 た 木 を そ の ま ま 使 用 す る の で 断 面 形 掘 立 柱 建 物 の 柱 は 、 通 常 は 伐 採 し ほ し 端た ん検 四め濠り発 で 出 面んとへ掘 す さ に 塀い調 。 れ 縁え んに 査 た を 囲 さ ︵ 持 ま れ 写 つ れ た 真 大 た 極 2 形 方 楽 ︶ のほ形 寺 の ヒ こ 堀っ た て と 立ば区 ビ 画 キ が 柱し ら そ 建 の 遺 の 物 中 跡 に で 発ほ っが 、 、 な 再 り び ま こ す の 。 埴 県 輪 営 は ほじ脚 光 場ょ う 整 を 備 浴 事 び 業 る に こ 伴 と い に さ ら に そ の 後 10 年 を 経 た 平 成 17 年 、 古 墳 時 代 ︿ 16 ⑸ ﹀ か つ ら ぎ 極 楽 寺 ヒ ビ キ 遺 跡 室 宮 山 古 墳 と と 当 時 大 き な 話 題 に な っ た も の で す 。 で は し 家 、 総 た 形 ﹁ 高 。 埴 か つ1.2 復 輪 城ら ぎⅿ 元 の 襲の そと さ 柱 津つい れ で ひ 彦こう た あ のや類た ぐ家 る い 館か ま た稀れ形 こ の な 埴 と 埴 巨 輪 が 輪 大 ︵ 判 か な 写 明 ? も 真 し ﹂ の 1 ま ︶ 城 氏 の 盛 衰 建物 縁 広場 身舎 石垣 渡り土手 塀 石垣 濠 濠 濠 写真2 極楽寺ヒビキ遺跡の全景 (転載許可:奈良県立橿原考古学研究所) 写 ︹の真 考︵ こ 転 土 古載と層柱3 学許が断穴 研可よ面と極 究 くか柱楽 所奈分らの寺 ︶良か角痕ヒ 県る柱跡ビ 立。 ︺で キ 橿 あ 遺 原 る 跡 ★公共の場等では禁煙・分煙の徹底を★ 子どもたちや妊婦、非喫煙者等を受動喫煙の被害から守ろう ! 土 で 塗 り 込 ん で 壁 と す る 構 造 溝 を 掘 っ た 中 に 丸 太 柱 ︵ 矢 印 ︶ を 立 て 、 ふるさと御所 文化財探訪 生涯学習課 文化財係 ☎内線696 写真1 南郷遺跡群の大壁建物 (転載許可:奈良県立橿原考古学研究所附属博物館) 記 の 日 本 書 紀 の 襲 津 彦 の 時 期 か ら 微 跡 群 は 5 世 紀 中 葉 に 始 ま る の で 、 右 こ と が 判 明 し ま し た 。 な お 、 南 郷 遺 よ っ て 、 渡 来 人 が 多 数 居 住 し て い た と い う 朝 鮮 半 島 由 来 の 建 物 の 存 在 に 付 列 き 島 竪た てで 穴あ なは 式 初 住 期 居 の や 事 大お お例 壁か べに 建 属 物 す ︵ る 写 カ 真 マ 1 ド ︶ が 多 量 に 出 土 し た こ と に 加 え 、 日 本 韓 式 系 土 器 と い わ れ る 特 徴 的 な 遺 物 遺 跡 群 に お い て は 、 発 掘 調 査 の 結 果 、 の 一 角 に も 相 当 す る と み ら れ る 南 郷 南 郷 の 広 域 に わ た っ て 営 ま れ 、 佐 糜 一 方 で 御 所 市 多 田 ・ 下 茶 屋 ・ 佐 田 ・ し て い た こ と が 分 か っ て い ま し た が 、 文 献 か ら も 渡 来 系 の 人 々 が 多 く 居 住 そ ラ の ス 鞘さ や玉 や ・ 把つ か銀 の の 装 組 飾 み を 合 類 わ 推 せ さ は せ 、 ま 刀 す 剣 写真2 南郷角田遺跡出土のガラス滓とガラス玉 。 と (転載許可:奈良県立橿原考古学研究所) ︵ 文 責 2011. 2 田 和 尊 ︶ 記 念 物 調 査 報 告 ﹄ 第 69 集 ︶ 、 1 9 9 6 年 ﹃ 南 郷 遺 跡 群 ﹄ Ⅰ ︵ ﹃ 奈 良 県 史 跡 名 勝 天 然 ︻ 参 考 文 献 ︼ 奈 良 県 立 橿 原 考 古 学 研 究 所 実 と い え る で し ょ う 。 城 氏 の 権 勢 の 大 き さ を 如 実 に 示 す 事 姓 氏 録 な ど の ら に は 多 く の 技 術 者 が 含 ま れ て い た 明 し て い ま す 。 ま た 、 鉄 と 鹿 角 ・ ガ 産 さ そ れ し た て も 驚 の く にかべ 甲っ き ち こ 冑ゅ う が と あ に る 、 こ そ と こ が で 判 生 と 忍 み 海 ら に れ つ て い い て ま は す 新し ん。 せ ん し ょ う じ ろ く す 。 こ の こ と は 5 世 紀 代 に お け る 自 っ ら て の 生 命 膝し っ 下か線 で で 直 し 接 た 経 。 営 そ し れ て を い る 城 の 氏 で は 多 か っ た こ と で し ょ う 。 そ し て 、 彼 大 に 規 記 模 す な 、 戦 朝 乱 鮮 か 半 ら 島 逃の が全 れ 域 て を き 舞 た 台 人 に 々 し も た い ま す 。 業 が 集 約 し て 行 わ れ た こ と を 示 し て 産 と 管 理 は 、 当 時 の ヤ マ ト 政 権 に と 鉄 素 材 の 確 保 お よ び 武 器 ・ 武 具 の 生 み だ し 、 そ れ を 駆 使 し た ハ イ テ ク 工 り に で 至 は っ な た く の 、こは 好う、 太た いお 王お うそ 碑ひら ︵ く 先 は 月 捕 号 虜 参 ば 照 か ︶ 用 い て 炉 に 送 風 す る こ と に よ っ て 生 す 。 こ れ は 前 記 の 経 緯 に よ り 渡 来 し 南 郷 遺 跡 群 ① 城 氏 と 古 墳 時 代 ︿ 17 ⑹ ﹀ 城 氏 の 盛 衰 か つ ら ぎ に す き 新し 。 る ら 羅ぎ日 最 の 本 古 草さ わ書 の 羅ら の紀 人 城さ しに 物 を は の 破 神じ ん一 っ 功ぐ う人 て 皇こ うと 帰 后ご うさ っ 5 れ た 年 て と 3 い の 月 ま 同 一 人 物 と み ら れ 、 実 在 を 確 実 視 で れ た か つ 百く 城ら ぎ だ 済ら襲の そ 記き津つ ひ に 彦こ さ 沙 は 至ち、 比ひ日 跪く本 と 書 あ 紀 る に 人 引 物 用 と さ ろ 痕こ ん鹿っや 遺 ぎ せ か 跡き角く銀ん跡 さ と の 滴て きで て な 破 ︵ は 、 る 片 写 ガ 南 遺 な 真 ラ 郷 物 ど 3 ス 遺 が 、 ︶ 滓さ い跡 多 そ 、て︵ 群 っ く れ 鉄 滓さか の 出 ぞ いす う 土 れ やた︶ ち ん︵ し の 鍛 造ぞ 写 南 て 加 剥う は 真 郷 い 工 片く 角 へ ま の ん2 田 、 ︶ の も の と し て 伝 え ら れ た の で し ょ う 。 城 氏 の 次 代 の 首 長 の 事 績 が 襲 津 彦 て 四 た 記 い 邑む ら捕 事 ま の 虜 が す 漢あ やが あ 。 人ひ と桑 り こ ら 原 、 の の 、 ま と 始 佐さた き 祖 糜び、 日 で 、 こ 本 あ 高 の 海 る 宮 時 を と 、 連 渡 も 忍お れ し り 記 海み帰 倭わし の っ ﹁ た 高 人 く 々 大 が き 、 な 当 火 時 力 の ﹂ 最 を 先 、ふ端 鞴い ご技 と 術 羽は で ぐ 口ちあ を る 其の二十九 妙 に 後 の も の と な り ま す 。 お そ ら く 写真3 南郷角田遺跡出土の銀滴 (転載許可:奈良県立橿原考古学研究所) 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 ふるさと御所 文化財探訪 生涯学習課 文化財係 ☎内線696 図1 南郷大東遺跡の導水施設(北から) (転載許可:奈良県立橿原考古学研究所) 図2 導水施設での祭りのようす(佐々木玉季 氏 画) (転載許可:奈良県立橿原考古学研究所) た こ と を 示 し ま す 。 南 郷 大 東 遺 跡 で て 各 地 の 有 力 首 長 の 下 で 行 わ れ て い た 水 辺 の 祭 り が 一 定 の 普 遍 性 を 持 っ 有 力 古 墳 で 出 土 す る こ と は 、 こ う し す 側 ら 。 に 続 こ 開 く の く 木 よ 排は い樋 う 水す いが な 孔こ う表 埴 へ 現 輪 と さ が つ れ 近 な 、 畿 が そ 中ち ゅっ れ 枢う すて は 部う ぶい 反 の ま 対 り や 、 は そ り し 垣 て 根 建 に 物 囲 の ま 内 れ 部 た に 中 は に 導ど う建 水す い物 孔こ うが か あ の こ 心し おと 合んが 寺じ やあ 山まり 古 ま 墳 す か 。 ら 図 出 4 土 は し 八 た 尾 も 市 の 所 で 在 、 近 畿 に 所 在 す る 有 力 古 墳 で 出 土 す る 納 さ れ た こ と で し ょ う 。 実 は こ の 種 の 施 設 を 模 し た 埴は に 輪わ が ︵ 文 責 2011. 3 田 和 尊 ︶ 製 品 を 用 い た 模 擬 戦 の よ う な 舞 が 奉 記 念 物 調 査 報 告 ﹄ 第 74 冊 ︶ 、 2 0 0 3 年 で ら れ 、 そ の 演 奏 に 合 わ せ て 刀 形 木 ﹃ 南 郷 遺 跡 群 ﹄ Ⅲ ︵ ﹃ 奈 良 県 史 跡 名 勝 天 然 用 で い は て 、 祭 椅 り 子 を に 行 腰 い 掛 、 け そ た こ 貴 で 人 は が 琴 流 が 水 奏か なを ︻ 参 考 文 献 ︼ 奈 良 県 立 橿 原 考 古 学 研 究 所 経 て 木 樋 へ と 排 水 さ れ ま す 。 掘 立 柱 っ は 石 世 た 、 で 紀 後 護ご 後 木も く が 、 樋ひ岸ん葉 一 を し の 旦 通 た 事 え 槽そ うっ 堰ん例 に てほ堤て い︵ 図 溜た掘っ に た 貯た1 ま 立て ば り 柱し め ・ ら 、 建た ら 2 て 導ど う物もれ ︶ の 水す い内 た で 管か んに 清 す を 入 水 。 た 兵 士 に よ っ て 守 ら れ た こ の 施 設 内 人 す の 。 頭 蓋 上 と に 翳 翳か ざは す と 道 も 具 に で 貴 す 。 盾 を 持 っ 上 で き わ め て 貴 重 な も の で す 。 の 検 出 例 は 、 そ の 祭 り の 実 態 を 知 る ま さ そ になの 典 南ん ご 型 郷う お と 大お ひ し 東が し 遺 て 跡 広 で く 検 知 出 ら さ れ れ る た の 5 が 、 か 蓋 刀た な さ 形が た、し出 翳 、 ば土 、 盾た て椅いし な 子すた ど 、こ木 琴 が ︵と製 あ 図 品 り 3 に ま ︶ は 、 き ぬ が さ で し た 。 其の三十 古 墳 時 代 ︿ 18 ⑺ ﹀ 城 氏 の 盛 衰 南 郷 遺 跡 群 ② 城 氏 と 形 よ 態 う の 、 水み ず人 辺べは の 太 祭 古 り の を 昔 行 か っ ら て さ き ま ま ざ し ま た な 。 り ま す 。 て さ 専 を 用 増 の し 施 、 設 そ が の 設も う祭 け 式 ら の れ 要 る 請 よ に う 呼 に 応 な し 水 辺 の 祭 り は 古 墳 時 代 に 入 る と 複 雑 る こ と は で き な い 構 造 ら て は い 中 ま の す 様 の 子 で をう、 外 伺か が い 部 見 か ら 物 く の は 周 柴し ばり 垣が きは ︶ 垣 で 根 囲 ︵ わ お れ そ す る も の で 、 さ ら に 建 か つ ら ぎ ん 。 今 清せ いも 水す い昔 の も 流 水 れ の が 大 絶 切 え さ る は こ 変 と わ の り 無 ま い せ し 建 込 物 む は か 板 た を ち 柱 で 間 板い たに 壁か べ落 と と 図3 導水施設から出土した琴 (転載許可:奈良県立橿原考古学研究所) 導水孔 図4 心合寺山古墳の導水施設埴輪 (写真提供:八尾市教育委員会) ★住宅街での車庫代わりの路上駐車はやめましょう★ 近隣住民の迷惑かつ違法行為になります ! 図1 百舌鳥古墳群の空中写真 (掲載許可:堺市博物館) 反正陵古墳 前 有 触 す れ る も 古 な 墳 く で 、 あ 前 り 期 な 古 が 墳 ら が 、 な 稀き は 薄くぜ な 何 南 の 仁徳陵古墳 いたすけ古墳 御廟山古墳 履中陵古墳 のて目 鉄っ し せ 製い ま か 甲っ し ち 冑ゅ た う ︵ 。 中 図 期 2 型 は 甲 5 冑 世 ︶ 紀 の 代 冑 ・ 頸 甲 ・ 短 甲 が 採 用 し 、 そ こ で は 性格 伝 統 勢 力 新 興 勢 力 そ こ で 私 は 地 方 の 状 況 に 着 豊 か な 埋 葬 主 体 を 百舌鳥ニサンザイ古墳 と な る と 思 っ て い ま す 。 な ら で は の 地 方 色 県名 山口 岡山 和歌山 岐阜 新潟 宮崎 徳島 山口 静岡 静岡 ら 、 い か よ う に も 解 釈 が 可 能 ど そ れ ぞ れ の 地 域 い る と 、 同 じ 事 象 で あ り な が よ う に 、 中 央 の 状 況 の み 見 て の 所 在 地 の 変 化 に 代 表 さ れ る し た が 、 右 記 し た 天 皇 陵 古 墳 穴け 塗 新し んし つ ぼ 墓 り 興こ うて や ︶ す 中 舟ふ なは る 期 ち 形が た地か勢 に 石せ っ下し力 入 き 棺か ん式お︵ っ な 横う黄 て 古墳名 天神山1号墳 月の輪古墳 寺内63号墳 長良龍門寺1号墳 谷内21号墳 木脇塚原A号墳 恵解山2号墳 赤妻古墳 千人塚古墳第2主体 五ケ山B2号墳 研 究 者 に よ り 議 論 さ れ て き ま な い こ と で す 。 対 さ て 、 こ の 問 題 に つ い て は 多 く の て も 冑 は 副 葬 さ れ え を 述 べ た い と 思 い ま す 。 頸 甲 ・ 短 甲 は あ っ て は 奈 良 県 最 大 と い う 破 格 の 規 模 を る そ な 室む ろれ か 宮み やは っ 山や ま、 た こ 古 か つ と 墳 城ら ぎ に は 襲の そ 戻 、 津つ ひ 5 彦こし 世 の た 紀 墓 い 前 と と 葉 も 思 に 目 い あ さ ま っ れ す 。 そ こ で 、 数 話 に わ た っ て 私 な り の 考 け て 通 る こ と の で き な い も の で す 。 採 用 し 、 そ こ に は 主体部 竪穴式石室 粘土槨 粘土槨 粘土槨 割竹形木棺直葬 地下式横穴 箱形石棺 舟形石棺 木棺直葬 木棺直葬 城 氏 の 出 現 の 経 緯 を 考 え る 上 で 避 こ の 問 題 は 、 室 宮 山 古 墳 ひ い て は 題 の う ち 、 今 ま で 触 れ る こ と が で き あ り ま す 。 