長野大学紀要

長野大学紀要
第30巻第3号(通巻第115号)
長 野 大 学
2008年12月
長野大学紀要
第3
0巻第3号(通巻第1
1
5号)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
目
<論
次
文>
地域精神保健福祉活動における往診・訪問活動の意義の検討
…………………………………………………………………………上 平 忠 一………1
韓国における住居と台所の原初的概念
―朝鮮時代以前の住居と台所の変遷を通して
……………………………………………………禹
在 勇・田 中 法 博………1
5
中学生が考える過疎地域居住高齢者の生活問題と生活支援
―制度化されない生活支援に着目して―
…………………………………………………………………………越 田 明 子………2
5
三池闘争の終焉と現代日本
―組織された生産者社会の夢・市民的ヘゲモニーの形成―
…………………………………………………………………………黒 沢 惟 昭………3
7
竹内好と魯迅
…………………………………………………………………………佐 々 木
!………53
<研 究 ノ ー ト>
現代中国内陸部小都市<藁城市>の発展についての第一次報告
―日中共同研究のひとつの試み―
……………………………………………………小 川 勝 一・曽
貧………6
3
テキスト・マイニングを用いた方面委員による事例記録の分析(1)
…………………………………………………………………………坪 井
真………7
1
ハワイ大学における障害学生支援 KOKUA プログラム
…………………………………………………………………………伊 藤 英 一………8
7
長野大学紀要
第3
0巻第3号
1―1
4頁(1
3
9―1
5
2頁)2
0
0
8
地域精神保健福祉活動における往診・訪問活動の意義の検討
A Study of the Significance of Home Visit and Outreach
on Community Mental Health Activities
上
平
忠
一*
UWADAIRA Chuichi
動きが早く、多くの法律や制度が公布されてい
目 次
る。そのなかで、2
005(H17)年10月に成立した
Ⅰ
はじめに
障害者自立支援法6)は、障害者の地域生活と就労
Ⅱ
対象と方法
を進め、自立を支援する視点から、これまで3障
Ⅲ
結果
害が種別ごとに異なる法律に基づいて提供されて
Ⅳ
症例の提示
きた福祉サービス、公費負担医療等について、共
症例1 75歳、男性、統合失調症(妄想型)
通の制度の下で一元的に提供する仕組みに改めた
F20.
0
法律であるが、精神保健福祉施策に大きな影響を
症例2 59歳、女性、統合失調症(妄想型)
兼アルコール依存症
F20.
0/F10.
2
症例3 75歳、女性、統合失調症(遅発型)
F20.
8
F20.
5
F20.
0
F20.
2
Ⅵ
"
#
について
らに、精神障害者居宅生活支援事業にかかる規程
る規程が2012(H24)年3月までに消滅するなど
大きな改正が行われる。一方では、精神科医療が
症例6 51歳、男性、統合失調症(緊張型)
!
し、地域生活支援事業が創設され、地域生活支援
の削除、あるいは精神障害者社会復帰施設のかか
症例5 51歳、女性、統合失調症(妄想型)
考察
公費負担制度が廃止され、自立支援医療に移行
センターが地域活動支援センターⅠ型になる。さ
症例4 53歳、女性、統合失調症(残遺型)
Ⅴ
与えている。具体的には、精神障害者通院医療費
地域社会に出て行くための方向性が示され、具体
的方法として家族支援、アウトリーチ、多彩な選
択肢の提供できる場の3つが抽出されている4)。
地域精神保健福祉における往診・訪問活動
ここでは、アウトリーチについて説明する。伊
藤4)によれば、アウトリーチ(訪問)とは家庭や
往診・訪問活動の意義について
利用者の生活圏に第3者が具体的に参加し、関係
訪問看護および訪問指導との関連について
性のなかでコミュニケーションを豊かにし、彼ら
が今までとは異なる生活支援のあり方を実現する
おわりに
ことを支援しようとする方法である。その際に行
¿ はじめに
うべきことは、①まず定期的に寄り添うように自
最近の精神保健福祉施策をめぐる動向は非常に
宅を訪れることで、利用者本人や家族に受けいれ
*社会福祉学部教授
― 1 ―
1
4
0
長野大学紀要
られる第3者になることである。②次に関わりの
なかのアセスメントとして行なわれるべきは「何
第3
0巻第3号 2
0
0
8
Á 結果
往診・訪問活動を行った6症例の統合失調症に
が問題か」ではなく、「このような状況でも何が
できてい る か」で あ り、「症 状 の 改 善」よ り は
対して調査検討した結果は表1に示した。
「本人/家族の強み」や「良いところを伸ばす」
という姿勢である。③さらに本人の回復を妨げて
1. 性別・年齢別、職業
いる要因にも目を向け、その妨害要因をいかに小
対象となった6例の男女比は男性:女性=2:
さくしていくかである。④最後に必要なことは本
4と女性に多い結果となった。平均年齢は60.
7歳
人/家族とともに行動することである。また、
で、50歳代が4例、70歳代が2例であった。
職業では主婦が3例、農業および左官業、無職
ACT(Assertive Community Treatment)と 呼 ば れ
るケア・サービスが注目を集めている。ACT と
が各1例であった。
は、①重い障害をもった精神疾患の人々に対し
て、②医療と福祉を同等に包括した24時間の生活
2. 病名、発病年齢、罹病期間
支援を、③多職種チームで積極的に訪問を行うケ
病名(ICD―10)は全例が統合失調症であり、
10)
ア・サービスである 。このように、地域精神保
症例2のみがアルコール依存症を合併していた。
健福祉が積極的地域療法(ACT)と呼ばれる方法
その病型分類は妄想型が6例中3例を占め、遅発
13)
によりクローズアップされている 。
型および残遺型、緊張型がそれぞれ1例であっ
私たちはこれまで地域精神保健福祉活動におけ
た。
る精神障害者リハビリテーションなどを研究して
平均発病年齢は41.
5歳で、40歳代および30歳代
きた15∼18)。今回、私たちは地域で生活を送ってい
の発病がそれぞれ2例であり、20歳代、60歳代の
る精神障害者に対して往診や訪問活動が行われた
発病が各1例であった。
症例を対象として、往診や訪問活動の実態および
罹病期間の平均年数は19.
2年であり、20年以上
その課題を探る目的で本研究を行い、これからの
の長期にわたり罹病している症例が6例中3例を
地域精神保健福祉における往診や訪問活動の向上
占め、残り3例中2例は10年未満であった。
に寄与できるものと考えている。
3. 外来通院歴、入院歴、転帰
À 対象と方法
外来通院歴を有する症例は6例中4例であり、
地域生活を送っている精神障害者のなかで、主
2例は初診であった。精神科入院歴を有する症例
に市町村の保健師からまたは家族から往診若しく
は6例中3例に認められ、入院回数はそれぞれ4
は訪問を依頼され、精神科医である筆者が往診を
回、3回、2回であった。
実施することができた症例6例を対象とした。保
転帰は、外来通院を継続した症例が1例のみで
健所の保健師からの依頼による自傷他害のおそれ
あり、入院および中断した症例がほぼ半数ずつで
のある精神障害者の訪問は本調査の対象から除外
あった。中断の2例はいずれも妄想型であり、入
している。調査の方法として、性別、年齢別、職
院の3例は残遺型と緊張型であった。
業、病名、発病年齢、罹病期間、外来通院歴、入
院歴、転帰、往診時様態、家族の協力などについ
4. 往診時の様態
て分析を行った。ここでいう往診とは、医師が患
往診時の状態像は6例中半数において幻覚妄想
家に赴き診療を行うことを指し、訪問活動とは医
状態が認められ、精神運動興奮状態および残遺状
師の指示のもとに保健師、看護師、精神保健福祉
態がそれぞれ1例と2例に認められた。往診時期
士または作業療法士が患家を訪問し、看護及び社
は春、夏、秋、冬と四季にわたっていた。往診場
会復帰指導等を行うことをいう。
所は6例中5例が自宅を占めており、残り1例が
喫茶店であった。
往診回数は大部分の症例が1回のみであり、症
― 2 ―
上平忠一
地域精神保健福祉活動における往診・訪問活動の意義の検討
表1
1
4
1
往診・訪問患者の概略
症例1
症例2
症例3
症例4
症例5
性
別
男性
女性
女性
女性
女性
男性
年
齢
7
5歳
5
9歳
7
5歳
5
3歳
5
1歳
5
1歳
職
業
農業
無職
主婦
主婦
主婦
建設関連業
統合失調症
(F2
0.
0)
統合失調症兼ア
ルコール依存症
(F2
0.
0/F1
0.
2)
統合失調症
(F2
0.
8)
統合失調症
(F2
0.
5)
統合失調症
(F2
0.
0)
統合失調症
(F2
0.
2)
病 名
(ICD―1
0)
病
型
症例6
妄想型
妄想型
遅発型
残遺型
妄想型
緊張型
発病年齢
4
2歳
3
9歳
6
8歳
2
1歳
4
5歳
3
4歳
1
7年
罹病期間
3
3年
2
0年
7年
3
2年
6年
外来通院歴
有
無
有
有
無
有
入院歴
無
有(2回)
無
有(4回)
無
有(3回)
外来通院
中断
入院
入院
中断
入院
幻覚妄想状態
残遺状態
転
帰
往診時状態像
幻覚妄想状態
残遺状態
幻覚妄想状態
精神運動興奮状
態
往診時期
8月
4月
4月
2月
1
2月
1
2月
往診場所
自宅
自宅
自宅
自宅
喫茶店
自宅
往診回数
1回
1回
2回
1回
1回
1回
母親の依頼
夫の依頼
保健師の依頼
5名
2名
5名
医師、PSW
医師、PSW、保
健師、看護師、
市福祉担当者
往診経路
保健師の依頼
保健師の依頼
保健師・民生委
員
往診時職員数
4名
3名
4名
往診時構成員
医師、PSW、保 医師、PSW、保 医師、PSW、保 医師、PSW、看
健師、看護師
健師
健師、民生委員 護師
保健師の関与
有
有
有
無
無
有
家族の協力
積極的
受動的
受動的
積極的
受動的
受動的
その他
断薬・怠薬
家庭内別居生活、
急遽入院に至る
離婚、別居生活
断薬
断薬、離婚
PSW:精神保健福祉士
例3のみが2回であった。
し、行政の関わりはどちらかというとないかある
往診経路は大部分の症例が市町村の保健師の依
いは消極的なタイプに大別ができた。その結果、
頼に基づくものであり、そのほかは家族の依頼に
受動的なタイプを示した症例が4例であり、残り
よるものであり、夫や母親の依頼もあった。
2例は積極的なタイプを示した。
往診時の構成要員は基本的には精神科医と病院
の精神保健福祉士のペアとなっており、それに地
6. その他
域の保健師が参加したパターンを形成した。必要
症例1では、往診の結果、外来通院に結びつ
に応じて、看護師や民生委員、市福祉職員が加わ
け、服薬のコンプライアンス8)(注1)を高めることが
り、拡大パターンをとった。
可能となり、往診が良好な成果を生じさせた。
症例2では、離婚後も前夫の近くに自宅を建築
5. 家族の協力
して貰い、前夫の全面的な協力を得ながら、そこ
何らかの形で、家族が往診や訪問に関与してい
で生活を送っている。長男の結婚も本人には内緒
た。家族の関わり方には消極的、受動的で行政が
であり、孤立した自閉的な生活が持続している。
主体的に関わるタイプと、積極的、主導的に関与
症例3では、夫は近くの工場に寝泊りをしてお
― 3 ―
1
4
2
長野大学紀要
第3
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0
0
8
り、家庭内別居の状況が長い期間に亘って続いて
いた。
X 年4月(73歳)に、精神症状が落ち着いてい
るので、自宅近くの開業医(内科)に紹介した。
症例4では、往診により家庭内環境の観察と本
その時の処方は、1日量で、クロルプロマジン50
人の状態の把握を目的に実施されたが、思わぬ展
mg、レボメプロマジン50mg、ジ ア ゼ パ ム10mg
開に発展し、急遽医療保護入院を余儀なくされた
であった。
例である。
X+1年8月に、次女が同医院から紹介状を持
症例5は、喫茶店で診察を行った特異なケース
であり、面接の成果が乏しかったといえる。
参し、相談に来る。それによると、2週間前頃か
ら、関係被害妄想や迫害妄想が出現し、妻に対す
症例6では、離婚後、妻子とは全く没交渉の状
る嫉妬妄想が強く、長男の嫁は実家に避難してい
況であり、保護者は弟が家庭裁判所から選任され
る。本人は病識を欠き、受診を拒否している。こ
ている。
の時のこちらの対応は、地区の保健師に相談する
 症例の提示
ように訪問活動を指導する。
X+1年8月中旬に、地区の保健師から「他人
ここに往診若しくは訪問活動を実施した症例を
プライバシー保護に配慮しつつ、詳しく提示す
の話に耳を傾けないので、保健師たちでは説得が
できない」と往診の依頼がある。
る。
X+1年8月1
1日に、精神科医と精神保健福祉
士と看護師、および地区の保健師の4人で患者宅
症例1 75歳、男性、農業
[診断]
[生活史]
統合失調症(妄想型)
に往診する。
F20.
0
[往診時状況]
患者はこちらの往診に対し素直
地方のある町に2人同胞の次男とし
に応じ、往診して貰ったことを恐縮している感じ
て出生した。戦後まもなく、戦死した兄の嫁と結
が強く、ラポールはとりやすかった。こちら側の
婚した。兄夫婦には男子が1人いた。本人たち夫
対応は、患者を刺激しないように、患者の話を十
婦には2人の女児を儲けた。これまで自宅近くの
分に聞くという受容の態度で一貫して接した。
建設現場の仕事と農業を営み生計を立てていた。
ここで、本人とのやり取りの一部を記述する。
長男は結婚し、本人たちと同居している。長女は
「畑のトマトが盗まれた。とうもろこしも芋も
県外に嫁ぎ、次女は隣の町に嫁いでいる。現在、
盗まれた」と訴え、畑の写真を見せながら、
「こ
妻と長男夫婦と孫2人の6人家族で生活を送って
れが盗まれた証拠だ」とこちらに同意を求める。
いる。
私たちが見れば、単なる野菜畑が写っているに過
[家族歴・既往歴]
特記すべき事項はない。
ぎない写真を何回も見せる。そして、
「夜中に懐
[現病歴] 42歳の10月に、精神科を初診。この
中電灯を点けて畑を見回りしている」と関係被害
時の所見は、不眠、頭痛、不安など自律神経失調
妄想や迫害妄想を一生懸命に訴える。
症状と周囲に対する過敏を認め、夜中に「誰かが
本人は同居している嫁や息子に対してかなり攻
来ている」と幻聴に左右され、家を飛び出すとい
撃的威圧的であるが、近くに住んではいるが時々
う異常行動が出現した。約半年間、抗精神病薬を
しか顔をみせない次女には好意的で、彼女の言動
服用しながら外来治療を実施した。
には反発をほとんど示さない。
46歳の1月に、再び、不眠、幻聴、関係被害妄
往診時の対応は、①外来通院の必要性を説き、
想が出現し、加療を受け、数ヵ月後に異常体験は
キーパーソンである次女の協力により、精神科に
消失した。
通院することを約束させる。②抗精神病薬の服用
50歳の5月に、幻聴、関係被害妄想、迫害妄想
が再燃し、4ヶ月間存続する。
の約束をする。
[往診後の経過]
2週間後、次女と一緒に外来
65歳の3月に、幻聴、関係被害妄想が半年間持
を受診する。服薬により睡眠状態が改善し、妄想
続する。その後も、半年に1回くらいの診察で、
は口に出さなくなったと報告する。病識は不十分
投薬のみが続いていた。
である。
― 4 ―
上平忠一
地域精神保健福祉活動における往診・訪問活動の意義の検討
その後、次女の送迎により月に1度の割合で外
1
4
3
りを拒否する。この時に、前夫の自宅近くに一戸
来通院をし、経過は順調である。
建ての家を新築してもらい、そこに一人暮らしを
<症例の小括>
始めた。しかし、その後新築の家の周りをビニー
1.75歳の農業を営む統合失調症の男性。
ルやぼろ布で囲ったり、鉈を袋に包み背負ってい
2.42歳頃に、自律神経症状を伴う幻覚妄想状態
るなど異常行動が顕著になったため、前夫が医療
にて発病し、3
0年以上の病歴を有している。46
機関の受診を勧めるが、拒否された。前夫は対応
歳、50歳、65歳および74歳の時に数ヶ月から半年
が困難ということで、市町村の保健師に相談を持
のシュープを経過している。社会生活の適応レベ
ちかけた。
ルは保たれていて、現在でも地区の老人会長や氏
57歳の11月に、H 保健師と地元の民生委員が患
子総代を歴任している。
家を訪問する。短時間の訪問であった。この頃の
3.往診時の所見は、幻覚妄想状態であり、家族
本人の生活状況は、前夫が患者本人の農協口座に
の治療へ協力的であり、その後、外来通院を継続
入金をしているので、患者が自分で農協に電話注
することができた。
文を行い、自ら食事を作って摂っている。時おり
前夫が本人の生活ぶりを見守っていた。
症例2 59歳、女性、無職
[診断]
慢性統合失調症
ル依存症
F10.
2
[生活史]
58歳の2月に、前夫より市福祉課に、患者の生
F20.
3 兼アルコー
活をみるのが経済的に困難のため、生活保護の申
請を申し出る。この際、市から医療機関の受診を
地方のある村の3人同胞の次女とし
勧められた。
て出生した。地元の中学校を卒業し、自宅の家事
58歳の3月に、H 保健師が患家に訪問活動をす
手伝いをしていた。24歳の時に、農業を営む夫と
る。保健師が声をかけてもなかなか出てこない。
見合い結婚をした。子どもを3人儲け、長男は前
保健師が諦めて帰ろうとすると、長靴を履き、頭
年に結婚し、A 市に住んでいる。次男と三男はそ
に布を巻いた姿で現れるが、コミュニケーション
れぞれ独身で会社の寮に住んでいる。
がとれない。この頃、前夫から保健師に往診の依
[家族歴・既往歴]
頼が入った。
特記すべき事項はない。
[現病歴] 39歳頃に、自宅近くの下請工場に
X 年4月のある日に、精神科医と精神保健福祉
パートとして勤務していた頃に、精神変調が出現
士、市保健師および前夫が患者の家に往診した。
した。「会社の社長と私がいい仲になっていると
[往診時所見]
自分のことが噂されている」とか、
「夫が機械に
木などで乱雑に囲われており、家のなかの様子は
手を挟まれた」といって、急いで家に帰ってきた
外から窺えない。夫の手引きで、本人に会う。こ
り、「耳にテレパシーが入っている」と幻聴や妄
ちらの突然の訪問に驚きを示し、そわそわして落
想を訴えた。独語が見られた。この頃から不眠が
ち着きなく緊張している。しかし、私たちを自室
頑固に続いていたので、夫が晩酌を薦め、次第に
に導く。部屋の中は足の踏み場も無いくらい散ら
飲酒量が増加し、1回に4∼5合を飲むように
かっており、部屋の真ん中に竹竿が渡されてい
なった。
て、そこに衣類や蚊帳が無造作に掛けてある。両
48歳頃に、依然として幻覚妄想状態が継続して
いたが、酒を断つということで、家族が強制的に
家の周りには、板、ビニール、
鬢に剃りを入れた短く刈った頭髪である。散髪は
自分でやるという。
アルコール専門病院に約3ヶ月間入院させた。退
ここに、本人の陳述の一部を記載する。
院約1ヵ月後、同病院に短期間の再入院をした。
「人がいないのに人の声が聞こえる」「鉈が御
同病院退院後、通院せず、自宅の蚕室に一人で住
先祖様であるから、いつも背負っている」
「離婚
み、近所との交際もなく孤立した生活を続け、夫
届けは出してあるが、まだ離婚していない」
「長
が世話をしていた。子どもの養育は父親が一人で
男はまだ結婚していない(家族は本人に内緒にし
やっていた。
ている)」「お父さんも子どももテレビを見ない
56歳の時に、協議離婚した。親族は本人の引取
し、テレビは人の手に渡っているので、見ない」
― 5 ―
1
4
4
長野大学紀要
と述べる。
第3
0巻第3号 2
0
0
8
結婚し、同じ市内に住んでいる。長男は都会に出
気分変動、思考障害(連合弛緩)
、幻聴体験、
て生活をしている。
テレパシー体験、妄想気分、奇妙な妄想を認め、
現在は夫と2人きりの生活を送っている。とき
幻覚妄想状態である。さらに、自閉、病識欠如、
どき、娘たちが安否を気遣い、親たちを訪れてい
社会的関心の低下、前夫に対する両価性感情を認
る。
める。
病前性格は自己顕示欲が強く、明朗、些細なこ
私たちの対応は、①本人の訴えを十分に聴くこ
とを気にしないタイプである。
と、②外来通院の必要なこと、③服薬(抗精神病
[既往歴] 68歳頃に白内障の手術を行う。
薬)の必要なことを説明し、往診を実施した。
[家族歴]
特記すべき事項はない。
X 年4月の2週間後に、前夫のみが来院する。
[現病歴] 55歳頃から、夫婦がそれぞれ別居生
「薬は飲まない」
「以前とほとんど変わらない生
活に近い生活を送り、夫は工場に寝泊りをし、た
活である」と報告する。しかし、前夫に詳細に質
まにしか家に帰らなくなった。この頃から本人は
問すると、前夫は薬の管理等について治療者側の
孤立的・自閉的な生活が始まり、近所の人々の交
要請にほぼ応じていない。前夫の受診の理由は市
流が少なくなった。68歳の春頃に、隣接した家に
役所から障害年金の診断書を記入してもらうよう
関する関係被害妄想、迫害妄想、幻聴が出現して
に指導されたことによる。同日に、H 保健師が患
くるが、日常生活に支障がなかったため、夫は放
家を訪問するものの、玄関先で追い返される。
置して経過を観察していた。
X 年4月末、前夫が来院する。服薬も入院も拒
否している。前夫は「このままでは自分が具合悪
X 年夏頃(73歳)に、近所の人から夫に苦情が
寄せられる。
くなるので、先生、このまま様子を見させてほし
い」と懇願していく。
X 年10月に、不眠や日常生活に支障が出てくる
ようになり、脳外科にて診察を受けるが、異常を
こちらの対応は、①家族の協力が得られない以
認めない。
「買い物に行こうと思うが、怖くてダ
上、現在の状況で経過を観察する、②市保健師に
メだ。自動車で追いかけられる。殺される」と訴
上記のことを報告する。
え、仕事をしている夫に電話を何回もかける。同
<症例の小括>
月無理やりに夫が精神科を受診させる。
1.59歳の女性で、離婚後も前夫の協力が得られ
初診時所見は、疎通性は良好であるが、幻聴や
ている慢性統合失調症兼アルコール依存症の診断
関係被害妄想を認め、病識は欠如していた。遅発
である。
性統合失調症と診断し、抗精神病薬と睡眠薬を投
2.39歳頃に関係被害妄想、幻聴で発症してい
与する。その後の外来通院は不規則であり、薬を
る。その後も治療を受けることなく、約1
0年が経
飲むと下痢になるといって拒薬をしている。
過し、48歳頃に飲酒が問題となり精神科病院に2
X+1年1月に、夫と一緒に外来を受診する。
回入院する。その後も再び、治療を受けることな
その時の状態は、幻覚妄想が継続し、それらに支
く10年を経ている。
配された行動が頻発していた。
3.往診時の所見は残遺状態(注2)であり、家族治
ここに、本人の訴えの一部を記述する。
療への協力は消極的であった。
「先日主治医の先生が隣の家に来て、夜通し私
の話をしていた」「先生にいろいろなことがあっ
症例3 75歳、主婦
たが、皆さん知っているでしょう」という。さら
8
遅発性統合失調症(注3) F20.
[診断]
[生活史]
に、毎晩のように夫を起こし、
「大勢の人が喋る
大都会に生まれ、戦中に地方都市に
声が聞こえる。私を連れにくる」と訴えていた。
疎開してくる。20歳代で見合い結婚をした。3歳
診察時、夫は「先生は隣の家に来たことは本当
年上の夫は市内に A 製作所の下請け工場を経営
にないですか?」と医師に向かって質問してく
していた。50歳頃から、現在住んでいる借家に引
る。夫も、本人の言動を半信半疑で聴いている。
越しをした。子どもは3人で、長女および次女は
少量の抗精神病薬(ハロペリドール)を投与し
― 6 ―
上平忠一
地域精神保健福祉活動における往診・訪問活動の意義の検討
て、経過を観察する。
1
4
5
2.不規則な受動的な受診の仕方を呈した治療状
その後の経過をみると、幻聴体験は存続してい
況であり、家庭状況では夫が工場に宿泊をし、本
るが、落ち着きが見られ、行動化は沈静化されて
人は一人暮らしに近い生活を送っていた。
いた。
3.往診時状況は、近隣の人々から本人の問題行
X+1年6月に、外来治療が中断する。
動に対して苦情が寄せられ、夫はその対応に苦慮
X+1年10月 に、夫 の み が 外 来 に 相 談 に み え
していた。家族は治療の協力に消極的であり、
る。この時の話によれば、幻覚妄想が強まり、行
キーパーソンが不在の状況である。
動化が著明になっているという。少量のハロペリ
ドールの水液を約3ヶ月間投与する。その間、関
症例4 53歳
係被害妄想は抑制されていた。
[診断]
X+2年11月に、次女のみが外来に相談に見え
主婦
残遺型統合失調症
[生活史]
F20.
5
地方の小都市に1人子として出生し
る。その間、再び外来治療は約1年間中断してい
た。父親は農業を営んでいた。地元の小・中学校
る。この時の問題行動は以下のようなものであっ
を普通の成績で卒業した。40歳の時に、現在の夫
た。①家の隣の人から娘のところに電話連絡があ
と再婚した。父親は60歳代で心筋梗塞にて死亡す
り、「被害的なことを言われ迷 惑 を し て い る の
る。現在、本人夫婦と母親の3人家族である。
で、善処してほしい」
、②隣の家のポストに現金
病前性格は内気、おとなしい、非社交的であり、
(9万円入りの封筒)を入れる行為がある、③本
統合失調気質である。
人が警察署に保護され、夫が引き取りに行ってい
[家族歴]
る。
[既往歴] 49歳のときに、糖尿病にて入院加療
しかし、その後家族から連絡がなかった。
をうける。
特記すべき事項はない。
X+2年1月に、C 市高齢者対策課 N 保健師か
[現病歴] 21歳頃の不眠、頭重感を伴う幻覚妄
ら連絡がこちらに入る。それによると、夫から
想が出現し、A 精神科病院に1年8ヶ月間入院す
「幻覚妄想が存続し、家庭介護が大変である」と
る。その後、同病院に23歳ならびに30歳の時に約
民生委員に相談があり、そこから市に連絡があっ
3年間および1年7ヶ月間の2回入院を繰り返し
た。近所からの苦情が大家に届き、借家を明け渡
た。
すか否かの危機的状況が迫っていた。
その後、自宅に戻り生活をしていた。51歳のと
X+2年4月に、精神科医と精神保健福祉士お
きに私たちの医療機関を初診する。当時の精神症
よび市 N 保健師、民生委員と患家を往診する。
状は幻覚妄想を背景とする残遺状態であった。そ
本人と顔合わせをして、こちらの紹介に終わる。
の後、精神科通院を不規則ながら行っていた。
この時には、子どもたちを集めるように要請する
も、都合により誰も来なかった。
X 年11月(52歳)に、自殺目的で向精神薬を一
度に大量服薬し、昏睡状態で発見され、すみやか
X+2年5月に、前回と同じメンバーで自宅に
に入院となった16)。約20日間在院し、身体的には
往診する。依然として、幻覚妄想状態が継続して
軽快退院をした。その後は、1度も外来通院をし
いた。
なかった。
「私は勲2等の勲章を授かった」
「話し声が聞
X+1年2月に、母親のみが相談に来る。母親
こえる。近くの工場から聞こえてくる」
「私の父
の話しによれば、最近、夜も眠らず不穏であり、
親は公務員で、勲3等を貰っている」と一生懸命
夫も面倒が見切れないと家出をしてしまった。服
に訴える。夫や娘たちの強い希望により、精神科
薬は「先生が治ったから飲まなくてもいい」と
病院に医療保護入院となった。
言って拒薬し、母親の言うことも聞かないので、
<症例の小括>
困っている。母親は何とかしてほしいと懇願す
1.73歳の主婦で、68歳頃から幻覚妄想(主とし
る。
て関係被害妄想、幻聴)で発症している遅発性統
[往診時状況]
合失調症である。
と精神保健福祉士、看護師の3名にて、患者宅を
― 7 ―
そこで、数日後の午後、主治医
1
4
6
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
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8
往診する。家には母親が待っていたが、夫はいな
[診断]
かった。
[生活史]
統合失調症(妄想型)
F20.
0
地方の農村に2人同胞の長女として
患者は二階の寝室に寝ていた。母親の誘導で、
出生する。関西で地方公務員をしていた父親は戦
私たちが寝室に近づいて、自己紹介をすると、患
争のために A 県に疎開し、会社員として働いて
者は部屋の入り口のガラス戸を内側からしっかり
いた。本人が26歳のときに、父親が病死した。本
押さえていて、開けさせない。無理やり母親にガ
人が27歳のときに、高校の1年先輩の男性と結婚
ラス戸を開けさせてもらうと、突然母親に対して
し、2人の男子を儲けた。夫は医薬品関係の会社
暴力を振るい、私たちに対してファイティング・
に勤務している。夫は県内を始め、近県まで営業
ポーズをとり、パンチを繰り出したり、足蹴りを
活動をしており、家を開けることが多く、土帰月
する。あるいは、一緒にいたケースワーカーは髪
来の生活であった。夫婦仲は円満であった。10年
の毛を強くつかまれたりした。この時の本人の精
前に、現住所に土地を購入し新築をした。隣に住
神症状は母親に対して自分の子どもであるとか、
む N 宅は古くからその地域で居を構え、地元の
看護師に対して自分の従兄弟だと訴え、家族否認
名家であった。
妄想や人物誤認や病識欠如を認め、精神運動興奮
[家族歴・既往歴]
状態であった。
[現病歴]
特記すべき事項はない。
X−5年10月(45歳)に、隣の N 宅
このまま引き下がるかあるいは入院させるかに
の駐車場に止めてあった車のタイヤがすべてパン
ついて家族と協議すると、現在の精神症状および
クしている事件があった。夫がこの事件を隣に住
母親の強い希望により、入院をさせる方針をとり
む N さんから聞かされているところを、本人は
その結果、病棟の2名の男性看護師の応援を得
二階のベランダで洗濯物を干しながら見ていた。
て、イソミタール注射とアナテンゾールデポー剤
X−5年11月頃(4
5歳)から、自宅にいたずら
を注射し、医療保護入院になった。
電話があった。NTT に調べてもらうが、異常が
[入院後の経過]
入院時の拒絶症状を示す強い
ないといわれ、電話番号を5−6回変更してみる
精神運動興奮状態が継続し、隔離室を使用するこ
ものの、いたずら電話が約2年間続いた。この頃
とが頻回であった。抗精神病薬の服用により、2
か ら、電 話 を 盗 聴 さ れ て い る と い い 始 め た。
週間後に落ち着いてくる。病識は出ないが、陽性
「NTT の内部に盗聴する人がいる。N さんがパ
症状は消退する。しかし、感情鈍麻、思考障害
ンクの件で逆恨みをしている」と被害的なことを
(連合弛緩)
、自閉症状などの陰性症状が残遺症
言い出した。その後、電話を盗聴されているとい
状として残存したまま1ヶ月に自宅に退院した。
う盗聴妄想は、現在まで継続している。
その後、現在まで不規則ながらも外来通院して
X 年春(50歳)「電波を飛ばして、パチンパチ
いる。
ンと故意にやっている。隣の N さんが、私を困
<症例の小括>
らせるためにやっている」と関係被害妄想を訴え
1.53歳の残遺型統合失調症の主婦
た。
2.21歳頃に自律神経失調症状と幻覚妄想症状に
X 年11月末(51歳)、「変な電波が飛んできて、
て発病し、精神科病院に数回入院した。私たちの
自分の下腹部を痛くされる」
「電波が飛んでくる
ところには、51歳の時に、初診とな り、52歳 時
と、心臓や体を痛くされ、おかしくなる」
「家の
に、急性薬物中毒にて1回目入院に至るが、その
なかを盗聴されている」と強く訴え、12月初旬に
後、外来通院は中断していた。
内科病院を受診し、そこから精神科を紹介され転
3.往診への契機は母親が病院に相談のため来院
院となった。
し、その数日後に往診となった。往診時の主な意
転院時には、夫が紹介状を持参して夫のみが受
図は、患者の状況を観察することであったが、思
診している。夫の話や紹介状によれば、家事も
わぬ展開に至り、医療保護入院に至った。
やっていて、日常生活はほぼ普通にやっている。
本人は受診の意思がないので、夫は是非とも往診
症例5 51歳、主婦
をしてほしいと希望する。治療者側は、本人の状
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上平忠一
地域精神保健福祉活動における往診・訪問活動の意義の検討
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態や家庭環境の把握を目的として、12月中旬に往
2.現在症は、関係被害妄想、体感幻覚、幻聴を
診の約束をする。
認め、病識を欠いている。
[往診時所見]
3.発病は45歳頃に、近所との些細なトラブルを
X 年12月に、精神科医と精神保
健福祉士が患家を往診する。
契機として、盗聴妄想が出現し、その後約5年
チャイムを鳴らして、玄関を入ると、笑顔の本
間、関係被害妄想や幻聴が継続している。しか
人と夫が出迎える。本人はすぐに「家のなかは電
し、それまで一応社会生活を営み、医療機関を受
波が飛んできて、盗聴されるので、近くの喫茶店
診することはなかった。今回、他科の医師から勧
でやりましょう」と別の場所でのインターヴュー
められ精神科を初診している。
を希望したので、自宅近くの喫茶店に車で移動し
4.往診の場所は喫茶店であった。
た。そこで、本人と夫、私たちが30−4
0分間イン
ターヴューを行った。そのインターヴューのなか
症例6 51歳、男性、建設関連の仕事
で、本人は私たちを電波に詳しく、自分に危害を
[診断]
加える電波を除去してくれる先生と思っているこ
[生活史]
とが判明した。しかし、インターヴューを続ける
として出生する。父親は運送業に従事していた。
うちにそうではないことに本人が気付くと急にそ
父親は本人が小学5年生のときに、愛人を作り家
わそわして落ち着かなくなった。
出をしてしまい、母親が子供たちを苦労して養育
統合失調症(緊張型)
F20.
2
地方都市に同胞3人の第2子、次男
電波体験以外の会話には、疎通性がとれ、人格
した。温和で、内向的な性格であった。地元の高
の崩れは認められない。しかし、電波体験につい
等小学校を中くらいの学業成績で卒業後、上京
ては病識を欠き、辛そうに語り、一方的な会話と
し、B 精機に約5年間勤務した。敗戦後、帰郷
なる。関係被害妄想、体感幻覚、幻聴が認められ
し、農業の手伝いをしていた。3
1歳の5月に、C
る。
子と結婚し、男子を儲けた。その後、A 市内の G
ここに、本人の供述の一部を記載してみる。
保育園に雑役として、47歳頃まで約8年間勤めた
「電波でやられている。3つの電波があって、
後、知人の建設業で数年勤務していた。
小さいものはたいしたことはないが、大きいのは
[家族歴]
冷や汗が出たりし、こらえ切れない。それで膀胱
[既往歴] 30歳時、左顔面神経麻痺。
をやられると頻尿になり、お腹をやらせると下痢
[現病歴] 34歳の夏頃から、不眠、幻聴、関係
になる」「今、トイレに行ったが、そこでパチン
被害妄想、精神運動性興奮、独語などの精神変調
と音がしたのは、インターネットかなんかで私を
が出現し、3
5歳の2月初旬に E 病院精神科に第
監視している」「電 波 で 腹 を 痛 く さ せ ら れ る。
1回目入院、電気ショック療法16回試行し、軽快
NTT と 隣 の 人 が 私 を い じ め て い て、や っ て い
し同年3月初旬に退院した。しかし、すぐに再発
る」「ここにいても、電波でやられている。早く
し、同年3月中旬に同病院に第2回目入院。入院
このお店を出ましょう」
後すぐに無断離院をして、その足で F 総合病院
特記すべき事項はない。
夫の態度は本人が言うままに従い、電波体験を
精神科に転院し、3
9歳の1
2月に同病院を退院し
肯定も否定もせず、むしろ本人の言動を助長して
た。50歳の11月頃まで、服薬を継続していた。そ
いる印象がある。
の間、春と秋の年2回決まって、精神状態が悪化
このインターヴューで私たちのとった対応は以
下の通りである。
し、仕事を休むことが多かった。51歳の2月頃か
!今後、夫と連絡をとって、治療ルートの乗せ
る努力をする。"服薬を勧める。しかし、本人は
拒否をしている。#家族の同意を得て、保健師の
ら、無為、自閉が出現し、家の入り口や窓を釘で
協力を得る。
保健師、市の福祉担当者と、精神保健福祉士、看
<症例の小括>
護師による患家の往診が行われ E 病院精神科に
1.51歳の統合失調症の主婦。
第3回目の医療保護入院となった。
打ちとめて、外界との接触をしない生活をし、妻
子とは別居生活が始まり、同年の9月に協議離婚
をした。51歳の12月に、筆者である主治医と市の
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長野大学紀要
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往診時の所見は、陽性症状を認めず、感情鈍
症例3について
麻、無為、自閉、思考の障害など陰性症状が認め
今回の往診の仕方は、夫から地区の民生委員17)
られ、人格の水準の低下、残遺状態を呈してい
に相談が寄せられ、保健師に連絡がとられ、そこ
た。
から医療機関に往診の依頼が入っている。高齢で
入院後経過では、入院3年目頃から、徐々に症
あるため、老人性認知症との鑑別診断が課題とな
状が改善し、院内の作業や農作業などの作業やレ
る。入院後の診察により、記憶障害や健忘がみら
クリエーションに参加し、院内寛解状態に達し、
れないことから、老人性認知症とは鑑別が可能で
現在に至る。
あった。
<症例の小括>
症例4について
1.51歳の統合失調症(緊張型)の男性、無職、
本例の往診の課題は、次のように多くの点を指
摘できる。
入院中。
①
2.現病歴: 34歳頃に、不眠、幻聴、関係被害
往診の準備不足があげられる。長期間通院
妄想、精神運動性興奮、独語などの精神変調が出
が途絶えた患者の往診にはもう少し慎重さが要求
現し、35歳の2月に E 病院精神科に第1回目入
された。
②
院、約1ヵ月後に退院したものの、その直後に再
①と関連するが、社会資源の活用がなかっ
発し、F 病院に転院し、同病院に4年間在院して
た。県や市の保健師の応援や援助を求めたほうが
いた。その後、約8年間 A 市内の保育園に雑役
よかった。
③
として、勤務していた。その間も精神症状が年に
家族の治療に対する協力への働きかけが不
2回くらい悪化し、仕事を休むことが多かった。
足していた。夫の往診への協力が得られなかっ
3.往診時の所見は残遺状態であり、家族の治療
た。
④
への協力は消極的であった。
à 考察
¸
往診時の不測の事態への対応が不十分で
あった。往診時に相手を興奮させてしまった点は
今後の課題として残る。往診時に興奮した場合に
各症例の考察
は、十分なマンパワーが必要である。往診時の不
症例1について
測の事態に対する院内各部署の連携が必ずしも十
今回の往診に至った経路は、近くの開業医では
分でなかった。
治療がうまくいかず、地域の保健師の要請により
実施したものである。往診後の経過は良好であっ
⑤
往診時に、患者・職員ともに事故のない様
に実施しなければならないことを再確認した。
た。その理由のひとつに、往診により治療同盟が
などが指摘できた。
築かれたことが指摘できる。本例の往診の意義
症例5について
は、外来通院の援助への糸口となる場合をあげる
ことができる。
診察が喫茶店という尋常とは異なる場所で行わ
れ、患者には幻覚妄想状態が認められた。本症例
症例2について
の課題として、以下のようなものが指摘できた。
今回、市保健師が医療機関受診のため相談を受
①
喫茶店における面接の妥当性の有無が指摘
け、関与し、精神科治療機関の往診となった。し
できる。本人の言うとおりに、面接場所を設定し
かし、家族の要望(診断書の要求)と医療機関の
たことが、面接をスムーズに進行されることには
対応が必ずしも一致せず、不本意な結果となっ
プラスに作用した。しかし、面接の途中から中断
た。課題として、家族の治療に対する協力が得に
したことは面接場所が適当でなかったことを示唆
くい場合、どのような医療保健アプローチが模索
している。
できるかがクローズアップされた。その解決のた
②
保健所などの社会資源の活用を図らなかっ
めに、信頼関係の樹立を目指し、治療者側が頻回
た理由は何かという疑問がある。これに対して
の訪問活動を行い、本人や家族のニーズをしっか
は、今回、家人の相談ということで来院し、早急
りと把握することが重要である。
に対応を迫られていたので、保健所や市役所の保
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上平忠一
地域精神保健福祉活動における往診・訪問活動の意義の検討
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健師のネットワークを活用しなかった。今後、地
医療不信に陥り、精神科医療に対して憎しみ
域の精神保健福祉のネットワークの支援を活用す
%
さえもっている場合
&
か分からないという不安・恐怖をもつ場合
面接場所の件など細かく指導をしておくことが大
'
はじめ人生に悪影響があると考える場合
切である。
これらの背景を踏まえて、受診を嫌がる原因が
ることが課題として指摘できる。
③
家族に面接のことについて、もっと細かく
指導をしておく必要があった。例えば、本人にこ
ちらの身分や所属をどのように本人に伝えるか、
精神科のもつ暗いイメージと、何をされる
精神科受診で精神病とされ、結婚、就職を
その他の場合
症例6について
把握できれば、それを解消する方向で訪問するこ
51歳の12月に往診を受けた。その時の所見は感
とが肝要であると強調している。
情鈍麻、無為、自閉、思考障害などの陰性症状が
私たちの研究結果をみれば、全例が統合失調患
認められ、人格水準の低下および統合失調症残遺
者であり、その病型では妄想型が半数を占めてい
状態を呈し、精神科に医療保護入院に至った。本
た。従来の先行研究19)でも、同様の報告がされて
事例では外来通院の可能性は乏しかったため、往
おり、服薬が最も困難な患者は、自分の精神力で
診が入院に直結した事例であった。
自分の精神的弱点を克服できるという信念をもっ
ていたり、人生の困難を何度も乗り越えてきた中
¹
地域精神保健福祉における往診・訪問活動
について
年以上の妄想型統合失調症が多く、精神的苦悩を
精神主義で解決しようと考えている人たちであ
大辞林によれば、往診とは医者が病人の家に
る。さらに、半数の事例に精神科入院既往が認め
行って診察することを意味する。その反対の語彙
られており、あるいは精神科外来通院歴を有す事
は宅診と呼ばれ、医者が、自宅で患者を診察する
例が過半数に認められ、精神科の治療歴のない事
ことをいう。一般に患者の求めに応じて患家に赴
例は6例中1例のみであった。このことは多くの
21)
き診療を行うことを往診という 。しかし、精神
症例において、病状が不安定、あるいは再発、再
科の臨床においては、患者の病態により患者自ら
入院を繰り返していて服薬や外来治療の中断のお
診察を希望しないことがしばしば認められる。
それの強い人を指摘し、医療的精神保健的関与の
ここでは、地域精神保健福祉における往診や訪
重要性を示唆している。
問活動について検討する。
さて、本研究にみられた往診時の様態をみる
往診が要求される場合の多くは、精神科を受診
と、その時の状態像の半数は幻覚妄想状態であ
することを拒否する人々が対象となっている。患
り、この状態では同時に病識欠如を伴うことが多
者自らが病院や診療所を訪れることを嫌がってい
く、医療を受ける態度を見出すことを困難にして
るが、受診を嫌がる理由がその背景に存在してい
いる。病識とは、自分の病気や故障を医学の所見
る。その背景を分析した渡辺20)は次のような7項
と合うように判断していることを言い、さらに自
目をあげている。
己の精神的機能や行動の障害に適切な態度をとる
!
