조용기목사님 설교

日時: 2010年 6月6日
聖餐主日礼拝 説教
題名: 人生と苦難
説教: チョー・ヨンギ牧師
御言葉: 詩篇 23章 4~6節
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが
私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の
敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みと
が、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」
ハレルヤ~! 今日も素晴らしい日です。隣にいる方々に「主があなたを愛しておら
れます。」と挨拶してください。
私は朝起きるやいなや、一番最初に「父なる神様、今日という日がどんな日になる
か分かりませんが、私に与えられる全ての日が御父によって素晴らしい日としてくだ
さることを信じます。」私たちが求めるあらゆることも、私たちの考え以上に溢れる
ほどくださる神様の御前に正しい考えを持ち、正しく求めながら一日を過ごさなけれ
ばなりません。そうすれば心の中が平安で、また一日中良いことだけが起きるのでし
ょうか。辛いことも起きますが、その終わりには全てのことが合わせて良くなります。
皆さんに常にこのような良いことがあることを願ってはばかりません。
<序論>
今日、私は皆さんと共に『人生と苦難』という題名をもって恵みを分かち合います。
人は苦難のために生まれたと言ってもよいでしょう。生まれること、老いること、
病気をすること、死ぬこと、それ自体が苦難の連続なのです。人生を生きていくのに、
平凡な人生の中にも全てのことに苦難があります。何も持たず神学校に入学し、テン
トを張りゴザを敶いて開拓をしましたが、絶対に私が開拓して成功させることができ
るわけがないのに、チェ・ジャシル牧師先生によって成功しました。そして今日、三
番目の息子に「義母(妻の母)の愛は婿だ。」チェ牧師先生が私を婿としようとしてく
れたので、私のために本当に献身してくれました。苦労して、食べず着ずに、楽な生
活をせずに苦労しながら私の牧会の後押しをして、私の牧会生活が安定して成功して、
それを見てから義母は天国に行ってしまいました。それでこの功労を義母に返すこと
ができないので、娘に返さなければどうしますか。この世にただはありませんね。必
ず植えたとおりに刈り取るというので、義母が天国から見下ろして「私が植えたとお
りに刈り取るんだな。」と喜ばれるようにしようと努力します。アダム以降、人間は
生まれてから罪、誘惑、情欲、貪欲、病気、苦痛、貧困、憎しみ、絶望、死などの数
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多くの否定的な環境の中で暮らしてきました。そしてこの苦難に遭いながら生きる時、
私たちはどうしますか。皆さん、本当に苦難が近づいてくる時には非常に苦しいです。
事業がうまくいかない時、職場を失う時、不治の病にかかった時、これらの様々な苦
難が近づいてくる時、私たちはどうすることもできません。心を落ち着かせ、しっか
りと中心が立っていれば、苦難を蹴飛ばして進んで行けるのですが、心の中心がしっ
かりしていなければ、非常に揺さぶられ、不安と苦しみの中に落ち込むようになるの
です。私が今までの人生の中で、心が主にしっかりと捉まっていて、中心がしっかり
していた時には、苦難がいくら近づいて来ても、苦難を克服することができたのです
が、その中心がしっかりしていなければ、心が柳の木のように揺れるのです。不安で
イライラし、非常に苦しいのです。そこで詩篇23篇を読んでからは、その詩篇が心の
中に非常に大きな慰めをもたらしました。一時的な慰めではなく、長い歳月が流れる
中でも、今でも昔のように心の中に大きな慰めを与えてくださるので、このことを皆
さんと共に分かち合おうと思うのです。
<本論>
1. 私の慰めです
始めに、私が「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れま
せん。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の
慰めです。」
主が私と共におられますから。皆さん、良い時には一緒にいるのが楽しいですね。
自分自身が苦しくて辛い時に私と共にいてくれるということは、非常に大変なことで
す。しかし苦しみに遭った人が特に言いたいことは、私は苦しみに遭って、天地が真
っ暗になって、苦しい時、全ての人が私を避ける時、主は私と共におられる。主が共
におられる。非常に平安がもたらされますね。私の幼い時、田舎にはお手洗いが遠い
所にありました。そして私は私が長男だというので、母親が夜中にお手洗いに行く時
には、必ず私を起こして連れて行きます。私は母にとって荷になるだけであり、何の
助けにもなりません。どうしてでしょうか。私に力がありますか。お手洗いに行けば、
そこにうずくまって座って待っているのですが、母はいつも「そこにいるの?ヨンギ
君、いるの?」と聞きます。幼い子どもでも連れて行って一緒にいれば心の不安から
解放されるのに、ましてや天と地と世界とその中の全てのものを造られた神様の御子
イエス様が私たちと共におられるなら、それ以上の有力なバックはありません。絶対
に無視することのできない大きなバックです。私たちが死の陰の谷を歩くことがあっ
てもと語られたのですが、私たちに知らされた苦難もあり、知らされていない苦難も
あります。知らされている苦難は事業をして滅びたり、家庭に大きな波風が近づいて
きたり、不治の病にかかったり…… 世界的に名が知られている程おしどり夫婦だと言
