婚礼 ~出会いから結婚まで

 婚礼 ~出会いから結婚まで~
ばいしゃくにん
さ ん こ ん さ ん さ ん く ど こ ん い ん はいぐうかん
婚姻とは社会的に承認された配偶間の締結(現在の婚姻
届)とその継続であり、婚礼とは、男女が夫婦となる婚姻
つう
か ぎ れ い
に三菜(三種の料理)を配膳するもので、地域によって膳
なっています。
組のあり方は様々であったようです。
す。婚姻には媒酌人が介在し、男性は女性の父母に申し入
≪はじめに≫
三献(三々九度)などの現在に伝わる婚礼の作法の原点と
かい ざい
れて話がまとまれば、男性側から品物を女性へ贈る納采が
行われるようになりましたが、
「結納」として一般庶民に
お が さ わ ら り ゅ う
武家の礼法の一つに小笠原流があります。江戸時代には
でん じゅ
徳川将軍家の公式礼法となり、一般への伝授は禁止され、
の儀式(結婚式)のことで、人生における通過儀礼の一つ
−双葉町の古文書−
福島県双葉町「久田家文書」は、
広まったのは江戸時代からのことです。
241 点にのぼる江戸時代の文書群
一般に普及したのは江戸末∼明治期でした。
そう ま
です。今回の展示では、市内の婚姻・婚礼に関する古文書・
ふた
き そ ざい 結婚がきまったことを意味する儀式を、「結納」といいます。これは
らい き
中国の「禮記」にならった礼式で、家どうしの新しい親せき関係を結
さ ほう ぶ行為です。作法が整えられたのは室町時代で、酒を飲みかわすだけ
そうてい
ゆいのうきん
まった小規模な集団の存在が想定されます。石器製作法の
でなく、金銭(結納金)のほか、カツオ節、スルメ、コンブ、アワビ
えんかく
などのめでたいものを届けるようになりました。
広がりから、石器製作の担い手と考えられる男性が、遠隔
ち
の武家のしきたりの様子をかいま
業が仲人業として婚姻の仲立ちを行ないました。
ゆうどう せいかつ
に な か ちょう
江戸時代は家長の力が強く、結婚も本人の意向以前に周
あっせん 囲の斡旋によるものが多くなりました。そのような情勢下
いいなずけ えんだん
−婚礼儀式のはじまり−
奈良・平安時代頃には、吉日を選んで男性が女性の家に
計画的な採集と狩猟・栽培が行なわれるようになります。
み か のもち 当時の婚姻のシステムも明らかではありませんが、抜歯風
習(通過儀礼において特定の歯を抜く風習)や耳飾りなど
こ ん にゅうし ゃ
こうさつ
しば ぶ ん ぷ
ムラを越えた婚姻が想定されます。また、土器型式の分布
という現在の披露宴が行われ、周囲が二人の結婚を正式に
あったようです。
わる重要儀礼のひとつでした。
認める宴が催されました。これが婚礼のはじまりで、婿取
−婚姻の成立− 現在、婚姻を成立させる手続きは役所に婚姻届を提出す
う人前式と披露宴が一緒になった形です。
ないだいじんしゅうにん しゅくえん だいきょう
藤原頼道の日記『台記』には、内大臣就任の祝宴(大饗)の様子が
とうふう い す はし
ぎ 記されています。唐風のテーブルと椅子、お箸とともにスプーンが使
開かれて村が生まれました。当時の倭国の様子を伝える「魏
われています。
志倭人伝」によれば、首長たちは4∼5人の妻を、一般民
いっ ぷ た さい
衆でも2∼3人の妻をもつことが記されており、一夫多妻
むこいり
な ぬし
た か む し や鳥・鯉をそれぞれの台の上に置いて飾ります。
あ
高岩村(白岡市)の名主から高虫村(蓮田市)の名主へ宛
しゅうもん
か じょ