「外に出ると人に見られ、とかく言われ
"
る」という幻覚妄想から外出を嫌がる場合
#
のを嫌がる場合
$
ことをいう9)。その結果、受診を放棄、あるいは
拒否する行動につながっていると考えられる。往
小心翼翼とし、極度の劣等感から人に会う
診の経路をみると、市町村の保健師からの依頼に
基づくものが大部分であり、往診の契機として保
家族が患者に小言を言い、叱り咎め、その
健師の依頼が重要な位置を占めていることが判明
ため患者は家族を信頼せず、反発し拒否的に
する。一方、保健所長からの依頼により、保健師
なっている場合
等と一緒の訪問が別の形態としてある。それら
以前に強制入院の経験があり、そのことに
は、精神保健福祉法に基づくものであり、医療及
よりいたく自尊心を傷つけられていたり、あ
び保護のために入院させなければ自傷他害のおそ
るいは入院中の処遇が不適切だったために、
れがあると認められる精神障害者を訪問する場合
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である。この場合は、精神科救急医療の要素が濃
思の確認できないもので、状態像としては昏迷、
厚であり、いわばハード救急(後述)となり、精
せん妄、幻覚妄想状態であり、家族の要請により
神保健指定の診察が必要となる。本研究でいう往
救急車で受診するものが多く、疾患としては内因
診や訪問とは異なっている。すなわち、患者は受
性精神病・症状精神病・器質性精神病が多い。一
診を嫌がり、受診意思のないことが確認されてい
瀬ら3)の分類に私たちの症例を適合させようとす
るが、精神病状や状態像により自傷他害のおそれ
ると、どの分類にも属さないソフト救急といえ
を有していない事例が研究対象となっている。
る。その理由を考えると、次のようになる。ま
ず、一瀬らの報告と本報告では研究対象が異なっ
º
ている点が指摘できる。一瀬ら3)の対象者は、外
往診・訪問活動の意義について
往診を求められる場面は、精神科受診を嫌がる
来に救急車で受診している。一方、本研究の対象
か拒否をしている場合が圧倒的に多く、表1で示
者は患家を訪問する事例が対象となっている。ま
したように、保健師や家族からの依頼によるもの
た、前者では受診意思の確認ができないものが対
が多数を占めている。この際に、精神科救急が関
象であるが、本研究では受診意思は確認され、受
係している。精神科救急を考える場合、本人の受
診を拒否している事例であり、自傷・他害の可能
診意思の程度によってハード救急とソフト救急に
性が低いものである。したがって、ハード救急患
分類することが行われ11)、ハード救急とは、精神
者とソフト救急患者では分類できないその中間に
科救急において二分される救急形態のひとつで
位置する症例が研究対象となっている点に本研究
あって、行政的救急であり、警察経由で特に自傷
の意義があり、精神科救急のソフト救急の分類を
他害のおそれの鑑定を要する患者を対象とした救
補充しているといえる。
急である。一方、ソフト救急は本人の受診意思に
»
基づく救急である。
訪問看護および訪問指導との関連について
まず、訪問看護との関連について述べる1),2),12),14)。
ここで、往診・訪問活動の意義について考えて
みたい。往診や訪問活動の目的は医師や医療関係
医療機関における生活支援プログラムのひとつ
者が患家に赴き診療を行い、治療することを目的
として、精神科訪問看護は、主治医の指示のもと
としている。同時に、在宅診療を行う大きな理由
に精神障害をもちながら地域で生活している人や
のひとつに、患家に行き本人や家族の不安を解消
その家族の同意を得てそれらの人を訪問し、生活
することがあげられる。統合失調症への訪問・往
や療養における困難さに対して、必要な援助を提
診に関する渡辺らの報告19)によれば、患者が拒否
供する援助法である。
すれば、無理やり治療に導こうとせず、次回の訪
精神科訪問看護の対象は次のようである。
問を告げあっさりと帰途につくことで、その後根
①
気よく訪問を繰り返すことが提案されている。そ
長期入院により、社会性が低下し、退院後
も継続して生活するための援助が必要な人。
して、この空振りの訪問に大きな意義を見出し、
②
往診・訪問それ自体に治療的意味合いが含まれて
単身生活などで、家族からの十分な支援が
得られず、訪問による支援が必要な人。
いると主張している。
③
精神科救急を受診意思の有無および自傷・他害
病状が不安定、あるいは再発、再入院を繰
り返していて服薬や外来治療の中断のおそれ
の可能性の視点から分析した報告3)によれば、①
の強い人。
本人の受診意思に基づくもの、②受診意思は確認
④
されないが自傷・他害の可能性は低いもの、③受
診意思は確認されず自傷可能性が高いが、他害可
能性は低いもの、④受診意思は確認されず他害可
病院へ行く以外は、外へ出ないなどの自閉
傾向の強い人。
精神科訪問看護の目的として、次の4つがあげ
られる。
能性が高いものの4タイプに分類し、このうち①
①病状悪化の早期発見、早期対応。②継続治療
から③までをソフトな救急と定義し、④をハード
の支援。③対人関係の援助。④社会活動参加への
な救急と定義している。②の主なものは、受診意
支援。
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上平忠一
地域精神保健福祉活動における往診・訪問活動の意義の検討
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このように、精神科訪問看護は精神科治療のな
診についての相談援助や勧奨のほか、生活指導、
かでは、アウトリーチとして位置づけられる生活
職業に関する指導等の社会復帰援助や生活支援、
支援プログラムのひとつである。
家庭内暴力やひきこもりの相談その他の家族がか
ここで、医師の訪問である往診との関連を述べ
かえる問題等についての相談指導を行う。一方、
ると、両者には共通する部分が非常に多く認めら
市町村の相談指導は、精神障害者社会復帰施設、
れ、上記に挙げた対象者のうち②∼④が一致し、
精神障害者居宅生活支援事業、精神障害者社会適
目的ではほぼ一致している。ここでは、差異点を
応訓練事業の利用に関する相談を中心に、精神保
あげるとすると、医師の往診は受診を拒否する患
健福祉に関する基本的な相談を行うとされてい
者に対する初回訪問の時あるいは臨機応変に行わ
る。これらの相談や指導は、保健所等へ来所を受
れ、医療、保健、福祉への導入や維持の役割が期
けて、あるいは自宅等を訪問して、あるいは電話
待されている点である。したがって、往診と精神
で行われる。上述のように、行政機関における精
科訪問看護がともに協力して、地域精神保健福祉
神保健福祉相談指導体制は保健所と市町村の二重
の向上に寄与することができる。
構造となっている。
次に、訪問指導について述べる7)。
最近、栗原5)は精神保健福祉業務における保健
精神保健福祉法第46条は地域精神保健福祉施策
所と市町村の業務分担について、住民サービスの
の一環として、都道府県および市町村に、精神障
視点から検討し、行政機関における相談援助体制
害についての正しい知識の普及に努めるよう定め
の二層化問題を見直し、一元化したモデルを提案
た規定である。精神保健法第47条は精神障害者に
している。
係る相談指導等に関する規定である。なお保健所
今回、報告した事例においては保健所の関与し
および市町村における業務については、
「保健所
た相談指導事例は少なく、市町村の関与した事例
及び市町村における精神保健福祉業務について」
が圧倒的な多数を占めていた。実務者レベルで行
(平成1
2年3月31日障第251号
厚生省大臣官房
われる実践は栗原が指摘のように相談援助指導体
障害保健福祉部長通知)により定められている。
制の二重化あるいは矛盾点として反映されてお
そこに、保健所における業務の実施項目が記載さ
り、それらの改善は今後の課題である。
れており、それは企画調整、普及啓発、研修、組
Ä おわりに
織育成、相談、訪問指導、社会復帰及び自立と社
会参加への支援、入院及び通院医療関係事務、
私たちは、地域で生活を送っている精神障害者
ケース記録の整理及び秘密の保持等、市町村への
に対して往診や訪問が行なわれた6症例を取り上
協力及び連携の10項目である。同時に、市町村に
げて、性別、年齢、職業、病名(ICD―10)、発病
おける業務の実施項目も記載されており、それは
年齢、罹病期間、外来通院歴、入院歴、転帰、往
企画調整、普及啓発、相談指導、社会復帰及び自
診時様態、家族の協力などについて分析を行っ
立と社会参加への支援、入院及び通院医療費関係
た。私たちは、地域精神保健福祉における往診や
事務、ケース記録の整理及び秘密の保持、その他
訪問活動について検討を加え、考察を行った。
の7項目である。ここでは、本論と関連する保健
所の相談および訪問指導、市町村の相談指導を取
り上げて記述する。保健所の相談は面接相談ある
注
注1)コンプライアンスとは、服薬遵守
drug compli-
ance のことを呼び、医師の指示通りに服薬する時
いは電話相談の形で行い、相談の内容は心の健康
に、服薬コンプライアンスがよい、と評価する。
相談から、診療を受けるに当たっての相談、社会
最近では、この言葉に代わり、アドヒアランス ad-
復帰相談、アルコール、思春期、青年期、認知症
herence と呼ぶことがあり、患者が服薬意義を理
等の相談など保健、医療、福祉の広範にわたって
解し主体的に服薬し、医療関係者はそれを維持し
いる。訪問指導は、本人の状況、家庭環境、社会
ていくための手助けと援助をしていくという意味
環境等の実情を把握し、これらに適応した相談指
が含まれている。
導を行う。また、訪問指導は、医療の継続又は受
注2)残遺状態とは、統合失調症の急性期症状が消退
―1
3―
1
5
2
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
し、感情の平板化(感情鈍麻)
、思考のまとまりの
悪さ(連合弛緩)
、活動性の鈍さ(意欲低下)
、快
感消失・非社交性などの陰性症状が持続する状態
9.西丸四方編『臨床精神医学辞典』南山堂、東京、
1
9
7
4年
1
0.西尾雅明『ACT 入門
をいう。
−精神障害者のための包括
型 地 域 生 活 支 援 プ ロ グ ラ ム−』金 剛 出 版、東 京、
注3)遅発性統合失調症(late onset schizophrenia)は、
臨床的には統合失調症と区別できないが、4
5歳以
2
0
0
4年
1
1.酒井明夫「精神科救急」精神医学講座担当者会議
後に発症する。この状態は、女性により多く、ま
監修『専門医をめざす人の精神医学
た、妄想症状が優位であるという特徴をもつ。予
書院、東京、2
0
0
4年、5
1
5
‐
5
2
3頁
後は良好で、患者は通常、抗精神病薬によく反応
第2版』医学
1
2.坂田三充「訪問看護」浅井昌弘編『精神科リハビ
する。
リテーション・地域精神医療』臨床精神医学講座
2
0巻、中山書店、東京、1
9
9
9年、1
3
9
‐
1
5
0頁
文献
1
3.高木俊介「精神障害者の「ひきこもり」に対する
包括的地域生活支援」精神神経誌 1
0
9
(2)
、2
0
0
7年、
1.有 馬 千 代 子「高 齢 者 の 看 護・介 護 の 基 本−よ い
サービスを提供する−」日本精神衛生会編『高齢者
の心身ケ ア』精 神 保 健 シ リ ー ズ9、日 本 精 神 衛 生
1
3
6
‐
1
3
9頁
1
4.外口玉子:人と場をつなぐケア.−こころ病みつ
つ生きることへ−.医学書院、東京、1
9
8
8
会、東京、1
9
9
6年、1
1
7
‐
1
3
7頁
2.藤本百代「精神科訪問看護」精神医学講座担当者
会議監修『専門医をめざす人の精神医学
1
5.上平忠一、小 林 充 枝「地 域 精 神 保 健 福 祉 ネ ッ ト
ワークの形成に関する研究−感応精神病(フォリ・
第2版』
ア・ドゥ)への支援−」長野大学紀要 2
3
(3)
、2
0
0
1
医学書院、東京、2
0
0
4年、6
6
9
‐
6
7
1頁
年、3
0
3
‐
3
1
2頁
3.一瀬邦弘、土井永史、中村満ほか『総合病院精神
科の急性期医療
−ソフト救急と地域医療連携を中
1
6.上平忠一「アルファー昏睡を呈した急性薬物中毒
の1症例」臨床脳波 3
8
(1
0)
、1
9
9
6年、7
2
5
‐
7
2
9頁
心に−』精神経誌 9
9
(1
1)
,1
9
9
7年、8
4
7
‐
8
8
0頁
4.伊藤順一郎「「ひきこもり」に必要な支援は何か」
1
7.上平忠一「地域精神保健福祉における民生委員の
役割について−統合失調症者の精神科リハビリテー
精神経誌 1
0
9
(2)
,2
0
0
7年、1
3
0
‐
1
3
5頁
ション・生活支援をめぐって−」長野大学紀要 2
6
5.栗原浩之「住民サービスを重視した相談援助体制
(4)
、2
0
0
5年、3
6
1
‐
3
7
1頁
の検討」長野大学紀要 2
9
(1)
,2
0
0
7年、1
1
‐
1
7頁
6.日本精神保健福祉士協会編『障害者自立支援法−
1
8.上平忠一、端田篤人「職場のメンタルヘルスと精
地域生活支援の今後と精神保健福祉士の実践課題
神障害者の就労支援−精神障害者の院外作業を通じ
−』へるす出版、東京、2
0
0
6年
て−」長野大学紀要 2
9
(2)
、2
0
0
7年、1
0
3
‐
1
1
6頁
7.大島巌「生活支援プログラム」佐藤光源、井上新
1
9.渡辺博、三上昭広「訪問・往診−受診拒否患者の
平編『統合失調症治療ガイドライン』医学書院、東
治 療 へ の 導 入−」日 精 協 雑 誌6(3)
、1
9
8
7年、1
6
6
‐
京、2
0
0
4年、2
5
2
‐
2
6
0頁
1
7
1頁
8.尾鷲登志美「向精神薬処方における心理的側面・
2
2
0.渡辺博『アマリリスは咲いても−精神科医その生
と死−』NOVA 出版、東京、1
9
9
1年
−コンプライアンスからアドヒアランスへ向け
て−」上島国利編著『現場で役立つ精神科薬物療法
2
1.矢嶋嶺『武石村往診日記』KK ベストセラーズ、東
京、1
9
9
5年
入門』金剛出版、東京、2
0
0
5年、4
6
‐
5
6頁
―1
4―
長野大学紀要
第3
0巻第3号 1
5―2
4頁(1
5
3―1
6
2頁)2
0
0
8
韓国における住居と台所の原初的概念
―朝鮮時代以前の住居と台所の変遷を通して
Fundamental Concepts of Dwelling and Kitchen in Korea
―Transformation
of dwelling and kitchen space before Chosun period
禹
在
勇*
Woo Jae-Yong
田
中
法
博**
TANAKA Norihiro
継承されてきた人びとの暮らしの伝統は、現実の
1.研究の背景
価値観と未来の発展のために活かすべき、民族の
1950年代を一つの境として、外来文明が生活の
経験の蓄積にほかならない。
なかに大幅に導入され浸透していった韓国にあっ
本研究は、このような意識を念頭に据え、韓国
ては、生活と生活空間の成り立ちに大きな変化が
における伝統的な住居と台所空間の原型、ならび
訪れた。その時代は、
「伝統的な生活様式との決
に、その原初的概念について、考察したものであ
別の時代」という表現が最もふさわしい時代で
る。
あったといっても、決して過言ではない。そのよ
なお、本稿では、朝鮮時代以前(図1)の韓国
うな現象は、人びとの住居と台所空間のありかた
における住居と台所空間の実態を、主としてこれ
のなかに、典型的に表われた。今日の韓国におけ
までに発見された遺物と文献に準拠しながらみて
る住居と台所空間は、1950年代に、それ以前とは
いくことにしたい。ここで、朝鮮時代以前までを
まったく異なるかたちで形成されたといってよ
対象とするのは、韓国の住居と台所空間の原初的
い。
形態と概念が、そこにこそ、存在していると考え
そして、今日、外来文明が生活の隅々にまで浸
透していくなかで、多くの国がそうであるよう
に、韓国にあっても、韓国の原初的で本来的な形
るからである。
2.原始・上古時代における住居と台所
態、韓国のアイデンティティが見失われかかって
韓国における先史時代の住居は、主に竪穴住居
いる。「古きものは悪しきもの」という極めて単
である。住居地の平面は、初期にあっては円形、
純で平板なものの見方に支配されて、今日の韓国
楕円形、方形など多様であるが、後期になるにつ
にあっては、急速に文化の伝統が失われつつあ
れてほぼ長方形に定型化されていく。また、住居
る。
地の平面も、大きくなっていく。床は、たいが
われわれは、往々にして、過ぎ去った歴史の価
い、土を固めて、堅くしたものであった。わずか
値を見落としがちである。しかし、いずれの国で
に伝えられるこのような遺跡の状況から、当時の
あれ、人びとの生活におけるアイデンティティ
住居と台所空間の様相を推測することができ、先
は、人びとの生活の伝統のなかにこそみられる。
史人たちの住居と台所空間に関する概念の一端を
いかなる時代にあっても、歴史のなかで築かれ、
うかがいしることができる1)。
*企業情報学部准教授
**企業情報学部教授
―1
5―
1
5
4
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
図2
図1
図3
新石器時代の住居
(弓山里第四号住居址)
(出 典:
『韓 国 の 民 家』
、古 今 書
院、p.
1
0
6、1
9
8
9)
時代年表(上段:韓国、下段:日本)
1
1
5、1
9
8
9)
青銅器時代の住居(坡州郡玉石里住居址・出典:『韓国の民家』、古今書院、p.
具体的に、遺跡を観察してみよう。この時代の
る。この時代、農業の発達がみられ、人びとは、
人びとの生活の様子をうかがうことができるもの
それまでの移動的で非定住的な生活から脱し、一
に、紀元前5,
000年ごろの新石器時代の遺跡とい
定の場所に定着するようになる。当然、住居形態
われる、平安南道 弓 山 里(図2)が あ る。そ れ
にも変化が現われるようになる3)。すなわち、そ
は、垂直に土を掘り、その上に屋根を被せた竪穴
れまで主流であった正方形に近い円形の平面形状
住居である。この遺跡の平面は、幅が5.
5∼6m
をもつ住居が徐々に姿を消し、農耕生活が定着す
ぐらいの円形または正方形に近い形状をしてい
るとともに、長方形の平面形状の住居に変化し
る。図面上からおよそ100cm ほど掘り下げられた
(図3)、その内部空間の面積が大きくなる。ま
ほぼ平坦な窪地の中央部には、一辺が6
0cm 程度
た、中央部に設けられていた爐が、居住平面の一
の爐(Hwaduck)の跡がみられる。住居の中央部
角に移る。そして、なかには、二つの爐をもつ住
に位置していたこの爐は、暖房や照明のみなら
居も出現するようになる。
ず、炊事の た め に 使 用 さ れ て い た と 考 え ら れ
この二つの変化、つまり、爐の居住平面の中央
る2)。このような爐の役割は、形態こそ異なるも
部から一角への移動、ならびに、二つの爐の出現
のの、その後定着していく台所空間とオンドル
という現象は、住居空間の内部が、なんらかの生
(温突)
(Ondol)構造との関係が一体化してい
活機能によって、区分・分割されるようになった
く。それゆえ、オンドルに象徴される韓国固有の
ことをうかがわせる。すなわち、二つの爐のう
生活パターンの一つである爐は、この先史時代か
ち、炊事のために使用された爐の周辺空間は、い
ら継承されてきたものと思われる。
わば、台所空間として、他の空間と分離されたと
上の平安南道弓山里は今日までに確認されてい
いえる。台所空間に付帯する施設の一つとして食
る最古の遺跡の一つであるが、その数世紀後に
糧や水などを収納・貯蔵する施設があるが、先史
は、住居と台所空間に変化が生じている。すなわ
時代の住居遺跡から は、貯 蔵 孔(Jeojanggong)
ち、紀元前1,
000年ごろ、韓国は青銅器時代に入
が発見されている。その貯蔵孔は、二つの爐のう
―1
6―
禹
在勇・田中法博
韓国における住居と台所の原初的概念
1
5
5
態的発達過程を系統的に類型化したこれまでの研
究5)に照らしてみても、首肯される。しかし、先
史時代の住居にあっては、住居の基本機能である
「食」と「寝」との分化が原初的にみられるとは
いうものの、それら二つの機能の完全なる分化ま
でには展開されていない。これら二つの機能が空
間として完全に独立・分化していくのには、次の
時代の到来を待たなければならなかった。
3.三国時代における住居と台所
三国時代に先行する時代は、元三国時代と呼ば
れる。この時代の住居に関してはその詳細が不明
だが、次の二点がほぼ明らかになっている。一つ
は、人びとの寝起きする居住平面が、漸次、グラ
ンドレベルより上部にあがっていく傾向がみられ
図4
るという点である。もう一つは、甕(Dok)、倉
地上住居(出典:『麻線溝』第一号古墳壁画)
庫(Changgo)、宮 室(Gungsil)、牛 屋(Magu)、
ちのいずれかの近くに位置し、大きな素焼き土器
厠 間(Duisgan)な ど の 名 称 が 使 わ れ る よ う に
の底部を切り取り、底面を上向きにして孔のなか
なったという点である。このような現象は、住居
に埋められている。
空間が複数の独立した空間の複合によって形成さ
今日までに発掘されたこの先史時代の住居祉の
れ始めたこと、換言すれば、空間の分離が生活機
位置からすると、住居を構える場所の選定に当
能と対応して進行したことをうかがわせる。三国
たって人びとが最も大切な要因として考えたの
時代になると、このことがより一層鮮明になる。
は、食生活である4)。食物が手近に確保でき、水
ところで、韓国における歴史時代とは、学者に
の供給が近くから可能な地に、たいていの住居が
よって若干の相違がみられるものの、一般的に
構えられた。人類の住居の本質が「食」と「寝」
は、三国時代以降のことである。とりわけ、考古
にあることを考えると、このような住居の位置選
学や美術史の分野にあっては、三国時代以後が歴
定基準も至極当然なことといえるであろう。それ
史時代とされている。しかし、歴史時代に入った
ゆえ、この時代の住居は、その内部にあって、
とはいえ、三国時代における住居に関する資料
「食」と「寝」の機能が基本的に可能なかたちに
は、文献資料、高句麗壁画、そして、古墳にみら
構成された。しかも、初期にあっては、
「食」と
れる壁画などである6)。
「寝」とが未分化のままにいわば一体化してい
周知のように、三国時代に入ると、漢字が使用
た。一つの爐だけが築かれていたことは、よくこ
されるようになり、また、中国大陸から伝えられ
のことを示している。このような状態に対し、こ
た仏教が民間にも浸透していく。とりわけ仏教の
の時代の後期の住居平面に二つの爐の跡がみられ
伝来と普及は、発達した文化が中国大陸から多面
るようになるのは、
「食」と「寝」との間に、原
的に流入する契機となり、それまでの先史時代に
初的とはいえ、空間的分離が生じたことを示唆し
おける文明の段階を越え、高度に成熟した文化圏
ている。すなわち、貯蔵孔が隣接する一方の爐は
を形成する要因になった。住居の構造と機能に関
炊事・調理を中心とする「食」の空間として、ま
しても、先進的な技術が導入されて、朝鮮時代の
た、他方の爐はそれを囲むようにして人びとが休
住居のそれとたいして変わらない状況を実現する
息する「寝」の空間として、それぞれ機能したの
ようになっている。当然、台所空間においても、
である。
著しい変容が現われる7)。
このような考察は、韓国における住居建築の形
―1
7―
この時代の住居と台所空間の様相を、具体的に
1
5
6
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
図5
住居内部空間の用途別(出典:安岳三号古墳壁画)
図6
住居内部空間の用途別(出典:安岳三号古墳壁画)
図7
竃と煙突(出典:『薬水里』古墳壁画)
図8
図9
肉庫(出典:安岳三号古墳壁画)
土製風爐(出典:慶州『雁鴨
池』出土)
みていくことにしよう。
また、高句麗の古墳壁画には、三国時代後期の
上述の先史時代に比べ、三国時代の住居形態は
8)
住居がより詳細に描かれている11)。安岳第三号古
大きく変化している。すなわち、中国の歴史書
墳壁画(図5)がそれである。この壁画による
にも記されているように、三国時代初期にあって
と、台所や倉庫、厩など、住居の内部空間の用途
は竪穴住居が残存しているものの、後期になる
が多様になっている。また、一つの住居がそれぞ
9)
と、地上住居の形態に発展していった 。竪穴住
れに独立した複数の建物からなっている。そし
居は人類史の初期におよそ共通してみられるもの
て、オンドルの使用がみられ、炊事・調理の空間
で、その機能と形態は、概して、いずれの地域、
が完全に独立している。
いずれの民族にあっても類似している。これに対
いうまでもなく、オンドルは韓国の住居の特徴
し、民族と集団ごとに固有の住居形態が形成され
の一つで、その熱源は、台所空間で炊事のために
るようになったのは、地上住居が発展してからの
燃やす焚き火である。民家にあって炊事と暖房を
10)
ことである 。すなわち、三国時代は、韓国に固
オンドルというかたちで同一化させたのはこの時
有な住居と台所空間の基本形態が形成された時代
代のことであり、また、民家の台所空間が現在の
であるといえる。
形態とほとんど変わらない状態にまで完成され始
三国時代の地上住居の様相は、麻線溝の古墳壁
画(図4)に鮮明に描かれている。
めたのもこの時代のことである。安岳第三号古墳
壁画からは、民家の側面に立っている煙突が台所
―1
8―
禹
在勇・田中法博
韓国における住居と台所の原初的概念
1
5
7
内部の竃と繋がっている様子(図6)がよくうか
ろうとの学説が主流である。ただし、相対的に暖
がえる。
かな気候に恵まれる新羅にあっては、高句麗や百
一方、薬水里の古墳壁画(図7)にも、竃の煙
済にはみられない遺物として、いわば移動可能な
と熱を導く長い煙突状のものが鮮明に描かれてい
竃が発掘されている。慶州雁鴨池遺跡から出土し
る。薪の火が燃える竃には釜が据えられ、調理が
た土製の風爐(プンロ)
(図9)がそれである。
行なわれている。竃の熱源の活用をうかがわせる
おそらく、この地域にあっては、真冬を除き、風
貴重な絵画史料である。
爐(プンロ)を台所空間の外に設置し、炊飯をし
また、先の安岳第三号古墳壁画には、豚や鹿と
ていたものと推定される。このように、三国時代
思われる動物が丸ごと S 字形をした鈎に吊り下
に、住居と台所空間、ならびに、食生活構造が朝
げられている光景が描かれている(図8)。これ
鮮時代とたいして変わらないかたちにまで進化さ
は、食糧貯蔵の一形態と思われる。今日でも、韓
れていた。この時代、住居や台所空間の朝鮮時代
国に現存する地方の上流民家では、
「屠場房」と
に繋がる原形が形成されたばかりではない。食品
呼ばれる貯蔵庫があり、この安岳第三号古墳壁画
の加工や調理に必要なさまざまの調理用器具の発
に描かれているのとまったく同様の方法で、鉄製
展もみられる。とりわけこの時代の上流階級の住
の鈎に大きな魚などが吊り下げられているのがみ
居と台所空間は、朝鮮時代とほぼ同等の構造をな
られる。こうして、食糧貯蔵という点において
し、豊かな食生活文化を実現させる多様な台所器
も、朝鮮時代の原形がこの三国時代につくられて
具を整えていた。かくして、韓国固有の伝統的台
いる。なお、この時代の社会の様相を綴った『三
所空間の母胎はこの三国時代にあるといえる。
国史記』には、この時代に醤油、味噌などの製造
が行なわれ、貯蔵食品の加工に用いられていたこ
4.高麗時代とそれ以降における住居と台所
とが記されている12)。
中国の『高麗図経』に高麗時代の台所器具の若
百済の風俗については、『新唐書』東の伝百済
干の記録がみられるものの、高麗時代の遺跡なら
条に「俗与高句麗同(習俗については、高句麗と
びに現存建物が皆無のため、およそ、この時代の
同様)」と記されているだけで、それ以外にはほ
住居と台所空間の様相を詳しく考察することは不
とんど記録が存在しない。しかし、百済に仏教文
可能である。しかしながら、高麗時代の住居と台
化が伝えられてから以降は、上の高句麗とほぼ同
所空間は、およそ、貴族階級のそれが中国の影響
様の住居と台所空間の形態になっていたと推測さ
を強く受けているものの、庶民階級にあっては、
れている。
三国時代からそれに続く統一新羅時代にかけて形
新羅の住居の様相に関しては、
『三国史記』の
「屋舎」条13)にみられる。そこには、新羅におけ
成された上述の形態とほとんど変わっていないと
の推察がなされている14)。
る社会的階級ごとの住居の規模、様式、用材の制
この時代に関するわずかな記録のなかでも、オ
限などが記され、家屋形態の多様化が進展したこ
ンドルについて『高麗図経』に「平凡な一般的事
とをうかがわせる。また、『三国史記』新羅本紀、
15)
と記述されているのは、注目に値する。そ
実」
「憲康王」条には、
「民間の家屋は草屋根ではな
の記述は、三国時代に生まれたオンドル構造が高
く瓦屋根であり、ご飯を炊くのに、木を燃やした
麗時代には広く普及し、庶民の住居のなかにも定
のではなく、炭が使用されている」との記述がみ
着していたことを示唆している。オンドルが普及
られる。この記録からも、高句麗と同様に、新羅
・定着していくにつれ、台所空間の内部には、炊
にあっても、朝鮮時代の住居と台所空間の形態に
飯と暖房の機能を一体化する竃の構造が定型化さ
近似した状況が創出されていたことがうかがえ
れた。また、それは、上流階級から庶民階級に至
る。
るまでのおよそすべての住居のなかに定着した。
総じて、高句麗に比べて資料の少ない新羅と百
そして、その流れは、次の朝鮮時代に、地域の個
済の住居ならびに台所空間に関しても、その構造
性とも連動したかたちで、韓国における住居と台
や空間配置の様相は高句麗の場合とほぼ同様であ
所空間の典型として定着された。
―1
9―
1
5
8
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
図1
0 折衷型住居
朝鮮時代は、住居と台所空間が、韓国固有の特
徴を有する形態に定着した時代である。その特徴
層は、自らの社会的身分の高さを、閉鎖式の建築
様式によって表現した。
は、概略、次の二点にまとめられる。第一点は、
この二点に加え、朝鮮時代には、下記のよう
多様な性格と機能を備えた空間構成が定着したこ
に、それぞれの地域環境に適応したかたちで、住
とである。また、第二点は、住居空間の意味的構
居と台所空間の発展ならびに定 型 化 が み ら れ
造化がなされたことである。
る18)。
まず、第一点については、次のようである。庶
[集中型住居]韓国の北部は、気候的には南部
民階級の一般的な住居の内部空間は、
「ケンナバ
に比べて寒い冬期間が長く、地形的には平野より
ン」「ウ ッ パ ン」
「マ ル バ ン」「台 所」
「サ ラ ン バ
も山地が多い。このような風土に対応するかたち
ン」で構成された。中流階級以上の住居にあって
で、可能な限りすべての生活が住居内部において
は、これらの他に、「ヘンランバン」「チェンジギ
行なえるように、一つの建物のなかに住居空間を
バン」「チャンバン」などと各種の「カン」が付
納めてしまう「集中型住居」が形成された(図
帯する。また、これらの階級にあっては、母屋の
10)。
建物とは完全に分離された別堂と舎堂を有する住
[分散型住居]南部地方は、山地より平野が多
居も出現した16)。いずれにしろ、社会的階層を問
く、夏が長くて暑い。そのため、通風性のよい住
わず、人びとの住居は多様な性格と機能を備えた
居構造が採用される。このような地域に、広い庭
空間のいわば集合として構成された。
を中央に設け、それを囲むかたちで数棟の建物が
また、第二点は、風水の概念や儒教思想が重要
分散して配される住居形式が定着した(図1
0)。
視され、住居空間の構成に反映されたという特徴
また、この「分散型住居」にあっては、通風がよ
である。すなわち、良家の三要素とされる「アン
いように、一列構造をなす「ホッジプ」が発達し
バン」「台所」「大門」を設けるその方向性に関し
た。
て、禁忌と制約が定着した。また、住居の平面形
[折衷型住居]北部の「集中型住居」と南部に
態 に あ っ て は、
「壊 す」と い う 意 味 に 通 ず る
おける「分散型住居」などが接する地帯に、
「折
「工」の字形、あるいは、死体を意味する「禮」
衷型住居」
(図10)が生まれた。その形態的特徴
の字形などが、禁忌とされた17)。また、儒教思想
としては、保温性の重視、ならびに、通風と採光
が住居や台所空間の形式に影響を及ぼし、上流階
の重視がみられる19)。
―2
0―
禹
在勇・田中法博
韓国における住居と台所の原初的概念
15
9
図1
1 韓国における住居と台所空間の発展過程
この朝鮮時代の住居は、いずれの地域にあって
内部にあっては在来の「オンドルバン」と椅子式
も、機能と動線に対しての考慮があまりなされて
の「マルバン」が共存するかたちとなった。同時
ない。それは、この時代には、家父長の絶対的権
に、寝室が普及し、台所空間の改良も進められ
力のもとでの家族制度がとられていたため、住居
た。そして、1980年以後に増築・改築された住宅
にあっても、機能的・合理的な平面構成より、権
にあっては、在来の構造がほとんどみられないほ
威を表わす構成が最も求められたからである。
どに、徹底した西欧化がなされるようになった。
以上にみてきた韓国における住居と台所空間の
近代社会は、このように、西欧の社会をモデルと
発展過程を図にまとめると、図11のように要約さ
してその歴史を刻み始めたため、西欧社会の生活
れる。
様式がほとんど無批判のままに受容されるように
20)
ところで、1876年のカンファ調約 を契機とし
なった。歴史と風土の異なる西欧社会の生活様式
て、韓国にあっては、諸外国の物質文化や精神文
の受容が韓国の人びとの生活と価値観にどのよう
化が自然のうちに流入するようになった。当然、
な変化をもたらしていくかはほとんど検討されず
住居にあっても外来の新様式の摂取が始められた
に、先進国の生活様式という理由だけから、それ
が、全体的には、それまでとたいして変わっては
らがほぼ無条件に受容されたのである。このいわ
いない。韓日合弁21)以後も、日本住居の影響を受
ゆる近代化過程のなかで、それまで伝承されてき
けてはいたものの、本質的には、あまり変化して
た韓国に固有の文化は「古くて捨て去るべきも
いない。せいぜい、洋灰やガラスなどの、新しい
の」として扱われ、いつのまにか、文化の伝統的
22)
建築用材が使われるようになった程度である 。
しかし、1945年以後、とりわけ1950年の韓国戦
争23)以後、韓国の生活様式は急激に変化し始め
た。例えば、椅子式生活様式が在来の座式生活の
脈絡と価値が失われてしまったのである。
5.韓国における住居と台所の概念
5.
1. 住居の概念
以上、韓国における住居と台所空間の歴史的変
なかに浸透し、椅子式と座式の二つの様式が同一
の住居のなかで併用される傾向が現われた。ま
容過程について、概観してきた。
た、住宅の外観が洋式または準洋式となり、その
―2
1―
時代とともに生活様式と社会が変化し、それに
1
6
0
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
つれて、人びとの住居と台所空間の様相が変化し
らない25)。
ていくことは、およそ、不可避なことである。し
人間は、そのような意味における生活の場とし
かしながら、変化は「発展」である場合もある
て「家」「住居」をつくり、それを質的、量的に
が、ときとして、決して「発展」とはいえない場
改善するための工夫を重ね続けてきた。しかし、
合もあることに、私たちは注意を払うべきであろ
その工夫の表現と発展は、その国の自然的、人文
う。そして、民族が築き、継承してきた生活様式
的条件によって異なっている。つまり、民族と社
と文化、総じて民族の伝統的生活文化を保存、伝
会集団によって、
「家」「住居」の形式と発展形
承、発展させることの大切さを、私たちはあらた
態、その底流に流れる価値観は異なっている。
めて自覚すべきであろう。
「家」「住居」の特質は当該の自然環境、生活様
果たして、韓国にあって、
「住居」とは、そも
式、社会制度の三つの側面から把握することがで
きるといわれるのは、このためである26)。
そもどんな意味をもつものなのであろう。
「住居」と同じ意味をもつものとして、
「家」
また、人類学によると、
「文化」とは、言語、
の字がよく使われる。この「家」の字は、屋根を
慣習、制度のように、社会の構成員によって共有
意味する「宀」と豚を意味する「豕」で構成され
され、学習される「知識の体系」である。この観
ている。それゆえ、「家」には、「屋根の下の豚」
点からすると、「家」「住居」は、一つの「文化」
というイメージがうかがえる。一説によると、こ
をなしている。すなわち、
「家」「住居」は、「文
の漢字は、古代の中国人が豚肉が好きだったこと
化の産物」であり、「伝統」である。そして、「過
からつくられたといわれる。つまり、この「家」
去から現在に至るまでに蓄積された行為の体系」
という漢字は、決して、「豚の家」そのものから
を「伝統」とみなすことができるとすれば、生活
由来したのではない。中国と日本にあっては、
文化における自己認識こそが、すなわち、「伝
「家」という漢字によって、あくまでも、
「住ま
統」の体得にほかならない27)。
さらに、「家」「住居」は、集団が周囲の環境に
いとしての建物」ならびに「家族」という概念が
適応しながらその生存を確かなものにしていくた
表現されている。
一 方、韓 国 に お け る「家」は、中 国 の「家
め に つ く ら れ た す ぐ れ て 人 工 的 な も の(arti-
(JIA)」や日本における「家(IE)」と同じく、
facts、man-made objects)に ほ か な ら な い。そ の
「建物」「家族構成員」「生活居住地」
「家族共同
ゆえにこそ、「家」「住居」は自然環境に影響をも
生活」などの意味をもっているが、それ以外に
たらすと同時に、日常生活の舞台として、人びと
も、「家族」の範囲を越え、「同族」「親戚」まで
の生活様式にもさまざまな影響を及ぼす28)。
をも含む実に幅広い意味を内包している24)。すな
このような「家」
「住居」の有する本質的概念
わち、韓国にあって、
「家」は、「家族」「同族」
や特質を考えると、韓国における近代の住居と台
「親戚」そのものとほぼ同義である。これまで多
所空間のいわば無批判的な西欧化の潮流は、今日
くの人類学者たちが「同居同財の生活共同体」と
の時点で、しっかりと再検討されねばならない。
呼んできたとまったく同じ意味において、韓国に
おける「家」の概念は「家族」「同族」「親戚」そ
5.