略 土ど の 塗 か し 槨く竪た てり た ま 穴あ な︶ し 埋ま いた 式きは せ は 石 葬そ う き前 し 主ゅそ 室し つ期 体た いれ や 以 を を 粘ね ん来 胄 なし なし なし なし なし あり あり あり あり あり 頸甲 あり あり あり あり あり あり あり あり あり あり こ こ で 話 題 を 、 8 月 号 に 記 し た 命 続 く 伝 統 勢 力 ︵ 緑 短甲 あり あり あり あり あり あり あり あり あり あり ︵ 文 責 2011. 4 田 和 尊 ︶ ︵ 次 号 に 続 く ︶ 。 拠 で あ る と 考 え て い ま す 。 あ る こ と を 示 す 有 力 な 証 両 者 の 間 に 系 統 の 違 い が 其の三十一 文化財探訪 河 内 政 権 ① 文化財課 ☎62-9872 な で い 、 と 天 す 皇 る の 立 系 場 統 ︵ が 以 変 下 わ 、 っ た 否ひ て 定いわ 論 け ︶ で も は 図3 中期中葉までの地方における甲冑出土中小規模墳の2類型 ︻ 学の 生王参 社権考 と文 軍献 事︼ 拙 ﹄ 、著 2 ﹃ 0 古 0 墳 6 時 年代 、 ふるさと御所 だ あ 単 り に ま 陵り ょす 墓う ぼ。 の し 所 か 在 し 地 一 が 方 変 で わ 、 っ こ た れ だ は け た 陵 古 墳 な ど : 羽 曳 野 市 ・ ま 墳 た な は ど 古ふ る⋮ 市い ち堺 古 市 墳 ︶ 群 ︵ ︵ 図 応お う1 神じ ん︶ ︵ 百も列な の み だ 舌 古 大い か こ お 鳥ず墳 王うの 、 墓 古 群 ︶ぼ時 と 墳 ︵ の 期 い 群 奈 所 、てう こ ︵ 良 在 天ん の 仁に ん市 が 皇うと り さ 徳と く︶ 佐 陵ょで う か 陵 紀き古 す た 古 ら 盾て墳 。 、 城 の 地 に 突 然 出 現 す る 衝角付冑 眉庇付冑 冑 頸甲 模 こ の のひ古 墳 表ょ う か を ら 抽 分 出 か し る ま の と は め 、 て 前 あ 期 り か ま ら す 。 中 期 の 政 権 が 採 用 し て い る こ と は 、 し 皇 藤 た の 井 と 系 寺 見 統 市 る が ︶ 立 替 に 場 わ 移 ︵ り る 以 、 こ 下 河か わと 、 内ち に せ 肯こ う政いつ け 定て い権んい 論 が て ︶ 成 、 が 立 天 城 氏 と 古 墳 時 代 ︿ 19 ⑻ ﹀ 城 氏 の 盛 衰 か つ ら ぎ ま で の 甲 冑 出 土 古 墳 の う ち 、 中 小 規 マ 示 ト し 政 て 権 い と ま 矛む じす 盾ゅ ん。 し こ た の 政 よ 策 う を に 、 前 あ 期 え の て ヤ 図 短た ん装 3 甲こ う着 のひが 状 主 況 表ょ う に 要 で は な 、 地 武ぶう 方 具ぐち 所 と 上 在 な か の り らか 5 ま 胄ぶ と 世 す ・あ 。 紀 頸か べ よ 中 ま 甲ろ い た 葉 、 ・ に 興 対 勢 こ し 力 れ て に は は 対 5 牽け んし 世 制せ いて 紀 策さ くはかの で 懐い ヤ じ 対 柔ゅ マ う 応 策さ ト く し 、 政 た 伝 権 こ 統 は と 勢 、 を 力 新 肩甲 短甲 籠手 草摺 図2 中期型甲冑の装着状況 (末永雅雄『日本上代の甲冑』 から、一部改変) 遇ぐ う伝 ト 事 し 統 の 実 て 勢 甲 は い 力 冑 異 る に を な の 対 与 り で し え 、 す て て 新 。 は 篤あ つ興 冑 く 勢 を 待た い力 与 遇ぐ うの え し 方 ず 、 に に 逆 セ 冷れ いに ッ 楽 の で 勢 無む力 駄だを も 使 な っ い て は 地 ず 方 で を す 経 。 営 と し こ た ろ 方 が が す 。 ヤ マ ト 政 権 と し て は 、 前 期 以 来 こ れ は 非 常 に 奇 妙 な 事 態 と い え ま セ ッ ト で 副 葬 さ れ て い る こ と で す 。 ★公共の場等では禁煙・分煙の徹底を★ 子どもたちや妊婦、非喫煙者等を受動喫煙の被害から守ろう ! さき 草摺 4号石室 允恭陵古墳 中津媛陵古墳 仲哀陵古墳 例は、中期の政権が、地方において 新たな勢力を興し、甲冑の配布など を通じてむしろそれらを篤く待遇す ることにより、旧来の伝統的な在地 けんせい 首長層を牽制し、ひいては、彼らを も自らの勢力下に収めようとする政 けんげん 策の顕現したもの、 と評価できます。 地方経営に際しての、この前期と は整合性の認められない政策の存在 は、前期以来の政権がそのまま中期 に入っても継続して地方に対応した とするには明らかな矛盾ということ ができます。そして、これは前期と 中期の政権の間には連続性が無く、 系統の違いがあること、すなわち河 内政権の存在を肯定するべき明確な 証拠であると思っています。 (次号に続く) (文責 田 和尊) 追葬棺② 追葬棺 ① (4月下旬から上記電話 番号に変更しました。) 応神陵古墳 【参考文献】拙著『古墳時代の王権と軍事』 、 2006年、学生社 短甲 図3 鋤崎古墳の石室内棺配置と甲冑の副葬位置 (報告書から、一部改変) 初葬棺 〉 3号石室 籠手 古墳時代〈 1号石室 脇当 かつらぎ 短甲 葛城氏の盛衰 ⑼ 日本武尊陵古墳 20 文化財課 ☎60-1608 葛城氏 と かわち 河内政権② 図1 古市古墳群全景 (写真提供:藤井寺市教育委員会) 図2 老司古墳の埋葬施設と甲冑の副葬位置 (報告書から、一部改変) 2号石室 三尾鉄 安閑陵古墳 清寧陵古墳 広報ごせ 2011(平成23)年5月号 崎古墳の場合には、前期から中期へ 劣るものと評価できます。 の転換期に相当したためか、それぞ このことから、未だ十分には「ま れの古墳の中心的な被葬者自身も中 つろわぬ者」に対して、中期の政権 かっちゅう 期型甲冑の所有に消極的であったこ は甲冑をセットでは与えず、一方で、 とが判り、大変興味深く思われます。 かれら前期以来の在地首長も中期型 老司古墳の中心主体である3号石 甲冑に重きを置かないといった、双 室からは朝鮮半島製と見られる特殊 方の根底にある対立した意識が見え こ て くさずり わきあて しょう な構造の籠手や草摺と脇当のほか衝 てきます。 かくつきかぶと さんびてつ 角付胄の頂部に付くべき三尾鉄が単 改めて述べます。中期の政権が、 体で出土していますが、甲冑出土古 前期のそれと同じ系統の上に成り立 たんこう 墳として本来見られるべき短甲は、 っていたとするならば、その地方経 副次的な埋葬施設である2号石室に 営は、老司古墳や鋤崎古墳といった 副葬されていました(図2)。また、 前期以来の在地の大首長や、先月号 鋤崎古墳の場合には、短甲は古墳築 の図3に掲げた中小の首長のうち、 しょそう 造の契機となった初葬の人物に伴っ 伝統勢力の方を軸に展開させる方が ついそう たわけではなく、追葬棺に伴う遺物 自然かつ合理的です。ところが事実 で し た ( 図 3)。 そ し て 右 記 の2 墳 はそれとは異なり、中期の政権はむ かぶと あかべよろい では、胄ばかりか頸甲も伴わず、こ しろ、新興の、しかも中小の首長の あつ れは先月号で述べた中小規模墳のい 方をより篤く待遇しているのです。 ずれの甲冑保有形態に対してさえも これら一見矛盾するかにみえる事 墓山古墳 文化財探訪 其の三十二 ふるさと御所 もちろ ん 地 方 の 伝 統 勢 力 に 対 す る けんせいさく 牽制策は、中小規模墳の首長に対し てばかりではなく、大形前方後円墳 に葬られた大首長にも及んでいます。 ろうじ すき とりわけ、福岡県の老司古墳や鋤 仁賢陵古墳 市役所は☎62-3001 ● で 示 し て い ま す 。 盆 地 墳 ︵ 5 世 紀 代 ︶ の 分 布 を な っ た と み ら れ ま す 。 図 1 で は 中 期 中 小 規 模 た ん こ ぶ の よ う な 存 在 と 古 墳 群 の 勢 力 は 目 の 上 の 権 に と っ て は 、 佐 紀 盾 列 て あ る 時 期 か ら の 河 内 政 類 推 で き ま す 。 し た が っ を 借 り て 成 立 し た も の と こ と に よ り 、 そ の 正 統 性 る 女 性 と 婚 姻 関 係 を 結 ぶ 列 古 墳 群 の 被 葬 者 に 連 な ら く 河 内 政 権 は 、 佐 紀 盾 群 は 前 期 か ら 引 き 続 き 大 形 古 墳 を 築 て い で き は ま 河 す 内 。 政 奈 権 良 の 市 存 の 在 を 佐さ き 紀た前 提 盾て な 列みに 古 考 墳 え 実 は こ の 時 期 に 大 和 に 置 か れ た 大 王 す る 包 囲 網 が 完 成 す る わ け で す が 、 り 佐 紀 盾 列 古 墳 群 の 被 葬 者 集 団 に 対 で あ っ た と 考 え ら れ ま す 。 以 上 に よ 権 に よ る 極 め て 濃 厚 な 政 治 的 意 図 に 背 景 と し て 想 定 で き る の は 、 河 内 政 つ ま り 突 然 に 室 宮 山 古 墳 が 出 現 す る 命 題 に 対 す る 解 答 を 用 意 で き ま し た 。 に い 至 に っ 佐 たち紀 盾 張ょ う 列 本ほ ん 古 人に ん で 墳 は 群 な を い 途 か 絶 と え 疑 さ っ せ て る っ て わ た し は 、 雄 略 大 王 こ そ が 、 つ 専せ んめ 制せ いと 君く んす 主し ゅる と 多 し く て の も 敵 有 対 名 勢 で 力 す を 。 殺 し 害 た し が た 造 し 続 け て い ま す 。 お そ N 佐 紀 盾 列 奈良市 天理市 柳 本 ・ 馬 見 大 倭 桜井市 葛城市 橿原市 宇陀市 御所市 室宮山古墳 Ⓐ 応神 軽嶋明宮 Ⓑ 履中 磐余若桜宮 Ⓒ 允恭 遠飛鳥宮 Ⓓ 安康 石上穴穂宮 Ⓔ 雄略 長谷朝倉宮 Ⓕ 清寧 伊波礼甕栗宮 Ⓖ 飯豊 忍海高木角刺宮 Ⓗ 仁賢 石上広高宮 Ⓘ 武烈 泊瀬列城宮 五條市 20km 0 図1 奈良県内における中期中小規模墳と河内政権期の王宮 後 葉 近 く の 築 造 に 古 墳 群 で は 5 世 紀 ︵ 文 責 田 和 尊 ︶ 在 と そ の 性 格 ー ﹂ 、 2 0 0 9 年 さ て 、 佐 紀 盾 列 ▽ 拙 稿 ﹁ 河 内 政 権 肯 定 論 ー 王 宮 の 所 と み ら れ ま す 。 2 0 0 6 年 、 学 生 社 と も い う べ き も の 対 紀 す 盾 る 列 、 古 巨 墳 大 群 なく︶ 楔さ びに 和 の 旧 来 の 勢 力 ︵ 佐 打 ち 込 ま れ た 、 大 強 り 部 の い わ の 稀 南 け う 薄 そ ち な 城 の で 盆 の 傾 も 地 地 向 、 西 に の と 南 ▽ 拙 著 ﹁ 古 墳 時 代 の 王 権 と 軍 事 ﹂ 、 ︻ 参 考 文 献 ︼ し て 機 能 し た 、 と す る の が 妥 当 で あ の 勢 力 を 打 ち 破 る た め の 前 線 基 地 と る と き 、 こ の 王 宮 は 佐 紀 盾 列 古 墳 群 ろ う と 思 っ て い ま す 。 何 の た め の 防 御 で あ っ た の か を 考 え は 前 期 以 来 の 勢 力 こ の い ろ 長は せま に 谷の あす あ 朝さ く。 り 倉ら のそ 、ぼ宮み し 防うでやて ぎ 御ょ、 図 に 1 優 谷 筋 の れ の Ⓔ た 奥 は 立 ま 雄 地 っ 略 で た 大 す と 王 。 ほ か な ら ず 、 そ れ ふるさと御所 其の三十三 文化財探訪 河 内 政 権 ③ 文化財課 ☎60-1608 か 興 要な め こ の そ 中 が 期 室 中 宮 小 山 規 古 模 墳 墳 、 の そ 被 し 葬 て 者 集 城 団 氏 の こ れ で よ う や く 平 成 22 年 8 月 号 の 考 え ら れ ま す 。 た 勢 力 で す 。 そ し て 盆 地 西 南 部 の 新 り 、 い ず れ も 河 内 政 権 の 息 の か か っ 東 の 配 に 久く 置 づ は 津がし 伊 川わて 賀 古 い 上 墳 る 野 群 の 市 、 で の 西 す に 。 美み はは 旗た馬う北 に 古 見ま み は 墳 群 古 城 が 墳 陽 あ 群 市 、 も た び た び 牽 制 行 動 を と っ て い た と 墳 の 分 布 と 重 複 す る の で 、 大 王 自 ら の 王 宮 Ⓐ ∼ Ⓘ も 右 記 の 中 期 中 小 規 模 自 ら の 息 の か か っ た 勢 力 を 意 図 的 に 河 内 政 権 は 、 そ う し た 地 域 を 選 ん で 城 氏 と 分 共 布 通 が す る 稀き は 薄く特 で 徴 あ は る 、 こ 前 と 代 で の す 前 。 期 つ 古 ま 墳 り の 古 墳 時 代 ︿ 21 ⑽ ﹀ 城 氏 の 盛 衰 こ と が 分 か り ま す 。 こ れ ら の 地 域 に か つ ら ぎ 五 條 市 ・ 宇 陀 市 に 集 中 し て 分 布 す る 南 部 の 御 所 市 や 橿 原 市 周 辺 の ほ か 、 るゆ鹵る 墳 の か の おの 築 か 雄う 大 り お 略ゃ 王き 辛し ん造 る く み い 大 とい亥が いは 磐わ み と 王 諱な銘 途 之の ひ は が 鉄 絶だ媛め 、 刻 剣 え 陵 記 ま ︵ ま 古 紀 れ 図 す 墳 で た 2 。 を は こ ︶ 埼さ き最 後 皇 と に 玉た ま に 族 で 獲わ稲い な 大 を 知 加か荷り や は ら 多た山ま形 じ れ 支け古 墳 図2 埼玉稲荷山古墳出土辛亥銘金象嵌鉄剣 (転載許可:埼玉県立さきたま史跡の博物館) ★住宅用火災警報器が大切な「命」・ 「財産」を守ります。 全ての住宅に設置義務化されています。 玉手遺跡の 発掘調査 日常生活から切り離すことにより、棺と して利用することを可能とする、という 意識に根ざすものと思われます。なお、 な か つ し き ど き この種の深鉢は「中津式土器」という型 式名で分類され、西日本一帯に広く分布 しています。 一方、石囲遺構(写真2)は、自然石 を一辺 センチメートルの方形に並べた ものです。 一見すると炉とも思えますが、 焼けた痕跡はないので炉ではありません。 特徴的なことは石囲の区画内から関東地 しょうみょうじしきどき 方一円に分布する「称名寺式土器」の影 響を大きく受けた深鉢が出土したことで す。東日本では石を利用したお祭りを行 う施設が数多く確認されていることと、 積に制約があったことにより、人口も東 このような土器が西日本から出土するこ 日本ほど多くはありませんでした。 