論文要旨 - 愛知学院大学

博士論文要旨
愛知学院大学
論文提出者名
論
文
題
曽
我
昇
平
名
クリストファー・クラヴィウス研究
―イエズス会の『学事規定』と教科書の史的分析―
ク リ ス ト フ ァ ー ・ ク ラ ヴ ィ ウ ス ( 1538-1612 年 ) は , バ イ エ ル ン の バ ン ベ ル ク に 生 ま
れ , 1555 年 に イ エ ズ ス 会 に 入 会 し , 翌 年 か ら 1560 年 ま で ポ ル ト ガ ル の コ イ ン ブ ラ 大 学
で 修学 した 。そ して ,イ エズ ス会 の 中心 的 教育 機関 で ある ロー マ 学院 で神 学 を学 ん だ後,
1564 年 に単 式 終 生誓 願 司 祭に 叙 品 され , 1567 年 から 1612 年 まで 同 ロ ーマ 学 院 で「 数 学
的 諸学 」の 教授 を務 め たイ エズ ス会 士 であ る。本 論文 は ,中 世の「 数 学者」「天 文学 者 」
「 数学 教育 者 」と され るク ラ ヴィ ウス を 研究 対 象と し,彼 が深 く関 与 した イエ ズ ス会 の
『 学事 規定 』と ,そ れ に準 拠し た 教科 書を 史 料と し て,イ エ ズス 会 教育 にお い て彼 が果
たした 役割,さ らに近代科 学の成立 に繋がる 彼の功績に ついて追 究した研究 である。
本 論文 は, 序 説と 第 Ⅰ部 「ク ラヴ ィ ウス とイ エ ズス 会教 育 」, 第Ⅱ 部 「ク ラヴ ィ ウス
の数学 的知見の 伝播と影響 」から成 る。
序 説で は, まず イ エズ ス会 教 育の 研究 史 につ い て概 観し た 。そ して ,キ リス ト 教の 宗
教 改革 期, カト リ ック 側の 知 的前 衛 組織 であ っ たイ エズ ス 会は ,従 来, ガリ レ オ裁 判の
原 告側 とし て ,「 科学 に敵 対 する 組織 」 と見 なさ れ てき たが ,近 年 の研 究 で「 科学 の保
護 者に して 教 育者 」と 評価 され る ほど ,近 代科 学の 成 立に 大き な 役割 を 果た した 組 織で
あ ると 考え ら れる よ うに なっ て きた こ とを 指摘 し た。次 いで クラ ヴ ィウ ス の研 究史 を 概
観 し, 次 の 3 点 ,① 近 年の ク ラヴ ィウ ス 研究 に より ,彼 は 時代 を 代表 す る数 学者 と して
だ けで はな く ,教 育者 とし て も着 目さ れ るよ う にな って き たこ と, ②彼 が近 代教 育 の原
型 とも 言わ れ るイ エ ズス 会の 教 育課 程 の編 成,教 科書 執筆 や 教員 育 成等 に貢 献 した こ と
が 評価 され る よう にな っ たこ と ,③近 代科 学 ・数 学を 生み 出 した ガリ レ オや デ カル トへ
の影響 について も言及され るように なってき たことを指 摘した。
第 Ⅰ部 第 1 章 では , こう した 近 年の ク ラヴ ィウ ス 研究 の 知見 に 基づ き, ク ラヴ ィ ウス
が イエ ズス 会 の教 育に 及 ぼし た 影響 を探 っ た。 その 際, 既存 の 科学 史・ 数学 史 の研 究で
は十分 でなかっ たイエズス 会側の視 点から, 次の 3 点の考 察を試み た。
第 1 点 は, ク ラヴ ィウ ス がど の よう な教 育 を受 け たか , また ,「 数 学的 諸 学」 に つい
て どの よう に 理解 し, イエ ズ ス会 の 「数学 的 諸学 」の 教育 を どの よ うに 導こ う とし たか
に つい て考 察 した 。ク ラヴ ィウ ス はポ ルト ガ ルの コ イン ブラ 大 学で ,他 の大 学で は 学ぶ
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こ との でき な かっ た領 域 の数 学 を学 ぶ機 会 を得 た 。そ れは , ア ラビ ア数 学 の影 響を 受 け
た 実用 算術 と ,新 プラ トン 主 義の 影響 を 受け た 幾何 学と で あり ,以 後の 彼の 数 学観 を形
成し, イエズス 会の数学的 諸学科教 育に関し て,その方 向性を定 礎すること になった。