松竹梅・尉・姥などを配したものです。酒器である瓶子や提子、銚子
写真 7:(左上)
「雄蝶雌蝶銚子」
『夜の嫁入り』より
てたもので、宗門人別帳の加除について書かれた人別送り
写真 8:(左下)婚礼の祝膳
『信濃の風土と歴史④』より
よめ
(1889) 年廃止)。このため、婚姻に関する書類(明治 14
(1881)年:写真 4)は、戸長が扱うことになりました。
士の軍事行動の単位は家と一族であったため、その結びつ
婚の一種)が広く行われていたようです。出合いの場は、
ほうじょう き がん しゅうかく かん しゃ
さ い れ い う た
きは強く、さらに周辺の武士団と親密な関係をつくるため、
政略的に婚姻関係が結ばれることが多くありました。男性
えられています。男性が女性に結婚を申し込むことを「妻
(婿)は自分の土地を離れる訳にはいかない事情から「嫁入
しょうだく
問」といい、女性が承諾すると婚約が成立します。7 世紀末
ま ん よ う し ゅ う
のうさい ばいしゃくにん
−結納(納采)
・媒酌人(仲人)のはじまり−
りちゅう
きさき
写真 3:
「人別送一札之事」
(石井家文書) 世紀前半)の皇太子(後の履中天皇)が、后を迎える際に贈
り物をしたことが記されています。皇室におけるこのような
儀式を「納采の儀」といい、結納の起源ともいわれています。
おぼえ 奈良・平安時代にも、妻問婚は続くものの、結婚相手を
決定するのは本人ではなく、女性の親へと変わっていきま
ほ ん ぜ ん りょうり
本 膳 に 七 菜(七
もと て、礼法の普及に努めました。写真 1:「小笠原流折形の図」(金井家文書) 写真 10:『お祝い事に
の料理)
、三の膳
して現在のお金に換算すると 4,380,000 円位
膳 に 五 菜(五 種
しき
床の間の飾りなどにおよぶ、諸作法が細かく規定され、式
しめてきん ななじゅう
三両壱朱也」とありますから、米価を基に
種の料理)
、二の
つと
ま どが記されています。総経費は「〆金七拾
さ ん り ょ い っ し ゅ な り
は乱世を安定させる方策とし
とこ
な な さ い
の買物(鯉・タラなどの魚や野菜、酒、ロ
ウソクなど)や婚礼衣装、仲人へのお礼な
礼法から、江戸時代に発展した伝統形式です。基本形は、
がっていました。そこで、幕府
祝い事にかかる出納帳』です。お祝い料理
婚礼料理の献立です。本膳料理といわれるもので、武家の
ふ る わ ず、下 剋 上 の 機 運 が 広
ふ きゅう
年に、下蓮田村内で行われた婚礼等の『お
「覚(婚礼献立)」
(石井家文書:写真 5)は、明治時代の
げ こく じょう らん せい 写真 10 は、江戸時代末の慶応 3(1867)
こんだて
写真 4:
「戸籍送り状」
(石井家文書)
−婚礼料理−
室町時代には、将軍の権威が
むか れ い ほ う
−武家の礼法の確立− に ん と く て ん の う
『日本書紀』(養老 4(720)年)によれば、仁徳天皇(5
こ う た い し 性の家に行き、婿の家で婚礼をあげました。
な こ う ど
に ほ ん し ょ き −婚礼にかかる費用− こし
り婚」 に変わっていきました。女性(嫁)は輿に乗って男
の『万葉集』には、妻問に関する和歌が残されています。
ゆいのう
写真 9:祝儀の盃(宮代町郷土資料館蔵)
がき
豊饒祈願、収穫感謝の祭礼に男女が歌い踊る歌垣などと考
たか いわ へいし ひさ げ ちょうし
こ ちょう せい ど 鎌倉時代に入り、武家社会が形成されていきました。武