まれ とが稀なことを考え合せると、この石囲 しかし縄文時代中期後半(約4500 遺構は関東地方の影響を受けた、お祭り 年前)には、気候変動をはじめとする様々 のための施設であったと考えられます。 な要因によって西日本でも徐々に定住化 どせいみみかざり 別に出土した土製耳飾(写真3) が進みます。したがって、現在、西日本 また、 も東日本から伝播した装飾品です。西日 各地で確認されている縄文時代の遺跡の 本の土製耳飾の多くは 多くはこの時期以降のものです。 やや時期が下るものが 京奈和自動車道建設に伴い平成 ・ たまで 多く、この時期の耳飾 年度に発掘調査した玉手遺跡では、後期 ど き か ん ぼ いし は珍しいといえます。 初頭(約4000年前)の土器棺墓や石 がこいいこう 縄文時代は長い時間 囲遺構などを検出しました。 の経過に伴う、直接・ 土器棺墓は穴の中に口径 センチメー ふかばち 間接の広域の交流の存在が特徴の一つに トル、器高 センチメートルの深鉢(写 ひつぎ 挙げられます。西日本の縄文文化は東日 真1)を直立状態で埋め棺としたもので すす 本の影響を大きく受けていますが、とり す。この深鉢は表面が煤けており、本来 わけ玉手遺跡は、その傾向がより早く、 は生活の場面で煮炊きに使われていたも より顕著にみられる点で注目されます。 のですが、意図的に底部を打ち欠いてい うつわ ます。これは器としての機能を失わせて 縄文時代前期〜中期(約7000 年〜4500年前)の日本列島は、 現在より も 温 暖 な 気 候 で し た 。 東 北 〜甲信越 地 方 で は 、 人 々 が 生 活 を す るのに適 し た 環 境 だ っ た の で 、 広 く 定住生活 が 営 ま れ ま し た 。 一 方 で こ あねったい の時期の西日本は亜熱帯に近く樹木 が繁茂し て い た た め に 定 住 生 活 に は やや不向 き な 環 境 で 、 生 活 可 能 な 面 写真3 土製耳飾 (S.=1/2) 編集後記 映画「阪急電車 片道 分の奇跡」を観ました。原 作本はベストセラー、映画 の前評判も高く、邦画好き な私としては外せない 本 でした。地元の関西地域で は全国に先立ち 週間早く 公開されたとか…。運命に 翻弄されつつも新たな一歩 を踏み出す女性を描いた群 像劇。他人どうしがつなが り支えあう、心温まるスト ーリーでした。 ところで最近、映画とい えば「シネコン」が主流。 昔ながらの映画館はほとん ど姿を消しています。壁一 面に看板絵が描かれた「○ ○キネマ」 。わが町の映画 館に通った日々が懐かしく 思い出されます。……… 1 7 2011. 文化財探訪 15 1 (K) 写真2 石囲祭祀遺構 さいし 22 文化財課 ☎60-1608 写真1 土器棺に使われた深鉢 番外編 ふるさと御所 40 30 21 60 ★タイミングとコツ★ 効果的な節電アクションは一人ひとりの心掛けと、ほんの少しの工夫から 写真1 掖上鑵子塚古墳空中写真 直 前 に 起 こ っ た こ と に な り ま す 。 皇 の こ と で す か ら 、 こ の 事 件 は そ の 文 剣 に の あ 辛 る 亥 は 獲わ か 加た西 暦 多け る 支の 4 鹵お 7 大お 1 き 王み年 と で は 、 雄 そ 略 の 天 銘 紹 は 介 判 し 然 た と 埼さ きし ま 玉た ま せ 稲い な ん 荷り や 山ま。 古 し 墳 か の し 辛し ん6 亥が い月 銘 号 鉄 で 新 漢 の 槻 本 が 果 た し て ど こ な の か と 伝 え る の で す 。 れ い ていま 新ま きす の 漢あ 。 や の そ 槻つ きこ 本も とで の こ 南 れ の を 丘 一 に つ 合 の 葬 棺 し に た 入 見 分 け る こ と さ え で き な か っ た と い 大 臣 と 眉 輪 王 ら は 焼 死 し 、 そ の 骨 は ⇩ ︵ 城 名 氏 欠 が ︶ あ ⇩ り 玉 ま 田 す 宿 。 禰 う ⇩つち 円ぶ ら 大の お城 お 臣お 襲 み と 津 続 彦 来 葦あ しり 、 昨 、 田だ の 南 宿す 年 く 禰ね城 6 城 系 氏 月 に 号 を 本 城 は ∼ 拠 氏 北 7 に と 月 し 、 城 号 た か つを で ら 玉た ま城ぎ本 記 の拠 し 田だ 襲 の そ つに た 宿す 津 く ひ 禰ね彦こし と 系 以 た お 許 さ ず 、 つ い に 火 を 放 っ た た め 、 円 処こ 韓か らよ ろ 屯の 媛ひ めり み 倉や けと こ ︶ れ を 城 を 差 のい拒 し 宅え 否 な 出 七な し と す 区こ ま ろ こ ︵ す と 古 。 に 事 そ よ 記 し り で て 許 は 娘 し 五い つの を 請 お う と し ま す が 、 大 泊 瀬 皇 子 は ︻ 参 古考 墳文 ﹄献 Ⅰ︼ ︵ ﹃拙 新著 近﹁ 畿明 日日 本香 叢・ 書 南 図1 掖上鑵子塚古墳測量図 2 0 0 3 年 、 人 文 書 院 大 和 の 考 古 学 ﹄ 第 2 巻 ︶ 、 城 地 域 の 古 墳 ﹂ ﹃ 大 和 の と 求 し ま す が 、 円 大 臣 は 堂 々 の 正 論 に い 子 の 塚 印 奥お く 津つ古 象 城き墳 さ だ こ え と そ 与 思 円 え っ 大 ま て 臣 す い や 。 ま 眉 し す 輪 た 。 王 が ら っ の て わ 非ひ ご 業うた の し 死 は に 、 掖 相ふ さ 応わ上 し 鑵 ふるさと御所 其の三十四 文化財探訪 か つ 古 城ら ぎ 墳 城 氏 本 の 時 宗 代 滅家 盛 ︿ 亡の 衰 22 ① 文化財課 ☎60-1608 ⑾ ﹀ み 略ゃ く康 大 た 、 天 天 臣 こ 眉 皇 皇 のやと 輪 ︶ の 館か たに 王 の 弟 へ あ た 率 の 逃 り ち い 大お おげ 、 の る 泊は 込 眉 つ 軍 瀬 み 輪 身み せ が ま 王 柄ら隊 皇の み 引 が 子こす ら き 館 ︵ 。 は 渡 を の や し 取 ち が 城 を り の て の 要 囲 雄ゆ う安 円 り 、 そ の 昼 寝 中 に 刺 し 殺 し て し ま っ 幼 康こ な う 少 天 日 ほ の 皇 本 ど 眉ま と 書 あ よ 輪わ皇 紀 っ 王 后 に け が の よ な 、 会 る い 天 話 と も 皇 を そ の を 偶 の で 父 然 発 し のか耳 端 た 仇た きに は 。 と し 、 知 た 安あ ん 良 盆 地 を 一 切 望 む こ と が で き ず 、 ど の 方 向 に 対 し て 一 水 面 で は 巡 ら な い し 、 ま た 、 奈 良 盆 地 側 か ら は 比 あ 評 た 価 っ す て る 規 研 制 究 が 者 加 も え あ ら る れ よ た う と に 考 前 え 方 ら 部 れ が ま 短 す く 。 、 濠ほ り築 も 造 同 に り い も う 眺 立 望 地 の の 利 特 か 異 な さ い は 山 、 地 隠い ん形 蔽ぺ いの さ 谷 れ 間 て に 築 築 造 造 さ さ れ れ た て 古 い 墳 る と と お り 、 こ れ だ け の 規 模 の 前 方 後 円 墳 で あ り な が ら 奈 高 わ ず か 10 m ほ ど の 須 坂 峠 を 越 え た 位 置 に 占 地 し て を 掖 考 上 慮 鑵 す 子 る 塚 必 古 要 墳 が の あ 墳 る 丘 よ に う つ に い 思 て わ は れ 帆ほ たま す 立て が 貝い。 形 古 墳 と 必ひ っっ 皇 れ く 衰す いた 家 を 系 統 のこ の が わ城 外い城 が 理と り ほ の 本 戚せ き本ん主 流 と 宗 と 宗ぞ う お 家 し 家けと り で て と み 、 す も 呼 な そ が 強 ん さ の 、 大 で れ 滅 ま な い て 亡 さ 勢 ま お は にじ力 す り 意 盛ょ を 。 、 う 外 者し ゃ誇 天 こ も か か わ ら ず 、 逆 の 流 れ を た ど る の に は 特 殊 な 状 況 百もと 舌 墳 鳥ず丘 ・ 規 古ふ る模 市い ちの 古 縮 墳 小 群 が な 著 ど し で く は な 墳 っ 丘 て は い 巨 ま 大 す 化 。 こ す の る 時 の 期 に 、 墳 長 1 4 9 m の 前 方 後 円 墳 で 、 室 宮 山 古 墳 に 比 べ る そ の 時 期 に 合 致 す る 掖わ き 上が み 鑵か ん 子す づ 塚か 古 墳 ︵ 写 真 1 ︶ は ︵ 文 責 2011. 8 田 和 尊 ︶ 写真2 掖上鑵子塚古墳出土 金銅装帯飾金具 (転載許可:奈良県立橿原考古学研究所附属博物館) ★住宅街での車庫代わりの路上駐車はやめましょう★ 近隣住民の迷惑かつ違法行為になります ! 石垣(居館側) 石垣 濠 た で 。 は 石 、 垣 首 を 長 持 居 つ 館 濠ほ りの ︵ 一 写 角 真 を 1 検 ︶ 出 に し 囲 ま ま し (外 側) 旧河 道 濠 写真1 名柄遺跡の濠と石垣 に 伴 い 実 施 し た 名 柄 遺 跡 の 発 掘 調 査 能 上 る 写 性 部 真 が 分 4 あ ︵ は り 前ま 乗 ま え 輪わ馬 す ま 時 。 た の は 鞍く ら 後し の ず 輪わ前 ︶ 後 で に す 立 。 ち 刀 剣 そ の も の を こ こ で 作 っ て い た 可 師じ の も 銀 き 器つ時 の 糸 壺ぼに で な な で し ど ど き ょ で も る う 飾 出 カ 。 り 土 ス 剣 付 し ︶ の け て 、う鞘さ やる い 漆る しや 直 ま が 鉄て っ前 す 入 滓さ いの の っ ︵ 工 で た 鍛 程 、 土は造 の に 目 を 引 か れ ま す 。 金 銅 板 や 金 糸 ・ 分 ︶ で す 。 流 麗 な フ ォ ル ム と 機 能 美 こ と が 判 り ま す ︵ 。 文 責 2011. 9 田 和 尊 ︶ す に 。 木 写 製 真 品 3 に は 目 刀 を の 見 把つ か張 ︵ る 片 も 手 の で が 握 あ る り 部 ま 心 に さ ま ざ ま な 製 品 が 作 ら れ て い た 首 長 居 館 で は 首 長 が 用 い る も の を 中 名 柄 遺 跡 か ら の 出 土 遺 物 に は 、 特 な ど 豊 富 な 木 製 品 が 出 土 し ま し た 。 名 柄 小 学 校 の 校 舎 及 び 体 育 館 建 築 ふるさと御所 其の三十五 文化財探訪 か つ 古 城ら ぎ 墳 城ほ 氏 本ん の 時 宗ぞう 代 滅 家け 盛 ︿ 亡の 衰 23 ② 文化財課 ☎60-1608 名 柄 遺 跡 に お い て は 焼 け た 木 材 は 若 る の で す が 、 現 在 知 ら れ る 限 り で は 、 が あ り ま す 。 円 大 臣 ら は 館 で 焼 死 す 大お おの し 臣お み時 か の 期 存 居 か 続 館 ら し そ み な の て か も 、 っ の 先 た で 月 わ あ 号 け っ で で た 述 す 可 べ が 能 たつ、 らそ 性 円ぶ の 居 館 の 全 容 が 明 ら か に な り 、 大 規 模 の 三 ツ 寺 Ⅰ 遺 跡 ︵ 写 真 2 ︶ の よ う に に 発 掘 調 査 が 進 め ば 、 群 馬 県 高 崎 市 で も あ り ま せ ん 。 し か し 、 今 後 さ ら 干 見 ら れ る 程 度 で 、 顕 著 と い う ほ ど ど ば 5 孔こ うの る の れ ︶ し は 好 各 る で た ヒ 資 種 機は たす 穴 ョ 料 。 に ウ で 農 織お り 工 具ぐこ 柄えタ す 具 、 の を ン 。 、 ナ ほ 突 の と 刀 ス か き 下 り 形 ビ 綛か せ刺 部 わ な 形 掛か けす を け し は ど 鍬く わや 杓ゃ半んユ い く の や 糸と子し裁さ いニ わ 祭さ 叉ま た枠く︵ し ー い 祀し鍬く わと 写 、 ク 具 な 呼 真 穿せ んな と 前 輪 ・ 後 輪 を 結 合 し て い た か が 判 時 ど の よ う に し て 座 る 部 分 ︵ 騎 座 ︶ 写真2 三ツ寺Ⅰ遺跡復元模型 (写真提供:かみつけの里博物館) 一 部 の 出 土 に と ど ま り ま し た が 、 当 も 知 れ ま せ ん 。 の 居 館 で あ っ た こ と が 証 明 さ れ る か な 火 災 の 痕 跡 が 見 つ か っ て 、 円 大 臣 後 葉 に は 廃 絶 し ま す 。 極 め て 短 期 間 こ の 居 館 は 5 世 紀 中 葉 に 造 ら れ 、 ⑿ ﹀ 建 っ て い た こ と も 判 っ て い ま す 。 の 復 内 元 部 さ に れ は て 竪た てい 穴あ なま 式 す 住 。 居 ま や た 倉 、 庫 方 な 形 ど 区 が 画 す る た め で 、 こ の 箇 所 は 現 地 に 保 存 ・ ら れ た 方 形 区 画 か ら の 突 出 部 に 相 当 前 で 異 な る の は 矢 掛 け の た め に 設 け 測 れ さ た れ 方 ま 形 す の 。 区 写 画 真 は の 一 濠 辺 の 100 幅 ⅿ が 程 奥 度 と と 手 推 写真3 刀の把 写真4 馬の鞍 (上から) (横から) 写真5 杓子 ★公共の場等では禁煙・分煙の徹底を★ 子どもたちや妊婦、非喫煙者等を受動喫煙の被害から守ろう ! 図1 巨勢山古墳群と室宮山古墳 室宮山古墳 べ る よ う に 、 少 な く と す る 、 と 考 え ま し た 。 し か し 次 号 以 降 で 述 う な 大 形 群 集 墳 が 成 立 作 っ た 場 合 に 、 こ の よ す る 人 々 が 集 団 墓 地 を 自 の 権 威 を 高 め よ う と こ と に よ り 、 自 ら の 出 関 係 は な い 場 合 も 多 い ︶ に 国 史 跡 に 指 定 ︶ は 、 室 宮 山 古 墳 の 墳 群 ︵ う ち 68 ㌶ は 平 成 14 年 12 月 19 日 と に 着 目 し 、 前 代 の 大 形 前 方 後 円 墳 大 形 前 方 後 円 墳 が あ る こ と が 多 い こ の 群 集 墳 か ら 見 下 ろ す 位 置 に 前 代 の 室 宮 山 古 墳 と の 関 係 の よ う に 、 大 形 を 開 始 し ま す 。 当 初 は の 被 葬 者 を 自 団だ んみ 分 関か んな た 係け いす ち = ︵ の 実 擬ぎ せ共 際 姓い て通 に 的き どの は 同う ぞ祖 血 族く し先 縁 集ゅ うと 巨勢山古墳群 も 巨 勢 山 古 墳 群 の 場 合 城 氏 に ま つ 築 造 を 契 機 に 5 世 紀 の 前 葉 に 群 形 成 わ る 人 々 の 墓 域 で あ っ た と 考 え ら れ か ら 横 穴 式 石 室 墳 へ と 移 行 す る 場 合 写真1 巨勢山408号墳の横穴式石室 し ょ う 。 ︵ 文 責 2011. 10 田 和 尊 ︶ 古 墳 や 支 群 を 少 し 詳 し く 見 て い き ま の よ う で す 。 次 号 以 降 、 そ れ ぞ れ の 群 が 個 別 の 群 集 墳 を 形 成 し て い る か ど さ ま ざ ま で 、 ま る で そ れ ぞ れ の 支 て も 木 棺 直 葬 を 採 用 し 続 け る 支 群 な 著 な 支 群 ︵ 写 真 2 ︶ 、 7 世 紀 に な っ 総 数 約 7 0 0 基 か ら な る 巨こ せ 勢や 山ま 古 ふるさと御所 文化財探訪 勢 山 古 墳 群 に 葬 ら れ た の は ど の よ う る の か 、 と い う こ と 。 2 つ め に は 巨 な る ま で に 古 墳 の 基 数 が ふ く れ あ が 勢 山 古 墳 群 は 日 本 最 大 級 の 群 集 墳 と お よ そ 6 世 紀 以 降 に お い て 、 な ぜ 巨 城 本 宗 家 滅 亡 後 の こ の こ と か ら 2 つ の 命 題 を 設 定 で 強 6 い 世 の 紀 が の 大 中 き 葉 な ∼ 特 後 徴 葉 と に な っ っ 木も かて ん 棺ち い 直ょ く そま 葬う す 墳ふ ん 。 古 墳 群 で は 支 群 ご と に 個 性 の 違 い が と し て は 等 質 的 な の で す が 、 巨 勢 山 の 場 合 、 支 群 は 違 っ て も 群 集 墳 全 体 の 20 ∼ 50 基 程 度 で 構 成 さ れ る 群 集 墳 墳 こ 中 の に 1 お 本 け 1 る 本 支し の ぐ 群ん支 と 尾 呼 根 び の ま 単 す 位 。 を 通 群 常 集 に 古 墳 が 密 集 し て 築 造 さ れ て い ま す 。 か ら な る 渡 来 系 の 要 素 ︵ 遺 物 ︶ の 顕 で 群 形 成 を 停 止 す る 支 群 ︵ 写 真 1 ︶ 、 前 葉 の 横 穴 式 石 室 墳 2 基 の 築 造 の み が 通 有 で す が 、 そ の ほ か に 、 6 世 紀 6 世 紀 後 葉 に 始 ま り 横 穴 式 石 室 の み き ま す 。 1 つ は に あ る こ と で す 。 本 に も 分 岐 す る 1 本 1 本 の 支 尾 根 上 る 群 形 成 の ピ ー ク 、 つ ま り 最 も 多 く 不 思 議 な の は 、 巨 勢 山 古 墳 群 に お け で 中 小 規 模 の 古 墳 が 造 ら れ 続 け ま す 。 滅 亡 し た 後 も 、 7 世 紀 中 葉 に 至 る ま ま す が 、 5 世 紀 後 葉 に 題 に つ い て 考 え て み ま す 。 群 な ら で は の 特 殊 な 状 況 か ら こ の 命 こ こ で は 数 回 に 分 け て 、 巨 勢 山 古 墳 に は そ の よ う に は 考 え に く い の で す 。 古 墳 時 代 ︿ 24 ⑴ ﹀ か つ ら ぎ あ が た 巨せ 城 勢や 県 山ま の 古 性墳 成 格群 立 ①の 文化財課 ☎60-1608 な 人 々 だ っ た の か 、 と い う こ と で す 。 白 石 太 一 郎 さ ん は 巨 勢 山 古 墳 群 と 其の三十六 の 古 墳 が 造 ら れ る 時 期 が 6 世 紀 中 葉 放 射 状 に 伸 び て さ ら に 手 の 指 状 に 幾 巨 勢 山 古 墳 群 で は 、 丘 陵 頂 部 か ら こ 城 本ほ ん 宗ぞ う 家け が 写真2 巨勢山421号墳の横穴式石室 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 771 421 ふるさと御所 420 其の三十七 文化財探訪 418 し て い ま す 。 れ 、 巨 勢 山 古 墳 群 中 の 一 支 群 を 構 成 前期古墳 770 終末期の小形古墳 図1 巨勢山古墳群中の一支群(西寺田) を た 築 418 ま 造 号 た す 墳 、 る の 5 ス 場 基 ペ 合 の ー に う ス は ち が 、 最 無 尾 後 く 根 に な 上 築 っ に 造 た 古 さ た 墳 れ け で す 。 こ の た め 、 通 常 の 横 穴 式 石 室 を 開 口 さ せ る 必 要 が 生 じ て い る わ 平 行 に 切 っ て 、 尾 根 の 低 い 方 向 に 石 墳 を 築 造 し て い ま す 。 そ し て 尾 根 に め 、 や む を え ず 山 腹 斜 面 に 降 り て 古 の 背 景 に は 先 行 し て 存 在 し た 古 墳 を と い う こ と に な り ま す 。 ま た 、 彼 ら 入 っ て 初 め て 古 墳 の 築 造 を 許 さ れ た 、 を 定 め ら れ た う え で 、 6 世 紀 後 葉 に 彼 に ら は は 渡 狭 来 い 系 支 の 尾 人 根 々 上 が に 葬 限 ら 定 れ し 、 た そ し 墓ぼ い 域きて に く い と い う こ と に な り ま す 。 と た か 、 ら 破 、 壊 擬ぎ せと 姓い てい 的き どう 同う ぞ行 族く し為 集ゅ うを 団だ ん伴 関か んっ 係け いて も い 考 る え こ 2011. と す る 円 墳 と の 間 に は 系 譜 関 係 は 存 ま 渡 2 匠ょ うし チ つ す 来 ︶ のぎて ュ 朝 ア ま 。 系 な 杏ょ う の ど 葉よ り う鮮 カ 人 の ︵ 半 マ こ 々 副 馬 島 ド れ が 葬 の 製 形 ら 5 葬 も 尻 と 土 ら 知 部 見 器 基 れ ら 分 ら 、 の 横 た れ の れ 銀 こ ま 装 る 製 穴 と す 飾 特 指 式 が の ⋮ 殊 輪 石 判 で 写 な 、 室 り 、 真 意いそ 墳 し ︵ 文 責 11 田 和 尊 ︶ 414 0 在 し な い と 断 言 で き る で し ょ う 。 ま 2 0 0 2 年 、 御 所 市 教 育 委 員 会 415 ︻ 参 考 文 献 ︼ ﹃ 巨 勢 山 古 墳 群 ﹄ Ⅲ 、 文化財課 ☎60-1608 20m と い 年 い 771 て て 存 す に こ る 以 わ 号 い 存 在 。 、 の わ 上 ば 墳 る 在 し ま か 5 け も は こ し た ず な 基 で の 城 中 と た 770 414 り の す 時 氏 期 が 771 号 号 無 横 か を の 中 挙 号 墳 墳 理 穴 ら 経 時 葉 げ 墳 を 、 を 式 、 て 代 の ら を 、 415 し 石 770 そ の 円 れ 破 421 号 て 室 号 れ 古 墳 ま 壊 号 墳 築 を 墳 を 墳 と す し 墳 は 造 内 、 破 で 方 。 て も 先 し 部 771 壊 す 墳 770 築 先 行 て 主 号 し 。 で 号 造 行 し い 体 墳 て 150 、 墳 し し て ま 、 ス ︶ が 副 葬 さ れ て お り 、 加 え て ミ ニ る で し ょ う 。 い ず こ れ れ も ら 鉄て っ5 滓さ い基 ︵ の 鉄 横 の 穴 鍛た ん式 造ぞ う石 時 室 に 墳 出 に る は カ 、 ざ ま な ヒ ン ト を 提 供 す る 支 群 と い え 古 墳 群 の 性 格 を 考 え る う え で 、 さ ま 法 を 採 ら ざ る を 得 ま せ ん で し た 。 以 上 の よ う に こ の 支 群 は 、 巨 勢 山 る と い う 、 異 例 と も い え る 石 室 構 築 号 室 墳 は の 南 横 向 穴 き 式 に 石 開 室 口 は す 西 る 方 の 向 で に す 開 が 口 、 す 418 も 判 り ま す 。 と を 許 し た ﹁ 権 威 ﹂ が 存 在 し た こ と 破 壊 し て 、 新 た な 古 墳 を 築 造 す る こ 上 に 集 中 し た た め 、 以 下 に 示 す よ う ち か に ら 築 7 造 世 さ 紀 れ 初 ま 頭 し の た ご 。きく 狭ょ う短 し い 小ょ う な 期 支 間 尾 の 根 う と す る 円 墳 は 、 い ず れ も 6 世 紀 後 葉 古 墳 時 代 ︿ 25 ⑵ ﹀ か つ ら ぎ あ が た 巨せ 城 勢や 県 山ま の 古 性墳 成 格群 立 ②の こ の 5 基 の 横よ こ 穴あ な 式し き 石せ き 室し つ を 内 部 主 体 こ 一 420 支 ・ 西 尾 421 寺 根 号 田 上 墳 所 に は 在 並 、 の ん 丘 巨 で 陵 勢 築 か 山 造 ら 414 ︵ 西 ・ 図 に 415 1 延 ・ ︶ び 418 さ る ・ 写真1 巨勢山421号墳 横穴式石室奥壁部の遺物出土状況 写真2 巨勢山421号墳出土 忍冬楕円文心葉形杏葉 ★住宅用火災警報器が大切な「命」・ 「財産」を守ります。 全ての住宅に設置義務化されています。 図1 巨勢山408号墳 横穴式石室見上げ図 胴 張 り 胴 張 り 玄室 袖石 ※ 赤 塗 り は 三 角 持 ち 送 り 羨道 0 ︵ 室し つ1 模 奥お く へ幅 ︶ と 壁き 2 さ 構 側 ⅿ れ 造 か 強 ま の ら 、 し 横 入 玄 た 穴 口 室 。 式 を 長 い 石 見 4 ず 室 て ⅿ れ 墳 ︶ 弱 の が の で 石 築 平 右み ぎ室 造 面 片か たも ︵ げ 形 袖そ で玄ん図 2m 同 一 支 群 内 で は が あ り 、 ま た 、 築 造 さ れ る 傾 向 う に 2 基 1 対 で と で も 分 か る よ の 数 字 が 近 い こ そ し て 、 こ れ ら に 見 ら れ ま す 。 団 の 再 編 が 行 わ れ た こ と を 示 す と 考 途 切 れ る こ と は 、 こ の 間 に 渡 来 系 集 墳 群 各 所 の 2 基 1 対 の 支 群 の 系 譜 が ま す 。 し た が っ て 、 前 述 の 巨 勢 山 古 か ら 、 渡 来 系 集 団 の 墓 は 存 続 し て い 半 で ら の 取 せ 渡 り た 来 上 大 人 げ 変 の た 貴 葬 414 重 ら ∼ な れ 421 存 た 号 在 一 墳 で 支 は し 群 6 た で 世 。 し 紀 前 た 後 号 文 字 を は じ め さ ま ざ ま な 技 術 を も た の 古 墳 は ﹁ 号 墳 ﹂ た 古 墳 に 特 徴 的 当 時 の 有 力 者 に と っ て 渡 来 人 は 、 が 目 立 ち 、 こ れ ら は 渡 来 人 が 葬 ら れ せ 持 っ て い る よ う で す 。 ︵ 文 責 2011. 12 田 和 尊 ︶ 鉄て っ器 滓さ い、 副 銀 ︵ 製 葬 鉄 さ品 に の 釵い 子しは 鍛た ん ︵ ミ 造ぞ う か 時 ん ニ に ざ チ 出 し ュ る ︶ ア カ カ 、 銀 ス 製 マ ︶ 指ゆド 形 な 輪び わ ど 、 土 途 切 れ が ち で あ る 、 と い う 特 徴 も 併 2 0 0 2 年 、 御 所 市 教 育 委 員 会 ほ か ︵ 75 407 で 号 は 6 墳 号 室 世 ︶ 墳 ︵ 紀 の ・ 431 に 各 408 号 入 所 号 墳 る で 墳 ・ こ 、 ︶ 、 432 ろ 大 朝 号 、 変 町 墳 巨 似 ︵ ︶ 勢 通 71 、 山 っ 号 西 古 た 墳 寺 墳 規 ・ 田 群 っ て い ま す 。 こ と が で き ま す 。 ま す が 、 こ れ も 前 述 の 古 墳 の 横 穴 式 文化財探訪 文化財課 ☎60-1608 小 石せ きド こ 塗 さ ︵ ー れ り な 408 ム を の も 号 状 ﹁さ石 材 の 墳 の 三ん か で で 高 角く︶ 済すは いて持もが ち 存 ま 失 天ん じ 送お く在 せ わ 井ょ う り す る れ を る の て 形 ﹂ 技 に い 成 法 こ 役 ま し と と に す 、て呼 で す 立 ︶ 天ん じび 。 ち を 井ょ う、 る か た ち で 斜 め に 配 置 さ れ る 石 材 ︵ 赤 成 り さ 、 れ 奥 る 壁 べ と き 側 角す み壁 に な 両 ど 方 本 の 来 壁 は を 90 連 度 結 で す 形 た 図 を 作 成 す る と 、 図 1 で 示 す と お は ち 石 送 室 り を ﹂ 床ゆ かと 面め んい で い 輪 ま 切 す り が に 、 し 特 て 徴 見 的 上 な げ の 其の三十八 古 墳 時 代 ︿ 26 ⑶ ﹀ か つ ら ぎ あ が た 巨せ 城 勢や 県 山ま の 古 性墳 成 格群 立 ③の 間 が を っ 狭せ ばて め 壁 て を い 次 く 第 石 に 室 内 構 側 築 に 技 傾 法 け を て ﹁ 、 持 空 こ ま た 、 石 室 の 上 方 に 向 か う に し た り が 顕 著 に 見 ら れ ま す 。 と な っ て お り 、 玄 室 の 側そ く 壁へ き に は 胴ど う 張ば 図2 巨勢山407号墳の 横穴式石室 後 に 続 く 古 墳 が 築 造 さ れ ず 、 系け い 譜ふ が ︻ 参 考 文 献 ︼ ﹃ 巨 勢 山 古 墳 群 ﹄ Ⅳ 、 石 室 の い ず れ に も 共 通 す る 要 素 と な ふるさと御所 図3 巨勢山408号墳 横穴式石室奥壁部の 遺物出土状況 の で き る 、 ﹁ 権 威 ﹂ の 存 在 を う か が う 後 に は そ れ ら の 集 団 を 再 編 す る こ と 各 所 に 築 造 さ せ る べ く 墓 域 を 与 え 、 渡 来 系 集 団 の 古 墳 を 巨 勢 山 古 墳 群 の こ こ で も 前 号 と 同 様 、 2 基 1 対 の え て よ い で し ょ う 。 ︵ か が み い た つ き く つ わ ︶ 鏡 板 付 轡 図 4 巨 勢 山 75 号 墳 出 土 金 銅 装 馬 具 杏葉(ぎょうよう=尻飾) ∼今冬の節電∼暖房器具を上手に使い分けましょう。また、特に夕方(18時∼21時)の節電にご協力ください。 室宮山古墳 室 宮 山 ★563 古 ★559 墳 ★147 の 5 巨勢山古墳群 世 紀 前 葉 に 近 い 時 期 に 図1 室宮山古墳と巨勢山古墳群 築 (★印は巨勢山古墳群中の前方後円墳) ★471 ︵ 墳 ︵ 意 表 図 外 1 2 だ ︶ 。 ︶ っ の 状 た の 況 は で 丘 す 陵 。 優 最 れ 高 所 た に 立 あ 地 る か ら 563 、 号 に よ っ て 副 葬 品 内 容 ま で 分 か っ て い ま す 40 知 ⅿ ら 級 れ で て 、 い う ま ち す 3 ︵ 基 図 に 1 つ ︶ い 。 