第 2 点 は, 宗 教改 革期 , カト リ ック 側の 知 的前 衛 であ っ たイ エズ ス 会が , なぜ 教 育の
分 野に 進出 し たの か, し かも ,他 の教 育 機関 とは 違 い「 数学 的 諸学 」に 力点 を 置い たの
か につ いて 考 察し た。 当時 は ,近 代的 な意 味 での 数 学も 物理 学 も, さら には 科 学も 概念
形 成さ れて い なか った 。 「自 由七 科 」の 後半 の 「四 科」 ,幾 何 学・ 算術 ・天 文 学・ 音楽
を 総 括 す る 概 念 と し て “ Mathematica” ( 数 学 的 諸 学 ) が 使 わ れ て い た 。 イ エ ズ ス 会 学
校 の隆 盛に つ いて , イエ ズス 会 研究 者 は一 般に , 当時 流 行し てい た 「人 文 主義 」と ,イ
エ ズス 会の 宗 教的 な「 霊的 刷 新」 が大 きな 理 由で あ ると 考え て いる が, この 理 由の みで
は「人 文主 義 」を 掲げ るイ エ ズス 会の 学校 で あり なが ら「 自 然科 学」の 礎を 成し た こと ,
ま た, 「霊 的刷 新」 を目 的 とす る学 校 であ りな が ら近 代普 通 教育 の 原型 を成 し たこ とは
説 明が つか な い。 この 時 代は 「人 文 主義 」や 「霊 的 刷新 」よ り 「数 学的 諸学 」 の教 育に
大 きな 需要 が あり ,イ エズ ス会 の 学校 は 時代 に合 っ た経 営 の仕 組み や 方法 を 示し たの で
あ る。 時代 が イエ ズ ス会 の学 校 を選 ん だの であ り ,数 学 的諸 学科 教 育の 充 実に より ,後
世,イ エズス会 は「科学の 保護者に して教育 者」と評価 されたの である。
第 3 点 は, イ エズ ス会 が 「科 学 の保 護者 に して 教 育者 」 とな るた め には , クラ ヴ ィウ
ス の功 績が い かに 大き か った か を明 らか に した 。彼 は, イエ ズ ス会 学校 に おい て, 当時
の 社会 が必 要 とし た「 数学 的 諸学 」の 教育 課 程を 創 り上 げた 中 心人 物で あ り, 求め られ
て いた 「数 学的 諸 学」 の必 要 性を 説明 す るた めに ,実 用 面の 有 用性 のみ な らず ,教 養的
知 識と して の 有用 性を も 提示 し てい る。 クラ ヴ ィウ スが 示 した ,「 数学 的 諸学 」の 実用
的 な有 用性 (益 を もた ら す実 用性 )と ,教 養 的知 識と し ての 有 用性 (学 問的 な 客観 的確
実 性)は ,来 る 17 世 紀科 学革 命 の中 核 概念 につ な がる も ので あっ た。「 有 用性 」と「 確
実 性」 を生 み出 す 手段 と して 「数 学」 が位 置 づけ られ る のが 科 学革 命で あ った 。こ こで
初 め て “ Mathematica” が , 天 文 学 や 地 理 学 , 音 楽 を も 含 ん だ 「 数 学 的 諸 学 」 か ら , そ
れ らの 科目 の 「有 用性 」と 「 確実 性」 を保 証 する 基 礎学 問と し ての 「数 学 」と いう 意味
へと変 化するの である。
第 Ⅰ部 第 2 章 では,1599 年 のイ エズ ス 会『 学 事規 定』を もと に,イ エズ ス会 教 育の 隆
盛の理 由につい て,次の 3 点から その考察 を試みた。
第 1 点 は, イ エズ ス会 の 『会 憲 』と 『学 事 規定 』 に記 載 され た「 数 学的 諸 学」 の 扱い
方 につ い て考 察 した 。1558 年 に定 め られ た イエ ズス 会 の『 会 憲』に は,イ エズ ス 会学 校
で は, 神学 の勉 学 のた めの 思 考力 を 整え るた め と, 神の 完全 な 知識 を得 て ,そ の知 識を
活 用す るこ と を助 け るた めに , 「自 由 学芸 と自 然 哲学 」 を学 ぶこ と が表 示 され てい る。
『 会憲 』に お ける 「数 学的 諸 学」 のと ら え方 は, 神学 の 勉学 のた め には ,自 由 学芸 と自