こふん 古墳時代頃には、男性が女性の家に通う「妻問婚」( 婿入
か えい
うば
−妻問婚−
こん
ほうらいさん りといいます。蓬莱台とは、中国の想像上の霊山「蓬莱山」をかたどり、
しょうちくばい じょう
地域の事務を司る戸長制度が設けられました ( 明治 22
−嫁入り婚のはじまり− つ まど い こん
婚礼の儀式(三々九度)などにおける、おめでたい飾り付けを床飾
状です。明治 4(1871)年に名主・庄屋に代わって戸長が
【 鎌倉・室町時代 】
であったことがうかがえます。
にんべつちょう
戸籍の管理をしていました。写真 3 は嘉 永 4 ( 1 8 5 1 ) 年 、
ミニコラム 【貴族の宴会の様子】
ふじわらのよりみち たい き
ることです。江戸時代は寺院が人別帳によって、今でいう
こ せき
弥生時代には、水稲栽培が朝鮮半島から伝わり、水田が
ミニコラム 【婚礼の床飾り】
じ ん ぜ ん し き しゅちょう
写真 2:「花見をかねた見合いの図」
『結婚式 幸せを創る儀式』より転載
り婚(婿入り)の儀式であると考えられています。今でい
わ こく お き ど り お き ご い
江戸時代の武家にとって婚礼などの儀式は、家の存続に関
す い と う さ い ば い ちょうせん はん とう
形に縛られない多様なもので
圏を通婚圏(結婚する範囲)と考える研究者もいます。
とこかざ ひ ろう えん
け ん つ う こ ん け ん
蓬莱台や置鳥、置鯉などが色合い美しく描かれています。
な町人でした。庶民の婚礼は、
ところあらわし
の装身具着装、墓制という視点から婚入者の考察があり、
写真 6:『御婚礼御次第書并ニ御
献立絵図合』双葉町(久田家文書)
です。写真 6 は、婚礼床飾り
(婚礼の際の飾り付け)の絵図で、
のは、上層の武士、一部の裕福
しゅう
し わ じん でん まつだいら しもうさのかみ
夜に「三日餅」を食べ、自分たちの結婚を祝い、「露顕」
ばっ し ふう
し だ い が き ならび 忠誠の婚礼の様子と婚礼献立、料理の絵図が書かれた冊子
則った婚礼を行うことができた
きちじつ
三夜続けて通うことにより結婚が成立しました。三日目の
こんれい おん
ず あ わ せ 年)は、武蔵国忍藩主 松平下総守
ほう らい だい
ニ御献立絵図合』(慶応 2(1866)
縄文時代になると、
定住生活が始まり集落(ムラ)ができ、
や よい ただざね
て い じゅうせい かつ
そ う し ん ぐ ちゃくそ う ぼ せ い
お こ ん だ て え
ご
ご紹介する『御婚礼御次第書并
に
のっと
性が考えられています。
じょうもん みることができます。
【 江戸時代 】
で縁談、許嫁、見合いの風習などが生まれました。礼法に
地に石材入手・交換を行うなかで婚姻が成立していた可能
理に関する文書が多く、江戸時代
されており、多くの方もご存じのことでしょう。
石器製作遺跡の分析から、家族規模の集団やその集団が集
家文書の特徴は、儀式や行事、料
を引き、その上に薄い敷物を敷いたささやかな婚礼であった記録が残
た か さ ご
ます。江戸時代には職業紹介を兼ねた「肝煎」業、明治時代には「高砂」
かり
中村藩」に属していました。久田
わら
だった「豊臣秀吉とねね」の婚礼(永禄 7(1564)年)は、土間に藁
きこまれた武家を対象にはじまった「中媒」という業種が成立してい
場と石材原産地を移動する遊動生活をおくっていました。
えいろく
ぼつらく き ぞ く
きもいり