て い は ず 発 れ 掘 も 調 30 査 ∼ 巨 勢 山 古 墳 群 に は 4 基 の 前 方 後 円 墳 が ふるさと御所 文化財探訪 2012. 1 ︵ 文 責 田 和 尊 ︶ 2 0 0 6 年 、 学 生 社 ま せ ん 。 に は 別 の 理 由 が 考 え ら れ な け れ ば な り 大 巨 副 の 勢 葬 群 山 品 集 古 内 墳 墳 容 と 群 の な が 貧 っ 総 弱 た 数 さ の 700 は は 基 説 な と 明 ぜ い で か う き 。 全 ま そ 国 せ れ 最 ん 。 物 だ か ら で す が 、 そ れ で は 埋 葬 主 体 や 円 墳 の 被 葬 者 は そ の 頂 点 に 立 つ べ き 人 擬 姓 的 同 族 集 団 関 係 と は い え 、 前 方 後 の 血 縁 関 係 の 有 無 は 必 ず し も 関 係 な い と い う の が 私 の 意 見 で す 。 い か に 実 際 の 考 え 方 は 成 り 立 た な い の で は な い か 、 古 墳 時 代 ︿ 27 ⑷ ﹀ か つ ら ぎ あ が た 巨せ 城 勢や 県 山ま の 古 性墳 成 格群 立 ④の 文化財課 ☎60-1608 471 る 号 2 そ 古墳名 位置 墳長 築造期 埋葬主体 出土遺物 墳 基 う 主体部1 〔棺内〕銀製指輪2、短刀1、 に の い 〔棺上〕鉄鎌2 木棺直葬 刀子3、鉄鏃約5、 も 前 う 巨勢山147号墳 丘陵南斜面 32m 6世紀初頭 主体部2 〔乱掘〕蕨手刀子、鉄鎌片、 同 方 目 木棺直葬 須恵器片 様 後 で の 円 見 巨勢山471号墳 丘陵北西端 41m 5世紀後葉 木棺直葬 〔乱掘〕須恵器片 こ 墳 れ 巨勢山559号墳 丘陵最高所 34m 不詳 不詳 不詳 と で ば 〔棺内〕鉄鏃1、ガラス玉約10、 が あ 、 巨勢山563号墳 丘陵最高所 46m 6世紀中葉 木棺直葬 〔墓壙内〕須恵器片、土師器片 言 る な え 147 る 表1 巨勢山古墳群の前方後円墳 ※稲宿ヒガンド古墳(巨勢山707号墳)を除く ま 号 ほ す 墳 ど 。 ・ 残 な 貧 し り し 城ら ー て 巨 は 分 は 宗ぞ 月 後 に き 葬 葬 墳 埋 ぎり う 巨 だ ジ は 勢 勢 の 思 家け号 り 円 そ 弱 お て ら 上 た と 主 と 葬 襲の そ 勢 と が 、 山 力 高 え の ・ ま 墳 し で け い び げ 。 い 体 563 主 津つ ひ 彦こ山 す し 衰 古 の さ ま 滅 9 す は て あ る る や た 副 う と 号 体 を 古 れ っ 退 墳 弱 、 せ 亡 月 。 5 巨 る 前 こ か 巨 葬 最 す 墳 に 図 共 墳 ば く 後 群 さ 埋 ん の 号 こ 世 勢 と 方 と な 勢 品 も る は つ 2 通 群 白 り の の を 葬 。 時 で の 紀 山 さ 後 を 金 山 に 簡 時 本 い 巨 前 示 施 前 期 述 5 後 古 え 円 想 銅 古 つ 易 期 来 て の が 石 来 勢 祖 室 太 ま 城 方 す 設 方 に べ 世 葉 墳 言 墳 起 装 墳 い な で で い 山 群 て 埋 す あ え 先 宮 一 す 氏 後 と や 後 合 たつ紀 の 群 え の す に 563 の 後 る れ も れ と 山 郎 。 の 円 考 副 円 致 円ぶ の 副 飾 葬 が ば 471 ら 号 横 前 法 、 ば 、 お葉 号 中 で 葬 ば ら み 古 さ 残 墳 え 葬 墳 す 大の 墳 お 穴 号 を い 横 少 な 墳 ん 党 の ら 品 と る 臣お の みと 墳 で し 品 、 れ 式 墳 ・ 採 ず 穴 な す の の 、 被 れ 内 い こ そ い と 、 ょ 内 巨 た 丘 擬ぎ と 葬 ま 容 う と し う い 最 う 容 勢 馬 石 前 用 れ 式 く せ被 理 室 測 い 々 し も 石 と 姓て葬 解 い 者 す の 墳 は て 時 う 古 。 は 山 具 量 墳 号 て 木 室 も 者 古 期 的き 、 像 か 貧 形 偶 の む が う こ 図 ど で 、 つ で い 棺 を 147 同う し 墳 出 イ と ら 弱 は 然 城 が と 前 ぞ は 族く か ろ 群 土 、 取 ま 直 埋 号 メ し 、 さ 身 と 本ほ つま ん8 に 方 ︻ 参 考 文 献 ︼ 拙 著 ﹃ 古 墳 時 代 の 王 権 と 軍 事 ﹄ 其の三十九 驚 く ほ ど 少 な か っ た の で す 。 こ 主 築 体 造 は 期 木も っは 棺か ん6 直じ き世 葬そ う紀 で 中 、 葉 し ま か で も 下 副 り 葬 、 品 埋 が 葬 査 に 入 っ た の で す が 、 意 外 な こ と に 石 造 室 さ か れ 粘ね ん、 お 土ど か 槨くそ で ら あ く ろ 埋 う 葬 と 主 推 体 測 も し 竪 て 穴 調 式 埋葬主体 し 集ゅ う 団だ ん 関か ん 係け い に よ っ て 成 り 立 っ て い る 、 と 深い墓壙(穴) 割 竹 形 木 棺 を 直 葬 す る 図3 巨勢山563号墳の埋葬主体 (南東から) ∼今冬の節電∼ 器具の設定変更等で使い方工夫。特に夕方(18時∼21時)の節電にご協力ください。 写 真 1 周濠 ふるさと御所 小 林 樫 ノ 木 1 号 墳 ︵ 南 か ら ︶ 銀製釵子 出土位置 周濠 其の四十 文化財探訪 横穴式石室 の な 地 こ 域 と は は 朝 、 廷 の 城 直 本 轄 宗 地 家 、か滅 葛つ ら亡 城ぎ の直 あ 県が 後 た と に し こ る な ど の 区 別 が な さ れ た の で し ょ う 。 官 僚 層 た ち は 金 剛 城 山 系 東 麓 に 葬 県 そ の も の の 運 営 に 携 わ る 原 初 的 な の 上 位 に 立 つ 権 威 の 存 在 で す 。 す る こ と が で き る の は 、 多 様 な 集 団 れ ︵ 12 月 号 ︶ ま し た 。 そ れ を 可 能 と あ り 、 ま た 集 団 は と き に よ り 再 編 さ 墓 域 は 与 え ら れ る も の ︵ 11 月 号 ︶ で 出 土 も 知 ら れ 、 こ れ ら は 渡 来 系 の 城 要 ニ チ ュ ア カ マ ド 形 土 器 ︵ 写 真 3 ︶ の ま た 近 辺 の 古 墳 か ら は 煙 突 付 き の ミ が 頭 部 の 装 飾 と し て 出 土 し ま し た 。 ラ 木 ス 1 小 号 玉 墳 と ︵ 共 写 に 真 銀 1 製 ︶ 釵さ か い 子しら ︵ は 写 多 真 数 2 の ︶ ガ こ の 権 威 の 性 格 を 考 え る 上 で 重 要 素 の 顕 著 な も の で す 。 お そ ら く ︵ 文 責 2012. 2 田 和 尊 ︶ そ し て 、 そ れ ぞ れ の 集 団 に 対 し て 1 9 9 3 年 、 新 人 物 往 来 社 が 分 か り ま す 。 巨 勢 山 古 墳 群 に は 葬 ら れ て い る こ と 目 立 つ 支 群 な ど 、 実 に 多 様 な 集 団 が 小 林 古 墳 群 も そ の 一 つ で 、 小 林 樫 ノ 成 を 開 始 す る 群 集 墳 が 目 立 ち ま す 。 城 本 宗 家 滅 亡 後 の 5 世 紀 後 葉 に 群 形 拙 稿 ﹁ 飯 豊 皇 女 陵 ﹂ ﹃ 天 皇 陵 総 覧 ﹄ 、 2 0 0 6 年 、 学 生 社 拙 著 ﹃ 古 墳 時 代 の 王 権 と 軍 事 ﹄ 、 す る 支 群 、 あ る い は 渡 来 系 の 要 素 の ま た 、 金 剛 城 山 系 の 東 麓 に は ︻ 参 考 文 献 ︼ 方 で 7 世 紀 近 く ま で 木 棺 直 葬 を 採 用 を 採 用 す る 支 群 が あ る と 思 え ば 、 一 い う 特 徴 で す 。 早 く か ら 横 穴 式 石 室 は 支 群 ご と に 個 性 の 違 い が 著 し い と て 注 目 し た い の が 、 巨 勢 山 古 墳 群 で え に は 無 理 が あ り ま す 。 そ こ で 改 め 成 さ れ た と す る 白 石 太 一 郎 さ ん の 考 れ た と み る こ と が で き ま す 。 原 初 的 な 官 僚 層 の 墓 地 と し て 設 定 さ ら 、 巨 勢 山 古 墳 群 は 朝 廷 に 直 属 し た な 職 能 ・ 職 掌 の 存 在 を 示 唆 し ま す か 山 古 墳 群 で あ り 、 多 様 な 集 団 は 多 様 れ た 墓 地 と し て 設 定 さ れ る の が 巨 勢 そ の 中 に 多 様 な 被 葬 者 集 団 が 集 め ら 主 を 兼 ね た も の と 思 わ れ ま す 。 ら り れ 、 る の よ ち う に に は な 天 るい皇 の 飯い と 一 豊よ の 人 皇こ う と 女じ ょ が し て 城 数 県 え よ っ て こ れ だ け の 規 模 の 群 集 墳 が 形 て 曾そ︵た い 布ふ高けそ ま ︶ 市ちし せ の ・ て ん う 、 。おち 城 こ で ・との 忍し み の 海つ唯 十お 一 市ち城 角の さ 、あ・ 県 刺し の 志しに み 宮や県が た 貴きはや で 主ぬ し 政 が ・ 大ま と の 務 置 山や ま和む の を か 辺べ六つ あ 執 れ ・ 県が た 墳 群 前 の 号 場 で 合 検 、 討 擬ぎ せし 姓い てた 的き どと 同う ぞお 族く しり 集ゅ う、 団だ ん巨 関 勢 係 山 に 古 の か 、 と い う こ と で し た 。 ら れ た の は ど の よ う な 人 々 で あ っ た と 。 2 つ め に は 、 巨 勢 山 古 墳 群 に 葬 日 本 最 大 級 の 群 集 墳 と な る ま で に 基 ぜかの つ命 ら 城ぎ 題 本ほ んを 宗ぞ う提 家け示 滅 し 亡 ま 後 し に た お 。 い 1 て つ む し は ろ 、 、 な か つ ら ぎ の あ が た 古 墳 時 代 ︿ 28 ⑸ ﹀ 巨せ 城 勢や 県 山ま の 古 性墳 成 格群 立 ⑤の 文化財課 ☎60-1608 て 管 理 さ れ る よ う に な る こ と で す 。 数 が ふ く れ あ が っ た の か 、 と い う こ こ 群 に つ い て 、 平 成 23 年 10 月 号 で 2 つ 総 数 7 0 0 基 か ら な る 巨 勢 山 古 墳 写真2 銀製釵子 煙突 写真3 ミニチュアカマド形土器 ★公共の場等では禁煙・分煙の徹底を★ 子どもたちや妊婦、非喫煙者等を受動喫煙の被害から守ろう ! 21 の 代ゆ不 安 雄う り 定 略ゃ く 天 さ 皇 を の 生 ﹁ み や 出 り し す た ぎ 要 ﹂ 因 が と 写真1 市尾墓山古墳の横穴式石室 指 し と家形石棺 摘 て 、 (転載許可:高取町教育委員会) と 言 え ま す 。 后ご う継 継 と 承 体 す 者 天 る で 皇 こ あ は と る そ で 手た しの 後 正 白ら か 、 統 香の ひ 天 性 皇め み が 女こ皇 保 を 家 証 娶め との さ り 正 れ 、 統 た 皇こ うな と ま 言 す え の る で で 、 し 確 ょ か う に 。 そ 続し ょの 可 日く に 能 本ほ ん 紀ぎ性 で は は 高 巨 い 形 古 墳 の 出 現 と い う 条 件 が 揃 っ て い 件 、 そ し て こ の 地 域 で 画 期 と な る 大 麁あ さ で 皇 ら 鹿かれ し の 火いる ょ 即 、 の う 位 そ が が に し 大お お、 は て 連む ら そ 当 お 大お大じ お おの 然 お 臣み伴と よ も擁う反 許こ金の り か立つ発 な 勢せ の 村む らに も 男お ひ、 尽 あ 人と大 力 っ で 連 し た し も 物の た こ た の べ 部 のと と 。 築 造 時 期 の ほ か 巨 勢 谷 と い う 立 地 条 を 許 勢 男 人 に 当 て て い ま す 。 古 墳 の 河 上 邦 彦 さ ん は こ の 古 墳 の 被 葬 者 が し の ば れ ま す 。 さ て 、 こ れ ほ ど 遠 い 血 筋 の 継 体 天 被 葬 者 の 生 前 に お け る 権 勢 の 大 き さ す 。 聞 く べ き 意 見 と 思 い ま す 。 も 5 世 紀 末 頃 は た び た び 天 皇 家 の 系 た め と 記 し ま す が 、 こ こ に 至 る ま で は 遠 、 い 先 血 代 筋 の の 人 武ぶ れ 烈つ物 天 が 皇 天 に 皇 子 に が 即 な 位 か し っ た た の に 住 ん で い た と さ れ ま す 。 こ れ ほ ど う か た ち で 現 れ て い る 、 と い う の で 書 そ 紀 の に 反 は 動 そ が れ こ が の 皇こ う時 統と う期 の の 不 混 安 乱 定 を さ 招 と き い 、 排 た 除 し 城 て 氏 即 の 位 み しせな 専んら 制せ いず を 、 強 多 化 く し の ま 皇 す 族 が を 、 さ れ て い ま す 。 雄 略 天 皇 は 既 に 述 べ 造 と な っ て い る と い え る で し ょ う 。 と 考 え ら れ て お り 、 大 変 合 理 的 な 構 滑 り 込 ま せ て 石 棺 の 身 に 乗 せ る た め え ま す 。 事 情 に よ り ま す の で 問 題 は な い と 考 後 勢 の 男 時 人 代 は の 雀さ さ 部べ 天て ん 武む男 天 人 皇 と 訂 のや く さ 八の正 さ 姓か ば ねれ 制 定 ま 時 す の が 、 写真2 後続する市尾宮塚古墳の横穴式石室と家形石棺 具 装 れ ︶ 馬 副 る な 具 葬 こ ど 、 品 と 煌き ら金 に は び 銅 は あ や 装 鞍く らり か 胡こ を ま ろ な 籙くは せ も ︵ じ ん の 矢 め 。 が を と 目 入 す 立 れ る ち る 金 、 道 銅 ︵ 文 責 2012. 3 15 代 日 応お う本 神じ ん書 天 紀 皇 に の よ 5 る 世 と の 26 孫 代 で 継け い 北 体た い 陸 天 地 皇 方 は 統 が 途 切 れ が ち に な っ て い ま す 。 