然 哲学 の学 習 が必 要 であ り,学 習の 中心 は アリ ス トテ レス 哲 学で あ るが ,「数 学的 諸学 」
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の 学習 も考 慮 すべ き であ ると す るも の であ った 。 つま り ,会 とし て は「 数 学的 諸学 」を
そ れ程 重視 し てい たの で はな か った 。し かし ,神 学生 と一 般 学生 の両 者 を教 育 の対 象と
し てい たイ エ ズス 会 学校 では ,双 方と も満 足 させ る こと ので き る教 育 課程 を編 成 しな け
ればな らなかっ た。この編 成にクラ ヴィウス が大きく関 わったの である。
第 2 点 は, ク ラヴ ィウ ス の考 え と主 張が ど のよ う に『 学 事規 定』 に 反映 さ れた の かを
考 察し た。ク ラヴ ィウ ス は,「 幾 何学 と算 術」に は多 方面 に 有用 性が ある こ とを 示し た 。
第 一は ,自 然 哲学 ・ 神学 ・天 文 学・ 地 理学 の基 礎 学問 と して の有 用 性で あ る。 第二 は,
実 用面 の有 用 性で あ り, 官僚 ・ 将校 に は分 析と 証 明に , 教会 には 暦 と時 間 の計 算に ,ま
た 専門 家に は 航海 術と 測 量術 に ,そ れぞ れ「 幾何 学 と算 術」 が応 用 でき るこ と を具 体的
に 示し た。 クラ ヴ ィウ ス の提 案は 『学 事 規定 』に 盛り 込 まれ ,イ エ ズス 会の 教 育課 程の
中 で「 数学 的諸 学 」が 大き な位 置 を占 める こ とと な った 。教 育に お いて 人文 学 教科 の学
習 が重 視さ れ ,「 数学 的諸 学 」が 下位 に 見ら れて い た当 時の 風 潮の 中で は ,「 数学 的諸
学」の 重視は極 めて稀なこ とであっ た。
第 3 点 は, ク ラヴ ィウ ス が著 し た『 学事 規 定』 準 拠の 「 数学 的諸 学 」の 教 科書 を 分析
し た。 彼の 著し た 教科 書に は ,近 代科 学の 要 素と な って いく 概 念が 溢れ て いた 。そ の一
つ は無 限 の扱 いで あ る。ク ラヴ ィ ウス は,20 の 平方 根 を 4.472 と いう 量 で把 握し て いる。
二 つ目 は「 幾何 学 と算 術 」の 統合 であ る 。彼 は, 理論 的な 計 算値 と 実際 的な 測 定値 との
整 合性 を問 う とい う,新 しい 学問 の 進む べ き方 向を 示 して いる。こ うし た彼 の 考え 方 は,
後 の科 学的 追 究と 同 じ意 味を 示 すも の であ り, 統 一さ れ た「 幾何 学 と算 術 」は 「数 学」
を 意味 して い る。そ れ故 ,彼 の提 案し た 学問 的 な知 識の 追 究方 法 は,西 洋各 地の 数 学者 ,
遠 くは 中国 の 学者 に も正 確に 伝 わり (第 Ⅱ部 で詳 述),彼 の教 科書 で 学ん だ 多く の学 生 た
ちの中 から,後 年,近代物 理学や数 学を創り 上げた学者 たちが育 つのである 。
第 Ⅰ部 第 3 章 では , イエ ズス 会 教育 の 限界 につ い て, ク ラヴ ィ ウス の「 知 的遺 言 」を
中心に ,次の 3 点から その考察 を試みた。
第 1 点 は , ガ リ レ オ (1564-1642 年 )と イ エ ズ ス 会 教 育 , 特 に ク ラ ヴ ィ ウ ス と の 関 わ り
を 追究 した 。イ エズ ス会 教 育の 限界 が 著し く 現れ たの が ガリ レオ 裁 判で あっ た が ,従 来
の 科学 史・ 数 学史 では ガ リレ オ側 か らの 考 察が 中心 で あっ たた め, イ エズ ス会 教 育を 受
け てい ない ガ リレ オ には ,イ エズ ス会 教 育と の 関わ りと い う視 点 から の研 究 はほ と んど
な かっ た。 また ,二 人 の出 会い は ,ガ リレ オが ピ サ大 学に 職 を得 る ため の推 薦 状を クラ
ヴ ィウ スに 求 めた と き以 来で あ るが ,こ のと きガ リ レオ が クラ ヴィ ウ スに 提 示し た論 文