われていたアメリカのゴア元副大統領が、50年の間、夫人と良く暮らしてきて、晩年
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に苦難に遭いませんでしたか。離婚しました…… 50年、一緒に暮らしてきたらそのま
まずっと暮らせばいいのに、どうして離婚したのでしょうか。ところがこのような苦
難があるということです。知らされている苦難もあり、多くの人々が自分の心の中に
深く堪える苦難を口にすることができないことがたくさんあります。他人と分かち合
うことのできない苦難がたくさんあります。夫は妻に話すことのできない苦難がたく
さんあります。事業の資金がなくなって、契約が破棄されて、これらの困難に陥った
時、妻に話せば心配するのでそれらのことを隠してしまうことがたくさんあります。
私はいつも体が弱かったので、本当にある時には体が苦しいので教会に行けそうもな
いのに、そのことを言わずに隠します。このように知らされている苦難もあり、心の
中に隠して生きる苦難もあるのですが、詩篇25篇17節に「私の心の苦しみが大きくな
りました。どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。」苦しみが大きいとい
うことは、人生を歩んでいく中で…… しかし主は苦難に遭う時、心に苦しみが大きい
時、その苦難や苦しみを見ずに、共におられる主を見上げなさい。私たちは肉体を着
ているたましいです。三次元の世界に住んでいる四次元の存在なのです。肉体は見え
ることだけを取り扱いますが、私たちのたましいは、見えない世界をもって生きてい
るのです。しかし私たちは苦難に遭う時、目に見えない主のその権力と力で私たちと
共におられることを見上げて信じなければならないのです。わざわいを恐れてはなり
ません。恐怖心から解放されなければならないのです。苦難そのものよりももっと恐
ろしいものが恐れです。心の中の恐怖心が一番恐ろしいのです。
Ⅱテモテ1章7節に「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではな
く、力と愛と慎みとの霊です。」
力をくださり、愛をくださり、慎みの心をくださるのであって、私たちの心の中に
不安と恐怖と、ぶるぶる震えて夜通し眠れないという不安を与えないということです。
ヨブはヨブ記3章25節から26節に「私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたも
のが、私の身にふりかかったからだ。私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもな
く、心はかき乱されている。」
これを見てください。心の中に悪魔が恐れて恐れさせるようにしておいて、それを
そのままもたらすのです。ヨブは自分の財産を全て失うだろうといつも恐れました。
寝ても覚めても「私の財産が全て無くなればどうすればよいのか。」そしてその次に
は「子どもたちが全員死ねばどうすればよいのか。」根も葉もない威嚇を感じながら
恐れていました。ところがそのことが全て起きました。あなたの信仰の通りになる。
はい、恐れる通りになれ。悪魔は私たちの所に来て、盗んで、殺して、滅ぼすのです
が、まず心の中に恐れをもたらし、心の中の信仰を奪っておき、私たちを踏みにじる
のです。ですから私たちはわざわいを恐れてはなりません。「苦しみが残して行った
後を見よ。その苦しみの足跡が残っている場所が喜びでいっぱいになり、満ち溢れる
ようになる。」これはドイツの詩人ゲーテが言った言葉です。主が共におられて、主
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に頼り、苦難を通せば、その苦難は喜びが満ち溢れる体験として変化するということ
です。苦難が私たちにとって盗み、殺し、滅ぼすことにもなり得、むしろ変化して私
たちにとって大きな喜びの源泉にもなり得ます。それは主が共におられるのか、おら
れないのか、そこにかかっているのです。イエス様が確かに私の所におられれば、苦
難が近づいてくる時、より一層主に近づくようになるのです。
アメリカの精神科専門医エリック・リンドマン(Erick Lindman)博士は、調査を通し
て苦難に遭った人の85%は、自分自身の苦難が最終的には祝福になったと証ししまし
た。皆さん、苦難が近づいてくるのに、その結果を待つなら少なくとも85%は祝福に
なるということです。ですから私たちは苦難が必ず私たちを滅ぼす力をもっているの
ではないのです。なぜ苦難が私たちから過ぎ去れば祝福になるのかと言えば、最初に
苦難ゆえに悪い習慣を直すことができます。私たちがなかなか悪い習慣を直さなくて
も、苦難に遭えば神様の御前で悔い改めて、苦難を落として出てくるようになるので
す。私も見ると、聖霊の恵みを受けて変化したことより、苦難に遭って変化したこと
がもっとたくさんあります。今まで50年間、牧会をしてきましたが、神様からの苦難
に遭ってから悔い改めて、捨てるものは捨て、持つものは持って、そのような体験が
たくさんあるのです。したがって必ず苦難に遭わないからといって、それが良いこと
ではないのです。そして二番目に、苦難によって家庭と信仰、愛が回復します。以前
には関心もなかったことが全て回復するのです。三番目に、苦難を克服するために努
力した結果、人生が新しくなり、不平不満を言う代わりに感謝する人生を学ぶように
なったということです。苦難の中にも主を信じて期待すればむしろ更に大きな恵みを
注いでくださるのです。したがって私たちはわざわいを恐れずに、大胆に進まなけれ