旧石器時代の人々は、集団で食糧と石器素材を求め、狩
ちゅうばい 【 旧石器時代∼奈良・平安時代 】
せき ざい げんさん ち
「媒」という存在が確認されます。鎌倉時代に入ると没落貴族や戦にま
関連した事がらの遷り変わりについて考えます。
ば 庶民の婚礼がどのようなものであったのでしょうか?当時下級武士
婚姻の仲立ちをする人を仲人・媒酌人といいます。日本書紀からは
なかひと うつ
せ っ
なか むら はん 民具と、福島県双葉町の古文書もご紹介しながら、婚礼に
です。江戸時代、双葉町は「相馬
ミニコラム【秀吉とねねの婚礼】
ミニコラム【仲人(媒酌人)と結納】
ば まち
写真 5:「婚礼献立の覚」
(石井家文書)
かかる出納帳 ( 御祝
儀ニ付証入用控帳)』
と考えられます。
う、式は挙げず記念写真だけ撮影するフォト婚など様々な
終戦後の昭和
【 明治・大正時代 】
ミニコラム 【下蓮田婦人会の活動】
23(1948)年、
明治維新、文明開化により近代
形態に変化してきているようです。
下蓮田婦人会は、昭和 27 年
化が始まります。地方では江戸時
新民法により結
に婦人の教養の向上、生活改善、
≪おわりに≫
代以来の生活習慣が続き、結納や
婚する二人の合
地域社会貢献等を目的として結
婚姻は社会制度の一つであり、その儀礼である婚礼も時
ぼ け い し ゃ か い
成されました。婚礼が派手にな
代に伴い変化してきました。古代の母系社会から武家政権
婚礼は自宅で行われていました。
意さえあれば婚
るなか「生活の改善は、先ず結
姻が認められる
婚の改善から」、この趣旨のも
の確立による父系社会への変化、身分制度の確立、文明開
ようになりまし
と、婦人会は婚礼衣装の貸し出
化による西欧化、戦中の質素化、戦後の高度成長と完全な
一方、新しい婚礼の形態が生ま
写真 11:「 祝いのツノダル」( 蓮田市蔵)
ふ け い し ゃ か い れた時代でもあり、婚礼が宗教と
しをはじめており、花嫁衣裳、
結 び つ い た の も こ の 時 代 で す。
た。こ れ は 家 を
個々の初めての事例は、神前式が
中心とした家族から、夫婦を中心とした家族への変容でも
ひ
び
や 明治 30(1897)年に東京日比谷
だい じんぐう はいでん
写真 12:「お膳」
( 蓮田市蔵)
こ う じ ま ち 礼の考え方も形も様変わりしてきました。近年ではとりわ
し、結婚式の簡素化に貢献していました。
ち えん き ょ う ど う た い ありました。この頃、適齢期の男性は激減しており、女性
じ ょ う ど し ん し ゅ う
け古くから続いてきた地縁共同体の崩壊、「家」のあり方
《 見合い結婚と恋愛結婚 》
にとって結婚難が訪れました。この打開策として、集団お
お見合いによる結婚は昭和 30(1955)年に 70%を占めていましたが、
も変化し、「家」どうしの婚姻から個人の意志による婚姻
見合いや、未婚者の大規模パーティーなどが開かれていま
10 年後の昭和 40(1965)年にその比率は逆転し、平成 12(2000)年
へとその意味合いは変化しているようです。婚礼ビジネス
には恋愛結婚が 90%近くにまで達しています。
ぶつ ぜん
7(1874)年に麹町の女性と外国人教師との結婚で、仏前
身分制度の崩壊、バブル期そしてバブル崩壊期と婚姻・婚
式服、布団、食器などを貸し出 「蓮田町広報 」昭和 31 年 12 月より
大神宮拝殿で、挙行されています。キリスト教式は、明治
しき