の 内容 やそ れ に対 す る評 価に つ いて も ,こ れま で後 年 の天 才 ガリ レオ の 視点 か ら言 及さ
れ るこ とは あ って も ,青 年ガ リ レオ の 視点 から は 十分 な 説明 がな さ れて こ なか った 。ガ
リ レオ は, 当 該論 文 でア ルキ メ デス の 方法 では 精 度に 欠 ける こと を 指摘 す ると 共に ,溢
れ 出る 水の 量 を正 確に 測 定す る こと ので き る実 験装 置 と実 験方 法 を提 示 し,「 数 学的 方
法 と実 験的 方 法と を結 合 し, 数 学的 関係 を 法則 化す る」と いう 近代 科 学に 繋が る 手法 を
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提 示し てい る 。こ こに ガリ レ オの 独 創性 があ る 。し かし この 手 法は ,当 時の 主 流で あっ
た 「ス コラ 哲学 と 古代 中 世自 然哲 学 の三 段論 法 的論 証」 を用 い た追 究 とは 異な り ,「工
芸 」的 ある い は「 実 用」 的な 追 究と し て, 学問 の 場で は 下位 に見 ら れて い た。 それ 故,
ガ リレ オが 単 に実 用 的な 装置 を 製作 し たと いう 低 い評 価 に留 まる の でな く ,彼 の追 究方
法 にま で注 目 し, 彼の 論文 の 中に 「近 代科 学 に繋 が る手 法」 をも た らす 学問 性 を見 極め
る こと は容 易 なこ とで は なか っ た。青 年ガ リレ オ 自身 も ,自 分の 論文 の 中に ある 先 進的
な 学問 性を ま だ十 分理 解 する に 至っ てい な かっ た 。し かし , ク ラヴ ィウ ス はこ の点 を 明
確に理 解してい たのである 。
第 2 点 は, パ ドヴ ァ大 学 教授 ガ リレ オと ク ラヴ ィ ウス が それ ぞれ 異 なっ た 関心 を 示し
て いた 「実 用 」に つい て史 料 分析 を行 っ た。 ガリ レ オは 「実 用」 に 供す る機 器 の製 作の
た めに ,学 問と し ての エ ウク レイ デ ス幾 何学 ,特 に 比例 論を 「 実用 」に 合わ せ て使 用し
て いた 。一 方 ,ク ラ ヴィ ウス は ,実 践 的学 問に お ける 「 実用 」を 中 心に 教 科書 を著 し,
そ の思 弁的 学 問に 従 属す る立 体 幾何 , 測量 術, 建 築術 , 航海 術, 農 業な ど の「 実用 」を
考 えて いた 。 クラ ヴィ ウ スの 示し た 「実 用」 こそ が ,後 年, 天才 ガ リレ オ が示 した 「近
代 科学 に 繋が る手 法 」に 直結 す るも ので あ った 。超 新星 の 出現 した 1604 年 に,ク ラヴ ィ
ウ スが ガリ レ オに 贈 った 書『 実 用幾 何 学』 は幾 何 学を 実 用的 に適 用 した 書 では なく ,小
数 や近 似値 が 使わ れ た測 量に 関 する 学 術書 であ り ,測 定値 の数 的 処理 を 必要 とす る ガリ
レオに とって有 益な書であ った。
第 3 点 は, ク ラヴ ィウ ス と天 文 学者 ガリ レ オと の 交流 に 関わ る史 料 を読 み 解き , イエ
ズ ス会 教育 の 限界 を 明ら かに し た。ガ リレ オは ,自 ら製 作し た 天体 望 遠鏡 で ,月 や太 陽 ,
そ して 木星 を 観測 す るこ とで ,ア リス トテ レ ス= プ トレ マイ オ ス的 宇 宙論 では 説 明で き
ない明白な事例を世に提供した。それによって天体観測の第一人者になったガリレオ
は ,ク ラヴ ィ ウス から 「知 的 遺言 」を 託 され た。 クラ ヴ ィウ スが 求 めた の は, 実用 的学
問 であ る「 天 体観 測 」で 使え な い理 論 なら ,「 天 体観 測 」の 支配 学 問で あ る「 天文 学」
の 修正 を行 う べき であ る とい う もの であ っ た。 元来 ,ク ラヴ ィ ウス の 「知 的遺 言」 はイ
エ ズス 会士 に 向け られ た もの で あっ た。 し かし ,ア リス トテ レ ス主 義を 会 の中 核 思想 と