ばならないのです。恐れる心、想像、言葉などが人生を踏みにじってしまうのです。
全ての幸せを奪っていくのです。自殺する人の心情を考えてみてください。心の中に
どれほどの挫折を抱き、絶望的になり、恐れでいっぱいになり、自分の命を投げ捨て
てしまうのでしょうか。聖書には「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いの
ちの泉はこれからわく。」(箴言4:23) 心をよく見守ることができなければ、いのち
の泉を奪われてしまうということです。
箴言18章21節に「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べ
る。」
主を中心として立たずに、この世の不安、恐怖、絶望、挫折のようなことを言えば、
その言葉が私たちに死をもたらすのです。皆さんの言葉が、私がいつも申し上げてい
ますが、非常に力があるのです。自分の言葉で自分が縛られ、自分の言葉で自分が捕
らえられるのですが「何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつ
ながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているので
す。」(マタイ18:18) すべて言葉でなるのです。イエス様も言葉で罪を赦され、病を
癒し、五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせても12かご余り、あらゆる働きをな
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さったのです。宣言するということは非常に驚くべきことなのです。最近、弟子教会
のリバイバル聖会に行ったのですが、リバイバル聖会が終わってから、その弟子教会
の弟子が非常に体調が悪くて、病院に長く入院して退院しましたが、その牧師夫人が
私の所に来て何と言ったかというと「牧師先生、おそらく今回、先生とお目にかかれ
るのが最後になりそうです。もう先は長くないと思います。」しかし私が祈ってみる
と、まだ生きる。それで私が「いいえ、あなたの夫は生きる。」心配するので「いい
え、牧師先生はご存知ではないのでそうおっしゃるのです。完全に今回は危ないで
す。」そして私が祈ると心の中に死なないという思いがきます。
イザヤ41章10節に「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたし
があなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、
あなたを守る。」
これは神様がくださった御言葉ですが、私たちがこれを神様の御言葉そのままを受
け入れるならば、どれほどこの御言葉自体が力になりますか。私たちが苦しいときに
私たち自身を見て言います。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。
わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右
の手で、あなたを守る。」この黄金のような神様の約束の御言葉なのです。この言葉
を大胆に宣言しなさいということです。読んで、この御言葉が私に当たるということ
を知って宣言すれば、この御言葉が生きて働くのです。そうしてから祈って賛美すれ
ば、その祈りと賛美は力と能力があります。恐れを克服して、御言葉に頼って、信仰
の宣言をしながら賛美して、祈れば神様が御業をなさるのです。
詩篇91篇5節から7節を共に声を出して一度読んでみましょう。
「あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る
疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右
手に倒れても、それはあなたには、近づかない。」
これは皆さん、見て言われた御言葉なのです。皆さん個人個人をご覧になって語ら
れた御言葉なのです。この御言葉を毎日声を出して読み、黙想してその一日を始めて
ください。どれほどこの御言葉が皆さんの力となり、能力となるのか感じることがで
きるのです。私はこの御言葉をいつも覚えて、この御言葉と共に歩みます。主の杖が
私を導いてくださるのです。主が共におられることを知って、そのように祈り宣言し
て出て行けば、主の杖とむちが私を導いてくださる。杖は道を探すために必要であり、
むちは獣が来れば打つものです。杖は案内のことを言い、むちは救い出す力を語って
いるのです。
イザヤ43章1節から2節、これも共に一度読んでみましょう。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは
わたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を
渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎は
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あなたに燃えつかない。」
これほどなら、ちょっとやそっとのことではありません。信じない人々は、このよ
うな御言葉があるということも知らずにいます。皆さんはイエスを信じて、神様の御
言葉を受け入れてから、皆さんに向けられた神様の手紙の中に、途方もない約束があ
り、それを読むことができるのです。そのように、信仰は聞くことから始まり、聞く
ことは、キリストについてのみことばによるのですとあるように、読んで、聞いて、