2. 台所の概念
いうまでもなく、食生活は、人類の発祥ととも
のものなのである。
人間は、社会を形成し、社会活動を行なうなか
に始まった基本的生活の一つである。そして、民
で、集団的な生活様式(way of life)を獲得する。
族の食生活は、その民族の自然的環境や歴史、文
このような生活様式から抽出される一つの概念と
化に影響されながら、それぞれに独特な飲食物と
して「文化」という語を当てることができるとす
飲食様式をつくりあげ、それが歴史を通して継承
るなら、「家」「住居」は、
「文化」の具体的表現
され、やがて、当該の民族に固有な伝統として形
そのものである。また、
「家」「住居」は、「同居
成され、定着される。食物を加工・調理する場と
同財の生活共同体」としての「家族」「同族」「親
しての台所空間は、このような食生活と密接に関
戚」の基本的行為が展開される生活空間にほかな
連した空間にほかならない。
―2
2―
禹
在勇・田中法博
韓国における住居と台所の原初的概念
1
6
1
ところで、人類最初の住居としての竪穴住居に
ここにおいても、われわれは、西欧文明の台所
あっては、すでにみたように、「食」と「寝」と
空間への無批判的な導入について熟考せねばなら
いう二つの基本機能が同一の空間内で行なわれて
ない。
いた。それゆえ、新石器時代の竪穴住居内に築か
れていた「爐」は、いわば、
「食」に対応する炊
6.おわりに
事機能と「寝」に対応する暖房機能の二つを果た
本稿の目的は、冒頭にも記したように、韓国に
していた。韓国の台所空間の特徴をなすオンドル
おける住居と台所空間の原初的形態とその特質を
構造の原型が、すでに、この竪穴住居のなかにみ
探ることにある。具体的には、それぞれの時代に
29)
られるといって過言ではない 。
おける住居と台所空間の様相を観察しながら、そ
現在、韓国語では、台所空間は「プオク」と呼
の変遷を辿りつつ、そこに一貫して流れているい
ばれる。しかし、崔世珍が朝鮮中宗時代(1522
わば民族の本質性と固有性を抽出することにあ
年)に書いた『訓夢字会』によると、「厨」の漢
る。
字に「ビオク」とその読みが記されているから、
およそ、住居と台所空間の歴史的発展過程は、
もともと台所は「ビオク」であり、
「プオク」は
人間が火を使い、食物加工と調理を行なう所作そ
あくまでも現代的な表記である。また、地方に
のものと、住空間を地域特性に適合したかたちで
よっては台所空間のことが「ジォンジ(カン)
」
より快適に形成していくための工夫そのものにほ
あるいは「ジォンズ(カン)
」と呼ばれ、漢字で
かならない。ただし、上に記したように、韓国に
は「鼎只」「鼎厨」「鼎亀」などと表記されている
あっては、「火を使って調理・炊飯すること」と
ことからすると、韓国における台所空間は、竃
「より快適な住空間を形成すること」とが、すぐ
(ブツマク)と釜が設えられた炊事のための空間
れ て、一 体 化・連 動 化 し て い た。先 史 時 代 の
を意味している。
「爐」と歴史時代以降の「オンドル」とがその物
また、韓国においては、台所空間は、
「女性の
理的構造においては明らかに異なっているもの
空間」のいわば代名詞であったり、混乱期にあっ
の、その意味的構造の点ではまったく異なってい
ては「あこがれの空間」の代名詞であったりもし
ないところに、韓国における住居と台所空間との
た。こうして、台所空間は、韓国の歴史的変遷と
一体化・連動化という特性がすぐれて象徴されて
ともに、その空間的意味も変化し続けてきた。
いる。そのことは、住居が一棟であるにしろ、複
いずれにしろ、住居をわれわれの身体にたとえ
数の別棟の複合によって構成されているにしろ、
るなら、台所空間は、その身体全体に栄養分を提
意味的構造においてはまったく異なっていない。
供する、いわば心臓の機能を果たしている。そし
ここにこそ、韓国における住居と台所空間の成り
て、それぞれの地域で産出される食糧資源は心臓
立ちの、本質性と固有性とがある。
としての台所空間において加工・調理され、そし
いうまでもなく、デザインは、人びとの生活に
て身体全体に提供され、悠久の歴史のなかで、
対するさまざまな要求・願いを現実化していくた
「食」生活のみならず、「住」生活全般の慣習を
めの、社会的、実践的な行為である。しかし、そ
築きあげてきた。いわば、心臓としての台所空間
の要求・願いは、いずれの民族にあっても、その
を基点として形成された「食」の慣習は、民族の
民族が歩んできた歴史的文脈、すなわち、民族が
生活文化全般の本質性、固有性を規定する大きな
築き、継承してきた生活文化とその機構の文脈の
30)
要因となってきたのである 。
なかに、しっかりと位置づけられていなければな
このように考えると、韓国における台所空間の
らない。
本質性と固有性は、そこが竃と釜が設えられた炊
事空間であり、しかも、それのみで完結するので
注
はなく、オンドル構造によって住居空間の全般に
1)尹貞玉:韓国伝統的厨房空間に関する研究、高麗
大学校大学院(修士学位論文)
、9、1
9
8
1
連動しているところにあることの意義を、あらた
めて再評価する必要があるであろう。
2)姜永換:家の社会史、雄振出版社、2
0、1
9
9
2
―2
3―
1
6
2
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
3)姜永換:前掲書、5
4
2
0)江華島条約(1
8
7
6年;高宗1
3年)韓日修好を締結。
4)朴喜顕:国後期旧石器時代の生活と文化、白山学
2
1)韓日合併:1
9
1
0年、韓・日合併条約調印する。朝
鮮総督府が設置される。土地調査事業開始。
報、7
6、1
9
7
5
5)鄭寅国:韓国建築様式論、一志社、1
9
7
4
2
2)高麗大学校民族文化研究所:前掲書、1
8
9
6)高麗大学校民族文化研究所:韓国文化史大系、第
2
3)1
9
5
0年6月2
5日午前4時(韓国時間)
、北緯3
8度線
にて北朝鮮軍の砲撃が開始され、3
0分後には約1
0万
7巻、1
1
8、1
9
7
9
の兵力が3
8度線を突破し、朝鮮戦争が始まる。(1
9
5
0
7)金正基:韓国住居史(韓国文化史大系)、高麗大学
年6月2
5日―1
9
5
3年7月2
7日停戦、事実上終結)
校民族文化研究所、1
4
7
‐
1
4
8、1
9
7
9
8)姜永換:前掲書、5
7
2
4)李 光 奎:韓 国 家 族 に お け る 構 造 分 析、一 志 社、
3
0、1
9
8
1
9)姜永換:前掲書、5
7
1
0)姜永換:前掲書、6
0
2
5)Otto F.Bollnow、李奎浩訳:人間と家(現代哲学の
展望)
、韓国哲学会編、法文社、2
8
‐
3
5、1
9
7
3
1
1)高麗大学校民族文化研究所:前掲書、1
4
8
1
2)三国史記、巻第8、新羅本紀第8、神文王三年編
2
6)姜永換:前掲書、2
0
1
3)高麗大学校民族文化研究所:前掲書、1
6
0
2
7)趙芝薫:韓国文化史序説(探求親書3)
、探求堂、
2
2
3、1
9
6
4
1
4)高麗大学校民族文化研究所:前掲書、1
6
2
1
5)朱南哲:韓国住居建築、一志社、4
5、1
9
8
0
2
8)姜永換:前掲書、2
6
1
6)高麗大学校民族文化研究所:前掲書、1
6
9
2
9)金貞培:韓国民族文化の起源(学術研究叢書2)
、
高麗大学校出版部、1
9
7
3
1
7)姜永換:前掲書、7
9
1
8)姜永換:前掲書、9
0
3
0)黄恵性:韓国の味覚、宮中飲食研究院、6、1
9
7
1
1
9)姜永換:前掲書、9
6
―2
4―
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
5―3
5頁(1
6
3―1
7
3頁)2
0
0
8
中学生が考える過疎地域居住高齢者の生活問題と生活支援
―制度化されない生活支援に着目して―
Junior High School Student’ Views about the Daily Life and
Assistance for the Elderly Living in Under-populated Areas :
Opinions about Informal Care
越
田
明
子*
Akiko Koshida
制度化されない支援の組み合わせ選好について十
¿.はじめに
4)
。
分に検討される必要がある(山口ら2006;2008)
心身の変調をきたしやすい高齢者の生活支援の
また、産業化に伴う都市化や過疎化といった人
あり方は、地域生活の継続に大きな影響を及ぼ
口移動の影響により、高齢化の地域間格差も指摘
す。わが国の高齢者生活支援施策は、1980年代以
されており、都市地域と過疎地域においてそのあ
降、高齢者保健福祉十ヵ年計画(ゴールドプラ
り様は異なる。離島農山村地域においては都市へ
ン)や介護保険制度の開始によって量的に拡充さ
の人口流出の結果、過疎化・高齢化の進行にとも
れてきた。そして、かつては家族や近隣が担って
なう課題が生じている5)。共同体維持が難しい過
きた制度化されない生活支援についても、わが国
疎地域の高齢化は、単身高齢者や高齢夫婦世帯を
の経済や社会構造の変化にともない政策的にも報
増加し、制度化されない支援を担う近隣も高齢で
1)
2)
告書が提出され 、高齢者の生活支援 については
時には支援を必要とすることもあり、地域の変容
幅広く検討されている(古川2004)。
は高齢者の在宅生活そのものに影響を及ぼす。し
一方、高齢者の心身の状態とおかれている生活
たがって、地域の実情をふまえ、高齢者の生活支
環境は、生活を構成している様々な関連要因に
援ニーズのみでなく家族や近隣の意向についても
よって影響を受けやすい。高齢者の生活は様々な
確認していく必要があり、地域生活を継続するた
生活構成要素が相互に関連しあい、固定化されず
めの制度化されない生活支援が家族や近隣から期
3)
常に緩やかに変化し、生活変調 を呈すことが多
待できない場合は、あらたに社会化することも検
い。この不安定で変動しやすい生活変調時の支援
討していかなければならない。
は、固定した生活困難や困窮への制度化された介
À.研究目的と調査対象
護サービス等と比較し、いまだ家族や近隣に期待
周知のとおり、基幹産業が衰退し大学をはじめ
されているが、すべての高齢者が家族や近隣から
柔軟な支援を得ているわけではない(越田2008)。
とする高度専門教育機関が少なく、過疎化・高齢
ゆえに、生活困難状況へと悪化する前、生活過程
化が進行している地域においては、進学や就職
における生活安定時、生活変調時における生活支
を機に転出する若年層が多い。転出者の急増や高
援は、地域の特徴をふまえ、制度化された支援と
齢者の生活支援に関するなんらかのマイナス側
*社会福祉学部准教授
―2
5―
1
6
4
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
面がある場合、家族や近隣による生活支援の縮小
き取り時間は一人あたり40分∼60分とし、了解を
が予測される。したがって、まずはじめに家族や
得た後に記録した。インタビューガイドの主な項
近隣として期待されている若年層の意向を明らか
目は、①現在の心身の状況、②現在の生活につい
にする必要がある。本稿では、高齢者の地域生活
て(食事・移動・関係・社会活動等)
、③現在・
を維持するための制度化されない生活支援に着目
今後の不安、要望、④その他とした。
して、担い手が考える過疎地域居住高齢者の生活
本稿においては、特徴的な以下の4事例をあげ
問題、生活支援について検討することを目的とし
る。得られたデータをコーディングした後、カテ
た。
ゴリーを作成した。
〈
Á.調査対象の背景と調査概要
ゴリー名である。
〉内は著者がつけたカテ
1.調査地域の特徴と調査方法
2)結果
対象とした地域は、2000(平成12)年の国勢調
以下に示す4事例(表1)は、70歳以上である
査では高齢化率32%を、そして2007(平成19)年
ことからも身体になんらかの疾病障害をもちなが
度は35%を超える過疎自治体である。
ら生活しており、心身の変調をきたすことはある
高齢者の生活特徴を把握するため、2007年9月
が一人で自立的な生活を営んでいた。この中でも
に当該地域を訪問した。地域コミュニティーが脆
老人会参加や友人との旅行といった〈屋外での社
弱しやすい過疎地域における、変調をきたしやす
会活動〉
(事例1・事例4)に加えて、友人宅へ
い単身高齢者の生活は、多くの高齢者ニーズを示
訪問(事例2)や自宅に友人達が集まり飲食をと
唆すると思われ、同意を得た単身高齢者を対象に
もにする〈会食〉
(事例4)ことが日常的にあっ
半構造化インタビューを試みた。そして、地域生
た。ときに、心身の変調はあるが生活安定にある
活を維持している典型例として4名の語りを集約
4事例すべてに〈屋内外における同世代との交
し、得られた傾向をふまえ中学生対象の調査票を
流〉が常に行われていた。
作成した。調査項目の検討にあたっては、当該地
域出身者の助言を得た。
しかし、現在の生活問題として、大型スーパー
の出店にともない近隣の商店が徐々に少なくなる
若年層調査として、卒業を控えた中学3年生を
ことから〈徒歩での買物困難〉
(事例1)や、家
対象とした質問紙調査を実施した。中学3年生を
屋の維持にかかる〈手伝いの不在と不安〉
、通院
対象とした理由は、義務教育が終了し、地域の実
や社会参加時にかかる〈公共交通機関(バス)の
情をふまえながら将来の就労・居住地や、それに
減少〉により、タクシー利用時の〈経済的負担〉
伴う家族との同居の可否を考えはじめる年頃であ
があげられ(事例1)
、さらに〈生活変調時の寂
ると同時に、地域においては様々な生活支援の担
しさ〉を語る者は、
〈将来の不安〉に備えて近隣
い手として期待されていること、そして彼らの意
に協力を得て、意図的に障害(認知症)の発生を
見が当該地域の大人たちの実情を反映していると
防ぐ努力、すなわち〈積極的予防活動〉をしてい
も推測されたからである。2008(平成20)年1月
た(事例3)。また、現在介護サービスを利用し
28日に、対象中学校、担当教諭の協力を得て54名
ている場合でも〈将来への不安〉を呈していた
の3年生を対象として調査を実施した。回収率は
(事例2)。もっとも活発に活動している事例4
100%であった。
は、〈身体問題による生活困難〉を予測している
なお、単身高齢者調査においては口頭で、若年
が〈将来子どもとの同居〉の可能性も語っており
層調査においては文書で結果の匿名性や秘密保持
特に不安の声はなかった。そして、現在訪問介護
に関する倫理的配慮について説明し了解を得た。
サービスを利用している事例2以外の事例1、事
例3、事例4において、当該地域における介護
2.単身高齢者の居住生活
サービスをふくむ制度化された生活支援について
1)事例の背景と調査方法
具体的に語るものはいなかった。
単身者を対象とした半構造化インタビューの聞
―2
6―
越田明子
中学生が考える過疎地域居住高齢者の生活問題と生活支援
表1
№ 年齢 性別
心身の状態
食事
16
5
単身高齢者の生活概要
移動
関係・活動
不安・要望・その他
1 7
0代 女
前半
膝痛
(変調あり)
徒歩での 徒歩
老人会役員
買物困難 バス・タク 近隣との付き合い
シー使用
屋外社会活動
近隣商店の変化
屋内外の手伝いの不在と不安
移動不安(手段と経済的負担)
2 8
0代 女
前半
腰膝痛
(変調あり)
訪問介護 徒歩
利用
3 7
0代 女
後半
循環器系疾患 特になし 徒歩
内服中
(変調あり)
近隣との付き合い
友人との付き合い
心身変調時の不安と寂しさ
積極的予防活動(近隣への安否確
認の依頼・電話確認・認知症予防)
4 7
0代 男
後半
循環器系疾患 特になし 自家用車運 老人会・旅行参加
内服中
転
近隣との付き合い
(変調あり)
友人と会食
仕事(自営)
屋内外社会活動
身体問題による生活問題の予測
将来の移動不安
子ども(Uターン)との同居予定
訪問介護員による支援 老後不安
近隣の手伝いあり
冬場の雪かきの心配
3)過疎地域における単身高齢者の居住生活
域の将来について、考える時間や科目は特別に設
4事例の単身高齢者の実態としてまとめると以
けられていない。②福祉施設への訪問やボランテ
下になる。
①
ィア活動の時間がある。部活動単位での海岸清掃
生活安定にある単身高齢者の共通する生活
や、お茶たて、レクリエーション目的の特別養護
は、疾病障害や痛みをかかえ時に生活変調を
老人ホーム訪問、社会福祉協議会に勤める生徒の
きたしてはいるが、持続的生活変調と悪化が
父兄の関連による催し物への参加、施設や病院で
ないので直接生活に介入する支援を希望して
の定期演奏会の開催等があげられる。③その他、
いない。
クラス、委員会、部活動単位で、学生全員が何ら
②
生活安定にある単身高齢者は積極的に他者
と交流している。
③
かのボランティアに参加できるよう学校で調整し
ている。
下肢の痛みは移動に支障をきたし、地域特
協力を得た中学生は、男子2
8人(51.
9%)、女
徴である小売店の閉店と公共交通機関の衰退
子26人(48.
1%)の計54人である。親と子による
は、将来の移動や日常生活維持にかかる不安
核家族家庭は27.
8%、祖父母世帯との同居家庭は
につながっている。
63%、三世代同居家庭は9.
2%(表1、2、3)
④
具体的な将来の不安を表現している生活安
であり、同居していない祖父母らも地域内に居住
定にある単身高齢者は、自ら予測される不安
しており、高齢世代の親戚や家族と接触する機会
を回避するよう予防活動に取り組んでいる。
⑤
が多い(表4、5)
。将来、現在の居住地域から
生活安定にある単身高齢者は、地域で展開
の「転出を希望」しているものが6
4.
8%で、「地
されている制度化された具体的生活支援に関
域内で生活したい」というものは3
3.
3%、「一度
する情報をもっていない。
転出して U ターンを希望」しているものが1.
9%
である。
「転出希望」の理由は、当該地域の〈不
3.中学生が考える高齢者の生活問題と生活支
援
便さ〉や〈閉塞性〉による〈自由への憧れ〉とと
もに、多くが〈進学や就職、多様な経験〉を目的
1)対象中学生の特徴と学習背景・居住環境
としていた。一方、
「地域内で生活したい」理由
対象とした中学生の過疎化・高齢化および生活
として、地域や家族への〈愛着〉と、
〈安全〉で
支援に関連した学習背景について、以下のことを
穏やかな地域生活があげられた(表6、7、8)。
担当教員に確認した。①過疎化・高齢化、当該地
―2
7―
1
6
6
長野大学紀要
表2
第3
0巻第3号 2
0
0
8
基本属性:性別
表5
基本属性:別居の祖父母の居住地(母方)
男子 女子 合計
人数
%
2
8
2
6
5
4
5
1.
9 4
8.
1 1
0
0
表3
人数
%
同自治体内に居住
2
4
8
8.
9
他自治体に居住
1
3.
7
他界・その他
2
7.
4
基本属性:居住形態
表6
核家族 二世代同居 三世代同居
項
人数
1
5
3
4
5
%
2
7.
8
6
3
9.
2
表4
基本属性:別居の祖父母の居住地(父方)
人数
%
同自治体内に居住
1
2
6
3.
2
他自治体に居住
3
1
5.
7
他界・その他
4
2
1.
1
表7
項目
成人後の希望居住地域
目
人数
%
同地域外で生活したい
3
5
6
4.
8
同地域内で生活したい
1
8
3
3.
3
一度出て戻りたい
1
1.
9
将来地域から転出を希望する理由
自由記述
不便さ
Aは田舎すぎるから
Aは不便だから(3)
Aは交通の便が悪すぎるから
Aより、あっちの方がいろいろあるから
情報が発達している所へ行きたいから
閉鎖性
狭い・正直田舎はキツイから
Aはいい所だけど、おもしろくないから
自由に生活したい
都会に住んでいた方が好きなものを買えるから
有名人にあえるかもしれないから
東京に行ってみたい
自由
夢
進学
就職
経験
大学進学、就職を考えているから(2)
いろいろな資格をとりたいから
仕事に役立つことを勉強したいから
Aはいいところだが就職する場がなく困りそうだから(2)
自分のつきたい仕事がないから(2)
Aでは将来なりたいものになれないから
きちんとした仕事をしたいから
Aを出て、仕事をして、稼いでからAに帰ってきたい
夢をかなえるため(3)
外へ出て社会の厳しさを知るため
いろいろな場所で働きたいから・いろいろな町を見たいから(3)
一度でいいから、出て見たい、外のことをもっと知りたいから(5)
経験を積みたいから
自分の知らないことを体験したいから
当該地域をAと表記、(
)内は回答者数
―2
8―
越田明子
中学生が考える過疎地域居住高齢者の生活問題と生活支援
表8
将来当該地域での居住を希望する理由
項目
(
16
7
自由記述
愛着
自分が育った所で生きたい(2)
すきだから
安心できるから
家族とくらしたい、会いたいから(2)
みんなといっしょに暮らしたいから
なつかしくなっていると思うから
安全
何かあったら心配だから(2)
安全、平和で住みやすい(3)
自然がたくさんあるから
A外はぶっそうな事が多いから
出るのが怖いからA外で迷子になるかもしれないから
ふつうに暮らしたいと思っているから
都会よりド田舎のほうがおちつくから
いざというときに、困らないですむから
)内は同回答者数
2)対象中学生が考える高齢期の生活問題
「家の前などの除雪」34人(62.
9%)、「病院への
「高齢者像:当該地域の高齢者や自分自身が高
通院や買物時の移動の支援」28人(51.
8%)、「庭
齢になったときに生ずる困りごと」について自由
の草むしり」27人(50%)といった間接的な生活
記載でたずねた。結果を分類し①祖父母との同居
環境を整える支援や、目的が明確な移動支援が高
経験がないもの、②同居中のもの、③一時同居経
率であげられた。次に「電球の交換やテレビの配
験のあるもの別に整理すると表9となった。
「高
線の手伝い」40.
7%、高齢者との関係の維持やコ
齢期の困りごと」として得られたカテゴリーとし
ミュニケーション、生活変調の早期発見を支援す
て、〈心身の老化〉、〈家事・移動買物問題〉、〈移
る「定期的な声かけや安否確認」3
8.
8%、「人と
動問題〉、〈介護問題〉、〈医療問題〉、
〈経済問題〉、
のかかわり交際や交流、話し相手」37%であり、
〈関係の問題〉、〈精神面の負担〉、〈寂しさ〉、〈孫
「日用品の提供、買物の支援」3
7%があげられ
の成長問題と負担〉、〈居住環境の変化〉があげら
た。その他、支援情報の検索等を担う「インター
れた。①同居経験のないものは、少数であるが、
ネット等での情報収集」3
5.
1%、「食事の提供」
〈心身の老化問題〉、〈家事・移動買物問題〉、〈移
31.
4%、「外 出 や 散 歩、歩 行 時 の 付 き 添 い」
動問題〉、〈介護の不足〉や〈医療問題〉、〈年金問
31.
4%、「万一の時や困った時 に 相 談 に の る」
題〉と幅広くあげられている。②同居中のもの
29.
6%であり、明確な目的をもつ「通院や買物時
は、現在の回答者自身の立場や経験から出された
の移動支援」と比較し、時間と目的が明確でない
意見が多くみられ、加齢による身体的問題から発
「散歩時の付き添い」や、直接介入して問題の解
生する日常生活動作に関連した困難よりも、関係
決につなげる「相談支援」がもっとも低率であっ
のなかから生ずる「困る」ことや感情的なマイナ
た(表10)。
スイメージが表現される傾向があった。一方、生
また、当該地域で展開されている「制度化され
活を包括的にみた高齢者の負担や不便さが表現さ
た高齢者生活支援に関することば」について、用
れているが、困ることは「特に問題はない」、「悪
語の説明を付記してその認知度をたずねたとこ
いことはない」と回答するものもあった。
ろ、もっとも多かったものは、
「訪問介護(ホー
ムヘルプサービス)」32人(59.
2)%、「通所介護
3)対象中学生ができる高齢者の生活支援
(デイサービス)
」22人(40.
7%)である。身近
具体的に、
「将来担うことができる制度化され
な在宅サービスとしての生活支援でもあり、親し
ない生活支援」について複数回答でたずねると、
い高齢者が利用している可能性もあり認知度が高
―2
9―
1
6
8
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
かった。続いて、
「介護保険制度」が33.
3%、生
じめた変調時にも支援を調整する「地域包括支援
徒の父兄の勤め先との関連で催しに参加すること
センター」は5.
5%と認知度が低かった。また、
もある「社会福祉協議会」は2
4%、「短期入所介
6)
は5.
5%、単身者の不安や孤立
「配食サービス」
護(ショートステ イ)」14.
8%、「グ ル ー プ ホ ー
7%、「サロ
を予防する「おはようコール7)」は3.
ム」は7.
4%と 徐 々 に 低 率 と な っ て い た。さ ら
ン事業8)」は0とほとんど認知されていなかった
に、高齢者の生活問題にかかわる相談窓口でもあ
(表11)。
り、生活問題発生時に加え、生活に異変が生じは
表9
高齢者像:当該地域の高齢者、もしくは自分が高齢になったときに困ること(自由記述)
項目 祖父母と同居経験なし
祖父母と同居中
カテゴリー
心身の老化
ケガをすると、治りにく 歩けるけど、ゆっくりとか、耳がとおいとか
い
で負担が多くなる
家事の負担
家事や、そうじなど
移動買物問題 買い物(3)
移動問題
行きたい所に行けなくな
る
介護問題
介護してくれる人がいな
い(2)
福祉に関する施設など
が、充実していない
医療問題
医療が充実していないの
で、悪化すると転出せざ
るを得ないが交通の便が
悪いので、いろいろと大
変
経済問題
年金問題
祖父母と同居一時経験あ
り
買物に、頻繁に行けない
介護が困る(2)
介護を必要とする場合、(子が)面倒をみる
のが大変になる
子や孫が介護嫌いだったとき、介護してもら
えなくなる
介護が大変
家で、子や孫が介護をす
るのには限界があり、ス
トレスがたまる
他の人と考えが合わない 話がかみあわない
関係の問題
気をつかう
年が離れていて、溝ができやすい
精神面の負担
嫁、姑問題(2)
暴言をはくこと
寂しさ
近くにいる分、いなくなったときの大切さが
わからない
情がうつり、他界したときに、悲しむ
お年寄りが亡くなったら生活できない
孫の立場から、両親に対してと祖父母に対し
ての態度の差がでる
孫の成長問題
と負担
孫がわがままになる(2)
音楽を大音量で聴けない
孫が成長するとお年寄りの存在をうとましく 等好きなことを制限され
思うようになってくる
る
実際に私がそうだがストレスがたまり大変
子や孫が困る
子があばれる
居住環境の変
化
家が狭くなる
総合
その他
(
生活が不便
お年寄りに負担がかかる
特にない、悪いことはない、わからない(1
0)
)内は同回答者数
―3
0―
越田明子
中学生が考える過疎地域居住高齢者の生活問題と生活支援
1
6
9
表1
0 将来一人暮らし高齢者からの依頼でできる支援(複数回答)
項
目
人数
%
病院への通院や買物時の移動の支援
2
8
5
1.
8
万一の時や困った時に相談にのる
1
6
2
9.
6
人とのかかわり交際や交流、話し相手
2
0
3
7
食事の提供
1
7
3
1.
4
外出や散歩、歩行時の付き添い
1
7
3
1.
4
日用品の提供、買物の支援
2
0
3
7
定期的な声かけや安否確認
2
1
3
8.
8
電球の交換やテレビの配線の手伝い
2
2
4
0.
7
インターネット等での情報収集
1
9
3
5.
1
家の前などの除雪
3
4
6
2.
9
庭の草むしり
2
7
5
0
その他
1
1.
8
表1
1 知っている高齢者生活支援に関することば(複数回答)
項
目
人数
%
社会福祉協議会
1
3
2
4
地域包括支援センター
3
5.
5
短期入所介護(ショートステイ)
8
1
4.
8
通所介護(デイサービス)
2
2
4
0.
7
訪問介護(ホームヘルプサービス)
3
2
5
9.
2
グループホーム
4
7.
4
配食サービス
3
5.
5
おはようコール
2
3.
7
サロン事業
0
0
介護保険制度
1
8
3
3.
3
調査対象とした中学生が、過疎化・高齢化の進
Â.考察
行する地域に居住していることもあり、学習背景
過疎地域に居住する高齢者の生活問題と家族や
にはないが、生活者としての当該地域の生活や高
近隣による制度化されない生活支援について、生
齢者生活支援に関する意見を確認することができ
活安定にある単身高齢者の生活実態を参考に、若
た。約7割の中学生が二世代、三世代同居、残り
年層の意向を確認した。得られた結果から、①過
3割のうち8割以上が同地域内に祖父母が居住し
疎地域における人口減少の課題と、②高齢者との
ているといった環境の中、高齢者と接する機会が
関係の中から生ずる高齢者像、③当該地域におけ
多い中学生の意見であったと思われる。
る高齢者の生活支援について考察する。
とりわけ、若年層の在宅高齢者の生活支援につ
いて検討する場合、
「居住地域への愛着」と「高
1.地域変容と若年層の転出
齢者への親しみ」が必要と思われる。しかし、約
―3
1―
1
7
0
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
65%が数年後に「地域からの転出」を希望してお
ると、関係の中から生じているマイナス感情を高
り、その理由として、過疎地域の〈不 便 さ〉や
齢者の生活問題ととらえ、同居経験があるものほ
〈閉鎖性〉
〈自由への憧れ〉、〈進学や就職、多様
ど、「うとましい」
、「ストレス」
、「大変」といっ
な経験〉を目的としていた。現在の過疎化・高齢
た「高齢者と関わるものの困りごと」が「高齢期
化の急速な進行に加えて、本調査対象が中学3年
の困りごと」と解釈されているケースもあった。
生で15歳ということから、数年度に彼らの多くが
思春期にあり成熟していない中学3年生の高齢者
転出した場合、単身や夫婦世帯高齢者の増加に加
像が、今日の高齢者の生活問題を表現されている
え、制度化されない日常生活における「ちょっと
とは思われない。しかし、今日的課題として、関
した生活支援」も縮小していくことが容易に推測
係すなわちつながりの維持や回復が高齢者の主体
できる。多くの学生が高齢者と接しており、ボラ
的な生活意欲や活動に影響することもふまえる
ンティア活動や日々の生活の中での手伝いは、大
と、具体的な生活支援よりも先に、関係形成の視
きな役割も担う。しかし、転出を減少させるに
点や方法について検討する必要がある。そして、
は、地域の就労環境の変化が必要となる。した
同居者等の身近な事例に加えて、生活問題をかか
がって、転出を留まらせることが第一ではなく、
える高齢者をどのように理解していくかが課題と
転出後に、転出者がどのように関わっていくか検
な る。特 に 若 年 層 が「う と ま し い」、「ス ト レ
討されるべきではないかと思われる。
ス」、「大変」と考える要因やプロセスについて検
討していく必要がある。
2.関係から生ずる高齢者像
3.高齢者の生活支援に関連する課題
同居家族や親戚等高齢期にあるものと接するこ
とが多い対象中学生の考える「高齢者像:高齢期
単身高齢者インタビューから以下のような福祉
の困りごと」について、単身高齢者の実態と若干
的な側面のニーズが明らかとなった。地域変容と
異なる意見がみられた。はじめにインタビューし
して小売店の閉店や公共交通機関の衰退が関連し
た単身高齢者も、中学生が日頃出会う高齢者も、
て、具体的な支援の提示が期待されている。特に
同じ生活安定もしくは生活変調状態にあると思わ
①移動支援(移動手段、経済的負担の軽減)にか
れ、日常生活の中で高齢者の生活情報を得ている
かるサービスメニューと、②移動可能な生活圏内
とも予測した。しかし、日常生活を維持する身体
で日常的生活に必要なものが調達できること、③
面の変調から生じる具体的な〈買物の問題〉や付
屋内外の手伝いに関連した具体的支援が必要であ
随 す る〈経 済 的 負 担〉、精 神 的 に は〈不 安〉や
ること、④既存の生活支援情報の提供と共有が必
〈寂しさ〉についての意見が少なかった。高齢化
要であること等を考察することができる。
率3
5%であり、まちの中でも多くの高齢者に出会
どれも至極あたりまえのようなことのように思
う。しかし、生活安定にある単身高齢者は同世代
われるが、現在それらの生活支援のすべてが機能
との交流は積極的に展開しているが、若年層との
しているようには思われない。単身者の場合、自
交流は少ない様子であった。このことから、家族
ら支援要求について発言するか、生活変調や生活
や親戚がいる高齢者は同居率も高く若年層と接す
困難状況に陥り他者が認識しなければ、潜在化さ
る機会が多いが、単身の場合逆の現象がみられて
れる生活支援ニーズの構成要素について分析しに
いると思われる。したがって、若年層が地域内に
くい。
家族や親戚の少ない単身高齢者とどのようにつな
中学生調査結果にみる、
「できる支援」で高率
がりを維持し、生活問題を共有していくか課題と
であった「除雪」や「除草」の支援は、間接的な
なる。
生活支援であり毎日必要とされず比較的だれもが
また、「高齢者像:高齢期の困りごと」につい
関わりやすい。また、先の単身者も希望していた
て、中学生らの視線で親と祖父母との関係を観察
「移動支援」に関して多くが回答していること
し、自分と祖父母との関係の中から生活問題をあ
は、当該地域にとってはよい傾向にあると思われ
げている点に留意する必要がある。いいかえてみ
る。今後は具体的にどのような形であったならば
―3
2―
越田明子
中学生が考える過疎地域居住高齢者の生活問題と生活支援
17
1
支援できるかについて検討する必要がある。そし
本稿は、平成19年度長野大学地域研究・一般研
て、生活支援情報が少ない現況下においては、早
究助成 A による成果の一部である。調査にご協
急にできることとして、制度化された生活支援情
力いただいた皆様に御礼申し上げます。
報について周知することである。介護保険サービ
スのみならず、当該地域の、「配食サービス」や
注
「おはようコール」、「サロン事業」は関係を維持
1)高齢者の生活問題に関連して、2
0
0
0年の「社会的
拡大し、生活変調を予防し早期に発見する機能も
な援護を要する人々に対する社会福祉のあり方に関
持つ。情報をもつことが将来の不安を軽減するこ
する検討会」
(厚生省社会・援助局)による報告で
は、日本全体の経済や社会の構造的な変化、不平等
とはいうまでもない。
「定期的な声かけや安否確
の 拡 大 等 の 事 態 の 進 行 と「社 会 的 援 護 を 要 す る
認」、「人とのかかわり交際や交流、話し相手」よ
人々」の「社会的包摂・つながりの再構築」に向け
りも低率の「万一の時や困った時に相談にのる」
た新たな施策の必要性が論じら れ て い る。ま た、
ことに積極的にかかわるためには適切な情報を得
2
0
0
8年には「これからの地域福祉のあり方に関する
ておく必要がある。また、「相談にのる」の解釈
研究会」
(厚生省社会・援助局)が、「地域における
として、問題を解決することをイメージしたもの
『新たな支え合い』を求めて−住民と行政の協働に
もいたと思われるが、近隣のちょっとした変化に
よる新しい福祉−」として、「地域社会で支援を求め
気づき、課題として共有し、解決し、専門家や行
ている者に住民が気づき、住民相互で支援活動を行
政といった制度化された公的福祉サービスにつな
う等地域住民のつながりを再構築し、支え合う体制
げることも「相談にのる」ことである。このこと
を実現するための方策」について報告している。飛
は制度化されない生活支援でもあり、直接的な生
躍的に充実した福祉サービスの谷間にある問題や多
活支援よりも実行しやすいものと思われる。
様なニーズや、公的な福祉サービスでは対応できな
い複合的な問題に対し、地域福祉をこれからの福祉
Ã.おわりに
施策に位置付け、地域の連帯感が希薄化するな か
で、地域住民が主体となり近隣のちょっとした変化
本稿では、制度化されない生活支援に着目し
に気づき課題として共有し、解決し、専門家や行政
て、過疎地域における高齢者の生活問題、生活支
といった公的な福祉サービスにつなげるといった制
援について若年層の意見から検討した。若年層が
度化されない生活支援の意義について共有されはじ
地域からの転出を希望しており、高齢者と接する
めている。
機会が多くその関係から生じるマイナスイメー
2)近年の「生活支援」にかかる概説として、古川に
ジ、高齢者生活支援の具現化の課題が明らかと
よるものがある。生活システムは、基本となる生活
なった。
維持システムと何らかの事情により機能不全の状態
本研究の実態調査は、過疎化している地域を対
に陥ったときに追加的、人為的に形成される生活支
象としたことから、対象者が少数であり得られた
援システムから構成され、生活支援システムの一つ
結果を一般化するには限界がある。しかし、当該
が 社 会 福 祉 で あ る(古 川 2
0
0
4:2
3
7
‐
2
3
8)と 説 明
地域においては何らかの示唆を得たように思われ
し、著書「生活支援の 社 会 福 祉(2
0
0
7)
」の 冒 頭 で
る。今後は、①地域特性、②生活状況(生活過程
「『生活支援』という概念は、…現代社会においてま
における段階)、③世帯構成等高齢者を取り巻く
環境をある程度類型化しながら、支援ニーズを見
出し、④制度化されない生活支援と制度化(社会
化)されるべき生活支援について検討することが
すます多様化し、複雑化、高度化する傾向をみせる
生活問題(その現象としての社会的生活支援ニ ー
ズ)に関わるマクロ(政策の立案・企画・策定)か
らメゾ(制度の運営・管理)
、そしてミクロ(援助活
動)に及んで社会的に準備され、運用される各種の
課題である。また、インタビュー者と当事者との
生活支援関連の施策軍、すなわち生活問題に対 応
関係によっても語りの内容や優先順位、表現方法
し、その解決緩和を図ろうとする社会的施策群に関
が変わってくることも十分加味しながら分析を繰
わりをもつ概念とし位置つけることにしたい
り返す必要があるだろう。
(2
0
0
7:i)
」と述べ、人権擁護制度、消費者保護制
度、健康政策、教育制度、雇用・就労政策、所得保
―3
3―
1
7
2
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
(山本1
9
9
6:3
‐
4;田畑他1
9
9
9:4
1
3)地域社会の あ
障制度、保健サービス、医療サービス、司法福祉、
更正保護制度、住宅政策、まちづくり政策などの社
り方は根本的な見直しの時期をむかえている(浜岡
会サービスや、社会不安の除去や社会秩序、社会体
1
9
9
8:4
7)
。このことは、大野による一連の研究に
制の維持等についても触れ、視野を広げ、包括的、
よっても指摘され、高齢化率が5
0%をこえて地域共
総合的な生活支援をすることが求められているとい
同体が維持できない状況にある集落を「限界集落」
う。そして、その対象は、さまざまな理由によって
とよび、限界集落の単身高齢者の滞留を現代的貧困
社会的に不利益、不公平、不平等、経済的な損害、
問題と指摘している(大野2
0
0
5:9
9)
。国土交通省の
心身の安全や安心が脅かされている人びとやそのお
「過疎地域等における集落の状況に関するアンケー
それのある人びとをあげており、高齢であるものも
ト調査(2
0
0
6)
」によると過疎地域をかかえる全国
ふくまれる。
7
7
5市町村に対して、そこに所属する6
2,
2
7
1集落のう
3)高齢者の生活過程における「生活変調」は、相互
ち高齢化率5
0%をこえる集落が7
8
7
3集落(1
2.
6%)
、
関連を通じて一定の範囲内に保たれた生活構成要素
機能維持が困難となっている集落が2
9
1
7集落(4.
7%)
が、何らかの要因により不安定となり生活が一定範
である。
囲外へ変化する兆しの状態であり、高齢者の生活を
6)当該自治体が提供しているサービスで、6
5歳以上
時間軸における状況の変化でとらえるものである。
の一人暮らし、お年寄りのみの世帯、または障害を
生活困難や困窮は、「生活変調」という言葉を用いる
もつ人に、食事を定期的に宅配するとともに安否確
と「①生活安定−②生活変調−③生活困難」の三つ
認を行う。一食およそ4
0
0円で、週2回利用すること
の段階を経て生成する。変調時の他者との交流は問
題の早期発見や問題の予防につながるがそのとらえ
ができる(当該自治体資料より)
。
7)一人暮らしのお年寄りや障害を持っている人に、
方にはまだ課題がある(越田2
0
0
8)
。
定期的に電話をすることにより、日常的な会話の話
4)君島ら(2
0
0
4)によると、地域で生活する高齢者
し相手や、安否確認をするもの。社会福祉協議会へ
のケアにおける制度化されたケア(フォーマルケア
申請する(当該自治体資料より)
。
・FC)と制度化されないケア(インフォーマルケア
8)日中孤立しがちなお年寄りが、家の近くの集会所
・IC)の関係についての研究が少ない こ と を 指 摘
等に集まり、手芸をしたり、料理を作ったり、レク
し、未充足ケアニーズの充の分析方法として、ケア
リエーションをしたりする。閉じこもりの予防や、
の構成要素、ニーズ保持者、ニーズ表明状況、FC に
同じ地域の仲間と交流することによる孤独感の解消
よるか IC によるかの対応方法をあげ、ケアの計画や
を図るもの(当該自治体資料より)
。
サービス運営に活用することを提案している。そし
て、FC と IC の組み合わせ選好と地域特性との関連
文献
を探ることを試み(山口ら:2
0
0
6)
、地域特性、ジェ
古川孝順(2
0
0
4)
『社会福祉学の方法』有斐閣
ンダー、ケア規範を含めた FC と IC の組み合わせ選
浜岡政好(1
9
9
8)
「家族・地域生活・貧困」江口英一編
好の要因分析モデルの有効性が示されている
『改訂新版生活分析から福祉へ−生活福祉の生活理
(2
0
0
8)
。
論−』光生社、2
7
‐
5
9
5)人口密度が低い過疎地域がかかえる諸問題につい
井岡勉(1
9
7
3)
「都市・農村と地域福祉」
『現代の地域
て、1
9
6
0年 代 以 降、労 働 力 の 過 度 な 流 出 に よ っ て
福祉』法律文化社、9
5
‐
1
2
4
「人口減少のために一定の生活水準を維持すること
君島菜菜・冷水豊・石川久展・山口麻衣(2
0
0
4)
「在宅
が困難となった状態5」という定義のもと過疎問題と
高齢者ケアにおける未充足ニーズの分析−新しい分
して語られるようになった。過疎化は、高齢化、貧
析枠組の提案とその活用−」
『日本の地域福祉1
8』日
困・低所得階層の生活問題といった階層別福祉問題
とその広がりの上に交通や環境問題といった広義の
本地域福祉学会、2
5
‐
3
2
越田明子(2
0
0
8)
「後期高齢者の生活変調と社会的孤
福祉問題を重層的構造をもって出現させ(井岡1
9
7
3
:1
1
5
‐
1
1
8)
、1
9
8
5年から1
9
9
0年を境にいっそう進化
立」
『長野大学紀要』2
9
(4)
、9
‐
1
9
岡村重夫、三浦文雄編(1
9
7
2)
『講座日本の老人2老人
・拡大している。今日、人口減少が地域の社会・経
の福祉と社会保障』垣内出版
済的危機の停滞あるいは低下を引き起こす地域論的
大野晃(2
0
0
5)
『山村環境社会学序説』農文協
過疎に加え地域人口再生産力の弱体化ないし枯渇化
竹中星郎(2
0
0
0)
『高齢者の孤独と豊かさ』日本放送出
する人口論的過疎の進化という新しい段階に入り
―3
4―
版協会
越田明子
中学生が考える過疎地域居住高齢者の生活問題と生活支援
1
7
3
一番ヶ瀬康子・右田紀久恵監修(2
0
0
7)
『エンサイク
田畑保編(1
9
9
0)
『中山間の定住条件と地域政策』日本
ロペディア社会福祉学』中央法規出版、9
9
8
‐
1
0
0
3
経済評論社
山口麻衣・冷水豊・石川久展(2
0
0
6)
「フォーマル・ケ
山口麻衣・冷水豊・石川久展(2
0
0
8)
「フォーマルケア
アとインフォーマル・ケアの組み合わせ選好との関
とインフォーマルケアの組み合わせに対する地域高
連−高年住民のケア選好に着目して−」
『日本の地域
齢者住民の選好の関連要因」
『社会福祉学』日本社会
福祉学会、1
2
3
‐
1
3
4
福祉2
0』日本地域福祉学会、8
7
‐
9
9
山口麻衣(2
0
0
7)
「人口高齢化と社会変動」中村優一・
山本努(1
9
9
6)
『現代過疎問題の研究』恒星社厚生閣
―3
5―
長野大学紀要
第3
0巻第3号 3
7―5
2頁(1
7
5―1
9
0頁)2
0
0
8
三池闘争の終焉と現代日本
―組織された生産者社会の夢・市民的ヘゲモニーの形成―
The end of Miike-laborers struggle and modern Japan
―the dreams of orgarnized laborers society and the formation
of the citizens’ hegemony―
黒
沢
惟
昭*
Nobuaki Kurosawa
いうかすかなその音は一瞬タービンの轟音と化
はしがきにかえて
し、坑内は騒然たる出炭の場に変じたかのように
や
ま
──映画「三池終わらない炭鉱の物語」を観る
私には思われた。
──
三池炭鉱は良質の豊かな炭層で、日本一の優良
炭鉱であった。官業として出発したが、その後大
三○○ほどの席が開演まえから埋まり、若者が
多いことが目についた。映画情報誌(「ぴあ」)に
財閥三井に払い下げられ近代日本発展の原動力と
なった。
よれば、ハリソンフォード主演の娯楽大作をしの
や
ところが、労務管理は苛酷で、戦前は中国、奄
ま
ぐ人気を博したという。苛酷な労働の炭鉱の物語
美大島、与論島出身の労働者を強制的にこき使っ
がなぜ多くの人々の関心をとらえるのか。とくに
た。戦前には囚人を多く働かせ、直接鉱内に通ず
現代の青年を魅了するのか。
る地下道も掘られていたのである。十四歳、十九
冒頭のシーンは、廃坑になって久しい三池宮原
歳で強制連行された中国人が当時の労働の実態を
坑である。巨大な第二立坑やぐらにまず圧倒され
静かに語るシーンも胸を打つ。与論島出身労働者
る。私も訪れたことがある万田坑もかっての主力
の小屋のような住居が島差別を雄弁に物語る。イ
坑でいまは宮原坑とともに国の重要文化財であ
ギリス人捕虜も三池でこき使われたことを私はこ
る。次のシーンでは、石炭運搬の鉄道、機関車、
の映画ではじめて知った。
や
ま
三池港などかっての三井三池を支えた炭鉱の“遺
産”が次々と登場する。
五○年代終りのエネルギー革命とともに石炭産
業は斜陽化。三池闘争が激化。三一三日間全面ス
一転して場面は生い繁る夏草の小道。万田坑に
トライキは大闘争の象徴である。しかし、組合は
進む熊谷監督の後姿。入口で巨大な廃坑を仰ぎ見
ついに分裂、かっての同志、親、きょうだいも憎
つつ赤レンガを一枚づつていねいにさすってい
! ! !