す るイ エズ ス 会士 にと っ て, 観 測・実 験で 得ら れ た結 果が ア リス ト テレ スの 世 界観 に反
す る場 合, そ れは 受 け入 れが た いも の であ った 。 彼ら は 仮説 ・検 証 の方 法 論を 欠き ,観
察 ・実 験に 基づ く 思考 を回 避 する 姿 勢に 固執 し た。 それ 故, 隆盛 を 誇っ たイ エ ズス 会学
校 の教 育も そ の限 界を 露 呈し ,「 科学 の保 護 者に し て教 育者 」と し ての 立場 を 失っ て行
か ざる を得 な かっ たの で ある 。「 天文 学 」の 修正 は ,結 局, ガリ レ オに 託さ れ る課 題と
な った 。し かし ,ガ リ レオ に はま だ「 数学 的 関係 の法 則 化」 を導 く 数学 的知 識 が不 足し
て いた 。「知 的遺 言 」の 履行 には ,ク ラヴ ィウ ス の「数 学」を 学ん だデ カ ルト (1596-1650
年)の世代 まで待た ねばならな い。
第 Ⅰ 部 第 4 章 で は , イ エ ズ ス 会 教 育 が 三 十 年 戦 争 期 (1618-1648 年 )に ど の よ う に 破 綻
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し ,そ れが 担っ て いた 「科 学の 保 護者 にし て 教育 者 」とい う 役割 が どの よう に 継承 さ れ
17 世 紀科 学革 命 に繋 が った かに つ いて ,デ カル トを 通 して 次 の 3 点 から その 考 察を 進 め
た。
第 1 点 は, デ カル トの 思 想が 形 成さ れた 三 十年 戦 争期 の 時代 背景 に つい て 概観 し た。
デ カル トは 国 の中 枢を 担 う「 法服 の 貴族 」の 家に 生 まれ ,将 来を 期 待さ れて イ エズ ス会
の 学院 で ある ラ・ フ レー シ ュ= アン リ 4 世 王立 学 院に 進学 し た。 イ エズ ス会 自 体は 三 十
年戦争によって財政的危機に追い込まれていくが,デカルトはここでクラヴィウスの
「 数学 」に 出会 い 興味 を 喚起 され た 。ま た三 十年 戦 争の 開戦 時 には ,当 時 「軍 事ア カデ
ミ ー」の 様相 を呈 し てい たオ ラ ンダ 軍 に加 わり ,冬 営地 ブレ ダ で後 のデ カ ルト 哲 学を 生
み出す 基盤とな った「決定 的な二年 間」を過 ごしている 。
第 2 点 は,デ カル トの 思 想形 成に 影 響を 与 えた イエ ズ ス会 教育 に つい て ,『 方 法序 説』
と 『学 事規 定 』の 記 述を もと に 考察 し た。 デカ ル トは 『 方法 序説 』 の中 で ,「 数学 」の
持 つ「 学問 性 」の 高 さと 論理 的 な「 確 実性 」と と もに , 「数 学」 の 実用 面 の「 有用 性」
に つい て学 ん だこ とを 記 述し て いる 。こ れこ そ が, デカ ルト が ラ・ フレ ーシ ュ 学院 で特
別に学 び取った ,クラヴィ ウスの数 学観・学 問観であっ た。
第 3 点 は,ク ラヴ ィウ ス とデ カル ト の学 問観 に つい て,「尊 厳 」「有 用性 」「 確 実性 」
の三つの視点から分析し,クラヴィウスからデカルトへの学問的影響について考察し
た 。そ の際 ,ク ラヴ ィ ウス とデ カ ルト の比 較 に加 え ,ガリ レ オの 学 問観 との 比 較も 行っ
た 。ガ リレ オ とデ カ ルト は, そ れぞ れ 「比 例コ ン パス 」 の研 究と 製 作を 行 って おり ,両
者 の追 究か ら は異 な る学 問観 が 見て 取 れる 。ク ラヴ ィウ ス とデ カ ルト はほ ぼ 同様 な 学問
規 準を 枢要 と 捉え てい た 。そ して ,二 人は ガ リレ オ と異 なり ,実 用 に供 する こ との でき
る 新し い数 学 を追 究 して いた の であ る 。デ カル トは ,こ の追 究に よ り確 実 に「知 的遺 言 」
を 履行 して い る。「数 学的 自然 学 を形 而 上学 的に 基 礎づ け る」と いう デカ ル トの 考 えは ,
