野球に導かれた半世紀 私の人生など褒められたもので はありません。ただ一つだけ挙げ 浜口 隆 礼儀正 ながら、昭和 年に﹁紋別浜口電気 気工業を開業。父も仕事を手伝い 住みます。やがて兄が紋別浜口電 北海道大会出場の常連校。そんな は有名ですが、当時の雄武中は北 した。今は雄武高校の方が野球で では、もっぱら野球に明け暮れま 連携 雄武町 さん 我慢強 野球道 。 。 背骨 通 。 それで野球から身を引けば良か 全に野球バカ。経営学科と言うよ 一方で私は、家業が電気屋とい 実は私は甲子園球児です。 2年 り野球学科に進んだようなもので ったのでしょうが、凝りもせず札 の時、出場を果たしました。とは した。当時の札大もまた強くて、 うだけで、深く考えずに北見工業 言っても野球部に入るつもりなど 春の全日本大学野球選手権大会、 幌大学に進学し、野球部に所属す なかったのです。たまたま入部を 秋の大会の明治神宮杯に出場でき 高校電気科に進学しました。結果 希望していた友達とグラウンドで なかったのは一度だけでした。そ ることに。ここまでくるともう完 キャッチボールをしていたところ、 うして 4年間の野球漬けの生活を 言い方は変ですが、遊ぶ暇もな 恐い先輩に見られてしまって。半 の対戦相手は石川県代表の星稜高 いほど野球道に生きる札大野球部 終え、就職という時になると、ま 校。8対3で負け、 1回戦敗退で の就職率は 100%。みんな良い ば脅されるようにして入部してし した。それよりも何よりも、 1番 ところに就職が決まり、かく言う さかの事態が待っているのでした。 ショートで出場した私は、 4打数 私も某市役所の採用試験に無事合 まったのです。ちなみに甲子園で 0安打 2三振 1エラーという恥ず 年 育てられ、挨拶などの礼儀正しさ でしょう。但し、精神面は厳しく 何よりも嬉しいのです。少しは親 派になったな﹂と言われることが、 年に我が社に入 格することができました。 は、公共工事がぐんぐん増えはじ にはじまり、現場にはゴミ一つ、 孝行できたのかな、と思ったりす 人超えの教室が 数名 1クラスだけ。著しい あり続け、電気を灯し続けます。 り、浜口電気商会は雄武とともに 誠実に、確実に仕事をしている限 になっても電気はなくなりません。 したが、それでも今後どんな時代 人口減少を目の当たりにしてきま では 3クラスもありました。それが今 すが、あの頃は とは雄武中学の時の同学年なので 内も経理を担当しています。彼女 社員は私も含め全員で8名。家 ものと信じています。 風として息子の代に引き継がれる ました。協調性と連携プレーも社 段取りや分担作業に大いに役立ち んじますが、例えばそれは仕事の 団体競技ゆえにチームプレーを重 れません。礼儀正しさと我慢強さ。 骨にも一本筋が通っているかも知 精神修業でもありました。私の背 野球はスポーツですが、厳しい れるまでに成長してくれました。 社し、いまではもう何でも任せら その長男も平成 かしい結果を残してしまいました。 ひとつだけ、とても父に感謝し ていることがあります。裕福では 決してありませんでしたが、私た ち兄妹 4人を全員私大へ進学させ てくれたことです。同時に、雄武 町電気工事組合では最も加入が遅 かった、言わば新参者の我が社を 今日まで育て、支えていただいた 雄武町のみなさまにも感謝してい めていたのです。当初はJVとし ビス 1本落として帰って来るなと るのですが。 気がつけば私もあの頃の父のよ うに、現場から引退すべきなのか も知れません。実は、野球バカは 親バカとして我が家に伝染しまし た。札大野球部OBの高石先輩が、 時、彼になら任せられると思い、 当時滝川西高で監督を務めていた に会社に来てもストーブに火が点 長男を野球のために進学させまし 雄武浄化センター 水処理設備改築更新工事 ポンプ制御盤の撤去作業 浜口 隆 さん ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ ター 食セン 学校給 雄武町 (電気設備) 事 建設工 機械室 備 動力設 取り付け状況 の 動力盤 的にそれが運のツキだったようで。 