表 1: 「戦後の挙式場所の推移」
『結婚式 幸せを創る儀式』より転載
式は明治 25(1892)年に浄土真宗で行なわれています。
した。婚礼に関しては、戦後の昭和 34(1959)年までは、
ー結婚産業の芽生えー
30%近くが式を挙げない状況でしたが、昭和 40(1965)
の多彩化に伴い選択の自由の幅が広がる一方、個人の価値
観も多様化しました。儀礼は時代のニーズによって変化し
【 現在 】
明治時代には一部の階層で、ホテルでの婚礼や新婚旅行
バブル景気の到来により、豪華で派手な婚礼・披露宴が
ます。そのため時代の変わり目には古い儀礼の消失と新し
行われる傾向になりました。平成に入り、景気の低迷と共
い儀礼の創造がみられます。
に、派手な婚礼や披露宴に多額の費用をかけることに疑問
現在婚姻数に比べ、挙式率はほぼ半分となりました。挙
を感じる人が増え、簡素化が進行しました。仲人を立てる
式に対する考え方の変化や経済的理由と共に儀礼・しきた
えました。高度経済成長期、国民の生活水準が向上し、戦
ことも少なくなり ( 平成 18(2006) 年で1% )、婚礼ビジネ
り離れを表しているのでしょうか。しかし、いかに形が変
前にみられた都市と農村の格差も減少し、婚礼も徐々に派
スは方向転換を迫られ、それまでのホテルや結婚式場主導
化しようとも、婚姻が新しい家族、家庭のスタートの一つ
の婚礼ではなく、会場も挙式のスタイルも結婚する二人の
であり、婚礼が人生の通過儀礼であることは昔も今も変わ
宴に必要な式場・写真館・美容室などが併設され、昭和 50
希望に合わせた個性豊な婚礼が増えてきました。場所は、
らないことといえます。
年代には演出された披露宴が行われるなど、結婚産業は大
ホテルや結婚式場・レストラン・ゲストハウスなどがあり、
きく発展しました。
その規模も、親族や親しい友人のみで行う、二人きりで行
年には4%未満となり、有名神社やホテル・式場での挙式
なども見られるようになりました。また、結婚の記念写真
が 80%を越えました。昭和 29(1954)年まで 85%であっ
が撮られるようになるのもこの時代です。明治 13(1880)
よ う し
じ ょ む こ よ め つ ま めかけえ ん ぐみちゅう ばい
た自宅での披露宴は減少の一途をたどり、昭和 45(1970)
年、大阪に日本初の結婚相談所「養子女婿嫁妻妾縁組中媒
年には料亭・公民館・ホテル・式場での披露宴が 90%を越
とりあつかいじょ 取扱所」が開設されました。この頃には新聞が普及しはじ
め、自分の略歴、相手の希望条件を掲載して結婚相手を募
手になっていきました。ホテルや結婚式場は、挙式と披露
かん とう だいしんさい
集する「新聞広告」も現れました。大正 12(1923)年の
関東大震災により前述の東京日比谷大神宮が焼失したた
た が め、披露宴をおこなってきた帝国ホテルが多賀神社より神
霊をホテル内に分霊・安置し、これによりホテル内で挙式
と披露宴が同じ会場で行えるようになりました。このよう
【 昭和初め∼ 30 年代半ば位までの蓮田の婚礼 】
に明治・大正期には婚礼に様々な変化が生じますが、大正
昭和 20 年代頃まで、蓮田
11(1922)年のデータを見ると、婚姻数 515,916 件に対し、
では米作りが一段落すると、
神前式を挙げた数は 3,471 件とわずか 0.7%であり、大半
地域の中の結婚適齢期の人
出会い
式以前
に、結婚相手を世話する年
配者(仲人)がいました。