ク ラヴ ィウ ス の「 知的 遺言 」を 哲 学的 に実 践 しう る もの であ っ た。 イエ ズス 会 がク ラヴ
ィ ウス の学 問 観に 対 処で きな か った の に対 して ,デ カル トは ク ラヴ ィ ウス から 受 け継 い
だ学問 観を新た な哲学にま で展開す ることが できたので ある。
第 Ⅰ部 の「 結」 では ,ク ラ ヴィ ウス が イエ ズス 会 の教 育, さら に 近代 科 学の 成立 に 果
たした 役割をま とめた。
第 1 点 は, 「 数学 」の 「 実用 」 性と ,新 プ ラト ン 主義 に 基づ く「 学 知」 と を重 視 した
ク ラヴ ィウ ス の数 学観 が ,イ エズ ス 会の 『学 事 規定 』に 反映 さ れ, 「数 学 的諸 学」 を重
視 した イエ ズ ス会 学 校に おけ る 教育 の 方向 性が 定 まっ た こと であ っ た。こ の方 向性 は 時
代の求 めるとこ ろと合致し ,イエズ ス会学校 は急速に発 展したの である。
第 2 点 は, ク ラヴ ィウ ス が『 学 事規 定』 に 準拠 し た「 数 学的 諸学 」 の教 科 書を 著 し,
教 授法 も提 示 する こ とで ,基 礎 学科 と して の「 数 学( 幾 何学 と算 術 )」 の 「有 用性 」を
示 した こと で ある 。 彼は ,「 数 学」 が 思弁 的学 問 の基 礎 理論 を提 供 する だ けで なく ,実
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践 的学 問に も 具体 的な 数 値を 提 供す るこ と を示 した 。こ れ によ っ て, 「数 学」 を学 ぶこ
と の意 味が 明 確に なり , 「数 学」 の担 い 手に 対す る 需要 が増 大 した 。「 数 学」 の担 い手
を供給 できるイ エズス会学 校は,さ らにその 設置数を拡 大したの である。
第 3 点 は, ク ラヴ ィウ ス がア リ スト テレ ス 主義 を 中核 思 想と する イ エズ ス 会学 校 の限
界 を予 見し , それ を 打破 する 道 を彼 の 「知 的遺 言 」の 中 で明 確に 示 した こ とで ある 。こ
の 「知 的遺 言」 はイ エ ズス 会士 と ガリ レオ に 託さ れ たが ,そ れを 履 行す るこ と はで きな
か った 。自 由 な学 問 追究 に道 を 閉ざ し たイ エズ ス 会は 「 科学 の保 護 者に し て教 育者 」の
地位を 失うので あった。
第 4 点 は, ク ラヴ ィウ ス が目 指 した 学問 追 究の 姿 勢は , 彼の 教科 書 で学 ん だ多 く の学
徒 によ って 確 実に 受け 継 がれ た こと であ る 。特 に,イ エズ ス会 の 学院 で教 育 を受 け たデ
カルトは,受け継いだクラヴィウスの学問観を新たな哲学にまで展開することができ
た 。イ エズ ス会 は ,デ カル トの 新 たな 哲学 に 正面 か ら対 する の では なく ,会 士 が論 ずる
の を禁 じて 守 勢に 転じ た 。イ エズ ス 会は 「科 学の 保 護者 にし て 教育 者」 たる こ とを 止め
たが, その地位 は各国の「 科学アカ デミー」 が引き継ぐ ことにな る。
第Ⅱ部では,クラヴィウスの数学的知見が西洋キリスト教世界の圏外,特に中国でどの
ように理解され受容されたかについて追究した。クラヴィウスの教科書には,教科の概説
書の枠を超えて,先進の研究成果が盛り込まれていた。特に,彼が「算術」の教科書とし
て著した『実用算術概論』には,近代科学に繋がる彼の数学観がよく表れている。この『実
用算術概論』は同時期の中国に伝わり,利瑪竇(授),李之藻(演),徐光啓(選)『同文算
指』として翻訳出版された。それはまったく別途の歩みによって形成された西洋と中国の
「算術」の出会いであった。第Ⅱ部はこの『実用算術概論』と漢訳本の『同文算指』とを
比較検討することにより,クラヴィウスの数学的知見の伝播や影響のみならず,彼の思想
やその意義をより明確にすることを目的とし,「分数概念」と「三数法」,「複式仮定法」
について比較分析した。