祈ってこそ心にそれが祝福として変わるのです。主のむちが私を守ってくださるので
す。
申命記32章10節に「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世
話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。」
さきほどは導かれる主ですが、この御言葉は守られる主なのです。
ヘブル13章5節から6節に「『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨て
ない。』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は
恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。』」
一度、続けておっしゃってください。人間が、私に対して何ができましょう。なぜ
ならば、主が私たちの中におられて、私を助けられるので、人が私に対して何かをす
る方法がないのです。人が私たちを滅びさせようとしても、神様が滅びさせなければ
滅びないのです。神様が連れて行かれないのに、自殺すればそれは分かりませんが、
命を奪う者はいません。ゆえにこの御言葉自体が非常に私たちの心の中でなぐさめと
なるので、このような御言葉をいつも忘れずに黙想されるようにお願いします。
2. 私の杯は
あふれています
二番目に「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそい
でくださいます。私の杯は、あふれています。」
敵が攻めて来ました。敵と私と境界線を置いて対立しています。ところで、ここで
私たちの考えとは全く違う考えを主はなさるのです。敵が来れば豪華な食事が整えら
れているということです。敵が来て、盗んで殺し滅ぼすのではなく、主が私の敵の目
の前で、私に食事を整えてくださり、油を注がれるということは、私たちを高めてく
ださることを言います。油で高めてくださり、私たちの杯があふれるようにしてくだ
さる。敵が私たちに良いことをしないではないですか。
ヨハネ10章10節に、敵が来るのは「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅
ぼしたりするだけのためです。」と語られましたがⅠペテロ5章8節に「身を慎み、目
をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い
尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」と語られています。
私たちの人生の苦難もこれと同じです。人生を歩みながら体験する様々な苦難、そ
のこと以上に恐ろしいものは恐れる心です。恐ろしくてできない。恐れが苦難それ自
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体よりも更に大きな危険となるのです。敵は私たちの心の中に恐れをもたらし、私た
ちを殺し滅ぼそうと圧力を加えます。しかし絶えず知っていなければならないことは、
私にとってこの聖書の一節が、今日までとても大きな助けとなりました。このように
牧会をしているので、敵がたくさんあります。同じように信仰を持っている同僚たち
も嫉妬し嫌い、完全に私たちの信仰とちがう敵どもも、私が滅びることを願い、これ
らの試練にたくさん遭う時、この聖書のこの節がどれほど慰めとなるのか分かりませ
ん。敵よ、来い。豪華な食事を神様が整えてくださるチャンスをくださったのだ。私
の頭に油を注がれ杯が溢れる。ゆえに敵が来れば損をするのではなく、私の助けとな
る。本当にそうでした。敵が来なければ食事も整いません。敵が来てこそ食事が整え
られます。神様が普段は食事を整えてくださらなくても、敵が来れば食事を整えてく
ださいます。そうしてから祈りに応えてくださり、頭に油を注いで高めてくださる。
結局、敵との戦いは神様がなさいます。モーセに神様がエジプトで語られたのは、こ
の戦いであなたがたが戦わなくてもよく、あなたがたは黙っていなさい。ヤハウェが
どのようにあなたがたをエジプト人の手から救い出すか見なさい。ダビデも幼い時に
ゴリアテに会って言った言葉は「戦いは弓や刀にあるのではなく、神様の御名にあ
る。」
ローマ12章19節に「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せ
なさい。」私たちが直接、手に血をつけずに神様の怒りに任せなさい。「それは、こ
う書いてあるからです。」続けておっしゃってください。「復讐はわたしのすること
である。わたしが報いをする、と主は言われる。」主に任せれば、主が私の代わりに
敵に復讐してくださるということです。したがって敵が来れば豪華な食事も整えてく
ださる。人生を歩みながら、イエス様が私たちと共におられるなら、信仰でその全て
の苦難をイエス様に任せて感謝しなければならないのです。敵が来れば主よ、感謝し
ます。豪華な食事を整えようとしてくださることを感謝します。絶対に覚えて忘れな
いでください。苦難が近づけば苦難と同じ以上のその祝福を神様が備えておかれたと
いうことです。そのまま砂漠に私たちを放って置かれません。主に頼って主に従う人
は、天使になってから祝福してくださるのではありません。皆さんが弱い人であると
いうことをご存知です。皆さん、この世の中で完全な人がどこにいますか。みんな罪
人です。義人になろうと地団駄を踏む人が信じる人だ。だから皆さんが100%義とされ
たから神様が助けてくださるのではありません。心の中で神様を切に求めて悔い改め
て、また立ち上がって悔い改めて叫び求める、その信仰があるために神様が見守って