る。昔日の大三池を蘇らせようとするかのよう
しみのるつぼに。そのなかで第一組合員の一人が
暴力団に刺し殺された事件は有名だ。
に。坑内に入るとコンクリートの床にひざまず
それから半世紀、分裂を策した当時の労働課
く。赤さびた鉄網の穴から底をのぞきこむ彼女。
長、第一、第二組合の幹部が監督のインタビュー
マイクが地下水の流れる音をひろう。ピタピタと
にこたえてそれぞれの立場をこもごもと語り出
*社会福祉学部教授
―3
7―
1
7
6
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
す。しかし、
「落盤におうたときは第一も第二も
につけていった事実を学びとって欲しいのだ。そ
ない……『炭掘る仲間』なんだ」。九一歳の元労
のことを切望して小文を綴る。
組員の述懐が「炭掘る仲間」のうたのなかで伝わ
追記
る。憎悪の底にはこのような労働者の魂が宿って
いたに違いない。
この映画を観てしばらくの後、六三年の炭じん
爆発の事故で45年間寝たきりの一労働者が死去し
六三年一一月九日、三川坑で炭じん爆発。四五
たことを新聞が伝えた。この映画にも紹介された
八人が一瞬に殺され、CO 中毒患者八三九人を出
その人の名は受川孝さんという。享年65歳。やは
した。安全を軽視した生産第一主義による戦後最
り、「炭鉱の物語」は終っていないのだ(1)。
や
悪の炭鉱事故である。それにまつわる自殺、離
婚、家族の蒸発。それは決して過去の物語ではな
や
ま
一、三池労組解散
ま
い。たしかに炭鉱で働き、傷つき、斃れたのは男
三池労組が解散―二○○五年四月一一日の全国
たちだ。だが、それを支え、助けたのはまちがい
紙社会面に読者の何人が目を留めたであろうか。
なく女であった。
しかし、私にとっては忘れられないニュースで
そのなかの一人は語る。
「一口に38年て言いま
あった。
すけど、一日一日365日、一年掛けるの3
8年です
六○年安保と呼応して、戦後最大の労働争議と
よね。……うん、まったく別人に変えられた人間
いわれた「三池闘争」を三一三日間の全面ストラ
破壊ですよ。これ、どうしてくれる」
。明るい日
イキで闘い抜いた福岡県大牟田市の三井三池炭坑
ざしのなかの彼女の訴えに私は言葉もない。Co
労働組合が四月一○日で解散し、四六年の結成以
訴訟のハンガーストライキを坑底で戦う女性たち
来五九年の歴史を閉じたのであった。最大時二万
の姿。女性が主役というこの映画のメッセージが
五千人を数えた組合員は、組合分裂や相次ぐ解雇
伝わってくるシーンだ。
などで最後にはわずか一四人であった。九七年に
私が三池に関心をもったのは、この映画にも登
場する向坂逸郎さんの講演がきっかけだった。大
三池炭坑が閉山して八年。国内から炭坑労働組合
がすべて消えたのだ。
学で『資本論』を勉強するのもいいが労働者の学
私が三池に関心をもったのは、大学時代に三池
び方も知らねばならん。そのためには三池へ行き
闘争の理論的指導者として知られる向坂逸郎さん
たまえ。その奨めに従い三池の炭鉱住宅に泊り込
の講演を聴いた時だった。『資本論』がテーマ
み家族ぐるみの交流を深めつつ、学習会に参加し
だったが、それよりも当時「向坂教室」と呼ばれ
た。それから40年余、幾度三池へ通ったことだろ
た三池の労働者の学習の話の方が興味深かった。
う。学んだことははかり知れない。だが次のこと
私たちも解読に苦しんでいたゼミナールのテキス
ばは生涯忘れることができないだろう。
「自分が
ト『資本論』を炭鉱労働者たちがどのように読
助かるためには他人を助けなければならない。こ
み、理解するか。
のこ と を 学 習 会 で身 体 に す り こま れ て し ま っ
研究室で『資本論』を勉強することも重要だ
た」。解雇された労組員の回想の一句だ。団結、
が、現場で労働者がどのように学ぶかを知る必要
連帯−。豊かさのなかで死語になりかけたこの言
がある。この向坂さんの「教訓」の重要性に気付
葉を、国や企業に「弱者切り捨ての風潮がまん延
いたのはずっとあとのことでであるが、向坂さん
し、格差化が急速に進む今日」なんとしてでも蘇
のすすめにしたがって、大牟田の炭住(労働者の
らせなければならない。そうでなければ、
「豊か
社宅)に泊まり込み学習会に参加した。学生・院
さは三池の地獄の上に咲いた徒花」
(鎌田慧のこ
生時代そして教職に就いてからも幾度、三池に
とば)になってしまうだろう。しかし、多くの若
通ったことだろう。
者たちがこの映画を観ることに私は希望をつなぎ
訪れるたびに組合員をはじめ家族、子どもたち
たい。彼・彼女たちが、三池の労働者たちが“地
との交流をふかめた。現地の研究者との討議も含
獄”のなかで、人間の尊厳を守るために、仲間と
めて学んだことははかり知れない。なかでも解雇
ともに学び闘い、前述のような珠玉のことばを身
されて三池を去った元労組員の言葉が忘れられな
―3
8―
黒沢惟昭
三池闘争の終焉と現代日本
い。「組合に色々批判もあるが、自分が助かりた
1
7
7
た。
かったらまず他人を助けなければならない。この
歴史が正しく書かれるやがてくる日に/私た
ことを組合の学習会で身体内にすり込まれてし
ちは正しい道を進んだといわれよう(中略)私
まった」。ここに学びと教育の意味が簡潔に表現
たちの肩は労働でよじれ/指は貧乏で節くれ
されている。
だっていたが/そのまなざしは/まっすぐで美
三池の闘いに労組が敗北したが、それは一労組
しかったといわれよう(中略)
の敗北ではなかった。石炭から石油へのエネル
「総資本」と「総労働」の対立が先鋭化した
ギー革命が時代の背景にあった。その転換のなか
一九六○年。三池争議の最終局面となった三川
で資本側は総資本として結集し、労使関係の根本
鉱ホッパー前で、一人の活動家がつくった「や
的変革を企図した。労組側も総労働として団結
がてくる日に」と題する詩だ。争議の敗北を予
し、これに対抗したがついに敗れた。以来、日本
感した労働者が、未来にこそ運動の広がりを託
の多くの労働者は労働者というより、企業人に変
したのではないか。
じた。したがって、三池闘争の敗北が契機となっ
労働者の魂の叫びに似たその詩は、労組組織
て高度成長は軌道にのり日本は豊かな国になっ
率が二割を切り、リストラが日常化する競争至
た。それは否定できない。しかしその反面で、と
上の今を鋭く突く。
もに学び助けあうという大切なことが喪われてし
三川鉱炭じん爆発事故で被災した一酸化炭素
まった。教育の荒廃がいわれて久しい。その遠因
(co)中毒患者の多くが入院する大牟田労災病
はここにあるのではないか。三池労組は消えても
院は、国の再編計画で本年度中の廃止に直面す
三池の労働者が育み遺してくれたものを若い世代
る。事故や病気で記憶などに障害がでる「高次
に語り継がねばならない。それが三池に関わった
脳機能障害」の治療拠点として存続できないか
世代の責務と考えてきた。たとえ時代の壁は厚
と、患者・家族たちは闘う。労組が解散して
く、世代の差は越えがたくとも。
も、まだ未解決の問題が残っている。
ここで、念のために、現地で取材した若い記者
国や企業に「弱者切り捨て」の風潮がまん延
の気持ちを確かめたい。
する。弱者が無視されない社会をどう構築する
「弱者を切り捨てぬ社会を」と題された署名入
か。闘い続けた三池労組の理念は、これからも
りの解説記事(『西日本新聞』二○○五年四月一
生かされると信じたい。
(大牟田支局・稲葉光
一日付)にはこう記されている。
昭)
闘い続けること―。それが、十日解散した三
二、三池炭鉱、苛酷な労務政策
1.日本屈指の炭鉱
池炭坑労働組合(三池労組)の歴史だった。
二年前、福岡県大牟田市で労組の取材を始め
三池炭鉱は福岡、熊本の両県にまたがり、一八
た当初、集会のたびごとに会社や国を指弾する
八九年から閉山まで一○八年間三井資本が支配し
労組に違和感を覚えた。
「なぜ、まだ続けるの
ていた日本一の炭鉱であった。一九七三年の資料
だろうか」と。
では、当時、一ヶ月で二万トン掘れば優良炭鉱と
彼ら自身、国策や資本と闘う中で、労働者の
されたが、三池ではなんと一日で二万トンも出炭
「限界」は感じていたかもしれない。それで
され、日本の石炭の三分の一は三池で出炭された
も、「闘わずして負ければ、労働者に次は何も
のである。
残らない」と三池労組最後の組合長、芳川勝さ
三池炭鉱の自然的社会的条件について『三池炭
ん(六二)はいう。沈黙すれば弱者切捨てがま
鉱労働組合史』(以下『組合史』)は次のように述
かり通るその危機感を常に背負った三池労組の
べている。
「三池炭鉱は良質の石炭からなる厚い炭層に恵
闘いの歴史。私の違和感は解けた。
解散の日の朝、芳川さんから一編の詩を見せ
まれ、全国でも最もすぐれた炭鉱であった。坑内
られた。詠み人知らずの詩は旗に書かれてい
の労働条件は他の群小炭鉱のとうてい及びえない
―3
9―
1
7
8
長野大学紀要
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0
0
8
ものがあり、機械化にも有利であった。三池は、
を中心とする周辺一帯の社会的・経済的支配を容
筑豊炭田からも北九州の工業地帯からも離れ、福
易にした」と湯村武人は『みいけ二○年』の中で
岡県南部に位置し、筑後および肥後の農村をもつ
書いている。(『組合史』)
ため、この炭鉱の労働力構造が筑豊炭田のそれと
次に三池の労務管理の特色については、親子二
決定的に異なることとなった。三池炭鉱の経営は
代にわたって三池の炭鉱労働者として過ごし、三
最初は官業として出発し、その払い下げをうけた
池闘争とともに、一労働者として生きた藤沢孝雄
のが日本屈指の大財閥、(三井)であった。
さんがご自身の経験から貴重な記録を残されてい
これらの諸要因が、この炭鉱で働く労働者たち
るので、その一部を引用させて頂く。
に、他に類のない特徴と性質をもたらすことと
3.「世話方」「請願巡査」による労働者管理
なった。」
三井の労務管理とも関わるので、私たち炭鉱労
2.囚人労働
働者がどんな生活をしていたか、少し話しておき
ところが、三井の労務政策は大変苛酷で戦前は
ます。
中国、奄美大島、与輪島出身の労働者を強制的に
炭鉱では、炭鉱住宅(炭住・たんじゅう)と呼
こき使った。三池炭鉱では敗戦時点で二千二百九
ばれる「社宅」に労働者を住まわせて、労働者を
十七人の朝鮮人が在籍していたという資料があ
がっちりと確保、管理していました。労働者の八
る。
割くらいは炭住で生活していました。生活すべて
しかも戦前は多くの囚人も使われた。監獄はレ
が炭住の中でまかなえるような仕組みをつくって
ンガ塀で囲まれ、囚人が地上に出ないで直接鉱内
いました。必要な品物は会社が経営する売店で買
に行ける地下道が掘られていた。
う。子どもは三井の私立小学校に通う。病院も保
したがって戦後になっても炭鉱のイメージはた
育園もありました。つまり、炭鉱労働者は一般社
いへん悪く、坑内には囚人たちの幽霊がでる、と
会から隔離(かくり)されていたわけです。それ
いううわさが立つほどであった。
はなぜかというと、労働者を管理するのにはそれ
三池における囚人の労働は一八七四年(明治六
がいちばん効果的、安上がりだからです。いった
年)に始まるが、その実態は悲惨の一語に尽き
ん事故が起きたり、何か非常の事態が生じた時に
る。「囚人は監獄から手足を鎖でつながれて出て
は、すぐに動員できるし、監視もしやすいからで
来て坑内で鎖がはずされ、一二時間の労働を強制
す。
させられた。一人当りの出炭量は筑豊の坑夫の二
炭住には、「世話方」(せわかた)という会社の
倍だが、賃金は逆に半分程度で、それも囚人に交
職員が配置されていました。世話方は炭鉱には出
付されるのは多くて七○%、あとは監獄の収入と
ずに社宅に勤務し、労働者の生活態度、家族状
なった。そのあまりにも苛酷な労働のために死亡
況、すべてを監視していて、逐一会社に報告する
する者は、明治一八年(一八八六年)に囚人の四
ようになっていました。また、
「請願巡査」とい
・八%、一九年には四・四%と、一般の監獄の数
う制度もあって、会社の要請で警官が社宅に住ん
倍に達した。このような悲惨な状況を前に福岡県
でいました。
議会は明治二一年(一八八九年)に三池監獄の廃
世話方制度は戦後も続いていましたので、よく
止を議決するほどであった。」(『組合史』)
覚えています。子どもの頃、兄弟げんかをしてい
なお、次の指摘も注目すべきである。
ると、おふくろたちは「早ようやめんか、世話方
「他の炭鉱にはほとんど例をみないこの囚人労
さんが来よらすぞ」とよく言ったものでした。世
働は、ただ単に坑夫募集難の解決と低賃金の点で
話方の報告ですべてが決まっていましたので、子
三池の経営者を利しただけではなく、囚人と一緒
どもにとっても恐ろしい存在として映っていたの
に働くという劣等感を与えることによって、いわ
です。
ゆる『良民』労働者の近代的労働者意識の成長を
炭鉱労働者は低賃金なので、給料日前にはだい
妨げ、三井資本のみ三池経営、ひいては大牟田市
たいどの家庭でも財布が空っぽになっていまし
―4
0―
黒沢惟昭
三池闘争の終焉と現代日本
1
7
9
た。そこで会社は、売店で品物を買える「通い」
争議拡大に危機感を抱き、逆に締め付けを
(かよい)という通帳を全坑員に持たせ、ツケで
図っていた GHQ による占領も終結していた
買えるような仕組みをつ く っ て い ま し た。
「通
が、次第にエネルギー源は石炭から石油へと
い」でつかった代金は、給料から天引きされるよ
変化し、石炭受容が落ち込みを見せ始めたこ
うになっていました。しかも、「通い」は二種類
とから、三井鉱山は経営合理化のために希望
つ く ら れ て い て、成 績 が い い 坑 員 に は「黒 通
退職を募った。しかし、希望退職者が会社が
い」、成績が悪い坑員は「赤通い」というぐあい
あらかじめ系列の鉱山に割り当てた数に達し
に、差別されていました。
なかったため、三四六四人に退職を勧告し、
勤務形態は、三交替と常一番(じょういちば
それに従わない二七○○人を指名解雇した。
ん、昼間だけの八時間勤務)がありました。三交
このような会社の措置に炭鉱労働者と事務職
替は一番方(いちばんかた)、二番方、三番方な
員がともに反発し共闘。指名解雇に反対し、
どと呼ばれていました。
ストライキに突入した。ストライキは一一三
労働者は出勤すると、作業着に着替え、キャッ
日間に及び、ついに会社側は指名解雇を撤
プランプを借り、繰込場(くりこみば、仕事の割
回、労働者側の勝利に終わった。この戦いは
当を指示する場)で配役(はいえき)をもらい、
当時、「英雄なき一一三日間の闘い」ともて
坑内に行く電車に乗ります。切羽(きりは、採炭
はやされ、三池労組は一躍その名を高めた。
現場)までは、電車で一時間ほどかかりました。
どんどん堀り進むので、毎日毎日、掘った分だけ
3.炭鉱労働者の自治区
遠くなっていくのです。
(藤沢孝雄『三池闘争と
以後、三池労組では労使協調派は力を失
私』三池闘争と私刊行委員会、二○○○年二月一
い、灰原茂雄を中心とする向坂門下の活動家
○日第三刷発行、二三ページ)
たちが影響力を振るうこととなった。一九五
五年(昭和三○年)には、三池労組は三井鉱
三、三池闘争略史
山に対して、労働者が退職した際には必ずそ
1.前史
の子女を採用することを認めさせた。また、
三井三池炭坑は、福岡県大牟田市から熊本
労働者自身で各労働者の収入を平均化させる
県荒尾市にかけて広がっていた三井鉱山系の
ために、割の良い仕事と割の悪い仕事を労働
炭鉱で、太平洋戦争敗戦による GHQ
SCAP
者が交互に輪番制で請け負う制度をつくるな
の民主化政策により、一九四六年(昭和二一
どして、三池炭坑はさながら労働者の自治区
年)に労働組合が結成された。もともと三池
のような様相を呈することとなった。一方
炭坑労組は労使協調の力が強く、労働争議な
で、一九五三年のストライキの成功によって
どには消極的な組合であった。
一部の炭坑労働者が増長し、事務職員に因縁
しかし、一九四七 年(昭 和 二 二 年)頃 か
をつけて吊るし上げたりするようになったた
ら、大牟田市出身で三池炭坑ともゆかりの深
め、事務職員は次第に炭坑労働者との連帯意
い九州大学教授の向坂逸郎が頻繁にこの地を
識を失っていった。
訪れるようになり、向坂教室と呼ばれる労働
者向けの学校を開いて『資本論』などを講義
4.一九五九∼六○年ストライキ
するようになってから、労組の性格は一変す
一九五三年のストライキ以降、経営合理化
る。向坂は三池炭坑を来るべき社会主義革命
が進まない三井鉱山の経営はますます悪化し
の拠点と考えており、『資本論』の教育を通
ていった。このため、三井鉱山は三池炭鉱か
じて戦闘的な活動家の育成を図ったからであ
らの活動家の一掃を決意し、一九五九年(昭
る。
和三四年)、一月一九日、六○○○人の希望
2.一九五三年ストライキ
退職を含む会社再建案を提示した。同年八月
一九五三年(昭和二八年)、行過ぎた労働
―4
1―
二九日には四五八○人の人員削減案を発表。
1
8
0
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
続いて一二月二日・三日には一四九二人に退
向坂はその後も三井三池争議を神聖化した
職を勧告し、これに応じない一二七八人を指
が、民間企業では労使協調路線が浸透して、
名解雇とした。
労使対決型の組合員は各地の労組で少数派と
労組側はこの措置に反発し、無期限ストに
なっていった。三池労組を支援・指導した日
突入した。一方、会社側も経営再建の決意は
本社会党や社会主義協会内でも、高橋正雄な
固く、三池鉱山のロックアウトと組合員の坑
ど従来の対決型の政治に対する反省が生ま
内立ち入り禁止でこれに対抗した。財界が三
れ、構造改革論が台頭するきっかけとなっ
井鉱山を全面的に支援した一方、日本労働組
た。
合総評議会(総評)は三池労組を全面的に支
三池炭鉱では一九六三年十一月九日に三川
援したため、三井三池争議は「総資本対総労
抗で炭じん爆発が発生した。この爆発事故は
働の対決」などと呼ばれた。ただし、総労働
四五八人の死者と一酸化炭素中毒患者八三九
と言っても、事務職員層は日頃から吊るし上
人を出す戦後最悪のものとなった。炭じん爆
げなどを受けてきた恨みから、今度はストラ
発とは石炭の発掘の際に発生する石炭のちり
イキに加わらなかった。
が坑内に充満している時に、何らかの原因
ストライキは長期化し、総評からのカンパ
(この場合はトロッコの脱線)で火花などが
以外の収入を絶たれた組合員の生活は、次第
発生して爆発することである。防止策として
に苦しくなっていった。生活苦に耐えかねた
は坑内の掃除や散水で十分であったが、それ
一部の組合員は一九六○年(昭和三五年)三
すら行われていなかった。そのため三池闘争
月一七日、第二組合(三池新労)を結成して
に敗北した組合の弱体化による労働環境悪化
ストライキを離脱する。三月二五日にはピケ
や会社の安全管理サボタージュが原因として
を張っていた三池労組の組合員・久保清が暴
指摘された。
(この略史の資料は朝日新聞記
力団員に刺殺される。三池労組の組合員の約
者高橋庄太郎氏に提供いただいた。御礼申し
半分が三池新労に加わって、ストから離脱し
上げる)
た。七月七日、石炭を出荷まで貯めておく貯
炭場であるホッパーへの組合員立ち入り禁止
四、眠れる豚 怒れる獅子
の仮処分を福岡地裁が下すと、福岡県警はホ
苛酷な三池の労務政策のなかで三池の労働者は
ッパーを占拠している三池労組組合員を排除
どのように立ち上がったのか。どのようにして強
するため警官隊を差し向け、ホッパー周辺は
い組合をつくり上げたのか。向坂さんによれば、
一触即発の状態となった。そこで、流血の惨
それは「窮乏化理論」だということになる。向坂
事を恐れた日本炭坑労働組合(炭労:全国の
さんはよく私たちに、
「三池の労働者を育てたの
石炭産業の労働組合)と三池鉱山は中央労働
は我々じゃないよ、日本の独占資本だよ、三井資
委員会に事態の解決を一任した。
本だよ」といった。つまり、資本主義的一般法則
八月一○日、中央労働委員会は斡旋案を発表
が一方で労働者に「窮乏」を強いたが、他方でそ
したが、その内容は会社は指名解雇を取り消
れが契機となって労働者を団結させ、その窮乏に
す代わりに、整理期間の終了を待って、指名
抵抗させる力をうみださせたのだという意味であ
解雇された労働者は自然に退職したものとみ
る。その根本には、人間はこの世において疎外さ
なすという組合側に圧倒的に不利なもので
れた受苦的な存在であるが、同時にそれを乗り超
あった。しかし、もはや戦う限界に達してい
える情熱的存在でもある、というマルクスの人間
た炭労も総評も斡旋案受諾を決め、向坂も斡
観が前提されている。向坂さんはこの人間観と窮
旋案を受諾するよう三池労組幹部を説得し、
乏化論に依拠してひたむきに三池の学習会に携
十一月十一日に三池労組は無期限ストライキ
わったのだ。
私が三池に赴き、本格的に調査を開始したのは
を解除して、三井三池争議は組合側の敗北に
終わった。
一九六五年大学院に入ってからであった。その時
―4
2―
黒沢惟昭
三池闘争の終焉と現代日本
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8
1
すでに大争議は終結していたが、学習活動は活発
従業員を呼ぶときには呼びすてにする習慣になっ
に続けられていた。争議時の資料を組合の倉庫で
ておる。したがって君のいうのも一理あるけれど
調べ、不明な点を、組合長の宮川睦男さんそして
も
「向坂教室」の創始者灰原茂雄さんや塚元敦義さ
ると思うし、今後も、やっぱり姓だけを呼ぶ以外
んなどに幾度もききとりを試みた。
にない」というものであった。さらにまた、彼の
!さん"とか!君"とかをつけると、問題にな
また、炭鉱住宅や組合の分会で行われた学習会
妻が急病で倒れたときも、会社の規則をたてに
で学んだことも多い。それらのなかでとくに系統
とって、帰宅を許してくれない。こんな不愉快な
的に語ってくれたのは塚元さんであった。話し方
できごとが重なり、
「軍隊というところも、とん
もうまかった。しかも、塚元さんは体験を『労働
でもないところだと思っておったが、三池炭鉱は
者宣言』(労働大学一九六九年)として出版され
軍隊よりもっと悪い。本当に会社の利益だけを考
た。(本書の書評については『教育』
(国土社、一
えて、労働者のことなんか考えたことがないん
九六九年十一月)の拙稿を参照のこと)
じゃないか。米の特配をもらうことも大切だけれ
この書は私の聞き取りと重なる部分が多いが大
ども、家内が病気といっても、証明書がなければ
変参考になる。そこで、図体ばかり大きくなにも
帰さない。若い課長が呼びすてにする。それだけ
しないという意味で当時「眠れる豚」といわれた
じゃありません。その他にもいろいろある。半年
三池労組がいかにして「怒れる獅子」に変身して
か一年くらいならがまんはしてみてもいいけれど
いったか、塚元さんに焦点を当てながら辿ってみ
も、あと二○年も、二五年も、このまま辛抱がで
ることにしよう。
(塚元さんの引用は前掲書によ
きるだろうか。……とても辛抱できそうにない」
る。なお、私のききとりのメモなどの資料などに
このように、三池における労働者の「反抗」の
ついては拙著『社会教育論序説』八千代出版、一
契機は前近代的な職場に対する近代人の怒りで
九八一年参照)
あった。現場の友だちのすすめで組合に相談する
藤沢孝雄さんも述懐しているように炭鉱のイ
メージは非常に悪かった。しかし炭鉱では特別優
と、執行部の回答は合社の規則だから仕方ないと
いうメイ回答で二の句がつげなかった。
遇政策が取られ、他産業に比べてコメ一日六合
その後塚元青年は職場はいやだ、働きたくない
(他産業では二合三勺)の特別配給が行われてい
と思いながらも「特配米がなくなって、さつまい
たため多くの労働者が集まった。
もを食うのも辛抱できない」ので「やめるにやめ
海軍将校だった塚元敦義さんも復員後、この米
の特配にひかれて三井に入った一人である。早く
られず」しかも「そのまま辛抱するという気にも
なれない」
仕事を覚えて、立派に仕事をしよう、三一歳の塚
元さんは一生懸命働いた。
その苦しみを解決しようとして友人のすすめで
当時九州大学教授であった向坂逸郎さんをたずね
その彼が入社して二∼三ヶ月後に、ある不愉快
ることになった。最初の出逢いのときに、向坂先
なことに気がつく。それは、中学の後輩で二つも
生のところへいけば、大学教授として今日の社会
年が若い課長が、従業員を呼ぶときに「塚元」と
状況についてもよく知っておられるということだ
呼びすてにすることであった。軍隊ですら、えら
から、そういう問題をもちかければ、具体的な答
い人が、彼を呼ぶときには、塚元中尉……とか、
が聞けるだろうという塚元さんの期待に反して向
なにかを姓の下につけていたのに民間会社で、し
坂さんのいったことは「みんなが困っておるか、
かも年の若い課長が、従業員を呼びすてにすると
不満があるかをきいてごらん。聞いてみんなに不
いうのはどう考えもおかしいんじゃないかと思っ
"!な
満があるというなら、話合いをしようじゃないか
て、呼びすてにされるたびに おかしいな
と呼びかけなさい、みんなの話し合いのなかから
んでなんかなぁ と、だんだんカッカしていっ
どうしたらいいのかということがでてくるはず
た。どうにもたまりかねてその点を件の課長にた
だ」というものだった。不満だったがほかにいい
だしてみたところ、課長の答は「わが社は、明治
考えもなかったから半年程、組合員の間をまわっ
二○(一八八七)年の創設以来、経営者や部長が
てみた。その結果「みんなが困っている、しゃく
"
!
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長野大学紀要
第3
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にさわるという。しかし、話し合いをしようとい
! !
組合の目をのがれて、最初は塚元家で、のちには
うことになると、誰一人話し合いをしようという
生長の家、東本願寺別院、個人の家等々転々と変
人がおらんですがね」
。そこで向坂さんに再び相
えて行われる。しかも、集会は、
「職場の不平・
談することになった。ところが向坂さんのこたえ
不満のいい合い」からだった。こうした話し合い
は「それはそうかも知れんな、まあ、簡単にはい
のなかから八人のそれぞれは「とにかく、自分の
かんだろう。といって、これ以外に方法はないん
胸の中にこもっている不平・不満をそのなかでぶ
だから、塚元さんが話し合いをしようと呼びかけ
ちまけられたという気持ちですね。もう一つは不
て、なおかつ話し合いをしようという人がおらん
平・不満をみんながいい合うわけですから、そう
であれば、なかなか、今後もでてくるかどうかわ
いう不平・不満で苦しんでいるのは、 おれ一人
からんけども、三池炭鉱には二万六○○○人も労
じゃないんだな
働者はおるんだから、そのなかには、三井がおそ
う、これがあったわけです。非常に勇気がでてく
ろしくても、たとえ、やってもムダだということ
るわけですね。……なにかこのなかから、やめた
であっても、ひとつやってみようじゃないかとい
いな、という気持ちを解決できる方法が見つかる
う変りもんがおるはずだ。そういう変りもんを探
んじゃないか」という期待をもちはじめる。しか
したらどうか」ということだった。塚元さんは、
し、「どこまでいっても、不平・不満はつきない
不満だったが、それ以外に方法がなかった。また
んですが、どうしたらよいかということについて
半年近くも「どうか、どうか」と呼びかけた。と
は、なにもでてこない」
。そうするうちに、向坂
ころが今度はその甲斐があって、とうとう「変り
さんは「不平・不満を各自でいいよっただけで
もの」を発見する。その喜びを塚元さんは次のよ
は、解決はでてこない。なぜかというと、その不
うに語っている。
「やっぱり先生がいわれたとお
平・不満が、どこからどうしてでてくるか、その
り、変わりものがおりました。変わりものが八名
ところをはっきりしなくちゃいかん。一口でいう
みつかりました」
なら、資本主義という社会のしくみのなかから、
"
#"みんなもそうなんだな#とい
的に学習会の調査活動を行ったのは一九六五年大
そういうものがどうしてでてくるのか、これを
! ! ! ! ! ! ! !
はっきりさせなくちゃいかん。なぜでてくるかが
! ! ! !
! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! !
わかると、どうしたらよいのかということもでて
! ! ! ! !
くるはずだ。そのへんをはっきりしないと、いか
学院進学以降である。ききとりを行った場所は主
んわな。ただ、しゃくにさわる、それが不満であ
として組合本部の執行委員長室で相手は塚元さん
る、というだけでは解決がつかないよ。したがっ
! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! !
て、その不満の原因がどこにあるのかをはっきり
! ! ! ! ! ! !
! ! ! ! ! ! ! ! ! ! !
させるためには、勉強しなきゃいかんわな、資本
私は一九六三年に初めて三池の労働者に会っ
た。しかし大牟田に赴いてヒヤリングを主に本格
だった。多忙な執務のあい間に行われしかもそこ
には宮川組合長ほかの執行委員の方々もおられ、
との対談、さらに後年(労働大学講師になられ
主義社会のしくみ、構造について、理論的に理解
! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! !
せ な い か ん わ な。その理論的に理解するなかか
!
! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! !
ら、どう対応するかということがでてくるんじゃ
た)灰原茂雄氏とのインタビューによっても補っ
ないか」と忠告し、さらにそのためのテキストに
た。従って、本稿の引用は正確を期するために一
は、「『共産党宣言』とか、
『帝国主義論』とか、
九六九年に出版された前掲塚元書によっている
マルクスやレーニンがいろいろな本を書いておる
が、それは以上の私なりのききとり、インタビ
けども、なにをやっても君らにはわからんだろ
ューの「集約」と考えていただければ幸いであ
う。どうせわからんなら、ひとつ『資 本 論』を
る。
やったらいいだろう。それも、一年や二年じゃだ
しばしば塚元さんの話を補充された。また、不明
な点は後日、執行委員の河野昌幸氏や、山下開氏
めだぞ、五年か一○年ぐらいは続けてやるという
五、八人のさむらい
ことでなければ」ということだった。塚元青年ら
一九四七年(二二年)十月から毎週火曜日五時
は、いささか承服しかねたけれども、不平・不満
から八時まで集会がはじまる。場所は、会社と
をいうだけではどうにもならないということをい
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黒沢惟昭
三池闘争の終焉と現代日本
! ! ! !
ままでの話し合いで実感したあとだったので、
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"それをやりましょう#ということになり週一
らない。君にもわからないだろう、と笑いとばさ
回、向坂さんが大牟田に出むいて三池の『資本
と、労働者が現場で学ぶことの違いが君にはまだ
論』学習会がはじまる。
わかっていないんだね。向坂さんはそういいた
れてしまった。研究室で『資本論』を読むこと
一九五三年(二八年)までかかって『資本論』
かったのかもしれない、といまでは思っている。
第一巻が一通り終り、向坂さんの「わかったか」
マルクスは『資本論』を階級闘争のために労働者
という問いに「わからない」と一同答えると「わ
の解放のために書いたのだよ、と向坂さんは私た
からんのがホンのこつ。マルクスという天才が、
ちにもよく語ったが、労働者との学習会でもさま
一生涯かけて書いたものを、君らが一週間に三時
ざまな具体的な例を挙げて『資本論』をわかりや
間、五年くらいやったってわかるはずがない。わ
すく「解説」に努めたそうである。大牟田で行わ
からんのが本当だ。それをわからんというのは正
れた「三池闘争四○周年」では「向坂教室」に参
直だ。それじゃ、もういっぺんやろう」というわ
加した労働者もその想い出を詳しく語ってくれ
けで、一九五八年(三三年)までかかって二回目
た。労働者の学習の方法として興味深く納得でき
が終る。「わかったか」「わからん」
「もう一ぺん
るところである。
しよう」ということで現在(当時)
、三池闘争で
本稿の『資本論』の学習会の成立の経緯につい
中絶があったが、第三回目を続行中とのこと。人
ては、前出の『労働者宣言』のほか向坂逸郎氏と
数も出発は八人だったが、一九四九年(二四年)
のたび重なる対談によるところが大きい。それを
には十五名、一九五○年(二五年)には三五名、
私なりに構成してみた。なお、「八人のさむら
第一回が終了した一九五三年(二八年)には九○
い」のネーミングは黒澤明の名作「七人の侍」を
名にふくれあがっている。そのなかで塚元さんは
もじったものである。
"
#という状態にはなりません
「まだ、 わかった
けれども、わからんなかからも、その原因がどこ
六、向坂教室の成立
にあるか、少しずつ、つかんできた」といってい
通常どこの組合やサークルの学習会でも講師と
る。社会主義理論が少しずつ、
「意識のすすんだ
いう問題にぶつかるのであるが、三池の『資本
労働者」のなかに、伝えられていることが感じら
論』学習会には向坂逸郎という誠にねがってもな
れる(2)。
い講師がいた。向坂さんは人も知る労農派の論客
私が三池で『資本論』の学習会に参加したのは
でその思想のために九州大学を三年で解雇され戦
ずっとあとのことであるから、向坂さんも塚元さ
前、戦中の浪人中に、文筆活動のかたわら『資本
んもその場にはいなかった。私が参加したときは
論』研究に専心した。その時に、わが国において
若い九大の講師がチューターで「労働強度」の章
は、マルクスの思想が一部のインテリにしか実を
がテーマだった。私たちの大学のゼミのように担
結ばず、大衆と離れる傾向があったこと、つまり
当者がレジメによって報告を行うというスタイル
「理論」が「大衆」をつかんでいなかったこと
ではなかった。
(マルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』)、そのた
「二ヶ月前、三ヶ月前に比べてどうも疲れる」
めに遂に戦争を防ぐことができなかったことを痛
―そんな話しあいから学習は始まり、それがここ
切に感じていた。こうした日本のマルクス主義に
(『資本論』)に書いてある「労働強度」だ。その
対する反省は、彼をして「日本の労働運動を強く
原因はなにか?それを具体的に、思いつくままに
する以外に、あの暗い戦前の日本の再来を防ぐ方
皆が挙げ、『資本論』の例示と関わらせてチュー
法はない、……民主主義の最後の最強の衛りは、
ターが説明していく―そんな風に夜の学習会は進
労働者の組織であると思い、産業の各部門に、こ
んだ。なるほどと思った。
とに基幹産業の労働組合に、強い太い柱を立てる
いつだったか、
「価値形態論」はどう教えたん
ことによって、労働者の組織を支える」ためにそ
ですか、と向坂さんにたずねたことがあった。あ
の生涯を捧げる決意をさせる。
(生前、向坂さん
んな難しいことはわかるわけがない。私にもわか
はくりかえしこのことを私たちに語ったことがい
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まも心に残っている)
。この決意は敗戦直後、思
なことを意味していると思われる。向坂門下生の
想問題で追放された者はもとの大学へ復帰させ
証言によれば彼の九州大学における学生・若手研
る、という当時の通達と、彼の師山川均の「労働
究者に対する影響力もまたきわめて大きいものが
者の都市大牟田で、どっかとすわりこんで運動を
あり、それらの者も、
「同志的」結合によって、
やるといいですね」というすすめで「大学教授の
学習活動の拡大と共に献身的にチューターとして
職と社会主義者とのいずれかを選ばなければなら
参加するのである。三井三池の労働組合が「講師
ない場合には、間違いなく社会主義者の方を選ぶ
にめぐまれていた」ということについては以上の
こと」を条件に九州大学に復職したときに現実化
諸点を考慮しなければならない。
の一歩をふみだす。
このような背景があったから、仮に、塚元青年
との出逢いがなくともなんらかの形で彼の生誕地
七、実践学習の組合組織化
―三池学習会の特色
でもある大牟田の三池労組員と結びつく必然性は
三池の学習活動で指導的役割を演じたのは、塚
あったであろう。さらに彼は、一九五一年(二六
元敦義氏であった。向坂教授がもっとも信頼した
年)戦前労農派マルクス主義の理論で社会党を階
この高弟は、その人柄と誠実な努力を通じて信頼
級的に強化することを志向した「社会主義協会」
を集め、向坂イズムは多分に同氏の人間性を通じ
を山川均と共に結成した。この影響をうけて『資
て浸透していった。三池向坂教室は、マスコミそ
本論』学習グループは、次々と社会党に入党し、
の他巷間で伝えられたような棒をのんだような教
社会主義協会にも参加してゆく。さらに『資本
条主義ではなかった。三池学習会の特色は、理論
論』のほかに、
『空想から科学へ』や『共産党宣
学習の聞き流しではなく、
「実践学習の組合組織
言』その他世界や日本の資本主義の発達史、世界
化」(組合による組織的学習)にあった。それゆ
の経済的・政治的情勢、社会主義運動や労働組合
え、理論学習に不得手な坑内労働者に深く浸透拡
運動の歴史も読まれたのである。
(とくにレーニ
大した。
ン『左翼小児病』を熱心に読んだことは、後に、
このグループ員が地道な努力を重ねて次々に組合
塚元氏の職場における怒りに発した学習会は、
執行部に入る独特の戦術として大いに役立ったの
八人のさむらいとともに始まり、さらに一五人、
ではないかと推察される。これも繰りかえし向坂
三六人と増え、その後組合支部執行部をとること
さんが私たちに語ったことである)
に成功する。
以上のような学習のなかで、
「意識のすすんだ
さらに学習活動をすすめながら、活動家が職場
労働者」は、マルクス主義を「研究室で、浮世ば
の中で不平・不満を吸いあげ組織するという実践
なれ」したものとしてでなく明確な目標をもっ
活動にとりくんでいく。そして、一九五二年(二
て、すなわち労農派マルクス主義者として(政党
七年)に職場分会を、つづいて、居住組織、地域
としては、向坂自身の綱領起草による「左派社会
組織をつくり、翌一九五三年(二八年)には主婦
党」を目ざして)育成されていったのである。向
会をつくり上げた。この家族ぐるみの組織体制の
坂さんはこの点に関して「学習会とは、ただ知識
強化によって、一九五三年(二八年)には有名な
を得るためのものであると考えないことである。
"英雄なき一一三日のたたかい#が闘われた。
知識を働く人間が獲得すると力となる。しかし、
この結果、三池では三一一名の退職勧告者の首
知識だけでは組合は強くなるのではない。組合は
を守ることに成功した。
「日本はおろか世界の資
人間の結合である。われわれが、学習会を始めた
! ! ! ! !