第Ⅱ部第 5 章(章番号は通し番号を使用)では,クラヴィウスが『実用算術概論』の中
に記した,近代数学に繋がる概念について,『同文算指』との比較を通して,次の 3 点の
分析を行った。
第 1 点は,クラヴィウスが『実用算術概論』に込めたねらいが『同文算指』の漢訳者に
的確に伝わったか否かを分析した。その結果,学問の「尊厳」と「有用性」について,漢
訳者は民族や文化の違いを越えて,クラヴィウスの考えを深く理解していることが明らか
になった。
第 2 点は,
『実用算術概論』と『同文算指』の計算領域の全問題について比較分析した。
この分析からは,分数計算の方法のみならず理論の裏付けまで確実に漢訳されていること
が明らかになった。
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第 3 点は,『実用算術概論』が中国算術に与えた影響について分析した。その結果,漢
訳者は,『実用算術概論』に記された計算の説明が簡潔で体系的であることを読み取り,
中国算術に工夫して採り入れようとしたことが明らかになった。
第Ⅱ部第 6 章では,西洋の中世算術の中心的な技法であった「三数法」の扱いについて,
『実用算術概論』と『同文算指』との比較から次の 3 点の考察を行った。
第 1 点は,「三数法」の扱いについて西洋算術と中国算術との違いを考察した。西洋算
術の「三数法」はインド・アラビアから伝播した商用算術の中心技法であると同時に,神
学での証明の基礎理論にもその技法が使われていた。一方中国での名称は「三率法」であ
り,計算方法は同じでも,数量ではなく「値」を表す「率」を用いるように,西洋と中国
では概念の違いがあることが明らかになった。
第 2 点は,
「三数法」を複数回使用する「共同算法」の単元で,
『実用算術概論』と『同
文算指』との全問題について比較分析した。この分析からは,『同文算指』では単に逐語
訳されているのではなく,類似する場面を一つの問題群にまとめ,さらに中国算術の問題
で補われていたことが明らかになった。
第 3 点は,『実用算術概論』を教授した利瑪竇と漢訳者との意識の差を考察した。両者
ともそれぞれ自国の算術がより高い水準にあると認識していた。しかし漢訳者は,西洋算
術の内容が古代中国算術を超えるものではないと見なしつつも,散逸し学問水準の低下し
た中国算術の再構成のために,クラヴィウスの考えが参考になることを見抜いていた。
第Ⅱ部第7章では,中世算術のもう一つの中心的技法である「複式仮定法」について,
数学史の観点や『実用算術概論』と『同文算指』との比較から次の 3 点の考察を行った。
第 1 点は,学問としての「複式仮定法」がどのように発展したかを数学史の観点から
考察した。「複式仮定法」の考え方は古代中国の「盈不足術」が最初である。それは,イ
ンド・アラビアの「アル=カタアインの方法」を経て中世西洋の「複式仮定法」へ,そし
て漢訳されて「疊借互徴法」となり,世界的に循環したのである。
第 2 点は,「複式仮定法」の単元で『実用算術概論』と『同文算指』との全問題につい
て比較分析した。『同文算指』のこの単元は逐次訳されているのではなく,大きく二つの
問題群にまとめられ,さらに中国算術の問題で補われている。問題群に分けた根拠は代数
的処理に関する中国と西洋の概念の差にある。この点は先の「三数法」の単元とは大きく
異なることが明らかになった。
第 3 点は,『同文算指』の記述から,クラヴィウスの示した「数学観」・「学問観」が中
国算術に与えた影響について考察した。漢訳者は中国算術の置かれている状況を,クラヴ
ィウスが示した西洋算術の進むべき方向性と重ね合わせることによって深く理解し,彼の
考えを中国算術の再興に積極的に活用しようとしていることが明らかになった。
第 Ⅱ部 の「 結」 では ,ク ラ ヴィ ウス の 数学 的知 見 がヨ ーロ ッ パ・ キリ ス ト教 世界 の 圏
外,こ とに 中国 で どの よ うに 理解 さ れ受 容 され たか に つい て ,彼 の著 書『実 用算 術概 論 』
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と 同時 代 に 利瑪竇よ り伝 え ら れ徐 光 啓 等に よ っ て漢 訳 さ れた 『 同 文算 指 』 の比 較 分 析を