協調性 軸 工業雄武支店﹂を出店し、それを 私が高校へ進学する前年の昭和 以後、雄武で過ごした小中学校 キッカケに紋別からの通いを止め、 年、父は兄の依存から離れ﹁浜口 ﹁おい、役場へ行ってフダを入 ơ るとすれば、私の精神的な模範で あり続けた野球のおかげで、どん なにツラい峠道も乗り越えてこれ 年生まれの父︵創業者・ たかなと。それぐらいなものです。 大正 浜口秀雄氏︶は、瀬戸内海に浮か ぶ小さな島、山口県周防郡大島町 小泊の出身です。兄が先に来道し 紋別市で仕事をしていたため、そ 年、同市に移り 一家で雄武町へ引っ越しました。 電気商会﹂として独立しました。 れを頼りに昭和 私が小学校に入る前のことでした。 ようやく親の脛かじりから抜け れてこい!﹂と言われてもチンプ 誠実に、確実に 出せるのですから、ともかく真っ ました。ですから私は、技術的な ンカンプン。幸い、高校で習った 驚きました。なぜなら私は二男 ものは何一つ父から学んでいない 先に両親に喜んでもらおうと報告 で、 4つ上に兄がいたのです。家 のです。私より 4つ年上の小川先 電気の仕組みや回路図は頭に残っ 業は彼が継ぐものと信じて疑いも 輩の下に付き、数ヶ月学んだだけ したのです。ところが、待ってい しなかったのです。なまじ高校で でした。そればかりか父は、私の ていて、図面の読み書きに役立ち 電気をかじったのがイケナかった 入社以後、ピタリと現場へ出るこ たのは父からの帰れコールでした。 のかも知れません。帰りたくなか とを止めてしまったのです。技術 て、やがて単独で入札するように 教えられました。教訓めいたこと ます。その意味で私は父の代の人 なれば、父は自分だけでは対応不 はたった一つ。﹁うちは信用第一 は自分で覚えろが、信条だったの ったのですが、父の理屈にも一理 ありました。 十分と考え、私を必要としていた でやってきた。誠実に、確実に仕 たちから﹁良く頑張ったな﹂﹁立 のです。大掛かりな電気を必要と 事をやりなさい﹂。 ちょうど私が入社した昭和 する漁組さんも水産加工場も活気 そんな父でしたが、 るまで、毎日誰よりも朝早く出勤 歳を過ぎ にあふれ、機械化する酪農家も増 え、それらに応えることができる していました。冬など私が朝7 時 いていて、暖かかったものです。 そうは言ってもイヤイヤ帰って きたのですが、そこでもまた父に それだけは一日も休んだことがあ た。しかも大学は私と同じ札大。 甲子園を経験することができまし た。その甲斐あって、親子二代で 打ちのめされるのでした。野球し りません。言うまでもなく、今は 私がその役を継いでいますが。 昭和30年6月30日生まれ。雄武町出身(生まれは紋別市) 。 北見工業高校電気科を卒業後、札幌大学経営学部経営学科に進学。 大学卒業と同時に父が経営する家業の㈲浜口電気商会へ入社。平成15年、代表取締役に就任。 ■登録電気工事業者/北海道知事届出(オ)第18055号 電気工事の種類/一般用電気工作物・自家用電気工作物 ■免許種目/電気工事業 北海道知事許可(般24)オ 第00348号 消防施設工事業 北海道知事許可(般24)オ 第00348号 ■営業品目/屋内電気配線工事 工場電気施設工事 消防施設電気工事 等 代 表 取 締 役 Ƥ ǿ ȕ ƞ ƍ Ơ Ƌ ź ƞ Ȁ ȕ Ƃ Ƌ ź ƴ Ƹ か知らない私に﹁任せた。全部お まえがやれ!﹂だったのです。 ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… 有限会社 浜口電気商会 紋別郡雄武町字雄武826番地 0158-84-2958 0158-84-3207 22 40 左/雄武町ふるさと100メモリアル広場照明整備工事 盤内の結線 右/雄武浄化センター水処理設備改築更新工事 既設ケーブルの撤去 社内体制づくりが急務なのでした。 80 30 36 Ჭ Ɯ ź ǁ 防犯灯LED化整備工事 既設灯具の取り外し 53 長男の大毅さん。まもなく三代目。 29 有 限 会 社 浜 口 電 気 商 会 | 45 13
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