とき、お互いの同志的結合が育ってくることを感
本主義諸国の労働運動史上で首切りに反対して成
じた」と私たちに語ったが、この場合の「同志的
ち立てられた金字塔として全労働者階級への鼓舞
結合」とは、単に「教授」と「学生」という知的
激励となった。」
功した数少ない例で、日本の労働運動のなかに打
交流やまた親睦会的なものでもなく、同一の戦
それは「会社側の全面後退」であり日経連をし
略、戦術に従うというきわめて、組織的・実践的
て「経営権の放棄」となげかしめたものであっ
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黒沢惟昭
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た。このように、首切りを阻止した点でこの闘い
て、得票数は二倍になるほどに組合員の意識は向
は大きな意味をもつものであるが、その後退職金
上する。これが一九五五年(三○年)度の行動方
目当ての退職者が続出していき、結局実質的には
針で、「階級政党の育成」「本来は政党が行うべき
首切り成功という皮肉な結果になる。このため三
政治行動の実践部隊とならねばならない」という
池労組は「衣食住に関する生活様式の改善を指導
形にまで高められる。
する」ことを目標に、居住生活そのものの改革運
以上の点を考慮するとき当然に、学習活動が活
動を積極的に行なう。たとえば高利貸しからの借
発に行われたことが推察されるが、その資料的裏
金を組合共済会で肩がわりし、財政状況のひどい
付けはできない。おそらく持続的なものとしては
家庭には家計簿を組合が支給して、それを組合が
『資本論』学習が主なものであったのではあるま
点検するということまで行なった。さらに、集会
いか。資料的裏づけは不可能としても、
「生活平
時間の厳守、虚礼の廃止、節酒から「家族会議に
等」「階級的連帯」「政治活動」が学習会の課題で
よる生活設計」「給料一日ねかせ運動」―賃金は
あり、具体的問題と密接に関連して討論されたこ
いったん自宅にもち帰り、家族全員の討議を経て
とが、想像される(たとえば生活革命時に次のよ
家計を設計していく―にまで発展する。こうした
うな話題が討論にのぼったことが報告されてい
「生活革命」ともいうべき運動において地域分会
る。「正月に二∼三人で酒をのんでいるところに
や、とくに主婦会の果たした役割りは大きい。そ
世話方がくれば、奥さんは断りきれずに上にあげ
の注目 す べ き 成 果 と し て は 一 九 五 四 年(二 九
るだろう。そうすれば世話方はゴウ然とあがって
年)、多年三池労務管理の主柱であった「三池世
くるだろう。これをどう思うか」
。これに類似し
話方制度」が廃止され、かわって組合の地域分会
た話題が、主婦会、地域分会で毎日くりかえし討
と主婦会が主役となって三池独自の「地域社会」
論されたと思われる。こうしたことにもとづく組
が形成される。
合員相互の信頼がなければ、家計簿を組合が管理
以上の生活革命とともに次の二つの地域に対す
するという集団行動などがスムーズにいくはずが
!
"による
るとりくみも、「階級連帯」の観点から注目され
あるまい)。こうしていわゆる 三池人
よう。
労働者社会が生活、地域の場においても形成され
第一に三池労組の一九五五(三○年)度行動方
ていったのである。いい方を変えれば、前出の実
針は「市民、農民との提携」についてである。そ
践学習による組合組織化が職場から地域、家庭に
の一つは「労働者の収入の上下と市民の景気の上
まで浸透したといえよう。
下は、長い目でみれば常に一致していることを啓
蒙すること」、二つは「ストの実力により一時的
八、主婦の役割、子どもの問題(3)
感情をつき破ってでも毅然たる態度で、労働者の
労働組合運動のなかに占める「家庭」とその
価値を認めさせ、自分の利益ばかりしか考えない
「主婦」の役割は、きわめて大きい。争議が家庭
世論を屈服させること」の二つとも強調し、この
から崩れ去り、そのため運動が阻害され、分裂が
方針のもとに四二五店の加盟店をもつ大牟田市革
助長される例が多いからである。さらに組合財政
新商店連盟が結成された。
の確立は家庭経済の合理化と生活権確保にある
第二に電化労組に対する首切り攻撃に対して
が、それは主婦の意識の発展なくしては不可能で
は、三池の組合員が電化社宅を一軒一軒オルグ
ある。とくに生活が密集して、生活と職場が一体
し、また日鋼室蘭や杵島炭鉱への攻撃に対しても
となっている炭鉱では、主婦の組織が労働組合と
ニュースカーとオルグ派遣はもちろん、資金や物
密接な協力関係を結ぶことが不可欠である。三池
資のカンパを行うなど、企業や産業別の枠をこえ
においてもそれは容易なことではなかったが、あ
た労働者の連帯をかちとった。また政治活動につ
たりまえの女たちが、あたりまえの人間の幸せと
いても、三池では衆院選をはじめ、推せん候補全
社会の平和をきずくためにはそれを阻むものとた
員を当選させた。とくに三池労組出身候補につい
たかわざるを得なかった。組合と協力し、寄り
ては一九五一年(二六年)四月の市議選にくらべ
そって話し合い、それを一つずつ実行した。もち
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長野大学紀要
第3
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かから学んだ。まず生活革命運動として、とくに
! ! ! !
に教える こ と に た い し て、教 師 た ち に「え ん
! ! ! ! ! !
りょ」があったのではあるまいか。労働者階級は
! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! !
!
真実を子どもに教えることを必要としており、心
! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! !
底でそれを要求しているのである。子どもの分裂
家族会議の実現は彼女たちの努力が見事に実を結
という最悪の条件下では、結局情緒的な仲よしで
んだ例である。三池闘争を経てこの家庭の民主化
は統一は守れないことを三池闘争は教えた。その
は一段と深まった。闘いがそれを「強制」したの
他労働運動と公民館活動の関連等、私たち自身が
である。就労後の差別と切りくずしのなかで、脱
掘り起こさなければならない問題は多い。
ろん実行しようとしてもできなかったことも多
かった。実現のために、長い運動と激しい闘いを
続けなければならないことを彼女たちは運動のな
落しようとする夫を、妻がしばしば翻心させ、第
荒畑寒村は三池の大組合主義を批判したことが
一組合に踏みとどまらせるという例があちこちで
ある。『寒村茶話』朝日選書、参照)。それが気に
見られた。こうしたなかで、主婦をたんに妻とし
なって、その後私は筑豊の炭鉱を調査している
てだけでなく、同志として見る眼が育ち、深まっ
が、未だまとまっていない。ただ、二度めに筑豊
た。闘いのなかで、家族の愛のかたちが変わり、
を訪れたとき、筑豊の記録文学者として名高い上
かつ深まったのである。まさに新しい家庭の創造
野英信(一九二三年―一九八七年)のご子息・朱
がそこで行なわれたのである。彼女たちの現在
さんと知り会い、著作集第Ⅰ期全五巻を入手し
(当時)の課題は「内職」問題である。
「内職か
た。(因みに朱さんは古書店業者である)。その第
ら本職へすすもう」
、これが彼女たちの追い込ま
三巻に「三池の子どもたち」というすぐれたルポ
れた自覚である。しかしこの主婦の労働と主婦会
がある。子どもたちからみた三池闘争を鋭く描い
活動をどう調整していくか、三池主婦会の残され
ている。大人たちも、そして、教師も全くそのこ
た課題である。
とに気がつかない。それらに基づく「闘いと教
子どもの問題もある。
「一一三日のたたかい」
育」については稿を改めたいが闘いのなかで自己
の頃すでに「子どもを闘争にまきこむな」という
批判を迫られた一教師の告白の一端を参考までに
批判があったが、三池闘争時はその批判はさらに
引用しておきたい。
大きくなった。しかし、子どもたちは主婦と各地
からの支援のために集まった教師たちとの努力で
「具体的な敵と具体的なたたかいの場をもたない
自主的活動にとりくみ、闘争のなかでゆがめられ
創造性なんて、要するにナンセンスだったので
ることなく育っていったことが、種々のグループ
す。……わたし、自分が、教師であることが恥し
の作文のなかに実証された。もちろん、親たちの
くなってしまいます。いったい教育とはなんだろ
闘いについての理解と認識の程度には、学年段階
う……。そう思うと、いてもたってもおれないよ
によって差異はあろうが、闘争の正しさを父母た
うな気持ちに襲われます。子どもと一緒にピケに
ちの真剣な闘争そのものから直接肌に感じるかた
たとう、という声もつよまっています。けれど
ちで形成されていったように思われる。したがっ
も、討論の結果はいつも、第一組合の子どもが全
て闘争の本質を知らないで、子どもをまき込むな
部ではない。第二組合の子どももいれば一般市民
という抽象論には子どもたち自身が反論してい
の子どももいる、というわけで、良識派の中立主
る。(後論「教師の告白」参照)。子どもがこれら
義が勝利をしめてしまいます。わたしたち、子ど
の肌で感じたものから正しく育つためには、教育
もを教育する資格があるのかしら、……」
が重要な意味をもっていることはいうまでもな
「……生きたいわ……今まで死んでいたのだわ」
い。主婦会は教育について「教組との連携をとっ
て」と総括をしているが、教師の側にも多くの問
題があったことが報告されている。ある主婦が指
九、三池闘争の終焉と市民的ヘゲモニーの
形成―総括と展望―
摘しているように、第一が正しく第二が悪いとい
1.三池闘争と労働者ヘゲモニー
うことを教えよ、ということではなく、合理化の
! ! ! ! ! !
本質、労働者の団結権などについて真実を子ども
戦後の労働運動のなかでいえば、資本の側の圧
倒的ヘゲモニーに、労働者がたたかいを挑み、三
―4
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黒沢惟昭
三池闘争の終焉と現代日本
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8
7
一三日間の全面的ストライキをやり抜く程の対抗
る。それが可能な社会を創る)の確立を目指した
ヘゲモニーを樹立したが、遂に敗北したのが三池
のであった。ただし、イタリアのトリーノにおけ
闘争であった。文字通りそれは総資本対総労働に
るように、
「工場占拠」による労働者の生産活動
よるヘゲモニーをめぐる苛烈な階級闘争であっ
を目ざす運動ではなく、資本主義的合理化に対抗
た。それではこのたたかいの本質とはなにか。旧
するぎりぎりの極限における抵 抗 運 動 で あ っ
著から引用すれば次のようになる。
た(4)。
「資本の側が職場活動家(資本家のいう「生産
私は以上に要約される三池のたたかいを、現地
阻害者」)を名指しで企業外に、いな経済的生活
調査によって、学習会を中心に総括したことがあ
から抹殺しようとした点にある。つまり、資本の
るので(前掲拙著)
、詳しくはそれをご笑覧いた
意図は単なる合理化でなくて、労使関係の根底の
だくことにして、以下に対抗ヘゲモニーの中核を
変革をふくむ合理化であった。しかも、それが巨
占めた三池の学習・教育の特色を三点にまとめて
費と、国家権力と全資本の支援のもとに遂行され
みよう。
たのである。
(因みに、組合側が費やした経費二
(一)生産の場や生活の場で発生するさまざま
十二億円、三池現地に動員された労働者延べ三十
な疎外の問題をマルクスの『資本論』で説かれる
二万人、会社側の損失二百二十億円といわれる)
資本蓄積の一般理論と結びつけて理解しようと努
この闘争の進行過程で労働者は、資本主義的国家
めた。その前提には、個別の問題をそれだけで解
をつぶさないかぎり労働者側が勝利しえないとこ
決しようとするのではなく、つねに資本主義体制
ろまで追いつめられた。しかし、安保を切り抜け
の問題として捉え、それによって社会科学的認識
た権力側の相対的力の増大、第二組合の発生、炭
を目ざしたのである。同時に資本主義的蓄積の一
労における三池の孤立、等を主因として労働者側
般的法則の帰結としての労働者の「窮乏化」は必
は結局、資本の側の条件で争議を終結するほかな
然であるが、それを単に経済理論として捉えるの
かった」(前掲『社会教育論序説』参照)
ではなく人間の意識の面も含めて理解しようと努
もちろん、労働者側の対抗ヘゲモニーも空前の
めた。いいかえれば、資本主義社会における労働
拡がりと深化を示し、
「企業合理化に伴う首切り
者の自己疎外(窮乏化)が経済的かつ哲学的次元
に反対して成功し」
、一時は日経連をして「経営
だけで論ぜられるのではなく労働者のあらゆる生
権の放棄」と嘆かしめた程であった。三池でもイ
きる場(とりわけ、生産の場)で現実の形態で作
タリアの工場評議会運動と同様に生産点における
用していると理解されたことである。
ヘゲモニーの獲得(三池の「職場闘争」として有
(二)この作用に対して労働者は自然発生的に
名である)が中核であったが、これにとどまら
「反 抗」・反 発 す る。こ の「反 抗」は 発 現(作
ず、家族と地 域 に そ れ ぞ れ「主 婦 会」
「地 域 分
用)の多様性、各々の労働者の多様な個性・「状
会」という組織がつくられ、生産点を越えて労働
態」に応じて多種・多様な形態をとる。しかし、
者による対抗ヘゲモニーを進めたのである。さら
この自然発生性を意識性の萌芽として重視し、そ
に以上の三つの場の実践は、これまた有名な学習
こに依拠して小集団による、しかも現場の直接的
会によって統合されヘゲモニーの質を高めた。こ
体験の話し合い(感情の交換)によって(一)の
の点は評議会運動とは異なる。以下の特色も相異
一般論に結びつけての理解・共有化に努めたこと
点として勘案されたい。
である。(「常識」の彫琢による「良識」の段階へ
注目すべきは、これらの活動が、サークルある
さらに「世界観」へ形成しそれを共有化する)
いは有志がゲリラ的に行ったのではなく、組合が
(三)(二)の「結びつけ」が有効に遂行され
日常的に、組織的に実践したところに三池の著し
るときに、自然発生性は意識性に高められ「集団
い特色があった。
「実践学習の組合組織化」と要
意志」が生ずるのである。さらにグラムシの用語
約されるこの方式で、資本のヘゲモニー(
「合理
でいえば、この過程を「反復」することによっ
化」=労資関係の根元的変革)に対抗し、労働者
て、労働者は資本の「ヘゲモニー」から次第に離
ヘゲモニー(つまり労働者が職場の主人公にな
脱し、労働者的「ヘゲモニー」を確立していくの
―4
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である。この場合に、知識人の役割は極めて重要
「外部不経済」の多くは不特定多数の地域住民に
であるが三池の場合は向坂逸郎氏をはじめ三池近
押しつけられた。
「公害」という名称はその事実
辺の九州大学を中心とする知識人集団が積極的に
の象徴である。そのほか、経済優先という国策の
協力するという条件に恵まれていたことを特記し
ために、地域の自然や文化が著しく荒廃した例は
たい。
枚挙にいとまがない。これに対する地域住民の反
要目しか述べることができないが、以上の学習
発・不満は大きかった。だが、すでに述べた状況
の方式とそれに基づく実践が「実践学習の組合組
(三池闘争の敗北)によって、労働運動もそれに
織化」(組合の組織的学習によって集団意志を形
依拠する革新政党も、そうした不満を統合して対
成する)を有効に推進し、労働者集団の物質的・
抗ヘゲモニーを創出する活力を失っていた。
精神的連帯を創り出すことができたのである。そ
むしろ、対抗運動を担ったのは、六○年代後半
れは日本の労働運動史上空前の、恐らく絶後のと
に簇生した、女性、学生、障害者、エスニック・
いっても過言ではない労働者によるヘゲモニーの
マイノリティなど現状にたいして異議を申し立て
創出であった。だが、イタリアの工場評議会運動
るグループによる、ラディカルな対抗ヘゲモニー
と同じく、「第二、第三の三池」を創り出すこと
運動であった。因みに大規模な形での市民運動
はついにできず、結局資本のヘゲモニーに屈した
は、日本では一九五五年の警職法反対運動が最初
のであった。以後、多くの日本の労働者はその本
で、そのときはじめて「市民」の呼びかけで労組
来の意味の労働者というよりも、実態は、企業
や政党とは直接関係のない人々が知識人やジャー
人、会社人間に近い存在に変じ、当然ながら支配
ナリスト中心に組織されたのである。その後、反
者集団のヘゲモニーに対抗する中核ではなくなっ
安保の経験を経て、六五年の「べ平連」において
たのである。その結果、皮肉にも企業内組合が一
市民運動は一層の展開を見た。なお「七○年代初
般化し、終身雇用、年功序列とともに三点セット
めの調査によれば、そのとき全国では三○○○を
(日本企業の「三種の神器」)となり、日本経済
超える市民運動が活動していると報告されてい
は急成長した経緯は周知のところである。
る」(高 畠 通 敏 編『現 代 市 民 政 治 論』)。そ の 目
しばしば文中で用いた「ヘゲモニー」は説得に
的、内容は多様で一括することはできないが、あ
よって合意を得ることである。グラムシはこれを
えていえば、政治的課題よりも自分たちの身近か
文化、政治の概念に適用した。つまり、議会をは
な生活を守るために地域住民自らがこれまでの
じめ民主主義的諸制度、教育、文化などによって
「支配の対象としての地域」を生活を守るために
国家は国民の合意を図り、支配を試みる。これが
「連帯の場としての地域」に転換させようとする
国家のヘゲモニーである。これに対抗して、政
点で共通していたといえよう。このような運動に
党、労働組合など国家に対立する集団はそれぞれ
支えられ連動して、横浜、東京、大阪などの大都
のヘゲモニーを組織する。したがって国家とはヘ
市にあい次いで革新自治体が誕生したことも中央
ゲモニー関係の総体であるとグラムシは説く。
中心に効率の名のもとに、列島を“改良”しよう
という国策に対する地域の反発の表われとみるこ
2.高度経済成長と地域の問題
とができる。革新自治体の最盛期の七○年代には
前節の末尾で述べたように、三池闘争の終焉に
実に日本国民の四○%が革新首長の下で生活して
よる労働者ヘゲモニーの敗北は、国家のヘゲモ
いたのであった。
ニーに対抗するヘゲモニーの中核は労働者階級と
こうした潮流と関連して、七○年代に入って、
いう一元的なものではなくなったことを意味す
「地域主義」
「地方主義」なる言葉が流行したこ
る。三池闘争敗北後、実に一○余年に及ぶ、六○
とを記憶する読者も多いであろう。しかも、当時
年代を中心に展開された経済成長は短時日の間に
学際的な、「『地域主義』研究集談会」という緩や
日本を経済大国に押し上げた。
かな組織さえも発足し、世の注目を浴びたことも
しかし、その光の部分と同時に影の部分にも注
つけ加えたい。これについては多くの論文・著作
目する必要がある。すなわち、高度成長に伴う、
が公刊されているがその主唱者の一人、三輪公忠
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黒沢惟昭
三池闘争の終焉と現代日本
氏は、つぎのような証言をしている。
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もかかわらず、この状況に対して異議を申し立
「地方主義とは、国民国家と称される主権国家
の国土内にありながら、一特定地方の住民が、そ
て、対抗ヘゲモニーを樹立しようとする運動は殆
ど見えていない。
の地方に固有な文化を共有しているという意識
この現状をいかに打開し、市民社会における対
や、共通な歴史的体験の記憶のために、その地方
抗ヘゲモニーのための主体をどのように形成する
の地域共同体に対して、特別な帰属意識を持ち、
か。名案があるわけではないが、私の体験から教
そのために政治的には中央集権化に抵抗し、地方
育にかかわる若干の私見を述べて小論を結ぶこと
的な自主自立の原則の回復・確立を追求するこ
にしたい。
と」(前掲拙者参照)である。
七○年代の終り頃地域における学校教育の改革
先述した革新自治体の簇生という、これまでに
のために、親や教員たちによる地域の教育共同体
なかった政治の潮流変化などとも併わせ考える
が提唱されたことがある。身近かな「手のとど
と、高度経済成長を一つの契機として、労働運動
く」範囲で、子どもの教育という一点に限って立
及び革新政党のヘゲモニーの凋落と反比例するか
場の異なる人たちがアソシェーションをつくり、
のようにして、地域、自治体への関心がにわかに
国家の教育政策に対抗するプランを練り上げ、そ
強まり、そこを拠点にして、地域住民によるあた
れらを連結して、教育におけるヘゲモニー関係の
らしい 主 体 形 成 への 胎 動 が は じま っ た の で あ
逆転を目ざそうとするこの構想は基本的に正しい
(5)
る 。
と考える。
残念ながら、冷戦構造、五五年体制がなお強固
3.自治体における主体形成
であった七○年代においては、ナショナル・レベ
高度成長に伴う負の側面に対抗する市民(住
ルでのイデオロギー対立が激しく、その影響も
民)運動については先に若干触れたが、七○年代
あって自治体における教育の幅広いコンセンサス
終り頃から日本の社会構造は大きく変化した。因
(対抗ヘゲモニー)は創り出されなかった。
みに一九七五年に日本の就業人口の五十パーセン
しかし、現在冷戦構造の崩壊、五五年体制の変
ト以上を第三次産業が占めるようになった。少数
質によって状況は大きく変化した。少なくとも、
の可視の人々が多数の人々を一元的に支配すると
ナショナルレベルにおいてもかつての教育・以前
いうよりは、遍在する一見不可視のヘゲモニー関
の、不毛なイデオロギー対立は弱まり、大勢は教
係が一般化したといえる。高度情報化、高度消費
育の改革をどう進めるかという具体的プランの対
社会の進展によって、「情報」「サービス」など非
立に転じている。とくに自治体においてはこの傾
物質的な「商品」の産出システムが利潤追求の主
向は顕著である。たしかに、最近のグローバリ
要なメカニズムになって以来この傾向は一層拡
ゼーションの進展に伴って国家の「巻き返し」
大、深化している。にもかかわらず、総体として
(「市民社会の国家への再吸収」)が強まっている
「資本増殖」のメカニズムは一定の「自由」
「個
とはいえ、反面自治体の力量も強まり、行財政改
性」「多様性」を受容し、推奨しながら自動調整
革のための分権化も推進されつつある。従って国
的に作動しているかのようである。つまり、資本
家による分権化政策を住民・市民によって本来の
制システムの側のヘゲモニーはこの限り有効に働
自治体に転換する具体的方策を模索し実施する必
いているということである。
要がある。
しかし、反面、このヘゲモニーの浸透のなか
このような状況下で私が多少とも関わった事例
で、生産のプロセスだけでなく、消費の領域にお
でいえば、各自治体の生涯教育(学習)について
いても、様々な人間疎外の状況を呈していること
の「策定」ないし「推進」のための「委員会」に
は周知のところである。教育に限っていえば、増
注目したい。とりわけ、そこにおける市民(団
え続ける不登校、そのほかいじめ、校内暴力、学
体)と行政側のコ・プロダクト、協働の機能であ
級崩壊、「学び」からの逃走そして最近では経済
る。私としては、かつての教育共同体の構想をこ
的、文化的格差の拡大傾向も指摘されている。に
の委員会によって再生できるのではないかと考え
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る。地域の様々な諸団体の多様な要求をそこに集
され、それらが徐々に展開し、連結されていけ
約し、討論し、
「調整」するのである。行政側は
ば、グラムシのいう自己規律的社会も展望できる
そのための「場」の提供と一定の財政的支援を行
のではないだろうか。その可能性は極めて大きい
うことがコ・プロダクトのための不可欠な要件で
と考える。そのことを期待して小論を閉じる。
ある。
(以上の論点を詳述した拙著『現代に生きるグラ
もちろん、コ・プロダクトなどといってみて
も、意味、内容は多様である。たとえば、これま
ムシ―市民的ヘゲモニーの思想と現実―』と併読
されることをお願いしたい)(完)
でしばしばみられたように、予め行政側が「叩き
台」をつくり、委員が若干の意見を開陳しておし
追
記
まい、というのでは極めて形式的な「市民参加」
三池闘争については私は大学時代から関心を抱き調
でしかない。そうではなくて、
「白紙からのマス
査研究を重ねてきた。さいきん、それを自分史的スタ
タープラン」づくりが不可欠であり、委員選出も
各団 体 の 代 表 の ほ か、
「公 募」委 員 の 選 出 の 保
障、加えて行政側が蓄積している「情報の完全公
開、会議・議事録の全面公開」がコ・プロダクト
のためのミニマムな条件である。
イルでまとめてみた。(拙稿『現代に生きる三池』山梨
学院生涯学習センター紀要、2
0
0
7年参照)
。本稿はここ
から部分的に抽出し、「はしがきにかえて」をはじめ加
筆・訂正を施して論文化したものである。校正の段階
で、紀要編集委員野原光氏から詳細なコメントをいた
だいた。反論を注等で行いたいと念じたが、紙巾の制
私が関わった、自治体の委員会のほか、見聞し
約のために断念した。なお、私は三池闘争の総括を近
た限りでも、コ・プロダクト形成は大きな可能性
刊予定の拙著『三池闘争の終焉と現代日本の生涯学
があることを実感できた。とくに、行財政改革の
習』として試みた。野原氏のご芳誌を感謝しつつも、
ためもあって、従来、行政が担当してきた領域を
反論は私の近著をご参照願いたい。
市民のボランティア(意志、主体性)にうけわた
さざるをえない面が増大している。こうした状況
注
を負の面としてのみ捉えるのではなく、逆に実質
(1)
「はしがきにかえて」は教育文化総合研究所の
ホームページに寄せた拙稿を転載した。
的な市民参加の拡大・深化(対抗ヘゲモニー)の
契機として捉えかえす市民の主体性と力量が求め
(2)この辺の叙述につい て は 拙 著『社 会 教 育 論 序
説』
(八 千 代 出 版、1
9
8
1年)p6∼p3
5を 参 照 さ れ た
られている。
如上の管見は、生涯学習という限定された機
能、領域における私の体験によるが、課題は地域
い。
(3)注(2)第二章を参照のこと。
(4)工場評議会運動については拙著『アントニオ・
によって様々であろう。それはなんでもよい。そ
グラムシの思想的境位』
(社会評論社、2
0
0
8年)p8
9
の課題解決のために以上に要目を記したコ・プロ
ダクトの関係を各自治体に創り出すことが肝要で
∼p1
0
1を参照されたい。
(5)この辺の状況については注(2)第九章を参照
ある。こうした発想、実践によって自治体という
市民社会の一角から新しい対抗ヘゲモニーが形成
―5
2―
のこと。
長野大学紀要
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3―6
2頁(1
9
1―2
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0頁)2
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竹内好と魯迅
Yoshimi TAKEUCHI et Lao She
佐 々 木
!
*
SASAKI Thoru
とつかん
維新への信仰を促進させよう。(
『 吶喊』
「自序」
、『世
1 魯迅の年譜から
界文学大系6
2魯迅・茅盾』筑摩書房1
9
5
8、5頁)
「阿 Q 正伝」の本質的な部分と魯迅の生涯を
確認しておき、そして竹内好がそれらについてど
「私の父のように」とあるのは、1893年で父親
のような部分に関心を持ち、どのようなことを考
が病んでいた時のことである。父親の薬のために
えたかをみていきたい。したがって、魯迅の生涯
お金を使ったのであるが、このことを医者にだま
の重要な部分をみておく。日清戦争が終わった後
されたとしたのが魯迅の認識である。これが医学
1896年、明治2
9年の年に魯迅は父親を失ってい
への動機である。単に病人をなおすだけでなく、
る。16歳の時である。母親は、官吏登用試験に何
「国民の維新への信仰を促進させよう」という思
回も失敗した夫のかわりに、長男の魯迅に期待を
いがある。
「信仰」という気になる言葉が使われ
かけたのである。それが1898年18歳の時の南京で
ているが、考え方が啓蒙的であることは間違いな
の学びである。成績優秀の結果、日本に派遣、留
い。その思いが、日本において学ぶべきことは
学となったのが1902年である。魯迅が1923年に発
「西洋医学」ということである。これはむろんの
表した回想を見る。
こと、江戸時代の蘭学、すなわちオランダ医学を
シーボルトに学んだ人たちのことを知ったことに
しだいに私は、漢方医はけっきょく意識的あるい
よる魯迅の記述であろう。
かた
そして1904年には、医者になることを志して、
は無意識的な騙りにすぎない、ということをさとる
かた
ようになったのである。そして同時に、騙られた病
東北大学医学部の前身である仙台医学専門学校に
人と、その家族にたいして深い同情をいだくように
入学し、解剖学の藤野先生と出会う。しかし、そ
なった。さらにまた、翻訳された歴史書によって、
の医者になる考えが変わる。きっかけとなったの
日本の維新が大半、西洋医学に端を発しているとい
が次に引用するできごとだった。藤野先生にノー
う事実をも知るようになったのである。
トを見てもらっていたことから試験の問題が教え
これらの幼稚な知識のおかげで、のちに私の学籍
は、日本のある田舎町の医学専門学校に置かれるこ
られていたのではないかと日本人学生達に疑われ
た事件のあとであった。
とになった。卒業して国に帰ったら、私の父のよう
に誤られている病人の苦しみを救ってやろう。戦争
中国は弱国である。したがって中国人は当然、低
の時は軍医を志願しよう。そしてかたわら、国民の
能児である。点数が六十点以上あるのは自分の力で
*企業情報学部教授
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2
長野大学紀要
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はない。彼らがこう疑ったのは、無理なかったかも
うな人物である。村人は忙しいときに彼を思い出
しれない。だが私は、つづいて中国人の銃殺を参観
すだけで、姓はおろか名さえどういう字を書くの
する運命にめぐりあった。第二学年では、細菌学の
か誰も知らない。そして、どんな村人に対しても
授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せる
阿 Q にとって絶対に敗北とはならない。という
ことになっていた。一段落すんで、まだ放課の時間
のも阿 Q には「精神勝利法」があるからだ。村
にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろ
中からバカにされているが、それを感じることも
ん、日本がロシアと戦って勝っている場面ばかりで
なく、逆に村の連中のほうがバカだと思ってい
あった。ところがひょっこり、中国人がそのなかに
る。村の旦那衆になぐられても、喧嘩に負けて
まじって現われた。ロシア軍のスパイを働いたかど
も、「今の世の中はさかさまだ、せがれが親をな
で、日本軍に捕えられて銃殺される場面であった。
ぐりやがる」と思えば、彼の勝利は揺るがない。
取り囲んで見物している群集も中国人であり、教室
逆に自分より弱い者と見ればすぐに手出しをす
のなかには、まだひとり、私もいた。「万歳!」彼ら
る。ところがこの阿 Q に没落と悲劇が始まる。
う
は、みな手を拍って歓声をあげた。この歓声は、い
原因は女に言いよったこと、そしてそのため、地
つも一枚映すたびにあがったものだったが、私 に
主に睨まれたことだ。やがて革命になる。革命は
とっては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。
悪いものときめこんでいた阿 Q も、ある日酔い
その後、中国へ帰ってからも、銃殺をのんきに見物
にまかせて「革命だ」と叫んでみたら、村のおえ
している人びとを見 た が、彼 ら は き ま っ て、酒 に
ら方があわてふためいたのを見てから「革命も悪
酔ったように喝采する──ああ、もはや言うべき言
くないぞ」と思いはじめる。ちなみに、この場合
葉はない。だが、このとき、この場所において、私
の「革命」とは孫文による辛亥革命のことであ
の考えは変わったのだ。(
「藤野先生」
『世界文学大系
る。しかし、それも束の間、おえら方は早速革命
6
2魯迅・茅盾』筑摩書房1
9
5
8、1
1
8頁)
党に入党し、阿 Q はたちまち「革命」から締め
出される。ドサクサのなかで彼は役人の都合で略
中国人を日本人がどう見たかということではな
奪犯人に仕立てられてしまう。引き廻され刑場に
く、殺される同胞を見せ物よろしく楽しんでいる
つくまで、まだぼんやりしたことを考えていた彼
かのように見ている同胞の姿にやりきれなさを覚
だったが、その銃殺を見物に集まってきた村人た
えたのである。そしてそのスライドを見つめる日
ちの彼を見る目が、四年前に夜道で出会った狼
本人学生ばかりでなく、魯迅自身も見つめる群れ
の、鬼火のように光る「残忍でしかも臆病な」目
の中にいることを認識している、といえよう。貧
と同じであったと思った。しかしながらもっと恐
困から脱するために中国人の健康を維持するのに
ろしい目であった。次に阿 Q の最後の場面を引
貢献しようとして医者になるつもりであったが、
用する。
その自分を含めた人々の心を変えるのが先と考え
て医者になることをやめて文筆業を生業としたわ
ところが、こんどというこんど、これまで見たこ
けである。これが魯迅をして文学の道に進ませる
ともない、もっと恐ろし い 眼 を、彼 は 見 た の で あ
ことになった経緯であり、定説となっている。
る。にぶい、それでいて、棘のある眼。とうに彼の
言葉を噛み砕いてしまったくせに、さらに彼の皮肉
2 『阿Q正伝』に関して
以外のものまで噛み砕こうとするかのように、近づ
こ の 魯 迅 が 書 い た 小 説『阿 Q 正 伝』の 主 人
公、阿 Q が中国人一般をあらわしている、とい
うことも定説となっている。この作品を魯迅が書
きもせず、遠のきもせずに、いつまでも、彼のあと
をつけてくるのだ。
それらの眼どもは、スーッと、ひとつに合わさっ
いたのは1921年で4
1歳の時であった。ごく簡単な
たかと思うと、いきなり彼の魂に噛みついた。
あらすじを言っておきたい。
「助けて……」
阿 Q は、農村社会の底辺に生きる日雇いで生
だが阿 Q は、口に出しては言わなかった。彼は、
きている。無知で間抜けで奴隷根性の持ち主のよ
とっくに眼がくらんで、耳の中でブーンという音が
―5
4―
佐々木
!
竹内好と魯迅
1
9
3
して、全身こなごなに飛び散るような気がしただけ
る)
。こうして「阿 Q 正伝」は、この時期の中国文学
で あ る。(
『阿 Q 正 伝』
、『世 界 文 学 大 系6
2魯 迅・茅
を代表する〈国民文学〉となったと同時に、「ドンキ
盾』筑摩書房1
9
5
8、5
5頁)
ホーテ」などと同じ〈世界文学〉に通ずる普遍性を
獲得し、東洋の近代文学を代表する作品となった。
そして魯迅はこの作品の最後の部分に次のよう
(前野直彬編『中国文学史』東京大学出版会、1
9
7
5。
な文章を書いて終わりにする。
2
8
4頁)
ウェイチョワン
輿論はどうか、というと、 未 荘 では、一人の異
「ジャン・クリストフ」はフランスの作家ロマ
論もなく、当然、阿 Q を悪いとした。銃殺に処せら
ン・ロランが書いた作品である。ここで詳しくは
れたのは、その悪い証拠である。悪くなければ、銃
触れないが、一人の音楽家を肯定的に描いた作品
殺などに処せられる道理がないではないか。いっぽ
である。したがって読者は主人公のジャン・クリ
う、城内の輿論は、あまりかんばしくなかった。彼
ストフと一体になって、すなわち喜怒哀楽を共に
らの多くは不満であった。銃殺は首斬りほどおもし
して生きるということになる。では「同時期の日
ろくない、というのだ。しかも、なんと間の抜けた
本文学のように狭い自我感情のなかに逃げこむ」
死刑囚ではないか。あんなに長いあいだ引きまわさ
とはどういうことか。
『阿 Q 正伝』が書かれたの
れていながら、歌ひとつうたえないなんて、ついて
は、先ほども言ったように、1921年すなわち大正
まわっただけ歩き損だった、というのであった。
(同)
10年である。すでに明治の時代は終わっているわ
けであるし、大正デモクラシー、有島武郎や志賀
も う 一 度 言 う と、阿 Q は 職 も な く、金 も な
直哉らの白樺文学運動の時代に入っている。そし
く、女性にも縁がなく、字も読めず、容姿も性格
てプロレタリア文学運動も盛んになってきた時代
も最低という、およそ人間として最下層に位置す
でもある。すなわち社会派的な文学作品は次第に
る存在である。阿 Q は<精神勝利法>と呼ばれ
増えつつある時代であった。
「自我感情のなかに
る一種の癖を持っており、どんなに詰られよう
逃げこむ」とされる代表的な作品は夏目漱石の
が、喧嘩で負けようが、結果を自分にとって都合
『こころ』であり、志賀直哉の『暗夜行路』であ
の良いように取り替え、心の中で自分の勝利とし
り、芥川龍之介の晩年の作品『或阿呆の一生』
、
ていた。これが中国人一般というわけである。た
島崎藤村がフランスへ行く前の作品『家』『春』、
とえば次のような文章があることを紹介する。中
田山花袋の『蒲団』などである。
国文学史が書かれた一説である。
では「そのネガとしての暗黒社会の典型人物、
英雄人物」とはどのようなことか。それは簡単で
「阿 Q 正伝」が提起した問題は深く広い。おくれ
ある。すなわちロマン・ロランが書いたジャン・
た中国社会で、中国近代文学は、たとえばジャン・
クリストフとは逆の人物を想定すればよいわけ
クリストフのような積極的英雄人物を創り出すこと
だ。つまり否定すべき人間であるということにな
はできなかった。だが、また同時期の日本文学のよ
る。
うに狭い自我感情のなかに逃げこむこともしなかっ
た。「阿 Q」は西欧近代の思想と近代文学の方法によ
3 竹内好のとらえ方
る、いわばそのネガとしての暗黒社会の典型人物、
では竹内好は『阿 Q 正伝』をどのようにとら
英雄人物(?)と言えるのではあるまいか。そして
えていたか。1948年つまり昭和23年、38歳の時に
その阿 Q の死は、彼を死なせたもの、すなわち「狼
雑誌「世界小説」の9月号に掲載した「
『阿 Q 正
の目」に象徴されるいつも残酷な傍観者=見物人で
伝』の世界性」からそれを見ていきたい。
しかない民衆、阿 Q のような下積みの農民をとり残
先ほども出てきたロマン・ロランが『阿 Q 正
し犠牲にした辛亥“革命”の本質をあばき、中国革
伝』を読んで感動したエピソードを紹介し、感心
命の根本的な課題を深くえぐり出した(「阿 Q が革命
はしたが、自分は好きではないと告白している。
しなければ中国も革命しない」と魯迅は言って い
―5
5―
1
9
4
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
そのころ私はまだ魯迅がすきでなかった。魯迅の
ある。「阿 Q」が嘲罵され、殴られるときに痛むの
なかでも、ことに「阿 Q 正伝」はすきでなかった。
は、魯迅の肉体である。魯迅によって、憎むものと
「阿 Q 正 伝」は 私 に は む つ か し す ぎ た。「阿 Q 正
して、打撃を与えるために、魯迅から取り出された
伝」のまとっている雰囲気が私はいやで、それが理
「阿 Q」が、魯迅によって愛されている。それはほ
解を妨げ、私は「阿 Q 正伝」と反対の側──「孤独
とんど私には啓示であった。この短い(日本語で百
者」や『野草』の側からばかり魯迅を理解しようと
枚くらい)破綻の多い、小説の体をなさぬ小説が、
していた。(
「
『阿 Q 正伝』の世界性」
『竹内好全集第
どんなロマンにくらべても見おとりしないというこ
1巻』筑摩書房、1
9
8
0。2
3
7頁)
との意味がわかった。それがわかってみると、いま
まで作品の欠陥におもわれていた点まで、長所に見
ところが、竹内好はこの作品を翻訳しているう
えるようになった。たとえば、この古めかしい英雄
ちに考えが変わってきた。その部分を少し長くな
譚が、同時に心理的手法を取りいれているほど新し
るが引用してみたい。
いのである。作品としての破綻は、欠陥であるより
は、作品を実人生に向って開放しているひろがりの
「阿 Q」ほど弱点の多い人間は、近代文学のなか
ように見える。百枚の「阿 Q 正伝」が千枚の『死せ
に珍しいだろう。どんなに思いきって自己曝露した
る魂』と等量の群像を包む大宇宙のように見えてく
つもりでも、これほどの悪徳を対象に盛ることはむ
る。ロマン・ロオランがこの作品を認めたことが、
つかしい。魯迅の苦しみの深さがよくわかる。「阿
私が想像するような甘さからではないことがわかっ
Q」というルンペン農民は、前近代的植民地社会の典
た。たとい甘さであるにしても、その甘さは私など
型だといわれている。そ の と お り だ と 思 う。し か
の手をつけられぬ甘さであることを私は理解するよ
し、同時にそれは人間性一般に通ずる普遍的なもの
うになった。(同上、2
4
0∼2
4
2頁)
──ドン・キホオテ的なものでもある。普遍にまで
高められた特殊──真の特殊だ。「阿 Q」にくらべれ
竹内好は翻訳という作業の中で魯迅がもくろん
ば「坊ちゃん」はまだまだ個別である。「阿 Q 正伝」
だ作品を本当に理解したということになる。すな
は、作品としての完成の度が低い。ほとんど作品と
わち「自分がこの作品を訳してみて、魯迅がどん
いえないくらいだ。作者もそれを自覚している。こ
なに深く「阿 Q」を愛しているかを知ったことで
れは制作の事情にも関係することで、魯迅には最初
ある。「阿 Q」が嘲罵され、殴られるときに痛む
は小説にする意図はなかった。発端のふざけ半分の
のは、魯迅の肉体である。魯迅によって、憎むも
書きぶりでも、それはわかる。だんだん引きこまれ
のとして、打撃を与えるために、魯迅から取り出
て、まじめになっていったらしい。そのような構成
された「阿 Q」が、魯迅によって愛されている。
上の不統一や、そのほかにもいろいろ欠点がある。
それはほとんど私には啓示であった。
」この最後
また、描写の誇張や、様式化など(これらは作者が
の部分に書かれた「ほとんど啓示」としている
意識して用いている手法であることが、のちに わ
が、おそらくは「啓示」とみなしてよいだろう。
かった)近代小説らしくない面がかなりある。それ
つまり阿 Q を魯迅が愛していること、欠点が長
らが、ながいあいだ私に「阿 Q 正伝」をなじめなく
所であったこと、作品が破綻しているどころか
させていた。私は「阿 Q 正伝」が気になりながら、
「作品を実人生に向って開放しているひろがり」
解釈できないでいた。ロマン・ロオランの甘さを、
さえ見えてきたのである。総じて言うのならば、
甘さだけで片づけていた。しかし私は、自分の誤解
この作品には古めかしさなどはなく、さきほどの
について思い知るときがあった。作品を自己完結的
三件目の引用でみるように、近代的な小説によく
な作品だけとして量るのはまちがいで、それのおか
みられる心理描写さえあったのである。
れている時間空間上の幅と重みから見るべきである
もう一点、竹内好の簡潔に『阿 Q 正伝』につ
ことをさとった。何よりも決定的に私の評価を変え
いて書いたもの全文を紹介する。文章の中でもわ
た契機は、自分がこの作品を訳してみて、魯迅がど
かるが、
「阿 Q 正伝」の芝居のパンフレットに書
んなに深く「阿 Q」を愛しているかを知ったことで
かれたものである。ちなみにこの芝居は1952年劇
―5
6―
佐々木
!