くださるのです。そのような信仰のある人は、主が敵が来た時、豪華な食事を整えて
くださるのです。敵が来る前よりはるかに良くなるようにしてくださるのです。
詩篇92篇9節から10節に「おお、主よ。今、あなたの敵が、今、あなたの敵が滅びま
す。不法を行う者どもがみな、散らされるのです。しかし、あなたは私の角を野牛の
角のように高く上げ、私に新しい油をそそがれました。」と語られているのです。
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人々は、神様がとても恐ろしくて難しいお方だと考えているのですが、それは間違い
です。私たちの神様ほど哀れみ深くいつくしみ深く、長い間待ってくださるお方は宇
宙にいません。神様は長く待ってくださいます。急いで私たちをどうにかしようとな
さいません。
ヤコブ1章2節から4節に「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの
上もない喜びと思いなさい。」試練に遭っているのに、喜びなさいと語られました。
ただ少しだけ喜ぶのではなく、この上もなく喜びなさい。「信仰がためされると忍耐
が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせ
なさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完
全な者となります。」見てください。試練に遭うことが、足りないところなく祝福を
受けることのできる人格者になる助けとなるということです。
Ⅰコリント2章9節に「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そし
て、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくだ
さったものは、みなそうである。」
神様は備えてくださる神様なので、私たちが苦しみに遭う時すでに神様が解決の道
を備えてくださったと心の中で信じなければならないのです。目に何の証拠が見えな
くても、耳に何の声が聞こえなくても、手に触れることがなくても、自分の目の前が
真っ暗でも、神様は私の神様であり、私の御父なので、すでに問題解決を備えておか
れた。そして恐れずに、おののかずに、試練に向かって大胆に信仰で祈り出て行けば、
全て解決されるのです。恐れればそれにつけ込んで悪魔が入ってくるのです。
昔、私の家では果樹園をしていたので、荒々しい犬を九匹飼っていました。ですか
らその地域で、私の家の近くに来る人はほとんどこの犬に噛まれました。犬が吠えれ
ば人々は逃げたので。逃げれば追いかけて行って噛んでしまいます。しかし逃げずに
しっかりと犬の目を睨みつければ絶対に噛みません。途中まで来てくるくる回って帰
ってしまいます。犬も人が恐れれば見下げます。ですから悪魔は、私たちが恐れれば
どうして見下げないことがあるでしょうか。私たちが恐れて退けば、神様は喜ばれま
せん。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは
彼を喜ばない。皆さんはどんなことに遭っても、環境を見ずに、神様の約束を見上げ
て信仰で歩まれるように、主の御名でお祈りします。
3. いつまでも
主の家に住まいましょう
三番目に「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って
来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」
主の中で必ず信じて期待することがあります。私たちがイエスを信じて神様と共に
信仰生活を送るなら、私たちはいつも心の中から期待を捨ててはならないことは、主
のいつくしみ、私たちを良くしてくださる主の御手が私から離れないということです。
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私は非常に素晴らしい私の救い主を迎え入れて生きているのです。私を良くしてくだ
さるお方を迎え入れて生きる。
詩篇100篇5節に「主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に
至る。」
ローマ8章28節に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々の
ためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知ってい
ます。」
したがって主がおられれば、私たちにこの上なく大きないつくしみがついて来るの
です。そして情けみ深く、恵みを注いでくださるということです。
「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」(詩篇10
3:8)
エペソ2章8節に「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。そ
れは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」と語られたのです。
したがって私たち神様を信じる人は、心の中に神様が良い神様としておらえるので
たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であり、いのち
を得て、溢れるように得るというこの信仰を強く握っていなければならないのです。
神様は良い神様です。神様の御手は、いつくしみ深く、哀れみ深い御手です。皆さん