こ 1 9 9 5 年 田 、 和 学 尊 生 社 ︶ 河 上 邦 彦 ﹃ 後 ・ 終 末 期 古 墳 の 研 究 ﹄ 、 た だ 、 こ の 構 造 は 後 続 墳 に は 継 承 さ ︻ 参 考 文 献 ︼ ふるさと御所 文化財探訪 文化財課 ☎60-1608 羨道 其の四十一 巨こ 古 継けい 勢 せ 体たい ︵ 墳 許 時 天 皇 た勢 代 の 台い と︶ 擁よう 頭う 氏 ︿ 立りつ ⑴ の 29 ﹀ 玄室 家形石棺 玄室奥の 通路 図1 市尾墓山古墳の横穴式石室 ( 『市尾墓山古墳』1984年、 高取町教委ほか、 から、 一部改変) 石 っ 棺 て ︵ い 二 ま 上 す 山 。 白 こ 色ぎの 凝ょ 通 う 路 灰か い 岩が んの 製 目 ︶ 的 の は 蓋ふ た家 を 形 ら て 石 そ 材 の を 通 積 路 ん の で 空 塞ふ さ間 ぐ を と 、 い 玄 う 室 作 の 業 内 を 側 行 か も 通 路 が あ り 、 石 室 完 成 間 近 に な っ っ て い て ︵ 図 1 ︶ 、 玄 室 の 奥 壁 側 に こ の 古 墳 の 横 穴 式 石 室 は 少 し 変 わ 主 体 と し ま す 。 さ れ た 横 穴 式 石 室 ︵ 写 真 1 ︶ を 内 部 の れ 市い ちた 尾お の は 墓か が や 山ま墳 古 長 墳 66 で ⅿ す を 。 測 後 る 円 前 部 方 に 後 構 円 築 墳 相 当 す る 位 置 に 6 世 紀 前 葉 に 築 造 さ と 称 さ れ る 地 域 で 、 そ の 北 の 入 口 に 本 拠 と し た の は 曽 我 川 流 域 の 巨 勢 谷 ら 大 き な 力 を 持 つ よ う に な り ま す 。 巨 勢 氏 は こ の 功 績 に よ り こ の 頃 か (転載許可:高取町教育委員会) 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 泥ど ろ古 と 多 北き た墳 し く 古 、 て の 墳 新し んは 古 を 宮ぐ う前 墳 挙 山や ま号 を げ 古 で 築 る 墳 触 造 こ 、 れ し と 水み どた ま が 泥ろ み以 す で 南な み外 が き 古 に 、 ま 墳 権ご ん盟 す 、 現げ ん主 。 水み堂ど う墳 写真1 権現堂古墳の横穴式石室と家形石棺 東 方 向 に 開 口 す る 両 袖 式 の 横 穴 式 石 写真2 新宮山古墳の家形石棺(前棺) 棺 で あ る の に 対 し て 、 巨 勢 谷 の 古 墳 葬 棺 は 木 棺 な ど 、 よ り 簡 易 な 構 造 の ︵ 文 責 井 ノ 上 佳 美 ︶ な 構 造 に な っ て い ま す が 、 通 常 は 追 1 9 9 5 年 、 雄 山 閣 に 続 横 き 穴 、 式 次 石 々 室 と は 追つ いも 葬そ うと す も る と こ 初 と 葬 が の 可 人 能 物 河 上 邦 彦 ﹃ 後 ・ 終 末 期 古 墳 の 研 究 ﹄ 、 ︻ 参 考 文 献 ︼ 巨こ 勢せ ︵ 許 勢 ︶ 氏 は 本 拠 の 巨 勢 谷 に ふるさと御所 文化財探訪 文化財課 ☎60-1608 能 性 も 指 摘 さ れ て い ま す 。 石 室 は 南 え ら れ て い ま す が 、 前 方 後 円 墳 の 可 新 宮 山 古 墳 は 径 約 25 ⅿ の 円 墳 と 考 さ れ て い ま す 。 ま た は 封 じ 込 め る 意 図 に よ る も の と て お り 、 邪 悪 な も の を 近 づ け な い 、 ま た 棺 身 内 部 は 真 っ 赤 に 朱 が 塗 ら れ 石 材 と し て は 非 常 に 珍 し い も の で す 。 る の 棺 竜た つ家 が 山や ま形 安 石い し石 置 で 棺 さ 、 は れ こ 兵 て の 庫 い 時 県 ま 期 高た かす に 砂さ ご。 用 市 こ い で の ら 産 刳 れ 出 抜 る す 式 さ ら に そ の 前 面 に は 刳 抜 式 の 家 形 石 箱 形 石 棺 が 存 在 し て お り ︵ 写 真 2 ︶ 、 内 は の 権 奥 現 壁 堂 側 古 に 墳 はりよ り 緑ょ く や 泥で い や 片へ ん 大 岩が ん の き 組 く 合 、 式 玄 の 室 紀 中 葉 に 築 造 さ れ ま し た 。 使 用 石 材 室 で 、 権 現 堂 古 墳 よ り も 新 し く 、 6 世 い と こ ろ で す 。 古 墳 の 被 葬 者 で あ る こ と は 疑 い の な の で す が 、 巨 勢 氏 の 盟 主 が こ れ ら の か を 特 定 す る こ と は な か な か 難 し い 物 が い る た め 、 被 葬 者 が 誰 で あ っ た 各 古 墳 が 築 造 さ れ た 年 代 に 複 数 の 人 さ ん は こ れ ら の 古 墳 の 被 葬 者 を 、 古 っ た こ と も 示 し て い ま す 。 河 上 邦 彦 巨 勢 氏 の 勢 力 が 並 々 な ら ぬ も の で あ 形 石 棺 が 採 用 さ れ て い る 点 は 特 色 で で は 追 葬 の 棺 に お い て も 刳 抜 式 の 家 合 わ せ て 考 え て お ら れ ま す ︵ 表 1 ︶ 。 墳 の 年 代 と 文 献 に 現 れ る 巨 勢 氏 と を あ る と 言 え ま す 。 そ し て こ の こ と は 、 の 外 が に こ 引 の き 古 出 墳 さ の れ 初し ょて 葬そ う放 棺か ん置 で さ す れ 。 て い る も 実 は こ の 棺 は 奥 か ら 2 棺 目 で 、 墳 丘 と 当 古 墳 の 他 に 類 例 が あ り ま せ ん 。 ら さ れ れ る た 家 こ 形 と 石 が 棺 分 は か 御 り 所 ま 市じす 条ょ う。 け石 池い み 南な み枕 古 が 墳 見 が 造 り 付 け ら れ て お り 、 南 枕 に 埋 葬 其の四十二 巨 勢 谷 の 横 穴 式 石 室 ① は か 部 内 れ を 部 た 見 に 刳く りる 頭 抜ぬ きこ 部 式し きと に の が 置 家い えで く 形が たき 枕 石せ っま 施 棺か んす 設 ︵ 。 ︵い写 石 石し 真 室 ま 枕く 1 に ら ︶ ︶ 置 巨こ 古 せ 勢 ︵ 墳 許 時 勢 代 た︶ 台い 氏 ︿ 頭と う の 30 ⑵ ﹀ さ れ て お り 、 通 常 と は 逆 の 方 向 で 内 穴 式 石 室 で す 。 石 室 は 奥 壁 側 が 破 壊 れ た 直 径 約 25 ⅿ の 円 墳 で 右 片 袖 の 横 権 現 堂 古 墳 は 6 世 紀 前ぜ ん 葉よ う に 築 造 さ 表1 巨勢谷の古墳と巨勢氏 水道局からのお知らせ 突発的な漏水事故等により、やむを得ず断水や水圧低下を伴う緊急工事を行う場合があります。ご了承ください。 せ 古墳時代〈 こ たいとう 〉 巨勢 (許勢) 氏の 台頭⑶ 水泥南古墳で特に注目すべきは、追 ふた なわかけとっき 葬された石棺の蓋の縄掛突起と呼ばれ れんげもん る出っ張り部分に施された蓮華文(ハ スの花の文様)です。蓮華文は仏教で 用いられる文様の一つで、寺院の瓦な どによく使用されています。なお、こ の石棺の両側面の縄掛突起は、追葬時 せんどう に石棺を石室に運び込む際に羨道側壁 に当たるため削られていますが、本来 はそこに線刻が施されていたことが分 かっています。何が描かれていたのか は判然としませんが、仏教にかかわる ものであったことは疑い得ないところ です。 このような文様を石棺に施すという 行為ひとつをとってみても、仏教とい う先進的な文化をいち早く取り入れよ ひそうしゃ うとする被葬者の姿勢、そしてそれを 可能とする権力をよく映し出している ようです。 さて、両古墳の被葬者ですが、明治 き だ さだきち 時代に、 歴史学者の喜田貞吉によって、 『日本書紀』 「皇極紀元年一二月」の条 いまき そうぼ に、今来の雙墓( つの墓)としての そ 記載があることから、 つの古墳は蘇 がのえみし いるか 我蝦夷・入鹿の墓であると提唱されて いたことがあります。しかし、近年の 発掘調査の結果、両古墳は蘇我蝦夷・ 入鹿が亡くなった時期より少なくとも 年は古く築造されたことが判明しま したので、この説は成り立たなくなり ました。よって、水泥北古墳、水泥南 ごんげんどう しん 古墳は、ともに前号の権現堂古墳、新 ぐうやま おくへき 奥壁 玄室 縄掛突起 【参考文献】 河上邦彦『後・終末期古墳の研究』、 1995年、雄山閣 宮山古墳に続く巨勢(許勢)氏の盟主 墳といえるでしょう。 げんしつ (文責 西村 慈子) 5 みどろみなみ 写真1 水泥北古墳の横穴式石室 (羨道から奥壁を撮影) 羨道 巨勢谷の横穴式石室② みどろきた 20 2 写真2 水泥南古墳の家形石棺に 施された蓮華文 横穴式石室です。棺は現在では失 われていますが、石室内からは石 ぎょうかいがん 棺の材料となる凝灰岩の破片が出 土しており、元々は石棺が置かれ ていたと考えられています。 この古墳の床面下には、土管約 本が連なって設置されていまし ついそう た。これらは排水管として追葬時 に敷設されたもので、土管の作り かわら 方は瓦作りの技術と非常によく似 ています。 みどろれんげもんせっかん 水泥南古墳は水泥蓮華文石棺古 墳とも呼ばれ、 世紀初頭に築造 された直径約 ⅿ の円墳です。石 室は南に開口する両袖式の横穴式 くりぬきしきいえがたせっかん 石室で、 基の刳抜式家形石棺が 置かれています。 基のうち、石 しょそう 室の奥に置かれている初葬の石棺 は二上山凝灰岩で作られており、 手前に置かれた追葬の石棺は前回 たつやまいし 挙げた竜山石で作られています。 2 31 文化財課 ☎60-1608 今回は水泥北古墳、水泥南古墳 について 触 れ た い と 思 い ま す 。 みどろつかあな 水泥北古墳は水泥塚穴古墳とも 呼ばれて お り 、 世 紀 後 半 〜 末 頃 に築造さ れ た 直 径 約 ⅿ の 円 墳 で りょうそでしき す。石室 は 南 に 開 口 す る 両 袖 式 の 20 図1 水泥南古墳の横穴式石室模式図 2012. 7 25 文化財探訪 6 其の四十三 ふるさと御所 20 2 2 ★住宅用火災警報器が大切な「命」・「財産」を守ります。 全ての住宅に設置義務化されています。 堤 隍 ︵ か ら ぼ り ︶ 横 穴 式 石 室 巨 大 な 横 穴 式 石 室 と 家 形 石 棺 の 存 在 が 話 題 に 平 成 14 年 に 條 ウ ル 神 古 墳 が 発 見 さ れ ま し た 。 し た 。 條 ウ ル 神 古 墳 に つ い て 蘇その 我が古 氏 墳 説 の と 被 巨こ葬 勢せ者 氏 像 説 を が 巡 あ っ り て ま 、 人 が 見 学 し ま し た 。 当 時 、 こ を 含 む ︶ で は 1 万 人 を 超 え る 馬 う 子 な 、 の 蝦 で 夷 す 、 。 こ 入い る 鹿かの と こ 天 と 皇 を を は な じ い め が 、 城 の 一 部 を 強 引 に 我 が 物 と し た よ ど う や ら こ の 頃 に は 蘇 我 氏 は 、 う こ と を 歌 に 詠 ん だ 、 と あ り ま す 。 て い な い 群 舞 ︶ を 行 い 、 天 下 を 狙 立 は な で て 自 る し 断 、 ら と か り 八やつ の 、こし ま ら う の 祖 皇ぎそ す 舞まい 先 極ょ の 。 く ︵ のび天 子 天 廟ょ 皇 、 う 皇 を 元 蘇そ が に 年 我の し 城 の 蝦え み か の 条 夷し 許 高 に の さ 宮 蝦 代 れ に 夷 に ド る ン よ ド う 垣か いに 内とな 5 り 号 ま 墳 す ︵ 。 図 ハ 3 カ ︶ ナ は ベ 共 古 に 墳 一 ︵ 辺 図 20 2 m ︶ 、 ニ 石 舞 台 古 墳 と も 称 さ れ る 古 墳 が み ら れ に 入 る 頃 に な る と 、 と し て は 珍 し い 墳 丘 構 築 法 と い え ま す 。 て い る ︵ 図 1 ︶ こ と で 、 こ れ は 後 期 古 墳 隍 ︵ か 堤 ら ぼ り ︶ N 貼石 0 100m 図1 石舞台古墳の墳丘平面図(S.=1/100) (京都帝國大學文學部考古學研究室『大和島庄石舞臺の 巨石古墳』 、1937年から、一部改変) 共 で こ 通 あ の の るた申 祖 武け し し 先 内う 出 ち で 宿の は す も 禰く 、 ね あ は る 、 城 こ 蘇 氏 と 我 の に 氏 祖 因ち なの 先 と 願 い 出 る 記 事 が あ り ま す 。 蘇 我 氏 の 本 拠 な の で 頂 き た い し 天 一 皇 〇 日 て に 月 本 お 対 条 書 き し に 紀 ま て 、 の し ょ 、か蘇そ 推す が い つ の ら我 古こう う 城ぎ の馬 天 。 ま あ 県が 子こ皇 た は が 三 元 推 二 々 古 年 は 墳 こ さ 丘 こ ん ︵ で だつ一 注 堤つ 辺 目 み の 約 し 両 50 た 斜 m い 面 ︶ 特 に の 徴 貼は り斜 は 石い し面 、 を とか方 施 隍ら ぼ形 り し を の に な っ て い る こ と で 有 名 で す が 、 古 墳 で す 。 巨 大 な 石 材 が む き 出 し 化 し て い る の が 明 日 香 村 の 石 舞 台 葬 者 像 に 迫 る こ と に し ま す 。 い こ と で は な い と い え ま す 。 蘇 我 氏 か ? の 被 葬 者 を 蘇 我 氏 に 当 て る の も 根 拠 の な る で し ょ う 。 し た が っ て 、 條 ウ ル 神 古 墳 ︵ 文 責 田 和 尊 ︶ 巨 勢 氏 か ? 次 号 以 降 、 條 ウ ル 神 古 墳 の 被 さ て 、 蘇 我 馬 子 の 墓 と し て 定 説 に 及 ん だ 考 古 学 的 証 拠 と い う こ と が で き う の で す 。 蘇 我 氏 の 影 響 が 7 世 紀 に 入 る 頃 に は う に 関 わ る の か に つ い て 検 討 氏 と は が に 次 し 号 城 、 以 と こ 降 い こ で う で 詳 地 は し 域 ま く と ず 述 ど 、 べ の 蘇 る よ 我 こ は の し ほ 大た い本んろ か 化の宗そ うに 改か い家けす 新し んは る に 、 行 よ そ 為 っ の が て わ 目 滅 ず 立 亡 か っ し 3 た て 年 蘇 し 後 我 ま に 氏 施 し て い ま し た 。 