竹内好と魯迅
団 NHK 芸術劇場旗揚げ公演の時のものである。
1
9
5
方が阿 Q ではないかという錯覚におちる。舞台の約
束の中では、この効果は出ない。だから芝居を見た
「阿 Q 正伝」は、だれがよんでもおもしろい小説
諸君は、ぜひ原作をよんでください。それから魯迅
である。ちょっと類がないくらいおもしろい。漱石
文学を一巡して、もう一度「阿 Q 正伝」に返ってく
の「坊ちゃん」がおもしろいといったって、「阿 Q 正
ださい。それだけの骨を折っても、あなたの人生を
伝」には及ばぬだろう。
考える上に損はないことを保証します。(
「
『阿 Q 正
それでいて、よめばよむほど、味が出てきて、汲
伝』寸 感」
『竹 内 好 全 集 第1巻』筑 摩 書 房、1
9
8
0。
みつくせぬものが感じられてくる。どこまでいって
2
7
7∼2
7
8頁)
も、まだ奥がある。理解しおえる、ということがな
い。その意味では、これはむずかしい小説である。ユ
この引用の最後のほうにある「読者」あるいは
ーモア小説とかコッケイ小説とよばれていい小説で
「芝居を見ている人たち」への呼びかけに、
「い
あって、しかも哲学的な深さをもった思想小説であ
つの間にか、眺めている自分の方が阿 Q ではな
り、階級分析の正確さをもった社会小説である。こ
いかという錯覚」という部分がある。それはまさ
ういう二重の性格が「阿 Q 正伝」にはある。
しく、魯迅が仙台の医学校の教室で見たスライド
辛亥革命という一つの歴史的な時代に、未荘とい
に登場した処刑される中国人を見る「人たち」
、
う中国の一つの小さな村におこった事件をえがいて
その写真に写っている見物人だけでなく、魯迅を
いるが、それがそのまま、あらゆる時代、あらゆる
含めた教室にいる日本人学生たちの姿、それらの
人類社会に通ずる普遍性へまで達している。阿 Q と
姿に阿 Q が処刑されるのを見たがっている群衆
いう人物は、たしかに、ルンペン的な雇農を典型化
の姿が重なってくる。処刑される阿 Q が狼より
したものだが、それがそのまま、人間性の深奥にふ
怖いとする眼をもった群衆だ。もちろん過去にお
れて万人に共感をよびおこす。その共感の普遍性の
いても阿 Q はその群衆の一人であった。これは
点では「阿Q」は「オブローモフ」より上にある。ど
何も中国人に限らない。われわれ人間が持つもの
んな小説の主人公が下積みだといって、阿 Q ほど下
であり、餌のために襲いかかる本能的な動物の眼
積みの人間は、世界文学に例がない。人間のいちば
ではない。人間しか持ち得ない眼である。残酷さ
んカスである。人類の中で、いちばん圧迫されてい
を見たい眼と言っていいかもしれぬ。果たして理
る、これより下にさがれない人間である。その人間
性で押さえることはできるだろうか。
竹内好が理解する『阿 Q 正伝』、そしてこれを
に高貴な人間性を発見したところにこの作品の不滅
書いた魯迅の意図をどのように読み取ったかが理
の芸術性がある。
憎むべき無智と悪徳の塊りである阿 Q という主人
公を、作者魯迅がどんなに深く愛しているかについ
ては、作品中に証拠がある。たとえば、小説のなか
解できたと思う。
4 『魯迅論』から
で、飢えた阿 Q が尼寺へ大根を盗みにいく途中の描
拙論「竹内好と魯迅、毛沢東」
(長野大学紀要
写などである。いろいろの種類の食べ物屋が道ばた
通巻第1
10号に掲載)において「魯迅論」を取り
にならんでいるが、阿 Q は見向きもしないのであ
上げた。その論文は竹内好が26歳の時のものであ
る。それがかれの求めるものでないことを阿 Q は
り、1936年昭和11年10月に魯迅が亡くなった翌月
知っているのだ。これほど気高い魂があるだろ う
に発表したものである。この論文では次のような
か。それほど気高い魂であればこそ、最後に銃殺さ
ことが主張されている、と言ってよい。
れるときになって、かれを無智にとじこめていた一
攻撃的な論争を仕掛ける魯迅に注目して、彼の
切の人類の目に、かれは狼の目を見ることができた
二つの作品「狂人日記」
「阿 Q 正伝」を通して先
のだ。
駆的な作品であることを指摘した。その先駆性は
小説「阿 Q 正伝」は、一種の心理的倒錯法が用い
社会の封建的要素を否定するものではある。とこ
てあって、読者ははじめ、自分が阿 Q を眺めている
ろが魯迅は、その指標となるものが西洋的な自由
つもりでいるが、いつの間にか、眺めている自分の
思想を取り入れたものではなく、個人主義的な色
―5
7―
1
9
6
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
彩はない。ということは、極めて東洋的な風習の
し、私がこの本のなかで注文した日記や書簡集も出
上に立脚しており、およそ近代的意識とは縁が遠
版された。研究書にいたっては汗 牛 充 棟である。
いと指摘した。これを竹内好は「十八世紀的遺
材料の点だけでいっても、もうこの本の出る幕では
臭」と言い、これでは時代を超えることはできな
ない。私自身も、その後にいくらか見解を深めてい
いとした。一方先んじてはいるが、時代を超える
るので、自分で読み返して顔を赤らめるようなとこ
ことができないこと、それは魯迅の宿命的矛盾で
ろが間々ないではない。……略…….もしこの本の
あり、当時の中国現代文学の矛盾でもあると指摘
存在意味があるとすれば、歴史的文書として、ある
した。このことを十分に魯迅は理解しているから
いは作品としての意味だけであろう。その点を買っ
こそ、若者たちに「西欧の近代精神に触れるこ
てくれる人がいるということは、著者としてはうれ
と」を勧めていると、竹内好は報告している。
しくないことはない。私自身はこの拙い習作に今で
かんぎゅうじゅうとう
以上が前回、取り上げた「魯迅論」の主旨であ
も愛着を感じているのである。
る。
そんなわけだから、今度は創元文庫版を、誤植を
訂正しただけで、そっくりそのまま出すことに し
4−1
魯迅の死を考えながら
た。ただ自註は少し追加した。訳文に気のついた誤
さて、今回、取り上げる「魯迅論」は、今、話
訳もあるが、訂正しなかった。(
『
[新版]魯迅』未来
した「魯迅論」の発表の時、すなわち1936年から
社,2
0
0
2、2
1
6∼2
1
7頁)
八年後の1944年(昭和19)12月、竹内好が34歳の
時に出版されたものである。それ以後、竹内好が
竹内好が「拙い習作」と言いながら「今でも愛
魯迅についてまとめて書いたものはない。魯迅に
着を感じている」と書いているのをみれば、彼の
ついて書いたとすればそれらは魯迅の小説に関す
自信のほどをうかがうことができる。聞くところ
る解説、あるいは現代中国文学の中での魯迅の位
によれば、現在でも中国人研究者はこの魯迅論を
置などを解説するものであった。したがって魯迅
読むとのことである。すなわちこの魯迅論は、中
をどのようにとらえたのか、ということであるか
国人以外の研究者による第一級の論文であるとみ
ら、この「魯迅論」について見ていきたい。
なすことができる。
さてこの論文の仕組みをまず紹介したい。
この作品が初めて出版されたのは、先ほども
言ったように、1944年、すなわち戦争中に日本評
序章──死と生について/伝記に関する疑問/
論社から出されたものである。次が同じ出版社か
思想の形成/作品について/政治と文学/結語
ら1946年に出版された。この時は文中にある「支
──啓蒙者魯迅
那」という言葉が「中国」に直されていた。三度
という具合にそれぞれ見出しがついている。
目の出版は創元文庫版であって、1952年である。
最初の章の「序章──死と生について」では二
四度目の出版は、1961年で未来社からだった。五
つ の 部 分 に 分 か れ て い る。
「一」の 部 分 で は
度目の出版は、竹内好が1977年67歳で亡くなった
「死」について書かれている。この章は重要と思
翌年の9月から出版されはじめた「竹内好全集」
われるので詳しく見たい。その冒頭の部分は、次
の第一巻に収録されたということになる。そして
のような文章となっている。
今手もとにある本は、四度目の未来社からの出版
のものが新版と銘打って2002年に出版されたもの
民国七年、三十八歳で「狂人日記」を発表してか
である。そしてこの未来社版に書かれた「あとが
ら、民国二十五年、「死せる魂」の訳稿を了えずに五
き」が収録されているので、その一部を紹介した
十六歳で上海に没するまで、およそ十八年間、魯迅
い。
は中国文壇の中心的位置を一度も退いたことはな
かった。しかし、人々が彼を文壇の中心としてはっ
魯迅研究書としては、この本はもはや役に立たぬ
きり承認したのは、彼の死後である。(同、7頁)
くらい古びている。魯迅の全集は、旧版の全集より
もっと完璧なものが新中国になってから出版された
―5
8―
もう理解できると思うが、この部分は問題提起
佐々木
!
竹内好と魯迅
1
9
7
をしている。まず竹内好が指摘するのは、当時の
論争相手である若者たちは、魯迅の言うことを深
中国において魯迅の存在が中心的であった、とい
く認識したに違いない。すなわち若者たちは、論
う認識が人々にはなかったことである。そして続
争の課程で、魯迅から何ものかを学んでいたので
く文章で魯迅を「疎外する」人が多かったことを
あり、そのことに気づかなかったのである。そし
指摘し、「少数派」であったことを書き記してい
て竹内好は指摘する。
る。このことは逆に、魯迅が「頑強に自己を守っ
た」という姿勢を保持したことを竹内好は強調し
「私は牛のようなものだ。食うのは草で、搾り出
ていることになる。この厳しい対立が、魯迅の死
すのは乳と血だ。
」乳と血を搾り取ったのは青年たち
によってなくなり、文壇が統一されたと指摘して
である。彼らはただ、身近すぎて牛を忘れていた。
いる。その証拠に翌月の各文学雑誌は魯迅を追悼
牛が身を横えて動かなくなったとき、愕然として牛
する特集を組んだことを竹内好は報告している。
を意識した。今まで魯迅の名で呼んでいたものが、
前回の拙論で竹内好が魯迅の攻撃的な論調を展
実は彼ら自身であることに気がついた。魯迅にとっ
開したことを紹介した。やはりこの論文でも同じ
て、死は彼の文学の完成 で あ る。し か し 青 年 た ち
ように魯迅の攻撃性を書いている。
は、はじめて自己の孤独を知った。(同)
論争は、魯迅の文学が自己を支える糧であった。
この引用にある「魯迅の名」とは前に引用した
十八年の歳月を論争に費した作家は、中国でも珍し
文中にある「学匪、堕落文人、偽善者、反 動 分
いことである。病的という批評が傍観者から生れる
子…」など、ののしる呼び方である。だから先ほ
のは不思議でない。学匪、堕落文人、偽善者、反動
どの竹内好の指摘、すなわち対立がなくなり文壇
分 子、封 建 遺 物、毒 舌 家、変 節 者、ド ン・キ ホ オ
が統一されたと云うことである。これが魯迅の死
テ、雑文屋、買辮、虚無主義者、これらの、専ら魯
によってもたらされたことである。であるから
迅をきめつけるために案出された嘲罵の数々は、彼
「死は彼の文学の完成である」という文章は、魯
の用いた筆名にも劣らぬその多彩さによって、論争
迅が死ぬことによって文学を志す青年たちが魯迅
の激しさと性質を暗示している。彼は、旧時代を攻
が主張する意味を知ったこと、すなわち魯迅が当
撃しただけでなく、新時代をも恕さなかったのであ
時の中国の文壇に示した文学者の態度、そして文
る。嘲罵の多くは、彼の愛した同時代以後の青年か
学の有り様を示したことが理解されたのである。
ら受けている。それに対して彼は、身を退くことを
別な言い方をするなら、先ほどの阿 Q の部分で
知らない。人間としての性質の善良さについては衆
見た人間の持つ「眼」を何とかしたいとする姿勢
評が一致しているから、この論争は、彼の文学の側
であり、そこから生み出された作品を作ることで
から説明されねばならぬ。彼は論争を通じて、何物
ある。それを竹内好は魯迅のもくろんだ「文学」
かを得ていったのである。あるいは、何物かを棄て
が完成したと断言したのである。当然のことなが
ていったのである。窮極の静謐さを求めずして出来
ら政治に振り回される「文学」は否定されるの
る業ではない。論争は魯 迅 に と っ て「生 涯 の 道 の
だ。ここに至って魯迅は論争をしたのである。で
草」であったろう。(同、8頁)
は、魯迅自身が死そのものをどのようにとらえて
いたか。竹内好の見ている部分を引用してみる。
論争とは互いに自分の言いたいことを確固とし
た根拠に基づいて論理を展開し、相手の主張を論
魯迅の死は病死である。病名は、須藤医師の証言
駁し、相手を説得、もしくは納得させることであ
によれば、胃拡張、腸弛緩、肺結核、右胸湿性肋膜
る。この過程において大事なことは、互いに相手
炎、気 管 支 性 喘 息、心 臓 性 喘 息、お よ び 肺 炎 で あ
の言葉をよく聞き、それぞれが相手の論理、主張
る。長年の文筆生活が、肉体を蝕んだことは、ほぼ
の中にある矛盾をとらえることである。その上
確実であろう。彼は病中に、転地や絶対安静の勧告
で、自分の主張を展開する。これが望ましい論争
を謝絶している。何もしないで一月で治るもの な
である。ということであれば、この場合、魯迅の
ら、二月かかってもいいから仕事をさせてくれ、半
―5
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1
9
8
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
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ば戯れに主治医にそう語っている。その理由は、過
いる。そしてこれに続く文章を次に引用する。
去にそのような習慣がないからである。読書や執筆
を禁ぜられることは、病気よりも苦痛であった。事
魯迅は、普通に云う意味での思想家ではない。彼
実、彼は死の二日前まで筆を執った。文学者の覚悟
の根本思想は、人は生きねばならぬ、ということで
として、立派である。しかし当然と云えば、当然で
ある。それを李長之は直ちに進化論的思想と同一視
ある。そのことだけで彼の死を悲壮に見るのは、稚
しているが、私は、魯迅の生物学的自然主義哲学の
愚であろう。だがそれに も 拘 わ ら ず、私 は 彼 の 死
底に、更に素僕な荒々しい本能的なものを考える。
に、ある改った行為の意味を感ずる。彼の臨終は極
人は生きねばならぬ。魯迅はそれを概念として考え
めて平凡であるが、その平凡さが私には悲痛に見え
たのではない。文学者として、殉教者的に生きたの
る。死は、彼の目賭したものではなかったかもしれ
である。その生きる過程のある時機において、生き
ぬが、やはり運命のようなものは、あったと考える
ねばならぬことのゆえに、人は死なねばならぬと彼
べきではなかろうか。私の想像は、もし誇張した言
は考えたと私は想像するのである。それは、いわば
葉で云うことを許されるならば、晩年において魯迅
文学的な正覚であって、宗教的な諦念ではないが、
は死を超えていた。あるいは死と遊んでいた。彼が
そこへ到るパトスの現れ方は宗教的である。つまり
死を決意した時機は、前にあったのである。形骸を
説明されていないのである。(同、1
2頁)
始末することだけが残されていた。そうでなけ れ
人はなぜ生きるか、ということを論理的に考え
ば、人々は何故、彼の死をあのように慟哭したので
ることは哲学的な問いである、と言えよう。魯迅
あるか。(同、1
0頁)
はこれをしなかった、と言うのが竹内好の認識で
魯迅には死は恐怖ではなかった、と言えよう。
ある。では、宗教的にとらえると言うことはどう
「彼が死を決意した時機は、前にあった」とある
いうことか。この引用文でのキーワードは「パト
のは、竹内好が作成した年譜(筑摩書房刊「世界
ス」である。
「パトス pathos」とは、ギリシア語
文学体系第62巻」1958)の1933年のところを見る
であり、哲学用語である。その意味は、
「受動・
と、「暗殺された楊銓の葬式に、危険をかえりみ
受難」を意味する。事件や他人により人は受難と
ず参加、家の鍵を携えなかったといわれる」とあ
しての情感・激情を内部に持つことになり、それ
るが、このときのことである。それにしても驚く
はエートスのように恒常的ではない代りに、一瞬
ほどの数の病名が列挙されたことからみれば、魯
のうちに何かを生み出す契機となる、ということ
迅自身は身体の至る所に不調があったことを知っ
だ。そしてパトスの反対語はエートスである。こ
ていただろう。そしてそれは「死」を意識してい
の「エートス」ということばは、
「人間が行為の
たと言うことになる。
反復によって獲得する持続的な性格・習性」とい
続いてこの論文の論旨は思想家としての魯迅で
う意味である。であるから「パトス」は、転じ
はなく、文学者としての魯迅を考えていることを
て、「突発的な情熱」という意味にもなってい
示している。その魯迅について「私は、魯迅の文
る。したがって、ここでの「生きねばならぬ」は
学をある本源的な自覚、適当な言葉を欠くが強い
説明不可能ということだ。生きると言うことに説
て言えば、宗教的な罪の意識に近いものの上に置
明はいらない。本能的なものであり、しかも「素
こうとする立場に立っている。魯迅にはたしか
僕な荒々し」さと竹内好は付け加えている。つま
に、そのような止みがたいものがあったことを私
り、「生きねばならぬ」という思いは、考えた末
は感ずる」という認識を示して、それが「ある何
にとらえたのではなく、執着とでもいえるような
者かに対する贖罪の気持ち」と一応は書いた。
状況の中に保たれたということだ。
「何者」かは、魯迅自身も明確には解っていな
竹内好は、この序章の一の部分でこのように魯
かっただろうと竹内好は指摘し、中国語の「鬼」
迅の死を通じて「生きねばならぬ」という考え方
のようなものかもしれないとも書いている。この
と中国文壇のありようを示した。
ことは散文詩集『野草』を論拠として取り上げて
―6
0―
佐々木
4−2
!
竹内好と魯迅
魯迅の心の底──混沌
1
9
9
当のことを書いていると批評する。しかし、それは
次の二の部分の初めでは、魯迅の文壇生活の18
褒めすぎである。原因は偏愛のためだ。無論私は、
年間について中国近代文学の全歴史であると竹内
そう人を騙そうと思っているわけではない。だが心
好は書き始めている。そしてこの近代文学史は三
に思う通り云い尽した覚えは一度もない。」(「『 墳 』
つの時期、「文学革命」「革命文学」
「民族主義運
の後に記す」
)
!!!!!!!!!!!!!!!!!!
!
動」があると定義している。これらのいずれの時
期も魯迅は生きぬいている。そしてどの時期にお
「私が筆にまかせて心にあることをそのまま書い
いても様々な見解と論争し「悪戦苦闘」したのが
ていると思う人があるが、実はそうとは限らぬ の
魯迅であると竹内好は位置付けている。そして強
で、私の気兼ねしていることは決して少なくないの
調するのは、魯迅が「文学の政治主義的偏向から
で あ る。……私がいささかの気兼ねもなく物を云う
文学の純粋さを守った」という点である。ただ
日は、あるいは来ないかもしれぬ。
」
(同)
!!!!!!!!!!!!!!!!!
!!!!!!!!!!!!!!!
し、新時代に対して方向を示すような先覚者では
ないと、断言している。そして次のように書きし
「私の云うことは、いつも考えていることと違い
るす。
ます。何故そうなるかと云うと、『吶喊』の序文で書
!!!!!!!!!!!!!!
いたよう に、自分の思想を人に伝えたくない か ら で
彼には思想の進歩というものがない。彼は最初、
す。何故伝えたくないかと云うと、私の思想は暗す
!!!!!!!!!!!!!!!!!
進化論的宇宙観の信奉者として登場したが、後には
ぎ、
自分でも正確かどうかはっきりしないからです。
」
進化論の誤謬を悟ったと告白している。また、初期
(許広平あての手紙「両地書」第一集二十四)
の作品に見られる虚無的傾向を、晩年には悔いてい
る。それらは、人によって魯迅の思想の進歩の如く
「悲しいことに我々は相互に忘れることは出来な
説かれているが、彼の頑強な自我固執に対しては、
い。而 し て 自分は愈々人をだますことを盛んにやり
思想の進歩と云うべくあまりに二義的なものであ
だした。そのだます学問を卒業しなければ、或はよ
る。現実世界での彼の強靱な戦闘的生活は、思想家
さなければ円満なる文章は書けないのであろう。
」
!!!
!!!!!!!!!!!!!!!!!!
としての魯迅の面からは説明されぬ。思想家として
(「私 は 人 を だ ま し た い」原 日 本 文)
(同、1
7∼1
8
の魯迅は、常に時代から半歩後れている。では、そ
頁)
れは何から説明さるべきか。彼を激烈な戦闘生活に
引用文中の波線の部分は論者がつけたものであ
駆ったものは、彼の内心に存する本質的な矛盾 で
る。竹内好が引用したこの四つの文章を分析して
あったと私は考える。(同、1
6頁)
みると、魯迅が必ずしも本心を書いているとは言
この引用文にある「戦闘的生活」はもちろんこ
えない、という証拠になりそうであるがそうでは
れまで見てきた魯迅の論争に明け暮れた生活をさ
ない。一つ目の引用文は、だまそうとしているわ
す。思想家としての魯迅が半歩遅れている、とい
けではないが、本心を言いつくすことはできな
うことは、論争が明快な根拠に基づいて行われる
かった。二つ目は気兼ねして書いてはいた。しか
ならばこのようには言えることはできず、魯迅自
し気兼ねせずに書けるような日は来ないかもしれ
身の内部において明快さが保ちえない状態である
ない。三番目は、自分の思想を伝えたくない、そ
ということだ。このことを竹内好は「本質的な矛
の理由は自分の思想が暗くて正確かどうかはっき
盾」といい、さらに「文学者魯迅は一の混沌であ
りしない。最後はだますことを意図的に行った
る」とさえ言う。そしてその混沌は自覚されては
が、それをやり尽くさなければ円満な文章を書け
いないが、そこから生じる「苦痛」はわかってい
ない。せんじ詰めればそのようなことになる。こ
た、と竹内好は指摘する。その根拠として四点の
のようなことを書いたのは、魯迅が論争に明け暮
文章を引用している。
れたからであろうし、事実であろう。そしてこの
ような考え方で書いていた理由は、論争的に身構
「私の作品を偏愛する読者は、よく私の文字が本
えることではなく、気兼ねせずに円満な文章を書
―6
1―
2
0
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第3
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0
0
8
きたかったという願望の表れであるまいか。そし
ほど素僕な心を抱いていたと考えたいのである。啓
てその心の底には竹内好が言う矛盾あるいは混沌
蒙者と文学者と、この二者は、恐らく魯迅にも気付
が心の底に渦巻いていたからということになるだ
かれずに、不調和のままにお互を傷けあわなか っ
ろう。その混沌あるいは矛盾を明快にかつ明らか
た。それは彼が、周作人や胡適ほども思想家ではな
にするために論争をした。すなわちだますような
かったからであろう。しかし、ともかくこの魯迅の
ことを試みたといえる。そのように書き続ける限
矛盾は、魯迅に表現された意味で、現代中国文学の
り、矛盾はなくならず、論争は続くと言うことに
矛盾でもあった。何故ならば、彼は論争を通じて中
なる。
国文学から自己を選び出していったが、そのことに
この魯迅を竹内好は「ただ虚言を吐くことに
よって彼自身が中国の近代文学の伝統となったから
よって、一の真実を守った」と言い、
「文学は無
である。(同、1
9頁)
用である」と考えていることが魯迅の根本の文学
観と断言する。この場合の真実とは、魯迅の本質
一般に文学者といえば、作家たちが書いた小説
すなわち矛盾もしくは混沌状態のことである。こ
や詩などを研究する、すなわち作品を分析して成
のようなことに基づくのが「文学」であるとすれ
立事情や時代背景などの関係を考慮して、その作
ば、まさしく「無用」そのものである。このよう
品の価値を見極めることをする人である。啓蒙者
な魯迅が書いた小説を竹内好は「まずい」とい
とは、教え導く人のことを指す、すなわち先達で
い、作品に「コスモス」がないとして『阿 Q 正
ある。文学とは、言葉を用いて人間の内面とそれ
伝』にもその欠陥があると書いている。この場合
を取り囲む外の世界を表現することである。その
の「コスモス」は、調和と秩序のある世界または
描き出された世界が、秩序、あるいは調和ある世
宇宙、ということになる。平たく言うならば「ま
界として整っていれば、そして人間の普遍的なも
とまりがない」ということになるであろう。魯迅
のが表現されていれば文学作品となる。上の引用
が最初に遊びのような気持ちで書き始めたという
文にあらわれた理解しにくい言葉をこのように定
取り組み方にもよることで明らかだ。魯迅の作家
義すれば、竹内好の了解している魯迅の姿が明確
的才能は、小説家ではなくむしろ文学史研究の方
になってくる。
古い体質の世界を破壊するには啓蒙者でなけれ
が優れていると竹内好はみなしている。
ばならない。啓蒙者であるためには理想を明快に
彼は一方では、新しい文学理論の翻訳を数多く出
示さなければならない。しかしそれを明示できな
しているが、抽象的思惟は終生彼と縁がなかった。
い魯迅は思想家ではない。一方、文学は現実の世
現れとしての魯迅は、あくまで混沌である。
界に生きる人間たちを心の中までも明らかにする
その混沌は、中心的に一つの像をその中から浮び
のに言葉を用いて描き出す。魯迅が描き出した社
上らせる。それは、啓蒙者魯迅と、小児に近い純粋
会は、古い体質の世界とそれを引きずっている人
の文学を信じた魯迅の二律背反的な同時存在として
間たちの社会である。しかしながら魯迅にとって
の一個の矛盾的統一である。私は、それを彼の本質
十分それを描き出すことができなかった。そのジ
と見る。自己を許容しないばかりでなく他人をも許
レンマ状態が、竹内好の言う「矛盾」であり「混
容しない激しい彼の現実生活は、一方の極に絶対静
沌」である。その混沌を論争もしくは小説、随筆
止の希求を置かなければ理解しがたいように、近代
などで描き出した魯迅を「詩人」とみなしたので
中国の秀れた啓蒙者は、自己の影として信じがたい
ある。
―6
2―
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9頁(2
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7頁)2
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現代中国内陸部小都市<藁城市>の発展についての第一次報告
──日中共同研究のひとつの試み──
The first report on the development of Gao Cheng, a small city of inland China :
A Japan-China collaborative research effort
小
川
勝
一*
曽
貧**
Shoichi Ogawa Zeng Pin
交流を中心に内発的発展論を模索・探求してき
はじめに
た。「大学間協力研究」は、その後多様に発展し
日中共同研究の趣旨と視点
て、現在「戦略的連携支援事業」として文部科学
私(小川)は10年前、「日中共同研究の考え方
省の重要な支援事業になっている。そして2008年
(ノート)―その一」を書 い た。(『長 野 大 学 紀
度選定事業は54件になっている(たとえば長野県
要』、第17巻第1号、1995)
では、
「大学間地域ネットワーク構築による高等
「その一(ノート)」論文で、その基本的目標
教育の質保証と人材育成の実質化」で選定)
。一
を、次のように書いている。長野大学と中国・河
方現代中国共同研究は初の大型共同研究である科
北大学日本研究所と復旦大学日本センター(中
学研究費補助金「重点領域研究」、「現代中国の構
心)との「大学間協力研究」(科研費)の前提を
造変動」プロ ジ ェ ク ト が 推 進 さ れ た。(1996∼
検討したものである。その時期(93年∼95年)の
98)
「大学間協力研究」のテーマは、<内発的発展論
この10年間、中国では大きな変化が生まれてき
>の視点からみた地域(長野・坂城、中国河北省
た。最近、2007年度から「現代中国地域研究」推
・保定、中国上海を 比 較 調 査(企 業・家 族・教
進事業が、研究拠点の形成およびネットワークの
育)することであった。その調査の先行モデルと
構築と「次代養成」をはかることを目指して行っ
して参考にした典型的な研究は、鶴見和子・宇野
ている。この事業は、
「大学共同利用機関法人・
重昭『中国における“小城鎮”建設に関する研
人間文化研究機構」が行っている。
究』(NIRA 叢 書、1989)で あ る。さ ら に 展 開 さ
これに対して、我々は、きわめて小さいが、自
れて宇野重昭・鶴見和子『内発的な発展と外向型
前(手弁当)の地域日中共同研究の「ネットワー
発展』(1994)として刊行された。そして私と曽
ク」を模索・探求してきた。大学中心ではなく、
貧はその方向で共同研究を模索・探求してきた。
地域の高校教員(長野県)と共同する研究の条件
<内発的発展論>は、宮本憲一が70年代後半から
を検討してきた。第一回は、1996年、北京大学、
使われ、鶴見和子とお互いに示唆され、特に鶴見
遼寧師範大学、大連大学などを訪問した。次に第
和子を中心に、西欧的、経済成長優先に対して
2回、北京大学、復旦大学・環境科学中心、華東
「もう一つの発展論」を展開してきた。
師範大学、河北大学、河北青年管理幹部学院など
この「大学間協力研究」を契機に我々は、日中
を訪問した(1
997年)。継続して、2
001年、長野
*社会福祉学部教授
**埼玉大学教育学部非常勤講師
―6
3―
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8
県日中 教 育 文 化 交流 団 を 結 成 し て 訪 中 し た。
り、本質が見え難くなっているからである。
(2001年3月25日∼31日)。さらに長野県高等学
校教職員訪中団で訪中した(2002年3月25日∼3
<藁城市>研究の経緯
月31日)。民間の交流の具体的な条件を推進する
中国社会は、工業化・都市化へ進んでいるうち
ものであった。この訪問で中央教育科学研究所
に、一方、世界市場をカバーする北京、上海のよ
(北京)、河北省教育工会も訪問した。続いて長
うな巨大都市が形成されつつある。他方、大都市
野県高等教職組合訪中団で訪中した。
(2002年3
の周辺、農村地域にある地方小都市−「小城鎮」
月25日∼31日)この訪中で、長野県高等教職員組
も独自の発展の道を模索している。地方小都市の
合と中央教育科学研究所との友好交流協定(案)
発展は、解体されつつある中国農村コミュニティ
を交渉し作成した。そして2002年7月に協定・調
の再編、工業と農業、都市と農村の格差を縮める
印をした。このように訪中を何回か行いながら、
には、重要な役割を果たしている。今までは、中
地域の「日中共同研究ネットワーク」の具体化を
国の小都市研究に関しては、とりわけ、日中の共
行ってきた。この地域の「日中共同研究ネット
同研究においては、20世紀8、90年代の沿海経済
ワーク」の推進に小川と曽貧が事務局の役割をし
発達地域の小都市の「内発的発展」が一番大きな
てきた。さらに日中教育文化交流団を結成して訪
成果として取り上げることができる。しかし、21
中した。(2004年8月15日∼25日)。その中で、持
世紀に入ってから、特に今まで開発に遅れている
続可能な発展の地域づくりの土壌を培うために環
内陸部の地方小都市を対象とするモデル研究が思
境教育を柱に訪問(中央教育科学研究所、北京大
うほど進んでいない。
学・環境科学中心、瀋陽薬科大学、東北大学、遼
「内発的発展」の概念の提起者鶴見和子は、こ
寧師範大学など)を行った。この訪中で「日中環
の概念が、特定の政治権力や経済権力に取り込ま
境教育共同研究会」の結成について中央教育科学
れ、政策決定に利用されることに、一貫して否定
研究所(北京)と合意した。この地域「日中共同
的な立場であった。そのた め、「内 発 的 発 展」
研究のネットワーク」推進と平行して「日中教育
が、政策立案者に積極的に受け入れられることが
研究交流会議」にも参加してきた。現在、曽貧は
なかったという面もある。
交流会議の事務局長である。
1987年、国連の「環境と開発に関する世界委員
我々の先行研究である、鶴見和子・宇野重昭
会」が、「持続可能な発展」という概念を提起し
「中国における“小城鎮”建設に関する研究」
てから、中国政府は、これを積極的に取り入れ、
は、中国側の「費孝通」の影響を受けて行ったも
地方小都市の発展も「持続可能な発展」を政策目
のである。西欧的な近代化に対して、中国の内発
標としている。しかし、今までは、中国地方小都
的な発展論として評価されている。費孝通は、
市の「持続可能な発展」の実践レベルの実情が決
「小城鎮」を通して中国の民族を自省する社会学
して明らかにされていない。
の建設を目指すものである。
(シリーズ世界の社
中国の内陸部小都市の実践状況を視野に入れ、
会 学・日 本 社 会 学『費 孝 通―民 族 自 省 の 社 会
「内発的発展」と「持続可能な発展」の関係性を
学』、佐々木衛、2003年)。我々は、費孝通の調査
明らかにすることは、われわれが考えている地域
・研究手法を参考にしながら調査・研究を行う予
社会学研究の一つの重要な課題である。
定である。また、最近費孝通の重要な文献がいく
現代中国は、農業大国から、工業大国に移行す
つか翻訳されている。
『生育制度―中国の家族と
る途上である。内陸部の伝統的農業地域の工業
社 会』(1985)、『中 華 民 族 の 多 元 一 体 構 造』
化、都市化の進展は、沿海地域と比べ、遅れてい
(2008)。さらに費孝通を検討し共同研究を進め
る。いままでの外来開発型経済にとって、内陸部
たい。われわれの訪中の体験から、一つの結論と
小都市は、政策誘導、外資投入、加工貿易、立地
して「日中共同研究ネットワーク」は小さく、対
経済などの側面において、不利な要素が多いこと
象も小さく限定することも重要ではないかと思っ
が容易に分かる。しかし、近年、状況が変わり、
ている。現在の中国は、むしろ「情報過剰」にな
内陸部小都市は、自らの発展モデルを創出してい
―6
4―
小川勝一・曽
貧
現代中国内陸部小都市<藁城市>の発展についての第一次報告
2
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3
る。内陸部小都市における、農業・農村・農民、
に各種類の中小企業は26000に達している。大企
いわゆる三農問題の解決、地域経済の発展、具体
業は主に、三つの工業園区に集中している。
的にどのような情勢があるのか。これは、まず、
我々が知りたい問題である。中国現地において、
我々の調査は、まず、
「良村経済技術開発区」
から始まった。
我々は、2007年8月1
1日 か ら19日 に 調 査 を 行 っ
た。
「良村経済技術開発区」は、藁城市の三つの主
な工業園区、「良村経済技術開発区」
、「新区」
、
我々が選んだ調査対象は河北省藁城市である。
「循環化学工業示範基地」の中で、最も古いとこ
理由としては、まず、この地域の特徴が、我々の
ろである。1992年にスタートして、現在も発展し
関心と一致することで、それに、当市の市長を始
つつある。面積は8.
4平方キロ、三つの行政村を
め、政府弁公室の協力を得られることである。藁
統括して、人口は23000である。
城市では、以下の数箇所を見て、第一次調査を終
わった。
この開発区の中で、生物製造、生物農業、生物
エネルギー、生物環境保護の企業が数多く集結さ
①経済技術開発区
れている。2006年現在、134社の生物工業、企業
②崗上鎮崗上村
がある。5000万元以上の生物製薬会社は3
0があ
③人民広場・水上公園
る。投資総額は46.
5億元であった。開発区は、汚
④人民医院
染のない集約化の道へ進んでいる。
⑤梅花鎮
開 発 区 は、2005年7月 に、「国 家 生 物 産 業 基
それぞれのところで、藁城市、この中国内陸部
地」として認定された。区内において、2006年、
小都市地域の工業と経済、農業・農村・農民の状
市の百分の一の土地で、市の総生産の一割、市の
況、都市計画、社会福祉保障、歴史などを、我々
財政収入の四分の一を貢献した。
自らの目で確かめ、関係者及び市長へのインタビ
農村の荒野の中で、現在、工業、企業のほか
ューを行い、関連文献・資料を収集した。本稿の
に、新しく建設された生活施設、幼稚園、小学
目的は、これらの内容を次の研究の基礎としてま
校、中学校、銀行なども現れた。開発区内では、
とめ、今後の中国内陸部小都市の経済・社会発展
農村の跡がほとんど見られない。きれいに区画さ
モデル研究の作業課題を考えていきたい。
れた広い道路の両側に花草樹木で緑化され、一つ
Ⅰ 「生物産業基地」―良村経済技術開発区―
藁城市は、河北省の中南部太行山東麓の平原に
一つの工場、企業が、それぞれ大きな間隔を置き
ながら並べられ、ここでは、すでに城鎮化された
印象が我々に残された。
ある河北省都石家荘市から西へ、30キロのところ
開発区以外の新区を車で通ったが、こちらは旧
にある。北東2
64キロに、中国の首都北京市があ
市区の近いところにあって、発電場、汚水処理
る。直轄市天津までは270キロである。
場、工場、道路、橋、住宅の建設が急ぐような景
1989年7月に県から市に改制され、現在は、13
色であった。「循環化学工業示範基地」は、石油
の鎮、1の回族自治郷、合計239の村と1の経済
化学関連工業を中心に、石炭化学、塩化学、
「三
技術開発区を管轄している。人口総数は74.
6万
化合一」の形で展開されている。それに、農業用
で、その中、市区人口は10万あまりである。
化学工業などと、互いに促進し、補完し合う新型
我々は、北京から石家荘市まで、高速バスに
化学工業の体系が創り上げられている。
乗って、3時間余りで着いた。帰りは、開通され
「藁城市国民経済と社会発展第11回5ヶ年計画
たばかりの快速鉄道で、2時間しかかからなかっ
綱要」によると、藁城市の工業発展は、
「資源利
た。
用の集約化、産業配置の合理化、産業発展の関連
藁城はもともと、農業地域であった。1992年に
経済技術開発区の設置に伴い、工業化の進展が著
化」の方向へ向かって、
「資源節約型社会」の達
成を目標としている。
し く な っ た。2006年 に、工 業 経 済 は、市 全 体
GDP の51.
4%に占めた。2007年 末 ま で、市 全 体
以上の三つの工業園区は、藁城市の90%の大企
業を集中した。
―6
5―
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長野大学紀要
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8
2007年末までに、藁城市の企業総数は、2
6000
「緑色果物、野菜収穫祭」が開催され、大都市の
がある。従業員総数は、36.
2万人であった。2007
観光客に、田園風景、田舎生活を体験させる「生
年に、藁城市全体の GDP は213億元(1元≒15円
態農業観光」がホットになっている。
余り)で、税金収入は、10.
03億元である。前年
我々は、藁城市中心へ向かう道路の両側にこの
と比べ、それぞれの成長率は、15%と、2
5.
2%で
ような梨園を見た。ここで、50個入りの1箱の梨
ある。その内、工業経済成長率は21%であり、全
を買うと石家荘市内より、3分の1くらい安い。
市 GDP の76.
7%、税収の54.
8%に占める。
藁城市に1
4の郷鎮、2
39の村がある。我々は、そ
我々は、開発区を通して、藁城市が目指す工業
の中の一つ崗上鎮崗上村を訪問した。
化の方向は、環境に配慮する、集約、循環などの
特徴を持っていることがわかった。
崗上鎮は、経済技術開発区の隣にある。面積は
48平方キロで、農地面積は、5.
8万ム、人口4.
7
万。16の行政村を管轄している。我々が訪ねた崗
工業化の波の中で、農業・農村・農民の状況が
どうなっているのか、それを知るために、我々
上村は、農地面積2
368ム、672世帯、2301人を持
つ、鎮政府の所在地である。
は、開発の隣にある村を訪ねた。
村の農業は、小麦、トウモロコシの栽培を主と
している。村の西隣に経済技術開発区がある。農
Ⅱ 「文明生態村」―崗上鎮崗上村―
業以外に、運送、サービスを中心に、村営企業は
藁城市は、年産食糧53.
5万トン、良質な小麦、
12が あ り、私 営 企 業 は40、家 族 経 営 は230が あ
トウモロコシの生産、伝統の農業経済が有名であ
る。農業以外の従業人口は4
00余りである。機動
る。2005年に農業省より、「全国食糧生産先進モ
車両200台余りを持っている。
デル県」と認定された。1999年以来、
「国家農業
総合開発項目県」、「国家指定の優良品質専用小麦
崗上村の村民センターで、我々は、村の書記か
ら村の概況を聞いた。
モデル基地」、「低生産畑の改造」、「ハイテク農業
実験」などの農業改良、発展の試みをしてきた。
ここで一番印象深いのは、
「郷土文化功徳録」
と書かれた数冊のノートである。
2004年から2006年までは「全国食糧生産先進県・
1982年、崗上村の農民範振国さんは、道で一袋
市」の第1位である。2006年に「全国の発展の潜
の小麦を拾った。彼は、それをすぐ村民委員会へ
在力を持つ100個の小都市(県・市)」の20位に認
届けた。これをきっかけに、村は、彼を表彰し、
定され、2007年2月、1530世帯を持つ藁城市南孟
このことをノートに記録した。ノートの名は、
村が「国家新農村建設モデル村」と認定された。
「郷土文化功徳録」という。それからの2
0数年
藁城市の食糧生産用農地面積は99.