を捉えてかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されず、貸
すであろうが、借りることはないようにしてくださるのです。一瞬の内にそのように
ならなくても、主がそのようにしてくださろうとするのです。多くの聖徒たちが神様
を見上げる時、肯定的に、本当に良い神様というこのような信仰を持てずにいます。
皆さんを呼んで、神様を信じるようにされた神様は、本当に良い神様であり、祝福の
基である素晴らしい神様なのです。それならばどうして苦難に遭いますか。今まで説
明しましたが、苦難は二つの理由があるのですが、一つは自分自身がどれほど弱いか
ということを悟らせるためのものです。自分は優れているというので、苦難に遭って
みなさい。あなたの力では解決できないから、あなたがどれほど弱いのか、あなたの
代わりに私が助けてあげるから、私を信じなさいという、弱々しいということをみせ
てくださるためのものであり、また、苦難を通して神様に祈るので、どれほど神様が
偉大なる神様であるのかということを、どれほど大いなる神様であるのかということ
を体験するようにしてくださるのです。自分自身の弱さを悟って悔い改め、神様に頼
るようにし、苦難を通してひっきりなしに神様の恵みを私たちが体験するので、神様
が偉大であることを体験するようになり、更に大きな事を信じることができ、夢見る
ことができるということです。その結果、私たちは主の家に、いつまでも、住まうこ
とができる私たちとなるのです。イエスを信じるので、ヤハウェの家に、いつまでも、
住まうことになるのです。私たちは今ここにいますが、数日後、数日後、あのヨルダ
ン川を渡って、天国の美しい栄光の中に入るようになるのです。
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ヨハネの黙示録21章1節から7節を見れば「また私は、新しい天と新しい地とを見た。
以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエ
ルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天か
ら下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。
『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。
また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくだ
さる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、も
はや過ぎ去ったからである。』すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。
わたしは、すべてを新しくする。』また言われた。『書きしるせ。これらのことばは、
信ずべきものであり、真実である。』また言われた。『事は成就した。わたしはアル
ファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いの
ちの水の泉から、価なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わ
たしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。』」と語られたのです。
<結論>
私たちがこの苦難の谷を通過すれば、神様の御旨が肯定的に育つ神様の子どもたち
になるのです。私たちは神様の御旨をもって、絶対に否定的な考え、破壊的な考え、
退く考えを持たずに、自分自身のいかなる環境においても、神様が共におられれば、
明日は今日より良くなり、来月は今月より良くなり、来年は今年より良くなると肯定
的に期待してください。立派な人に会う時、大きな期待をもつではありませんか。神
様の御前に出て来る時にはいつも期待してください。一日に12回祈っても、12回とも
期待をもって祈ってください。神様は皆さんをたましいに幸いを得ているようにすべ
ての点でも幸いを得、また健康にしてくださる驚くべき神様なのです。
共に頭を垂れて祈ります。
<祈り>
父なる神様、私たちがこの地で苦難の谷を歩むことがたくさんあります。人間の力
ではどのように解決すればよいのか、気が遠くなることが多くあります。そのような
時も神様が私たちの牧者となられ杖で道を案内してくださり、むちで敵に立ち向かっ
てくださることを感謝します。父なる神様、敵が来れば豪華な食事もそなえてくださ
り、油を頭に注いでくださり、杯も溢れるようにしてくださるので、敵が来ない時よ
りも結果を良くしてくださいます。敵ゆえに私たちが更に良くなり発展し、勝利する
ことを見ることができます。決して敵が私たちを滅ぼすことができないことを知って
います。なぜならば、神様が私たちと共におられるからです。
父よ。私たちは神様と共に生きるので、この世の中で主の善さといつくしみ深さを
体験し、神様の中でまことの祝福を味わい楽しみながら歩むことができるようにして
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くださったことを感謝します。富貴、栄華、功名が幸せをもたらしません。地位、名
誉、権力、青春が幸せをもたらしません。神様が中心におられてこそ、私たちにまこ
との幸せをもたらすことができるということを詩篇23篇を通して深く悟り、知るよう
に助けてください。
イエス様の御名によってお祈りを捧げます。アーメン
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