こ れ ら の 古 墳 の 存 在 は 城 、 面 と 隍 を は さ ん だ 堤 の 内 側 斜 面 に 貼 石 を 弱 の 方 墳 で 、 石 舞 台 古 墳 と 同 様 に 墳 丘 斜 な り 、 3 月 に 実 施 し た 石 室 公 開 ︵ 現 地 説 明 会 城 の 山 麓 部 に は ミ そ し て ち ょ う ど そ の 頃 、 つ ま り 7 世 紀 ふるさと御所 文化財探訪 文化財課 ☎60-1608 其の四十四 巨こ 古 せ 勢 ︵ 墳 許 時 た勢 台い ︶ 代 ︿ 城 頭と う氏 進 ⑷ の 32 蘇 そ 我 が 氏 の 出 ﹀ 図2 ハカナベ古墳(御所市大字南郷所在) (写真提供:奈良県立橿原考古学研究所) の こ な と い か こ ら と 、 と 推 し 古 て 天 皇 毅き ぜ 然んは と こ し れ た を 態 根 度 拠 作 さ れ た も の ︶ と 考 え ら れ て い る 的て き武 張 な 内 し も 宿 た の 禰 わ ︵ を け 権 介 で 威 し す を た が 高 同 、 め 族 実 る 関 態 目 係 と 的 は し て で 擬ぎ せは 創 制い 、 当 す る 蘇 我 氏 に 所 有 権 が あ る と 主 も の の 、 本 来 は 城 氏 の 兄 弟 に 相 の 本 宗 家 滅 亡 後 に 城 県 と な っ た ま り 元 は 城 氏 の 所 領 で あ り 、 そ ん だ も の と 考 え ら れ て い ま す 。 つ 図3 ドンド垣内5号墳(御所市大字伏見所在) (転載許可:奈良県立橿原考古学研究所) 犬・猫は正しく飼いましょう! ★散歩させるときは、必ず袋とシャベル等を持ち、フンの後始末をしましょう。 せ 古墳時代〈 こ 〉 たいとう 巨勢 (許勢) 氏の 台頭⑸ 條ウル神古墳の被葬者像① 図1 條ウル神古墳の家形石棺の蓋 63 53 62 55 145 147 158 170 33 文化財課 ☎60-1608 大正 年(1916年)刊行の『奈良縣史 蹟勝地調 査 會 第 三 回 報 告 書 』 に 、 当 時 の 奈 良 縣 技 手 西 崎 辰 之 助 に よ っ て「 條 ノ 古 墳 」 と して報告 さ れ た 本 墳 は 、 従 来 必 ず し も 正 当 に 評価され て き た と は い え ま せ ん で し た 。 それは 、 石 室 ・ 石 棺 の 規 模 い ず れ も が 、 に わかには 信 じ が た い ほ ど 大 き な も の で あ る こ ふた なわかけとっき と、また、家形石棺の蓋側面の縄掛突起が通 常2つずつであるのに対し、略報では3つず 13 写真2 條ウル神古墳の石室と石棺 (入口方向) 3 つ計8つとされており、ほかにほと す。それぞれの大きさの比較のため、 んど例がみられないことなど、資料 同表にはほぼ同時期の古墳も例示し としての信用性を疑問視する人が多 ておきましたが、いずれも石室・石 かったからです。その後、古墳と周 棺とも最大もしくは最大級と呼ぶに ふさわ みぜまるやま 辺地形が著しく改変される中で、古 相応しく、例えば、見瀬丸山古墳は こうでん きんめい いしぶたい 墳の所在そのものも判然としなくな 仏教公伝で有名な欽明天皇、石舞台 すいこ っていましたので、平成 年度に石 古 墳 は 先 月 号 で推 古 天 皇 と の や り と そがのうまこ 室の所在と現状を確認するための調 り を 記 し た蘇 我 馬 子の 墓 と す る 説 が 査を実施しました。 有力です。 とうくつこう へいそくせき 狭い盗掘孔が閉塞石部分にあって、 それでは條ウル神古墳に葬られた そこから身体を擦りながら石室内に 人物は誰と考えるのが妥当でしょう そ が 入って眼前に広がった世界は、まさ か。先月号で述べた通り、蘇我氏は に驚くべきものでした。西崎報告の 遅くとも條ウル神古墳が築造された げんぜん 通りの巨大な石室と石棺が厳然とそ 直後の時期には葛城の一角に進出し こに存在したからです。 てきているようです。 石室内には、かつて水がたまって 一方で、 月号以降述べてきた通 せいすいそう けいたい ようりつ いたことを示す成水層がまだ厚く堆 り、 継 体 天 皇 擁 立 に 深 く 関 わ っ て、 積しているために、正確な数値はわ 急 速 に 力 を 伸 ば し て き た 有 力 豪 族、 かりませんが、現状での横穴式石室 巨勢氏も、條ウル神古墳の被葬者と の玄室規模と、そこに納められた家 して有力な候補です。 形石棺の大きさは表に示す通りです。 次号以降、條ウル神古墳の被葬者 條ウル神古墳の石室・石棺はその型 像に迫りたいと思います。 式から6世紀後葉の築造とみられま (文責 田 和尊) 写真1 條ウル神古墳の石室と石棺 (奥壁方向) (275) (270) (260) (255) 289 278 270 264 文化財探訪 其の四十五 ふるさと御所 5 ★今夏の節電★ 健康に留意し、無理のない範囲で、自主的な節電にご協力をお願いします! 石枕 1 し て 2.8 、 と 巨 な 勢 る 谷 も の の 石 が 室 多 に く は 、 1 要 す 2.4 る か に ら 側 壁 の 比 率 が 1 2 程 度 で あ る に 対 と 紀 者 し に の て は 可 筑つ 任み 能 く ま 紫し那な性 ︵ 再 が 福 興 あ 岡 の り 県 大 ま 北 将 す 部 軍 。 ︶ の 日 に 一 本 出 人 書 ︵ 文 責 田 和 尊 ︶ に 穴 よ 式 る 石 と 室 他 に の 共 地 通 域 す で る はげ特 玄ん徴 室し つ で の す 奥 壁 。 幅 そ れ 上 邦 彦 さ ん が 指 摘 し た 、 巨 勢 谷 の 横 た と す れ ば 條 ウ ル 神 古 墳 の 被 葬 が 生 前 か ら 古 墳 を 造 り 始 め て い 勢せ のに の 臣お み登 後 猿さ る場 葉 と す と い る 見 う こ ら 人 の れ が 時 ま い 期 す て の 。 、 人 日 こ 物 本 の に 書 人 巨こ紀 の 特 定 は 難 し い か も 知 れ ま せ ん 。 勢 氏 の 誰 か 、 と い う こ と 以 外 は 被 葬 者 ︻ 参 ト御考 政所文 権市献 ﹄ 、教︼ 2 育 0 委 0 員 3 会 年編 、﹃ 学古 生代 社城 と ヤ マ も う 一 つ の 手 が か り は 、 か つ て 河 示 し ま す 。 谷 の 古 墳 と 親 密 な 関 係 に あ る こ と を 條 ウ ル 神 古 墳 の 築 造 は 6 世 紀 勢せ の代 陣 に し 胡こ ひ 人と作 た な ら 、 る れ と 人 た あ 物 ﹃ り も 紀 ま 見 氏 す ら 系 。 れ 図 た ま ﹄ だ す な し の ど 、 で に 後 、 は の 巨 巨こ時 そ の 中 央 部 を ほ ぼ 円 形 に 、 深 さ 7 ㎝ ほ ど 家い 小こ えめ 墳 ぐ ︵ 口ち形が たら せ は 石っれ 通 称 彫ほ棺か んた り の 、 條 残 棺 二 池 し 身 上 南 て で 山 古 1 す 白 墳 段 。 色ぎ︶ の 高 棺 凝ょ う 横 く 身 灰か い 穴 な 内 岩が ん っ 面 製 式 て の の 石 お 片 刳く り室 り 側 抜ぬ きに 、 の 式し き納 : の 彫 、 り 造 込 り ん 付 で け 、 のい被 石し ま葬 枕く ら者 と が し 頭 て 部 い を ま 乗 す せ ︵ 図 る 図1 巨勢山 640 号墳の棺身 1 た (條池南古墳) ︶ め (写真提供 奈良県立橿原考古学研究所、一部改変) 。 り 、 こ の こ と は 條 地 区 の 古 墳 が 巨 勢 も 二 上 山 白 色 凝 灰 岩 製 で 共 通 し て お 2 ︶ な の で す 。 こ の 石 枕 を 伴 う 石 棺 所 す 在 が す 、 る 実 樋ひ のは も 野ご ん 権げう 1 現ん ど 堂う例 古 こ 墳 そ の が 石 巨 棺 勢 ︵ 谷 図 に め て 高 い こ と を 示 し ま す 。 主 の い ず れ か で あ る 可 能 性 が 極 ル 神 古 墳 の 被 葬 者 は 巨 勢 氏 の 盟 多 く 有 し ま す 。 こ の こ と は 條 ウ は 巨 勢 谷 の 古 墳 と 共 通 の 特 徴 を 大 変 珍 し く 、 現 在 2 例 し か な い の で 石 棺 ・ 石 室 共 に 條 ウ ル 神 古 墳 り の 一 つ は 、 近 く に あ る 巨 勢 山 6 4 0 号 條 ウ ル 神 古 墳 の 被 葬 者 像 を 解 く 手 が か ふるさと御所 文化財探訪 文化財課 ☎60-1608 條 ウ ル 神 古 墳 の 被 葬 者 像 ② 巨こ 古 せ 勢 ︵ 墳 許 時 勢 代 た︶ 台い 氏 ︿ 頭と う の 34 ⑹ ﹀ 石枕 こ の よ う な 造 作 を 伴 う 家 形 石 棺 は こ で も 共 通 し ま す 。 其の四十六 図2 樋野権現堂古墳の棺身の石枕 も や は り 同 様 の 特 徴 が あ り 、 こ れ ま す 。 條 ウ ル 神 古 墳 の 羨 道 に に 高 く な る こ と も 指 摘 し て お ら 道ど う室 が の 河 入 も 上 口 う さ に 一 ん 近 つ は づ の 巨 く 特 勢 に 徴 谷 従 と の っ し 横 て て 穴 次 、 式 第 羨せ ん石 す る こ と が わ か り ま す 。 み ま す と 、 平 面 で は 見 事 に 合 致 で 條 ウ ル 神 古 墳 を 重 ね 合 わ せ て 形 に な っ て い ま す 。 こ れ に 赤 線 山や まで 縮 古 す 尺 墳 が で に 、 縮 至 市い ち小 る 尾お し は ま 墓か 、 や で 山ま重 、 古 ね 確 墳 ら か か れ に ら た 相 新し んも 似 宮ぐ うの 石 室 の 平 面 図 を そ れ ぞ れ 任 意 の き 狭ょ うそ ょの 長ち う だ 平 、 面 と 形 い が う 他 の の で 地 す 域 。 に 図 比 3 べ は て 巨 勢 谷 の 横 穴 式 石 室 の 玄 室 は 、 側壁 條ウル神古墳 平面 奥壁 図3 巨勢谷の横穴式石室と條ウル神古墳(赤線) ★住宅用火災警報器が大切な「命」・ 「財産」を守ります。 全ての住宅に設置義務化されています。 そ が せ 古墳時代〈 こ 〉 たいとう 巨勢 (許勢) 氏の 條ウル神古墳の被葬者像③ そ とになります が、 こ の よ う なことは他地 域では認めら れないことか ら、 巨 勢 氏 こ そがこの石切 場の管理者で、 二上山白色凝 灰岩製家形石 棺の供給者で あった可能性 が浮かび上がります。 飛鳥時代に入ると古墳を築造できる 階層がごく限られるようになり、精美 きりいし よこぐちしきけっかく な切石造りの横口式石槨が構築される 写真2 高松塚古墳 西壁 女子群像 (写真提供:明日香村教育委員会) ようになります。実は女子群像図(写 ごくさいしょくへきが 真2)などの極彩色壁画で有名な高松 塚古墳や、同じく飛鳥にあり、東西南 せいりゅう びゃっこ すざく げんぶ し 北を守る青龍・白虎・朱雀・玄武の四 しん てんもん 神像 や天文図 で 知 ら れ る キ ト ラ 古 墳 な ど に 用 い ら れ た 横 口 式 石 槨 の 石 材 は、 まさにその二上山白色凝灰岩なのです。 要するに、二上山白色凝灰岩製の部材 を 組 み 合 わ せ た 石 槨( 写 真3 は 外 面 ) しっくい の 内 面に漆喰を 塗 っ て キ ャ ンバ ス を 作 り、そこに描かれたのがあの壁画とい うことになります。 はいしゅつ 巨勢氏はその後、高官を輩出する名 門貴族となります。古墳時代に引き続 こう き、高松塚古墳やキトラ古墳などの皇 ぞく 族たちの墓に、二上山白色凝灰岩を提 供していたとしても何ら不思議はあり ません。わたしたちは條ウル神古墳の 発見によって、改めて巨勢氏の権勢の 大きさに気付かされました。 (文責 田 和尊) (写真提供:独立行政法人 奈良文化財研究所) 写真3 高松塚古墳 横口式石槨の外観 (石材の隙間は漆喰で充填している) 台頭⑺ せんおう 阪 府 ) の 大 形 の 横 穴 式 石 室 墳に にじょうざん 採用されることの多い、二上山 はくしょくぎょうかいがん 白色凝灰岩製の家形石棺(写真 1は藤ノ木古墳)について、そ の石切場(香芝市域で多くみつ かっています)は蘇我氏の管理 下にあって、各古墳に供給され たものと考えました。 ところで、條ウル神古墳の石 ふた なわかけとっき 棺蓋の縄掛突起は側面に3つず つ、小口に各1つずつの計8つ の異例のもの(通常は側面に2 つ ず つ ) で し た( 8 月 号 ) 。巨 勢 山 6 4 0 号 墳( 通 称 : 條池南 古墳)と樋野権現堂古墳でみら れた家形石棺身の造り付けの いしまくら 石枕もこの2例しか知られてい ません(9月号)。 つまり巨勢氏の盟主は、二上 山 白 色 凝 灰 岩 製 の 家 形 石 棺に つ い て、 自 由 な デ ザ イ ン を 採 用 す ることが可能であったというこ (転載許可:斑鳩町教育委員会) 35 文化財課 ☎60-1608 蘇我氏 の専横が 目 立 ち 始 め る の は蘇 がのうまこ 我 馬 子 の 頃 か ら で、 そ の 馬 子 の 墓 と み られる石舞台古墳は最大級の横穴式石 室 と し て 著 名 で す。 條 ウ ル 神 古 墳 は、 きょう 玄 室 の 幅・ 長 さ の 比 率 の 上 で は や や 狭 ちょう 長 の 感 は あ る と は い え、 そ の 石 舞 台 古 ひけん 墳に 比肩す る 規 模 で あ る いえ こ と に 加 え、 最 大 級 の 家 がたせっかん 形 石 棺 を 有 す る こ と、 そ し て、 條 ウ ル 神 古 墳 の 被 めいしゅ 葬 者 が 巨 勢 氏 の盟 主 と み ら れ る こ と は、 巨 勢 氏 が 並外れた権勢を有してい たことを示すものとして 重要です。 かつて和田晴吾さんは、 きないちゅうすうぶ 畿内中枢部(奈良県・大 写真1 藤ノ木古墳の石室と石棺 文化財探訪 其の四十七 ふるさと御所 ★公共の場等では禁煙・分煙の徹底を★ 子どもたちや妊婦、非喫煙者等を受動喫煙の被害から守ろう ! 図1 巨勢寺 塔心礎 実 ㎝ 彫ほ中 際 の ら 央 に 仏ぶ っれ に はす舎し ゃ、 深 利り 水い こそ さ し 孔うの 13 晶ょ う や が 中 ㎝ あ 心 、 真し ん り に 直 珠じ ゅ な 、 ︵ は 径 ど 仏 直 89 で 舎 径 ㎝ 代 利 13 の 用 =し㎝ 穴 ︶ 釈ゃ、 が 仏 迦か深 正 舎 の さ 円 利 骨 6 に 。 が 極 残 め 昭 っ て 和 て 精 2 い 巧 年 ま な 指 す 造 定 。 り の ほ で 国 ぼ 有 史 長 名 跡こ 方 な 巨せ 勢で 形 塔と う 寺ら の 心し ん塔 か 花こ礎そ ︵ 跡 崗う が 岩ん図 に の 1 は ︶ 、 い え る で し ょ う 。 な お 、 89 ㎝ の が り ま す が 、 こ の 直 線 の 溝 は さ ま す 。 