9万ム(ムとは
間、このようなことを記録する「功徳録」は、
中国の農地面積の単位、1ム≒200坪余り)、2007
139冊になり、全村600世帯の10万件あまりの「好
年の農業増加総額は39.
6億元である。
い人、好い事」を記録しつつある。
藁城市の農業生産は、食糧以外に、野菜、果
価値観が変わりつつある現代中国農村におい
物、養殖などもある。現在、十ヶ所の「緑色農業
て、この方法は、よい伝統文化道徳の継承と称揚
基地」を建設中である。その内容は、10万ム良質
に大きな役割を果たしている。
小麦、2万ム有機野菜、1万ムの果物、一万頭の
崗上村には、蔵書8万冊の図書室がある。中で
豚養殖、1万頭の羊養殖、1万頭の食用兎養殖、
は、多く農業専門誌、書籍がある。その隣に、民
一万ム生態森林、10万羽産卵鳥、3000頭乳用牛、
兵活動室がある。民兵制度が、古い時代からあっ
と緑色農業科学技術生産園区である。すでに、
たが、現在まだ、形として残されている。村の青
卵、野 菜、梨、な ど の「緑 色 証 書」が 取 得 さ れ
年たちは、民兵活動を利用して、出会い、交流の
た。緑色農業示範区への総投資は、12.
7億元にな
場としている。それを中心に太鼓隊、踊り隊など
り、プロジェクト完成後に、年利益は6.
5億元、
の文芸組織が生まれ、文化活動が展開されてい
市税が3.
45億元に増える予定である。
る。活動室の四面の壁に隙間なく賞状が飾られて
石家荘市に隣接地域では、春と秋になると、
いる。
―6
6―
小川勝一・曽
貧
現代中国内陸部小都市<藁城市>の発展についての第一次報告
2
0
5
これらの伝統と結合している活動は、村に、新
展の中で、技術、人材、市場、標準化において、
しい文化・道徳の気風をもたらした。それを表彰
工夫を重ね、農業は、どのように維持し、発展す
するために、1999年に、国から「全国文明村」の
るのか、農村は、どこに向かうのか、農民は、い
称号が贈られた。
かに豊かになるのか。彼らは、自分たちの価値観
我々は、また、この村の「外国語職業学校」と
隣の80ムの「植物園」を訪ねた。
を持ちながら、暮らしの現実の中で、農業・農村
・農民問題の解決を自らの道を模索している。
村長の紹介によると、「外国語職業学校」は、
村の土地、投資で作ったもので、学校経営は、外
部の専門家に任したものである。学生は、現地の
Ⅲ 「以 人 為 本・節 約 型 社 会」―市 政、環
境、都市計画、社会保障―
人が中心で、ほかの地域からの入学者も数が多く
藁城市には、村、郷・鎮、市三つのレベルの行
いる。卒業生は、全国各地で就職している。我々
政府がある。それぞれの課題が違うが、市政府の
が訪ねた9月は、ちょうど中国の学校の新学年の
政策は、全体に対して、決定的な影響を与えてい
開始である。校庭にある掲示欄に、卒業者たちの
る。
市の人民代表大会は、政策、法令の立案機関
顔写真と就職先を書いた紙が張られている。
学校の裏にある植物園は、学校の課外授業と、
で、市の共産党委員会は、事実上の政策の決定者
休憩の場である。ここは、本来、村の植物栽培実
である。市人民政府は行政府で、市の政治協商会
験の地でもある。
議はこれらに対して、監督の役割を果たしてい
村の街を歩くと、一般の農村によく見られる点
る。
現在、藁城市政策決定、行政、監督のそれぞれ
在する家屋の景色はほとんどなかった。
この数年、崗上村の生活居住状況は、以前と比
上部構造の全体的な意識が、
「小政府、大社会、
べ、大きく変わった。村民の6割、352世帯は、
以人為本、節約型社会」として統一されている。
四つの標準化居民小区、19棟の住宅楼に住んでい
たとえば、「藁城市国民経済と社会発展第十一
る。住宅の集中化により、村の生活衛生状況が改
五ヶ年計画綱要」の中で、以下のような記述があ
善された。村に12人の清掃隊が成立され、ごみ運
る。
「人を以って根本になす。この理念を堅持す
送車は2台を持っている。村の景観が変わったと
る。人民の根本的利益を守り、実現させることか
ともに、村の農地用面積が450ム節約された。
我々が知る藁城市政府の農村政策の傾向が、主
ら出発し、経済発展の成果は、人民生活の質の向
上、健康の質の向上、平等でしかしより多い機会
に以下の六点がある。
1、食糧生産を重点とする。
の創出、人 的 全 面 発 達 と 結 ば な け れ ば な ら な
2、農村に余る労働力の転移。
い。」
我々は、市政の状況を見るために、市政府所在
3、農村居住環境の改善。
4、農村文化、教育、医療、社会保障体系など
地の市区を訪ねた。そこで、人民広場、水上公園
を見学し、人民医院を訪ね、都市建設、医療状
の樹立。
況、社会保障などを考察した。
5、農村の民主、法制化。
また、市のトップ、シンガポール留学の経験を
6、農村幹部人材の育成。
たとえば、食料生産の農地保護藁するために、
持ち、若く42歳の市長にもインタビューをした。
藁城市の市政府所在地の市区は、14平方キロが
工業開発に対して厳格の農地保護制度を設定し、
それに基づいて、集約化工業園区の形をとった。
あり、10万余りの人口がいる。
また、2005年に、4
6村の人口移動による空洞化
市区の中心に、1999年3月から、作られた広場
で、余った住宅地を整理して、新たに、1050ムの
がある。この広場の面積は、1
8.
36万平方メート
農業用地が増えた。
ルで、河北省の県級市の中で、最大なものであ
る。緑化面積は、10万平方メートルで、44種類の
崗上村は、一つの村として、都市化・工業化進
花、樹木が植えられている。広場の正面に、7000
―6
7―
2
0
6
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
平方メートルのメロディー附きの大きな噴水があ
6、使い捨て商品を減らし、簡易包装を勧め
り、四季を象徴する大型鉄鋼オブジェがある。広
る。
場の端に、テレビ塔が聳え立ち、その下には、大
7、政府購買はグリーン商品に。
舞台がある。
8、学校で、
「わたしたちから、資源を大事に
広場は、市民たちの祭りなどの文化活動、大規
する」活動を推進するなど。
模集会を行う場所として、また、娯楽、休憩、交
流の場でもある。
また、2006年6月に始まった環境プロジェクト
では、危険建築の除去、広告看板の整理、ごみの
広場という空間は、現代中国の都市建設の中
で、よく見られる。しかし、この空間機能は、西
処理、水系統清潔の保持、生態緑化、大気、水汚
染企業の整頓、などを実施した。
洋とは、違うように、現在では、独自の民族、地
域、文化、伝統を生かして、時代性を持つ面白い
社会福祉保障について、我々は、新しくできた
役割が創出されている。藁城市の広場の象徴的、
人民医院の入院ビルを訪ね、新型農村合作医療制
機能的意味については、別稿で展開したい。
度のことを聞いた。
広場から離れ、水上公園を見た。1994年完成の
この制度は、2007年1月1日に実施した、家庭
水上公園の総面積157ムである。その中、水面積
単位で、毎年50元(中央財政援助20元、地方財政
は40ム、緑化面積は89.
2ムである。この間、ちょ
から20元、個人10元)を銀行口座に入金する。病
うど、開園以来、200万次の来園客を迎えた。市
気治療代を支払うときに、郷鎮病院では1
00元を
区には、大きな市民公園として、水上公園のほか
超える場合6
0%を公費負担、本市病院で3
00元以
にもう一つ児童公園がある。
上の場合、45%を公費負担、他の地域指定病院で
藁城市市区の都市計画は「衛生都市」、「園林都
2000元以上を超える場合、3
0%を公費負担とな
市」、「文明都市」三つの目標を目指している。市
る。一人、年間公費負担総額は、1
5000元以内で
区全体が、六つの緑化区で構成される緑地系と、
ある。
運河からの引水で、市区を囲む環状水系が特徴と
藁城市には、市のレベルの病院は人民病院と、
なる。市区隣接の荒廃凹地で、地熱資源を利用
中医院(漢方医院)二つがある。そのほか、郷鎮
し、大型温泉休暇村を建設中である。ほかには、
には「衛生院」
、村には、「衛生室」という名前の
道路交通、上下水、都市ガス、などの都市計画
小 さ な 病 院 が あ る。2
007年、7の 郷 鎮「衛 生
は、専門家の審査を受けてから、段階的に、実行
院」、323の「衛生室」は、標準化基準に達した。
に移すというシステムがある。内陸部農村小都市
として、これほどしっかりしている都市計画に驚
いた。
人民医院は藁城市の最大な病院で、入院ビルは
17000平方メートルの面積がある。ICU まで完備
工業化につれて、日々きびしくなる資源、環境
された総合性二級甲等病院である。
問題への取り組みを、2005年10月、市に出された
藁城市に、1995年障害者のための9年制「特殊
政府文件「節約型社会を建設するための当面の作
学校」が作られた。現在、7歳から15歳の知能障
業計画」を通して、見ることができる。中で、今
害、聴覚障害、言語障害の子ども、少年たち91名
後2年間の主要任務については、主につぎのよう
は、10のクラスで教育を受けている。学校は現
な項目を設けている。
在、教職員2
8名がいる。学校の理念は「全 面 発
1、土地利用の集約化、農地の保護。
達、欠陥を補う、技能養成、障害者を人材に」で
2、工場、企業のエネルギー消費効率低い設備
ある。
の淘汰。
3、農村でメタンガス使用の普及率を20%以上
に引き上げる。
我々は、今回の調査で、藁城市の全体的イメー
ジを掴むために、多くのことを見たり、聞いたり
4、用水定額制度化、科学的に配分。
したが、時間の制限と大量な情報を整理するため
5、工業用水再使用率を84%に引き上げる。
に、取捨しなければならない。たとえば、きわめ
―6
8―
小川勝一・曽
貧
現代中国内陸部小都市<藁城市>の発展についての第一次報告
2
0
7
て重要な教育問題、農村家庭の問題、工業誘致の
「大学生村官」
問題などの調査の手薄さと、触れる暇もないとい
上記の市長へのメール内容の中にも触れた「大
うことで、今後の課題にしたい。
学生村官」とは、2006年に、藁城市が実施した村
藁城市現在の主な問題点については、市長に尋
ねると、とても印象深い話をしてくれた。
長の助役クラスを大学生から公募で選ぶ制度であ
る。
「藁城市の経済構造はまだ、不合理の面があ
2007年7月1日、藁城市、初めて、7
17名の大
る。発展の様式も考える余地がある。とくに、
学卒業生から公募した80名の大学生は80の村に赴
サービス業は、まだ遅れている。企業全体の科学
任した。
技術進歩への貢献度がまだ低い。エネルギー、資
彼らの後を追ってみた。たとえば、河北農業大
源の節約、環境保全、福祉、教育の改善がまだ、
学動物養殖と疾病防止専攻の孟桂艶は、中ヨウ村
たくさんのしごとが残っている。わたしたちは、
の副書記になって、村の食用牛飼育、病気予防、
自分で、自分に圧力を掛けないと、前進できな
治療の仕事を取り組んでいる。
い。」
石家荘学院教育系を卒業した李文化は、農村未
成人犯罪問題を防止するために、毎週、村で父母
おわりに
と子供たちにさまざまな講座を開いている。
調査を終え、我々は、しばらく時間を置きなが
ら、日本から、藁城市を観察した。
九問郷のそれぞれ五つの村に赴任した張海江、
王彦シンなど、5人は、村民たちの願望に従っ
この間に知った二つの話を紹介しながら、今後
て、郷の「第一経済合作社」を作った。
の課題を考えてみたい。
新農村、新産業、新環境を作るために、彼ら
は、今日も藁城市農村第一線の村で、自分たちの
「市長信箱」
若い力を発揮している。
藁城市市長への公開メールアドレスがある。た
くさん寄せられたメールの中では、次のものがあ
る。その概略を紹介しよう。
藁城市において、単に、特定の政治権利や経済
権力に取り込まれることで、住民の根本的利益を
「わたしは、藁城市出身の大学生です、故郷
背けるなら、おそらく、今日の藁城市の発展はな
の近況について、自分の意見を言いたい。
いと思う。藁城市の政策立案者、行政は、いかな
1、先日、大勢の大学卒業生は、村官になった
る形で、民衆の内発的発展の願いと力量を汲んで
事を知り、たいへん心強くなった。このよう
いるのか、その詳細を今後の研究で明らかにした
な政策はぜひ続けてほしい。
い。
2、藁 城 市 で 有 名 な 宮 面(宮 廷 風 麺)
、鴨 梨
我々は、この地域の過去を知るために、梅花鎮
(一種の梨)
、ゴン家荘の工芸品などのよさ
大虐殺記念館を訪ねた。そこでは、日中両国関係
をもっと、外に向かって宣伝してほしい。
の歴史、この地域に残した悲惨な一頁を目にし
3、藁城市に、台西遺跡がある。これは重要な
た。過去を知り、未来を開く、両国の相互理解を
文化財で、それを大事に保護し、観光資源に
深めるために、我々研究者にとって、日中共同研
もなれる。
究をこの地点から展望する必要があると感じてい
4、藁城市のテレビ局の番組は、変な広告が多
る。
い、独自性はない。
5、徐村から丘頭鎮までの道路の修繕が必要。
附記:
以上の拙見をご参考ください。」
調査を協力してくれた王普増市長をはじめとす
る、政府弁公室の方々に深く感謝します。
―6
9―
長野大学紀要
第3
0巻第3号 7
1―8
6頁(2
0
9―2
2
4頁)2
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0
8
テキスト・マイニングを用いた方面委員による事例記録の分析(1)
An Analysis of the Homen-iin Case Records Using Text Mining(1)
坪
井
真*
Makoto Tsuboi
例記録」という)の分析をとおして、方面委員に
¿.はじめに
よる実践の内在的諸要素()実践主体、*実践の
1.研究目的
対象者、+実践の内容、,実践の目的、-実践の
1917(大正6)年から1928(昭和3)年にかけ
方法)に対する外在的要因()方面委員に関連す
て行政区画(道府県・市町村)単位の組織が設立
る政策、*方面委員の組織的運動、+実践地域の
された方面委員と類似した実践主体(以下「方面
特性、,所属組織の特性)の関連性と特徴を検討
委員」と総称する)は「地域福祉の推進役として
する。
活動を展開している」民生委員児童委員の前身で
ある(小松2006:2
72−273)。また、地域福祉研
2.事例記録の特徴と分析方法
究の分野で方面委員とは、隣保相扶思想に基づく
本研究が分析対象とする方面委員の事例記録
取り組み、セツルメント運動、慈善事業・社会事
(全日本方面委員連盟1934−1942)は、全日本方
業の組織化(中央慈善協会・中央社会事業協会の
面委員連盟より発刊された『方面委員叢書』各号
設立)、農村社会事業と並ぶ「地域福祉の源流」
に掲載されたテキスト型データである(表1)。
(井岡2006:75−7
6)に位置づけられている。
表1からも理解できるように、『方面委員叢書第
一方、方面委員に関する研究では「方面委員の
一号』(1934)・『方面委員叢書第二号』
(1935)・
実践そのものから何がいえるのか」という分析視
『方面委員叢書第十七号』
(1941)は「方面委員
点に基づく研究、すなわち方面委員の実践に内在
取扱実例集」
、『方面委員叢書第十九号』
(1942)
する特性を解析する研究が課題として残されてい
は「方面委員取扱実例集
る(坪井2007)。そこで本稿は、上記の研究課題
う副題が付いている。
まごころの記録」とい
を論及するため、方面委員による実践の内在的諸
一方、1938(昭和13)年発刊 の『方 面 委 員 叢
要素に対する外在的要因の影響を分析したい。具
書』(第九号・第十号・第十一号)は「生業扶助
体的には、1934(昭和9)年から1942(昭和1
7)
実話(方面委員取扱)」(第九号)・「一般取扱実話
年にかけて発刊された『方面委員叢書』各号(全
(方面委員取扱)」(第十号)・「軍事扶助実話(方
日本方面委員連盟1934−1942)の「方面委員取扱
面委員取扱)」(第十一号)
、1940(昭和1
5)年発
実例」「生業扶助実話」「一般取扱実話」
「軍事扶
刊の『方面委員叢書』
(第十二号・第十三・第十
助実話」「軍事援護実例」
「一般取扱実例」
「方面
六号)は「軍事援護実例(方面委員取扱)」(第十
委員取扱進展実例」(以下、総称する場合は「事
二号)・「一般取扱実例(方面委員取扱)」(第十三
*社会福祉学部准教授
―7
1―
2
1
0
長野大学紀要
表1
第3
0巻第3号 2
0
0
8
分析対象とする方面委員の事例記録(全日本方面委員連盟1
9
3
4−1
9
4
2)
発刊年
事例記録が掲載された文献
事例記録が掲載された文献の副題
1
9
3
4(昭和9) 方面委員叢書第一号
方面委員取扱実例集
1
9
3
5(昭和1
0) 方面委員叢書第二号
方面委員取扱実例集
1
9
3
8(昭和1
3) 方面委員叢書第九号
生業扶助実話(方面委員取扱)
1
9
3
8(昭和1
3) 方面委員叢書第十号
一般取扱実話(方面委員取扱)
1
9
3
8(昭和1
3) 方面委員叢書第十一号
軍事扶助実話(方面委員取扱)
1
9
4
0(昭和1
5) 方面委員叢書第十二号
軍事援護実例(方面委員取扱)
1
9
4
0(昭和1
5) 方面委員叢書第十三号
一般取扱実例(方面委員取扱)
1
9
4
0(昭和1
5) 方面委員叢書第十六号
方面委員取扱進展実例集
1
9
4
1(昭和1
6) 方面委員叢書第十七号
方面委員取扱実例集
1
9
4
2(昭和1
7) 方面委員叢書第十九号
方面委員取扱実例集まごころの記録
号)・「方面委員取扱進展実例」
(第十六号)とい
う副題が付いている。
表3の2値データに基づき、実際のデータを整
理した結果が表4である。そして、表4の)(組
また、『方面委員叢書』各号に掲載された事例
織の設立主体)
・*(委員の名称)・+(行政区
記録は方面委員の個人名と所属組織の行政区画
画)に基づき、行政区画(道府県)単位の分析対
(道府県および東京市)が記載されている。そこ
象組織を類型化した結果、下記のような8類型に
で、方面委員の組織特性類型を設定し、事例記録
分類された(表5)。
に示された異なるタイプ、すなわち「一般取扱」
[類型¿]設立当初における「組織の設立主体」
「生業扶助」
「軍事扶助」
「進展事例」(以下、左
が行政機関、「委員の名称」が方面委員、
「行政区
1)
に基づき分類
記のタイプを「内容類型」という)
画」の規模が道府県である。(19行 政 区 画 が 該
する。
当)
[類型À]設立当初における「組織の設立主体」
¸
方面委員の組織特性類型
が行政機関、「委員の名称」が方面委員以外、「行
本稿は、ブール代数に基づく質的比較分析(以
2)
政区画」の規模が道府県である。
(10行政区画が
下「質的比較分析」をいう)を用いて行政区画
該当)
(道府県)単位の組織特性を分析する。
[類型Á]設立当初における「組織の設立主体」
まず、設立当初における各行政区画(47道府
が行政機関、「委員の名称」が方面委員、「行政区
県)の「組織の設立主体」「委員の名称」「行政区
画」の規模が市町村である。(8行 政 区 画 が 該
画の規模」を『方面委員二十年史』
(全国方面委
当)
員連盟1941)、『民生委員制度七十年史』
(全国民
[類型Â]設立当初における「組織の設立主体」
生委員児童委員協議会1988)に基づき整理した。
が行政機関以外、「委員の名称」が方面委員以
その結果が表2の当該項目である。
外、「行政区画」の規模が道府県である。(5行政
次に、比較分析のプロセスとして類型化の基準
区画が該当)
となる変数を設定する。変数は、表2の項目に基
[類型Ã]設立当初における「組織の設立主体」
づ き、)最 初 の 組 織 を 設 立 し た 主 体(設 立 主
が行政機関、「委員の名称」が方面委員以外、「行
体)、*設立当初の委員の名称、+設立当初の行
政区画」の規模が市町村である。
(2行政区画が
政区画(道府県もしくは市町村)の規模である。
該当)
さらに各変数を記号化し、2値データ(1もしく
[類型Ä]設立当初における「組織の設立主体」
は0)の基準を設定する(表3)。
が行政機関以外、「委員の名称」が方面委員以
―7
2―
坪井
真
表2
テキスト・マイニングを用いた方面委員による事例記録の分析
(1)
各行政区画(4
7道府県)を単位とした方面委員組織の特性
最初の組織が
設立された年
岡山県
1
9
1
7
(T6)
東京府
1
9
1
8
(T7)
大阪府
1
9
1
8
(T7)
埼玉県
1
9
1
9
(T8)
兵庫県
1
9
1
9
(T8)
青森県
1
9
2
0
(T9)
神奈川県 1
9
2
0
(T9)
京都府
1
9
2
0
(T9)
広島県
1
9
2
0
(T9)
長崎県
1
9
2
0
(T9)
岐阜県
1
9
2
1
(T1
0)
滋賀県
1
9
2
1
(T1
0)
北海道
1
9
2
2
(T1
1)
福島県
1
9
2
2
(T1
1)
石川県
1
9
2
2
(T1
1)
静岡県
1
9
2
2
(T1
1)
群馬県
1
9
2
3
(T1
2)
新潟県
1
9
2
3
(T1
2)
富山県
1
9
2
3
(T1
2)
長野県
1
9
2
3
(T1
2)
愛知県
1
9
2
3
(T1
2)
三重県
1
9
2
3
(T1
2)
鳥取県
1
9
2
3
(T1
2)
香川県
1
9
2
3
(T1
2)
鹿児島県 1
9
2
3
(T1
2)
栃木県
1
9
2
4
(T1
3)
山口県
1
9
2
4
(T1
3)
愛媛県
1
9
2
4
(T1
3)
佐賀県
1
9
2
4
(T1
3)
宮城県
1
9
2
5
(T1
4)
山形県
1
9
2
5
(T1
4)
福岡県
1
9
2
5
(T1
4)
岩手県
1
9
2
6
(T1
5/S1)
茨城県
1
9
2
6
(T1
5/S1)
和歌山県 1
9
2
6
(T1
5/S1)
秋田県
1
9
2
7
(S2)
千葉県
1
9
2
7
(S2)
山梨県
1
9
2
7
(S2)
奈良県
1
9
2
7
(S2)
徳島県
1
9
2
7
(S2)
高知県
1
9
2
7
(S2)
熊本県
1
9
2
7
(S2)
大分県
1
9
2
7
(S2)
福井県
1
9
2
8
(S3)
島根県
1
9
2
8
(S3)
宮崎県
1
9
2
8
(S3)
沖縄県
1
9
2
8
(S3)
行政区画
2
1
1
組織の設立主体
(設立当初)
岡山県
東京府慈善協会
大阪府
埼玉共済会
兵庫県
青森共済会
横浜市
京都府
広島市
長崎市
岐阜県
市町村自治協会
北海道
福島県
石川県
静岡県
伊勢崎町
新潟市
高岡市
長野県
愛知県
三重県
鳥取県
私立鶏鳴学館
県社会事業協会
県社会事業協会
宇部市
愛媛県
県社会事業協会
宮城県
山形県
福岡県
盛岡市
茨城県
和歌山県
秋田県
千葉県
山梨県
奈良県
徳島市
高知県
熊本市
大分県
福井県
島根県
宮崎県
沖縄県
委員の名称
(設立当初)
1 済世顧問
0 救済委員
1 方面委員
0 福利委員
1 救護視察員
0 共済委員
1 方面委員
1 公同委員
1 方面委員
1 方面委員
1 奉仕委員
0 保導委員
1 保導委員
1 共済委員
1 社会改良委員
1 方面委員
1 方面委員
1 方面委員
1 方面調査委員
1 方面委員
1 方面委員
1 方面委員
1 共済委員
0 方面委員
0 保導委員
0 補導委員
1 方面委員
1 方面委員
0 方面委員
1 奉仕委員
1 方面委員
1 方面委員
1 方面監察委員
1 方面委員
1 社会匡済委員
1 方面委員
1 方面委員
1 方面委員
1 方面委員
1 方面委員
1 方面委員
1 方面委員
1 方面委員
1 方面委員
1 方面委員
1 方面委員
1 方面委員
)
備考:本表の詳細は、巻末の注3に記した。
―7
3―
*
0
0
1
0
0
0
1
0
1
1
0
0
0
0
0
1
1
1
0
1
1
1
0
1
0
0
1
1
1
0
1
1
0
1
0
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
行政区画の規
模(設立当初)
道府県
道府県
道府県
道府県
道府県
市町村
市町村
道府県
市町村
市町村
道府県
道府県
道府県
道府県
道府県
道府県
市町村
市町村
市町村
道府県
道府県
道府県
道府県
市町村
道府県
道府県
市町村
道府県
道府県
道府県
道府県
道府県
市町村
道府県
道府県
道府県
道府県
道府県
道府県
市町村
道府県
市町村
道府県
道府県
道府県
道府県
道府県
+
1
1
1
1
1
0
0
1
0
0
1
1
1
1
1
1
0
0
0
1
1
1
1
0
1
1
0
1
1
1
1
1
0
1
1
1
1
1
1
0
1
0
1
1
1
1
1
2
1
2
長野大学紀要
表3
第3
0巻第3号 2
0
0
8
分析対象組織の組織特性(2値データ)
O
設立当初における「組織の設立主体」が、行政機関(道府県・市町
村)である場合は1、行政機関以外の組織である場合は0。
N
設立当初における「委員の名称」が方面委員である場合は1、方面
委員以外の名称である場合は0。
W
設立当初における「行政区画」の規模が道府県である場合は1、市
町村である場合は0。
表4
分析対象組織の類型
類型
o
n
w
度数
該当する行政区画(道府県)
¿
1
1
1
1
9
大阪府 静岡県 長野県 [愛知県] 三重県 [愛媛県] 山形県
福岡県 茨城県 秋田県 千葉県 山梨県 奈良県 高知県
大分県 [福井県][島根県][宮崎県][沖縄県]
À
1
0
1
1
0
岡山県
鳥取県
Á
1
1
0
8
神奈川県
熊本県
Â
0
0
1
5
東京府
Ã
1
0
0
2
富山県 [岩手県]
Ä
0
0
0
1
青森県
Å
0
1
0
1
香川県
Æ
0
1
1
1
佐賀県
兵庫県 京都府 岐阜県
宮城県 [和歌山県]
広島県
埼玉県
北海道
福島県
長崎県 [群馬県] 新潟県
滋賀県
鹿児島県
石川県
山口県 [徳島県]
栃木県
備考:括弧で示された行政区画(道府県)は『全国方面委員名簿』
(中央社会事業協会1
9
2
8)に
方面委員の「職業」が記載されていない行政区画(道府県)である。
外、「行政区画」の規模が市町村である。(1行政
い。一方、類型Ä、類型Å、類型Æの分析対象組
区画が該当)
織は単独であり、固有の特徴を示す類型といえる
[類型Å]設立当初における「組織の設立主体」
だろう。
が行政機関以外、「委員の名称」が方面委員、「行
¹
政区画」の規模が市町村である。
(1行政区画が
事例記録の内容類型と組織特性類型に基づ
く分類
該当)
[類型Æ]設立当初における「組織の設立主体」
前述した方面委員の組織特性類型と事例記録の
が行政機関以外、「委員の名称」が方面委員、「行
内容類型(
「一般取扱」「生業扶助」
「軍事扶助」
政区画」の規模が道府県である。
(1行政区画が
「進展事例」)に基づき分類したところ、図1・
該当)
2・3・4のような結果が得られた。
表4からも理解できるように、)最初の組織を
各図からも理解できるように「一般取扱」と
設立した主体、*設立当初の委員の名称、+設立
「生業扶助」は1934(昭和9)年から事例記録が
当初の行政区画の規模という変数に基づく分析対
掲載されている。一方、
「進展事例」は1
935(昭
象組織は、類型¿が最も多く、次いで類型À、類
和10)年、「軍事扶助」は1938(昭和1
3)年から
型Á、類型Â、類型Ãの順に複数の分析対象組織
事例記録が掲載されている。類型の名称は当該類
が含まれる。したがって、各類型に属する分析対
型に属する事例記録の特徴を示しており、
「生業
象組織は共通の組織特性を有している可能性が高
扶助」の事例は救護法(1932年施行)が制度的基
―7
4―
坪井
真
テキスト・マイニングを用いた方面委員による事例記録の分析
(1)
2
1
3
図1 「一般取扱」に該当する方面委員の事例記録(1
9
3
4−1
9
4
2)
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
¿
大阪府
1
¿
沖縄県
3
¿
大阪府
3
¿
茨城県
1
3
¿
静岡県
1
5
¿
静岡県
1
3
¿
千葉県
9
¿
大阪府
2
1
¿
千葉県
1
7
¿
福岡県
4
¿
静岡県
1
4
¿
福岡県
2
2
3
¿
長野県
1
¿
長野県
2
¿
千葉県
¿
千葉県※
¿
三重県
¿
山形県
1
4
4
1
0
※副題は「銃後美談」
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
À
岡山県
6
À
岡山県
2
0
À
岡山県
1
À
岡山県
1
2
À
岐阜県
1
0
À
岐阜県
5
À
岡山県
2
1
À
京都府
5
À
北海道
3
2
À
京都府
2
2
À
宮城県
2
4
À
北海道
8
À
岐阜県
9
À
京都府
1
0
À
兵庫県
1
2
À
北海道
1
2
À
福島県
1
4
À
北海道
1
6
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Á
横浜市
2
Á
熊本県
1
8
Á
熊本県
1
Á
熊本県
8
Á
熊本県
1
9
Á
長崎県
1
2
Á
長崎県
2
2
Á
新潟県
5
Á
広島県
2
6
Á
広島県
7
Á
広島県
2
7
Á
横浜市
2
Á
横浜市
2
5
Á
広島県
2
6
Á
山口県
5
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Â
滋賀県
4
Â
鹿児島県
2
8
Â
埼玉県
3
Â
東京府
1
4
Â
埼玉県
1
0
Â
滋賀県
1
1
Â
埼玉県
1
1
Â
東京市
8
Â
滋賀県
2
3
Â
東京市
9
Â
滋賀県
2
4
Â
東京市
3
1
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Ã
富山県
7
Ã
富山県
7
Ã
富山県
1
1
Ã
富山県
1
1
Ã
富山県
1
5
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Ä
青森県
4
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Å
香川県
2
7
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Æ
佐賀県
1
8
備考:西暦の列に示した数字は、事例記録(当該年発刊)に掲載された事例番号である。
―7
5―
2
1
4
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
図2 「生業扶助」に該当する方面委員の事例記録(1
9
3
4−1
9
4
2)
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 地域 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
¿
大分県
1
4 ¿
茨城県
6 ¿
大阪府
4 都市
¿
長野県
6 ¿
沖縄県
1 ¿
静岡県
6 都市
¿
静岡県
8
¿
長野県
2
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 地域 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
À
岡山県
1
1 À
岡山県
1
2 À
石川県
1
2 都市
À
宮城県
1
7 À
岐阜県
4 À
京都府
9 都市
À
京都府
1
3 À
北海道
3 農村
À
福島県
À
京都府
1
9
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 地域 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Á
熊本県
1
5 Á
熊本県
1
1 Á
神奈川県
2 農村
Á
横浜市
1 Á
広島県
1
6 Á
長崎県
1 農村
Á
広島県
8 都市
Á
山口県
1
1 農村
Á
横浜市
5 都市
Á
新潟県
3 Á
熊本県
1
2
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 地域 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Â
埼玉県
2 Â
Â
滋賀県
5
滋賀県
1
5 Â
鹿児島県
3 都市
Â
鹿児島県
6 農村
Â
埼玉県
7 都市
Â
滋賀県
9 農村
Â
東京市
1
1 都市
Â
鹿児島県
3
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 地域 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Ã
富山県
7
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 地域 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Ä
青森県
8 農村
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 地域 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
類型 行政区画 1
9
3
4 類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
3
8 地域 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Æ
佐賀県
Æ
5
佐賀県
2
1
備考1)西暦の列に示した数字は、事例記録(当該年発刊)に掲載された事例番号である。2)
「生業扶助」の事例
記録が掲載された『方面委員叢書』各号に香川県(類型Å)の事例は掲載されていない。
盤である。また、
「軍事扶助」の事例は軍事扶助
徴が変容する可能性を示している。何故ならば、
法(1937年に軍事救護法改正・改称された法令)
1937(昭和12)年に方面委員令が施行される1936
が制度的基盤であり、方面委員の事例記録も軍事
(昭和1
1)年以前、
「一般取扱」の事例に関する
扶助法施行(1
937年)の翌年から掲載されてい
全国的な制度的基盤は存在しなかったからである
る。
(道府県・市町村の行政区画レベルの制度的基盤
一方、事例記録の発刊初年次(1934年)から掲
は存在していた)。したがって、「一般取扱」の事
載されている「一般取扱」は、通時的に事例の特
例は、1937(昭和12)年以降、方面委員令に何ら
―7
6―
坪井
真
テキスト・マイニングを用いた方面委員による事例記録の分析
(1)
2
1
5
図3 「軍事扶助」に該当する方面委員の事例記録(1
9
3
8−1
9
4
2)
類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
¿
千葉県
4
¿
茨城県
1
4
¿
大阪府
1
¿
千葉県
1
9
¿
茨城県
1
8
¿
長野県
3
0
¿
三重県
1
0
¿
大阪府
1
¿
福岡県
2
8
¿
静岡県
7
¿
奈良県
4
¿
山形県
1
6
¿
静岡県
1
3
類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
À
京都府
7
À
岡山県
1
3
À
岡山県
1
6
À
石川県
1
7
À
京都府
8
À
兵庫県
1
5
À
兵庫県
2
2
À
岡山県
1
8
À
鳥取県
1
4
À
北海道
5
À
鳥取県
1
5
À
鳥取県
1
6
À
兵庫県
1
7
À
福島県
1
1
À
福島県
1
2
À
北海道
1
À
北海道
2
À
北海道
1
8
類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Á
長崎県
9
Á
長崎県
2
1
Á
熊本県
2
9
Á
長崎県
2
Á
広島県
2
類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Â
東京市
5
Â
鹿児島県
Â
東京市
6
Â
滋賀県
8
Â
滋賀県
1
1
Â
東京市
2
Â
東京府
1
9
9
類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Ã
富山県
3
類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Ä
青森県
6
類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
類型 行政区画 1
9
3
8 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1 類型 行政区画 1
9
4
2
Æ
佐賀県
8
備考1)西暦の列に示した数字は、事例記録(当該年発刊)に掲載された事例番号である。
2)
「軍事扶助」の事例記録が掲載された『方面委員叢書』第十一号∼第十九号に
香川県(類型Å)の事例は掲載されていない。
―7
7―
2
1
6
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
図4 「進展事例」に該当する方面委員の事例記録(1
9
4
0)
類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1
¿
秋田県
5
¿
大阪府
1
2
¿
奈良県
5
¿
大阪府
4
¿
高知県
1
1
¿
福岡県
6
¿
沖縄県
2
¿
静岡県
1
7
¿
静岡県
1
5
¿
長野県
2
¿
長野県
1
¿
奈良県
4
¿
奈良県
6
¿
三重県
1
6
¿
福岡県
7
¿
三重県
1
8
類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1
À
岡山県
2
1
À
石川県
À
岐阜県
9
À
京都府
6
À
京都府
2
2
À
鳥取県
1
9
À
兵庫県
1
4
À
福島県
1
6
À
北海道
1
9
8
類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1
Á
熊本県
2
0
Á
広島県
2
7
Á
山口県
7
類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1
Â
埼玉県
1
2
Â
東京市
1
3
Â
滋賀県
2
5
Â
東京府
1
0
類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1
Ã
富山県
2
6
類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1
Ä
青森県
1
0
Ä
青森県
1
8
類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1
類型 行政区画 1
9
3
5 類型 行政区画 1
9
4
0 類型 行政区画 1
9
4
1
Æ
佐賀県
1
1
備考1)西暦の列に示した数字は、事例記録(当該年発刊)に掲載さ
れた事例番号である。2)
「進展事例」の事例記録が掲載さ
れた『方面委員叢書第一六号』に香川県(類型Å)の事例は
掲載されていない。
かの影響を受けている可能性が高いといえよう。
次節では、各類型の事例記録をテキスト・マイ
表5は「一般取扱」「生業扶助」「軍事扶助」の
ニングの方法によって分析する。なお、事例記録
事例記録が同一もしくは近似した時期の行政区画
をテキスト型データとして扱う分析プロセスは以
を抽出し、組織特性類型¿∼Æに基づき分類した
下のとおりである。
結果である。
【組織特性類型別による分析プロセス】
―7
8―
坪井
真
テキスト・マイニングを用いた方面委員による事例記録の分析
(1)
表5
2
1
7
分析対象の行政区画
類型
o
n
w
分析対象の行政区画/分析した文献の発行年(分類)
¿
1
1
1
大阪府/1
9
3
8(一般取扱)
、1
9
4
0(軍事扶助)
、1
9
3
8(生業扶助)
À
1
0
1
京都府/1
9
3
8(一般取扱)
、1
9
3
8(軍事扶助)
、1
9
3
8(生業扶助)
Á
1
1
0
長崎県/1
9
3
8(一般取扱)
、1
9
3
8(軍事扶助)
、1
9
3
8(生業扶助)
Â
0
0
1
東京府/1
9
3
8(一般取扱)
、1
9
3
8(軍事扶助)
、1
9
3
8(生業扶助)
Ã
1
0
0
富山県/1
9
4
1(一般取扱)
、1
9
4
0(軍事扶助)
、1
9
4
2(生業扶助)
Ä
0
0
0
青森県/1
9
3
8(一般取扱)
、1
9
4
0(軍事扶助)
、1
9
3
8(生業扶助)
Å
0
1
0
香川県/1
9
4
1(一般取扱)
Æ
0
1
1
佐賀県/1
9
4
1(一般取扱)
、1
9
4
1(軍事扶助)
、1
9
4
2(生業扶助)
備考:東京府には東京市の事例記録も含む(以下の記述も同様)
。
)WordMiner!(ソフトウエア)を用いたテキス
ト・マイニングにより、同じ行政区画における異
À.事例記録の分析結果
1.組織特性類型別による分析の結果
なるタイプの事例記録(「一般取扱」「生業扶助」
1938(昭和13)年から1942(昭和17)年の『方
「軍事扶助」のテキスト型データ。以下、本プロ
セスの説明で総称する場合は WordMiner!の表記
面叢書』各号に記載された各類型をテキスト・マ
に基づき「サンプル」という)を分析し、各サン
イニングで分析した結果は表6¸・¹のとおりで
プルのキーワード群を抽出する。
*WordMiner!の「多次元データ解析」機能を用
ある。そこで、各類型におけるサンプルクラス
いて、抽出したキーワード群に基づくサンプルの
(1)類型¿の特性
クラスター化を実行する。
+WordMiner!の「多 次 元 デ ー タ 解 析」機 能 の
(1938)・「軍事扶助」
(1940)の各事例が『方面
「サンプルのメンバーシップ・リスト(サンプル
叢書』に記載されている大阪府の事例記録をテキ
の 一 覧)」を 実 行 し、組 織 特 性 類 型(類 型¿∼
スト・マイニングで分析した。その結果、類型¿
Æ)別の特徴を観察する。
(大阪府)は「一般取扱」事例・
「生業扶助」事
【事例記録のタイプ別による分析プロセス】
)WordMiner!(ソフトウエア)を用いたテキス
例のキーワード群で構成されるサンプルクラス
ト・マイニングにより、同じタイプの事例記録に
されるサンプルクラスター2という特徴が示され
おける異なる所属組織類型(表4の類型¿∼Æ。
た。さらに、サンプルクラスター1の検定値が最
以下、本プロセスの説明で総称する場合は WordMiner!の表記に基づき「サンプル」という)を分
も小さいサンプル(すなわち当該クラスターの重
析し、各サンプルのキーワード群を抽出する。
*WordMiner!の「多次元データ解析」機能を用
は「生業扶助」事例(検定値0.