通 して 考察 し た。 ま ず全 体と し てク ラ ヴィ ウス の 数学 的 知見 が近 代 数学 の 扉を 開く ,多
く の鍵 を有 し てい たこ と ,そ して 彼 の書 は, 計算 術 だけ でな く ,進 んだ 学問 観 を伝 えて
い たこ とを 指 摘し た。 ク ラヴ ィウ ス の学 問観 は ,言 語を 超え , 宗教 を超 え ,思 想を 超え
て正し く伝わっ ている。
具 体的 に は, 第 1 点 とし て ,ク ラヴ ィ ウス の 主要 な数 学 的業 績 とさ れ てい る分 数 概念
に つい てま と めた 。ク ラヴ ィウ ス が示 した 分 数計 算 を,漢 訳者 は単 な る計 算法 と して 捉
え ただ けで は なく ,理 論 的裏 付け ま で深 く理 解 して いた 。そ れ 故, 漢訳 者 は, クラ ヴィ
ウスの 書から学 ぶ分数につ いて「特 に奥深く 流暢である 」と記し ている。
第 2 点 とし て ,ク ラヴ ィ ウス が 『実 用算 術 概論 』 で扱 っ た中 世算 術 の中 心 的技 法 であ
る 「三 数法 」と 「 複式 仮定 法 」と につ い てま とめ た 。彼 の書 に ある 「三 数法 」 は古 代中
国 算術 を超 え るも の では ない が ,漢 訳者 にと っ て散 逸 し水 準が 低 下し た 中国 算術 の 再構
築 に役 立つ 技 法と 認識 さ れて い た。 また ,「 複式 仮定 法 」の 考え 方 は古 代中 国 に始 まり
イ ンド ・ア ラ ビア を経 て 西洋 へ, そし て 再び 中 国に 帰還 し た, 「世 界的 循 環」 をな した
算法で あったこ とを示し, この算法 も中国算 術の再構築 に役立っ た概念であ った。
本論の 「結語」 としてクラ ヴィウス が成しえ た功績につ いて以下 の 3 点を示 した。
第 1 点 は,ク ラヴ ィウ ス はイ エズ ス 会教 育の 方 向性 を決 定 づけ ,イ エズ ス会 が 後に「科
学 の保 護者 に して 教育 者 」と 見な され る ほど ,そ の教 育を 発 展さ せた 中 心的 存 在で あっ
た こと であ る 。彼 の意 見 が反 映さ れ たイ エズ ス 会の 『学 事規 定 』に は, 当時 と して は稀
な 「数 学的 諸学 」の 教 育課 程が 盛 り込 まれ た 。そ れに よっ て イエ ズ ス会 学校 が 会士 の育
成 機関 の枠 を 超え て, 一 般教 育の 要 求,ひ いて は国 家 の中 核を 担 う人 材 の育 成に も 応え
うるこ とが可能 となったの である。
第 2 点 は, ク ラヴ ィウ ス の先 進 的学 問観 は ,イ エ ズス 会 教育 の停 滞 にも か かわ ら ず,
彼 の教 科書 か ら学 ん だ多 くの 学 徒に よ って 継承 さ れ,デ カル トの 世 代を 経 て近 代科 学 の
成 立に 寄与 す るこ と にな った こ とで あ る。 イエ ズ ス会 は 三十 年戦 争 によ る 財政 危機 と,
デ カル ト哲 学 の影 響か ら 生じ た 会士 に対 す る学 問追 究 の制 限に よ り,「 科 学の 保護 者 に
し て教 育者 」 の地 位 を失 って い くが , クラ ヴィ ウ スの 書 は禁 書目 録 の対 象 とは なら ず,
彼の書 に込めら れた先進的 な学問観 と数学観 は,次世代 に伝えら れていくの である。
第 3 点 は, ク ラヴ ィウ ス の学 問 観は ,同 時 代の 中 国に も 宗教 や思 想 を超 え て伝 播 し,
広 く理 解さ れ 受容 され て いっ た こと であ る 。ク ラヴ ィウ ス の書 は, 彼 から 直接 学 んだ イ
エ ズス 会 士 であ る 利瑪竇に よっ て 中 国に 伝 え られ て 漢 訳さ れ , 後に 『 四 庫全 書 』 に納 め
ら れる ほど 重 要な 書 と見 なさ れ た。漢 訳書 は中 国 古来 の 算術 の価 値 を再 認 識さ せる と と
もに, 旧来の中 国算術の不 足を補っ て再構成 させる契機 を提供し た。
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