見合いの場所は、一般的に女性の家で行われ、接待に出
も ち 近代化が進み、新たな婚礼の形が現れ始めても、明治以
される「ぼた餅」を食べると結婚を承諾した(丸くおさまる)
降から戦中までは「家」を単位とした戸籍制度でした。そ
という意味がありました。結婚相手は、歩いて行き来がで
のため婚姻はいまだ本人たちの自由ではなく、基本的に親
きるくらいの距離が多く、家と家のつり合いが重視されま
の同意が必要とされました。
きちじつ
した。結納は、吉日を選び、お婿さんと親が、結納の品々
挙式方式
を持ってお嫁さんの家に行き、結納と返礼が行われました。
のうはん
結婚式のために休暇をとり、挙式後すぐ軍隊に戻る例や、
挙式
き 結婚式は農繁期をさけ、11 月∼ 3 月ころの農閑期にお互
鎌倉
室町
戦国
江戸
明治
大正
昭和
※親の合意で幼少の時から婚姻を結んでおくこと
婚活パーティー
事を行い、この後、両家の参列者の自己紹介が行われ、夕
例もありました。結婚は国によって統制管理され、婚礼に
方から祝いの宴が開かれました。料理は、うどん(長く続
人前式
写真
ナシ婚
和装
洋装
披露宴
※コンピューターに情報を入力しお見合い相手をマッチングする。※インターネットを通じて不特定の男女が出会いをするというサイトの登場。
※江戸時代仲人は商売になっていた
妻方宅
夫方宅
神社
教会
寺院
料亭・ホテル・会館
海外
神前式
仏前式
キリスト教式
キリスト教式
婿不在でお嫁さんと親族によるささやかな婚礼が行われた
料理
人前式
※結婚式の衣装の記念写真のみを残すウエディング
※挙式はせず、婚姻届の提出だけで済ませること
文官束帯・十二単
小袿
白無垢 打掛(色直し)
烏帽子・直衣・指貫
素襖・長袴・羽二重・直垂
羽織・袴
ウエディングドレス
燕尾服・シルクハット 有職料理
神饌(延喜式) 大饗(兵範記)
精進料理
本膳料理
懐石料理
くように)
・ハマグリの吸い物(夫婦和合)
・まめの煮物(ま
細かく規制されました。 めに働けるように)などが出されました。
モーニング
西洋料理
ふ う ふ わ ご う
ついても服装、式場、披露宴会場、引き出物についてまで
平成
新聞広告
祭り
挙式衣装
さかずきごと お や こ が た
いの自宅で行われました。三々九度の盃事と親子固めの盃
平安
大戦中
新郎 国民服
新婦 もんぺ
日中戦争・太平洋戦争時、適齢期の男性は軍隊に入って
おり、戦地へ向かう前に挙式するケースが増えたようです。
奈良
結婚相談所
IT
求婚
式準備 仲人
結納
妻方宅
夫方宅
神社
挙式の場 教会
寺院
料亭など
海外
神前式
仏前式
写真:13「 家での婚礼」( 蓮田市駒崎)
−戦争の影響と戦後の自由−
古墳
パーティー
ぱいしゃ
【 昭和時代 】
弥生
恋愛
お見合い
許婚
ね ん
はまだ自宅で婚礼が行なわれる状況でした。 縄文
人口減少社会の課題』
、大田市情報館マルチメディア推進協議会『結婚史』
、平井
直房著『神前結婚の歴史と課題』
、佐々木藤雄著『婚姻と家族』
、間壁葭子『婚姻
の考古学』
、熊倉功夫著『日本料理の歴史』
、中山太郎著『日本婚姻史』
表 2:婚礼に関連した事項の遷り変わりの分類
婚礼に関連した事項の遷り変わりの分類
旧石器
主要参考文献: 『蓮田市史通史編Ⅰ』
、
国立社会保障・人口問題研究所
『超少子高齢・
妻問婚(夫が妻宅に通う)
式以降
婚姻形態
(居住形態)
婿入り婚(妻宅に住まう)
嫁入り婚(夫宅に住まう)
新居※核家族化