23)であった。
いて、抽出したキーワード群に基づくサンプルの
13)年 以 降 の 方 面 委 員 に よ る 実 践 は、救 護 法
クラスター化を実行する。
+WordMiner!の「多 次 元 デ ー タ 解 析」機 能 の
(1932年施行)や方面委員令・軍事扶助法(1937
「サンプルのメンバーシップ・リスト(サンプル
て、類型¿(設立当初における「組織の設置主
の一覧)」を実行し、タイプ(「一般取扱」「生業
体」が行政機関、「委員の名称」が方面委員、「行
扶助」「軍事扶助」)が異なる事例記録の特徴を観
政区画」の規模が道府県)の事例記録(分析対象
察する。
のテキスト型データ)は、方面委員令と救護法に
ターの特徴を分析する。
類型¿では、「一般取扱」(1938)・「生業扶助」
ター1と「軍事扶助」事例のキーワード群で構成
心に近く、そのクラスターに特徴的なサンプル)
既述したように、分析対象となる1
938(昭和
年施行)に影響を受けた可能性が高い。したがっ
影響を受けた可能性が高い(とりわけ救護法の影
―7
9―
2
1
8
長野大学紀要
表6¸
第3
0巻第3号 2
0
0
8
テキスト・マイニングで抽出した事例記録のキーワードに基づくクラスター類型)
(組織特性類型別)
類型¿(大阪府)
サンプルクラス
ター1
クラスターサイ
ズ:2
類型Á(長崎県)
サンプルクラス
ター2
クラスターサイ
ズ:1
サンプルクラス
ター1
クラスターサイ
ズ:2
サンプルクラス
ター2
クラスターサイ
ズ:1
1 「一般取扱」事例 「軍事扶助」事例
1 「一般取扱」事例 「生業扶助」事例
2 「生業扶助」事例
2 「軍事扶助」事例
類型À(京都府)
サンプルクラス
ター1
クラスターサイ
ズ:2
類型Â(東京府)
サンプルクラス
ター2
クラスターサイ
ズ:1
サンプルクラス
ター1
クラスターサイ
ズ:1
サンプルクラス
ター2
クラスターサイ
ズ:2
1 「一般取扱」事例 「軍事扶助」事例
1 「一般取扱」事例 「生業扶助」事例
2 「生業扶助」事例
2
表6¹
「軍事扶助」事例
テキスト・マイニングで抽出した事例記録のキーワードに基づくクラスター類型*
(組織特性類型別)
類型Ã(富山県)
サンプルクラス
ター1
クラスターサイ
ズ:1
類型Å(香川県)
サンプルクラス
ター2
クラスターサイ
ズ:2
※一般取扱のみ(分析対象から除外)
1 「一般取扱」事例 「生業扶助」事例
2
「軍事扶助」事例
類型Ä(青森県)
サンプルクラス
ター1
クラスターサイ
ズ:2
類型Æ(佐賀県)
サンプルクラス
ター2
クラスターサイ
ズ:1
サンプルクラス
ター1
クラスターサイ
ズ:1
サンプルクラス
ター2
クラスターサイ
ズ:2
1 「一般取扱」事例 「生業扶助」事例
1 「一般取扱」事例 「生業扶助」事例
2 「軍事扶助」事例
2
「軍事扶助」事例
備考:類型Å(香川県)は「一般取扱」事例(1
9
4
1)のみであるため、分析対象から除外し
た。
響が強い)「一般取扱」事例・「生業扶助」事例と
類型Àでは、「一般取扱」(1938)・「生業扶助」
救護法・軍事扶助法に影響を受けた可能性が高い
(1938)・「軍事扶助」
(1938)の各事例が『方面
「軍事扶助」事例によるクラスター構造が特徴と
叢書』に記載されている京都府の事例記録をテキ
いえるだろう。
スト・マイニングで分析した。その結果、類型À
(2)類型Àの特性
(京都府)は、「一般取扱」事例・「生業扶助」事
―8
0―
坪井
真
テキスト・マイニングを用いた方面委員による事例記録の分析
(1)
2
1
9
例のキーワードで構成されるサンプルクラスター
京府の「一般取扱」事例(東京市1938)・「生業扶
1と「軍事扶助」事例のキーワードで構成される
助」事例(東京府1938)・「軍事扶助」事例(東京
サンプルクラスター2という特徴が示された。さ
市1938)をテキスト・マイニング(キーワード抽
らに、サンプルクラスター1の検定値が最も小さ
出)で分析した。
いサンプル(すなわち当該クラスターの重心に近
その結果、類型Â(東京府)は、
「一般取扱」
く、そのクラスターに特徴的なサンプル)は「一
事例のキーワードで構成されるサンプルクラス
般取扱」事例(検定値0.
09)であった。
ター1と「生活扶助」事例・・
「軍事扶助」事例
したがって、類型À(設立当初における「組織
のキーワードで構成されるサンプルクラスター2
の設置主体」が行政機関、
「委員の名称」が方面
という特徴が示された。さらに、サンプルクラス
委員以外、
「行政区画」の規模が道府県)の事例
ター2の検定値が最も小さいサンプル(すなわち
記録(分析対象のテキスト型データ)は、方面委
当該クラスターの重心に近く、そのクラスターに
員令・救護法に影響を受けた可能性が高い(とり
特徴的なサンプル)は「軍事扶助」事例(検定値
わけ方面委員令の影響が強い)「一般取扱」「生業
0.
11)であった。
扶助」事例と軍事扶助法に影響を受けた可能性が
したがって、類型Â(設立当初における「組織
高い「軍事扶助」事例によるクラスター構造が特
の設置主体」が行政機関以外、
「委員の名称」が
徴といえるだろう。
方面委員以外、「行政区画」の規模が道府県)の
(3)類型Áの特性
事例記録(分析対象のテキスト型データ)は、方
類型Áでは、「一般取扱」
「生業扶助」「軍事扶
面委員令に影響を受けた可能性が高い「一般取
助」の各事例が『方面叢書』に記載されている長
扱」事例と救護法・軍事扶助法に影響を受けた可
崎県の「一般取扱」事例(1938)・「生業扶助」事
能性が高い(とりわけ軍事扶助法の影響が強い)
例(1938)・「軍事扶助」事例(1938)をテキスト
「生業扶助」「軍事扶助」事例によるクラスター
・マイニング(キーワード抽出)で分析した。そ
構造が特徴といえるだろう。
の結果、類型Á(長崎県)は、「一般取扱」事例
(5)類型Ãの特性
・「軍事扶助」事例のキーワードで構成されるサ
類型Ãでは、当該類型で『全国方面委員名簿』
ンプルクラスター1と「生活扶助」事例のキー
(1928)に基づく職業分類でデータが存在する富
ワードで構成されるサンプルクラスター2という
山県の「一般取扱」事例(1941)・「生業扶助」事
特徴が示された。さらに、サンプルクラスター1
例(1938)・「軍事扶助」事例(1940)をテキスト
の検定値が最も小さいサンプル(すなわち当該ク
・マイニング(キーワード抽出)で分析した。そ
ラスターの重心に近く、そのクラスターに特徴的
の結果、類型Ã(富山県)は、
「一般取扱」事例
なサンプル)は「軍事扶助」事例(検定値0.
3)
のキーワードで構成されるサンプルクラスター1
であった。
と「生 活 扶 助」事 例・「軍 事 扶 助」事 例 の キ ー
したがって、類型Á(設立当初における「組織
ワードで構成されるサンプルクラスター2という
の設置主体」が行政機関、「委員の名称」が方面
特徴が示された。さらに、サンプルクラスター2
委員、「行政区画」の規模が市町村)の事例記録
の検定値が最も小さいサンプル(すなわち当該ク
(分析対象のテキスト型データ)は、方面委員令
ラスターの重心に近く、そのクラスターに特徴的
・軍事扶助法に影響を受けた可能性が高い(とり
なサンプル)は「生活扶助」事例(検定値0.
09)
わけ軍事扶助法の影響が強い)「一般取扱」
「軍事
であった。
扶助」事例と救護法に影響を受けた可能性が高い
したがって、類型Ã(設立当初における「組織
「生業扶助」事例によるクラスター構造が特徴と
の設置主体」が行政機関、
「委員の名称」が方面
いえるだろう。
委員以外、
「行政区画」の規模が市町村)の事例
(4)類型Âの特性
記録(分析対象のテキスト型データ)は、方面委
類型Âでは、「一般取扱」
「生業扶助」「軍事扶
員令に影響を受けた可能性が高い「一般取扱」事
助」の各事例が『方面叢書』に記載されている東
例と救護法・軍事扶助法に影響を受けた可能性が
―8
1―
2
2
0
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
高い(と り わ け 救護 法 の 影 響 が 強 い)
「生 業 扶
記録(分析対象のテキスト型データ)は、方面委
助」事例・
「軍事扶助」によるクラスター構造が
員令に影響を受けた可能性が高い「一般取扱」事
特徴といえるだろう。
例と救護法・軍事扶助法に影響を受けた可能性が
(6)類型Äの特性
高い(とりわけ軍事扶助法の影響が強い)
「生活
類型Äでは、当該類型に唯一属する青森県の
「一 般 取 扱」事 例(1938)・「生 業 扶 助」事 例
扶助」「軍事扶助」事例によるクラスター構造が
特徴といえるだろう。
(1938)・「軍事扶助」事例(1940)をテキスト・
2.「一般取扱」
「生業扶助」
「軍事扶助」にお
マイニング(キーワード抽出)で分析した。その
ける事例記録の特性
結果、類型Ä(青森県)は、「一般取扱」事例・
「軍事扶助」事例のキーワードで構成されるサン
前述したように1938(昭和13)年以降の方面委
プルクラスター1と「生活扶助」事例のキーワー
員による実践は、救護法(1932)や方面委員令・
ドで構成されるサンプルクラスター2という特徴
軍事扶助法(1
937)に影響を受けた可能性が高
が示された。さらに、サンプルクラスター1の検
い。そこで、方面委員令(1937)に影響を受けた
定値が最も小さいサンプル(すなわち当該クラス
可能性が高い「一般取扱」事例、救護法(1932)
ターの重心に近く、そのクラスターに特徴的なサ
に影響を受けた可能性が高い「生業扶助」事例、
ン プ ル)は「軍 事 扶 助」事 例(検 定 値0.
22)で
軍事扶助法(1937)に影響を受けた可能性が高い
あった。
「軍事扶助」事例に分類し、方面委員の事例記録
したがって、類型Ä(設立当初における「組織
の設置主体」が行政機関以外、
「委員の名称」が
を分析した。その結果は以下のとおりである。
(1)「一般取扱」事例の特性
方面委員以外、
「行政区画」の規模が市町村)の
類型¿(1938)・類型À(1938)・類型Á(1938)
事例記録(分析対象のテキスト型データ)は、方
・類型Â(1938)・類型Ã(1941)・類型Ä(1938)
面委員令・軍事扶助法に影響を受けた可能性が高
・類型Å(1941)・類型Æ(1941)の「一般取扱」
い(とりわけ軍事扶助法の影響が強い)
「一般取
事例をテキスト・マイニング(キーワード抽出)
扱」「軍事扶助」事例と救護法に影響を受けた可
で分析した。その結果、サンプルクラスター1
能性が高い「生業扶助」事例によるクラスター構
(類型¿・類型Ä)・サンプルクラスター2(類
造が特徴といえるだろう。
型Æ)・サンプルクラスター3(類型À)・サンプ
(7)類型Æの特性
ルクラスター4(類型Á)・サンプルクラスター
類型Æでは、当該類型に唯一属する佐賀県の
5(類型Å)・サンプルクラスター6(類型Ã)・
「一 般 取 扱」事 例(1941)・「生 業 扶 助」事 例
サンプルクラスター7(類型Â)という7つのク
(1942)・「軍事扶助」事例(1941)をテキスト・
ラスター構造となった(表7)。
マイニング(キーワード抽出)で分析した。その
なお、複数の類型が属するサンプルクラスター
結果、類型Æ(佐賀県)は、「一般取扱」事例の
1の検定値が最も小さいサンプル(すなわち当該
キーワードで構成されるサンプルクラスター1と
クラスターの重心に近く、そのクラスターに特徴
「生活扶助」事例・
「軍事扶助」事例のキーワー
的なサンプル)は 類 型¿(検定値0.
08)であっ
ドで構成されるサンプルクラスター2という特徴
た。(表8)
が示された。さらに、サンプルクラスター2の検
(2)「生業扶助」事例の特性
定値が最も小さいサンプル(すなわち当該クラス
類型¿(1938)・類型À(1938)・類型Á(1938)
ターの重心に近く、そのクラスターに特徴的なサ
・類型Â(1938)・類型Ã(1942)・類型Ä(1938)
ン プ ル)は「軍 事 扶 助」事 例(検 定 値0.
15)で
・類型Æ(1942)の「生業扶助」事例をテキスト
あった。
・マイニング(キーワード抽出)で分析した。そ
したがって、類型Æ(設立当初における「組織
の結果、サンプルクラスター1(類型¿)・サン
の設置主体」が行政機関以外、
「委員の名称」が
プルクラ ス タ ー2(類 型Â)・サ ン プ ル ク ラ ス
方面委員、「行政区画」の規模が道府県)の事例
ター3(類型À・類型Á・類型Ä)・サンプルク
―8
2―
坪井
真
テキスト・マイニングを用いた方面委員による事例記録の分析(1)
2
2
1
表7 「一般取扱」事例のサンプルクラスター
サンプルク
ラスター1
クラスター
サイズ:2
サンプルク
ラスター2
クラスター
サイズ:1
サンプルク
ラスター3
クラスター
サイズ:1
サンプルク
ラスター4
クラスター
サイズ:1
サンプルク
ラスター5
クラスター
サイズ:1
サンプルク
ラスター6
クラスター
サイズ:1
サンプルク
ラスター7
クラスター
サイズ:1
1
類型¿
類型Æ
類型À
類型Á
類型Å
類型Ã
類型Â
2
類型Ä
表8
サンプルクラスター1に属するサンプル(類型)
の検定値
検定値
SEQ
類型・道府県
1
[0
0
0
0
0
0
0
1]
0.
0
8 ¿大阪
2
[0
0
0
0
0
0
0
6]
0.
6 Ä青森
表9 「生業扶助」事例のサンプルクラスター
1
サンプルク
ラスター1
クラスター
サイズ:1
サンプルク
ラスター2
クラスター
サイズ:1
サンプルク
ラスター3
クラスター
サイズ:3
サンプルク
ラスター4
クラスター
サイズ:1
サンプルク
ラスター5
クラスター
サイズ:1
類型¿
類型Â
類型À
類型Æ
類型Ã
2
類型Á
3
類型Ä
表1
0 サンプルクラスター3に属するサンプル(類型)
の検定値
検定値
SEQ
類型・道府県
1
[0
0
0
0
0
0
0
2]
0.
3
7 À京都
2
[0
0
0
0
0
0
0
3]
0.
3 Á長崎
3
[0
0
0
0
0
0
0
6]
0.
5
7 Ä青森
ラ ス タ ー4(類 型Æ)・サ ン プ ル ク ラ ス タ ー5
・類型Æ(1
941)の「軍事扶助」事例をテキスト
(類型Ã)という5つのクラスター構造となった
・マイニング(キーワード抽出)で分析した。そ
(表9)。
の結果、サンプルクラスター1(類型¿・類型
なお、複数の類型が属するサンプルクラスター
Á)・サンプルクラスター2(類型Â)・サンプル
3の検定値が最も小さいサンプル(すなわち当該
クラスター3(類型À・類型Ä)・サンプルクラ
クラスターの重心に近く、そのクラスターに特徴
スター4(類型Æ)・サンプルクラスター5(類
的なサンプル)は、類型Á(検定値0.
3)であっ
型Ã)という5つのクラスター構造となった(表
た。(表10)
11)。
(3)「軍事扶助」事例の特性
このうち、サンプルクラスター1の検定値が最
類型¿(1940)・類型À(1938)・類型Á(1938)
も小さいサンプル(すなわち当該クラスターの重
・類型Â(1938)・類型Ã(1940)・類型Ä(1940)
心に近く、そのクラスターに特徴的なサンプル)
―8
3―
2
2
2
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
表1
1 「軍事扶助」事例のサンプルクラスター
サンプルク
ラスター1
クラスター
サイズ:1
サンプルク
ラスター2
クラスター
サイズ:1
サンプルク
ラスター3
クラスター
サイズ:3
サンプルク
ラスター4
クラスター
サイズ:1
サンプルク
ラスター5
クラスター
サイズ:1
1
類型¿
類型Â
類型À
類型Æ
類型Ã
2
類型Á
類型Ä
表1
2 サンプルクラスター1・3に属するサンプル(類型)の検定値
1:サンプルクラスター1
SEQ
3:サンプルクラスター3
検定値
類型・道府県
SEQ
検定値
類型・道府県
1
[0
0
0
0
0
0
0
1]
0.
1 ¿大阪
1
[0
0
0
0
0
0
0
2]
0.
2
6 À京都
2
[0
0
0
0
0
0
0
3]
0.
3
8 Á長崎
2
[0
0
0
0
0
0
0
6]
0.
3
4 Ä青森
は類型¿(検定値0.
1)、サンプルクラスター3の
一方、
「一般取扱」
「生業扶助」
「軍事扶助」で
検定値が最も小さいサンプルは類型À(検定値
類型化した事例記録の分析結果は、関連政策・制
0.
26)であった(表12)。
度(実践に対する外在的要因:)方面委員に関連
Á.分析結果の検討
する政策)の側面から、方面委員による実践の内
在的諸要素()実践主体、*実践の対象者、+実
組織特性類型(類型Åの香川県を除く)の分析
践の内容、,実践の目的、-実践の方法)に対す
結 果 で は、)類 型¿(大 阪 府)・類 型À(京 都
る外在的要因(,所属組織の特性)の関連性と特
府)、*類型Á(長崎県)・類型Ä(青森 県)、+
徴を示している。たとえば組織特性類型(類型Å
類型Â(東京府・東京市)・類型Ã(富山県)・類
の香川県を除く)の分析結果で「軍事扶助」事例
型Æ(佐賀県)が同じクラスター類型の組み合わ
が 共 通 す る*類 型Á(長 崎 県)・類 型Ä(青 森
せである。このうち当該サンプルクラスターの検
県)を比較した場合、
「一般取扱」
「生業扶助」
定値が最も小さいサンプル(当該クラスターの重
「軍事扶助」で類型化した事例記録の分析結果
心に近く、そのクラスターに特徴的なサンプル)
(表7∼表12)は異なるクラスター構造である。
も一致する組み合わせは「軍事扶助」事例が共通
今後は、本稿と同様のプロセスで他の事例記録
する*類型Á(長崎県)・類型Ä(青森県)であ
(『方面委員叢書』各号に記載された事例記録)
る。一 方、)類 型¿(大 阪 府)・類 型À(京 都
を分析し、上記の分析結果を論及する必要があ
府)は当該クラスターに特徴的なサンプルが一致
る。
しない。また、+類型Â(東京府・東京市)・類
型Ã(富 山 県)・類 型Æ(佐 賀 県)は、類 型Â
注
(東京府・東京市)と類型Æ(佐賀県)の2類型
1))一般取扱:本稿では、『方面委員叢書第一号
方
が「軍事扶助」事例で一致する。したがって、組
面委員取扱実例集』
(全日本方面委員連盟1
9
3
4)の
織特性類型(類型Åの香川県を除く)の分析結果
「取扱事件に関する実例」
、『方面委員叢書第二号
は、組織特性類型(実践に対する外在的要因:,
方面委員取扱実例集』
(全日本方面委員連盟1
9
3
5)の
所属組織の特性)の側面から、方面委員による実
「一般取扱事件に関する実例」
、『方面委員叢書第十
践の内在的諸要素()実践主体、*実践の対象
号
者、+実践の内容、,実践 の 目 的、-実 践 の 方
員連盟1
9
3
8)
、『方面委員叢書第十三号
法)に対する外在的要因()方面委員に関連する
例(方面委員取扱)
』
(全日本方面委 員 連 盟1
9
4
0)
、
政策)の関連性と特徴を示している。
『方面委員叢書第十七号
―8
4―
一般取扱実話(方面委員取扱)
』
(全日本方面委
一般取扱実
方面委員取扱実例集』
(全
坪井
真
テキスト・マイニングを用いた方面委員による事例記録の分析
(1)
2
2
3
日本方面委員連盟1
9
4
1)の「一般取扱」
、『方面委員
ベットを表記」し、論理式(大文字もしくは小文字
叢書第十九号
まごころの記
のアルファベットで構成された式)であらわす。さ
録』
(全日本方面委員連盟1
9
4
2)の該当事例を「一般
らに、ブール代数に基づき論理式を縮約し、分析す
取扱」と総称する。
る方法が質的比較分析である。本稿は、方面委員に
方面委員取扱実例集
*生業扶助:本稿では、『方面委員叢書第一号
方
よる組織特性類型を分析する際、上記の質的比較分
面委員取扱実例集』
(全日本方面委員連盟1
9
3
4)の
「生業扶助に関する実例」
、『方面委員叢書第二号
析における論理式までの過程を活用した。
3)表2「各行政区画(4
7道府県)を単位とした方面
方面委員取扱実例集』
(全日本方面委員連盟1
9
3
5)の
委員組織の特性」の補足説明は以下のとおりで あ
「生業扶助に関する実例」
、『方面委員叢書第九号
る。1)
「行政区画」の配列は「最初の組織が設立さ
生業扶助実話(方面委員取扱)
』
(全日本方面委員連
れた年」の順序である。3)
「規程の改定等(設立∼
盟1
9
3
8)
、『方面委員叢書第十七号
方面委員取扱実
方面委員令施行)
」の年は当該組織が規程を改定(廃
例集』
(全日本方面委員連盟1
9
4
1)の「生業援護」
、
止・新設も含む)した年を示す。但し、全国規模で
『方面委員叢書第十九号
ま
おこなわれた1
9
3
2(昭和7)年の救護法実施に関す
ごころの記録』
(全日本方面委員連盟1
9
4
2)の該当事
方面委員取扱実例集
る改定(救護委員の設置)は除く。4)表中の):
例を「生業扶助」と総称する。
設立当初における「組織 の 設 立 主 体」が 行 政 機 関
+軍事扶助:本稿では、『方面委員叢書第十一号
(道府県・市町村)である場合は1、行政機関以外
軍事扶助実話(方面委員取扱)
』
(全日本方面委員連
の組織である場合は0を示す。5)表中の*:設立
盟1
9
3
8)
、『方 面 委 員 叢 書 第 十 二 号
軍事援護実例
当初における「委員の名称」が方面委員である場合
(方面委員取扱)
』
(全日本方面委員連盟1
9
4
0)
、『方
は1、方面委員以外の場合は0を示す。6)表中の
面委員叢書第十七号
+:設立当初における「行政区画」の規模が道府県
方面委員取扱実例集』
(全日本
方面委員連盟1
9
4
1)の「軍事援護」
、『方面委員叢書
第十九号
方面委員取扱実例集
である場合は1、市町村である場合は0を示す。
まごころの記録』
(全日本方面委員連盟1
9
4
2)の該当事例を「軍事扶
文
助」と総称する。
中央社会事業協会(1
9
2
8)
『全国方面委員名簿』中央社
,進展実例:本稿では、『方面委員叢書第二号
会事業協会
方
面委員取扱実例集』
(全日本方面委員連盟1
9
3
5)の
日本地域福祉学会編(2
0
0
6)
『新版地域福祉事典』中央
法規出版(井岡:7
5−7
6、小松:2
7
2−2
7
3)
「近隣の状況に鑑み方面委員として特に発達を促せ
る社会事業に関する実例」および『方面委員叢書第
十六号
鹿又伸夫・野宮大志郎・長谷川計二編著(2
0
0
1)
「質的
比較分析」ミネルヴァ書房
方面委員取扱進展実例集』
(全日本方面委員
連盟1
9
4
0)に記載された事例記録(テキスト型デー
献
坪井真(2
0
0
7)
「方面委員による実践の歴史研究―先行
研究のレビューと『全国方面委員名簿』
(1
9
2
8)に基
タ)を「進展実例」と総称する。
づく職業特性の分析―」
『城西国際大学紀要・福祉総
2)質的比較 分 析(鹿 又・ほ か2
0
0
1:5−6)は「2
合学部』1
5(3)
、2
1−4
9
値の変数を分析する方法である。従属変数、複数の
独立変数は、それぞれがある条件に該当しているか
全国民生委員児童委員協議会(1
9
8
8)
『民生委員制度七
十年史』全国民生委員児童委員協議会
否か(条件が存在しているか欠如しているか)をあ
らわす」という。そして「条件の存在を1、欠如を
全日本方面委員連盟(1
9
3
4)
『方面委員叢書第一号方面
委員取扱実例集』全日本方面委員連盟
0として、データを整理する。この1と0であらわ
した表を真理表という。この真理表では、各行に、
全日本方面委員連盟(1
9
3
5)
『方面委員叢書第二号
面委員取扱実例集』全日本方面委員連盟
独立変数(原因条件)のそれぞれ異なる組合せ、そ
してその独立変数値のもとでの結果現象が存在する
全日本方面委員連盟(1
9
3
8)
『方面委員叢書第九号生業
扶助実話(方面委員取扱)
』全日本方面委員連盟
か否かをあらわす従属変数の値(1か0)をあたえ
る(中略)
。次いで、条件が存在する場合は大文字、
方
全日本方面委員連盟(1
9
3
8)
『方面委員叢書第十号一般
条件が欠如する場合は小文字で、各変数のアルファ
―8
5―
取扱実話(方面委員取扱)
』全日本方面委員連盟
2
2
4
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
全日本方面委員連盟(1
9
3
8)
『方面委員叢書第十一号軍
全日本方面委員連盟(1
9
4
1)
『方面委員叢書第十七号方
事扶助実話(方面委員取扱)
』全日本方面委員連盟
面委員取扱実例集』全日本方面委員連盟。
全日本方面委員連盟(1
9
4
0)
『方面委員叢書第十二号軍
全日本方面委員連盟(1
9
4
1)
『方面事業二十年史』遠藤
事援護実例(方面委員取扱)
』全日本方面委員連盟。
興一解説(1
9
9
7)
「戦前期社会事業基本文献集5
4」日
全日本方面委員連盟(1
9
4
0)
『方面委員叢書第十三号一
本図書センター
般取扱実例(方面委員取扱)
』全日本方面委員連盟。
全日本方面委員連盟(1
9
4
2)
『方面委員叢書第十九号方
全日本方面委員連盟(1
9
4
0)
『方面委員叢書第十六号方
面委員取扱実例集まごころの記録』全日本方面委員
面委員取扱進展実例集』全日本方面委員連盟。
連盟
―8
6―
長野大学紀要
第3
0巻第3号 8
7―9
1頁(2
2
5―2
2
9頁)2
0
0
8
ハワイ大学における障害学生支援 KOKUA プログラム
Assistance for students with disabilities at University of Hawaii,
KOKUA Program
伊
藤
英
一*
Eiichi Ito
学マノア校に研究拠点を移し、Speitel 教授の研
1. はじめに
究室にて障害児を含む中学・高校生のための科学
2007年8月より約7ヶ月間、州立ハワイ大学マ
ノア校教育学部 CRDG(Curriculum Research and
技術教育プログラム3)を実際に運用していること
から今回の滞在が実現した。
Development Group)で教育工学を担当する Tho-
そして、障害学生支援をハワイ大学で展開して
mas Speitel 教授の研究室に滞在する機会を得て、
いる KOKUA の Ann Ito 所長ら(図2参照)との
ハワイ大学で障害学生を支援している KOKUA
懇談を重ねることができたのは、Ito 所長が視覚
Program(以 下、KOKUA)の 情 報 収 集 と 意 見 交
障害(全盲)のある日系アメリカ人で、苗字が私
換をおこなったのでここに報告する。
と同じ Ito であること、そして私自身が7年前ま
まず、ハワイ大学マノア校は州立ハワイ大学機
でリハビリテーションセンターの職員として実際
構(10箇所のキャンパス/3校の4年制大学と7
に障害当事者への支援をしていたことなど、Ito
校のコミュニティカレッジ)の中で中心的な、そ
所長が私自身に対して大きな興味を持っておられ
1)
してもっとも歴史ある4年制大学である 。オア
たという偶然が重なったことであろう。
フ島ホノルル市に所在し、1907年に創立され、現
さらに、私自身が障害者支援のための工学技術
在では学士課程87専攻、修士課程87専攻、博士課
を専門としているということから、Access Tech-
程51専攻を擁する総合大学である。学生数は約
nology Specialist として活躍している Teresa Haven
20,
000人、教員数は約2,
000人(非常勤を含む)
博士もすべての懇談に同席され、KOKUA で学生
で、そのうち学士 課 程 の56%が 女 子 で、7
3%が
が利用する設備(音声 PC や拡大読書器など)も
full−time の学生であり、平均年齢は25歳 で あ る
見学することができた。
(2007年現在)。
1998年から1年間、伊藤がスタンフォード大学
2. KOKUA Program とは
言語情報研究センター(CSLI)に滞在した際に
KOKUA4)は、ハワイ大学における障害学生支
所属していたアルキメデスプロジェクト2)(コン
援を担当する独立した機関であり、Office はマノ
ピュータのユニバーサルインタフェースの研究)
ア キ ャ ン パ ス の ほ ぼ 中 心 に あ る Queen
のリーダー(当時)であり、アメリカにおける身
li’uokalani Center for Student Services の1階にあ
体 障 害 者 の 情 報 ア ク セ ス 分 野 で は 著 名 な Neil
る。入口すぐの受付から奥には障害学生が使う各
Scott 博士(図1参照)が、数年前よりハワイ大
種機器の備え付けてあるガラス張りの個室や、
*社会福祉学部教授
―8
7―
Li-
2
2
6
長野大学紀要
図1
図2
第3
0巻第3号 2
0
0
8
Neil Scott 博士と
Ito 所長(中央)と Haven 博士(右)
。所長室にて
オープンスペースに間仕切りの付いた机が配置さ
ある。基本は Include
れた学習スペース(図3∼4参照)
、職員の個室
で、必要なものは提供するが、食事介助や車いす
などから構成され、ゆったりとしたスペースが印
から椅子への移乗など、個人の責任 Personal Re-
象的である。
sponsibilities として対応するべき事項は明確に区
各 種 機 器 と は、CCTV(拡 大 読 書 器)や ス ク
Student
Better という方針
別している。履修登録 Registration を一般学生よ
リーンリーダー(パソコン画面の読み上げソフ
りも早期に実施(教室の確保やキャンパス内移
ト)、音声認識などの情報保障のための機材が大
動、教員への支援/指導などのため)し、ノート
半である。それら機材の保守や学生への利用指導
テイクや点訳などの情報保障など大学が提供する
を担当しているのが Haven 博士である。彼女は
事項をしっかりと区別していることに米国らしさ
日本での留学経験があり、僅かだが日本語もでき
が覗える。特に、早期履修登録は適切な教室や機
るため日本からの障害のある留学生にはありがた
材を優先的に確保し、教室間移動(専用の Van
い存在である。
サービスがある)を円滑に実施するための手配が
KOKUA にはノートテイクや、障害学生を担当
先行でき、テキストの電子化や点字化などの情報
する教員への支援など25種類の提供セッションが
保障を早期に始められる点、さらには担当教員へ
―8
8―
伊藤英一
図3
ハワイ大学における障害学生支援 KOKUA プログラム
2
2
7
アクセスルーム(左)と学習用個別エリア(右)
図4
サポート学生用エリア
のオリエンテーションなどが効率良く進むという
族あるいは病院や施設などへも(入学や復学など
ことから、長野大学でも導入を検討してはどうだ
における事前相談や必要となる事前訓練など)必
ろうか。
要があれば情報提供を行っているということで
障害学生は KOKUA を利用するにあたり、医
あった。
療機関などから所定の証明書などの提出を義務づ
入学後の基本的なサービスとしては、まず個別
けており、その情報をもとに「学び」に必要な、
に実施するオリエンテーションとアセスメントを
一般学生と等しい機会を提供するためのサービス
実施し、そこで学生にはどのような支援・サービ
を展開している。また、学生本人のみならず、家
スが必要で、学生自身が準備するものと、大学が
―8
9―
2
2
8
長野大学紀要
第3
0巻第3号 2
0
0
8
用意するものとを明確にすることからはじまる。
3=1,
500人が障
から考えると1
0,
000人×1/2×0.
例えば教室、図書館、研究室、研究環境や実習環
害学生であり全学生数の約7.
5%)で、年齢も1
8
境などにおいて必要となる特殊な机や椅子は大学
歳から55歳まで多様であるということであった。
側が用意し、トイレ介助であるとか食事介助、移
また、今後も増え続けるであろう広汎性発達障害
乗介助などの個人的な対応はそれぞれが介助者を
への対応がこれからの課題であり、また、さまざ
工面することになる。
まな大学との情報交換などをしていきたいし、何
また、教員への支援/指導も積極的に行ってい
る。障害学生が履修登録をした授業科目の教員に
か新しいことをハワイからアメリカ本土に発信し
たいということであった。
対して、その学生の機能や障害内容に関する詳細
KOKUA の設備などは大学が負担しているが、
情報を提供し、授業ではどのような対応が必要な
その他全てが小額の Fund(寄付や基金など)で
のかという相談指導を実施している。しかし、教
運営されている。米国では NPO 活動が盛んであ
員の多くはあまり協力的ではないということで
り、その活動経費の多くは個人からの寄付だと言
あった。
われている。米国では税金は源泉徴収ではなく、
障害学生の内訳などは個人情報にあたるため集
すべてが年度末に確定申告をしている。その際、
計をしていないということから詳細は不明である
寄付は控除されるため、使途が特定できない税金
が、KOKUA が担当する全障害学生のうち約5
0%
よりも、活動内容に共感できる NPO 団体への寄
が広汎性発達障害、約3
0%が視覚障害や聴覚障
付(使途が選択できる)が尊重されるのであろ
害、肢体不自由、残りの約20%が精神障害や内部
う。
障害、一時的な怪我などである。ただし、最近は
メンタル的な対応の必要な学生が多いということ
3. 高等教育における情報保障
であるが、これは KOKUA ではなくカウンセリ
聴覚障害学生に対する情報保障について、私見
ングオフィス(同じ建物の2階)が担当するよう
として「ノートテイクや要約筆記は平等な情報保
である。また、視覚障害や聴覚障害については情
障ではない」という内容を述べ、その点について
報障害の範疇であり、情報支援技術 Access Tech-
は所長も同意され、ハワイ大学では手話通訳が最
nology を使うためのスキルが必要になる。その
も適切な情報保障である点を強調された。ノート
ための指導が大切であるということ、また学生指
テイクと手話通訳、あるいはキャプショニング
導だけではなく、入学前の段階(High School な
(字幕)というセットがもっとも多いということ
ど)での情報提供も KOKUA の業務であ り、そ
であったが、手話通訳を授業に入れるのは通訳者
れらがとても重要であるということであった。
の都合もあるため、なかなか難しいようだった。
また、長野大学における障害学生支援につい
ハワイ大学にも専属(フルタイム)の手話通訳
て、わずかではあるが紹介した。長野大学は障害
者は居らず、時間契約による手話通訳者8名で対
学生の割合が多く(全学生数の約2%)、ノート
応しているという。もちろん、8名では不十分で
テイクなど KOKUA とほぼ同様の支援サービス
あり、聴覚障害学生が5名以上履修している授業
をしていることや、JOIN プロジェクトの概要を
であっても全てを賄う事はできないということで
紹介した。JOIN については漢字かな混じりの日
あった。手話通訳者への謝金は、時給(米国では
本語でも音声認識が使えるという点にまず興味を
手話通訳者の最低賃金が設定されており、ハワイ
持たれ、さらに全学的な取り組みとして3年間継
大学ではほぼ同額)と、大学構内の駐車場利用料
続して運用しているという状況(教員側の協力や
金($3/日)と、通勤距離に応じたガソリン代
理解がある点)には感心された。
相当額(交通費)を支給しているということで
KOKUA が担当する学生数を尋ねたところ、年
間約10,
000人(セメスターにより重複する学生数
あった。もちろん、キャンパス外における通訳も
依頼することがあるようだ。
も含む。年2セメスターであることと、約3割が
日常的に手話を使う聴覚障害学生の文字言語理
視覚・聴覚・肢体不自由の障害学生であるところ
解についても話題となった。手話(意味表現)と
―9
0―
伊藤英一
ハワイ大学における障害学生支援 KOKUA プログラム
文字言語の根本的な違いの存在については日本語
も英語も同様であり、手話利用者にとって文字言
語は外国語という認識を持つ必要がある。文字言
2
2
9
か。
4. まとめ
語の理解が高くない聴覚障害学生には、どのよう
アメリカにおける障害学生支援の対象は、学習
な対応をしているのかという質問をしたところ、
障害や知的障害、自閉症、アスペルガー症候群な
マノア校は州立の総合大学であり、ハワイ州では
ど広汎性発達障害 へ の 対 応 件 数 が 多 く な り、
No.
1であることから、あまり文字言語の理解度
KOKUA としてもそれらへの支援が増加している
が低い聴覚障害学生は入学してこないということ
という。この分野は大学入学後に対応できるもの
であったが、コミュニティカレッジ(短大)には
ではなく、幼稚園∼小学校∼中学校∼高等 学 校
かなり多くの文字理解の低い聴覚障害学生がお
(米国では K―12と表現)における積み重ねが必
り、言語表現のための特殊な授業(補習、補講)
要である。個々に適した学習形態を発見し、それ
をしているとの事であった。
を習得しておけば、学習環境の設定のみで効果的
また、視覚障害者における情報保障の格差にも
な支援ができるという示唆を頂く事ができた。学
話題が進み、日本語では文字(墨字)と点字の情
生募集といった側面ではなく、中学/高等学校と
報量には差があるため、単に点訳すれば良いとい
の連携が必要であり、お互いに教育研究をする機
うものではないという事を指摘した。カナ情報と
会をもつ事が大切であることを伺った。
同等の点字文は、意味情報を含む漢字を用いた文
訪問研究員としての赴任直後に懇談を申し入れ
字(墨字)から明らかに情報が欠落しており、
たが、秋学期が始まった直後であり、時間がない
Ito 所長ご自身が日本語の習得を諦めたという話
ということから受け入れて頂けなかった。しか
題も取り上げながら、日本語を習得したいと思う
し、数ヶ月待った甲斐があり、複数回に渡って大
視覚障害者にとり大きな障壁であることを伺っ
変有意義な懇談が実現し、今後も情報交換をする
た。
機会を得る事ができた。今後の日米間の当該分野
ノートテイクの質について質問した所、大学院
生のノートテイカーはしっかりとしているが、学
におけるさらなる関係作りを模索する良い機会を
頂いたと確信している。
士課程の学生ではノートテイクの質において差異
があり、情報保障に差がでてしまうことが大きな
参考文献等:
問題である点を強調されていた。つまり、テイク
1)University of Hawaii WEB : http : //www.hawaii.edu/
の技術的な側面よりもテイクをする授業科目の理
2)Archimedes Project at CSLI, Stanford WEB : http : //archimedes.stanford.edu/
解度が良いノートを取るための因子であるよう
だ。そ の た め 授 業 中 に ア シ ス タ ン ト(TA)が
3)Archimedes Hawaii Project WEB : http : //www.hawaii.
edu/archimedes/
ノートテイカーのノートを検閲するなどの支援を
検討したいということであった。長野大学でも
4)KOKUA Program WEB : http : //www.hawaii.edu/kokua/
ノートテイカーを養成するばかりではなく、正し
いノートを作成するための指導や研修、あるいは
ノートの点検などの方策を検討してはどうだろう
―9
1―
KOKUA とはハワイ語 Kahi O Ka Ulu Ana(英:The
place of growing)の頭文字であると共に kokua(英:
help)という意味を有する。
長野大学紀要編集規程
(名称および発行)
第1条 本誌を「長野大学紀要」
(以下「本紀要」という。
)
と称し、年4回発行することを原則とする。
(目的)
第2条 長野大学において教員が行っている研究および本学で実施された共同研究や受託研究の成果を学
内外に紹介し、長野大学の教育・研究活動の活性化に寄与することを目的とする。
(編集委員会)
第3条 長野大学図書館運営委員会のもとに、長野大学紀要編集委員会(以下「編集委員会」という。
)
を
置く。編集委員会委員長は図書館運営委員会委員長が兼ねる。
2.本紀要の原稿の募集・編集は編集委員会が行う。
(投稿資格)
第4条 投稿できる者は原則として本学の専任教員および実習助手とする。ただし、本学の非常勤講師等
も投稿することができる。
(投稿原稿)
第5条 本紀要に掲載する原稿は他に未発表のものに限り、種類は次の各号に掲げるものとする。
論 文
研究ノート
書 評
その他の編集委員会の認めたもの
(著作権)
第6条 本紀要に掲載された論文等の著作権の取り扱いは、以下のとおりとする。
著作権は著者に帰属する。
著者は著作物の複製権と公衆送信権の行使を大学に委託する。
(論文等のネットワーク上での公開)
第7条 本紀要に掲載された論文等は、原則として電子化し、長野大学ホームページ等を通じてネット
ワーク上に公開する。
(配布)
第8条 発行された紀要は専任教員、実習助手および非常勤講師等へ配布する。
(抜刷)
第9条 執筆者には抜刷5
0部を配布する。ただし、5
0部をこえる分については執筆者がその費用を負担す
るものとする。
(執筆要領)
第1
0条 原稿は別に定める執筆要領にしたがうこととする。
(改廃)
第1
1条 この規程の改廃は、評議会の承認を得なければならない。
附則
本規程は平成5年7月1日から施行する。
本規程は平成1
7年4月1日から施行する。
!
"
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"
編集委員会
委員長
大野
委
神尾裕治,栗田明良,斎藤
員
晃
功,
シモンズ・マーガレット,野原
光
2008年12月26日
発行
長野大学紀要
第30巻第3号(通巻第1
1
5号)
編
集
発行所
長野大学紀要編集委員会
長
野
大
学
長野県上田市下之郷6
5
8−1
TEL (0
2
6
8)
3
9−0
0
0
5
印
刷
蔦 友 印 刷 株 式 会 社
長 野 市 平 林 1−3
4−4
3
TEL (0
2
6)
2
4
3−2
3
5
1
BULLETIN OF NAGANO UNIVERSITY
Vol.
3
0,No.
3,December 2
0
0
8
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
CONTENTS
Articles
A Study of the Significance of Home Visit and Outreach on Community Mental Health Activities
UWADAIRA Chuichi ………………………………………………………………………1
Fundamental Concepts of Dwelling and Kitchen in Korea : Transformation of dwelling and kitchen
space before Chosun period
5
Woo Jae-Yong・TANAKA Norihiro ………………………………………………………1
Junior High School Student’ Views about the Daily Life and Assistance for the Elderly Living
in Under-populated Areas : Opinions about Informal Care
Akiko Koshida ………………………………………………………………………………2
5
The end of Miike-laborers struggle and modern Japan : the dreams of orgarnized laborers
society and the formation of the citizens’ hegemony
Nobuaki Kurosawa …………………………………………………………………………3
7
Yoshimi TAKEUCHI et Lao She
SASAKI Thoru ……………………………………………………………………………5
3
Notes
The first report on the development of Gao Cheng, a small city of inland China :
A Japan-China collaborative research effort
Shoichi Ogawa・Zeng Pin …………………………………………………………………6
3
An Analysis of the Homen-iin Case Records Using Text Mining(1)
Makoto Tsuboi ………………………………………………………………………………7
1
Assistance for students with disabilities at University of Hawaii, KOKUA Program
Eiichi Ito ……………………………………………………………………………………8
7