機 能 的 か つ 美 し い 造 形 と お ら り に 、 側 水 面 抜 を き 貫 の 通 機 す 能 る を 孔 担に なに っ 通 て じ い て 深 い 溝 と 1 条 の 直 線 の 溝 で つ な り 、 外 周 に 沿 っ て 彫 ら れ た や や を 巡 っ て 2 重 の 同 心 円 の 溝 が あ ふるさと御所 其の四十八 文化財探訪 文化財課 ☎60-1608 段だ 容 ん 彫ぼ器 り を に 納 な め っ 、 て 蓋ふ た い が ま で す き 。 る こ よ の う 孔 に 図2 巨勢寺 想定復元図(『巨勢寺』から) し ど み 鐘ょ 武む献 大だ 廃は 窯よ いの と うこ こ う い じ こ 天 は 臣ん変 み 巨せ寺じか つ ︵ ︵ の と 図3 瓦窯 と ら か 釣つ りか 調 が (転載許可:奈良県立橿原考古学研究所) 皇 そ と ︵ ら 勢の お れ のあ な 6 れ 臣みな 7 っ 鐘が ねわ 査 判 よ り 4 、 徳と る 世 て ︶ ら で 明 朱か み こ り ま 5 大た 鳥と 太たこ 紀 い をちが は し い り 元 も す 年 化かは と 中 ま 鋳ゅ 階 ま うま 年 か 。 ︶ の 巨 が 頃 す 造ぞ 段 ︶ う ︵ 式 し ︵ な た に 改か い勢 分 の 。 す た そ 図 登の ぼ 6 り だ 貢 新し ん寺 か 創う出 る り。 け 3 遅 8 し 献 の 創 り 建ん土 施 窯が まま 6 く 、 し 端 建 ま で し 設 ︶ 、 の た が 年 、 ﹃ 巨 、 緒 に し 平 たか︵ 梵ぼ ん瓦 、 ︶ 日 勢 4 と 関 た 安 瓦わ 図 ら に 本 寺 年 な わ 。 時 ︵ 4 、 書 の 後 っ っ 代 図 ︶ 天 紀 初 に た た 末 5 な 人 皇 ﹄て出 は 乙い 図4 梵鐘鋳造遺構 に ︶ ど っ は な も (転載許可:奈良県立橿原考古学研究所) の 天ん文 左さ巳し物 い た だ き あ り が と う ご ざ い ま し た 。 と し て は 完 結 で す 。 長 ら く お 付 き 合 い ※ 今 回 で 考 古 学 ・ 古 代 史 編 は シ リ ー ズ ︵ 文 責 田 和 尊 ︶ 立 橿 原 考 古 学 研 究 所 ︻ 参 考 文 献 ︼ ﹃ 巨 勢 寺 ﹄ 、 2 0 0 4 年 、 奈 良 県 う こ と が で き る で し ょ う 。 る 、 息 の 長 い 名 門 貴 族 と な っ た 、 と い ︵ こ 前 と 期 な ︶ く を 、 通 続 じ く て 飛 も 鳥 高 ・ 級 奈 官 良 僚 ・ をは平 輩い 安 し 出ゅ 時 つ す 代 築 造 す る ま で に 成 長 し た 後 も 没 落 す る 最 大 級 の 横 穴 式 石 室 、 條 ウ ル 神 古 墳 を ま せ ん 。 し か し 、 だ か ら こ そ 巨 勢 氏 は 、 は 巨 で 入い す ど る な 勢 劇 鹿かる 有 い 氏 的 が 行 名 た は な 、 為 な め 乱 最さ を の い先 、 の 期ご述 重 は そ 首し ゅを の ね 、 の 謀ぼ う遂 乙いた 天 っ ほ よ 者し ゃげ 巳し本ん皇 う な る の 宗ぞ 家 う 家 な ど か 変へ けを ん 派はに ら ︵ の な 手では で 6 蘇そ い が さ な す 4 我のが は る 。 5 蝦え し み あ こ 一 年 夷しろ 方 り と 、 ︶ と に 巨こ 古 せ 勢 ︵ 墳 許 時 勢 代 た︶ 台い 氏 ︿ 頭と う の 36 ⑻ ﹀ 進 さ し て て 、 い 蘇そま 我がす 氏 。 が 教 科 書 に 登 場 す る ほ す 堂ど うの る さ か 回か る 、 伽が いれ け ら ほ 法う両 藍ん廊ろ う、 て こ は 隆り ゅ者 配いや 講う周 う つ 寺じの 置ち築い堂ど う辺 式 背 は 地じと の ︵ 後 左 が そ 発 図 に に み の 掘 と 2 講こ う塔うつ 左 調 ど ︶ 堂う、 か 右 査 で を 右 り に が あ 配 に 、 伸 実 る 置 金こ んそ び 施 1 9 8 7 年 か ら 1 9 9 0 年 に た 巨 こ 勢 と 寺 が は 分 巨 か 勢 り 氏 ま のうす 氏じ。 寺で ら で す 。 直 径 か ら 五 重 の 塔 が 建 っ て い 軍ぐ ん と な る 図5 巨勢寺の軒瓦 ︶ (転載許可:奈良県立橿原考古学研究所) に し だ こ ょ ま 封ふ病 就 戦 に は く 少し ょい 大い勝う巨せ ほ な き 目 は 弘 、 納う なま 納 宝う勢のそ す 二 気 ご へ あ 、 的 陸む仁 例 言ご んす 言ん元 朝 の 。 百 平い そ つ 戸 癒ゆ 同 の 奥で3 え と 。 に 年 臣ん後 を の 時 場 出わ年 ば な こ ま ︵ 奈なの 賜 祈 っ の で 7 弖て巨 に 合 羽の︵ 巨こ せ っ 願 中 は 按あ 8 勢のた ほ 昇 4 麻ま勢 あ かちり 9 呂ろ氏 た の 朝 人 納 征せ い察ぜ そ 1 中ゅ で と た ん物 臣 言 夷い た使ち う詰 年 はて 2 納なめ ︶ 天んす の あ め 野 も に 大い し︵ ご た ぴ 年 が り 食じ 足り多 言んて に 平ょ 昇 将ょ き う交 う、 、 ︶ ※平成25年1月号から、 「歴史探訪」御所市指定文化財『おかげ参り文書』のシリーズが始まります。お楽しみに♪ 〈 〉 現存 住宅地開発 石光山古墳群 文化財探訪 平成 年 5 月 号 か ら 平 成 年 月 号まで「ふるさと御所 文化財探訪 ―考 古 学・ 古 代 史 編 ―」 を お 届 け し てきまし た 。 本 来 は そ の 中 に 組 み 込 みたかっ た も の の 、 諸 般 の 事 情 か ら 詳細を記すのを控えたものも少なか らずあります。このたび各種条件が 整ったことにより、大字元町に所在 せっこうざん す る 石 光 山 古 墳 群 の こ と に つ い て、 今号と次号の2回に分けてご紹介し たいと思います。 石光山古墳群は東西300m、南 北200mの独立丘陵を利用して営 ぐんしゅうふん ま れ た 約100基 か ら な る 群 集 墳 ( 写 真 1) で す。1972年( 昭 和 ) 〜 1974年( 昭 和 ) に か けて、住宅開発に先立ち、当時、橿 原考古学研究所におられた白石太一 郎さんを調査主任として発掘調査が 実施され、丘陵西半のおよそ半数の 古墳が記録保存(調査後消滅)とな り ま し た。 そ し て 早 く も 2 年 後 の 1976年(昭和 )には、当時と しては画期的ともいえる詳細な内容 の発掘調査報告書が刊行されていま す( 写 真 2) 。群集墳研究にあたっ て必携の書ともいわれる同書にした がって、この特色ある群集墳につい て述べていくことにします。 最大の特徴は、独立丘陵上に所狭 しと、それぞれの墳丘の裾を接する ようにして、多くの古墳が築造され こんどうそうけんひしがたぎょうよう り付けるための、金銅装剣菱形杏葉 こんどうそうおびかざりかなぐ 3点(写真3)と金銅装帯飾金具な きら ど に よ り 構 成 さ れ る、 煌 び や か な しりがい 尻繋装具(図2)が出土しています。 【参考文献】 奈良県立橿原考古学研究所『葛城・石 冊、1976年 光山古墳群』(『奈良県史跡名勝天然記 念物調査報告』第 (文責 田 和尊) 御 所 2015(平成27)年4月号 広報 19 写真3 石光山8号墳 剣菱形杏葉 (転載許可:奈良県立 橿原考古学研究所附属博物館) 図2 石光山8号墳 馬の尻繋装具 図1 石光山古墳群 35 により消滅 ている(図1)ことで、まさに典型 的な群集墳といえることです。発掘 調査された丘陵西半の状況からその 群形成のありかたをみると、5世紀 後葉に3基の前方後円墳と9基の円 たんしょ 墳が築造されたことを端緒とし、6 世紀のうちに多くの円墳が築造され て、その後、細々とですが7世紀中 葉過ぎまで古墳が造られ続けていま す。 5世紀後葉築造の石光山8号墳は 墳長 mとはいえ群中最大の前方後 えんとう は に わ 円墳で、墳丘裾には円筒埴輪列を伴 っています。後円部の中心主体は竪 穴式石室ですが、残念ながら乱掘さ れ、副葬品はほとんど残っていませ んでした。しかし、その脇にある副 もっかんじきそう 次的埋葬施設の木棺直葬主体部棺外 からは、馬の腰から尻にかけてを飾 31 文化財課 ☎60-1608 11 ふるさと御所 20 1 24 番外編 写真1 石光山古墳群全景 (北西から:手前半分を発掘調査中) (転載許可:奈良県立橿原考古学研究所) 47 51 49 写真2 発掘調査報告書 ☎…電話、 ︵ 写 真 提 供 式 石 室 、 箱 形 石 棺 、 埴 輪 棺 ︵ 写 真 2 ︶ 、 の ほ か 、 小 形 竪 穴 式 石 室 、 竪 穴 系 横 口 は 、 副 次 的 埋 葬 施 設 と し て は 木 棺 直 葬 古 墳 で 複 数 の 埋 葬 施 設 を 伴 う 場 合 に 円 墳 が 数 多 く 築 造 さ れ ま し た 。 1 基 の 木もっ 棺かん6 直じき世 葬そう ︵ 紀 写 代 真 の 1 石 ︶ 光 を 内 山 部 古 主 墳 体 群 と で す は る 、 立 つ と い う 特 徴 が あ り ま す 。 ミ ニ チ ュ ア の 鉄 製 農 工 具 の 副 葬 が 目 は 、 馬 具 を 持 つ 古 墳 は む し ろ 少 な く 、 す 。 そ し て 石 光 山 古 墳 群 全 体 と し て 現 存 し て い る も の で 1 基 と 少 数 派 で 較 的 遅 く 、 調 査 さ れ た も の で 4 基 、 横 穴 式 石 室 の 採 用 は 6 世 紀 後 葉 と 比 み ら れ ま す 。 石 光 山 古 墳 群 に お け る 土 器 棺 な ど 豊 富 な バ リ エ ー シ ョ ン が す る 墳 ま 。 場 の 合 被 た 、 が 葬 と 多 者 り い は わ こ 、 け と 系 奈 が 譜 良 分 を 盆 か 異 地 り に ま す 内 古 墳 の 被 葬 者 と 6 世 紀 代 の 古 集 墳 に あ っ て も 、 5 世 紀 代 の え ら れ な い こ と か ら 、 同 じ 群 た 。 こ の 共 通 性 は 偶 然 と は 考 う 共 通 性 が 浮 か び 上 が り ま し 破 壊 し て 築 造 し て い る 、 と い 写 真 1 石 光 山 奈 50 良 号 県 墳 立木の 橿棺 原直 考葬 古 学の 埋 研 葬 究主 所体 ︶ 金 例 が 剛 と 、 い 石 城 え 光 山 る 山 系 で 古 東 し 墳 群 麓 ょ う も の 。 ま 群 そ さ 集 し に 墳 て 同 被 こ 様 葬 れ の 者 ら 事 述 べ 、 小 林 古 墳 群 を 例 示 し て い ま す 群 形 成 を 開 始 す る 群 集 墳 が 目 立 つ と 城 山 系 の 東 麓 に は そ の 5 世 紀 後 葉 に ま す 。 平 成 24 年 2 月 号 で は 、 金 剛 のか 宗ぞう じ つ け ら家 め さ 城ぎのあ が る て 県がた 滅 5 、 に 亡 世 石 編 し 紀 光 入 、 後 山 さ 朝 葉 古 れ 廷 と 墳 る の い 群 時 直 え が 期 轄 ば 群 に 地 、 形 成 相 と 当 し 城 を し て 本ほん は に 大 き な 入 れ 替 わ り が あ っ た 携 わ っ た と み ら れ る 原 初 的 官 つ ま り 、 こ の た 、 と い う こ と も で き ま す 。 勢 力 の 入 れ 替 わ り が 著 し か っ に も ま し て 、 群 集 墳 被 葬 者 の の 初 頭 に は そ の 構 成 メ ン バ ー 僚 層 た ち に あ っ て も 、 6 世 紀 2 0 0 6 年 、 学 ︵ 生 文 社 責 田 和 尊 ︶ 37 市役所は☎62-3001 …ファックス、 …Eメール、 …URL ◉ 拙 著 ﹃ 古 墳 時 代 の 王 権 と 軍 事 ﹄ 、 広報 城 県 の 運 営 に ︵ 告 ﹃ ﹄ 奈 第 良 31 県 冊 史 ︶ 、 跡 1 名 9 勝 7 天 6 然 年 記 念 物 調 査 報 る こ と か ら 、 大 和 で は 他 地 域 ︻ ﹃ ◉ 参 奈 考 城 良 文 ・ 県 献 石 立 ︼ 光 橿 山 原 古 考 墳 古 群 学 ﹄ 研 究 所 に こ う し た 事 例 が 多 く み ら れ 写 真 3 ︵ 上 石︶ ・ 光4 山 に お け る 巨 石 の 露 頭 御 所 2015(平成27)年5月号 番外編 ふるさと御所 文化財探訪 石 ︿ 光 2 山 ﹀ 古 墳 群 文化財課 ☎60-1608 写真2 石光山41号墳の 副次施設としての埴輪棺 (写真提供:奈良県立橿原考古学研究所) 代 の 古 墳 が 5 世 紀 代 の 古 墳 を こ う し た 場 合 、 常 に 、 6 世 紀 ん 以 く 。 来 、 の こ 磐いわ の 座くら 石 遺 光 跡 山 と の な 巨 る 石 か 群 も も 知 古 れ 墳 ま 時 せ 代 る と 、 石 光 山 古 墳 群 と 同 様 に で す 。 全 国 に 類 例 を 求 め て み 破 壊 し て 築 造 さ れ て い た こ と 存 在 し た 5 世 紀 後 葉 の 古 墳 を 墳 と 木 棺 直 葬 墳 が 、 先 行 し て の そ れ ぞ れ 2 基 の 横 穴 式 石 室 い て 興 味 深 い の は 、 6 世 紀 代 の 醸かも 写 露 し 真 頭 出 4 は し の 自 て 通 然 い り 崇すう ま 、 拝はい す 一 の 。 種 対 こ 異 象 う 様 に し な な た 雰 り 自 囲 や 然 気 す 石 を の で す が 、 そ の 景 観 は 写 真 3 お よ び が す 長 。 年 こ の れ 風 ら 雨 は に 丘 晒さら 陵 さ 内 れ に て あ 露 っ 頭 た し 自 た 然 も 石 巨 石 が 群 を 成 し 、 重 な り 合 っ て い ま 一 方 で 、 石 光 山 古 墳 群 に お い か 、 と も 推 測 し ま し た 。 携ずさ は わ 、 っ た 城 原げん 県 初しょ そ て 的き の か 官んり も 僚ょう の 層 の で 運 は 営 な に m 立 に 丘 と お 陵 こ よ の ろ ぶ 尾 で も 根 、 の 筋 石 を 東 光 は 端 山 じ 付 古 め 近 墳 、 で 群 十 は の 数 長 あ 個 径 る の7 5独 た と み て 大 過 な い で し ょ う 。
© Copyright 2026 Paperzz